JRさわやかウォーキング

2020年2月26日 (水)

ウメジロウ、河津桜にダブルメジロ、豊後梅……【付記(2/26)近鉄ハイキングもJRさわやかウォーキングも3月中旬まで中止!】

Img_4052c  朝のテレビの天気予報によれば、高気圧と低気圧の入れ替わりのスピードが速いので、天気がめまぐるしく変わるのだそうです。今日は、昨日から一転、上天気で、風はあるものの、暖かい日になりました。新型コロナウィルスも気になりますが、それとは別に体調管理に気を遣わなければなりません。今日は、9時から、いつもお世話になっているS理容院さんで散髪。その後、10時前から九華公園から貝塚公園、入江葭町、吉津屋町、京町、寺町商店街と5.6㎞。11時20分まで。さすがに10時を過ぎてしまっては、鳥たちはいません。

Img_3991c  まずは、中橋のゴイサギコロニー。南北両側から見た結果、今日はゴイサギ10羽、ホシゴイ1羽を確認しました。常に10羽以上Img_8623c_20200226164601 がここに集まっているのは確実と思われます。鎮国守国神社の社務所裏には、このところゴイサギたちはほとんどいません。先頃の観察では、社務所裏のゴイサギもここ、中橋のコロニーに来ていると考えられます。

Img_3998c_20200226164501  九華公園のカモ、今日は、46羽。ハシビロガモのオス5羽、メス1羽、ホシハジロのオス1羽とキンクロハジロ。このところほぼ同じメンバーで、ヒドリガモは来なくなりました。ユリカモメは、ゼロ。

Img_4002c  公園内を歩き回っても、スズメ、ドバト、カラス(すでに巣作りを始めており、去年、雛に関わってカラスの攻撃を受けた管理人さんは、ビビっておられます)、キジバト、カワラヒワくらい。写真を撮れたのは、ツグミ1羽。奥平屋敷跡にて。野球場でも見ましたが、かなり遠い。外周遊歩道ではジョウビタキのオスがいましたが、逆光で黒い写真(苦笑)。

Img_8646c_20200226164601  公園の堀では、ミドリガメの姿が散見されます。管理事務所近くのスロープが壊れてなくなってしまいましたので、甲羅干しをするところが少なくなり、大変そうです。

Img_4028c  貝塚公園は、今日は何種類かの鳥が見られました。こういうことがありますから、散歩コースから外せません。公園の北門を入ってすぐ、モズの鳴き声が響いていました。モズがいたのは、公園の西側エリアの高い木の上。他にもカワラヒワ、シジュウカラがいました。

Img_8692c  また、今日は、貝塚公園でウメジロウ。貝塚公園には白梅の木が何本かあります。4羽ほどImg_8783c_20200226164601 のメジロがやって来て、チョコチョコ動きながら、蜜を吸っていました。近くに寄っても平気で蜜を吸っています。例によって「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」方式で撮ったのですが、なかなか難しい(苦笑)。

Img_4030c_20200226164501  寺町商店街の河津桜、今年は、場所によってor木によって咲き具合が違い、満開の木もあり、7分咲きくらImg_8848c_20200226164601 いの木もありです。左の写真は、もっとも南の端のところ。今年は、こちらがもっとも早くから咲いていました(例年は、北側の寺町交差点に近い方が早いのですが)。

Img_8815c  河津桜にメジロが見られないかと思ったのですが、これもなかなか難しい。左の写真のようImg_4037c_20200226164501 に、「河津桜にダブルメジロ」が撮れたものの、ピントが甘い(苦笑)。引き続き精進します。ヒヨドリもけっこうやって来ています。嘴の周りが黄色くなっていますが、これは花粉。メジロも、よく見ると、嘴の周りが黄色くなっているのですが、今日の写真ではわかりにくいかも知れません。

Img_8842c_20200226170701  ところで、寺町で河津桜とメジロを撮っていたら、見知らぬ女性から声をかけられました。先方の連れの方が、「なに~、知り合い?」といっておられたのですが、伺ったら、近鉄ハイキングで何度もご一緒したということでした(苦笑)。私の方は、失礼ながら全く記憶なし。私がよほど目立っていたのか、あまりにもいい男で気になったのか(爆)? 「この間は中止になって残念でしたね」などと話し、また、ハイキングで出会ったら声を掛け合うことにしました。思わぬところで、知人というか、あるものです。

Img_4015c  オマケは、豊後梅。鎮国守国神社の境内にあります(鎮国稲荷の一の鳥居の南)。数年前、神社の大奥様が「豊後梅だ」と教えてくださったもの。それ以来、気にして見ています。

Jrwalking Kintetsuhiking 【付記(2/26)】 先ほど(20時過ぎ)確認したら、近鉄ハイキングも、JRさわやかウォーキングも3月中旬まで中止という告知が出ていました。「ガーン」であります。昨今の新型コロナウィルスをめぐる状況からはやむを得ない判断とは思いますが、残念。2月29日のJRさわやかウォーキングは、関から亀山のコース。関宿は昔の町並みが残っていますので、一度行ってみかったのです。3月7日の近鉄ハイキングは、養老の玉泉堂酒造を訪ね、「美濃菊」を飲めるという企画でした。どちらも、楽しみにしていたのですがねぇ。

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2020年2月 6日 (木)

20200202JRさわやかウォーキング「~新春キャンペーン~令和2年2月2日に、津の真ん中ウォーク 藤堂高虎ゆかりの地と日本三観音『津観音寺』を訪ねて」へ(補遺編)……比佐豆知神社と四天王寺

20200201jrwalkingtsu  2月2日に行ってきたJRさわやかウォーキング「~新春キャンペーン~令和2年2月2日に、津の真ん中ウォーク 藤堂高虎ゆかりの地と日本三観音『津観音寺』を訪ねて」の「補遺編」です。この日のコースは、過去に訪れたところがほとんどでした。初めて行ったのは、比佐豆知(ひさずち)神社のみ。そこで、今回は、比佐豆知神社で見たものと、四天王寺で前回見忘れたところを中心に「補遺編」として書くことにしました。

20200202jrwalkingtsu1 20200202jrwalkingtsu2  比佐豆知神社は津市鳥居町、津駅からは徒歩で15分足らず、四天王寺は津市栄町1丁目にあり、津駅から徒歩10分。いずれも津駅に近いところにあります。左は、実測ルートマップその1、右はその2です。その1のマップの下(南)にその2が続きます。

Img_0471c  まずは、比佐豆知神社。予告編と重複するところもありますが、ご了承ください。社宝の高麗狛犬に記されてある年号によると、およそ1,300年前から現在の地に祀られているといいます(これは、社頭にあった由緒書きによっていますが、「高麗狛犬」という表現は意味不明。「こまいぬ」は、「狛犬」と書くのが多いのですが、「高麗犬」と書くこともあります)。延喜式内社。藤堂家からは、代々御供米等が寄附され、毎年の大祭には、藩主を始め領内の人民多数の篤い崇敬があったそうです。

Img_0488c_20200202175401  主祭神は、火之迦具土神(火の神)。相殿神は、伊邪那美命天照大御神建御名方神品陀和気命菅原道真宇迦之御魂命大山祇命建速須佐之男命天之菩卑能命(アマノホヒノミコト;天照大神の子)、天津日子根命活津日子根命天之忍穂耳命多紀理毘売命多岐都比売命市寸島比売命。実にたくさんの神様がいらっしゃいます。明治の神社合祀令によってたくさんの神社がここに合祀されたためかも知れません。三重県下では、このとき県内の神社全体の9割が廃されたといいます。ずいぶん乱暴なことをしたものだという気がします。

Img_0484c Img_0483c_20200202190901  比佐豆知神社にはいろいろ興味深いものがありました。まずは狛犬。由緒書きにあった「高麗狛犬」はこれを指すのだろうと思います。なかなか珍しい狛犬。狛犬ファンの間では、その髪型から「クレオパトラ狛犬」といわれるようです。こちらのサイトによれば、神殿狛犬のレプリカのようです。本物はかなり古いもので、本殿の奥に保存されているそうです。

Img_0490c_20200205063701  拝殿には、祀られている神様の一覧が、それぞれどのような神様でいらっしゃるかの説明と共に掲げられていました。そこには、境内社の説明もありましたし、また、Img_0492c その下には御由緒もあり、これは神社好きにはありがたい。

Img_0496c_20200205080401 Img_0498c_20200205080401  拝殿内にはこちらの書も掲げられていました。「稲荷山下……」は読めましたが、あとは気力が続かず(苦笑)。しかし、大丈夫。傍らにきちんと説明がありました。これは、あの斎藤拙堂に関わるものでした。斎藤拙堂(寛政9(1797)~慶応元(1865)年)は、江戸時代後期の儒者。文政3(1820)年、津藩校有造館の学職となり、郡奉行などを経て、弘化元(1844)年、藩校督学になっています。歴史・文章に秀でた人。

 ちなみに、文章は「稲荷山下新居を卜(ぼく)す/新主は吾たり旧主は狐/吾れ豈(あ)に墩(とん)を争わんや王介甫と/半山(はんざん)は汝に属し 半山は吾れたり」。その意味は、「稲荷山の麓に新しい家を建てた。新しい主人は私だが、旧主人は狐さんだ。私はこの小高い丘のことで争った王介甫とおなじようなことはしませんよ。半分は狐さんのものであり、半分は私のものだから」。

Img_0511c  斎藤拙堂がここに住んだことについて、境内にもそれに関わるものがあります。この写真は、「拙堂先生山荘遺址」という石碑。「江戸末期津藩儒拙堂 斎藤正謙 晩年別墅茶麿山荘を神社西隣に設く 其の学識詩文一世を風靡し四方の人士来訪する者殆ど虚日無しと云ふ/平成廿八年八月/玄孫斎藤正和識并書」とあります。

Img_0526c Img_0513c  また、上記の詩文にも「稲荷山」とありますが、そのお稲荷さんもここにあります。傍らに立つ説明板には、「茶麿山上・弧王の祠」というタイトルで、「江戸後期の儒学者・斎藤拙堂(1797~1865)が晩年を過ごした茶麿山荘での詩の中に詠われている稲荷社がここに有ります」と書かれ、上掲の詩文がその続きとともに載っています。斎藤拙堂は、慶応元(1865)年に69才で没しましたが、このあと訪ねた四天王寺に葬られています(2019年9月10日:20190907近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅7日目~伊勢街道、旅人気分で津のまちから垂水へ」(その1)……津駅をスタートし、四天王寺へ)。また、この日先に行ってきた津偕楽公園には、「拙堂斎藤先生碑」があります(20190519近鉄ハイキング「谷川士清旧宅と県立美術館・総合博物館春の専修寺を訪ねて」へ(その2)……津偕楽公園と、三重県立美術館「没後200年記念 増山雪斎展」)拙堂の詳しい業績、門人については、ここに説明がありますが、門人にも優秀な人物が多かったようです。

Img_0504c  その他の境内社。まずは「祖先の社(みおやのやしろ)」。これは、氏子崇敬者の神徒や、比佐豆知神社にとくに信仰の篤いImg_0524c 方の御霊を祀ってあります。毎月24日の命日祭の他、春分の日、秋分の日に慰霊祭が執り行われるとありました。右の写真は、山の神。8柱が集められていました。

Img_0526c  こちらは、「白龍大明神」。商売繁盛、子育て、子授け、縁結びの神だそうです。松下幸之助が松下電器の守護神として祀っていたという話があります。龍神様ですから、水の神様かと思ったのですが、龍神様にもいろいろといらっしゃるようです(こちら)。

Img_0476c  そして、ここ比佐豆知神社の隣には、三重県神社庁がありました。役所のような名前ですが、役所ではありません。三重県内の神社を統括する団体。三重県には、神社庁傘下の神社は815社あるそうです。

Img_0662c Img_0671c_20200202195101  続いて、四天王寺。ここは、9月7日の近鉄ハイキングお伊勢さん参りハイキングで訪ねました(2019年9月 7日:20190907近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅7日目~伊勢街道、旅人気分で津のまちから垂水へ」(予告編))。このときにほとんど見て回ったと思ったのですが、しっかり見ていないところもありました。

Img_0679c_20200206072601  まずは鐘楼。前回は、裏から見ただけできちんと写真を撮らなかったのです。昭和20(1945)年の戦災で焼け残ったのが、Img_0682c この鐘楼の他に総門、中雀門です。鐘楼に向かって右手前には石碑があり、「史跡 地蔵堂跡/平景清鎧掛松/定行書」とありました。碑の裏には何も説明がありません。ネット検索では十分な情報が得られませんでしたが、「平景清鎧掛松」については、「津市案内記」(津市役所発行)と「津市郷土読本」(津市教育会)には、「四天王寺の七不思議として、『血天井・景清鎧掛松・亀の甲の三尊像・蛇の鱗・薬師堂の瓦・風呂神・生佛』がある」とされているようです(こちら)。景清は、平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため俗に平景清と呼ばれますが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏(伊藤氏)で、伊藤景清ともいいます。「悪七兵衛」(あくしちびょうえ)の異名を持つほど勇猛であったそうです。平景清については、あちこちに伝説が残り(こちらを参照)、桑名市志知にも「景清屋敷跡」があります。

Img_0673  山門に向かって右手には、お堂が2つありました。左の写真は山門すぐ脇にある地蔵堂。こちらのサイトによれば、これは「目洗地Img_8354c_20200206115301 蔵」というとありますが、前回来たときに撮影してきた、本堂前の境内図では、目洗地蔵は本堂に向かって左手にあるとされており、この場所には「四天王稲荷」が描かれています。ただし、この境内図もいつ描かれたものかは不明です。

Img_0676  もう一つのお堂。中をきちんと確認してこなかったのですが、写真を拡大してみる限り、地蔵堂のように思えます。けっこう大きなお寺で、いろいろ見るところもありましたので、きちんとすべてを確認するにはゆっくりと回ってくる必要がありました。やはり下調べは重要なのですが、ネット検索や、一般的なガイドブック、案内書(三重県内については、「三重県の歴史散歩(山川出版)」などを参考にします)では、細かいことまでは分かりません。地元の自治体、教育委員会などが発行する資料を見れば良いのですが、そこまで徹底するのは大変。今は、あちこちで「案内人」の方がいて、説明してくださいますので、そういう方に伺うのがよいかも知れません。

 ということで、調べが十分行き渡りませんでしたが、2月2日のJRさわやかウォーキング「~新春キャンペーン~令和2年2月2日に、津の真ん中ウォーク 藤堂高虎ゆかりの地と日本三観音『津観音寺』を訪ねて」の補遺編を終えます。

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2020年2月 5日 (水)

20200201JRさわやかウォーキング「加納城下町と節分の巨大赤鬼が立ち並ぶ中山道をぶらり散策」へ(その2)……加納宿本陣跡・和宮歌碑、玉性院、加納天満宮、繊維問屋街を経て丸窓電車を見て「完」

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 2月1日のJRさわやかウォーキング「加納城下町と節分の巨大赤鬼が立ち並ぶ中山道をぶらり散策」の本編、その2です。その1では、加納城跡を見てから、国道157号線に出ました。その途中、「屋敷神」と思われる、小さな祠がありました。実測ルートマップはその3。加納宿本陣跡・和宮歌碑に立ち寄り、玉性院、加納天満宮にお参りして、再び中山道をしばらく行きますが、その途中には目的地はありません。JR岐阜駅の西あたりで右折し、中山道から離れ、JR東海道線の高架をくぐって駅の北側へ。

Img_0265c_20200201173101  加納城跡の次に指定された目的地は、玉性院でしたが、予習の結果、この手前に加納宿本陣跡・和宮歌碑があることが分かって いましたので、寄り道。民家の玄関先にひっそりと立っています。石碑正面には、「中山道加納宿本陣跡」とあります。慶長6(1601)年に徳川家康の命により岐阜城が廃城となり、代わりに加納城が築城され、宿場は城下町としての役割も兼ね発展しました。しかし、豊臣家が滅ぼされてからは、西国に向けた守りという意義は低下し、宿場町として栄えたといいます。

Img_0266c Img_0268c_20200204165701  石碑の左面には「皇女和宮御仮泊所跡」とあります。ここに加納宿の本陣があり、皇女和宮も宿泊されたということです。和宮(弘化3(1846)~明治10(1877)年)は、仁孝天皇第8皇女、孝明天皇の妹。嘉永4 (1851) 年、有栖川宮熾仁親王と婚約したのですが、ペリー来航、日米修好通商条約の調印、安政の大獄、桜田門外の変と尊王攘夷運動が激しくなる中、公武合体論が台頭し、第14代将軍家茂に降嫁することとなり、文久元 (1861) 年10月20日、京都桂御所を出発。江戸に向けて中山道を下る途中、10月26日に加納本陣の松波藤右衛門宅(この地)に宿泊されたのです。奥にある歌碑には、そのとき読まれた歌が、和宮の直筆で刻まれています。「遠ざかる 都としれば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり」とあり、和宮の心情が偲ばれます。歌碑は、平成14(2002)年6月、中山道加納宿文化保存会が建立。

Img_0274c  この先には、脇本陣跡、問屋場跡もあったのですが、それらはパスして、コースマップに指定されたルートに戻りました。本Img_0282c 陣跡・和宮歌碑があった通りの1本先で左折し、東光山玉性院(とうこうざんぎょくしょういん)へ。ここで約3㎞、10時25分。かなり速いペース。。玉性院は、真言宗醍醐派の寺。慶長年間(1604~14年)創建と伝わる寺院。毎年節分に「節分つり込み祭り」が開催され、多くの人でにぎわうそうです。ご本尊は、不動明王庚申青面金剛秋葉三尺坊大権現弘法大師聖天

Img_0278c_20200204171501  「節分つり込み祭」は、赤鬼にふんした厄男を神輿に、おかめにふんした厄女を御所車に乗せ町内を練り歩いた後、本堂に担ぎ込み、おはらいをして無病息災を祈る行事。クライマックスは赤鬼が担ぎ手の中に飛び込み、もみくちゃにされながら本堂につり込まれるのだそうです。街中にも大きな鬼があちこちに出現するのも節分の時期の岐阜の名物になっているといいます。その1に載せた、清水緑地での写真の1枚にも、大きな赤鬼が写っていました。

Img_0353c_20200201182501  玉性院の隣が加納天満宮。文安2(1445)年、斎藤利永が加納の東南に沓井城(旧加納城)を築き、その守Img_0304c 護神として天満宮を勧請しました。記録によれば創始はさらに古く、それより100余年以前からすでに吉田郷(広江川の北方、上加納の地)に祭祀されていたといいます。その後、城主・斎藤道三稲葉山城に移り沓井城は廃城となったのですが、天満宮は住民たちによって厚く奉斎されました。慶長5(1600)年の関ケ原戦後、徳川家康は、岐阜城(旧稲葉山城)を廃し、加納城を構築し、その際に天満宮が城廓内に入ったため、新しい加納城鎮護の神として、慶長6(1601)年、これを広江川(清水川)を背にした閑静な現在地に遷座しました。これが加納天満宮の起源です。加納城初代城主奥平信昌、正室亀姫をはじめ住人たちの信仰は厚く、現代にまで受けつがれています。御祭神は、菅原道真公。

Img_0317c  神社の公式サイトには、摂社・末社については詳しい説明がありませんが、拝殿の北東に福寿稲荷と津島神Img_0319c_20200204172501 社がありました。これらの他、神社のサイトにあった、摂社・末社は次の通り:

 

  • 八幡神社(祭神:応神天皇、慶長13(1608)年、奥平信昌の正室亀姫により勧請、明治42(1909)年、水野町より合祀)
  • 春日神社(祭神:天児屋根命(あめのこやねのみこと)、沓井町より合祀)
  • 出雲神社(祭神:大国主命、天保4(1833)年、永井肥前守尚佐が加納城に勧請、明治42(1909)年に合祀)
  • 神明神社(祭神:天照大御神
  • 市神神社(祭神:大市姫命(おおいちひめのみこと);市神
  • 白太夫神社(祭神:渡会晴彦(春彦?):伊勢神宮の神職。白太夫ともいい、道真の死をみとったという伝承がある)
  • 福寿稲荷神社(祭神:宇賀御魂神
  • 御鍬神社(祭神:豊受大神
  • 津島神社(祭神:素佐之男尊
  • 事代主神社(祭神:事代主命(ことしろぬしのみこと))
  • 老松神社(祭神:島田忠臣:娘の宣来子(のぶきこ)が道真の妻となった)
  • 紅梅神社(祭神:五十川能福(詳細は不明))

Img_0323c_20200204172501  さらに、以前、「神社はワンダーランド」と書いたことがありますが、ここ加納天満宮にもいろいろな石碑、記念碑がありました。まずは、「明治卅七八年戦役祈念碑」。これは、日露戦争戦勝を記念したもの。碑表には、「明治卅七八年戰役 紀念碑/希典書」と、また、碑陰には「當役第三軍司令官/陸軍大将乃木希典君表書/明治四十年紀元節日建之 加納尚武會」とあります。あの乃木希典が書いたものを刻んでいるということ。

Img_0329c  その隣には、「殉国慰霊碑」。碑表には、「殉国慰霊碑/靖国神社宮司 筑波藤麿」とありImg_0331c ます。碑陰には、建立の趣旨が刻まれていました。日清戦役~大東亜戰争に至る英霊の功績を顕彰するため、昭和34(1969)年5月に加納殉國慰霊碑建設委員が建てたとあります。この慰霊碑には600余柱の戦没者が合祀されているそうです。さらにその南には、「村澤源市翁像」。村澤源市は元加納町長で、この加納天満宮の戦災復興に功績があり、有志により昭和29(1954)年10月に建立されたもの。

Img_0334c_20200204172501  さらにこれは面白いと思いましたし、最初は何の碑かよく分かりませんでした。「傘祖彰徳碑(さんそしょうとくひ)」。加納は、和傘の生産が盛んでしたが、加納に和傘を興した元祖である加納藩主松平丹波守光重頌徳の碑です。松平光重が、寛永16(1639)年、播州明石から加納城主となった時に傘職人を連れて来て傘の製造に従事させたのが始まりといいます。昭和37(1962)年11月の建立。加納傘の伝統は今も受け継がれ、近年は美術品として海外へ輸出もされています。

Img_0339c  このほか、筆塚、扇塚などもあります。筆塚は、廃筆を焼き、灰を埋めて筆霊をまつるもので、昭和60(1985)年11月建Img_0341c 立。これは天満宮であるからなのでしょう。4月に筆塚祭りが行われます。塚の前に筆を納めるところもありました。扇塚は、日本舞踊の女性らが扇を納めて舞踊の上達を祈るもので、昭和39(1964)年4月建立。加納天満宮のサイトには、花柳素和という名前がありました。詳細は不明でしたが、日本舞踊の花柳流と関連があるのでしょう。このほか、「岐阜県ボーイスカウト運動発祥の地」の石碑もありました。

Img_0359c  加納天満宮から南西に100mほど行くと、また中山道に出ます。ここからは700mほど中山道を歩いて行きます。ここにもImg_0361c_20200204193801 「屋敷神」らしき祠。謎は十分には解明し切れてはいませんが、ネット検索では限界があります。地元の文献を入手すればもう少し分かるのでしょうが、それには自ずと限界があります。

Img_0366c  加納天満宮から県道187号線を渡った西側で、秋葉神社。御祭神は、軻遇突智神。ただし、社頭には、由緒書きなどは何もなく、私もそのまま通り過ぎましたので、詳細は不明。加納宿の街中でしょうから、火難除けに勧請されたものかという気がします。このあと、中山道を加納本町9丁目まで進みます。ここで右折するのですが、この近くに「加納宿西番所跡」があるはずでしたが、しかし、見つけられず。もう少し先にあったのかも知れません。

Img_0370c  加納本町の8丁目と9丁目の境で、右折し、JR岐阜駅西のJR東海道線の高架橋を潜ります。この先はあまり見るところはないのですが、繊維問屋街を通りました。20代前半の頃、母親が「背広を買いに行こう」といって、岐阜まで来たことがありました。あの当時、この地方で繊維問屋街があり、それなりにリーズナブルな価格でスーツが買えるといえば、名古屋の長者町繊維街か、ここ岐阜の繊維問屋街だったと思います。まだ今のように「スーツ」といういい方はしていませんでした。名鉄で当時の「新岐阜駅(現在は名鉄岐阜駅)」まで来て、少しだけ歩いて「繊維問屋街」というところに行ったと思います。もう詳しいことは覚えていませんが、このあたりだったのかも知れません。今は、シャッターが閉まっているところがかなりあり、寂れてきてしまっています。このあとは、JR岐阜駅の北側の飲食店街などを通ったのですが、このあたりは、県道54号線をバスで通るくらいで、土地勘がありません。

Img_0406c_20200205045001  JR岐阜駅の北側に来ました。丸窓電車を見るのですがその前に、私としては、ここに来たら必ず見なければならないものがあります。そうです、金ピカの織田信長像です(微笑)。この金ピカ像は、岐阜市制120周年を記念し、平成21(2009)年9月26日に市民の寄附によりJR岐阜駅北口前広場に建立されました。台座までの高さは約8m、像の高さは約3mで金箔3層張りとなっており、マントを羽織り、右手に種子島(鉄砲)、左手には西洋兜を持っています。

Img_0404c_20200201193601 Img_0401c  そして、芝生広場にある丸窓電車。戸袋窓が楕円形状、いわゆる「丸窓」であったことが特徴で、「丸窓電車」の愛称で親しまれました。正面の形が半円筒型で、5枚窓となった半流線型車体でなかなかカッコイイと思います。去年12月22日に東海地区K-ABC研究会で岐阜大学に来たときにバス停から見つけました(2019年12月22日:冬至の今日は、岐阜で研修会の講師……織田信長公金ピカ像を見て、鶏ちゃん炒めランチを堪能し、肝心の研修はいかに?)。「モ513」という形式で、かつて、旧名鉄岐阜市内線(平成17(2005)年4月に全線廃止)を路面電車で走っていた車両です(名鉄資料館の「廃止から10年・岐阜の電車(平成27年 春季特別展)」も参照)。昨年(令和元(2019)年)11月16日に岐阜市金町の金公園からここに移設されました(こちらの岐阜新聞のサイトをご覧ください)。この電車は、大正15(1926)年に製造されており、楕円形の窓が特徴で、このため「丸窓電車」と呼ばれます。平成17(25005)年の廃線まで約80年活躍していました。平成31(2019)年3月に岐阜市の重要文化財に指定されています。

Img_0398c_20200201193601 Img_0396c  車内も見学できましたので、せっかくの機会ですから見てきました。左は運転席。かなり狭いのです。運転士用の座席はあるものの小さなものでした。右は車内の様子。オリジナルではロングシートでしたが、昭和42(1967)年に岐阜市内線と揖斐線との直通運転が開始されるに当たり転換式のクロスシートになっています。このとき他にもいくつかの改造が施されました。

Img_0408c_20200205051501  これでこの日の目的地はコンプリート。すぐ目の前にあるJR岐阜駅のゴールに向かいます。ゴール受付は駅Img_0409c のコンコースに設けられていました。ゴールに着いたのは、11時25分。歩いたのは、5.7㎞。スタートしたのが、9時35分でしたから、1時間50分歩いたのみ。「もう着いた、早かったな」というのが実感。

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 恒例のゴール看板&完歩記念パネルの撮影も忘れずにしてきました。JRさわやかウォーキンImg_0432c_20200201195101 グのスタンプは、4個目をゲット。前年より速いペースで、いい感じです。

Dscn2462c  11時半ですから少し早いものの、昼食を摂って帰ることにしました。昨年12月22日に岐阜Img_0418c 大学に来たときに行った「赤い鳥」(左の写真、ただし、昨年12月22日の撮影)を覗いたら、「飛騨牛コロッケランチ」がありましたので、これをチョイス(税別¥800)。

Img_0426c_20200201195101  帰りは、岐阜駅を11時53分に出る豊橋行きの新快速に乗車し、名古屋駅に12時13分着。関西線は、12時37分に快速みえがありましたので、それに乗り換え。桑名には、12時57分着。行きと同じく、名古屋駅で途中下車して、合計¥820。歩数は、15,344歩でしたが、帰宅したときに写真を撮り忘れ、この歩数には帰ってから動いた分も含まれています。

 

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2020年2月 4日 (火)

20200201JRさわやかウォーキング「加納城下町と節分の巨大赤鬼が立ち並ぶ中山道をぶらり散策」へ(その1)……清水緑地、高札場跡、加納城大手門跡、加納城跡と「屋敷神」

20200201jrwalkinggifu  2月1日に行ってきたJRさわやかウォーキング「加納城下町と節分の巨大赤鬼が立ち並ぶ中山道をぶらり散策」のその1です。この日、桑名では最高気温9.7℃でしたが、風は最大7.1m/sとかなり強く、風に当たると結構寒く感じる日でした。歩いた岐阜も似た感じで、手袋を填めたり、外したりしていました。加納は岐阜市内ですから、これでウォーキング/ハイキングもめでたく岐阜初進出!となりました。今回参加したのは、「城下町」というのと、「中山道」というところに興味を引かれたからです。街道には興味がありますが、中山道にとくに惹かれた次第。ちなみに、岐阜は、最近でこそ年に1~2回、東海地区K-ABC研究会で岐阜大学へ行きますが、町にはあまり馴染みはありません。20代の頃に2~3回来たくらい。畏友・M氏と同行二人。

Img_0179c  この日の受付は、JR岐阜駅で8時半から11時。桑名駅を8時25分に出る名古屋行き普通に乗車。名古屋には8時56分に到着。東海道線に乗り変えます。9時4分発岐阜行き普通電車に乗車し、岐阜駅着が9時32分。料金は¥350+¥470で、計¥820。「プラス」としているのは、名古屋駅でいったん改札を出て、すぐにまた入場したのです。通しでで支払うと、¥920ですから、片道で¥100お得。生活の知恵(微笑)。

200201jrwalkgifu0  コースマップは冒頭に示したとおり。岐阜駅南口から清水緑地、加納城跡、玉性院、加納天満宮、芝生広場で丸窓電車を見て、岐阜駅北口にゴール。コースマップ上約6㎞とありましたが、実際に歩いたのは、5.7㎞。9時35分過ぎにスタートして、11時25分にはゴールと、2時間足らず。「家族向き」とありましたから、これくらいなのでしょうが、普段散歩している距離よりもやや短めでしたし、立ち寄るところも多くなく、ちょっともの足らない感じでした。

200201jrwalkgifu1  こちらは、詳しい実測ルートマップその1。岐阜大学に行くときは、北口にあるバスターミナルからバスに乗りますので、南口は、初めて降り立ちました。中央南口を出て最初の目的地は、駅からすぐの清水緑地。清水川沿いに歩いて、高札場跡。そこで右折して南へ。岐阜大学付属小中学校の手前に加納城大手門跡があります。マップには、加納城跡から戻ってくるルートもありますが、それはまたあとで。

Img_0187c  この日、コースマップは、改札口を出たところで配られていましたが、いつもの「スタート看板」がどこにあるか分からず、Img_0192c_20200204063401 確認しないまま過ぎてしまいました。ちょっと失敗。岐阜駅の出口から150mほどのところから清水緑地があります。ブラブラ歩きながら、季節を感じられるビオトープになっています。清水川に沿っていて、桜並木もあります。ホタルやカワニナ等が生息できる池やせせらぎもあり、ホタルも楽しめるようです。照明や、護岸のつくり方も環境に配慮されています。野鳥も観られるとありましたし、かわざかなもいろいろいるということです。駅の近くにこういう緑地があるのは羨ましい。ネットで調べたところ、カワセミもいるということが書いてありましたが、今日はハクセキレイやヒヨドリだけ。

Img_0194c  左は、清水緑地で駅の方を振り返って見た写真。本当に駅の目の前でした。途中、国道157号線の橋のところには、今日のタImg_0199c イトル「節分の巨大鬼が立ち並ぶ」にもある、巨大赤鬼です。交通安全に関わる内容が書かれたたすきを掛けていましたこれは、あとから訪ねる玉性院の節分の赤鬼。

Img_0206c  清水川の右岸、左岸を往き来しながら下っていき、スタートから800mほどで中山道に行き当たります。清水川にかかる広井橋のたもとに「高札場跡」。加納藩高札場があったところ。その昔勤めていた病院の職員旅行で馬篭宿などに行きましたので、「初中山道」ではありませんが、あの頃は「旧街道」などほとんど意識していませんでしたから、気分的には、初めてという感じ。写真奥からこちらに来る道が中山道。

Img_0204c_20200201165601  ここは加納城大手門の北で、「宿御高札場(やどごこうさつば)」と呼ばれ、加納藩の高札場の中でももっとも大きく、石積の上に高さ約3.5m、幅6.5m、横2.2mもあるものだったといいます。正徳元(1711)年に「親子兄弟の礼」が掲げられて以来、明治に至るまで使われていました。この高札場跡で右折し、加納城跡を目指し、少しだけ中山道を歩きます。

Img_0212c  高札場跡から100mほどで加納大手町の交差点に来ます。ここに加納城大手門跡という石碑が建っていました。昭和62(1987)年3月に建立されたもの。 門前は、かつては広小路と呼ばれていました。今は、民家が並んでいます。このすぐ西に大正時代に建てられた旧加納町役場があったのですが、老朽化が進み、平成28(2016)年に取り壊されています。ネットで調べていて、見たいと思ったのですが、すでに遅し。

200201jrwalkgifu2  ここから実測ルートマップは、その2。加納城大手門跡を過ぎ、岐阜大学教育学部付属小中学校や、岐阜市立加納小学校の前を通ります。道の反対側には岐阜聾学校。加納城跡に行き当たりますが、東側をグルッと回って、城跡に入っていきます。城跡を南から北に通り抜け、市街地を抜け国道157号線を北上していきます。

Img_0217c

 岐阜市立加納小学校の正門は、赤門として知られているそうです。観光案内のパンフレットには、ここは日本最古の小学校とありました。明治5(1872)年9月、旧加納藩藩校「文武館」が起源である憲章学校と、加納藩内の寺子屋を起源とする曲成義校が開設されました。憲章学校は士族、曲成義校は平民が入学したといいます。その後、 曲成義校が沓井小学校に、また、憲章学校が加納小学校にそれぞれ改称されたのち、明治28(1895)年に両小学校が合併し、新しい加納小学校となったといいます。憲章学校、曲成義校から数えると、今年で創立148年となります。正門は「赤門」と呼ばれ、岐阜の宝100選の1つになっています。ちなみに、松本氏にある旧開智学校が、日本最古の小学校として有名ですが、こちらの創立は、明治6(1873)年5月。

Img_0221c_20200204154801  スタートから1.3㎞で加納城跡(加納公園)に行き当たります。左の写真が、行き当たったところで、これは本丸北側の石垣Img_0228c でした。野面積みとなっています。加納城跡へは、南側から入るため東側を回っていきます。加納公園東にあるグラウンドの南に「ライオンにまたがった少年」の像がありました。あらかじめあれこれ調べて行きましたので、これがあるというのが分かっていたのですが、さもなければ全く気づかないところでした。これは、奥平家第17代当主奥平昌信氏が、先祖の偉業を偲ぶために昭和30(1955)年10月に寄贈したもの。彫刻の作者は、日展作家・小笠原安兵衛。昭和62(1987)年6月までは、岐阜市長良岐阜県総合運動場に設置されていましたが、同年7月、奥平氏関係地である加納城に移されました。昌信氏が、生前ライオンが好きで、児童に将来への夢を託すというアイディアで小笠原氏に相談を持ちかけたといいます。

Img_0230c  ライオン像の隣には、「加納領牓示石(ぼうじいし)」がありました。「牓示(ぼうじ・ほうじ)」とは領地の境を示した木の杭や石柱のこと。この石柱は、江戸時代に加納藩の領地を示すために建てられたものです。石柱には「従是東、道半分南加納領」と刻まれていますので、加納藩領地の北西部に立っていたと考えられます。関市(旧武儀郡洞戸村)の船戸家に移されていたものが寄贈されました。

Img_0238c  さて、いよいよ加納城跡へ。南の入り口で1.8㎞、時刻は10時5分頃。国指定史跡。慶長5(1600)年、関ケ原の合戦に勝利した徳川家康が、西に備えるための要衝とImg_0244c して、本多忠勝に城を築かせたのが加納城の起源とされます。しかし、それ以前に、この地に上加納城があったという説もあります。城郭は、本丸・二の丸・三の丸・厩曲輪・南曲輪を備え、岐阜城から天守閣を移築するなどして、櫓・城門・居館等を整えたそうです。当時の城としてはかなりの規模の平城で、慶長6(1601)年、奥平信昌が10万石の城主として、この地に封じられました。その後、城主はたびたび交代しましたが、宝暦6(1756)年に永井直陳が入封し、永井氏6代で幕末に至っています。北側の清水川を利用して堀が築かれ、その周囲には侍屋敷が設けられていた。現在は、本丸跡を中心に、加納公園となっています。ここを訪ねたときは、本丸跡の広場でグラウンド・ゴルフが行われていました。ちなみに、奥平信昌の妻は家康の娘・亀姫です。

Img_0260c  このあとは、住宅地を通り抜けて、国道157号線に出て北に向かいます。住宅地や、国道沿いで珍しいものを見つけました。Img_0262c_20200201172601 家の前や角に小さなお社が祀られているのが目立ちました。気づいただけで、合計3個所。「屋敷神」といってよいのかな、と思います。屋敷神は屋敷およびその土地を守護する神で、屋敷の裏や敷地に付属した土地もしくはやや離れた山林などに祀られます。家との関わりが深い神であるが、神棚ように屋内には祀られません。屋敷神を祀る信仰は、浄土真宗の地域を除いて全国に分布しているといいますが、岐阜のこのあたりでもそうなのかは不明。屋敷神の起源について、明確なことは分かっていないようですが、農耕神・祖先神と同一の起源を持つ神だといわれています。

 名古屋でも、昔の面影が残る町には、民家の屋根に設けられた小さな祠(ほこら)があり、これは「屋根神」あるいは「屋根神様」などと呼ばれます。「軒の神様」、単に「神様」などと呼ばれることもあり、場合によっては軒下や台の上などで祀られているものもあります。まつられる。屋根神は明治初期から始まり、昭和初期に広まったと考えられています。津島神社、熱田神宮、秋葉神社の三社が祀ってあることが多く、屋根神は住居が密集した下町で祀られています。秋葉神社は火難除けで、また、津島神社は疫病を防ぐ天王信仰で有名ですから、火難や疫病除けの信仰に熱田神宮の信仰も加わった神様として屋根神様は祀られたと考えられています。となると、岐阜の加納で見つけた「屋敷神」とは性質は異なるとおもいます。

 ここで区切りが良いので、その1はここまで。その2は、加納宿本陣跡・和宮歌碑から。

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2020年2月 2日 (日)

20200202JRさわやかウォーキング「~新春キャンペーン~令和2年2月2日に、津の真ん中ウォーク 藤堂高虎ゆかりの地と日本三観音『津観音寺』を訪ねて」へ(予告編)

20200201jrwalkingtsu  予定通り、連日のJRさわやかウォーキングへ行ってきました(微笑)。今日は、「~新春キャンペーン~令和2年2月2日に、津200202jrwalk の真ん中ウォーク 藤堂高虎ゆかりの地と日本三観音『津観音寺』を訪ねて」であります。昨日の記事の最後に、冗談のように「チラシに『ツゥ、ツゥ、ツゥの日にツゥの真ん中ウォーク』とカナが振ってありますと書きましたが、本当なのです。右の拡大した画像でご確認ください(ちなみに、三重県北中部の人たちは、「津」を「つぅ」と発音するのです)。コースは、津駅東口をスタートし、津偕楽公園、比佐豆知(ひさずち)神社、お城公園(津城跡)、高山(こうざん)神社、観音橋、大門商店街、津観音寺、四天王寺を経て津駅に戻るという、マップ上約7.2㎞でした。今日は、「津のまん中ウォーク」イベントと共催で、スタンプラリーも行われました。ただ、スタンプラリーは高山神社、岡本総本店(家具店)、松菱百貨店、津センターパレスと津観音寺にスタンプがあるのですが、粗品と引き替えるには、松菱百貨店前まで戻らねばならず、1㎞以上余分に歩けました(苦笑)。歩きに行ったのですから、文句をいっては罰が当たります。

Img_0448c  受付・スタートは、JR紀勢線・津駅東口。JRさわやかウォーキングなのですが、今日は近鉄で往復(微笑)。JRで行くなら、Img_0444c 快速みえを利用すると40分弱なのですが、運賃が何と¥940。座席指定をとるとさらに¥530。JRの普通電車で行くとなると、関西線・亀山駅経由になり、乗り換えも含めると、1時間45分ほどかかります(亀山駅での待ち時間が40分以上!)。しかも、¥990。近鉄の急行であれば、40分、¥700。これはもう近鉄で行くしかありません(爆)。という次第で、桑名駅を8時42分に発車する松阪行き急行に乗車。津には、9時25分に到着。電車は空いていて楽チン。

20200202jrwalkingtsu  こちらが、今日、実際に歩いたルートマップ。「津のまん中ウォーク」というだけあって、津駅を出て南のエリアを一回りします。津市内の観光スポットを一通り回った感じです。津偕楽公園からお城公園の辺りは、まさに中心街。官公庁や、銀行、NHKなどが集まっているところです。9時35分にスタートして、津駅に戻ってきたのは、12時40分頃。途中、一度コースミスをしでかしそうになったり、スタンプラリーの商品引き替えに1㎞以上余分に歩いたりで、結局、9.7㎞を歩きました。津市の今日歩いたあたりは、去年4月28日の近鉄ハイキング「『阿漕』砂浜ハイキングと津グルメ散策」、同じく5月19日の近鉄ハイキング「谷川士清旧宅と県立美術館・総合博物館春の専修寺を訪ねて」、9月7日の近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅7日目~伊勢街道、旅人気分で津のまちから垂水へ」と3回、さらに、一昨年4月23日に「勝手に近鉄ハイキング」と称して行ったときにも歩いています(またもや勝手に近鉄ハイキング(笑)……本日は、名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園などなど(予告編))。今日も、昨日同様、畏友・M氏と二人旅。2日続けていいおっさんが一緒に行動するのは、気持ち悪いという話もありますが、旅は道連れ世は情け(?)。初めて訪ねたのは、比佐豆知神社のみでした。過去に行ったところは、適宜省略して書いて行きます。

Img_0457c  最初の目的地は、津偕楽公園。昔は「御山荘(ごさんそう)」、または「御山荘山」といい、津藩第11代藩主・藤堂高猷(とうどうたかゆき)公が、安政年間(1854~60)に別荘を設けたのが始まり。それ以前は、津藩主の鷹狩り場でした。偕楽Img_0459c_20200202174401 園の名は高猷公の俳号からきています。明治23(1890)年に津市の公園となり、約5.5haの園内は、自然の丘陵や谷の趣が生かされ、春には桜や紫つつじ、秋には紅葉などが楽しめるところです。春は、花見の名所。ここで指定されたコースは、SL広場のみ。D51の499号が静態保存されています。昭和16(1941)年2月に兵庫県で誕生し、三重県内の関西線、紀勢線、参宮線を走り続け、昭和48(1973)年9月に引退しています。その間走った距離は、205万㎞にも及ぶそうです。SLの前に展示されているのは、本物のナンバープレート。

Img_0466c_20200202174901  津偕楽公園では、このほかには、去年5月19日の近鉄ハイキング「谷川士清旧宅と県立美術館・総合博物館春の専修寺を訪ねて」の時に見落とした「龍燈籠」だけを見てきました。龍燈籠は、龍の形をした燈籠で、頭上に火袋と獣口のついた笠石をのせ、身をよじっています。藤堂高虎公が朝鮮から持ち帰ったとも、二代藩主・高次公が江戸でつくらせたものを移したともいわれるそうです。これで津偕楽公園にある記念碑、常夜燈の類いは、コンプリート。

Img_0471c  偕楽公園を出て、県道118号線を南東へ。三重県庁の西を通り、鳥居町で左折。比佐豆知(ひさずち)神社に向かいます。社宝の高麗狛犬に記されてある年号によると、およそ1,300年前から現在の地に祀られているといいます(これは、社頭にあった由緒書きによっていますが、「高麗狛犬」という表現は意味不明。「こまいぬ」は、「狛犬」と書くのが多いのですが、「高麗犬」と書くこともあります)。延喜式内社。藤堂家からは、代々御供米等が寄附され、毎年の大祭には、藩主を始め領内の人民多数の篤い崇敬があったそうです。

Img_0488c_20200202175401  主祭神は、火之迦具土神(火の神)。相殿神は、伊邪那美命天照大御神建御名方神品陀和気命菅原道真宇迦之御魂命大山祇命建速須佐之男命天之菩卑能命(アマノホヒノミコト;天照大神の子)、天津日子根命活津日子根命天之忍穂耳命多紀理毘売命多岐都比売命市寸島比売命。実にたくさんの神様がいらっしゃいます。明治の神社合祀令によってたくさんの神社がここに合祀されたためかも知れません。三重県下では、このとき県内の神社全体の9割が廃されたといいます。

Img_0484c  比佐豆知神社にはこのほかいろいろ興味深いものがありましたが、取り敢えずは狛犬。由緒書きにあった「高麗Img_0483c_20200202190901 狛犬」はこれを指すのだろうと思います。なかなか珍しい狛犬。狛犬ファンの間では、髪型から「クレオパトラ狛」といわれるようです。こちらのサイトによれば、神殿狛犬のレプリカのようです。本物はかなり古いもので、本殿の奥に保存されているそうです。

Img_0538c_20200202191301  比佐豆知神社を出て、JR紀勢線・近鉄名古屋線の線路を越え、安濃川を渡ります。渡った橋が「御山荘橋Img_0539c_20200202191301 (ごさんそうばし)」。津偕楽公園の古い呼び名に因んだもののようです。御山荘橋を渡ったところに「榎之下公園」がありました。珍しい名前だと思ったら、昔、安濃川の堤防に榎の大樹が茂っていたことによるのだそうです。

Img_0567c_20200202191701  お城公園。津城跡です。スタートから3㎞を過ぎています。10時30分頃到着。堀端で「安濃津ガイド会」のImg_0579c 女性が、名調子で津城の歴史を語ってくれましたので、思わず引き込まれ10分あまり拝聴(微笑)。講談師のようで、まさに見てきたようなお話(真面目に誉めています)。津城は、もともと織田信長の弟・信包(のぶかね)によって築城されました。天正8(1580)年には五層の天守閣も完成していたのですが、関ヶ原の戦いのとき、西軍の攻撃を受け、戦火に遭い城内の建造物の大半を焼失。その後、慶長13(1608)年、藤堂高虎公が伊予今治から移り、城を大改修するとともに、城下町を整備しました。現在は、丑寅櫓が再建されています(左の写真)。

Img_0583c  お城公園の隣にあるのが、高山(こうざん)神社。藩祖・藤堂高虎公を御祭神とします。高虎公の諡である「高山居士」に由来します。もともとは、本丸跡にあったそうです。従来、津藩主藤堂家において藩祖藤堂高虎公の霊を津城内に奉斎していたものを、明治維新の後、神社創建の議が起り、明治10(1877)年8月、現在の津偕楽公園内に神祠を建立。明治34(1901)年12月、現在地に仮遷座。正式にここに移られたのは、明治36(1903)年4月。

Img_0586c  ここ高山神社でスタンプラリーの最初のスタンプ。ここを含め、5個所のポイントでスタンプを順番に押していくと、「絵はがき」ができあがるという趣向。

Img_0595c_20200202193101  高山神社から西隣にある津市役所、リージョンプラザ・お城ホールの前を通って、津新町通り商店街へ。岡Img_0598c 本総本店の前で2個目のスタンプを押して、岩田川を昭和橋で渡ります。この先には三重刑務所がありますが、橋を渡って左折。岩田川の右岸を歩いて、岩田橋の南をまっすぐ進み(左の写真)、観音橋へ。観音橋を渡って(右の写真)、松菱百貨店前へ。ここでスタンプ3個目。休憩所ということでお茶をいただき、アンケートに回答。

Img_0608c_20200202193301  三重会館前交差点に立つ津リージョンプラザで3個目のスタンプ(写真正面の建物)。リージョンプラザ前では、来年行われる三重とこわか国体・とこわか大会のPRをしていました。実はこのスタッフの方に、3個目のスタンプがどこで押せるかを聞いたのですが、そのImg_0611c_20200202193301 ときに「本日限定のバッチ」ということで、缶バッチを1ついただきました。こういう限定品、しかも、今日の「20200202」という日付が入っているのは貴重。

Img_0614c_20200202193301  大門商店街(左の写真)。かつてあったアーケードが撤去されて、イメージ一新。明るくなっています。閉店している店Img_0621c もかなりありますから、これくらい明るい方がイメージがよいと思います。大門商店街の北の端には、津観音寺が見えています。正式には、恵日山観音寺大宝院、真言宗醍醐派のお寺。ご本尊は聖観音菩薩。浅草観音、大須観音と並んで日本三大観音の一つとされます。これまでに2回来ています(右の写真)。

Img_0630c  ここが5つめのスタンプをいただけるところ。どこで押せるかよく分からなかったのですが、本堂にありましImg_0643c_20200202193401 た。御朱印をいただく方の列の向こうにあり、よく見えなかったのです。最近は、こういうウォーキング/ハイキングでも、御朱印をもらう方が多数います。右の写真のようにスタンプラリーはコンプリート。しかし、ここでなく、松菱百貨店の前まで戻らないと、粗品に引き替えてもらえません(苦笑)。

Img_0648c_20200202194401  そこでやむなく、往復1㎞以上を余分に歩いて行ってきました。いただけたのは、左の写真の通り、ポケットティッシュ1袋と、缶バッチ、飴1個でした。粗品といえばそうなのですが、こういうものがいただけるのはありがたい。と思うのは、年をとった証拠かと、Mさんと二人で大笑い。

Img_0651c_20200202194401 Hachimituman  ウォーキングコースは、大門商店街から平治煎餅本店の方を通って国道23号線に出るようになっていましたが、松菱百貨店前から直進。津センターパレス隣の都シティ津というホテルの北で、蜂蜜まん本舗に立ち寄りました。ここの名物「蜂蜜まんじゅう」を買うため。蜂蜜まん本舗は、養蜂業の傍ら昭和28(1953)年に創業しました。蜂蜜まんの人気が高まるとともに、昭和40(1965)年ごろには養蜂業をやめ、蜂蜜まんの製造・販売1本に絞りました。以来、津を代表する菓子として愛されています。我が家でも皆の好物。ということで、10個入りを土産に購入。今日は、JRさわやかウォーキングのコースマップを呈示すると、通常¥600のところ、¥500にしてもらえました。これは絶品。近くにいらしたら、試してみてください。

Img_0662c Img_0671c_20200202195101  最後の目的地は、四天王寺。安濃川を塔世橋で渡ります。ここには、去年9月7日の近鉄ハイキングできています。「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅7日目~伊勢街道、旅人気分で津のまちから垂水へ」がそれ。正式には、塔世山四天王寺。曹洞宗の中本山。津市で最も古い寺。推古天皇の勅願により、聖徳太子が建立したと伝えられています。正確な創建の年代は定かではありませんが、平安初期と考えられています。

Img_0687c_20200202195501  さてこれですべて回りましたので、あとは津駅にゴールするのみ。国道23号線に戻り、北上。「津駅入り口」交差点を左折Img_0690c_20200202195501 すると、津駅の駅ビルが見えてきます。12時40分にゴール。ゴール受付で、スタンプカードに押印してもらいます。スタンプは5個目。去年11月末から会員資格を更新していますが、今までにはないハイペース。今日は、先着1,500名に「新春キャンペーン」の一環として企画された「絵馬型駅名バッチ」がもらえました。しかし、今日は、ゴール受付の写真を撮るのを忘れるという失態を犯してしまいました。

Img_0696c  時間が時間ですから、食事をして帰ろうということになり、津駅ビルのChumへ。2階にレストラン街があります。JRさわやかウォーキング/津まん中ウォークの参加者でどの店も賑わっています。結局、去年9月1日の近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅6日目~伊勢街道、旅人気分で河芸から潮風薫る江戸橋へ」の時にも昼食を摂った「美濃味匠」へ(20190901近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅6日目~伊勢街道、旅人気分で河芸から潮風薫る江戸橋へ」(予告編))。今日は、「きまぐれ総菜弁当(¥648)」をチョイス。イートインしてきました。味噌汁がサービスでつくのがありがたい。

Img_0702c  昼食を摂って、近鉄のホームへ。13時18分の急行名古屋行きに乗車。桑名には14時3分着。¥700。左の写真は、今日のALKOOのデータ。歩数は、20,464歩。歩いたのは、JRさわやかウォーキングで9.7㎞、自宅~桑名駅往復が1.8㎞ですから、合計11.5㎞。

 今回は予告編としましたが、すでに訪ねたところが多いので、本編とするか、「補遺編」とするか思案中。

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2020年2月 1日 (土)

20200201JRさわやかウォーキング「加納城下町と節分の巨大赤鬼が立ち並ぶ中山道をぶらり散策」へ(予告編)

20200201jrwalkinggifu  桑名では最高気温9.7℃でしたが、風は最大7.1m/sとかなり強く、風に当たると結構寒く感じる日でした。予定通り、JRさわやかウォーキング「加納城下町と節分の巨大赤鬼が立ち並ぶ中山道をぶらり散策」に参加してきました。加納は、岐阜市内ですから、ウォーキング/ハイキングもめでたく岐阜初進出!となります。

Img_0179c  今日の受付は、JR岐阜駅で8時半から11時。桑名駅を8時25分に出る名古屋行き普通に乗車。名古屋には8時56分に到着。東海道線に乗り変えます。9時4分発岐阜行き普通電車に乗車し、岐阜駅着が9時32分。料金は¥350+¥470で、計¥820。名古屋駅でいったん改札を出て、すぐにまた入場したのです。通しでで支払うと、¥920。生活の知恵(微笑)。畏友・M氏と同行二人。

200201jrwalkgifu0  コースマップは冒頭に示したとおり。岐阜駅南口から清水緑地、加納城跡、玉性院、加納天満宮、芝生広場で丸窓電車を見て、岐阜駅北口にゴール。コースマップ上約6㎞とありましたが、実際に歩いたのは、5.7㎞。9時35分過ぎにスタートして、11時25分にはゴールと、2時間足らず。「家族向き」とありましたから、これくらいなのでしょうが、ちょっともの足らない感じでした。今日のところは、予告編。

Img_0187c  清水緑地。JR岐阜駅南口からすぐのところにあります。ブラブラ歩きながら、季節を感じられるビオトープになっています。清Img_0199c 水川に沿っていて、桜並木もあります。ホタルやカワニナ等が生息できる池やせせらぎもあり、ホタルも楽しめるようです。証明や、護岸のつくり方も環境に配慮されています。野鳥も観られるとありましたが、今日はハクセキレイやヒヨドリだけ。途中、国道157号線の橋のところには、今日のタイトルにもあるよう巨大赤鬼がいました。これは、あとから訪ねる玉性院の節分の赤鬼。

Img_0204c_20200201165601 Img_0206c  清水緑地から清水川沿いを650mほど歩いたところで中山道に行き当たります。中山道に出たところに高札場跡があります。加納藩高札場があったところ。ここは加納城大手門の北で、宿御高札場(やどごこうさつば)と呼ばれ、加納藩の高札場の中でももっとも大きく、石積の上に高さ約3.5m、幅6.5m、横2.2mもあるものだったといいます。高札場跡で右折し、加納城跡を目指し、少しだけ中山道を歩きます。

Img_0212c  高札場跡から100mほどで加納大手町の交差点に来ます。ここに加納城大手門跡という石碑が建っていました。昭和62(1987)年3月に建立されたもの。 門前は、かつては広小路と呼ばれていました。今は、民家が並んでいます。このすぐ西に大正時代に建てられた旧加納町役場があったのですが、老朽化が進み、平成28(2016)年に取り壊されています。

Img_0217c  岐阜大学教育学部付属小中学校の前を過ぎると、岐阜市立加納小学校があります。観光案内のパンフレットには、日本最古の小学校とありました。明治5(1872)年9月、旧加納藩藩校「文武館」が起源である憲章学校と、加納藩内の寺子屋を起源とする曲成義校が開設されました。憲章学校は士族、曲成義校は平民が入学したといいます。その後、 曲成義校が沓井小学校に、また、憲章学校が加納小学校にそれぞれ改称されたのち、明治28(1895)年に両小学校が合併し、新しい加納小学校となったといいます。憲章学校、曲成義校から数えると、今年で創立148年となります。正門は「赤門」と呼ばれ、岐阜の宝100選の1つになっています。ちなみに、松本氏にある旧開智学校が、日本最古の小学校として有名ですが、こちらの創立は、明治6(1873)年5月。

Img_0221c_20200201171801  加納小学校のすぐ南に加納城跡があります。国指定史跡。慶長5(1600)年、関ケ原の合戦に勝利した徳川家康が、西に備えImg_0244c るための要衝として、本多忠勝に城を築かせたのが加納城の起源とされます。しかし、それ以前に、この地に上加納城があったという説もあります。城郭は、本丸・二の丸・三の丸・厩曲輪・南曲輪を備え、岐阜城から天守閣を移築するなどして、櫓・城門・居館等を整えたそうです。当時の城としてはかなりの規模の平城で、慶長6(1601)年、奥平信昌が10万石の城主として、この地に封じられました。その後、城主はたびたび交代したが、宝暦6(1756)年に永井直陳が入封し、永井氏6代で幕末に至っています。北側の清水川を利用して堀が築かれ、その周囲には侍屋敷が設けられていた。現在は、本丸跡を中心に、加納公園となっています。ここを訪ねたときは、本丸跡の広場でグラウンド・ゴルフが行われていました。ちなみに、奥平信昌の妻は家康の娘・亀姫です。

Img_0260c  加納城跡へは、城の東側を回って南から本丸跡に入り、北に抜けています。ここから国道157号線にでたのですが、このあたImg_0262c_20200201172601 りには、家の前や角に小さなお社が祀られているのが目立ちました。気づいただけで、合計3個所。「屋敷神」といってよいのかな、と思いますが、もう少し調べた方が良さそうです。

Img_0265c_20200201173101 Img_0266c  コースマップにはありませんでしたが、加納桜道に本陣跡・和宮歌碑があるというので、立ち寄って来ました。民家の玄関先にひっそりと立っています。石碑正面には、「中山道加納宿本陣跡」と、左面には「皇女和宮御仮泊所跡」とあります。ここに加納宿の本陣があり、皇女和宮も宿泊したということです。奥にある歌碑には、和宮の直筆で「遠ざかる 都としれば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりけり」と刻まれています。

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 スタートから3㎞、10時25分に東光山玉性院(とうこうざんぎょくしょういん)。真言宗Img_0282c 醍醐派の寺。慶長年間(1604~14年)創建と伝わる寺院。毎年節分に「節分つり込み祭り」が開催され、多くの人でにぎわうそうです。街中にも大きな鬼があちこちに出現するのも節分の時期の岐阜の名物になっているといいます。ご本尊は、不動明王庚申青面金剛秋葉三尺坊大権現弘法大師聖天。「節分つり込み祭」は、赤鬼にふんした厄男を神輿に、おかめにふんした厄女を御所車に乗せ町内を練り歩いた後、本堂に担ぎ込み、おはらいをして無病息災を祈る行事。クライマックスは赤鬼が担ぎ手の中に飛び込み、もみくちゃにされながら本堂につり込まれます。

Img_0353c_20200201182501  玉性院のすぐ東隣に加納天満宮があります。文安2(1445)年、斎藤利永が加納の東南に沓井城(旧加納城)を築き、そのImg_0304c 守護神として天満宮を勧請しました。記録によれば創始は更に古く、それより100余年以前からすでに吉田郷(広江川の北方、上加納の地)に祭祀されていたといいます。その後、城主・斎藤道三稲葉山城に移り沓井城は廃城となったのですが、天満宮は住民たちによって厚く奉斎されました。慶長5(1600)年の関ケ原戦後、徳川家康は、岐阜城(旧稲葉山城)を廃し、加納城を構築し、その際に天満宮が城廓内に入ったため、新しい加納城鎮護の神として、慶長6(1601)年、これを広江川(清水川)を背にした閑静な現在地に遷座しました。これが加納天満宮の起源です。加納城初代城主奥平信昌、正室亀姫をはじめ住人たちの信仰は厚く、現代にまで受けつがれています。御祭神は、菅原道真公

Img_0359c  加納天満宮を出て1本南の通りに出ます。ここが再び中山道。街道に興味がありますので、このJRさわやかウォーキングも、「中山道」ということばに反応して(というより、反射?)参加を決めたのです。三省堂発行の「日本の街道ハンドブック」なる本も買ったくらい(苦笑)。ただし、今日は中山道は、さほどの距離は歩いていません。加納本町まで歩いて右折し、JR東海道線の高架をくぐって、駅の北側のエリアに進みます。

Img_0370c  この先はあまり見るところはないのですが、繊維問屋街を通りました。20代前半の頃、母親が「背広を買いに行こう」といって、岐阜まで来たことがありました。あの当時は、まだ今のように「スーツ」といういい方はしていませんでした。名鉄で当時の「新岐阜駅(現在は名鉄岐阜駅)」まで来て、少しだけ歩いて「繊維問屋街」というところに行ったと思います。もう詳しいことは覚えていませんが、このあたりだったのかも知れません。今は、シャッターが閉まっているところがかなりあり、寂れてきてしまっています。

Img_0404c_20200201193601 Img_0401c  JR岐阜駅前まで戻って来ました。芝生広場に丸窓電車があります。12月下旬に東海地区K-ABC研究会で岐阜大学に来たときにバス停から眺めました(2019年12月22日:冬至の今日は、岐阜で研修会の講師……織田信長公金ピカ像を見て、鶏ちゃん炒めランチを堪能し、肝心の研修はいかに?)。「モ513」という形式で、かつて、岐阜市内を路面電車で走っていた車両です。昨年(令和元(2019)年)11月16日に岐阜市金町の金公園からここに移設されました(こちらの岐阜新聞のサイトをご覧ください)。この電車は、大正15(1926)年に製造されており、楕円形の窓が特徴で、このため「丸窓電車」と呼ばれます。平成17(25005)年の廃線まで約80年活躍していました。

Img_0398c_20200201193601  車内も見学できましたので、せっかくの機会ですから見てきました。左は運転席。かなり狭いのです。右は車内の様子。転換Img_0396c 式のクロスシートになっていますから、座席はオリジナルではなさそうです。

Img_0406c_20200201194401  そして、JR岐阜駅前といえば、私的には、これを見逃せません(微笑)。織田信長公の金ピカ像。ここ数年、岐阜に行くたびにこの信長公の金ピカ像の写真を撮って、ブログに載せています。「お気に入り」というのでもないのですが、駅を降りてバス停に向かうとき、正面にあってとにかく目立つので、気になるのです(苦笑)。

Img_0409c  ゴールに着いたのは、11時25分。歩いたのは、5.7㎞。「もう着いた、早かったな」というのが実感。今日Img_0412c のゴールは駅ビルの中、コンコースにありました。今日のコースは、短くて、立ち寄り先も多くはなく、道草もほとんどできませんでした。

Img_0418c  昼食は、駅ビルのASTY岐阜にあるレストラン街へ。12月22日にここの「赤い鳥」という焼き肉店で「鶏(けい)ちゃん炒めランチ」を食べました。今日は、ここのランチが「飛騨牛コロッケ」。飛騨牛は食べたことがありませんでしたので、同じ店ではあったものの、これを食べることに(税別¥800)。

Img_0426c_20200201195101 Img_0432c_20200201195101  帰りは、岐阜駅を11時53分に出る豊橋行きの新快速に乗車し、名古屋駅に12時13分着。関西線は、12時37分に快速みえがありましたので、それに乗り換え。桑名には、12時57分着。行きと同じく、名古屋駅で途中下車して、合計¥820。歩数は、15,344歩でしたが、写真を撮り忘れていて、これには帰宅してから動いた分も含まれています。JRさわやかウォーキングのスタンプは4個目。本編は、また明後日以降少しずつ書いて行きます。

 明日は、津でのJRさわやかウォーキングへ行くつもり。「~新春キャンペーン~令和2年2月2日に、津の真ん中ウォーク 藤堂高虎ゆかりの地と日本三観音「津観音寺」を訪ねて」です。JRさわやかウォーキングですが、往復は近鉄の予定(苦笑)。このウォーキング、チラシに「ツゥ、ツゥ、ツゥの日にツゥの真ん中ウォーク」とカナが振ってあります。

 

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2020年1月17日 (金)

20200111JRさわやかウォーキング「あいち・なごや生物多様性EXPOと宮の渡し跡から熱田神宮」(その4)……秋葉山円通寺でゴール、オプションコースの熱田神宮に参拝し、宝物館で日本書紀展を見る(完)

200111jrwalkingsannou3  1月11日のJRさわやかウォーキング「あいち・なごや生物多様性EXPOと宮の渡し跡から熱田神宮」のその4です。その3では、宮の渡し跡を堪能しました(微笑)。宮の渡し跡を出たのが、11時40分頃。このあとは、内田橋北交差点を渡って、伝馬町に出て、ゴールの秋葉山円通寺を目指します。ここでいったんゴール受付をしたあと、熱田神宮は、オプションコースとなっています。

Img_7553c  円通寺の南側にゴール受付が設けられていましたので、お参りする前に、ゴール受付を済ませます。まずは、JRさわやかウォーImg_7561c キングのゴール受付。11時52分に到着。ここまでで6.7㎞でした。けっこう賑わっています。歩く距離がさほど長くはありませんでしたので、差がつかなかったのでしょう。スタンプは、これで3個目。順調です。

Img_7558c  いつもの完歩パネルも撮影。デザインは同じで、ゴールの場所と、日付が異なるだけなのですが、これを撮影しないと、JRさわやかウォーキングを歩き通したという気にならないのです(微笑)。

Img_7564c  さらにこの日は、その1にも書きましたように、名鉄のハイキングとの共同開催でした。途中Img_7566c でラッキーナンバーが印字されたカードをもらいましたが(その2参照)、その結果は、名鉄のハイキングの受付でということなのです。こちらは、JRさわやかウォーキングの受付以上の大混雑。結局、抽選では、「円通寺賞」ということで、ハッキリ言えば、ハズレ(苦笑)。「ともしび 秋葉総本山 熱田秋葉山 神佛用マッチ」がもらえました。また、名鉄のハイキングの完歩券もいただいてきました。JRさわやかウォーキングや近鉄ハイキングと同じく、集めた枚数に応じて賞品やバッジがもらえるようです。

Img_7642c  秋葉山のマッチ。火防(ひぶせ)の神様ですから、「守護 鎮防火燭 熱田秋葉山」とあります。一人暮らしをしている家内の母に進呈することにします。

Img_7568c  2つのゴール受付を済ませて、秋葉山円通寺(あきはさんえんつうじ)の境内へ。曹洞宗の寺院。山号は補陀山(ほださん)ですが、秋葉山、羽休山ともいうようです。ご本尊は釈迦如来。熱田の両参り「熱田さま」「秋葉さま」として親しまれているといいます。秋葉大権現は、火の神様。「火防守護」その他七難を除き、除災開運・家内安全・授福繁栄の神様だそうです。お寺なのに神様?? お堂が二つある!?など、今ひとつよく分かりませんでした。

Img_7580c_20200111185001  始まりは尾張国の豪族であった尾張氏が熱田社に神宮寺として建立したものとされます。弘仁年間(810~824年)に当地を訪れた空海がこの地に小宇を築いて、自ら彫った十一面観音像を安置したと伝わっています。宝暦7(1757)年に伽藍の大造営が行われましたが、明治24(1891)年の濃尾地震で全壊。明治40(1907)年に本堂が建て直されるなどしたものの、これらは昭和20(1945)年の名古屋大空襲によって焼失、戦後に再建されました。寺が開かれて多くの修行僧が集まった中に、一人の僧に姿を変えた秋葉三尺坊(あきばさんじゃくぼう)がおり、長年の修行を経て永享年間(1429~1441年)、ついに鎮防火燭の秘法を得たといいます。喜びのあまり本当の姿を見せた三尺坊は寺の守護を誓したと伝わり、これに由来して、秋葉三尺坊大権現や羽休の秋葉などの通称で呼ばれています。

Img_7590c  熱田神宮の神宮寺として建立されたと考えられていますから、神仏習合の1つなのですが、今の感覚からすると不思議なところ。お寺なのですが、神社みたいなところもあって、今ひとつよく分かりません。そこで、秋葉信仰について調べてみると、これは知ってはいましたが、とくに火難よけ(火伏せ)の信仰として全国的に分布しています。関東・中部地方に濃厚といいます。信仰の中心は遠州秋葉山で、各地の秋葉山はここから分祀したものです。秋葉山は、神仏習合に伴い修験(しゅげん)の霊場となりましたが、修験者の三尺坊は、観音の化身で火伏せの法に通じた天狗といわれ、越後国から飛来して秋葉山の鎮守となり、三尺坊大権現と称して、大登山秋葉寺に祀られたといいます。明治初期の神仏分離令で、秋葉神社と改称、独立し、秋葉寺は廃寺となったため三尺坊の像などを可睡斎(かすいさい:静岡県袋井市の寺、秋葉総本堂と称する曹洞宗の専門僧堂、修験道場)に移したのですが、現在も根強く信仰されているそうです。

Img_7591c  不思議な感覚を引きずったまま、熱田神宮へ向かいます。円通寺のすぐ北が熱田神宮。東門から境内へ。鳥居を潜る直前で7Img_7628c_20200111195101 ㎞。1月11日でしたが、まだ初詣客で大賑わい。参道にも「あけましておめでとうございます」の膜が掲げられ、正月気分満載。参道にも露店多数。縁日か、お祭りみたい。正月に神社にこんなに露店が出るなど、桑名などでは考えられません。

Img_7597c_20200116072301  年末に来たとき(20191215近鉄ハイキング「名古屋の繁華街に残る古墳めぐり」(予告編))、ある程度Img_7599c_20200111195101 見て周り、お参りもしたのですが、下調べを全くしなかったこともあって、コンプリートはしていません。この日は、初詣と、宝物館拝観を目的としてきましたので、それはまた別の機会に。まずは、本殿へお参り。当然ながら、ここも大賑わい。年末は拝殿前まで進めたのですが、この日は、拝殿前に特設の賽銭箱ならぬ、何というのでしょう、賽銭投入場。広場に白い布が敷いてあります。この光景、テレビでは見たことがありますが、この目で見るのは初めて。ちなみに、お札は少なかったように思います。

Img_7624c_20200111195101  お参りを済ませ、熱田神宮宝物館へ。校倉風鉄筋コンクリート造の建造物で、昭和41(1966)年12月に開館しています。皇200111 室をはじめ、将軍・藩主・一般の篤志家などから熱田神宮に寄進された資料約6,000点が収蔵されているといいます。国宝・重要文化財・愛知県文化財に指定されたものが177点もあります。また、熱田神宮に草薙神剣を奉斎することから、刀剣類はとくに多く、名刀の宝庫ともいわれています。元旦から1月28日まで「新春特別展 日本書紀の世界-熱田本日本書紀と共に-」という展覧会が開かれていて、これを見てきました。「熱田本日本書紀」は、日本書紀を書き写した書物として熱田神宮が所蔵している、十五巻本です。このすべてが公開されていました。南北朝時代の1377年に寄進されたものです。日本書紀の編纂事業を担った舎人親王の像や、江戸時代などに国学者らが研究した注釈書、日本書紀に出てくる場面を描いた日本画なども並び、展示品は全77点でした。日本画の中には、三重県朝日町出身の栗田真秀のものがあったり、同じく橘守部の書跡も出ていたりしました(これらは、朝日町歴史博物館などで見たことがあります)。

Img_7616c_20200116074201  内部は当然撮影禁止でしたが、玄関ロビーにあった「末乃青江(真柄太刀)(備中)」だけ撮って来ましImg_7626c_20200116181301 た。室町時代(15世紀)のもの。刃長221.5cmm、反り3.4cm、元巾4.5cm、重さ 刀身約4.5㎏という大きな太刀。通常の太刀の刃の長さの約3倍、重さは約5倍もあります。常人には扱えないと思うのですが、元亀元(1570)年6月の姉川合戦で戦死した朝倉側の勇士・真柄十郎左衛門所用と伝わります。真柄は身長が7尺(約210cm)あったといいます。天正4(1576)年8月に春日部熊野庄(春日井市熊野町)の山田甚八郎吉久が奉納したという記録があるそうです。いや、これを振り回せるとはスゴい。

Img_7610c  熱田神宮の神鶏、名古屋コーチンは、正月の人出に疲れたのか、参道脇でお休み中。最初に見たときには、一帯何だ?!と思ったくらい。この日見たのは、この1羽のみ。皆さん、そばによって写真を撮っていくのですが、「我関せず」という感じでした。

Img_7605c  これで熱田神宮での初詣も、宝物館拝観も無事終了。念のため、12月に食べ損ねた、境内にある宮きしめん神宮店を覗いたのでImg_7606c すが、年末に来た時以上の超長蛇の列(苦笑)。初詣期間中ですから、さもありなん。ということで、熱田神宮会館がやっている出店で売っていた宮きしめんを買ってきました。2種類ありましたが、しょうゆ味の三人前、出汁入り、半生を購入。¥1,080。同じところできよめ餅も売っていましたが、この日はパス。熱田神宮には12時10分頃着いて、13時10分まで滞在。

Img_7630c  帰りは、当初の予定通り、名鉄名古屋本線神宮前駅から電車に乗ることにしました。ここまででトータル8.4㎞を歩いてきました。改札口に着いたのは、13時13分。13時15分に新鵜沼行きの快速特急があり、それに乗車。名鉄名古屋駅には13時22分着。¥230。近鉄に乗り換え。13時41分の五十鈴川行き急行で、桑名到着は14時1分、¥450。

Img_7647c_20200111195101  ALKOOのデータ。19,415歩を歩きました。歩いた距離は、JRさわやかウォーキングで8.4㎞、自宅から桑Img_7651c 名駅往復が1.8㎞ですから、合計10.2㎞。新年初のウォーキングとしては、まあまあでしょう。

 

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2020年1月15日 (水)

20200111JRさわやかウォーキング「あいち・なごや生物多様性EXPOと宮の渡し跡から熱田神宮」(その3)……宮の渡し跡へ

200111jrwalkingsannou3  新春最初のJRさわやかウォーキング「あいち・なごや生物多様性EXPOと宮の渡し跡から熱田神宮」の本編その3です。名古屋国際会議場、白鳥公園を過ぎて、いよいよ宮の渡し跡に向かっています。

Img_7402c  白鳥橋の下を潜って、堀川の右岸をさらに南下していきます。白鳥橋は国道1号線が堀川を渡るための橋。写Img_7405c_20200114062201 真、向かって左手が熱田神宮、右は桑名、四日市方面。白鳥橋を潜ると、右手(西側)に愛知時計電機があります。元は、明治時代中期に創業された掛時計メーカー。現在もその系譜を継ぐ社名ですが、実際には、精密計測機器類メーカーになっています。戦前から時計製造による技術・資本蓄積によって派生した機械、電機、化学部門などを擁し、さらには航空機とそのエンジン製造にまで携わった歴史があります。昭和初期には九六式艦上爆撃機九九式艦上爆撃機などを設計、製造しました。

 その愛知時計電機の敷地の東Img_7409c 側、堀川沿いの遊歩道に古い護岸が保存されています。これは、昭和8(1933)年に築造されたImg_7413c_20200114062801 護岸の一部です。この表面には、昭和20(1945)年6月9日の「熱田空襲」の際の爆撃でできたものだそうです。平成4(1992)年から「マイタウン・マイリバー整備事業」で新しい護岸が設置されたときに撤去されたものを保存しています。余談ですが、ここにはお地蔵様があったようですが、このJRさわやかウォーキングの前日から行方不明になったという掲示がありました。お地蔵様を持ち去るような、不心得者がいるのでしょうか。

Img_7422c_20200114063601 Img_7424c_20200114064001  スタートから5.4㎞のところで大瀬子橋を渡り、堀川の左岸側へ行きます。後で調べて分かったのですが、この橋を渡った左手にある大瀬子公園のところには、かつて熱田魚市場があったそうです。天正年間(1573年〜)には既に魚市場があり、織田信長の居城清須に魚介類を運んでいました。また、寛永年間(1624〜)尾張藩政のもとに、木之免、大瀬子に四戸ずつの問屋ができ、市場が開設されていたといいます。藩の保護により、遠国からも魚介が運び込まれ、毎日取引が行なわれました。ウ~ン、やはり予習をして行かないといけません(苦笑)。

Img_7417c  大瀬子橋の上流側の当たりには、ユリカモメや、セグロカモメが浮いていました。今日は、あちこちでバードウォッチングもできて、最高のウォーキングです(微笑)。写真手前はセグロカモメ。奥はユリカモメ。大きさの違いがよく分かります。

Img_7433c   大瀬子橋をわたって左手、マンションに接するように軻遇突智社軻遇突智(カグツチ)は火の神。これもImg_7434c 後から調べて分かったのですが、この一帯には秋葉社・軻遇突智社が合わせて5社あるといいますが、それにしても多い。今日のゴール受付があるのが、秋葉山円通寺。ここは、熱田神宮の神宮寺として建てられたといいます。円通寺から勧請して建てられたのかも知れません。この5社の他にも路地に入っていくと、小さな秋葉社の祠や、屋根神様もあるといいます。

Img_7440c  大瀬子浜公園という小さい公園を過ぎると、市バスのバス停。「七里の渡し」です。宮の渡Img_7442c_20200114072701 し跡はもうすぐそこ。なぜか入り口に冠木門。桑名の七里の渡し跡には、伊勢一の鳥居が立っています(これは、天明年間(1781~1789年)に東海道をまたぐように建てられたといいます)が、「久波奈名所図会」の「船場」の絵を見ても、門はありません。

Img_7453c_20200114180001  宮の渡し跡は、東海道五十三次のうち41番目の宿場である宮宿(みやしゅく、みやじゅく;宮の宿)にあった渡し場。スタートから5.7㎞、11時20分に到着。宮宿は、東海道にある宿場のなかでも最大級の規模でした。42番目の宿場である桑名宿(くわなしゅく、くわなじゅく)に行くには、船で海路を行かねばなりません。その距離が七里であったため「七里の渡し」と呼ばれていました。七里の渡しが始まったのは、元和2(1616)年といいます。満潮時には陸地沿いの航路を辿り、それは約7里(27㎞)でしたが、干潮時には沖を廻らねばならず、この場合は約10里(39㎞)でした。所要時間は、3時間から4時間と推定されています。渡し賃は、正徳元(1711)年の規定では乗合船一人当り45文(1,125円)であったといいます(換算にあたっては、1両=米180㎏=100,000円とみなし、「keisan 生活や実務に役立つ高精度計算サイト」によりました)。宮の渡し跡、今は、「宮の渡し公園」として整備され、時の鐘と、常夜燈が復元されています。

Img_7488c_20200114183401  時の鐘は、延宝4(1676)年に尾張藩2代藩主・徳川光友の命によって作られました。熱田の住民や、東海道をゆく旅人に時Img_7475c_20200114190801 刻を知らせる役目を担いました。江戸時代に使われていた鐘は、今も蔵福寺(熱田区神宮二丁目、浄土宗西山禅林寺派)に保管されています。昭和58年に宮の渡し公園内に復元され、ふたたび近隣住民や訪れた人に時間を知らせています。常夜灯は寛永2(1625)年、藩の家老にして犬山城主である成瀬正房が熱田須賀浦太子堂(聖徳寺(熱田区大瀬子町、浄土宗西山禅林寺派)の隣地に建立したものの、風害で破損。承応3(1654)年からは現在の位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられ、で宮の渡しの安全を見守る役となりました。しかし、寛政3(1791)年、またしても火事で焼失。同年、成瀬正典によって再建されたもののすぐに荒廃。昭和30(1955)年になってやっと当時とほぼ同じ位置に復元されました。

Img_7458c_20200111181001  宮の宿は、松尾芭蕉や、シーボルトにも縁があるということでした。松尾芭蕉は、旅の書紀に熱田をたびたび訪れ、林桐葉(はやしとうよう;熱田に住み、芭蕉の定宿の主人)の計らいで名古屋の門人たちと交流し、七里の渡しから船遊びであゆち潟を楽しみ、「熱田三歌仙」を残しています。説明板には以下の3句が書かれています:

この海に 草鞋捨てん 笠しぐれ(妙安寺石碑)

海暮れて 鴨の声 ほのかに白し(妙安寺石碑五・五・七)

なんとはなしに 何やらゆかし すみれ草(宮中学校石碑)

 シーボルトについては、次のような説明がありました。すなわち、名古屋の本草学者水谷豊文(ほうぶん)、その門下生伊藤圭介(けいすけ)、大河内存真(おおこうちぞんしん)らは、ドイツ人医師シーボルトが、文政9(1826)年2月オランダ使節に随行して江戸へ参府する際と、4月長崎への帰路、宮の宿で会見し、教えを受けたといいます。水谷らは名古屋の医学・植物学の研究に多大な貢献をしています。

Img_7460c  さて、宮の渡し跡から南をみると、このような景色です。すぐに海というイメージがあったのですが、名古屋港ガーデン埠頭Img_7513c あたりまで、4㎞弱ほど堀川の流れが続いているのです。70 0mほど先には、新幹線が通っていますし、さらにその南には名古屋高速や、国道23号線が通っているはず。

Img_7468c  また、ほぼ余談に近いのですが、宮の渡し跡にある桟橋には、ユリカモメがたくさんいましImg_7502c た。船を待っていました、というわけはありませんが(微笑)、ユリカモメが集まっていたのは、事実。宮の渡し跡では、15分かけてあちこち見て回り、海を眺め、堪能してきました。次は、七里の渡しを船で渡ってみたいものです。と思っています。

Img_7540c  上に書きましたように、宮の渡し跡は、今は宮の渡し公園として整備されています。堀川は、宮の渡し跡のところで南に向きImg_7538c を変えます。東南の方角には、新堀川。ただし、新堀川は、中区にある堀留水処理センターを起点として、精進川低地に沿って市内を南流し、南区明治にて堀川へと注いでいます。精進川(しょうじんがわ;昔、熱田神宮の神職が6月の名越の祓の際にこの川でみそぎをしたことからこの名が付けられたといわれます)は、かつて今池辺りを源流として、名古屋台地を流れていましたが、曲がりくねった川筋が洪水の原因ともなっていました。洪水の発生を防ぐとともに、船舶の航行と下水処理水の受け皿とするため、明治43(1910)年に現在の川筋に付け替えられ、新堀川という名称になりました。元の精進川は大正15(1926)年に埋め立てられ、消滅しています。

Img_7446c_20200115050501 Img_7550c_20200115050501  その3では、宮の渡し跡を見て、満足しましたので、ここまで。このあとは、内田橋北交差点を横断歩道橋で越え、伝馬町からゴールの秋葉山円通寺を目指します。その4に続きます。

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2020年1月14日 (火)

20200111JRさわやかウォーキング「あいち・なごや生物多様性EXPOと宮の渡し跡から熱田神宮」(その2)……引き続き堀川沿いを下り、名古屋国際会議場、白鳥公園へ

200111jrwalkingsannou2  その1では、堀川橋梁まで来ました。JR東海道線・中央線、名鉄名古屋本線の3路線が堀川を渡る橋ですが、その橋脚などには明治のものが使われています。堀川橋梁を過ぎた当たりから、実測ルートマップはその2。上部右手にあるのは、金山総合駅(メニューで隠れてしまいました)。このマップその2には、引き続き、堀川沿いを南下し、旗屋橋を渡って名古屋国際会議場までの範囲が含まれます。

Img_7282c_20200113142501  スタートから2.1㎞のところにある尾頭(おとう)橋。「尾頭」という地名は、ここが熱田台地の尾根筋と尾張平野の南部を結ぶ接点で、長い坂道が鵜の首のようであったため、「烏頭(うとう)の里」と呼ばれていたものが、中世初期に「尾頭」に変化したという説があるそうです(諸説あります。こちら)。尾頭橋は、佐屋街道の橋としてかけられました。佐屋街道は寛永11(1634)年、3代将軍徳川家光公が通られた際に本格的に整備された街道で、東海道・七里の渡しを避ける脇往還(いわばバイパス)です。大正期の尾頭橋には、八幡園と呼ばれる花街もあったそうですが、昭和20年代後半から衰退してしまいました。

Img_7287c_20200113144501  こちらは、2.3㎞地点、八熊(やぐま)通にかかる住吉橋。わざわざ通りの名前を書いたのは、この通りは昔のImg_7295c 勤務先近くに通じているからです。珍しい意匠だなと思ったら、昭和12(1937)年のもの。名古屋では珍しいラーメン橋台橋だそうです(ラーメンはドイツ語で、英語ではRigid frame bridgeだそうです)。三連アーチに見える外観はとても美しいと思います。このデザインは、関東大震災後の復興橋梁の標準形式としてよく採用されたといいます。親柱もなかなかよい感じです。

 続いて、瓶屋(かめや)橋。スタートからImg_7299c 2.7㎞のところ。こちらは、かなり新しい感じですが、ネット検索では情報はとくに出て来ません。堀川が開削されたころからあった「堀川七橋(ほりかわななはし)」は、上流から五条橋、中橋、伝馬橋、納屋橋、日置橋、古渡橋、尾頭橋でした。それより下流には橋はなく、今の白鳥橋や大瀬子橋あたりにあった渡し船を利用したといいます。

Img_7305c  名古屋国際会議場が近づいてきました。その手前にある旗屋橋を渡ります。地下鉄西高蔵駅から名古屋国際会議場へ行くにはこの橋を渡ります。珍しい地名ですが、5世紀後半に呉から2人の織女がやってきて、そのうちの1人が熱田神宮に留まったことが起源とされていて、機屋あるいは幡屋から変化したと考えられています。

Img_7311c_20200111175301  この橋のところで、「名鉄のハイキング×さわやかウォーキング 2020.1.11共同開催記念」のカードがImg_7313c_20200111175301 配布されました。裏に番号が記されていて、名鉄のハイキングのゴール受付で抽選会があるのです。「ルート外を歩くと、ナンバーカードを配布できません」という注意書きがコースマップにありました。

Img_7317c  名古屋国際会議場には10時半に到着。スタートからは3.3㎞。ここは、学会や研究会で何度も来ました。前Img_7327c_20200111175601 職の時代には、ここのセンチュリーホールが入学式・卒業式の会場でした。さらにプライベートでは、ポンキッキや、ユーミンなどのコンサートでもたびたび来ています。

Img_7331c_20200111175601  最近は訪れる機会もなく、ちょっと懐かしかったので、中に入ってロビーあたりを一回り。せっかくだからと一休みもしてきました(微笑)。ちなみに、「あいち・なごや生物多様性EXPO」はスルー(苦笑)(当日の午後からイベントが行われ、さかなクンとかが来たようです)。前職の時代、大学の評議員をしていた時期がありました。評議員は、入学式・卒業式には必ず出席し、舞台の上の指定席に着席させられました。決して好き好んでではありません、セレモニーは大嫌いなのです(笑)。あくまでも立場上の役割、義務としてです。その頃は、冗談半分に「いらないことや、居眠りをしないで、おとなしく座っているのが仕事」といっていました。懐かしい思い出(微笑)。

Img_7336c_20200113184501  名古屋国際会議場1号館の南側にスフォルツァ騎馬像があります。スフォルツァ騎馬像は、レオナルド・ダ・ヴィンチが製作に着手したものの、未完成に終わった騎馬像です。製作が中断したため現物は存在しないものの、平成元(1989)年に世界デザイン博覧会での展示を目指して、復元が試みられました。昭和42(1967)年にマドリードで発見された手稿やデッサンを元に全高2メートルの粘土像を製作し、その像をコンピュータで拡大したものを製作することになったのですが、ブロンズで製作した場合には脚部が重量に耐えられないことが判明し、材質を繊維強化プラスチック(FRP)に変更した上で完成しました。完成寸法は、全高8.3m・幅3.6m・全長8.8m。世界デザイン博の創造工房東海銀行館に展示され、博覧会の終了後に東海銀行から名古屋国際会議場に寄贈されました。南を向いていますから、建物の中からは後ろ姿になります。

Img_7351c  名古屋国際会議場を過ぎると、白鳥公園。国際会議場とその南あたりは、昔は貯木場(白鳥貯木場)と国鉄白鳥駅でした。平Img_7395c 成元(1989)年のデザイン博の時はその会場となっています。昭和58(1983)年から平成3(1991)年までかけて整備した白鳥庭園が、この公園の中心です。白鳥庭園は、去年9月のJRさわやかウォーキングで訪ねましたので(20190928JRさわやかウォーキング「名古屋の二大庭園とてづくり朝市を訪ねて」へ(予告編))、今回は、パス。

Img_7386c Img_7375c  貯木場の跡は、現在、「太夫堀」のところだけが、池として残っています(上左の写真)。ここには、ユリカモメやカモなどの水鳥が来ているだろうと期待して歩いてきました。白鳥貯木場は、江戸時代初頭の慶長10(1610)年に名古屋城築城のため設けられた材木置場が起源とされています。福島正則が、堀川沿いの白鳥地内に大池を掘らせ、これを太夫堀と呼んだと伝えられていて、これが初の木材置場となったといいます。福島正則の通称は、左衛門大夫だったそうですから、この名前は納得。

Img_7353c_20200111180701 Img_7379c  話が逸れました。太夫堀では期待通り、ユリカモメがフェンスに並んでいました。通り過ぎてから振り返って見ると、餌をやる人があったようで、乱舞シーンも見えました。

Img_7368c  さらに、南側のエリアには、多数のカモ。キンクロハジロがほとんどでしたが、ホシハジロや、ハシビロガモもいましたし、カルガモの姿もありました。この日も、ウォーキングとバードウォッチングの両方が楽しめ、一石二鳥というか、一粒で二度美味しいというか(微笑)。

Img_7399c  このあたりから東を見ますと、白鳥御陵(白鳥古墳)も見えます。12月15日の近鉄ハイキング「名古屋の繁華街に残る古墳めぐり」で訪ねました(20191215近鉄ハイキング「名古屋の繁華街に残る古墳めぐり」(予告編))。6世紀初頭に築造されたと考えられている前方後円墳です。熱田神宮社伝では、日本武尊の陵としています。これは、能褒野に葬られてのち白鳥となった日本武尊が当地に降り立ったという伝承に基づいています。

200111jrwalkingsannou3  実測ルートマップがその3の範囲に入っていました。宮の渡し跡、熱田神宮なども近づいてきています。この先、白鳥橋の下を潜って、さらに堀川沿いを南下して、宮の渡し跡(マップでは、七里の渡し跡とあります)に向かいます。その3へ続く。

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2020年1月13日 (月)

20200111JRさわやかウォーキング「あいち・なごや生物多様性EXPOと宮の渡し跡から熱田神宮」(その1)……松重閘門から堀川沿いを歩き、堀川橋梁まで

 令和2年になって最初に参加したウォーキング/ハイキングである、JRさわやかウォーキング「あいち・なごや生物多様性条約EXPOと宮の渡し跡から熱田神宮」の本編、その1です。この企画は、名鉄のハイキングとの共同開催。名鉄のハイキングには初めて参加しました。当日は、天気もよく、風も弱くて、1月にしては暖かいというか、少々暑く感じるくらいの陽気でした。

Img_7166c  名鉄名古屋本線山王駅で8時半から11時が受付。JRではなく、乗り換えが便利なので、桑名駅を8時31分に出る近鉄名古屋行き普通電車に乗車。近鉄名古屋駅に9時12分着、¥450。名鉄名古屋本線に乗り換えます。名鉄名古屋駅を9時24分に出る東岡崎行き普通で、山王駅に9時26分着、¥170。

Img_7162c_20200111172001 Img_7158c_20200111172001  山王駅は、名鉄名古屋駅から豊橋方向に1駅目。以前は、「ナゴヤ球場前」で、さらにその前は「中日球場前」といわれていました。年配の中日ドラゴンズファンには懐かしい駅。私も、子どもの頃から現役当時まで、何度かここを利用してドラゴンズの試合を見に行きました。平成8(1996)年まで中日ドラゴンズのホームグラウンドだったナゴヤ球場への最寄り駅でした。しかし、ホームグラウンドが平成9(1997)年からナゴヤドームに移転したため、利用客も激減し、平成17(2005)年に開業当時と同じ現在の駅名に改称しました。ナゴヤ球場は、中日ドラゴンズ二軍の本拠地球場および練習場となっています。ホームから南西に見えますが、一軍の本拠地だった頃とはかなり変貌してしまっています。

Img_7178c  ホームは高架にあり、階段を降りて改札口を出たところがスタート受付なのですが、小さな駅なので、大混雑。受付の先ですぐImg_7180c_20200111172001 に信号を渡るコースのようで、それも混雑にいっそうの拍車をかけています。何とかスタート看板を撮って、スタートしたいのですが、信号待ち(笑)。

200111jrwalkingsannou  こちらが当日配布されたコースマップ。山王駅をスタートして松重閘門へ。その後は、堀川沿いをずっと歩いて、名古屋国際会議場に行きます。「あいち・なごや生物多様性EXPO」が、1月11・12日と開催されていました。続いて、白鳥庭園、白鳥公園を経て、宮の渡し跡へ。個人的には、ここ宮の渡し跡へ行くのが目的で参加しました。ゴールは、秋葉山円通寺。オプションコースとして、熱田神宮に参拝しますが、宝物館が割引料金で入れることになっています。熱田さん参拝のついでに、宝物館も観てこようと思って出かけました。帰りは、名鉄神宮前駅から電車に乗るつもり。山王駅から円通寺までは、約7.0㎞。

200111jrwalkingsannou0  実際に歩いた実測ルートマップ。寄り道はしていませんので、ほとんどコースマップ通りに歩いています。こうしてみると、名古屋国際会議場などに立ち寄りながら、堀川沿いを5㎞ほど下ってきたのがよく分かります。ゴール受付の秋葉山円通寺までは、6.7㎞でした。そこから熱田神宮に参拝し、宝物館を拝観して、名鉄神宮前駅へ行きました。神宮前駅までは8.4㎞。

200111jrwalkingsannou1  実測ルートマップの詳細版、その1。スタートの山王駅から、松重閘門を経て、堀川沿いを南下。2㎞あたりまでの地図となっています。

Img_7187c_20200111172001 Img_7192c_20200111172801  さて、山王駅をスタートしたのは、9時35分。左の写真は、スタートして駅前の信号を渡ったところから振り返って撮った写真。名古屋でのJRさわやかウォーキングの参加者は、ものすごい数になりますが、今日は、名鉄のハイキングも共同開催ということで、参加者はさらに多いような気がします。スタートして100mあまりは北に向かいます。前方遠くには、名古屋駅前の高層ビル群も見えます。

Img_7196c_20200113075001  中川運河に突き当たり、右折。この日のコースの案内板は、名鉄のハイキングのもの(左の写真)。また、ところどころにImg_7223c_20200113075201 は、フラッグも掲げられています。新鮮な感じ。同じウォーキング/ハイキングとはいっても、やり方などは鉄道会社によって微妙に異なります。JRと名鉄はコース案内板が掲出されますが、近鉄ハイキングではそれはありません。その代わり、コースマップは近鉄のものは詳しい。受付も、近鉄は原則としてスタートの時のみで、スタートの時にあみま倶楽部のスタンプも押してもらえます。JR・名鉄はスタートはコースマップの配布のみで、スタンプ押印や完歩券配布はゴール受付にて。

Img_7218c_20200111172801  スタートから500mで松重閘門に来ました。去年(令和元(2019)年9月28日のJRさわやかウォーキングでも来ていますImg_7245c_2020011308000120190928JRさわやかウォーキング「名古屋の二大庭園とてづくり朝市を訪ねて」へ(予告編))。名古屋港と、旧国鉄笹島貨物駅を結ぶ中川運河が開削されたとき、堀川とを結ぶためにつくられたもの(昭和5(1930)年(供用開始は、翌年)。両河川は水位が2mほど違ったそうです。東西長さ90mの水路の両端に高さ約20mの塔が2棟ずつあり、一対の塔をつなぐ橋に吊られた40トンの鉄板を上げ下げしました。塔の内部には鋼板を動かすのに使う錘が入っています。日本の閘門では、扉式が多いそうですが、このように両側に塔を建設するやり方は珍しいとされます。左の写真は西側から、右の写真は、もう一対の棟を東側から撮ったもの。夜はライトアップされ、その姿は「水上の貴婦人」と呼ばれます。電車から遠く、見たことはありますが、近くでも見てみたいですねぇ。松重閘門は、昭和43(1968)年に閉鎖され、昭和51(1976)年に使用廃止になっています。

Img_7232c_20200113112501  この松重閘門のところ、南北橋交差点を通り、堀川をわたってその左岸(東側)に出ます。この堀川は、江戸時代初期の名古屋開府に際して、建築資材運搬用の運河として伊勢湾から名古屋城付近まで開削されたことがそのルーツとされます。一般に堀川は、慶長15(1610)年、福島正則が徳川家康の命により、名古屋城築城の天下普請に際して資材運搬を目的とした水路として、現在の朝日橋付近までを掘削したとされます。ただし、当時の土木技術の水準では、何もないところに全く新しい水路を引くのは困難で、元々、自然河川が存在したとする説もあります。尾張藩の公的な記録『事績録』には、慶長16(1611)年2月に、名古屋城普請に携わっていた20の大名に対して名古屋城までの運河開削のために千石当たり1名の人夫を出すことを命じられた(『蓬左遷府記稿』こと、同年6月には熱田白鳥から名古屋城下までの運河開削がほぼ完了したこと、白鳥付近は担当した福島正則(左衛門大夫)から「太夫堀」と呼ばれたとの記載があるそうです(太夫堀については、後ほど、白鳥公園のところで出て来ます)。これから、堀川沿いを下っていきますが、古い橋は、親柱や照明灯のデザインが凝っているので、それを見ていくのがたのしみです。左は南北橋。

Img_7234c_20200113080201  南北橋の東側、松重橋の下流側の堀川は幅が広くなっていて、ユリカモメなどの水鳥が休んでいました。中に、よく見るとセImg_7238c グロカモメもいます。12月21日のJRさわやかウォーキング「歴史や文化が見える市政資料館と輝く金のシャチホコ 名古屋城を歩こう」の時と同様に、今日も堀川から宮の渡し跡までの間でバードウォッチングができそうです(微笑)(20191221JRさわやかウォーキング「歴史や文化が見える市政資料館と輝く金のシャチホコ 名古屋城を歩こう」へ(予告編)……年内最後のハイキング/ウォーキング【カモの名前を付記(12/22)】)。

Img_7254c  松重橋からひたすら南下して行きます。このあたり、指定されたコースは、道路の左側(東側)ですので、Img_7259c 堀川の水面はあまりよく見えません。山王橋を過ぎて、スギドラッグ。割引券がマップに附いていましたが、ドラッグストアには用事はなく、通過。古渡橋(スタートから1.5㎞ほど)に来ました。古渡橋(ふるわたりばし)は、堀川が掘られたころにかけられた「堀川七橋(ほりかわななはし)」の1つです。このあたりの地名「古渡」から名付けたといわれています。近くには、昔、鎌倉街道が通っていたといいます。また、古渡城跡が、現在は、真宗大谷派名古屋別院(東別院)になっています。古渡城は、織田信長の父・信秀が天文3(1534)年、東南方に備えるために築城した城で、信長はここで元服したといいます。この古渡橋のところから、道路の右側を通りますので、まさに堀川沿いを歩いていきます。

Img_7266c_20200111174701  スタートから1.8㎞地点で、JRと名鉄の鉄橋をくぐります。この先には、JRAウィンズ名古屋があります。私には縁がありません。鉄橋は、北から順にJR中央線、名鉄名古屋本線、JR東海道線です。中央線の特急しなのが通過して行きました。この3路線の橋梁はかなり古く見えます。

Img_7276c Img_7273c  調べてみると(こちらを参照)、東海道線の熱田~名古屋間は、明治32(1899)年7月に複線化されました。堀川橋梁は、南側の新線(上り線)に移設されています。中央線の多治見~名古屋間の開通は明治33(1900)年7月で、同線の堀川橋梁は、複線化で余剰となった東海道線の初代橋梁を転用しています。さらに、名鉄名古屋本線の新名古屋~神宮前間は第二次世界大戦中の昭和19(1944)年9月に開通。名鉄の堀川橋梁の下り線は、この区間建設に伴う中央線の線路移設時に廃線となった旧線の橋梁を転用しているといいます。左の写真は東海道線の橋脚、右の写真で向かって右側の2つが名鉄名古屋本線の橋脚。したがって、右の写真でもっとも右に写っているものが、もっとも古い橋脚となります。明治時代の橋脚や橋桁が今も使われているというのは、驚き。

 キリが良いので、その1は、ここ堀川橋梁まで。堀川橋梁は、JR東海道線の尾頭橋駅と、JR東海道線、中央線、名鉄名古屋本線、市営地下鉄の金山総合駅との中間にあります。尾頭橋駅からの方がやや近くなっています。

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