“勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」”、

ゆるりと進んでおります(苦笑)。その1では、松菱百貨店から藤堂家墓所の寒松院を見て、フェニックス通りまで来ました。まだまだ序の口。先行き不透明ではありますが、なるべく余分な話は割愛しつつ進めましょう。

出発から3㎞、フェニックス通り沿いに
浄明院(じょうみょういん)があります。

津藩・3代藩主・藤堂高久が藤堂家の菩提所としました。入り口から東には、右の写真のように、祠がいくつも建っています。四国八十八ヶ所をこれで再現していたと思われますが、必ずしも良好な状態ではありませんでした。

「三重県の歴史散歩」で紹介されていたのは、この花崗岩でできた「石造
宝
篋印塔(ほうきょういんとう)」です(県文化財)。宝篋印塔は、宝篋印陀羅尼という呪文を収めた塔だそうです。笠の四隅に「角(つの)」と呼ばれる突起があり、屋根に何段かの造り出しがあるのが特徴といいます。基壇には「文保2(1318)年」の銘文が刻まれ、鎌倉時代の作です。

浄明院の鐘は、第2代津藩主・藤堂高次公が江戸で造った寺にあったものを、第3代藩主・高久公が貞享元(1684)年、ここに移したものとされます。作者は、江戸初期に活躍した津の鋳物師・辻越後守陳種(のぶたね)。銘文には慶安2(1649)年鋳造とありますが、他の資料から考え合わせると、貞享元(1684)~2(1685)年頃の作と思われるということです。
ちなみに、津城下では鋳物師・辻家が発展していますが、これには初代・高虎公が、「方広寺鐘銘事件」に関わって幕府から罪人扱いされていた初代越後守家種を津城下に住まわせて守ったことに始まります。有力者が寺院に寄進する、仏像や梵鐘、燈籠などの銅製品の注文は代々の辻氏が請け負ったことから、津城下には江戸初期の辻一族の作品がいっぱいあるのです。このあと訪ねた津観音の銅製の燈籠もそうですし、1月に行った高田本山専修寺にも灯籠などがあります。

浄明院墓地には、探偵小説で有名な江戸川乱歩が建てた平池祖先代々の墓があります。江戸川乱歩は、現在の三重県名張市生まれ。本名は、平井太郎。乱歩の祖先は、津藩士で、ここが菩提寺。この墓は、乱歩が昭和26(1951)年に建てました。ここには、乱歩の骨も分骨されているといいます。実は、最初に浄明院に行ったときには、見忘れ(というか、墓所そのものを見なかったのです)、西来寺で思い出し、戻りました(苦笑)。

もう一つ、ここ浄明院は、津藩の歴代藩主の生母が眠っています。「浄明院」は、津藩第3代藩主・藤堂高久の母(多羅尾光誠の娘)の甥・拙堂和尚のために延宝8(1680)年、創建された寺です。高久公の母の死後、その法号浄明院を寺号としています。

「三重県の歴史散歩」の記述に従い、浄明院からフェニックス通りを西へ。西来寺というお寺に向かったのですが、津フェニックスビルのある交差点を右折(北へ)したところで、この看板を発見。浄土真宗高田派・上宮寺(じょうぐうじ)なのですが「あこぎ平治の寺」と書いてあるではありませんか! 「
阿漕平治(あこぎへいじ)」といえば、津の伝説。「
阿漕な」ということばの語源でもあり、津名物「
平治煎餅」にもその名が残っています。これは見逃してはならじと、戻って拝観。

こちらが上宮寺の山門(というか、門)。浄土真宗高田派のお寺で、山号

は太楽山。縁起によれば、推古天皇の時代に朝廷の許しを得て創建され、聖徳太子が紫雲寺と命名、後に舒明天皇から上宮寺の号を賜ったとあります。これが事実であれば、東大寺や唐招提寺より古い、飛鳥時代からあったお寺となります。これによって、「津市最古のお寺」とされています。

あまり知られていない気がしますが、毎年8月16日には、ご住職が旧知の境内・阿漕塚に出歩して、読経念仏をしていらっしゃるといいます。禁漁区の阿漕裏で漁をしたため、平治は死罪になったのですが、その霊は成仏できず、海をさまよっていたそうです。当時の西信律師(さいしんりっし)はお経を書いた石を海に沈めて、平治の霊を成仏させ、塚(阿漕塚)を築いて、平治を弔いました。

もう一つは、江戸初期の僧・
清韓のお墓があります。清韓(文英清韓)は

伊勢国三宅(鈴鹿市)の生まれ、臨済宗の僧。豊臣秀吉の庇護を受けて、慶長5(1600)年東福寺の第227世となり、同9(1604)年には南禅寺(世代不明)に昇住しています。同19(1614)年、豊臣秀頼に請われて方広寺の鐘銘を書したのですが、これが史上有名な「
国家安康」の銘文なのです。徳川方の怒りを買い、大坂の陣を引き起こす原因となったとされています。

「伊勢の海阿漕が浦に引く網もたび重なれば人もこそ知れ」という古歌の歌碑もありました。これも、阿漕平治に関わるもの。裏を見てくるのを忘れました m(_ _)m 謡曲にも「
阿漕」というものがあります。世阿弥作と伝わりますから、室町時代前期のもの。そうだとすれば、阿漕平治の話は相当古い。謡曲は、旅僧が、阿漕ヶ浦で密漁をして海に沈められた漁師の霊から懺悔物語を聞くというストーリーだそうです。

続いて、すぐ北隣の
西来寺(せいらいじ)へ。ここは、天台真盛宗別格本

山。天台真盛宗、小生はよく知りませんでしたが、宗祖は室町時代中期の天台僧・真盛上人(1443~95)、総本山は大津市坂本(比叡山・横川の麓)にある西教寺です。西来寺は宗祖真盛上人が伊勢の地に来られ、安濃津で初めてご説法なされ、不断念仏道場が建立されたのを開基としています。延徳2(1490)年4月のことです。
別格本山ということで、慶大にはいくつもの塔頭があります。こちらは、
元三大師堂。
元三大師は、平安中期の天台宗の僧、良源。比叡山第17代の座主で、比叡山中興の祖。寛和元(985)年正月3日に没したのでこのように呼ばれます。

西来寺で、「三重県の歴史散歩」のコピーを見直して、浄明院の墓地や、

江戸川乱歩の墓を見忘れたのに気づき、引き返して確認してきました。その後、またフェニックス通りを経て、いよいよ
大門商店街へ。三重県在住39年にして初訪問でした。津観音(恵日山観音寺、日本三大観音の一つ)を中心に発達した商店街と飲食店街とが複合した地域。以前は、津を代表する繁華街でしたが、アクセスの不便さなどによって、最近は衰退しているといわざるを得ません。訪れたのは月曜で、定休日という店も多くて、閑散としていました。

大門商店街を北へ向かうと、
津観音に行き当たります(恵日山観音寺)。

本尊は聖観音菩薩。日本三大観音の一つとされます(ちなみに他の2つは、浅草観音、大須観音)。ここも以前から、来てみたかったところ。真言宗の古刹。和銅2(709)年の建立とされ、室町時代の永享2(1430)年に、将軍足利義教が勅命を奉じ境内に三重塔や恵音院を建立したり、延徳2年(1490)には天台真盛宗の開祖、真盛上人が山内不動院に滞在し、観音堂に於いて説法され天台真盛宗を広められたといいます。

仁王門には、当然お二人の仁王様。仏教護持の神像。忿怒の相で、一

体は口を開き、一体は口を閉じ両者で「阿吽(あうん)」の相をなしています。本来は、金剛力士とするものなど諸説があります。左の写真は、商店街から向かって左、阿吽の「吽」。右の写真は、仁王門の境内側におわす狛犬。これも向かって左のもの。

仁王門の中央には、「撫で石」がありました。四国八十八ヶ所の中でもっとも難所と言われる第六十番札所「横峰寺」からもたらされたもの。石を撫でた手で、身体の悪いところをこすると、よくなると伝えられています。「口が悪い」のも直るのでしょうか(苦笑)?

正面参道の中央には、銅燈籠が1基あります。これは、浄明院の鐘と同じく、津の鋳物師であった
辻一族がつくったもの。初代・家種の二人の息子、重種・吉種の作。銘文によれば、寛永5(1628)年のもの。写真を撮り忘れたのですが、ここの銅鐘も、辻家種、重種、吉種の作です。銅鐘の方は、元和3(1617)年のもの。

こちらが観音堂。階段の左右には、抜苦与楽(ばっくよらく)地蔵が対になっておられます。抜苦与楽とは仏・菩薩が衆生を苦しみから救い、福楽を与えるという意味です。真の楽を得るためには、まず苦を抜くという考えを元にしています。慈悲に相当する言葉で、抜苦とは悲に、また、与楽とは慈に相当します。

観音堂の内部。天井には、右の写真のような彩色画が描かれていまし

た。ご本尊でもある観音様でしょうか、秘仏とされる阿弥陀様でしょうか? 小生の知識では判別不能。

左は、丈六地蔵尊。ひときわ大きなお地蔵様。
丈六というのは、調べて

みたら、仏像の像高の規準の1つで、立像の高さが1丈6尺(約4.8メートル)ある仏像のことだそうです。座像の場合は、立てば丈六ということで、半分の8尺(訳2.4メートル)の像を丈六像と呼びます。独り言ですが、知らないこと、多々あります。右は、
五重塔。三重県下初の純木造五重塔で、平成13(2001)年5月に落慶。内部は、Googleのインドアビューで見られます(https://goo.gl/maps/B1FqHJqmDuB2)。見てみたら、内部の荘厳は素晴らしいの一言。

津観音の境内では、ちょうど桐の花が咲いていました。桐の花は初めてで、現地ではなんだか分からず、帰って調べて、判明。
津観音の主なところは見てきましたが、このほか、小津安二郎の碑などまだまだあります。今日のところは、タイムアップ。その3へ続きます。
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