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2018年2月 7日 (水)

町屋川遠征3回目余談……大貝須神社と、古い看板の話など

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 昨日の「町屋川でウミアイサ……町屋川遠征3回目は、川越町へ進出」の余談です。帰りのバス(11時34分発)まで30分弱、時間がありましたので、バス停1つ分を歩いて、大貝須神社を見てきました。その他、途中で見かけた古い看板などのお話。
Img_7505c 大貝須のバス停のところに、「春日 三崎神社旧蹟地」という碑が建っていImg_5365c ます。去年の12月14日に来たとき(町屋川にて、ミサゴ、セグロカモメ、オナガガモ、オカヨシガモなど……マンホールカードもゲット)、慌てていてよく確認できなかったところです。このときのブログ記事には、「途中、大貝須のバス停のところで、こんな石碑を見ました。あとで調べたら、ここには大貝須神社があったのでした。急いでいたのでよく確かめず、この石碑だけ写真に撮ってきただけ(苦笑)」と書いています。
Img_5352c よく見ると、バス停の南に燈籠が2基建っていました(冒頭の写真の中央あたりのところ)。溝を渡った向こう側です。その奥には、玉砂利のようなものが敷かれていましたので、そちらを見に行ってみました。
Img_5355c そうしますと、神社があったのです。「なぁんだ、ここにあったのか」という、いかにもあっけないようなことでした。12月14日に書いた大貝須神社がここ(バス停の裏)にあったのです。東に向かって鳥居、拝殿があります。
Img_5357c 「神社検索(三重)」の説明によれば、御祭神は、天照大御神。相殿神は、市寸島比売命(いちきしまひめのみこ;天照大神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)との誓約(うけい)の時に生まれた三女神の一)、天津日子根命(あまつひこねのみこと:天照大神の子)、建御雷之男神(たけみかづちのかみ;伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が火神を切り殺したとき、剣に付着した血から化生(けしょう)した神)、天久之比命(あまくしひのみこと;製鉄・鍛冶の神である天目一箇神(あめのまひとつのかみ)の別名)となっています。
 大字大貝須に御鎮座の春日神社、境内火産霊社、同山神社が、明治41(1908)年4月に、また、同地にあった水神社は、明治45(1912)年4月に城南神社に合祀になりました。しかし、その後、昭和30(1955)年10月に、氏子の総意により現社地に分祀、御鎮座になったといいます。この経緯は、1月23日に書いた記事(町屋川第2回遠征(寄り道編)……神社、古い看板、ホーロー看板など)で触れた、福地神明社、福江神明社とほとんど同じ経緯となっています。この1月23日の記事では調べ切れていませんでしたが(追記予定あり)、萱町神明社(日の出橋バス停の脇にあります)とも同じでした。
 少し調べてみましたら、明治末期に、神社の数を減らし残った神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備・財産を備えさせ、神社の威厳を保たせて、神社の継続的経営を確立させることを目的に「神社合祀」が、政策的に進められたということでした(Wikipediaの説明は、こちら)。地方公共団体から、府県社以下神社に公費の供進を実現させるために、財政が負担できるまでに神社の数を減らすという狙いもあったようです。
 神社合祀政策は明治39(1906)年から進められ、当初は地域の実情に合わせかなりの幅を持たせたものであったものの、その後、厳しく適用されるようになり、全国で大正3(1914)年までに、約20万社あった神社の7万社が取り壊されたといいます。三重県では、この合祀政策がとくに甚だしく、県下全神社のおよそ9割が廃されることとなったそうです。これは、政策の推進が、知事の裁量に任されたためです。
 この神社合祀政策は、必ずしも氏子崇敬者の意に即して行なわれなかったため、ところによっては合祀で氏神が居住地からはほど遠い場所に移されて、氏子が氏神参拝に行くことができなくなった地域もあるようです。
 第2次世界大戦終了後は、それまでの宗教体制が解体され、神社もすべてが宗教法人となり、いったん合祀されたものの、復祀された神社も少なくなかったといいます。この大貝須神社などの合祀、分祀の経緯もこれに沿ったものだろうと思います。
Img_5342c さて、話はまったく変わりますが、ここ大貝須、南福江などのあたりは古Img_5339c い建物がそのまま残っていることも多く、あちこちに古い看板があります。まずは、南福江のところには、古い消火栓とその説明板があります。「開き方=右廻し」と書いてあります。この消火栓は、入れ物だけが置かれている感じです。なお、この左の方に、1月23日の記事(町屋川第2回遠征(寄り道編)……神社、古い看板、ホーロー看板など)で書きましたように、「桑名市防火協會」と書かれた、赤い消火栓の看板が置かれています。
Img_7485c この地方ではおなじみ、「結納品 宝石 羽田」のホーロー看板。大貝須あたりだけでもあちこちに残っています(近鉄酒蔵みてある記で先日訪ねた、四日市の川島地区でもいくつか見てきました:1/30:酒蔵みてある記“銘酒「三重の寒梅」丸彦酒造をたずねて”へ(その3)……河島神明神社、西福寺そしていよいよ松彦酒造へ(完))。この店、ネットで検索してみても出て来ませんから、もう存在しないのだろうと想像しています。「桑名店 寿町パル東」とありますが、パルそのものが平成9(1997)年に閉鎖されています。もう20年も経っています。
Img_7486c それにしてもこの看板、当時、一体どれだけの数設置したのでしょう? 費用もかなり嵩んだと思います。商売熱心というか、何か特別な熱意のようなものさえ感じます。三重県には、こういうローカルな琺瑯看板がたくさん残っているという指摘もあります(こちら)。なかなか興味深いところですが、あまり深入りするのも……と思っています。
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Img_5367c その他、町内案内図や、町名表示板、避難所を示すものもあります。避難所を示すものは、比較的最近のものですが、町内案内図(以前はあちこちで見ました)は、かなり古くて、もう内容は判別できません。
Img_7507cc 別のところ、あるお宅のブロック塀の角部分にもあります。ここにも、あの「結納品 宝石 羽田」のホーロー看板。笑えてくるくらいたくさん残っています。よく見ると、上に載せたものには、「富州原店 東洋町」とあったのが、こちらにはなく、「桑名店 寿町パル東」だけになっています。いくつかバリエーションがあると思われます。などと興味を出してはいけません。深入り禁物であります(苦笑)。
Img_7385c 寄り道ばかりの話ですが、ついでにもう一つ。屋根の上の鍾馗さんを見Img_5280c つけました。場所は、川越町営の「ふれあいバス」、亀崎堤防西のバス停近く。鬼瓦も、邪気から家を守るものですが、鬼よりも強いのが、この鍾馗さんなのだそうです。ちなみに、次のような、いわれがあるようです(こちら)。
 昔、京都の三条の薬屋さんが大きなお店を建てて立派な鬼瓦を屋根に葺いたそうですが、その鬼瓦に向かい合った家の人が突然原因不明の病に倒れてしまい、どうやらこれは向かいの薬屋さんの屋根の鬼瓦が払った邪気が向かいの人に悪い影響を与えているからに違いないと考えて、鬼よりも強い鍾馗さんを向かいの鬼瓦と向かい合わせておいたところたちまち病が治ったという話から鍾馗さんを屋根に置くという風習が伝わったとされています。
Img_5377c 以上、脈絡のない話でしたが、町屋川遠征3回目余談です。さらに脈絡のなさを深めますが、左の写真は、桑名駅東にある「桑栄(そうえい)メイト」ビル。年末にNHKで放送された「マチ工場のオンナ」でもロケに使われていました(舘ひろし扮する父親がここから出て来たのです)、ここも古いビルです。桑栄町にあるために「桑栄メイト」。飲食店・物販店・サービス店・事務所・診療所など商業店舗と、住宅が入居する複合用途ビルです。昭和48(1973)年10月に供用開始された、昭和レトロ感たっぷりのところ。

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