その2では、庄野宿を歩いて、JR関西線・
加佐登駅まで来ました。スタート

からは4.3㎞ほど、時刻は11時25分。加佐登の町の中、歩いたルート(右の地図)が錯綜していますが、加佐登駅のすぐ北で左折。グッと大きく右折して浄安寺の前で左折し、北西へ向かっています。加佐登駐在所前から鈴鹿病院を覗いて、また駐在所前に戻り、さらに北西へ向かいました。

S理容院さん。加佐登に住んでいる間、お世話になりました。勤務先の患者

さんの散髪をお願いしたこともありました。右は、理容院のすぐそばで営業していたクリーニング屋さん。ここもお世話になったところ。このクリーニング屋さんの前を通って、坂道を上ります。

けっこうな坂道を上りながら、上に書いたようにグッと大きく右折したところ

にあるのが、浄安寺。浄土宗のお寺。加佐登に住んでいたとき、この存在は知ってはいたものの、前を通るだけでした。

ここ浄安寺には、市指定文化財である「釈迦如来座像」があります。平安後

期の作で、高さ88.5cm。檜造りで、量感があり、平安初期の面影があるそうです。もとは、慈悲山正福寺(生福寺)に祀られていたものが、明治維新の時、廃寺になってここに遷されたといいます。

加佐登商店街を歩くのですが、ほとんどの商店が閉まっています。この

日は土曜日なのですが、お休みというよりは、廃業してしまったところがほとんどという印象。左の写真、手前には手芸店があったはず。南条文具店も営業していないようです。右の写真の八百屋さん、小生が働いていた病院にも品物を納めていました。八百屋さんが土曜とはいえ、昼前に閉まっているというのは、廃業してしまったのかと思えます。なんだか寂しい限り。

シャッター商店街といいたくなりますが、そうではありません(笑)。この呉

服屋さん、小生がいた頃は確かに営業していたと思います。しかし、それにしても、ほとんどの商店が閉まっているのには、やはり隔世の感。しかし、そういう中、昔はなかった食堂が1軒。あちこち検索した結果、「
日の出食堂」というらしいことを見つけました。食べログには単に「
食堂」として載っています。

もう一軒。こちらは、小生在職当時から続いている「
だるまや」。改めて調べてビックリ、小生在職当時どころか、昭和30(1955)年創業だそうですから、小生と同年齢(笑)。小生がいた頃は、きわめて普通の大衆食堂でした。13年ほど働きましたが、その途中から鴨料理を始めた記憶があります。今や、鴨料理専門店だそうです。ちなみに、だるまやさんで鴨料理は食べたことがありません。

だるまやさんの前が、加佐登駐在所前の交差点。ここを南に入ったとこ

ろが、小生の最初の勤務先である
国立病院機構鈴鹿病院(当時は、国立療養所鈴鹿病院)。昭和54年4月に就職し、平成4年5月まで勤務しました。昭和18(1943)年11月に亀山陸軍病院として創設されました。戦後、厚生省に移管され、昭和28(1953)年4月からは結核療養所に転換し、国立療養所鈴鹿病院となりました。その後、昭和39(1964)年10月には、進行性筋ジストロフィ-症児(者)病棟を、また、昭和44(1969)年5月には重症心身障がい児(者)の病棟を設けています。

小生が奉職した当時は、まだ陸軍病院時代の建物もあり、まさに田舎の療養所という雰囲気でしたが、平成16(2004)年4月に国立病院機構になってからは、施設・設備も一新されました。数年前に、一度、依頼を受け、講演会にお邪魔したことがありますが、あまりの変身ぶりにかつて勤務したところとはいえ、緊張感を覚えました。

いささかの感慨にふけりつつ、近鉄ハイキングのコースに戻ります。鈴鹿病院前で5㎞を過ぎました。病院前のメイン道路は県道27号線ですが、そこから1本南の旧道を歩きます。ここは、10年近く通勤で歩いた道。この写真のあたりには、本屋さんもあったところ。

この後藤庄兵衛商店さんは、肥料屋さんだったはず。ネット検索しても情

報が出て来ませんので、もう営業していないのかもしれません。右の写真のあたりには、江藤酒店があったところ。ここから県道側に曲がって、県道を越えたところに住んでいたのです。引っ越したとき、亡くなったオヤジが「おぃ、ここでお酒が買えるな」などといっていた記憶があります。さほど飲むわけではなかったオヤジのことばとは思えず、記憶に残っています。

またもやコースを少し外れますが、かつて自分が住んでいたところを見て

来ました。E藤酒店があったところから、県道に出ました。「美容 小河」さんは、あの頃は「小河パーマ」といっていたと思います。左の写真では、奥の方が荒神山観音寺や、東名阪鈴鹿インターチェンジ方面。ここを渡ると、右の写真。この奥に、昭和54(1979)年4月から10年ほど住んでいたのです。

写真に写っているクリーム色の建物の手前辺りに、4軒の長屋というか、アパートがあり、その西から2軒目に住んでいました。家賃は、ずっと¥17,000で変わらず。今風にいえば、2DK(風呂・トイレと、裏に物干し場あり)。更地になっていましたが、う~ん、気分的にはかえってサッパリした気がします。ちなみに林の向こうは、三重用水の加佐登調整池。これはまたあとで触れます。

かつて住んだところを確認して、県道に戻りました。大家さんの西口屋さん。奉職当時は、旧道の方にありました。家賃は、ずっと現金払いでしたので、毎月持参していました。これにて、センチメンタルジャーニーのメイン・イベントはほぼ終了。ハイキングコースに戻り、荒神山観音寺を目指します。このあたりで6㎞手前。

旧道を500m弱歩いて、花植木センター入り口交差点へ。歩いていると、クルマの爆音が聞こえて来ました。昔からそうでしたが、天候、風向きによっては鈴鹿サーキットを走るクルマのエンジン音、排気音が聞こえたのです。この日はレースはなかったようですから、何かのイベントだったかもしれません。この先の信号交差点を右へ入って行きます。

信号交差点(花植木センター入り口)の先の三叉路脇に

「高神山観音寺」の石標があります。この「高神山観音寺」が正式な名称。石標は大正14(1925)年3月の建之。ここまで来れば、荒神山観音寺まではあと500m。市立加佐登小学校の前を通ってさらに進みます。

加佐登小学校のすぐ北に常夜灯が見えましたので、見て来ました。あまりはっきり覚えていないのですが、この先に高塚神社がありました。かなり階段を登っていかなければならないようでしたので、パス。ネットで検索しても情報は出て来ませんでした。

スタートから7㎞あまり、12時5分になってようやく
荒神山観音寺に到着。
真言宗御室仁和寺派のお寺。9世紀の初期、嵯峨天皇の時代、弘仁3(812)年に、
弘法大師が
日本武尊を御神霊を仏像としてまつり、神事山(こうじやま)と称したのが始まりです。その後、寛治元(1087)年に大和の国の法陵律師という聖僧が、神事山の観音大士のお告げによってこの地を訪ね、檜の大樹の下に十一面観世音菩薩がいらっしゃる姿を見い出して、御堂を建立安置したといいます。創建時は、紅葉山高宮寺と呼ばれ、加佐登神社周辺にあったとされる慈悲山寺(廃寺)の末寺であったといいます。

左は、本堂の写真。本堂には、十一面観世音菩薩(秘仏)と日天、月天、

地天の銅仏が安置してあります。中世に衰退したのですが、寛永10(1633)年、伊勢神宮参拝の途上で失明した奥州出羽の行者・荒沢順海が、当寺に祈願したところ開眼全癒したことからここに留まり、異母姉である
春日局(徳川家光の乳母)の支援を得て再興しています。春日局は上洛した際に参拝し(正保4(1647)年)、鐘楼の梵鐘と仏像5体を寄進しています。 慈悲山寺が衰えたため、元禄4(1691)年には高野山の末寺となり、高野山の一字をうけて高神山へ改称しました。右の写真には、春日局が寄進したという梵鐘が写っています。ちなみに、三宝荒神は、最も不浄を忌み、火の清浄を愛するところから竈(かまど)の神様として有名で、暴悪を治罰する神徳から正義が祈られ、勝運が願望されているといいます。

本堂は、寛保3(1793)年に僧・宥信が建立。奉納された多数の絵馬や、千社札が並んでいます。

絵馬の1つには、「文政十三庚寅正月」とありました(文政13年は1829年、天保に改元された年)。

境内はかなり広く、本堂の背後に進んでいくと、観音堂があります。

石碑が建っていますように、荒神山観音寺は、
伊勢西国三十三ヵ所の第24番札所。ちなみに、
伊勢七福神の1つでもあります。
境内は、ハイキングのタイトルにあったように(鈴鹿の隠れた紅葉の名所

「荒神山の喧嘩」で有名な荒神山観音寺を訪ねて)、紅葉がきれいでした。これはうかつにも知りませんでした。観音堂のさらに奥に奥之院があります。奥之院は、安永4(1775)年に僧・光瑞が建立し、ここには黒観音と三宝荒神が安置されています。

奥之院には、両側に大きな草鞋らしきものが掲げられていました。由来

は調べたものの、不明。昔からあったような気がします。春の大祭(春季会式)が4月7日・8日に行われますが、7日正午からは、この奥之院の前で、本尊十一観世音菩薩の大護摩と火渡りが催されます。

さて、この荒神山観音寺の裏山では、慶応2(1866)年に
神戸長吉(かんべのながきち)と穴太徳(あのうとく、穴太の徳次郎;ちなみに、穴太は、桑名の隣、東員町の地名)が、荒神山の賭場の縄張り争いから大喧嘩をしました。「神戸(かんべ)」は、鈴鹿の神戸。どちらも神戸屋祐蔵の子分。4月7日・8日の観音寺の縁日には、寺の背後の道筋に多くの賭場が立ち、ここを縄張りとする親分は莫大な収入を得ていました。ここはもともと神戸長吉の縄張りだったものが桑名在の穴太屋徳次郎(通称穴太徳)の手に渡ったために両者の争いとなったという次第。

寺の裏山で両者あわせて200人前後の身内を投入、入り乱れての死闘をつくしたといいます。長吉方には、三州
吉良仁吉・
清水次郎長一家が加勢し、穴太徳には
黒駒勝蔵ら東海の大親分たちがついたものの、穴太徳勢は寄せ集めであったため、用心棒が討ち取られると総崩れとなり、長吉の方が勝ちを収めたといいます(このあたりの状況は、史実と、浪曲のストーリーとが入り交じって伝わっているようです)。しかしながら、応援に来ていた吉良仁吉は銃弾が当たり、亡くなってしまいます(享年28)。本堂には、吉良仁吉のものとされる三度笠と合羽、仁吉を倒したという火縄銃が展示されています。

この荒神山の喧嘩は、「血煙荒神山」として講談や浪曲などで取り上げられたり、映画も作られ、有名になりました。とくに、二代目広沢虎造の浪曲は人気を博しました。火縄銃などの隣には、「
次郎長血笑記 殴り込み荒神山」という映画のポスターが掲げられています。昭和35(1960)年の東映映画。
こちらにそのストーリーがあります。

荒神山観音寺の境内には、この大喧嘩の時の流れ弾の

あとがあると伝えられています。それは、鐘楼の柱の根元の穴。

昭和26(1951)年3月、広沢虎造により、吉良仁吉を追悼する碑(吉良仁吉碑)が境内に建てられています。

このほか、荒神山観音寺の境内にあったもの。まず、入り口を入ってすぐ

のところには、春日局の歌碑。「さと遠き かうじが山の 紅葉に 観音大悲 ひかりとどまる」という和歌が刻まれています。碑陰には、平成元(1989)年4月に地元、高塚町と都賀町の方が建てたとありました。観音堂から奥之院に向かう途中、西側には道標(?)。「右 下大久保 左 深溝」とあります。両村とも現在は鈴鹿市ですが、江戸時代は亀山藩の領内でした。ただ、江戸時代中頃は、このあたりは原野がひろがり、荒れ地を開墾しては土地を増やしていったところで、神戸藩や亀山藩などの領地の境界が判然とせず,管轄が入り組んで複雑だったようで、入会地をめぐって村と村の争論も頻発したそうです。

本堂の東には、三吉稲荷大明神が祀られていますが、由緒などは説明

がなく、不明。「三吉」も、人名とも、地名とも思えない気がします。京都の太秦などに三吉稲荷という神社があるようですが(たとえば
こちら)、関連があるのかどうか分かりません。
境内を一通り見て回ってきましたし、時刻も時刻でしたので、荒神山観音寺で弁当。12時半頃。今日も駅ナカファミマでゲットしてきた幕の内弁当、¥398。おにぎり弁当のようなものがなく、やむなくこちらをチョイス。本堂脇にベンチがあり、そこでいただいてきました。他の参加者の方々も10名以上、お昼を食べておられました。

余談(全編余談のようなものですが)。たしか「荒神山会館」といったと思いますが、境内には、集会所のような施設があります。鈴鹿病院に就職したとき(その後も、しばらく、歓送迎会、忘年会などでも利用)、ここで、加佐登商店街の仕出し屋さんから仕出し弁当をとってもらって歓迎会をしてもらったような記憶があります。

お昼も食べて、12時40分に再スタート。長くなりましたので、その3はここまで。ここからは、勝手にハイキングのコースを外れ、鈴鹿フラワーパーク、加佐登調整池から加佐登神社方面を回って、加佐登駐在所前の交差点で元のコースに戻ります。
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