旅行・地域

2018年10月15日 (月)

雨で散歩はなし、市民大学へ行った帰りに九華公園のカモをチェック

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 午前中、雨は降っても沿岸部だけという予報でしたので(東海地方で沿岸部といえば、三重県南部や愛知県の渥美半島あたりのはず)、散歩に出る気満々で準備して、玄関を出たら無情にも雨。その後、何度外を見ても、小雨が続いていました。ということで、散歩には出られず。
Dscn0336c 午後からは、市民大学講座・ゼミナール郷土史学科「戊辰戦争150年、それDscn0339c ぞれの戦い」。本来は、10月1日のはずでしたが、台風24号の影響がありそうということで、今日に延期。今日は、公家と戊辰戦争という内容でした。この講座も、いよいよ来月で全7回を終了予定。講義ノートは清書してあるのですが、追加して調べて資料をつくる作業は、まったく手つかず(苦笑)。せっかく講義を聴いていますので、何とかしなくては。
Dscn0328c 市民大学の帰りに九華公園に立ち寄って、カモをチェック。キンクロハジロImg_7625c が4羽に増えていました。オスは1羽、メスが3羽。このほか、アオサギも1羽、いました。しかし、カメラ(Nikonのコンデジ)を構えるのが間に合いませんでした。夕焼けが見られましたから、明日は本格的に天気も回復するでしょう。

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20181008近鉄ハイキング「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」へ(その3)……伊勢河崎商人館、川の駅・河崎、橘神社を経ていよいよ二軒茶屋餅

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 近鉄ハイキング「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」の記事もその3となりましたが、未だに1枚目のルートマップの範囲を出ていませんし、2㎞も歩いていません。先の見通しがきわめて不明なまま、河邊七種神社を出て、伊勢河崎商人館へと向かいます。
Img_6043c 伊勢河崎商人館は、江戸時代中期(約300年前)に創業された酒問屋・小Img_6048c_2 川商店の建物を利用しています。江戸・明治期に建築された蔵7棟、町家2棟からなり、伊勢河崎を代表する商家といわれます。この小川酒店を保存し、伊勢河崎の歴史文化興隆拠点として整備された施設です。江戸・明治期に建築された蔵7棟、町家2棟からなっています。
Img_6051c といっても、小生は、チラッと覗いてみただけで中は見ておりません(苦笑)。9時30分~17時00分、火曜日休館、大人300円です。日本最古の紙幣である山田羽書をはじめ、伊勢と河崎の歴史と文化の資料が展示されていましたので、見てくれば良かった。ちなみに、町並みは「切妻妻入(きりづまつまいり)」になっています。神宮の御正殿が平入りのため、同じでは畏れ多いという理由だそうです。
Img_6034c 川に面して建つ酒類の、3つの商品蔵は、現在は商人蔵として日常で使う雑貨、食品を中心とした販Img_6035c売と展示をしています(こちらを参照)。ちょっとだけ覗いてきました。右の写真は、参の蔵。
Img_6039c 商人蔵には合わせて20店舗が出店。カフェなども入っています。伊勢河崎商人館以外にも、河崎の町ではあちこちでいろいろな店があります。伊勢河崎商人館の散歩地図を見ると、お分かりいただけます。
Img_6054c また、河崎の商家のもう一つの特徴として、大きな鬼瓦、飾り瓦がありまImg_6059c_2 す。飾り瓦には「隅蓋」といわれる、切り妻の両端にあり、水が建物に入り込むのを防ぐ蓋の役割をするものがついています。水に因む船、亀、波などのものが乗っています。これらは、河崎商人館のものですが、他の商家にもあります。火災から家を守るという祈りも込められているようです。
Img_6060c 伊勢河崎商人館とは目と鼻の先に、川の駅・河崎があります。平成Img_6071c_2 15(2003)年に開設されました。100年以上前の醤油蔵を再生したものです。左の写真のように、問屋街から見ると、古い蔵を改修し施設なのですが、川に面した裏口の方は、白く塗られたウッドデッキになっていています。三重交通神都線の駅舎をモチーフにしているそうです。
Img_6074c 川の駅・河崎の裏手は、ちょっとした公園のように整備されています。そImg_6065c こから、先ほどの伊勢河崎商人館の3つの蔵が見えます。この景色は、河崎の観光案内などで見かけるもの。これ、今回のハイキングで見たかった景色。余談ですが、真ん中の蔵の屋根の上にアオサギさんが佇んでいました(微笑)。
20181008kintetsuhikingujiyamada2  川の駅あたりで、河崎の町並みもお仕舞い。このあとは、左のルートマッImg_6086c プ#2に示しましたように、勢田川沿いを延々と2㎞半くらい下っていきます。「延々と」というのは、実感。右の写真は、左のルートマップで、河崎を抜け、福江町に入り、大きく右折した少し先から、川の合流地点を見たもの。このあと、トビ、モズ、イソシギなども見ましたが、全部すっ飛ばして、ルートマップの右上にある瀬田大橋まで一気に進みます。
Img_6104c 瀬田大橋まで行く途中、こんな景色が見えました。よく確かめもせず、次Img_6108c の立ち寄りスポットの橘神社かと思ったのですが、これが二軒茶屋でした。ルートマップ#2でいうと、勢田川がグッと南(下)にカーブしているところ。さらに歩くと、瀬田大橋が見えてきます。橋を渡るところで4㎞。時刻は、11時10分頃。
Img_6122c  瀬田大橋を渡って500mほどで、神社が見えました。橘神社と、境内社のImg_6125c 勝廣稲荷神社です。裏にある勝廣稲荷神社から入って行きました。倉稲魂神が御祭神。五穀豊穣・商売繁盛の神です。御鎮座は不明ですが、向山の地、現在の伊勢学園高校の敷地に鎮座していたものが、諸般の事情により平成6(1994)年、ここに移転してきたそうです。平成6年以前に伊勢学園高校を卒業した方に伺うと、確かに学生時代、お稲荷さんが敷地内にあったそうです。
Img_6129c 南の国道42号線に面した側に橘神社の社標と鳥居があります。本来でImg_6130c あれば、こちらから入らねばなりません。橘神社の御祭神は、橘諸兄(たちばなのもろえ)。橘諸兄は、敏達天皇の子孫で、天平9(730)年に大納言に抜擢され、右大臣、左大臣にまで登った、いわば奈良時代の政治家。勅使として天平10(731)、13(734)年の2度に渡って伊勢神宮に来ています。
Img_6142c こちらが拝殿。ここも御遷座が行われるようです(こちらをご覧ください)。リンク先によれば、平成27(2015)年に御遷座(?)があったようです。立ち寄りポイントに設定されているのですが、小生が訪ねたときには、他にもう一人、女性の参加者の方がいらしただけ。多くの方は、堤防の道路を通過して行かれました。
Img_6140c 境内には、山の神と、天王社も祀られています。説明板には、山の神にImg_6146c ついては触れられていません。天王社は、拝殿に向かって右奥にあります。牛頭天王スサノオを祭神とする神社で、特に、津島神社(愛知県津島市)系統の神社にこの名称が使われます。疫病等から守ってくれる神様です。この天王社も御鎮座年代は不明。向山の裾に鎮座されていたものが、平成27(2015)年にここに移ってこられたそうです。
 説明板には、八幡宮もあるとなっていますが、それらしいお社には気づきませんでした。八幡宮について、説明板は次のように述べています:祭神は応神天皇。黒瀬町の八幡宮は阿弥陀寺境内の八幡大神をお祭りし、名前をいただいた。御鎮座年代は詳しくは分からないものの、寛永3(1626)年の手水石があることから、江戸時代初期には向山の地に鎮座していたと思われる。なお、手水石には「寛延三庚午年」と刻されているようですから、これは読み誤りかも知れません(次のリンク先をご覧ください。寛延3年なら1750年)。
Mukouyama  ここで気になるのが、「向山」という地名。勝廣稲荷神社、天王社、八幡宮の説明すべてに出て来ます。地図を見ても、向山という地名はありません。検索したら、こちらのサイト(神宮巡々2)にそれを探求した記事がありました(橘神社から向山を探しての寄り道(伊勢市黒瀬町))。この記事でも解明し尽くされているわけではありません。謎解きはおもしろいのですが、難しいですねぇ。左の地図で、中央上にあるのが、橘神社。右下に伊勢学園高校。説明板によれば、このあたりが向山の頂上近く。中央あたりにリンク先の記事に出てくる黒瀬八幡宮があります。伊勢学園高校の南は、倉田山公園。
 余談に余談を重ねるようですが、橘神社あたりは、かつて御塩(堅塩)が人の手により運ばれた際、御塩殿神社にある御塩殿から外宮斎館へ経路の中で唯一休憩、御塩が入った辛櫃を下ろせた場所だそうです(橘神社から向山を探しての寄り道(伊勢市黒瀬町)。こういうことを気にしているから、先に進みません。分かってはいるのですが、直りませんねぇ(苦笑)。
Img_6156c  橘神社、謎が解明し尽くせていませんが、ハイキングは次へ(笑)。本当は、コースマップに示されたルートではなく、裏から入ってしまいましたが、二軒茶屋餅。国道42号線へ出て行くようなコースになっていましたが、勢田川の堤防から入ってしまいました。16枚目の画像・写真のところ。遠目には神社に見えました(苦笑)。
Img_6196c 表の国道42号線の側から見ると、こういう店になっています。二軒茶屋Img_6193c 餅角屋本店。いよいよ「名物二軒茶屋餅で舌鼓」であります(微笑)。5㎞直前、11時25分。お腹は空いています(微笑)。二軒茶屋餅は、角屋本店の商品。角屋は、天正3(1575)年に伊勢神宮へ参拝する舟参宮の港であった大湊から勢田川をさかのぼる舟着場の近くで創業されました。創業当時、舟着場付近には角屋と湊屋の二軒の茶屋があったことから、このあたりは、二軒茶屋と呼ばれるようになったと伝えられます。湊屋は、今はありません。二軒茶屋は、舟参宮の船着き場でした。
Img_6170c 二軒茶屋餅は、こしあんを薄皮のもちで包み、きな粉をまぶしたきな粉餅Img_6174c です。この日の近鉄ハイキングの参加者には、1個プレゼント。早速いただきました。食べかけで恐縮ですが、右の写真もご覧いただければ幸い。三重県内、東海道から伊勢街道(参宮街道)沿いは、「餅街道」なのです。ちなみに、まだ全部制覇はしていません。先日のJRさわやかウォーキング(9月22日:20180922JRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」へ(予告編)……【キョリ測データを付記しました(9/23)】、9月25日:20180922JRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」へ(その1)……宗宝院と三重県総合博物館)で買ってきた「関の戸」も、その一つ。
Img_6176c 二軒茶屋餅角屋本店の敷地内には、明治天皇の記念碑があります。樹齢400余年の大楠の下に建っています。 この記念碑は、明治5(1872)年5月に明治天皇が海路より伊勢神宮に参拝した際、二軒茶屋に上陸したことを記念して建立されたものです。このときが明治天皇は、初めての伊勢参拝だそうで、西郷隆盛以下を連れてだったといいます。
Img_6178c 角屋本店さんは、黒砂糖を蓄えておく蔵だった建物を利用して、角屋民Img_6181c 具館という資料館を設けておられます。餅の原料となる黒砂糖(戦前までは餅の餡は黒砂糖を使ったそうです)は、その昔、遠く琉球から堺を経由、勢田川を利用して運ばれこの蔵に収められていました。創業約400年、現在のご当主で20代を数えるそうで、昔から伝わるものがたくさんあります。たとえば、大福帳、古い餅つき道具、徳利や昔の帳場の調度。和紙を袋とじにした宿泊人の名簿など。それらを展示しておられます。伊勢まちかど博物館に認定されています。左の写真は、伊勢の遷宮の御木曳の時に用いられる奉曳車(ほうえいしゃ)の模型。右は、どんどこ丸の模型。
Img_6194c 角屋本店さんで土産に二軒茶屋餅10個入りを買いました。値段を聞いてImg_6590c びっくり。何と¥740。ということは、1個あたり¥74。中は、昔ながらの竹皮包みになっています。賞味期限は2日間。ここ本店とおかげ横丁の他、宇治山田駅のファミマで買えるという情報があります。伊勢というと、赤福というイメージかも知れませんが、あれはPRが上手だったために広がったところがかなりあると小生自身は思っています。「餅街道」もご覧いただき、あれこれ試すのをお勧めします。
 角屋本店さんについては、まだ続きがありますが、その3はここまで。次は、角屋本店の地ビールなどの話から、いよいよ松尾観音寺へ向かいます。ただし、その途中、神都線の廃線跡の話や、倉田山公園のもろもろもあります。

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20181008近鉄ハイキング「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」へ(その2)……御幸道路、錦水橋から河崎の町並み、河邊七種神社へ

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 10月8日の近鉄ハイキング「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」のImg_5876c その2です。その1では、スタートの宇治山田駅から出て、100m進んだかどうかというあたりでウロウロしていました。伊勢豊受稲荷神社や、箕曲中松原神社を通りの反対側から眺めたところまで。左のマップで、「岩淵」交差点(右の写真の先、第三銀行のところ)を左折して、御幸(みゆき)道路に入ります。
Img_5889c 御幸道路は、伊勢神宮の豊受大神宮(外宮)皇大神宮(内宮)を結んでいMiyukiroad ます。全長はおよそ5.5km。天皇が神宮へ参拝するための道路として、自動車が通行できる道が倉田山を経由して作られたのです。明治時代後期(1900年代)まで、外宮と内宮を結ぶ道路は限られ、急な坂道を伴う幅の狭い道(伊勢街道(伊勢参宮街道))しかありませんでした。明治43(1910)年に竣工。篤志家によって献灯された石灯籠が並んでいたのですが、今年4月路線バスがバス停に止まろうとした際、道路脇に設置されていた石灯籠に接触。これが倒壊して歩行者の男性を直撃し、亡くなるという事故があって、撤去されてしまいました。歩道に敷かれた新しいブロックは、石灯籠があったところと思います。右の画像は、Weblioからお借りしました。
Img_5892c 左上の写真の奥に見えているのが、錦水橋。御幸道路が勢田川を渡る橋Img_5895c です。12 基の擬宝珠 が付いたこの橋は、明治36(1903)年、倉田山に神宮徴古館が開館した時にできました。この橋のあたりから山の方を見ると、秋には紅葉が広がり、それが「錦」のようだったため名付けられたといいます(右の写真からご想像ください)。
Mietoutsusintosen  錦水橋は、その昔、路面電車(三重交通神都線)も走る橋でした。三重交通神都線は、山田駅(現・伊勢市駅)前を起点とし、内宮までと二見までの路線がありましたが、昭和36(1961)年に廃線となり、バス路線に替わりました。伊勢市のターミナル駅から、伊勢神宮・二見浦へ向かう観光・参拝客輸送の役割を果たしていたのです。全路線長は、14.0km。左の画像は、「日本鉄道旅行地図帳 関西1(新潮社、2008年)からお借りしました。この地図では、宇治山田駅前と古市口の間に錦水橋がかかっています。路線図でお分かりのように、このあと訪ねる二軒茶屋あたりも神都線の二見線が走っていました。
Img_5898c 錦水橋の少し先には、この橋の由来を説明する案内板がありました。勢Img_5904c 田川沿いを進みます。右の写真は、錦水橋の1つ下流の桜橋付近から南を振り返ってみたもの。桜橋で勢田川の左岸から右岸に渡り、JR参宮線の線路下をくぐっていきます。
Img_5913c 参宮線は、その名の通り、伊勢神宮にお参りするためにつくられた路線。明治26(1893)年から明治44(1911)年にかけて開業しました。現在の参宮線は、紀勢本線の多気駅から分岐していますが、もとは亀山駅から鳥羽駅までが参宮線として予定されていました。紀勢本線が全通した昭和34(1959)年に参宮線は多気駅~鳥羽駅間に変更されています。伊勢神宮参詣の重要路線として幹線並の扱いを受け、首都圏や西日本各地からの直通列車も運転されていたのですが、昭和45(1970)年に近鉄鳥羽線が開業すると乗客は激減したといいます。鉄橋の煉瓦積みにも歴史を感じます。
Img_5914c 清田橋のところで対岸を見ると、こんな看板が目立ちました。すぐ下流のImg_5919c 清浄坊橋(しょうじょうぼうばし)の右岸側にこの旭湯さんがありました。汐湯・おかげ風呂館と称しておられます。清浄坊橋は、二見の御塩田から外宮に御塩を運ぶ道だっ
たため、「神聖な清浄なる道」ということに由来するそうです。
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 旭湯さんには、その塩の道沿いということにちなんで、二見の海水を汲み上げて運び、沸かしている「潮湯」があるそうです。そのほかにも、旭湯さんはいろんなアイデアがいっぱいのようで、「潮浴び参宮」など、おもしろそうな看板が並んでいました。時間があれば、入浴してみたいところ。
Img_5927c_2  その清浄坊橋を渡って、再び勢田川左岸へ。いよいよ河崎の町並みへと進みます。勢田川は、伊勢市街地を流れる主要な河川で、江戸時代には伊勢参りの客や物資の輸送で大変賑わいました。河崎は、室町時代中ごろに、川のほとりの葦原を埋め立てて作られたそうです。現在でも軒を連ねた古い町家や商家の蔵など、江戸時代からの町並みが残っています。
Img_5938c 河崎の町並みです。川に沿って煉瓦の倉庫、川役人の屋敷跡、古い住Img_5939c_2 宅や商家など、当時の姿が残っています。黒塗りの蔵が続いている町並みは、何となく落ち着く通りです。河崎では、今もたくさんの店などが営業していて、楽しめます。「伊勢河崎商人館」のサイトにたくさん情報が載っています。町歩き地図もあります。
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 河崎の町に限りませんが、伊勢地方では、このような注連飾りが一年中飾ってあります。そこには、「蘇民将来(そみんしょうらい)子孫家之門」という文言が書かれています。「蘇民将来」とは、神に宿を貸した善行により茅(ち)の輪の法を教えられ、子孫に至るまで災厄を免れることを約束された説話上の貧者の名です。
Img_5933c 途中に、常夜灯と、お堂。河崎南町にある庚申堂です。地元の皆さんがImg_5935c お守りをしていらっしゃるそうで、60日ごとに庚申さんの行事を続けているようです(こちらを参照)。「庚申」は、「かのえさる」。干支は、日毎にも割り当てられていま。「庚申信仰」では、人間の中にいる3つの虫が、庚申の日になると寝ている間に出てきて、神様にその人の行った悪いことを告げ口するとされます。そのため、庚申の日は一晩中起きていることで、体からその虫が出て行かないように注意するという次第。このお堂には、三猿も飾られているのですが(右の写真の上部)、自分のした悪いことを見たり聞いたり言ったりしないで!」という願望の現れだそうです。
Img_5936c 途中、マンホールの蓋を見たりしながら、進んでいきます。ちなみに、こImg_5957c のマンホールのデザインは、伊勢参りの様子。まちかど博物館もあったのですが、中は覗きませんでした。これ、後で知ったのですが、ちょっと惜しいことをしました。というのも、このお店(和具屋さん)には水神宮が祀られていて、10月13日にその御遷座が斎行されたのだそうです(こちら)。
Img_5960c 和具屋さんから少し行くと、河邊七種(かわなべななくさ)神社。河崎の氏Img_5963c 神様。通称は「天王さん」。創祀の年代は不詳ですが、旧家村田氏が宝徳3(1451)年、室町・足利時代に初めて当地に来住し祭祀して創立され、河邊の里の地名由来に依り、河崎社と称したのを、明治4(1871)年6月から河邊七種神社となりました。天王祭は7月14日ですが、その日に近い日曜日に地域の夏祭り「てんのうさん」が開かれます。神輿が町内中を「そいやそいや」のかけ声で練り歩き、夜店とイベントでにぎやかだそうです。祭りの最後には、勢田川に浮かべた船から打ち上げられる花火と、川面を走る水中金魚花火が恒例といいます。
Img_5984c  旧社格は、村社。明治23(1890)年9月、菅原社、秋葉社を合祀。明治41(1908)年11月、広峰社、水神社、稲荷社、幸神社、猿田社、金毘羅社を合祀しています。
Img_5985c 主祭神は、須佐之男神(スサノオノミコト)。伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)の子で、天照大神の弟。多くの乱暴を行ったため、天照大神が怒って天の岩屋にこもり、高天原から追放されましたが、出雲に降りて、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、奇稲田姫(くしなだひめ)を救っています。さらに、大蛇の尾から得た天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を天照大神に献じました。相殿神は、次の通り。このほか、祭神不詳二座となっています
  • 八衢比古神(やちまたひこのかみ)
  • 八衢比売神(やちまたひめのかみ)…古代伝承上の神で、集落や道の要所にすわり、八衢比古神とともに邪神・悪霊の侵入をふせぐ
  • 久那斗神(クナドノカミ)…岐神とも書きます。伊弉諾尊が黄泉の国から逃れて禊をした時、投げ捨てた杖から生じたという神。集落の入り口や道路の分岐点などにまつられ、種々の邪霊・禍災の侵入を防ぐと信じられた。道祖神。ふなどのかみ。ちまたのかみ。
  • 大物主神(オオモノヌシノカミ)…大神(おおみわ)神社の祭神。別名は三輪明神
  • 火産霊神(ほむすびのかみ)…迦具土神(かぐつちのかみ)ともいう。伊弉諾尊・伊弉冉尊の子で、火の神
  • 菅原道真公…天満天神、学問の神
  • 水神
  • 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)……倉稲魂命とも表す。稲の精霊が神格化されたもので、五穀、食物をつかさどる
Img_5992c 境内社には、吉家稲荷神社(吉家神社)があります。町内に無格社として祀られていImg_5994c たものを昭和11(1936)年にここに遷し、祀っています。20年に一度、御遷座が行われているようです(たとえばこちら)。
Img_6001c 気になったのは、こちらの写真に写っている内容。向かって左側の額には、「吉家松助大明神 吉家虎光大明神 吉家松倉正一位稲荷大明神 吉家小妻大明神 吉家小菊大明神」とあるのです。稲荷大明神の他は、個人の名前に大明神がつけられているような気がします。しかし、ネット検索ではよく分かりませんでした。「町内に無格社として祀られていた」ということからは、個人のお宅に祀られていたのかと推測しますが、わかりません。
Img_5972c  他には、境内には、樹齢600年といわれる大楠がありました。楠の前にImg_5973c は、鳥居がありましたので、ご神木かと思います。さらに、このクスノキの根元をよく見ると、右の写真のような石柱がありました。「橿原神宮…」という文字が見て取れます。「橿原神宮遙拝所」なのでしょうか。
Img_6017c 境内を見て回ると、拝殿の東に「遺Img_6020c 跡……」という石柱があり、その前には、不明の物体(木の化石? よく分かりません)がありました。その奥を見ると、「庚申塔」の欠けたものらしき石柱も。神社にはいろいろなものがあり、不思議な空間。
 河邊七種神社でまだ2㎞にも達していません。遅々として進まずというのは、まさにこういうことですが、その2はこれくらいで。もう少し河崎の話が続きます。次は伊勢河崎商人館から。

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2018年10月14日 (日)

曽爾高原へススキを見に

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 かねてからの計画通り、曽爾(そに)高原へ行ってきました。奈良県宇陀郡曽爾村にあります。日本300名山の一つ倶留尊山(標高1,038m)から亀山(標高849m)に広がる高原です。ススキで一面に覆われた草原で、秋にはススキの穂が陽射しを浴びて銀色・金色に輝くところ。愚息が学生時代、自転車で行った話を聞いていて、一度行こうと思っていたのです。今朝早く出発し、家内の母を連れて行ってきました。家内の実家からクルマで1時間半ほど。
Img_7556c 駐車場から少し登ったあたりから見た写真。ススキは期待したイメージとはSoni かなり違った感じでしたが、草原が広がっていて気持ちの良いところでした。右のマップで中央やや右にある「駐車場」にクルマを入れ、80代の母がいましたので、曽爾高原入り口というところまで行っただけです。左の写真は、その高原入り口から倶留尊山、二本ボソ、亀山峠、亀山方面を撮ったものです。
Img_7535c 同じようなアングルですが、ススキをなるべく入れたかったので、こちらの写Img_7513c 真の方が自分としては気に入っています。マップにもありますが、高原には「お亀池」という池がありました。火山の火口だという説もあるようですが、特殊な浸食によるものの可能性が高いといいます。カモらしき姿が見えましたので、超望遠コンデジでズームアップしてみたら、カルガモさんが5羽。
Img_7452c 高原に行く前に、曽爾高原ファームガーデンでランチ。すすきの館という自Img_7446c 然派キッチンにて、ほうれん草のハンバーグ。¥1,200。野菜たっぷり。
181014rout 往きは国道165号線を利用。名張市から南下。香落渓(かおちだに)など景色の良いところをドライブ。ここは、関西の耶馬渓と呼ばれるそうです。ブラタモリで良く出てくる「柱状節理」の岩肌が約8㎞続いています。帰りは違うルートということで、南回り。奈良県御杖村から三重県津市美杉に出て、JR名松線沿いを戻って来ました。

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2018年10月13日 (土)

20181008近鉄ハイキング「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」へ(その1)……伊勢中川駅、宇治山田駅、神都バス、度会府庁跡、シンフォニアテクノロジー響きホール、伊勢豊受稲荷神社、箕曲中松原神社

 近鉄ハイキングに立て続けに出かけたため、記事が滞っています。こういうのを自業自得というのかも知れませんが、1つずつ順番に書いていくしかありません(笑)。まずは10月8日の分。「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」のその1です(予告編は、こちら)。

Img_5748c この日は体育の日。天気もよく、暑いくらいでした。歩き始めてからは、半袖Kic Tシャツ1枚で十分なくらいでした。この日のハイキングの受付は、近鉄山田線・宇治山田駅。右の地図をご覧ください。桑名からでは、名古屋に行く方がはるかに近いのです。近鉄電車では、桑名駅-宇治山田駅の間は、83.4kmもあります。急行で行くと、1時間半。
Img_5751c ということで、これまでの近鉄ハイキング/JRさわやかウォImg_5770c ーキングの中でもっとも早く、近鉄桑名駅を8時3分に出る伊勢中川行き急行に乗車。伊勢中川は、近鉄の名古屋線、大阪線、山田線の乗換駅。ここに9時4分に到着。9時7分発の五十鈴川行き急行に乗り換えます。
Isenakagawa_station いきなりの余談で恐縮。鉄道好きの方はご存じですが、この近鉄・伊勢中Img_5767c 川駅、なかなかおもしろい駅なのです。左に伊勢中川駅の線路・ホームの配置図を載せました。駅そのものは、5面6線のホームを持つ地上駅ですが、3路線の接続駅で、乗り換えに便利なように、2~4番線は両側をホームで挟まれる構造になっています。右は、実は降車ホームを間違えたのですが(2番ホーム側に行かねばならなかったのです)、3番線と4番線の間のホーム。4番ホームに止まっているのは、大坂の上本町行き急行でした(これに乗ってしまわなくて良かった)。ちなみに、階段を上り下りせずに、電車を通過して向かい側のホームに行けます。
Img_5771c すぐに間違いに気づき、乗ってきた伊勢中川行き急行の車両の中を通Img_5776c 過して(両側のドアが開いているのです)、2~3番線ホームへ行き、五十鈴川行きの急行に無事乗り換えました。
Img_5761c もう一つ屁理屈というか、講釈。上の線路・ホームの配置図にもありますが、名古屋線から大阪線へは、伊勢中川駅に入らないでいける「中川短絡線」があります。短絡線は伊勢中川駅の一部だそうで、プラットホームは通らないものの、伊勢中川駅構内を通過しているとみなされ、運賃は伊勢中川駅で折り返したとみなして計算されます。昭和36(1961)年3月に供用開始。平成24(2012)年1月に新しい橋が造られています。アーバンライナーなど、名阪間のノンストップ特急は、この短絡線を通って行きます。
Img_5777c ということで、いったん降車ホームを間違えたものの、無事に五十鈴川行き急行に乗り換えられ、宇治山田駅には9時31分に到着。¥1,200。ほぼ1時間半を要しました。これまで26回ほど、近鉄ハイキング/JRさわやかウォーキングに参加しましたが、最長の乗車時間であり、最高の運賃です。
Img_5786c 近鉄山田線・宇治山田駅。24歳で最初の職場(鈴鹿にある某国立病院)Img_5808c に就職した年の大晦日、先輩Mさんに連れられ、伊勢神宮の初詣に来たとき、ここに降りた記憶があるのですが、どういう駅であったかまったく記憶がありません(テレビや新聞、雑誌では見ていますが)。写真や画像で見ると、なかなか雰囲気の良い駅なので、一度(もう一度?)よく見てみたいとは思っていました。
Img_5828c  宇治山田駅は、昭和6(1931)年に開業。当時の面影を、今でも残していImg_5806c ます。国登録有形文化財です。駅名は、開業当時の市名である宇治山田にちなんでいます。内部のコンコースは広々として2階までの吹き抜けがあり、荘重でゆったりとした駅舎ですが、団体待合室や食堂など、多数の参詣客に対応できる機能的な設計もされています。貴賓室があり、天皇など皇族の方や、内閣総理大臣の伊勢神宮参拝の際の乗降駅となっています。
Img_5860c  駅舎は開業当時からの鉄骨鉄筋コンクリート3階建て(塔屋を含めると5Img_5836c 階建て)。設計は、同じ1931年に開業した東武鉄道浅草駅や1932年竣工の南海電気鉄道難波駅(南海ビルディング)をも手がけた久野節(建築家。鉄道省技師、中部鉄道管理局、鉄道省初代建築課長、逓信省技師を歴任)。建築面積は3,201㎡、幅128mの堂々たる駅舎です。外壁はクリーム色のテラコッタ・タイルで全面装飾され、入口上部には八角形の窓が並んでいます。屋根には茶色のスペイン瓦が使われていて、昭和初期の名建築です。
Img_5802c 個人的には、このベンチも風情があっていいなと思っています。コースマップをもらってから、このベンチに座ってみました。小生は建築には詳しくはありませんので、宇治山田駅の魅力を伝えられません。ご興味がおありの方には是非お訪ねくださるようお勧めします。
Img_5795c この日のハイキングの受付は、宇治山田駅コンコース。こんなチラシも貼Img_5801c ってあり、気合いが入ります。受付は9:30〜10:40で、ちょうど良い時間に到着。それに「名物二軒茶屋餅で舌鼓」が楽しみであります。右がいただいたコースマップ。宇治山田駅をスタートして御幸道路、錦水橋を経て、河崎の町並みを見て、勢田川沿いを散策。二軒茶屋で角屋本店さんの二軒茶屋餅をいただき、松尾観音寺、倭姫宮をめぐって、鳥羽線・五十鈴川駅がゴールという、約8㎞のコース。
20181008kintetsuhikingujiyamada こちらが実際に歩いたルート。多少寄り道をしましたので、9.7㎞を歩きました。伊勢へ来たのですが、外宮、内宮など伊勢神宮にお参りするコースではありません。河崎といって、江戸時代から伊勢の台所として発展した問屋街あたりを回り、勢田川沿いを散策。伊勢名物の一つ、二軒茶屋餅を味わいます。最後に、伊勢神宮の別宮の一つである倭姫宮へお参りします。倭姫命は、垂仁天皇の第四皇女。天照大神の社を、伊勢の五十鈴川のほとりに建てたと伝えられます。倭姫命は、伊賀、近江、美濃、尾張、伊勢の国をめぐられたのですが、その途中、桑名にも立ち寄っておられます。桑名野代宮(現在の野志里神社とされます)には4年間滞在されたといわれます。こういうことで桑名にも縁がありますので、お参りしたいという次第。
Img_5830c さて、宇治山田駅の駅舎から出て撮影をしていましたら、こちらのバスがImg_5890c やって来ました。神都バスと呼ばれ、三重交通が運用しています。伊勢には、明治36(1903)年から昭和36(1961)年の間、路面電車・神都線が走っていました。第62回式年遷宮(平成25(2013)年)に合わせて、路面電車型バスとなって生まれ変わったものです(右の写真は、あとで触れます錦水橋のところで撮影)。
Img_5862c 宇治山田駅を出たところで、度会(わたらい)府庁跡の石柱を見つけました。慶応3(1867)年の大政奉還を受けて、翌年7月、度会府が設置され、橋本実梁(さねやな)が知事となり、小林(おはやし)村の旧・山田奉行所に着任しました。余談ですが、山田奉行といえば、18代奉行であった大岡越前守忠相が有名です。
Img_5865c 度会府は、明治2(1869)年に度会県と改称され、翌3(1870)年、県庁舎は、箕曲(みの)町(ここ岩淵2丁目)に移ってきました。度会県は、一志、飯高、飯野、多気、度会、答志、英虞、南牟婁、北牟婁の9郡を所管し、北の安濃津県とともに、三重県を二分していました。その後、明治9(1876)年4月、三重県(安濃津県から改称)と合併し、度会県の歴史は幕を閉じたのです。ちなみに、この石碑は、昭和8(1933)年3月に「宇治山田市教育會」によって建てられています。さらに講釈を重ねますが、伊勢市の旧名が宇治山田市。宇治に皇大神宮 (内宮) 、山田に豊受大神宮 (外宮) があり、両地区とも中世には自治都市を形成していました。鎌倉時代以降、両者とも門前町として繁栄したのですが、神権の優劣を争ったり、商業利権の競合から対立したりし、文明 18 (1486) 年には宇治山田合戦と呼ばれる流血の抗争が起ったこともありました。明治39(1906)年、両地区が合併し、伊勢市 (昭和30(1955)年成立) の前身である宇治山田市となっています。
Img_5815c 宇治山田駅の向かいにあるのが、シンフォニアテクノロジー響ホール伊勢。小生のような年代のものには、伊勢市観光文化会館という名前の方がなじみがあります。シンフォニアテクノロジーは、旧・神鋼電機です。
Img_5867c ようやく宇治山田駅を出発(9時45分)、駅前を左折して南へ。曲がってすImg_5869c ぐ、朱い鳥居が目に入りました。朱い鳥居といえば、お稲荷さん。伊勢にお稲荷さんがあるのかとちょっとビックリ。伊勢豊受稲荷神社です。名前がすごい。というのも、「豊受」というのは、いわゆる外宮さん、正式には豊受大神宮にある名前。お稲荷さんですから、ご祭神は、宇迦之御魂神。ここは西にある箕曲中松原神社(みのなかまつばらじんじゃ)の境内社です(こちら)。
Img_5871c その箕曲中松原神社の鳥居は、伊勢豊受稲荷神社の鳥居の南にありまImg_5875c した。古来、現在地に鎮座していたと考えられ、大歳社、中松原社、美野社、箕曲社などと称していたものを後世、箕曲中松原神社と改めたようです。創始年代は不詳ですが、長徳3(997)年の文献に出てくるそうです。外宮参拝玄関口にあって、正月には初詣の参拝客で賑わうといいます。境内には樹齢千年の楠があり、古来より神霊として崇敬され、特に疱瘡の守護神として現在も崇敬されているそうです。
20181008kintetsuhikingujiyamada1  宇治山田駅からまだ100mほどしか進んでいませんが、長くなりますので、その1はここらで。左のマップでは、「岩淵」交差点のところあたりです。次は、御幸道路、錦水橋から。

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ホシゴイ、ジョウビタキのオス、カワセミ、エナガ、コゲラのオス、イソヒヨドリのオス……証拠写真のオンパレードですが(苦笑)

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 時々陽が当たりますが、概して曇り。肌寒い日です。11時現在で19℃。8時から11時まで、九華公園に行っていました。住吉神社から行って、九華公園の中で鳥を求めて3周半(笑)。また、住吉を通って帰ってきたのですが、それでもクルクル回っていたお陰で6.3㎞も歩いていました。
Img_8248c 証拠写真のオンパレードですが(微笑)……。まずは、ジョウビタキのオス。九華公園の朝日丸跡で。一瞬見て、撮れたのがこの写真1枚。この直後、バールフレンドのYさんに話しかけられ、ジョウビタキには逃げられました。そのあと、あちこち探したものの見つけられず、とても残念。
Img_8225c 久々に確認できたのは、ホシゴイ1羽。相撲場近くの松か、桜にいたのに気Img_8232c づかず近寄って、堀を挟んだ鎮国守国神社の社務所裏へ逃げられましたが、写真はバッチリ。同じ1羽の写真。ここ最近、見たという方が複数あったのですが、やはり小生が見られなかっただけでいた可能性が高いようです。
Img_7382c これまた久しぶりだったのは、カワセミ。九華公園の相撲場近くで、鳥見の大先輩Iさんとカワセミの話をしているときに、鎮国守国神社の社務所裏の堀にビューンと登場。植え込みの陰でしたので、ちょっと離れたところからの写真。
Img_8300c 帰りがけ、三の丸公園の西の端、七里の渡し跡に近いところが賑やかでImg_8314c した。エナガは10羽くらい。シジュウカラも2~3羽。
Img_8322c コゲラも混じった混群でした。コゲラや、頭に赤い羽毛が見えていますので、オス。この混群、少しずつ東に移動していきました。
Img_7357c 証拠写真の最たるもの(苦笑)。モズ。これは、三の丸公園のところ。モズは、このほか2ヶ所でも見たものの、曇天で、遠くていずれもこんな写真。
Img_8353c さらに証拠写真ですが、イソヒヨドリのオス。帰りに住吉ポンプ場のところで、ペアでいました。この間書いたように、拙宅マンションの向かいにある賃貸マンションの高架水槽あたりに棲んでいる感じです。
Img_7381c ここからはまぁマシな写真。九華公園のアオサギさんはいつものところにImg_8245c いました。ちょっと枝葉の陰で、撮りにくいアングルでした。ヒヨドリは、賑やかになって来ました。図々しくて、暴れん坊の割に神経質で、すぐ逃げます。右の写真は木の陰からそっと撮りました(九華公園、二の丸跡)。
Img_8254c 九華公園に派遣されているキンクロハジロ、今日も同じメンバー。オス、メス各1羽。メスは同じなので、オスも同じキンクロさんと思います。
Img_8360c こちらは、帰りに住吉入江に来たハクセキレイ。住吉入江の回りでハクセキレイをよく見るようになりました。ということで、話がバラバラになりましたが、よく考えるとなかなか充実した鳥見でした。とくにジョウビタキのオスが来たのは、大きいですねぇ。
Img_7360c ところで、8時半前に柿安コミュニティパークを通ったら、何やらイベントをImg_7363c_2 していました。回り込んで見てみると、認知症関連のイベントでした(認知症 ともに暮らせるまちづくり)。「桑名いきいき体操」をしていました。この年になると、認知症も他人事ではない気がします。

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2018年10月12日 (金)

20181012近鉄ハイキング“「開湯1300年 ゆこうよ 湯の山」こもガク&大日本市菰野博覧会を楽しもう!”(予告編)

Img_6986c  10月8日に行ってきた近鉄ハイキングの記事も予告編しか書いていないのに(20181008近鉄ハイキング「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」へ(予告編))、今日はまたもや次のハイキングに出かけてきてしまいました(苦笑)。“開湯1300年 ゆこうよ 湯の山」こもガク&大日本市菰野博覧会を楽しもう!”であります。

Img_6949c 受付は、近鉄湯の山線・菰野駅で10時からということで、桑名を9時1分の五Img_6957c 十鈴川行き急行に乗車。近鉄四日市に9時13分着、湯の山線の湯の山温泉行き(9時31分発)に乗り換えて、菰野駅には、9時49分に到着。菰野駅は、9月2日の近鉄ハイキングのゴール(20180902近鉄ハイキング“「開湯1300年 ゆこうよ 湯の山」菰野藩主土方雄豊公ゆかりの見性寺での開湯1300年記念祭を訪ねて”へ……予告編)。コースもこのときと一部重なります。
Img_6962c 駅に着いた時点ですでに受付は始まっていました。今日のコースマップは、181012kintetsuhikingkomono 左の写真の通り。菰野町の南東部を歩きます。約6㎞ということでしたが、マップ上は、5.5㎞。実際に歩いたのは、右のルート。少し寄り道をしましたが、5.7㎞でした。こちらで実測ルートがご覧いただけます。今日のところは、例によって「予告編」ということです。それもかなりかいつまんでということで、ご了解ください。
Img_6967c 菰野駅からはまず、西に向かいます。ここは、9月2日にも立ち寄っていますが、宝樹院西覚寺。菰野駅西の踏切の側にあります。浄土真宗大谷派のお寺ですが、ネットではこれという情報はありません。
Img_6977c 近くを金渓川が流れています。南に向かうと、9月2日のハイキングで訪Img_6981c ねた見性寺。菰野藩主の菩提寺です。今日は、そちらには向かわず、西へ。冒頭の写真のように、正面に御在所岳が見えます。右は、冒頭の写真と同じあたりから1,365mmズームで撮った写真。
Img_6990c スタートから600mほどのところに、忠魂碑と地蔵堂があります。忠魂碑Img_6998c_2 は、遺族会のリストをざっと見ましたが、載っていないようです。地蔵堂は、延命地蔵様を祀ってありました。これらは、また本編を書くときにきちんと調べることにします。
Img_7006c 1㎞の少し手前、洗心教団の角に道標がありました。「右 ゆ乃山道」と見えます。札の辻(東町商店街の一角、最後から3枚目の写真に写っているあたり)を南へとり、明福寺西裏を抜けて、金渓川の堤防を西に進む旧湯の山道の樋の口橋詰めにあったものを、大正10(1921)年、県道湯の山線が新設された際に移されたといいます。
Img_7019c 四日市菰野バイパスを渡って、左折(南へ)。廣幡神社です。旧くは「正Img_7050c 八幡宮」と称し、寛永7(1630)年8月15日、菰野藩主・土方雄氏公が、京都の石清水八幡宮から勧請したもので、それ以来、土方家の鎮守社となっています。
Img_7082c 廣幡神社、主祭神は、八幡様ということで、誉田天皇ですが、相殿神は、かなり多数いらっしゃいます。軻遇突智命、建葉槌命、大日孁神、蒼稲魂神、市杵島姫命、大山祇命、建速須佐之男命、倭比売命、伊波比主命、菅原道真、中山祇命、奥山祇命、八衢彦命、八衢姫命、万幡豊秋津師比売命、土方雄永、比売神、建御雷之男命、五十猛神、大屋津比売命、大市比売命、抓津姫命、八十神、大穴名牟遅神、大山咋命、天兒屋根命、羽山津見、建御名方命、事志呂主命であります。
Img_7085c 明治4(1871)年に諏訪神社を合祀してからは廣幡神社と号するようになりました。さらに、明治40(1907)年から、村内全部の郷社1社、村社である倭文神社、菰野神社、平岡神社、日吉神社、江田神社、須賀神社、豊岡御厨神社、春日神社を合祀しています。このため、上記のように多数の神様がいらっしゃるということ。
Img_7124c 廣幡神社からは来た道を戻り、バイパスへ。菰野南の交差点あたりでImg_7131c 2km。高架橋をわたったところで左折し、再び西へ。菰野保育園の前を通過。子どもたちがたくさん園庭で元気いっぱいに遊んでいました。門が、なんだか古風でカッコイイ。前にベンチがあって休めるようになっています。
Img_7137c 住宅街を抜け、湯の山街道に出て少し行くと、道の駅・菰野。9月2日にもImg_7332c 来ました。今日は、土産は買うなという指示があったのですが、店内をくまなく見て回ったら、よいものを見つけてしまいました(微笑)。菰野の早川酒造がつくっている「早春」というお酒。これ、最初の職場の大先輩Mさんから教えられて以来好みの酒なのです。3種類売っていて、散々迷った末、純米原酒を買ってきました。¥1,700なり。道の駅・菰野には10時55分着。買い物をし、小休止。11時10分再スタート。この先でスタートから3㎞。
Img_7144c 湯の山街道を下っていきます。菰野交差点で左折し、北に向かいます。

Img_7146c

このあたりまで来ると、関ヶ原という交通案内板が出て来
ます。まっすぐ行くと、町役場に出ますが、三滝川の手前で右折(東へ)。こもガク&大日本市博覧会が行われている、町民センターに行きます。
Img_7153c こもガク&大日本市博覧会は、菰野町で体験型イベントを行う「こもガク」と、中川政七商店の「大日本市博覧会」が手を組み、3日間のおまつりを開催するというイベント。今日から14日まで行われます。
Img_7157c 中川政七商店の期間限定ストアが、体育センターで行われていましたのImg_7168c で、見て来ました。巨大なやぐらがくまれた特設売り場になっています。中川政七商店のブランドの他、全国各地から選りすぐられた工芸品が販売されていました。また、「東海市」と名付けられたエリアでは、東海3県の工芸メーカーやデザインプロダクトを扱うショップが出展されていました。
Img_7172c 玄関ホールにあったのは、萬古焼の鹿。地元・菰野町の陶芸家・堀野証嗣さん(八幡窯)が制作されたもの。古萬古をイメージした赤絵模様が精巧に描かれた力作。萬古焼の特徴の一つに、自由さがあると聞きますが、まさにそういう感じ。
Img_7180c 隣の町民センターでは、トークイベントがあるそうです(こちら)。その他、Img_7185c いろいろなイベントがあり、実際に体験することもできるようです(こちら)。左の町民センターの前にある石碑のようなもの、何気なく見て来たのですが、写真をよく見たら、御製が刻まれていました。商工会館のところで右折(南へ)。
Img_7257c 東町商店街を目指すだけと思っていたのですが、菰野中学校の西にImg_7227c 野神社(神社検索(三重)で検索すると、廣幡神社のページに飛びます。菰野神社は、廣幡神社の御旅所という表示がありました。廣幡神社が本社で、菰野神社はその御旅所という位置づけのようです)。
Img_7195c 拝殿には、多数の絵馬が奉納されていました(廣幡神社Img_7203c にもあります)。境内には、「御成婚記念井」(大正13(1924)年建之でしたので、昭和天皇の御成婚記念と思います)などもあり、なかなか興味深いところです。
Img_7256c 菰野神社についたのは、11時40分。おおむね4.5㎞。ここでお昼を食べ、休憩することにしました。他にも数名の方が休憩and/orお昼。中には、缶チューハイを美味しそうに飲んでいるオジ様も(微笑)。気持ちは分かります。
Img_7260c 12時15分に歩き始めました。すぐ近くに湧水池がありました。きれいな水が湧き出ていて、しばらく見とれていました。ただし、ネットでざっと見たところでは情報はないようでした。鈴鹿山脈から流れてきているのだろうと勝手に推測しています。
Img_7274c 湯の山街道を渡って、東町商店街へ。ここは、9月2日の近鉄ハイキングImg_7277c のコースでもありました。長松山瑞龍寺にも再び立ち寄りました。臨済宗妙心寺派ですが、もとは天台宗のお寺。ご本尊は薬師如来。菰野藩士たちの菩提寺でした。
Img_7278c このお寺と、東町商店街は。地蔵盆が有名で、盛ん。境内には延命殿があり、お地蔵様がいらっしゃいました。地蔵さんは延命除災の功徳があるとあつい信仰を受け、菰野の町に昔から大きな火事が起きたことがないことも、この地蔵さんの加護があるからと信じられているそうです。
Img_7285c 東町商店街は、閉店してしまった店もあるものの、まだまだ頑張っているImg_7289c お店もたくさんあります。今日のハイキング参加者は、商店街のいくつかの店でサービスを受けられたのですが、¥1,000以上とか、\3,000以上購入が条件でしたので、残念ながらパス。
Img_7300c 菰野駅にゴールしたのは、12時32分。5.7㎞。菰野神社から思ったほど時間はImg_7311c かかりませんでした(微笑)。近鉄四日市行きの電車は、ちょうどよい具合に12時40分発。近鉄四日市駅に12時59分着。四日市からは13時10分の名古屋行き急行に乗車し、桑名着は13時22分。運賃は、片道¥470。自宅から桑名駅までの往復も含め、7.7㎞ほどでした。
 宇治山田での記事を書いてから、今日の菰野の記事を書きます。

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2018年10月 8日 (月)

20181008近鉄ハイキング「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」へ(予告編)

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 体育の日、絶好のハイキング日和です。今日は、近鉄ハイキング「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」に行ってきました。近鉄名古屋線・宇治山田駅から、御幸道路、錦水橋、河邊七種神社、河崎の町並み、河崎商人館、勢田川沿い散策、橘神社、二軒茶屋餅角屋本店、松尾観音寺そして倭姫宮を訪ね、近鉄鳥羽線・五十鈴川駅がゴールという、コースマップ上8.4㎞のハイキング。
Img_5751c いつもハイキングに出かける時よりも1時間近く早い電車に乗ります。自宅は7時40分過ぎに出発。というのも、桑名から宇治山田まで急行で行くと、ほぼ1時間半かかるのです。8時3分の伊勢中川行き急行に乗り、伊勢中川に9時4分着、9時7分発の五十鈴川行き急行にに乗り換え、宇治山田到着は、9時31分。料金は、何と¥1,200! これまでに参加した近鉄ハイキングでは、最長の乗車時間であり、最高の運賃(笑)。本日は、例によって「予告編」。写真もどういう風か、800枚以上撮ってきており、まだざっと見ただけです。
Img_5786c 近鉄名古屋線・宇治山田駅。昭和6(1931)年に開業。当時の面影を、今でも残しています。国登録有形文化財。駅名は開業当時の市名である宇治山田にちなんでいます。内部のコンコースは広々として二階までの吹き抜けがあり、荘重でゆったりとした駅舎ですが、団体待合室や食堂など、多数の参詣客に対応できる機能的な設計もされています。貴賓室があり、天皇など皇族の方や、内閣総理大臣の伊勢神宮参拝の際の乗降駅となっています。
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 駅舎は開業当時からの鉄骨鉄筋コンクリート3階建て(塔屋を含めると5階建て)。設計は、同じ1931年に開業した東武鉄道浅草駅や1932年竣工の南海電気鉄道難波駅(南海ビルディング)をも手がけた久野節。建築面積は3,201㎡、幅128mの堂々たる駅舎です。外壁はクリーム色のテラコッタ・タイルで全面装飾され、入口上部には八角形の窓が並んでいます。屋根には茶色のスペイン瓦が使われていて、昭和初期の名建築です。就職した年、初詣で来たと思うのですが、夜中でしたのではっきりした記憶がありません。一度しっかりと見ておきたかった駅。
Img_5801c 左は、本日のコースマップ。伊勢へ来たのですが、外宮、内宮など伊勢20181008kintetsuhikingujiyamada 神宮にお参りするコースではありません。河崎といって、江戸時代から伊勢の台所として発展した問屋街あたりを回り、勢田川沿いを散策。伊勢名物の一つ、二軒茶屋餅を味わいます。最後に、伊勢神宮の別宮の一つである倭姫宮へお参りします。右は、実際に歩いたルートマップを、いつものように距離測に描いたもの(こちらを参照)。多少とも寄り道をしたりしましたので、実際には、9.6㎞を歩きました。自宅から桑名駅までの往復を含め11.6㎞ほどです。
Img_5889c 宇治山田駅を出て左折を重ね、御幸道路へ出ます。伊勢神宮の豊受大神宮(外宮)と皇大神宮(内宮)を結んでいます。全長はおよそ5.5km。明治天皇の行幸で神宮へ参拝するための道路として、自動車が通行できる道が倉田山を経由して作られたのです。明治43(1910)年に竣工。篤志家によって献灯された石灯籠が並んでいたのですが、今年4月路線バスがバス停に止まろうとした際、道路脇に設置されていた石灯籠に接触。これが倒壊して歩行者の男性を直撃し、亡くなるという事故があって、撤去されてしまいました。歩道の新しい舗装は、石灯籠があったところと思います。
Img_5900c  上の写真に写っている橋が、錦水橋。御幸道路が勢田川を渡る橋です。12 基の擬宝珠 が付いたこの橋は、明治36(1903)年、倉田山に神宮徴古館が開館した時にできました。この橋のあたりから山の方を見ると、秋には紅葉が広がり、それが「錦」のようだったため名付けられたといいます。昔は路面電車(三重交通神都線)も走る橋でした。三重交通神都線は、山田駅(現・伊勢市駅)前を起点とし、内宮までと二見までの路線がありましたが、昭和36(1961)年に廃線となり、バス路線に替わりました。伊勢市のターミナル駅から、伊勢神宮・二見浦へ向かう観光・参拝客輸送の役割を果たしていたのです。全路線長は、14.0km。
Img_5904c 錦水橋からは、勢田川沿いを歩き、河崎の町並みに向かいます。写真は、清浄坊橋のやや上流から、上流方向(南)を見たもの。勢田川は、伊勢市街地を流れる主要な河川で、江戸時代にはお蔭参りの客や物資の輸送で大変賑わいました。
Img_5939c 河崎の町並み。今もたくさんの店などが営業していて、楽しめます。こちImg_5930c らにある「伊勢河崎商人館」のサイトにたくさん情報が載っています。町歩き地図もあります(ここ)。河崎を始め、伊勢地方では、右のような注連飾りが年中飾ってあります。「蘇民将来(そみんしょうらい)子孫家之門」という文言が書かれています。「蘇民将来」とは、神に宿を貸した善行により茅(ち)の輪の法を教えられ、子孫に至るまで災厄を免れることを約束された説話上の貧者の名です。
Img_5960c 河崎の氏神様である河邊七種神社(かわべななくさじんじゃ)。通称は「天王さん」。創祀の年代は不詳ですが、旧家村田氏が宝徳3(1451)年、室町・足利時代に初めて当地に来住し祭祀して創立され、河邊の里の地名由来に依り、河崎社と称したのを、明治4(1871)年6月から河邊七種神社となりました。
Img_5985c 主祭神は、須佐之男神(スサノオノミコト)。相殿神は、八衢比古神、八衢比売神、久那斗Img_5987c 神、大物主神、火産霊神、菅原道真公、水神、宇迦之御魂神、祭神不詳二座(相殿神は、本編で触れます)。
Img_5991c 境内社には、吉家稲荷神社があります。町内に無格社として祀られていたものを昭和11(1936)年にここに遷し、祀っています。他には、境内には、樹齢600年といわれる大楠がありました。
Img_6043c 河崎商人館。江戸時代中期(約300年前)に創業された酒問屋「小川酒店」を保存し、伊勢河崎の歴史文化興隆拠点として整備された施設です。江戸・明治期に建築された蔵7棟、町家2棟からなっています。といっても、小生は、中は見ておりません(苦笑)。9時30分~17時00分、火曜日休館、大人300円です。ちなみに、町並みは「切妻妻入(きりづまつまいり)」になっています。神宮の御正殿が平入りのため、同じでは畏れ多いという理由だそうです。
Img_6034c 川に面して建つ酒類の商品蔵は、日常で使う雑貨、食品を中心とした販Img_6054c 売と展示をしています(こちらを参照)。ちょっとだけ覗いてきました。また、商家には大きな鬼瓦、飾り瓦があります。飾り瓦には「隅蓋」といわれる、切り妻の両端にあり、水が建物に入り込むのを防ぐ蓋の役割をするものがついています。右は、河崎商人館のものの1つ。火災から家を守るという祈りも込められているようです。
Img_6074c 川辺の蔵。かつては、川の両岸に川から直接荷物を運び入れることができる蔵が建ち並んでいたといいます。左の写真は、「川の駅」近くで撮ったもの。勢田川の左岸にあります。これも見たかった景色。
Img_6108c その後は、勢田川沿いを延々と歩きます(笑)。次の目的地である橘神社に行くまで、瀬田大橋を渡って2.5㎞。川沿いです。しかし、退屈はしません。川沿いで、カワウ、モズ、トビ、イソヒヨドリなどが登場してくれたからです。
 瀬田大橋を渡って、勢田川の右岸を歩き、4.5㎞地点。橘神社です。Img_6129c しかImg_6144c し、参加者の方、ほとんどここには見向きもしません。次の二軒茶屋餅・角屋本店が気になるのでしょう(笑)。御祭神は、橘諸兄(たちばなのもろえ)。橘諸兄は、敏達天皇の子孫で、天平9(730)年に大納言に抜擢された、いわば奈良時代の政治家。
Img_6122c 境内には、勝廣稲荷社もありました。倉稲魂神が御祭神。御鎮座は不明ですが、伊勢学園高校の敷地に鎮座していたものの、平成6(1994)年、ここに移転してきたそうです。
Img_6196c 次は、いよいよ「名物二軒茶屋餅で舌鼓」であります。5㎞直前、11時25Img_6193c 分。お腹は空いています(微笑)。二軒茶屋餅は、角屋本店の商品。角屋は、天正3(1575)年に伊勢神宮へ参拝する舟参宮の港であった大湊から勢田川をさかのぼる舟着場の近くで創業されました。創業当時、舟着場付近には角屋と湊屋の二軒の茶屋があったことから、このあたりは、二軒茶屋と呼ばれるようになったと伝えられます。湊屋は、今はありません。
Img_6170c 今日の近鉄ハイキング参加者には、二軒茶屋餅を1つプImg_6174cc レゼントされます。二軒茶屋餅は、きな粉餅で、中にあんこが入っています。三重県内、東海道から伊勢街道(参宮街道)沿いは、「餅街道」なのです。ちなみに、まだ全部制覇はしていません。
Img_6158c 二軒茶屋餅角屋本店の敷地内には、明治天皇の記念碑があります。樹齢400余年の大楠の下に建っています。 この記念碑は、明治5(1872)年に明治天皇が海路より伊勢神宮に参拝した際、二軒茶屋に上陸したことを記念して建立されたものです。
Img_6244c ちょっと飛びますが、倉田山公園。野球場のところに「野口みずき金メダルロード」の顕彰記念碑と、沢村栄治投手・西村幸生投手の胸像がありましたので、寄り道。野口Img_6250c みずき選手は、アテネオリンピックの女子マラソンで優勝しました。伊勢市出身で、県立宇治山田商業高校時代に実際にトレーニングで走ったコースを顕彰記念道路としています。沢村、西村ともに伊勢市出身の偉大なプロ野球選手。ともに太平洋戦争当時に、沢村投手は現読売巨人軍、西村投手は現阪神タイガースで、それぞれエースとして活躍したのですが、両選手とも戦争で命を落としています。
Img_6286c 倉田山公園野球場から3~400mのところに、松尾観音寺があります。山号は、龍池山。約1,300年前の奈良時代始め(712年)、当時の高僧・行基が伊勢神宮参拝の折、この松尾山に雄・雌の龍が住むと伝えられる池があることを知り、その池のほとりに自ら観音様を刻み寺を創建したと伝えられています。創建以来、本山も末寺も檀家も持たず、いずれの既成宗派にも属さない“単立”という特異な形態の祈願寺です。ご本尊は、「十一面観世音菩薩」と脇仕の「地蔵菩薩」「毘沙門天」。龍神伝説に因んで、「災難除け」「縁結び」などに利益があるとされます。 龍池は、本堂裏(伊勢学園高校の南)にあります。「二つ池」と呼ばれ、東の池には雄龍、西の池には雌龍がそれぞれ住んでおり、観音様をお守りになっていると言われています。松尾観音寺に着いたのは、12時ちょうど。ここで6.4㎞ほど。
Img_6301c 境内には、松尾龍池社などいろいろなもなものがありました。まだこれかImg_6358c ら調べないといけませんので、それは本編にて。松尾観音寺から、皇學館大学、高校、中学などの脇を通って、倭姫宮へ向かいます。右は、皇學館大学の寮。門がかなり立派。
Img_6376c 倭姫宮へ入るところの交差点は、「倭姫前」。交差点のところには、「神宮Img_6380c 文庫」という看板がありました。よく分からなかったのですが、この奥には皇學館大学の神道博物館があるようです。交差点を渡って、倭姫宮への入口には、「古市へニ町」という道標が建っていました(道標好きです)。
Img_6391c 倭姫宮。内宮の別宮。御祭神は倭姫命(やまとひめのみこと)。伊勢神宮には内宮と外宮と合わせ別宮は14宮ありますが、そのうち創建が明確であるのはここ倭姫宮だけです。大正12(1923)年11月5日創建で、もっとも新しい別宮です。倭姫命は、第11代垂仁天皇の第四皇女と伝えられます。倭姫命は天照大神を祀る宮を定めるため、数国を経たのち現在地に伊勢神宮を創建し、祭祀や神職の制度を定め、神道の基礎を作ったと伝えられます。その途中、桑名にも立ち寄られています。
Img_6413c こちらが、倭姫宮。伊勢神宮の別宮ですので、倭姫宮も遷宮が行われまImg_6415c す。最近では、平成26(2014)年12月10日に遷御の儀が執り行われました(こちらを参照)。
Img_6431c この倭姫宮のあたりは、「倭姫文化の森」として整備されています。神宮Img_6439c 徴古館(左の写真)、神宮農業館、神宮美術館など神宮に関わる博物館もすぐ近くにあります。時間的、体力的余裕があれば、是非とも立ち寄りたいところですが、12時半を過ぎていましたので、ここのいこいの広場で昼食&休憩としました。今日も桑名駅の駅ナカコンビニでゲットしてきました。選択肢があまりなかったのと、電車の時間が迫っていたので、「いなり&おむすびのミニセット」(税込み¥298)。
Img_6468c 13時に再スタート。倭姫前の交差点から再び御幸道路に出て、ゴールの五十鈴川駅へ。倭姫前の交差点からは、ほぼ直線で1㎞弱。左の大鳥居をくぐって、下り坂。帰りに下り坂は楽ちん(微笑)。ここの御幸道路にも石灯籠があったのですが、すべて撤去。風情はありましたが、昭和30(1955)年に設置したもので、管理責任も曖昧になっていましたから、撤去やむなしと思います。

Img_6495c

 ゴールの近鉄鳥羽線・五十鈴川駅。13時18分に到着。スタートからほぼ3時間半。9.6㎞を完歩。ここは初めて来ました。江戸橋の仕Img_6503c 事の時、五十鈴川行きの急行に乗ることがありましたが、その電車は、ここまで来ていたのです。 特急停車駅ですが、コンビニもありません。ただ、周りの景色はとてもよい感じ。右の写真で奥に見えているのは、朝熊山と思います。我が家からも天気がよければ、この朝熊山は見えます。
Img_6543c 昼の時間帯、ここから名古屋まで直通の急行は、1時間に1本。特急は、2本。急行が出るまで40分弱。たくさん歩いて疲れましたので、ちょっと贅沢をして、特急で帰ることにしました。桑名までの特急料金は\1,320、運賃は¥1,270。合計¥2,590という大枚をはたきました。13時49分発で、桑名着は14時59分。特急なら1時間あまりということでした。
Img_6530c 五十鈴川駅は、直線区間の途中にあります。何かで調べたら、「隠れたImg_6538c 電車撮影スポット」と書いてありました。素人考えですが、確かにそうかも知れません。
Img_6561c お陰様で、今日であみま倶楽部のスタンプは、目出度く20個を達成しました。12月まで、1年の会員期間がありますので、もうちょっと頑張ってみたいと思うのですが、次は40個スタンプを集めないと賞品がもらえません。これはさすがにキツそう(笑)。
 以上、今日の近鉄ハイキング「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」の予告編でした。800枚以上の写真を整理し、あれこれ調べてまた本編を書くことにします。

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2018年10月 6日 (土)

20180924近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」へ(その4)……徳川家康公船出の浦、江島若宮八幡神社、久住屋菓舗でおはらぎ、青龍寺そして勝速日神社を経て白子駅へゴール(完)

 9月24日に開催された近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」のその4です。その3では、大黒屋光太夫らの供養碑、若松緑地の光太夫漂流記壁画、2代目開国曙光碑を経て、ようやく春日神社へ。5.7㎞地点、時刻は、12時半頃。

20180924kintetsuisewakamatsu3 今日の記事で出てくるところのルートマップ。伊勢湾から少し離れた住宅街Img_3883c の中を進みます。ハイキングで設定された立ち寄りスポットは、徳川家康公船出の浦、江島若宮八幡社などですが、2㎞ほどは立ち寄るところはありませんので、ひたすら歩きました(笑)。鈴鹿市立愛宕小学校を過ぎると、7㎞。
Img_3930c 7.1㎞地点、東江島町に入ってしばらくしたところで左折。奥に見える森は、Img_3931c 江島若宮八幡神社の鎮守の森。これは地図をよく見ていないと見逃しそうなところ。「近鉄ハイキング」のコースを示す、朱い矢印が2つ、電柱に貼ってあります。これを行くと、「ここが本当にハイキングコース?」と思えるようなところを通って行きます。伊勢マリンホームという特別養護老人ホームの脇を通って海岸に出ます。
Img_3934c このあたりが、「徳川家康公船出の浦」です。案内板は、このすぐ近くの江Img_3937c 島公園の中に建てられています。案内板には「徳川家康公九死に一生を得て駿府に戻る船出の港(浦)」とあります。天正10(1582)年6月2日(旧暦)、本能寺の変が発生しましたが、その際、徳川家康は本多忠勝を始めとする家臣たちに説得されて帰国を決意し、伊賀国を経由して、三河国へ帰還しました。
Img_3940c この案内板によれば、伊賀越えをして、亀山を抜け、家康はここ江島北部(当時は、川南村)にたどりつきました。小川孫三の農事納屋に身を隠したのち、6月4日に白子若松浦から孫三の漕ぐ船で脱出したというのです。ちなみに、このあと家康は、小生の生まれ故郷である三河国大浜に上陸しています。ただし、家康が伊勢国から船に乗ったのは確かなようですが、乗船したところについては、いくつかの説があります。ここ白子という説の他にも、津、浜村(四日市市)という話もあります。四日市には、浜町および蔵町に思案橋(しあんばし)という史跡があります。今は、川は流れていませんが、国道164号を挟んで両側の歩道に復元された橋が設置されています。本能寺の変を避けた家康が、ここより海路を進むか、陸路を進むか、を思案したとされます(ここは、去年11月25日にJRさわやかウォーキングで行っています:どういうわけか、JRさわやかウォーキングへ……~四日市市制120周年記念~ 家族みんなで楽しめる四日市旧港街歩き)。
Img_3946c  どこから船に乗ったかにもよるのでしょうが、伊勢国から三河国大浜までの船を手配して、家康や供廻の帰還を助けたのは、伊勢商人の角屋七郎次郎秀持ともいいます(こちらWikipediaの説明)。また、案内板には駿府に帰ったような記述がありますが、小生の生まれ故郷である三河国大浜(現在の碧南市浜寺町あたり)に上陸したというのが通説です。ただし、白子から海路最短コースを通っても、三河大浜までは、海上16里(約64㎞)ありますので、上陸地点は知多半島常滑とする説もあります(常滑であれば、海路直線距離で6里弱、約22.5㎞)。写真は、江島公園の前から伊勢湾、北東を見たもの。もっと天気がよければ、知多半島が見えるはず。
Img_3942c 江島公園の中を抜けて行きます。この公園は、千代崎海岸につながる海Img_3949c 岸に面しています。夕雲整備されていて、家族連れなどで楽しめそうです。
Img_3955c 江島公園のすぐ西に江島若宮八幡神社があります。ここは、ここは、3月17日の近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」で来ました(近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(予告編)、3月22日:近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その4)……芙蓉館から江島若宮八幡神社へ(まだ続きます))。鈴鹿市内で2番目に広い境内を持つ神社(最も広いのは、椿大神社です)。
Img_3958c_2 主祭神は、大鷦鷯命(オオササキノミコト、仁徳天皇)、品陀和気命(ホンダワケノミコト、応神天皇)、息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト、神功皇后)となっています。平安時代初期、禁中(内裏)に奉祀されていた若宮八幡宮(京都石清水八幡宮の御分霊)を人皇六十代延喜帝醍醐天皇が、神意に問いて伊勢宗廟(皇大神宮)の戌亥の方なる当地に奉遷したといいます。相殿神は、建速須佐之男命を含め14柱。今回は割愛しますので、ご興味がおありでしたら、3月1日の近鉄ハイキングの記事をご覧ください。
Img_3961c  江島若宮八幡神社は、伊勢湾にほど近いところにあり、江戸時代から海上の守護神として信仰を集めて来ました。安全祈願などで奉納された多数の絵馬がありますが、そのうち、江戸時代の71面は三重県の有形民俗文化財に指定されています。今日は、予約制の宝物館の扉が開けていただいてあり、絵馬を直接見られました。弁財天、武者絵、町絵図、帆前船などの図柄があります。廻船業で賑わった白子湊の繁栄と信仰が窺えます。神社の南にある常夜灯もまた見てきましたが、それも含め、その他、江島若宮八幡神社についての詳細は、3月17日の近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」をご覧ください。
Img_4019c 江島若宮八幡神社の近くからは、しばらく伊勢街道を下ります。このあたImg_4026c りは、3月17日の近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」で、上ってきたところ(近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(予告編))。伊勢街道(参宮街道)沿いには、「安濃津治安裁判所・登記所・法務局跡」、「江島陣屋跡」などがあります(3月21日:近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その3)……同心屋敷跡、道標を見て久留真神社、大徳屋長久山で土産をゲットし、まちかど博物館などへ)。
Img_4039c  今日のコースには買えるところはないと諦めていたのですが、ありましImg_4144c た。コースマップをよく見なくてはなりませんでした。鈴鹿の銘菓・大はら木(おはらぎ)。久住屋菓舗さんのお店の前のところで曲がるというルートでした(微笑)。久住屋菓舗さんは、創業は文久年間という老舗。3月の時は、小原木本舗大徳屋長久さんで購入しました。鈴鹿で働いていましたので、懐かしいお菓子。手焼きした柔らかいおせんべいに粒あんが挟んであります。久住屋菓舗さんでは、1個¥85。
Img_3848c ちなみに、久住屋菓舗さんの看板が、若松堤防漂流記壁画から2代目開国曙光碑へ行く途中にありました。昔よくあったタイプの看板で、懐かしい感じがします。
20180924kintetsuisewakamatsu4 最後の実測ルートマップです。久住屋菓舗さんのところで伊勢街道から離れ、右折し、白子の町の方へと向かいます。
Img_4042c 次に立ち寄るのは勝速日神社ですが、そこへ向かう途中お寺がありましたので、寄り道(微笑)。體用山(たいゆうざん)青龍寺です。真宗高田派のお寺。3月のハイキングで下調べはしていたものの、足を伸ばさなかったところです。あまり有名ではないようですが、お宝は充実しています。
Img_4053c 天長7(830)年、弘法大師空海によって開創されたと伝承されています。弘法大師の作になるという弁財天が祀られており、光背に漢文で次のように銘があるといいます。「天長七年七月七日江島ニオイテ辨財天ノ法秘密護摩一萬座修行シ奉ル其ノ墨ヲ以テコノ像作ル者也 空海 印」。その後、寛正元(1460)年鈴鹿に根拠を置いて布教に努めた真慧上人(しんねしょうにん)に帰依し、真宗高田派に改宗しました。真慧上人は、室町後期の浄土真宗の僧。伊勢一身田に無量寿院(専修寺)を建立し、高田派教団の勢力を拡大しています。伊勢専修寺第十代。
Img_4047 今日のコースではありませんので、お宝は拝見できませんでしたが、ご覧のようにたくさんのものがあるそうです。主なものの一つ目は、徳川吉宗作の「紅梅白梅図(掛け軸)」です。白子が紀州藩領だったこともあり、徳川吉宗とも縁があったと思われます。二つ目は、「弘法大師の手形」です。弘法大師(空海)が護摩(ごま)の修行で出た灰を固めて作ったとされます。
Img_4049c 三つ目は、第11次朝鮮通信使(延享3(1746)年)の通訳官、朴徳源の肉筆による「體用山(たいゆうざん)」の額です。平成15(2003)年に、本物であることが確認されています。朝鮮通信使が書いた扁額は、全国的にも少ないので、貴重な文化財です。ただ、鈴鹿は朝鮮通信使のルートからは外れているのに、何故ここにこれがあるのかは不明。
Img_4061c 本堂に向かって左手には、「倶會一處(くえいっしょ)」の石碑と、もう一Img_4065c つ。「倶會一處」とは、人々が一定の場所に集ること。原義は仏教で阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、すでに往生している人々と会うことをいうそうです。
Img_4063c もう一つの石碑には、「三疑翁退筆冢之記」と刻まれています。4枚前の「體用山青龍寺の文化財」の説明板の7に「久住三疑の筆塚」とありますが、それがこれです。久住三疑(宝暦8(1758)~天保元(1830)年)は、白子の廻船業者で、好景気に支えられ、当時、白子湊の大富豪であったといいます。能筆家としても知られています(久住五左衛門三疑。三疑は号の一つ)(こちらでも言及されています)。退筆は、古い筆。石碑は、天保五(1834)年申午四月に建てられています。内容、読み下しはこちらを参照。青龍寺で8㎞。
Img_4093c 神社の由緒書きによれば、文明年間(1469~1486年、室町時代)の創建。主祭神は、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト。この神様は、天之忍穂耳命と同じで、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の父)。相殿神は、天御蔭命、素盞嗚命、稲田姫命、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、天美津玉照比売命。詳細は、上記の3月のハイキングのリンク先をご覧ください。
Img_4092c 鈴鹿でF1グランプリが始まりましたが、レース関係者がこの神社の名前と、御祭神に注目して、必勝祈願に訪れるそうです(たとえば、こちら)。正勝吾勝勝速日天忍穂耳命は、稲穂の神、農業神として信仰されることがおおいようですが、「正勝吾勝(マサカツアカツ)」は「正しく勝った、私が勝った」の意、「勝速日(カチハヤヒ)」は「勝つこと日の昇るが如く速い」または「素早い勝利の神霊」の意で、誓約の勝ち名乗りと考えられています」(Wikipediaから)。これですべてコンプリート。
Img_4103c ゴールの近鉄名古屋線・白子駅には13時42分に到着。9.5㎞を完歩しまImg_4116c した。コースマップでは8㎞でしたが、寄り道もしましたし、よく歩いたという感じでした。13時51分発名古屋行き急行に乗車して帰宅。桑名駅は、14時22分。¥490。
Img_4138c あみま倶楽部スタンプは、これで19個。あと1つで20個となります。シルバー会員になっていますので、スタンプ20個で銅賞がもらえます。バッチと1,000円分の賞品(こちら)。1,000円分は、近鉄グループの商品券か、景品がもらえます。今日(10/6)、塩浜のハイキング(いにしえの六呂見町並み散策と勅願院観音寺)に行っていれば、20個になったのですが、朝から小雨が続いて、断念しました。
 なお、このハイキング、「距離測」に描いた実測ルートは、こちらでご覧いただけます。

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2018年10月 5日 (金)

20180924近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」へ(その3)……大黒屋光太夫らの供養碑、若松緑地の光太夫漂流記壁画、2代目開国曙光碑、春日神社

20180924kintetsuisewakamatsu2  9月24日に行ってきました近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」、その3です。その2では、大黒屋光太夫記念館近くの心海寺、小川神社、宝祥寺について書きました。まだスタートから2.5㎞ほどです。宝祥寺にいたのは11時10分過ぎ。

Img_3754c 宝祥寺から堤防道路に出たところに山の神が祀られていました。「山の神」と刻まれた石と、鳥居があるだけで、詳細、由緒などは不明。ここから住宅街に入っていくと、光太夫らの供養碑があります。場所はちょっとわかりにくいところでした。
Img_3759c こちらが大黒屋光太夫らの供養碑。大黒屋光太夫以下17人が乗り組んだImg_3757c 神昌丸は、天明2(1782)年12月13日、白子の湊を出帆し、遠州灘沖で暴風雨に遭い、行方不明になります。神昌丸は、紀州藩の廻米、木綿、瓦、紙などを積んでいたそうです。漂流すること7ヶ月あまりでアリューシャン列島にあるアムチトカ島に漂着します。
Img_3764c 上左の写真では、2基の墓が並んでいます。向かって右がこれ。こちらは、Img_3765c 傍らにある説明によれば、「亀屋一門の墓」です。大黒屋光太夫は、亀屋に生まれ、大黒屋に行ったという説が有力です。これは、亀屋(緑芳寺過去帳には南亀屋)の墓碑。正面には、光太夫の法名(釋久味)が刻まれています。
Img_3761c 3枚目の写真で向かって左に建つのがこちら。これは、説明板(上右の写真)によれば、大黒屋光太夫らの供養碑です。これは、そうなから三回忌にあたる天明4(1784)年12月に神昌丸の荷主であった木綿問屋・長谷川家によって建立されたもの。正面には「釋久味例 南無阿弥陀仏 俗名 光太夫」と刻まれています。
Img_3778c こちらは供養碑の背面。「維持 江戸大伝馬町一丁目 天明四甲辰年十二月 施主 太物店行司頭 長谷川次良兵衛 長谷川市左衛門」とあります。この長谷川家は、三重県松阪市出身の伊勢商人です。「丹波屋」という屋号で寛永12(1635)年、一族の者である布屋市右衛門が日本橋大伝馬町で木綿売買を始めています。その旧宅は三重県松阪市に現存しており、平成25(2013)年4月に長谷川家から松阪市に寄贈されています。この長谷川家旧宅は、今年5月のJRさわやかウォーキングで訪ねています(2018年5月26日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(予告編)、2018年7月6日:20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その4)……松坂城跡の続きから旧長谷川邸まで)。江戸時代、松阪も白子も紀州藩の領地であった時代があります。その関係かと思いますが、思わぬところで歴史はつながっているものだと感心。ここでも大黒屋光太夫顕彰会の方が詳しく説明をしてくださいました。
 前回も書いたかも知れませんが、磯吉のご子孫が今もこの近くにお住まいだそうです。顕彰会の方から伺いました。
Img_3787c 光太夫らの供養碑から300mほどで千代崎港へ。ここには、若松緑地がImg_3785c あり、その堤防に大黒屋光太夫の漂流記が壁画になっています。200mほどに渡って壁画がいくつも並んでいます。壁画といっても、金属板に描かれたもの。ただ、台風のあとだったためか、飛んできた枝や葉っぱが散乱して、足下がアブナイ。一通りは見て来ました。
Img_3817c 事前の予習では、ここに光太夫らを乗せ、ロシア最初の遣日使節アダImg_3810c ム・ラクスマン一行が乗ってきたという帆船エカテリーナ号をイメージした遊具があるはずだったのですが、最近、撤去されてしまったようでした(こちら)。この若松緑地で11時半、まだ3㎞半ほど。
Img_3823c ということで、まだ先の方が長そうでしたので、ここ若松緑地でお昼にすることにしました。来るときに桑名駅の駅ナカコンビニで買ってきた「ガパオライス」。好き好んでこれにしたのではありません。ハイキング/ウォーキングの時は、あまりたくさん食べるとそのあと、歩くのに差し障りがあります。少なめの弁当を探したら、これしかなかったのです(苦笑)。もともとはタイ料理とか。ガパオ炒め、ブロッコリー 炒め、パッタイ風春雨炒めと目玉焼き風オムレツがトッピングしてありました。税込¥360。今日は、コースにコンビニはなく、あらかじめ買っておいてよかった(微笑)。ちなみに「ガパオ」とは、料理の名前ではなく、ハーブなのだそうです(こちら)。
Img_3832c 昼ご飯を終えて、12時に若松緑地を再スタート。近くの電柱で、イソヒヨドImg_3858c リのメスを見つけました。金沢川を渡って、千代崎海水浴場へ。ここは、波が穏やかで家族連れに大人気だそうです。伊勢湾では県内で最も北に位置する海水浴場。
Img_3865c
 観光案内所の脇に2代目の開国曙光碑があります。初代の碑が、昭和Img_3874c 9(1934)年に室戸台風により倒壊したため、ここ千代崎海岸に再建されたもlのです。しかし、この2代目の碑も昭和34(1959)年には、伊勢湾台風により上部が欠けてしまいまいした。そのため、3代目の開国曙光碑が昭和51(1976)年に建立されています。開国曙光碑の碑も、光太夫と同じく、波乱万丈な経過をたどっているのです。
Img_3877c 2代目開国曙光碑を見てからは、南若松町の住宅街の細い道を歩いてImg_3884c 行きます。開国曙光碑から1㎞弱。道沿いに春日神社という神社があります。ここはコースにはなっていませんが、当然(笑)、立ち寄ります。
Img_3897c 春日神社の御祭神は、天児屋命(あめのこやねのみこと)。天照大神がImg_3902c 天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神様です。創祀年代は不詳。明治41(1908)年に南若松の小川神社へ合祀されましたが、昭和26(1951)年、 氏子の総意により元の鎮座地へ分祀され今に至っています。
Img_3904c 境内には稲荷社もありました。稲荷社の建物は古そうでしたが、社の中Img_3907c は、新しい感じ。眷属の狐さんも新しい印象でした。
Img_3891c ここで一つ失敗。山の神様も祀られていたのですが、確認をし忘れました(苦笑)。こちらのサイトにあります。
 まだこの先がありますので、今日はここまで。次回は、徳川家康公船出の浦、江島若宮八幡神社などから。もう1回で「完」のはず。

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