JRさわやかウォーキング

2018年7月 7日 (土)

20180609近鉄ハイキング「桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る」(その1)……走井山勧学寺

Img_5266c  6月9日に桑名で行われた近鉄ハイキング「桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る」に参加しました。概要編は、当日、記事を書きました(今日は桑名で近鉄ハイキング……桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る(概要編))。勧学寺、春日神社、住吉神社について、少し詳しく書いておこうと思います。今日はまず、走井山勧学寺

20180609kintetsuhikingkuwana こちらは当日、実際に歩いたルートマップ。勧学寺は、走井山公園に隣接しています。スタートの近鉄名古屋線・益生駅からは北西に直線距離で400mほど。三岐鉄道北勢線・馬道駅のすぐ側。公園内には、コースにも設定されていた「伝村正屋敷」もあります。
Img_5314c 現在、走井山公園になっているあたりには、矢田城がありました。室町時代に毛利氏の家臣山内俊行の子俊元が、国司北畠氏に属してこの地に築城して、矢田俊元と称しています。永禄年間(1558~1570)、織田信長の伊勢侵攻の際に落城し、天正2(1574)年に滝川一益が長島城主となると、矢田城は杉山左衛門・野呂孫右衛門に守らせています。天正11(1583)年、羽柴秀吉が滝川一益を北伊勢に追った時に矢田城も落城しました。
A7a1fb06s 公園の案内板に「伊勢湾を望む風景は絶景〉とありますが、まさにその通り。戦国時代、城を築くには好適の地だったと思います。左の写真は、2014年4月3日に桜を見に行ったときに撮ったもの(上野浄水場と走井山の桜、そして三岐鉄道北勢線)。勧学寺の鐘撞堂に上がって撮りました。東の方を見ています。赤い橋は、国道23号線の揖斐長良大橋。北勢線の電車を入れて撮りたかったのですが、あいにく時間が合わず。
Img_5324c こちらが勧学寺の本堂。聖武天皇の御代(724~749年)、行基菩薩の草創によるものと伝えられています。室町の頃(1390~1570年)までは走井山北麓にありました。同地内(現在の桑名高校付近)の海善寺が廃寺となり、本尊の千手観音立像が当寺へ移されてきています。走井山矢田城主の矢田市郎左右衛門は、この観音様を深く信仰していたといわれます。その後の経緯はよく分かりませんが、桑名藩主・松平定重公(1657~1710年)の時、現在地の矢田城跡に再建されました。明治の初め(1870~1880年頃)、いったん廃寺の憂き目に遭ったものの、近在の信者有志の尽力により再興されました。本堂は、松平定重公寄進のもので、市内に現存する寺社建築としては最も古いと推測されています。この写真ではわかりにくいのですが、久松松平家の家紋である梅鉢紋が屋根瓦に残っています。三重四国八十八箇所の第3番札所伊勢西国霊場の第31番札所。
Img_5344c  ご本尊は、千手観音立像(せんじゅかんのんりゅうぞう)。平安時Img_5337c 代後期のものとされています。像高165.3cmの樟の一木造り、三重県文化財。秘仏だったのですが、保存状態が悪かったため、昭和39(1964)年に京都国立博物館内美術院国宝修理所で解体修理し、復元しました(こちら)。右の写真は、ご本尊修復に際して、修復奉賛会が掲げた説明板。
Img_5326c 本堂天井に描かれた「水飲み龍」です。『桑名の伝説・昔話』(近藤杢・平岡潤編、昭和40年9月発行)の中に、勧学寺の天井に描かれた龍について「走井山観音堂附近の井戸に、或る夜、堂の天井に描かれている龍が動き、抜け出して、井戸の水を飲みに来た。そこで龍の目に大きな釘を打ちこんだと言い、今にその釘が残っている。名画や名工の作品によくある伝説の一つである。」と記されているそうです(こちら)。ただし、現在は釘は残っていません。
Img_5328c 桑名市教育委員会の文化財のサイトには「船絵馬や俳諧札、算額などImg_5334c が本堂に奉納されている」とあります。左の絵馬?には、「元禄六年」とあります(元禄6年は、1693年)。
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 一通り写真は撮ってきたものの、説明はなく、よく分からないというのが、Img_5347c 正直なところ。こちらのサイトには、「奉納された『大絵馬』伝説なども知られている」とあるのですが、この伝説は、ネット検索では不明。
Img_5340c 左の写真のようなものなども掲げられていますが、読めません(苦笑)。崩し字の読Img_5346c み方を習いたいと思いつつ、そのままですし、分かりません。最後の文字は、「畏」でしょうか? 右の写真は、天女のように見えますが、何でしょう? 知らないこと、分からないことばかりです。
Img_9214c 太子堂です(写真は、今年4月14日のJRさわやかウォーキングの時に撮影したもの)。本堂横にあります。もとは、明和年間(1764~1772年)に桑名惣大工中が寄進したものです。しかし、平成2(1990)年2月、火災のため焼失。平成3(1991)年、市建築組合の手によって再建されています。
Img_5325c 左の写真は、鐘楼。4枚目の写真は、ここに上がらせてもらって撮りまし2b57ecf3 た(微笑)。右は、仏足石(2013年4月2日に撮影:走井山勧学寺の桜と、三岐鉄道北勢線のナローゲージ電車、そして私の好きな三猿の庚申塔)。江戸末期の作で、分類上「勧学寺様式」ともいわれる特殊な福輪相図(足裏の絵)が精密に刻まれていて珍しいとされます(市指定民俗資料の説明板による)。
Img_9215c  勧学寺境内には、地蔵堂もいくつかあります。左の写真のお地蔵様は、鉢巻地蔵。鉢巻地Img_9231c_2 蔵は、太子堂のすぐ側。右は延命地蔵。他にも、水子地蔵もあります。
Hashirizan2  江戸時代の地誌「久波奈名所図絵」にも

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走井山が載っています。走井山については、「当山は寺内に桜の木数株ありて、花の時幽艶なり。桑城の地境纔(わずか)に離て山に傍て清閑の地なる故、雅客来て常に吟詠す。七月十日の縁日には暁天より四来の参詣年々に増加せり。(俗に十日参りといふ)」と記しています。
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20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その5)……松阪もめん手織りセンターから岡寺山継松寺を経て、松阪駅でゴール(完)

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 5月26日のJRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」、とうとうというか、やっとというか、その5で完結編を迎えられそうです。その4では、旧長谷川邸を見たところまで。スタートから約7㎞。
Img_3889c 魚町通りから本町へ。県道24号線に面して、松阪市産業振興センターがあり、この中に松阪もめん手織りセンターが入っています。松阪もめんは、天然藍の先染め糸を使い、「松坂嶋(まつさかじま)」と呼ばれる縞模様が特徴の松阪地域で生産される綿織物です。江戸時代、松阪もめん(当時は伊勢木綿、もしくは勢州木綿と呼ばれた)が大流行したそうです。このセンターは、松阪もめんを普及させようという目的で作られました。松阪木綿の反物や商品が売られており、また、6台の体験用機織り機があり、機織り体験もできるそうですが、ざっと一通り見ただけ。商品は、こちらのリンク先をご覧ください。
Img_3892c 松阪もめん手織りセンターの東隣、本町交差点の角にあるのが、豪商ポケImg_3900c ットパーク。ちょっとしたイベントなどができるようです。四阿は、かつての三井家に存在した建物の2階部分の屋根をイメージした「寄棟」。四阿の前には「来遠像」が鎮座。来遠は、ライオン。三井家と松阪市の歴史と未来をつなぐ象徴として、三越伊勢丹ホールディングスから市に寄贈されたそうです。三越の前にいるライオンさんです。
Img_3898c この日のさわやかウォーキングのテーマを忘れそうですが、この松阪撫子です。豪商ポケットパークにも飾られていました(微笑)。この豪商ポケットパークは、上述のように、三井家との縁でここにできています。というのも、このすぐ近くに三井家発祥の地があるのです。
Img_3912c 豪商ポケットパークの東は旧伊勢街道。伊勢街道を少し北に行くと、このImg_3905c 三井家発祥の地があります。江戸時代屈指の豪商であった三井家は、松阪本町から、天下に飛躍していきました。豪商三井家の創業の祖は、3代高利(たかとし)(元和8(1622)~元禄7(1694)年)ですが、ここには白粉町(おしろいまち)来迎寺より移した初代高安と2代高俊の墓、高利の長兄らの供養碑などがあります。また、高利の産湯に使ったという伝承のある井戸や、発祥の地の記念碑も建っているそうです(ただし、内部は非公開。こちらの三井広報委員会のサイトをご覧ください)。
Img_3919c 三井家発祥の地から、旧伊勢街道を北へ100mあまりのところに、松阪商Img_3925c 人の館があります。江戸で紙や木綿を手びろく商いしていた豪商・小津清左衛門の邸宅です。小津清左衛門については、パスしてしまった歴史民俗資料館で企画展を開催していました。格子と矢来のある質素な外観ですが、内部はかなり広く、土蔵も2つ残っています。
Img_3930c 左の写真は、内蔵。18世紀初頭の建設で、木造二階建て。現在、内部はImg_3941c 資料室として、小津清左衛門や松阪商人についての資料を公開(内部は撮影禁止)。右は、台所にある竈。主屋は、17世紀末から18世紀初めにかけて建てられ、明治期まで数度にわたって増改築が施されています。見世の間、奥見世の間、勘定場など15の部屋があります。
Img_3944c 旧長谷川邸にも展示されていたのかも知れませんが、ここで千両箱万両箱を発見。どちらもこの状態で、ケースに入れて展示されていましたが、千両箱は時代劇などで見るものとイメージがかなり違っていました。松阪商人の館に着いたのが13時35分、15分ほど見学して次の目的である岡寺山継松寺に向かって、旧伊勢街道を南に向かいます。
Img_3957c こちらが旧伊勢街道。南を向いて歩いています。伊勢街道は、日永の追分(四日市市)で東海道から分岐し、ほぼ伊勢湾沿いに津、松阪と南下し伊勢へと至る街道です。歩きながら、ずっと前の方を見ますと、「和田…」という大きな建物が見えてきました。ひょっとして、これは……。
Img_4022c やはりそうでした。あの和田金です。言わずと知れた松阪肉の名店。「松Img_4017c 阪肉元祖」ということばが店名の前についているくらい。明治の創業以来130年あまり。牛銀本店よりも古い。寿き焼きコースのお値段は、松が16,700円、竹 14,600円、梅は12,200円となっています。ここも縁がありませんが、昔々、家内の友人のご両親から和田金のお肉をいただいたことがありました。
Img_3968c さて、与太話はともかく、この日最後の目的地は、岡寺山継松寺(おかでらさんけいしょうじ)。高野山真言宗のお寺。ご本尊は、如意輪観世音菩薩。通称「岡寺さん」。天平15年(743年)に聖武天皇の勅願により行基菩薩が創建したと伝わっています。東大寺建立の大事業が無事成功することを祈願するために建てられた寺院でした。元来は市内石津町にあったが、江戸時代初期の慶長17(1612年)年、時の松坂藩主古田重治により現在地に移転されました。到着は、14時。
Img_3980c 継松寺は、厄除け、開運の観音さまとして知られていますし、もう一つは、3月の初午大祭で有名です。初午大祭は、3月初めの午の日を中心に前後3日間に渡って行われ、県内の仏教寺院としては最大の規模だそうです。厄年の男女、特に振袖で着飾った19歳の女性で賑い、厄落としと称してハンカチを境内に落としていく習わしがあります。
Img_3977c この日は、「第12回松阪撫子どんな花?祭り」を開催していましたが、継Img_4007c 松寺では、撫子姫大茶会や撫子市が開かれていましたので、けっこうな賑わい。振り袖のお嬢さん方や、侍に扮した男性などもいたりしました。
Img_3986c 本堂には、奉納された絵馬がいくつかありました。いずれもかなり古そImg_3990c う。右の写真の絵馬には、「江戸 岩城屋」と書いてあります。調べてみたら、「岩城屋江戸店」の絵馬でした(こちら)。もとは近江商人で、麹町に江戸店があったようです。寺宝もいろいろとあります。それらはこちら
Img_4009c 岡寺さんで目についたもの。まずは、「千度拝標石」といImg_3970c うのが、山門をくぐってすぐ右手にありました。「お百度石」はあちこちで見ますが、「千度石」は見たことがありませんでした。もう一つはお寺の筋塀(すじべい)。白い水平線が入った土塀で、御所や門跡寺院などに用います。格式により数が増え、5本が最高ですので、岡寺山継松寺は格式の高いお寺ということ。継松寺も一度は来たかったところで、念願が叶いました。今度は、初午大祭の時にでもと思うのですが、大賑わいらしいのでちょっと迷います。
Img_3965c 伊勢街道から岡寺山継松寺への道は、「観音小路(かんのんしょうじ)」と014 呼ばれます。ここで、文政2(1819)年創業という店がありました。伊賀屋。「さわ餅」が名物。さわ餅は、松阪・伊勢志摩で身近なお餅。四角に切ったのし餅に餡を挟んだシンプルなお餅で、白とよもぎの2種類があります。いやぁ、買ってくればよかった。
Img_4023c 観音小路から旧伊勢街道へ出て300mほど。鯛屋という旅館がありましImg_4024c た。由緒がありそうでしたので、写真を撮ってきて、調べたら創業220年とか。ネットで調べると、リーズナブルなお値段でも泊まれるようですし、女将などのおもてなしもいい感じだそうです。泊まってみたいものです。鯛屋旅館の先の日野町交差点を左折(東へ)すると、スタート&ゴールのJR松阪駅までは400m足らず。
Img_4028c 途中でお寺を見つけましたので、ちょっとだけ寄り道。浄土真宗高田派の龍渓山願證寺。近江国日野から移築したと伝わるそうです(こちら)。本堂裏の墓所には小泉家歴代の墓があり、その一角に宣長の歌碑があるのですが、これは後から調べて分かったこと(苦笑)。予習をしないと、こんなことばかりです。
Img_4035c JR松阪駅到着は、14時20分。スタートから4時間5分、歩いたのは9.4㎞。Img_4039c この日は蒸し暑くて大変でした。14時54分の、これまた近鉄急行名古屋行きに乗車して帰宅。桑名駅着は、16時2分。今までのJRさわやかウォーキング、近鉄ハイキングの中でもっとも疲れた気がします。
Img_7732c  JRさわやかウォーキングのスタンプは、5個目をゲット。近鉄ハイキングに比べスローペースです。近鉄ハイキングは桑名やその近くでもかなり頻繁に開催されるのに対して、JRさわやかウォーキングJR東海のエリアで広く開催されますので、遠方には行っていないからです。
 5月26日に出かけ、記事が完成するのに1ヶ月と10日ほどもかかってしまいました。もう愛想を尽かされたかも知れません(苦笑)。見落としたところや、行かなかったところもありますので、城下町・松阪、もう一度出かけたいと思っています。
 ところで、JRさわやかウォーキングは、7、8月はお休みだそうです(こちら)。さすがに〈さわやか〉とは行かないからでしょうねぇ(微笑)。それに、開始以来参加者が500万人に達したということです。

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2018年7月 6日 (金)

20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その4)……松坂城跡の続きから旧長谷川邸まで

 忘れているわけではありませんが、江戸橋方面の仕事の準備などもあって、間が開いてしまいました。6月23日以来、ようやく5月26日に出かけた“JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」”のその4です。前回は松坂城跡の途中で尻切れトンボになっています(20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その3)……本居宣長旧宅、松坂城跡(まだ書きかけです))。

180526jrmatsusaka 当日歩いたルートマップ。松坂城跡は、スタートのJR松阪駅から4㎞あま6896 り。距離だけでいえば、まだ「道半ば」までも達していません(苦笑)。1ヶ月半近く前に出かけたのですから、記憶も怪しくなりつつあります。右は前回も載せましたが、松坂城跡の図。左にある本居宣長記念館から埋門跡を通って、本居宣長旧宅を見て、二の丸跡へ。藤棚の南、御城番屋敷が見えるところで昼食。その後、右手にある表門跡から歴史民俗資料館の前から月見櫓跡にある梶井基次郎文学碑を見て、本丸跡、天守閣跡を回り、再び二の丸跡へ戻ってきました。
Img_3677c 城跡にあった石碑などをざっと見ておきます。まずこちらは、鈴屋遺跡之碑。本居宣長旧宅の南にあります。昭和三(1928)年大典記念で、魚町水魚社青年会が建てたとあります。
Img_3724c 二の丸跡にある「山原得水句碑」。得水は、江戸末期から明治期の俳人。松阪の俳句結社「一葉庵」の庵主。と書いていますが、これは松阪市のサイト(松坂城跡の概要)にあったことで、ネットではこれ以上の調べは付きませんでした。俳句も何とあるのか、ほとんど読めません。この句碑のところから、御城番屋敷がもっともよく見えます。この前で昼食を撮った次第。
Img_3725c こちらも二の丸跡にある「白塚氏頌徳碑」。松阪もめん産業振興のため松阪木綿(株)を創設した実業家である白塚大三郎の業績を顕彰する碑。松阪もめんは、天然藍の先染め糸を使い、「松坂嶋(まつさかじま)」と呼ばれる縞模様が特徴の松阪地域で生産される綿織物です。このあと、松阪もめん手織りセンターというところで見てきました。白塚は、このほか、松阪水力電気松阪軽便鉄道開業にも尽力しています。昭和9年建立。
Img_3715c 「亀井改堂顕彰碑」。これも二の丸跡にありました。亀井改堂は、明治期の斎藤拙堂門の漢学者で、三重県医学校漢学教授等を経て、惟精学舎を開講した人物とのこと(こちら)。明治41(1908)年に門人らによって建立されています。ちなみに、斉藤拙堂は、津藩校有造館の三代目の督学で、昌平黌で学問を学び、二十四歳のとき藩校講師。その後、郡奉行を経て、藩校督学に就任しています。
Img_3757c 金の間櫓跡にある「松阪開府之碑」。裏面に、蒲生氏郷から服部一忠Img_3759c 古田重勝重治を経て紀州藩領になる履歴が刻まれています。昭和25(1950)年に建立。このほか、遠見櫓跡には、「大林省軒顕彰碑」がありましたが、見忘れ。大林は、幕末・明治期の斎藤拙堂門の漢学者。大正6年建立。
Img_3739c 松坂城跡に隣接して、歴史民俗資料館がありましたが、蒸し暑くて、少々へばり気味でしたので、今回は拝観せず。この前を通過して本丸跡の方へ向かいました。昭和53(1978)年に旧飯南郡図書館の建物を活用して歴史民俗資料館になったそうです。この日は、“紙問屋「小津清左衛門」家展-江戸店開業365年-”という展覧会が開催されていました。小津家は、伊勢国司北畠家の一族の木造(こつくり)家に仕えた、三好隼人佐長年を先祖とし、創業の祖とされる3代目長弘は、承応2(1653)年に、大伝馬町一丁目に紙店「小津屋」を開業しています。現在も、紙業と不動産業を中心に創業以来の場所で営業を続けているといいます。やはり見てくればよかったかも(微笑)。
Img_3733c 以上、見忘れ、見落としもあるものの、松坂城跡を一通り見てきました.時刻は12時40分。出発したのが、10時15分でしたし、行程の半分も来ていませんので、次へ向かいます。
Img_3783c 松坂城跡を出て北西へ。市民病院の脇を通って、阪内川を渡ります。こImg_3784c の川は、城の北を流れ天然の堀となっています。左の写真は、北に向かって、新松阪大橋を渡ります。右の写真は、上流方向。
Img_3787c 次の目的地は、鈴の森公園。この公園は、カネボウ綿糸松阪工場が建Img_3792c っていたところ。平成5(1993)年に工場が閉鎖された跡地を利用して市民団体と行政の協働で作られた公園。芝生広場や、噴水があり、家族連れもたくさん来ていました。なかなか人気がある公園のようです。
Img_3795c 公園の中に松阪市文化財センターがあります。文化財センターのはにわImg_3800c 館には、宝塚古墳から出土した船形埴輪類が常設展示されています。併設されている市民ギャラリーは、大正12(1923)年建築の旧カネボウ綿糸松阪工場綿糸倉庫(国指定登録有形文化財)を活用しています。右の写真は、ギャラリー。文化財センターが目的地になっていますが、入り口までいっただけでパス。
Img_3806c それよりも気になったのは、公園内にあったこの看板。「チョウトンボ」がいると書いてありました。が、5月下旬ですから、時期的にはかなり早い。まぁ、松阪までチョウトンボを見に来ることはないと思いますが、ちょっと嬉しくなりました。
Img_3811c 鈴の森公園内を一回りし、再び新松阪大橋を渡って、阪内川の右岸へ。Img_3812c ここで、道路から河川敷に降りて歩くというコースになっています.わざわざ川沿いを歩く意味があるのかどうかよく分かりませんが、一応、指示に従います。魚町のところで、河川敷から上がって、昔からの町へ入っていきます。
Img_3815c  魚町通りはなかなか風情のある町。ここに入ってすぐ、左手(東側)に三味線を扱う店がありました。ネットで検索すると、メ~テレの「ウドちゃんの旅してゴメン」で2013年3月9日に放送されていました(こちら)。三味線修理を行っている店でした。
Img_3819c そのすぐ先には、こちら牛銀本店。創業明治35(1902)年の松阪肉を食べさせてくれるお店。テレビコマーシャルで何度も見たことがありますが、ここにあるとは知りませんでした。本店の料理を見てみますと、すき焼きは、\8,672(ランクは梅)から。もっとも高い寿は、何と\19,364だそうです。ご縁はありません(苦笑)。したがって、写真だけ撮って通過。
Img_3826c 牛銀本店から5~60mほどのところに特別史跡本居宣長宅跡がありまImg_3829c す。この宅地は、宣長の曾祖父小津三郎右衛門が、承応(しょうおう)3(1654)年に本町の家屋敷とともに小津某より購入したものです。本町の家が、小津家の本宅であり宣長が生まれた家ですが、現在は何も残っていません。この宅跡とは溝を隔てて地続きで、裏口で通じていました。宣長旧宅は、松坂城跡に移築されています。宣長が12歳のときから亡くなる72歳まで住居としていた家です。
Img_3836c 宣長旧宅が移築されてからも、春庭宅とされている離れと土蔵、一部のImg_3837c 樹木は残されて当時の様子をうかがうことができます。礎石なども復元され、傍らには宅跡碑が建っています(右の写真)。
Img_3841c こちらは、本居宣長旧宅の筋向かいのお宅。ここには、御目見得医(おめみえい)で、親友の小泉見庵(こいずみけんあん)が住んでいました。宣長は上人を次ぐ気が全くなく、母親が見庵に相談したところ、「医者にでもしたらよろしかろう」という返事があったというエピソードが伝わっています。登録有形文化財になっています。
Img_3844c 小泉見庵宅から目と鼻の先に、旧長谷川邸があります。「丹波屋」を屋号とする松阪屈指の豪商、長谷川治郎兵衛家の本宅です。長谷川家は、江戸店持ち伊勢商人の中でも、もっとも早く江戸に進出して成功をおさめました。1675年、3代治郎兵衛政幸を創業の祖とし、後には江戸の大伝馬町一丁目に5軒の出店を構える木綿商となります。余計な一言ですが、立派な卯建が上がっております。
5298 こちらは、松阪市のサイトからお借りした旧長谷川邸の配置図。広大なImg_3848c 屋敷構えです。長谷川家の長い歴史の中で隣接地の買収と増築を繰り返し形成されたものです。右は邸内に展示されていた邸宅の模型。
Img_3850c 千両箱なども展示されていましたが、こちらは大判・小判。大判は、「享保大判」。享保小判に対し、七両二分と価格が公定されたそうです。小判は、慶長小判、天保小判などです。
Img_3853c 母屋の通り土間には、竈があります。御城番屋敷のそれとは比べものにImg_3856c ならない規模。右の写真は、大蔵。この旧長谷川邸は、建物だけでなく、創業以来保管されてきた商業資料、古文書、蔵書類及び商業関係の諸道具、生活用具など、膨大な資料が良好な状態で保存されているのが素晴らしいことです。
Img_3859c 蔵の側には、駕籠が二丁、ぶら下がっています。傷んではいるものの、Img_3880c ずいぶん立派なものだったことが見て取れます。お庭も見て回ったのですが、さすがに広い。土蔵の裏手には、町境でもある背割排水が流れ、その奥には池を中心とした回遊式庭園が広がっています。ここは、以前、紀州藩勢州奉行所があったところで、明治初年に長谷川家が購入し、庭園の他に離れや茶室、四阿(あずまや)などをつくりました。
 今回はここまで。次は、旧伊勢街道に回り、松阪もめん手織りセンターや、三井家発祥の地、松阪商人の館を見て、岡寺山継松寺で、完結の見込み。

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2018年6月23日 (土)

20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その3)……本居宣長旧宅、松坂城跡(まだ書きかけです)

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 5月26日のJRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」、ようやくその3です。前回は、本居宣長記念館まででした(6月18日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その2)……御城番屋敷、本居宣長記念館)。
Img_3642c 本居宣長記念館から松坂城跡へ行くところに、本居宣長旧宅(国特別史Img_3644c 跡)があります。 この旧宅は、宣長が12歳から72歳で没するまで、60年間にわたって暮らした家です。建物は、もともと元禄4(1691)年に、祖父小津三四右衛門定治の隠居所として松阪職人町に建てられました。その後、魚町に移築され、宣長当時の所在地は「魚町」です。明治42(1909)年、保存のために松阪城跡の現在地に移築され、宣長当時の姿に復元し、公開されています。
Img_3648c 一階には、宣長が医療活動をした「店の間」、「仏間」、また講釈や歌会に使Img_3656c 用し、二階増築までの書斎であった「奥の間」などがあります。一階の各部屋は上がって見ることができましたが、二階「鈴屋(すずのや)」は保存のために上がることはできません。「鈴屋」は、建物の二階にある宣長の書斎のことです。書斎は、宣長が53歳の時(天明5(1785)年)、物置を改造して設けたもので、床の間の柱に掛鈴を下げていたことからその名がついています。
Img_3660c 鈴屋は、南側の石垣から見られるのですが、それをしっかり意識しませSuzunoya んでしたので、中途半端な写真になりました。左の写真で右上にある松の木の奥が、鈴屋でした。右の写真は、本居宣長記念館のサイトからお借りしました。観光三重のサイトに鈴屋内部の写真があります。
Img_3777c さて、いよいよ松坂城跡へ。国指定の史跡。城の縄張りは梯郭式平山城で、松阪市の中心地の北部に位置しています。城の北には、阪内川が流れており、天然の堀となっています。天正12(1584)、近江国日野から蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ、松ヶ島城に入城しました。しかし、氏郷は、松ヶ島は伊勢湾に面し城下町の発展性がないと考え、天正16(1588)年、現在の城地である飯高郡矢川庄の四五百森(よいほのもり)に新たに築いたのが、松坂城です。
Img_3733c 江戸時代初期には松坂藩の藩庁となっていました。天正18(1590)年、氏郷が小田原征伐の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て若松城に移り、その後は、服部一忠、古田重勝が入城しますが、元和5(1619)年、古田氏が石見国浜田城に転封となって以降、南伊勢は紀州藩の藩領となり、城代が置かれました。現在は石垣のみが残っていて、城址公園となっています。
6896  こちらが案内図。左にある本居宣長記念館から、本居宣長旧宅を見て、隠居丸跡、御米蔵跡をまわり、右下の方にある二の丸跡の藤棚の東(図では下)で昼食を摂りました。その後、北側の表門跡から歴史民俗資料館の前を通って、本丸跡、天守台と見て回って、また二の丸跡に降りてきました。けっこう高低差があり、応えました(苦笑)。
Img_3705c 松坂城跡に来たのが11時50分頃でした。蒸し暑い中を歩き回って少々お

Img_3709c

疲れでしたし、お腹も減ったのでまずは昼食。ちょうど、御城番屋敷がよく見えるベンチがあいていたので、ここでファミマ弁当。ハイキング・ウォーキングの時、外で食べるにはお握りがベストであります。
Img_3762c 昼食を摂ってから、上記のように城跡を見て回ってきました。詳細は割愛Img_3753c しますが、左の写真は、本丸跡。当然ながら、城跡でもっとも高いところにありますし、クルクル回らないと行き着けません。津城跡に行ったときにも思ったのですが、こういう、石垣のある城跡へ来ますと、三橋美智也の「古城」という歌が思い出されます。
Img_3745c 松坂城跡には、文学碑、石碑、頌徳碑など多数あります。その中で予め調べて行って、見たかったのは、こちら。「梶井基次郎文学碑」です。梶井基次郎(明治34(1901)年~昭和7(1932)年)は、小説「檸檬」や「城のある町にて」で有名ですが、この「城のある町にて」の舞台が松阪なのです(リンク先は、青空文庫)。そのため、二の丸跡にこの文学碑が建立されています(昭和49(1974)年8月)。梶井は大正13(1924)年の夏、姉夫婦の住む松阪・殿町に1カ月近く滞在して、「城のある町にて」のモチーフを得ています。この作品、読みましたが、松坂城跡から眺める街並や、土地の生活、言葉などが描かれていて、松阪の風土が梶井の感性を刺激したと思われます。城跡からの眺めは変わってしまったと思いますが、御城番屋敷の景色など、梶井も眺めたかと思うと、感慨があります。
 写真の整理や、情報の確認をしながら書いていますが、思わぬ時間がかかりました。松坂城跡の話、まだ続きます。折を見て、加筆する予定。今日はここまで。

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2018年6月18日 (月)

20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その2)……御城番屋敷、本居宣長記念館

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 5月26日のJRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」のその2です。その1につきましては、いったん記事をアップした後、樹敬寺の「明治天皇樹敬寺御晝餐所(ごちゅうさんしょ)」石碑と、松阪神社の由緒について付記しました。
Img_3573c 今回はいよいよ待望の御城番屋敷(ごじょうばんやしき)へ。観光案内や、テレビで繰り返し見た、この石畳と槙垣のたたずまいを歩いてみたかったのです。ここは、江戸末期に紀州藩士が松坂城警護のため移り住んだ武家屋敷です。住んでいたのは、40石取りの紀州藩士20人とその家族。このような組屋敷(長屋)は全国でも大変珍しい上に、今も多くの人々がここで暮しているのです。
Img_3700c 紀州藩家老田辺安藤家に紀州藩主徳川頼宣から遣わされていた与力衆が安藤家の陪臣となるよう命じられたことに抗議して、幕末の安政3(1856)年、脱藩して浪人となったのですが(田辺与力騒動)、その6年後、紀州藩主の直臣として帰参を許され、松坂御城番職に就きました。文久3(1863)年、松坂城南東の三の丸に藩士とその家族の住居として新築されたのがこの組屋敷です。こちらの写真は、松坂城跡から撮ったもの。
Img_3581c 松坂城搦め手から続く小路を挟んだ東西に、東棟10戸・西棟9戸が並Img_3585c んでいます。ほぼ当時のまま住居として継続して使用・維持管理されています。平成16(2004)年12月、「旧松坂御城番長屋」として国の重要文化財に指定されました。この写真の西棟北端の一軒は内部が公開されています。明治維新後に、士族授産で得た資産を元手に住民士族が合資会社苗秀社を設立し、建物の維持管理にあたってきました。現存する19戸中、12戸が借家として貸し出され、内1戸を平成2(1990)年から松阪市が借用し、内部を創建当時の姿に復元し、苗秀社に運営を委託して一般公開しています。
Img_3582c 平屋建てで、北面は切妻造、南面は入母屋造になっています。ともに瓦Img_3591c 葺、裏面に角屋が付属。各棟は1戸あたり間口5間、奥行き5間が基準となっています。建物を取り囲む槙の生垣や前庭、上り框のある玄関、畑地などと整然と建て並べられています。
Img_3589c こちらは、台所。お竈さんががあります。お竈さんの北側の上には、薪炭Img_3600c を置いておく棚がしつらえられていました。なかなか機能的な印象です。
Img_3593c こちらは、室内の一部。「血判状」もあったのですが、どういうわけかピンImg_3596c ぼけ写真(こちらにその写真があります)。裃も衣紋掛けにかけられていましたが、何となく小さめのような気がしました。押し入れには長持ち。もう少し、室内の写真をきちんと、あれこれ撮ってくるべきだったと、これを書きながら反省しています。
Img_3592c 西側の庭の景色。左の写真、正面は、台所のあるところ。右側が、座敷Img_3599c など。台所のところのさらに左(西)からは松坂城跡の石垣を仰ぎ見られます。
Img_3602c こちらは、建物の北側の外観。明治35(1902)年、松阪工業高校創立時Img_3587c (当時は、三重県立工業学校、全国唯一の応用化学専攻の学校として設立)、主屋西棟の北端2戸が仮教室として使用されたため、1戸が切り詰められてこのようになっています。公開されているここには、右の写真のように「三重県立松阪工業高校誕生の地」という石碑が建っています。その1にも書きましたが、松工は、応用化学専攻の学校として設立されたため、木造校舎の外壁は実験に用いる硫化水素の影響を受け黒変することがないようにと朱色に塗装されていました。それ故、創立早々から「赤壁(せきへき)」と呼ばれ、「赤壁魂」が今日まで伝わっているそうです。
32072f258b12873f3246fd7b7227b659 ちなみに、こちらのサイトに御城番屋敷の間取り図がありましたので、お借りしてきました。右手に通り土間、左手に田の字型に8畳2間、6畳2間を配し、式台を構える屋内です。式台は、6枚目の写真にありますように、玄関先に設けた板敷きの部分で、武家屋敷では表座敷に接続し、家来の控える部屋です。間取り図では、内玄関の右側の部分。
Img_3605c 左の写真は南龍(なんりゅう)神社。御城番屋敷の北、土蔵の並びにひっそりと立っていました。このあとに書くことも、ブログを書きながら調べて分かったこと(苦笑)。やっぱり、予習が必要です。南龍神社は、和歌山藩祖・徳川頼宣公を祀る神社です。和歌山城下にあった南龍神社の分社で、明治17(1884)年、松阪城本丸跡に創建。昭和28(1953)年に廃絶となったものの、現在地に遷座して小祠として祀られているということでした。ちなみに、和歌山の南龍神社は、いくつかの経緯があり、大正9(1920)年、和歌山東照宮に合祀された。
Img_3607c こちらは、土蔵。県指定文化財(平成15(2003)年3月指定)。もとは、松坂Img_3609c 城・隠居丸で米蔵として使用されていた建物を、明治期に苗秀社が払い下げを受けてここに移築されたといわれます。これが事実であれば、旧・松坂城関係の建物として、唯一現存するものだということです(右の写真参照)。
Img_3610c 御城番屋敷からはほんの40mほどで松坂城跡へ行けます。が、コースマImg_3614c ップでは、その前に本居宣長記念館へとなっていました。そこで、この入り口を見ながら左へ(南西へ)。先程、御城番屋敷から見えた石垣のところを進んでいきます。
Img_3616c  上右の写真では1基しか写っていませんが、ここには大きな常夜灯が2つImg_3615c_2 建っています。これも予習不足が明らかになるのですが、手前のものは、「旧櫛田川渡し場常夜灯」(左の写真)。安永9(1780)年のもの。向かって左には、「銚子場組 江戸干鰯問屋」とあります。奥のもの(右の写真)は、「永代 常夜灯」、文政6(1823)年のもの。こちらの台石には「新玉講」と刻まれています。
Img_3619c この石垣のところ、珍しいものが見えます。「捨石」がそれです。「捨て石」Img_3620c は知ってはいましたが、実物を見るのは初めて。ここは、隠居丸あたりで、江戸時代の修理のあとのようです。表土から約0.2m下。幅0.8~1.0m、長さ19mで、石垣が孕んだ部分だけにあるといいます。
Img_3623c この先には、本居宣長ノ宮の鳥居が見えていました。もとは本居大人奥墓(おくつき)がある旧山室村(松阪市山室町字高峯)にあったのですが、大正4(1915)年、ここに遷座。本居神社という名称でしたが、平成7(1995)年に社号を本居宣長ノ宮と改称しています。学問の神だそうですから、お参りしてこなければなりませんでした(苦笑)。ということは、遠く見えたので、パスしてしまったのです。今回はこういうことばかり。蒸し暑かったのが主な理由ですが、事前に予習をしなかったのもいけませんでした。やはり、予習、復習は大切。本居宣長記念館へ行ってしまいました。
Img_3631c こちらが、本居宣長記念館のエントランス。本居宣長(モトオリノリナガ)(享保15(1730)年~享和(1801)元年)は、18世紀最大の日本古典研究家。伊勢国松坂(三重県松阪市)の人。木綿商の家に生まれるが、医者となり、医業の傍ら『源氏物語』などことばや日本古典を講義し、また現存する日本最古の歴史書『古事記』を研究し、35年をかけて『古事記伝』44巻を執筆しました。鈴と山桜をこよなく愛し、書斎を「鈴屋」と呼び、また山室山にある奥墓には山桜が植えられています。
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 ここは、公益財団法人鈴屋遺蹟保存会が運営管理する登録博物館で、本居宣長の旧宅「鈴屋」を管理、公開しています。『古事記伝』などの自筆稿本類や遺品、自画像などが公開されていました。入館料、通常¥400のところ、¥300で拝観してきました。
Img_3629c 記念館の敷地内には、句碑などいろいろ。まずは、山口誓子句碑。「城を出し 落花一片 いまもとぶ」。天狼俳句会松阪支部が、昭和49(1974)年3月に建てたもの。昭和19年4月19日の作。当時、誓子は伊勢の富田で療養生活を送っていたのですが、病人だからといってじっとしていられず、本居宣長の旧居を見るために松阪へ来た時に詠んだもの。
Img_3634c こちらは、歌碑のようです。「おくつかれ里 大人たちのこゑもきこゆ○ ○はひ○て わけ○く ふみ乃」とあると思うのですが、調べきれませんでした。「写真を撮っておけば、大丈夫」と高を括っていたのですが、案外強敵でした(苦笑)。
Img_3627c 「花道二葉流記念碑」です。「第一世 堀口玉方書」とあります。二葉流は、花道界に初めて「自由花」の呼称と概念をあたえた堀口玉方によって、大正7(1918)年)に創流された華道の流派。大阪市中央区に本部がありますが、松阪が発祥の地のようです(こちら)。毎年9月23日の秋分の日に、伊勢神宮神楽殿にて献花式を行っているそうです。
 というところで、その2はここまで。案外手間取ってしまっています(苦笑)。次は、鈴の屋から松坂城跡へと進む予定。

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2018年6月15日 (金)

20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その1)……小津安二郎青春館、夢休庵で松阪撫子、原田二郎旧宅から松工、松坂神社【明治天皇樹敬寺御晝餐所を付記しました(6/17)】

20180526jrc  ウロウロしている内に日にちが経ってしまいました(苦笑)。5月26日に出かけたJRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」の本編、その1です。松阪へは、最初の勤務先で働いているとき、在宅の患者さんの家庭訪問や、保護者の方の集まりに行ったことがありましたが、それはもう30年以上も前ですので、一度は行きたかったのです。今回は、とくに松阪城跡と御城番屋敷を見たいと思って、出かけてきました。松阪撫子も、どんな花か興味がありました。コースマップでは、約7.4㎞となっていました。

180526jrmatsusaka こちらが実際に歩いたルートマップ。今回は暑かったせいもあって,ほとんど寄り道はしていませんが、それでもお城の中などを歩き回り、9.4㎞でした。しかし、時間をおいて改めてみてみると、9.4㎞歩いたなどと威張って書いていますが、実際にはほぼ1㎞四方ほどの中を回っただけですねぇ(苦笑)。
Img_3448c JRさわやかウォーキングなのに、どういうわけか近鉄の乗車券を買っていImg_3450c ます(苦笑)。JRの方にはナイショです。その理由は、近鉄で行けば¥940のところ、JRですと¥1,180かかるからです。近鉄急行では1時間10分ほど、JR東海の快速みえでは約50分。急ぐこともありませんから、時間的には許容範囲。桑名駅を9時1分の五十鈴川行き急行に乗車。松阪駅到着は、10時10分。
Img_3455c JR松阪駅(西口)の改札横のKIOSKの隣には、「あら竹」の売店があり、松Mregularmou 阪牛の弁当も売っていて,ちょっとばかり気になります(微笑)。右の写真(あら竹さんのサイトからお借りしました)の駅弁は「モー太郎弁当」。すき焼き肉がたくさん入っていて、日本初のメロディ駅弁~♪だそうです。¥1,350(税込)と、さわやかウォーキングのお昼にしては、ちと豪華すぎるかと買いませんでした。
Img_4037c JR松阪駅での受付は8時半から受付でしたので、空いていました。駅前ロータリー公園には、国学者本居宣長ゆかりの遺品「七古鈴(七種鈴)」の一つである「驛鈴」と呼ばれるものを模ったオブジェがあります。「驛鈴」とは、律令時代に朝廷が地方に行く役人に身分証として支給したものです。浜田(島根県浜田市)12代藩主・松平定康が「古事記伝」を著した松坂出身の本居宣長が鈴好きと知り、伊勢神宮参拝の途中、贈ったもの。松阪と浜田の縁は、浜田藩初代藩主で浜田城を築城した古田重治が、元和5(1619)年に江戸幕府の命で浜田に行くまで、伊勢国松坂城主だったことによります。10時15分にスタート。
Img_3473c 松阪駅から南西へ行き、松阪駅前交差点で左折。南東に向かい1㎞ほど。「垣鼻(かいばな)町」にある三角公園でほぼUターン。この地名、昔、家庭訪問に来た記憶がありますが、あたりの様子はまったく見覚えなし。三角公園近くに小津安二郎青春館。小津安二郎監督は、9歳(大正2(1913)年)で松阪に移住し、ほぼ10年間を過ごしました。第二尋常小学校から県立第四中学校(その後、宇治山田中学校と改称、現在の宇治山田高校)を卒業。小津作品に見られる「家族愛」などは、松阪での生活や体験と切り離せないものがあり、また、映画の場面や台詞、風景等は監督が体験した松阪の思い出とダブるところがあると考えられています。この記念館は、小津監督の青春時代にスポットを当て、関連資料などが展示されています。概観は、大正~昭和初期の映画館を再現しています。金・土・日・月曜日と祝日のみ開館。入場無料。
Img_3496c この日、松阪では「第12回松阪撫子どんな花?祭り」を開催していましImg_3490c た。コースマップには、「コース随所にて松阪撫子の花がお出迎え」と書いてありましたが、次の立ち寄り先のなでしこ館(夢休庵(むきゅうあん))で、松阪撫子を見られました。松阪撫子は、松阪三珍花の一つ(他は、松阪花菖蒲、松阪菊)。一般には、伊勢撫子として知られています。松阪三珍花保存会という会もあります。
Img_3899c 松阪撫子を初めて作り出したのは、江戸時代後期、松坂・殿町に住んでいた紀州藩士・継松栄二(1803~1866)です。河原撫子を栽培中、偶然にも花弁の深く切れて長いものを発見し、更に実生により改良を加え松阪撫子を作出したと伝えられています(1830年頃)。第119代光格天皇もたいそう愛でられたとか。
Img_3500c 垣鼻の三角公園から、小津安二郎青春館、なでしこ館(夢休庵)とたどっImg_3504c てきた道は、旧・伊勢街道。日野町交差点角にあるヒシナカ薬局の前に道標が立っています。写真は、南を向いて撮っています。「左 さんぐう道 八雲神社 右 わかやま道」と刻まれています。ここで左折し、伊勢街道から和歌山道に入りました。ちなみに、「日野町」という地名は、蒲生氏郷が近江国日野から移転してきた際、日野から連れてきた商人や住民がいたことから、町名になったといわれます。余談ですが、こういう昔からの地名が残っているのはよいことです。
Img_3508c 日野町交差点の先、左手に樹敬寺(じゅきょうじ)があります。浄土宗、山Img_3514c 号は法幢山。京都知恩院の末寺にあたり、建久6(1195)年、俊乗坊重源上人によって開かれました。ここは、代々、本居一族の菩提寺です。宣長墓(国史跡指定)もあるのですが……
Img_3517c 山門のところにあった、この案内図を見て、断念(苦笑)。この時点ですでに相当暑くて若干へばり気味、また、案内図をパッと見た印象では相当奥まで入っていかなければならないように見えたのです。今から思うと、惜しいことをしました。
Img_3511c 樹敬寺には、「明治天皇樹敬寺御晝餐所(ごちゅうさんしょ)」という石碑が建っていました。明治天皇は、明治13(1880)年7月7日、ここ樹敬寺にて昼食を摂られたということです。明治天皇は、この年、7月4日~6日、明治天皇は三重県庁、裁判所、師範学校、津中学校を御巡覧され、願王寺でご宿泊されました。津市の寒松院には、明治天皇行在所跡があります(4月29日:20180423勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」(その1)……津新町駅界隈、松菱百貨店、藤堂家墓所の寒松院)。7日に伊勢神宮に御親謁されていますから、そのとき、ここでお昼を召し上がったということでしょう。その後は、名古屋、大阪に向かわれたといいます。
Img_3521c 樹敬寺から300mほど先、右(西)側にある歯医者さん、清水歯科。左のImg_3703c 写真(新町通から撮ったもの)ではわかりにくいのですが、御城のような建物になっています。玄関も、御城みたいなデザインになっています。右は、松阪城跡から見たもの。まるで天守閣と二の丸のようなイメージ。今は、閉院したようです(こちら)。
Img_3528c 松阪新町郵便局を過ぎて、右折を重ね、殿町へ入って行Img_3535c きますと、「松阪撫子発祥の地」という案内板がありました。松坂は、天正16(1588)年、蒲生氏郷が松坂城を築城。慶長5(1600)年、古田重勝が松坂藩を立藩しましたが、元和5(1619)年に古田氏は石見国浜田城に転封となり、紀州藩の藩領(飛び領地)になっています。殿町あたりは、紀州藩士が住んだところ。このあたりは、右の写真のように、今でも武家屋敷の雰囲気がよく残っています。松阪三珍花のうち、松阪撫子と松坂花菖蒲は、紀州藩士が始めたもの。
Img_3537c その中の一軒は、「松坂花菖蒲発祥の地」です。紀州藩士であった吉井Img_3538c 定五郎(1776~1818)がノハナショウブ(花菖蒲の原種)から品種改良したものが、松坂花菖蒲。リンク先の松阪三珍花のサイトには、「江戸・肥後花菖蒲と比較して女性的な優雅さを発現した美しい花であり、多くの人々に愛好されている」とありますが、実物は見ていませんし、小生ではそこまで詳しく区別できません。
Img_3543c その先にあるのが原田二郎旧宅(市指定有形文化財)。原田二郎は、紀Img_3558c 州藩松坂領の町奉行所の同心の家に生まれました。このあたりは、「同心町」と呼ばれ、紀州藩松坂領の町奉行所などにつとめる武士の家が並んでいたところだそうです。原田は、21歳のとき京都に上がり、さらに23歳のとき、東京に出て英語と医術を学んだ後、大蔵省に勤め、31歳で横浜の第74国立銀行(現在の横浜銀行の前身)の頭取となり手腕を発揮。34歳のとき松阪に戻ります。54歳の時、井上肇の依頼で大阪の鴻池銀行の整理、再建にあたりました。71歳で再建に成功した後、退職。
Img_3550c その時得た莫大な退職金、全財産をすべてつぎこみ、社会公益事業に対する助成団体、原田積善会を設立しました(大正9(1920)7月)。原田積善会は、現在も公益財団法人として、社会事業分野と学芸事業分野の2つを柱に継続して幅広く行っています。原田は、「天下の富は一家の私すべきものではない」との信念から社会福祉に貢献すべく、この財団を創設しています。それから98年間、助成事業活動が続いているというのは驚くべきことと思います。
Img_3566c 御城番屋敷へ行く前に、県立松阪工業高校の前を通ります。明治Img_3666c 35(1902)年に創立。その当時から木造校舎の外壁は実験に用いる硫化水素の影響を受けて黒変することがないようにと朱色に塗装されていたそうです。そのため、創立早々から松阪工業は「赤壁(せきへき)」と呼ばれ、親しまれてきたといいます。しかし、この御城番屋敷隣という立地条件は、いいですねぇ。
Img_3569c 松阪工業高校の北西には、松阪神社があります。ここもまた、一の鳥居Img_3572c からかなり奥まで行かねばならない感じで、立ち寄りはパスしてしまいました。創始については明らかではありませんが、社伝によれば延喜年間(901~923年)以前といいます。天正16(1588)年、蒲生氏郷が当地飯高郡矢川庄の宵の森(四五百の森)に松坂城を築城した際、城内南丘の小社を城の鎮守社に定め、新しく壇を設け社殿を造営して正八幡を勧請、奉斎したと伝わっています。主祭神は、誉田別命、宇迦之魂神の2柱。合祀されているのは、天照皇大神など33柱(こちらをご覧ください)。ここもきちんとお参りしてくればよかった(微笑)。と反省しきり。
 というところでキリもよいので、今回はここまで。次は、御城番屋敷から。

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2018年5月26日 (土)

20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(予告編)

20180526jrc  またもや“20180512近鉄ハイキング“四日市港ポートビルからの眺望と賑わう「四日市萬古まつり」を楽しむ」”へ”の記事が終わっていないにもかかわらず、JRさわやかウォーキングへいってきてしまいました。「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」であります。松阪、行きたかったのです。松阪城跡と御城番屋敷を見たいと思って、出かけてきました。松阪撫子も、どんな花か興味がありました。コースマップでは、約7.4㎞となっていました。

Img_3448c  JRさわやかウォーキングなのに、どういうわけか近鉄の乗車券を買っています(苦笑)。JRの方にはナイショです。その理由は、近鉄で行けば¥940のところ、JRですと¥1,180するからです。近鉄急行では1時間10分ほど、JR東海の快速みえでは約50分と時間的には許容範囲。桑名駅を9時1分の五十鈴川行き急行に乗車。松阪駅到着は、10時10分。
Img_4037c スタートは、JR松阪駅。JRの駅は西口側。8時半から受付なので、空いてい180526jrmatsusaka ました。駅前ロータリー公園には、国学者本居宣長ゆかりの遺品「七古鈴(七種鈴)」の一つである「驛鈴」と呼ばれるものを模ったオブジェがあります。10時15分にスタート。右のようなコースを歩いてきました。9.4㎞ほど。
Img_3473c 最初の立ち寄り先は、小津安二郎青春館。小津安二郎監督は、東京で生まれた後、9歳で松阪に住まいを移し、青春時代の約10年間を過ごしました。監督作品や永遠のテーマとなった「家族愛」などは、松阪での生活や体験と切り離せないものがあるとされています。この博物館は、青春真っただ中の小津青年にスポットをあて、その青春時代を彷彿させる品物や関係写真などで当時を再現するとともに、代表作品や関連資料を展示しています。
Img_3490c 次の立ち寄り先のなでしこ館(夢休庵)で、松阪撫子を見られました。ちょImg_3496c うど今日は、第12回松阪撫子どんな花?祭り開催中。松阪撫子は、松阪三珍花の一つ(他は、松阪花菖蒲、松阪菊)。江戸時代の武士が撫子を栽培中、花弁が深く切れ、垂れ下がったものを見つけ、改良したもの。第119代光格天皇もたいそう愛でられたとか。
Img_3543c こちらは、原田二郎旧宅。原田二郎は、紀州藩松坂領のImg_3558c 町奉行所の同心の家に生まれました。21歳のとき京都に上がり、更に23歳のとき、東京に出て英語と医術を学んだ後、大蔵省に勤め、31歳で横浜の第74国立銀行(現在の横浜銀行の前身)の頭取となり手腕を発揮。34歳のとき松阪に戻ります。54歳の時、井上肇の依頼で大阪の鴻池銀行の整理、再建にあたりました。71歳で再建に成功した後、退職。その時得た莫大な退職金、全財産をすべてつぎこみ、社会公益事業に対する助成団体、原田積善会を設立しました。
Img_3573c 次は、いよいよ御城番屋敷。今日ももっとも見たかったところ。このたたImg_3581c ずまいを歩いてみたかったのです。江戸末期に紀州藩士が松坂城警護のため移り住んだ武家屋敷です。このような組屋敷は全国でも大変珍しい上に、今も多くの人々がここで暮しているのです。西棟北端の一軒は内部を公開しています。
Img_3610c 御城番屋敷のすぐ西は、松阪城跡。ここも訪れたかったところ。石垣のImg_3619c 上から松阪の町や、御城番屋敷などを眺めたかったのです。が、その前にコース設定は、本居宣長記念館。記念館に行く途中、石垣のところに「捨て石」がよく分かるところがありました。捨て石をきちんと見たのは初めて。右の写真で、石垣の下、手前に敷かれているのがその捨て石。
Img_3631c 本居宣長記念館。公益財団法人鈴屋遺蹟保存会が運営管理する登録博物館で、江戸時代の国学者・本居宣長の旧宅「鈴屋」を管理して公開し、展示室では『古事記伝』などの自筆稿本類や遺品、自画像などを公開しています。
Img_3648c 本居宣長の旧宅「鈴屋」。宣長12歳から72歳で没するまで60年間にわたって暮らした家です。建物は元禄4(1691)年に松阪職人町に建てられた後、魚町に移築されました(魚町は、当時、宣長がいたところ)明治42(1909)年、保存のために松阪城跡の現在地に移築され、宣長当時の姿に復元し、公開しています。この建物の二階の書斎が「鈴屋」と呼ばれています。
Img_3700c 宣長の旧宅から松阪城跡へ。御城番屋敷を眺めます。いい眺め。これがImg_3762c 見えるところのベンチがあいていたので、ここで昼食。いい気分(微笑)。昼食休憩のあと、城跡を散策。本丸跡にある天守閣跡にも登ってきました。天正16(1588)年に蒲生氏郷によって築城されました。建造物はなく、豪荘な石垣が残るのみです。
Img_3777c 天正18(1590)年、氏郷が小田原征伐の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て若松城に移りました。その後、藩主の入れ替わりが何度かあり、元和5(1619)年、紀州藩の藩領となっています。松阪城はこのあたりを統括する城として城代が置かれました。天守は、正保元(1644)年に台風のため倒壊したとされ、以後は天守台のみが残ることとなっています。寛政6(1794)年、二の丸に紀州藩陣屋が建てられ、以後、紀州藩領として明治維新を迎えました。
Img_3795c 続いて、鈴の森公園へ。ここは、カネボウ綿糸工場の跡地。平成Img_3800c 5(1993)年に工場は閉鎖されました。そこを利用してつくられた公園。大正12(1923)年建築の赤レンガの綿糸倉庫を活用したギャラリーがあります。また、宝塚古墳から出土した船形埴輪を常設展示している文化財センター「はにわ館」もあります。ちなみに、鈴の森公園にある池では、チョウトンボが見られるという掲示がありました。
Img_3819c 阪内川沿いを歩いて、次の目的地である旧長谷川邸へ向かう途中、松阪肉で有名な、牛銀本店の前を通ります。創業明治35(1902)年。すき焼きなど、松阪肉の料理が食べられます。今の小生にとっては、縁遠い店ですので、写真を撮って通過(微笑)。
Img_3844c 旧長谷川邸。魚町通(参宮海道)にあるこの邸宅は、三井家・小津家となImg_3880c らぶ松阪商人を代表する江戸店持ちの商家、長谷川家の旧宅です。今まで知りませんでしたが、まさに豪商の邸宅。格子、霧よけ、妻入りの蔵、そしてうだつの上がった屋根など、落ちついたたたずまいの中に、当時の松阪商人の隆盛ぶりがうかがえました。右は、庭園。
Img_3892c 松阪もめん手織りセンターを見て、豪商ポケットパーク。三越にあるライImg_3899c オン像がありました。ここは、イベントなども行われるようです。他のあちこちにもありましたが、ここの松阪撫子、一段ときれいな感じでした。
Img_3912c 松阪商人の館へ行く途中に「三井家発祥の地」があります。豪商三井家Img_3905c の創業の祖は3代高利(たかとし)(1622~94)です。ここには白粉町来迎寺より移した初代高安と2代高俊の墓、高利の長兄らの供養碑などがあるそうです(非公開)。また、高利の産湯に使ったという伝承のある井戸があり、発祥の地の記念碑も建つといいます。三井家は、松阪本町から、やがて「江戸店持京商人(えどだなもちきょうあきんど)」となって天下に飛躍していきました。
Img_3919c こちらは、松阪商人の館。江戸で紙や木綿を手びろく商いしていた豪商、Img_3925c 小津清左衛門の邸宅です。格子と矢来のある概観は質素なのですが、内部は意外なほど広く、2つの土蔵も残っています。
Img_3968c
最後のスポットは、岡寺山継松寺。聖武天皇の勅願によって創建され、天Img_3980c_2 平15(743)年に行基菩薩が建てたと伝わる、日本最初の厄除観音の霊場です。東大寺建立の大事業が無事成功することを祈願するために建てられた寺院といいます。ご本尊は、如意輪観世音菩薩。3月の初午大祭が有名。ここも以前から一度は訪れてみたかったお寺です。
Img_4022c 継松寺から出て来たら、こちらの立派な建物が見えました。あの有名なImg_4017c 和田金です。説明するまでもないくらい有名な松阪肉寿き焼のお店。今も昔もまったく縁がありません(苦笑)。いつぞや、ここのお肉をいただいたことがあったような記憶もありますが、気のせいかも知れません。
Img_4039c 蒸し暑い中歩き回って、ゴールの松阪駅についたのは、14時25分。14時54分の、これまた近鉄急行名古屋行きに乗車して帰宅。桑名駅着は、16時2分。
Img_4041c_2 今までのJRさわやかウォーキング、近鉄ハイキングの中でもっとも疲れた気がします。これからの蒸し暑い季節、歩き方を考えるなりしないといけません。松阪は、10数年ぶり。この前来たときは、家内の父親が入院した見舞いに来たとき。それ以前、仕事で家庭訪問や、障害のあるお子さんの親の会の仕事できたのは、30年かそれ以上前。ほとんど初めて訪れたも同様です。具体的な記事は、また、“20180512近鉄ハイキング“四日市港ポートビルからの眺望と賑わう「四日市萬古まつり」を楽しむ」”へ”が終わってからボチボチと書きましょう。

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2018年4月27日 (金)

20180414 JRさわやかウォーキング「桑名の山野辺散策とサンジルシ醸造をたずねて」(その3、完)……走井山勧学寺、三猿、サンジルシ醸造、有王塚を経てゴール

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 遅くなった上に、途切れ途切れの記事になってしまっています。小人閑居しておりますが、なかなか思うとおりに行かないところもあります(苦笑)。走井山公園の途中まで来ました。実は、公園には、佐藤華山翁遺愛碑があるようなのですが、今回の記事を書くのにあれこれ調べるまで、その存在すら知りませんでした。この碑は、もとは愛宕山にあったもので、文政2(1819)年に門人が建てたそうです。佐藤崋山は、桑名藩の能筆で、桑名城の時の鐘(行田市に現存)の書丹者です。これは、次に行ったときの宿題。
Img_9218c 公園に隣接して、東側に走井山勧学寺があります。高野山真言宗のお寺。Img_9226c ご本尊は、千手観音立像(県文化財)。境内に名水「走り井」があったので、山号を「走井山」としたといいます。ここは、戦国時代、矢田氏の居城であった矢田城跡の一画。創立については、天平年間(729~749年、聖武天皇の御代)、行基の草創と伝わりますが、正確なことは不明。近世までは走井山(矢田城)北麓にあり、元和年間(1615~1624年)、桑名藩2代藩主本多忠政の家臣・半弥によって現在地へ移されたといいます。その後、7代藩主・松平定重(在職1657~1710年)の代に本堂が再建されています。市内に現存する寺社建築としては最も古いとされています。
Img_9221c 境内にある仏足石。仏像が出現する以前、インド初期仏教では法輪、菩提Img_9223c 樹、塔などを拝んだが、この仏足石も崇拝対象の一つだったといいます。この仏足石、説明板によれば、江戸時代末期の作で、珍しい様式だとか。市の文化財。
Img_9217c 境内には、太子堂もあります。この太子堂は、明和年間(1764~72年)、Img_9214c 聖徳太子への信仰が厚かった「桑名惣大工中」が建立したのが始まりだそうです。火災に遭い、平成3(1991)年、桑名建築組合が再建しました。
Img_9215c 地蔵堂もいくつかあります。こちらのお地蔵様は、鉢巻地蔵。鉢巻地蔵Img_9231c_2 は、太子堂のすぐ側。右は延命地蔵。他にも、水子地蔵もあります。
Img_9232c  JRさわやかウォーキングのコースはここから、三岐鉄道北勢線・馬道駅の方へ降りていきます。ここ走井山あたりは、実は、三岐鉄道北勢線の撮影スポットでもあります。勧学寺の鐘楼あたりからというアングルもなかなか。以前は何度か撮ったのですが、桜の季節ですと、桜の間から三岐のナロー電車がJR・近鉄をまたぐ跨線橋を通ってくるシーンなどが撮れます。
Img_9234c ちょうど、馬道駅を発車する下り電車がありましたので、ゆる鉄風に撮っImg_9250c てみました(苦笑)。あくまでも「俄撮り鉄」ですので、ご笑覧のほどを。この馬道駅へ下る階段の途中に、右の写真のように、「伝村正屋敷跡」という案内板があります。村正は、あの妖刀村正。桑名の刀工。室町時代中期以後、代々活躍しました。文亀・天文年間 (1501~55年) に同名の刀工が数代あるのですが、永正年間 (1504~21年) の作品に傑作が多いといいます。あくまでも「伝」ということですが、この東にあるマンションのところに村正の屋敷があったと伝わっています。地下水が豊富であったので、作刀に適していたのかも知れません。
Img_9251c 馬道駅西の踏切に降りるまでのところ、西側に鳥居があります。「お菊稲荷大神」という社名標。ここがお菊稲荷への参道の入り口ということになります。今度来たら、ここから上がっていってみることにします。何か別のものが見えるかも知れません。
Img_9258c この鳥居の下に、三猿の塔があります。予告編でも書きImg_9261c ましたが、これ、大のお気に入り。2005年5月、体調を崩してしばらくの頃、このあたりに気分転換に散歩に連れてきてもらって、見つけたのです。この日は、久しぶりに対面してきました。復職を試みていた頃、この三猿の写真を「魔除け」として、研究室のドアに貼っていたことがありました。左の写真でご覧いただけるかも知れませんが、台座には、「此の心 我れができぬは 人?はせよとハそれハむり志や ?てくだされハ ありがたし」と刻まれています。
Img_9271c 馬道駅のところ(この辺で4km)を過ぎると、濃州道を渡ります。この街道は、桑名市三ツImg_9273c 矢橋町から、東員町鳥取、いなべ市員弁町笠田、いなべ市北勢町阿下喜などを経て、いなべ市藤原町山口で巡見道に合流します。いなべの方も桑名藩領でしたので、員弁郡下から桑名城下へと続く道として発展したところです。桑名では員弁街道ということが多いようです。
Img_9278c 近鉄名古屋線・益生駅の西を南下して、最終の目的地であるサンジルシ醸造へ向かいます。途中、ある会社の敷地内に稲荷社がありました。「末廣稲荷大神」という社名標が鳥居に掲げられています。この会社の「マイお稲荷さん」のように思えます。
Img_9317c 10時20分頃、サンジルシ醸造に到着。味噌、醤油などを造っています。Img_9299c その昔、桑名藩のご用商人として、回船問屋を営んでいたそうですが、文化元(1804)年、藩命を受けて「みそ・たまり醸造業」をはじめたそうです。サンジルシ醸造はまた、インスタント食品のはしりともいうべき固形みそ、粉末しょうゆを全国で初めて開発、販売したそうです。また、過去には「一・二・三のサンジルシ」のキャッチフレーズで一世を風靡しました。
Img_9300c サンジルシ醸造の社章は、伊勢湾に注ぐ、木曽三川(揖斐、長良、木曽川)を表すそうです。上記のように藩の御用商人として、廻船問屋を営んでいました。藩主の命によって、醸造業に進出したのですが、廻船問屋を営んでいた頃の船の旗印を社章として引き継いでいます。
Img_9283c 会社の正門を入ると、醸造用の大きな樽と、佐藤信之助の像が迎えてくImg_9284c れます。佐藤信之助は、昭和12(1937)年、祖父を継いで社業を発展させた人物。経済界だけでなく、社会公共分野で活躍しました。桑名商工会議所会頭の他、県の公安委員会の委員長、中京テレビ社長など、多くの役割を兼ねておられました。
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 サンジルシ醸造さんでは、味噌汁の接待をしていただきました。さすがにImg_9289c 醸造元、暖かいものを美味しくいただきました。社員の方が席まで運んでくださるというサービス。即売会も開かれていたのですが、何といっても地元の会社ですから、ここで買わなくてもいいかなと思って、パス(帰宅後、誉められました……苦笑)。
Img_9308c 味噌汁をいただいたあとは、味噌蔵を見学してきました。見せてもらえたImg_9309c_2 のは、「天然醸造蔵」。速醸室ではなく、自然の環境で味噌を熟成させるための蔵。熟成期間は、1年以上だそうです。味噌の香りが堪りませんでした(微笑)。このあたりは、基本的に豆味噌。小生の出身地である、愛知県西三河もそうでした。
Img_9310c 工場内にいくつも置かれていました。味噌樽などの重しに使うものだと思Img_9313c います。昭和47(1972)年に現地へ移転したそうですから、50年近くが経過します。さすがに50年経つと、工場や設備も由緒正しいものという印象が深まっていました。
Img_9320c コースマップでは、サンジルシ醸造が最終の立ち寄りスImg_9334c ポットでしたが、小生はせっかくだからと近鉄名古屋線・益生駅近くにある「有王塚 付 俊寬塚(ありおうづかつけたりしゅんかんづか)」を見てきました。あまり有名ではありませんので、ご存じの方は少ないと思います。ここも2005年5月に馬道あたりに来たときに初めて訪れました。ブラブラしていたら、俳句好きとおっしゃる男性が案内してくださったのです。
Img_9329c 「有王塚 付 俊寬塚」は、俊寬は平家物語に登場する伝説の塚です。俊寛僧都の侍童有王が、流罪中の俊寛を鬼界ヵ島に訪ねたものの、すでに師は亡くなっていたため、高野山に収めるべく師の骨を抱いて行脚をしていた途中、鎌倉時代にここにあった「りん(舟偏に侖)崇寺<りんそうじ>」(現在は、市内寺町にあります)の前で没したと伝わっています。大正時代に俳人天春静堂と桑名の俳人達によって修築保存されたといいます(大正10年2月11日)。このあたりで6㎞。
Img_9325c 有王塚の北にありました。これが俊寬塚だったかなと思ったのですが、13d61f22 2015年08月31日の散歩写真を見ると明らかに違いました(右の写真、撮影も2005年(平成17年)5月16日)有王塚も、写真にあるようにマンションが建っていますから、移転されていると思います。益生駅の方にも見に行ったもののの、見つけられませんでした。もう少し先まで行く必要があったようです。
Img_9340c 近鉄名古屋線・益生駅近くに戻り、近鉄名古屋線・JR関Img_9351c_2 西線の線路際を通って、桑名駅方面へ。三岐鉄道北勢線の高架橋の下を久具他ところで、吊りかけモーターの音が聞こえてきました。待っていたら、北勢線のレトロカラー電車が通っていきました。北勢線は、次の西桑名駅が終点で、折り返し運転のはず。このレトロカラー電車、阿下喜のお雛さんの近鉄ハイキングの時も見たのですが(3月3日;近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(その3)……鈴鹿山脈を眺めながら、久保院、麻績塚古墳・久保院八十八ヶ所道からいよいよ阿下喜の町へ(まだ続く))、もう少しよい写真を撮りたいと思っていました。
 時刻表(ハイキングに行くと、その駅の時刻表をもらってきています。それは、ハイキングセットの中に入れてあるのです)をチェックすると、10分後に折り返し運転(西桑名駅11時05分発)。近くにいた母娘連れの方も、「えっ!? そうなの? じゃぁ待っていようか」と。この娘さんに「何でそんな時刻表まで持っているの?」と不思議がられました(苦笑)。
Img_9380c どこから撮るか迷ったのですが、少し戻って、上2枚の写真にある高架橋の北東から撮ることにしました。町名でいうと、新矢田1丁目あたり。またもや、準備もなしの「俄撮り鉄」でしたから、こんな写真。見上げるアングルを試しました。
Img_9410c コースに戻り、線路沿いを桑名駅に向かいます。行きに渡った跨線橋をImg_9413c 再び登ります。右の写真は、この直前に通ってきたあたりを撮っています。向かって右手は、最近、住宅団地が開発されたところです。右から近鉄、JRの線路で、三岐鉄道北勢線は、向かって左手にあるマンション近くを走っています。
Img_9416c 桑名駅近くまで戻ってきました。 ゴールは、桑名駅ではなく、バス乗り場Img_9419c の北の端。ゴールは11時20分頃。スタートしたのが8時50分でしたから、2時間半。歩いた距離は、距離測βで見ると、6.6㎞。
Img_9420c こちら、いつもの完歩記念パネル。毎回Dscn6726c 同じとはいうものの、これがないと落ち着きません。スタンプはようやく4個目。先は長い。
 4月14日に行って以来、2週間近くかかって記事の方もゴールしました。皆さまに御礼申し上げます。23日(月)に行ってきた「勝手に近鉄ハイキング」もなるべく早めに着手したいと思ってはいますが、どうなりますか?

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2018年4月24日 (火)

20180414 JRさわやかウォーキング「桑名の山野辺散策とサンジルシ醸造をたずねて」(その2)……太夫の八幡社と、走井山公園

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 太夫の大楠のすぐ東に八幡社があります。勝手に立ち寄り(笑)。こちらにある西桑名神社の説明Img_9130c を見ますと、元は太夫村八幡社であったと思われます。この八幡社は、明治41(1908)年10月に西桑名神社に合祀され、合祀した新しい神社を南大山田神社といったようです。その後、第二次大戦後に分祀されたのではないかと思いますが(大貝須あたりの神社でそういう例をたくさん見ました)、ネット検索では情報が出て来ませんし、神社検索(三重)にもリストアップされていません。社名標には、「南大山田神社」とあり、詳細は不明。由緒書きもありません。
Img_9132c こちらがお社。秋葉神社などによくあるようなタイプ。八幡社ですから、御祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)、すなわち応神天皇です。
Img_9140c 境内、拝殿の北東側には、「八天宮」と刻まれた石柱がありImg_9141c ます。かなり古びていますし、傾いていました。「八天宮」は、火伏せの神のはず。こちらの説明では、桑員地方で特に信仰が多いそうです。それは、江戸時代・文政7(1824)年、桑名藩主の命で各村に八天宮を祭るようにされたからです。要するに、防火に気をつけるよう八天宮を祭ったということでしょう。それにしても、この石柱だけというのは、どういうことでしょう? お社があった名残か何かでしょうか?
Img_9137c 境内には、もう一つ興味深いものが。それは、「両宮遙拝所」と刻まれた、Img_9135c 古びた石碑。この向きからして、両宮は、たぶん間違いなく伊勢の内宮と外宮。碑陰には、「文政九年丙戌正月十五日 加藤源太夫至(?)吉」とあるように読めます。文政9年は、1826年。「加藤源太夫」というのは、伊勢大神楽の社家の一つで、平成に廃業したところと同じ名前。何か、関連がありそうな気がします。リンク先のWikipediaの説明に出て来ます(廃業した社家のところ)。謎は解明できませんが、なかなか面白い神社でした。
Img_9142c 大きくコースを外れたのではありません。すぐに戻り、神楽町という、何やImg_9150c_2 ら由緒ありげな名前の住宅街を抜けて、桑名市上野へ。上野浄水場の南に出ます。ここからは、南の方がよく見えます。右の写真は、中部電力川越火力発電所を眺めたもの。
Img_9156c あいにくの曇天で眺望はイマイチでしたが、場所と方角を選べば、ナガシマスパーランドも見えます(左の写真)。眼下に目を転ずると、三岐鉄道北勢線のナロートレインが、ガタンゴトンと吊りかけモーターの音を響かせて、懸命に走っていくのも見えます(写真はありません)。
Img_9161c こちらが、桑名市の上野浄水場。当然、立ち入り禁止。ただ、ここの構内Img_9159c には、立派なソメイヨシノの木があります。このウォーキングは、4月14日でしたので、いずれにしても桜の季節には遅いのですが、満開ですとそれは見事です。
Img_9198c 浄水場の東に隣接して、走井山公園があります。矢田城の跡で、伊勢湾Img_9195c まで見通しがききます。ソメイヨシノが115本あるほか、シダレザクラなどもあって、桜の名所。公園内には殉国碑や、お菊稲荷神社、庚申塔を集めたところなどがあり、ここもある種のワンダーランド(微笑)。東隣には、走井山勧学寺があります。桜はわずかにシダレザクラが咲いていました。
 矢田城は、天正年間(1573~1592年)に毛利家の家臣・矢田俊行によって築かれたとされます。その後、永禄年間(1558~1570年)に滝川一益によって攻められ落城しました。矢田城は滝川一益に与えられ、長島一向一揆攻略の最前線基地となっています。天正2(1574)年、一益が長島城へ移ると、家臣の杉山十左衛門・野呂孫右衛門が入ったのですが、その後廃城されました。江戸時代、桑名藩主松平定綱により、城跡に勧学寺が建てられています。現在、明確な遺構は残っていません。
Img_9164c まずは、殉国碑。桑名市遺族会が戦没者2,158柱の霊を祀るために、元は昭和28(1953)年に建てたようです。その後、昭和38(1963)年、平成27(2015)年にそれぞれ、祀られた方々のお名前が分かるように直されてきています。現在は、殉国碑の両側に銘記されています。
Img_9206c こちらには庚申塔を集めたところがあります。この公園のやや北東に愛Img_9204c 宕山があり、戦国時代、矢田氏によって愛宕山城という城館が築かれていました。江戸時代になって、養像院という寺が設けられています。養像院は明治初頭に廃され、呑景楼という料理屋がつくられました。庚申塔は、明治以降に集められたようです。詳しいことは分からないそうです。ほとんどの庚申塔は倒れていたそうですが、移設に際して復元されました。愛宕山城は、矢田市郎左衛門の居城といいます。 矢田城の矢田氏と同族と思われるが関係は不明。城跡は、現在は住宅地として整地され何も残っていません。
Img_9171c 庚申塔は、別のところにも3基があります。庚申の夜に眠ると命が縮まImg_9178c り、眠らずに身を慎むと災難が除かれるとい道教の教えによって、眠らずに語り明かし、主食の宴を催す「庚申待」が行われるようになったといいます。室町時代末ごろからは、こうした庚申塔(庚申塚)が建てられ始め、桑名でもここ走井山や愛宕山にたくさんあったといいます。
Img_9208c 走井山公園にはこれまで何度も行っているのですが、これには気づきまImg_9209c せんでした。北側の公園入り口の近くにありました。「輜重兵 小川久治郎之碑」です。「輜重兵(しちょうへい)」とは、または輜重兵科(しちょうへいか)。兵站を主に担当する日本陸軍の後方支援兵科の一種だそうです。 碑の右側には、「明治廿区年三月廿一日」とあります(「廿」としたところは、「卅」かも知れません)。もっと驚いたのは、碑の左側にある名前でした(右の写真)。ここには、「陸軍少将 正五位 勲三等 功三級 男爵 立見尚文 謹書」とあったのです。立見尚文は、旧・桑名藩士。第8師団(青森県弘前市)の師団長でした。日露戦争黒溝台会戦で活躍し、大きな戦果をあげています。小川久治郎については、よく分かりませんが、立見尚文が関わっているとすれば、よほどの人物か、立見と関係の深かった人物と思われます。
Img_9181c さて、ここからが面白いところであり、よく分からないことが多いところでもあります。走井山公園の南西隅に「お菊稲荷神社」があるというのは、地図にも載っています。公園の南西隅に行くと、お菊稲荷神社と並んで、「白龍龍神」という神社もあります。
Img_9188c まずは、お菊稲荷神社。上左の写真の鳥居をくぐって登っていくと、左のImg_9190c 写真のようになっています。この鳥居の奥にある石碑には、右の写真のように、「お菊稲荷之霊」と刻まれています。これには参りました。わずかな経験しかありませんが、「稲荷之霊」というのは、これまでに見たことがありません。ネットで検索してみると、こちらに「於菊稲荷神社」というところのサイトがありました。群馬県高崎市にある神社です。そこの記述によれば、江戸時代 新町に於菊という心優しく美しい娘がおり、いつも稲荷神社で近所の子どもたちの面倒をみており、皆に慕われていたといいます。しかし、ある日、重い病にかかり住む所を失ったため、子ども達の親が不憫に思い、稲荷神社の側に小屋を建て交代で看病したといいます。3年の月日が流れたある夜、稲荷の神様が夢枕に現れ、人々のために尽くすようにと於菊に告げたそうです。このお告げと同時に病は全快し、稲荷神社の巫女になったということです。何となく、これに関わる話かとは思うのですが、詳細は不明といわざるを得ません。
Img_9192c お菊稲荷神社の脇には、この「霊狐廟」があります。何となくあまり気持Img_9193c ちの良いところではなかったのですが、見てきました。ここにも、「お菊稲荷の霊」が祀られています。「稲荷の霊」というのは、初めて見ますし、どうも意味が分かりません。「狐が憑く」とか「狐の祟り」というのは見聞しますが……。いつどういう経緯で建てられたお稲荷さんか、よく分かりませんし、ネットで調べても情報が出て来ません。何かご存じの方がいらっしゃれば、是非ご教示ください。
 もう一つの白龍竜神。上の写真(お菊稲荷神社と並んでいるもの)で、側に立っている説明板は、庚申塔のもの。白龍竜神も、よく分かりません。謎は深まるばかり。
 その1で、「本日はここまで」と書きましたが、調子に乗って、その2も書いてしまいました。しかしさすがに、ここで力尽きました(苦笑)。その3は、明日以降(これは確実……笑)。JRさわやかウォーキングや、近鉄ハイキングに行きますと、いろいろと新しいものごとを見聞し、それについて調べ、まさに「あみま倶楽部」の理念通りなのですが(あるく、みる、まなぶであります)、謎は謎を呼ぶというか、一つ分かるとさらにたくさん分からないことが出来します。

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20180414 JRさわやかウォーキング「桑名の山野辺散策とサンジルシ醸造をたずねて」(その1)……幅の異なる3線のレール、諸戸水道貯水池遺構、太夫の大楠

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 このJRさわやかウォーキング「桑名の山野辺散策とサンジルシ醸造をたずねて」に行ってから、もう10日も経ってしまいました(苦笑)。この間、相談会があり、新たなコンサルテーション依頼を受けたり、研究会があったりと、小生にしては珍しく用事がたくさんありました。「怠け者の節句働き 」のような始末。オマケに、昨日は昨日で、「またもや勝手に近鉄ハイキング(笑)……本日は、名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園などなど(予告編)」などに出かけ、困ったものです。ぼやいていても始まりませんし、仕事の方は取り敢えずめどがつきましたので、JRさわやかウォーキングの方から順番に記事を書きましょう。
Img_9060c この日は、ご覧のように曇天でしたが、雨は夕方以降という予報でしたので、久しぶりにJRさわやかウォーキングへ行ってきました。桑名開催でしたので、散歩代わりにということです。桑名駅集合ですから、自宅から徒歩で行けるというのもメリットです(笑)。「桑名の山野辺散策とサンジルシ醸造をたずねて」ということで、桑名駅の南にある、JR、近鉄、三岐鉄道と3つの幅の異なるレールが並ぶところを見て、諸戸水道貯水池遺構、太夫の大楠、走井山公園、勧学寺を経て、サンジルシ醸造を回るという、マップ上5.8㎞というコースでした。
20180414jrwalkingkuwana こちらが実際に歩いたルートです。右上にある桑名駅がスタート&ゴール。地元開催ということもあり、また、事前に予習する時間がありませんでしたので、寄り道は2ヶ所しただけ。走井山公園の中は、けっこうあちこち見回りましたが。実際に歩いた距離は、6.6㎞ほどでした。わが家から桑名駅までの往復を含め、8.6㎞ですので、普段の散歩に多少プラスアルファというくらい。
Img_9057c 集合、受付場所は、桑名駅東口のコンコース。こちら側がJR桑名駅ですImg_9056c (西口が、近鉄桑名駅)。左の写真、ピンぼけですが、オレンジ色のパーカーの方達がJRの係の方。地図を受け取ってスタート。東口を出て、南へ。こちらには、バス乗り場があります。桑名駅およびその周辺は、現在改良工事が進んでいます(こちらを参照)。駅そのものも南へ約80m移動しますし、駅前広場も大きく変貌するといいます。
Img_5377c この写真は、今年2月6日に町屋川へバードウォッチングに行った帰りに撮ったもの。正面は、桑栄メイトビル。向かって左手(西)が、改良工事をしている、駅前広場。手前側に来ると、バス乗り場があります。駅の東西を結ぶ自由通路もできるそうですが、駅から東に住む者にとってはあまりメリットはない気がします。
Img_9064c バス乗り場と、三岐鉄道北勢線・西桑名駅の間を通り、南へ。この日は、多度にある東建多度カントリークラブで「東建ホームメイトカップ」が開催されており、シャトルバスも出ていました。あの石川遼選手も来ていたはず。この日は、予選ラウンドだったと思いますが、それでもバスはけっこう賑わっていました。
Img_9068c 西桑名駅と、百五銀行の間をすり抜けて、線路沿いの道に出ます。「幅の異なる3線のレールが並ぶ光景」というJRさわやかウォーキングの看板が出ています。すぐ右に見えるのは、三岐鉄道北勢線のナローゲージ。ナローゲージは、JRが採用している1,067mmよりも狭い線路幅の鉄道を指すことが多く、この北勢線の線路幅は762mmです。ただ、ここから眺めても違いはよく分かりません。
Img_9069c 桑名ステーションホテルの南に、この3つの幅の異なる線路を渡る踏切があります(歩行者、自転車専用)。我々には1つの踏切なのですが、鉄道会社によって名称が異なり、近鉄名古屋線は「益生第4号踏切」、JR関西線は「桑名駅構内踏切」、三岐鉄道北勢線では「西桑名第2号踏切」といいます(こちらに動画も見られるサイトがありました)。ここを渡ると、その違いが実感できます。この写真で手前から三岐鉄道北勢線(ナローゲージ)、JR関西線(狭軌、1,067mm)、近鉄名古屋線(標準軌、1,435mm;新幹線と同じ)。こちらにいらしたら、是非体験されることをお勧めします。
Img_9071c ウォーキングコースにしたがっていくと、この先で三崎跨線橋を渡ります。この跨線橋から、3つの幅の異なる線路が一望できます。あいにく、どの路線も電車はきませんでしたが、左の写真は桑名駅・西桑名駅方面を眺めたもの。中央あたりに上述の踏切が通っている野ですが、写真ではよく分かりません。向かって右から、三岐鉄道、JR、近鉄となっています。
Img_9078c 跨線橋を降りたところで、近鉄の普通電車と、三岐鉄道の電車がやって来ました。いずれも下り。三岐鉄道は、ちょうど踏切を通過しているところ。ここからは、進路を西にとります。県立桑名高校の前から、東名阪自動車道の桑名インターにつながる道です。
Img_9085c しばらく進むと、桑名高校の手前、北側に桑名神明社があります。神明社ですので、御祭神は天照大御神。社伝によれば、当社の創姶は、応永年間(1394~1427)といいますが、天正年間(1573~1591)に火災に遭い、類焼したため、詳細は不明ということです。以前立ち寄ったことがありましたので、今回はパス。
Img_9087c ほぼ1㎞歩いてきて、桑名高校の南東、アピエス桑名というマンションのImg_9100c ところで左折し、諸戸水道貯水池遺構に向かいます。ここが最初の目的地。「諸戸水道」というのは、飲み水に不自由していた旧・桑名町で、明治時代後期に豪商・初代諸戸清六が、独力で敷設した上水道のことです。軍用水道を除いた近代的な上水道としては、全国で7番目に完成しています。
Img_9097c こちらが、貯水池遺構。1枚では写真に収まりません。東西約13.4m、南Img_9096c 北約23.2mの長方形、深さは約3.6mです。側面と底面はコンクリート造、内側は煉瓦積み。容量は953立方メートル。湧水量は1日900立方メートル当時は、木造の上屋があったと説明板(上右の写真)にあります。
Img_9102c 貯水池に集められた地下水は、延長約14kmにおよぶ給水管で桑名町と、その周辺(給水区域:旧桑名町・旧赤須賀村・旧益生村、旧大山田村の一部)に配水され、市中に設置した共用栓(55ヶ所)と消火栓(24ヶ所)によって、住民に無償で提供されました。
Ebd347e9 桑名七里の渡し公園には、この諸戸水道の共用栓を復刻したものがあり950e60dd ます。この共用栓から、人々は水をくんでそれぞれ自宅に持ち帰って利用したという説明がついています。それにしても、諸戸家というのは、たいしたものです。これら2枚の写真は、2015年12月に撮影したもの。
E24825a5 ところで、この諸戸水道貯水池遺構の西には、諸戸徳成邸がありまし665844d4 た。と過去形で書かねばならないのはとても残念ですが、桑名市が購入するという話もあったものの、結局それはならず、持ち主の方(諸戸家の子孫の方)が手放し、マンションを建てるということで、取り壊されてしまったのです。ここは、二代目・諸戸清六が建てた邸宅です。造営は、大正末期~昭和初期、建物は9棟、敷地面積は、7,702平方メートル(建築面積1,059平方メートル)です。二代目・清六氏は、戦前までは本邸である旧・諸戸家住宅(現在の六華苑)と、この別邸である徳成邸を行き来し、生活をしていたそうですが、太平洋戦争の際に、徳成邸に定住したといいます。二代目・諸戸清六氏は、昭和44(1969)年まで、また同夫人は、昭和61(1986)年までここにお住まいだったそうです。2枚の写真は、2013年11月30日の見学会のときに撮影。見学記事は、こちら:2013年11月30日;諸戸徳成邸特別公開へ行ってきました 、2015年5月17日;諸戸徳成邸特別公開 、2017年4月29日;「諸戸徳成邸」特別公開へ……「見納め」になるということで。3回見学に行っております。
Img_9104c 上の写真の建物があったと思われるあたりは、このように更地になってImg_9094c いました。この日も、重機が入って、整地などの作業が行われていたのですが、何ともいいがたい光景です。この邸宅、庭園は、桑名市としての文化遺産で遭ったのにと思いますし、六華苑、諸戸氏庭園とあわせて、「諸戸三大庭園」としてアピールできたとも思います。
Img_9091c お屋敷の北側にある茶室と、敷地内にあった諸戸家の墓所は残っていImg_9092c ました。右の写真には墓所に上がっていく石段が写っています。ここには、マンションが建つという話を聞いています。マップにも表示はありませんので、ウォーキング参加者はほとんど気づかず。
Img_9109c 複雑な気持ちを抱きつつ、先へ進みます。桑名高校の東あたりからは、ずっと坂道。ここは実は、断層帯。計4段の階段状地形が形成されていて、標高差は30mに及ぶそうです(古地図で楽しむ三重、風媒社)。丘陵全体では高度差は60mにもなるといいます。「養老・桑名・四日市断層帯」というAクラスの活断層の一部です。過去にマグニチュード8程度の大地震を繰り返し発生させたと推定されるそうで、ちょっとコワいお話。左の写真は、桑名高校のすぐ南あたり。
Img_9112c 立花町あたりまで登ってきて振り返った写真。わが家あたりは、海抜0mImg_9115c 地帯ですから、かなり高くなっているはず。ここらで2㎞の手前くらい。太夫の大楠まではもう少し。途中、シャッター販売会社の店先には、鉄人28号や、スパイダーマンがいます。鉄人28号はずっと昔からここにありました。ちょっとだけ和みます。
Img_9117c 太夫地区に入って、はるやまやまるさ水産の手前にある小さな信号を左折し、南へ行くと、太夫の大楠(たゆうのおおくす)があります。元々、六本楠という名称の楠(楠群)があり、楠が6本あったといいます。 天正年間(1573~92)、三河の武士が、この六本楠に隠れて追手から逃れることができ、 一命を取り留めたそうです。後年その楠が枯れた時に、その母親がお礼に植えたという話が伝わっています。幹が2つあり、測定が難しいといいますが、環境省巨樹巨木林データベースによれば、幹周6.80m、樹高20m。説明板では、地上60cmの所で測ると、幹周は10.08mとあります。
Img_9120c_2 説明板によれば、昔は境内地であって、ご神木だったといいます。大楠の東に八幡社(南大山田神社)がありますから、その境内だったということかも知れません。昭和34(1959)年の伊勢湾台風で、枝張りが変わって少なくなったが、勢いはあります。ちなみに、鈴鹿にある長太の大楠(なごのおおくす)は、幹周:8.8m、樹高:23mだそうですから、いい勝負(笑)。
B789a95c  ちなみに、この太夫の大楠から少し北には、伊勢大神楽で有名な増田神58a7b945 社があります。伊勢神宮に参拝できない人の代わりに神楽を奉納する神事で、桑名市内の伊勢太神楽講社の人々によって受け継がれているもの。普段は各地を回っていますが、12月24日には増田神社境内で全曲が奉納されます。豪壮な獅子舞に加え、皿回しや軽業といった曲芸などもあります。 伊勢太神楽は、国の重要無形民俗文化財。写真は、2006年2月19日に撮影(最長不倒距離で,脚が痛い!)。伊勢太神楽、私は、春日神社の左大臣・右大臣奉納奉告祭で見ました(2016年8月21日;春日さんの左大臣・右大臣奉納奉告祭……伊勢大神楽の奉納も【動画をYouTubeにアップしました】)。
 長くなりましたので、本日は、ここまで。次は、太夫の大楠の東にある八幡社の話からスタートして、走井山公園あたりのお話の予定。

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