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2019年2月17日 (日)

20190203JRさわやかウォーキング「節分の尾張四観音・笠寺観音と旧東海道めぐり」へ(その2)……笠寺観音、名古屋市見晴台考古資料館、笠寺公園、きんさん桜・ぎんさん桜

 2月3日に開催されたJRさわやかウォーキング「節分の尾張四観音・笠寺観音と旧東海道めぐり」のその2です。週末になると、ハイキング・ウォーキングに出かけていますし、確定申告作業もあり、記事を書くのが遅れています(苦笑)。

190203jrwalkingkasadera1 左は、この日の実測ルートマップのその1。その1の記事では、「旧・東海道」Img_1665c とある辺りまで来ました。名鉄・本笠寺駅の東に「笠寺西門」とあります。ここが、笠寺観音への入り口。右は、信号待ちの時に撮った写真。交差点を渡ると、歩行者専用通路になっていますし、露店も出て、大賑わいの様相。この日は節分で、豆まき。今年、笠寺観音は、恵方ではないので、さほど混んではいないだろうと思ったのですが、大外れ(苦笑)。
Img_1667c_2 笠寺西門の交差点を渡って、露店がたくさん出ているところを進み、山門にImg_1672c 至ります。右の写真が、笠寺観音の西門。西門の前辺りは、まだまだ空いていたのですが、いざ境内に入ると、とんでもない状況が待っていました。
Img_1680c それがこちらの写真。前に進めない、身動きできない……。台風や事故で電車が止まったときの名古屋駅の構内のような感じ(たとえがヘンですが、写真を見ていて、昔のことを思い出しました)。
Img_1677c 西門を入って左手、お堂の前に仮屋を建て、そこでお神楽というか、お祓いというか。このときはよく分からなかったのですが、仮屋にかかった幕には「熱田神楽 笠寺保存会」とあります。熱田神楽は、愛知県の尾張・西三河地方に伝わる巫女神楽の一種で、熱田神宮内で行われていたものがこの地域全体に広まったのだそうです(あとで訪れる七所神社にも関わります)。写真はトリミングしてしまい、写っていませんが、この手前には「白山大権現」と書かれた提灯が下がっていました。
Img_1687c このお神楽のところからが大変でした。まったく進まなくなってしまったのImg_1684c です。左の写真は、本堂前まで来て振り返って撮ったもの。並んでいる人たちがたくさんいます。これは、「豆まき祈祷」を受ける人たちの列。とてつもない時間がかかりそうでしたので、本堂にお参りするのは諦めました。
Img_1686c 笠寺観音の正式な名称は、天林山笠覆寺(りゅうふくじ)。真言宗智山派の寺院。尾張四観音の一つである他、尾張三十三観Img_1718c 音、名古屋二十一大師やなごや七福神などの霊場の札所です。ご本尊は、十一面観音。聖武天皇の天平8(736)年、呼続の浜に流れついた流木に禅光上人が十一面観音像を刻んで安置し、小松寺と称したのが始めといわれます。その後1世紀以上を経て、堂宇は朽ち、観音像は雨露にさらされるがままになっていたのですが、旅の途中で通りかかった藤原兼平藤原基経の子、875~935年)が、雨の日にこの観音像を笠で覆った娘を見初め、都へ連れ帰り玉照姫(たまてるひめ)と名付け、妻としました。この縁で兼平と姫により現在の場所に観音像を祀る寺が建立され、笠で覆う寺、即ち笠覆寺と名付けられたといいます。笠寺の通称・地名等もこの寺院名に由来するそうです。
Img_1714c  さて、本堂前は大賑わいで、きちんとお参りしようと思うと、先ほどくぐってきた西門または仁王門(左の写真、後で寺の南に回って撮ったもの)から並び直す必要があります。この賑わいでは、とてつもなく時間がかかりそうでしたので、早々に諦め、境内にあった玉照姫を祀ったお堂にだけお参り。
Img_1696c_2 こちらがその玉照姫と藤原兼平公を祀ったお堂である玉照堂。「玉照姫・藤原兼平公ご夫妻」という幟や、「親子、兄弟、姉妹、恋人、友人 えんむすぎ縁結びの柱」と書かれた幟が奉納されていました。本堂にはお参りできませんでしたが、この混雑ではやむなしと思い、玉照堂の先で南へ(右折)。そのため、芭蕉句碑(千鳥塚「星崎の闇を見よとや啼千鳥」、春雨塚「笠寺やもらぬ岩屋も春の雨」)、宮本武蔵の碑などは見ませんでした(ここを参照)。
Img_1705c 境内の南東、仁王門の東辺りにあった笠寺稲荷と、辯才天にはお参りしImg_1710c てきました。辯才天は、水の守護尊。技芸の守護尊でもああります。このほか、この辺りには、鐘楼や、白龍社もありました。このあと、上に載せた仁王門の賑わいを撮って、次へと思ったものの、「JRさわやかウォーキング」の矢印が見つかりません。警備員の方に伺ったところ、少し戻って、鐘楼とお稲荷さんの間に看板があると教えられ、笠寺観音に心残りを抱きつつ、名古屋市見晴台考古資料館へ。
Img_1725c 笠寺観音からほぼ東へ一直線。笠寺公園のある台地に名古屋市見晴台考古資料館があります。ここは、見晴台遺跡(みはらしだいいせき)と呼ばれ、弥生時代後期を中心とした環濠集落の跡です。資料館には、見晴台遺跡に関する史料の展示や、調査研究を行っています。毎年、市民参加で発掘作業も行っているそうです。
Img_1741c 資料館の南に「住居跡観察舎」という建物がありました。これは是非ともImg_1751c 見なくてはなりません。弥生時代の竪穴住居跡をご覧いただけます。実際に現在の施設が建っている場所を発掘調査した際にみつかった遺構を、特殊な樹脂で固めて剥ぎ取り、遺構に砂をかけ埋めもどした後に、ほぼ同じ場所にかぶせたものだそうです。
Img_1760c 住居跡観察舎を出て、笠寺公園内を歩くと、資料館や観察舎の裏手(東Img_1762c から南東)にかけて、「笠寺公園高射砲砲座(かさでらこうえんこうしゃほうほうざ)」があります。左右の写真は同じところです。太平洋戦争中、ここには高射砲陣地があり、これは、高射砲を据えていた砲台の跡。6基あったもののうち、2基が残っています。
Img_1765c こちらは、少し離れたところにあったもの。向かって右側に残っているもImg_1770c のは、説明によれば、砲側弾薬庫(ほうそくだんやくこ)というもののようです。愛知県は軍需工場と熱田神宮があるため、いくつかの高射砲陣地が造られ、また、本土防空は陸軍の担当なので、笠寺陣地は陸軍の施設であったといいます(こちらによる)。なお、見晴台考古資料館には、この陣地から見つかったという、アメリカ軍爆撃機B29のジュラルミン破片が常設展示されてていました。
190203jrwalkingkasadera2 笠寺観音を出てからの実測ルートマップです。見晴台考古資料館を出て、反時計回りに歩きました。公園のマークやその近くに高射砲砲座跡があります。そこから少し北に行くと、きんさん桜・ぎんさん桜。さらに公園の台地から降りて、時計回りに1/3一周ほど歩いて南に向かいます。
Img_1779c きんさん桜・ぎんさん桜がこちら。「きんさん・ぎんさん」は、双子の長寿のImg_1784c 姉妹で有名になり、親しまれた方。故成田きんさん(享年107)、故蟹江ぎんさん(享年108)。生前、お二人は名古屋市南区にお住まいでした。これらの桜は、もとは平成12(2000)年に、南区役所新庁舎の完成を記念し、岐阜県根尾村(現在の本巣市)から植樹された淡墨桜です。その後、平成25(2013)年に「健康と長寿」の象徴としてより親しまれるよう、ここ笠寺公園に移されています。
 きんさん桜・ぎんさん桜のところでスタートから4.2㎞ほど。時刻は、11時20分を過ぎていました。そこで、笠寺公園を出る前に、小休止。記事も少し短めではありますが、その2はここまで。

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