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2018年12月17日 (月)

20181209近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 青木酒造の銘酒「米宗」をたずねて」へ(その1)……薬師寺の大楠・鯏浦城跡、難畑地蔵尊、興善寺地蔵へ

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 12月9日、多度山から北、養老山地の方は、雪が降っているような感じでImg_5664c あしたが、この日もまた、お出かけ(笑)。連日の近鉄ハイキングへの参加です。翌週(12/15、16)は、ハイキング/ウォーキングと予定が合わず、次に行けるのは12月22日になってしまいますし、今日は、待望の「酒蔵みてある記」の初回なのです。
Img_5521c  この日の近鉄ハイキングは、「酒蔵みてある記 青木酒造の銘酒「米宗」をたずねて」。近鉄名古屋線・弥富駅がスタート&ゴールの約7㎞。コースマッ20181209kintetsuhikingyatomi プは、左の写真の通り。弥富駅をスタートし、薬師寺の大楠・鯏浦(うぐいうら)城跡、難畑地蔵尊、興善寺地蔵を経て、青木酒造で酒蔵見学&試飲、甘酒のふるまい、即売会・抽選会。そして、ひたすら歩いて、弥富駅に戻るというもの。ですが、試飲をしすぎたせいか(笑)、曲がるべきところを見逃し、大回り(爆)。500mほど余分に歩いてきました。といっても、他にも同じ誤りをしでかした方があり、大笑い。右の画像が実際に歩いたルート。歩くために行ったはずですから、まぁ良し。
Img_5527c_2 受付は、9時半からでしたので、桑名駅を9時11分の名古屋行き準急に乗Img_5517c 車。2駅目が弥富。9時19分着。¥260。受付は9時半からとなっていましたが、すでに始まっていました。というのも、この「酒蔵みてある記」は参加者が多いのです。9時28分にはスタートしました。
Img_5525c 最初に向かうのは、薬師寺の大楠・鯏浦城跡ですが、不勉強にしてこのImg_5528c 「鯏」という漢字を知りませんでした。駅を出て早速の電柱にもこの町名が表示されています。現地について、ボランティアガイドの方の説明を聞いてようやく分かりました。「うぐい」と読みます。ウグイは淡水魚ですから、昔このあたりにたくさんいたということかもしれません。午前中、北西の風が5m/s前後、気温6~8℃という「好条件」の中、頑張って歩きます。
Img_5532c 近鉄弥富駅の北口を出て、JR関西線の踏切を越え、800mほどで鯏浦山薬師寺Img_5535c に到着。9時40分。遠くからも大楠がよく見えています。
Img_5539c ここは、曹洞宗のお寺ですが、かつて織田信長が築いた鯏浦城と呼ばれる砦がありました。このあたりに勢力を持つ一向門徒・服部党を攻めるためです。信長の弟・彦七郎信興が城主となったのですが、元亀元(1570)年、小木江城(現在の愛西市)で戦死。怒った信長は大軍を送って、天正2(1574)年、ことごとく焼き尽くしたといいます。鯏浦城には信興の念持仏薬師如来を安置する御堂があり、それがこの薬師寺の前身です。明治時代、この薬師如来像を本尊とする薬師寺が建立され現在に至っています。この日のハイキングでは、弥富ふるさとボランティアガイドの方たちが待機して、説明してくださっています。
Img_5544c_2 境内には、この「鯏浦城跡」の石碑があります。この辺りは、昔は海岸線であり、荷之上集落とともに自然堤防上に立地し、蟹江城と並んで中世期城砦の最南に位置しており、織田が服部党に対峙する拠点だったのでしょう。この碑は昭和51(1976)年に建てられました。
Img_5560c 境内にあるクスノキの大木は、「薬師寺の大楠」として親しまれていまImg_5547c す。この大楠は、樹齢600年以上といわれます。かつてこの付近が海岸線だったことから磯部の楠として有名だったそうです。説明板(昭和51(1976)年の設置)によれば、目通り8.3mに及ぶとあります。人々は、この楠の葉を薬として用い病を治したといわれ、 また一説には、信長の一向門徒勢・服部党攻撃の際、信長軍がこの木に舟をつないだとも伝えられています。樹下には小祠が祀られ参拝者が跡を絶たなかったようですが、明治時代に弥富神杜に合祀されています。
Img_5562c この薬師寺には、境内と、山門の外にそれぞれ地蔵堂があります。境内Img_5574c にある地蔵堂の前には、「西国三十三ヵ所観音霊場御砂踏」という石柱が立っています。山門の外(ここも境内かも知れませんが)にあるのは、延命地蔵尊。このあと、2ヶ所のお地蔵様を巡るのですが、弥富には地蔵尊がたくさんあるように思えます。
Img_5580c 薬師寺の大楠を見て、出て来た道路にもお地蔵様があります。実測ルートマップで「1km」とあるところです。こちらのお地蔵様も延命地蔵尊で、その前には「南無延命地蔵菩薩」という石柱がありました。
Img_5584c この延命地蔵から200mも行かないところの道ばたに「難畑地蔵(なんばImg_5586c たじぞう)尊」があります。このお地蔵様は、織田信長と服部党・一向門徒との戦場となり多くの犠牲者を供養するために建立されたもので、もとは、この場所ではなく、この東にある東弥生台団地の一角にあったそうです(実測ルートマップで、難畑地蔵尊と入れたところの南西。今はそこに石碑が建っているそうですが、それは見て来ませんでした)。信長に一面焼き払われた「鯏浦下の割」古戦場は、その後、人骨や武具、矢刀などが掘り出され、耕作しようとしても大変難儀に合うことがあり、難畑と呼ばれていました。そのうちに遺骨などを集めて、地蔵尊を祀りました。明治になって、ある時、農家の娘が眼病になり、地蔵尊が「我を中地道の人通りに移してくれたらお前の眼病を治してやる」とその娘の夢枕に立ったそうです。村人十数人が、そのとおり、中地道の傍らにお堂を建立し、道行く人にお参りさせたら娘の眼病はたちどころに治ったという言い伝えがあります。案内してくださった弥富ボランティアガイドの方が熱心にしてくださったお話。
Img_5596c 難畑地蔵尊から西中地交差点で左折、北西に向かいます。東名阪自動Img_5602c 車道をくぐる手前には、興善寺地蔵があります。このあたりは、「白頭(しらこうべ)」といい、蓮如上人の孫にあたる実正を養子に迎えたほどの由緒ある寺「荷上山(がじょうざん)興善寺」がありました。末寺は70ケ寺にもおよぶ大きな勢力があったといいます。寺伝によると、桓武天皇の勅願で延暦14(796)年に創建されました。元は天台宗でしたが、永正年間(1504~1521年)に浄土真宗に改めています。信長の時代に長島の願證寺と組んで一揆を起こし、天正2(1574)年に焼き払われたものの、直ちに復興。しかし 寛永4(1627)年の大地震で倒壊し 清州に移転し さらに名古屋に移りました。
Img_5598c このあたりは、天正13年(1586)の地震で陥没し、白頭池ができています。明治24(1891)年、濃尾地震の後、村人がこの池を浚えた際に、2体の地蔵尊を探り当て、服部家と斉藤家が荷之上の墓地に安置してきました。この地蔵尊は、昭和51(1976)年に弥富市の文化財指定を受け、それ以降、荷之上区によって管理され、毎年3月に供養祭が営まれています。弥富市に残るもっとも古い石仏だそうです。
Img_5606c これでこの日のハイキングの前半部分は終了。東名阪自動車道を弥富Img_5624c インターの西で潜り、弥富インターあたりを通り、北へ向かいます.弥富インターのところで2.6㎞。10時10分くらい。北風がけっこう強く、多度山の北にある養老山地には、雪がかぶっているのが見えました(右の写真)。しかし、だんだんと青木酒造も近づいてきますので、足取りは重くはありません。
 その1はここまで。青木酒造の酒蔵みてある記、源空寺、そして痛恨の(笑)コースミスの話は、その2にて。

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