20190411近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」(その3)……日永の追分から伊勢街道に入り、河原田神社、忘帰處で眺めを楽しみ、鈴鹿市へ
4月11日の近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」もその3になります。今回は、日永の追分からいよいよ伊勢街道に入ります。日永の追分で、スタートから5.4㎞、時刻は11時15分。スタートしたのが9時半でしたから、1時間45分ほど歩いてきました。寄り道をかなりしていますから、こんなペース。実測ルートマップでは、日永の追分と書いたところの東にある三叉路がそれです。旧東海道は、ここから南西へ向かい、伊勢街道はここが起点で南へ下っていきます。
日永の追分。西から東を向いて撮った写真(逆光です)。鳥居が見えています。これは桑名の七里の渡しに建てられた「伊勢一 の鳥居」に対して「二の鳥居」と呼ばれました。鳥居は、安永3(1774)年に一志郡須ヶ瀬村(現在の津市)出身の伊勢商人渡辺六兵衛が東海道を往来する人のために遥拝鳥居として建てさせたのが最初です。その後たびたび建替えが行われ、現在のものは、平成28(2016)年10月に、伊勢神宮の遷宮にあたり、内宮の別宮である伊雑宮(いざわのみや)の鳥居を移建して建替えられました。当初は伊勢街道をまたぐように建てられていましたが、現在は伊勢街道が鳥居の横を迂回して、鳥居を くぐらずに進めるようになり、また、昭和48(1973)年の移建時に周りが公園化されました。
現在の追分には、常夜燈、道標、清めの手水所があります。元々あった道標は、明暦2(1656)年に建てられたもので、現存する灯街道の道標としてはもっとも古いものです。これは、現在は、日永神社の境内に移されています(日永神社で見て来ました)。今あるものを見ると、嘉永2(1849)年に桑名・魚町の尾張屋文助が建てたとあります。現在、桑名・魚町に尾張屋という屋号の店はないと思いますが、近くの吉津屋には仏壇屋さんが、北寺町には酒屋さんがそれぞれ同じ屋号であります。常夜燈のひとつは奉献時から存在したと推定されます。
手水所。この水は、西に位置する丘陵地(泊山(登城山))からの湧水です。昭和4(1929)年、地元実業家・稲垣末吉が、泊山に別荘を建てた時、掘った井戸からとても良い水が湧き出したので、自費で配管を敷設して、日永の追分まで引き、旅人達に供したのだといいます。稲垣末吉の頌徳碑が、日永小学校にありました。「追分鳥居の水」と呼ばれ、名水の評判が高く、たくさんの人が汲みに来ます。写真にも女性がお一人、汲んでいらっしゃいます。
伊勢街道に入りましたが、内部川を越えるまで立ち寄りポイントは指定されていません。左の写真は、伊勢街道に入ってす ぐ、小古曽と大治田の間あたり。今は工場地帯になっていて、あまり味気ない道を2㎞ほどひたすら歩く積もりでしたが、途中で表忠碑と平和の礎を見つけました。大治田三丁目のところ、道の向かい側でしたから、ズームで撮影。
向かって右(南)が表忠碑。大正3(1914)年3月に河原田村が建立したもの。明治10(1877)年の西南の役、明治 27・28年の日清戦争、明治33年の北清事変(義和団の乱)、明治37・38年の日露戦争の際の、河原田地区内忠死者16名と従軍者69名の名前が刻まれています。向かって左の平和の礎は、もとは昭和30(1955)年5月に河原田小学校に設置されたものを、平成23(2011)年11月、ここに形を変えて建立されたもの(河原田地区遺族会による)。西南の役、日清戦争、日露戦争、支那事変、太平洋戦争の際の河原田地区内戦死者113名の名前が刻まれています。
7㎞を過ぎて、内部川を渡り、河原田の町に入ります。伊勢街道には木造の橋がかかっていたのですが、現在はありません。県道103号線の橋に迂回します。左の写真は、河原田に入ったあたり。又兵衛橋という名前の何やら由緒 のありそうな橋を渡っていきます。名前の由来は、橋の改修に尽力された石崎又兵衛という方からきているそうです。昭和13(1938)年に鉄筋コンクリートで造られ、当時としては、数少ない石橋で河原田自慢の橋であったといいます(こちら)。
河原田小学校の手前、采女道との交差点に「里程標(距離標)」があります。「距 名古屋市 十五里十一町 守山町 十七里十五町」、「距 宇治山田市 十七里四町 久居町 八里三十二町」、「距 津市 六里三十二町 海蔵村 二里八町」と刻まれています。中央あたりで割れたのか、継いだ跡があります。このあと、若干迷い、指定されたコースよりも早めに曲がってしまい、河原田神社に行くまでにちょっとウロウロしました。
河原田神社。これは二の鳥居。一の鳥居はあとで見ることになります。明治42年に南北河原田及び内堀各村6 社を合祀して創建されました。貝塚境内に山ノ神が4基あります。この鳥居からそのまま境内に行くとなると、右の写真のようにかなりの階段を登らねばなりません。そこで、向かって左手にある迂回路を上っていきました。
河原田神社の境内にたどり着く直前に、三神山毘沙門天があります。ここについては、説明板もなく、また、ネットでも情報は出てこず、詳しいことは分かりません。
河原田神社の拝殿。明治42(1909)年6月、八幡社(河原田村大字内堀中屋敷)と須賀社(河原田村大字貝塚字一ノ縄)を三神社(河原田村大字河原田字三神山)へ合祀し、村社河原田神社と改名しました。平成10(1998)年12月火災により本殿、拝殿、社務所を全焼し、平成12(2000)年に再建されています。ご祭神は、天照大神、大国主神、弥都波能売神(ミツハノメノカミ;伊奘冉尊が火神を生んで病んだとき、その尿より生まれ、水の神としてまつられます)、猿田毘古神、宇迦之御魂神、建速須佐之男命、五男三女神、天児屋根命、品陀和気命、上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、仁徳天皇、木花之開耶姫命、市杵島比売命の他、神社検索三重のサイトによれば、不詳八座とあります。合祀していますから、たくさんの神様がいらっしゃるのは分かりますが、それぞれなぜここに祀られているのか、分からないところもあります。河原田の西部にある丘陵地帯は、その昔海だったそうですから、上筒之男命ほか住吉三神(すみよしさんじん;海上交通安全の神)が祀られているのはよく分かります。
境内、拝殿に向かって右には、山の神と刻まれた石が4つ。町内にあったものがここに合祀されたのだと思います。今では、ど こに祀られていたのかも定かではないかも知れません。拝殿の北には、頌徳碑が2つ。向かって左は、「熊沢市兵衛翁頌徳碑」です。熊澤家は農家で河原田の旧家で地主で、代々津藩・藤堂家の御金御用達の役を務めていました。熊澤市兵衛は幕末に庄屋などを務めており、戊辰戦争で『撒隊士』という身分で東征にしたがい、明治になって四日市に帰郷しました。明治時代に若くして三重県議会議員になり、河原田村の村長などの名誉職にも就いています。
熊澤市兵衛は、農村出身の農民の家柄でしたが、勉学の必要性に気づき学問を重視していました。明治42(1909)年には河 原田尋常高等小学校の建築費の一部を寄付しています。大正時代、皇太子であった裕仁親王の成婚時には、河原田尋常高等小学校の講堂を新築する費用の寄付と、入学志願者が少なくて不振だった三重郡立農学校(現・三重県立四日市農芸高等学校)に対しても、長男の熊澤一衛と協力して3万円と広い敷地を寄付しました。さらに、『熊沢奨学資金』を新設して、貧困家庭の子供たちの学業の補助をしています。また、河原田地区の西部丘陵地帯には、明治後半に熊沢市兵衛翁がみかん栽培を伝え、今も「河原田みかん」として親しまれています。
境内には、他に「神武天皇遙拝所」がありました。神武天皇陵は橿原市の畝傍山(うねびやま)の北東にありますからそちらの方角を向いていると思います。
続いて、河原田神社の西隣にある「忘帰處(ぼうきしょ)」へ。河原田神社のある三神山頂上にあります。こ こから見る眺めは河原田随一の景勝地だそうで、田中光顕伯爵が熊沢市兵衛翁宅を訪れた際に、この地の風景の美しさに見とれて帰ることを忘れたということから「忘帰處」と名づけられています。標高41mあまりの山上に建てられている記念碑は、伯爵自らの筆によるもので、昭和8(1933)年10月、88歳になった熊沢市兵衛翁が建てています。山上からの眺めは一望千里に渡り、晴れた日には、知多半島から木曾御岳の山並みも望み見ることができる絶好の名勝地です。
この写真が、「忘帰處」から見た東の方角。この日は、説明にあったように、木曽御嶽山もよく見えていまし た。しかし、樹木がかなり茂っていて視界を妨げていました。右の写真は、「忘帰處」の石碑(右上の写真)のところに上がって眺めたもの。こちらの方が、当たり前ですが、よく見えます。見とれて帰るのを忘れるという気持ちは何となく分かります。
「忘帰處」の石碑の背後には、「宇賀御魂神」と刻まれた石碑が建っています。「神社」とあるのかも知れませんが、確かめ られません。ウカノミタマノカミに関わるものと思いますが、これについての説明はなく、詳細は不明。忘帰處でしばし休憩していましたが、帰るのを忘れないうちに、降りて次の目的地へ向かいます。帰りは、あの急な階段を降りて、正面の参道に出て来ました。なかなかよい感じの神社でした。伊勢街道に戻り、四日市農芸高校や、JR関西線・河原田駅の近くを通って進みます。
実測ルートマップは、その3に入っていました。河原田神社、忘帰處あたりでスタートから8㎞。12時20分過ぎ。コースマップでは、12㎞となっていましたから、これで2/3を制覇。食事をするようなところもありませんので、鈴鹿市駅についてお昼ごはんにすることとし、歩き続けます。
9㎞を過ぎて、鈴鹿市に入ったあたりに、臨済宗妙心寺派の善誓寺がありましたので、ちょっと立ち寄らせてもらいました。し かし、由緒書きなどもなく、ネット検索でもこれという情報は出て来ません。
鈴鹿に入ったところで、それなりに切りもよいので、その3はここまで。その4で鈴鹿に入ってから見てきたところを書き、ゴールする予定です。
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