今日は、こちらにやって来ました。「勝手にハイキング」シリーズ、第3弾であります(微笑)。近鉄名古屋線・朝日駅であります。桑名駅を8時58分の塩浜行き普通電車に乗って、2駅。¥210。9時7分着。ここから、天神山、
苗代神社そして
縄生廃寺跡を目指します。何を思い立ったかといいますと、九華公園で時々お目にかかるご夫婦(天神山近くにお住まいとのこと)から、キビタキやら鳥がたくさんいると教えていただいたのです。天神山には、苗代神社があり、そこから4~500mのところに縄生廃寺跡があります。バードウォッチングと歴史散歩が一度に楽しめるかもと思って出かけてきました。

駅前にあった観光案内図。伊勢朝日駅から北のところに苗代神社と縄生廃

寺跡が示されています。1㎞あまりですので、まずは、近鉄の線路沿いに北に向かいます。左側に見えているのは、東芝三重工場。

近鉄名古屋線の高架をくぐると、JR関西線の踏切があり、その向こうに天

神山が見えてきます。このあたりの景色や、江戸橋通いの時や、四日市へ行くときなどに見慣れた景色。苗代神社も、一度行こうと思っていたところです。

JR関西線の縄生踏切を越えたところに苗代神社の社名標が建っていま

す。ここを右折(北東へ)すると、すぐに神社の前に出ます。「延喜式内社」とありますように、古い神社です。社伝によれば、白鳳年間に伊賀国の
敢國(あえくに)神社より少名彦命を勧請して祀ったと伝えられています。また、後に山城国の北野神社より菅原道真公を勧請したといいます。
ちなみに、白鳳年間(白鳳時代)は、「私年号」で、正式に朝廷で定められた年号ではありません(日本書紀には載っていないそうです)。狭義では天武~持統朝 (673~697年) から平城京遷都 (710年) までの約 40年間をいい、広義には大化改新 (645年) から平城京遷都までの約 60年間で、飛鳥時代と奈良時代との中間をさします。

近鉄電車からもよく見えるのですが、二の鳥居の奥には長い、長い階段があり

ます。しかも踊り場なし(苦笑)。9時過ぎの時間帯、まだ今朝まで降った雨が乾ききっておらず、滑りそうな感じがします。

二の鳥居をくぐったところにある「明治天皇十年祭祈念」

碑や、「百度石」、また、「奉柏」と刻まれた碑を見ながら、石段を登り始めます。「奉柏」碑には、明治35(1902)年4月菅公千年祭○○」とありました。この年は、菅原道真公の千年紀に当たります。この年、それを祈念して本殿、社殿を新築再建しています。

長い階段を上ったところには、社務所が

あり、拝殿に行くにはさらに階段を上る必要がありました。左の写真が、苗代神社の拝殿。天神山の中腹にあります。拝殿に向き合うように、南側には神馬舎があります。白馬をかたどった木馬が鎮座。

由緒書き。先に触れたように、白鳳年間に伊賀国の敢國神社から少名彦命を勧請して祀った後、山城国の北野神社より菅原道真公を勧請したといいます。禁制になって、元和31617)年、桑名城主となった松平定勝公から松平家の家紋の使用が許され、さらに牛飼料として田三反の寄進がされるなど、桑名藩主の崇敬篤い神社となっています(当時は、桑名藩領)。明治40(1907)年、縄生鎮座の須佐之男舎、愛宕社、稲荷社、八幡社、両大神社、蛭子社の各境内社を合祀しています。

拝殿の屋根や、拝殿正面には、確かに松平家の家紋である「梅鉢紋」があしら

われています。

境内に入る頃から、野鳥の鳴き声が聞こえてきていました。気になります。神馬舎の脇に上に登って行く道がありましたのでので、ちょっと濡れていて足下が気にはなったのですが、登ってみました。

しばらく登ると、ちょっと広いところに出ました。ここが頂上のようです。回

りは木々に覆われて、眺望はほとんど利きません。野鳥の鳴き声は相変わらずしていますが、姿は見えず。ツバメが時々飛来するくらい。むしろヤブ蚊が多くて参りました。もう一本、道がついていましたので、そちらから降りることにします。

天神山古墳があるはずなのですが、それらしきものは小生には分かりま

せんでした。このあたりは竹林。この辺から桑名にかけて、竹林が続いています。どこへ降りられるか分からないまま来たのですが、結局、社務所の東に降りられました。

苗代神社の南側の道路に出て、縄生廃寺跡を目指して北西へ向かいま

す。途中、朝日町立梅林香苑の前を通過。白梅・紅梅が約50本あり、地元の方々が手入れしていらっしゃるようです。

道路には、縄生廃寺跡への案内板があり、これにしたがえば行けそうで

す。ちょうど苗代神社の裏手に当たるあたり。右の写真のようなところからさらに竹林を通っていきます。地元の方が農作業をしておられ、道を教えて下しました。と同時に「雨が降ったからぬかるんでいて、滑るぞ」ともいわれました。

こんなところを通って行くのです。たしかに落ち葉が濡れて、滑りそう。ぬ

かるむほどではありませんでしたので、道なき道という感じのところをいってきました。右の写真が、縄生廃寺跡。正確には、ここに塔があった跡。江戸時代から「金光寺跡」として知られ、戦前には土取りの際に瓦片が多量に出土したと伝えられていました。中部電力が送電用鉄塔を建設するため、昭和61(1986)年9月から翌年3月に行った発掘調査で、その出土した軒丸瓦などから、7世紀末から8世紀初頭に造営された白鳳時代の古代寺院塔跡の存在が確認されました。

塔の心礎中心の舎利孔(しゃりこう)と呼ばれる小さな穴から、唐三彩碗を伴った舎利容器が発見されています。これは、平成元(1989)年に重要文化財に指定されて、文化庁が保管しているそうです。

縄生廃寺跡で10時過ぎ。思ったより早い時間。いったん伊勢朝日駅まで

戻ってきました。駅近くのポケットパークで一休み。朝日町には何度も来て、東海道も歩きましたし、名所旧跡、寺社仏閣もけっこう回っています。主なところでまだ行っていないのは、
井後(いじり)神社、
移田(うつしだ)神社、
善照寺など。ただし、これらは、町の南西部にあり、もっとも遠い移田神社までは3㎞以上あります。かなり暑くなってきたので、これらはまたの機会とし、旧東海道を桑名に向かって歩くことにしました。

このあたりは、昨年11月9日に「旧・東海道ウォーク(安永~富田)」と称し

て、安永から富田まで歩いたときに通っていますし(
旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(前編))、上記の近鉄ハイキングでも少しだけ歩いています。

縄生には「一里塚跡」の石碑があります。桑名の七里の渡や、西富田の庚申橋から、それぞれちょうど一里のところ。伊勢国には、12カ所に一里塚が設けられたといいます。この石碑は、平成13(2001)年に、東海道宿場・伝馬制度制定400周年記念事業で作られたもの。

一里塚跡の石碑からわずかに桑名寄り、水谷たばこ店の店先に山口誓

子の
句碑があります。この句碑には山口誓子の筆跡で、「露けさよ 祷りの指を 唇に触れ 誓子」と刻まれているのだそうですが、判読はかなり難しいです。昭和25(1950)年10月建立。誓子は、昭和16(1941)年、伊勢富田(四日市市富田)に移り、療養したといいますから、その頃の句かと思われます。

伊勢朝日駅前のポケットパークからは1km弱で、町屋川

(員弁川)に来ます。旧・東海道の橋は、現在の国道1号線の橋より少し上流に架かっていました。

左の写真は、桑名市安永、料理旅館すし清さんのところにある公園に建っている説明板。江戸時代、この安永は、いわゆる
立場であり、町屋川の船着き場でもあったところ。茶店では、名物の安永餅を売っていました。寛永12(1635)年に初めて橋が架けられたといいます。

すし清さんから少し北に
伊勢両宮常夜燈。文政元(1818)年の建立。昔の灯標で伊勢神宮への祈願を兼ねたものです。桑名在住の材木商が連名で寄進し、「作名」は石工根来市蔵ほかとあります。常夜灯の脇に立つのは、
里程標。町屋川の中央から北が桑名郡であること、三重県庁・桑名郡役所までの距離が刻まれています。里程標は、明治26(1893年)の建立。「三重縣廰拾一里丗甼余」、「桑名郡役所丗三町余」とあります。桑名郡役所は、現在の総合福祉会館だそうです(
こちらを参照)。

常夜灯からすぐ北に
料理旅館玉喜亭があります。
東海道中膝栗毛に「旅人を茶屋の暖簾に招かせて、のぼりくだりをまち屋川かな」と出てくるそうです。創業以来200有余年、すし清さんも藤で有名ですが、ここも立派な藤棚があります。前の道は東海道。

前は何度も通ったのですが、一度も覗いたことがありませんでした。営業

しているのかどうか定かではありませんが、藤棚は手入れされているようでした。平成3(1991)年に立てられた説明板がありました。藤は樹齢200数十年で、根が張っているので地震の時集結場所であったといいます。また、人馬の休息所とされていて、この向かいの母屋には「御馬口御洗水」の高札が残っているそうです。

母屋はしっかり見てこなかったのですが、左の写真がそれだと思います。文政元(1818)年の建物で、昭和18(1943)年ころまで安永餅を作るのに使用されたかまどと、看板が今もあるといいます。現在の道よりも、低いところに立っていますが、上記の看板によれば、江戸時代の東海道は、今の道よりも低い位置にあったといいます。

国道258号線を地下道でくぐり、しばらく行くと、西側(左手)に晴雲寺があります。浄土真宗大谷派、山号は清浄山。大永2(1522)年、東城(現在の九華公園付近にあったといいます)の城主・伊藤武左衛門の一族の明西(めいさい)が、一族の菩提を弔う寺として建てました。

江戸へ下る大名は、この寺で衣服を改めて桑名城下に入ったといわれ

ています。
晴雲寺から500m足らず行ったところに
城南神社に出ます。倭姫命が皇

祖神天照大神の鎮座地を求めて大和から近江、美濃を通り伊勢へ巡行の折り、この地に休息したとの言い伝えがあります。この故事に因んで、境内には、右の写真のように、「天照大神御遷幸旧蹟」という石碑があります。

倭姫命のご巡幸の言い伝えに因んで、古来、神宮式年御遷宮ごとに、

皇大神宮(伊勢神宮・内宮)一ノ鳥居、古殿舎の一部が下賜され、改築するという慣例になっています。現在の一の鳥居も、平成26(2014)年の御遷宮に際して、払い下げられたものです(建て替えられたのは、平成27(2015)年春)。境内には、乙石稲荷大明神も祀られています。もとは、明王院(みょういん)の邸内社で古くは越後高田にありました。宝永7(1710)年、桑名から越後に国替えになった松平定重公の崇敬篤く、守護所を仰せつかり、家中同様の扱いを受け、寛保元(1741)年奥州白河、文政6(1823)年桑名へと、松平越中守に随従しています。文政6(1823)年に桑名・柳原、同12(1829)年矢田川原、大正3(1914)年現地へ遷座しています。
城南神社でほぼ11時半。5.5㎞を歩いてきています。ご覧のような上天気の中を歩いてきましたので、けっこう汗を掻き、疲れてきました。時間も時間でしたから、近鉄・益生駅まで行って1駅電車に乗るか、三交バスに乗るかと迷ったものの、バス停の方が近く、そろそろ、町屋川でのバードウォッチングの帰りによく乗っていた桑名駅前行きのバスが来る時間でしたので、バスで桑名駅まで行くことにしました。
いったん国道1号線まで出て、バス停を探します。国道安永か、若宮町が

近いはず。若宮町バス停で確認したら、11時55分に桑名駅前行きのバスがありました。少し時間がありましたので、もう一度東海道に戻り、日立金属桑名工場の前へ。ここは、今ではまったく面影はありませんが、江戸時代は家はなく、松並木が続いていたところ。鈴鹿山脈もよく見えたといいます。松並木は、伊勢湾台風の頃まで残っていたそうです(昭和34(1959)年)。

さすがに相当疲れました。夏場のハイキング、ウォーキングはよほど準

備してかからなければならないことがよく分かりました。国道1号線の若宮町バス停に来て、11時55分のバスで、桑名駅前へ。バスは5分遅れ。¥200。

歩いたルートは、これら2枚の地図の通り。いつものように、距離測βで

確認しました。伊勢朝日駅から若宮町バス停までは、6.6㎞。これに桑名駅往復がプラス2.1㎞で、合計8.7㎞。けっこう歩きました。

バードウォッチングもともくろんだのですが、肝心の天神山では見られ

ず。鳴き声はウグイスその他、たくさん聞きましたが、写真を撮ったのは、伊勢朝日駅のポケットパークでハクセキレイ、町屋橋から見たサギ。このサギ、誰? 大きさはかなり大きいものの、ダイサギの夏羽とは違うような感じも。嘴の先が黒くなるのは、チュウサギの特徴。しかし、チュウサギは減っているらしい。迷います。
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