9時35分にスタートして、5.7㎞、時刻は12時ちょうど、ようやく元正天皇行幸遺跡に到着しました。余分に2㎞、30分以上ロスしています(苦笑)。
元正天皇(天武9(680)~天平20(748)年)は、第44代の天皇(在位は霊亀元(715)~養老8(724)年)、奈良朝第2代の女帝です。養老2(718)年には「
日本書紀」ができあがり、同7(723)年には
三世一身の法が打出されています。辺境に隼人、蝦夷の反乱もあり、元正天皇の御代には内外多端でした。神亀元(724)年に聖武天皇に譲位。

こちらが元正天皇行幸遺跡。元正天皇は、霊亀3(717)年9月、近江国を経

て美濃国当耆郡(多芸郡)にいたり、多度山の美泉に浴されました。この年11月に詔勅を出し、この多度山の美泉について、病が癒えるなどの効験が大きく、これは大瑞であると述べ、「養老」への改元を布告しておられます。行幸の際に行宮が造られたとされますが、その場所は不明。また、「美泉」が指すものは、養老の滝と、現養老神社内の湧水との二説があるといいます。

現在ここにはお社があります。かつては、ここに多岐行宮(あんぐう)神社(御祭神は、

元正天皇、聖武天皇)がありました。元正天皇行幸の時、この地に神輿を駐輦された古跡といいます。多岐行宮神社は、明治41(1908)年9月、養老神社へ合祀されました。その後、多岐行宮神社之諸施設はそのまま存置され、養老神社の御旅所として現在に至っています。

こちらは境内にある元正太上天皇万葉歌碑。「ほととぎす なほも鳴かな

む もとつ人 かけつゝもとな 我を哭し泣くも」(万葉集 巻二十 元正太上天皇作歌)。
大友家持が秀歌に選んだものといわれます。

行幸遺跡の南に石碑やら、案内板がありましたので、見

て来ました。こちらには、「野村モミジ」とあります。初めて知ったものですが、養老山地発祥の樹木だそうです。葉の色が、春は紅から紫を経て赤に変わり、夏は青から桃色、秋には黄色から赤に変わることが特徴と書かれています。案内板のそばにあった、網がかかった木がそれかと思います。

野村モミジのある広場には、石碑が二つ。向かって左が、養老公園碑、右が岡本喜十郎翁

顕彰碑。養老公園碑は、明治13(1880)年10月17日の養老公園の開設を伝える記念碑です。ただし、碑は、養老公園が養老郡営に移管された後の明治31年(1898)6月に建てられています。撰文は、旧佐倉藩士で明治維新後は文部省書記官を務めた漢学者の
依田百川(よだ ひゃくせん)、書は旧水口藩士で維新後は貴族院議員を務めた書家の
巌谷修(いわや しゅう)各氏によるものです。碑文の内容は元正天皇養老改元の故事、岡本喜十郎の養老開発等を賛辞する漢字碑文です。

左の写真が養老公園碑。右は、
岡本喜十郎翁顕彰碑。初代岡本喜十郎

は、旅館「千歳楼」を築き、養老公園開発の礎を作った人物です。青年のころ、養老の開発を志し、養老の土地を買い上げて「千歳楼」を築き旅館経営を開始しました。薬湯経営も考えたものの、様々な困難が立ちはだかり業績は挙がらず、天明4(1784)年、志半ばで亡くなりました。その後、2代目・喜十郎が、千歳楼と薬湯を1ヶ所にまとめ、業績が向上しました。薬湯経営開始から約100年後の明治13(1880)年、岡本喜十郎の苦労をその礎として、養老公園が開園したのです。この碑は、高田町青年団の人々により、昭和3(1928)年2月、高田町北浦堤外に建立されましたが、その後昭和35(1960)年頃になってここに移転されました。

元正天皇行幸遺跡のすぐ東には、「孝子源丞内誕生の地」という石碑がありました。濃州多芸郡白石村がその出身だということのようです。この石碑は、開村500年を記念して平成16(2004)年12月に木碑を立て、平成22(2010)9月に石碑に建て直したとありました。

この日は、11月10日でしたが、元正天皇行幸遺跡の辺りも、紅葉が見事でした。養老公園碑、岡本喜十郎翁顕彰碑を見たあと、北原白秋歌碑の辺りのベンチで、買って行ったおにぎりを2つ食べ、昼食代わりにしました。当初の予定では、滝への道沿いの店か、養老フェスタで何か食べようと思っていたのです。五平餅とかいいなと思っていました(笑)。コースミスで予定が狂いました。白秋歌碑のところへは、12時10分着。そのあと、養老神社の下まで戻り(6㎞あまり)、滝沿いの道へ。ここからは土産物店などが多数あります。「五平餅、五平餅」と思って歩いたのですが、どうもピンとこないまま終わってしまいました。

主なところだけ紹介しておきます。左は、
ひょうたんらんぷ館。吉田商店

であったところですが、平成28年3月「ひょうたんらんぷ館」としてリニューアルオープン。ひょうたんのランプを約100個展示。すべてオリジナル作品。右は、
親孝行のふるさと会館。養老公園内にある観光案内所で、孝子物語が模型展示や映像にて紹介されています。月曜日及び12月1日~3月31日は休館。

さらに500mほど歩いて、
養老寺へ。山号は滝寿山、院号は元正院。養老公園内にあり、奈良時代の元正天皇の御代、孝子源丞内が開

いた寺とされます。天平時代には七堂伽藍も整い、
多芸七坊の一つに数えられていましたが、永禄年間(1558~1569)に織田信長のために焼かれてしまい、その後慶長12(1607)年、高須藩主・
徳永寿昌(とくなが ながまさ)が再建しました。再建以前は法相宗に属していましたが、再建されるとき真宗大谷派に改宗し今日に及んでいます。ご本尊は、十一面千手観音立像。1mたらずの寄木造りですが、鎌倉初期のみごとなものだそうですし、「銘国光」の太刀があり、ともに国指定重要文化財となっています。
西美濃三十三霊場の第二十五番札所。右は不動堂のようです。

境内には、孝子源丞内のものとされる墓もあります。お参りしてきまし

た。

養老寺の境内には、句碑が無数にありまし

た。とてもすべて紹介しきれませんので、きちんとした案内板があったこちらのみを載せておきます。戸倉耕月庵句碑です。耕月庵は、養老町大跡に住んでいた戸倉六之丞。その「孝の徳 世々にながれて 滝すずし」という句が刻まれています。六之丞は40歳の時、家督を娘婿・
六郎に譲り詩や書道に親しみました。嘉永7(1854)年に蕉門14世になり、明治4(1871)年に亡くなりましたが、六郎が明治10(1877)年12月に建碑しました。この不動堂の前に「はせを翁」の碑があるというのですが、見逃しました。やはり、予習をきちんとしていった方がよさそうです。養老寺到着は12時45分、6.7㎞。

さらに500mほど下り、養老公園駐車場の入り口の先に「養老説教場」の案内板があります。登って行かなければいけないみたいでしたが、「説教場」という名前に惹かれ、行ってきましたが、これが大正解。養老説教場は、浄土真宗の説教場。ここの設置計画は、当時の岐阜県令
小崎利準に支援されたこともあり、美濃国全域から多額の浄財が集ったそうです。養老説教場には現在の海津市である高須藩から移築された御殿があり、高僧等を招く為に作られたそうです。養老説教場は養老郡の所有だが、土地は県の所有で、養老町内の浄土真宗の寺院が持ち回りで管理しています。

養老説教場で何が良かったかといえば、こ の紅葉の景色が見られたこと

です。 少し登ってきたのですが、その甲斐がありました。

このあと、養老公園の入り口の方へ戻りました。そこには、横綱鬼面山

碑がありました。以前にも見たような気がします。
鬼面山 谷五郎(きめんざん たにごろう)は、第13代横綱。養老町はもとより、岐阜県でも唯一の横綱だそうです。明治になって初めての横綱で、養老町鷲巣の出身で、身長は186cm、体重140kgの巨漢。初め京都力士となり、25歳のとき、江戸の相撲武隅部屋に入門し修行。幕内成績は27場所143勝24敗16分で、優勝相当成績7回という輝かしい成績を残しています。明治2(1869)年に横綱になりましたが、翌年に引退。さらに引退後1年たたずに亡くなりました。
鬼面山碑を見て、いよいよ養老公園ともお別れ。北東に向かいます。すでに7㎞以上を歩いて、時刻も13時頃。ハイキングコースは、このあと、養老フェスタの会場に向かうことになっています。会場は、養老鉄道・美濃高田駅近くですが、最初のコースミスが祟っています(苦笑)。このあたりまで来て「まぁ、いいか」という気がしてきます(笑)。

そのまましばらく歩くと、大菩提寺。臨済宗のお寺で、ご本尊は、如意輪観音。
西美濃三十三霊場の第二十四番目札所。この寺は近世に建てられたもので、本尊は飛鳥時代古作の聖観世音、近江の国石頭山千手寺から尾張の妙興寺を経て、ここに祀られたといいます。

このお寺、「大菩提寺」と称される前は、「大悲閣」という名称。大悲閣というのは、一般的に観音堂のことを示すのだそうです。大正末期、某宮妃殿下をはじめ、全国の信徒10万3000人から毛髪を集め、京都西陣で奉織した毛髪観音も祀ってあるといいます。また、この寺のある付近は、古事記に記されている「当芸野(たぎの)」というところで、伊吹山で負傷した日本武尊が、このあたりへ来たとき、足が痛み出し、当芸当芸斯玖(たぎたぎしく)なったので、その後、当芸野(たぎの)と呼ぶようになったといいます。

大菩提寺の境内には、こちらのお社があったのですが、詳細は不明。ネ

ット検索でも情報は出て来ません。このあと、
薩摩カイコウズ街道を通って、美濃高田駅方面に向かうのですが、いささかお疲れでしたし、時刻も13時半頃でしたので、このまま養老駅に戻ることにしました。

養老駅に向かう途中に、
ひょうたん会館。ドライブインのような外観で、1階は売店ですが、2階には展示室があり、ひょうたんの作り方もジオラマで解説されているそうです。昔からありますが、入ったことはありませんし、この日も前を通過しただけ。豊臣秀吉の馬印「愛瓢馬票」や養老に伝わる孝子伝説由来のひょうたんなども陳列されていて、珍しいひょうたんを発見できるといいます。

さらに養老駅に向かって進むと、
安田ひょうたん店があります。ここも昔からのお店。ひょうたん専門店というのは、たぶん他ではなかなかない店だろうと思います。栽培からアイデア商品、木栓、房、座布など販売しています。6月~9月の間は、栽培見学ができるそうです。

養老説教場から養老駅までのルート。

13時33分、勝手に変更したゴール、養老鉄道養老駅に到着。9時35分に

スタートして、8.8㎞を歩いてきました。コースも間違え、余分に歩きましたし、さらには右の画像のようにかなりアップダウンがあるコースでしたから、疲れました(苦笑)。

養老駅は、大正2(1913)年7月、旧・養老鉄道の終着駅と

して開業。大正8(1919)年5月に現駅舎に改築されました。なかなか良い感じでした。

桑名行きの電車は、14時11分発でしたので、あちこち見て来ました。駅

前広場の北には、立川勇次郎君之碑。
立川勇次郎(文久2(1862)~大正14(1925)年)は、明治-大正時代の実業家。はじめ岐阜で
代言人(明治前半期における弁護士の称)を開業。のち、東京に出て、明治22(1889)年、実業界にはいり,東京鉄道の取締役となります。大垣市に揖斐川電気を創設、また、養老鉄道の敷設にも尽力しました。

養老駅を14時11分に出る桑名行き普通に乗車。14時57分に桑名着。

¥570。帰りの電車では、爆睡しておりました(苦笑)。

この日のハイキングで、あみま倶楽部のスタンプは合計24個。それにしても、養老公園や、養老の滝は、古くからの名所ということもあって、石碑、句碑、歌碑がたくさんありました。
コメント
こころんさん、こんばんは。
いつもお付き合いくださり、ありがとうございます。
気が向くと一気に書くという悪いパターンです(苦笑)。
養老の滝は、私も記憶では3回目。
登りはかなりキツかったですね。
後で調べたら、高低差200mほどあったと思います。
リフトは、施設老朽化のためという理由で、3年前(2015年)の2月に運行休止になっていました。
神社、お寺、そしてもっとも多いのは、詩碑、句碑、歌碑、石碑など。
これらをすべて見て回ろうと思うと、日帰りでは無理かもしれません。
道に迷った(と最初は思いませんでしたが)のは失敗でした。
最近の近鉄ハイキングの地図は詳しく、曲がるところ、分かれ道には注意点が書かれていますが、このときの地図はおおざっぱで、ミスをした方も多数でした(苦笑)。
水は美味しかったですよ。
残念ながら、酒には変わりませんでしたが……。
投稿: mamekichi | 2018年12月 8日 (土) 18時29分
ゴールおめでとうございます
養老の滝は子供の頃に二度連れて行ってもらった
記憶があります。
カメラ持って行きたいと思っててもそれっきりで^^;
登りがキツかった覚えや、なぜかリフトに乗った覚えがあります。
神社やお寺もたくさんあるんですね。
句碑もけっこうありますね。
道に迷うと歩く距離が延びてしまうので要注意なんですね^^;
お水もおいしそうで行ってみたいと思いました。
投稿: こころん | 2018年12月 8日 (土) 17時45分