こんなものを持って、こういうところへ出かけてきました(微笑)。「遊んでば

かりいるのか?!」とおっしゃる方がたくさんおありかと思いますが、その通りです(笑)。反論の余地がありません。昨日の夜思い立って、伊勢まで行ってきました。

桑名を9時1分の五十鈴川行き近鉄急行に乗車。伊勢市駅に10時24分着。¥1,200。何を思い立ったかといいますと、一つには最近
伊勢神宮にお参りしていないということ(これは、ずっとそう思っていました)。もう一つは、ある方のブログで知ったのですが、神宮司庁が発行する「
神宮暦」というものがあるというのを一昨日の夜知ったのです。いつもいく鎮国守国神社や、春日神社(桑名宗社)で伺うと入手できるかと思ったのですが、昨日の散歩ではどちらも宮司さんにはお目にかかれず。ならば、伊勢まで行って手に入れようということにしたのです。

伊勢市駅を出て、外宮参道へ。振り返ってみたら、鳥居の向こうに駅が見

えています。こちら(南側)はJR参宮線の伊勢市駅。近鉄は、反対側。レトロな旅館(
山田館)を見ながら、外宮へ向かいます。この山田館は、木造三層楼の古い建物。外宮参道のシンボル的な役割も果たしているようです。創業は、大正時代、およそ100年前といわれています。宮大工の方がご自分で建築した旅館で、戦火を逃れ、このような創業当時のたたずまいを残しています。

伊勢市駅からは500mほど、10時40分に到着。
内宮さんには何度かお参り

したことはあるのですが、実は
外宮さんは初めてなのです。常夜燈の大きさにビックリ。右の写真をご覧ください。

外宮は、正式には、「豊受大神宮(とようけだいじんぐ

う)」。御祭神は、
豊受大御神(とようけのおおみかみ)。御鎮座は、雄略天皇22年(西暦477年とされます)。雄略天皇は、第21代。この雄略天皇の御代に、天照大御神の食事を司る
御饌都神(みけつかみ)として丹波国から遷ってこられました。豊受大御神は、また、衣食住、産業の守り神でもあります。

表参道火除橋を渡って、神域に入ります。鳥居をくぐって、まずは
正宮へ

お参り。ここは、高倉山の麓。古くから内宮に対して外宮と並び称されています。御鎮座は、今から約1,500年前。内宮の御鎮座から約500年後です。以来、外宮御垣内の東北に位置する御饌殿(みけでん)で、朝と夕の二度、天照大御神を始め相殿及び別宮の神々に食事を供える「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」が続けられています。

余談気味の話題ですが、正宮の正面には、このように板の塀があります。これは、「
蕃塀」といわれるもの。神社の施設の一つで、通常は参道上で拝殿の前に存在する短い塀です。「不浄除け」、「透垣」、「籬」などとも呼ばれます。正殿を直視しない(できない)ようにするとか、不浄なものの侵入を防ぐために造られたと思われますが、正確な目的は不明のようです。

『神道大辭典第三巻』(昭和12年臨川書店発行)には、「皇大神宮・豊受大神宮の東西南北の板垣御門外にあって障蔽をなす塀。」とあるそうです(
こちら)。愛知県尾張地方の神社にはよく見られるそうです(先のリンク先をご覧ください)。この蕃塀も実際に見たかったものの一つ。

正宮に向かって右手には、古殿地(こでんち)。遷宮される前には、正宮

があったところ。よく見ますと、ここの左手に正宮への入り口があり、鳥居と蕃塀も見えています。上記引用のように、隠蔽をなす塀」ということなのでしょうか。

いささかの疑問を残しつつ、正宮の南にある別宮にお参り。まずは、「
土宮(つちのみや)」。御祭神は、大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)。古くから山田原(やまだのはら)の鎮守の神でしたが、外宮の鎮座以後は宮域の地主神、宮川堤防の守護神とされ、平安時代末期に別宮に昇格しています。

続いて「
多賀宮(たかのみや)」へ。多賀宮は、外宮に所属する四つの別宮のうち、第一の位。殿舎も正宮に次ぐ大きさ。御祭神は、「豊受大御神荒御魂(とようけのおおみかみのあらみたま)」。神様の御魂のおだやかな働きを、「和御魂にぎみたま」というのに対して、荒々しく格別に顕著なご神威をあらわす御魂の働きを、「荒御魂」とたたえるのだそうです。

次いで「
風宮(かぜのみや)」。御祭神は、
級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)。風雨を司る神様で、内宮別宮の「
風日祈宮(かざひのみのみや)」のご祭神と同じ。雨風は農作物に大きな影響を与えるため、古より正宮に準じて丁重にお祀りされているということです。

3つの別宮の近くには、「
下御井神社(しものみいのじんじゃ)」があります。外宮の所管社で、内部には井戸があります。「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」を始め、お祭りにお供えする御水をいただく「上御井神社(かみのみいのじんじゃ)」で不都合があった場合は、ここ「下御井神社」でいただいた御水をお供えするそうです。別宮にお参りしたときには見逃してしまい、あとでお参りしてきました。上御井神社へは、立ち入り参拝することはできません。

正宮のすぐ東にある「別宮遙拝所」。正宮前の参道にある、注連縄を張った小石敷きの一面が南面してあります。多賀宮を遙拝するところです。もちろん、時間に余裕があれば正面の参道を進み、丘の上に鎮座する多賀宮を参拝します。

正宮から別宮に行くところにあるのが、「
三ツ石(みついし)」。古殿地の南側にあります。3個の石を重ねた石積みで、この前で、「御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう:正殿の内外をお飾りする品々や、武具、馬具、楽器などの調度品)」や奉仕員を祓い清める式年遷宮の「川原大祓(かわらおおはらい)」が行われる神聖な場所だそうです。
こちらは、「
亀石(かめいし)」。多賀宮など別宮に進む参道の途中、中の御池にかけられている、1枚の大石からなる橋です。亀に似ているところから亀石と呼ばれています。ここをパワースポットとみなして、拝んでいく方や、頭に見えるところを撫でていく方がありました。

北御門口や、その西にある2つの神社も見て、お参りしようと思って行ってきました。その途中、九丈殿(くじょうでん)、五丈殿(ごじょうでん)(
こちら:雨天の際、祓所に代わってここで神饌(しんせん)などが祓い清められます)や、忌火屋殿(いみびやでん:神饌の調理を行う「神様の台所」。忌火(いみび)は、「清浄な火」という意味))の前を通っていくと、御厩(みうまや)がありました。神馬がいるところですが、小生が行ったときには、「笑智(えみとも)号」も、「草音(くさおと)号」も不在。

北御門口へ行く前に、御厩のすぐ北にある細い道を西に入って行きます。この先には、2つの神社があるのですが、ここにお参りする方はかなり限られていました。まずは、度会國御神社(わたらいくにみじんじゃ)。豊受大神宮の摂社です。御祭神は、「彦国見賀岐建與束命(ひこくにみがきたけよつかのみこと)」で、伊勢国造・度会神主の祖とされます。参道から脇道に入って200mほど進んだところにあります。周囲は、老杉、巨楠の自然林です。ここで女性お二人から声をかけられました。地元の方ということでしたが、ここは初めてとか。ご退職になって余裕ができたので、ここまでお参りにいらしたということで、小生と似たようなふう。お一人は、桑名高校まで通っていらしたということであれこれお話しをしてきました。

こちらは、さらに少し奥にある大津神社。豊受大神宮の末社。御祭神は、「葦原神(あしはらのかみ)」。五十鈴川河口の守護神だそうです。「津」には港の意味があるように、港口の潮の神であることが、社名から窺えます。

北御門口(きたみかどぐち)からいったん外へ出て、こちらの火除橋を見

てみました。このあとまた御厩、忌火屋殿などのところを通って、 外宮神楽殿(げくうかぐらでん)へ。ここでは、ご祈祷の受付やお札・お守りなどの授与がしていただけますし、参拝記念のご朱印もいただけます。現在の神楽殿は、元の御殿(明治26(1893)年築)を全面改築して、平成12(2000)年12月に竣功開殿祭が執り行われました。ここで、本日の最大の目的である「神宮暦」を授与していただきました。
神宮暦は、2種類あります。小さい方の「神宮暦」には、日の出や満潮時刻など天体と気象に関する身近な情報や農事情報がまとめられています。大きい方の「神宮大暦(じんぐうたいれき)」は、科学的データを基礎として、日々の天体、気象の詳細値などをまとめた暦で、ざっと見た感じでは、理科年表にも共通する編集です。神宮暦は、高島何とかの暦のように、占いのたぐいは一切載っていません。伊勢神宮の
神宮司庁が奉製し頒布しています。その前身となるものは、江戸時代初期から伊勢国の神宮周辺の暦師たちによって発行されていた、伊勢暦と呼ばれる各種の暦本です。後に伊勢の御師(おんし)が年末に神宮大麻とともに伊勢暦を配るようになり、全国に知られるようになりました。

明治4(1871)年、御師制度が廃止され、伊勢暦の頒布も中止されました。翌明治5(1872)年、文部省主導の下、全国の暦師が集められて頒暦商社が組織され、明治7(1874)年から政府発行の官暦の独占頒布が認められたのですが、その後、太政官布告で、明治16(1883)年から、官暦は神宮司庁が発行することになったのです。迷信的記述は排除され、科学的情報のみを記述した、実用的な暦としてつくられています。農林漁業に携わる方や、家庭菜園やガーデニングをなさる方も活用しておられるといいます。ちなみに、この赤丸で囲われた「神宮」と書かれた手提げ袋も気に入りました。

参拝も無事に終え、神宮暦も入手しました。内宮へのお参りも考えたの

ですが、天気は下り坂という予報でもあり、帰宅することにしました。その前に、
赤福外宮前特設店で「
赤福盆」をいただいてきました。¥210。赤福といえば、最近、「
いすず 野あそび餅」が売り出されているのですが、これはあいにく五十鈴野遊びどころ内 赤福 五十鈴川店へ行かないと入手できません。この「いすず 野あそび餅」、白小豆と手亡豆を合わせた白あん、よもぎでつくった緑あん、赤福餅のこしあん、黒砂糖風味の黒あんの4種類を詰め合わせなのです。また今度。

そして、昼ご飯は、行きの電車の中から決めていました。
伊勢うどん、こ

れしかありません(微笑)。たまり醤油に鰹節やいりこ、昆布等の出汁を加えた、黒く濃厚なつゆ(タレ)を、太い緬に絡めて食べます。店によって独特のだしを用います。太い麺は長時間かけて柔らかくゆで上げられています。具やトッピングは少なく、薬味の刻みネギだけで食べることが多いのですが、入った店のおすすめということで、卵の天ぷらをトッピング。¥600。暖かくて、美味しくいただきました(微笑)。

食事を終えて12時50分。「さぁ、帰ろう」と伊勢市駅の前まで来て、ふと見たら、すぐ東に神社があるではありませんか。見つけてしまったからには、立ち寄らねばなりません。
世木神社です。古くからこの地に鎮座してきました。「世木」は「堰」のようで、ここは、往古、宮川の分流豊川の沿岸にあり、その上流と下流とに堰を設け、その間を関川と称していたところだそうです。

創始年代は不詳ですが、天福・建長(1233~1256)以前と推定されてい

ます。明治41(1908)年5、度会郡宮本村藤里鎮座の度会氏神社(天牟羅雲命)、岩渕町鎮座の松木社(度会春彦神主)を合祀し、社号を世木坐度会氏神社と改称しました。さらに、大正9(1920)年8に境内社の菅原社(菅原道真公・宇迦御魂命・大国主命)を合祠。昭和31年3月に世木神社と称し、現在にいたっています。

境内には、三吉稲荷神社もありますが、それよりも珍しいのは、この手水

鉢。隠れているところもありますが、10ヶ所ほど、大小不揃いの穴があります。「
盃状穴(はいじょうけつ)」というそうです。盃状穴は、手水鉢や、灯籠基壇などに穴を掘ったもの。これは、子孫繁栄、つまり子どもを授かりたいという願いから、女性器を象徴した一種の民間信仰と考えられているそうです。

世木神社にお参りして、伊勢市駅には13時少し前に戻って来ました。

が、名古屋行き急行は、13時ちょうど。ホームに降りる階段のところで発車。やむなく、帰りは豪華に伊勢志摩ライナー(微笑)。13時16分発名古屋行き特急に乗車。

桑名駅には、14時19分着。¥1,200。急行に乗るよりも早く到着。外宮さんだけではありましたが、念願の伊勢参りもしてきましたし、興味深い神宮暦も入手できましたので、充実した1日だったといえます。

今日歩いたコース。伊勢市駅から外宮さんまでは、片道500m。合計で約4㎞歩いてきましたので、外宮の中で3㎞ほど歩き回ってきたことになります。まだ他にも見て来たところがありますから、そのうちに「補遺編」でも書きます(他の記事も山のようにたまっていますしねぇ)。
おユキさん、こんばんは。
ひっくり返っていただけましたか(爆)?
狙っていたとおりの展開です(笑)。
冗談はさておき、本文に書いたとおりで、かねてより行きたいと思っていたところへ、この「神宮暦」を知ったがためのことです。
おっしゃるとおり、6時間余りの「強行軍」(微笑)でした。
伊勢は遠いと勝手に思い込んでいたのですが、宇治山田でのハイキングに行って、さほどでもないと思うようになりました。
「思い立ったが吉日」というようなことばがありませんでしたでしょうか(微笑)?
屁理屈を書いておりますが、最近、江戸時代とはいいませんが、昔のような暮らし(こういうことわざも最近ではあまり聞かれなくなっていますが、一面の真実を伝えていると思っています)がいいかもと思っています。
あまりにも今の時代に沿って暮らしていると、疲れる気がするのです。
その意味でも、この「神宮暦」は暮らしの伴(友?)になるような気がしました。
投稿: mamekichi | 2018年12月12日 (水) 21時18分
mamekichi先生、こんにちは。
一言。
ひっくり返りました(爆)。
いやいや、その行動力、実に羨ましいです。
駅までの往復を合わせると、6時間強くらいですか?
思い立って行って来る、というのも、良いものだなぁ、と思いました。
投稿: おユキ | 2018年12月12日 (水) 16時14分