今日のスタートは、近鉄名古屋線・富田駅。受付は、9時半から11時ということで、桑名駅を9時1分発の五十鈴川行き急行に乗

車。9時8分着、¥260。着いた時にはすでに数10名の方が待っていました。受付は、予定よりわずかに早く始まり、9時25分頃から。今日のコースマップは、右の写真の通り。マップ上は、約7㎞となっています。富田駅東口から南東へ240mほどで行ったところを右折して、旧・東海道に入ります。四日市市内、ごく一部で旧・東海道が消滅してはいるものの、ほとんど昔の旅人と同じ道を歩いて、今日は、スワマエ商店街まで(旧・東海道がアーケードの商店街になっているのです。商店街を抜けて、近鉄四日市駅まで。
こちらが、実測ルートマップ。この区間の東海道は、これまでの近鉄ハイキングなどで一部は歩いたことがありますが、通しで歩くのは初めて。せっかくだからと思い、コースマップにあがっている立ち寄りポイント以外にも、あちこち見て来ました。予習をした中で、見逃したところは2ヶ所。金場地蔵と、その近くの道標。金場地蔵は、国道1号線沿いにあったものの、歩いた歩道と反対側にありました。道標は、コースからちょっと入ったところで、気づいたときには、引き返すには距離があり過ぎました(苦笑)。今日の記事は、予告編ということで、コースマップにある立ち寄りポイントを中心に。富田駅スタートは、9時半。
東海道に入ってすぐ、市立富田小学校の敷地内に「明治天皇御駐輦(ちゅうれん)跡碑」。「駐輦」とは、天皇がお休みにな

ること。つまり、このあたりで明治天皇がお休みになったことを示すのがこの碑。明治天皇は、4度この地で休まれたといいます。富田茶屋町・広瀬五郎兵衛という方のところです。広瀬五郎兵衛宅は、この富田小学校正門から富田地区市民センターあたりにあったそうです。焼き蛤をご賞味になったこともあったと説明板に書かれていました。なお、記念碑は、公爵・
近衛文麿の筆です。
このあたりの旧・東海道の様子。進行方向の南を向いて撮った写真です。かなり細い道ですが、生活道路となっていますの

で、クルマはけっこうたくさん通ります。スタートから600mあまりで桜の名所十四川を渡ります。1.2㎞にわたって、川の両岸にソメイヨシノ800本が植わっています(ただし、植えられたのは大正時代)。今日はまだ咲いてはいませんでした。十四川を越えたところに常夜灯。「氏子中」とはありますが、神社のものではなく、街道の常夜灯という説明があります。
1.1㎞地点で、真宗本願寺派の光明山常照寺の前を通り、東海道は左折します。左折するところに、力石と、新設用水道碑。力石は、約32貫(約120㎏)と、約5貫(約19㎏)の2つ。このあたりの寺のお堂を再建する際に土台石として奉納されたものを力比べに使ったといいます。新設用水道碑は、新設・用水道碑。つまり、新設された用水道を記念する碑。ここから北西に十四川から七丁(760m)の暗渠による水路を通し、各家の敷地内に
マンボ(地下水路、一般名はカナート)を設置して生活用水や防火用水として、明治37(1904)年から昭和中期まで利用したといいます。昭和34(1959)年の伊勢湾台風の水害で使えなくなり、この用水道は消滅しました。
こちらは、茂福神社の標柱。スタートからほぼ1.5㎞地点。茂福神社は、以前の近鉄ハイキングで訪ねています。神社は、この

標柱から北西に400mほど先にあります。神社の近くには、茂福城跡もあり、ここもそのときに見てきました。神社まで距離がありますので、今日は遠望しただけ。さらに進み、八田三丁目西交差点で県道64号上海老茂福線の高架をくぐります。2㎞を過ぎたところ、米洗川(よないがわ;上流に
天武天皇迹太川御遙拝所跡があります)の手前に八幡常夜燈(右の写真)。旧東海道を往来する人々のためのものですが、現存のものは明治35年に建てられたといいます(
こちら)。南側には、「南大神宮」と刻まれています。
八幡常夜燈から300mほど、八田第一集会所の隣に、八幡地蔵堂と、伊勢国八幡神社跡。お地蔵様は、延命地蔵尊で、見逃してしま

った金場の地蔵尊と同じ一つの石から作られた兄弟地蔵で、もとは羽津村の南北の入口(この地蔵は北の入口)に置かれ、村内に疫病が入り込まないようにするための結界地蔵といわれるものであったといいます。昔は、米洗川北側の常夜燈(上記の常夜燈と思います)の向かい辺りにあったのが、昭和4年(1929年)に、八幡地区の住民によって現在地に移設されたそうです(
こちら)。八幡神社は、明治41(1908)年に志氐神社に合祀されています。石柱には「伊勢国八幡神社碑」と刻まれ、往時を偲ぶよすがとなっています。
八幡地蔵堂・八幡神社跡のすぐ先、スタートから2.6㎞ほどのところには、松並木の名残である松の木が1本残っています。「かわらずの松」と呼ばれます。このあたりが「川原須(かわらず)」という地名であったことから名づけられています。樹齢200年を優に超えるようです。松並木は、道路の拡幅と、松食い虫の被害を受けてほとんどなくなってしまいました。
3㎞地点の少し手前に、
志氐(しで)神社の一の鳥居。志氐神社は、ここから北西へ400mほど入ったところにあります。主祭

神は、
気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;祓戸の神(ハラエドノカミ)ともいい、祓を行う場所の神)。創祀年代は詳らかでありませんが、社記では第11代・
垂仁天皇の頃といいます。志氐神社には行きませんでしたが、この鳥居の前に「妋石(みよといし)(夫婦石)」があります。志氐神社には、イザナギ・イザナも祀られていて、縁結び・夫婦円満のご神徳があるということから、東海道を行き交う多くの旅人は、この夫婦一対みよと石をなでて縁結び・夫婦円満の願いを込めたといいます。石は、鳥居のところに1つ、道を挟んだところにもう1つあります(右の写真は道を挟んだところのもの)。
3㎞半あたりで、国道1号線に出ます。金場町、三ツ谷と進んだのですが、このあたりで最初に書いたように、金場地蔵と、道標を1つ見逃しています。金場地蔵は、上記のように、八幡地蔵と兄弟地蔵ですから、惜しいことをしました。旧・東海道は、海蔵川の手前で左(東)に逸れます。そこに「国寶元三大師道」と掘られた道標が建っています。これは、
垂坂山観音寺への道を示すもの。元三大師(がんざんだいし)は、平安時代の天台宗の僧・
良源(りょうげん、延喜12(912)~永観3(985)年)。垂坂山観音寺は、御本尊に良源をまつり、「垂坂山のお大師さん」「元三さん」として信仰を集めており、約1,100の歴史がある天台宗のお寺。この道標から、北西へ直線距離で約3.5㎞のところにあります。
「国寶元三大師道」の道標からすぐのところに
多度神社。この神社は、その名の通り、桑名・多度にある多度神社から分祀さ

れた神社。それ故、主祭神は、
天津彦根命(あまつひこねのみこと)。創立は、明治18(1885)年。明治40(1907)年、
海蔵神社へ合祀されましたが、昭和25(1950)年に復興再建され、現在に至っています。
多度神社から100m足らずで海蔵川の堤防にある緑地に出ます。ここには「三ツ谷一里塚跡」があります。ここ三ツ谷に

は、かつて一里塚があったのですが、その場所は、昭和20年代に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまい、消滅。「東海道分間之図」(元禄3(1690)年)によると、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当たった辺りに記されています。そこで、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、この場所を一里塚跡とし、石碑を建てて後世に伝えることにしたといいます(平成13(2001)年3月建之)。ここで日本橋からは、99里。ハイキングは、ここまでで4.3㎞。
旧・東海道は直進ですが、今は、国道1号線の海蔵橋を回ります。海蔵川にも桜並木があり、桜祭りの準備が行われ、露店もた

くさん出ていました。ソメイヨシノはまだ。橋を渡りきって左手へ。300mほど行くと、真宗本願寺派の法泉寺。ここは、桑名の歴史を語る上では外せないお寺。明治元(1868)年、鳥羽伏見の戦いで敗れた桑名藩は紆余曲折の末、恭順を決め、1月23日に先代藩主・松平定猷の嫡子・萬之助(後の松平定教)は家老を引き連れて、四日市の新政府軍陣営に出頭。ここ法泉寺に幽閉されました。当時の遺品が残り、寺宝となっているといいます。その時の萬之助はまだ12歳でした。
法泉寺の先、スタートから5㎞を過ぎたところに、
嶋小餅店があります。立ち寄りポイントになっています。文政年間(1818

~30年)創業という古い店。事前のリサーチで、「みたらしは、昔風の香ばしい焼団子」とありました(微笑)。私の好みのタイプのみたらし団子。立ち寄って、みたらし団子を1本。¥90。確かに、昔風で香ばしい。店先でいただいてきました。

嶋小餅店の先で三滝川を渡ります。ここからがいよいよ四日市宿の中心部。土蔵のような建物は、なが餅の
笹井屋本店。国道1号線の三ツ谷交差点のところに立派な店があるのですが、そちらは支店。永餅(なが餅)、この笹井屋さんの他、四日市には
太白永餅が、また、桑名にも2つの店があります(
永餅屋老舗、
安永餅本舗 柏屋 )。個人的な好みは、安永餅本舗柏屋さんです(あくまでも個人的な嗜好を述べております)。しかし、この笹井屋さんの本店、いい感じのお店。
三滝橋から200mほど先を東に入ったところに市立
四日市中部西小学校がありますが、ここが
四日市陣屋跡。江戸時代、四日市は天領であり、そのために設置した代官所(陣屋)があったところ。慶長8(1603)年、四日市代官の水谷九左衛門光勝が造営し、江戸時代を通して、司法・行政の中心でした。周囲には掘と土塁が廻らされていました。明治維新後は、
度会県の支所が置かれ、明治5(1872)年から翌年まで三重県庁となったのですが、 明治9(1876)年に起きた
伊勢暴動によって焼打ちされ焼失します。現在は、校門横に石碑と説明板があるのみで、遺構はありません。
このあと、コースにはなっていなかったのですが、せっかく来たのですから、本陣や問屋場の後を探してきました。四日市宿は、東海道五十三次の43番目の宿場。今日、回った巡に。黒川本陣があったとされるところには、黒川農薬商会があります。黒川本陣は、二番本陣で、文化8(1811)年頃から脇本陣だった黒川彦兵衛がついたそうです。東京遷都の際、明治元(1868)年9月24日を初めとして明治天皇はこの黒川本陣を合計4回行在所として利用しています。
こちら、近藤建材店は、脇本陣の帯屋跡とされています。その根拠となる資料は必ずしも明確ではないようで、角川日本地名

大辞典(旧地名編)の「辻の西南角に脇本陣の帯屋があった」という記述にしたがうと、この近藤建材店のところと考えられるのです。右は、問屋場跡と考えられている福生医院(あいにく塗装工事中でした)。こちらも根拠となる資料がないようで、角川日本地名大辞典(旧地名編)の「北町(近世~近代)」に、「清水家の西隣に問屋場が、辻の西南角に脇本陣の帯屋があった」との記述があり、また、東海道分間延絵図には辻の西南角辺りに脇本陣と問屋場が描かれています。
宿場の中心部からさらに進むのですが、旧・東海道をそのまま行くと、柳通という交通量の多い、信号のない交差点に当たりますので、いったん国道1号線に出て、中部交差点で迂回。二宮病院の南、仏壇店の西に道標。ここは、旧南町京方入口付近で、旧東海道が消失する地点です(ここから、諏訪神社の門前までの旧・東海道約50mは、国道1号線を通したため、消失)。文化7(1810)年に建立された道標で、「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」とあります。元々は、東海道と浜街道が交差する札の辻にあったようです。ただ、ここに建っている道標はレプリカで、実物は民家の庭に保管されているといいます。
そのため、道標から南に進み、諏訪神社前交差点で国道1号線を渡って、旧・東海道へというか、
諏訪神社へ。鎌倉時代初期の建仁2(1202)年、信州の諏訪大社の御分霊をこの地に勧請し創祀されたと伝わっています。主祭神は、
建御名方命(タケミナカタノミコト)と
八重事代主命(ヤエコトシロヌシノミコト)で、四日市・浜田の総産土神とされます。ここは、すでに2度ほど来ています。境内社には、稲荷社、山津見社、天神社がありますし、明治天皇の御製歌碑もあります。諏訪公園には、誓文御柱(五箇条の御誓文を刻んだ塔)も。
商店街を抜けると、中央通り。旧・東海道は、この先も直進しますが、今日のゴールである近鉄四日市駅に行くには右折。ゴ

ールは、12時8分、スタートから2時間38分。案外早かったというのが感想。歩いた距離は、7.9㎞ほど。ゴール受付は、近鉄四日市駅南改札口コンコース。今日も無事に、記念マグネットをいただけました(微笑)。すぐにホームに上がったものの、12時10分発の名古屋行き急行には、タッチの差で間に合わず。12時11分発の名古屋行き普通電車で桑名へ。12時35分着。¥300。
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