20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(その2)……八幡常夜灯、八幡地蔵堂、八幡神社跡、かわらずの松、妋石(みよといし;夫婦石)、光明寺を経て国道1号線に合流
3月24日の近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」のその2です。その1では、スタートから1.7㎞、時刻は10時に県道64号上海老茂福線の高架橋までやって来ました。ここで茂福町から八田に入ります。旧・東海道は、国道1号線の西側を通って行きます。
四日市自動車検査場を過ぎ、米洗川(よないがわ)の手前、西側に常夜燈があります。八幡常夜燈です。この常夜燈、あれこれ 調べましたが、詳しいことがよく分かりません。南面には「南大神宮」と刻まれています。
常夜燈から道路を挟んで東、一段下がったところに石碑がありました。東を向いており、そこには「加藤茂雄君顕彰之碑」とあります加藤茂雄氏は、北勢地区車検場を設立(昭和32(1957)年)し、北勢自動車協会を発足させた方。その功を記念して昭和45(1965)年に北勢自動車協会が設立したものです。写真の背後に少し写っている青色の屋根の建物が、現在の四日市自動車検査場。
八幡常夜燈と、加藤茂雄君顕彰之碑のすぐ先に米洗川。左の写真は、その上流方向で、この先にその1でも触れた伊賀留我神社(北伊賀留我神社と南伊賀留我神社があります)や、その近くには、天武天皇迹太川御遙拝所跡があります。天武天皇が壬申の乱で、奈良の吉野を離れて鈴鹿を経て三重県に入り、迹太川(とおがわ)のほとりで天照大神に戦勝祈願したと日本書紀にありますが、迹太川は、現在の米洗川であると考えられています。
八幡常夜燈から300mほど、八田第一集会所の隣に、八幡地蔵堂と、伊勢国八幡神社跡があります。お地蔵様は、延命地蔵尊です。このあと通った金場町にある金場地蔵尊と同じ一つの石から作られた兄弟地蔵で、もとは羽津村の南北の入口(この地蔵は北の入口)に置かれ、村内に疫病が入り込まないようにするための結界地蔵といわれるものであったといいます。昔は、米洗川北側の常夜燈(上記の常夜燈と思います)の向かい辺りにあったのが、昭和4年(1929年)に、八幡地区の住民によって現在地に移設されたそうです(こちら)。残念ながら、金場地蔵尊は見逃してしまいました。地蔵堂の前には「真誉法眼(しんよほうげん)上座」という石碑が建っています。
八幡神社は、勧請年代は不明ですが、江戸時代には一国一社の八幡神社として皇国66拝の1つとしてその名が聞こえていたといいます。村名も神社に因んで八幡村となっています。明治41(1908)年に志氐神社に合祀されて、ここ旧社地には「伊勢国八幡神社碑」と刻まれた石柱が建ち、往時を偲ぶよすがとなっています。志氐神社は、ここから西へ約800m(四日市市大宮町)にあります。主祭神は、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;祓戸の神(ハラエドノカミ)ともいい、祓を行う場所である「祓戸(はらえど)」を守る神)。創祀年代は明かではありませんが、社記では垂仁天皇の頃といいます。
ちなみに、「一国一社の八幡宮」は国府八幡宮に由来するものとされます。この八幡神社の碑にも「伊勢国八幡神社」とありますから、ここが国府八幡宮であったということかもしれません。伊勢国の国府は、現在の鈴鹿市広瀬町・西富田町にあったとされます(こちら)。国府比定地から離れた場所に一国一社八幡宮が鎮座することもあるようです。
八幡地蔵堂・八幡神社跡から400mほど、堀切川を渡る直前に、松の木が一本。「かわらずの松」です。戦前まで、このあたりは松並木でした。戦後は、経済発展にともなって、道路の拡幅が行われ、また、松食い虫の被害を受けて、東海道の松並木は姿を消してしまいました。この松は、樹齢200年以上とされ、江戸時代からここを行き交う旅人を見守っていたといわれます。ここは、今は羽津というところですが、その昔は「かわらず(川原須)」と呼ばれていましたので、その地名からこの松は「かわらずの松」と名づけられ、大切にされています。
かわらずの松の先、スタートから3㎞の直前に志氐(しで)神社の一の鳥居と石柱、常夜灯などがあります。志氐神社は、上記の伊勢国八幡神社を合祀した先。神社は、この一の鳥居から400mほど北西に入ったところにあります。いろいろと見るべきものもあるようですから、一度行ってみたいとは思っていますが、まだ実現していません。往復800mの寄り道はちょっと厳しいです。
あとから知ったのですが、八幡神社にあった常夜燈が、ここに移設されていました(こちら)。と書いてから写真を探したら、ありました。あまりよく見ずに撮ったようです(苦笑)。「天下泰平 八幡宮御神前 国家安全」と正面に刻まれています。
この鳥居の前には、東海道の両側に2つの大きな石があります。これらは「妋石(みよといし)(夫婦石)」と呼ばれていま す。志氐神社には、伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)も祀られていて、縁結び・夫婦円満のご神徳があるとされます。古書にも「婦女の婚姻を求むる祈願を之になす」と記述があり、古来より、東海道を行き交う多くの旅人は、この夫婦一対妋石をなでて、縁結び・夫婦円満の願いを込めたといいます。石は、鳥居のところに1つ(右の写真)、道を挟んだところにもう1つ(左の写真)あります。と書きながら、見て写真を撮ってくるだけでなく、きちんと撫でて、夫婦円満を願ってきた方がよかったかも知れません。これが失態にならないよう日々努力しなくては。
このすぐ先(100mあまり)には、初野山摂護殿光明寺があります。真宗本願寺派のお寺。元は大矢知村青木谷にあったといいます。弘仁年間(810~824年)に空海が諸国を巡回した時に、小堂を建てたのが始まりと伝わっています。寛正元(1460)年に、下野国高田の専修寺第10世眞慧上人が諸国巡化の際、最初に近江国坂本の妙林院(浄土真宗寺院。真慧が専修寺の出張所として創建したものの、廃絶。跡地不明)から光明寺に来錫し、約1年間在住して付近を教化した時に、当時の住職が改宗して浄土真宗高田派に転じたといいます。
享禄年間(1528~1531年)に、羽津城主赤堀左京大夫盛義(宗昌)が出家して光明寺に入り善願と名乗り、現在地に寺を移して初野山青木堂光明寺と称しました。天正年間(1573~1591年)に京都興正寺の勧めにより、高田派から本願寺派に転じたとされます。寛文3(1663)年2月、雷により堂宇、宝物、記録等一切を焼失し、創建の年月、開基の事蹟、中古世代住職名等すべて不明になりました。第5世俊応の妹せつが青蓮院宮に仕えた関係で、皇族所縁の品々を下賜され保管していたのですが、これらは、戦災で焼失しています。
光明寺の山門前には、「八十宮(やそのみや)御遺跡」の碑が建っています。八十宮は、霊元上皇の内親王(吉子内親王(よしこないしんのう);正徳4(1714)~宝暦8(1758)年;八十宮は幼名)で、正徳5年、7代将軍徳川家継の婚約者になったのですが、家継は翌年死去。享保11(1726)年内親王となり、同17(1732)年、19歳で仏門に入りました。徳川家継は江戸幕府の第7代将軍(在任:1713~1716年)ですが、宝永6(1709)年)7月3日生まれですから、婚約当時はわずか6歳。八十宮の方は、何と1歳で婚約しています。正徳6(1716)年閏2月18日(4月10日)に納采の儀を行ったのですが、そのわずか2ヶ月後、享保元(1716)年4月30日(6月19日)に家継は亡くなります。八十宮は、1歳7ヵ月で後家となってしまったのです。政治的な思惑が働いたのでしょうが、何ともいえない話。光明寺にこの「八十宮御遺跡」の碑があるのは、その宮付に光明寺第5世俊応の妹つねが召されたとされます(こちら)。碑は、昭和3(1928)年3月に桑名吉津屋町の寺本久治が建てています(寺本についてGoogleで検索すると、昭和22年の官報に名前が出て来ますが、どのような人物かは不明。こちら)。
境内には、森多三郎記念碑とその墓碑があります。文久元(1861)年、桑名藩が過酷な年貢米の増徴を命じたのに対し(当時の藩主は、松平定敬)、これを阻止しようと、羽津村組頭(村方三役の一つで、名主、庄屋を補佐する役目)であった森多三郎ら17名が先頭に立って藩に抵抗しました。その結果、藩は年貢の増徴を断念することになったのですが、その後、多三郎は桑名藩庁に呼ばれて安永の料理屋に行き、毒酒を飲まされ、帰途、この光明寺までたどり着いたところで絶命したと伝えられています。この碑は、当時の羽津村の肝煎、組頭、小前惣代が藩の譲歩を勝ち取った記念に立てたもので、記念碑の前には、「釋浄諦信士」と刻まれた森多三郎の墓碑が建てられています。
光明寺から200m足らずのところで旧・東海道は、左に曲がり、国道1号線に入ります。スタートからは3.5㎞ほど。この 先、 金場町、三ツ谷と進みますが、このあたりで金場延命地蔵と、道標を1つ見逃しています。金場地蔵は、上記のように、八幡地蔵と兄弟地蔵ですから、惜しいことをしました。ただし、このあたりでは国道1号線の西側の歩道を歩きました。金場延命地蔵は、東側の歩道沿いにありました。このお地蔵様、もとは羽津村の南入口にあった結界地蔵でした。羽津の東海道の南端、二重川(ふたえがわ)にかかる堺橋のたもとの堤(今の金場町交差点付近)です。昭和48(1973)年、市道拡幅工事にともない、現在地に移設。道標は、県道9号と国道1号の分岐点、なが餅で有名な笹井屋支店の手前にあります。ここは、新濃州道と東海道の分岐点(金場町交差点)で、「右桑名 左四日市」と彫られているそうです。大正12(1923)年の建立。
道標を見落としたのに気づいたのは、笹井屋支店を過ぎ、三ツ谷交差点を渡ってから。戻る元気がありませんでした。左の写真は、その笹井屋の支店。実は、本店より立派なのです。このあたりからは、実測ルートマップその3になりますので、今回はここまで。その3は、国寶元三大師道」道標や、多度神社、三ツ谷一里塚跡から。
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