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2018年3月19日 (月)

近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その1)……子安観音寺【加筆修正しました(3/19)】

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 3月17日(土)に出かけた“近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道と2018317kintetsuhiking おひなさまめぐり」”の本編その1です。風はややあったものの、よく晴れて、絶好の行楽日和(微笑)。学校を卒業して最初の就職先が鈴鹿市内にあり、白子駅は出張でよく利用しましたが、今回のハイキングコースあたりは行ったことがありませんでした。コースマップでは、約6kmとなっていましたが、距離測βで見ると、実測8.9㎞。
20180317kintetsuhiking1 左は、実際に歩いたルートを、、距離測βで調べ、描いたもの。赤丸をつけImg_4175c た、近鉄名古屋線・鼓ヶ浦駅が今回のスタート。桑名駅を9時2分の五十鈴川行き急行に乗り、白子駅で普通電車に乗り換えて、9時38分に到着。¥560。受付は9時半から始まっており、この時間さほど並んではいませんでした。「酒蔵みてある記」でないと、空いているのかも知れません(苦笑)。マップをもらって、9時42分スタート。
Img_4178c 鼓ヶ浦駅前にあった鼓ヶ浦海水浴場の案内板。一応写真に撮っておこうと思っただけでしたが、帰宅後よく考えたらもっとしっかり確認すべきでした。というのも、山口誓子の句碑を始め、文学碑が6つもあるのでした。とくに鼓ヶ浦海水浴場には5つもあるのでした(苦笑)。
Img_4185c 最初の立ち寄りスポットは、鼓ヶ浦駅から200mあまりの白子山観音寺。地Img_4193c 元では、「白子の子安観音」で親しまれています。その名の通り、安産祈願で有名。高野山真言宗。聖武天皇の命令で藤原不比等が建立したと伝えられ(道證上人の開山によります)、1250年以上の歴史があります。本尊は、「白衣観世音菩薩」。縁起によれば、「この浦(鼓ヶ浦)に鼓の音あり、怪しみて網を下ろしけるに、鼓に乗り、観世音の尊像上がらせ給う、帝これを聞こしめし、伽藍建立ありて勅願寺となりぬ。妊婦安産の霊験あり」と記されているそうです。異説には、鼓ヶ浦の海の中から赤ん坊に背負われてご本尊が現れたという話もあります。
Img_4189c 上左の写真にある「仁王門」は、三重県指定文化財(昭和47(1972)年にImg_4199c 指定)。仁王門は、元禄16(1703)年に建立されたもので、正面両脇に鎌倉様式の金剛力士が配されています。江戸時代の楼門の典型とされる、堂々とした構えです。高さは12.37m、桁行は7.42m、本瓦葺の立派なものです。
Img_4226c こちらが本堂。中央に写っているのは、マスコットキャラクImg_4212c ターでしょうか。中に入ると、「子安」と大書された大きな提灯が頭上に下がっています。
Img_4214c 正面の上には、「白子山 観音寺大聖院 ご本尊 白衣観音」などと描かImg_4210c れた額が掲げられていました。また、お祈りするときの注意事項というか、唱えるべきことばも示されています。ちなみに「おん しべてい しべてい はんだら ばしに そわか」と三遍乃至七遍唱えるようにとありました。ご真言というのだそうです。
Img_4207c 境内の中央にあるのが、三重県指定有形文化財の「銅燈籠」。です。寛文6(1666)年、辻越後守玄種の作です。辻越後は、藤堂高虎の頃、近江から津の釜屋町に来た鋳物師。高田本山専修寺には、その三代目である辻越後守陳種が作った銅燈籠がありますし(2018年1月12日:近鉄ハイキング「高田本山専修寺『お七夜』と寺内町散策」へ(その2)……石積神社、窪田の常夜灯、高田本山専修寺)、初代・家種の作になる梵鐘が津観音にあるそうです(こちら)。
Img_4233c 境内には、不断桜があり、天然記念物に指定されていま
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す(大正12(1923)年3月指定)。樹齢については諸説あるようですが、江戸時代にはすでに「一年中葉や花が途絶えない不思議な桜」として著名な木だったといいます。すずかし観光ガイドによれば、真夏以外は梢のあちらこちらにちらほらと花をつけ、四季を通じて桜の花が咲くことから不断桜と名付けられたそうです。3月~4月には薄桃色の花が一面満開となります。この不断桜の葉の虫食い跡をみて伊勢型紙を思いついたというエピソードも残っています。
Img_4243c 不断桜の周囲には、いくつか石柱、石碑、説明板があります。左の写真の石柱は、不断桜が天然記念物に指定された記念として建てられたもので、「天然記念物白子不断桜 内務省」と刻まれています。大正12(1923)年4月1日に建設。正面に向かって左側には、「史跡名勝天然記念物保存法ニ依リ 大正十二年三月十日 内務大臣指定」とありました。
Img_4205c こちらは、智慧の塔。三重塔で、広く人々の苦難を救われる観音様の功徳を求め、ご縁の深い皆様の御安泰と子孫繁栄を祈念し、併せて寺門興隆の悲願を込めて建立したといいます。塔内には、金剛界大日如来(真言密教の教主)、文殊菩薩(もんじゅぼさつ、普通には普賢菩薩とともに釈迦如来の脇侍として左脇に侍し、智慧を司る菩薩として信仰されている)、普賢菩薩(ふげんぼさつ、仏陀の実践的理性を司る菩薩で、文殊菩薩と並んで釈迦仏の二脇侍として知られる)の三尊が祀られています。建築様式は、鎌倉時代様式を取り入れたものだそうです。
Img_4275c 本堂の前には、こういう立派な幟が立てられていました。山門を入ったとImg_4190c ころに右のような看板がありました。ここに出てくる「大幟」がこれかという気がします。浅沼一道(あさぬま いちどう)は、書家。こちらに紹介がありました。
Img_4228c これもよく見てくればよかったと反省しています(反省だけならサルでもできるといわれそうですが……)。「永代常夜燈」です。こちらを見ると、対になっているということでしたが、片方しか気づきませんでした。裏側には「尾州 名古屋 木綿問屋」と刻まれていました。「天保三年壬辰冬」とあります(天保3年は1832年)。この頃は、白子の木綿問屋が衰退し、名古屋の問屋が勢力を増してきた頃だそうです。ちなみにもう一つの永代常夜燈には、「白子 川合氏」とあるといいます。白子の川合氏は、積荷問屋・河合氏(江島在住)。
Img_4227c 境内には、山口誓子の句碑が2つあります。その一つには、「虹の環を以て地上のものかこむ」とあります。昭和46(1971)年10月建立。子安観音寺は、誓子が白子居住時に時折訪れ親しんだ地だそうです(こちら)。ちなみに、山口誓子(明治34(1901)年~平成6(1994)年)は京都府出身の俳人。高浜虚子に師事。昭和15(1940)年に病気療養のため四日市市富田に転居。昭和22(1947)年からは鈴鹿市白子で5年間過ごし、体調も順調に回復したといいます。鈴鹿市には、誓子が詠んだ11の句碑が建てられているそうです。
Img_4278c もう一つがこちら。「寺の古び月夜のけふのごときはなし」とあります。三重の句碑のサイトにも、当然ながら載っていました(こちら)。昭和57(1982)年6月の建立。
Img_4221c 子安観音寺には他にも句碑がいくつかあります。まず、こちらは、「花の香のたえぬ恵みの御堂かな」という坪田(五老井)梥雄(まつお:「梥」は「松」の古い字といいます)の句が刻まれています(こちら)。梥雄は森川許六(江戸前・中期の俳人。彦根藩士)を祖とする五老井八世(明治40(1907)年、五老井八世を嗣号)で正風俳諧継承者の一人。万延元(1860)年滋賀県に生まれ、無々庵とも号して全国各地で俳句に遊び、全国の有名な地に句碑36基を建設し、その一つがこれだそうです。梥雄の句碑は県下では二見浦にあるものとで2基現存するそうです。この句碑は、大正2(1913)春建立。
 以下は、追記です(3/19)。昨日の時点(3/18)で調べがついていなかったものです。まずは、不断桜のところにあった石碑。
Img_4238c 「不断櫻」と刻まれています。右から文字が刻まれていますし、いかにも古びていますから、相当前のもの。「不断櫻」とある下には、漢文が刻まれています。気楽に、写真があればわかると思ったのが間違いの元。ネットで検索したところ、こちらにありました(喜)。何事もきちんと調べる方がいらっしゃるものです。桑名藩士であった山田松齋(文化6(1809)年~明治29(1896)年)によるものだそうです。松齋は奥州白川に生まれ、父に従い桑名へ来ています。文武両道を極めた人で、後に津藩に仕えています。文末に「仝戌辰春相議建之」とあります。「」は「同」の古字とされます。直前に「慶應丙寅……」とありますから、ここでの「仝」は「慶應」と考えられます。したがって、「慶應戌辰」(慶応4(1868)年、ただし、この年に明治に改元されています)にこの石碑が建てられたということです。内容は、上記のリンク先(こちら)をご覧ください。
Img_4240c もう一つはこちらの句碑。上の写真の石碑と並んで不断桜の前にありました。これまた写真に撮っておけば大丈夫と高を括ったのでした(苦笑)。これも、上の石碑と同じサイトに説明があり、助けられました。「養老舎梥琳句碑」で、「波音を鼓に寺の桜かな」と刻まれているようです。この句碑は、五老井門人が大正8(1919)年5月に建立したもの。「五老井門人」は、芭蕉の門人である五老井許六(きょりく)を一世とする俳諧の系統。五老井許六は、宝井其角の手引きで芭蕉に入門しています。六芸に通じているという意味で許六と号し、芭蕉に画報を伝授したといいます。以上2つの石碑&句碑の説明は、天明元年大宝転社絵馬というサイトによります。
Img_4249c これで子安観音寺の最後。境内の南側、塀際に立っています。「寄附者姓名」と読めます。その下には、寄付をしたと思われる方々のお名前が多数刻まれています。裏側は未確認。
 以上、昨日のその1の記事の加筆修正で、今日(3/19)は終わってしまいました。まだ先は長いので、お時間がおありでしたら、気長にお付き合いを願います。次は、寄り道した比佐豆知神社から。
 かなり加筆修正しましたので、投稿の日付を3月19日に変更しました。ご了解下さい。

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