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2017年11月 9日 (木)

旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(前編)

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 マイブックスにも載せましたが、しばらく前に「ホントに歩く東海道第12集(桑名~庄野)」を入手し、これを見ながら、近くの東海道を歩いてみようと思っていました。先日、「朝日町歴史散歩」に出かけましたが(10月5日;朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼)、それは実は、この東海道ウォークの試しという意味合いもありました。桑名市安永辺りから、四日市市富田まで歩いてきましたが、長くなりますので、今日は、その前編ということで、桑名市安永から、朝日町柿までのお話。
Img_0017c_2 桑名駅前のバス乗り場まで歩き、8時50分発の「ヨナハ総合病院」行きに乗Img_0030c_2 り、城南口で下車(約10分、210円)。ここは、町屋川(員弁川)にかかる町屋橋(国道1号線)のやや北。右の写真は、現在の町屋橋です。旧・東海道の町屋橋は、この少し上流側に、寛永12(1635)年にはじめて架橋されています。安永立場と、縄生(なお)村との間です。安永立場では、今も名物となっている「安永餅」が売られていたといいます(現在は、この辺りでは売るところはありません)。
Img_0046c_2 町屋橋を渡り、朝日町縄生へ。町屋橋の少し上流のところから、旧・東海道Img_0047c_2 が続きます。左の写真で、町屋川越しに見えるのが、桑名市街地。この交差点を左(南)へと進みます(右の写真)。
Img_0051c_2 橋本川を越えるとじきに、金光寺(こんこうじ)が右手(西)にあります。金光寺は、寛政年間(1789~1800)に類焼し、3年後に現在地に再建されたものの、明治3(1870)年、当時の住職・浄海(じょうかい)を最後に無住となり、この小さな本堂のみが残されています。ご本尊は、十一面観音菩薩。
Img_0058c_2 金光寺の隣には、桔梗山真光寺(しんこうじ)があります。浄土真宗本願Img_0060c_2 寺派。大同2(807)年、最澄が天台精舎として創建。興国元(1340)年に本願寺第三世覚如上人の教化を受けて浄土真宗に改宗しています。
Img_0064c_2 ここ真光寺には、松平家の定紋である梅鉢紋入りの大手水鉢があります。これは、桑名藩7代藩主・松平定重公が、万治3(1660)年に寄進した ものです。先代藩主の定良公が、有馬温泉での湯治から帰藩途中に病死したのですが、町屋川の洪水で、川留めになり、真光寺がその遺骸を3日間安置し、供養したことへの返礼で拝領したものです。
Img_0076c_2 さらに進みますと、水谷たばこ店の店先に山口誓子の句碑があります。Img_0073c_2 この句碑には山口誓子の筆跡で、「露けさよ 祷りの指を 唇に触れ 誓子」と刻まれているのだそうですが、判読はかなり難しいです。「俳句のくに 三重」の説明によれば、「外に出て露けき中でお祈りをした。合掌し、その手を唇に近づけたので指の先が唇に触れた。私はその指先を感じながら祈りを続けた」ということです。昭和25(1950)年10月建立。誓子は、昭和16(1941)年、伊勢富田(四日市市富田)に移り、療養したといいますから、その頃の句でしょうか(未確認です)。
Img_0078c_2 山口誓子句碑のすぐ先に、縄生の「一里塚跡」の石碑があります。ここは、桑名の七里の渡や、西富田の庚申橋から、それぞれちょうど一里のところ。伊勢国には、12カ所に一里塚がもうけられたといいます。この石碑は、平成13(2001)年に、東海道宿場・伝馬制度制定400周年記念事業で作られたもの。
Img_0084c_2 近鉄名古屋線・伊勢朝日駅近くに「安達本家酒造」があります。実は、今Img_0085c_2 日のウォーキングでもっとも楽しみにしていたことが、ここにあるのです。右の写真のように、自動販売機で、ここが造っている地酒を買えるというのを聞いていたのです。「富士の光」という純米大吟醸酒が有名。
Img_0086c ところが、大変なことが起こりました! 写真にあるように、「免許証を入れて」、「販売可」となったら、お金を入れて購入という段取りなのですが、何度やっても、「販売不可」。20歳以上とは認識されなかったのでしょうか(苦笑)。はたまた機械の不調? あいにく、どなたもいらっしゃらなかったので、泣く泣く諦めて、歩き続けました。
Img_0095c 近鉄・伊勢朝日駅のすぐ前には、あの(!?)東芝三重工場があります。この三重工場では、電動機、変圧器、インバータ、車載用ジェネレータなどの開発・製造を行っているようです。地図を見ると、その敷地の広さには驚きます。
Img_0096c 伊勢朝日駅近くには、踏切を渡った左に、ポケットパークがあり、樹齢Img_0113c 300年のエノキが残っています。東海道を往き来した人々を見てきたのでしょう。
Img_0098c 焼蛤といえば、「その手は桑名の……」という言葉もあって、有名ですが、この辺り(縄生村、小向(おぶけ)村)でも、焼蛤を名物として商う茶屋があったといいます。火鉢に松かさを燃やして蛤を焼いて売っていたといいます。
Img_0115c 朝日町役場や、朝日町資料館に入っていくところには、小向神社の標柱や、案内板が立っています。ここから、JR朝日駅の東辺りは、10月5日に歩いたところです(朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼)。東海道沿いにも、橘守部生誕地跡、浄泉坊、西光寺などがありますが、今日は割愛。10月5日の記事をご覧ください。
Img_0128c 小向神社の標柱から800mほど行ったところ(柳屋酒店)Img_0130c で、東海道は大きく左折。「東海道はこちらでござる」という手作りの標識があったりして、うれしくなります。ここらは、昔の柿(かき)村。
Img_0138c 柳屋の先ではまた、大きく右へ曲がっています。明治の地図では、このImg_0140c 辺り、東海道の両側は水田だったようです。「ホントに歩く東海道」の解説には、「当時は民家は一軒もなかった。郷土資料「大矢知地区幕末・明治生まれの実話」には、「追い剥ぎ、辻切り、乞食」の出没する寂し い道だったとある」と書かれています。柳屋から300mほど行ったところに「豊田一色」の小さな道標が立っています。豊田一色は、川越町の地名。ここから南東側にあります。
Img_0145c 豊田一色の道標の先には、桜並木が続いています。その昔は、松並木だったのだろうと思います。ここまで来ると、伊勢湾岸自動車道や、北勢バイパスの高架が見えてきます。右手(西)には、鈴鹿の山並みがよく見えますが、江戸時代などは、上にも引用したように、さみしいところだったと思われます。
Img_0156c 高速道路、バイパスの高架橋をくぐる手前、柿交差点脇に、多賀大社常夜灯が立っています。弘化3(1846)年に、滋賀県の多賀大社から勘定して祀られた神社(現在は、井後(いじり)神社に合祀)の神殿前に建てられていたものといいます。元々は、東海道沿いにあったものでしたが、昭和46 (1971)年に街道から30m西の現在地に移転されています。「お多賀さんの灯籠」と親しまれ、かつては燈籠番が毎夜、火を灯していたといいます。
Img_0167c 伊勢湾岸自動車道の手前にある柿交差点。左右に横切っているのが、旧・東海道。この辺りまでが、朝日町。右手に進むと、伊勢湾岸自動車道と、北勢バイパスの高架をくぐって、朝明川にかかる朝明橋を渡ると、四日市市松寺。
Kyutoukaidou1c 今日歩いたコースの前半部分は、これら2枚の画像の通り。左の画像Kyutoukaidou2c で、町屋橋南詰交差点から北に入ったところから、旧・東海道を歩いています。今日の記事は、右の画像で、伊勢湾岸自動車道・北勢バイパス側にある「柿交差点」のところまで。この先、四日市市内になります。バスを降りてから、富田までは、6.1㎞を歩いていますが、桑名駅までの往復でプラス2.2㎞。トータル8㎞以上歩きました。

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