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2018年6月23日 (土)

20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その3)……本居宣長旧宅、松坂城跡(まだ書きかけです)

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 5月26日のJRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」、ようやくその3です。前回は、本居宣長記念館まででした(6月18日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その2)……御城番屋敷、本居宣長記念館)。
Img_3642c 本居宣長記念館から松坂城跡へ行くところに、本居宣長旧宅(国特別史Img_3644c 跡)があります。 この旧宅は、宣長が12歳から72歳で没するまで、60年間にわたって暮らした家です。建物は、もともと元禄4(1691)年に、祖父小津三四右衛門定治の隠居所として松阪職人町に建てられました。その後、魚町に移築され、宣長当時の所在地は「魚町」です。明治42(1909)年、保存のために松阪城跡の現在地に移築され、宣長当時の姿に復元し、公開されています。
Img_3648c 一階には、宣長が医療活動をした「店の間」、「仏間」、また講釈や歌会に使Img_3656c 用し、二階増築までの書斎であった「奥の間」などがあります。一階の各部屋は上がって見ることができましたが、二階「鈴屋(すずのや)」は保存のために上がることはできません。「鈴屋」は、建物の二階にある宣長の書斎のことです。書斎は、宣長が53歳の時(天明5(1785)年)、物置を改造して設けたもので、床の間の柱に掛鈴を下げていたことからその名がついています。
Img_3660c 鈴屋は、南側の石垣から見られるのですが、それをしっかり意識しませSuzunoya んでしたので、中途半端な写真になりました。左の写真で右上にある松の木の奥が、鈴屋でした。右の写真は、本居宣長記念館のサイトからお借りしました。観光三重のサイトに鈴屋内部の写真があります。
Img_3777c さて、いよいよ松坂城跡へ。国指定の史跡。城の縄張りは梯郭式平山城で、松阪市の中心地の北部に位置しています。城の北には、阪内川が流れており、天然の堀となっています。天正12(1584)、近江国日野から蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ、松ヶ島城に入城しました。しかし、氏郷は、松ヶ島は伊勢湾に面し城下町の発展性がないと考え、天正16(1588)年、現在の城地である飯高郡矢川庄の四五百森(よいほのもり)に新たに築いたのが、松坂城です。
Img_3733c 江戸時代初期には松坂藩の藩庁となっていました。天正18(1590)年、氏郷が小田原征伐の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て若松城に移り、その後は、服部一忠、古田重勝が入城しますが、元和5(1619)年、古田氏が石見国浜田城に転封となって以降、南伊勢は紀州藩の藩領となり、城代が置かれました。現在は石垣のみが残っていて、城址公園となっています。
6896  こちらが案内図。左にある本居宣長記念館から、本居宣長旧宅を見て、隠居丸跡、御米蔵跡をまわり、右下の方にある二の丸跡の藤棚の東(図では下)で昼食を摂りました。その後、北側の表門跡から歴史民俗資料館の前を通って、本丸跡、天守台と見て回って、また二の丸跡に降りてきました。けっこう高低差があり、応えました(苦笑)。
Img_3705c 松坂城跡に来たのが11時50分頃でした。蒸し暑い中を歩き回って少々お

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疲れでしたし、お腹も減ったのでまずは昼食。ちょうど、御城番屋敷がよく見えるベンチがあいていたので、ここでファミマ弁当。ハイキング・ウォーキングの時、外で食べるにはお握りがベストであります。
Img_3762c 昼食を摂ってから、上記のように城跡を見て回ってきました。詳細は割愛Img_3753c しますが、左の写真は、本丸跡。当然ながら、城跡でもっとも高いところにありますし、クルクル回らないと行き着けません。津城跡に行ったときにも思ったのですが、こういう、石垣のある城跡へ来ますと、三橋美智也の「古城」という歌が思い出されます。
Img_3745c 松坂城跡には、文学碑、石碑、頌徳碑など多数あります。その中で予め調べて行って、見たかったのは、こちら。「梶井基次郎文学碑」です。梶井基次郎(明治34(1901)年~昭和7(1932)年)は、小説「檸檬」や「城のある町にて」で有名ですが、この「城のある町にて」の舞台が松阪なのです(リンク先は、青空文庫)。そのため、二の丸跡にこの文学碑が建立されています(昭和49(1974)年8月)。梶井は大正13(1924)年の夏、姉夫婦の住む松阪・殿町に1カ月近く滞在して、「城のある町にて」のモチーフを得ています。この作品、読みましたが、松坂城跡から眺める街並や、土地の生活、言葉などが描かれていて、松阪の風土が梶井の感性を刺激したと思われます。城跡からの眺めは変わってしまったと思いますが、御城番屋敷の景色など、梶井も眺めたかと思うと、感慨があります。
 写真の整理や、情報の確認をしながら書いていますが、思わぬ時間がかかりました。松坂城跡の話、まだ続きます。折を見て、加筆する予定。今日はここまで。

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コメント

おユキさん、おはようございます。

アハハ,黒田節や武田節は知ってはいますが、詳しいことまでは忘却の彼方(爆)。
それに昨日は、「朝稽古を見なくては」というのと、授業準備もと急いておりました。

桑名城は、揖斐川のすぐ側。
櫓の跡は残っているのですが、城跡には石垣らしい石垣はないのです。
「天守台跡」に石垣のようなものが組んであるのですが、これは比較的最近のもので、しかも最近は「危険だから登るな」となってしまっています。
こういう風で、石垣にあこがれるのです。

投稿: mamekichi | 2018年6月26日 (火) 07時47分

mamekichi先生、こんにちは。

すみません。
武田節の間違いでした(汗)。
投稿後に気付いたのですが、きっと先生からツッコミがあると安心していました(笑)。それどころではなかったようです。

そうなのですか。
桑名城はまったくの平城なのですね。
平城であると、石垣も低いのでしょうか。

う~ん、名古屋城も平地だと思うのですが、あんな感じなのかしら。

投稿: おユキ | 2018年6月25日 (月) 15時25分

おユキさん、おはようございます。

黒田節とはまた渋い!

桑名城は、全くの平城で、天守台跡もありませんし、石垣もほとんど残っていないのです。
天守閣は、元禄14(1701)年の大火で焼けて以来、再建されず、
石垣も、歴史を語る公園あたりに少し残っているだけなのです。

投稿: mamekichi | 2018年6月25日 (月) 07時20分

mamekichi先生、こんばんは。

ひらいさんへのコメントを拝見して、石垣があるのが羨ましいとのこと。
連想で申し訳ないのですが、

♪ 人は石垣、人は城、情けは見方、仇は敵 ♪

と、黒田節の一節を思い出しました(笑)。

投稿: おユキ | 2018年6月24日 (日) 21時46分

ひらいさん、こんばんは。

松阪は、本文にも書きましたが、ずいぶん久しぶりに行きました。
昔、仕事で何度か行ったのですが、ほとんど記憶がないくらい(笑)。
城跡、私は石垣があるのが羨ましい気がしてなりません。
津城跡でもそう思いました。

町中は十分歩いて回れますが、川や海はちょっと遠そうですね。

つどいの話は、新聞か何かで見ました。
一度乗ってみたい車両ですし、湯の山も最近行ったことがありません。

投稿: mamekichi | 2018年6月24日 (日) 21時29分

mamekichiさん、こんにちは!

松阪辺りは未踏の地なので、見た事無い場所ばかりで新鮮です。お城は跡地との事ですが、城が有ると観光地としても良い所になりますね。何となくですが桑名と雰囲気が似てる感じですね。
駅から徒歩では厳しそうですが、海や大きな川も多く、野鳥撮影も期待出来そうですね。用事が有れば是非行ってみたい所です。

別件ですが、伊勢の観光列車「つどい」が、伊勢での運行を終えて、期間限定ですが名古屋駅~湯ノ山線で運行されるそうです。塗装は変更されるので、あの姿では無いようですが、撮影出来るのを楽しみにしていますし、出来れば乗車してみたいですね。

投稿: ひらい | 2018年6月24日 (日) 16時16分

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