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2018年6月18日 (月)

20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その2)……御城番屋敷、本居宣長記念館

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 5月26日のJRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」のその2です。その1につきましては、いったん記事をアップした後、樹敬寺の「明治天皇樹敬寺御晝餐所(ごちゅうさんしょ)」石碑と、松阪神社の由緒について付記しました。
Img_3573c 今回はいよいよ待望の御城番屋敷(ごじょうばんやしき)へ。観光案内や、テレビで繰り返し見た、この石畳と槙垣のたたずまいを歩いてみたかったのです。ここは、江戸末期に紀州藩士が松坂城警護のため移り住んだ武家屋敷です。住んでいたのは、40石取りの紀州藩士20人とその家族。このような組屋敷(長屋)は全国でも大変珍しい上に、今も多くの人々がここで暮しているのです。
Img_3700c 紀州藩家老田辺安藤家に紀州藩主徳川頼宣から遣わされていた与力衆が安藤家の陪臣となるよう命じられたことに抗議して、幕末の安政3(1856)年、脱藩して浪人となったのですが(田辺与力騒動)、その6年後、紀州藩主の直臣として帰参を許され、松坂御城番職に就きました。文久3(1863)年、松坂城南東の三の丸に藩士とその家族の住居として新築されたのがこの組屋敷です。こちらの写真は、松坂城跡から撮ったもの。
Img_3581c 松坂城搦め手から続く小路を挟んだ東西に、東棟10戸・西棟9戸が並Img_3585c んでいます。ほぼ当時のまま住居として継続して使用・維持管理されています。平成16(2004)年12月、「旧松坂御城番長屋」として国の重要文化財に指定されました。この写真の西棟北端の一軒は内部が公開されています。明治維新後に、士族授産で得た資産を元手に住民士族が合資会社苗秀社を設立し、建物の維持管理にあたってきました。現存する19戸中、12戸が借家として貸し出され、内1戸を平成2(1990)年から松阪市が借用し、内部を創建当時の姿に復元し、苗秀社に運営を委託して一般公開しています。
Img_3582c 平屋建てで、北面は切妻造、南面は入母屋造になっています。ともに瓦Img_3591c 葺、裏面に角屋が付属。各棟は1戸あたり間口5間、奥行き5間が基準となっています。建物を取り囲む槙の生垣や前庭、上り框のある玄関、畑地などと整然と建て並べられています。
Img_3589c こちらは、台所。お竈さんががあります。お竈さんの北側の上には、薪炭Img_3600c を置いておく棚がしつらえられていました。なかなか機能的な印象です。
Img_3593c こちらは、室内の一部。「血判状」もあったのですが、どういうわけかピンImg_3596c ぼけ写真(こちらにその写真があります)。裃も衣紋掛けにかけられていましたが、何となく小さめのような気がしました。押し入れには長持ち。もう少し、室内の写真をきちんと、あれこれ撮ってくるべきだったと、これを書きながら反省しています。
Img_3592c 西側の庭の景色。左の写真、正面は、台所のあるところ。右側が、座敷Img_3599c など。台所のところのさらに左(西)からは松坂城跡の石垣を仰ぎ見られます。
Img_3602c こちらは、建物の北側の外観。明治35(1902)年、松阪工業高校創立時Img_3587c (当時は、三重県立工業学校、全国唯一の応用化学専攻の学校として設立)、主屋西棟の北端2戸が仮教室として使用されたため、1戸が切り詰められてこのようになっています。公開されているここには、右の写真のように「三重県立松阪工業高校誕生の地」という石碑が建っています。その1にも書きましたが、松工は、応用化学専攻の学校として設立されたため、木造校舎の外壁は実験に用いる硫化水素の影響を受け黒変することがないようにと朱色に塗装されていました。それ故、創立早々から「赤壁(せきへき)」と呼ばれ、「赤壁魂」が今日まで伝わっているそうです。
32072f258b12873f3246fd7b7227b659 ちなみに、こちらのサイトに御城番屋敷の間取り図がありましたので、お借りしてきました。右手に通り土間、左手に田の字型に8畳2間、6畳2間を配し、式台を構える屋内です。式台は、6枚目の写真にありますように、玄関先に設けた板敷きの部分で、武家屋敷では表座敷に接続し、家来の控える部屋です。間取り図では、内玄関の右側の部分。
Img_3605c 左の写真は南龍(なんりゅう)神社。御城番屋敷の北、土蔵の並びにひっそりと立っていました。このあとに書くことも、ブログを書きながら調べて分かったこと(苦笑)。やっぱり、予習が必要です。南龍神社は、和歌山藩祖・徳川頼宣公を祀る神社です。和歌山城下にあった南龍神社の分社で、明治17(1884)年、松阪城本丸跡に創建。昭和28(1953)年に廃絶となったものの、現在地に遷座して小祠として祀られているということでした。ちなみに、和歌山の南龍神社は、いくつかの経緯があり、大正9(1920)年、和歌山東照宮に合祀された。
Img_3607c こちらは、土蔵。県指定文化財(平成15(2003)年3月指定)。もとは、松坂Img_3609c 城・隠居丸で米蔵として使用されていた建物を、明治期に苗秀社が払い下げを受けてここに移築されたといわれます。これが事実であれば、旧・松坂城関係の建物として、唯一現存するものだということです(右の写真参照)。
Img_3610c 御城番屋敷からはほんの40mほどで松坂城跡へ行けます。が、コースマImg_3614c ップでは、その前に本居宣長記念館へとなっていました。そこで、この入り口を見ながら左へ(南西へ)。先程、御城番屋敷から見えた石垣のところを進んでいきます。
Img_3616c  上右の写真では1基しか写っていませんが、ここには大きな常夜灯が2つImg_3615c_2 建っています。これも予習不足が明らかになるのですが、手前のものは、「旧櫛田川渡し場常夜灯」(左の写真)。安永9(1780)年のもの。向かって左には、「銚子場組 江戸干鰯問屋」とあります。奥のもの(右の写真)は、「永代 常夜灯」、文政6(1823)年のもの。こちらの台石には「新玉講」と刻まれています。
Img_3619c この石垣のところ、珍しいものが見えます。「捨石」がそれです。「捨て石」Img_3620c は知ってはいましたが、実物を見るのは初めて。ここは、隠居丸あたりで、江戸時代の修理のあとのようです。表土から約0.2m下。幅0.8~1.0m、長さ19mで、石垣が孕んだ部分だけにあるといいます。
Img_3623c この先には、本居宣長ノ宮の鳥居が見えていました。もとは本居大人奥墓(おくつき)がある旧山室村(松阪市山室町字高峯)にあったのですが、大正4(1915)年、ここに遷座。本居神社という名称でしたが、平成7(1995)年に社号を本居宣長ノ宮と改称しています。学問の神だそうですから、お参りしてこなければなりませんでした(苦笑)。ということは、遠く見えたので、パスしてしまったのです。今回はこういうことばかり。蒸し暑かったのが主な理由ですが、事前に予習をしなかったのもいけませんでした。やはり、予習、復習は大切。本居宣長記念館へ行ってしまいました。
Img_3631c こちらが、本居宣長記念館のエントランス。本居宣長(モトオリノリナガ)(享保15(1730)年~享和(1801)元年)は、18世紀最大の日本古典研究家。伊勢国松坂(三重県松阪市)の人。木綿商の家に生まれるが、医者となり、医業の傍ら『源氏物語』などことばや日本古典を講義し、また現存する日本最古の歴史書『古事記』を研究し、35年をかけて『古事記伝』44巻を執筆しました。鈴と山桜をこよなく愛し、書斎を「鈴屋」と呼び、また山室山にある奥墓には山桜が植えられています。
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 ここは、公益財団法人鈴屋遺蹟保存会が運営管理する登録博物館で、本居宣長の旧宅「鈴屋」を管理、公開しています。『古事記伝』などの自筆稿本類や遺品、自画像などが公開されていました。入館料、通常¥400のところ、¥300で拝観してきました。
Img_3629c 記念館の敷地内には、句碑などいろいろ。まずは、山口誓子句碑。「城を出し 落花一片 いまもとぶ」。天狼俳句会松阪支部が、昭和49(1974)年3月に建てたもの。昭和19年4月19日の作。当時、誓子は伊勢の富田で療養生活を送っていたのですが、病人だからといってじっとしていられず、本居宣長の旧居を見るために松阪へ来た時に詠んだもの。
Img_3634c こちらは、歌碑のようです。「おくつかれ里 大人たちのこゑもきこゆ○ ○はひ○て わけ○く ふみ乃」とあると思うのですが、調べきれませんでした。「写真を撮っておけば、大丈夫」と高を括っていたのですが、案外強敵でした(苦笑)。
Img_3627c 「花道二葉流記念碑」です。「第一世 堀口玉方書」とあります。二葉流は、花道界に初めて「自由花」の呼称と概念をあたえた堀口玉方によって、大正7(1918)年)に創流された華道の流派。大阪市中央区に本部がありますが、松阪が発祥の地のようです(こちら)。毎年9月23日の秋分の日に、伊勢神宮神楽殿にて献花式を行っているそうです。
 というところで、その2はここまで。案外手間取ってしまっています(苦笑)。次は、鈴の屋から松坂城跡へと進む予定。

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コメント

おユキさん、こんばんは。

そうなのです、わが家では地震に先立ってブレーカ騒動が起きていたのです。
そしてよく揺れて、気持ち悪いくらいでした。
バールフレンドのTさんは、わが家近くの賃貸マンションの3階にお住まいですが、「建物がポキッと折れるかと思いました」とおっしゃっていました。

さて、御城番屋敷、まったくおっしゃるとおりでもう少し室内の写真をきちんと撮ってくるべきでした。
神社関係もテキトーに済ませていますから、リベンジが必要かもしれません。
それにしても御城番屋敷はよいところですから、おユキさんも是非一度現地にお運びください。

お竈さんは家内の実家にもありましたが、おっしゃるようにもっと丸くて大きなものでした。
それに比べ、御城番屋敷のものははるかに小さいものでした。
再現したといいますから、当時もこういうものだったのだろうと思います。

衣紋掛けに掛かった裃は、子供用か?と思ったくらい(微笑)。
しかし、江戸時代の大人の身長は、男性は155cm~157cm、女性は143cm~145cmほどというデータもありますから、こんなものかも知れません。
それにまさに「衣紋掛け」ですね。

投稿: mamekichi | 2018年6月20日 (水) 18時21分

mamekichi先生、こんにちは。

地震、ビックリしましたね。
先生のお宅では、そんなハプニングがあった後だとは。
私は、寝坊してしまい、ボンヤリと起きた直後に、緊急地震速報が発令され、これまたボンヤリしたまま、地震が収まりました。

さて、待ちに待った(?)御城番屋敷。
記事にもありますが、もう少しお写真があると・・・(笑)。冗談です。

お竈さん、都会的という印象を受けました。
というのも、父の実家にも竈があったのですが、もっと丸くて大きな、ちょっとした陶器が焼けるのでは?というようなものだったのです。
山奥の、本当に「日本昔話」に出てくるような家と竈でした。

こちらの竈は、それに比べて、コンパクトで機能的、つまり都会的な印象というわけです。

衣紋掛けに掛かった裃。仰るように、少し小さめのように思います。
でも、昔の家屋の寸法からすると、当時の人たちの身長は、これくらいだったのだろうなぁ、と思います。
「衣紋掛け」昔はハンガーもこう呼んでいましたが、裃が掛かっていると、なるほど「衣紋掛け」と思えますね(笑)。

投稿: おユキ | 2018年6月20日 (水) 16時57分

こころんさん、こんばんは。

地震の揺れ、わが家では発表された震度プラス1くらいと思えるくらいの揺れでした。
阪神や東日本の時よりも揺れたような気もします。

メダカは、お陰様で元気です。
いただいたメダカの子孫もまだいますが、兄妹交配を繰り返したので、かなり少なくなりました。

御城番屋敷のところや、その周りの殿町あたりは、武家屋敷の雰囲気がよく残っていて、一度はいらっしゃるとよろしいかと思います。

石畳は、平成元年(1989)に、西棟北端の一軒を一般公開する際に整備したようですので、新しいものです。
建物は、修復作業がされてはいるものの150年以上前のものが残っていて、現在も住んでいらっしゃるというのは驚きです。

投稿: mamekichi | 2018年6月19日 (火) 20時52分

こんばんは
メダカ、元気そうですね。
大きな揺れでしたね。
久々に恐怖を感じました。

御城番屋敷、まだ行ったことないので
気になってた場所です。
石畳も江戸時代のものでしょうか?
綺麗な石畳に感じます。
建物もその時代の雰囲気が感じられていいですね。

投稿: こころん | 2018年6月19日 (火) 19時28分

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