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2018年7月 6日 (金)

20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その4)……松坂城跡の続きから旧長谷川邸まで

 忘れているわけではありませんが、江戸橋方面の仕事の準備などもあって、間が開いてしまいました。6月23日以来、ようやく5月26日に出かけた“JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」”のその4です。前回は松坂城跡の途中で尻切れトンボになっています(20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その3)……本居宣長旧宅、松坂城跡(まだ書きかけです))。

180526jrmatsusaka 当日歩いたルートマップ。松坂城跡は、スタートのJR松阪駅から4㎞あま6896 り。距離だけでいえば、まだ「道半ば」までも達していません(苦笑)。1ヶ月半近く前に出かけたのですから、記憶も怪しくなりつつあります。右は前回も載せましたが、松坂城跡の図。左にある本居宣長記念館から埋門跡を通って、本居宣長旧宅を見て、二の丸跡へ。藤棚の南、御城番屋敷が見えるところで昼食。その後、右手にある表門跡から歴史民俗資料館の前から月見櫓跡にある梶井基次郎文学碑を見て、本丸跡、天守閣跡を回り、再び二の丸跡へ戻ってきました。
Img_3677c 城跡にあった石碑などをざっと見ておきます。まずこちらは、鈴屋遺跡之碑。本居宣長旧宅の南にあります。昭和三(1928)年大典記念で、魚町水魚社青年会が建てたとあります。
Img_3724c 二の丸跡にある「山原得水句碑」。得水は、江戸末期から明治期の俳人。松阪の俳句結社「一葉庵」の庵主。と書いていますが、これは松阪市のサイト(松坂城跡の概要)にあったことで、ネットではこれ以上の調べは付きませんでした。俳句も何とあるのか、ほとんど読めません。この句碑のところから、御城番屋敷がもっともよく見えます。この前で昼食を撮った次第。
Img_3725c こちらも二の丸跡にある「白塚氏頌徳碑」。松阪もめん産業振興のため松阪木綿(株)を創設した実業家である白塚大三郎の業績を顕彰する碑。松阪もめんは、天然藍の先染め糸を使い、「松坂嶋(まつさかじま)」と呼ばれる縞模様が特徴の松阪地域で生産される綿織物です。このあと、松阪もめん手織りセンターというところで見てきました。白塚は、このほか、松阪水力電気松阪軽便鉄道開業にも尽力しています。昭和9年建立。
Img_3715c 「亀井改堂顕彰碑」。これも二の丸跡にありました。亀井改堂は、明治期の斎藤拙堂門の漢学者で、三重県医学校漢学教授等を経て、惟精学舎を開講した人物とのこと(こちら)。明治41(1908)年に門人らによって建立されています。ちなみに、斉藤拙堂は、津藩校有造館の三代目の督学で、昌平黌で学問を学び、二十四歳のとき藩校講師。その後、郡奉行を経て、藩校督学に就任しています。
Img_3757c 金の間櫓跡にある「松阪開府之碑」。裏面に、蒲生氏郷から服部一忠Img_3759c 古田重勝重治を経て紀州藩領になる履歴が刻まれています。昭和25(1950)年に建立。このほか、遠見櫓跡には、「大林省軒顕彰碑」がありましたが、見忘れ。大林は、幕末・明治期の斎藤拙堂門の漢学者。大正6年建立。
Img_3739c 松坂城跡に隣接して、歴史民俗資料館がありましたが、蒸し暑くて、少々へばり気味でしたので、今回は拝観せず。この前を通過して本丸跡の方へ向かいました。昭和53(1978)年に旧飯南郡図書館の建物を活用して歴史民俗資料館になったそうです。この日は、“紙問屋「小津清左衛門」家展-江戸店開業365年-”という展覧会が開催されていました。小津家は、伊勢国司北畠家の一族の木造(こつくり)家に仕えた、三好隼人佐長年を先祖とし、創業の祖とされる3代目長弘は、承応2(1653)年に、大伝馬町一丁目に紙店「小津屋」を開業しています。現在も、紙業と不動産業を中心に創業以来の場所で営業を続けているといいます。やはり見てくればよかったかも(微笑)。
Img_3733c 以上、見忘れ、見落としもあるものの、松坂城跡を一通り見てきました.時刻は12時40分。出発したのが、10時15分でしたし、行程の半分も来ていませんので、次へ向かいます。
Img_3783c 松坂城跡を出て北西へ。市民病院の脇を通って、阪内川を渡ります。こImg_3784c の川は、城の北を流れ天然の堀となっています。左の写真は、北に向かって、新松阪大橋を渡ります。右の写真は、上流方向。
Img_3787c 次の目的地は、鈴の森公園。この公園は、カネボウ綿糸松阪工場が建Img_3792c っていたところ。平成5(1993)年に工場が閉鎖された跡地を利用して市民団体と行政の協働で作られた公園。芝生広場や、噴水があり、家族連れもたくさん来ていました。なかなか人気がある公園のようです。
Img_3795c 公園の中に松阪市文化財センターがあります。文化財センターのはにわImg_3800c 館には、宝塚古墳から出土した船形埴輪類が常設展示されています。併設されている市民ギャラリーは、大正12(1923)年建築の旧カネボウ綿糸松阪工場綿糸倉庫(国指定登録有形文化財)を活用しています。右の写真は、ギャラリー。文化財センターが目的地になっていますが、入り口までいっただけでパス。
Img_3806c それよりも気になったのは、公園内にあったこの看板。「チョウトンボ」がいると書いてありました。が、5月下旬ですから、時期的にはかなり早い。まぁ、松阪までチョウトンボを見に来ることはないと思いますが、ちょっと嬉しくなりました。
Img_3811c 鈴の森公園内を一回りし、再び新松阪大橋を渡って、阪内川の右岸へ。Img_3812c ここで、道路から河川敷に降りて歩くというコースになっています.わざわざ川沿いを歩く意味があるのかどうかよく分かりませんが、一応、指示に従います。魚町のところで、河川敷から上がって、昔からの町へ入っていきます。
Img_3815c  魚町通りはなかなか風情のある町。ここに入ってすぐ、左手(東側)に三味線を扱う店がありました。ネットで検索すると、メ~テレの「ウドちゃんの旅してゴメン」で2013年3月9日に放送されていました(こちら)。三味線修理を行っている店でした。
Img_3819c そのすぐ先には、こちら牛銀本店。創業明治35(1902)年の松阪肉を食べさせてくれるお店。テレビコマーシャルで何度も見たことがありますが、ここにあるとは知りませんでした。本店の料理を見てみますと、すき焼きは、\8,672(ランクは梅)から。もっとも高い寿は、何と\19,364だそうです。ご縁はありません(苦笑)。したがって、写真だけ撮って通過。
Img_3826c 牛銀本店から5~60mほどのところに特別史跡本居宣長宅跡がありまImg_3829c す。この宅地は、宣長の曾祖父小津三郎右衛門が、承応(しょうおう)3(1654)年に本町の家屋敷とともに小津某より購入したものです。本町の家が、小津家の本宅であり宣長が生まれた家ですが、現在は何も残っていません。この宅跡とは溝を隔てて地続きで、裏口で通じていました。宣長旧宅は、松坂城跡に移築されています。宣長が12歳のときから亡くなる72歳まで住居としていた家です。
Img_3836c 宣長旧宅が移築されてからも、春庭宅とされている離れと土蔵、一部のImg_3837c 樹木は残されて当時の様子をうかがうことができます。礎石なども復元され、傍らには宅跡碑が建っています(右の写真)。
Img_3841c こちらは、本居宣長旧宅の筋向かいのお宅。ここには、御目見得医(おめみえい)で、親友の小泉見庵(こいずみけんあん)が住んでいました。宣長は上人を次ぐ気が全くなく、母親が見庵に相談したところ、「医者にでもしたらよろしかろう」という返事があったというエピソードが伝わっています。登録有形文化財になっています。
Img_3844c 小泉見庵宅から目と鼻の先に、旧長谷川邸があります。「丹波屋」を屋号とする松阪屈指の豪商、長谷川治郎兵衛家の本宅です。長谷川家は、江戸店持ち伊勢商人の中でも、もっとも早く江戸に進出して成功をおさめました。1675年、3代治郎兵衛政幸を創業の祖とし、後には江戸の大伝馬町一丁目に5軒の出店を構える木綿商となります。余計な一言ですが、立派な卯建が上がっております。
5298 こちらは、松阪市のサイトからお借りした旧長谷川邸の配置図。広大なImg_3848c 屋敷構えです。長谷川家の長い歴史の中で隣接地の買収と増築を繰り返し形成されたものです。右は邸内に展示されていた邸宅の模型。
Img_3850c 千両箱なども展示されていましたが、こちらは大判・小判。大判は、「享保大判」。享保小判に対し、七両二分と価格が公定されたそうです。小判は、慶長小判、天保小判などです。
Img_3853c 母屋の通り土間には、竈があります。御城番屋敷のそれとは比べものにImg_3856c ならない規模。右の写真は、大蔵。この旧長谷川邸は、建物だけでなく、創業以来保管されてきた商業資料、古文書、蔵書類及び商業関係の諸道具、生活用具など、膨大な資料が良好な状態で保存されているのが素晴らしいことです。
Img_3859c 蔵の側には、駕籠が二丁、ぶら下がっています。傷んではいるものの、Img_3880c ずいぶん立派なものだったことが見て取れます。お庭も見て回ったのですが、さすがに広い。土蔵の裏手には、町境でもある背割排水が流れ、その奥には池を中心とした回遊式庭園が広がっています。ここは、以前、紀州藩勢州奉行所があったところで、明治初年に長谷川家が購入し、庭園の他に離れや茶室、四阿(あずまや)などをつくりました。
 今回はここまで。次は、旧伊勢街道に回り、松阪もめん手織りセンターや、三井家発祥の地、松阪商人の館を見て、岡寺山継松寺で、完結の見込み。

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