JRさわやかウォーキング

2018年9月29日 (土)

20180922JRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」へ(その3)……高田本山専修寺を見てJR紀勢線・一身田駅にて「完」

Img_3194c  9月22日のJRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂20180922jrwalkingtsu13_2 と一身田寺内町を訪ねて」のその3です。スタートのJR紀勢線・津駅から5㎞半ほど歩いて、一身田寺内町の館まで来ました。ここが本日のゴールで、まだ高田本山専修寺にお参りしていませんが、取り敢えずゴールしました(微笑)。12時25分です。

Img_3198c 寺内町の館から高田本山専修寺は、目と鼻の先。時間も時間ですし、5㎞Img_3197c 半も歩いてきましたので、高田会館の食事処あかりの「名物 伊勢芋とろろ」の看板が気になりますが、あいにくと津駅で弁当を買ってきていました。あかりの「伊勢いも御膳(¥900)」は、マスコミでも取り上げられたりしているのですが、それはまたの機会に。
Img_3202c こちらは山門。国指定重要文化財。御影堂の正面にあり、専修寺の総門です。五間三戸二階二重門の形式になっています。これは山門として最高の格式だそうですが、確かに立派。何度見てもすごいなと思います。宝永元(1704)年の建築とされています。
Img_3206c 総門をくぐった正面にあるのが御影堂。宗祖親鸞聖人の木像が中央須弥Img_3216c 壇上に安置されています。725畳敷きの御堂で、全国の現存木造建築の中でも5番目の巨大な堂です。寛文7(1667)年の建立。まずはこちらにお参り。内部も写真を撮って構わないのですが、ネットには揚げないようにということですから、割愛。右の写真は、御影堂から北西を見たもの。個人的にはこの景色、かなり気に入っています。
Img_3221c 続いて、これまでに見逃していた大玄関や対面所の方に向かいます。そImg_3223c の前に、御影堂の東に「安楽庵(あんらくあん、三重県史跡名勝)」への入り口の石碑が建っています。安楽庵は、如来堂と御影堂の背後にある庭園にたたずむお茶席。庭園は「雲幽園(」といい、ほとんど石組みを作らず、自然の美をそのままに生かし、蓮池を主体としているそうでます。独特な構造で格式が高く、茶席は江戸時代初期の名席といわれています。雲幽園(安楽庵)の見学は事前の申し込みが必要です。
Img_3270c ただし、納骨堂へ行く途中、この門をくぐった先で庭園(雲幽園)と思われImg_3272c るところを垣間見ることができます(右の写真)。このあたりは、ちょうど如来堂の裏。お庭は一度葉見てみたい気がします。
Img_3276c もう少し進み、納骨堂の手前にはこういう景色も見られます。何というのか不勉強でよく知らないのですが、木製の橋が架かった先に庭門があり、その向こうにお庭が広がっています。いわゆる池泉回遊式庭園になっています。
Img_3225c 話を戻します。「安楽庵入り口」の石碑の東にあるのが、大玄関。これもImg_3227c 国指定重要文化財です。境内の中心からはやや東になり、御影堂の北東にあります。焼失した天明3(1783)年の火災で焼失したのち、対面所と共に再興されました。寛政2(1790)年の再建と伝わっています。その当初は、対面所の東に位置し、正面を東に向けて建っていたそうですが、明治11(1878)年に現在の位置に移築され、その際に正面は南向きに改められました。これは明治13(1880)年の天皇行幸に備えたものと考えられています。
Img_3234c 御対面所(おたいめんしょ)で、こちらも国指定重要文化財。5室ずつ3列の座敷からなる建物だそうで、周囲に廊下がつけているといいます。大正初年までは、法主が座を設けて、ここから門信徒に対面していたところ。御対面所も、天明3(1783)年の火災で焼失したのですが、直ちに再建に取りかかり、天明6(1786)年閏10月に落成遷仏が行われました。
Img_3230c これで1月に来たときに見忘れたところは、「賜春館」を除いてコンプリーImg_3251c ト。「賜春館(ししゅんかん)」は、明治11(1878)年に貴賓接待用として新築された書院ですが、明治13(1880)年の明治天皇行幸の行在所として使用されたことがあり、それを祝って「賜春館」と命名されました。国指定重要文化財。ここはもちろん、われわれは見に行けません。画像はリンク先をご覧ください。右の写真は、大玄関に行くアプローチあたり。
Img_3245c これで見忘れたところもすべて見ましたので、ようやく、安心してお昼にしImg_3248c ます。12時45分であります。近鉄津駅のファミマで買ってきた弁当を御影堂が見える、鐘楼の近くの建物の陰でいただきました。
Img_3254c 食事を済ませ、如来堂と、家内の父のお骨が収めてある納骨堂にお参りします。が、その前によく見たら、蓮の鉢が並んでいるところに句碑らしきものがあるのに気づきました。割と新しいもの。浜田珍碩(はまだちんせき)の「千部読む花の盛りの一身田」という句が刻まれていました。浜田珍碩は、浜田洒堂(はまだしゃどう)ともいい、江戸時代中期の俳人です。別号に珍夕、珍碩があり、芭蕉の門人。近江国膳所の出身。「千部」というのは、「永代経法会(えいたいきょうほうえ)」のことだそうです。「千部会」、「千部法会」といい、高田本山の千部法会は、江戸時代には、報恩講以上の賑わいであったと伝えられています。春秋に勤められるようです。珍碩の句は、「千部法要」に群参する善男善女の方々を詠んだものということ。
Img_3256c 国宝・如来堂。御影堂の西にあります。「証拠の如来」と呼ばれる阿弥陀如来立像をご本尊としており、教義の上では、この堂が伽藍の本堂となります。発願は享保4(1719)年、着工は翌々6(1721)年ですが、資金難から工事が渋滞し、ようやく元文5(1740)年から地築にかかりました。しかし、地盤が軟弱なために寛保3(1743)年8月まで満3年を要して完成。このとき勘六という老人が人柱に立ったと言われているそうです。
Img_3277c 如来堂に参拝してから、納骨堂へお参り。4年前の6月17日に家内の父のお骨を収めています(2014年6月17日:高田本山専修寺へ……納骨でした【6/18に加筆修正】)。納骨の方がお一組。
Map これで高田本山専修寺もコンプリートと思っていたのですが、記事を書きながらマップをよく見ていましたら、大講堂を忘れていました(宗務院やら婦人会館などの一般施設を除いて)。いやぁ苦笑せざるを得ませんが、これでまた出かける口実ができました。
Img_3279c 帰る前にもう一度、如来堂と御影堂を振り返り、唐門から外に出ます。唐Img_3281c 門(からもん)も国指定重要文化財です。如来堂の正面にあります。すべて良質の欅を用い、豪華な装飾で埋め尽くされています。建築。天保15(1844)年に上棟しています。
Img_3284c 唐門を出て西へ行くと、環濠にかかる安楽橋。一身田寺内町は、「環濠Img_3285c によって囲まれています。東西約500m、南北約450m。寺内町を区画することに加え、町を防御する機能もあったのです(南側は毛無川を利用しています)。この一身田の環濠は、寺内町の周囲を巡る環濠としては、日本で唯一ほぼ完全な形で残る貴重なものだそうです。
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 高田本山専修寺からJR紀勢線・一身田駅までは300mほど。駅名は、「いImg_3294c しんでん」となっていますが、町名は、「いっしんでん」という方がほとんどと思います。無人駅ですが、駅舎は、大正12(1923)年12月に竣工したもの。13時20分に到着。13時31分の鳥羽行きの普通電車に乗って、津駅まで戻ります。無人駅ですが、この日は、JRさわやかウォーキングとあって、助役さんと駅員さんが出張してきておられました。
Img_3306c 帰りの電車は、東一身田駅から伊勢鉄道でもよかったのですが、伊勢鉄Img_3312c 道は一応全線乗っています。紀勢線で一身田駅から津駅は乗車したことがありませんでしたので、こちらへ。津駅までは1駅で、¥190。13時34分着とたった3分でちょっともの足らず。途中、車窓からは、午前中に歩いた辺りの景色が見えます。
Img_3317c ワンマン列車ですので、降りるときには「あける」ボタンを押します。ランプが付いたら、これを押すとドアが開きます。ドアを開けて乗るのは、1月16日の“勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング“の時に経験しました(2018年1月21日:勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング(笑)」……高田本山専修寺と一身田寺内町散歩(その4)環濠を巡り、伊勢別街道を通って、一身田駅で「完」)。まったく子どもみたいで、我ながら笑えます。
Img_3320c 津駅からは、家内の実家へ行くことにしていました。バスは、津駅始発Img_3327c で、どうしようか迷ったのですが、時刻を調べていなかったのと、確か1時間かかったのを思い出して、久居駅までは近鉄で行くことに。久居まで近鉄は¥260。久居駅でバスは、14時16分発でした。¥530。津駅から乗ると、バス代は¥840。結果的には、運賃、時間とも差はありませんでした。
 JRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」のこれまでの記事は、以下の通りです。また、実測ルートは、こちらで見られます。

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20180922JRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」へ(その2)……勝楽寺、伊勢別街道、下津醤油、春乃舎であられをゲットし、取り敢えず一身田寺内町の館でゴール(まだ続く)

Img_3097c  秋雨前線の影響で雨で、今日の近鉄ハイキング&JRさわやかウォーキングへは出かけません。9月22日のJRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」のその2を書くことにします。その1では、宗宝院と三重県総合博物館について書きました。博物館では念願だったミエゾウを見て、また、これも知りたかった松浦武四郎の展覧会も楽しみ、土産もすでにゲットしてしまいました。

20180922jrwalkingtsu11 その1で歩いたのは、このマップのあたり。地図を改めて見て気づいたのですが、いつも仕事に行く江戸橋の駅の真西あたりに、宗宝院や三重県総合博物館があるんですね。実際に歩いてみた上で地図を確認すると、位置関係が改めてよく分かります。博物館は、三重県総合文化センター、県立図書館と隣り合っています。
Img_3098c こちらがその三重県総合文化センター。文化会館、生涯学習施設、男女共Img_3101c 同参画施設を兼ねています。会合や研修会の講師で何度か来ていますが、最近はご無沙汰。博物館を出たのが11時半。このとき、総合文化センターのエントランスでは、ブラスバンドの演奏をしていました。「Saturday & Sunday Concert」とあり、この時間に演奏していたのは、津市立一身田中学校の吹奏楽部の皆さんでした。今から行くのも一身田。
20180922jrwalkingtsu12 これからのルート。博物館・文化センターから東へ下り、県道10号線に戻ります。このあたりは、1月11日の近鉄ハイキング「高田本山専修寺『お七夜』と寺内町散策」であるきました(2018年1月11日:近鉄ハイキング「高田本山専修寺『お七夜』と寺内町散策」へ(その1)……勝久寺、大乃巳所神社、魚歳食品)。ただし、このときは、本の王国のところから一本西側の道に入り、勝久寺に立ち寄って北西に向かい、魚歳食品に行くというルートで、いわば大回りして高田本山専修寺へ行きました。
Img_3111c 博物館から県道10号線に下る道筋には、ヒガンバナ。シロバナヒガンバナも咲いていました。シロバナヒガンバナは、普通のヒガンバナと一緒に咲いていると、その白さが一段と引き立つ気がします。ちなみに、このあたりはマンションも建ち並んでいます。
Img_3116c 県道10号線。道の西側には、マックスバリュのショッピングセンターとか、Img_3122c いろいろ立ち並んでいますが、東側は水田。少し向こうにJR紀勢本線と伊勢鉄道線が望めます。そして、ここまで来ると、遠くに高田本山専修寺も見えるのです(右の写真)。しかし、しばらくは立ち寄りポイントもなく、ひたすら歩くという感じ。
Img_3123c マックスバリュ・ショッピングセンターの入り口からクルマが渋滞。何Img_3128c 事? と思ったら、マクドナルドのドライブスルー待ちの行列のようです。お昼ですからねぇ。お腹も空いてきましたが、まだまだ3㎞も歩いていません。高田本山専修寺までは、3㎞以上もあります。皆さん、黙々と歩いておられますので、小生も(笑)。
Img_3142c 津駅から3.4㎞。名前のない交差点を右折。さらに水田地帯を進みます。Img_3134c左の写真で中央左に見えるのは、一身田中学校。文化センターで吹奏楽部の皆さんが演奏していました。遠くには、三重大学の病院も見えます。というよりも、ダイサギらしき姿が気になりました(笑)。どこへ行っても野鳥は気になります。というか、バードウォッチングは、どこでも楽しめるということです(微笑)。
Img_3142c_2 南を振り返ると、総合文化センターや、近くのマンション群が見えます。Img_3143c 交差点を曲がって少し行くと、大里窪田の町に入っていきます。窪田は、東海道関宿と参宮街道を結ぶ伊勢別街道の宿場町。江戸時代には本陣や問屋場が置かれ、旅籠が軒を連ねたとされています。伊勢別街道は、江戸時代、京都滋賀方面から伊勢神宮へのルートとして、賑わったそうです。窪田には、市内最大の常夜灯があり、これは1月11日のハイキングで見て来ました(1月12日:近鉄ハイキング「高田本山専修寺『お七夜』と寺内町散策」へ(その2)……石積神社、窪田の常夜灯、高田本山専修寺)。
Img_3145c JR紀勢線の踏切を渡る直前、スタートから3.8㎞で、大古山勝楽寺に立ち寄りまImg_3150c す。真宗高田派。お彼岸ですので、宗宝院も、ここも本堂の扉は開けていただいてあり、ご本尊を拝むことができました。11時50分を過ぎた頃。
Img_3158c
 JR紀勢線の踏切を渡り、すぐに五六川。この川は、江戸橋の方まで続Img_3160c き、非常勤先の近くで志登茂川に合流しています。大古曽橋を渡って一身田の町に入っていきます。直進すれば、一身田の寺内町に行き、近いのですが、すぐに右折して、しばらく伊勢別街道を歩くコースになっています。たぶん距離を稼ぐのと、次の立ち寄りスポットに行くためでしょう。
20180922jrwalkingtsu13 勝楽寺の手前から伊勢別街道、下津醤油、一身田寺内町の館、高田本山専修寺、そして、JR紀勢線・一身田駅あたりの地図は、こちらの通り。右端に半分だけ入っているのは、伊勢鉄道・東一身田駅。
Img_3161c 伊勢別街道を歩いたのは500mほど。途中、伊勢木綿の臼井織布さんのImg_3166c ところを通ります。1月16日の“勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング(笑)」……高田本山専修寺と一身田寺内町散歩”ここは歩いています(1月21日:勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング(笑)」……高田本山専修寺と一身田寺内町散歩(その4)環濠を巡り、伊勢別街道を通って、一身田駅で「完」)。「伊勢木綿」は、江戸時代から続く伝統の布なのですが、現在では臼井織布一軒だけが作っています。
Img_3167c 4.6㎞地点、一身田中学校の北で右折。伊勢鉄道を見ながら北へ進みまImg_3172c す。これから向かう先の一身田の寺内町や、伊勢鉄道の東側あたりは、何度も来ました。毛無川を渡ります。この川は一身田の寺内町では、町を取り巻く環濠の一つとなっています。毛無川も江戸橋の方まで流れ、志登茂川に合流します。
Img_3174c 途中、コスモスを見つけたので撮ろうとしたら、風に煽られご覧のようなImg_3177c 写真に(苦笑)。まぁ、これも良し。そしてスタートからちょうど5㎞で、下津醤油さんに到着。ここも2度目(2018年1月13日:近鉄ハイキング「高田本山専修寺『お七夜』と寺内町散策」へ(その3)……一身田寺内町、一御田神社、下津醤油、おぼろタオル、江戸橋常夜灯と道標そして江戸橋で「完」)。
Img_3179c 工場見学会もあるということでしたが、付いたのがあいにくと昼休み(12時10分)。どなたもいらっしゃらず、勝手にちょっと覗いただけ。ここから西へ400mほど行くと、いよいよ一身田寺内町。
Img_3183c ここが寺内町の東の入り口、栄橋。環濠に架かった橋の一つ。この通りImg_3184c をまっすぐに行くと、高田本山専修寺の山門、唐門のあるところに出ます。栄端から見た、北側の環濠。
Img_3201c 話が逸れます。一身田は、高田本山専修寺の門前町ですが、専修寺は、もともとは、栃木県の高田というところにありました。そこが戦火に見舞われたため、真慧上人が一身田に移って来たことで、一身田が高田教団の中心となっています。それに先立つ、寛正5(1464)年、真慧上人は東海北陸地方の布教活動の中心として、この地に無量寿院(専修寺の前身)を建立していました。一身田寺内町がいつごろ成立したのかは明らかではありませんが、文禄元(1592)年の一御田神社の棟札に「寺内」という呼び方がみられることから、その頃にはすでに寺内町が成立していたものと考えられています。
Img_3006c ところで、スタートの時、「一身田商店街のすてきなプレゼント引換券」をImg_3191c_2 もらっていました。先ほど立ち寄った下津醤油さんでも「専修寺醤油」と引き替えられたのですが、それはパス。その他、まんじゅう(2ヶ所)、あられ、こんにゃく、ハンカチ、活命茶などと引き替え可能でした。専修寺近く、一身田寺内町の館(ここが今日のゴール)の手前に菓子司・春乃舎さんがありましたので、ここであられと引き替えていただきました。
Img_3188c 「花舞煎(はなまいせん)」と名付けられたもの。春乃舎さんでは、桜おこし、みのり、四季折々の生菓子を製造販売しておられます。桜おこしは、黒糖を使った昔ながらの高田本山土産。桜おこしは、1月16日の“勝手にJR・近鉄さわやかハイキングの時に別のお店で買っています(2018年1月16日:勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング(笑)」……高田本山専修寺と一身田寺内町散歩(予告編))。
Img_3193c この春乃屋さんの隣が、今日のゴールに設定されている一身田寺内町Img_3189c の館。JRさわやかウォーキングは、駅がスタート、駅がゴールというキャッチフレーズだったと思いますが、今日は例外。さらに、本来の今日のコースは、高田本山専修寺や、一身田商店街を回ってからゴールすべきだったのですが、先に&勝手にここでゴールすることにしました(笑)。12時25分、ここまでスタートから5.7㎞。
Img_3190c まだ完歩していないのに、「完歩記念」のパネルも撮影(苦笑)。スタンプImg_3357c もゲットしてしまいました。商店街はともかく、ここまで来て高田本山専修寺に行かないことはあり得ません。家内の父のお骨が収めてありますからお参りしていくつもりですし、1月の時に見逃しているところがあるのです(2018年1月20日:勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング(笑)」……高田本山専修寺と一身田寺内町散歩(その3)専修寺の境内を歩く(後半))。
Senjujimap 1月に2回出かけたにもかかわらず、御対面所、賜春館、大玄関、大講堂などを見ていないのです。
 長くなりましたので、その2はここまで。取り敢えずゴールはしてしまいましたが、その3で高田本山専修寺のことと、JR紀勢線・一身田駅までの話を書き、「完」とする予定。

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2018年9月25日 (火)

20180922JRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」へ(その1)……宗宝院と三重県総合博物館

Img_2980c  9月22日に出かけたJRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」の本編その1です(20180922JRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」へ(予告編)……【キョリ測データを付記しました(9/23)】)。この日は、朝方まで雨でしたが、8時過ぎには上がってきましたので、予定通り、出かけました。
Img_2991c JRさわやかウォーキングなのに、近鉄の切符を買っています。JRで桑名かImg_2994c ら津まで行くと¥920かかるのですが、近鉄ならご覧のように、¥690で済むからです(苦笑)。時間的には、JRの快速みえで30分あまりに対して、近鉄の急行では50分弱かかります(近鉄特急であれば、30分あまりですが、特急料金が¥900)。急ぐ訳ではありませんから、50分かかってもまったく問題はありません。ということで、桑名駅を9時1分発の五十鈴川行き急行に乗車し、津駅に9時46分到着。
Img_3002c 津駅は、JR紀勢線と近鉄名古屋線が乗り入れています。桑名駅と同じく、Img_3010c JRは東口、近鉄は西口。スタート受付は、東口を出たところに設けられていました。津は県庁所在地ではありますが、人出は多くありません。近鉄四日市駅の方がよほど賑やか。東口には、駅ビルはチャム、北側にアスト津(ちなみに、明日都だそうです)というビルがあります。
Img_3004c_2 こちらがコースマップ。津駅をスタートして、宗宝院、三重県立博物館Img_3006c (MieMu、みえむ)、勝楽寺、下津醤油、一身田商店街、高田本山専修寺、一身田寺内町の館がゴール。コースマップ上は5.9㎞です。先着700名に「一身田商店街のすてきなプレゼント引換券」がプレゼントされるということで、見事ゲット。ウォーキングスタートは、10時。
20180922jrwalkingtsu1 実際に歩いたルートはこの地図の通り。こちらにキョリ測に描いたルート20180922jrwalkingtsu11 マップがあります。とくに寄り道、道草はしなかったものの、高田本山専修寺の中を歩き回ったりしましたので、JR紀勢線・一身田駅に着いたときには、7.5㎞を歩いていました。
Img_3012c 今日のコースは、津駅から見ると西側ですので、東西連絡の地下通路をImg_3013c 通って、駅西に出ます。西側が、上にも書きましたが、近鉄津駅。
Img_3014c 近鉄津駅(西口)から津駅西の交差点に向かいます。ここからは、キツくImg_3015c はないものの、上り坂。津駅西の交差点の向こうは、住宅街が広がり、三重県立美術館もあります。住宅街はたぶんけっこう高級。交差点の角には、津偕楽公園があります(右の写真)。津藩第11代藩主・藤堂高猷(たかゆき)が安政6(1859)年につくった別荘「御山荘」(ござんそう)を起源としています。以前、小生はお城公園と区別が付いてませでした(笑)。昔、子どもたちが小さい頃、ここに保存されているD51蒸気機関車を見に行ったことがあったのに、です。この日の目的地の一つ、三重県立博物館は昔は、この公園の一角にありました。
Img_3019c 偕楽公園を見て右折し、県道10号線を歩きます。津駅あたりは標高4mImg_3020c ほどですが、この先、20mほどを上る(登る?)ことになります。こういうダラダラ坂、けっこうキツいのです。なので、黙々と登って行きます。このあたり、マンションなどがけっこう建っています。途中、ヒガンバナも咲いています。
Img_3022c 途中、歩道にはこんな道案内があったり、よく分からないモニュメントがImg_3023c あったり(笑)。地名でいうと、大谷町から上浜6丁目のあたり。
Img_3025c 上浜6丁目のバス停で1.1㎞ほど。バス停を過ぎてすぐにImg_3031c この日最初の目的地である宗宝院に向かうため、ひょうたん池のところを左折し、西へ。こういう池は、冬になるとカモたちがやって来そうです。
Img_3033c スタートから1.7㎞、けっこう蒸し暑い中、汗をかきながら最初の目的地でImg_3036c ある白龍山宗宝院に到着(10時20分)。曹洞宗のお寺。コースマップには、彼岸の行事で、本堂には入れないと書いてありましたが、扉は開いていましたので、ご本尊は拝めました。
Img_3042c ここ宗宝院は、慶長9(1604)年、当時の津藩主・富田信濃守信高の子Img_3039c 息・千代丸(享年12)の菩提を弔うため、現在の津市栄町(津駅の東南あたり)に建立されました。寺名の由来は、この千代丸の法名によります(宗宝院殿桂室芳公大禅定門)。その後、大正年間に白龍天山禅師によって法地開山されましたが、昭和20(1945)年7月の戦災で一切を焼失します。しかし、四世大鑑良雄大和尚によって再建が図られ、昭和45(1970)年には本堂も再建されました。
Img_3050c ところが、昭和60年代に入って、津市の都市計画事業がおこり、宗宝院Img_3053c もその計画の対象となったため、平成に入って移転再建が行われるに至りました。平成8(1996)年5月に一切の移転が完成しました。本殿の裏には、右の写真のような「安楽石(席)」がありました。静かに座ると、心が安まるそうですので、指示通り、静かに座ってみました。瞑想する(迷走ではありません)のに、なかなかよい感じでした。
Img_3061c 安楽石(席)の脇には、こちらのワンちゃんが控えておられました。「ジョImg_3056c ージュ」だそうです。今ようやく気づきましたが、「成就」なのでしょうね。お寺の守護犬だそうですが、なかなか徳のあるお顔のように見えました。修行のためではなく、健康維持のため、食物はお断りします、だそうです(微笑)。そういえば、見るからにふくよかです。
Img_3063c 宗宝院の墓地には、観音様と思われる石像がありました。コースマップImg_3065c では、宗宝院の裏手を進むように指示されています。「大丈夫か?」とちょっと不安になりつつ、右の写真のようなところを歩いて行きます。
Img_3067c しばらく行くと、この写真のような建物が見えてきました。これが、三重県総合博物館のようでした(ちなみに、これまで三重県立博物館と書いていましたが、正しくは、三重県総合博物館でした)。よかった、よかった。
Img_3070c 建物をグルッと回ってエントランス。スタートからほぼ2㎞、時刻は10時35Img_3072_5 分。ここはずっと以前から、一度は来てみたいと思っていたところ。愛称は、MieMu(みえむ)。前身の「三重県立博物館」は、昭和28(1953)年6月に開館。博物館の建物が耐震基準を満たさないため、平成19(2007)年10に閉鎖。平成26(2014)年4月に三重県総合文化センターの隣接地にこの新しい博物館が開館しました。
Img_3075c ここでまず見たかったのは、この「ミエゾウ」全身復元骨格。「ミエゾウ」Img_3083c は、その化石が三重県内で最初に発見されたことから、世界中で通用する正式な学名を「Stegodon miensis(ステゴドン・ミエンシス)」と名づけられた太古のゾウ。県内各所からも多数の化石が発見され、ここでも多くの化石資料が収蔵されています。これは、国内各地で発掘・保管されているミエゾウ化石の形態データを3次元スキャンで収集して制作した全身骨格復元標本。
Img_3080c 「ミエゾウ」の脇には、ミエゾウのものと推定される足跡化石のレプリカがImg_3081c 展示されています。これは、伊賀市から出土したもの。5本の指の形が分かり、それからゾウの足跡と判別されるそうです。当時日本にいたゾウはミエゾウだけであることから、ミエゾウの足跡と推定されています。
Img_3086c この日、もう一つみたいと思ったのは、「幕末維新を生きた旅の巨人 松浦武四郎」展です。この展覧会は、武四郎の生誕200年を記念したもの。松浦武四郎(文化15(1818)~明治21(1888))は、現在の三重県松阪市に生まれ、幕末の樺太北海道開拓の先駆者・大台ヶ原開拓者です。「北海道の名付け親」とよばれる武四郎の北海道踏査の軌跡や、幕末の志士・文人たちとの幅広い交友、当代随一の情報収集家・古物蒐集家としての魅力が展示されています。11月11日まで。大人は¥800(この日は、ウォーキング参加者割引で¥700)。
20180922j1  松浦武四郎は16歳の江戸への一人旅をきっかけに、武四郎は諸国をめ20180922j ぐり、名所旧跡を訪ね、日本の百名山にも登ります。自らが見て、聞いたことを記録し、多くの資料を残しました。冒険家、探検家、地誌学者、作家、出版者と、いわばマルチ・タレントであり、知の巨人といえる人物です。記録は『初航蝦夷日誌』・『再航蝦夷日誌』・『三航蝦夷』などの日誌風の地誌や、『石狩日誌』・『唐太日誌』・『久摺日誌』・『後方羊蹄日誌』・『知床日誌』などの大衆的な旅行案内、蝦夷地の地図など多くの出版物になっています。堪能しました。
Img_3376c 基本展示も見て(この日は、あのあずきバーや、肉まん・あんまんの井村Img_3379c 屋グループのお陰で、無料開放されていました)、ミュージアム・ショップへ。博物館のグッズよりも、食べ物に目が向いてしまいました。というのも大好物の「関の戸」を売っていたのです。関宿(三重県亀山市)にて、江戸時代から14代続く「深川屋 陸奥大掾(ふかわや むつだいじょう)」がつくっています。「関の戸」は、赤小豆のこし餡をぎゅうひ餅で包み、阿波特産の「和三盆」をまぶした、一口大の餅菓子です。最近、これに亀山茶の分待つをまぶした「お茶の香 関の戸」もあるのですが、昔からある関の戸をお買い上げ(¥600)。さらに、井村屋の「煮小豆 ようかん」も気になっていたので、これも買ってきました。1本15gの食べきりサイズのミニようかんが7本入っています(¥291)。
Img_3097c ということで博物館を11時半まで楽しんできました。今日は、ここまで。次は、また県道10号線に戻って、一身田地内をひたすら歩きます。

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2018年9月22日 (土)

20180922JRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」へ(予告編)……【キョリ測データを付記しました(9/23)】

Img_3002c 朝方まで雨でしたが、8時過ぎには上がってきましたので、予定通り、JRさImg_3010c わやかウォーキングへ行ってきました。今日は、「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」です。JRさわやかウォーキングですので、JR紀勢線・津駅をスタート、宗宝院、三重県立博物館(MieMu)、勝楽寺、下津醤油、一身田商店街、高田本山専修寺、一身田寺内町の館がゴール。コースマップ上は5.9㎞です。本日はまだ実測ルートは描いていません。帰りは、JR紀勢線・一身田駅から津駅に戻り、家内の実家へ行ってきました。津駅スタートは、10時。

Img_3004c こちらが今日のマップ。一身田商店街、高田本山専修寺、一身田寺内町の館は、今年1月のお七夜の時から数えてたぶん5回目。しかし、お彼岸でもありますから、専修寺にもお参りしようということです。今日の小生の最大の目的は、県立博物館。現在、松浦武四郎の展覧会が行われていますし、ミエゾウ全身復元骨格が常設展示されています。これらが見たいと思ったのです。
Img_3033c 最初の立ち寄りスポットは、白龍山宗宝院という曹洞宗のお寺。慶長9(1604)年、当時の津城主・富田信孝の子息千代丸(享年12)の菩提を弔うため、現在の津市栄町に創建されたお寺。寺名は、千代丸の法名からとられたもの。戦災に遭い、一切を焼失。昭和45(1970)年に本格的な本堂も完成したものの、都市計画事業の対象となり、平成になってここ上浜町に移転してきました。
Img_3072c 宗宝院の裏手からすぐに、三重県立博物館(MieMU、みえむ)の敷地に続Img_3075c_2 いています。ここは前から一度来てみたかったところですが、ようやく念願が叶ったという次第。右は2回展示室のフロアにある「ミエゾウ」の復元骨格模型。まずはこれが見たかったのです。「ミエゾウ」とは、その化石が三重県内で最初に発見されたことから、世界中で通用する正式な学名を「Stegodon miensis(ステゴドン・ミエンシス)」と名づけられた太古のゾウです。
Img_3086c 松浦武四郎展は、その生誕200年を記念したもの。松浦武四郎(文化15(1818)~明治21(1888))は、現在の三重県松阪市に生まれ、幕末の樺太北海道開拓の先駆者・大台ヶ原開拓者です。「北海道の名付け親」とよばれる武四郎の北海道踏査の軌跡や、幕末の志士・文人たちとの幅広い交友、当代随一の情報収集家・古物蒐集家としての魅力が展示されています。11月11日まで。大人は¥800(今日は、ウォーキング参加者割引で¥700)。博物館入り口までで2㎞。
Img_3145c 博物館を出て一身田の商店街や、高田本山専修寺へ行く途中、勝楽寺という真宗高田派のお寺にも立ち寄ります。お彼岸ですので、宗宝院も、ここも本堂の扉は開けていただいてあり、ご本尊を拝むことができました。勝楽寺でほぼ4㎞。
Img_3177c 一身田の寺内町に向かう前に若干東に回って、伊勢別街道を通って、下津醤油さんに立ち寄り。ここは、以前、近鉄ハイキングでも来ています。下津醤油で5.2㎞ほど。西に500mほど行くと、一身田寺内町に入っていきます。
Img_3194c 商店街は、何度か回りましたので、ゴールの一身田寺内町の館へ直行Img_3357c (笑)。JRさわやかウォーキングのキャッチフレーズは、「駅がスタート、駅がゴール」ですが、今日はゴールは駅ではありません。ここでさわやかウォーキングのスタンプ6個目をゲット。近鉄ハイキングに比べかなりのスローペースですが、桑名近郊ではなかなか行われないのです。
Img_3201c 寺内町の館は、高田本山専修寺のすぐ近く。12時半になって到着。左はImg_3279c 山門。国指定重要文化財です。御影堂と如来堂(いずれも昨年、国宝に指定)にお参りしたのち、家内の父親のお骨が収めてありますので、納骨堂にも行ってきました。これまでに見逃していた大玄関と対面所も見てきました。ここの境内で、失礼してお昼の弁当タイム。
Img_3291c JR紀勢線・一身田駅には13時20分着。伊勢鉄道・東一身田駅でもよかっImg_3294c たのですが、紀勢線で一身田駅から津駅は乗車したことがありませんでしたので、こちらへ。津駅までは、1駅で¥190。13時34分着とたった3分でちょっともの足らず。実測ルートはまだ描いていませんが、7㎞以上かと思います。
Img_3318c ここから家内の実家へ行きます。バスは、津駅が始発で、久居駅を経由Img_3323c します。迷ったのですが、久居駅まで近鉄で行き、バスに乗ることにしました。最終的には、15時前に実家到着。榊原温泉の湯で疲れを癒やしてきました(微笑)。
Img_3354c 実家から戻ったのが遅くなりましたので、写真やルートの整理がまだ十分できていません。予告編にしてもかなり端折っていますが、今日のところはこれくらいにて。いつものように、追々、本編を書くことにします。
【付記(9/23)】
20180922jrwalkingtsu1 実際に歩いたルートをキョリ測に描いた図です。建物や敷地内は、省略したところがあります。実測ルートで7.5㎞でした。キョリ測のデータは、こちらでご覧いただけます。高低差は、最高が27m。これは博物館内です。津駅を出てから博物館までは20m以上を登ったことになります。

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2018年7月 7日 (土)

20180609近鉄ハイキング「桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る」(その1)……走井山勧学寺

Img_5266c  6月9日に桑名で行われた近鉄ハイキング「桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る」に参加しました。概要編は、当日、記事を書きました(今日は桑名で近鉄ハイキング……桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る(概要編))。勧学寺、春日神社、住吉神社について、少し詳しく書いておこうと思います。今日はまず、走井山勧学寺

20180609kintetsuhikingkuwana こちらは当日、実際に歩いたルートマップ。勧学寺は、走井山公園に隣接しています。スタートの近鉄名古屋線・益生駅からは北西に直線距離で400mほど。三岐鉄道北勢線・馬道駅のすぐ側。公園内には、コースにも設定されていた「伝村正屋敷」もあります。
Img_5314c 現在、走井山公園になっているあたりには、矢田城がありました。室町時代に毛利氏の家臣山内俊行の子俊元が、国司北畠氏に属してこの地に築城して、矢田俊元と称しています。永禄年間(1558~1570)、織田信長の伊勢侵攻の際に落城し、天正2(1574)年に滝川一益が長島城主となると、矢田城は杉山左衛門・野呂孫右衛門に守らせています。天正11(1583)年、羽柴秀吉が滝川一益を北伊勢に追った時に矢田城も落城しました。
A7a1fb06s 公園の案内板に「伊勢湾を望む風景は絶景〉とありますが、まさにその通り。戦国時代、城を築くには好適の地だったと思います。左の写真は、2014年4月3日に桜を見に行ったときに撮ったもの(上野浄水場と走井山の桜、そして三岐鉄道北勢線)。勧学寺の鐘撞堂に上がって撮りました。東の方を見ています。赤い橋は、国道23号線の揖斐長良大橋。北勢線の電車を入れて撮りたかったのですが、あいにく時間が合わず。
Img_5324c こちらが勧学寺の本堂。聖武天皇の御代(724~749年)、行基菩薩の草創によるものと伝えられています。室町の頃(1390~1570年)までは走井山北麓にありました。同地内(現在の桑名高校付近)の海善寺が廃寺となり、本尊の千手観音立像が当寺へ移されてきています。走井山矢田城主の矢田市郎左右衛門は、この観音様を深く信仰していたといわれます。その後の経緯はよく分かりませんが、桑名藩主・松平定重公(1657~1710年)の時、現在地の矢田城跡に再建されました。明治の初め(1870~1880年頃)、いったん廃寺の憂き目に遭ったものの、近在の信者有志の尽力により再興されました。本堂は、松平定重公寄進のもので、市内に現存する寺社建築としては最も古いと推測されています。この写真ではわかりにくいのですが、久松松平家の家紋である梅鉢紋が屋根瓦に残っています。三重四国八十八箇所の第3番札所伊勢西国霊場の第31番札所。
Img_5344c  ご本尊は、千手観音立像(せんじゅかんのんりゅうぞう)。平安時Img_5337c 代後期のものとされています。像高165.3cmの樟の一木造り、三重県文化財。秘仏だったのですが、保存状態が悪かったため、昭和39(1964)年に京都国立博物館内美術院国宝修理所で解体修理し、復元しました(こちら)。右の写真は、ご本尊修復に際して、修復奉賛会が掲げた説明板。
Img_5326c 本堂天井に描かれた「水飲み龍」です。『桑名の伝説・昔話』(近藤杢・平岡潤編、昭和40年9月発行)の中に、勧学寺の天井に描かれた龍について「走井山観音堂附近の井戸に、或る夜、堂の天井に描かれている龍が動き、抜け出して、井戸の水を飲みに来た。そこで龍の目に大きな釘を打ちこんだと言い、今にその釘が残っている。名画や名工の作品によくある伝説の一つである。」と記されているそうです(こちら)。ただし、現在は釘は残っていません。
Img_5328c 桑名市教育委員会の文化財のサイトには「船絵馬や俳諧札、算額などImg_5334c が本堂に奉納されている」とあります。左の絵馬?には、「元禄六年」とあります(元禄6年は、1693年)。
Img_5331c
 一通り写真は撮ってきたものの、説明はなく、よく分からないというのが、Img_5347c 正直なところ。こちらのサイトには、「奉納された『大絵馬』伝説なども知られている」とあるのですが、この伝説は、ネット検索では不明。
Img_5340c 左の写真のようなものなども掲げられていますが、読めません(苦笑)。崩し字の読Img_5346c み方を習いたいと思いつつ、そのままですし、分かりません。最後の文字は、「畏」でしょうか? 右の写真は、天女のように見えますが、何でしょう? 知らないこと、分からないことばかりです。
Img_9214c 太子堂です(写真は、今年4月14日のJRさわやかウォーキングの時に撮影したもの)。本堂横にあります。もとは、明和年間(1764~1772年)に桑名惣大工中が寄進したものです。しかし、平成2(1990)年2月、火災のため焼失。平成3(1991)年、市建築組合の手によって再建されています。
Img_5325c 左の写真は、鐘楼。4枚目の写真は、ここに上がらせてもらって撮りまし2b57ecf3 た(微笑)。右は、仏足石(2013年4月2日に撮影:走井山勧学寺の桜と、三岐鉄道北勢線のナローゲージ電車、そして私の好きな三猿の庚申塔)。江戸末期の作で、分類上「勧学寺様式」ともいわれる特殊な福輪相図(足裏の絵)が精密に刻まれていて珍しいとされます(市指定民俗資料の説明板による)。
Img_9215c  勧学寺境内には、地蔵堂もいくつかあります。左の写真のお地蔵様は、鉢巻地蔵。鉢巻地Img_9231c_2 蔵は、太子堂のすぐ側。右は延命地蔵。他にも、水子地蔵もあります。
Hashirizan2  江戸時代の地誌「久波奈名所図絵」にも

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走井山が載っています。走井山については、「当山は寺内に桜の木数株ありて、花の時幽艶なり。桑城の地境纔(わずか)に離て山に傍て清閑の地なる故、雅客来て常に吟詠す。七月十日の縁日には暁天より四来の参詣年々に増加せり。(俗に十日参りといふ)」と記しています。
 最近の関連記事は、次の通りです:

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20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その5)……松阪もめん手織りセンターから岡寺山継松寺を経て、松阪駅でゴール(完)

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 5月26日のJRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」、とうとうというか、やっとというか、その5で完結編を迎えられそうです。その4では、旧長谷川邸を見たところまで。スタートから約7㎞。
Img_3889c 魚町通りから本町へ。県道24号線に面して、松阪市産業振興センターがあり、この中に松阪もめん手織りセンターが入っています。松阪もめんは、天然藍の先染め糸を使い、「松坂嶋(まつさかじま)」と呼ばれる縞模様が特徴の松阪地域で生産される綿織物です。江戸時代、松阪もめん(当時は伊勢木綿、もしくは勢州木綿と呼ばれた)が大流行したそうです。このセンターは、松阪もめんを普及させようという目的で作られました。松阪木綿の反物や商品が売られており、また、6台の体験用機織り機があり、機織り体験もできるそうですが、ざっと一通り見ただけ。商品は、こちらのリンク先をご覧ください。
Img_3892c 松阪もめん手織りセンターの東隣、本町交差点の角にあるのが、豪商ポケImg_3900c ットパーク。ちょっとしたイベントなどができるようです。四阿は、かつての三井家に存在した建物の2階部分の屋根をイメージした「寄棟」。四阿の前には「来遠像」が鎮座。来遠は、ライオン。三井家と松阪市の歴史と未来をつなぐ象徴として、三越伊勢丹ホールディングスから市に寄贈されたそうです。三越の前にいるライオンさんです。
Img_3898c この日のさわやかウォーキングのテーマを忘れそうですが、この松阪撫子です。豪商ポケットパークにも飾られていました(微笑)。この豪商ポケットパークは、上述のように、三井家との縁でここにできています。というのも、このすぐ近くに三井家発祥の地があるのです。
Img_3912c 豪商ポケットパークの東は旧伊勢街道。伊勢街道を少し北に行くと、このImg_3905c 三井家発祥の地があります。江戸時代屈指の豪商であった三井家は、松阪本町から、天下に飛躍していきました。豪商三井家の創業の祖は、3代高利(たかとし)(元和8(1622)~元禄7(1694)年)ですが、ここには白粉町(おしろいまち)来迎寺より移した初代高安と2代高俊の墓、高利の長兄らの供養碑などがあります。また、高利の産湯に使ったという伝承のある井戸や、発祥の地の記念碑も建っているそうです(ただし、内部は非公開。こちらの三井広報委員会のサイトをご覧ください)。
Img_3919c 三井家発祥の地から、旧伊勢街道を北へ100mあまりのところに、松阪商Img_3925c 人の館があります。江戸で紙や木綿を手びろく商いしていた豪商・小津清左衛門の邸宅です。小津清左衛門については、パスしてしまった歴史民俗資料館で企画展を開催していました。格子と矢来のある質素な外観ですが、内部はかなり広く、土蔵も2つ残っています。
Img_3930c 左の写真は、内蔵。18世紀初頭の建設で、木造二階建て。現在、内部はImg_3941c 資料室として、小津清左衛門や松阪商人についての資料を公開(内部は撮影禁止)。右は、台所にある竈。主屋は、17世紀末から18世紀初めにかけて建てられ、明治期まで数度にわたって増改築が施されています。見世の間、奥見世の間、勘定場など15の部屋があります。
Img_3944c 旧長谷川邸にも展示されていたのかも知れませんが、ここで千両箱万両箱を発見。どちらもこの状態で、ケースに入れて展示されていましたが、千両箱は時代劇などで見るものとイメージがかなり違っていました。松阪商人の館に着いたのが13時35分、15分ほど見学して次の目的である岡寺山継松寺に向かって、旧伊勢街道を南に向かいます。
Img_3957c こちらが旧伊勢街道。南を向いて歩いています。伊勢街道は、日永の追分(四日市市)で東海道から分岐し、ほぼ伊勢湾沿いに津、松阪と南下し伊勢へと至る街道です。歩きながら、ずっと前の方を見ますと、「和田…」という大きな建物が見えてきました。ひょっとして、これは……。
Img_4022c やはりそうでした。あの和田金です。言わずと知れた松阪肉の名店。「松Img_4017c 阪肉元祖」ということばが店名の前についているくらい。明治の創業以来130年あまり。牛銀本店よりも古い。寿き焼きコースのお値段は、松が16,700円、竹 14,600円、梅は12,200円となっています。ここも縁がありませんが、昔々、家内の友人のご両親から和田金のお肉をいただいたことがありました。
Img_3968c さて、与太話はともかく、この日最後の目的地は、岡寺山継松寺(おかでらさんけいしょうじ)。高野山真言宗のお寺。ご本尊は、如意輪観世音菩薩。通称「岡寺さん」。天平15年(743年)に聖武天皇の勅願により行基菩薩が創建したと伝わっています。東大寺建立の大事業が無事成功することを祈願するために建てられた寺院でした。元来は市内石津町にあったが、江戸時代初期の慶長17(1612年)年、時の松坂藩主古田重治により現在地に移転されました。到着は、14時。
Img_3980c 継松寺は、厄除け、開運の観音さまとして知られていますし、もう一つは、3月の初午大祭で有名です。初午大祭は、3月初めの午の日を中心に前後3日間に渡って行われ、県内の仏教寺院としては最大の規模だそうです。厄年の男女、特に振袖で着飾った19歳の女性で賑い、厄落としと称してハンカチを境内に落としていく習わしがあります。
Img_3977c この日は、「第12回松阪撫子どんな花?祭り」を開催していましたが、継Img_4007c 松寺では、撫子姫大茶会や撫子市が開かれていましたので、けっこうな賑わい。振り袖のお嬢さん方や、侍に扮した男性などもいたりしました。
Img_3986c 本堂には、奉納された絵馬がいくつかありました。いずれもかなり古そImg_3990c う。右の写真の絵馬には、「江戸 岩城屋」と書いてあります。調べてみたら、「岩城屋江戸店」の絵馬でした(こちら)。もとは近江商人で、麹町に江戸店があったようです。寺宝もいろいろとあります。それらはこちら
Img_4009c 岡寺さんで目についたもの。まずは、「千度拝標石」といImg_3970c うのが、山門をくぐってすぐ右手にありました。「お百度石」はあちこちで見ますが、「千度石」は見たことがありませんでした。もう一つはお寺の筋塀(すじべい)。白い水平線が入った土塀で、御所や門跡寺院などに用います。格式により数が増え、5本が最高ですので、岡寺山継松寺は格式の高いお寺ということ。継松寺も一度は来たかったところで、念願が叶いました。今度は、初午大祭の時にでもと思うのですが、大賑わいらしいのでちょっと迷います。
Img_3965c 伊勢街道から岡寺山継松寺への道は、「観音小路(かんのんしょうじ)」と014 呼ばれます。ここで、文政2(1819)年創業という店がありました。伊賀屋。「さわ餅」が名物。さわ餅は、松阪・伊勢志摩で身近なお餅。四角に切ったのし餅に餡を挟んだシンプルなお餅で、白とよもぎの2種類があります。いやぁ、買ってくればよかった。
Img_4023c 観音小路から旧伊勢街道へ出て300mほど。鯛屋という旅館がありましImg_4024c た。由緒がありそうでしたので、写真を撮ってきて、調べたら創業220年とか。ネットで調べると、リーズナブルなお値段でも泊まれるようですし、女将などのおもてなしもいい感じだそうです。泊まってみたいものです。鯛屋旅館の先の日野町交差点を左折(東へ)すると、スタート&ゴールのJR松阪駅までは400m足らず。
Img_4028c 途中でお寺を見つけましたので、ちょっとだけ寄り道。浄土真宗高田派の龍渓山願證寺。近江国日野から移築したと伝わるそうです(こちら)。本堂裏の墓所には小泉家歴代の墓があり、その一角に宣長の歌碑があるのですが、これは後から調べて分かったこと(苦笑)。予習をしないと、こんなことばかりです。
Img_4035c JR松阪駅到着は、14時20分。スタートから4時間5分、歩いたのは9.4㎞。Img_4039c この日は蒸し暑くて大変でした。14時54分の、これまた近鉄急行名古屋行きに乗車して帰宅。桑名駅着は、16時2分。今までのJRさわやかウォーキング、近鉄ハイキングの中でもっとも疲れた気がします。
Img_7732c  JRさわやかウォーキングのスタンプは、5個目をゲット。近鉄ハイキングに比べスローペースです。近鉄ハイキングは桑名やその近くでもかなり頻繁に開催されるのに対して、JRさわやかウォーキングJR東海のエリアで広く開催されますので、遠方には行っていないからです。
 5月26日に出かけ、記事が完成するのに1ヶ月と10日ほどもかかってしまいました。もう愛想を尽かされたかも知れません(苦笑)。見落としたところや、行かなかったところもありますので、城下町・松阪、もう一度出かけたいと思っています。
 ところで、JRさわやかウォーキングは、7、8月はお休みだそうです(こちら)。さすがに〈さわやか〉とは行かないからでしょうねぇ(微笑)。それに、開始以来参加者が500万人に達したということです。

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2018年7月 6日 (金)

20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その4)……松坂城跡の続きから旧長谷川邸まで

 忘れているわけではありませんが、江戸橋方面の仕事の準備などもあって、間が開いてしまいました。6月23日以来、ようやく5月26日に出かけた“JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」”のその4です。前回は松坂城跡の途中で尻切れトンボになっています(20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その3)……本居宣長旧宅、松坂城跡(まだ書きかけです))。

180526jrmatsusaka 当日歩いたルートマップ。松坂城跡は、スタートのJR松阪駅から4㎞あま6896 り。距離だけでいえば、まだ「道半ば」までも達していません(苦笑)。1ヶ月半近く前に出かけたのですから、記憶も怪しくなりつつあります。右は前回も載せましたが、松坂城跡の図。左にある本居宣長記念館から埋門跡を通って、本居宣長旧宅を見て、二の丸跡へ。藤棚の南、御城番屋敷が見えるところで昼食。その後、右手にある表門跡から歴史民俗資料館の前から月見櫓跡にある梶井基次郎文学碑を見て、本丸跡、天守閣跡を回り、再び二の丸跡へ戻ってきました。
Img_3677c 城跡にあった石碑などをざっと見ておきます。まずこちらは、鈴屋遺跡之碑。本居宣長旧宅の南にあります。昭和三(1928)年大典記念で、魚町水魚社青年会が建てたとあります。
Img_3724c 二の丸跡にある「山原得水句碑」。得水は、江戸末期から明治期の俳人。松阪の俳句結社「一葉庵」の庵主。と書いていますが、これは松阪市のサイト(松坂城跡の概要)にあったことで、ネットではこれ以上の調べは付きませんでした。俳句も何とあるのか、ほとんど読めません。この句碑のところから、御城番屋敷がもっともよく見えます。この前で昼食を撮った次第。
Img_3725c こちらも二の丸跡にある「白塚氏頌徳碑」。松阪もめん産業振興のため松阪木綿(株)を創設した実業家である白塚大三郎の業績を顕彰する碑。松阪もめんは、天然藍の先染め糸を使い、「松坂嶋(まつさかじま)」と呼ばれる縞模様が特徴の松阪地域で生産される綿織物です。このあと、松阪もめん手織りセンターというところで見てきました。白塚は、このほか、松阪水力電気松阪軽便鉄道開業にも尽力しています。昭和9年建立。
Img_3715c 「亀井改堂顕彰碑」。これも二の丸跡にありました。亀井改堂は、明治期の斎藤拙堂門の漢学者で、三重県医学校漢学教授等を経て、惟精学舎を開講した人物とのこと(こちら)。明治41(1908)年に門人らによって建立されています。ちなみに、斉藤拙堂は、津藩校有造館の三代目の督学で、昌平黌で学問を学び、二十四歳のとき藩校講師。その後、郡奉行を経て、藩校督学に就任しています。
Img_3757c 金の間櫓跡にある「松阪開府之碑」。裏面に、蒲生氏郷から服部一忠Img_3759c 古田重勝重治を経て紀州藩領になる履歴が刻まれています。昭和25(1950)年に建立。このほか、遠見櫓跡には、「大林省軒顕彰碑」がありましたが、見忘れ。大林は、幕末・明治期の斎藤拙堂門の漢学者。大正6年建立。
Img_3739c 松坂城跡に隣接して、歴史民俗資料館がありましたが、蒸し暑くて、少々へばり気味でしたので、今回は拝観せず。この前を通過して本丸跡の方へ向かいました。昭和53(1978)年に旧飯南郡図書館の建物を活用して歴史民俗資料館になったそうです。この日は、“紙問屋「小津清左衛門」家展-江戸店開業365年-”という展覧会が開催されていました。小津家は、伊勢国司北畠家の一族の木造(こつくり)家に仕えた、三好隼人佐長年を先祖とし、創業の祖とされる3代目長弘は、承応2(1653)年に、大伝馬町一丁目に紙店「小津屋」を開業しています。現在も、紙業と不動産業を中心に創業以来の場所で営業を続けているといいます。やはり見てくればよかったかも(微笑)。
Img_3733c 以上、見忘れ、見落としもあるものの、松坂城跡を一通り見てきました.時刻は12時40分。出発したのが、10時15分でしたし、行程の半分も来ていませんので、次へ向かいます。
Img_3783c 松坂城跡を出て北西へ。市民病院の脇を通って、阪内川を渡ります。こImg_3784c の川は、城の北を流れ天然の堀となっています。左の写真は、北に向かって、新松阪大橋を渡ります。右の写真は、上流方向。
Img_3787c 次の目的地は、鈴の森公園。この公園は、カネボウ綿糸松阪工場が建Img_3792c っていたところ。平成5(1993)年に工場が閉鎖された跡地を利用して市民団体と行政の協働で作られた公園。芝生広場や、噴水があり、家族連れもたくさん来ていました。なかなか人気がある公園のようです。
Img_3795c 公園の中に松阪市文化財センターがあります。文化財センターのはにわImg_3800c 館には、宝塚古墳から出土した船形埴輪類が常設展示されています。併設されている市民ギャラリーは、大正12(1923)年建築の旧カネボウ綿糸松阪工場綿糸倉庫(国指定登録有形文化財)を活用しています。右の写真は、ギャラリー。文化財センターが目的地になっていますが、入り口までいっただけでパス。
Img_3806c それよりも気になったのは、公園内にあったこの看板。「チョウトンボ」がいると書いてありました。が、5月下旬ですから、時期的にはかなり早い。まぁ、松阪までチョウトンボを見に来ることはないと思いますが、ちょっと嬉しくなりました。
Img_3811c 鈴の森公園内を一回りし、再び新松阪大橋を渡って、阪内川の右岸へ。Img_3812c ここで、道路から河川敷に降りて歩くというコースになっています.わざわざ川沿いを歩く意味があるのかどうかよく分かりませんが、一応、指示に従います。魚町のところで、河川敷から上がって、昔からの町へ入っていきます。
Img_3815c  魚町通りはなかなか風情のある町。ここに入ってすぐ、左手(東側)に三味線を扱う店がありました。ネットで検索すると、メ~テレの「ウドちゃんの旅してゴメン」で2013年3月9日に放送されていました(こちら)。三味線修理を行っている店でした。
Img_3819c そのすぐ先には、こちら牛銀本店。創業明治35(1902)年の松阪肉を食べさせてくれるお店。テレビコマーシャルで何度も見たことがありますが、ここにあるとは知りませんでした。本店の料理を見てみますと、すき焼きは、\8,672(ランクは梅)から。もっとも高い寿は、何と\19,364だそうです。ご縁はありません(苦笑)。したがって、写真だけ撮って通過。
Img_3826c 牛銀本店から5~60mほどのところに特別史跡本居宣長宅跡がありまImg_3829c す。この宅地は、宣長の曾祖父小津三郎右衛門が、承応(しょうおう)3(1654)年に本町の家屋敷とともに小津某より購入したものです。本町の家が、小津家の本宅であり宣長が生まれた家ですが、現在は何も残っていません。この宅跡とは溝を隔てて地続きで、裏口で通じていました。宣長旧宅は、松坂城跡に移築されています。宣長が12歳のときから亡くなる72歳まで住居としていた家です。
Img_3836c 宣長旧宅が移築されてからも、春庭宅とされている離れと土蔵、一部のImg_3837c 樹木は残されて当時の様子をうかがうことができます。礎石なども復元され、傍らには宅跡碑が建っています(右の写真)。
Img_3841c こちらは、本居宣長旧宅の筋向かいのお宅。ここには、御目見得医(おめみえい)で、親友の小泉見庵(こいずみけんあん)が住んでいました。宣長は上人を次ぐ気が全くなく、母親が見庵に相談したところ、「医者にでもしたらよろしかろう」という返事があったというエピソードが伝わっています。登録有形文化財になっています。
Img_3844c 小泉見庵宅から目と鼻の先に、旧長谷川邸があります。「丹波屋」を屋号とする松阪屈指の豪商、長谷川治郎兵衛家の本宅です。長谷川家は、江戸店持ち伊勢商人の中でも、もっとも早く江戸に進出して成功をおさめました。1675年、3代治郎兵衛政幸を創業の祖とし、後には江戸の大伝馬町一丁目に5軒の出店を構える木綿商となります。余計な一言ですが、立派な卯建が上がっております。
5298 こちらは、松阪市のサイトからお借りした旧長谷川邸の配置図。広大なImg_3848c 屋敷構えです。長谷川家の長い歴史の中で隣接地の買収と増築を繰り返し形成されたものです。右は邸内に展示されていた邸宅の模型。
Img_3850c 千両箱なども展示されていましたが、こちらは大判・小判。大判は、「享保大判」。享保小判に対し、七両二分と価格が公定されたそうです。小判は、慶長小判、天保小判などです。
Img_3853c 母屋の通り土間には、竈があります。御城番屋敷のそれとは比べものにImg_3856c ならない規模。右の写真は、大蔵。この旧長谷川邸は、建物だけでなく、創業以来保管されてきた商業資料、古文書、蔵書類及び商業関係の諸道具、生活用具など、膨大な資料が良好な状態で保存されているのが素晴らしいことです。
Img_3859c 蔵の側には、駕籠が二丁、ぶら下がっています。傷んではいるものの、Img_3880c ずいぶん立派なものだったことが見て取れます。お庭も見て回ったのですが、さすがに広い。土蔵の裏手には、町境でもある背割排水が流れ、その奥には池を中心とした回遊式庭園が広がっています。ここは、以前、紀州藩勢州奉行所があったところで、明治初年に長谷川家が購入し、庭園の他に離れや茶室、四阿(あずまや)などをつくりました。
 今回はここまで。次は、旧伊勢街道に回り、松阪もめん手織りセンターや、三井家発祥の地、松阪商人の館を見て、岡寺山継松寺で、完結の見込み。

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2018年6月23日 (土)

20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その3)……本居宣長旧宅、松坂城跡(まだ書きかけです)

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 5月26日のJRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」、ようやくその3です。前回は、本居宣長記念館まででした(6月18日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その2)……御城番屋敷、本居宣長記念館)。
Img_3642c 本居宣長記念館から松坂城跡へ行くところに、本居宣長旧宅(国特別史Img_3644c 跡)があります。 この旧宅は、宣長が12歳から72歳で没するまで、60年間にわたって暮らした家です。建物は、もともと元禄4(1691)年に、祖父小津三四右衛門定治の隠居所として松阪職人町に建てられました。その後、魚町に移築され、宣長当時の所在地は「魚町」です。明治42(1909)年、保存のために松阪城跡の現在地に移築され、宣長当時の姿に復元し、公開されています。
Img_3648c 一階には、宣長が医療活動をした「店の間」、「仏間」、また講釈や歌会に使Img_3656c 用し、二階増築までの書斎であった「奥の間」などがあります。一階の各部屋は上がって見ることができましたが、二階「鈴屋(すずのや)」は保存のために上がることはできません。「鈴屋」は、建物の二階にある宣長の書斎のことです。書斎は、宣長が53歳の時(天明5(1785)年)、物置を改造して設けたもので、床の間の柱に掛鈴を下げていたことからその名がついています。
Img_3660c 鈴屋は、南側の石垣から見られるのですが、それをしっかり意識しませSuzunoya んでしたので、中途半端な写真になりました。左の写真で右上にある松の木の奥が、鈴屋でした。右の写真は、本居宣長記念館のサイトからお借りしました。観光三重のサイトに鈴屋内部の写真があります。
Img_3777c さて、いよいよ松坂城跡へ。国指定の史跡。城の縄張りは梯郭式平山城で、松阪市の中心地の北部に位置しています。城の北には、阪内川が流れており、天然の堀となっています。天正12(1584)、近江国日野から蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ、松ヶ島城に入城しました。しかし、氏郷は、松ヶ島は伊勢湾に面し城下町の発展性がないと考え、天正16(1588)年、現在の城地である飯高郡矢川庄の四五百森(よいほのもり)に新たに築いたのが、松坂城です。
Img_3733c 江戸時代初期には松坂藩の藩庁となっていました。天正18(1590)年、氏郷が小田原征伐の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て若松城に移り、その後は、服部一忠、古田重勝が入城しますが、元和5(1619)年、古田氏が石見国浜田城に転封となって以降、南伊勢は紀州藩の藩領となり、城代が置かれました。現在は石垣のみが残っていて、城址公園となっています。
6896  こちらが案内図。左にある本居宣長記念館から、本居宣長旧宅を見て、隠居丸跡、御米蔵跡をまわり、右下の方にある二の丸跡の藤棚の東(図では下)で昼食を摂りました。その後、北側の表門跡から歴史民俗資料館の前を通って、本丸跡、天守台と見て回って、また二の丸跡に降りてきました。けっこう高低差があり、応えました(苦笑)。
Img_3705c 松坂城跡に来たのが11時50分頃でした。蒸し暑い中を歩き回って少々お

Img_3709c

疲れでしたし、お腹も減ったのでまずは昼食。ちょうど、御城番屋敷がよく見えるベンチがあいていたので、ここでファミマ弁当。ハイキング・ウォーキングの時、外で食べるにはお握りがベストであります。
Img_3762c 昼食を摂ってから、上記のように城跡を見て回ってきました。詳細は割愛Img_3753c しますが、左の写真は、本丸跡。当然ながら、城跡でもっとも高いところにありますし、クルクル回らないと行き着けません。津城跡に行ったときにも思ったのですが、こういう、石垣のある城跡へ来ますと、三橋美智也の「古城」という歌が思い出されます。
Img_3745c 松坂城跡には、文学碑、石碑、頌徳碑など多数あります。その中で予め調べて行って、見たかったのは、こちら。「梶井基次郎文学碑」です。梶井基次郎(明治34(1901)年~昭和7(1932)年)は、小説「檸檬」や「城のある町にて」で有名ですが、この「城のある町にて」の舞台が松阪なのです(リンク先は、青空文庫)。そのため、二の丸跡にこの文学碑が建立されています(昭和49(1974)年8月)。梶井は大正13(1924)年の夏、姉夫婦の住む松阪・殿町に1カ月近く滞在して、「城のある町にて」のモチーフを得ています。この作品、読みましたが、松坂城跡から眺める街並や、土地の生活、言葉などが描かれていて、松阪の風土が梶井の感性を刺激したと思われます。城跡からの眺めは変わってしまったと思いますが、御城番屋敷の景色など、梶井も眺めたかと思うと、感慨があります。
 写真の整理や、情報の確認をしながら書いていますが、思わぬ時間がかかりました。松坂城跡の話、まだ続きます。折を見て、加筆する予定。今日はここまで。

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2018年6月18日 (月)

20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その2)……御城番屋敷、本居宣長記念館

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 5月26日のJRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」のその2です。その1につきましては、いったん記事をアップした後、樹敬寺の「明治天皇樹敬寺御晝餐所(ごちゅうさんしょ)」石碑と、松阪神社の由緒について付記しました。
Img_3573c 今回はいよいよ待望の御城番屋敷(ごじょうばんやしき)へ。観光案内や、テレビで繰り返し見た、この石畳と槙垣のたたずまいを歩いてみたかったのです。ここは、江戸末期に紀州藩士が松坂城警護のため移り住んだ武家屋敷です。住んでいたのは、40石取りの紀州藩士20人とその家族。このような組屋敷(長屋)は全国でも大変珍しい上に、今も多くの人々がここで暮しているのです。
Img_3700c 紀州藩家老田辺安藤家に紀州藩主徳川頼宣から遣わされていた与力衆が安藤家の陪臣となるよう命じられたことに抗議して、幕末の安政3(1856)年、脱藩して浪人となったのですが(田辺与力騒動)、その6年後、紀州藩主の直臣として帰参を許され、松坂御城番職に就きました。文久3(1863)年、松坂城南東の三の丸に藩士とその家族の住居として新築されたのがこの組屋敷です。こちらの写真は、松坂城跡から撮ったもの。
Img_3581c 松坂城搦め手から続く小路を挟んだ東西に、東棟10戸・西棟9戸が並Img_3585c んでいます。ほぼ当時のまま住居として継続して使用・維持管理されています。平成16(2004)年12月、「旧松坂御城番長屋」として国の重要文化財に指定されました。この写真の西棟北端の一軒は内部が公開されています。明治維新後に、士族授産で得た資産を元手に住民士族が合資会社苗秀社を設立し、建物の維持管理にあたってきました。現存する19戸中、12戸が借家として貸し出され、内1戸を平成2(1990)年から松阪市が借用し、内部を創建当時の姿に復元し、苗秀社に運営を委託して一般公開しています。
Img_3582c 平屋建てで、北面は切妻造、南面は入母屋造になっています。ともに瓦Img_3591c 葺、裏面に角屋が付属。各棟は1戸あたり間口5間、奥行き5間が基準となっています。建物を取り囲む槙の生垣や前庭、上り框のある玄関、畑地などと整然と建て並べられています。
Img_3589c こちらは、台所。お竈さんががあります。お竈さんの北側の上には、薪炭Img_3600c を置いておく棚がしつらえられていました。なかなか機能的な印象です。
Img_3593c こちらは、室内の一部。「血判状」もあったのですが、どういうわけかピンImg_3596c ぼけ写真(こちらにその写真があります)。裃も衣紋掛けにかけられていましたが、何となく小さめのような気がしました。押し入れには長持ち。もう少し、室内の写真をきちんと、あれこれ撮ってくるべきだったと、これを書きながら反省しています。
Img_3592c 西側の庭の景色。左の写真、正面は、台所のあるところ。右側が、座敷Img_3599c など。台所のところのさらに左(西)からは松坂城跡の石垣を仰ぎ見られます。
Img_3602c こちらは、建物の北側の外観。明治35(1902)年、松阪工業高校創立時Img_3587c (当時は、三重県立工業学校、全国唯一の応用化学専攻の学校として設立)、主屋西棟の北端2戸が仮教室として使用されたため、1戸が切り詰められてこのようになっています。公開されているここには、右の写真のように「三重県立松阪工業高校誕生の地」という石碑が建っています。その1にも書きましたが、松工は、応用化学専攻の学校として設立されたため、木造校舎の外壁は実験に用いる硫化水素の影響を受け黒変することがないようにと朱色に塗装されていました。それ故、創立早々から「赤壁(せきへき)」と呼ばれ、「赤壁魂」が今日まで伝わっているそうです。
32072f258b12873f3246fd7b7227b659 ちなみに、こちらのサイトに御城番屋敷の間取り図がありましたので、お借りしてきました。右手に通り土間、左手に田の字型に8畳2間、6畳2間を配し、式台を構える屋内です。式台は、6枚目の写真にありますように、玄関先に設けた板敷きの部分で、武家屋敷では表座敷に接続し、家来の控える部屋です。間取り図では、内玄関の右側の部分。
Img_3605c 左の写真は南龍(なんりゅう)神社。御城番屋敷の北、土蔵の並びにひっそりと立っていました。このあとに書くことも、ブログを書きながら調べて分かったこと(苦笑)。やっぱり、予習が必要です。南龍神社は、和歌山藩祖・徳川頼宣公を祀る神社です。和歌山城下にあった南龍神社の分社で、明治17(1884)年、松阪城本丸跡に創建。昭和28(1953)年に廃絶となったものの、現在地に遷座して小祠として祀られているということでした。ちなみに、和歌山の南龍神社は、いくつかの経緯があり、大正9(1920)年、和歌山東照宮に合祀された。
Img_3607c こちらは、土蔵。県指定文化財(平成15(2003)年3月指定)。もとは、松坂Img_3609c 城・隠居丸で米蔵として使用されていた建物を、明治期に苗秀社が払い下げを受けてここに移築されたといわれます。これが事実であれば、旧・松坂城関係の建物として、唯一現存するものだということです(右の写真参照)。
Img_3610c 御城番屋敷からはほんの40mほどで松坂城跡へ行けます。が、コースマImg_3614c ップでは、その前に本居宣長記念館へとなっていました。そこで、この入り口を見ながら左へ(南西へ)。先程、御城番屋敷から見えた石垣のところを進んでいきます。
Img_3616c  上右の写真では1基しか写っていませんが、ここには大きな常夜灯が2つImg_3615c_2 建っています。これも予習不足が明らかになるのですが、手前のものは、「旧櫛田川渡し場常夜灯」(左の写真)。安永9(1780)年のもの。向かって左には、「銚子場組 江戸干鰯問屋」とあります。奥のもの(右の写真)は、「永代 常夜灯」、文政6(1823)年のもの。こちらの台石には「新玉講」と刻まれています。
Img_3619c この石垣のところ、珍しいものが見えます。「捨石」がそれです。「捨て石」Img_3620c は知ってはいましたが、実物を見るのは初めて。ここは、隠居丸あたりで、江戸時代の修理のあとのようです。表土から約0.2m下。幅0.8~1.0m、長さ19mで、石垣が孕んだ部分だけにあるといいます。
Img_3623c この先には、本居宣長ノ宮の鳥居が見えていました。もとは本居大人奥墓(おくつき)がある旧山室村(松阪市山室町字高峯)にあったのですが、大正4(1915)年、ここに遷座。本居神社という名称でしたが、平成7(1995)年に社号を本居宣長ノ宮と改称しています。学問の神だそうですから、お参りしてこなければなりませんでした(苦笑)。ということは、遠く見えたので、パスしてしまったのです。今回はこういうことばかり。蒸し暑かったのが主な理由ですが、事前に予習をしなかったのもいけませんでした。やはり、予習、復習は大切。本居宣長記念館へ行ってしまいました。
Img_3631c こちらが、本居宣長記念館のエントランス。本居宣長(モトオリノリナガ)(享保15(1730)年~享和(1801)元年)は、18世紀最大の日本古典研究家。伊勢国松坂(三重県松阪市)の人。木綿商の家に生まれるが、医者となり、医業の傍ら『源氏物語』などことばや日本古典を講義し、また現存する日本最古の歴史書『古事記』を研究し、35年をかけて『古事記伝』44巻を執筆しました。鈴と山桜をこよなく愛し、書斎を「鈴屋」と呼び、また山室山にある奥墓には山桜が植えられています。
Img_3637c
 ここは、公益財団法人鈴屋遺蹟保存会が運営管理する登録博物館で、本居宣長の旧宅「鈴屋」を管理、公開しています。『古事記伝』などの自筆稿本類や遺品、自画像などが公開されていました。入館料、通常¥400のところ、¥300で拝観してきました。
Img_3629c 記念館の敷地内には、句碑などいろいろ。まずは、山口誓子句碑。「城を出し 落花一片 いまもとぶ」。天狼俳句会松阪支部が、昭和49(1974)年3月に建てたもの。昭和19年4月19日の作。当時、誓子は伊勢の富田で療養生活を送っていたのですが、病人だからといってじっとしていられず、本居宣長の旧居を見るために松阪へ来た時に詠んだもの。
Img_3634c こちらは、歌碑のようです。「おくつかれ里 大人たちのこゑもきこゆ○ ○はひ○て わけ○く ふみ乃」とあると思うのですが、調べきれませんでした。「写真を撮っておけば、大丈夫」と高を括っていたのですが、案外強敵でした(苦笑)。
Img_3627c 「花道二葉流記念碑」です。「第一世 堀口玉方書」とあります。二葉流は、花道界に初めて「自由花」の呼称と概念をあたえた堀口玉方によって、大正7(1918)年)に創流された華道の流派。大阪市中央区に本部がありますが、松阪が発祥の地のようです(こちら)。毎年9月23日の秋分の日に、伊勢神宮神楽殿にて献花式を行っているそうです。
 というところで、その2はここまで。案外手間取ってしまっています(苦笑)。次は、鈴の屋から松坂城跡へと進む予定。

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2018年6月15日 (金)

20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その1)……小津安二郎青春館、夢休庵で松阪撫子、原田二郎旧宅から松工、松坂神社【明治天皇樹敬寺御晝餐所を付記しました(6/17)】

20180526jrc  ウロウロしている内に日にちが経ってしまいました(苦笑)。5月26日に出かけたJRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」の本編、その1です。松阪へは、最初の勤務先で働いているとき、在宅の患者さんの家庭訪問や、保護者の方の集まりに行ったことがありましたが、それはもう30年以上も前ですので、一度は行きたかったのです。今回は、とくに松阪城跡と御城番屋敷を見たいと思って、出かけてきました。松阪撫子も、どんな花か興味がありました。コースマップでは、約7.4㎞となっていました。

180526jrmatsusaka こちらが実際に歩いたルートマップ。今回は暑かったせいもあって,ほとんど寄り道はしていませんが、それでもお城の中などを歩き回り、9.4㎞でした。しかし、時間をおいて改めてみてみると、9.4㎞歩いたなどと威張って書いていますが、実際にはほぼ1㎞四方ほどの中を回っただけですねぇ(苦笑)。
Img_3448c JRさわやかウォーキングなのに、どういうわけか近鉄の乗車券を買っていImg_3450c ます(苦笑)。JRの方にはナイショです。その理由は、近鉄で行けば¥940のところ、JRですと¥1,180かかるからです。近鉄急行では1時間10分ほど、JR東海の快速みえでは約50分。急ぐこともありませんから、時間的には許容範囲。桑名駅を9時1分の五十鈴川行き急行に乗車。松阪駅到着は、10時10分。
Img_3455c JR松阪駅(西口)の改札横のKIOSKの隣には、「あら竹」の売店があり、松Mregularmou 阪牛の弁当も売っていて,ちょっとばかり気になります(微笑)。右の写真(あら竹さんのサイトからお借りしました)の駅弁は「モー太郎弁当」。すき焼き肉がたくさん入っていて、日本初のメロディ駅弁~♪だそうです。¥1,350(税込)と、さわやかウォーキングのお昼にしては、ちと豪華すぎるかと買いませんでした。
Img_4037c JR松阪駅での受付は8時半から受付でしたので、空いていました。駅前ロータリー公園には、国学者本居宣長ゆかりの遺品「七古鈴(七種鈴)」の一つである「驛鈴」と呼ばれるものを模ったオブジェがあります。「驛鈴」とは、律令時代に朝廷が地方に行く役人に身分証として支給したものです。浜田(島根県浜田市)12代藩主・松平定康が「古事記伝」を著した松坂出身の本居宣長が鈴好きと知り、伊勢神宮参拝の途中、贈ったもの。松阪と浜田の縁は、浜田藩初代藩主で浜田城を築城した古田重治が、元和5(1619)年に江戸幕府の命で浜田に行くまで、伊勢国松坂城主だったことによります。10時15分にスタート。
Img_3473c 松阪駅から南西へ行き、松阪駅前交差点で左折。南東に向かい1㎞ほど。「垣鼻(かいばな)町」にある三角公園でほぼUターン。この地名、昔、家庭訪問に来た記憶がありますが、あたりの様子はまったく見覚えなし。三角公園近くに小津安二郎青春館。小津安二郎監督は、9歳(大正2(1913)年)で松阪に移住し、ほぼ10年間を過ごしました。第二尋常小学校から県立第四中学校(その後、宇治山田中学校と改称、現在の宇治山田高校)を卒業。小津作品に見られる「家族愛」などは、松阪での生活や体験と切り離せないものがあり、また、映画の場面や台詞、風景等は監督が体験した松阪の思い出とダブるところがあると考えられています。この記念館は、小津監督の青春時代にスポットを当て、関連資料などが展示されています。概観は、大正~昭和初期の映画館を再現しています。金・土・日・月曜日と祝日のみ開館。入場無料。
Img_3496c この日、松阪では「第12回松阪撫子どんな花?祭り」を開催していましImg_3490c た。コースマップには、「コース随所にて松阪撫子の花がお出迎え」と書いてありましたが、次の立ち寄り先のなでしこ館(夢休庵(むきゅうあん))で、松阪撫子を見られました。松阪撫子は、松阪三珍花の一つ(他は、松阪花菖蒲、松阪菊)。一般には、伊勢撫子として知られています。松阪三珍花保存会という会もあります。
Img_3899c 松阪撫子を初めて作り出したのは、江戸時代後期、松坂・殿町に住んでいた紀州藩士・継松栄二(1803~1866)です。河原撫子を栽培中、偶然にも花弁の深く切れて長いものを発見し、更に実生により改良を加え松阪撫子を作出したと伝えられています(1830年頃)。第119代光格天皇もたいそう愛でられたとか。
Img_3500c 垣鼻の三角公園から、小津安二郎青春館、なでしこ館(夢休庵)とたどっImg_3504c てきた道は、旧・伊勢街道。日野町交差点角にあるヒシナカ薬局の前に道標が立っています。写真は、南を向いて撮っています。「左 さんぐう道 八雲神社 右 わかやま道」と刻まれています。ここで左折し、伊勢街道から和歌山道に入りました。ちなみに、「日野町」という地名は、蒲生氏郷が近江国日野から移転してきた際、日野から連れてきた商人や住民がいたことから、町名になったといわれます。余談ですが、こういう昔からの地名が残っているのはよいことです。
Img_3508c 日野町交差点の先、左手に樹敬寺(じゅきょうじ)があります。浄土宗、山Img_3514c 号は法幢山。京都知恩院の末寺にあたり、建久6(1195)年、俊乗坊重源上人によって開かれました。ここは、代々、本居一族の菩提寺です。宣長墓(国史跡指定)もあるのですが……
Img_3517c 山門のところにあった、この案内図を見て、断念(苦笑)。この時点ですでに相当暑くて若干へばり気味、また、案内図をパッと見た印象では相当奥まで入っていかなければならないように見えたのです。今から思うと、惜しいことをしました。
Img_3511c 樹敬寺には、「明治天皇樹敬寺御晝餐所(ごちゅうさんしょ)」という石碑が建っていました。明治天皇は、明治13(1880)年7月7日、ここ樹敬寺にて昼食を摂られたということです。明治天皇は、この年、7月4日~6日、明治天皇は三重県庁、裁判所、師範学校、津中学校を御巡覧され、願王寺でご宿泊されました。津市の寒松院には、明治天皇行在所跡があります(4月29日:20180423勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」(その1)……津新町駅界隈、松菱百貨店、藤堂家墓所の寒松院)。7日に伊勢神宮に御親謁されていますから、そのとき、ここでお昼を召し上がったということでしょう。その後は、名古屋、大阪に向かわれたといいます。
Img_3521c 樹敬寺から300mほど先、右(西)側にある歯医者さん、清水歯科。左のImg_3703c 写真(新町通から撮ったもの)ではわかりにくいのですが、御城のような建物になっています。玄関も、御城みたいなデザインになっています。右は、松阪城跡から見たもの。まるで天守閣と二の丸のようなイメージ。今は、閉院したようです(こちら)。
Img_3528c 松阪新町郵便局を過ぎて、右折を重ね、殿町へ入って行Img_3535c きますと、「松阪撫子発祥の地」という案内板がありました。松坂は、天正16(1588)年、蒲生氏郷が松坂城を築城。慶長5(1600)年、古田重勝が松坂藩を立藩しましたが、元和5(1619)年に古田氏は石見国浜田城に転封となり、紀州藩の藩領(飛び領地)になっています。殿町あたりは、紀州藩士が住んだところ。このあたりは、右の写真のように、今でも武家屋敷の雰囲気がよく残っています。松阪三珍花のうち、松阪撫子と松坂花菖蒲は、紀州藩士が始めたもの。
Img_3537c その中の一軒は、「松坂花菖蒲発祥の地」です。紀州藩士であった吉井Img_3538c 定五郎(1776~1818)がノハナショウブ(花菖蒲の原種)から品種改良したものが、松坂花菖蒲。リンク先の松阪三珍花のサイトには、「江戸・肥後花菖蒲と比較して女性的な優雅さを発現した美しい花であり、多くの人々に愛好されている」とありますが、実物は見ていませんし、小生ではそこまで詳しく区別できません。
Img_3543c その先にあるのが原田二郎旧宅(市指定有形文化財)。原田二郎は、紀Img_3558c 州藩松坂領の町奉行所の同心の家に生まれました。このあたりは、「同心町」と呼ばれ、紀州藩松坂領の町奉行所などにつとめる武士の家が並んでいたところだそうです。原田は、21歳のとき京都に上がり、さらに23歳のとき、東京に出て英語と医術を学んだ後、大蔵省に勤め、31歳で横浜の第74国立銀行(現在の横浜銀行の前身)の頭取となり手腕を発揮。34歳のとき松阪に戻ります。54歳の時、井上肇の依頼で大阪の鴻池銀行の整理、再建にあたりました。71歳で再建に成功した後、退職。
Img_3550c その時得た莫大な退職金、全財産をすべてつぎこみ、社会公益事業に対する助成団体、原田積善会を設立しました(大正9(1920)7月)。原田積善会は、現在も公益財団法人として、社会事業分野と学芸事業分野の2つを柱に継続して幅広く行っています。原田は、「天下の富は一家の私すべきものではない」との信念から社会福祉に貢献すべく、この財団を創設しています。それから98年間、助成事業活動が続いているというのは驚くべきことと思います。
Img_3566c 御城番屋敷へ行く前に、県立松阪工業高校の前を通ります。明治Img_3666c 35(1902)年に創立。その当時から木造校舎の外壁は実験に用いる硫化水素の影響を受けて黒変することがないようにと朱色に塗装されていたそうです。そのため、創立早々から松阪工業は「赤壁(せきへき)」と呼ばれ、親しまれてきたといいます。しかし、この御城番屋敷隣という立地条件は、いいですねぇ。
Img_3569c 松阪工業高校の北西には、松阪神社があります。ここもまた、一の鳥居Img_3572c からかなり奥まで行かねばならない感じで、立ち寄りはパスしてしまいました。創始については明らかではありませんが、社伝によれば延喜年間(901~923年)以前といいます。天正16(1588)年、蒲生氏郷が当地飯高郡矢川庄の宵の森(四五百の森)に松坂城を築城した際、城内南丘の小社を城の鎮守社に定め、新しく壇を設け社殿を造営して正八幡を勧請、奉斎したと伝わっています。主祭神は、誉田別命、宇迦之魂神の2柱。合祀されているのは、天照皇大神など33柱(こちらをご覧ください)。ここもきちんとお参りしてくればよかった(微笑)。と反省しきり。
 というところでキリもよいので、今回はここまで。次は、御城番屋敷から。

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