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2017年12月 4日 (月)

市民大学最終回「幕末維新と桑名」……修了証もいただきました

Jukouhagakic  5月から通っていた、中央公民館での「平成29年度くわな『市民大学』講座」の「ゼミナール『郷土史学科』」が、いよいよ今日で最終回。全7回の講座、ご覧のように、すべて出席しました。全体を通してのテーマは、『桑名の歴史発掘-桑名の重要事件を探る-」。講師は、市博物館元館長の大塚由良美先生。桑名の千羽鶴の復元にも努めていらっしゃいます。人気の講座だそうで、定員40名のところに倍以上の応募者があり、抽選で当たって受講できました。

Dscn5372c 今日は、「幕末維新と桑名」という内容でした。今年は、大政奉還150年ですから、最後を飾るにふさわしいテーマです。左の写真は、今日とったノートの一部。アタマの働きがだいぶぎこちなくなってはいますが、講師の先生のお話を何とか筆記できていると思います。ノートは、このあと、関連する事項を調べ、付け足すなどして、清書しています。自分が講義する際も、学生諸君には、「復習しなさい」と話していますが、自らも実践しております(微笑)。
Dscn5374c こちらは、今日の配付資料。大塚先生はいつも詳しい資料を作って、配ってくださるので、勉強になりますし、大変参考になるのです。今日の資料は、尊皇攘夷や、公武合体運動が高まる中、安政5(1858)年、時の桑名藩主・松平定猷公が、京都警護を命じられたところから、明治2(1869)年、桑名の旧・藩主・松平定敬(京都所司代を務めました)が、新政府から許されるまでの年表と、島津家(薩摩藩)と久松松平家(桑名藩)の関連を示す系図でした。
Dscn5377c  久松松平家では、桑名藩第4代藩主・松平定行公が、家康の命により、島津忠恒(家久)の養女を室としたり、16代藩主・定和公は、島津重豪の娘・孝姫を迎えていたりなど、島津家(薩摩藩)とけっこう姻戚関係があったそうです。定行公は、天保9(1838)年、家督を相続したものの、在任3年足らずの天保12(1841)年、30歳で亡くなってしまいます。その後は、嫡男の定猷公がわずか7歳で継ぐのですが、定猷公も心労で倒れ、26歳で急死。この二人の藩主が、長生きをなさっていたら、薩摩藩との関係もあって、幕末の桑名藩の運命も変わったかも知れないというお話でした。
 幕末の大政奉還、戊辰戦争、明治維新と桑名藩の関連などについては、大変興味があるのですが、残念ながらはじめにも書きましたように、今年度は今日で最終回。概論という感じのお話でした。もっと詳しい話を聞きたいと思っていたところ、来年度もこの講座が開講され、大塚先生がこのあたりについて、詳しく話をしてくださる予定だということでした。これは、来年の講座にも応募して、是非とも聴講しなくてはなりません。幸い、大研修室で開催され、受講可能人数も増やしていただける見込みだとか(微笑)。
Shuuryoushouc ところで、8割以上出席すると(7回中6回以上)、「修了証」がいただけるということで、お陰様で小生もめでたく、この修了証をいただいてきました。こういう立派なものをいただくのは、久しぶり。たぶん、学位をもらったとき以来でしょう(平成11(1999)年に学位を取得しました)。額に入れて飾るというのは、大げさですが、大切に保管しておくことにしましょう。

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コメント

こころんさん、こんばんは。

広報くわなで講座があるのを知り、応募したところ、首尾よく抽選をくぐり抜けられ、受講しました。
全7回で¥3,000という格安の受講料で、楽しみながら勉強できました。

修了証は、思いの外立派なものをいただけました(笑)。
こういうものをいただくと、うれしくなりますね。
試験でもあったら、通らなかったかも知れませんが……。
こころんさんの鑑定団のものも、容易にはいただけないものですよ。

講座の内容は、桑名の名前が歴史書に最初に登場した壬申の乱(672年)のときのこと(大海人皇子が巡行の途中、「桑名郡家」に泊まったという話)から始まりました。
重要な出来事をピックアップした講義ですから、まだまだ勉強が必要です。

桑名城の刻印石についての話は、一つの見解ということで、謎の方が多いと思います。
名古屋城は、何人もの大名を集めて普請が行われましたので、石垣にその大名の印をつける必要があったと思います。
桑名城では、そういう「大名普請」が行われたとは思えませんので、石屋さんがつけた印に過ぎないかも知れません。

城についての記録文書もあまりないようで、詳しいことは分かっていないと聞いています。

しかし、それにしても、重機のない時代に大がかりな工事をするのは大変だったと思いますね。
石垣を組む専門家集団(穴太衆)もいたといいますが、そういう人たちが携わったのでしょうか?
いろいろと興味が尽きません。

投稿: mamekichi | 2017年12月 5日 (火) 19時23分

2倍の競争率をくぐり抜け
出席率100%で素晴らしいですね(^^)
立派な修了証も戴けておめでとうございます。
なんでも鑑定団のと全然違いますね(笑)
桑名のことはmamekichiさんにお聴きすればOKですね。

刻印石、名古屋城などのお城の石垣ににあるのを聞いたことありますが
桑名城も同じように印が付いてたんですね。
何人で築き上げたかわかりませんが
昔の人はすごいですね。
現代人が同じように人数を揃えて昔の道具でやったとしたら
何倍の時間が掛かるでしょうね。
現代人は勝てないでしょうね。

投稿: こころん | 2017年12月 5日 (火) 18時26分

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