お知らせ

  • データの移行について
    2005年10月26日のブログ開始当初から、2024年11月30日までの記事は、「猫の欠伸研究室(アーカイブ)」に移行しました(http://blog.livedoor.jp/taichimaru151/)。 このココログの「猫の欠伸研究室」には、2019年1月以降の記事を残し、2018年12月以前の記事は削除しました(2019年1月1日から2024年11月30日までの記事は、両方にあります)。

レンズを通した自然観察

  • この「レンズを通した自然観察」ということばは、恩師のお一人が、私の趣味を形容しておっしゃったものです。2023年2月7日のブログに書きましたが、実はときどき思い出していることばです。お世話になった先生方はたくさんいらっしゃいますが、この恩師は、就職のことから学位論文の執筆、審査に至るまで本当にお世話になった先生です。「写真の撮り方を指南してもらいたい」ともおっしゃったのですが、これはお世辞と理解しています。私はほぼ隠居状態となって10年以上になりますが、今、改めてこのことばをかみしめています。この先生には結婚式の際に「理論と臨床をつなぐ仕事をするように」ということばをいただきました。体調を崩してそれには十分に応えられませんでしたので、せめてこの「レンズを通した自然観察」については、極めるとまでは行かないにしても、もう少し精進したいと考えています。

ブログ名の由来

  • ブログ名の「猫の欠伸研究室」は、中日新聞の夕刊に連載されている「紙つぶて」というコラム(平成22(2010)年1月13日)に、元新党さきがけ代表の武村正義さんが書いていらっしゃった「人生は猫の欠伸である」というコラムによります。武村さんは、“チベットで鳥葬を取り仕切る僧侶が、「人の生涯は猫の欠伸のようなもの」と語った”と書いていらっしゃいます。「猫の欠伸のようなもの研究室」としたかったのですが、ちょっと間延びしますので、「猫の欠伸研究室」とした次第です。「研究室」とつけたのは、過去、大学に勤めていたことがあるということやら、知らないこと、分からないことがあると何でも調べずにはいられない性分であること、屁理屈、講釈が大好きであることからであります。しかし、「人生の研究をしている」のではありません。「大所高所」からのご高説を開陳できるほどの力量はないが故、「小所低所」からの戯れ言をつぶやくのが精一杯(苦笑)。身の程に合わせ、勝手なことを書き綴っていますので、御用とお急ぎでない皆様には、今後ともご交誼のほど、お願いいたします。是非ともコメントを頂戴し、少しでも世間を広げたいと熱望しております。

モットー

  • 座右の銘というほど立派なものはありませんが、過去に体調を崩し、療養生活を送った経験から、私なりのモットーをつくっています。その一つは、「淡々と飽きもせず……」です。自分では、「……」と余韻を残しているところが気に入っています。こだわりすぎや、やり過ぎはよくありません。若い頃はムキになってやったこともありますが、今はこのように「淡々と飽きもせず……」が自分に合っていると思っています。もう一つは「晴耕雨読」ならぬ「晴歩雨読」です。マンション暮らし故、耕すところはありません。代わりに歩いています。そして、最近(令和3(2021)年に入った頃から)追加したのが、「散歩生活、ときどき仕事」。NHKのテレビ番組に「晴れ、ときどきファーム!」というものがあります。これのもじり。浅学非才の身ですので、ご交誼の上、いろいろとご教示をお願いします。

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2019年3月

2019年3月31日 (日)

風冷え……九華公園のカモはゼロ、鳥は少なし

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 晴れたものの、風が強い日で、「風冷え」という感じ。九華公園、花見客でけっこう賑わっていますが、ブルーシートを敷いた上で風に震えている方もたくさん。花見をするのも大変です。私は、花の下に場所をとって宴会というのは、たぶんもう30年くらいしたことがありません。最初の職場では、野球部(当時は野球部に所属し、「恐怖の下位打線」として恐れられていました……笑。むかしばなしです)で花見がてら、今でいうBBQをしていました。冒頭の写真は、諸戸氏庭園の前にある「マイ・ソメイヨシノ」、かなり咲きました。今朝、ここで出会った散歩友達の方に、「これ、マイ・ソメイヨシノにしてあるんです」と話したら、大ウケでした。マジメな話、皆様もご自分お気に入りの桜の木を決めておかれると、花見がさらに楽しめること請け合いです(微笑)。

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 蟠龍櫓前のソメイヨシノも、けっこう咲いてきました。この桜の景色、私好みです。早く満開にならないかと思います。九華公Img_5015c 園には桜がたくさんありますが、二の丸橋の南東の袂のところがボリュームがあっていいと思います(右の写真)。ここは、水面すれすれまで枝が伸びてて、条件がよいと「水鏡」になったソメイヨシノもきれいなのです。

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 九華公園でもう1ヶ所は、野球場の南、吉之丸堀の上にある東屋をしだれ桜越しに見た景色でしょうか。今年は、ここのしだれ桜が今ひとつで、ちょっと残念。この写真は、ちょっとした工夫があり、通路沿いにある石段の上に乗って撮っています。視線の高さを変えると、かなり印象の異なった写真が撮れます(他でももっと工夫しろよ!という声が聞こえてくる気がしますが……)。

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 さて、散歩はいつも通り。8時半前に出て、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、寺町と回って来て、6.0㎞。揖Img_4929c 斐川は、かなり波立っていて他には鳥影はなかったものの、カンムリカイツブリが1羽。これもすっかり夏羽になっています。揖斐川にある三の丸水門の上流側の河川敷では、久しぶりにヒバリの姿が2羽。この時期ですから、つがいなのでしょう。少し離れて餌を探していました。ここで繁殖してくれるなら、是非とも観察し、ヒナを見たいところ。

Img_9191c 九華公園、右の写真のように桜も咲いて、露店も営業(堀めぐりは、強風で運行中止)。日曜ですから、人出もかなりありました。これまで市の指定管理者となっていた業者さんが、今日で業務終了。お世話になった管理人さんたちにご挨拶と思ったものの、引き継ぎなどでお忙しそうでした。

Img_4967c  強風に加え、人が多いため、今日はバードウォッチングには不向き。カモも、早朝に2~3羽いたという話でしたが、私が行っImg_9208c たときにはとうとう「ゼロ」。二の丸跡では、メジロが数羽出て来て「桜メジロ」。本丸跡では、人出にめげず、シメが1羽。いつものように中央にある木の下に。そっと近づいたら、今日は数mのところまで行けました(微笑)。

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 貝塚公園では、シロハラはおらず、ツグミが1羽。他には、カワラヒワやムクドリ、スズメくらいでちょっと淋しい。内堀公園Img_9274c も、鳥はいません。そこで、京町から田町にかけて、ツバメの巣のあるお宅6ヶ所をチェックしてきました。京町などでツバメが飛んだり、電線で休んだり。

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 京町にある呉服屋さんの巣では、メスが巣に就いていました。しばらく見ていると、わらくずのようなものを咥えて、巣の外に放り出したりしており、清掃中というか、修復中というか、そういう感じでした。ツバメが巣に就いていたのは、今日はここ1ヶ所。他にも去年までにチェックしてあるところがありますから、また見に行かなくてはなりません。また、新宮西橋あたりでは、イワツバメが飛び交っているということですから、大山田川方面にも出かけなくてはなりませんねぇ(微笑)。

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 桜もまだ満開を迎えていませんが、九華公園にあるツツジの植え込みをよくよく見てみたら、ご覧のようになっていました。ツツジが咲き始めるには、まだ半月以上あると思うのですが、すでに少しずつ準備をしているようで、自然の妙です。桜もよいのは確かですが、個人的には、九華公園のツツジ、なかなか良いと思います。ツツジの頃にも堀めぐりの船を出してもらえたら、乗ってみたいと思っています。

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 ところで、明日4月1日に新元号が発表されますが、桑名では春日神社などで「新元号奉祝行事」が計画されています。新しい元号を奉祝するというのは、個人的にはちょっとズレている気がしますが、それはさておき、このとき、長島八幡神社の獅子舞が奉納される予定なのです。これ、前から一度見てみたいと思っていました。今日見つけたこのビラによれば、5月1日(水)12時頃からのようです。

20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(その4)……四日市宿中心部(建福寺、四日市陣屋跡、黒川本陣跡、帯屋脇本陣跡、問屋場跡、札の辻)、道標を見て、諏訪神社からゴールの近鉄四日市駅へ(完)

190324kintetsuhikingtomida42_1  3月24日の近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」もその4となりました。その3では、三滝川を越え、いよいよ昔の四日市宿の中心部へと進んできました。実測ルートマップは、その4。三滝川を越えたところで5.4㎞。時刻は11時15分でした。もう少し時間がかかるかと思っていたので、気分的には「案外早かったな」というところ。

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 三滝橋を渡った先で旧・東海道は左折します。その交差点のところになが餅の笹井屋本店があります。土蔵造りの建物。天文Mochi 19(1550)年、戦国時代の頃の創業とされます。初代・彦兵衛が、勢州日永の里に因んでつくったというように、もとは日永に笹井屋はあったようです。あの藤堂高虎も足軽の頃、なが餅のおいしさに感動し「武運のながき餅を食うは幸先よし」と大いに喜んだという話があります。なが餅は、小豆餡を白い搗き餅でくるんで平たく長くのばし、両面を焼香ばしく焼き上げてあります。同様の餅は、東海道や伊勢街道沿いにたくさんあったようですが、現在は、この笹井屋の他、四日市市には太白永餅(金城軒)が、また、桑名には、安永餅(永餅屋老舗と、安永餅本舗柏屋)があります。画像は、永餅屋老舗さんのサイトからお借りしました。小腹が空いたときのおやつに最適です。個人的には、安永餅本舗柏屋さんのものが好みです。

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 笹井屋本店のところで曲がってまたすぐ右折すると、市立中部西小学校のところにでます。学校の西側を直進するところを、早まって左折してしまいました。が、これがケガの功名(笑)。お寺を発見。見つけてしまうと、立ち寄らずにはいられません(苦笑)。曹洞宗のお寺、東冥山建福寺です。永和元(1377)年、曹洞宗の僧・竺堂了源が開創したと伝えられます。3代目住職の時に、毎月4日を初日にして門前に市がたち、これから四日市の地名が生まれたといわれています。

Img_8372c その後、文明2(1470)年、浜田城を築城した田原(俵)忠秀がその菩提寺である建福寺の伽藍を再興し、七堂伽藍の大寺とImg_8380c しました。しかし、天正3(1575)年、織田信長軍によって浜田城は落城し、建福寺も兵火に遭っています。と、ここまではよかったのですが、事前の下調べなく立ち寄ったため、境内に残っているという、芭蕉句碑には気づきませんでした(芭蕉の句碑は、本堂に向かって右手のソテツのあたりにあったようです)。右の写真の案内板にあるように、市指定文化財の仏涅槃図と、泗水の井戸(四日市陣屋の辺りに4ヶ所あった良質な井戸のうち、1つが現存するというのですが、探しては来ませんでした)があります。ちょっと残念なことをしました。

Img_8375c  ただ、山門を入って左手には、「安政元年震災惨死者之碑」があるのに気づき、手を合わせてきました。この震災で亡くなられた300人あまりの方々の五十回忌法要を執り行ったときに建てたものと碑陰にありました(明治36(1903)年建立)。建福寺を出て、となりにあった北公園で小休止。そのあと、指定されたルートに戻り、中部西小学校の西側を回って、四日市陣屋跡へ。

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 四日市陣屋跡は、市立中部西小学校にあります。四日市は天領でしたから代官所が置かれました。慶長5(1600)年、徳川家Img_8395c 康が水谷光勝を四日市の代官に任じて天領を管理させ、陣屋は慶長8(1603)年、水谷光勝によって築かれました。右に案内板にあった陣屋の絵図の部分だけの写真を載せています。時期によって建物には変更があったようですが、この絵図には42の部屋が描かれています。享保9(1724)年、和郡山の松平吉里の領地となりますが、享和元(1801)年には再び天領となり、以後は多羅尾氏が代々代官を世襲しました。明治維新後は度会県の支所が置かれ、明治5(1872)年から翌年まで三重県庁となった。明治9(1876)年に勃発した伊勢暴動によって焼打ちされ焼失してしまいました。ここ中部西小学校の辺りが代官所跡ですが、学校の正門に案内板があるのみで遺構は残っていません。「水谷光勝」という名前に記憶がありましたので、調べてみたら、彼の墓は桑名・萱町の顕本寺にありました(こちら)。

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 四日市陣屋跡の案内板に向かって左に旧町名「堅町」を示す石柱があります。津でも同様の表示を見たことがあります。文明年間(1469~1487)、東海道と湊へ通じる東西道路の交差する四つ辻の東側に開かれた市場を、弘治・永禄年間(1555~1570)に「堅市場」と称しました。寛永19(1642)年にはすでに堅町(立町)と呼ばれ、四日市宿の中心地として栄えたそうです。昔の町名が変わってしまったところでは、こういう案内が当時を偲ぶ手がかりとなります。

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 陣屋跡を見て、旧・東海道に戻ります。戻る途中でスタートから6㎞。中部西小学校から東海道へ戻ったところが、左の写真。ここが札の辻と思われます。江戸時代には、高札場があったところで、あちこちに「札の辻」という地名が残っています。また、ここは、「菰野道」のスタート地点。菰野道は、菰野町菰野まで続く11㎞の街道です。四日市宿の中心で、このあたりに本陣、脇本陣、問屋場がありました。ということで、ハイキングコースとしては、次は少し南にある道標へ行くようになっていたのですが、せっかく来たのですから本陣跡などを探して、ここ札の辻から北町公園の西あたりを往復してきました。

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 まずは、黒川本陣があったとされるところ、現在は、黒川農薬商会になっています。一番本陣は清水太兵衛家が代々なり、高Img_8400c 札場のあった札の辻北角に明治10(1877)年頃まで続きました。黒川本陣は、二番本陣で、文化8(1811)年頃から脇本陣だった黒川彦兵衛がついています。東京遷都の際、明治元(1868)年9月24日を初めとして明治天皇はこの黒川本陣を合計4回行在所として利用されたといいます。調べたところ、黒川本陣の門が、明治末期に薬師寺に移転されたとありました。その遺構が戦災にも会わず残っているというのですが、その薬師寺がどこかまではチェックしていきませんでした。今は、住職も亡く、表札の「薬師寺」の文字も朽ち果てているようなのですが、黒川農薬商会から北西へ、国道1号線を渡ったところでした。予習はしっかりやっていかないといけません(苦笑)。左の写真は北東側から、また、右の写真は南西側から札の辻方面を撮ったもの。

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 続いては、帯屋脇本陣跡。この近藤建材店が脇本陣の帯屋跡とされています。その根拠となる資料は必ずしも明確ではないようで、角川日本地名大辞典(旧地名編)の「辻の西南角に脇本陣の帯屋があった」という記述にしたがうと、この近藤建材店のところと考えられるといいます。四日市は、海軍第二燃料廠をはじめ多くの工場群を擁した四日市は、アメリカ軍の重要攻撃目標とされ、昭和20(1945)年6月18日午前0時45分には、アメリカ軍B-29戦略爆撃機89機が焼夷弾11,000発・567.3トンを投下しています。このとき、人的被害は、被災者47,153人、死者736人、負傷者1,500人、行方不明者63人。約1時間の絨毯爆撃で全市の35%が焼失、市街地は焦土と化しました。このように空襲に遭ったがため、昔の宿場などは残っていないのだと思います。四日市空襲については、こちらを参照。

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 問屋場跡と考えられている福生医院を探したものの、なかなか見つけられませんでした。なぜかというと、福生医院は、あいImg_8407c にく塗装工事中だったからです(笑)。これはまったく想定外。あちこち見て回り、それなりに考えて、やはりここしかないと思って近寄ったら、ようやく福生医院と判明。工事をしておられた方に断って撮影。ただし、こちらも根拠となる資料がないようで、角川日本地名大辞典(旧地名編)の「北町(近世~近代)」に、「清水家の西隣に問屋場が、辻の西南角に脇本陣の帯屋があった」との記述があり、また、東海道分間延絵図には辻の西南角辺りに脇本陣と問屋場が描かれています。薬師寺は見られませんでしたが、これで一通り、本陣跡、脇本陣跡、問屋場跡を確認でき、それなりに満足。

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 参考までに、こちらは、四日市陣屋跡の案内板にあった「東海道分間延絵図」の四日市宿の部分。「東海道分間延絵図」は、江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図です。地図の中央にあるのが、札の辻で、ここが東海道(東西=左右に伸びています)と菰野道(北に向かう道)の交差点。菰野道はここがスタート。札の辻の右下には四日市陣屋が描かれています。陣屋に向かって右(東)は、三滝川。橋がかかっています。ちなみに四日市は、東海道五十三次43番目の宿場。

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 ウロウロしましたので、正規のコース(札の辻の次の交差点)まで戻った時点で6.5㎞。この先、旧・東海道をそのまま行きますと、柳通という交通量の多い、信号のない交差点に当たりますので、いったん国道1号線に出て、中部交差点で迂回。二宮病院の南、仏壇店の西にある道標を目指します。ここは、旧南町京方入口付近で、旧東海道が消失する地点です(ここから、諏訪神社の門前までの旧・東海道約50mは、国道1号線を通したため、消失。冒頭の実測ルートマップその4には、紫のラインを入れたところが、消失した東海道)。左の写真で田中仏壇店の向かいにあるお宅の角のところに道標があります。旧・東海道は、このお宅を斜めに通る形であったと思われます。

Img_8426c_1 上の写真で、向かって右にあるお宅の前の角に道標があります。文化7(1810)年に建立された道標で、「すぐ江戸道」「すImg_8430c ぐ京いせ道」とあります。元々は、東海道と浜街道が交差する札の辻にあったようです。ただ、ここに建っている道標は、もとの道標が戦災で損傷したのを惜しんで、昭和28(1953)年頃、地元の人・大西清之助が稲葉町の永田石材店でこしらえた複製道標です(『四日市市史研究・すぐ江戸道の札の辻』より)。もとの道標は、昭和20(1945)年の戦火にあい破損しています。その道標は、慶安(1650年)の頃問屋役を務めていた吉田角左右衛門兼武の子孫の方の中庭に、鉄枠で補強されて休んでいるといいます(四日市市史研究第3号『“すぐ江戸道”の札の辻』より;情報源はこちら)。この道標については、いろいろな状況があるようですが、詳細はリンク先をご覧ください。

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 道標を確認して少し南へ。さらに諏訪神社前の交差点で国道1号線を渡って、諏訪神社へ。諏訪神社は、旧・東海道に面していImg_8457c_1 ます。鎌倉時代初期の建仁2(1202)年、信州の諏訪大社の御分霊をこの地に勧請し創祀されたと伝わっています。主祭神は、建御名方命(タケミナカタノミコト)と八重事代主命(ヤエコトシロヌシノミコト;事代主神(コトシロヌシノカミ)ともいいます)で、四日市・浜田の総産土神とされます。ここは、すでに2度ほど来ています。境内社には、稲荷社、山津見社、天神社がありますし、伊勢神宮と明治神宮の遙拝所、さらには明治天皇の御製歌碑もあります。諏訪公園には、誓文御柱(五箇条の御誓文を刻んだ塔)も。境内は一通り見て来ましたが、詳細は割愛します。

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 諏訪神社の門前町、現在は商店街になっています。「スワマエ商店街」という名前。名は体を表すといいますが、まさに諏訪Img_8518c 神社の前にある商店街ですし、ここが諏訪神社の表参道の位置づけ。左の写真でアーケードの商店街になっていますが、この道が旧・東海道です。営業していない店もありますが、全体としてはけっこう活気がある商店街です。

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 この商店街で見逃せないのは、大四日市祭りに登場する「大入道」の人形(首が伸び縮みします。見たときも伸び縮みしていました)。商店街の専務理事さん(水谷さん)が、昔の商店街の様子などを綴るブログを設けていらっしゃり、これがなかなか面白い(花の四日市スワマエ商店街 四日市諏訪商店街振興組合専務理事の横道ブログ)。スワマエ商店街の入り口で7.4㎞、ちょうど12時。旧・東海道は、スワマエ商店街を抜け、中央通りを越えて浜田町の方へ直進していきますが、今日のコースでは、旧・東海道を歩くのはスワマエ商店街を出たところまで。

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 商店街を抜け、今日のゴールである近鉄四日市駅に行くために右折(左の写真は、その右折したあたりからゴールの近鉄四日Img_8530c_1 市駅方面を見たところ)。右が、ゴールの近鉄名古屋線・近鉄四日市駅。ここには、近鉄百貨店四日市店もあります。県庁所在地の津の駅前よりもここの方が繁華街。ゴールは、12時8分、スタートから2時間38分。案外早かったというのが感想。歩いた距離は、7.9㎞ほど。

Img_8536c_1 ゴール受付は、近鉄四日市駅の2階にある南改札口コンコース。途中、あちこち見て歩いて他の参加者よりも時間がかかりましたので心配しましたが、今日も無事に、記念マグネットをいただけました(微笑)。すぐにホームに上がったものの、12時10分発の名古屋行き急行には、タッチの差で間に合わず。12時11分発の名古屋行き普通電車で桑名へ。12時35分着。¥300。

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 あみま倶楽部のスタンプは、この日で12個目をゲット。まぁまぁのペースで増やしています。ALKOOによると、この日歩いたのは17,719歩。ハイキングで歩いたのが、キョリ測では、7.9㎞、桑名駅往復が1.8㎞、合計9.7㎞でした。DSの生活リズム計によれば歩数は、16,727歩。歩数は、ほぼ誤差の範囲。

 月末、近鉄ハイキングは近いところではありません。3月28日(木)に京都で「春爛漫、天皇ゆかりのお寺『泉涌寺』へ行こう!」という魅力的なものがありましたが、ちょっと遠いかと思ってパス。4月は、3日の「木曽岬町の採れたてトマトを食すハイキング 鍋田川堤の桜トンネルと「きそさきトマト」」からのつもり。鍋田川堤は、約4㎞にわたって約1,500本の桜が植えられていますから、たぶん見事でしょう。木曽崎はトマトの名産地。試食もあるようです。

 「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り」の旅3日目は、4月11日(木)。「昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」ということで、近鉄四日市駅をスタート、日永の追分で東海道から伊勢街道に入り、鈴鹿市駅まで約12㎞。これも逃せません。

2019年3月30日 (土)

ユリカモメ54羽登場……帰郷の挨拶か(微笑)、ガングロユリカモメも、そして咲き始めた桜の花を落とす犯人は?

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 気温は14度、曇天、夕方から雨という予報。九華公園の桜はかなり咲いてきた印象はあるものの、全体としてはやはり咲き始めImg_9131c くらい。しかし、土曜日ということで、花見客も出ていますし、露店の皆さんは朝早くから準備に大わらわ。堀めぐりは、10時の営業開始早々、1隻がお客を乗せて巡っています。

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 朝8時前から花見の場所取りもあちこちにしてあります。今日は、和服の女性をモデルにした撮影会も催されるようで、私が九華公園に到着した9時前にはカメラを持った方多数が、あちこちでロケハン中でした。以前は、便乗して、勝手に撮影したことがありましたが、最近はどうも。ということで、こういう人出が多い日は鳥もあまり出てこないだろうと、公園内をサッと一回り。ところが、こういうときに限って……ということもあり、笑えます(ニヤリ&苦笑です)。

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 それは、こういう状況(微笑)。昨日の朝、私が行く前にも多数来ていたという情報もありましたが、ユリカモメが今日は、54Img_9068c 羽ほどやって来ていたのです。例年ですと、3月下旬にはやって来なくなりますから、帰郷の挨拶かという気もします。しかも、右のような「ガングロ」のユリカモメもいたのです。他にも、夏羽に換羽する途中のユリカモメが何羽も。久しぶりの登場で、粋な計らいとでもいうのでしょうか。

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 ガングロユリカモメ、飛び姿も捉えられました。例によって「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」方式によります。膨大な数のピンImg_4867c ぼけ、ブレブレの写真もこの陰で量産しました(苦笑)。左は、その中で比較的マシなもの。二の丸跡の庭園灯に降りて、しばらく休んでいましたので、それも撮れました。「夏羽はこうなる」というのは、分かってはいるものの、剽軽な感じもして、これを観ていると笑えてきます。

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 野球場のフェンスに集まっているところを撮るのは、なかなかよいアングルがありません。辰巳櫓跡に登って、超望遠コンデImg_4891c ジのズームで撮ったものがこれ。顔がほとんど白いものもいますし、ガングロになりかけ、かなり黒くなったものなどさまざま。同じユリカモメであっても、個体差がかなりあるのがよく分かります。乱舞シーンも久しぶりに見られました。

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 さて、散歩はいつものように、8時半少し前から住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、寺町と5.6㎞。その後、三洋堂やエディオンに車で買い物。船津屋の裏手や、三の丸公園のあちこちでツグミを見ました。三の丸水門の下流側の河川敷で、ヒバリの巣を探そうと思ったら、今日は、こんな光景。毎年3月下旬によく見ますが、ヒドリガモが集団で餌を啄んでいます。その数、全部で20羽以上。帰る前にここに集まってきているように思います。

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 九華公園、野鳥は昨日までと同様、あまり種類も、数も多くはありませんが、ほぼ同じメンバーが登場。ソメイヨシノが咲きImg_4787c 始めたのに釣られてか、暴れん坊のヒヨドリまで花見のようでした(笑)。ツグミも見られました。ちょっと枝かぶりではありますが、奥平屋敷跡にて。

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 カモたちは、今日は27羽。昨日と同じく、キンクロハジロばかり。二の丸堀の東側から吉之丸堀の東側に集まっていました。Img_4877c しかし、初めの方に書きましたが、堀めぐりの船が動き始めたら、どこかに皆、姿を消してしまいました。このほか、鎮国守国神社の境内、九華招魂社の拝殿の裏でシロハラ。鳴き声がしたので、探しました。シロハラは、奥平屋敷跡にもいました。

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 シメも、奥平屋敷跡と、本丸跡にて。ただし、今日は、人出が多いので、広いところに出てくるチャンスはなく、いずれも樹Img_4898c 上にて。これも証拠写真(笑)。このあと、貝塚公園へ。貝塚公園には散歩の人もいませんし、平日によく来ている保育園の子どもたちも今日はお休み。ツグミを3羽ほど見かけました。

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 シロハラも2羽。鳥の種類は少なかったものの、やはり人が少ない方が、鳥たちものびのびとしているように見えます。

Img_9145c 帰り道、寺町商店街から住吉入江の南の端へ。入江脇の歩道に咲き始めたばかりのソメイヨシノの花がたくさん落ちています。さて、これ、どうしたのでしょう? 散ったのであれば、花びらがバラバラになります。実は、これはスズメたちの仕業。スズメたちは、花の下の部分(花托の下、花柄と呼ばれるあたりと思います。花の構造については、こちら)をつついているのです。メジロやヒヨドリのように、嘴が長い鳥は蜜が吸えますが、スズメはそれができません。そのため、花をちぎりとり、噛んで直接蜜つぼを潰して蜜を食べているようなのです。

20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(その3)……「国寶元三大師道」道標、多度神社、三ツ谷一里塚跡、法泉寺を回り、嶋小餅店でみたらし団子を食べ、三滝川を渡る

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 3月24日に行ってきた、近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」Img_8263c のその3です。旧・東海道は、羽津町の先でいったん国道1号線に合流します。なが餅で有名な笹井屋の支店から150mほど行ったところで、旧・東海道はまた左に逸れていきます。

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 その分岐点に「国寶元三大師道」の道標があります。これは、垂坂山観音寺への道を示すもの。元三大師(がんざんだいし)は、平安時代の天台宗の僧・良源(りょうげん、延喜12(912)~永観3(985)年)。垂坂山観音寺は、御本尊に良源をまつり、「垂坂山のお大師さん」「元三さん」として信仰を集めており、約1,100の歴史がある天台宗のお寺。この道標から、北西へ直線距離で約3.5㎞のところにあります。この碑は、大正4(1915)年7月に三ツ谷の森太吉という方が建立しています。碑の右側には、「垂坂山観音寺是より二十三丁」と記されています。23丁は、約2.5㎞。

Img_8279c  「国寶元三大師道」の道標のすぐ先には、多度神社があります。この神社は、その名の通り、桑名・多度にある多度大社から分Img_8284c_1 祀された神社。それ故、主祭神は、天津彦根命(あまつひこねのみこと)。創立は、明治18(1885)年。明治40(1907)年、海蔵神社へ合祀されましたが、昭和25(1950)年に復興再建され、現在に至っています。ここも、この脇の国道1号線を来るまで通る度に見て、一度訪ねてみたかった神社。

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 境内には、拝殿の東に南に向いて「慰霊」碑がありました。海蔵地区遺族会が建てたもので、戦没者57柱と戦災没者3柱を祀っています。昭和40(1965)年3月の建立。筆は、当時の田中覚・三重県知事。

Img_8305c_1  多度神社の、これまたすぐ先(100m足らず)、海蔵川の土手を登る途中の左側に三ツ谷一里塚跡の石碑があります。東海道Img_8297c_1 の三ツ谷には、かつて一里塚がありました。しかし、その場所は昭和20年代に海蔵川が拡幅された際に、川の中に取り込まれてしまいました。「東海道分間之図」(元禄3(1690)年)によると、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当った辺りに記されています。このため、平成13(2001)年、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、海蔵地区地域社会づくり推進委員会がこの場所に一里塚跡の石碑を建てて、後世に伝えることにしたのです。三ツ谷一里塚は、日本橋からは99里。

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 旧道には橋がありませんので、国道1号線の海蔵橋に迂回します。海蔵川の堤防は、桜の名所です。この日、桜(ソメイヨシImg_8309c ノ)はまだ咲いていませんでしたが、すでにぼんぼりがつるされ、橋の上流側の左岸堤防には露店多数が出店していました。旧・東海道には、海蔵橋を渡り、すぐ左折します。海蔵橋を渡りきったところでスタートから4.5㎞、時刻は10時55分。

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 海蔵橋から300mほど行ったところ、四日市市京町にあるのが、法泉寺。真宗本願寺派のお寺。四日市にあるのですが、ここImg_8327c_1 は桑名の歴史を語る上では、外せないところです。明治元(1868)年、鳥羽伏見の戦いで敗れた桑名藩は恭順を決め、1月23日に先代藩主・松平定猷の嫡子・萬之助(後の松平定教)は家老を引き連れて、四日市の新政府軍陣営(真光寺)に出頭したのですが、Img_8351c_1 実際に幽閉されたのは、ここ法泉寺です。萬之助は、法泉寺に100日間謹慎蟄居して恭順の意を表しました。当時の遺品が残り、寺宝となっているそうです。この時、萬之助はまだ12歳でした。法泉寺では人々の出入りが禁じられましたので、檀家も参詣できずに困ったといいます。法泉寺でスタートからは4.8㎞。

Img_8340c  法泉寺を過ぎたあたりからは、四日市宿であったところの中心部に近づいていきます。5㎞を過ぎたところの右手(西側)にImg_8338c は、宝来軒本店という菓子屋さん。「フランス菓子 モンパー」ともありますように、ここは和菓子、洋菓子両方取り揃えている。おすすめは四日市名物、大入道せんべい350円~だそうです。店頭にも、大四日市まつりに登場する大入道のオブジェがありました。

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 宝来軒本店と目と花の先には、立ち寄りポイントに設定されている嶋小餅店。創業は、文政年間(1818~1830年)」というImg_8346c_1 古い店です。事前のリサーチで、「みたらしは、昔風の香ばしい焼団子」とありました(微笑)。私の好みのタイプのみたらし団子。立ち寄って、みたらし団子を1本。¥90。確かに、昔風で香ばしい。それにお値打ち。店先でいただいてきました。マイベストである、郷里の「天王の団子」の次にランクインと思えるくらいです。

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 嶋小餅店の先で三滝川を渡ります。橋は、三滝橋。このあたり、道幅は結構広くなっています。この三滝橋、江戸時代は、東Img_8362c 海道を往還する人馬でにぎわう土橋でしたが、明治10(1877)年に板橋(長さ42間、幅2.5~3間)に架け替えられ、さらに大正13(1924)年6月には、鉄構橋(長さ約72m、幅6.3m)になっています。橋梁の歩道には、萬古焼陶板で作られた祭の絵や古地図などがあります。

Tokaido43_yokkaichi   ちなみに、歌川広重が「東海道五十三次」で描いた四日市宿は、この三滝橋あたりとされます。絵では、旅人が笠を飛ばされて慌てている光景が描かれています。遠景に船の帆柱らしきが立っていますので、上流側から見ていて、左が桑名宿の方と考えられています。土橋(どばし、つちはし、つちばし)は、一般には丸太を隙間なく並べて橋面を作った木の橋の橋面に土をかけてならした橋だそうです(城における土橋はこれと異なり、堀を横断する通路として設けられる土の堤)。江戸時代まで、日本の川にかかる橋のほとんどは土橋でした。広重の絵は、これとは違ったものになっていますが、実際にはどうだったのでしょう?

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 実測ルートマップは、その4の範囲に来ています。三滝川を渡ったここからがいよいよ四日市宿の中心部となります。三滝川を越えたところで、スタートから5.4㎞、時刻は11時15分。この先、せっかく来たからと、コースマップには示されていない、本陣、脇本陣などの跡も探して歩きました。ここで切りがよいのと、その4の分量が多くなりそうですから、その3の記事はやや短めですが、ここまで。

2019年3月29日 (金)

20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(その2)……八幡常夜灯、八幡地蔵堂、八幡神社跡、かわらずの松、妋石(みよといし;夫婦石)、光明寺を経て国道1号線に合流

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 3月24日の近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」のその2です。その1では、スタートから1.7㎞、時刻は10時に県道64号上海老茂福線の高架橋までやって来ました。ここで茂福町から八田に入ります。旧・東海道は、国道1号線の西側を通って行きます。

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 四日市自動車検査場を過ぎ、米洗川(よないがわ)の手前、西側に常夜燈があります。八幡常夜燈です。この常夜燈、あれこれImg_8160c 調べましたが、詳しいことがよく分かりません。南面には「南大神宮」と刻まれています。

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 常夜燈から道路を挟んで東、一段下がったところに石碑がありました。東を向いており、そこには「加藤茂雄君顕彰之碑」とあります加藤茂雄氏は、北勢地区車検場を設立(昭和32(1957)年)し、北勢自動車協会を発足させた方。その功を記念して昭和45(1965)年に北勢自動車協会が設立したものです。写真の背後に少し写っている青色の屋根の建物が、現在の四日市自動車検査場。

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 八幡常夜燈と、加藤茂雄君顕彰之碑のすぐ先に米洗川。左の写真は、その上流方向で、この先にその1でも触れた伊賀留我神社(北伊賀留我神社と南伊賀留我神社があります)や、その近くには、天武天皇迹太川御遙拝所跡があります。天武天皇が壬申の乱で、奈良の吉野を離れて鈴鹿を経て三重県に入り、迹太川(とおがわ)のほとりで天照大神に戦勝祈願したと日本書紀にありますが、迹太川は、現在の米洗川であると考えられています。

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 八幡常夜燈から300mほど、八田第一集会所の隣に、八幡地蔵堂と、伊勢国八幡神社跡があります。お地蔵様は、延命地蔵尊です。このあと通った金場町にある金場地蔵尊と同じ一つの石から作られた兄弟地蔵で、もとは羽津村の南北の入口(この地蔵は北の入口)に置かれ、村内に疫病が入り込まないようにするための結界地蔵といわれるものであったといいます。昔は、米洗川北側の常夜燈(上記の常夜燈と思います)の向かい辺りにあったのが、昭和4年(1929年)に、八幡地区の住民によって現在地に移設されたそうです(こちら)。残念ながら、金場地蔵尊は見逃してしまいました。地蔵堂の前には「真誉法眼(しんよほうげん)上座」という石碑が建っています。

Img_8192c_1  八幡神社は、勧請年代は不明ですが、江戸時代には一国一社の八幡神社として皇国66拝の1つとしてその名が聞こえていたといいます。村名も神社に因んで八幡村となっています。明治41(1908)年に志氐神社に合祀されて、ここ旧社地には「伊勢国八幡神社碑」と刻まれた石柱が建ち、往時を偲ぶよすがとなっています。志氐神社は、ここから西へ約800m(四日市市大宮町)にあります。主祭神は、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;祓戸の神(ハラエドノカミ)ともいい、祓を行う場所である「祓戸(はらえど)」を守る神)。創祀年代は明かではありませんが、社記では垂仁天皇の頃といいます。

 ちなみに、「一国一社の八幡宮」は国府八幡宮に由来するものとされます。この八幡神社の碑にも「伊勢国八幡神社」とありますから、ここが国府八幡宮であったということかもしれません。伊勢国の国府は、現在の鈴鹿市広瀬町・西富田町にあったとされます(こちら)。国府比定地から離れた場所に一国一社八幡宮が鎮座することもあるようです。

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 八幡地蔵堂・八幡神社跡から400mほど、堀切川を渡る直前に、松の木が一本。「かわらずの松」です。戦前まで、このあたりは松並木でした。戦後は、経済発展にともなって、道路の拡幅が行われ、また、松食い虫の被害を受けて、東海道の松並木は姿を消してしまいました。この松は、樹齢200年以上とされ、江戸時代からここを行き交う旅人を見守っていたといわれます。ここは、今は羽津というところですが、その昔は「かわらず(川原須)」と呼ばれていましたので、その地名からこの松は「かわらずの松」と名づけられ、大切にされています。

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 かわらずの松の先、スタートから3㎞の直前に志氐(しで)神社の一の鳥居と石柱、常夜灯などがあります。志氐神社は、上記の伊勢国八幡神社を合祀した先。神社は、この一の鳥居から400mほど北西に入ったところにあります。いろいろと見るべきものもあるようですから、一度行ってみたいとは思っていますが、まだ実現していません。往復800mの寄り道はちょっと厳しいです。

Img_8216c  あとから知ったのですが、八幡神社にあった常夜燈が、ここに移設されていました(こちら)。と書いてから写真を探したら、ありました。あまりよく見ずに撮ったようです(苦笑)。「天下泰平 八幡宮御神前 国家安全」と正面に刻まれています。

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 この鳥居の前には、東海道の両側に2つの大きな石があります。これらは「妋石(みよといし)(夫婦石)」と呼ばれていまImg_8213c す。志氐神社には、伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)も祀られていて、縁結び・夫婦円満のご神徳があるとされます。古書にも「婦女の婚姻を求むる祈願を之になす」と記述があり、古来より、東海道を行き交う多くの旅人は、この夫婦一対妋石をなでて、縁結び・夫婦円満の願いを込めたといいます。石は、鳥居のところに1つ(右の写真)、道を挟んだところにもう1つ(左の写真)あります。と書きながら、見て写真を撮ってくるだけでなく、きちんと撫でて、夫婦円満を願ってきた方がよかったかも知れません。これが失態にならないよう日々努力しなくては。

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 このすぐ先(100mあまり)には、初野山摂護殿光明寺があります。真宗本願寺派のお寺。元は大矢知村青木谷にあったといいます。弘仁年間(810~824年)に空海が諸国を巡回した時に、小堂を建てたのが始まりと伝わっています。寛正元(1460)年に、下野国高田の専修寺第10世眞慧上人が諸国巡化の際、最初に近江国坂本の妙林院(浄土真宗寺院。真慧が専修寺の出張所として創建したものの、廃絶。跡地不明)から光明寺に来錫し、約1年間在住して付近を教化した時に、当時の住職が改宗して浄土真宗高田派に転じたといいます。
Img_8237c 享禄年間(1528~1531年)に、羽津城主赤堀左京大夫盛義(宗昌)が出家して光明寺に入り善願と名乗り、現在地に寺を移して初野山青木堂光明寺と称しました。天正年間(1573~1591年)に京都興正寺の勧めにより、高田派から本願寺派に転じたとされます。寛文3(1663)年2月、雷により堂宇、宝物、記録等一切を焼失し、創建の年月、開基の事蹟、中古世代住職名等すべて不明になりました。第5世俊応の妹せつが青蓮院宮に仕えた関係で、皇族所縁の品々を下賜され保管していたのですが、これらは、戦災で焼失しています。

Img_8233c 光明寺の山門前には、「八十宮(やそのみや)御遺跡」の碑が建っています。八十宮は、霊元上皇の内親王(吉子内親王(よしこないしんのう);正徳4(1714)~宝暦8(1758)年;八十宮は幼名)で、正徳5年、7代将軍徳川家継の婚約者になったのですが、家継は翌年死去。享保11(1726)年内親王となり、同17(1732)年、19歳で仏門に入りました。徳川家継は江戸幕府の第7代将軍(在任:1713~1716年)ですが、宝永6(1709)年)7月3日生まれですから、婚約当時はわずか6歳。八十宮の方は、何と1歳で婚約しています。正徳6(1716)年閏2月18日(4月10日)に納采の儀を行ったのですが、そのわずか2ヶ月後、享保元(1716)年4月30日(6月19日)に家継は亡くなります。八十宮は、1歳7ヵ月で後家となってしまったのです。政治的な思惑が働いたのでしょうが、何ともいえない話。光明寺にこの「八十宮御遺跡」の碑があるのは、その宮付に光明寺第5世俊応の妹つねが召されたとされます(こちら)。碑は、昭和3(1928)年3月に桑名吉津屋町の寺本久治が建てています(寺本についてGoogleで検索すると、昭和22年の官報に名前が出て来ますが、どのような人物かは不明。こちら)。

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 境内には、森多三郎記念碑とその墓碑があります。文久元(1861)年、桑名藩が過酷な年貢米の増徴を命じたのに対し(当時の藩主は、松平定敬)、これを阻止しようと、羽津村組頭村方三役の一つで、名主、庄屋を補佐する役目)であった森多三郎ら17名が先頭に立って藩に抵抗しました。その結果、藩は年貢の増徴を断念することになったのですが、その後、多三郎は桑名藩庁に呼ばれて安永の料理屋に行き、毒酒を飲まされ、帰途、この光明寺までたどり着いたところで絶命したと伝えられています。この碑は、当時の羽津村の肝煎、組頭、小前惣代が藩の譲歩を勝ち取った記念に立てたもので、記念碑の前には、「釋浄諦信士」と刻まれた森多三郎の墓碑が建てられています。

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 光明寺から200m足らずのところで旧・東海道は、左に曲がり、国道1号線に入ります。スタートからは3.5㎞ほど。この190324kintetsuhikingtomida3_1 先、 金場町、三ツ谷と進みますが、このあたりで金場延命地蔵と、道標を1つ見逃しています。金場地蔵は、上記のように、八幡地蔵と兄弟地蔵ですから、惜しいことをしました。ただし、このあたりでは国道1号線の西側の歩道を歩きました。金場延命地蔵は、東側の歩道沿いにありました。このお地蔵様、もとは羽津村の南入口にあった結界地蔵でした。羽津の東海道の南端、二重川(ふたえがわ)にかかる堺橋のたもとの堤(今の金場町交差点付近)です。昭和48(1973)年、市道拡幅工事にともない、現在地に移設。道標は、県道9号と国道1号の分岐点、なが餅で有名な笹井屋支店の手前にあります。ここは、新濃州道と東海道の分岐点(金場町交差点)で、「右桑名 左四日市」と彫られているそうです。大正12(1923)年の建立。

Img_8267c  道標を見落としたのに気づいたのは、笹井屋支店を過ぎ、三ツ谷交差点を渡ってから。戻る元気がありませんでした。左の写真は、その笹井屋の支店。実は、本店より立派なのです。このあたりからは、実測ルートマップその3になりますので、今回はここまで。その3は、国寶元三大師道」道標や、多度神社、三ツ谷一里塚跡から。

ジョウビタキのオス、メスに遭遇……桜はスローペース

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 3月も29日となりました。もう4月も目前(笑)。時が経つのは早いです。諸戸氏庭園の前にある「マイ・ソメイヨシノ」、かなImg_9016c り咲いてきました。ただ、去年の方が暖かい日が続いたのか、咲くスピードが速かったようです。去年の記事を確認すると、3月28日に「桜も満開、堀めぐりも始まり、花見気分も満開……ガングロのユリカモメ(笑)とツバメも」と書いていました。今年は、寒暖が定まりませんが、その分ゆっくり咲いていき、長く楽しめるのかも知れません。

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 こちらは九華公園の本丸跡、西側。九華公園内ではここがもっとも早く咲き始め、満開になるもの一番のところ。ここならばもImg_4694c う花見ができます。しかし、全体としては、右の写真のような様子。外周遊歩道の東から西の方、吉之丸堀を撮ったものです。堀めぐりの業者さんは、すっかり顔なじみ。今日もほぼ開店休業状態で、「話の種に、一度載ってみない?」とお誘いがありました(微笑)。

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 冬鳥たちは減っては来ていますが、まだまだ。ジョウビタキのオスは、鎮国守国神社の境内にて。いったんは見失ったものの、Img_4717c 向こうから「ここにいるよ」という感じで出て来て、こちらが見つけるのを待っていたように思えます。九華公園あたりでは見なくなった、メスのジョウビタキ、今日は、内堀南公園に登場。こちらも、ブランコに止まってしばらくポーズを取ってくれました(微笑)。割りと人懐っこい感じです。

Img_4749c さて、散歩はほぼいつも通り、8時半から住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀南公園、入江葭町、京町、田町と回って、6.2㎞。入江葭町、京町、田町はツバメの巣の確認。このあたりで去年は合計6ヶ所チェックしていました。帰宅は11時半頃。左の写真は、諸戸氏庭園の前のヤマザクラ。

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 ツグミはあちこちにいます。船津屋裏手の揖斐川河川敷、三の丸水門あたり、柿安コミュニティパーク、九華公園などで見ます。左の写真は、船津屋の裏手で撮ったもの。三の丸水門では、再びヒバリを見るようになりました。今日も、水門下流側で揚げ雲雀。揚げ雲雀はオスの縄張り宣言ですから、このあたりで営巣するということでしょう。よくよく探さないと分かりません。明日以降、蟠龍櫓や三の丸水門から、市民プール近くの河川敷をじっくり見てこなくては。

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 九華公園には9時前に到着。花見客はまだほとんどありません。奥平屋敷跡でシメ。本丸跡のシメは見たり、見なかったりですImg_4639c が、ここはほぼ毎日います。シロハラもいましたが、ピンぼけ写真ばかり。他にはカワラヒワくらい。今の時期、カワラヒワはほとんどペアで行動しています。右の写真のカワラヒワの近くにももう1羽がいました。

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 朝日丸跡では、コゲラ。昨日は、鎮国守国神社の境内で見ました。同一個体かも知れません。コゲラといえば、4年前、二の丸跡の木に巣を作って、子育てをしていました(ただし、巣立ちの直前にカラスか何かに襲われてしまいました)。その翌年だったか、神戸櫓跡でも巣を作りかけたことがありました。また、営巣や、子育てを見たいと思うのですが、その後は確認できていません。

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 カモは、28羽いたものの、すべてキンクロハジロ。8時過ぎに九華公園を歩いていた知人は、ハシビロガモもいたといっていImg_4702c たのですが、私が行ったときには、キンクロさんばかり。二の丸堀の東側エリアでゆっくりしています。これらの他は、ヒヨドリ、ムクドリ、スズメくらい。外周遊歩道の南でシロハラ。

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 貝塚公園も今日は静か。シロハラもいたものの、ピンぼけでした。モズがいて、何かを食べているようでしたが、そこはうまImg_4734c く撮れず仕舞い。この写真もピントが甘い(苦笑)。近くに寄ろうとすると、木の中に逃げてしまいます。このあと、内堀南公園でジョウビタキのメスを見て、入江葭町から、京町、田町とツバメの巣をチェック。ツバメは飛んでいるものの、6ヶ所の巣にはいませんでした(右は、京町のある呉服店の巣)。

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 京町公園でしばらく休憩がてら、ツバメが来ないか待っていたのですが、代わりにカワラヒワが2羽。給餌をしていたのですImg_8991c が、どういう間柄なのでしょう? 向かって左のカワラヒワが、右のカワラヒワに餌を渡していたのです。まだヒナがこんなに大きいとは思えません。オスからメスへのプレゼントなのでしょうか? 

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 ところで、住吉入江にいた、あのヒドリガモのオス、しばらく姿が見えませんでしたが、今日の散歩帰りに発見。入り江に注ぐ溝の出口に上がって休んでいました。元気でいてくれて安心するやら、やっぱり帰るのは無理なのかと心配になるやら。

20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(その1)……富田駅をスタートし、明治天皇御駐輦跡碑、十四川、善教寺、薬師寺、常照寺から新設用水道碑・力石、證圓寺、服部泰次郎の道標へ

 3月24日の近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」、予告編だけ書いて、気を抜いてたら、いつの間にか日にちが経っていました(苦笑)。若くて、現役の頃では考えられなかったことです。このブログのモットーの一つである「淡々と飽きもせず」で行かないといけません。

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 この日はよく晴れたものの、風は数m/sと強く、寒い感じでした。3月10日に旅1日目があった「昔も今もお伊勢参り~旅1日目~東海道、旅人気分で七里の渡しから富田へ」は雨天決行でしたが(2019年3月10日 :20190310近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅1日目~東海道、旅人気分で七里の渡しから富田へ」……雨天決行にて「完」)、この日は打って変わって好天。ハイキングは、やはり天気のよいときに限ります(笑)。

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 今日のスタートは、近鉄名古屋線・富田駅(東口)。受付は、9時半から11時ということで、桑名駅を9時1分発の五十鈴川行き急行に乗Img_8050c 車。富田には、9時8分着、¥260。着いた時にはすでに数10名の方が待っていました。このとき、まだ受付が設定されて織らず、どこが列の最後尾か分からず、若干戸惑いました。しかし、混乱はなく、9時15分頃受付が設けられたときには、皆さん係の方の指示によって並び直し。

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 受付は、予定よりわずかに早く始まり、9時25分頃から。今日のコースマップは、左の写真の通り。マップ上は、約7㎞となっ190324kintetsuhikingtomida_1 ています。富田駅東口から南東へ240mほどで行ったところを右折して、旧・東海道に入ります。四日市市内、ごく一部で旧・東海道が消滅してはいるものの、ほとんど昔の旅人と同じ道を歩いて、今日は、スワマエ商店街まで(旧・東海道がアーケードの商店街になっているのです。商店街を抜けたところで東海道から離れて、今日は、近鉄四日市駅まで。右の画像が実測ルートマップ。旧・東海道は、現在の国道1号線と即かず離れず、一部では重なっています。富田からほぼ南東へ一直線。四日市市役所や近鉄四日市駅が面している中央通りのところまでが東海道。この先は、直進するのですが、この日、東海道はここまで。実際に歩いたのは、キョリ測では、7.9㎞。

259463ca  富田は、江戸時代は、桑名藩領の富田六郷(東富田村・西富田村・富田一色村・天ヶ須賀村・松原村・蒔田村)でした。桑名Ce077da0 宿と四日市宿の中間に位置している「間の宿(あいのしゅく)」あるいは「立場(たてば)」と呼ばれて、旅籠や茶店が軒を並べて、名物は焼き蛤でした。間の宿は、宿場と宿場との中間に設けられた、休憩のための宿で、本来、宿泊は禁じられていました。立場は、江戸時代、宿場と宿場の間の街道などで、人足・駕籠かきなどの休息した所です。四日市市立博物館の「時空街道」には、焼蛤屋が再現されています(左右の写真)。「その手は桑名の焼き蛤」ということばは有名ですが、焼き蛤が名物なのはここ富田と小向(おぶけ、朝日町)という話もあります。

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 近鉄富田駅を9時半にスタート。南東に250mほど行くと、旧・東海道に出ます。ここを右折。すぐに富田地区市民センターがImg_8061c あります。そこに道標。「左 富田一色 東洋紡績 川越村 道」とあります。大正6(1917)年10月に建立されたもの。富田一色(現四日市市富田一色町)や川越村(現三重郡川越町)のほかに東洋紡績という当時全国一の生産量を誇る紡績会社の名が刻まれています。三重紡績(明治19(1886)年6月創設)と大阪紡績(明治15年(1882)5月創設)とが、大正3(1914)年に対等合併して東洋紡績株式会社になっています(現在の東洋紡)。東洋紡績富田工場は、東洋紡績の最大規模の工場でしたが、現在は、イオンモール四日市北店や、住宅地、公共施設(三重県警察の四日市北警察署・四日市松原郵便局などになっています。スタートから光明山常照寺あたりまでは、2017年12月22日の近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」でも訪れています(2017年12月22日:近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」へ(その1)、2017年12月23日:近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」(12/22)へ(その2))。

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 富田地区市民センターの隣にある市立富田小学校の敷地内には「明治天皇御駐輦(ちゅうれん)跡碑」。「駐輦」とは、天皇が行幸の途中で車を止め、お休みになること。つまり、このあたりで明治天皇がお休みになったImg_8075c ことを示すのがこの碑。明治天皇は、4度この地で休まれたといいます。富田茶屋町・広瀬五郎兵衛という方のところです。広瀬五郎兵衛宅は、この富田小学校正門から富田地区市民センターあたりにあったそうです。焼き蛤をご賞味になったこともあったと説明板に書かれていました。なお、記念碑は、公爵・近衛文麿の筆です。

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 このあたりの旧・東海道の様子。進行方向の南東を向いて撮った写真です。かなり細い道ですが、生活道路となっていますのImg_8080c で、クルマはけっこうたくさん通ります。スタートから600mあまりで桜の名所十四川になります。ここは、1.2㎞にわたって川の両岸にソメイヨシノ800本が植わっています(ただし、植えられたのは大正時代)。この日はまだ桜は咲いてはいませんでした。

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 十四川の手前、向かって左に善教寺。真宗高田派のお寺。ご本尊は、阿弥陀如来。このご本尊は、国の重要文化財に指定されImg_8086c ています。作善日記から仁治2(1241)年正月頃造られたと考えられています。本堂は大変立派です。高田派の本山である専修寺の如来堂によく似ています。その昔、このあたりまで海岸線が来ていたことから「海戸尻(かいとじり)」と呼ばれていたといいます。ここに「海戸尻道場」があり、これが善教寺の前身であったそうです。

Img_8087c ご本尊(木造阿弥陀如来立像)と、その像内納入文書は、右の写真にある蔵に保管されています。もちろん勝手に寄り道しまImg_8093c_1 したので、拝観はできません。十四川を越えたところには、常夜燈。。「氏子中」とはありますが、神社のものではなく、街道の常夜灯という説明があります。桑名の七里の渡しから伊勢まで、伊勢神宮へ導く光であったと書かれていました。天保10(1839)年の建立。常夜灯は近くにもう1基あったといいますが、それは鳥出神社(四日市市富田2丁目)に移されたそうです。

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 十四川からほぼ300mのところには、薬師寺。浄土宗のお寺で、ご本尊は、阿弥陀如来。大同年間(806~Img_8100c 810)、この地に疫病が流行し、人々が苦しんでいたことを旅の途中で知った弘法大師が、薬師如来を彫って開眼すると、人々の難病はたちまち平癒したので、人々は弘法大師に感謝するとともに、薬師堂を建て薬師如来を祀ったことに始まるといいます。その後、茂福城主であった朝倉下総守盈盛(みつもり)が菩提寺としたそうです。しかし、永禄10(1567)年、瀧川一益の兵火で焼失しています。ちなみに、ここは尼寺。

Img_8097c  薬師寺の門前には、忠魂碑や慰霊塔が4基建っています。中央右にある忠魂碑は、帝国在郷軍人会富田町分会によって大正Img_8103c 4(1915)年11月に建立されています(こちらのブログ)。中央左の慰霊塔の方は、大東亜戦争殉国士慰霊塔で、富田地区遺族会が建てたものといいます(こちらのリストにあります)。4基ともの説明は、「いのりむし文庫」さんのブログ記事にありました。こちらをご参照ください。

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 続いて、光明山常照寺です。浄土真宗本願寺派のお寺。ここは、四日市市茂福町になります。天文7(1538)年、釈法導によImg_8109c って開山され、寛文年間(1661~1673)にそれまでの天台宗から浄土真宗本願寺派に転派しています。詳細は、調べたものの分かりませんでしたが、本堂は明治42(1909)年に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられたといいます。平成7(1995)年11月本堂・鐘楼の屋根の修復が行われたようです。

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  鐘楼の鐘は、昭和27(1952)年の四日市大博覧会で「平和の鐘」として展示されたものです。ちなみに、「四日市大博覧会」は、2回開かれており、昭和27(1952)年のものは、「講和記念全日本農機具新日本産業大博覧会」です。この博覧会については、三重県のサイト「歴史の情報蔵」のこちらのページに言及があります。ちなみに、もう一つの「四日市大博覧会」は、「国産振興四日市大博覧会」で、昭和11(1936)年3月25日から同年5月13日までの50日間開かれました。

Img_8118c この鐘の池の間(いけのま:梵鐘の部分の名。鐘身の中央部で、乳の間(ちのま)と中帯(なかおび)の間にあり、銘などが刻まれています)には、常口(じょうこう)の歌「一筋に世界の平和祈りつつつくやこの鐘永久に(とわに)ひびけと」が刻まれています(「常口は、調べたものの不明)。東海道は、常照寺のところで鉤型に曲がりますが、そこに新設用水道の碑と力石が2つあります。

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 こちらが「新設用水道碑」と力石。ここでスタートから1.1㎞。「新設用水道碑」は、新設・用水道・碑。つまり、新設されたImg_8129c 用水道を記念する碑。ここから北西に十四川から七丁(760m)の暗渠による水路を通し、各家の敷地内にマンボ(人工の地下水路、一般名はカナート。東海地方での呼称のようです。三重県北勢地方でもよくあります。「間風」、「間歩」、「万堀」などと表現)を設置して生活用水や防火用水として、明治37(1904)年から昭和中期まで利用したといいます。昭和34(1959)年の伊勢湾台風の水害で使えなくなり、この用水道は消滅しました。

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 力石(ちからいし)2つ。約32貫(約120㎏)と、約5貫(約19㎏)の2つ。明治の半ば、このあたりの2つの寺のお堂を再建Img_8131c する際に土台石として奉納されたもの。お堂の地築(地固め)に近郷在住の人々が奉仕に集まったのですが、土台石からこれを選んで、休憩時間に力比べに使ったといいます。大正の終わりごろまでこの石で力比べをして競ったといいます。肩越しまで担ぎ上げた人は幾人もなかったそうです。小さい方は、子ども用かと説明されています。

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 新設用水道碑と力石の裏手(山門は、旧・東海道を曲がったところ)にあるのが、林光山證圓寺(りんこうざんしょうえんImg_8139c じ)。当初は天台宗でしたが、天文年間(1532~55年)、住職が真宗本願寺の第10世證如上人に帰依して改宗したと伝わっています。その後、永禄10(1567)年、茂福掃部輔盈豊(もちぶくかもんのすけみつとよ)は裏切りを疑われ、滝川一益に長島城に呼ばれて謀殺されました。茂福城が落城すると、臣・林玄證(はやしげんしょう)は盈豊の遺児を敵から隠し、鍋坂の村中に逃れて密かに養育し、成人の後、自身の娘と娶せて家督を譲っています。遺児すなわち林三郎左衛門盈景(みつかげ)とその末裔はこの證圓寺の住職になります。この地方の城跡、寺社を訪ねると、織田信長や、滝川一益に滅ぼされた、その兵火で焼かれたという歴史がよく出て来ます。

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 證圓寺を出たところに小さな道標があります。東海道に面した側には「左 四日市 服部泰……」、向かって右には「右 いかるが」とあります。これは、服部泰次郎による道標。「いかるが」は「伊賀留我」で、ここから北西に1.5㎞あまり行ったあたり。以前、近鉄ハイキングで伊賀留我神社を訪れたことがありますし(北伊賀留我神社と南伊賀留我神社があります)、その近くには、天武天皇迹太川御遙拝所跡もあります。服部泰次郎は、安改元(1854)年に小杉村で生まれ、10代半ばから小間物や雑貨を天秤棒で担いで行商に歩きました。29歳の頃には米穀商となり、近郊で買い集めた米を四日市港から横浜に船で送り伊勢米の販路を拡大しています。日清・日露戦争の際には軍用米の取扱業者となるなど、県下屈指の米穀商となりました。大正8(1919)年3月、行商をしていた頃に道がわからなくて苦労した経験から、予ねて念願の道標建立を三重郡役所に申し出て、北勢地方に多数の道標を建てています。服部の道標は、集落の辻に立てられ、その行き先の多くは隣の集落への道筋を示し、ほとんどが地名を刻んでいます。集落に住む人々が日常通っている間道を、遠来の人に教えることを目的としたものといわれています。明治、大正の頃に成功した人たちは、服部泰次郎のように、皆を助けるという貢献をしています。桑名の諸戸清六も、諸戸水道をつくって町民にも開放しています。共助というのでしょうか、いつの間にか忘れられているような気がします。

Img_8151c_2  證圓寺から200m弱のところに茂福神社の石柱があります。神社はここから北西にさらに200mほど入ったところにあります。茂福神社も、以前、近鉄ハイキングで訪れています。創祀は永禄10(1567)年以前とされます。明治28(1895)年4月茂福神社と改称されるまでは天王社と称されていました。明治42(1909)年、鳥出神社に合祀されたものの、昭和25(1950)年、分祀され現在に至っています。主祭神は、建速須佐之男命。茂福城主であった茂福掃部輔盈豊も祭祀に関わっていたそうです。

Img_8155c  茂福神社の石柱の少し先で、県道64号上海老茂福線の高架橋をくぐります。ここで1.7㎞。この道路は、以前は、富田山城有料道路(とみだやまじょうゆうりょうどうろ)といい、東名阪自動車道の四日市東ICと国道1号線を結んでいましたが、平成8(1996)年に無料化されています。ここまでが、実測ルートマップその1の範囲。切りがよいので、今回はここまで。その2は、八幡常夜燈から。

2019年3月28日 (木)

今日は「おしゃべり散歩(笑)」……午後からはサギソウの植え替え

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 気温は18℃近くになったものの、曇りがちで、4~5m/sの風もあって小寒い感じでした。天候というか、気候というか、日替わImg_8880c りの感じで落ち着きません。諸戸氏庭園の前にある「マイ・ソメイヨシノ」は、昨日の暖かさのお陰か、かなり咲いてきました(右の写真)。かなりの老木ですが、毎年見事な花を見せてくれます。今日は、8時20分からいつものように散歩に出たものの、九華公園を半周したところで、戻って来ました(笑)。体調が悪いとかそういうことではなく、知人多数に出会って、しゃべってばかりだったというのが、真相(微笑)。長年散歩をしていますから、あちこちで知人、顔見知りに出会います(知人は名前を存じ上げている方、顔見知りは名前は知らないものの挨拶を交わしたり、多少話をしたりする方です)。今日も前管理人Oさん、管理人のUさん、鳥をご覧になるのがお好きな女性、歴史案内人のKさん、最近知人になったMさん他多数(「他」が10人以上!)と出会ったのです(苦笑)。堀めぐりの船頭さんからもあれこれ話しかけられます。Mさんとは先日も喫茶店であれこれしゃべってきたのですが、今日もまた1時間ほどお付き合い願いました。帰りがけに済ませようと思っていた用事もありましたので、慌てて戻って来たというありがたい日でした。こういういろいろな人に出会って、今まで知らなかったことを聞いたり、愉しい話ができた日を個人的には、「吉日」としています。ちなみに、帰りに用事をしてきましたので、歩いたのは5㎞、帰宅は12時前。

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 知人に会うといういみでは吉日でしたが、鳥に関してはさほどでもありませんでした。揖斐川の川口水門(七里の渡し跡のところ)には、ヒドリガモ10羽以上と、コガモ4羽ほどがいましたが、揖斐川には他には鳥影なし(河口堰にはまだかもがいるのが遠くに見えました)。船津屋さんの裏や、三の丸水門あたりの堤防河川敷には、ツグミやムクドリ、スズメの姿があります。三の丸公園にはツグミはおらず、ムクドリ、スズメ、ハクセキレイ。ヒバリはこの頃いなくなってしまいました。河川敷では繁殖できないのでしょうか。

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 九華公園出もあまり鳥はいません。カワウとヒヨドリが少し、シメは鳴き声のみ。他に多かったのはカワラヒワ。写真に撮れたImg_4586c のは、ツグミとシロハラのみ(笑)。笑うしかありません。しゃべりすぎて見逃したということもなさそうです。昨日見かけたジョウビタキやモズは、今日はいませんでした。

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 カモはいよいよ減って、今日はとうとう16羽。二の丸堀の東側エリアにパラパラといるだけ.ハシビロガモのオスが1羽、メス2羽とキンクロハジロたち。このところ、堀めぐりは開店休業状態ですから、その影響ではないと思えます。これだけ鳥がいないと、張り合いなし。

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 桜は、昨日の朝刊の桜便りから「咲き始め」となりましたが、少しずつ増えてきています.ヤマザクラの花も開花しています。週末には、3~5分咲きに達するかどうかという印象。ただ、寒の戻りがあるということですから、今週末は花見には適さないかも知れません。週末は、近鉄ハイキングも、JRさわやかウォーキングもありません。年度替わりでお休みということなのでしょう。

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 ところで、そろそろやらなくてはと思っていた、サギソウの植え替え、ようやく今日実行に移しました。去年、ホームセンターで1鉢購入したものです(2018年7月12日に購入、9月になって咲きました)(2018年9月4日:台風21号で8時間も停電し、メダカ4匹が行方不明……しかし、サギソウも咲いてきました)。最終的には4輪咲きました(2018年9月12日:終日降ったり止んだり……裏稼業のサイトを一新しようと思ったものの、今日はうまく行かず)。冬の間も、乾いてしまわないようにしてきたものの、さほど球根が増えているとは期待していませんでした。しかし、開けてビックリ玉手箱ではありませんが、ご覧のような状態。過去にチャレンジしたときよりも球根も大きく、数も予想以上に増えていました。

Dscn0878c 2鉢でと思っていたのに、嬉しい誤算。もともと植わっていた鉢も再利用して、計3鉢。うち一つは、家内の母親が「私にも頂Dscn0874c 戴」と行っていましたので、進呈予定。盆栽、こけ玉、サギソウ(以前、ブロ友のこころんさんからいただいてチャレンジしたことがあります)とあれこれやって来ましたが、なかなかうまく行っていません。不向きなのかという気もしましたが、めげずにチャレンジを続けることにします。

 仕事の方は、年度替わりになってきましたので、ボチボチと進めております。今日は、3月に出かけた支援員養成講座のQ&Aを書き終えました.来月の事例検討会の資料や、非常勤の準備も少しずつであります。

2019年3月27日 (水)

榊原温泉・神湯館の糸桜とツバメ……午前中はいつも通りの散歩(追記しました)

Img_8805c 午前中はいつものように九華公園他を散歩、午後からは久しぶりに家内の実家へ行ってきました。サギソウの植え替えをしなければならないのですが、鉢などを預けてありましたので、それを取りに行きがてら、榊原温泉・神湯館の「糸桜(イトザクラ)」を見てきました。これはしだれ桜の一種で、江戸時代から榊原温泉のシンボルであったそうです。400年程前、湯治場の一角に植えられた糸桜の2代目といいます。現在は、神湯館にあります。ソメイヨシノよりも早く、3月20日前後から咲き始めます。去年も見に行っています(2018年3月27日:神湯館の糸桜を見に家内の実家へ……猛禽類について付記しました(3/28))。

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 去年は夕方にしか行けず、うまく撮れませんでした。今日は、15時過ぎ。車で通りがけに写真を撮っていく方もありましたし、Img_8823c 大阪方面からこの桜を楽しみに、泊まりに来たというご夫婦もいらっしゃいました。夜はライトアップされるそうです(神湯館のホームページにライトアップの画像があります)。

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ついでにいつものように、町内を半周くらい散歩。とあるお宅の納屋には、ツバメの巣が5つもあるのを発見!ちょっと覗かせてもらったら、ツバメは4羽。うち2羽はつがいのようで、同じ巣に止まっていました。向かって左がオス、右がメス。家内の母親は、「うちにも来て欲しい」といっています。

 以下、3月28日に追記しました。

Img_4546c   午前中はいつも通りの散歩。8時20分から11時前まで。住吉神社、九華公園、貝塚公園から寺町と、5.1㎞。この日は暖かくImg_8769c て、桜の開花が進むという感じでした。ただ、鳥はあまりおりません。この頃はこういうことばかり。端境期ということばがありますが、バードウォッチングにもそれがあるかも知れません。

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 九華公園でウロウロしているうちに、神戸櫓跡と辰巳櫓跡との間にモズが一瞬登場。ちょっとイマイチの写真。そして、ずっImg_4538c と鳴き声だけが聞こえていたのですが、それを頼りに探したら、鎮国守国神社の境内、柿安さんに通じる「裏口」あたりの高い木の上で木をつついていました。木をつつく音は、本丸辺り一面に響き渡るくらい。

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 午後は上述のように、家内の実家方面へ出かけたのですが、散歩中、何やら聞き覚えのある鳴き声がしたと思ったら、案の定、イソヒヨドリのオス。海辺からは10㎞以上入り込んだところですが、時々、イソヒヨドリのオスを見かけるのです。川沿いにやって来たのかという気がしますが、詳細は不明。ちなみに、実家あたりでは、1.8㎞ほどを散歩。夜は、温泉のお湯で風呂に入って帰宅。

2019年3月26日 (火)

ツバメが増え、鳥たちも主役交代か……マイ・ソメイヨシノも咲き始め(微笑)

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 諸戸氏庭園の前にある「マイ・ソメイヨシノ」です。左の写真は、朝8時20分過ぎに撮ったもの。「今日は暖かくなるといってImg_4490c いたから、今日中に咲くかな」と思って、散歩の帰り、11時半頃に確認したら、咲いてきていました。3時間でこんなに違うものなのだと改めて感心。この3輪以外はまだでしたので、開花宣言はできませんが、しばらくの楽しみになります。

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 ツバメを今シーズン初めて見たのは、3月23日でした(九華公園でソメイヨシノが咲き始め、ツバメも見参)。次第にあちこちImg_8716c で見るようになり、今日も、三の丸町内や、京町あたりで見ています。こちらは、京町で見たつがい。左の尾がピンと長いのがオス、右はメス。比べていただくと違いがお分かりいただけると思います。

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 後ろからの写真ではありますが、これはちょうど並んだところ。京町あたりには、何軒か巣のあるお宅があり、毎年ツバメがやって来ます。そのどこかに来たのかと思います。上記の三の丸町内では、とあるお宅の軒先にツバメが出入りしていました。ここは今までチェックしていなかったところです。散歩圏内にもまだまだ知らないツバメの巣があるかも知れません。

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 さて、今日は、19度くらいになるという予報の通り、最高気温は18.8度(12時半)。ただし、午後からは数m/sの強風。8時Img_8701c 20分から散歩。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、NTNシティホール、寺町と6.8㎞。ちょっとしたハイキング並です(笑)。市内の小中学校は今日から春休み。次第に晴れてきて、暖かくなりましたので、公園には学童保育所に通う子どもたちや、保育園の子どもたちがやって来ています。

Img_8659c   住吉入江にいた、翼を痛めたヒドリガモのオスは、ここ数日、姿を見ません。帰ることができたのでしょうか。キンクロハジロのメスは、散歩帰りに見かけました。揖斐川には、オオバンの数羽の群れ、ヒドリガモの小さな群れ、堤防に上がって休むコガモたち、1羽のカンムリカイツブリなどが見えます。時折ユリカモメも飛んできますが、水折りは少なくなりました。三の丸水門あたりでツグミ。他にはムクドリはいますが、ヒバリは今日は見当たりません。

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 九華公園は今日も鳥は少なし、でした。奥平屋敷跡でシメ1羽、シロハラ1羽、カワラヒワ数羽の他は、スズメ、ムクドリ。そういえば、ヒヨドImg_4343c リも最近は少ない気がします。花見客はまだまだですが、今日は露店の方が開店準備をしておられました。昨日までは、店舗を設置しただけのようで、今日は、ガスコンロを用意したりなど、営業に向けての準備。

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 カモは、昨日とまったく同じく23羽。メンバーもほぼ同じく、ハシビロガモのオスが4羽、メスが3羽で、他がキンクロハジImg_4356c ロ。今日は、私がいる間は、堀めぐりは開店休業状態でしたが、何を思ったか、カモたちは突然飛び立ってどこかに行ってしまいました。まだ、まさか帰ってしまったということはないと思いますが……。とくにキンクロハジロは、例年、ゴールデンウィーク前まではいますから。

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 本丸跡では、スズメ、カワラヒワ、小数のヒヨドリの他は、シメのみ。2羽を確認。左はいつものように、本丸跡の中央に来たImg_4386c シメ。このあと、人が通って、神戸櫓跡に避難。そのとき、2羽が見えたのです。先日、pnさんのコメントをいただいて、調べたら、シメのオスはどちらかというと色が濃く、メスは薄いとありました。この2羽は、オス・メスのように見えました。単独で見ると、判別は難しい感じですが、2羽同時に見て、比べられると、オス・メスだろうと思えます。シメももういなくなりますから、また来シーズンに向けての課題です。

Img_4376c  九華公園の桜、昨日とあまり変わりはありません。今朝の新聞の「桜だより」ではまだ「つぼみ」となっています(苦笑)。Img_8694c 情報が遅いというか、たぶん直接見ずに、電話で確認しているのでしょう(観光協会でもそうですから……バラすと叱られるかも知れません)。まぁ、気象台のように、「標準木」が決めてあるわけではありませんし、このブログでは私が勝手に、個人的に「開花宣言」をしているだけですから。公園全体としては、せいぜい「咲き始め」といえるかどうかというところです。散歩友達との話では、「週末でもまだ5分咲きになれば上等」といっています。

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 NTNシティホールへ薄墨桜を見に行こうと、三の丸と内堀の間あたりを歩いているとき、北の空に猛禽類らしき鳥影。かなり遠かったので、この写真はデジイチの250mmズームで撮って、かなりトリミング。これは、ノスリのように思われます。町屋川あたりでも見ます。

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 NTNシティホールの薄墨桜。弱ってしまい、花も少なく、勢いがありません。ずっと以前はもっと見事でした。右に、20062b766b1d 年3月26日の薄墨桜の写真を載せておきます。数年前(10年にはならないと思いますが、記憶は当てになりません)、キノコがかなり寄生して、かなり弱ったという看板がありました。また、この間、剪定もされたのですが、その切り方がよくなかったという話を植木屋さんに伺ったこともあります。九華公園もそうですが、樹木の管理(手入れ、植え替えなどなど)をきちんとして欲しいと思います。九華公園は桜の名所と謳われていますが、古い、弱った木が多い割りに、新しく植える本数も少なく、そのうち、「桜の名所」は返上になるような気がします。「予算がない」という話がよく聞こえて来ますが、工夫するなり、市民に協力を求めるなり、やり方はあると思ういますがねぇ……。

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 薄墨桜の回りを回って探してみたものの、なかなか絵になりません。シティホールの建物を背景にした、この写真のあたりくらい。

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 今日もまた、寺町商店街で「桜メジロ」。一所懸命撮っていたら、散歩中の女性に「あんた、2週間くらい早く来ないかんよ」Img_4473c とお叱りを受けました(微笑)。河津桜を撮っていると思われたようです。「えぇ、分かっています。ほぼ毎日、ここを通っていますから。今日は、鳥を撮っているんですよ」と返事をしたら、たいそう恐縮され、ちょっと申し訳ないことをしたかも知れません。「あぁ、ホントだ。鳥がいるんだ。何という鳥? ウグイスじゃないよね?」ということでした。ヒヨドリもあまり来ませんので、今の方がメジロたちは落ち着いて蜜が吸えているようです。

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 最後に、オマケというか、イメージを変えてしまうような写真(笑)。メジロです。寺町の河津桜の並木の近くにあるお宅の庭を覗いてみたら見えました。水滴が付いていました。手水鉢がありますので、そこで水浴びをした直後のようでした。これもメジロかとガッカリなさったとしたら、申し訳ありません。

 

2019年3月25日 (月)

九華公園のソメイヨシノ、勝手に開花を宣言します……しだれ桜、今年は今ひとつ

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 午前中は晴れていて、それなりに暖かく感じましたが、午後からは薄曇り。風はあまりないのですが、ちょっと寒い。8時半から散歩。いつも通り(微笑)。住吉神社、九華公園、貝塚公園、歴史を語る公園、京町、寺町と5.0㎞。九華公園でCBCテレビのロケに遭遇。いとうあさこさんともうお一人、女性タレントさんが堀めぐりをしていました。カメラ・ウーマンの方に伺ったら、4月1日に放送ということでした。新番組「チャント!」なのでしょうか(そこまでは確認しませんでしたので、間違っているかも)? かなり以前、意図せずしてメ~テレの番組にチラッと出てしまったことがありましたので、撮影されるという失態はおかさないよう気をつけたつもりです(笑)。冒頭の写真は、柿安コミュニティパーク。東南の隅っこから北を撮っています。右端の奥に蟠龍櫓がみえています。

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 九華公園のソメイヨシノ、全体としてはまだまだですが、本丸跡のブランコの西側は、こんな風でしたので、勝手に&個人的に開花宣言をしておきます。ただし、今朝の中日新聞の「桜だより」では「つぼみ」になっていましたから、これがたぶん観光協会の公式見解です。ここが早く咲くのは、日当たりがよいことと、堀から離れているからだろうと思っています。

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 九華公園にはしだれ桜もあります。野球場の南、吉之丸堀に面しています。このしだれ桜はソメイヨシノより早く咲き始めますが、今年Img_8599cは今ひとつ。つぼみが少ないのです。昨年秋、台風のあとで「狂い咲き」していた影響かも知れません。咲いているところだけクローズアップすれば、それなりの絵に見えますが……(右の写真)。

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 桜がまだほとんど咲いていませんが、露店は例年同様、すでにスタンバイ。しかし、今日は月曜で花見客はほぼゼロ。開店休Img_8579c業状態。堀めぐりのスタッフの方は、奥平屋敷跡で夜桜舟巡りにあわせて「灯りイベント」も行っておられます(右の写真はその一部)。夕方6時になるとタイマーで灯りがつくそうです。今年は、過去2年、この時期に行われてきた「灯街道・桑名宿」が5月1~3日になりましたので、夜桜舟巡りや、ここの灯りイベントは盛り上がるでしょうか。

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 さて、野鳥写真。住吉神社の前で出会った知人と話をしていたら、長良川の方にカワウらしき大群。もちろん数えられませんImg_4133cが、数100羽。下流から上流に向かって少しずつ移動。手前の揖斐川には、あちこちにヒドリガモの小さい群れがいくつか。毎年、今時分、ヒドリガモが揖斐川や、堤防河川敷に集まります。これは北帰行前の行動パターンかと思っています。河口堰の方にはまだキンクロハジロがかなりいるのも遠くに見えます。

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 ツグミは、七里の渡し跡の堤防や、揖斐川の河川敷、柿安コミュニティパーク、九華公園、貝塚公園などに1~2羽ずついまImg_4139cす。いつものパターンであれば、まだしばらくはいると思います。九華公園の堀、9時過ぎくらいには、カモは23羽。キンクロハジロが17羽と、ハシビロガモが3ペア。東から、東南の堀に集まっていました。しかし、テレビ取材用の堀めぐりの船が一周したら、ほとんど皆、避難。キンクロハジロのオス1羽と、オオバン1羽のみ。残留の偵察隊かも。

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 その他には、シロハラ1羽、カワラヒワ、シジュウカラ、スズメ、ヒヨドリなども見たものの、概して静か。花見シーズンは、冬鳥が去る時期Img_4156cですし、人でも多く、ライトアップされたり、堀めぐりがあったりで鳥たちには、居心地はよくなくなると思います。シメは本丸跡に1羽。普段はほとんど載せなくなりましたが、キジバトは朝日丸跡で1羽。

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 ジョウビタキのオスは、しだれ桜を見ている時に登場したものの、朝日丸跡の方へ飛び去りました。しかし、その後外周遊歩道の南エリアで再登場(たぶん同じ個体)。可愛らしいポーズを見せてくれました。三の丸公園では見かけなくなりましたし、メスのジョウビタキもいなくなった感じ。桜は咲いてほしいものの、花見で混雑して、落ち着いてバードウォッチングができないのも何だかなぁと思います。去年は、花見の後、エナガのヒナなどを見られましたので、今年も期待したいところ。

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 貝塚公園でも、鳥はあまりいません。ヒヨドリ、ツグミ、カワラヒワの他には、シロハラが1羽。公園の西側のエリア。林になっているところの下あたり。よくこのあたりにいます。

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 チョウチョは、かなり前にチラチラ見たのですが、その後、寒くなってほとんど見かけなくなっていました。今日は、貝塚公園Img_4230cでモンシロチョウ2羽と、キチョウ1羽。明日は20度くらいになるという予報ですから、ソメイヨシノの開花も進み、チョウチョなどもたくさん出てくるかと思います。

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 寺町商店街の河津桜、さすがに「葉桜化」がかなり進行。そろそろソメイヨシノに選手交代の時期。しかし、メジロたちはまだまだImg_4296c蜜を吸いに来ています。ヒヨドリはあまり来なくなりましたので、落ち着いて蜜が吸えるのかも知れません。今日も、メジロがいるすぐしたに入って写真を撮っていても、大丈夫でした。

Img_8617c オマケは、鎮国守国神社の稲荷社の参道で撮った写真。桜まつりに合わせて提灯が飾られ、面白い景色に見えたのです。などと遊んでいる内に、3月も最終週。これはいけません(苦笑)。非常勤の準備その他が、後回しになっています。浮かれていないで、地道にやらなくてはなりません。カツを入れないと!

20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(予告編)

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 昨日よりよく晴れましたが、風は数m/sと強く、寒い感じです。予定通り今日もまた近鉄ハイキングへ行ってきました。「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」であります。3月10日に旅1日目があった「昔も今もお伊勢参り~旅1日目~東海道、旅人気分で七里の渡しから富田へ」の2日目です(2019年3月10日 :20190310近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅1日目~東海道、旅人気分で七里の渡しから富田へ」……雨天決行にて「完」)。
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 今日のスタートは、近鉄名古屋線・富田駅。受付は、9時半から11時ということで、桑名駅を9時1分発の五十鈴川行き急行に乗Img_8053c車。9時8分着、¥260。着いた時にはすでに数10名の方が待っていました。受付は、予定よりわずかに早く始まり、9時25分頃から。今日のコースマップは、右の写真の通り。マップ上は、約7㎞となっています。富田駅東口から南東へ240mほどで行ったところを右折して、旧・東海道に入ります。四日市市内、ごく一部で旧・東海道が消滅してはいるものの、ほとんど昔の旅人と同じ道を歩いて、今日は、スワマエ商店街まで(旧・東海道がアーケードの商店街になっているのです。商店街を抜けて、近鉄四日市駅まで。
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 こちらが、実測ルートマップ。この区間の東海道は、これまでの近鉄ハイキングなどで一部は歩いたことがありますが、通しで歩くのは初めて。せっかくだからと思い、コースマップにあがっている立ち寄りポイント以外にも、あちこち見て来ました。予習をした中で、見逃したところは2ヶ所。金場地蔵と、その近くの道標。金場地蔵は、国道1号線沿いにあったものの、歩いた歩道と反対側にありました。道標は、コースからちょっと入ったところで、気づいたときには、引き返すには距離があり過ぎました(苦笑)。今日の記事は、予告編ということで、コースマップにある立ち寄りポイントを中心に。富田駅スタートは、9時半。
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 東海道に入ってすぐ、市立富田小学校の敷地内に「明治天皇御駐輦(ちゅうれん)跡碑」。「駐輦」とは、天皇がお休みになImg_8072cること。つまり、このあたりで明治天皇がお休みになったことを示すのがこの碑。明治天皇は、4度この地で休まれたといいます。富田茶屋町・広瀬五郎兵衛という方のところです。広瀬五郎兵衛宅は、この富田小学校正門から富田地区市民センターあたりにあったそうです。焼き蛤をご賞味になったこともあったと説明板に書かれていました。なお、記念碑は、公爵・近衛文麿の筆です。

 

 

 

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 このあたりの旧・東海道の様子。進行方向の南を向いて撮った写真です。かなり細い道ですが、生活道路となっていますのImg_8093cで、クルマはけっこうたくさん通ります。スタートから600mあまりで桜の名所十四川を渡ります。1.2㎞にわたって、川の両岸にソメイヨシノ800本が植わっています(ただし、植えられたのは大正時代)。今日はまだ咲いてはいませんでした。十四川を越えたところに常夜灯。「氏子中」とはありますが、神社のものではなく、街道の常夜灯という説明があります。
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 1.1㎞地点で、真宗本願寺派の光明山常照寺の前を通り、東海道は左折します。左折するところに、力石と、新設用水道碑。力石は、約32貫(約120㎏)と、約5貫(約19㎏)の2つ。このあたりの寺のお堂を再建する際に土台石として奉納されたものを力比べに使ったといいます。新設用水道碑は、新設・用水道碑。つまり、新設された用水道を記念する碑。ここから北西に十四川から七丁(760m)の暗渠による水路を通し、各家の敷地内にマンボ(地下水路、一般名はカナート)を設置して生活用水や防火用水として、明治37(1904)年から昭和中期まで利用したといいます。昭和34(1959)年の伊勢湾台風の水害で使えなくなり、この用水道は消滅しました。
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 こちらは、茂福神社の標柱。スタートからほぼ1.5㎞地点。茂福神社は、以前の近鉄ハイキングで訪ねています。神社は、このImg_8158c標柱から北西に400mほど先にあります。神社の近くには、茂福城跡もあり、ここもそのときに見てきました。神社まで距離がありますので、今日は遠望しただけ。さらに進み、八田三丁目西交差点で県道64号上海老茂福線の高架をくぐります。2㎞を過ぎたところ、米洗川(よないがわ;上流に天武天皇迹太川御遙拝所跡があります)の手前に八幡常夜燈(右の写真)。旧東海道を往来する人々のためのものですが、現存のものは明治35年に建てられたといいます(こちら)。南側には、「南大神宮」と刻まれています。
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 八幡常夜燈から300mほど、八田第一集会所の隣に、八幡地蔵堂と、伊勢国八幡神社跡。お地蔵様は、延命地蔵尊で、見逃してしまImg_8192cった金場の地蔵尊と同じ一つの石から作られた兄弟地蔵で、もとは羽津村の南北の入口(この地蔵は北の入口)に置かれ、村内に疫病が入り込まないようにするための結界地蔵といわれるものであったといいます。昔は、米洗川北側の常夜燈(上記の常夜燈と思います)の向かい辺りにあったのが、昭和4年(1929年)に、八幡地区の住民によって現在地に移設されたそうです(こちら)。八幡神社は、明治41(1908)年に志氐神社に合祀されています。石柱には「伊勢国八幡神社碑」と刻まれ、往時を偲ぶよすがとなっています。
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 八幡地蔵堂・八幡神社跡のすぐ先、スタートから2.6㎞ほどのところには、松並木の名残である松の木が1本残っています。「かわらずの松」と呼ばれます。このあたりが「川原須(かわらず)」という地名であったことから名づけられています。樹齢200年を優に超えるようです。松並木は、道路の拡幅と、松食い虫の被害を受けてほとんどなくなってしまいました。
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 3㎞地点の少し手前に、志氐(しで)神社の一の鳥居。志氐神社は、ここから北西へ400mほど入ったところにあります。主祭Img_8221c神は、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ;祓戸の神(ハラエドノカミ)ともいい、祓を行う場所の神)。創祀年代は詳らかでありませんが、社記では第11代・垂仁天皇の頃といいます。志氐神社には行きませんでしたが、この鳥居の前に「妋石(みよといし)(夫婦石)」があります。志氐神社には、イザナギ・イザナも祀られていて、縁結び・夫婦円満のご神徳があるということから、東海道を行き交う多くの旅人は、この夫婦一対みよと石をなでて縁結び・夫婦円満の願いを込めたといいます。石は、鳥居のところに1つ、道を挟んだところにもう1つあります(右の写真は道を挟んだところのもの)。
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 3㎞半あたりで、国道1号線に出ます。金場町、三ツ谷と進んだのですが、このあたりで最初に書いたように、金場地蔵と、道標を1つ見逃しています。金場地蔵は、上記のように、八幡地蔵と兄弟地蔵ですから、惜しいことをしました。旧・東海道は、海蔵川の手前で左(東)に逸れます。そこに「国寶元三大師道」と掘られた道標が建っています。これは、垂坂山観音寺への道を示すもの。元三大師(がんざんだいし)は、平安時代の天台宗の僧・良源(りょうげん、延喜12(912)~永観3(985)年)。垂坂山観音寺は、御本尊に良源をまつり、「垂坂山のお大師さん」「元三さん」として信仰を集めており、約1,100の歴史がある天台宗のお寺。この道標から、北西へ直線距離で約3.5㎞のところにあります。
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 「国寶元三大師道」の道標からすぐのところに多度神社。この神社は、その名の通り、桑名・多度にある多度神社から分祀さImg_8284cれた神社。それ故、主祭神は、天津彦根命(あまつひこねのみこと)。創立は、明治18(1885)年。明治40(1907)年、海蔵神社へ合祀されましたが、昭和25(1950)年に復興再建され、現在に至っています。
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 多度神社から100m足らずで海蔵川の堤防にある緑地に出ます。ここには「三ツ谷一里塚跡」があります。ここ三ツ谷にImg_8305cは、かつて一里塚があったのですが、その場所は、昭和20年代に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまい、消滅。「東海道分間之図」(元禄3(1690)年)によると、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当たった辺りに記されています。そこで、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、この場所を一里塚跡とし、石碑を建てて後世に伝えることにしたといいます(平成13(2001)年3月建之)。ここで日本橋からは、99里。ハイキングは、ここまでで4.3㎞。
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 旧・東海道は直進ですが、今は、国道1号線の海蔵橋を回ります。海蔵川にも桜並木があり、桜祭りの準備が行われ、露店もたImg_8327cくさん出ていました。ソメイヨシノはまだ。橋を渡りきって左手へ。300mほど行くと、真宗本願寺派の法泉寺。ここは、桑名の歴史を語る上では外せないお寺。明治元(1868)年、鳥羽伏見の戦いで敗れた桑名藩は紆余曲折の末、恭順を決め、1月23日に先代藩主・松平定猷の嫡子・萬之助(後の松平定教)は家老を引き連れて、四日市の新政府軍陣営に出頭。ここ法泉寺に幽閉されました。当時の遺品が残り、寺宝となっているといいます。その時の萬之助はまだ12歳でした。
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 法泉寺の先、スタートから5㎞を過ぎたところに、嶋小餅店があります。立ち寄りポイントになっています。文政年間(1818Img_8346c~30年)創業という古い店。事前のリサーチで、「みたらしは、昔風の香ばしい焼団子」とありました(微笑)。私の好みのタイプのみたらし団子。立ち寄って、みたらし団子を1本。¥90。確かに、昔風で香ばしい。店先でいただいてきました。
Img_8364c 嶋小餅店の先で三滝川を渡ります。ここからがいよいよ四日市宿の中心部。土蔵のような建物は、なが餅の笹井屋本店。国道1号線の三ツ谷交差点のところに立派な店があるのですが、そちらは支店。永餅(なが餅)、この笹井屋さんの他、四日市には太白永餅が、また、桑名にも2つの店があります(永餅屋老舗安永餅本舗 柏屋 )。個人的な好みは、安永餅本舗柏屋さんです(あくまでも個人的な嗜好を述べております)。しかし、この笹井屋さんの本店、いい感じのお店。
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 三滝橋から200mほど先を東に入ったところに市立四日市中部西小学校がありますが、ここが四日市陣屋跡。江戸時代、四日市は天領であり、そのために設置した代官所(陣屋)があったところ。慶長8(1603)年、四日市代官の水谷九左衛門光勝が造営し、江戸時代を通して、司法・行政の中心でした。周囲には掘と土塁が廻らされていました。明治維新後は、度会県の支所が置かれ、明治5(1872)年から翌年まで三重県庁となったのですが、 明治9(1876)年に起きた伊勢暴動によって焼打ちされ焼失します。現在は、校門横に石碑と説明板があるのみで、遺構はありません。
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 このあと、コースにはなっていなかったのですが、せっかく来たのですから、本陣や問屋場の後を探してきました。四日市宿は、東海道五十三次の43番目の宿場。今日、回った巡に。黒川本陣があったとされるところには、黒川農薬商会があります。黒川本陣は、二番本陣で、文化8(1811)年頃から脇本陣だった黒川彦兵衛がついたそうです。東京遷都の際、明治元(1868)年9月24日を初めとして明治天皇はこの黒川本陣を合計4回行在所として利用しています。
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 こちら、近藤建材店は、脇本陣の帯屋跡とされています。その根拠となる資料は必ずしも明確ではないようで、角川日本地名Img_8405c大辞典(旧地名編)の「辻の西南角に脇本陣の帯屋があった」という記述にしたがうと、この近藤建材店のところと考えられるのです。右は、問屋場跡と考えられている福生医院(あいにく塗装工事中でした)。こちらも根拠となる資料がないようで、角川日本地名大辞典(旧地名編)の「北町(近世~近代)」に、「清水家の西隣に問屋場が、辻の西南角に脇本陣の帯屋があった」との記述があり、また、東海道分間延絵図には辻の西南角辺りに脇本陣と問屋場が描かれています。
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 宿場の中心部からさらに進むのですが、旧・東海道をそのまま行くと、柳通という交通量の多い、信号のない交差点に当たりますので、いったん国道1号線に出て、中部交差点で迂回。二宮病院の南、仏壇店の西に道標。ここは、旧南町京方入口付近で、旧東海道が消失する地点です(ここから、諏訪神社の門前までの旧・東海道約50mは、国道1号線を通したため、消失)。文化7(1810)年に建立された道標で、「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」とあります。元々は、東海道と浜街道が交差する札の辻にあったようです。ただ、ここに建っている道標はレプリカで、実物は民家の庭に保管されているといいます。
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 そのため、道標から南に進み、諏訪神社前交差点で国道1号線を渡って、旧・東海道へというか、諏訪神社へ。鎌倉時代初期の建仁2(1202)年、信州の諏訪大社の御分霊をこの地に勧請し創祀されたと伝わっています。主祭神は、建御名方命(タケミナカタノミコト)と八重事代主命(ヤエコトシロヌシノミコト)で、四日市・浜田の総産土神とされます。ここは、すでに2度ほど来ています。境内社には、稲荷社、山津見社、天神社がありますし、明治天皇の御製歌碑もあります。諏訪公園には、誓文御柱(五箇条の御誓文を刻んだ塔)も。
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 諏訪神社の鳥居の前から先、しばらく旧・東海道は、今ではアーケードの商店街「スワマエ商店街」になっています。なかなImg_8523cか面白い商店街で、大四日市まつりに登場する大入道の人形(首が伸び縮みします。見たときも伸び縮みしていました)があります。商店街の専務理事さん(水谷さん)が、昔の商店街の様子などを綴るブログを設けていらっしゃり、これがなかなか面白い(花の四日市スワマエ商店街 四日市諏訪商店街振興組合専務理事の横道ブログ)。スワマエ商店街の入り口で7.4㎞、ちょうど12時。
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 商店街を抜けると、中央通り。旧・東海道は、この先も直進しますが、今日のゴールである近鉄四日市駅に行くには右折。ゴImg_8536cールは、12時8分、スタートから2時間38分。案外早かったというのが感想。歩いた距離は、7.9㎞ほど。ゴール受付は、近鉄四日市駅南改札口コンコース。今日も無事に、記念マグネットをいただけました(微笑)。すぐにホームに上がったものの、12時10分発の名古屋行き急行には、タッチの差で間に合わず。12時11分発の名古屋行き普通電車で桑名へ。12時35分着。¥300。
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 あみま倶楽部のスタンプは、昨日に続いてということで、12個目をゲット。よいペースですが、今月は、県内や愛知県では近Img_8549c鉄ハイキングも、JRさわやかウォーキングもありません。次は、4月3日(水)の「名鉄タイアップ企画(踏破賞対象)木曽岬町の採れたてトマトを食すハイキング 鍋田川堤の桜トンネルと「きそさきトマト」」を考えています。ALKOOによる今日の記録は右の写真の通り。17,719歩、距離は13.6㎞。キョリ測では、ハイキングで7.9㎞、桑名駅往復が1.8㎞、合計9.7㎞でした。本編はまた明日以降、ボチボチと。

2019年3月23日 (土)

20190323近鉄ハイキング「早春の海風を感じて おひなさまめぐりと海の幸」へ(完)

Img_7680c ちょっと迷ったのですが、結局、今日も近鉄ハイキング「早春の海風を感じて おひなさまめぐりと海の幸」に行ってきました。迷ったというのは、去年3月17日に出かけたハイキング(伊勢型紙とお雛様 旧参宮街道とおひなさまめぐり)とかなりコースが重なっていたからです。しかし、まあ、いつものコースを歩いているよりはよいかということで出かけたという次第。
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 今日の受付は、近鉄名古屋線・千代崎駅。9時半から10時半ということで、桑名駅を9時1分に出る五十鈴川行き急行に乗車。四Img_7682c日市に9時13分について、普通電車の津新町行きに乗り換え(9時21分発)。千代崎駅には9時44分に到着。受付開始から15分ほど経っていましたから、ほとんど混んではいません。少し並んだだけでコースマップを受け取りあみま倶楽部のスタンプを押してもらい、9時50分にスタート。
Img_7687c こちらが本日のコースマップ。片面のみです。千代崎駅をスタートして、岸岡山緑地へ。その後海岸沿いを歩いて、江島公園か190323kintetsuhikingchiyozakiら江島若宮八幡神社。町かど博物館である芙蓉館と伊達家油屋忠兵衛を見て、海産物問屋まるかつに立ち寄り、もう1軒の町かど博物館・語らい館よこた、小原木本舗大徳屋長久(和菓子屋)を回って、近鉄名古屋線・白子駅がゴール。約6㎞となっていましたが、コースマップには5.1㎞という数値がありました。右は、実際に歩いた実測ルートマップ。今日はほとんど余分な寄り道はしませんでしたので、実際に歩いたのも5.5㎞でした。午前中は、曇りがちという今ひとつの天候。天気がよければ、岸岡山緑地からの眺めももっとよく、海岸沿いの道も気持ちよかったと思います。今日のハイキング記事は、この1編で「完」となります。
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 実測ルートマップの詳細その1。千代崎駅は初めて利用します。駅の北西約1㎞のところには、鈴鹿医療科学大学があります。Img_7698c学校を卒業して、鈴鹿で就職しましたが、このあたりはあまり来たことはなく、土地勘はありません。岸岡山緑地は、病院の子どもたちの遠足の下見に来たはずですが、それは忘却の彼方。車いすでは来られないなと思ったことだけを覚えています。千代崎駅からは、南西へ。住宅街を抜けて行きます。500mほどで(9時58分)「岸岡山緑地」と掘られた石碑があるところに到着。ただし、岸岡山緑地は南北2つに分かれており、右の写真の方はコースではありません(今日は、コースミスはしでかしていません……笑)。実測ルートマップその1では、岸岡町と書かれ、池のあるところの右。ここを南に入ります。
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 こちらは、緑地の入り口にあった案内板。右上の写真は、現在地とあるところの右下。今日は、南側エリアの「海の見える展Img_7708c望台」を目指します。展望台を目指して登り始めたところで、意外な生き物に遭遇しました。カルガモさんです。西の方に池はあるものの、どこから来たのでしょう? 近くに民家がありましたから、そこで飼っているのでしょうか? 妙に和みました(笑)。
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 案内板のところから250mほど登って行くと、古墳広場という標柱があり、その向こうに「海の見える展望台」が見えてきまImg_7719cした。キョリ測で見ると、標高は40mあまり(他の地図で見ると、岸岡山の標高は45.7mとあります)。展望台のとなりにある小山が気になったので、まずそちらへ。右のように、「二等三角点」がありました。ネットで調べると確かにこのあたりには、古墳がいくつかあり、竪穴式住居跡なども見つかっています(たとえばこちらここ)。この展望台のあたりも古墳だったようです。さらに、岸岡城跡があったともいわれます(こちら)。
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 展望台は2階建て。上層階には、「鳥瞰図」があり、伊勢市から二見、神島、伊良湖岬、知多半島、セントレア、知多火力発電Img_7725c所が見えるとありました。しかし、あいにくの曇天。今ひとつクリアな視界が得られず、残念。右の写真は、知多半島方面のもの。晴れていたらもっとハッキリ見えたと思います。神島もそれらしき陰は見えたものの、ハッキリせず。
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 こういう、伊勢湾沿いの高台に来ると、どうしてもセントレアを探して、見たくなります(苦笑)。別に意味はありませんImg_7744cが。ズームを調節したりして、あれこれ試した結果、ようやく捉えられました。左の写真中央に管制塔が見えますし、飛行機が止まっているのも確認できました。右の写真は、中部電力知多火力発電所と思います。LNGのタンクと思われる施設や、船も止まっているのが見えます。
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 余談ですが、岸岡山緑地では、いろいろな鳥の鳴き声が聞こえてきました。シジュウカラ、コゲラ、ヒヨドリの他、メジロImg_7769cも。バードウォッチングのスポットであるかも知れません。メジロの写真を撮っていたら、年配のご夫婦が見ておられ、「メジロですね」と聞かれました。同好の士かも知れません。同じ趣味の方がいらっしゃると嬉しくなります。岸岡山緑地には、右の写真のように、野外学習広場や、デイキャンプ施設(バーベキューもできそうでした)もあります。南側の南若松町へ降りてきて、近鉄名古屋線の線路を越え、さらに旧・伊勢街道を横切って千代崎海水浴場の南あたりの海岸に向かいます。
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 実測ルートマップは、その2になります。
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 千代崎駅からほぼ2㎞で、千代崎海岸に出ました。10時27分頃。ここからひたすら海岸沿いを1㎞あまり歩いて、江島公園にImg_7794c向かいます。途中で海岸を見ると、水鳥がけっこういるのが見えました。まずは、右の写真。かなりの数が浮いていました。遠目にはキンクロハジロかと思ったのですが、背面が薄い色で灰色、メスは嘴の根元に白い斑があります。デコっぱちに見えますから、スズガモだと思います。いくつかのグループに分かれていましたが、合計では数100羽(テキトーな数値ですが)いたと思います。
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 波打ち際のあちこちには、ユリカモメの姿が見られました。見ていると、波に向かって歩いて行く個体もあり、いったい何をImg_7830cしていたのでしょう? スズガモの群れの中に浮いているユリカモメもいました。さらには、カワウと思われるウの集団も。一斉に飛び立ったりしています。右の写真をよく見ると、下の方を飛んでいるのはウで、上の方にはカモが飛んでいると思われます。カモの種類は、この写真では不明。他にはカンムリカイツブリもいました。
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 などと思わぬところでバードウォッチングも楽しみつつ、退屈せずに海岸を歩いて、江島公園へ。スタートからほぼ3㎞、時刻Img_7861cは10時45分。ここは以前にも来ています。公園内に「徳川家康公九死に一生を得て駿府に戻る船出の港(浦)」という案内板がありますから、それだけをチェックして通過します。本能寺の変の際、伊賀越えをして、ここから船に乗ったという話が書かれています(出航場所については、異説があります)。
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 江島公園のすぐ隣(西)には、江島若宮八幡神社があります。ここは2度ほど来たと思います。鈴鹿市内で2番目に広い境内をImg_7870c持つ神社(もっとも広いのは、椿大神社です)。主祭神は、大鷦鷯命(オオササキノミコト、仁徳天皇)、品陀和気命(ホンダワケノミコト、応神天皇)、息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト、神功皇后)となっています。平安時代初期、禁中(内裏)に奉祀されていた若宮八幡宮(京都石清水八幡宮の御分霊)を醍醐天皇が、神意に問いて伊勢宗廟(皇大神宮)の戌亥の方なる当地に奉遷なさり、息長帯比売命、品陀和気命、大鶴鷯命を主祭神に、17柱の神々を祀っているといいます。
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 白子の町は、湊として繁栄した歴史があり、回船業で賑わいました。あの大黒屋光太夫も、白子湊から出航しています。江島Img_7876c若宮八幡神社には、航海の安全を祈願するなどのため、多数の絵馬が奉納されており、そのうち、江戸時代の71面は三重県指定有形民俗文化財です。弁財天、武者絵、町絵図、帆前船などの図柄のものがあります。拝殿には今日は、ひな人形も飾られていました。町で「キモノdeおさんぽ」というイベントもしていたようで、着物を着た子どもたちを連れた親御さんが、これから訪れる町かど博物館などを回っていました。江島若宮八幡神社から先の立ち寄り先は、まるかつを除いては、去年の「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」で訪ねています。
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 江島若宮八幡神社から200mほどのところに芙蓉館があります。勢松丸(せいしょうまる)資料館も兼ねていますが、町かどImg_7913c博物館の1つ。回船業を営んでいた旧松野家の土蔵を改装したミニ美術館で、江戸から明治・大正時代の陶磁器、ガラス器、浮世絵、漆器、雛飾りのほか、「勢松丸」船額、おしろい製造販売の看板「芙蓉館」などを展示していました。右の写真にある雛人形、文化10(1813)年と書かれていました。
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 芙蓉館・勢松丸資料館を出て次の角を左折。ここからは旧・伊勢街道を行きます。去年3月のハイキングでも歩きましたが、そImg_7937cのときは、南から北へ向かいましたので、今日とは逆向き。連子格子の家も残っていて、街道という感じがします。

 

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 実測ルートマップは、その3。芙蓉館から先、伊勢街道を300mあまり下ったところに「江島陣屋跡」があります。清水屋さんImg_7940cという建築関係の店先です。現在の住所は、江島本町。江戸時代初期(正保年間、1644~1648年)まで江島村は天領でしたが、その後、紀州藩旗本の領地となり、享保の頃(1716~1736年)には小笠原肥前守の知行地になり、ここに陣屋を建てたといいます。明治2(1869)年3月14日には明治天皇が伊勢神宮参拝(3月12日)の帰路、この陣屋で小休止なさったとありました。
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 江島陣屋跡の斜向かいに鈴鹿市白子コミュニティセンターがあり、その前に「安濃津治安裁判所・登記所・法務局跡」という看板があります。明治になって私有財産権が認められ、土地等の登記に必要な行政機関として各地に置かれた役所が治安裁判所です。白子には、明治21(1888)年10月に置かれました。その後、明治25(1892)年に役所が新築され、名称も登記所となり、さらにまた、法務局に変わっています。現在、津地方法務局鈴鹿出張所は、市内神戸にあります。
Img_7945c さらに200mほど行くと、伊達家油屋忠兵衛があります。長らく無住であった古民家「伊達家 油屋忠兵衛家」を地元の有志Img_7955cが清掃し、2013年秋から地域のイベントなどに活用しています。油屋忠兵衛家は、仙台の伊達一族を先祖に持ち、油屋を営んでいた歴史ある町屋です。築100年以上。廻船問屋も営んでいたといいます。ここにもお雛様が何組か展示されていましたが、そのうち1組は、江戸後期のものという説明が付いていました。芙蓉館にあったものと似ている感じがします。
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 伊達家油屋忠兵衛から50mほどのところを左折し、伊勢街道からは外れ、白子港の方へ向かいます。海産物問屋まるかつへ立Img_7986cち寄るためです。ここで「あおさの味噌汁」のふるまいがあるということでしたので、楽しみにしてきたのですが、あいにくとすでに売り切れというか、品切れでした。残念。店内一杯に煮干し、じゃこなどさまざまな海産物を売っていました。小女子やじゃこを味見。
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 まるかつは、白子港の目の前。港沿いに「大黒屋光太夫ら遭難の運命をも知らず江戸に向け出帆した港」と、「平氏水軍白児党根拠地の港」という案内板が建っていました。白子港は、金沢川(かなさいがわ)や、伊勢湾の沿岸流によって形成された砂嘴(さし)が堤防のはたらきをなす天然の良港として古くより利用されてきました。平安時代には、市が立っていました(古市)。後白河天皇の御代(1156年)、伊勢平氏はここに水軍を置いたといいます。闇夜でも識別できるよう白布を身につけていたため、「古市の白児(子)党」と呼ばれました。また、天明2(1782)年12月、若松村(現在の南若松町)の大黒屋の船頭・大黒屋光太夫ら乗組員17名は、正月用食料を江戸に運ぶため紀州藩廻米350石などを積んで出港しました。1年過ぎても消息がわからないため弔いも行われたものの、10年後、寛政4(1792)年10月ロシアから帰国したのです。
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 まるかつのすぐ隣に「語らい館よこた」があり、今日はここで、観光協会が甘酒のふるまい。よこたは、明治18(1885)年Img_8005cに造られた町屋づくりの家を、間取りを変えずにリフォームし、レトロなミニギャラリーにしてあります。「横田材木店」という看板が出ているように、本業は木材、住宅用建材販売。館内には、ひな人形や、つるしびなが飾られ、また、古道具、木モノ、着物、古布などレトロ雑貨も売られていました。
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 今日は寒かったので、温かい甘酒はとてもありがたい接待。生き返ったというと、ちょっと大げさですが、十分一息つけましImg_8002cた。さあ、次へと思ったら、観光協会の女性の方が、かなり強力に「お土産にいかが?」と、穴子の太巻き鮨、鶏めし(椿神社の椿会館のもの)、牛肉弁当(まと場のもの)を勧めます。「まと場」さんは、鈴鹿で働いていた頃、一度行ってみたかったのですが、当時は、「一見さんお断り」といわれて断念したことがあります。椿会館鶏めしにも心動かされました。
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 しかし、せっかく伊勢若松あたりに来たのですから、やはりここは、近くの名物である穴子を使ったものをと思い直し、穴子Img_8008cの太巻き鮨(¥650)を購入。「おつまみにもなります」という一言が利いたかも(苦笑)。晩ご飯のお伴の予定故、まだ食してはおりません。よこたからまたすぐのところに最後の立ち寄りポイントである小原木本舗大徳屋長久さん。鈴鹿でよく知られた「小原木(おはらぎ)」という和菓子の元祖のお店。今日参加した主たる目的が、ここで小原木とかりんとう饅頭を買うためといってもよいくらい(微笑)。小原木は1個¥100、かりんとう饅頭は5個入りが通常¥600のところ、ハイキング特典で今日は、¥500。小原木5個とかりんとう饅頭5個、合わせて¥1,000なり。大徳屋長久でほぼ5㎞、11時35分。
Img_8016c 大徳屋長久からゴールの白子駅までは500mあまり、11時45分に到着。今日は、2時間足らずでゴールイン。ちょうど11時51分に名古屋行き急行がありましたので、それに乗車して、桑名駅には、12時22分着、¥490。
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 あみま倶楽部のスタンプは、11個目。ALKOOによれば、今日の歩数は、12,727歩。歩いた距離は、ハイキングで5.5㎞(キImg_8030cョリ測による)と、桑名駅までの往復が1.8㎞、合計7.3㎞ですが、こちらは9.7㎞になっていました。明日も、近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」に行くつもりというか、今日は明日の足慣らし。明日は、近鉄富田駅から近鉄四日市駅まで、東海道を約7㎞の予定。「伊勢参り」ですから、これは必ず行かないと(微笑)。
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 【追記(3/23)】 左は、小原木本舗大徳屋長久さんのかりんとう饅頭。娘の大好物。「土産にかりんとう饅頭を買ってきたImg_8043cぞ」といったら、急に機嫌がよくなりました(微笑)。右は、穴子の太巻き鮨。5個入りでしたので、一人1個。大好評でした。この穴子の太巻き鮨は、鈴鹿・伊勢若松にある穴子料理の魚長さんのもの。
 以下は、昨年(2018年)3月17日に行った近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」の記事へのリンクです。この記事で詳細を省いたところについても詳しく書いてありますので、ご参照ください。

 

2018年3月17日 (土):近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(予告編)

 

2018年3月19日 (月):近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その1)……子安観音寺【加筆修正しました(3/19)】

 

2018年3月20日 (火):近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その2)……比佐豆知神社、西方寺の山口誓子句碑、レトロな風呂屋などを見て鼓ヶ浦海水浴場と、伝統産業会館へ

 

2018年3月21日(水):近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その3)……同心屋敷跡、道標を見て久留真神社、大徳屋長久山で土産をゲットし、まちかど博物館などへ

 

2018年3月22日(木):近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その4)……芙蓉館から江島若宮八幡神社へ(まだ続きます)

 

2018年3月24日(金):近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その5)……白子港、伊勢型紙資料館、龍源禅寺、勝速日神社などを経てようやくゴール(完)

2019年3月22日 (金)

九華公園でソメイヨシノが咲き始め、ツバメも見参

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 気温は上がったものの、6~10m/sくらいの強風です。気温が上がったためか、九華公園のソメイヨシノがごく一部で咲き始めまImg_4030cした。といっても、2本の木で合わせて3~4輪ですから、開花宣言はできません。しかし、個人的に、勝手には「咲きました」を宣言してしまいましょう(笑)。どこで咲いたかというと、本丸跡の西側エリア、時計塔や、ブランコがあるあたり。ここは毎年、もっとも早く咲き始めます。昨日咲いたしだれ桜も、花が増えていました。明日からは、堀めぐりが始まりますが、まだ桜を楽しむにはちょっと早いでしょう。今日は、露天商の方も数軒の方が来られて、店の準備を始めておられました。いよいよ花見も近しというところ。
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 また、今日は、ツバメが飛んでいるのを今シーズン初めて確認しました。先日寺町商店街で出会った方から、「3月17日に自宅にツバメが来た」とは聞いていましたが、自分で見るのは初めて。場所は、七里の渡し跡。1羽だけ。水を飲みに来たような感じでした。かなり撮ったものの、ツバメと分かる写真は多くは撮れませんでした(笑)。ちなみに去年は、3月14日に初めて見て、写真に撮れたのは、3月28日でした(桜も満開、堀めぐりも始まり、花見気分も満開……ガングロのユリカモメ(笑)とツバメも)。このあと、九華公園内をあるいるときにも上空をツバメが飛んでいくのを見ました。
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 さて、今日の散歩は、8時20分から3時間ほど、いつも通り、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、寺町と5.4㎞ほど。はImg_3973cじめに書きましたように、寒くはないものの、強風には参りました。住吉神社の前から、揖斐長良川の中洲(十万山)を見てビックリ。以前、アオサギがよく集まっていた辺り、水没しています。今日は大潮のようで、四日市港の満潮は6時58分、潮位は233cm。ここは桑名水郷花火大会の打ち上げ場所。花火が大潮にかち合うと、打ち上げられませんねぇ。去年は、台風で水没して延期されましたし、気になります。
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 七里の渡し跡の堤防の法面。ここが見える前から、ヒドリガモたちの鳴き声が盛んに聞こえていたのですが、こんな風になってImg_3978cいるとは! 約60羽が集まって、草を食んでいました。このあと、上空にカモメが現れ、ヒドリガモたちは一斉に堀へジャンプ。猛禽類と勘違いしたのかと思います。ヒドリガモたち、いつも3月中~下旬にこのあたりに数10羽単位で集まっています。近々、北の国へ帰っていくと思います。道中の無事を祈ります。
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 揖斐川にはまだ時々、カンムリカイツブリの姿が見えます。今日も、三の丸水門の東あたりで2羽。いずれも、もうほとんど夏羽に換羽したようです。夏羽は、写真のように、頭部に赤褐色や黒色の飾り羽が出て来ます。冬鳥なのですが、この近くですと、最近は琵琶湖で繁殖するようになっています。
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 ツグミはあちこちで見られます。今日も、住吉水門、三の丸公園、九華公園、貝塚公園で見られました。例年、4月中旬くらいまではいまImg_4040cす。このツグミは、九華公園の北門を入ったところにいました。この頃、このあたりでスズメの近くによくいます。シロハラも、九華公園や貝塚公園にいます。右のシロハラは、九華公園の奥平屋敷跡にて。鳥小屋の裏あたりでよく見かけます。
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 九華公園の朝日丸跡では、ツグミとシメのツーショット写真が撮れました。たまたま近くに出て来たということかと思いまImg_4055cす。シメは、漂鳥(日本の中で季節的な移動をする鳥)で、北海道で繁殖し、冬になると本州にやって来るとされます。カモは今日は28羽。ハシビロガモのオスが3羽、メスが2羽と他はキンクロハジロたち。明日から堀めぐりが始まり、船が通るようになると、いったんいなくなると思います。花見は愉しく、露店が出ると気分もウキウキしてくるのですが、バードウォッチングにはよろしくありません。まぁ、皆さんが楽しめることですし、一時のことですからやむを得ません。
Img_7671c 貝塚公園ではツグミの他、シロハラも1羽。シロハラは、中国北東部からロシア沿海地方で繁殖し、日本や朝鮮半島、中国で越Img_4084c冬します。昆虫やミミズ、木の実を食べています。よく見かけるのは、地面をつついてミミズなどを引っ張り出しているところ。都市公園でもいます。寺町商店街の寺町堀では、久しぶりにハクセキレイ。今日は風が強かったためか、河津桜にメジロはまったく来ていませんでした。
Img_7673c その河津桜、ご覧のように、散り始め、葉桜が見えてきています。週末、寒くなるという話ですが、近鉄ハイキングに行こうかと思っています。日曜(3/24)は、お伊勢参りの旅2日目が、富田から四日市(今も昔もお伊勢参り~旅2日目~東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ)。約7㎞。これは必須。土曜(3/23)は、名古屋線・千代崎駅から白子駅で「早春の海風を感じて、おひなさまめぐりと海の幸」(約6㎞)。こちらの立ち寄り先は、江島公園、江島若宮八幡神社など何度か行ったところが多く、初めてなのは岸岡山緑地(ここも、昔々、鈴鹿で働いていた頃、遠足の下見に行きました)のみ。ちょっと迷っていますが、6㎞なら普段の散歩並です。「明日は明日の風が吹く」ということで、明日の朝決めましょう。余談、本日で64歳(我ながら、笑えるやら、呆れるやら)。

20190316JRさわやかウォーキング「早咲きの「桜みちまつり」を抜け「旅まつり名古屋2019」へ」へ(その3)……名古屋市市政資料館、名古屋城外周、市役所・県庁・テレビ塔を見て久屋大通公園へゴールにて「完」

190316jrwalkingoozone2 3月16日に出かけたJRさわやかウォーキング「早咲きの『桜みちまつり』を抜け『旅まつり名古屋2019』へ」のその3です。そImg_6992cの2では、三菱UFJ銀行貨幣資料館から文化のみちにある二葉館、山吹谷公園、橦木館を見て回りました。続いては、名古屋市市政資料館です。橦木館を出るところで5.2㎞、12時10分頃。名古屋市市政資料館でほぼ6㎞ですが、途中、主税町公園で10分ほど一休みしていました。
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 主税町公園の一帯は、明治から昭和にかけて多くの陶磁器の絵付け工場や貿易業者が軒を連ねる日本の輸出陶磁器の最大の生産地、集積地だったといいます。ここ主税町公園もかつては大規模な陶磁器の絵付け工場があったところ。明治29(1896)年に森村市左衛門が美濃、瀬戸からの当時危機時の荷受けや堀川を使った輸送などの立地条件の良さから、武家屋敷跡地を入手し、工場を建設したところです。明治9(1876)年に森村組(現在のノリタケ、TOTO、日本ガイシなど)を創業し、輸出を開始したといい、「主税町(Chikaramachi)」のブランドがあったそうです。
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 名古屋市市政資料館。スタートからほぼ6㎞、時刻は12時25分。ここは、特別支援教育支援員養成講座のときに何度も訪ね、ほとんど見て回っています(2016年10月6日:支援員養成講座のあと、名古屋市市政資料館へ……旧・名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所、2018年3月11日:ウィルあいちで支援員養成講座の講師……終わって市政資料館で留置場を見て、名古屋ウィメンズマラソンにも遭遇)。大正11(1922)年に旧・名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所として建てられた、ネオバロック様式の煉瓦造りの建物。
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 昭和54(1979)年まで裁判所として使用されていました。昭和59(1984)年5月には国の重要文化財に指定。平成元Img_7012c(1989)年からは名古屋市の公文書館、市民の文化利用施設として使われています。ここは、上記のリンクにあるようにほとんど見て回っていますし、つい先日も訪れてきました(2019年2月24日:今日は、支援員養成講座で名古屋へ)。それ故、この日は、中央階段の先にあるステンドグラスと留置場を見ただけで、他はパス。ここのステンドグラスは、有名のようで、Wikipedia日本版にも取り上げられています(こちら)。公正な裁判を意味する天秤の絵が描かれています。


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 名古屋市市政資料館の敷地内にもオオヒカンザクラが植えられています。文化のみちあたりと同様に、満開でした。大ヒカンImg_7032cザクラは、花は中輪、一重咲きで淡紅色。3月下旬に咲くとされます。カンヒザクラと大島桜の交配種で、ソメイヨシノに先立って咲きます。市政資料館の建物とのコラボ写真をと思うのですが、オオカンザクラが咲いているのは、建物の西側のエリア。なかなかうまく行きません。トリミングしてしまいましたが、右の写真の元写真では、禿げあまたのおっちゃんが写り込んでいました(微笑)。


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 市政資料館の内部はほとんどパスして、名古屋拘置所の前を通過。清水橋東の交差点へ。この交差点のすぐ西に清水街園があ190316jrwalkingoozone3ります。ここはウィルあいちに来るとき、何度も通っています。街園の中に石碑があるのに気づいていて、以前から何なのか気になっていました。右の実測ルートマップその3では、清水橋東と市役所東の交差点の間にある菱形のエリアが、清水街園。左の写真のようになっています。ちなみに、清水橋は、名古屋城東の要所とされたところ。今は普通の道路となっていますが、周囲には堀跡や、石垣が残っています。

Img_7053c この清水街園の西側の木の陰に石碑があるのです。それがこちらの写真。碑表には「加藤忠四郎翁の碑 陸軍大将宇垣一成(うがきかずしげ)書」とあります。加藤忠四郎のことはよく分からなかったのですが、名古屋にあった陸軍第三師団への貢献Img_7049cが大きかったということで、昭和6(1931)年4月に陸軍によってここに碑が建てられたようです(こちら)。宇垣は、慶応4(1868)年、岡山の生まれ。軍人、政治家。陸軍士官学校、陸軍大学を卒業。陸軍軍事課長、参謀本部第1部長、第10師団長、陸軍次官を歴任後、大正13(1924)年、陸軍大臣。朝鮮総督を経て、昭和12(1937)年1月に組閣の名を受けたものの、失敗。終戦後は参議院議員。加藤忠四郎さんがどのような方かは十分には分かりませんでしたが、謎は少し解けました。

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 このあと、清水橋東交差点(清水街園のあるところ)から北へ。名鉄瀬戸線・東大手駅と県立明和高校の間を進みます。道路Img_7065cの西側は空堀になっていますが、かつてはここに名鉄瀬戸線が通っていました。「お濠電車」などと呼ばれていたことがあります。昭和53(1978)年8月、東大手から栄町までの間が地下新線として延伸されています。右の写真は、清水橋から見た北方向の空堀。この堀に名鉄瀬戸線の電車が走っていたのです。

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 といったことを考えながら歩いていたら、道の東側に瀬戸線の電車が見えました。栄町行きの新しい車両が、ちょうどカーブImg_7079cから地下に入って行くところです。ところが、これに気をとられていたせいか、ここを過ぎた柳原一丁目交差点でたぶん左折の矢印があったはずなのを見落としました(苦笑)。そのまま柳原の商店街を直進(他にも同様の方がありました)。途中でコースを示す矢印がなくなったのに気づいたものの、あまり細い道に入り込むのもどうかと思い、結局、柳原三丁目の交差点まで。本来であれば、実測ルートマップその3に朱い矢印で示したように、柳原一丁目で左折して、名城公園南の交差点に出るはずでした。このため、1.5㎞ほど余分に歩いてしまいました(苦笑)。時々、コースミスをやらかします。
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 柳原三丁目の交差点で左折し、西へ。地下鉄名城公園駅の方を大回り(苦笑)。名城公園の交差点(8㎞地点)で左折し、南下。このあたImg_7088cりは昔、若い頃来たことがあります。朧気な記憶。住宅団地がありますが、すでに使われてはおらず、再開発されるのでしょう。名城公園の入り口まで来て、ちょっとホッとします。たぶんもう少し歩くと、本来のコースに戻れるはず。
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 ようやく本来のコースである名城公園南交差点へ来たというか、戻って来たというか(8.6㎞、13時7分)。1.5㎞ほど余分にImg_7093c歩きました。「JRさわやかウォーキング」のコースを示す矢印も(再)発見(右の写真)。ここから、名古屋城の外周(東側)を歩きます。


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 右上の写真の藤の回廊の先のところから、名古屋城の天守閣が遠望できます。名古屋市の河村たかし市長が木造復元と打ち上Img_7097cげていますが、果たしてどうなるのでしょう? 天守閣は耐震性が低いという理由で閉館されています。ちょっと残念ですが、復元された本丸御殿もあります。本丸御殿は、近世城郭御殿の最高傑作ともいわれています。本丸御殿はまだ行ったことがありません。二之丸庭園もよいお庭です。名古屋城は、子どもたちが幼い頃来たきりですから、また訪ねてみなくてはなりません。

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 その二之丸庭園の東を通って、二之丸東二門跡を過ぎたところから、金シャチ横町があります。テレビでは何度も見ていましImg_7121cたが、現地に来るのは初めて。ここは、宗春ゾーン。オッサンが一人ではいるには、おしゃれすぎる店が並んでいました(苦笑)。なので通過。宗春は、尾張藩7代藩主の徳川宗春(元禄9(1696)~明和元(1764)年)。商工業を発展させ、風俗の開放もはかり、名古屋の町は活況を呈したものの、享保の改革の倹約政策に反したため、元文4(1739)年、徳川吉宗により隠居させられました。

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 地下鉄名城線・市役所駅の7番出入り口。お城の門のような建物。市役所駅は利用するものの、対面にある3番出入り口ばかりで、いつからこんな風になっているのか、知りませんでした。ここで9㎞地点。大津通と出来町通りの交差点。市役所、県庁などの官庁街、国立病院機構名古屋医Img_7131c療センター、名古屋城と集まっています。

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 こちらが名古屋市役所。私は名古屋市の職員だったことがありますが、この本庁舎には一度も来たことがありません(苦笑)。昭和8(1933)年に竣工。昭和天皇の即位記念事業として建設されたもので、公募によって選ばれた平林金吾の設計をもとにしています。近代的なビルに和風の瓦屋根を載せた「帝冠(ていかん)様式」。隣の愛知県庁もそうです。10階建てで塔屋があり、そそり立つ感じです。
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 市役所の南にあるのが、愛知県庁。昭和13(1938)年に完成。昭和天皇御大典祈念事業の1つとして建設されました。西村好時渡辺仁の基本設計をもとに、工事顧問の佐野利器土屋純一の指導の下、愛知県総務部営繕課が実施設計を行っています。こちらも帝冠様式で、頂上部にあるのは、名古屋城大天守風の屋根。この頃は、国威発揚のためにも日本趣味を建築に取り入れる風潮が高まっていたそうです(瀬口哲夫(2004):わが街ビルヂング物語、樹林舎)。
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 市役所、県庁を過ぎると大津橋。大津橋で左折し、大津通から久屋大通りに向かいます。この大津橋、かなりのレトロ感があImg_7144cります。昭和8(1933)年の竣工ですから、名古屋市役所と同じ年。欄干にはベイス(飾り花瓶)と、休憩電球が4つある照明灯が中央に。いい感じです。


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 続いて久屋橋。ここで右折すると久屋大通。久屋橋が久屋大通の起点。南北の100m道路で、若宮大通まで約1.7㎞。「久屋」Img_7160cという名前は、尾張藩初代藩主・徳川義直が末永く繁盛することを願って久屋町と名づけたことに由来するといいます。この先は、JRさわやかウォーキングの案内看板はないということですが、もう大丈夫。学生時代や、現職の頃、何度となく来ていますから、もう間違えようもありません。久屋橋のところでスタートから9.8㎞、13時半。

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 久屋大通に入ってすぐの左手(東)に市立第一幼稚園があり、そこに気になる案内板が見えました。この幼稚園は、創立127Img_7162c年と歴史があります。その手前に右のような案内板。「愛知県織工場跡」とあります。明治維新の変革によって失業した旧・尾張藩士族救済のため、愛知県が明治10(1877)年に設置した工場の跡地。士族の婦女子に洋品代用の広幅小倉、綿ネル、結城縞の製織技術を習得させたといいます。明治22(1889)年にはその役割を終えたとして、廃止されました。

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 久屋大通を進みます。桜通にかかっているセントラルブリッジ。昭和57(1982)年に完成。久屋大通公園を結んでいる斜張Img_7184c橋形式の歩道橋。ここまで来ると、テレビ塔はすぐ目の前。「名古屋テレビ塔」が正式名称。現在は、耐震工事のため、今年1月7日からすべての施設が休業。リニューアルオープンは、2020年夏だそうです。昭和29(1954)年6月に竣工。私と同級生(微笑)。日本初の集約電波塔(高さは180m)。設計者は内藤多仲。東京タワーの設計者でもあります。「名古屋のテレビ塔」、「栄のテレビ塔」あるいは単に「テレビ塔」と呼ばれ、親しまれてきました。平成23(2011)年7月にアナログ放送が終了し、デジタル放送に完全移行した現在、名古屋地区のテレビ放送は、瀬戸市にある瀬戸デジタルタワーから送信されています。

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 テレビ塔を過ぎるとすぐ、左手(東側)にオアシス21があります。公園やバスターミナルなどの公共施設と商業施設との複合Img_7193c施設で、平成14(2002)年10月にオープン。隣接する栄公園には、NHK名古屋放送局と愛知芸術文化センターがあります。吹き抜けの地下広場の真上には、「水の宇宙船(大屋根)」があります。地面はガラス張りで中央から水が優しく流れて、銀河の広場に光の波紋が描かれます。水面の回りには園路があるそうです。地下広場を覗いてみたら、e-スポーツのイベントをしていました。

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 オアシス21を過ぎると、錦通、広小路通と栄の繁華街。振り返ってみると、テレビ塔とオアシス21がよく見えます。広小路をImg_7209c渡ると、バスターミナル。バスターミナルの東には、中日ビル。今月末を以て閉館。大昔、中日劇場にミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」を見に来たことがありますし、中日ビルタウンなどで買い物をしたり、喫茶店(ふる里、ユーハイム、サンモリッツなど)でお茶をしたりしたこともたびたび。建て替えられるようです(こちら)が、青春時代が遠くなってしまうようで、ちょっと淋しい気がします。

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 などといささか感傷にふけっているうちに、エンゼル広場を過ぎ、松坂屋の東にある久屋大通公園へ。ここに今日のゴールがImg_7221c設定されている「旅まつり名古屋2019」の会場。到着は、14時ちょうど。ここまで歩いた距離は、11.5㎞ほどとなります。途中、コースミスをして1.5㎞余分に歩きましたから、本来であれば、約10㎞のはず(苦笑)。


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 最終的には、地下鉄名城線・矢場町駅まで行かねば電車には乗れませんが、ホッと一息付けました(微笑)。いつもの「完歩Img_7228c記念」の看板も忘れずに撮影しておかないといけません。JRさわやかウォーキングでは、これを撮影しないと、ゴールした気分が半減しそうなのです。


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 これで、昨年12月以降、スタンプは4個目。予告編でも書きましたが、月1個のペースです。このペースで行けば、有効期限が満了する11月末までに10個は達成できそうです。が、JRさわやかウォーキングは、7・8月は休み。月1ペースを崩さないようにしないといけません。

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 旅まつりは、各地方自治体の観光案内や、ご当地グルメ、特産品が紹介されるイベントです。私がゴールしたときは、ちょうImg_7244cど鹿児島県の皆さんがステージに上がって、鹿児島の紹介をしておられました。ここで昼ご飯にしようと思って歩いてきました。ざっと見て回ったものの、昼ご飯になりそうなものは案外少なく、ちょっと困りました。
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 結局、鹿児島県のショップで、「黒豚焼きそば」を¥500でゲット。黒豚がは言っているのですが、私には普通の豚肉と区別が付きません。「猫に小判、豚に真珠」の類いの話です(笑)。生ビールも¥500で売っていて、迷ったのですが、断念。もう少し歩いて、さらに地下鉄、JRと乗り継いで帰らねばなりませんから。近くで同じ黒豚焼きそばを食べながら生ビールを飲んでいる人がいて、よほど追加で買いに行こうかと思ったのですが……。昼を食べながら20分ほど休憩。14時20分に会場を出て、地下鉄矢場町駅へ。
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 矢場町駅の4番出入り口。ここまでで11.7㎞。後でよく考えたら、久屋大通公園の南の端にも2番出入り口があったのですが、すっかり失念していました。余分に歩く日だったのかも知れません。時刻は14時25分。14時27分の右回り環状線に乗車。久屋大通に14時30分に到着、14時36分の桜通線・中村区役所行きに乗車。名古屋駅には14時41分。¥240。JR名古屋駅を15時3分に出る関西線・亀山行き快速に乗車して帰宅の途へ。桑名駅には15時27分に到着。¥350。
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 この日のALKOOの計測結果。19.6㎞歩いたというのは、たぶん計測ミス。GPSで記録しているようですから、電車がゆっくImg_7253cり走っている時をカウントしたのかなと思います。歩数は、25,560歩。DSの生活リズム計では、22,819歩。いや、なかなか楽しめるコースでした。徳川園は、違う季節に訪ねてみたいと思いますし、徳川美術館、蓬左文庫も是非と思います。二葉館、橦木館など文化のみちあたりも、もっと空いているときにゆっくり見たいところです。ということで、3月16日のJRさわやかウォーキング「早咲きの「桜みちまつり」を抜け「旅まつり名古屋2019」へ」も無事ゴール。右は、名古屋市市政資料館の留置場においてあったスタンプ。なんだか気に入りました。

2019年3月21日 (木)

市民会館の薄墨桜も、九華公園のしだれ桜も開花……午前中は桑名市博物館で「進みゆく日本画-近代を映す あまたの美」

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 雨は午前中まででしたが、午後もスッキリしない天気です。午前中は、雨が降ったときに行こうと思っていた、桑名市博物館で開催中の「進みゆく日本画-近代を映す あまたの美」を見て来ました。3月2日から始まっており、4月7日までとなっています。9時半から17時まで(入館は16時半まで)、入館料は高校生以上が150円、中学生以下は無料。
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 「日本画」という言葉は、西洋文化が一気に押し寄せた明治時代に生まれたそうです。国家意識が芽生え、芸術190321nihonga2界でも日本画について模索する動きが高まったといいます。明治以降の日本画の歩みを画題や、表現方法の変化から探るという興味深い企画です。横山大観の「不二霊峰」、前田青邨の「鵜飼の図」、伊東深水の「舞妓」の他、最近、桑名市博物館に寄贈された、伊藤小坡(いとうしょうは)の「一聲(いっせい)」が主な出品作。私は、ずいぶん以前、桑名市博物館で伊藤小坡を見てからすっかりファンになってしまい、小坡のこの新しい作品がどうしても見たかったのです。伊藤小坡は明治10(1877)年、伊勢の猿田彦神社の宮司の娘として生まれた日本画家。歴史風俗画を描いています。その他、出品リストは画像の通り。大津絵や、岡本一平などによる「漫画絵巻『東海道五十三次』」も興味深く見て来ました。
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 博物館の帰り、たまたま市民会館(NTNシティホール)の前のコンビニに立ち寄ったら、もうシティホールの薄墨桜が咲いていDscn0850cました。うっかりしていました。確認するのをすっかり失念(苦笑)。去年(2018年)は3月15日に開花していました(今シーズン4回目の町屋川遠征……帰りにNTNシティホールの薄墨桜の開花を確認)。今日の様子では、数日前に開花していたと思われます。過去の経験では、薄墨桜が咲いて、1週間ほどでソメイヨシノが咲き始めますが、どうでしょう。
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 さて、午後から雨も上がりましたので、2時過ぎから1時間半ほど、住吉神社、九華公園を往復してきました。午後のこの時間Img_7509cで、この天候では鳥は期待できませんので、歩くのが目的。4.5㎞ほど。七里の渡し跡を過ぎて、三の丸公園で、たんぽぽが咲いているのに気づきました。黄色い花ですから目立ちます。昨日まではまだだったような気がします。
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 九華公園、カモはかなり減って22羽。ハシビロガモのオスが3羽、メスが2羽。それ以外はキンクロハジロ。オオバンは2羽。Img_7542c今日は餌をやる人があって、ユリカモメが20羽ほど来ていました。飛びまくって大騒ぎをしていますので、正確な数はカウントできず。相変わらず、キンクロハジロたちを蹴飛ばして、餌をとっていきます。


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 鳥は期待していなかったのですが本丸跡でシメが2羽。かなり接近していました。4~5mほどの距離。しばらく見ていると、Img_7595cこれ以上近くなると、接近された方が追い払いにかかるようでした。シメは、見た目では雌雄判別はできませんし、どういう関係かは不明。それぞれ懸命に餌を拾っていました。ちなみに近くにはドバトやキジバトも来たのですが、やはり種類が違うとアタックはせず、異種格闘技戦にはなりません。サギなどは、えさ場を争う様子があるのですが、行動パターンが違うようです。


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 九華公園では、昨日、しだれ桜のつぼみがかなり膨らんでいるのを見て来ましたが、今日はすでに開花していました。10数輪かもっとです。ソメイヨシノも、昨日見てきた本丸跡のところは、あと数日で咲きそう。いよいよ春本番という感じですが、週末は寒さが戻るといいます。どうなるでしょう?

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 諸戸氏庭園前まで戻って来たら、ソメイヨシノの木からコゲラの鳴き声。勢いよく木をつついていました。すぐ下に行って写真を撮っていても気づかないくらい(微笑)。

20190316JRさわやかウォーキング「早咲きの「桜みちまつり」を抜け「旅まつり名古屋2019」へ」へ(その2)……三菱UFJ銀行貨幣資料館、文化のみち二葉館、山吹谷公園、橦木館へ

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 3月16日のJRさわやかウォーキング「早咲きの『桜みちまつり』を抜け『旅まつり名古屋2019』へ」のその2です。JR中央線・大曽根駅を9時35分にスタートし、最初の立ち寄り先である徳川園に50分ほど滞在し、庭園を楽しんできました。徳川美術館と蓬左文庫は、またいずれ訪れることにします。徳川園を10時40分に出て西へ。徳川町、山口町を経て、国道19号線赤塚交差点から南下。三菱UFJ銀行貨幣資料館を目指します。
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 赤塚交差点に来ると、この建物が見えてきます。ここが三菱UFJ銀行貨幣資料館。旧・東海銀行の時代からこの貨幣資料館はありました。ここもずいぶん前から一度訪ねたかったところです。この日のJRさわやかウォーキングの少し前、東海テレビの「ぐっさん家」でも山口智充さんが訪ねていました(19/01/26放送、ぐっさん!歴史と文化が残る白壁お散歩旅!)。スタートから3.5㎞、10時55分に到着。
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 三菱UFJ銀行貨幣資料館に到着したものの、決して大きな資料館ではありませんので、ウォーキング参加者で大混雑。内部は人いきれで暑いくらい。できればこういう混雑する日ではなく、平日の空いたときにゆっくり見たいところ。日本だけでなく、世界各国の貨幣約1万点が常設展示され、和同開珎、大判、小判から現代の紙幣まであります。中には、世界最古の貨幣「殷の貝貨」、エジプト「クレオパトラ女王の銀貨」など珍しいものも展示されています。大賑わいでゆっくり見られないということもあろうかと思ったわけではありませんが、事前の予習で見逃してはならないものを3点決めておきました(笑)。予習にはやはり意味があります。
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 その一つが、江戸時代の両替屋を復元したモデル。両替屋は、時代小説や、テレビの時代劇でもよく登場しますから是非とも見たかったのです。両替屋は、江戸時代に金融機関の役割を果たしました。庶民にはほとんど用事はなかったようですが、大名や商人を相手に預金・貸し付けを行うとともに、金・銀・銅の三貨幣藩札などの両替や、遠隔地との商取引に伴う為替業務も行っていました。
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 この両替屋の復元モデルでは、当時実際に使用されていた道具類が展示されています。左の写真では、銀貨秤や、大福帳、銀Img_6774c貸帳などが見えます。右の写真には、千両箱、秤、大きなそろばん、舟箪笥などが写っています。

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 見たかったものの2つめは、天正沢瀉(てんしょうおもだか)大判(天正大判についてはこちら)。世界最大の金貨で、豊臣秀Img_6805c吉がつくらせたもの。現存するのは3枚だそうです。裏面中央に沢瀉(おもだか、池や沼に生える植物)の紋が打たれています。裏にある墨書きは所持人を示し、秀吉から大名に下賜され、手形の裏書きと同様に、人手に渡る毎に名前や花押が記されたそうです。重さ165グラム、金は73%となっていました。
Img_6807c 3点目は、万両箱。千両箱は、時代小説や、時代劇でもなじみがありますが、万両箱となると珍しいものです。その名の通り、一万両の大金を保管する金庫。ここに展示されている万両箱は、江戸時代から明治維新の時まで、京都二条城の御金蔵に格納されていたと伝わるもの。外側は鉄帯で絡められ、内部には一面に厚い南蛮鉄が厳重に貼られているそうです。重量は、万両箱だけで何と約150㎏もあります。安政小判では、1,000枚で9㎏あるそうですから、一万両では90㎏。したがって、万両箱に一万両を入れると、240㎏にもなります。これでは盗むにしても、とても運べません。
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 ちなみに千両箱も展示されており、こちらは持ち上げてみることができました。千両箱自体が6㎏。上述のように、安政小判でImg_6787cは1,000枚で9㎏ありますから、合計15㎏。時代劇では、盗人がヒョイと担いで、走って逃げますが、よほどの力持ちで、体力がないとできない気がします。持ち上げてみましたが、けっこうズッシリときました。千両箱の隣には、1億円の札束(ただし、本物ではないそうです)。こちらも持ってみることができましたが、重量は10㎏!
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 その他、あれこれ見て来たのですが、とても紹介しきれませんし、最初に書きましたように大賑わいでゆっくり見て回れませImg_6791cんでした。左の写真は、一分金。一分金4枚で一両。換算は単純ではありませんが、一両=75,000円としますと、一分金は、18,750円。おおざっぱに言えば、2万円弱。上にある慶長一分金は、重さ4.43グラム、金86%、銀14%だそうです。右は、慶長小判。重さ18グラム、金86%、銀14%です。


Hirosige
 この日は、広重の東海道五十三次(保栄堂版)の展示もされていました(5月12日まで)。パラミタミュージアムや、四日市市博物館などでも見ていましたが、もう一度と思ったものの、このコーナーも大賑わい。宮、桑名、四日市、庄野など我が家近くの宿場のものだけ、ざっと見て来ました。三菱UFJ銀行貨幣資料館は、入館無料、9~16時(入館は15時半まで)、月曜・祝日・年末年始休館。一見の価値ありと思います。

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 三菱UFJ銀行貨幣資料館で15分ほど見て回り、10時55分。ここから国道19号を南へ。平田町で右折、飯田町Img_6824cで左折し、文化のみちへ。徳川園から名古屋城にいたるエリアは、江戸、明治、大正と名古屋の近代化の歩を伝える多くの建物など、貴重な歴史的建造物が残っており、「文化のみち」と名づけられています。余談ですが、その途中、横断歩道橋には、「徳川一丁目」という地名がありました。

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 貨幣資料館から1㎞あまり、11時20分に二葉館(名古屋市旧川上貞奴邸)に到着。ウォーキングのテーマにあるように、早咲Img_6845cきの桜(オオカンザクラ)が満開で、「桜みちまつり」が開催されていました。二葉館もイベントが行われていて大賑わい。建物の玄関に行列があって、入れるのか?と心配になります。止めようかとも思ったのですが、この機会を逃すと、こられないかも知れないと思い直し、¥160を払って入館。

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 ちょうど11時から11時半は、大広間でソプラノ歌手の方のコンサートが行われていて、そのために賑わっていました。ここ二葉館は、Img_6856c日本初の女優といわれた川上貞奴と、電力王と称された福沢桃介が大正から昭和の初期にかけて暮らしていた邸宅を移築、復元したものです。貞奴に関わる資料の展示と、名古屋にゆかりのある文学資料が保存、展示されています。
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 川上貞奴(さだやっこ;明治4(1871)~昭和21(1946)年)は、美貌の芸者として知られ、明治24(1891)年俳優で興行師の川上音二郎と結婚。明治31(1898)年渡米。欧米を巡業し、この頃から貞奴を名乗っています。欧米では「マダム貞奴」として知られています。川上音二郎亡き後(明治44(1911)年)、福沢諭吉の娘婿である福沢桃介が彼女を助けたため、世間から批判もされたといいます。福沢桃介(ももすけ;慶応4(1868)~昭和13(1938)年)は、相場師としてなと財をなし、電力事業に力を注いでいます。大阪送電(大正9(1920)年、大同電力と改称)などを設立し、木曽川で水力発電を開発しました。旧姓・岩崎。写真の左側に写っているのは、唯一現存する貞奴の舞台衣装と「深山の美人」の舞台で貞奴が使用した小道具(薙刀)のレプリカ。衣装は、花魁の打ち掛け。右側は、ドイツ人画家ミュッラーが1900年頃に描いたポスター
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 二葉館の外観は、前の写真にありますように、オレンジ色の洋風屋根が目立ちます。内部では、ステンドグラスから光がこぼImg_6877cれてきます。和室もあり、落ち着いた感じも味わえます。左の写真は、1階の展示室1(旧食堂)のステンドグラス。右の写真は、1階の展示室4(旧書斎)。貞奴が使った書斎でしょうか。


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 1階廊下の奥には、巨大な配電盤が残っていました。大理石でできています。電力王といわれた福沢の邸宅だけあって、建築投Img_6891c書から電気はかなり使われていたようです。主な部屋には呼び鈴が付いていて、親機は事務室に設置されていたようです。呼び鈴を押すとベルが鳴るとともに、番号が表示され、どの部屋で呼ばれているかすぐ分かるようになっていました。

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 1階の廊下には、創建当初の煉瓦基礎が見られるようになっています。当初の基礎を大きなままで解体して、再び同じ位置に設置してあります。底盤部分は、煉瓦1枚半積みで、立ち上がり部分は1枚積みとなっています。全体の高さは約80cm、床下に表れている高さは約47.5cm。

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 2階廊下、東側の窓。実は、この二葉館移築の際に、建物の向きを90度回転しています。この窓は、建築当初は北向きで、当時はこの窓からアルプスの山々が見えたといいます。またこのガラス窓、はめ殺しになっています(雨戸のように戸袋には格納できるということです)。建築は大正9(1920)年。もとは東区白壁三丁目1001番地にあったものを、平成12(2000)年から17(2005)にかけて工事をし、現在の東区橦木町三丁目23番地に移転しています(詳細はこちら)。
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 2階の展示室には、坪内逍遙城山三郎小谷剛江夏美好春日井建など、名古屋を中心とする文学者やその作品などが紹介Img_6901cされています。個人的には、城山三郎さんの書斎の再現展示がもっとも興味があり、しげしげと見てきました。複写ではありましたが、城山三郎さんの「男子の本懐」の手書き原稿もありちょっとコーフン(微笑)。諦めずに、見て来てよかったと思った次第。
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 二葉館からは200mほどで、山吹谷公園。その名の通り、山吹の名所なのですが、花の時期(4~5月)にはまだ早い。この日は、桜みちまつりのイベント会場となり、マルシェが行われていました。ちなみに、「尾張名所図会」には、「暮春の比は遊蕩の諸人、酒さかなを携え来り、山吹の花を愛でつつ歌ひ舞ひなどせし地なるが、いつしか武家の宅地となりて、今なほ山吹のところどころに残れるは昔のおもかげぞかし」とあります。一通り見て、公園の目の前にある橦木館へ。
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 こちらが橦木館(しゅもくかん)。ここは、輸出陶磁器商の井元為三郎によって大正末期から昭和初期に建てられたもの。井Img_6972c元為三郎(明治7(1874)~昭和20(1945)年)は、愛知県出身。明治30(1897)年、名古屋で陶磁器販売の井本商店を創業。後、アメリカ、東南アジアにも進出しています。和館、洋館、二棟の蔵、茶室、庭園が残っています。ここは、約600坪肉割りされた、江戸時代の武家屋敷町の跡。広い敷地と、陶磁器の産地で有名な瀬戸・多治見の両街道や、堀川にも近く、船積みにも便利だったため、明治に半ばには陶磁器の絵付け・加工業者などが集まったところ。橦木館は、周囲の古い邸宅の多くが取り壊される中、平成8(1996)~平成14(2002)年にかけて5組の店子が入り、一般公開や各種文化的なイベントを催していました。その後、いったん閉鎖されたものの、平成16(2004)年には市民団体が管理を初め、平成19(2007)年に名古屋市が取得し、修理を行い、平成21(2009)年7月からオープン。
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 徳川園を見た直後ですから、庭園はさほど立派にも思えないかもしれませんが、そもそも比べる対象ではありません。和館、洋館、茶室をつなぐ、緑豊かな庭園とImg_6932cなっています。右の写真は、和館の廊下からガラス窓越しに見たお庭。なかなか風情がありました。


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 橦木館の1階には、大きな和室が2部屋。訪れた日は、ちょうど落語会が始まるところでした。1階にある洋室には、名古屋のImg_6944c陶磁器産業の歴史を伝える資料が展示されています。その他、台所、浴室なども残っており、当時の生活を垣間見ることができます。左右の写真は、2階の展示室(旧娯楽室)に展示された陶磁器製品。井元為三郎が扱ったもの以外にも多数あります。井元商店の製品は主に輸出向けでしたので、国内にはあまり残っていないそうです。右の写真のカップ&ソーサーはアメリカに輸出され、長年使用された後に里帰りした大変珍しいものということでした。

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 ステンドグラスは、玄関ホール他、洋室の各所に使われています。左の写真は、2階の展示室にあったもの。ボランティアの案内人の方は、戦時中は倉庫かどこかにしまわれていたので、金属供出などにされなかったとおっしゃっていました。右の写真は、同じImg_6948cく2階の展示室の西側の窓。写真ではよく分かりませんが、気泡の入ったガラスが使われていました。
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 井元為三郎は、大正に入ると、陶磁器以外に医薬品や雑貨も扱うようになり、大正13(1924)年には名古屋陶磁器貿易昇降同業組合の組合長に就任。陶磁器業界の重鎮として活躍します。こうして蓄えた富を背景に井元邸(橦木館)が建てられました。為三郎の処世訓は「幸福は我が心にあり」で、好きなことを存分に行った、豪放磊落な人物であったといいます。2階の展示室にあったこの写真では、ダチョウに乗っています。彼の処世訓を象徴するような気がします(昭和3(1928)年、ロサンゼルスで撮影されています。井元為三郎48歳のとき)。
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 橦木館は、二葉館ほどではありませんでしたが、けっこう賑わっていました。1階にはカフェもありますから、空いていて天気Img_6929cがよければお茶でも楽しむとよいでしょう。橦木館も、二葉館同様、JRさわやかウォーキングのコースマップを呈示して、団体料金(¥160)で入館できました。


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 この日は、「桜みちまつり」も開催され、また、名古屋市営地下鉄の駅ちかウォーキング「千種区巡る「ちくさんぽ」から、東区「早咲き!桜みちまつり」コース」も開催され、大賑わいでした。近くには他に、陶磁器貿易商として成功した春田鉄次郎の旧邸や、発明王・豊田佐吉の弟で佐吉を支えた実業家豊田佐助の旧邸宅もあります。この地区(白壁・主税・橦木地区)は、
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名古屋城の東にあり、築城の際につくられた町の一部。江戸時代には、中級の武士の屋敷が並んでいたところですが、その後は、大正~昭和の名古屋の発展を支えた実業家たちの邸宅が並ぶエリアになりました。イベントがない日にじっくりと楽しみたいエリアです。

 その2は、ここまで。その3では、名古屋市市政資料館、清水街園(気になっていた石碑があります)から、コースミスをして大回りしましたが、名古屋城の外周へと進みます。

2019年3月20日 (水)

20190316JRさわやかウォーキング「早咲きの「桜みちまつり」を抜け「旅まつり名古屋2019」へ」へ(その1)……大曽根駅をスタートして、徳川園

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 3月16日に出かけたJRさわやかウォーキング「早咲きの「桜みちまつり」を抜け「旅まつり名古屋2019」へ」の本編(その1)です。この日は、風はあったものの、気温は14℃を超え、絶好のウォーキング日和でした。受付は、JR中央線・大曽根駅で8時半から11時。いよいよ、ハイキング/ウォーキングも、JR中央線に進出です(微笑)。
Img_6535c 桑名駅を8時38分発のJR関西線名古屋行き普通電車に乗車。名古屋着Img_6538c は、9時9分。いったん改札を出て、名古屋駅発9時16分の中央線・神領行きに乗り換え。大曽根駅には9時28分到着。料金は、¥350+¥200=¥500なり。左は、名古屋駅・中央線ホームに停車中の神領行き電車。右は、大曽根駅のホーム。名古屋で開催されるJRさわやかウォーキングは、参加者がたくさん。
Img_6543c JR大曽根駅の北口の改札を出たところで、コースマップが配布されていまImg_6552c した。右がそのコースマップ。この日のコースは、大曽根駅をスタートして、まずは徳川園へ。その後、三菱UFJ銀行貨幣資料館に立ち寄って、文化のみちエリアへ。二葉館、山吹谷公園、橦木館を経て、名古屋市市政資料館。そのあと、名古屋城外周、テレビ塔を見て、久屋大通公園がゴール。コースマップ上は約6.8㎞となっていました。
Img_6546c 大曽根駅をスタートしたのは、9時35分。大曽根駅は、現在、耐震補強工事Img_6550c と、リニューアル工事が行われていて(こちら)、外の駅名表示が確認できませんでした。
Img_6548c 実は、ここ大曽根駅あたりは、あまり来たことがありません。2016年3月29日にナゴヤドームで行われた中日ドラゴンズの開幕戦を見に行った帰りにこの駅からJRに乗って帰ったと思います(2016年中日ドラゴンズナゴヤドーム開幕戦)。左の写真は、駅の西側。大曽根といえば、「OZモール」とか、一時騒がれましたが、その後どうなったのでしょう? と思って調べたら、平成元(1989)年に竣工したのでした。さらにその後、私は知らなかったのですが、「オズガーデン」という地下街もつくられたようです。「今浦島太郎」です(苦笑)。
190316jrwalkingoozonec こちらが実際に歩いた、実測ルートマップ。実は、名古屋市市政資料館190316jrwalkingoozone1 を出た後、清水橋を越えたところで、曲がるべき矢印を見逃して、コースミスをしでかしてしまいました。そのお陰で、1.5㎞ほど余分に歩く羽目に。正しいルートは、朱い矢印を入れたものでした。徳川園で、庭園を見るのに歩き回ったこともあって、最終的に地下鉄・矢場町駅に着いたときには、11.7㎞ほど歩いていました(苦笑)。右は、大曽根駅から徳川園、三菱UFJ銀行貨幣資料館あたりの詳しい実測ルートマップ。
Img_6560c スタートの大曽根駅から南下、徳川園へ。スタートから1㎞足らず。北駐車場側のImg_6569c 入り口から入ります。ここは、いわば裏門。敷地内に徳川園徳川美術館蓬左(ほうさ)文庫があります。すべて一度来てみたかったところ(こういうところ、たくさんあります。いつも書いていますが、近くで知っているのに行ったことのないところがたくさんあります。こういう機会でもないと、自分ではなかなか出かけられません)。本来であれば、すべて見て回りたいところですが、ゴール受付時間も設定されていますので(15時まで)、今日は、庭園だけを拝観することに決めていました。
Img_6583c 徳川園は、徳川御三家筆頭である、尾張藩2代藩主・光友が、元禄Img_6574c 8(1695)年に自らの造営による隠居所である大曽根屋敷に移り住んだことを起源としています。当時の敷地は約13万坪(約44ha)の広大さで、庭園内の泉水には16挺立の舟を浮かべたといわれています。光友没後、この地は尾張藩家老職の成瀬、石河、渡邊三家に譲られましたが、明治22(1889)年からは尾張徳川家の邸宅となりました。
Img_6658c 池泉回遊式の日本庭園です。江戸時代の主な大名庭園と同じ様式となImg_6660c っています。清流が滝から渓谷を下り、海に見立てた池へと流れる様子は、日本の自然景観を象徴的に凝縮しているといわれます。さらに徳川園では、大きな高低差のある地形、既存のまま取り入れた樹林、立体的に迫る大きな岩組みが特徴で、変化に富んだ景観を大胆に切り替える構成を用いて大名庭園の「荘厳さ」を体感できるようになっています。
Sansaku_map 庭園を見るのは好きなのですが、いったいどのように見たらよいのかまではよく分かっていません。地泉回遊式ですから、池の周りを回りながら楽しめばよいかということで、とにかく一通り見て回ることにしました。左は徳川園のサイトからお借りした散策マップに歩いたコースを入れたもの。南勢にある出入口(黒門口)から入って、矢印のように回りました。瑞龍亭のところでは一回り。観仙楼では、その前で結婚式が催されていて通れませんでしたので、龍仙湖の西側を通って、観仙楼の東にある龍門の瀧を見てきたという次第。その順序にしたがって見ていきます。
Img_6579c 黒門口で料金¥300を払って庭園内へ。直進すると、この「虎仙橋(こせんImg_6581c きょう)」。檜造りの橋で、「虎の尾」に架かっています。5m下に虎の尾の渓流が見下ろせます。下流(向かって左)には、「龍仙湖」が望めます。右の写真は、龍仙湖の方を見下ろしたもの。
Img_6586c 虎仙橋を渡ってまっすぐ行くと、「四睡庵」の手前に梅の木が4本ほど植Img_6588c えられていて、ほぼ満開。写真を撮る方多数。梅の木の西、サンシュユの花が咲くそばに浅野梨郷(あさのりきょう)の歌碑。「宇つりつつ 静かに色をかへてゆく 登与波多雲の 空のたなび起」と変体仮名で刻まれています(うつりつつ 静かに色を かえていく 豊旗雲の 空のたなびき)。浅野梨郷は、名古屋出身の明治~昭和期の歌人で、「アララギ」の創刊にも関わったといいます(明治22(1889)年~昭和54(1979)年)。東京外国語学校卒後、日本交通公社主事、名古屋市観光課長などを歴任。歌碑は、昭和54(1979)年に浅野がなくなる直前に建立されています。
Img_6594c 「四睡庵(しすいあん)」。梅や桃の木に囲まれた休み処です。リーフレッImg_6601c トには、隠れ里のような風景の中にぽつりと立っています」とありますが、まさにその通り。「四睡」とは、豊干(ぶかん)・寒山(かんざん)・拾得(じつとく)の三人が虎とらと寄り合って眠っている図で、禅の境地を示すのだそうです(私のような凡人には残念ながら到達できないでしょう)。
Img_6597c 四睡庵の脇には、水琴窟がありました。手水鉢の前の地下に穴を開けたImg_6599c 常滑焼の甕を逆さにして埋め込んであります。その水琴窟のところをよく見たら、三ツ葉葵のご紋が入った、これは瓦なのでしょうか、焼き物が4つ置かれていました。こういうささいなというか、どうでもよいというか、そういうところに目が向いてしまうというのは、凡人の証明です(苦笑)。「四睡」の境地には到底到達しません。
Img_6607c 「大曽根の瀧(おおぞねのたき)」です。四睡庵の南にあります。「虎の尾」がここから発しています。落差6mの三段の瀧。段によって岩の組み方が異なるため、水しぶきの様子も違います。瀧の背後の山は徳川園の中でもっとも高く、龍仙湖の水面とは約11mの標高差があるといいます。ちなみに、大曽根というのは古くからの、このあたりの地名だったそうです。Wikipediaによれば、「曽根」という地名は城下町から一里離れた地点に付けられることが多く、ここがあと一里で名古屋城下に至る場所であったことによるとみられるといいます。また、河川(矢田川)の磯根・底根の意であるとの説もあるそうです。
Img_6614c 大曽根の瀧から龍仙湖に流れるのが、「虎の尾」。なかなか風流な景色を為しています。深山幽谷とリーフレットでは形容。初夏に訪れれば新緑が、また、秋には紅葉が楽しめそうです。流れる水が、虎の尾のような形をしているように見えます。また、「虎の尾を踏んではいけない」ことから、「川に足を踏み入れてはいけない」ことを連想させるとも、リーフレットにはありました。なるほど。
Img_6617c 虎の尾の途中に橋がかかり、その先、流れが広くなってImg_6621c 池のようになっているところがあります。まったく予想もしなかったのですが、ここにマガモの姿があり、驚きました。すぐ近くから見ているのに、逃げる様子はありません。思わぬところでバードウォッチングができました(微笑)。
Img_6633c 虎の尾に沿って進むと、最初に渡った虎仙橋をくぐって、「龍仙湖(りゅうせんこ)」に行けまImg_6643c_2 す。左の写真では、奥の方から手前に進んできています。右が、その龍仙湖。大曽根の瀧から、虎の尾を流れた水が、ここに注ぐわけですが(地下水を水源にしているようですが)、海に見立てられています。
Img_6646c 地泉回遊式庭園ですから、龍仙湖の水面の回りに見所が配置されていImg_6712c ることになります。「観仙楼(かんせんろう)」の北に松が植わった小島がありますが、これなどたぶん観るべきポイントの一つだろうと思います。
Img_6658c_2 龍仙湖の北側、大曽根口のところには、船小屋がある渡し場になっていImg_6675c ます(左の写真)。また、「瑞龍亭(ずいりゅうてい)」の下(東)には、砂州を模したと思われる通路が設けられています。広い池、周りは緑に囲まれ、市街地のビルなどもあまり見えないようになっていますし、この日のように晴れていると、ゆったり歩くのがとても気持ちの良いところです。
Img_6641c 龍仙湖の北東側には、「西湖堤(さいこてい)」があります。白楽天、蘇東坡など、古くからの文人の憧れの景勝地である中国杭州の西湖の湖面を直線的に分ける堤防を縮景したものだそうです。異国情緒を取り入れたものとされ、小石川後楽園(東京都)や、縮景園(広島県)など、現存する大名庭園にもある様式といいます。
Img_6680c 西湖堤を渡り、渡し場を通り、牡丹園の南から西側に渡ると、瑞龍亭に至ります。瑞龍亭には、南側から入れます。入って行くImg_6682cと、瑞龍亭の前にこれはたぶん休み処。休み処と瑞龍亭との間に、鹿威しや灯籠。鹿威し、何だか気になります。改めて調べてみたら、「添水(そうず)」ともいうようです。もとはその名の通り、田畑を荒らす鳥獣を音で脅す仕掛けだったものが、庭園などに設けられ、その音を楽しむようになったといいます。今回も、動画を撮ってきました(ココログが更新されて、動画の挿入方法がまだ分かりません)。
Img_6701c こちらが瑞龍亭。尾張徳川家2代藩主・光友公の諡號「瑞龍院」から名づけられた茶室。龍仙湖の西の高台にあり、龍仙湖の彼Img_6688c方に西湖堤を眺望できるところにあります。織田有楽斎を始祖とし、かつては尾張徳川家で重用された尾州有楽流に因み、有楽好みの様式を取り入れているそうです。織田有楽は、安土桃山・江戸前期の武将。織田信秀の11男。関ヶ原の戦では家康にしたがっています。晩年は茶道に親しみ、千利休の高弟の一人。

Img_6684c 鹿威しの手前には、「関守石(せきもりいし)」があります。私自身は、ここで見るまで知らなかったのですが、茶庭で路地
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の飛び石の岐路において、通行止めの標識とする石だそうです。蕨縄(わらびなわ)や、棕櫚縄(しゅろなわ)で十文字に結ぶものだといいます。瑞龍亭から、観仙楼の前を通って行きたかったのですが、この日は、観仙楼で結婚式が行われていて通れませんでした。
Img_6688c そこで瑞龍亭の東にある、おそらく砂州に見立てられたところを通って、牡丹園のところから、渡し場、再び西湖堤を渡りまImg_6671cした。ボタンはまだこれから。それにしても、この龍仙湖の回りの景色、なかなかのものです。私自身、こういう水があって広々とした空間が好きで、落ち着くのですが、ここはその中でもベストワンになるくらいと思います。
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 瑞龍亭を砂州のところから見上げた写真。なかなかの景色と思います。新緑の季節や、紅葉の季節にまた来て見たいと思わせられます。
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 龍仙湖の東側を戻り、観仙楼のそばへ。ここからは虎の尾の西と、「龍門の瀧(りゅうもんのたき)」からのImg_6719c流れの間の石段を登っていくことにしました。龍門爆ともいわれ、鯉が滝を登り切ってりゅうとなったという龍門伝説に基づく瀧の形式の一つだそうです。尾張家江戸下屋敷にあった瀧の石を使って再現したものです。尾張家江戸下屋敷は、戸山屋敷ともいわれ(現在の東京都新宿区戸山町あたり)、平成10(1998)年、早稲田大学の敷地内で江戸時代の大規模な石組みが見つかり、調査の結果、戸山屋敷にあった龍門の瀧の以降であることが確認されたといいます。伊豆石といわれる安山岩で、徳川園はこれを譲り受け、戸山屋敷の龍門の瀧を蘇らせたのだそうです。
Img_6724c これで庭園はほぼ一通り見て回りました。黒門口の南にある「徳川園ショップ葵」を覗いて、他へ回りました。このショップImg_6651cには、地元の名産品などのお土産の他、伝統工芸品、和菓子などいろいろなものを売っていましたが、今回はお買い上げなし。そうそう、龍仙湖にはたくさんの鯉がいました。中でも目だったのは、右の写真にあるような金色の鯉。さすが尾張徳川家などと思ってしまいました(微笑)。
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 左の写真、正面が徳川美術館。ここも見たいところでしたが、今回は、JRさわやかウォーキングでゴール時間に制限(15時)がありましたので、泣く泣く諦めました。4月7日までは「尾張徳川家の雛まつり」という展覧会が開催されています。その他、名品コレクション展示として、武家のシンボル(刀剣、武具)、大名の数寄(茶道具)、室礼(書院飾り)などの常設展示もありますから、また是非とも来て、見てみたいと思っています。
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 こちらは、名古屋市蓬左文庫。蓬左文庫は、尾張徳川家の旧蔵書を中心に和漢の優れた古典籍を所蔵しています。現在の蔵書Img_6728c数は、約11万点にものぼるといいます。書籍以外にも、尾張徳川家に伝わる絵図、2,000枚以上を所有しています。蓬左文庫は、尾張藩の御文庫に始まります。御文庫は、元和2(1616)年、徳川家康が亡くなったことにより、その遺品の多くが、尾張、紀伊、水戸の御三家に分譲され、後に駿河御譲本と呼ばれる家康の蔵書3,000冊が尾張徳川家に送られたことに始まるといいます。蔵書は拡大され、幕末期には約5万点になったと推定されています。
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 その他、徳川園内にあるものを見て回ってきました。この写真は、釣瓶井戸。黒門の内側、南にあります。石造の井戸で、木造切妻杉皮葺の屋形があります。明治33(1900)年頃につくられています。国の登録有形文化財です。井桁が1.95m角の花崗岩、釣瓶の高さが2.4mという大きなものです。
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 徳川園黒門。木造、瓦葺き。これも登録有形文化財。間口は3.6m。潜戸が付いています。明治32(1899)年に建てられています。黒塗りの旧徳川家大曽根堤の表門です。薬医門。2本の柱の背後に控え柱を立て、切妻屋根がかけてあります。三ツ葉葵の紋の瓦が載っています。装飾は謙虚ですが、いかにも大名屋敷の門という風格があります。
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 脇長屋。黒門に連続してその南側にあります。木造平屋建て、瓦葺き、建坪は127平方メートル。明治33(1900)年頃に建てられ、その後2回改修されています。桁行」19.6m、梁間6.6mで入母屋造。西側は、連続する塀に合わせて、腰を下見板張り、上部を白漆喰塗りとしてあります。武者窓もついています。ここは、徳川園の管理事務所になっているようです。
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 徳川園の塀。これは、黒門東の蘇山荘のところ。木造瓦葺き。総延長は84m。潜り戸があります。明治33(1900)年頃につBunka05くられ、平成16(2004)年に改修されています。この写真の辺りは、傾斜地になっていて、階段状の塀です。蘇山荘は、昭和12(1937)年に名古屋市が開催した「名古屋汎太平洋平和博覧会」の折りに迎賓館として建てられたもの。昭和22(1947)~平成8(1996)年までは名古屋市の公営結婚式場として使われ、その後、平成16(2004)年からは喫茶室として活用されています。写真は、徳川園のサイトからお借りしました。
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 これで徳川園の見学終了。時刻は10時40分。徳川園を出たところで、スタートから2.6㎞。徳川園内をよく歩きました。ちなみに、このあたりは名古屋市東区徳川町。徳川が地名になっているのです。ここから次は、三菱UFJ銀行貨幣資料館へ向かいますが、それはその2にて。ココログのメンテナンス、トラブルを経て、ようやくJRさわやかウォーキング(大曽根)の本編その1がアップロードできます。投稿画面がかなり変わり、まだ十分習熟していません。それに、今のところコピー&ペーストをどのようにするか不明で、ちょっと苦労しています。その2以降もなるべく早く投稿しようと思っています。

九華公園のソメイヨシノ、シダレザクラは一部でつぼみが膨らむ……ココログのメンテナンスが長引いて、参りました

Img_7498c 昨日、1時から13時の予定で、このブログ・ココログのメンテナンスが行われていました。しかし、夕方になっても、夜になってもメンテナンスが終わった様子はありません。夜8時過ぎになって、メンテナンスは終了したようでしたが、今度は、ココログの管理ページにログインできない状況が続いていました。ようやく今日の15時過ぎにログインできたのですが、このブログのページからは入れず、@niftyのトップページからでないとログインできません。さらに、いったん新しい管理ページで記事を書いて投稿したつもりが、反映されていませんでした。管理画面、投稿画面、写真のアップロード方法などが新しくなって、何かミスをしでかしたのかもしれませんが、困りました。ブログを書くというのは、私にとって、日課の重要な部分をなしているのです。冒頭の写真は、寺町商店街の北の端の広場の河津桜の様子。葉桜が目立ってきています。
Img_3725c という次第で、昨日は投稿できませんでしたので、少しだけ記録&記憶のために昨日のことから。昨日の九華公園、カモは50羽と例年並みの数に。ハシビロガモが3ペア、ヒドリガモが2ペアで、他はキンクロハジロでした。また、ユリカモメが4羽飛来。よくみると、中には顔というか、頭というか、黒くなり始めています。これは、夏羽に換羽中。まだガングロとまではいきませんが、これから次第に頭部は黒褐色になっていくはずです。散歩は、住吉神社、九華公園などを5.7㎞でした。
 さて、今日もいつも通り散歩。8時30分から正午前にかけて、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀南公園、入江葭町、京町、寺町と5.2㎞。距離が短い割りに時間がかかっています。こういうときは、知人多数に出会って、あちこちでしゃべっていたという次第(笑)。
Img_3842c 揖斐川も、住吉入江も鳥はあまりいませんでしたが、三の丸水門の下流側で、ヒバリが2羽。しばらく見ませんでした。柿安コミュニティパークの南の端あたりまで来て見つけました。この写真はオスのようで、これは「揚げ雲雀」の途中。写真では分かりませんが、このあとさらに上昇して、さえずっていました。しばらくさえずったあと、堤防の河川敷に降りてきましたので、巣があるのかもしれません。さらに観察を続けなければなりません。
Img_3862c 九華公園のカモ、今日は40羽。ヒドリガモはおらず、ハシビロガモが3ペアとキンクロハジロたちでした。堀めぐりの行灯や、係留された船にも慣れてきたかと思っていましたが、昨日よりも10羽減っています。誤差か、変動か、あるいは帰っていったのかは不明。今日は暖かかったので、堀のあちこちを活発に移動していました。
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 奥平屋敷跡では、モズ。花菖蒲園のすぐ脇の樹上に。昨日、知人はモズのカップルらしき2羽を見たといっていました。モズたImg_3858cちもそろそろカップルをつくって、山に帰っていく頃かも知れません。ツグミは今日も、三の丸公園、九華公園、貝塚公園などあちこちで見ます。右は、九華公園の二の丸跡で撮ったもの。


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 最近、集団もしくは、2羽(つがいと思われます)でよく見るのは、カワラヒワ。それも、地面に降りて餌を拾っているところをよく見ます。九華公園でも毎年、繁殖していると思います。雛を連れているのは見かけますが、巣は見つけられません。木の高いところにつくるということもあり、見たことはありません。今年こそ見つけたいといつも思うのですが、なかなか難しい。今年も、「今年こそ」と思うことにします(微笑)。

Img_7471c シメは、九華公園には今日は2羽。本丸跡と、奥平屋敷跡。4羽いたこともありましたが、このところは2羽。左は、本丸跡にImg_3870cいたシメ。本丸跡には中央に大木があり、いつもその下で餌を食べています。もうじきこの光景が見られなくなるかと思うと、ちょっと淋しい気がします。右の写真、不出来ではありますが、シメが飛び立ったところ。何枚か撮ったうちに写っていたもの。

Img_3902c 九華公園から貝塚公園へ行こうと、九華公園の外周遊歩道を歩いていたら二の丸橋近くで鳥が2羽ソメイヨシノの木に飛んできました。こういう場合、とにかくシャッターを押します。すぐに飛び去ってしまいましたので、肉眼ではなんだか分かりませんでしたが、アオジでした。九華公園では、2年に1回くらい見ます。ツツジの植え込みしか、藪のようなところはありませんので、滞在することはなさそうですが、こういうことがありますから、散歩&バードウォッチングは止められません。
Img_3913c 貝塚公園、去年までは、冬鳥も割りと多く、楽しみにいっていたのですが、今年はまさに「閑古鳥が鳴く」状態でした。何年Img_7478cか前には、珍しいヒタキも観察したことがありました。しかし、ここに来て、ヒヨドリ、カワラヒワ、シロハラの他、ツグミなども来るようになっていますし、モズ、シジュウカラ、時にメジロも見るようになっています。実際に行かないと、鳥がいるかいないか分かりませんからずっと観察を続けています。
Img_3971c 寺町商店街の河津桜、冒頭にも書きましたが、葉桜は目立ってきたものの、「桜メジロ」を撮りたいので、今日も見て来ましImg_3965cた。今日もけっこう多く、20羽くらいが出て来ていました。ヒヨドリは時折乱入するものの、それなりに場所を棲み分けているようです。メジロ、動き回りますし、写真を撮りやすいところに出てくるとは限りませんので、なかなか難しい。昨日、私よりも高齢の男性もコンデジを持って撮りに来ておられましたが、コンデジではさらに難しそう。その男性がおっしゃるには、「自宅に17日にツバメが来た」そうです。毎年来るそうで、去年より6日早いということでした。もう3月も中旬ですから、ツバメを見る頃になりました。新宮西橋のイワツバメ食もうけっこう飛んでいるようです。そちらも見に行かないといけません(微笑)。
Img_3876c 九華公園、桜の名所となっています。450~500本ほどあるといいます。敷地は結構広いので、場所によって異なりますが、Img_3885c例年、本丸跡の西側あたり(時計塔や、ブランコがあるところ)がもっとも早く咲きます。今日見たら、左の写真のように、つぼみが膨らんで、ピンク色が見えてきていました。野球場の南にあるシダレザクラも、濃いピンク色が見えてきていました(右の写真)。このあたりは2~3日中に咲くかも知れません。
Img_7494c ココログのメンテナンス、トラブルもあって、先日のJRさわやかウォーキング(大曽根)の本編の記事も遅れています。その1として、徳川園の記事を書いていたのですが、かなり書き進んだところで、1/3くらいがぶっ飛んだりしたこともあって、ガックリ。気を取り直して、また早めに書こうと思っていますので、ゆっくりとお待ちくだされば幸いです。4月からの講義の準備も進めなくてはなりませんし、4月中旬には東海地区K-ABC研究会が予定されています(明日以降、このブログでも周知する予定)。その準備もあります。春が来たと浮かれていてはいけません(苦笑)。この写真、寺町商店街の河津桜のところにあったゆめはまちゃんのパネル。先日の花見茶屋の時、本物が来たはず。

2019年3月18日 (月)

ウグイスの鳴き声(動画あります)……寺町で「桜メジロ」

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 今朝は冷えたなと思ったら、最低気温は0℃でした。日中は風も弱く、気温も13℃を超え、暖かくなりました。3月は、春めいてくるとはいえ、気候も安定しません。いつも通り、8時20分頃から、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀南公園、入江葭町、京町、寺町と6.3㎞を歩いてきました。
Img_3504c 住吉入江には、まだあの翼を痛めたヒドリガモのオスがいます。ホシハジロImg_7309c のオスもいましたが、この頃は姿が見られず、北へ帰ったのかと思います。このヒドリガモ、帰れるのでしょうか。ちょっと気になるところ。揖斐川も水鳥の姿はかなり少なくなってしまいました。水門などにコガモや、ヒドリガモは少しいますが、カンムリカイツブリは数えるほど。今日は2羽のみ。
Img_3532c ジョウビタキも見なくなってきた印象がありましたが、三の丸公園でオスが1Img_3507c 羽。そっと近づくと、割りと接近できます。ツグミもまだまだあちこちで見ます。今日は、三の丸公園で2羽、船津屋裏の河川敷で1羽(右の写真)、九華公園で2羽、貝塚公園で1羽でした。
Img_7330c 九華公園には、まだシロハラも、シメもいます。これらはいずれも、奥平屋Img_7334c 敷跡にて。シメは、もっとも多いときには4羽いましたが、さすがにこのところは、1~2羽になったようです。
Img_3567c カモは48羽。ハシビロガモのオスが3羽、メスが4羽、ヒドリガモは1ペアで、他はキンクロハジロ。堀の行灯に少し慣れて戻って来たと思われます。これくらいの数で、例年並みです。23日(土)からは堀めぐりが行われる予定。船が出ると、また減ってしまうでしょう。しかし、桜の開花がいつになるか、難しいところ。つぼみはみどりが見えてきてはいますが、まだ十分に膨らんではいません。
Img_3564c 鎮国守国神社の境内では、ウグイスが鳴いています。先日来、時々聞こえます。今日は姿を探して、写真には撮ったものの、ご覧のような、証拠写真以下のものしか撮れず(苦笑)。動画で鳴き声を記録してきました。
 まだ上手とはいいがたいのですが、お聞きください。
Img_3580c 貝塚公園では、シロハラと、ツグミ。他には、ヒヨドリ、カワラヒワ、シジュImg_3582c ウカラなどがいました。最近、シルバー人材センターの方によって、手入れが進み、藪になっていたところをかなり剪定されました。見通しはよくなり、歩きやすくなったのですが、鳥たちには堂なのでしょう。今日は、公園の南側のエリアでこれらの鳥を見ました。
Img_3601c 寺町商店街、今日は三八市でした。河津桜にメジロをもう少し撮りたいとImg_3616c 思って立ち寄って来ました。葉桜が少し目立ってきてはいましたが、河津桜、もう少し楽しめそうです。

2019年3月17日 (日)

寒くて雨も降り、鳥も人もおらず

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 冬に戻ったような日になっています。10時で気温は6℃。風も冷たく、10時前後には雨も降ってきました。8時半前からいつも通り散歩に出たものの、人も鳥もいません。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、寺町といつものところを一通り回り、5.5㎞。10時15分には帰宅。
Img_3436c 鮮明な写真ではありませんが、ツグミのバトルシーン。三の丸公園にて。Img_3441c 時々、ツグミもこうして争っているのを見ます。縄張りか、餌を巡ってか? 仕掛けてきた方が勝ったようで、前にいる方が逃げていき、決着がつきました。
Img_3469c 九華公園でも鳥はあまりいません。奥平屋敷跡でコゲラ。見たのは久しぶImg_3457c り。細い枝をつついて、虫のようなものを引っ張り出していました。こんな細い枝にも虫が隠れているものなんだと思いました。このコゲラ、オスでした(右の写真)。朱い羽毛がチラッと見えたのです。
 
Img_3478c シメは、奥平屋敷跡と、本丸跡で、計2羽。曇天で暗く、証拠写真しか撮れまImg_3487c せん。カモはちょっと数が増えて、47羽。ハシビロガモのオス3羽、メス3羽とキンクロハジロ。ユリカモメは3羽が飛来。外周遊歩道の南や、朝日丸跡で餌をやる人があり、そこに集まっていました。
Img_3497c 寺町商店街の河津桜にメジロがこないかと思ったのですが、ヒヨドリが10Img_7294c 羽以上いただけ。この頃から雨が降ってきて、退散することにしました。寺町商店街では、河津桜の開花に合わせて、昨日から明日まで「花見茶屋」が行われています(明日は、普段は月曜で定休日ですが、18日なので三八市が開催されます)。手作りのバッグを売る店や、唐揚げなどの移動販売が出ていました。

2019年3月16日 (土)

20190316JRさわやかウォーキング「早咲きの「桜みちまつり」を抜け「旅まつり名古屋2019」へ」へ(予告編)

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 風はあったものの、気温は14℃を超え、絶好のウォーキング日和でした。予定通り、JRさわやかウォーキング「早咲きの「桜みちまつり」を抜け「旅まつり名古屋2019」へ」へ行ってきました。受付は、JR中央線・大曽根駅で8時半から11時。いよいよ、ハイキング/ウォーキングも、JR中央線に進出です(微笑)。今日のところは、予告編。
Img_6535c 桑名駅を8時38分発のJR関西線名古屋行き普通電車に乗車。名古屋着は、9時9分。いったん改札を出て、名古屋駅発9時16分の中央線・神領行きに乗り換え。大曽根駅には9時28分到着。料金は、¥350+¥200=¥500なり。
Img_6552c 本日のコースマップ。大曽根駅をスタートして、まずは徳川園へ。その後、三菱UFJ銀行貨幣資料館に立ち寄って、文化のみちエリアへ。二葉館、山吹谷公園、橦木館を経て、名古屋市市政資料館。そのあと、名古屋城外壁、テレビ塔を見て、久屋大通公園がゴール。コースマップ上は約6.8㎞となっていました。
190316jrwalkingoozonec_2  こちらが実際に歩いた、実測ルートマップ。実は、名古屋市市政資料館を出た後、清水橋を越えたところで、矢印を見逃して、コースミス。そのお陰で、1.5㎞ほど余分に歩いてしまいました。正しいルートは、朱い矢印を入れたものでした。徳川園で、庭園を見るのに歩き回ったこともあって、最終的に地下鉄・矢場町駅に着いたときには、11.7㎞ほど歩いていました(苦笑)。
Img_6543c_2 大曽根駅でコースマップを受け取り、スタートしたのは、9時35分でした。Img_6550c 大曽根駅は、現在、耐震補強工事と、リニューアル工事が行われていて(こちら)、外の駅名表示が確認できませんでした。
Img_6560c 1㎞足らずで、徳川園へ。東側の入り口Img_6567c から入園。徳川美術館と蓬左文庫が併設されています。徳川園は、徳川御三家筆頭である、尾張藩二代藩主光友が、元禄8(1695)年に自らの造営による隠居所である大曽根屋敷に移り住んだことを起源としています。
Img_6569c 徳川園も、美術館も蓬左文庫も一度来て見たいと、かねがね思っていたところです。本来であれば、すべて見て回りたいところですが、ゴール受付時間も設定されていますので(15時まで)、今日は、庭園だけを廃刊することに決めていました。庭園のみの拝観であれば、¥300。
Img_6658c 池泉回遊式の日本庭園となっています。江戸時代の主だった大名庭園Img_6660c と同じ様式。清流が滝から渓谷を下り、海に見立てた池へと流れるありさまがつくられており、日本の自然景観を象徴的に凝縮しているといえます。ほぼ一周してきましたので、この庭園内だけで1.2㎞ほど歩きました。しかしそれにしても、さすがに尾張徳川家のつくった庭園。見事の一言に尽きます。歴史、その様子などの詳細は、本編にて。
Img_6737c 庭園の西側にある徳川園黒門(とくがわえんくろもん)。登録有形文化財です。木造、瓦葺、間口3.6m、潜戸付。明治32(1899)年の建設。徳川園の西に開く黒塗りの旧尾張徳川家大曽根邸の表門で、木割の太い強固な趣を持つ薬医門となっています。薬医門は、2本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切妻屋根をかけた門。
Img_6739c 薬医門に向かって右(南側)に隣接しているのが、脇長屋(わきながや)です。これも登録有形文化財。入母屋造の建物で、黒門や塀と連続して旧尾張徳川家大曽根邸の面影を残しています。木造平屋建、瓦葺、建築面積127㎡。明治33(1900)年頃の建築。軒巴には六葉葵紋があります。武者窓などもあり、武家の長屋となっています。徳川園には9時50分について、10時40分頃までいました。
Img_6759c 余談ですが、このあたりは、名古屋市東区徳川町。「ははぁー」とか、「控えおろう!」などと思ったりしました(笑)。立ち並んでいる住宅はどれも広く、大きくて立派。マンションなども、高級感があふれています。
Img_6815c 次いで、三菱UFJ銀行貨幣資料館へ。スタートから3.5㎞、10時55分。ここもその存在は以前から知っていて、訪ねたかったところです。できれば、今日のような混雑する日でなく、平日の空いたときにゆっくり見たいものです。日本だけでなく、世界各国の貨幣約1万点が常設展示され、和同開珎、大判・小判から現代の紙幣までが体系的に展示されています。なかには、世界最古の貨幣「殷の貝貨」、エジプト「クレオパトラ女王の銀貨」など世界の珍しい貨幣もあります。今日は、大賑わいでゆっくり見て回る余裕がなく、とても残念。
Img_6773c そういうこともあろうかと思い、事前の予習で、必ず見るもの3点を決めていきました。その一つが、江戸時代の両替屋を復元したモデル。両替屋は、江戸時代に金融機関の役割を果たしました。大名や商人を相手に、預金・貸付を行うとともに、金・銀・銅の三貨幣と藩札などの両替や、遠隔地との商取引にともなう為替業務も営んでいました。当時実際に使われた道具(天秤、舟箪笥(ふなだんす)等)も展示されています。
Img_6802c もう一つが、世界最大の金貨である、豊臣秀吉がつくらせた天正沢瀉Img_6805c (おもだか)大判(天正大判については、こちら)。現存するのは、3枚だそうです。裏面中央におもだか(池や沼に生える植物の名)の紋が打たれています。裏の墨書きは所持人で、秀吉から大名に下賜され、手形の裏書と同様に人手に渡るごとに名前や花押が記されたそうです。
Img_6807c 3点目は、こちら、万両箱。千両箱は、テレビや映画の時代劇でもよく出て来ますが、万両箱は珍しい。その名の通り、一万両の大金を保管する金庫。この万両箱は、江戸時代から明治維新の時まで、京都二条城のご金蔵に格納されていたと伝わっているものです。外側は鉄帯でからめられ、内部は一面に厚い南蛮鉄が厳重に張られているといいます。重量は約150kgもあり、一万両入ったらもっと重いわけですから、盗むに盗めないような気がします。
Img_6785c ちなみに、千両箱の複製も展示されていました。千両箱自体が6㎏、安政小判1,000枚で9㎏、合計15㎏になるそうです。千両箱でさえ、ヒョイと担いで逃げられるものではありませんでした。
Img_6909c 続いて、文化のみちにある二葉館(ふたばかん)へ。オレンジ色の洋風屋根が目立つ外観です。このあたりには、オオカンザクラが植えられていて、満開でした。名古屋でもっとも早く咲く桜だそうです。ちょうど、「早咲き!桜みちまつり」のイベントが行われており、さらに、今日は、地下鉄の駅ちかウォーキング「千種区巡る「ちくさんぽ」から、東区「早咲き!桜みちまつり」コース」も開催され、二葉館は大混雑。コンサートなどのイベントも行われていて、これは観られないかと諦めかけたのですが、せっかく来たからにはと思い直し、内部も見て来ました。ウォーキング割引で¥160。
Img_6845c 二葉館はもともと、日本初の女優と謳われた川上貞奴と、 電力王と称さImg_6899c れた福沢桃介が、大正から昭和初期にかけて暮らしていた邸宅を移築・復元したものです。貞奴の関連資料を展示するとともに、郷土ゆかりの文学資料の保存・展示が行われています。たとえば、城山三郎さんの書斎も再現されていて、興味深く見て来ました。
Img_6915c 二葉館から100mほどのところに山吹谷公園。「尾張名所図会」には、「暮春の比は遊蕩の諸人、酒さかなを携え来り、山吹の花を愛でつつ歌ひ舞ひなどせし地なるが、いつしか武家の宅地となりて、今なほ山吹のところどころに残れるは昔のおもかげぞかし」とあります。山吹の花の季節(4~5月)にはやや早かったようです。今日は、桜みちまつりのイベント会場になっていました。
Img_6923c 山吹谷公園の向かいにあるのが橦木館(しゅもくかん)。入館料は、二葉館同様に¥160。ここは、輸出陶磁器商・井元為三郎によって大正末期から昭和初期に建てられました。現在は、和館、洋Img_6932c 館、東西二棟の蔵、茶室、庭園が残されています。平成8(1996)年に名古屋市有形文化財に指定されました。江戸時代の武家屋敷町がルーツですが、広い敷地と陶磁器の生産地で有名な瀬戸・多治見の両街道や堀川にも近く、船積みにも便利だったことから、明治半ばには陶磁器の絵付け・加工業者などが集まるようになりました。昭和初期には、名古屋市東区界隈に600をこえる上絵付け工場があり、最盛期には、日本で作られた輸出用の陶磁器の7〜8割が、この地域で生産(絵付け加工)されていたといいます。
Img_6965c 井元為三郎は、明治6(1873)年生まれ。16歳で有田系の商店に入り、明治30(1897)年、24歳で独立し、橦木町に隣接する飯田町に井元商店(現井元産業株式会社)をかまえました。後に、陶磁器以外に医薬品や雑貨も扱うようになり、大正13(1924)年、名古屋陶磁器貿易商工同業組合の組合長に就任。その富をもとに、建てられたのがここ井元邸です。為三郎の処世訓は、「幸福は我が心にあり」だそうです。
Img_6998c 橦木館からは700mほど行ったところに名古屋市市政資料館があります。Img_7012c ここはすでに何度も訪れて、ほとんど見学しています。先だっても、2月24日に行ってきました(今日は、支援員養成講座で名古屋へ)。そのため、内部は、ステンドグラスと、留置場だけを見て来ました。
Img_7034c 市政資料館にも、オオカンザクラがあります。オオカンザクラは、3月下旬に、ソメイヨシノに1週間ほど先だって咲き始めます。市政資料館で12時25分でした。
Img_7063c 市政資料館から北へ。清水橋。ここは、名古屋城の東の要所とされていImg_7047c たところ。今は、普通の道路となっているのですが、堀後や石垣が残っています。交差点のところは、清水橋街園になっているのですが、石碑が1つあります。以前から気になっていたのですが、今日、ようやく確かめてこられました。清水橋街園は、昔の名古屋城の東門の跡地のようです。石碑は、「加藤忠四郎翁碑」でした。名古屋にあった陸軍第三師団への貢献が大ということで、昭和6(1931)年4月、陸軍によって建てられたもののようです。
Img_7088c この先、名鉄瀬戸線が地上に出るところを過ぎてすぐに左折すべきでしたが、案内の矢印を見逃して、直進してしまい、1.5㎞ほど余分に歩いてしまいました。柳原一丁目交差点で曲がるところを、柳原三丁目まで行き、左折を2度繰り返して、ようやく本来のルートに。地下鉄名城公園駅の方まで大回りしてしまいました。名城公園のところを南下。
Img_7095c 名城公園南の交差点で正規ルートに戻れました。このあとは、名古屋城Img_7097c の東側の外壁に沿って久屋大通公園を目指します。名城公園南の交差点を南下してすぐ、名古屋城の天守閣が遠望できました。名古屋城や、本丸御殿も見たかったのですが、それはまたいずれかの機会に。
Img_7115c 名城公園横につくられた「金シャチ横町」を通り抜けます。開業当初のような混雑はありませんでしたが、どこもそれなり賑わっていましたので、通過しただけです。ほぼ8~9㎞のあたり。それなりによいお値段が付いていますし、JRさわやかウォーキングなどのハイキングイベント参加h差の他、多数の方もありましたので、それであきらめまた。
Img_7131c スタートからほぼ9㎞。市役所交差点から見た、名古屋市役所と、愛知県庁。いずれも「定冠様式」といい、近代的なビルに和風の瓦屋根を載せています。向かって左が名古屋市役所。昭和8(1933)年に竣工。昭和天皇即位の記念事業として建設されたもので、公募によって選ばれた平林金吾の設計を基にています。愛知県庁は、昭和13(1938)年に完成。こちらも、昭和天皇御大典の記念事業の1つとして建設されました。西村好時と渡辺仁の基本設計を基に、工事顧問の佐野利器、土屋純一の指導の下、愛知県総務部営繕課が実施設計を行っています。
Img_7184c さらに南に進み、10㎞地点のあたりに名古屋テレビ塔。現在は、耐震改修工事のため、今年(2019年)1月7日からすべての施設が休業中。リニューアルオープンは2020年夏頃の予定です。昭和29(1954)年6月に竣工した、日本で最初に完成した集約電波塔(高さ180m)です。私と同級生ということです(微笑)。設計者は内藤多仲。通称「名古屋のテレビ塔」「栄のテレビ塔」また単に「テレビ塔」とも呼ばれ、名古屋市中心部のシンボルとして親しまれていますが、平成23(2011)年7月にアナログ放送が終了したため、デジタル放送に完全移行された現在、名古屋地区でのテレビ放送は、瀬戸市にある瀬戸デジタルタワーから送信されています。
Img_7186c テレビ塔のすぐ南には、オアシス21があります。公園やバスターミナルなどの公共施設と商業施設との複合施設で、平成14(2002)年10月、正式オープンしています。隣接する栄公園にはNHK名古屋放送局と愛知芸術文化センターがあります。今日は、e-スポーツのイベントが開催されていました。吹き抜けの地下広場の真上には、「水の宇宙船(大屋根)」があります。地面はガラス張りで、中央から水がやさしく流れて銀河の広場に光の波紋が描かれます。水面の周りには園路があります。
Img_7220c 久屋大通公園のゴール地点では、第31回の旅まつりが開催されていImg_7221c ました。各地方自治体の観光案内や、ご当地グルメや、特産品が紹介されるイベント。この中にJR東海のブースがあり、そこがゴール。スタートからは、約11㎞、時刻は14時ちょうど。スタートしたのが9時35分でしたから、4時間25分かかりました。
Img_7235c JRさわやかウォーキングのスタンプは4個目。改めて見て気づきましたImg_7239c が、月1回のペースです。ここでお昼にしようと思って歩いてきました。ざっと見て、昼ご飯になりそうなものは案外少なく、結局、鹿児島県のショップで「黒豚焼きそば」を¥500でゲット。黒豚のはずですが、私のような味音痴には、普通の豚肉と区別が付きません(微笑)。魅力的な生ビールも売っていたのですが、今日のところは断念。
Img_7248c 久屋大通公園で黒豚焼きそばを食べ、20分ほど休憩。14時20分に会場を出て市営地下鉄名城線・矢場町駅に。電車で帰るには、ここ地下鉄・矢場町」まで歩かねばなりません。ここまでが11.7㎞。時刻は、14時25分。14時27分の右回り環状線に乗車。14時30分に久屋大通駅に到着し、桜通線に乗り換え。14時36分発車。名古屋駅には、14時41分の到着。¥240。JR名古屋駅を15時3分に出る、関西線・亀山行き快速に乗車。桑名駅には、15時27分に到着。¥350。
Img_7262c 今日のALKOOの計測結果。19.6㎞歩いたというのは、ちょっとアヤシいのですが、25,560歩はたぶんほぼ正確な歩数と思います。本編は、また、明日以降少しずつアップしていきます。

2019年3月15日 (金)

サギ山へ……マル秘シーンの写真あります(微笑)、排水機場でミサゴも確認

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 天気もよく、風も弱そうでしたから、弥富方面に出かけ、サギ山と排水機場でミサゴを見て来ました。8時20分に出て、弥富の排水機場に寄り、その後弥富野鳥園の駐車場にクルマを入れ、サギ山へ。野鳥園も見て、帰り道再び、排水機場に。
Img_6340c 排水機場、ミサゴがいました。しばらく見ていたのですが、動く気配はなし。ということで、野鳥園へ。このほか、アオサギ、ダイサギ、コガモ、ハシビロガモ、カワウなどがいました。
Img_6378c サギ山。高速道路脇の細長い森というか、林というか。高速道路下の県道を挟んで見ています。見える範囲では、40羽あまりのアオサギたち。まだ3月半ばですから、これくらいの数。最盛期には100羽以上、数え切れないくらいのアオサギが集まります。
Img_6349c こちらのご夫婦、嘴も濃いピンク色になっていますし、巣もできあがっているImg_6355c ようで、準備万端に見えます。アオサギの巣は、右の写真にもありますように、枝を並べただけの簡単なもの(のように見えますが、つくるには苦労があると思います)。
Img_3315c まだまだ巣作り中のペアもたくさんいます。巣材を見つけて運んでくるのImg_3231c は、オスで、巣を整えるのはメスとされます。巣は、木の枝を組み合わせた皿状のもの。日本では4~5月に、1回に3~5個の卵を産みます。同じ巣を修理して何年にもわたり使用しつづけるといいます。雌雄で抱卵・育雛を行います。抱卵期間は23~28日、雛は孵化してから50~55日で巣立ちます。
Img_3245c 巣が集まっていますから、時にはトラブルもあります。左の写真は、きっImg_3180c かけは不明ですが、揉めたようで、追いかけあっていました。ざっと見回しますと、右の写真のように、一見したところ、雛か?と思うようなアオサギさんも。嘴の色にはピンク色がないことや、色が全般に薄いのでそういう気がします。まさか、今年生まれ? よく分かりません。
Img_6386c  と思っているうちに、先ほど「準備万端か?」と思ったペアが、こういう行Img_3187c 動に及びました。これ、「18禁画像」であります(笑)。これはどう見ても、交尾です。まさか今日見られるとは思いませんでしたので、夢中でシャッターを切り続けました。ずいぶん長い時間だったように思ったのですが、カメラの時計で確認すると、3分ほどのできごとでした。無事に卵を産んで、雛を育ててくれることを祈ります。
Img_3217c 他にも、これは求愛行動のように見えました。すでにペアになっていますImg_3227c から、改めて必要はないようにも思いますが、どうなのでしょう? こちらによれば、やはり求愛のディスプレイのようです。写真にはありませんが、一連の行動の中に首をまっすぐ上に伸ばす姿勢がありました。これが求愛ディスプレイの特徴。首を伸ばす姿勢から「ストレッチ」と呼ばれるといいます。くちばしをほぼ垂直に持ち上げ、その後、脚を折りながら頭を背中側に倒すように下ろすのが一連の動作で、途中、ホッ、ホーという低くくぐもった声が発せられるそうです。また、改めて観察してみます。
Img_6483c せっかく来ましたので、弥富野鳥園にも寄って来ました。観察館の西の広場や、森にはツグミや、メジImg_6447c ロ、ウグイス、シロハラなどがいました。平日は、訪れる方もほとんどなく、静か。ちょっともったいない気もします。
Img_3359c 保護池に向かう途中、「お! こんなところにアオサギがいる」と思ったのImg_3356c ですが、騙されました(微笑)。よくできたデコイ(模型)でした(苦笑)。
Img_6466c 保護池の東の方には、本物もちゃんといましたので、ご安心ください(微Img_6498c 笑)。カワウも見えます。池には、キンクロハジロの姿も見えましたが、その数は20羽足らず。すでに北へ帰ってしまったように思います。観察館を出て、帰ろうと思ったら、上空にトビが3羽。証拠写真しか撮れず、残念。
Img_6512c 帰り道、再び、弥富の排水機場へ。ミサゴは、朝9時前に見たのと同じとImg_3394c ころ(と思います)にいました。棒杭の上に止まっていたのです。しばらくすると、飛び上がって、排水機場北のエリアでホバリング。「これは!」と思ったものの、いかんせん距離があり過ぎ。たぶん400mほど先。
Img_3397c 肉眼ではよく分からなかったのですが、魚をゲットしていました。鷲掴みにしたまま旋回の後、南西方面(木曽川の方向)へ飛び去ってしまいました。どこか、安全なところへ行って食べるのでしょう。残念。もう少しクリアな写真を撮りたかったところ。
Img_3410c 桑名まで戻って、11時過ぎ。九華公園にも寄って、カモの数だけ確認してImg_3414c きました。今日は、38羽。ハシビロガモが4ペアと、キンクロハジロたち。暖かかったせいか、カモたちは堀のあちこちを泳ぎ回っていました。キンクロさんも、右の写真のように、ペアをつくりつつあるようでした。
Img_6527c 今日は、九華橋の近くに堀めぐりの船が移動されてきていました。23日Img_6143c から始まるようですが、桜の開花やいかに? 
 明日は、雨は朝方で上がりそうですから、予定通り、JRさわやかウォーキング「早咲きの「桜みちまつり」を抜け「旅まつり名古屋2019」へ」へと思っています。徳川園は生きたかったのに、まだ行ったことがないところ。美術館も見たいとは思うのですが、時間があるでしょうか。

2019年3月14日 (木)

藤原岳には雪……冷えました

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 今朝の藤原岳の写真です。雪が降っています。最低気温は、2.4℃と冷えまImg_6285c した。風はあまりありませんが、曇っていますし、空気が冷たい感じです。空も、冬のイメージ満載。しかし、いつも通り散歩です。8時20分から11時にかけて、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、寺町と5.6㎞。
Img_3033c 住吉入江には、ヒドリガモのオス1羽と、キンクロハジロのメス1羽がいたもImg_3039c のの、揖斐川にはほとんど鳥影はありません。カンムリカイツブリをチラッと見たくらい。三の丸公園にはツグミが2羽。三の丸水門あたりもヒバリはいません。九華公園に来て、奥平屋敷跡でも(左の写真)、二の丸跡でも(右の写真)ツグミ。1月くらいまではほとんど姿を見なかったのに、この頃はツグミが目立ちます。
Img_3036c 今日の九華公園は、静かでした。ほとんど野鳥の声は聞こえず。寒さが戻Img_6307c って来て、おとなしくしているのか、もう帰ってしまった鳥もいるのか。シメは、奥平屋敷跡にての証拠写真(苦笑)。証拠写真ついでに、モズ。本丸跡にある辰巳櫓跡にて。曇天、逆光の位置、枝かぶりと三拍子揃いました(爆)。
Img_3042c カモたちは39羽。キンクロハジロたちもようやく慣れたのか、堀めぐりの行Img_6303c 灯があるところの近くに戻って来ました。3月9日に行灯が設置されましたから、慣れるのに4~5日かかったということでしょう。ハシビロガモが4ペア、ヒドリガモが2ペア(ただし、私が公園にいる間に、東の方(揖斐川方向)へ飛び立ちました)と、キンクロハジロたち。
Img_3044c シロハラにも2回遭遇。いずれも、奥平屋敷跡にて。同一個体かもしれまImg_6311c せん。左の写真は9時15分頃、右はその30分後に撮影。
Img_3072c 貝塚公園も静かでした。カワラヒワ、シメ、シロハラがいたものの、それらは撮れず。メジロが出て来たので1枚。
Img_3103c 寺町商店街、今日も行ってきました。河津桜は十分堪能したのですが、Img_3105c 「桜メジロ」を撮りたかったのです。15分ほどウロウロして待っていました。3~4羽のグループが、近所のお宅から出てくるのです。しかし、あまりよいところには出て来ませんでした。
Img_6320c ところで、我が家のすぐ東にある玉重橋。3月19日に橋梁点検があるという看板が750b34d5 出ていました。この橋は、漁船が住吉入江に避難できるよう、リフトアップできるのです。3年前にも見ています(2016年3月11日:玉重橋、リフトアップ……定期点検と、視察・交流会のため)。右の写真は、このときに撮ったもの。今回も見なくては。
 オマケ。週末は、16日にあるJRさわやかウォーキングへ行こうと計画中。「早咲きの「桜みちまつり」を抜け「旅まつり名古屋2019」へ」です(リンクは開催当日まで有効)。JR中央線・大曽根駅から、徳川園(徳川美術館などがあるところ)、三菱UFJ貨幣資料館、文化のみちにある二葉館、橦木館、名古屋市市政資料館などを回って、久屋大通公園までの約6.8㎞。今日の予報では、朝方までは雨であるものの、後回復ということです。

2019年3月13日 (水)

久しぶりのイソヒヨドリ……桑名別院のミモザと梅

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 朝方まで雨、いったん止んだものの、散歩に出ようと拙宅マンション前までImg_2868c 出たらまた降ってきて、10分ほど足止め。しかし、この間、虹も見えていました。8時半から住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀南公園、入江葭町、京町、寺町と6.3㎞。川沿いは強風。6~8m/s。
Img_2874c この強風では、揖斐川あたりには鳥はいません。ミサゴのみが、煽られながらも川の上空から獲物探し。セグロカモメも1羽飛んでいましたが、カモなどはまったく見えません。三の丸公園や、水門あたりには、ツグミ、スズメ、ムクドリなど。最近、ヒバリはまったく見られません。
Img_2915c 九華公園の北門を入ったところで、イソヒヨドリに遭遇。「久しぶり!」と声をかけたくなります(微笑)。そっと順光の位置まで回ろうとはしたものの、ちょっとポジショニングがイマイチでした。相撲場近くでツグミ。鎮国守国神社の社務所裏には、ヒヨドリやカラスたちだけ。
Img_2920c 奥平屋敷跡の入り口では、シメ。地面にいたのですが、私が歩いて行くと、Img_6238c かなり離れたところからもう警戒して、樹上へ。奥平屋敷跡では、堀めぐりに合わせて「灯りイベント」が催されるのですが、すでに準備が始まっていました。去年同様、「竹灯り」を行うようです。これがあるせいか、いつもなら姿が見えるハクセキレイやドバトもいません。
Img_2927c 奥平屋敷跡の南東にあるステージの裏でモズ。ミミズのようなものを咥えImg_2930c ています。初めはこちらには気づかなかったのですが、しばらくして気がついたのか、慌てて二の丸跡方面へ飛び去って行ってしまいました。
Img_6240c カモたちは、31羽。ハシビロガモのオス3羽、メス2羽、ヒドリガモが2ペアとキンクロハジロたち。左の写真は、二の丸堀の東側エリア。ハシビロガモとオオバンが写っています。橋は、二の丸橋。
Img_2957c  鎮国守国神社の境内では、エナガ。この1羽のみ。先日見たときも、単独行動。近くにいたのは、シジュウカラたち。その他、境内では、「ウメジロウ」も見たものの、すぐに逃げられて撮れず仕舞い(苦笑)。
Img_2963c もう1度公園内を回ったら、奥平屋敷跡でツグミ。今日のような風の強い日には、小型の野鳥はいません。まして、堀めぐりや、竹灯りイベントの準備がされていて、見慣れないものがあると出てこないと思われます。
Img_2990c 貝塚公園も、相変わらず静かでした。ヒヨドリ、カワラヒワの他には、シロハラをようやく見つけました。1羽のみ。
Img_2978c ところで、九華公園でツクシがでているのを見つけました。野球場の南の通路脇。数本が生えていました。九華公園でツクシを見たのは初めて(今まで気がつかなかっただけですが)。
Img_6257c 昨日、常信寺でミモザ、サンシュユ、ミツマタの花を見てきましたが、桑名Img_6259c 別院のところのミモザを見忘れていました。こちらの方が、いつも花がたくさん咲いて見事なのです。幸い、今日はよく晴れて青空。青空をバックに黄色い花がよく映えます。
Img_6262c 別院の梅。つぼみはピンクがかっていますが、花はほとImg_3013c んど白。しべがかなり長いように思います。何という種類なのでしょう? 気になります。調べてはいますが、今のところ不明。詳しい方がいらしたら、ご教示ください。
Img_6273c 昨日の記事の最後に書いたことですが(常信寺でミモザ、ミツマタ、サンシュユ、ジンチョウゲ)、今日、写真を撮ってきました。寺町商店街公認のImg_6276c 「インスタ映えスポット」であります。いつも撮っている、右の河津桜の木が、このスポットです。寺町商店街の河津桜、盛りを過ぎつつあります。一部葉桜になってきています。
 オマケの話。4月からまた、江戸橋方面へ非常勤に通うことになっていますが、昨日、時間割や学年暦が届きました。入学式は4月5日。曜日とオリエンテーションが入る関係で、私が通う水曜は、4月17日が開講。7月末まで。無事につとめを果たさねばなりません。授業準備には着手していますが、もう3月も半ば。ちょっとスピードアップしなければ(微笑)。

2019年3月12日 (火)

常信寺でミモザ、ミツマタ、サンシュユ、ジンチョウゲ

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 晴れ時々曇り、午前中は少し雨もぱらつくという、微妙な天気。最高気温は14℃を超え、風は弱いのでまぁ散歩日和。いつも通りであります。8時20分スタート、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、寺町と6㎞ちょうど。
Img_2754c 今日は、久しぶりにユリカモメの写真から。といっても九華公園に来ていたImg_2775c のは、4羽のみ。カモを見ていたら、餌をもらえると思ったのか、こちらに向かってきたのです。
Img_6153c_2 その九華公園、昨日も載せましたが、堀めぐりの準備が行われ、行灯が並Img_2746c んでいます。これを巡って、カモたちの様子を見ますと、どうも種類によって行動が違う感じ。ヒドリガモや、ハシビロガモは、すでに慣れたのか、行灯に近いところにも平気でやって来て休んだり、餌を拾ったりしています。
Img_2752c これに対して、キンクロハジロたちは、行灯が並んでいない、堀の東側エリアに固まっています。毎年見ていると、そのうちキンクロたちもなれて、行灯の近くを泳ぎ始めると思います。そのカモたち、今日は、合計30羽。ハシビロガモのオス3羽、メス5羽、ヒドリガモが2ペアと、キンクロハジロたち。
Img_2750c 比較的よい天候でしたが、鳥たちは期待したほどは見られませんでした。住吉神社から揖斐川は、ヒドリガモや、キンクロハジロ、オオバン、カンムリカイツブリが少しいただけ。九華公園も、ゴイサギやアオサギはいません。ツグミは、二の丸跡にて。
Img_2785c シメは、奥平屋敷跡と、本丸跡にて。ただし、こんな写真しか撮れませImg_2796c ん。モズも、二の丸跡と、朝日丸跡とで見たものの、やはり今ひとつの写真。このほか、ウグイスも見たものの、植え込みからは出て来ません(知人は、鎮国守国神社の社務所裏でホーホケキョを聞いたといっていましたが)。
Img_2850c 貝塚公園では、モズ、シロハラなどがいたものの、撮影に失敗。今日は、恵まれていません(苦笑)。寺町商店街の河津桜でメジロを待っていたのですが、ヒヨドリがたくさん来ていて、メジロは出て来ません。それ故、今日は、「サクラヒヨ」(笑)。
Img_6183c  南寺町にある真宗高田派の常信寺へ。ミモザなどがそろそろ咲いているImg_2814c_2 だろうと見込んで。ミモザは、咲き始めていました。
Img_2818c 左は、ミツマタの花。ミツマタは、仲春(啓蟄(3月6日頃)から清明の前日(4月4日頃)まで)の季語だそうです。その皮は、ご存じのように和紙の原料として用いられます。
Img_2835c こちらは、サンシュユ。中国や朝鮮半島が原産で、江戸時代・享保年間に薬用植物として入ってきたといいます。種子を取り除いて乾燥させた果肉(正確には偽果)は生薬として、強精薬、止血、解熱作用があるとされます。漢方薬の牛車腎気丸や、八味地黄丸等に使われているのだそうです。
Img_2842c ジンチョウゲ。室町時代頃に中国から入っていています。雌雄異株ですが、日本にある木は雄株が多く、挿し木で増やすそうです。果実は有毒といいます。ということで、常信寺は、この季節の花がたくさんあり、楽しめます。
Img_6213c 寺町商店街の河津桜、今が盛りのように思えます。たくさんの人がやって来て、見上げたり、写真を撮ったり。今日、よく見たら、ここにある3本の河津桜の中央にあるの木に「インスタ映えスポット 寺町商店街」という手作りの札がかけられていました。

2019年3月11日 (月)

九華公園のカモは21羽に激減……堀めぐりの準備は進み、3月23日から

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 雨は朝方まででほぼ上がりましたが、午前中は時々パラパラしていました。もっとよく晴れるかと思ったら、案外雲が多く、風の強い1日でした。昨日、雨の中、12㎞を2時間半で歩いたことの疲れもとくにありません。午前中は所用で、午後から強風の中、散歩をしてきました。住吉神社、九華公園、田町、寺町と4.6㎞。
Img_6111c 九華公園のカモたち、今日はとうとう21羽になっていました。いつもは午前Img_6087c_2 中に見ますから、観察条件が異なりますが、これだけ少なくなると、ちょっと淋しい。吉之丸堀の東側にかたまっています。ハシビロガモが6ペア、ヒドリガモが1ペア、他はキンクロハジロ。
Img_6109c カモが吉之丸堀の東側に集まっていたのは、たぶん、堀めぐりの準備で行Img_6113c 灯が並べられたためと思います。3月9日(土)に係の方が作業をしておられたのです。その堀めぐりは、今年は3月23日(土)から4月7日(日)まで開催の予定。この間、金曜、土曜の夜には、夜桜舟巡りがあります。午前10時~午後4時、料金は、大人(中学生以上)500円、小人(1歳以上小学生以下、保護者同伴)200円です。夜桜舟巡りは、午後6時30分~午後8時30分。詳細は、リンク先にあります。
Img_6070c 午後の時間帯でしたし、折からの強風で、野鳥はほとんどいませんでした。Img_6079c スズメ、ドバト、ハシボソガラス、カワラヒワの他、二の丸跡でツグミを2羽。
Img_6098c 本丸跡でシメ1羽。以上です(苦笑)。ちょっとさすがに張り合いがありません。七里の渡し跡では、ヒドリガモのペアが7組、コガモのペアが1組いましたが、それくらい。
Img_6123c 寺町商店街にも立ち寄って来ましたが、曇天では河津桜も今ひとつでした。

2019年3月10日 (日)

20190310近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅1日目~東海道、旅人気分で七里の渡しから富田へ」……雨天決行にて「完」

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 テレビ局によって微妙に天気予報が異なり、若干迷ったものの、9時の時点では降っていませんでしたので、予定通り、近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅1日目~東海道、旅人気分で七里の渡しから富田へ」にいってきました。「旅1日目」とありますように、桑名・七里の渡しから12日(12回)かけて、東海道、伊勢街道(参宮街道)を歩いて、伊勢参りに行くという、実に魅力的な企画。案内にも「雨天決行(荒天中止)」とありますから、取り敢えず出発。
Img_5839c 受付は、近鉄桑名駅。桑名駅の西口(いつも利用するのは、東口で、こちらImg_5841c はJR桑名駅)。9時半から受付開始ということで、9時に自宅を出て、残念ながら電車に乗っては行けませんので、徒歩にて(微笑)。西口まではほぼ1㎞。9時20分に到着。並んでいたのは、60名あまり。
Img_5848c 配布されたコースマップ。今日は、マップ上、約12㎞です。マップも両面のタImg_5850c イプ。近鉄名古屋線・桑名駅(西口)をスタート、七里の渡し跡、春日神社、とらや饅頭、桑名市博物館、矢田立場、東海道 つたや、町屋橋跡、朝明橋、富田の一里塚跡、富田菓庵 清華堂と回って、近鉄名古屋線・近鉄富田駅がゴールになっています。このうち、七里の渡し跡から、富田の一里塚跡の少し先までが、旧・東海道。桑名市内の初めの方1/3くらいは、いつもの散歩コースと似ています。
190310kintetsuhikingkuwanaall 結果的には、桑名市内の吉津屋見附跡あたりを歩いている頃から雨が降り始め、どこにも立ち寄らず、唯ひたすら歩いてきました(苦笑)。実測ルートマップも、コースマップとほとんど変わりません。今回、全体の図にはスタート、ゴール、距離しか入っていませんが、ご覧のように、桑名から南東にほぼまっすぐ、かなり広い範囲を歩きましたので、入れる余地がなかったのです。
190310kintetsuhikingkuwana1 もう少し詳しくした実測ルートマップ。スタートから町屋橋まで。七里の渡し跡に朱い星印を入れましたが、ここが、船を下りて、陸路での東海道のスタート。今日のルートは、ほぼ旧・東海道となっています。
Img_5858c 9時半に桑名駅西口をスタート。予想していたものの、朝、駅まで行ったImg_5862c ルートを逆に辿って、拙宅マンション前を通り、住吉入江の玉重橋へ。向こうは見慣れた諸戸氏庭園。ハイキングに来たという気分があまりしません(苦笑)。右が七里の渡し跡。鳥居は、伊勢一の鳥居。伊勢神宮のご遷宮の際、宇治橋のところの鳥居が払い下げられます。東海道は、名古屋の宮からここまで海上七里をやって来て、再びここから陸路。
Img_5865c 七里の渡し跡から少し進んだ、桑名市川口町あたりの旧・東海道。私にImg_5868c はもう数え切れないくらいの回数、通ったところ。今回のルートも、何度か歩きましたので、地図は見なくてもゴールまで辿りつけます。右は春日神社。立ち寄り先に設定されていましたが、今日はパス。春日神社の前にあるとらや饅頭も立ち寄り先でしたが、見る限りどなたも春日神社の方には向かいません。とらやさんには、当てが外れたのではないでしょうか。ちなみに、他2軒のお菓子屋さんも、立ち寄る方はごく少数でした(東海道 つたや富田菓庵 清華堂)。
Img_5870c 春日神社の先にある歴史を語る公園。旧・桑名城の堀に面しています。ここは、桑名城の石垣がほぼそのまま残っています。ただし、残念ながら、漁船やプレジャーボートが係留されています。私が桑名に来た頃からのことで、石垣を楽しむのには不適。
Img_5873c 京町にある桑名市博物館。今日は、春季企画展「進みゆく日本画 ―近代を映す あまたの美―」を開催中で、入館料¥150が¥70になるのですが、また今度ということでパス。この先には、京町見附があり、枡形があったのですが(赤丸のところ)、今はありません。京町見附跡で左折し、南下。吉津屋を通って行くと、現在、鍛冶町となっているところへ。ここにも見附がありました(吉津屋見附跡)。ここには現在も枡形が残っています。
Img_5879c  枡形を経て左折し、東へ。少し先、今は「いもや本店」というプラモデル屋(マImg_5864c ニアには有名)のところで右折して、南下。桑名市内の東海道沿いには、左の写真の隅にあるような「東海道」の案内の石柱が立っているのですが、ハイキング参加者の中にはこれに気づかない方も多数。これ、洒落てはいると思いますが、もっと分かりやすいものにしてもらわないと不親切です。同様に、旧跡を案内する看板(右の写真)も、ほとんど気づかれないようです。これ、文字も薄くなっていて読めません。これも改めてもらいたいところ。余談はともかく、このあたりから雨が降り始めてしまいました。「予想より早くて参ったな」というのが実感。「近鉄益生駅か、伊勢朝日駅までは行こう、そこでダメならリタイア」と弱気の虫が……。
Img_5887c この前後、寺社が多数あります。すべて触れるのも今までの記事の繰り返Img_5893c しになりますから、いくつか選んで。左は、泡洲崎八幡社。この付近、旧泡洲崎の鎮守。右は、十念寺。墓地には、明治維新の際に桑名藩の責任を負って切腹した森陳明(もりつらあき)の墓があります。また、境内には七福神が祀られ、毎年11月23日に七福神まつりが開かれています。
Img_5903c 3㎞半あたりには、かつて七曲見附がありました。ここを右折し、東海道は西へ。鍋屋町という名前の通り、鋳物師などが集まっていたところ。その途中に天武天皇社。天武天皇を祀る、全国で唯一の神社だそうです。
Img_5922c 途中を端折りますが(この先もです)、4㎞を過ぎて、国道1号線を渡ると、Img_5928c 矢田立場跡に来ます。立場は、宿場と宿場の間にあって、旅人が休憩する茶店などが集まっているところ。さらに進むと、江場松原跡。現在は、日立金属の工場になっていますが、江戸時代は松原で、鈴鹿山脈もよく見えたそうです。このあたりには、城南神社や、了順寺などもあります。
Img_5939c さらに南に進み、スタートから5㎞を過ぎて、国道258号線を地下道で潜り、町屋川近くまで来ると、伊勢両宮常夜灯。このあたりは安永の立場。かつては、名物として「安永餅」が売られていましたが、現在は売る店はありません。東海道は、この常夜灯の前を通っており、現在の町屋橋の上流に橋がかかっていました。
Img_5941c 今は、こちら、国道1号線の町屋橋を渡ります。したがって、ここだけ、旧190310kintetsuhikingkuwana2 東海道のルートからは少し外れます。このあたりから、実測ルートマップはその2。右のマップには、古い橋があったところは黄色い線で示してあります。町屋橋を渡ると、三重郡朝日町に入ります。朝日町内では、東海道はほぼ一本道で、迷うことはありません。
Img_5947c 町屋橋を渡ったところで6㎞。時刻は、10時50分過ぎ。朝日町に入り、しImg_5949c ばらく行くと、山口誓子句碑と、縄生一里塚跡が続きます。山口誓子の句碑には、「露けさよ祷りの指を唇に触れ」とあります。水谷タバコ店の前。建立は、昭和25(1950)年10月。縄生の一里塚跡は、右の写真のように、小さな石柱が立っているだけで、見逃しそうです。江戸日本橋からは、97里といいます。
Img_5952c 近鉄伊勢朝日駅のところで7㎞。雨は小降りながら、降りImg_5959c 続いていますので、折りたたみ傘を差しながらの道中。朝日町内にも、お寺や旧跡がありますが、おおかたは割愛します。右は、浄泉坊。真宗本願寺派。桑名藩にゆかりのあるお寺で、山門には三ツ葉葵のご紋があります。参勤交代の大名は駕籠を降りて黙礼したと伝わる寺。
Img_5963c JR関西線・朝日駅近くにある西光寺。真宗大谷派。安永6(1777)年の銘Img_5965c のある梵鐘があります。ここのお寺には、右の写真のように、立派な松があり、松並木の名残かという気がします。
Img_5969c 朝日町柿の辺りには、桜並木があります。江戸時代には、松並木だったImg_5971c そうです。両側は水田で、民家はなかったともいいます。伊勢湾岸自動車道&北勢バイパスの手前、西側には、多賀大社常夜燈があります。弘化3(1846)に建立され、かつては燈籠番が毎夜火を灯したそうです。
190310kintetsuhikingkuwana3 多賀大社常夜灯を過ぎ、自動車道の高架をくぐると、すぐに朝明橋で、

Img_5985c

朝明川を渡り、四日市市松寺地区に入ります。松寺の辺りにも、寺社がたくさんありますし、松寺にも立場がありました。立場は朝日町小向にもあり、四日市の富田まで5つの立場があったといいます。
Img_5995c  JR関西線、三岐鉄道三岐線の西富田踏切の手前に、鏡ヶ池跡があります。聖武天皇が朝明頓宮に入る途中に池があり、そこに差しかかられたとき、突風で天皇の笠が池に吹き落とされました。それを村の少女が進み出て笠を拾い上げ、天皇に渡しました。馬上豊かな天皇の姿と、天皇を伏し拝む少女の姿が共に池に映って絵に描いたような美しい光景だったと伝わっています。文明年間に東海道のコースが代わり、この池の真ん中を通るようになり、池は分断されました。明治末期まで東海道の両脇にしばらくは池が残っていたそうですが、現在では、この昭和8(1933)年建立の碑だけになっています。
Img_6003c 東海道は、この先、三光寺(真宗本願寺派)の門前で左折し南東に向かImg_6008c_2 います。ここは、西富田町。今日のゴールも近くなってきました。ほぼ11㎞地点、西側(向かって右)に、富田一里塚跡があります。ここは、縄生の一里塚よりも立派な石碑が建っています。県指定の史跡(昭和12(1937)年11月指定)。四日市市内には4ヶ所の一里塚がありました。ここ富田の他、三ツ谷(海蔵川の北詰)、日永、釆女(杖衝坂を登りつめた先)です。日永の一里塚跡は見たと思いますが、他はまだ。これからのハイキングで確認できるでしょう。
Img_6011c 富田の一里塚跡の先の東海道。雨はかなり小降り。歩く人(ハイキングImg_6014c 参加者)も、距離が進むとバラバラになります。富田の一里塚跡を過ぎると、東側(左手)に八幡神社。康安2(1279)年に勧請されたといいますから、鎌倉時代。境内には、江戸時代から若者たちがトライしてきたという力石があります。
Img_6018c 富田八幡社の先に、「行啓記念道路碑」。大正天皇が皇太子の時代、ここを通られたことを記念して建てられたもの。大正天皇は、明治43(1910)年11月、第三師団と第十五師団の対抗演習を見学のためいらした途中、当時の三重県立第二中学校(旧制富田中学校、現在の四日市高校)に立ち寄られたのです。この碑の先で、東海道は右折。電柱に手作りの案内板が掲げられていて助かります。東海道は、さらに直進するのですが、今日は、次の交差点を右折し、ゴールの近鉄名古屋線・富田駅に向かいます(朱い星印のところ)。
Img_6026c こちらが、ゴールの富田駅。雨中を歩いてきてホッとしたせいか、ピントが合っていません(苦笑)。ゴールは、12時6分。約12㎞を2時間36分で歩いてきたことになります。ハイキング・ウォーキング参加史上、最速と思います(笑)。雨のせいで、どこにも立ち寄らず、ひたすら歩いたお陰。
Img_6029c 今日の参加記念品は、こちら。踏破記念マグネット。かなり大きいものでImg_6034c す。この伊勢参りの旅では、毎回、このようなマグネットがもらえるみたいです。子どものようでお恥ずかしいのですが、こういうものがもらえるとなると、「行かなくっちゃ」と思ってしまいます(苦笑)。あみま倶楽部のスタンプは、更新後、これで10個目。富田駅を12時16分に出る名古屋行き急行に乗車。桑名駅着は、12時22分。¥260。
Img_6039c 今日の歩数は、22,000歩あまりでした。桑名駅往復が約2㎞、ハイキングでは11.9㎞ですから、キョリ測で調べた限りでは、13.9㎞を歩いています。雨でしたので、どこも立ち寄らず、通過しつつ写真を撮るだけで、ひたすら歩いてきましたので、今日の記事はまとまりませんが、これにて「完」。
 なお、以下に今まで、今日のルートを歩いて書いた記事を掲げておきます。ご参考まで:
 これを見ますと、一昨年の秋、「旧・東海道ウォーク」を企画していて、そのときから東海道を歩こうと思っていたことが分かります。思い立っても、自分ではなかなか動かないものだ、と改めて感心しています(苦笑)。
Img_5834c  オマケのオマケ。ウォーキングシューズ、2代目、本日から導入です。前のものと同じですが、色違い。アディダスのランニングシューズ「SOLAR GLIDE M WIDE」です。残念ながら雨にはなりましたが、歩きやすくて気に入っています。

2019年3月 9日 (土)

河津桜にメジロ、そしてモンシロチョウ登場!

Img_5749c よく晴れて、風も弱く暖かい、散歩日和です。最高気温は14℃。今日は、近鉄ハイキングはありません。JRさわやかウォーキングは、愛知県半田市でちょっと遠い(苦笑)。それ故、いつも通りの散歩。8時10分から、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、寺町と回って来ました。5.5㎞。写真は、三の丸水門から見た揖斐川上流方向。蟠龍櫓と、多度山、長良川河口堰が見えています。

Img_2717c まずはこちら。河津桜にメジロです。毎年、寺町商店街の河津桜が満開になると、メジロが蜜を吸いにやって来るのです。花の奥にいたので、ちょっと暗かったのが今ひとつ。3羽ほどがやって来ていました。ヒヨドリも来たものの、逃げられました。
Img_2689c もう一つは、モンシロチョウ。先日、キチョウも見たものの、止まってくれず、チョウだけに超ピンぼけ写真しか撮れませんでした。モンシロチョウは、貝塚公園にて。春ですねぇ。
Img_2617c さて、九華公園のカモたち、今日はとうとう30羽になってしまいました。ハシImg_2639c ビロガモが6ペア、ヒドリガモが2ペアで、残りがキンクロハジロ。もはや、パラパラッとしかいない印象です。今日は、堀の舟巡りに使う、浮き行燈を準備していましたので、ひょっとしたらさらに減るかもしれません。カモたち、新奇環境は嫌うのです。
Img_2602cc シロハラは、九華公園では2羽。奥平屋敷跡と、二の丸跡。別々の個体と思います。左の写真は、奥平屋敷跡にて。
Img_5766c ジョウビタキのオスは、二の丸跡にて。この頃九華公園ではよく見ます。と思っていたら、隣の朝日丸跡で、2羽同時に出現して、ビックリ。縄張り争いのバトルを展開していました。
Img_5781c シメは、いずれも遠くて「証拠写真」。奥平屋敷跡や、本丸跡にいます。今日は、ゴイサギはまったく姿が見られませんでした。アオサギは、このところすっかりご無沙汰。すでにコロニーに行っているのかもしれません。このほか、九華公園では、ヒヨドリ、キジバト、シジュウカラ、ハシボソガラス、ハクセキレイ、オオバン、ツグミ、ムクドリ、スズメ、カワラヒワ。そうそう、今日もウグイスが鳴いていました。が、まだまだ練習が必要な鳴き声。
Img_2696c 貝塚公園では、シロハラ1羽。公園の西側エリアで。他には、ヒヨドリ、ムクドリ、カワラヒワ、キジバト。今シーズン、貝塚公園は静かなまま冬撮りシーズンが終わりそうです。
Img_5774c 花の写真も撮ってはいますが、なかなかパターンが変えられませんし、梅の花は難しい。ブロ友のTAKUさんとのやりとりでは、桜ほど花がたくさんつかないからか、という話をさせてもらいました。鎮国守国神社の梅は、手入れや施肥が足りないのか、花が少なく特にそういう感じがします。左の写真は、稲荷社の鳥居前にある豊後梅。
Img_2707c 河津桜でもあれこれ試してみましたが、こちらも難しい。桜並木は、寺町堀沿いに200mほどあるのですが、緩いカーブになっていますし、途中、ソメイヨシノも混じっていて、遠景はなかなか絵になりません。そのため、どうしてもクローズアップになります。
Img_5799c 新鮮なアングルでと思うのですが、いかがでしょうか? ご指導、ご鞭撻を賜れば、幸いです(微笑)。
 明日は、天気が下り坂という予報ですが、何とか近鉄ハイキングに行けないかと思っています。「昔も今もお伊勢参り~旅1日目~東海道、旅人気分で七里の渡しから富田へ」です。今年の新シリーズで、12回に分けて桑名から伊勢まで歩いて伊勢参りという企画の第1日目。東海道を歩き、四日市の日永の追分で伊勢街道(参宮街道)へ。6~8月は休みで、12月まで毎月1~2回ずつ。明日は、桑名駅受付ですから、往きは徒歩(微笑)。

20190302近鉄ハイキング「ふるさとの味と春風を感じて悲劇の千奈美姫に想いを馳せる 四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!」へ(その3)……普賢菩薩、采女八幡社、内部地区市民センター、うつべ町かど博物館から杖衝坂、芭蕉句碑、血塚社を経て内部駅へゴール(完)【スタンプを追加(3/9)】

190302kintetsuhikingsiohama2  3月2日の近鉄ハイキング「ふるさとの味と春風を感じて悲劇の千奈美姫に想いを馳せる 四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!」、その3です。その2では、中山寺を経て、南小松子ども広場・運動広場でお昼にしたところまででした。ここを12時半に再スタート。

Img_4902c 実測ルートマップでは、左下の辺り。9~10㎞のところを進んでいます。このあたりは、四日市市とはいえ、郊外で田園地帯です。左の写真は、南小松子ども広場・運動広場を出て、普賢菩薩があるところに向かっています(東を向いて撮っています)。
Img_4906c スタートから10.5㎞ほどのところ、うつべ農園を入ったところに普賢菩薩があるとコースマップにありましImg_4909c たので、見て来ました。他に立ち寄る方はありません。となりにある「ほたるの森」の看板の方が立派なくらい。このあたりの水田や水路に蛍が生息しているそうで、「うつべほたるの里を育てる会・うねめ未来へつなぐ会」が建てたもの。
Img_4911c こちらが、その普賢菩薩。普賢菩薩(ふげんぼさつ)は、仏陀の実践的理性Img_4907c を司る菩薩で、智慧を司る文殊菩薩と並んで釈迦仏の二脇侍です。古くは、采女北の水田の中にあったものを、耕地整理でこの近くの山の中腹に移動していました。山道の整備のため、平成28(2016)年にここに新たに設置されています。明確な資料は少なく、内部地区記念郷土史「わが郷土 うつべ」に普賢菩薩と紹介されています。地元の方々は、「ちちぼさん」と呼んで親しんでいたそうです。先に訪ねた采女城とも関わりがあるという説もあるそうです。後藤氏の奥方、千奈美姫が井戸に身を投げ、自害したのをあわれ悲しんだ民が、姫の魂を慰めるために普賢菩薩を祀ったといいます(諸説があるそうです)。もとは、石像(菩薩の姿)もあったようですが、石像は不明となり、現在は自然の石の姿になっています。何となく微笑ましい印象を受けました。
Img_4913c ちなみに、3枚前の写真にもありますが、緑色のコーンに仏様というか、お坊様というか、そういうお姿があり、ちょっと驚いたというか、微笑んだというか(微笑)。世の中、いろいろなものがあります。
Img_4917c 何となく楽しい気分になって歩き続けます。次の立ち寄りポイントは、采女八幡社。すぐ東を国道1号線が通っていますが、神社のあたりは静か。国道1号線の手前を南に入って、スタートから11.3㎞のところ、着いたのは12時53分です。
Img_4927c ご祭神は品陀和気命(ホンダワケノミコト、応神天皇)、建速須佐之男命(タケハヤノスサノオノミコト)、金山毘古神(カナヤマビコノカミ)、大日孁貴命(オオヒルメノムチ、天照大神)、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)、久那斗神(クナドノカミ;集落の入り口や道路の分岐点などにまつられ、種々の邪霊・禍災の侵入を防ぐと信じられた。道祖神)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、崇神天皇(すじんてんのう)、菅原道真大山祇命(オオヤマツミノミコト)、豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ)、天忍穂耳命(アメノオシホミノミコト)、天之菩卑能命(アメノホヒメノミコト;天照大神の子。出雲氏、土師氏らの祖先神)、天津日子根命(アマツヒコネノミコト)、熊野久須毘命(クマグスビノミコト;須佐之男命が天照大御神の持ち物である八尺勾玉を譲り受けて化生させた5柱の神の1柱)、多紀理毘売命(タキリビメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約のとき、素戔嗚尊の剣から生まれた宗像三女神の一)、市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約の時に生まれた宗像三女神の一)、多岐津比売命(タギツヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約のときに生まれた宗像三女神の一、航海安全、交通安全の神)、活津日子根命(イクツヒコネノミコト;素戔嗚尊と天照大神が誓約を行なった際生まれた、五男神中の一神)の19柱。
Img_4921c 由緒書きには、堀河2(1188)年、鎌倉時代に創建されたとありました。明治42(1909)年に波木町の加富神社に合祀されましたが、大正15(1926)年に分祀され、元の通りに地元の氏神として祀られることになりました。それにしても、19柱の神様がいらっしゃるというのはよく分かりません。由緒書きにはない歴史や経緯があるかもしれません。
Img_4929c 境内には、石碑や小社があります。左の写真は、拝殿に向かって左側(南側)にある、山の神2柱(向かって左側にある、2つの石)。向かって右の小社は不明。
Img_4935c 拝殿に向かって右手には、これがありましたが、不明。不明なことがたくさんあります。「うつべふるさと探訪マップ」にも、山の神の記述しかありません。
Img_4941c 采女八幡社を出て、釆女町の住宅街を北へ進みます。1㎞ほどで四日市Img_4955c内部地区市民センターに到着(13時10分)。ここでは、「うつべめし」のふるまいがあり、また、先着400名に四日市あすなろう鉄道の「オリジナルマグネット」プレゼントもあり、楽しみにしていました。
Img_4947c 振る舞っていただいた「うつべめし」は、「報恩講汁」でした。「なくなり次Img_4943c 第終了」とあったので心配したのですが、無事に写真のような味噌汁をいただけました。少し甘みのある、大根の味噌汁です。このあたりの真宗のお寺で、報恩講のときに振る舞われてきたものだそうです。
Img_4952c 四日市あすなろう鉄道のオリジナルマグネット、上述のように先着Img_4950c 400名ということでしたが、まだまだ十分な数があり、無事にゲットできました。ここには、四日市市のゆるキャラであるこにゅうどうくんも登場。市民センターの手前で12㎞を越えていました。
Img_4968c 内部地区市民センターを出たのが、13時20分頃。内部川に沿って南下Img_4973c し、内部橋の西で国道1号線を潜ります。このあたりから、旧・東海道。マックスバリュ采女店を過ぎたあたりが左の写真。この先で90度右折すると、昔の連子格子を残したお宅もあり、旧街道を歩いているという気分も高まります。13㎞を過ぎて、足はかなり疲れてきています。この日は、采女城跡で「登山」もしましたし(笑)、けっこうアップダウンもありましたから。
Img_4981c 上の写真の民家を過ぎて左折すると、緩い登り坂。実測ルートマップにImg_4984c は示しませんでしたが、正面に金刀比羅宮があり、旧東海道はこの先でまた曲がるのですが、そこにうつべ町かど博物館があります。
Img_4985c こちらがそのうつべ町かど博物館。内部地区には、縄文時代から人が暮らしていたそうで、その当時の遺物も発掘されています。ここは、四日市市が所蔵する埋蔵文化財(縄文式土器など)と地域の住民から提供された資料(お櫃、蒸し窯などがありました)をもとに内部地区の歴史と文化がわかるよう展示されています。
Img_4994c うつべ町かど博物館を出ると、登り坂はさらに急になります。こんなところImg_4997c が、本当に旧・東海道か?と思えますが、旧・東海道の案内本などには、「東海道の難所として知られる」とか、「箱根峠、鈴鹿峠に次ぐ、東海道三大難所の一つ」とかいいます(三大難所は、箱根峠と鈴鹿峠はどの資料も共通しますが、もう一つはいろいろなところが上がっています。たとえば、静岡県にある「小夜の中山」をあげるものもあります)。講釈はともかく、実際に登ってみると、高さは20mほどのようですが、実に大変でした(苦笑)。
Img_5055c 坂の途中に、「史跡 杖衝坂」の石碑、「永代常夜灯」そして「芭蕉句碑」が並んでいます。さらに、常夜灯と句碑を挟むように、2つの井戸が残っています。
Img_4999c 「史跡 杖衝坂」の石碑は、三重県が昭和4(1929)3月に建てたもの。景行天皇の41(111)年、日本武尊が東征の帰りに極度の疲労のため、腰の剣を杖にして登ったので、この名があるとされます。古事記には、「吾足如三重勾而甚疲(わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)」とあります。すなわち、私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れたということで、これが「杖衝坂」と「三重」の名前の由来といわれるのです。ここは、昔から一度訪れてみたいと思っていたところ。ようやく念願が叶いました。それにしてもきつい坂です。
Img_5009c 永代常夜灯は、文化8(1811)年の建立。この常夜灯の脇(向かって左。左の写真にわずかに写っています)Img_5031c と、右にある芭蕉句碑の脇に井戸があります。右の写真のものは、坂の上手にあたり、こちらが「弘法の井戸」、下手(常夜灯の脇)のものを「大日の井戸」といいます。前者は、水に困っていた村人に弘法大師が杖で指し示したところを掘ったところ清水が湧き出したと伝わっています。後者は、坂の中腹にあった大日堂に備える閼伽水(あかみず;仏に供える水)を汲んだ井戸といいます。
Img_5012c こちらが芭蕉の句碑。貞享4(1687)年、松尾芭蕉が江戸から伊賀への帰Img_5016c 途、名古屋、桑名、四日市、鈴鹿を過ぎて、日永で馬を雇い、杖衝坂にさしかかったのですが、その時、この急坂で落馬してしまいました。「芳野紀行」には「荷鞍うちかへて馬より落ちぬ」とあり、苦笑して即吟一句を成したといいます。それが、「歩行(かち)ならば 杖衝坂を 落馬かな」。句碑は、宝暦6(1756)年、村田鵤州(かくしゅう)が坂の中ほどに建てたものです。明治の初期、坂ノ下の屋敷の庭園に移されたのですが、その後、所有者の厚志により再びもとの地に移設されています。
Img_5036c もう一ヶ所、立ち寄り先があります。さらに坂を登らねばなりません(苦Img_5040c 笑)。杖衝坂を登り切ったところの東側に「血塚社(ちづかしゃ)」があるのです。鳥居の奥にある血塚の祠は日本武尊の血で染まった石を集めて葬ったとも、日本武尊が出血した足を洗い流したところとも伝えられています。伝えられています。承応年間(1652~54)の創建。
Img_5044c 余談ですが、江戸時代には、この血塚社の前に、名物の饅頭屋があったといいます。坂を登って来たら、ここで一息つきたくなります。その気持ちはよく分かります。左の写真は、血塚社の前から、石薬師宿へ向かう方角。これで、この日の目的地は、すべてコンプリート。血塚社で13.7㎞、13時45分でした。
Img_5061c 杖衝坂を下って、釆女が丘のニュータウンを回り、来るときに通ったマックスバリュ采女店の東を歩き、内部橋で内部川を越Img_5069c え、四日市あすなろう鉄道の内部駅を目指しました。いや、それにしてもよく歩きました。
Img_5084c ゴールの四日市あすなろう鉄道・内部駅には、14時15分に到着。歩いたImg_5098c のは、15.6㎞。あすなろう鉄道は、平成27(2015)年4月1日付けで、近鉄から内部線と八王子線の運営を引き継いで発足。会社の名前は、未来への希望(明日にむかって)と、運行する内部線および八王子線が軌間762mmという狭軌(ナローゲージ)であることに由来します(こちら)。
Img_5139c ナローゲージですので、電車もミニサイズ。三岐鉄道北勢線と同じ。左のImg_5103c 写真は、あすなろう四日市駅にて撮影。運転士さんの身長と比べるとよく分かります。車両は計画的にリニューアルされ、260系を更新した車両と、新造車両とがあるそうです(たとえばこちらを参照)。
Img_5106c 座席も一人がけのクロスシートになり、冷房化もされています。停車駅案Img_5114c 内板には、こにゅうどうくんのイラストがあります。また、座席に取り付けられた持ち手はハート型。
Img_5099c 乗車した電車は、シースルー車両が設けられていました。この1月28日から運行開始したばかり。1編成(3両編成)のうち1両(内部方向)の床面に、縦約16cm×横約67cmの強化ガラス窓3枚が設置されていて、ここから枕木や道床、車輪が動く様子が見られるのです(こちら)。
Img_5091c 次の四日市行きは、13時35分。あすなろう四日市駅までは¥260。あすImg_5142c なろう四日市駅には、14時58分着。四日市で、四日市近鉄百貨店にある丸善に立ち寄って、文庫本を1冊購入。四日市発15時28分の名古屋行き急行で桑名まで。15時40分着、¥300。
Img_5153c これであみま倶楽部のスタンプは、9個目をゲット。ボチボチ増やしていきImg_5156c ましょう。先日からスマホを使っていますが、そのアプリ(ALKOO(あるこう)という、ナビタイムが提供するウォーキングアプリ。詳しい説明は、こちら)では、右の写真のような結果になっていて、ビックリ。ずっと使っているニンテンドーDSの生活リズム計では、28,411歩。いずれにしても、30,000歩前後は歩いたようで、新記録。
Img_6014c どうでもよい余談(笑)。昨年(2018年)6月16日に新調し、その翌日からImg_4898c 愛用してきたウォーキング・シューズ、さすがに毎日酷使した結果、昨日に至って、右の写真のような状態に。色も、日に焼けたりしてかなり薄くなり、しかも特に右足はあちこち破れてきてしまったのです。この間の合計で、1,172㎞、2,306,881歩を歩きました。このシューズ、軽くて歩きやすいので、気に入っていました。Amazonで同じものがあったので、発注し、届くのを待っています。
【うつべ町かど博物館と四日市あすなろう鉄道のスタンプを追加しました(3/9)】
201903023 うつべ町かど博物館と、四日市あすなろう鉄道・内部駅にスタンプが備え201903022 てありましたので、いつものようにゲット。うつべ町かど博物館には4種類、内部駅には2種類。そのうち、それぞれ1つずつ載せます。

2019年3月 8日 (金)

20190302近鉄ハイキング「ふるさとの味と春風を感じて悲劇の千奈美姫に想いを馳せる 四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!」へ(その2)……采女城跡、上品寺、小松神社、中山寺へ

 3月2日の近鉄ハイキング「ふるさとの味と春風を感じて悲劇の千奈美姫に想いを馳せる 四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!」のその2です。その1では、塩浜駅をスタートして、川尻公園立ち寄り、観音寺と小古曽神社を見て来ました。
190302kintetsuhikingsiohama2 実際に歩いたルートマップは、こちら(その2)です。いきなりの余談というか、個人的な回顧で恐縮ですが、小古曽神社の西にある「四日市南自動車学校」は、私が鈴鹿に就職したとき(昭和54(1979)年)に通って、運転免許証をとったところです。冗談半分に最終学歴は「四日市南自動車学校卒業」といっております(笑)。就職してその秋から冬の初めは、厚生省(当時)の筋ジストロフィー研究班の仕事が忙しくてなかなか通えず、ほとんど期限ギリギリの半年かかってようやく試験に合格しましたので、忘れられません。三重県の運転免許試験場も、今の垂水ではなく、高茶屋にありました。
Img_4747c 話を戻して、小古曽神社から県道407号線に出て、内部駅前を通って、内部川(うつべがわ)の堤防に出ます。小古曽神社(3.5㎞地点)からは、1㎞あまり。内部川は鈴鹿山脈の鎌ヶ岳と入道ヶ岳の間に発し、鈴鹿川に流れ込みます。この内部川の左岸を1.5㎞ほど上流に行ったところに采女城跡があります。この写真で奥に見える丘というか、小山というか、その辺りが采女城跡。
Img_4755c 采女城跡の手前、ルートマップでは、市立内部幼稚園(ここには、内部小学Img_4756c 校もあります)のすぐ北にこんな案内板。「矢矧(やはぎ)橋と采女城ゆかりの地名」とあります。采女城があった鎌倉時代から戦国時代、内部川のこのあたりに「矢矧橋」がかかっていました。このあたり一面が竹藪で采女城の家臣が岳で屋をつくっていたことからその名が付いたといいます。さらに、城跡の西側には「ごくろ橋」という橋がかかっており、それは城の番所があってそこに詰めていた武士が交代のときに「ご苦労」といったことに由来するとか、橋のたもとで女子衆が洗濯をしていて、通る人に「ご苦労さん」と声をかけたことに因んだというそうです。
Img_4796c この写真は、采女城跡を見てから、足見川に架かる橋から上流を見たもの。奥に白く見えているのが、現在のごくろ橋。ここから見ただけで近くには行っていません。上掲の案内板には、「なこの坂」についても書かれています。采女城が信長勢に攻められたとき、敗残の武士・農民が泣きながら逃げたのがその名の由来とありますが、コースからは外れていました。四日市では、各地区でそれぞれの名所・旧跡の案内板が整備されています。これは歴史散歩好きにとってはとてもありがたいことです。
Img_4760c 「矢矧橋と采女城ゆかりの地名」から400m、スタートからは5.7㎞で采女城跡の入り口に到着(ちょうど11時)。藤原氏を祖先とする後藤家の後藤伊勢守基秀が文Img_4764c_2 応元(1260)年、先陣武功があって、三重郡采女郷の地頭になり、ここに移住、采女山(北山)に城郭を築いたのが始まり。以来三百有余年、連綿と治世したものの、後藤采女正藤勝のとき、織田信長の侵略に遭います。隻毛・蒲生毛に一味して戦ったものの、永禄11(1568)年に落城。
 後藤家は上記のように藤原氏を祖先としており、後藤兵衛実基は、保元・平治の乱に武功を顕し、後藤左衛門尉基清(ごとうさえもんのじょうもときよ;実基の養子)が検非違使として京都守護職に奮闘するなど名門とです。
 ちなみに、保元・平治の乱は、保元元(1156)年と平治元(1159)年に京都で相次いで起こった内乱で、いずれも宮廷内の権力争いに原因があり、短期間の戦闘で勝敗が決したのですが、武士の時代の到来を告げ、平氏政権が成立するきっかけとなりました。
Img_4766c 少し離れたところに建つ案内図。等高線も書かれていますが、これで地Img_4772c_2 形が読み取れるほどの能力はありません。しかし、せっかくやって来たのですから、登っていて見てくるしかありません。降りてきた方に伺うと、郭の跡や、深井戸の跡があるということでした。40mほどの台地にあり、200m×250mほどの広大な城郭跡です。40mというと大した高さではないように思えますが、実際に登るとなるとかなり大変でした。「難儀した」という感じ。
Img_4774c
Unemecastle この図に示したように、五の郭のところから一の郭まで登ってみました。五の郭の手前に「虎口(こぐち)」があります。虎口は、大手門などの城門が備えられたところで、城郭の重要な部分をなします。防御・攻撃の両面の機能があるところ。
Img_4779c 一の郭。キョリ測でみると、約60mの標高。かなり息が切Img_4781c れました(苦笑)。采女城は丘陵尾根を利用した「放射状連郭」の平山城。周囲には土塁や空堀が巡らされ、ここ一の郭には深井戸があり、水を得るようにしてあります。左の写真の中央にある囲いの中にその深井戸の跡。
Img_4787c 永禄11(1568)年、織田信長の家臣・滝川一益が、6,000余人を率いて攻め立てます。采女城には500人あまりの塀が集結していたのですが、大混乱を来たし、あるものは奮戦して討ち死に、あるものは敗走。城主・後藤采女正藤勝は割腹して果てたと伝わります。そのとき、奥方や千奈美姫は、あとを追って深井戸に身を投げて亡くなったといいます。後世、人々の間では、この古井戸から「夜な夜な女のすすり泣きが聞こえる」とか、「馬のいななきや、女人の悲鳴が細く尾を引く」などと語り継がれているそうです。入り口の案内板には「哀れなり」とありましたが、まさにそういう気がします。
 采女城跡の一の郭で一休み。さらにこの日は暖かかったので、初めに来ていったウィンドウ・ブレーカーでは汗を掻きましたので、持参した薄手のものに着替えました。采女城跡から降りて、スタートから6㎞。次の上品寺を目指します。釆女町から貝家町へ。
Img_4802c 6.8㎞地点に開徳山上品(じょうぼん)寺があります。ここは、真宗高田派Img_4805c のお寺。内部(うつべ)地区貝家(かいげ)町にありますが、その地名は、上品寺の門階の下に位置する階下(かいげ;文字通り、階段の下ということ)に由来するといわれています。嘉祥2(849)年、土師宿禰岩次(はじすくねがんじ)が建立した成保寺(じょうほうじ)が始まりと伝え(開山:澄順法師)、寛正元(1461)年天台宗から浄土真宗になり、元和元(1615)年現在地に移り、延宝7(1679)年上品寺と改名しています。
Img_4809c ご本尊は、阿弥陀如来。本堂に向かって左手(南側)には釈迦堂(1736

Img_4814c

年・建立)があり、ここには釈迦如来坐像が安置されています。
Img_4818c この釈迦如来坐像は、もとは成保寺の本尊であったといます。木造、漆箔、彫眼で、平安時代前期釈迦如来像(10世紀、像高99cm、市指定文化財)は、江戸時代の初めに上品寺に移Img_4816c されたといわれ、現在も上品寺に引き継がれ、市指定文化財となっています。樟の木を用い、頭部と胴体を同じ木材で作る一木の像。この像は、体の内部に大きく開いた洞(うろ)があります。しかし、それは干割れを防ぐために人工的に彫られたものではなく、仏像を作る前からそのような状態であったと考えられています。今日は、ハイキングに合わせて特別に開帳されていました。
Img_4823c たびたびの余談。中山寺を出て再び、内部川の堤防に出ますが、そこにImg_4824c 可愛らしい、今まで見たことがないタイプの飛び出し坊や・嬢ちゃん。あちこちで見かけると、ついつい写真に撮ってしまいます。個人的な趣味(まぁ、ハイキング・ウォーキングも、ブログもそうではありますが)で恐縮。
Img_4827c 貝家橋の北詰にこんなお堂のような建Img_4828c 物。コースマップには「お堂が歯医者さんに」とあります。確かに歯科医院でした。わざわざお堂のような建物を建てたのでしょうか。
Img_4832c 貝家橋をわたって内部川右岸へ。300mほどでまた小松橋を渡って、内部Img_4834c 川左岸へ。北小松町に入って、小松神社を目指します。その手前にまたもやお堂か、お寺のような建物。ここは、公会堂とありました。そういえば、2月16日 の近鉄ハイキングのときも、四日市市智積町で、「延福寺跡」が智積公会所になっていました。(20190216近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 銘酒『鈿女』伊藤酒造と智積養水をたずねて」(完))。
Img_4837c 公会堂のすぐ西に小松神社があります。ご祭神は、建速須佐之男命(タケハヤノスサノオノミコト)、大山祇命(オオヤマツノミコト)。三重県郡家Img_4839c (「みえ あがた ぐんけ」と思います。近鉄湯の山線・桜駅の北東に県地区があります)・土師辿馬手の嫡子に小松という人があり、聖武天皇の天平3(731)年、前杵開発田一二町をなし、この領土の名により小松村といったのですが、この頃、産土神として小松神社を創建したことに始まるといいます(神社検索・三重の説明)。明治41(1908)年、波木町にある加富(かふ)神社へ合祀されましたが、崇敬者の熱意により昭和17(1942)年に分祀されています。鳥居脇に子ども用の自転車が写っていますが、訪れた時、子どもたちが鬼ごっこか何かで遊んでいました。
Img_4841c 合祀された名残か、境内には「加富神社遙拝所」がありました。この遙拝Img_4850c 所は、大正12(1923)年に建てられたとあります。加富神社は、小松神社から北へ1.1㎞ほどの、足見川南岸山麓に鎮座しており、古くから采女七郷の総氏神とされています(こちらも参照)。
Img_4852c 鳥居の両側に、「平和の礎」、「表忠碑」などが合計3基あります。左の写Img_4848c 真は、「平和の礎」。これは、内部地区が建てたもので、英霊24柱を祀っています(三重県遺族会のサイトを参照)。右の写真は、「表忠碑」。「陸軍歩兵軍曹勲七等公七級堀君碑」と初めの方にありました。日露戦争に従軍し、奉天で戦死された旨の記述がされています。
Img_4846c_2 もう1基がこちら。「故陸軍輜重(しちょう)輸卒(ゆそつ)古市平吉君碑」とあります。石碑は、いずれも裏を見てきませんでした(裏に回りにくかったため)ので、これについては詳細は不明。「輜重」は、軍隊の糧食・被服・武器・弾薬など、輸送すべき軍需品の総称。「輸卒」は、輸送を任務とする兵卒。「輜重輸卒」は、旧陸軍で、輜重兵の監視のもとに軍需品の輸送に当たった兵卒。昭和6(1931)年、「輜重兵特務兵」と改称されていますから、日清戦争または日露戦争に従軍された方と思われます。なお、三重県遺族会のサイトに、「英霊碑」があるとされていますが、これには気づきませんでした(内部地区が建立し、出征軍人7柱を祀るとあります)。
Img_4861c  小松神社でほぼ8㎞、時刻は11時40分でした。ここから南へ。内部川をImg_4865c 渡って、南小松町。スタートから8.8㎞ほどのところに月見山中山寺(がっけんざんちゅうざんじ)。月見山の山号は、ここから東に月見亭があって、毎年9月の十五夜に月見をしたことに由来します。
Img_4867c 真宗高田派のお寺。高田本山専修寺第十世真慧(しんね)上人開基の旧跡寺院です。寛正2(1461)年、小松中山(今の北小松町)に建立されたのですが、法難にあって炎上し、弟子蓮蔵坊慶林が南小松に移転再建し、現在に至っています。真慧上人の御遺物として、山門に掲げる「月見中山」の扁額や上人の身の危険を告げて動き出したと伝えられる「歩行石」があるのですが、どちらもしっかり見てこず、惜しいことをしました。このほか、上掲の説明板によれば、たくさんの法物、真慧上人のご遺物があるようです。
 ちなみに、真慧上人は、室町後期の浄土真宗の僧。伊勢専修寺第10代。下野の高田専修寺9世・定顕の長男かとされます。常陸の浄土宗迎雲寺等で顕密を学び、高田に帰った後、伊勢・三河・越前・加賀に布教し、高田専修寺を継ぎ、伊勢一身田に無量寿院(現在の高田本山専修寺)を建立し、高田派教団の勢力を拡大しました。
Img_4863c 中山寺には、四日市市の天然記念物に指定されているモッコクがありまImg_4882c す。本堂裏西北方、書院廊下の西側に聳えています。根元周囲は6.9m、胸高周囲3.8m、樹高は13.2mで、樹齢は300年を超えるといわれています。「超古木」、「大径木」として、全国でも有数の大樹で、県下では先に出るものがないそうです。このモッコクは寺がここに再建された時(1500年以前)に植えられたと伝えられていますので、樹齢は450年以上と推定されています。ちなみに、モッコクは暖地に分布する常緑の樹木で、樹形が良く、葉が枝先に輪生状について見栄えが良いので、庭木として珍重されているそうです。
Img_4896c 中山寺を出たのが、12時を過ぎていました。まだ先がけっこうありますので、近くのコース沿いにある南小松子ども広場・運動広場で昼食としました(9.5㎞地点)。広くて、日当たりのよい運動広場のベンチです。今日は、ファミマの「バラエティおかず&おむすび」弁当(税込み¥368)。リュックに入れているうちに、偏ってしまいました(苦笑)。味には変わりありません。ここからは、昔、結婚した当初住んでいた笹川の公団住宅も見え、懐かしく思いながら弁当&休憩をしてきました。
 その2はここまで。その3は、この先、田園地帯にある普賢菩薩、采女八幡社などから。

鎮国守国神社でウグイス……九華公園のゴイサギ&ホシゴイ、再登場

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 気温は、これで平年並みだそうですが、12.4℃。ただし、今日も最大風速は、6m/sを超えていました。風を通さない服装と、手袋か、マフラーが必要でした。いつも通り、8時20分から11時まで、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、寺町と回って来ました。いったん帰宅してすぐまた、駅の方へ用事に往復。合計6.7㎞。
Img_2570c 九華公園というか、鎮国守国神社の境内でウグイスの撮影に成功(微笑)。Img_2560c 一昨日、初鳴きを聞いたのですが、同じあたりの木の枝にいました。「何か動いている」と思ってよく見たら、ウグイスのようでしたので、連写。例によって、「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」方式で、カメラの性能のお陰で撮れました。
Img_2505c もう一つは、九華公園のゴイサギ&ホシゴイ。最近見つけられない日々が続Img_2518c いていたのですが、今日は、合計11羽を目撃。しかし、いつもの鎮国守国神社の社務所の裏にあるクスノキにいたのは3羽。それ以外の8羽は、柿安本社の敷地に近い林から突然飛び立ってきました。左がその8羽の内の4羽。この少し前、出会った知人が、「ゴイサギが11羽、飛び出てきた。いつものところより北にある木から」といっていたのですが、同じような状況のようでした。未だに鳥の行動パターンは、よく分からないところがあります。
Img_2545c 九華公園のカモたち、今日はまた46羽に微増。二の丸跡の南側にすべて集まっていました。しばらく姿を見なかったヒドリガモのペアも2組いましたので、どこか別のところへ行っていたと思われます。ハシビロガモも5ペア。他はキンクロハジロたち。オオバンとカルガモは姿が見えず。
Img_2524c 奥平屋敷跡では、シメ。3羽いましたが、今日からまたシルバー人材センImg_5689c ターがこられて、清掃が始まったため、はっきりとは姿を見せてくれません。ここでは、シロハラも1羽、ジョウビタキのオスも1羽。
Img_5693c 二の丸跡で見たツグミ。左の画像は、超望遠コンデジの1,365mmで撮っImg_2576c て少しトリミングしてありますが、条件がよいとこんなにきれいに撮れます。ツグミは、三の丸公園でも2羽、三の丸水門に1羽、九華公園の相撲場のところでも1羽(右の写真、これはデジイチ画像)を見ています。
Img_5699c こちらのジョウビタキのオスは、朝日丸跡にて。この少し前後には、本丸跡でも2回見ていますが、同じ個体が公園内を移動しているように思えます。
Img_2581c 貝塚公園では、ヒヨドリ、カワラヒワの他は、このシロハラ1羽を見ただけ。内堀公園には何もおらず。
Img_5712c 天気がよいので、河津桜も見てこなくてはなりません(微笑)。今日は寺町商店街で三八市が開催されていましたので、けっこうたくさんの人たちが桜を楽しんでいました。
Img_5722c_2 小さなお子さんを連れたお母さんや、保育園の子どもたちも先生に引率されてきていました。お母さんや先生は何とか河津桜とお子さんの写真を撮ろうとされるのですが、子どもはなかなか思うとおりのポーズを取ってくれないようで、苦労しておられました。
Img_5733c 寺町商店街の河津桜、我が家のベランダからも見えます。左は、35mmImg_5737c 相当で撮ったもの。中央に見えます。右は、150mmほどのズームでの写真。「楽しむ」というほどよくは見えませんが、それでも「河津桜が見える」と思うと、ちょっとだけいい気分(笑)。

2019年3月 7日 (木)

20190302近鉄ハイキング「ふるさとの味と春風を感じて悲劇の千奈美姫に想いを馳せる 四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!」へ(その1)……塩浜駅をスタート、観音寺と小許曽神社へ【小許曽神社の記述を加筆修正しました(3/7)】

 3月2日(土)に行ってきた近鉄ハイキング「ふるさとの味と春風を感じて悲劇の千奈美姫に想いを馳せる 四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!」の本編がようやくスタートです。写真整理に手間取っていました(予告編はこちら)。手間取っている間にハイキングのタイトルを何度か見直したのですが、よく考えると意味不明で、中身を羅列しただけです(笑)。采女城跡と千奈美姫のことは、下調べはしたものの、しっかりとは認識しておらず、いったい誰?という状態でしたし……。
Img_4641c さて、当日(3/2)、受付は、近鉄名古屋線・塩浜駅で9時20分から10時半。この駅はもう何度も利用して、お馴染み。桑名駅を9時1分に出る五十鈴川行き急行に乗車し、9時18分に到着。すでに受付は始まっていました。もっと行列があるかと思ったら、さほどでもありません。コースマップをもらい、この日は、近鉄あみま倶楽部KIPS対象ハイキングでしたので、KIPSポイント100Pをプレゼントしてもらいました。いわば、¥100のお駄賃をもらったというか、キャッシュバックがあったというか。
Img_4636c こちらがコースマップ。両面になっています。というのも約14㎞のコース設定Img_4638c なのです。塩浜駅をスタートして、川尻公園、采女城跡、上品寺、小松神社、中山寺、采女八幡社、四季菜(JAみえきた)、内部地区市民センター、うつべ町かど博物館を経て、杖衝坂、芭蕉句碑、日本武尊血塚社を回り、四日市あすなろう鉄道・内部駅がゴールという、内部駅からは、四日市あすなろう鉄道にのってあすなろう四日市駅へ。
190302kintetsuhikingsiohama こちらが、実際に歩いたルートマップ。塩浜駅から少し南下してからはひたすら西へ。国道23号線、JR関西線、伊勢街道、国道1号線を交通の動脈を横断し、四日市あすなろう鉄道を小古曽(おごそ)駅のところで越えます。この間3㎞あまり。ここから内部地区、采女あたりであちこちを回りました。塩浜駅をスタートしたのは9時半。内部駅にゴールしたのは、14時15分。歩いた距離は15.6㎞と、1月27日に出かけたJRさわやかウォーキング「新春に二千年の時を刻む大神宮へのおかげ参り」とほぼ同じ(15.5㎞)。ただし、今日は、城跡や杖衝坂へ登る等、アップダウンがかなりあり、難儀しました(笑)。
190302kintetsuhikingsiohama1  塩浜駅からは200mほど南へ。ユマニテク医療福祉大学校のところで右Img_4650c 折し、西に向かいます。国道23号線の高架をくぐり、国道25号線へ。このあたりは、三菱ケミカルなどの工場地帯。右の写真は、川尻町で左折する手前で見た北西の方角。高い煙突が見えています。左は、実測ルートマップその1。
Img_4653c 2㎞を過ぎて、JR関西線を渡る手前で川尻公園。この公園は、昨年(2018年)6月2日の近鉄ハイキングで一度来ています(「近鉄あみま倶楽部30周年記念ハイキング ~ものづくりのまち・四日市探訪~ 伝統工芸、老舗の味を満喫。わくわく感いっぱいの四日市を楽しもう!」へ(完))。このときも塩浜駅をスタートし、同じルートを歩いています。

Img_4655c

 川尻公園には、「故村長石榑君之碑」という石碑があります。これは、河Img_4610c 原田村の村長兼藍浜村の村長であった石榑氏が亡くなって数年経ってから建てられた顕彰碑のようです。また、「明治百周年記念桜」の碑もあります。こちらは、昭和43(1968)年に明治百年を記念して百本植樹したもの(ただし、この碑が建てられたのは平成7(1995)9月に、四日市市制施行100年を記念して)。2度目ですので、写真を撮ってほぼ通過。そのまま西へ。2.6㎞地点で旧・伊勢街道を渡りますが、ここを北上すると、日永の追分があります。実測ルートマップその1に「追分」とあるのがそこ。昔は、追分から南西に向かう道(東海道とある道)が、国道1号線でしたが、知らないうちにルートが変わっていてちょっと驚きました。
Img_4668c 川尻公園から1.5㎞ほどで、「小許曽神社」の石柱と、そのすぐ北に観音寺があります。余談ですが、コースマップには「小許曽神社」とあり、「漢字が間違っている」と思ったのですが、こちらが正式なというか、昔からの表記のようでした(これで「おごそじんじゃ」と読みます。神社検索三重のサイトはこちら)。
Img_4671c 観音寺はコースマップには書かれていなかったのですが、見つけてしまったからには、当然立ち寄らねばなりません(微笑)。黄檗(おうばく)宗のお寺で、慈現山(じげんざん)観音寺。黄檗宗は、知識としては知っていましたが、実際に黄檗宗の寺を訪ねるのは、初めてかもしれません。本山は、宇治市の黄檗山万福寺。禅宗。承応3(1654)年に来日した明僧(みんそう)隠元が開祖。一時、臨済宗に合併したこともあるようですが、明治9(1876)年、臨済宗から独立しています。明朝の念仏禅を伝えているそうです。
Img_4676c 山門。その前に寺号を示す石柱が立っています。説明板によれば、歴史的に明らかになるのは、江戸時代に黄檗宗の寺院になってから。戦国時代、織田信長の兵火により焼失したのですが、村人が観音堂を建て、本尊の千手観音を祀っていたといいます。その後、元文2(1737)年、黄檗宗の僧・鎮堂が旅の途中、四日市で一泊した際、夢枕に現れた老人のお告げにより、ここに新しく寺を建て、観音寺としています。
Img_4688c 左の写真が本堂。千手観音像は、本堂に安置されています。頭体幹部は、Img_4679c 11世紀頃の制作といわれています。山門は、四脚門(しきゃくもん、または、よつあしもん)方式というスタイルだそうです。2本の本柱の前後に2本ずつ計4本の柱があります。また、屋根の両端に異国風の「魔伽羅(まから;サンスクリット語で鰐)」が飾られており、これは黄檗宗特有のもの。この魔伽羅は、棟札によると、寛正12(1800)年におかれたものだそうです。
Img_5124c ちなみに、これは帰りの電車から見つけたのですが、四日市あすなろう鉄道・小古曽駅のホームに「厄除観音 黄檗観音禅寺 是ヨリ二丁」という石柱が立っていました。
Img_4695c 観音寺のすぐ西に小許曽神社があります。提灯が飾られ、日の丸が掲げられ、お祭りのようでした(後で分かりましたが、「御鍬祭(田祭の一種で、鍬形を神として崇め、農事を祈るもの)」が開催されていました)。またもや余談ですが、写真に写っている社号標には、「小古曽神社」とあります。
Img_4700c 延喜式内社ですが、創立年代は不詳。延喜式神名帳(延喜5(905)年)に載っているのですから、1,100年以上の歴史があると思われます。説明板によれば、小許曽神社には元来、東の宮、西の宮の2社の他に小社、祠、山神社があったのですが、明治39(1906)の合祀令により西の宮(現在の小許曽神社に合祀されました。このとき合祀したのは、末社6社、川原崎社、米田社、鈴森社、御堂壺社、八幡社です(うつべふるさと探訪マップより)。その後、昭和14(1939)年には、山の上(現在の高塚町)に祀られていた愛宕大権現も合祀されました。
Img_4704c  御祭神は、大日霊貴尊(オオヒルメノムチ、天照大神)、天宇受売命(アメノウズメノミコト)、布刀玉命(フトダマノミコト;高皇産霊神(たかみむすびのかみ;天照大神が天の岩屋に隠れた際、天児屋命とその出現を祈った)の子)、豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ;豊受大神(とようけのおおかみ))、大雀命(おおさざきのみこと、仁徳天皇)、水分神(ミクマリノカミ;水の分配をつかさどる神。天水分神(あまのみくまりのかみ)と国水分神(くにのみくまりのかみ)があり、豊作の神として信仰された)、大山祇命(オオヤマツミノカミ)、建速須佐男命(タケハヤノスサノオノミコト)、大綿津見命(オオワタツミノミコト;底津綿津見、中津綿津見、上津綿津見の3神。海をつかさどる神)。相殿神は、天児屋根命(アマノコヤネノミコト;天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)、五男三女神、菅原道真品陀和気命(ホンダワケノミコト;応神天皇)。合わせて13柱の神様が祀られています。
 なお、五男三女神は、天照大神と建速須佐之男命が行った誓約(うけい;占い)のときに生まれた三柱の女神と、五柱の男神の総称です。Wikipediaにある説明(以下は、古事記の記述によります)では、天照大神が建速須佐之男命の持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から三柱の女神(宗像大社に祀られる宗像三女神)が生まれました:
 次に、建速須佐之男命が、天照大神の「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の五柱の男神が生まれました:
 この八柱の神は「八王子神」とも、「八柱御子神(やはしらのみこがみ)」とも呼ぶといいます。ちょっと余談気味ですが、私自身の頭の整理のためで、恐縮。
Img_4697c  小古曽神社の話に戻ります。ここの特殊神事としては、粥試(かゆだめImg_4740c し)、不参(ぶさん;説明板では奉賛と書かれています。宮当番に感謝する行事)、戸渡(とわたし;説明板では当渡し。宮当番の引き継ぎ)があり、正月中旬に行われます。粥試は、小豆粥と細い女竹5本を使い、竹筒内に入った米粒の数で早期(そうき)・早生(わせ)・中生(なかて)・晩生(おくて)の稲作と畑作の豊凶を占う神事です。今年の結果は、社頭に掲示してありました(右の写真)。「不参」と「戸渡」は、東の宮と西の宮とに分かれていた頃の名残かという気がします(こちらに関連すると思われる記述がありました(古老の伝によれば、この2社ごとに当屋制の祭祀組織により祭礼が行なわれてきたという部分))。ちなみに、訪ねた3月2日と翌3日は「御鍬祭」が挙行されていました。ハイキング参加者にもふるまい酒がありましたが、私自身は先が長いので、謹んで遠慮しておきました。
Img_4711c 境内の様子もざっと見ておきます。拝殿の南(左手)には、まず白龍大神Img_4708c の幟が立った小さいお社があります。龍神は、雨や水の神様ですから、農耕生産と結びついて祀られているかとは思いますが、説明板などでは言及はありません(うつべふるさと探訪マップには、「小古曽神社南方の、もと五百山にあったのが、合祀のためにこの地に移った。白蛇が住み着いていたので、共に移ってもらい定住の場として今の社を建てた」とありました)。その左手には、「橿原神宮遙拝所」がありましたが、これは、昭和38(1963)年に建てられています。これまで観た中ではもっとも新しいものでした。これまで確認したものは、紀元2600年のときに立ったものが多くなっていました。
Img_4718c 鳥居の北側(拝殿に向き合うような位置)には、「明治神宮遙拝所」があImg_4724c ります。これはもっと新しく、碑陰には「御大礼記念 平成2年11月」とあります。今上陛下の即位の礼が、平成2(1990)年に行われていますから、その記念ということです。この明治神宮遙拝所も、今まで見た中ではもっとも最近のものです。さらに、白龍大神と橿原神宮遙拝所の南には、「平和の礎」と「表忠碑」が一基ずつ。「平和の礎」は、昭和36(1961)年3月に小古曽町自治会が建てたもので、裏には「殉国者芳名」が25柱記されています。「表忠碑」の碑陰には、「明治三十七八年役戦死者」として、陸軍砲兵お二人のお名前がありました。日露戦争で戦死された方と考えられます。碑は明治41(1908)年9月に小古曽區が建てたとあります。
Img_4738c もう一つ、地蔵堂もありましたが、こちらは詳細は不明うつべふるさと探訪マップによると「首切り地蔵」のようです。「縁起によると、内部川の河原で光るものを見つけ拾ってみると仏頭であった。石屋に胴体を付けてもらい、お祀りする場所を伺ったところ「お宮に置いてくれ」とのことで、ここに鎮座した」といいます。このほか、境内にある運動広場西には庚申塚が6基と、神宮遙拝の石灯籠があるということでしたが、気づかず残念。石灯籠は、神社の東、東海道沿いの道標のところにあったものが、下水道工事によって平成10(1998)年に移設されています。この「神宮」はもちろん、伊勢神宮のことです。
Img_4742c_2 小古曽神社を10時半前に出て、県道407号線(昔は、ここが国道1号線でした)を南へ。横断歩道橋に「県道407号線」とあったのですが、何度も通った記憶があり、調べたら、元国道1号線だったことが判明(微笑)。このあと、ゴールの内部駅近くを通って、内部川の堤防へと進み、采女城跡を目指しますが、それはその2にて。

今日はアリバイ散歩で4.4㎞……車検の合間に

Img_5659c  雨は夜明け前には上がったのですが、何とも風の強い日でした。最大風速は、10m/sを越えていました(15時)。今日は、車検を予約していましたので、朝10時に川越町にあるKモータースさんに入庫。チェックしていただくのに30分。そのまま代車をお借りしていったん帰宅。15時過ぎに完了の連絡をいただき、16時過ぎに引き取りに行ってきました。

Img_5624c 何はなくとも散歩ですので、合間を見て、13時半から15時過ぎまで、住吉神社、九華公園、寺町と4.4㎞を歩いてきました。折からの強風で鳥はほとんどいません。それでも、住吉水門の内川には、ヒドリガモのペアが9組ほど。波立つ揖斐川を避けてきたようです。
Img_5630c スズメがたくさん集まるところをよく見るようになりました。左は、三の丸水門の近く。数10羽いたのですが、そのほとんどが飛び立った後の様子。他にもムクドリや、ツグミの姿がありました。
Img_5652c 九華公園の堀も、水位が下がったまま。カモは、32羽。ハシビロガモが3ペImg_5640c アと、他はキンクロハジロのみ。このところ30羽台が定着。公園内では、シロハラを3羽見たものの、今日は、超望遠コンデジしか持っておらず、とっさの対応は困難。朝日丸跡でツグミ。まぁ、アリバイ散歩のようなものですから致し方ありません。
Img_5654c 明日も晴れの予報。風は収まるようですから、また明日に期待というところです。写真は、寺町商店街の河津桜。中学生の女の子が、近くのクレープ屋さんで買ったクレープを片手に花見。なかなか洒落ています。

2019年3月 6日 (水)

九華公園でウグイスの初鳴き……ユリカモメ9羽、カモは36羽と少なし

Img_5613c

 雨は夕方からという予報で、午前中はいつも通りの散歩へ。8時20分にスタートして、住吉神社、九華公園、貝塚公園、寺町と回って5.5㎞。11時半過ぎに帰宅。距離の割りに時間が長かったのは、あちこちで知人、散歩友達と話していたからという、これまたいつものこと(笑)。
Img_5588c 住吉水門でツグミ。ここに来るまでの住吉入江では、ホシハジロのオス1羽Img_5591c と、オオバン1羽。入り江沿いにはスズメの姿がまた増えてきました。あの翼を痛めているヒドリガモのオスは、ここ2~3日姿が見えません。三の丸公園や三の丸水門にもツグミがいましたが、ヒバリは不在。三の丸公園には、たくさんのスズメが集まって、懸命に餌探し中。
Img_2456c 九華公園では、ユリカモメが9羽。二の丸橋の欄干にも並んでいました。何Img_5601c 度も書きますが、今年はこのシーンをほとんど見ませんでした。ユリカモメは、例年、3月中にはいなくなります。一方で、カモは36羽。一昨日とほぼ同じ(一昨日は、37羽)。2015~2017年のシーズンのデータでは、今の時期は、平均50羽くらいでしたから、やや少なめです。
Img_2414c 粗大ゴミ回収のため、水をかなり排出してしまい、水位が30cmほど下がっていること、すでにさくらまつりのときに行われる堀めぐりに備えて、堀に竹竿を立ててあることなどが影響しているように思います。
 九華公園では、今日、ウグイスの初鳴きを確認しました。まだまだうまくはなく、さらに練習を積む必要があります。動画を撮って、音声を録音しようと思った途端に静かになってしまいました。初鳴きをしたウグイスの他にも、地鳴きをしている個体が2羽おり、これからが楽しみです。

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 その他には、シメ。左の写真は、奥平屋敷跡にいて、立教小学校の体育Img_5598c 館の方へと逃げたもの。右のジョウビタキのオスは、二の丸跡に出て来たところ。このほか、梅にメジロもいたのですが、「ウメジロウ」は撮れず、残念。アオサギ、ゴイサギは不在続き。コゲラは鳴き声はしたものの、姿は見えません。シロハラは一瞬出てきたものの、他の散歩をする方に驚いて逃げてしまいました。
Img_2457c 貝塚公園でもシロハラは見たものの、写真には撮れず仕舞い。ツグミはこちらの1羽のみ。公園内の樹木がかなり生い茂って、歩くのにも支障を来していたのですが、シルバー人材センターの方がかなり思い切って剪定してくださいました。見通しはよくなり、歩きやすくもなったのですが、鳥たちにはどうでしょう?
 3月2日の近鉄ハイキングは、まだ写真整理が十分できていません。本編に手がつけられるのはもう少し時間がかかりそうです(20190302近鉄ハイキング「ふるさとの味と春風を感じて悲劇の千奈美姫に想いを馳せる 四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!」へ(予告編)……歩きも歩いたり、15.6㎞)。

2019年3月 5日 (火)

町屋川へ……ミサゴ、チュウヒ、セグロカモメ、マガモ、オナガガモなど

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 18℃くらいになるという予報でしたし、昼前には干潮になるということでした190305walk ので、町屋川へ行ってきました。桑名駅前を9時10分に出る日の出橋行きの三重交通バスに乗車。今日は、城南口で降りて(¥210)、国道1号線の町屋橋から町屋川河口まで行き、日の出橋に戻るというルートです。6.2㎞。帰りは、日の出橋11時44分発の桑名駅前行きで、桑名シティホテル前で降りて(¥340)、アピタ桑名店へ。文庫本を1冊買って、寺町を回って帰ってきました。
Img_2108c 町屋川緑地公園を過ぎた辺りで、対岸の右岸(川越町側)にミサゴを見つけました。かなりトリミングしています。上流の町屋橋方面へ飛び去ってしまいました。これに先立って、ダイサギ2羽、モズ2羽、ヒヨドリ、カワウ、ムクドリなど。町屋橋からこの緑地公園あたりまではあまり鳥はいませんでした。
Img_2135c そのまま下ると、国道23号線の町屋大橋をくぐります。その前後で、ダイサImg_2159c ギ数羽と、アオサギ1羽が飛んでいます。
Img_5400c 町屋川で今日もっともたくさんいたのは、ヒドリガモでした。数はとても数えられません。この他には、コガモやキンクロハジロ、オオバンなどの姿も見えました。
Img_2186c 日の出橋を過ぎたところで、これは、セグロカモメの若い個体でしょうか。かImg_5386c なり近いところを飛んでくれました。さらに、チュウヒでしょうか、猛禽類が現れて、町屋川にいたカモや、カラスは大騒ぎ。カモたちは一斉に飛び立ち、カラスは数羽が束になって攻撃。テレビで、「カラスは猛禽類が大嫌い」というのを見た記憶があります。カラスにしつこく攻撃されて、チュウヒも上流方向へ飛び去りました。
Img_2252c 潮がかなり引いてできた干潟のところには、ユリカモメがかなりたくさん。Img_2262c その中には、セグロカモメも混じっていました。今シーズンは、昨年12月20日に来ていますが(20181220町屋川遠征……今シーズン第1回目、ウミアイサのメス、チュウヒ、ヒドリガモの大群【鳥名について付記しました(12/23)】)、もう3月でかなり暖かくなって、カモなどもそのときに比べると少なくなっていました(右の写真)。
Img_5436c_2 9時25分に国道1号線町屋橋北詰交差点を出発、1時間ほどで、湾岸高Img_2277c_2 速の下を潜り、町屋川が伊勢湾に注ぐあたりまで来ました。我が家からも見える中部電力川越火力発電所の向かい。ちょうど潮時がよくて、潮干狩りをする人がけっこういます。ただし、本来はここでの潮干狩りは御法度のはず。赤須賀漁協が漁業権を持っているのです。
Img_5458c ウィークデイの真っ昼間に潮干狩りに来ているのは、高齢者ばかりで、バードウォッチングなどをしているのは私くらい。まぁ、鳥を見ても腹は脹れませんからねぇ(笑)。潮干狩りをする人からは、「何しに来た?」と冷たい視線をいただきました。カメラをぶら下げて歩いているから、ヤバいヤツと思われたのかもしれません。
Img_2285c 河口部にいたのは、ユリカモメ、コサギ、セグロカモメ、ヒドリガモなど。こImg_2302c こからは、ナガシマスパーランドも真東によく見えます。右の写真は、遊園地をクローズアップしたもの。大観覧車の、向かって右にあるのは、ホワイトサイクロンをモデルチェンジしているジェットコースターのハイブリッド・コースター「白鯨」と思われます。
Img_2304c ここでしばし休憩。暖かくて、眺めもよく気持ちが良いところ。弁当や、本Img_2297c でも持ってきたらよかったかも知れません。10時45分になり、日の出橋に向けて戻ることにしました。
Img_5489c カモをしっかり見なかったなと思い、帰りはゆっくりとカモをよく見ながら歩Img_5517c いてきました。そうすると、湾岸高速の下をくぐってから、マガモのペアを3組発見しました。さらにもう少し上流へ来て、オナガガモも2組。右の写真は、オス。
Img_2340c 往きにも見ていたのですが、日の出橋から少し下流の中洲で、大きな魚が死んでいて、カラスなどがたくさん集まっていました。これは、帰りに撮った写真。行きには、カラスが10数羽集っていました。この写真では、セグロカモメが闖入。セグロカモメもこういうものを食べますが、カラスとはバトルにはならず、威嚇されたセグロカモメが立ち去っていきました。
Img_2363c 日の出橋に戻ってきたのは11時20分頃。バスまで、まだ時間がありましImg_2369c たので、日の出橋を渡って、川越町側へ。上流側の中洲には、ケリの姿が3羽。また、ダイサギが9羽ほどいるのも見えました。このほか、橋の下流では、オオバンやカワラヒワなども。けっこう充実した鳥見になりました。
Img_5564c 寺町商店街の河津桜、一気に咲きそろってきました。それに、今日のようImg_5570c な青空・晴天のときに見る方がやはりいい感じです。商店街のイベントは、3月16~18日ですが、それまで持つでしょうか? 心配になります。それ以前に「勝手に花見イベント」でも個人的に実施した方がよいかも(笑)。

2019年3月 4日 (月)

ウメジロウはならず、「ウメヒヨ」……カモは37羽、ユリカモメ9羽

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 10時前まで雨が降っていました。予報では昼までには上がるということでしたが、こういうときはなんだか落ち着きません。「それしかないのか?」といわれますが、散歩に行けるか気になるのです(苦笑)。雨雲レーダーとにらめっことまでは行きませんが、たびたびチェック。10時を過ぎて青空も部分的に見えましたので、住吉神社、九華公園、寺町と回って来ました。4.5㎞ほど。
Img_5296c  住吉入江には、ホシハジロのオス1羽と、オオバンがいたくらい。雨上がりで、鳥にはあまり期待はできません。ツグミは、旅館山月の東の揖斐川の河川敷にて。今日は、三の丸公園や三の丸水門辺りには、ツグミも、ドバトも、ヒバリもいません。
Img_2019c_2 揖斐川には、ユリカモメが下流から1羽。最近、九華公園ではほとんど見なくなっていますが、揖斐川ではたまに飛んでいるのを見かけます。その他、揖斐川には、カンムリカイツブリや、キンクロハジロたちの姿も見えました。
Img_5297c その九華公園、昨日堀の水をポンプで抜いていました。北Img_5306c 門を入ったところの堀の様子が左の写真。ここの堀、実はさほど深くありません。奥平屋敷跡から二の丸跡にかかる朱い橋の橋桁もかなり露出。テレビ番組であるように全部水を抜くのではないそうで、自転車など、放り込まれた粗大ゴミだけを回収するようです。
Img_2053c ユリカモメがわずかにやって来ていました。全部で9羽。左は、二の丸橋のImg_2096c 欄干に2羽だけが並んだところ。今年は、橋の欄干に並ぶシーン、ほとんど見られませんでした。右は、野球場の外野のネットの支柱にいるところ。
Img_2045c カモたちは、37羽。ハシビロガモがオス6羽、メス7羽と復活。ただし、ヒドImg_2086c リガモ、ホシハジロはおらず、その他はキンクロハジロのみ。堀の水が減って、居場所に困っているようにも見えます。ハシビロガモは、普段とは違って、二の丸堀の南西側にかたまっています。キンクロさんたちは、身繕いに励んでいます。
Img_2036c その他には、シメ、ジョウビタキのオスなど。シメは、奥平屋敷跡に3羽、Img_2063c ジョウビタキのオスは、奥平屋敷跡や本丸跡で見ました。写真には撮れませんでしたが、柿安コミュニティパークでは、エナガ、シジュウカラ、コゲラなども。
Img_2069c 鎮国守国神社の梅にはメジロが出て来たものの、逃げられてしまい、写真は撮れず。代わりにはなりませんが、「ウメヒヨ」(笑)。このあと、管理事務所へカモの数の報告に行ったところで、中部電力のメーターを検針にいらした女性が「毎日、カモを数えて、掲示しているんですか?」と感心してくださいました。お仕事中でしたからちょっとだけ話をしたのですが、九華公園で59種類も鳥を見たことなどに驚いておられました。
Img_5330c  ところで、新年度から公園の管理形態が変わり、業者さんも交代されると聞いていますが、「九華公園の野鳥たち」「九華公園を楽しく歩こう」「桑名の城跡47」「桑名の東海道」など、これまでつくった資料(アルバム)は引き継いでいただけそうです。パネルにして展示した資料のもとが、ファイルに綴ってあります。写真は、寺町商店街の河津桜。

2019年3月 3日 (日)

堀めぐりの準備で九華公園のカモは激減……ウォーキング・シューズは酷使されボロボロに

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 曇りのち雨という予報です。今日も近鉄ハイキング(安八百梅園の梅まつImg_5167c り;春の香りに誘われて 雲出川散策と今村酒造)や、JRさわやかウォーキング(老舗造り酒屋でのきき酒と蟹江の美味いもの巡り;おひなさまで華やかに彩られた早春の二見浦を訪ねて)はありますが、さすがに昨日十二分に歩きましたし、こんな天気ですからパス。常用している生活リズム計では、昨日の歩数は、28,411歩でした。スマホのアプリとほぼ同じですから、30,000歩前後歩いたことは間違いなし。
Img_5178c 雨が降る前にということで、8時10分には散歩スタート。住吉神社、九華公園と。九華公園でぱらついてきましたので、そのまま寺町を通り、10時半には帰宅。公園でウロウロしましたので、6.1㎞。写真は、揖斐川で行われている白魚漁の様子。
Img_5181c 鳥はこの天気ではあまりいません。七里の渡し跡で、コガモのオスが5羽にImg_5195c メス1羽とオオバン。左の写真は、コガモのオス。三の丸水門のところでは、ヒバリが1羽。このヒバリ、揚げ雲雀も少しだけ見せてくれました。いよいよ繁殖シーズンが来そうです。
Img_5221c 九華公園のカモ、今日は激減し、31羽。というのも、堀で早くも、さくらまつりImg_5226c にあわせた舟巡りの準備が行われていたのです。堀に船が出ると、ここにいたとしてもどこかに避難してしまいます。ハシビロガモが2ペア、ホシハジロのオスが1羽で残りはキンクロハジロ。オオバンも2羽。
Img_5262c 珍しく、ユリカモメがやって来ていました。最初に見たのは1羽だけでしたが、本丸跡にいるとき、二の丸橋方面で餌を与えているようで、10羽ほど飛んでいるように見えました。が、公式記録としては、きちんと見た3羽としておきます。
Img_5218c 他はさすがに少なく、シロハラや、シメ。シロハラは、相撲場や、本丸跡Img_5247c で。シメも、相撲場、奥平屋敷跡、本丸跡などで見ました。どちらも、複数いると思われました。
Img_5223c ツグミも、三の丸公園、三の丸水門、九華公園で見ました。写真は、九華公園・二の丸跡で見たもの。
Img_5253c こちらは、本丸跡で一瞬、姿を見せたもの。シロハラの幼鳥かという気がしますが、今ひとつ自信はありません。間違っていたら、ご教示ください。
Img_5274c 寺町商店街の河津桜は、だいぶ咲いてきました。2~3分咲きくらいでしょImg_5281c うか。昨日暖かかったからでしょうか。天気が悪かったのは、ちょっと残念。
Img_6014c ところで、現在愛用しているウォーキング・シューズ、昨年(2018年)6月Img_4898c 16日に新調したものです。翌日からこれを使用したのですが、さすがに毎日酷使した結果、昨日に至って、右の写真のような状態に。色も、日に焼けたりしてかなり薄くなり、しかも特に右足はあちこち破れてきてしまったのです。この間の合計で、1,172㎞、2,306,881歩を歩きました(距離は散歩で記録がある範囲、歩数は生活リズム計で測定した日々の合計)。これは相当ヤバいので、また新しくせざるを得ません。

2019年3月 2日 (土)

20190302近鉄ハイキング「ふるさとの味と春風を感じて悲劇の千奈美姫に想いを馳せる 四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!」へ(予告編)……歩きも歩いたり、15.6㎞

 今日は、ほぼ半月ぶりに近鉄ハイキングに行ってきました。「ふるさとの味と春風を感じて悲劇の千奈美姫に想いを馳せる 四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!」です。名鉄とのタイアップ企画となっていました。

Img_4636c 近鉄名古屋線・塩浜駅がスタート。川尻公園、采女城跡、上品寺、小松神Img_4638c_2 社、中山寺、采女八幡社、四季菜(JAみえきた)、内部地区市民センター、うつべ町かど博物館を経て、杖衝坂、芭蕉句碑、日本武尊血塚社を回り、四日市あすなろう鉄道・内部駅がゴールという、コースマップ上約14㎞。内部駅からは、四日市あすなろう鉄道にのってあすなろう四日市駅へ。
Img_4641c 塩浜駅での受け付けが、9時20分からでしたので、桑名駅を9時1分発の五十鈴川行き急行に乗車。9時18分に到着。コースマップをもらい、今日は、近鉄あみま倶楽部KIPS対象ハイキングでしたので、KIPSポイント100をプレゼントされ、9時半にスタート。
190302kintetsuhikingsiohama_2  こちらが実際に歩いたルートマップ。立ち寄り先の細かい移動はカウントせずに、15.6㎞を歩きました。今年1月27日に出かけたJRさわやかウォーキング「新春に二千年の時を刻む大神宮へのおかげ参り」の時が、15.5㎞でしたImg_5156c ので、それにほぼ匹敵する距離。ただし、今日は、城跡や杖衝坂へ登る等、アップダウンがかなりあり、難儀しました(笑)。先日からスマホを使っていますが、そのアプリ(ALKOO(あるこう)という、ナビタイムが提供するウォーキングアプリ。詳しい説明は、こちら)では、右の写真のような結果になっていて、ビックリ。まだ生活リズム計では歩数をチェックしていませんが【28,411歩でした(3/3追記)】、30,000歩オーバーなら新記録。距離は、どのようにカウントしているか未確認(GPSも使っている模様)。
Img_4650c 塩浜駅を少し南に行ってから、西に向かいます。四日市あすなろう鉄道Img_4653c の線路を越えるまでは、コンビナートの工業地帯を通っていきます。最初の立ち寄り先である川尻公園は、スタートから2.1㎞。この公園は、昨年(2018年)6月2日の近鉄ハイキングで一度来ています(「近鉄あみま倶楽部30周年記念ハイキング ~ものづくりのまち・四日市探訪~ 伝統工芸、老舗の味を満喫。わくわく感いっぱいの四日市を楽しもう!」へ(完))。なので、写真を撮ってほぼ通過。そのまま西へさらに1.5㎞。
Img_4668c 四日市市小古曽地内。これから行く「小許曽(おごそ)神社(実測ルートマップでImg_4676c は、小古曽神社と表記しました」の石柱と、慈現山(じげんざん)観音寺があります。このお寺は、ネットでは情報がほとんど出てきません。黄檗宗のお寺。歴史的に明らかになるのは、元文2(1737)年、黄檗宗の僧が四日市で一泊した折、夢のお告げでここに新しく寺を建て、観音寺としたといいます。
Img_4695c 観音寺にお参りして、小古曽神社へ。延喜式内社。延喜式には、「小許曽神社」として載っています。創立年代は不詳。由緒書きによれば、元来、東の宮と西の宮とがあったのですが、明治39(1906)年の合祀令を受けて、西の宮(現・小古曽神社)に合祀されました。
Img_4700c 大日霊貴尊(オオヒルメノムチ)、天宇受売命(アメノウズメノミコト)、布刀玉命(フトダマノミコト;高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子)をはじめとして、13柱の神様が祀られています。今日と明日は、「御鍬祭(田祭の一種で、鍬形を神として崇め、農事を祈るもの)」が開催されていました。
Img_4747c 小古曽神社からいったん国道1号線へ出て、その後、内部川の左岸を上流へ上っていきます。今日は、天気もよく、暖かくてハイキング日和。川沿いを気持ちよく歩けます。
Img_4760c ほぼ6㎞地点で、采女城跡に来ました。ちょうど11時。後藤伊勢守基秀Img_4766c が分応元(1260)年に築城し、織田信長の伊勢侵攻で永禄11(1568)年に落城するまで、約300年間にわたり栄華を極めたといいます。遺構として9つの郭(くるわ)、空堀、土疊、深井戸、虎口があり、県下では第1級の歴史的遺産と評価されています。内部東小学校の西300mほどの所にあります。
Img_4772c せっかく来ましたので、城跡へ登ってみることにしたのですが、これがけImg_4779c っこう大変でした。城跡は、30~50mほどの高さのところにあるのです。虎口、五の郭跡を経て、足はがくがく、息は絶え絶えで一の郭跡へ。これだけ上がってくると、見晴らしもよいもの。城跡は、東西200m、南北250mに及びます。
Img_4782c 上右の写真で中央に写っている、囲われたところが、深井戸跡。織田信長の侵攻で落城するとき、城主後藤藤勝は討ち死にし、その奥方と千奈美姫は、この深井戸に身を投げて父のあとを追ったといいます。後世、この古井戸から「夜な夜な女のすすり泣きが聞こえる」とか、「馬のいななきや、女人の悲鳴が細く尾を引く」などと語り継がれているそうです。哀れな話です。
Img_4802c 采女城跡を降りて、さらに西へ。スタートから6.8㎞。開徳山上品寺があります。ここは、真宗高田派のお寺。内部(うつべ)地区貝家(かいげ)町にありますが、その地名は、上品寺の門階の下に位置する階下(かいげ)に由来するといわれています。嘉祥2(849)年、土師宿禰岩次(はじすくねがんじ)が建立した成保寺が始まりと伝え(開山:澄順法師)、寛正元(1461)年天台宗から浄土真宗になり、元和元(1615)年現在地に移り、延宝7(1679)年上品寺と改名しています。
Img_4818c 成保寺の本尊であった釈迦如来像(10世紀、像高99cm、市指定文化財)は、江戸時代の初めに上品寺に移されたといわれ、現在も上品寺に引き継がれ、市指定文化財となっています。樟の木を用い、頭部と胴体を同じ木材で作る一木の像。この像は、体の内部に大きく開いた洞(うろ)があります。干割れを防ぐために人工的に彫られたものではなく、仏像を作る前からそのような状態であったと考えられています。おそらく、霊木で造ったためといわれています。今日は、ハイキングに合わせて特別に開帳されていました。
Img_4837c 続いて、小松神社。ご祭神は、建速須佐之男命(タケハヤノスサノオノミImg_4839c コト)、大山祇命(オオヤマツノミコト)。三重県郡家・土師辿馬手の嫡子に小松という人があり、聖武天皇天平3(731)年、前杵開発田一二町をなし、この領土の名により小松村と号したが、この頃、産土神として小松神社を創建したことに始まるといいます。明治41(1908)年、波木にある加富(かふ)神社へ合祀されましたが、崇敬者の熱意により昭和17(1942)年に分祀されています。合祀された名残か、境内には大正12(1923)年に建てられた「加富神社遙拝所」がありました。
Img_4861c 続いて、南小松町にある月見山中山寺(がっけんざんちゆうざんじ)。真Img_4867c 宗高田派のお寺。高田本山専修寺第十世真慧(しんね)上人開基の旧跡寺院です。寛正2(1461)年、小松中山(今の北小松町)に建立されたのですが、法難にあって炎上し、弟子蓮蔵坊慶林が南小松に移転再建し、現在に至っています。真慧上人の御遺物として、山門に掲げる「月見中山」の扁額や上人の身の危険を告げて動き出したと伝えられる「歩行石」があります(歩行石は見てきませんでした)。
Img_4882c 中山寺には、四日市市の天然記念物に指定されているモッコクがあります。本堂裏西北方、書院廊下の西側に聳えています。根元周囲は6.9m、胸高周囲3.8m、樹高は13.2mで、樹齢は300年を超えるといわれています。「超古木」、「大径木」として、全国でも有数の大樹で、県下では先に出るものがないそうです。このモッコクはその再建時(1500年以前)に植えられたと伝えられていますので、樹齢は450年以上と推定されています。ちなみに、モッコクは暖地に分布する常緑の樹木で、樹形が良く、葉が枝先に輪生状について見栄えが良いので、庭木として珍重されているそうです。
Img_4896c 中山寺を出たところで12時を過ぎていましたので、近くのコース沿いにある南小松子ども広場・運動広場でお昼にしました(9.5㎞地点)。広くて、日当たりのよい運動広場のベンチです。今日は、ファミマの「バラエティおかず&おむすび」弁当(税込み¥368)。リュックに入れているうちに、偏ってしまいました(苦笑)。味には変わりありません。ここからは、昔済んでいた笹川の公団住宅も見え、懐かしく思いながら弁当&休憩をしてきました。
Img_4917c 12時半に再スタート、途中で普賢菩薩を見ましたが、南小松子ども広場・Img_4927c 運動広場からほぼまっすぐ東へ。国道1号線の手前を南に入って、スタートから11.3㎞のところに采女八幡社があります。ご祭神は品陀和気命、建速須佐之男命、金山毘古神、大日孁貴命など19柱。由緒書きには、堀河2(1188)年、鎌倉時代に創建されたとありました。明治42(1909)年に波木町の加富神社に合祀されましたが、大正15(1926)年に分祀され、元の通りに地元の氏神として祀られることになっています。
Img_4923c この采女八幡社、高台にある、この写真のような階段、2つを登って行かないと拝殿に出られませんでした。コースマップにも、「急な階段に注意」とあったくらい。今日のコースは、かなりアップダウンや、山登りがありますので、難儀しました(苦笑)。普段ほとんど平地を歩いているツケが回ってきたようです。
Img_4943c 13時10分、四日市市内部地区市民センターへ到着。ここImg_4947c で「うつべめし」のふるまいがあります。「なくなり次第終了」とあったので心配したのですが、「報恩講汁」をいただけました。少し甘みのある、大根の味噌汁です。このあたりの真宗のお寺で、報恩講のときに振る舞われてきたものだそうです。
Img_4952c 市民センターではさらに、先着400名に四日市あすなろう鉄道のオリジナImg_4950c ルマグネットをプレゼントとありました。心配したのですが、十分先着400名には入れました。ここには、四日市市のゆるキャラであるこにゅうどうくんも登場。市民センターの手前で12㎞を越えています。
Img_4973c 市民センターから出て、少しだけ国道1号線を歩き、采女の町へ。このあImg_4993c たりは旧・東海道こちらにコースマップがあります)。「うつべ町かど博物館」へ立ち寄ります。内部地区からの古代の出土品、庶民の生活用品等、歴史と文化を伝える展示がされていました。
Img_4995c うつべ町かど博物館のすぐ先からが杖衝坂となります。東海道では箱Img_4997c 根、鈴鹿峠に次ぐ難所の一つといわれます。景行天皇の41(111)年、日本武尊が東征の帰りに極度の疲労のため、腰の剣を杖にして登ったという急坂です。確かにかなりキツい登りになっています。古事記には、「吾足如三重勾而甚疲(わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)」とあります。すなわち、私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れたということで、これが「杖衝坂」と「三重」の名前の由来といわれます。
Img_5055c 杖衝坂には、昭和4(1929)3月に三重県が建てた「史跡 杖衝坂」というImg_4999c 石碑が建っています。ここは、上述のように三重の名前の起源にもなったところで、昔から一度訪れてみたいと思っていたところ。ようやく念願が叶いました。
Img_5058c_2 常夜灯を挟んで、向かって右には、松尾芭蕉が当地で詠んだといわれている句碑が残されています。貞享4(1687)年、松尾芭蕉が江戸から伊賀への帰途、この急坂で落馬してしまい、そのときに詠んだ句です。「歩行(かち)ならば 杖衝坂を 落馬かな」 宝暦6(1756)年、村田鵤州が坂の中ほどにこの句碑を建てたのですが、明治の初期、坂ノ下の屋敷の庭園に移されました。しかし、その後、所有者の厚志により再びもとの地に移設されています。
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Img_5036c この先、杖衝坂を登りきったところに日本武尊御血塚社があります。ここは、日本武尊が出血した足を洗い流したところと伝えられています。鳥居の奥にある血塚の祠は日本武尊の血で染まった石を集めて葬ったと伝えられています。余談ですが、江戸時代には、この血塚社の前に、名物の饅頭屋があったといいます。坂を登って来たら、ここで一息つきたくなります。その気持ちはよく分かります。これですべてコンプリート。血塚社で13.7㎞、13時45分でした。
Img_5084c 釆女が丘のニュータウンを回り、内部橋で内部川を越え、四日市あすなろう鉄道の内部駅を目指しました。ゴールは、14時15分。15.6㎞を歩いてきたことになります。次の四日市行きは、13時35分。会社の名前は、未来への希望(明日にむかって)と、運行する内部線および八王子線が軌間762mmという狭軌(ナローゲージ)であることに由来します(こちら)。
Img_5138c ナローゲージですから、三岐鉄道北勢線と同じくらいの、小さな車両。あImg_5091c すなろう四日市駅までは、¥260。ローカル鉄道ですから、ゆったりした旅。四日市あすなろう鉄道は、近鉄からの移譲により、平成27(2015)年4月から運行を開始。
Img_5104c 車内はこんな風。これは新しく導入された車両で、しかもシースルー列Img_5106c 車。1両の床面に、縦約16cm×横約67cmの強化ガラス窓3枚を設置し、枕木や道床、車輪が動く様子が見られるようになっています。あすなろう四日市駅には、14時58分着。四日市で、四日市近鉄百貨店にある丸善に立ち寄って、文庫本を1冊購入。四日市発15時28分の名古屋行き急行で桑名まで。15時40分着、¥300。
Img_5153c これであみま倶楽部のスタンプは、9個目をゲット。ボチボチ増やしていきましょう。
 ところで、今日は15時からNTNシティホールで講演会がありましたが(「~会津の「義」と戊辰戦争~」というテーマで、会津松平家14代当主の松平保久氏がお話しなさる)、結局、帰宅が16時頃で間に合いませんでした。「あぶはち取らず」というか、「二兎を追う者は一兎をも得ず」というか(苦笑)。読みが甘かったといわざるを得ませんが、残念。
 記事の本編は、また明日以降、少しずつアップしていきます。

2019年3月 1日 (金)

散歩途中で珍しく喫茶店へ……河津桜、梅は咲き進み、ジョウビタキはあられもない姿を(微笑)

Img_4627c

 風はあるものの、気温は15℃を超え、暖かくなりました。陽気につられてでImg_4603c はありませんが、散歩であります(寒かろうが出ていきますので)。8時20分から11時半過ぎまで。住吉神社、九華公園とここまではいつも通り。九華公園で知人と出会い、「コーヒーでも飲もう」ということになり、近くの喫茶店へ。1時間あまり話したでしょうか。歩き足らない気がして、もう一度九華公園に戻って、外周を一回り。寺町で河津桜を見て返ってきたという次第。5.2㎞。散歩途中で喫茶店に行くのは、珍しいというか、ほとんどありません。珈琲館はせ川さんは、昭和43(1968)年創業の老舗。
Img_4621c 先に寺町商店街の河津桜から。暖かくなってきたので、開花が少し進みました。ただし、例によってよく咲いているところを撮っています。全体としてはまだ1~2分咲きくらい。3月16~18日には商店街で「花見茶屋」のイベントがあるようです。
Img_4547c そういえば3月に入りました。先日の新聞に桜の開花予想が載っていましImg_1925c た。名古屋では3月22日、津は3月26日とありました。九華公園では4月になるとさくらまつりもあります。例年、堀めぐりの船が出ますが、今年はすでにその準備が進んでいます。船もすべて塗装し直しされ、柿安コミュニティパーク西の堀につながれていました。河津桜も、梅も咲き、暖かくなり、桜が待たれます。
Img_1985c 鎮国守国神社の境内では、豊後梅が開花していました。一昨昨日はまImg_4588c_2 だでした。右は、旧・桑名城の天守台跡のところの梅。何年か前に枝垂れ梅などが植えられたのですが、だんだん見事になって来ました。

Img_4543c さて、鳥見の話。ツグミは、三の丸公園や、九華公園の野球場などでも見ました。このツグミは、三の丸公園で撮ったもの。今日は、水門のヒバリはおらず。

Img_1937c 九華公園、ゴイサギやアオサギの姿はありません。カモは、63羽。例によっImg_1945c て例のメンバー。ハシビロガモはオス5羽、メス7羽、ヒドリガモは2ペア、ホシハジロはオスだけ1羽。その他はキンクロハジロ。キンクロさんの寝癖、今シーズンはあまり撮っていませんでしたので、見事なものを(微笑)。
Img_4578c 朝日丸跡でジョウビタキのオス。いささか遊んでくれました(笑)。大サーImg_4576c ビスも。それは右の写真。あの翼の下まで、胴体はオレンジ色をしているのがよく分かります。ちょっとあられもない姿を見てしまったという気もします。
Img_1952c その前に、二の丸跡では、シロハラとビImg_4551c ンズイが1羽ずつ。シロハラは、相撲場近くでも見ました。
Img_2000c 本丸跡では、エナガ。枝かぶりで証拠写真ですが……。エナガ、この1羽のみ。先日も1羽しか見ていません。エナガの近くには、コゲラがいたのですが、鳴き声のみ。

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  • 関裕二: アマテラスの正体(新潮新書)

    関裕二: アマテラスの正体(新潮新書)
    著者の前著『スサノヲの正体』も、興味深く読みました。斬新な着眼点と発想で、思いもかけない結論に至っています。読み物としてはとてもおもしろいという点で、☆を5つとしました。ネタバレになりますから、詳しいことを書くのは控えておきますが、著者は、伊勢神宮に祀られているのは、いわゆる「天照大神」ではなく、別の霊威の強い(祟る)、二柱の神だとしています。祟るが故に、伊勢に放逐されたのだと主張するのです。ただ、著者の肩書きは、歴史作家にして、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェローであり、仏教美術に関心をもち、奈良に通ううち、独学で日本古代史を研究したということですから、現在の歴史学や考古学が明らかにした内容と整合性がとれている主張なのかどうかは、私には判断はできかねます。それ故、「読み物としてはおもしろい」と評価しています。 (★★★★★)

  • 小塩真司: 「性格が悪い」とはどういうことか ――ダークサイドの心理学 (ちくま新書)

    小塩真司: 「性格が悪い」とはどういうことか ――ダークサイドの心理学 (ちくま新書)
    タイトルに惹かれて読みました。ただし、初めにお断りしておきますが、図表こそないものの、心理学の専門書といっても良いくらいの、分厚い記述になっていますので、馴染みのない方にとっては読みやすいものではありません。「性格が悪い」ことについて、最近研究が進んできた「ダークな性格」を中心にまとめられています。ダークな性格とは、マキャベリアニズム、サイコパシー、ナルシシズム、サディズムの4つの特性です。これらの特性とリーダーシップ、社会的成功との関連、身近な人間関係中でのダークな性格、ダークな人物の内面、ダークな性格の遺伝、ダークさとは何かについて、文献を引用しつつ論じられています。その上で、性格の良し悪しは、その内容ではなく、どのような結果に結びつくかで判断されるというのが、著者の結論でした。 (★★★★)

  • 和田 秀樹: 老いるが勝ち! (文春新書)

    和田 秀樹: 老いるが勝ち! (文春新書)
    和田秀樹さんは、もともと高齢者専門の精神科医です。浴風会病院というところで35年間勤務され、6,000人以上の高齢者の方を診てこられました。その臨床経験から、高齢者については、理屈通りに行かないと思うことがたくさんあるといっておられます。タバコをたくさん吸っていても100歳まで生きる人もいれば、検査データはすべて正常なのにガンで亡くなる人もいるのだそうです。医者にいわれて血圧その他に注意していたのに、脳卒中を起こす人もいます。和田さんはこの本で80歳を過ぎたら我慢せず、好きな物を食べ、行きたいように生きることを勧めています。また、医療に関わらない方が長生きできる共書いています。不摂生を勧めておられるわけではありませんが、常識にとらわれず、自由に生きた方が楽しみも見つかってよいのではないかと思います。養老孟司先生流にいえば「なるようになる」のですから。 (★★★★★)

  • 彬子女王: 赤と青のガウン オックスフォード留学記 (PHP文庫)

    彬子女王: 赤と青のガウン オックスフォード留学記 (PHP文庫)
    彬子女王殿下の英国留学記です。彬子女王は、ヒゲの寛仁親王のご長女。殿下は、女性皇族として初めての博士号をオックスフォード大学で取得されました。この留学記は、ネットで話題になっていましたので、ぜひとも読んでみたいと思っていました。今上天皇の「テムズとともに」も読んだことがありますが、皇族の皆様は、どなたも誠実で朗らかで、それでいてユーモア溢れるお人柄をお持ちのようですが、殿下も同様でいらっしゃり、それがよく感じられる文章で楽しく拝読し、爽やかな読後感を持ちました。 (★★★★★)

  • 石井光太: ルポ スマホ育児が子どもを壊す

    石井光太: ルポ スマホ育児が子どもを壊す
    タイトルに惹かれて買ったのですが、帯にあるように「衝撃の現場報告」でした。この本に書かれているエピソードのうち、いくつかはこれまでにもマスコミ報道などで接していましたが、これだけのことがらが一度に示されると圧倒されます。現代の子どもたちは、まさに私たちが知っている(知っていた)子どもではなくなっているといえるようです。たとえば、「2歳児のネット利用率は58.8%」「子守歌はアプリで聞く赤ちゃん」「ヘッドガードの制服化」「教室の『アツ』に怯える小学生」「褒められ中毒はエスカレートする」などなど。スマホが登場して16年でその影響は大ですが、子どもたちの特徴に影響しているのはスマホだけではなく、現代社会や、大人達のありようも大きく影響しているといえます。「『将来の夢は交通整理のバイト』と言う女子高生」などはその例でしょう。私が教えている学生も、「『アツ』がすごい」ということがあり、いったい何だ?と思っていましたが、よく分かりました。すでに若い先生方は、デジタル・ネイティブ世代になっていますし、この本に登場する若者達が社会に出て、その中核を担うのも遠い将来のことではありません。これらの若者は、高い情報処理能力を持ち、周囲に適応する力もあり、コンプライアンス能力も高いのですが、それらを認めた上で、彼らが自立した大人になるために何が必要か見極め、それを提供することが必要とされるのでしょう。その意味では、大人の世代にも彼らを適切に理解し、必要な支援を提供する責任があります。 (★★★★)

  • 養老 孟司, 中川 恵一: 養老先生、再び病院へ行く

    養老 孟司, 中川 恵一: 養老先生、再び病院へ行く
    『養老先生、病院へ行く』の続編です。医療とは距離をとっておられる養老先生が、再診のため1年3ヶ月ぶりに東大病院に行かれました。大病から復活された今だからこそ語ることができる老い、医療、健康、死との付き合い方について、養老先生ご自身と、教え子にして主治医の中川恵一先生がお書きになっています。養老先生のスタイルをそのまままねすることは、凡人には不可能であり、よろしくはありません。しかし、健康についての考え方や、死についてのとらえ方などはとても参考になります。私が啓蒙されたことがらは、「健康法は人の数だけ存在する」「養老先生は抜け道の天才」「不連続な体調の変化に気をつける」「具合が悪いときは一週間様子を見ると医者に行くべきかどうか分かる」「お酒はもはや百薬の長ではないが飲む飲まないは自分で決めてよい」などでした。 (★★★★★)

  • 宮口幸治: 歪んだ幸せを求める人たち―ケーキの切れない非行少年たち3―(新潮新書)

    宮口幸治: 歪んだ幸せを求める人たち―ケーキの切れない非行少年たち3―(新潮新書)
    「ケーキの切れない非行少年たち」シリーズの3冊目です。本の帯には「『幸せを求めて不幸を招く人』の戦慄ロジック」とあります。「みんな幸せになりたい」という動機は万人がもつものでしょう。しかし、幸せの形は人それぞれですし、幸せになりたいと強く願うものの、かえって生きづらさや苦悩を抱える人たちもたくさんいます。著者は、人は幸せになりたいが故に、結果的に他人が不幸になることでもやってしまうといいます。さらに、幸せになりたいのだけれど、そのやり方がよくない」と考える、結果的に他人を不幸にする人たちを理解できるともいいます。著者が長年関わってきた非行少年達にもそれは共通するそうです。歪んだ幸せを求める人たちの背景にある要因として、著者は、怒りの歪み、嫉妬の歪み、自己愛の歪み、所有欲の歪み、判断の歪みの5つの歪みを取り上げ、事例も含めて考察しています。これを読むと、こうした5つの歪みは、ごく普通の人びとも多少とももっているものといえます。最終章では、自分と他者の「ストーリー」という概念を用いて、歪んだ幸せを求める事についてどう向き合えばよいか、提案されています。 (★★★★)

  • 森永 卓郎: 書いてはいけない

    森永 卓郎: 書いてはいけない
    他の本を買いに行った時、書店で平積みになっていましたので、思わず買ってしまいました。メディアのタブーに触れつつ、現在の日本が凋落している要因を3つ指摘しています。サブタイトルは、「日本経済墜落の真相」となっています。3つは、ジャニーズの性加害、財務省のカルト的財政緊縮主義、日本航空123便の墜落事件。この3つについては、関係者は皆知っているものの、触れてはいけない、本当のことをいってはいけないタブーになっているといいます。メディアで触れたら、瞬時にメディアには2度と出られなくなるそうです。ジャニーズ問題は、BBCの報道のためにオープンになってしまいましたが、著者の森永さんは、ご自身が病を得られたこともあって、現状を打破するためにこの本を書かれました。財務省による必要以上の財政緊縮政策と、日航123便の事故のお陰で日本がアメリカに対してどんどん主権を失っていったことが、日本経済の衰退の主たる要因と主張しています。たぶんそれは本当だろうなというのが、私の読後感。 (★★★★)

  • 立木 康介: フロイト『夢判断』 2024年4月 (NHKテキスト)

    立木 康介: フロイト『夢判断』 2024年4月 (NHKテキスト)
    何を今さら勉強しているのか? と思われるかも知れませんが、ちょっと前に流行った言葉でいえば、リスキリングに相当するかも知れません。学生時代に読みましたが、しっかり理解したかといえば、アヤシいのです。学生時代からは50年近い月日が経っていますので、その後の研究成果も含め、新しいことがあるだろうと思ったのです。100分de名著というNHK Eテレの番組のテキストです。講師の立木先生は、パリ第8大学で精神分析の博士号を取得され、京大人文科学研究所の教授。精神分析は「昨日までとは違う自分を手に入れるために行う」とおっしゃっていました。この番組でもっとも印象に残ったのは、あの有名な「エディプス・コンプレックス」よりも、今日、重要なフロイトが提案した概念は、「両性性」であるということでした。これは、いかなる個人も与えられた解剖学的性にしばられないセクシュアリティの自由を持つことをうたうものです。この視点に立てば、同性愛も、トランスジェンダーもいわば当たり前の存在であるということになります。これらを踏まえると120年間に書かれた「夢判断」の内容は、きわめて今日的な意義を持ってくると再認識する必要があります。 (★★★★★)

  • 諸富 祥彦: NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧

    諸富 祥彦: NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧
    フランクルのこの本は、改めて紹介するまでもないほど、有名な本です。私も学生時代、霜山徳爾先生の翻訳で読みましたが、ことばでは書き尽くせないほどの衝撃を受けたことを、いまでもよく覚えています。第二次世界大戦中にナチスの強制収容所に収監された経験をもとに、精神医学者・フランクルが、人生の目的を明確にし、その実現に向けて没頭する心理療法を紹介する本です。原題を直訳すると「それでも人生に然りと言う:ある心理学者、強制収容所を体験する」となります。実存心理学の名著であり、極限の環境におかれたとしても、何かが、あるいは、誰かがあなたを待っているということを主張しています。絶望して終わるのではなく、人生が何をわれわれに期待しているのかが問題であり、私たちはそれを学ぶことが重要だとしています。何度か読み直すことによって、人生への理解が深まる気がします。 (★★★★★)

  • 松田 忠徳, 増田 晋作: 枕草子の日本三名泉 榊原温泉

    松田 忠徳, 増田 晋作: 枕草子の日本三名泉 榊原温泉
    榊原温泉は、全国的に有名とはいえないかも知れませんが、名湯です。それは、枕草子に「湯は七栗の湯 有馬の湯 玉造の湯」にある、七栗の湯が榊原温泉と考えられるからです。最近、日本三名泉といえば、有馬温泉/兵庫県、草津温泉/群馬県、下呂温泉/岐阜県とされますが、枕草子に取り上げられたのはそれよりも古く、「元祖日本三名泉」といえます。榊原温泉の湯は、肌がきれいになる「美人の湯」というだけでなく、抗酸化作用もある健康の湯でもあります。この本は、日本一の温泉教授・松田先生と、地元を知り尽くした増田さんの共著で、「何もない」といわれていた榊原温泉の魅力を語り尽くしています。ちなみに、私にとっては家内の実家を知る上で格好のガイドブックです。 (★★★★)

  • 文藝春秋: 定年後に読む不滅の名著200選 (文春新書)

    文藝春秋: 定年後に読む不滅の名著200選 (文春新書)
    この本の帯には「これが定年後の知の道しるべ!」とありますが、私自身はさほど大上段に構えたつもりで読んではいません。どのような本が選ばれているかにももちろん興味はあったのですが、それらがどのように紹介されているかといった方面に興味があって読みました。本を紹介している方々はいろいろな分野で功なり、名を挙げた方ばかり。それらの方がどんな本を読み、どのように唱歌していらっしゃるかが知りたかったのです。ちょっと邪道な読み方ではありましたが、しっかりと楽しめました。 (★★★★)

  • 石田泰弘(編著): 街道今昔 佐屋路をゆく (東海の街道2) (爽BOOKS 東海の街道 2)

    石田泰弘(編著): 街道今昔 佐屋路をゆく (東海の街道2) (爽BOOKS 東海の街道 2)
    さほど本格的に取り組んでいるわけではありませんが、昔の街道を歩くのは好きです。この本のテーマである佐屋路(佐屋街道)も歩きたいと思って調べています。佐屋路は、東海道佐屋廻りとも呼ばれたように、東海道の迂回路でした。江戸時代に東海道宮宿と桑名宿の間を、陸路万場宿、佐屋宿の陸路を経て、佐屋から桑名宿への水路三里の渡しによって結んでいた街道です。実際に歩いて書かれたと考えられますが、旅人目線で書かれたウォーキングガイドです。津島街道、高須道も取り上げられています。部分的には歩いたところがありますが、佐屋路はいずれ、歩いてみたいと思い、計画中ですので、とても参考になりました。実際に歩かなくとも、歴史読み物としても楽しめます。 (★★★★★)

  • 柳瀬博一: カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049)

    柳瀬博一: カワセミ都市トーキョー 【電子限定カラー版】 (平凡社新書1049)
    東京都心にたくさんのカワセミが棲んでいるというのは、最近割とよく知られるようになっています。清流の鳥というイメージがあるかも知れませんが、東京の「野生」環境をうまく利用して繁殖もしています。そのカワセミが暮らす街は東京屈指の高級住宅街ばかりだそうです。すなわちカワセミも、人間も好む環境は同じというのです。カワセミが暮らす街は、人間にとってもよい街ということです。カワセミの存在に気付いたことから、「小流域源流」をキーワードに「新しい野生」と「古い野生」の繋がりを論じています。カワセミの生態も詳しく観察されていますので、私も今までよく知らなかったことが多々書かれていて、興味深く読みました。 (★★★★)

  • 内田 樹: コモンの再生 (文春文庫)

    内田 樹: コモンの再生 (文春文庫)
    私は、内田樹先生の評論が好きで割とよく読みます。「コモン(common)」とは、形容詞としては「共通の、共同の、公共の、ふつうの、ありふれた」という意味ですし、名詞としては「町や村の共有地、公有地、囲いのない草地や荒れ地」を意味します。昔は、ヨーロッパでも日本でも村落共同体はそういう「共有地」を持っていました。コモンを管理するには「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りが必要になるのですが、近代になって怒った「囲い込み」によって「コモンの私有化」が起こり、村落共同体が消え、集団的に維持されていた儀礼、祭祀、伝統芸能、生活文化が消えてしまったのです。著者は、このコモンを再生することが市民の原子化、砂粒化、血縁、地域共同体の瓦解、相互扶助システムの不在という索漠たる現状を何とかするために必要と考えています。ちなみに、マルクスとエンゲルスによるコミュニズムは、著者によれば「共同体主義」と訳した方がよく、彼らは「コモンの再生」が必要と提言したといいます。「共産主義」と訳されてしまったがため、なんだかよく分からないことになっているのです。「共有主義」あるいは「共同体主義」と意訳してくれていたら、もろもろが変わっていたかも知れないという話には、膝を打ちました。 (★★★★★)

  • 本田 秀夫: 知的障害と発達障害の子どもたち (SB新書)

    本田 秀夫: 知的障害と発達障害の子どもたち (SB新書)
    児童精神科医の本田先生の最新刊です。今回は知的障害が取り上げられています。これまでの本田先生の御著書では、発達障害が主に取り上げられてきたのですが、実は知的障害を持つ子どもたちも一定数存在していますし、発達障害と知的障害を合わせ持つ子どもたちもいます。その意味で、発達に困難のある子どもたちのことをきちんと理解して、適切な支援をする上では、両者を視野に入れることが重要です。著者は、知的障害の支援では、「早く」と「ゆっくり」がキーワードになると書いておられます。これは私もそうだと思います。可能な限り早期から支援を受けた方がよく、一方で、発達のスピードに合わせて「ゆっくり」としたペースで支援をすることが大切になります。発達障害の子どもたちにも「本児のペースに遭わせた支援が必要」とおっしゃる方がありますが、発達障害の子どもたちの理解/支援の上でのキーワードは「アンバランス」です。この本は、発達が気になるお子さんをお持ちの保護者の方、特別支援教育に携わる教員の方々にとって、基本的なテキストといえます。 (★★★★★)

  • BIRDER編集部: お手本でわかる!野鳥撮影術 (BIRDER SPECIAL)

    BIRDER編集部: お手本でわかる!野鳥撮影術 (BIRDER SPECIAL)
    バードウォッチングや野鳥撮影を趣味にしています。とはいえ珍鳥を追うのではなく、主に自宅近くを散歩しながら、いわば「定点観測」のように野鳥を見ています。自分の写真の撮り方を振り返ると、図鑑的に撮ることがほとんどです。なぜそうなのかを考えてみると、研究者の端くれであったことが関わっている気がします。つまり、写真を撮ることを、観察した記録やデータと見ているからではないかということに思い当たりました。野鳥撮影の「幅を広げたい」と思っていたら、この本が出版されました。ざっと目を通したところ、「色とりどりの花と鳥」「木の実レストラン」「やわらかい表情を追う」などさまざまなテーマで鳥とその周辺を撮る方法が載っています。これを参考に、自分の野鳥写真の世界を広げられたらいいなと思える本です。 (★★★★★)

  • 磯田 道史: 磯田道史と日本史を語ろう (文春新書)

    磯田 道史: 磯田道史と日本史を語ろう (文春新書)
    磯田道史さんが、さまざまな分野の達人と歴史についての論賛をしたのをまとめた本です。論纂とは、①人の徳行や業績などを論じたたえること、②史伝の終わりに著者が書き記した史実に対する論評のこと。異分野の専門家同士が議論をすることによって生まれるものは、別次元となり、大変興味深いものとなります。この本がその論より証拠。養老孟司さんとの論賛からは「脳化社会は江戸時代から始まった」という話が出て来ています。忠、孝、身分などは、シンボリズムであり、それらは見たり、触れたりできません。また、関東大震災に遭遇したことは、被害に対する鈍感さをもたらし、それが太平洋戦争につながったという指摘には、なるほどそういう面も確かにありそうだと思わされました。その他、歴史や人間について、実にさまざまな、新しい見方が示され、大変おもしろく読み終えました。 (★★★★★)

  • 保阪 正康: 近代日本の地下水脈 I 哲学なき軍事国家の悲劇 (文春新書 1440)

    保阪 正康: 近代日本の地下水脈 I 哲学なき軍事国家の悲劇 (文春新書 1440)
    本の帯に「『水脈史観』で日本の失敗を読み解く」とあります。「水脈史観」という概念には初めて接しましたが、「攘夷のエネルギーは、いまも日本社会の根底に流れている」という見方です。明治維新後、日本がとりえた国家像は、欧米型帝国主義国家、道義的帝国主義国家、自由民権国家、米国型連邦制国家、攘夷を貫く小日本国家の5つであったが、哲学なきまま欧米型帝国主義国家の道を突き進み、軍事中心の国家作りを推し進めたことが、戦前の日本の失敗の原因であったというのが著者の主張です。それは確かにそうだと思いますが、私には、ほんのサブタイトルにある「哲学なき国家」ということが、現代日本の様々な問題の背景にあるような気がしてなりません。 (★★★★)

  • 佐伯 泰英: 陰流苗木(かげりゅうなえき)~芋洗河岸(1)~ (光文社文庫)

    佐伯 泰英: 陰流苗木(かげりゅうなえき)~芋洗河岸(1)~ (光文社文庫)
    今回も特別に時代小説を取り上げます。この2つ前の本に佐伯泰英さんの「恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六)」を取り上げ、これは佐伯さんの300冊目の「文庫書き下ろし小説」だと書きました。今回のこの本は、301冊目です。しかも、80歳を越えて、さらに新しいシリーズを始められたのです。美濃を食い詰めた浪人・小此木善治郎が、職なし、金なし、住むあてなしながら、剣の達人にしてとぼけた侍であるものの、なんとも頼りになる存在で、親切な住人や大家によって受け入れられた長屋の秘密と謎の渦に巻き込まれるという設定。これまたおもしろそうなシリーズです。毎月刊行で、全3巻の予定とか。第2巻が待ち遠しい内容です。 (★★★★★)

  • 養老孟司, 鵜飼哲夫: なるようになる。 僕はこんなふうに生きてきた(中央公論新社)

    養老孟司, 鵜飼哲夫: なるようになる。 僕はこんなふうに生きてきた(中央公論新社)
    養老先生の新刊が出たというので早速入手し、ほぼ一気に読み終えました。「はじめての自伝!」といううたい文句で、帯には「虫と猫と、バカの壁。考え続けた86年」ともあります。養老先生は、かなりしつこい性格でいらっしゃるようで、疑問に思ったことは「まぁいいか」などと思わず、考え続けてこられたそうです。その結果が、これまでのユニークな著作に結実しています。それはさておき、考え続けた結果、「なるようになる。」というのが、養老先生の現時点での結論だそうです。「なるようにしかならない」ではなく、「なるようになる。」のです。物事は、はっきりとした目的意識があって進むのではないので、「なるようになる。」なのです。忘れてしまったような些事がその後の人生を動かしてきたかもしれないともあります。なるほどと、この本を読み、養老先生の来し方をいささか知ると、納得できます。というか、納得した気になっているだけかも知れませんが…… (★★★★★)

  • 佐伯 泰英: 恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六) (文春文庫)

    佐伯 泰英: 恋か隠居か 新・酔いどれ小籐次(二十六) (文春文庫)
    佐伯泰英さんは、この本で「文庫書き下ろし小説」というジャンルで300冊刊行を達成されました。佐伯さんの時代小説はすべて読んでいます。まさにストーリー・テラーといえる作家で、実に読み応えのある時代小説をたくさん書いておられます。このシリーズは、いったん完結となったかと思ったのですが、この「恋か隠居か」で復活しました(と理解しています)。隠居を考える小籐次ですが、小籐次親子に挑戦状が届くところから始まる物語。今回も楽しめました。 (★★★★★)

  • 安藤優一郎: 15の街道からよむ日本史 (日経ビジネス人文庫)

    安藤優一郎: 15の街道からよむ日本史 (日経ビジネス人文庫)
    街道歩きを少ししています。三重県内では、東海道のほとんど、伊勢参宮街道、美濃街道・養老街道などを歩きました。もっとあちこちの街道を歩きたいと思っていますが、そのときにこの本が出版されましたので、早速入手して読みました。芭蕉の奥州街道、伊勢参宮街道のお伊勢参り、武士の旅日記などの章をとくに興味深く読みました。主要な街道を取り上げることで読みやすい歴史物語となっています。 (★★★★)

  • 大芦治: 心理学をつくった実験30 (ちくま新書)

    大芦治: 心理学をつくった実験30 (ちくま新書)
    「誰もが一度は耳にしたことがある有名実験の背景・内容・影響を紹介、新たな心理学像を呈示する」と帯にあります。心理学全般に関心を持つ社会人を読者に想定しているといいますが、私には心理学史のテキストとして、あるいは、入門段階の心理学を学んだ方がさらに学習を深める際に読む本としてもよいかも知れません。 私自身も、心理学の教科書を執筆したことが何度かありますが、そこに引用する理論や実験については、いわゆる「孫引き」をしてしまったこともよくありました。この本の著者は、可能な限り原典にあたって執筆していらっしゃり、その意味では参考になったところが多々あります。 ところで、著者は心理学の未来にあまり明るい展望を持てないようです。臨床心理士、公認心理師の資格が人気を集め、心理学部などもたくさん設けられました。私自身の勝手な個人的意見を書けば、資格ができると、レベルは下がると思っています。根拠はありません。個人的な印象によるものです。私は実験心理学でトレーニングを受け、臨床心理の分野に進みました。心理学の基本は実験心理学と個人差測定心理学にあると思っています。学部段階からいきなり臨床心理学プロパーに進むのは、相当よろしくないと思います。臨床実践にあたってはその基礎となる確かな、科学的な学問(知見、理論なども含む)が必要です。また、仮説演繹法などのものの見方もきちんと身に付ける必要があります。これらは実験心理学と個人差測定心理学から養われると思っています。 この本は、基礎的知識がない方がいきなり読むのは難しいでしょうが、科学的心理学を学びたいと思う方にはよい参考書となります。 (★★★★)

  • 磯田 道史: 家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書)

    磯田 道史: 家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書)
    磯田先生の書く本はどれもとても面白く読めます。といっても、私が読むのは研究書ではなく、新書だからなのかも知れません。この本は、家康がなぜ幕藩体制を創ることができたのか、江戸時代、誰が神君の仕組みを崩わしたのか、幕末、かくして神君の仕組みは崩壊した、神君の仕組みを破壊した人々が創った近代日本とは、家康から考える日本人というものという5つの章からなっています。家康は天下を取ったあとこの国を支配するのに巧妙な仕掛けをつくり、平和な時代が続いたのですが、誤算が生じて、徳川政権が変質し、崩壊に至ったと著者は考え、そのプロセスを俯瞰しています。いろいろな時点で「神君の仕組み」を骨抜きにする人物や政策が表れたといいます。組織が弱体化する姿を見ておくと、自分たちの劣化を防ぐ力が養われると磯田先生は述べています。徳川時代が現在にあたえている影響も多く、その分析も興味深く読めます。 (★★★★★)

  • 多井 学: 大学教授こそこそ日記

    多井 学: 大学教授こそこそ日記
    文庫本を買いに本屋に行ったら、平積みしてあるのを見つけて思わず買ってしまいました。私もその昔、ご同業だったことがあったからです。帯に「いくらでも手抜きのできる仕事」とありますが、私の経験でもそういう人もそれなりにいました。ちなみに私自身は、こき使われたと思っています。さらに「現役教授が打ち明けるちっとも優雅じゃない生活」とも書かれていますが、これはまさに私の体験と同じ。本に書かれていることがらも、ことごとく納得できます。私は、「そうそう!」といいながら読み終えました。大学教授で儲けている人はごく一部などなど。まぁ大学教授の仕事や生活に興味をお持ちの方は、さほど多くはいらっしゃらないとは思いますが、お暇な方にはどうぞ。 (★★★★)

  • 宮口 幸治: 境界知能の子どもたち 「IQ70以上85未満」の生きづらさ (SB新書)

    宮口 幸治: 境界知能の子どもたち 「IQ70以上85未満」の生きづらさ (SB新書)
    「境界知能」という言葉は、専門家はよく知っていると思いますが、一般のご父兄や、小中学校の先生方にはあまりなじみがないかも知れません。IQという指標でいえば、多くの場合70以上85未満の子どもたちがこれに該当する可能性があります。一見したところでは普通の子どもたちと変わりはなく、なかなか気づかれません。しかし、理論的には約14%の子どもたちが含まれますから、本の帯にあるように「日本人の7人に1人」となります。平均と知的障害のはざまにあり、気づかれにくいものの、授業について行けなかったり、友だちと上手くつきあえなかったり、感情のコントロールが苦手であったりして、当事者の子どもたちは苦戦し、辛い思いをしています。発達障害はよく知られるようになりましたが、境界知能の子どもたちにもしっかり目を向け、必要な支援を提供することは喫緊の課題といえます。この本では、境界知能とはどのような状態なのか、教科学習の前に認知機能を向上することの重要性、子どもの可能性をいかに伸ばしたら良いかについて具体的に、分かりやすく解説されています。 (★★★★)

  • 関裕二: スサノヲの正体(新潮新書)

    関裕二: スサノヲの正体(新潮新書)
    タイトルに惹かれて手に入れたものの、序章の記述が私にとっては退屈でしばらく放っておいたり、読み直そうと思ってくじけたりしていました。しかし、そこを乗り越えるとこの本はとても面白くなり、ほとんど一気読みしました。スサノヲ(素戔嗚尊)の正体を探るプロセスでアマテラス(天照大神)の謎も明らかにされて行き、それもとても興味深いものがあるのです。アマテラスは皇祖神とされますが、実在の初代王と言われる崇神天皇はアマテラスを伊勢に追いやっています。また、伊勢神宮を整備した持統天皇だけは伊勢に参ったものの、それ以降明治になるまで、1,000年以上も歴代天皇は伊勢神宮を訪れていません。明治天皇が東京に遷御したあと武蔵国の鎮守勅祭の社に定めたのは、スサノヲの祀られる氷川神社(現さいたま市)です。明治天皇は氷川神社を訪れた翌年に、伊勢神宮を訪れています。そもそも伊勢にいる神はアマテラスなのかという疑問にも立ち向かっている、古代史や神に関心がある方にはお勧め。 (★★★★★)

  • 安藤 優一郎: 大名屋敷「謎」の生活 (PHP文庫)

    安藤 優一郎: 大名屋敷「謎」の生活 (PHP文庫)
    時代小説をよく読みます。捕物帖、市井の人たちの生活、侍の物語、大名の話などいろいろとあります。庶民の生活については、これまでもいろいろな本でかなり知っていますが、大名の生活については分からないところの方が多いと思っていました。タイトルに惹かれて買ったのですが、大名やその家族の生活が詳しく書かれているのではなく、勤番侍の生活、大名屋敷の庭園、御用達商人や豪農、幕末の動乱と大名屋敷などの話が中心でした。それはそれで知らなかったことが多々あり、興味深く読みました。 (★★★)

  • 服部環ほか: 指導と評価2023年10月号(図書文化社)
    「指導と評価」は、日本教育評価研究会の機関誌であるとともに、日本で数少ない教育評価に関する月刊誌です。この号では、教育・心理検査の意義と活用という特集が組まれています。「教育・心理検査の意義」に始まり、WISC-Ⅴ、KABC-Ⅱなどの個別検査の使い方、解釈の仕方、指導への活かし方がそれぞれの専門の先生によってわかりやすく解説されています。特別支援教育の現場でも、きちんとした心理アセスメント所見に基づいた支援を展開することが望ましいのですが、現場の先生方には敷居が高いようです。ご関心がおありの方には、どのように使えるか、どのように考えたらよいかについて基本的なことがらを理解するのに適しています。出版社のWebサイトからバックナンバーとして購入できます。 (★★★★)
  • 石田 光史, 樋口 広芳(ナツメ社): ぱっと見わけ観察を楽しむ 野鳥図鑑

    石田 光史, 樋口 広芳(ナツメ社): ぱっと見わけ観察を楽しむ 野鳥図鑑
    野鳥図鑑はすでに何冊も持っていますが、この野鳥図鑑は、2015年の刊行で、なぜ今までこの存在に気づかなかったと反省するほど便利そうなもの。掲載されているのは324種ですが、それぞれの特徴や、見わけのポイントがパッとわかるようになっています。その鳥の生活型や生息地、食性や羽色、形態などのほか、雌雄、夏羽冬羽、幼鳥などで特徴が異なる場合は、それらについても説明されています。観察したい行動から、おもしろい生態、探し方までもが載っていますし、鳥の鳴き声が聴けるQRコードも付いています。私自身、野鳥の特定がけっこうアヤシいので、しっかり活用しましょう。 (★★★★★)

  • 千枝大志(風媒社): 街道今昔 三重の街道をゆく (爽BOOKS)

    千枝大志(風媒社): 街道今昔 三重の街道をゆく (爽BOOKS)
    「東海の街道」シリーズの第4巻です。「街道歩きのお供に最適の1冊」といううたい文句。内容は、三重の主な街道、近世三重の城郭図・城下図を読み解く、お伊勢参り小咄、伊勢をめぐる〈参詣〉をデジタル化するの4章構成で、まさに三重の街道歩きの参考書としてよいと思います。私自身も県内の東海道、伊勢街道、美濃街道、濃州街道はほとんど歩き、ほかの街道も部分的に歩いていますし、城もここに載っているところはかなり訪ねています。デジタル化も、ブログに写真・記事を載せていますから、出来不出来はともかく、私も取り組んでいます。県内の街道はさらに歩こうと思っていますし、デジタル化にももっと取り組みたいと考えていますので、十分活用できるでしょう。 (★★★★★)

  • 唐沢孝一: 都会の鳥の生態学 カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽の栄枯盛衰 (中公新書)

    唐沢孝一: 都会の鳥の生態学 カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽の栄枯盛衰 (中公新書)
    都市にもたくさんの野鳥がいることを知る人は少ないかも知れません。私がいつも散歩している地方都市の公園では、これまで10年あまりで70種類近くの野鳥を観察しています。都会は自然の少ない人工的な環境にあふれていますが、野鳥たちはもともとの生態を活かしつつこれらにしたたかに適応してい生きています。この本では、カラス、ツバメ、スズメ、水鳥、猛禽を取り上げ、その都会における生態や、活動の変化、人間と鳥との関係とその変化などについて多くの実例や、調査結果をもとに、豊富な写真を使って楽しく読めるようにまとめられています。 (★★★★★)

  • 堤未果: 堤未果のショック・ドクトリン 政府のやりたい放題から身を守る方法 (幻冬舎新書)

    堤未果: 堤未果のショック・ドクトリン 政府のやりたい放題から身を守る方法 (幻冬舎新書)
    「ショックドクトリン」とは、テロや大災害など、恐怖でこくみんが思考停止している最中に、為政者や巨大資本がどさくさ紛れに過激な政策を推し進める悪魔の手法のことです。アメリカでの3.11以来、日本でも大地震やコロナ禍の裏で知らない間に個人情報や資産が奪われようとしているというのがこの本のテーマ。パンデミックで製薬企業は空前の利益を得、マイナンバーカード普及の先には政府のよからぬ思惑があるなどよくよく注意し、自分の生命・財産を守らないといけないというのが著者の主張。「今だけ、自分だけ、お金だけ」という強欲資本主義に負けないようにするには、ちょっとした違和感を大事にし、お金の流れがその裏にないか、また、それで大もうけして回転ドアをくぐって逃げる輩がいないかをチェックすることです。また、政府が何か、大急ぎで導入しようとしたり、既存の制度を急拡大しようとするときは、要注意だそうです。 (★★★★)

  •  奥山景布子: 葵の残葉 (文春文庫)

    奥山景布子: 葵の残葉 (文春文庫)
    いわゆる「高須四兄弟」である徳川慶勝、松平容保、松平定敬、徳川茂栄は、幕末維新の激動期に、結局のところ官軍と幕府とに分かれて戦う運命になったのですが、この四兄弟を取り上げて埋もれた歴史を活写した小説。私自身は、桑名藩主であった松平定敬が取り上げられているので興味を持って手に取った次第。幕末維新は、次々に色々な出来事が起きて、さまざまな人たちの思惑も複雑に入り組んでいるので、小説にするのは難しいと思っていたのですが、隠れた主人公ともいえる高須四兄弟の視点からとても躍動感のある読み物になっています。また、この時期の歴史をより一層深く理解できたという感想も持っています。 (★★★★)