
“勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング(笑)」……高田本山専修寺と一身田寺内町散歩”も、昨日の記事で、釘貫門を越え、聖なる地へと足を踏み込みました。左の写真で奥に見えているのが、専修寺の山門。正門というか、総門というか。石畳が続きます。山門に向かって、両側には高田派のお寺が向かい合っています。智慧光院と、玉保院(ぎょくほういん)。

山門に向かって左にあるのが、
智慧光院。「西院(さいいん)さん」とも呼ばれるそうです。山門前の通りを寺町通といいますが、その雰囲気を増す様子を呈しています。昭和17(1942)年、「
磯川兵助功名噺(いそかわひょうすけこうみょうばなし)」という、東宝映画の1シーンが門前で撮影されています。

この映画は、野村胡堂原作、
榎本健一(エノケン)が主役です。野村胡堂

は、「銭形平次捕物控」の作者です。ストーリーは、
こちらにあります。左の案内板と、実際の風景(右の写真)を比べると、確かにここだと思えます。

向かい側には、
玉保院。こちらは、東にあるので、「東院さん」。玉保院に

は、「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)阿弥陀如来像」が伝わっています。製作年代は、作風などから鎌倉時代(13世紀後半)とされています。もとは松禅院(しょうぜんいん)(比叡山)にあったものが、修理された後(明応5(1496)年)、専西寺(せんせいじ)(福井県大野市、現在は廃絶)へ入り、そして、元禄年間( 1688 - 1704 )になり、玉保院ぎょくほういんへ移されたものであると考えられています。ちなみに、この玉保院でも、、「磯川兵助功名噺」の撮影が行われています。

前置きが長くなりましたが、専修寺へは、
山門から入ります。
1月12日の近鉄ハイキングの記事でも書きましたが、2階建、間口20、奥行9m、高さ15.5m。瓦の刻銘そのなどによれば、元禄6(1693)年ごろから建築にとりかかり、宝永元(1704)年頃に完成したものといいます。重要文化財の指定を受けています。

山門をくぐると、正面に御影堂。昨年11月、国宝に指定されました。県内の建物では初めてです。宗祖親鸞聖人の木像を中央須弥壇上に安置しています。725畳敷で、全国の現存木造建築の中でも5番目の巨大な堂だといいます。高田本山は、この日まで「
お七夜」。最終日で、平日ということもあってか、境内も周辺も大変空いていて、ゆっくりと拝観できました。御影堂に着いたのは、10時半少し前で、お勤めの最中。この日、御影堂にいらっしゃる親鸞聖人のお像の前の御簾があげられ、拝見できました。近くにいらした僧職の方が、「印刷して配ったり、ネットに出したりしなければ、写真を撮って良いですよ」といってくださったので、お勤めの様子と、親鸞聖人のお像を撮らせていただきました。大変ありがたいことです。

御影堂と
如来堂は、
通天橋という廊下でつながっています。せっかくの機

会ですから、この通天橋を渡って、如来堂にもお参りすることにしました。通天橋も、重要文化財。右の写真は、御影堂から、通天橋と如来堂を撮ったものです。

通天橋の内部、御影堂から見ています。全長31.86m、幅6.79m、唐破風造、本瓦葺です。御影堂と如来堂を結ぶ廊下で、両御堂の縁側にかかっていますので、高床、板張りで、柱間はすべて吹抜けになっています。寛政12(1800)年11月に上棟、享和2(1802)年に渡り初めが行われたといいます。

こちらが
如来堂。御影堂とともに、国宝に指定されています。「証拠の如来」と呼ばれる阿弥陀如来立像を本尊とし、教義上は、こちらが本堂だそうです。「
証拠の如来」についてはこちらの第42話に書かれています。

お参りを済ませて、時刻は10時40分。早速、こちらへ。「食堂(じきどう)」であります。今日の楽しみの一つ、「御非時」をいただきに、であります。「1月11日の近鉄ハイキングでも食べただろう!?」といわれるでしょうが、御非時は2カ所で提供されています。前回は、御飯講という方でいただきました。どちらに行こうか迷っていたら、近くにいた方が「こっちが美味しいらしい」というのが聞こえて、御飯講に行ったのです。食べ比べ(というと失礼ですが)と、お盆に乗った御非時も是非と思ったのです。この日の御非時は、10時~12時となっていましたので、早めに(爆)。

これが、「食堂」の御非時。御飯講の方とはお菜が異なります。用意してくださるのは、檀家の方とのことでした。御飯、味噌汁は、先日の方が美味しかった気がしますが、ひりょうずの味付けはなかなかのものでした。結論としては、甲乙つけがたく、ありがたく頂戴するものだということです。「食堂」も、空いていて、ゆっくりといただくことが出来ました。

早めのお昼をいただいてからは、
宝物館へ。お七夜の期間中は、無料公開をしています。普段は、事前の申し込みが必要とのこと。専修寺には、親鸞聖人のご真蹟がたくさん残っています。ただ、拝観できるのは、影印bのものがほとんど。特別展示としては、御影堂、如来堂関連資料が14点ほどでした。個人的には、「伝 親鸞聖人 うらぎぬ(裏絹)の御書」が気になりました。親鸞聖人が桑名・赤須賀にいらした時、漁師の方たちが殺生に関わる仕事に就いていることを嘆いたため、この書を与えたという説明でした(記憶で書いていますので、誤りがあるかも知れません)。ネット検索しても、情報は出て来ませんでした。「伝」ということですから、事実ではないかも知れません。

宝物館の前庭に「
仏足石」がありました。仏陀の足の裏の形を石の上に刻んだもので、インド初期仏教では、仏像がまだつくられず、法輪、菩提樹、塔などを拝んだそうですが、仏足石もその一つです。年配の女性が、「大きな足。どなたの足?」とつぶやいておられました。

説明によれば、インド・ビハールのR.プラサド氏の寄贈。ブダガヤ(
ブッダガヤともいうようです。仏陀伽耶。歴史で習った、アショーカ王が建立された寺院を発祥とするとありました)の金剛宝座にある仏足石をそのままかたどって彫られたものを、インドから空輸してきたとあります。昭和59(1984)年3月設置。600㎏あまり。

境内をあちこちウロウロ(体よく書けば、探索)していますが、宝物館の東に門がありましたので、外に出てみました。専修寺の
施設案内にはありませんが、
こちらのサイトを見たら、長屋門とありました。もともとは、武家屋敷で敷地の周囲に家臣を住まわせる長屋を建て、その一部に扉をつけて門としたもので、地方の名士や旧家などにも長屋門をもつことが認められたようです。

この長屋門、両脇にあるのは、
武者窓と思われました。武者窓は、門を開けることなく、表の通りに誰が居るのか確認する為に用いられたものです。検索しても出て来ませんが、寺侍でもいたということでしょうか。

この長屋門の西にある建物。
こちらのサイトには、殿舎とありますが、専修寺のサイトにはありません(
こちら)。「殿舎」は、御殿、館(やかた)のことですから、固有名詞ではないかも知れません。場所的には、この背後(西)に
御対面所や、
賜春館があります。

境内の中心部に戻ってきました。高田会館の裏(北)あたり、鐘楼の近くに
山口誓子の句
碑があります。「佛恩に浸る銀杏の大緑蔭」と刻まれています。誓子が、昭和50(1975)年6月に本山を参詣した時、御影堂東の銀杏を詠んだものです。

句碑は、桑名俳句会としてスタートした天狼伊勢北支部の八風俳句会結成100回目の句会記念として、昭和51(19769年4月10日に山口誓子ご夫妻臨席のもと、除幕式が行われています。
山口誓子(明治34(1901)~平成6(1994)年)は、著名な俳人。三重県とゆかりがあります。昭和16(1941)年、伊勢冨田(現在の四日市市富田)に移り、療養をしているのです。

この句に詠まれた銀杏を探してみたら、ありました。たぶんこれでしょう。御影堂の東にある木。葉っぱの落ちた銀杏の木と思います。

専修寺、さすがに真宗高田派の本山。境内は広く、建物もたくさんあります。まだまだ先がありますので、今日はここまで。「境内を歩く」は、後半に続きます。なお、左は、専修寺の境内案内図。赤丸をつけたところは訪ねたところ、黄色い丸は眺めたところです。
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