20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(その4)……四日市宿中心部(建福寺、四日市陣屋跡、黒川本陣跡、帯屋脇本陣跡、問屋場跡、札の辻)、道標を見て、諏訪神社からゴールの近鉄四日市駅へ(完)
3月24日の近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」もその4となりました。その3では、三滝川を越え、いよいよ昔の四日市宿の中心部へと進んできました。実測ルートマップは、その4。三滝川を越えたところで5.4㎞。時刻は11時15分でした。もう少し時間がかかるかと思っていたので、気分的には「案外早かったな」というところ。
三滝橋を渡った先で旧・東海道は左折します。その交差点のところになが餅の笹井屋本店があります。土蔵造りの建物。天文 19(1550)年、戦国時代の頃の創業とされます。初代・彦兵衛が、勢州日永の里に因んでつくったというように、もとは日永に笹井屋はあったようです。あの藤堂高虎も足軽の頃、なが餅のおいしさに感動し「武運のながき餅を食うは幸先よし」と大いに喜んだという話があります。なが餅は、小豆餡を白い搗き餅でくるんで平たく長くのばし、両面を焼香ばしく焼き上げてあります。同様の餅は、東海道や伊勢街道沿いにたくさんあったようですが、現在は、この笹井屋の他、四日市市には太白永餅(金城軒)が、また、桑名には、安永餅(永餅屋老舗と、安永餅本舗柏屋)があります。画像は、永餅屋老舗さんのサイトからお借りしました。小腹が空いたときのおやつに最適です。個人的には、安永餅本舗柏屋さんのものが好みです。
笹井屋本店のところで曲がってまたすぐ右折すると、市立中部西小学校のところにでます。学校の西側を直進するところを、早まって左折してしまいました。が、これがケガの功名(笑)。お寺を発見。見つけてしまうと、立ち寄らずにはいられません(苦笑)。曹洞宗のお寺、東冥山建福寺です。永和元(1377)年、曹洞宗の僧・竺堂了源が開創したと伝えられます。3代目住職の時に、毎月4日を初日にして門前に市がたち、これから四日市の地名が生まれたといわれています。
その後、文明2(1470)年、浜田城を築城した田原(俵)忠秀がその菩提寺である建福寺の伽藍を再興し、七堂伽藍の大寺と
しました。しかし、天正3(1575)年、織田信長軍によって浜田城は落城し、建福寺も兵火に遭っています。と、ここまではよかったのですが、事前の下調べなく立ち寄ったため、境内に残っているという、芭蕉句碑には気づきませんでした(芭蕉の句碑は、本堂に向かって右手のソテツのあたりにあったようです)。右の写真の案内板にあるように、市指定文化財の仏涅槃図と、泗水の井戸(四日市陣屋の辺りに4ヶ所あった良質な井戸のうち、1つが現存するというのですが、探しては来ませんでした)があります。ちょっと残念なことをしました。
ただ、山門を入って左手には、「安政元年震災惨死者之碑」があるのに気づき、手を合わせてきました。この震災で亡くなられた300人あまりの方々の五十回忌法要を執り行ったときに建てたものと碑陰にありました(明治36(1903)年建立)。建福寺を出て、となりにあった北公園で小休止。そのあと、指定されたルートに戻り、中部西小学校の西側を回って、四日市陣屋跡へ。
四日市陣屋跡は、市立中部西小学校にあります。四日市は天領でしたから代官所が置かれました。慶長5(1600)年、徳川家 康が水谷光勝を四日市の代官に任じて天領を管理させ、陣屋は慶長8(1603)年、水谷光勝によって築かれました。右に案内板にあった陣屋の絵図の部分だけの写真を載せています。時期によって建物には変更があったようですが、この絵図には42の部屋が描かれています。享保9(1724)年、和郡山の松平吉里の領地となりますが、享和元(1801)年には再び天領となり、以後は多羅尾氏が代々代官を世襲しました。明治維新後は度会県の支所が置かれ、明治5(1872)年から翌年まで三重県庁となった。明治9(1876)年に勃発した伊勢暴動によって焼打ちされ焼失してしまいました。ここ中部西小学校の辺りが代官所跡ですが、学校の正門に案内板があるのみで遺構は残っていません。「水谷光勝」という名前に記憶がありましたので、調べてみたら、彼の墓は桑名・萱町の顕本寺にありました(こちら)。
四日市陣屋跡の案内板に向かって左に旧町名「堅町」を示す石柱があります。津でも同様の表示を見たことがあります。文明年間(1469~1487)、東海道と湊へ通じる東西道路の交差する四つ辻の東側に開かれた市場を、弘治・永禄年間(1555~1570)に「堅市場」と称しました。寛永19(1642)年にはすでに堅町(立町)と呼ばれ、四日市宿の中心地として栄えたそうです。昔の町名が変わってしまったところでは、こういう案内が当時を偲ぶ手がかりとなります。
陣屋跡を見て、旧・東海道に戻ります。戻る途中でスタートから6㎞。中部西小学校から東海道へ戻ったところが、左の写真。ここが札の辻と思われます。江戸時代には、高札場があったところで、あちこちに「札の辻」という地名が残っています。また、ここは、「菰野道」のスタート地点。菰野道は、菰野町菰野まで続く11㎞の街道です。四日市宿の中心で、このあたりに本陣、脇本陣、問屋場がありました。ということで、ハイキングコースとしては、次は少し南にある道標へ行くようになっていたのですが、せっかく来たのですから本陣跡などを探して、ここ札の辻から北町公園の西あたりを往復してきました。
まずは、黒川本陣があったとされるところ、現在は、黒川農薬商会になっています。一番本陣は清水太兵衛家が代々なり、高 札場のあった札の辻北角に明治10(1877)年頃まで続きました。黒川本陣は、二番本陣で、文化8(1811)年頃から脇本陣だった黒川彦兵衛がついています。東京遷都の際、明治元(1868)年9月24日を初めとして明治天皇はこの黒川本陣を合計4回行在所として利用されたといいます。調べたところ、黒川本陣の門が、明治末期に薬師寺に移転されたとありました。その遺構が戦災にも会わず残っているというのですが、その薬師寺がどこかまではチェックしていきませんでした。今は、住職も亡く、表札の「薬師寺」の文字も朽ち果てているようなのですが、黒川農薬商会から北西へ、国道1号線を渡ったところでした。予習はしっかりやっていかないといけません(苦笑)。左の写真は北東側から、また、右の写真は南西側から札の辻方面を撮ったもの。
続いては、帯屋脇本陣跡。この近藤建材店が脇本陣の帯屋跡とされています。その根拠となる資料は必ずしも明確ではないようで、角川日本地名大辞典(旧地名編)の「辻の西南角に脇本陣の帯屋があった」という記述にしたがうと、この近藤建材店のところと考えられるといいます。四日市は、海軍第二燃料廠をはじめ多くの工場群を擁した四日市は、アメリカ軍の重要攻撃目標とされ、昭和20(1945)年6月18日午前0時45分には、アメリカ軍B-29戦略爆撃機89機が焼夷弾11,000発・567.3トンを投下しています。このとき、人的被害は、被災者47,153人、死者736人、負傷者1,500人、行方不明者63人。約1時間の絨毯爆撃で全市の35%が焼失、市街地は焦土と化しました。このように空襲に遭ったがため、昔の宿場などは残っていないのだと思います。四日市空襲については、こちらを参照。
問屋場跡と考えられている福生医院を探したものの、なかなか見つけられませんでした。なぜかというと、福生医院は、あい にく塗装工事中だったからです(笑)。これはまったく想定外。あちこち見て回り、それなりに考えて、やはりここしかないと思って近寄ったら、ようやく福生医院と判明。工事をしておられた方に断って撮影。ただし、こちらも根拠となる資料がないようで、角川日本地名大辞典(旧地名編)の「北町(近世~近代)」に、「清水家の西隣に問屋場が、辻の西南角に脇本陣の帯屋があった」との記述があり、また、東海道分間延絵図には辻の西南角辺りに脇本陣と問屋場が描かれています。薬師寺は見られませんでしたが、これで一通り、本陣跡、脇本陣跡、問屋場跡を確認でき、それなりに満足。
参考までに、こちらは、四日市陣屋跡の案内板にあった「東海道分間延絵図」の四日市宿の部分。「東海道分間延絵図」は、江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図です。地図の中央にあるのが、札の辻で、ここが東海道(東西=左右に伸びています)と菰野道(北に向かう道)の交差点。菰野道はここがスタート。札の辻の右下には四日市陣屋が描かれています。陣屋に向かって右(東)は、三滝川。橋がかかっています。ちなみに四日市は、東海道五十三次43番目の宿場。
ウロウロしましたので、正規のコース(札の辻の次の交差点)まで戻った時点で6.5㎞。この先、旧・東海道をそのまま行きますと、柳通という交通量の多い、信号のない交差点に当たりますので、いったん国道1号線に出て、中部交差点で迂回。二宮病院の南、仏壇店の西にある道標を目指します。ここは、旧南町京方入口付近で、旧東海道が消失する地点です(ここから、諏訪神社の門前までの旧・東海道約50mは、国道1号線を通したため、消失。冒頭の実測ルートマップその4には、紫のラインを入れたところが、消失した東海道)。左の写真で田中仏壇店の向かいにあるお宅の角のところに道標があります。旧・東海道は、このお宅を斜めに通る形であったと思われます。
上の写真で、向かって右にあるお宅の前の角に道標があります。文化7(1810)年に建立された道標で、「すぐ江戸道」「す
ぐ京いせ道」とあります。元々は、東海道と浜街道が交差する札の辻にあったようです。ただ、ここに建っている道標は、もとの道標が戦災で損傷したのを惜しんで、昭和28(1953)年頃、地元の人・大西清之助が稲葉町の永田石材店でこしらえた複製道標です(『四日市市史研究・すぐ江戸道の札の辻』より)。もとの道標は、昭和20(1945)年の戦火にあい破損しています。その道標は、慶安(1650年)の頃問屋役を務めていた吉田角左右衛門兼武の子孫の方の中庭に、鉄枠で補強されて休んでいるといいます(四日市市史研究第3号『“すぐ江戸道”の札の辻』より;情報源はこちら)。この道標については、いろいろな状況があるようですが、詳細はリンク先をご覧ください。
道標を確認して少し南へ。さらに諏訪神社前の交差点で国道1号線を渡って、諏訪神社へ。諏訪神社は、旧・東海道に面してい ます。鎌倉時代初期の建仁2(1202)年、信州の諏訪大社の御分霊をこの地に勧請し創祀されたと伝わっています。主祭神は、建御名方命(タケミナカタノミコト)と八重事代主命(ヤエコトシロヌシノミコト;事代主神(コトシロヌシノカミ)ともいいます)で、四日市・浜田の総産土神とされます。ここは、すでに2度ほど来ています。境内社には、稲荷社、山津見社、天神社がありますし、伊勢神宮と明治神宮の遙拝所、さらには明治天皇の御製歌碑もあります。諏訪公園には、誓文御柱(五箇条の御誓文を刻んだ塔)も。境内は一通り見て来ましたが、詳細は割愛します。
諏訪神社の門前町、現在は商店街になっています。「スワマエ商店街」という名前。名は体を表すといいますが、まさに諏訪 神社の前にある商店街ですし、ここが諏訪神社の表参道の位置づけ。左の写真でアーケードの商店街になっていますが、この道が旧・東海道です。営業していない店もありますが、全体としてはけっこう活気がある商店街です。
この商店街で見逃せないのは、大四日市祭りに登場する「大入道」の人形(首が伸び縮みします。見たときも伸び縮みしていました)。商店街の専務理事さん(水谷さん)が、昔の商店街の様子などを綴るブログを設けていらっしゃり、これがなかなか面白い(花の四日市スワマエ商店街 四日市諏訪商店街振興組合専務理事の横道ブログ)。スワマエ商店街の入り口で7.4㎞、ちょうど12時。旧・東海道は、スワマエ商店街を抜け、中央通りを越えて浜田町の方へ直進していきますが、今日のコースでは、旧・東海道を歩くのはスワマエ商店街を出たところまで。
商店街を抜け、今日のゴールである近鉄四日市駅に行くために右折(左の写真は、その右折したあたりからゴールの近鉄四日 市駅方面を見たところ)。右が、ゴールの近鉄名古屋線・近鉄四日市駅。ここには、近鉄百貨店四日市店もあります。県庁所在地の津の駅前よりもここの方が繁華街。ゴールは、12時8分、スタートから2時間38分。案外早かったというのが感想。歩いた距離は、7.9㎞ほど。
ゴール受付は、近鉄四日市駅の2階にある南改札口コンコース。途中、あちこち見て歩いて他の参加者よりも時間がかかりましたので心配しましたが、今日も無事に、記念マグネットをいただけました(微笑)。すぐにホームに上がったものの、12時10分発の名古屋行き急行には、タッチの差で間に合わず。12時11分発の名古屋行き普通電車で桑名へ。12時35分着。¥300。
あみま倶楽部のスタンプは、この日で12個目をゲット。まぁまぁのペースで増やしています。ALKOOによると、この日歩いたのは17,719歩。ハイキングで歩いたのが、キョリ測では、7.9㎞、桑名駅往復が1.8㎞、合計9.7㎞でした。DSの生活リズム計によれば歩数は、16,727歩。歩数は、ほぼ誤差の範囲。
月末、近鉄ハイキングは近いところではありません。3月28日(木)に京都で「春爛漫、天皇ゆかりのお寺『泉涌寺』へ行こう!」という魅力的なものがありましたが、ちょっと遠いかと思ってパス。4月は、3日の「木曽岬町の採れたてトマトを食すハイキング 鍋田川堤の桜トンネルと「きそさきトマト」」からのつもり。鍋田川堤は、約4㎞にわたって約1,500本の桜が植えられていますから、たぶん見事でしょう。木曽崎はトマトの名産地。試食もあるようです。
「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り」の旅3日目は、4月11日(木)。「昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」ということで、近鉄四日市駅をスタート、日永の追分で東海道から伊勢街道に入り、鈴鹿市駅まで約12㎞。これも逃せません。
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