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2017年12月23日 (土)

近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」(12/22)へ(その2)

 昨日に引き続き、“近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」へ”のその2であります。昨日は、川越富洲原駅からスタートし、田村寺(四日市市西富田)、旧東海道を歩き、四日市市富田一丁目の市民センターにある道標まで見てきました。

Img_8766c 富田地区市民センターの隣に、富田小学校があります。その敷地内に「明Img_8764c 治天皇御駐輦跡碑」が建っています。「駐輦」とは、天皇がお休みになることを意味します。つまり、このあたりで明治天皇がお休みになったことを示すのが、この碑です。明治天皇は、4度、この地で休まれたといいます。説明板によれば、明治元(1868)年9月20日、京都を出発し、東京へと向かわれたのですが、24日に四日市に泊まられ、翌25日、富田茶屋町広瀬五郎兵衛という方のところで、小休止をおとりになったそうです。このとき、焼き蛤をご賞味になったようです。東京には、10月13日に入っておられます。
Img_8769c その年の12月19日、京都へ帰られる途中、再度、広瀬五郎兵衛方でお休みになっています。翌明治2年3月、神器を奉じて東京に遷都されるとき、3月15日にまた広瀬方で小休止。4度目は、明治13(1880)年7月、陸軍大演習をご覧になるため、三重県に行幸されたとき、やはり広瀬方でお休みになったといいます。広瀬五郎兵衛宅は、この富田小学校正門から富田地区市民センターあたりにあったそうです。なお、記念碑は、公爵・近衛文麿の筆です。
Img_8780c 旧・東海道を200mほど進むと、十四川の手前、東側に善教寺があります。Img_8778c真宗高田派の寺院で、ご本尊は、阿弥陀如来。このご本尊は、国の重要文化財に指定されています。作善日記から仁治2(1241)年正月頃造られたと考えられています。
Img_8782c
 本堂は大変立派です。高田派の本山である専修寺如来堂によく似てImg_8783c います。このあたりは、「海戸尻(かいとじり)」と呼ばれていたといいます。海岸線がこのあたりまできていたからと思われます。海戸尻道場があり、これが善教寺の前身であったそうです。ご本尊(木造阿弥陀如来立像)と、その像内納入文書は、右の写真にある蔵に保管されています。
Img_8790c 善教寺の南を十四川が流れています。ここは、桜の名所として知られています。10.2㎞の堤に600本のサクラが植えられ、川を覆う桜のトンネルができます。ただし、大正12(1923)年)に植林されたものだそうですから、江戸時代の旅人は目にしていません。
Img_8796c  十四川を渡ったところに常夜燈があります。碑表には、「氏子中(うじこじゅう)」とあります。今迄は何気なく見ていたのですが、この「氏子中」は、「同じ氏神を祭る人々。氏子の仲間」という意味だそうです。何でもおろそかにせず、調べてみることが大切でした(苦笑)。裏(碑陰)には、天保10(1839)年建立と刻まれています。
Img_8798c こちらは、南富田町あたりの東海道沿いの様子。連子格子というのでしょうか、昔風のたたずまいも見られ、旧・東海道を歩いているという気分にさせてくれます。
Img_8804c 常夜灯から300m弱で、薬師寺につきます。浄土宗のお寺で、ご本尊は、Img_8802c 阿弥陀如来。大同年間(806~810)、この地に疫病が流行し、人々が苦しんでいたことを旅の途中で知った弘法大師が、薬師如来を彫って開眼すると、人々の難病はたちまち平癒したので、人々は弘法大師に感謝するとともに、薬師堂を建て薬師如来を祀ったことに始まるといいます。その後、茂福城主であった朝倉下総守盈盛(みつもり)が菩提寺としたそうです。しかし、永禄10(1567)年、瀧川一益の兵火で焼失しています。ちなみに、ここは尼寺で、訪れたときちょうど庵主様が出ていらっしゃり、「お念仏に生かされて生きる!!」という小冊子をいただいてきました。
Img_8800c 薬師寺の門前には、忠魂碑や慰霊塔が4基建っています。中央右にある忠魂碑は、帝国在郷軍人会富田町分会によって大正4(1915)年11月に建立されています(こちらのブログ)。中央左の慰霊塔の方は、大東亜戦争殉国士慰霊塔で、富田地区遺族会が建てたものといいます(こちらのリストにあります)。4基ともの説明は、「いのりむし文庫」さんのブログ記事にありました。こちらをご参照ください。
Img_8817c このお寺まで、旧・東海道沿いを歩きます。光明山常照寺です。浄土真Img_8823c 宗本願寺派のお寺。ここは、四日市市茂福町になります。天文7(1538)年、釈法導によって開山され、寛文年間(1661~1673)にそれまでの天台宗から浄土真宗本願寺派に転派しています。詳細は、調べたものの分かりませんでしたが、本堂は明治42(1909)年に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられたといいます。平成7年11月本堂・鐘楼の屋根の修復が行われたようです。
Img_8824c 鐘楼の鐘は、昭和27(1952)年の四日市大博覧会で「平和の鐘」として展Img_8827c 示されたものです。ちなみに、「四日市大博覧会」は、2回開かれており、昭和27(1952)年のものは、「講和記念全日本農機具新日本産業大博覧会」です。この博覧会については、三重県のサイト「歴史の情報蔵」のこちらのページに言及があります。ちなみに、もう一つの「四日市大博覧会」は、「国産振興四日市大博覧会」で、昭和11(1936)年3月25日から同年5月13日までの50日間開かれました。
Img_8816cc この鐘の池の間(いけのま:梵鐘の部分の名。鐘身の中央部で、乳(ち)の間と中帯の間にあり、銘などが刻まれている。)には、常口(じょうこう)の歌「一筋に世界の平和祈りつつつくやこの鐘永久に(とわに)ひびけと」が刻まれています。
 東海道は、常照寺のところで、鉤型に曲がり、そこに新設用水道の碑と力石が2つあります。これも見てくれば良かったのですが、常称寺から出てどちらに向かうのか、地図がわかりにくく、少々迷いました。同じハイキングに参加した方と、「こっちですよね」と話しながら歩いてしまい、今回はパスして、茂福神社へ。JRさわやかウォーキングでは、要所要所に案内の矢印が掲げられていたのですが、近鉄ハイキングではそれはないようで、このあと浄恩寺のところでも若干迷いました(苦笑)。
Img_8836c 茂福神社。近鉄名古屋線の線路のすぐ東にありました。御祭神は、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)。「須佐之男命(スサノオノミコト)」のことです。相殿神は、天照大御神、保食神(うけもちのかみ)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、大山祇命(おおやまつみのみこと)、大宮能売命(おおみやのめのみこと)、上筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと)。
Img_8840c 創祀は、永禄10(1567)年以前と考えられています。明治28(1895)年4月、茂福神社と改称されるまでは天王社と称されました。明治40(1907)年12月に富田村大字茂福内の稲荷社、神明社、住吉社、山之神を合祀しましたが、明治42(1909)年に島出神社に合祀されてしまいます。合祀後は3月1日の御鍬祭、7月24日の夏祭、10月10日の秋祭には、鳥出神社より御神霊を神輿で境内地に迎えて祭りを執り行ったそうです。昭和25(1950)年に至り島出神社より分祀され茂福神社は再興されたそうです。
Img_8843c 茂福神社の西に茂福城跡があります。ここは、今回コースには入っていImg_8861c ませんが、是非とも訪れたかったところ。近鉄名古屋線の富田駅と霞ヶ浦駅の中間の線路脇に小さな土壇と石碑が建てられています。電車から、右のような看板が見えます。
Img_8846c 城跡を標示する石柱と最後の城主・茂福盈豊(みつとよ)の碑が建てられています。この碑文によると、貞冬という人物が越前朝倉Img_8849c 氏のもとにいましたが、応永年間(1394~1428)の乱を避けて当地に移り、地名に因んで茂福氏を名乗ったとされます。また、朝明川上流の保々に城を構えていた朝倉氏は、その同族といわれています。
Img_8852c 「伊勢軍記」によれば、永禄3(1560)年に茂福氏は羽津城の田原氏と合戦に及び勝利したとあり、その7年後に城主朝倉盈豊は、長嶋で織田信長の家臣である瀧川一益に謀殺されたとあります。その際、斬られた主人の首を家臣の小川宗春が奪い取り、朝明郡保々(朝倉氏の本拠地)に葬ったといわれます。この時の戦いで茂福城は落城したとされます。
 桑名、朝日、四日市あたりを歩いていますと、寺や、城跡については、織田信長や滝川一益によって滅ぼされたという説明をよく見ます。信長の本願寺との対立や、長島一向一揆などとの関連があると思いますが、小生自身、まだその辺りが整理されていませんので、それについてはもう少し考えてから。
 その2は、この辺りまで。茂福城跡で、ほぼ4㎞半です。その3では、伊賀留我神社(事前の下調べでは、2つありましたが、地図をもらうまではどちらに行くか分かりませんでした)、天武天皇迹太川御遥拝所(てんむてんのうとおがわごようはいじょ)跡、浄恩寺、そして、垂坂公園について。その3で完了の見込みです。伊賀留我神社では、初めて見た、珍しいものも発見しました。

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コメント

こころんさん、こんばんは。

屁理屈、講釈に寄り道満載の読みにくい記事をお読みくださり、ありがとうございます。

おっしゃるとおり、冬至にあわせての開催で、平日でしたが、近鉄ハイキングはこのほかにも平日開催がけっこうあります。

私も、この帰りに霞ヶ浦駅でパンフレットをもらってきました。
けっこう頻繁に開催されていますね。

田村寺は、地元の方がほとんどのようでしたよ。
名物の「かぼちゃぜんざい」がいただけるかと少し期待したのですが、それは祈祷を受けた方だけのようでした。

田村寺の名前が、あの坂上田村麻呂に関わるというのは、私も調べてみて初めて知りました。
講釈好きですから、あれこれ調べてみたくなります(苦笑)。

明治天皇がこの地方の東海道を何度か通られたことは知っていましたが、四日市の富田で、4回も、しかも同じお宅でお休みなさったのは初めて知りました。
記念の碑がつくられるくらいですから、当時はさぞ話題になったものと思います。

後半は、けっこうアップダウンがあり、いささか疲れました(微笑)。
いつもほとんど平地を歩いてばかりですから、たまにはこういうところも歩いた方が良いのでしょうね。

投稿: mamekichi | 2017年12月24日 (日) 18時44分

こんばんわ
きんてつハイキング、お疲れ様でした。
なんで平日かなと思ったら冬至に合わせての開催ですね。
12〜2月までの冊子が置いてあったので貰ってきて見ました。

全員、ハイキングの人とは限らないと思いますが
田村寺、たくさんの人で賑わってますね。
ハイキングを重ねることで経済効果も上がると思います。
歴史に出てきた坂上田村麻呂が関係あって田村寺とは知りませんでした。
勉強になります。
明治天皇は明治神宮に祀られてて国民に親しまれたようですが
この辺りにいらっしゃってすごい人手だったのではないでしょうかね。
富州原から霞ヶ浦までの2区間を踏破されて尊敬します(^^)
直線じゃありませんからね。すごいです。

その3も楽しみにしています。

投稿: こころん | 2017年12月24日 (日) 17時42分

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