勝手にハイキング

2020年8月17日 (月)

39.2℃のもと村正史跡めぐりスタンプラリーへ……3時間で7.9㎞を歩き村正の鍔の形のピンバッジをゲット

Img_3183c_20200817153401  猛暑のピークは下がるかと期待して、今日は、桑名宗社(春日神社)の村正史跡めぐりスタンプラリーに行くことにしていました。が、期待は得てして裏切られる運命にあります(苦笑)。今日の最高気温は、39.2℃(14時1分)。桑名宗社では、「宝刀村正特別公開」に合わせて、8月13日から31日まで「村正史跡めぐりスタンプラリー」が企画されています。うちわ型スタンプラリー台紙をもって、市内8か所の村正にゆかりあるチェックポイントを回るということ。すべてを揃えたら村正の鐔(つば)の形をした記念ピンバッジが先着1,000名にプレゼントされるのです。

Img_3190c_20200817153401  今日は、同級生K氏、畏友M氏と3人連れ。前期高齢者に入った3人のオッサンが、猛暑の中、連れだってヨタヨタして大丈夫Img_3198c か? と危惧しつつ、熱中症対策を万全にして9時に集合、早速スタート。その前に、桑名宗社にある「細石」をチェック。細石は、境内社の母山神社の拝殿に向かって右手にあります。

200817muramasawalking  今日歩いたコースマップ。桑名宗社をスタートして、京町交差点へ(桑名市博物館近く)。そこから西へ、桑名駅に向かいます。北勢線で西桑名から馬道まで行こうかとも考えましたが、「歩こう」ということになり、そのまま走井山勧学寺へ。ここで最初のスタンプを押し、ゴールに向かいます。和菓子屋さん・玉川軒から、旧東海道を通って、天武天皇社。寺町近くの仏眼院、我が家近くの浄土寺、七里の渡し跡と歩き、最終ポイントの柿安コミュニティパーク入り口にある本多忠勝像を経て、桑名宗社に戻って来ました。この間歩いたのは、7.9㎞でした。9時過ぎにスタートして、正午直前にゴールというほぼ3時間コース。玉川軒で葛アイスを食べていましたし、あちこちで休憩していました。

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 桑名駅南の近鉄名古屋線(標準軌)、JR関西線(狭軌)、三岐鉄道北勢線(ナローゲージ)の3つの幅の線路を渡る踏切を越Img_3205c_20200817153501 え、駅の西側へ。このあたりでスタートから1.5㎞ほど、時刻は9時20分。

Img_3208c Img_3210c  旧諸戸徳成邸(2017年4月29日:「諸戸徳成邸」特別公開へ……「見納め」になるということで)は、諸戸家墓所を残して住宅地になっています。しかもかなりの高級住宅が並んでいます。桑名高校近くの高台にあって、眺めはよいところ。諸戸徳成邸は、残して欲しかったと思います。

Img_3221c  走井山勧学寺には、9時40分頃到着。ここが最初の目的地。お参りして、本堂前に置かれたスタンプを押し、しばし休憩。雲があったもののやはり暑い。帰ってから調べたら、この時点ですでに32℃くらいあったようです。高野山真言宗の寺。開基は、聖武天皇の御代(724~49年)で、行基菩薩の草創によると伝えられています。元は走井山の麓にあったようですが、元和3(1617)年、七代桑名藩主松平定重が矢田城址に本堂を再建しました。桑名市内に現存する寺社建築では、もっとも古いものです。

Img_3231c_20200817153501  勧学寺から三岐鉄道北勢線・馬道駅の方に降りる階段の途中に「伝村正屋敷跡」があります。このすぐ東にあるマンションのあたりに村正の屋敷があったといいます。「勢桑見聞略史」によれば、「村正トテ(中略)其旧宅ノ地矢田走井山観音堂ノ下道ノ左、今庄屋ノ家是其旧地也」とあるそうです。

Img_3241c_20200817153501  馬道駅西の踏切。ちょうど北勢線の電車がやって来ました。私はこの踏切の北西に立つ「三猿像」が好きImg_3248c_20200817153501 で、このあたりに来ると必ず見ていきます。この先は、いつぞや歩いた員弁街道。員弁街道に出て左折し、東へ。市内に向かって行きます。

Img_3257c_20200817153501  国道1号線浅川交差点を横断歩道橋で渡り、2ヶ所目の目的地・玉川軒に向かいます。

Img_3264c  玉川軒。明治28(1895)年創業の老舗。冷たいものをと思い、葛アイス(1本¥200)をいただきました。見た目は普通のアイスキャンディーですが、葛でコーティングされていて、ムチっとした食感で噛み応えあり。アイスですが、溶けません。ここは、村正展で妖刀村正のお菓子を作っていました(現在は、Sold out)。ここでは、買い物をすることで、スタンプを押してもらえます。あまりにも暑かったので、写真を撮ることなど忘れて、アイスを食べてしまいました(爆)。ここで3.8㎞、10時25分頃。

Img_3267c  玉川軒さんの先(東)、掛樋交差点を右折し、さらに左折すると旧東海道に入ります。天武天皇社の手前で、「本願寺跡・梅花仏鏡塔」を見てきました。ここにはかつて本願寺という大きな寺があり、その境内に芭蕉の門人である各務支考の分骨墓・梅花仏鏡塔があります。墓は各務の姓にちなんで、円形の鏡を模しています。各務支考がなくなったあと、この地方の俳諧の指導的立場にあった、支考の門人・雲裡坊杉夫(桑名本願寺住職)がこれを建立しています。

Img_3272c_20200817153501  天武天皇社です。3ヶ所目の目的地。私自身は何度か訪ねています。ここで4.3㎞、時刻は10時35分。壬申の乱(672年)のときに大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名郡家に駐泊されたことにちなみ、のちに創建されました。元は新屋敷付近にあったのですが、江戸時代に鍋屋町(現在地)に移りました。天武天皇を主神として祀っている全国でここのみといいます。

Img_3281c_20200817153501 Img_3283c_20200817153501  さらに東海道を進みます。日進小学校前辺りには七曲見附がありました。そこから北には、寺が集まっています。慶長の町割でここに寺が集められています。左の写真は、仏光山十念寺。浄土宗のお寺。七福神祭で有名ですし、森陳明の墓所があります。右の写真は、鎮照山凝念院光徳寺。浄土宗。ここには、万古焼の創始者である沼波弄山の墓所があります。古くは泡洲崎念仏道場と称していました。

Img_3296c_20200817153501  鍛冶町付近では、枡形を通り、吉津屋町へ。ここで余談。NPO法人千姫のところにあった自販機で気になるものを見つけましImg_3298c た。この千姫は、精神保健ボランティアのグループです。あられやおかきを売っているのですが、もう一つ。ジャガイモも入っていたのです。千姫長島農園で獲れたもので、200gで60円。ちなみに千姫は、2代将軍徳川秀忠の娘で、豊臣秀頼の夫人。徳川・豊臣両氏和親のため慶長8(1603) 年、7歳で豊臣秀頼に嫁しています。元和元(1615)年、大坂夏の陣で豊臣氏が滅んでから関東に帰り、本多忠政(本多忠勝の嫡男)の長子・忠刻と同2年9月29日に再婚。ということで、千姫は、桑名にも縁があるのです。

Img_3305c_20200817153501  京町でここでスタート直後に歩いた道とクロス。南魚町の寳興山(ほうこうざん)仏眼院。天台宗のお寺。創建は不詳ですが、最澄によると伝わっています(2020年8月15日:寺町寺めぐりの続き)。4ヶ所目のポイント。5.8㎞、時刻は11時10分頃。墓所で、千子宗入禅定門(承応4(1655)年没)の墓や、桑名城の前身・東城の城主であった伊藤武左衛門実房(天正11(1583)年没、桑名東城主初代)・実倫(慶長8(1603)年、同2代)父子の墓も確認(8月15日の記事をご参照ください)。

Img_3308c_20200817153501  寺町商店街を通過し、寺町交差点を渡って、袖野山浄土寺へ。西山浄土宗のお寺。我が家のすぐ近くで、このあたりは散歩などですっかり馴染み。写真でも分かりますように、本多平八郎忠勝公本廟があります。ここが5ヶ所目のポイント。6.5㎞、11時25分頃。慶長の町割りで現在地に移り、桑名藩主本多家の菩提寺となりました。

Img_3316c Img_3319c_20200817153501  こちらが本多忠勝公の墓所。前から不思議に思っているのは、鳥居が立っていることです。神仏習合のためかと思うのですが、確信はありません。ちなみにこの鳥居は、その形から神明鳥居でしょう。

Img_3324c_20200817153501  いよいよゴールも近くなりますが、またもや余談。船津屋さんの西に「七里のわたし湯」という銭湯があります。大正時代に創業、平成になってリニューアルしています。そこの自販機にハンディ・ファンを¥1,000で売っているのです。USB充電で使用可能というもの。

Img_3329c  本論に戻って、次の、6ヶ所目のポイントは、七里の渡し跡。ここはもっともお馴染み。毎日の散歩で通過しImg_3333c_20200817153501 ています。スタンプは、すぐ近くの「宿場の茶店 一(はじめ)」さんにありました。宿場町の小さな休憩所というイメージ。軽食や飲み物が楽しめます。6.9㎞、11時40分頃到着。

Img_3336c_20200817153501  ここからまた少しだけ旧東海道を歩いて、北大手橋を渡って、柿安コミュニティパークの方Img_3339c へ。コミュニティパークの入り口に立つのが、本多忠勝像。7ヶ所目。7.3㎞、11時45分。スタンプを探してウロウロしたのですが、コミュニティパーク駐車場の管理室のところにありました。ここに詰めているシルバー人材センターの方に尋ねてしまいました。

Img_3347c  11時55分、7.9㎞を歩いて、桑名宗社(春日神社)に戻って来ました。桑名宗社にもスタImg_3342c_20200817172801 ンプがありますが、それはスタートの時に押しており、これで村正史跡めぐりスタンプラリーをコンプリート。

Img_3353c Img_3355c_20200817153501  社務所で宮司さんに確認していただき、無事に記念品の村正の鍔の形のピンバッジをゲットできました。宮司さんとは知り合いですが、「こんな暑い日に1日で回って来たんですか?!」と驚かれるやら、呆れられるやら。

Img_3359c_20200817153501  いや、それにしてもやはり暑かった(苦笑)。ペットボトル2本(1,100ml)を飲み干しましたし、桑名宗社からの帰り道にさらに1本買ったくらい。スタンプラリーで歩いたのは、初めの方にも書きましたが、7.9㎞、ほぼ3時間。我が家から桑名宗社までの往復が2.0㎞ですから、合計9.9㎞。歩数は、スマホのAlkooのデータで17,788歩でした。Kさん、Mさんもお疲れ様でした。猛暑の中、体調も崩さずゴールできてホッとしました。体力的には自信にはなりましたが、過信せぬようにと自らを戒めておきます。

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2020年7月 4日 (土)

九華公園の株分け会で花菖蒲とアサガオをいただいてきました

 熊本、鹿児島では大変な災害になっており、お見舞申し上げます。新型コロナウイルスも心配な状況である上に、大雨、水害ではさぞ大変な思いをしていらっしゃることと思います。

Happukuwana  今日は、「勝手にハイキング」シリーズの一環として、桑名の八風道ハイキングを計画していたのですが、昼過ぎまでは雨という予報で中止。八風道は、普通は、四日市の富田一色を起点としてすぐに東海道と交差し、大矢知、平津を経て菰野町田光で巡見道と合流する道をいいます。巡見道より西は、八風越の道が八風峠を越え、滋賀県に至り、近江八幡市武佐町(中山道武佐宿)まで続きます。桑名では、町屋川右岸、⻄金井、東金井あたりから、桑部、能部、赤尾、島田、志知を通って、久米に至る道を八風道と呼んだといいます(くわな史跡めぐり)。員弁街道(濃州道)ハイキングが途中ですが、こちらを歩いてみたいと思って計画した次第。国道1号線町屋橋すぐ西から歩こうと思っていました。梅雨明けは猛暑となりそうですから、8月下旬以降に仕切り直しとしました。

Img_5892c_20200704165901  さて、ハイキングは中止したものの、朝8時半過ぎには雨は上がりましたので、散歩に行くことにしました。今日は、九華公園で花菖蒲の株分け会がありますので、そこへ行って花菖蒲をいただこうと考え、いつもとは逆ルートで、株分け会が始まる10時頃に会場の柿安コミュニティパーク駐車場に着こうという次第。住吉入江沿いから、三崎通、田町、京町、入江葭町、内堀南公園、貝塚公園から九華公園へ。株分け会の会場に立ち寄って、七里の渡し跡から住吉神社を通って帰宅。4.9㎞。

Img_5920c_20200704165901  まずは、その株分け会の様子と、いただいてきた花菖蒲。会場は、上記のように、柿安コミュニティパークの駐車場。テントImg_5924c_20200704165901 も張られ、本格的でした。九華公園の管理人さんの他、管理会社の職員の方、九華公園の草取り、清掃に来ておられるシルバー人材センターの方などが待機しておられました。

Img_5946c  花菖蒲は、3個(3株)入ったもの1袋をいただきました。3種類入っているということでしImg_5942c たが、名前をきちんと確認してこず(苦笑)。まぁ、九華公園は散歩コースですから、また管理人さんに聞いてくることにします。プランターでの育てからの資料もいただきました(mamekichiさんは、いらないでしょうと言われたのですが……)。花菖蒲の株は、家内の母親に進呈します。

Img_5955c  「アサガオの苗もあるから持っていって」と勧められ、ありがたく頂戴してきました。いつぞやも書いたかと思いますが、アサガオが欲しかったのです。こちらは、自分でベランダ庭園(俗称100均園芸)の仲間に入れるつもり。

Img_5833c_20200704165901  さて、その他の話題。田町の商店のツバメの巣。親はやって来るのですが、短時間でエサを与えてまた飛び去って行きます。親の姿は捉えられず。京町の呉服屋さんの巣にも親はいたのですが、写真を撮ろうとしたら飛び出して、どこかへ行ってしまいました。警戒されているようです(苦笑)。

Img_5849c  九華公園の南、キッチン寿さんのところのアジサイ。盛りはとうに過ぎ、花もかなり傷んできていますが、色の変化をずっとImg_5851c_20200704165901 見ていました。白から始まり、薄い紫を経て、最終的には薄い緑色になりました。土の酸性度が変化した可能性はきわめて低いと思いますので、これは花の色素が変化したためであろうと思います。

Img_5865c  梅雨空で散歩する人も、鳥も少なく、相手をしてくれるのはスズメくらい。大人のスズメのImg_5871c_20200704165901 中には、エサをもらおうと思うのか、近寄ってくるスズメもいます。

Img_5904c  北門近くの四阿で株分け会の時間待ちをしていたら、ヒナも出て来ました。昨日もこのあたりで見かけました。ヒナは、まだ親にエサをねだっていました。

Img_5828c_20200704171801  ところで、今日は、遠隔授業2回目の出席確認の締切。出席率(聴講率)は、第1回目並みで一安心。散歩から帰ってからと、午後から、質問やコメントへの返事を書き、課題に目を通して評価をつけていました。質問への回答などは、次回の授業資料の末尾につけて、学生の皆さんが確認できるようにします。明日は、5回目、6回目の遠隔授業の録音作業を予定。東京では、新型コロナウイルスの感染者が増加傾向にあり、いったん対面授業を始めた大学でも、遠隔授業に戻したところもあると聞きます。しばらく対面授業が続くかと思います。

 

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2020年5月10日 (日)

20200501ご近所神社めぐり(補遺編)……立坂神社、神舘神社、八重垣神社、天武天皇社……【追記あります(5/11)】

 5月1日に行った「ご近所神社めぐり」は、主なところについては2編の記事に書きました。神社の境内社その他については、割愛しましたので、今回は「補遺編」として若干の補足をしておきます。

Img_5733c  まずは、立坂神社。もとは「矢田八幡社」でしたが、明治以後は、東方にあった式内社立坂神社が矢田八幡社に名称を譲ったため、こちらが式内立坂神社と呼ばれるようになりました。立坂神社は、戦災を免れましたので、昔の風情を残しています。

Img_5717c_20200509172501  神社の神門には、今でも「八幡宮」の扁額がかかっています。八幡社は、八幡神(やはたのかみ、はちまんしImg_5721c ん)を御祭神とします。武家から武運の神(武神)として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされています。

Img_5725c  拝殿に掲げられている奉額「立坂神社」は、嘉永6(1853)年、有楢川宮熾仁(アリスガワノミヤ タルヒト)親王の筆になるといいます。有楢川宮熾仁親王といえば、あの和宮親子内親王との婚約をしたものの、和宮内親王が将軍徳川家茂の婚姻を内定したため、成婚を辞退しています。慶応3(1867)年の王政復古によって新政府の総裁職を務めるなど、皇族の第一人者として公務を担当し、戊辰戦争には東征大総督として参加しています。また、立坂神社には、明治2(1869)年には、明治天皇東幸の際、桑名に駐輦され、立坂神社には奉幣使が遣されています。

Seishukuwanajouzu  こちらは、「勢州桑名城圖(国立国会図書館蔵)」。「徳川四天王の城-Seishukuwanajouzu0 桑名城絵図展-(桑名市博物館にて平成28(2016)年3~4月に開催)」の図録からお借りしました。右は、その部分を拡大した画像。左上、惣堀の北側に矢田八幡社とあるのが、現在の立坂神社です。桑名藩主本多忠勝の崇敬深く、以後代々の藩主の保護を受けています。ちなみに、矢田八幡社の南には足軽屋敷が設けられています。「大鏡院様時代桑名藩城郭内地図」にも足軽屋敷が描かれています。大鏡院様は、5代藩主松平定綱公の法号。定綱公は、寛永12(1635)~慶安4(1652)年に藩主。

Masudashoukuwana  それ以前から矢田八幡社のあたりには大日孁貴社がありました。大日孁貴(おおひるめのむち)は、天照大神の異名。左の画像で、「神立宮(現在の神舘神社」と書いたところの右隣にあります。この図は、「久波奈名所図会」に載っている「益田庄桑名三崎天正元亀以前之図」です。

Img_5761c_20200509172201  大日孁貴社は、現在は、立坂神社の拝殿に向かって右手(東側)にあります。大日孁貴尊は、立坂神社の主祭Img_5764c 神となっています。摂社(本社に縁故の深い神を祀った神社)として扱われています。

Img_5764c Img_5768c  境内社もたくさんあります。左は、真清神社。右は、子安稲荷神社。ただし、摂社、末社についての詳細は不明。神社検索(三重)のサイトにも説明がありません。社頭に境内案内図はあったものの、境内社の詳細についての説明はありませんでした。

Img_5749c_20200509185701  こちらは、菅原神社と八天宮。向かって右が菅原神社、左が八天宮。菅原神社は、いうまでもなく菅原道真が御祭神。八天宮Img_5752c は火伏の神様 。

Img_5790c_20200509191601  払戸(はらえど)です。神門をくぐって左手(西側にあります)。「祓戸(祓所、祓殿)」とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神様を「祓戸大神(はらえどのおおかみ)」といいます。払戸大神は、祓を司どる神です。

Img_5794c  立坂神社は、初めの方にも、元の記事にも書きましたが、戦災に遭っていませんので、昔の風情が残っていて、落ち着いた雰囲気の神社です。

 続いて、神舘(こうだて)神社Img_5895c。倭姫命が伊勢神宮鎮座地を求めて巡幸したとき、御休泊所として神館(かんだち)が建てられ、その旧跡に御厨神社として当社が創建されたといいます。上に載せた「久波奈名所図会」に載っている「益田庄桑名三崎天正元亀以前之図」では、「神立宮」として描かれています。

Yamatohime  倭姫命は、「大神の鎮座地」を求めて、笠縫邑を出発し、宇陀から近江・美濃を経て伊勢に到着されたと伝えられています。Img_5922c 桑名では、野代宮に4年間留まられたといいます。画像は、倭姫宮御杖代奉賛会のサイトからお借りしました。倭姫命の巡幸については、こちらに説明があります。

Img_5883c  周豪があり、昔は神戸の役館であったとも推定されています。右の写真は、神社の裏手。表にも裏にも神門Img_5939c_20200501182801 があって立派です。

Img_5899c_20200501170301  境内には鏡ヶ池があり、その向こうには社が2つ。向かっImg_5908c て左は、鏡ヶ池社。天照大神がここに留まった際、水を求められてつくられた池がこれで、鏡の形に似ていたことから鏡ヶ池と名づけられました。御祭神は、竜神で俗に白龍さんといわれています。

Img_5905c_20200509194701  鏡ヶ池社に向かって右にもお社がありますが、これについては不明。さらに、もう1つお社がありました。正面の神門を潜っImg_5935c_20200509195201て右手にありますが、これについても説明などはなく、分かりません。明治政府は、一村一神社を目指す神社合祀政策を明治39(1906)年の勅令によって進めました。全国で大正3(1914)年までに約20万社あった神社の7万社が取り壊されたといいます。三重県ではとくに合祀が甚だしく行われ、明治36(1903)年に10,524社あった神社が、大正2(1913)年には1,156社にまで減少して、県下全神社のおよそ9割が廃されました。その結果、合祀の経緯が煩雑で、合祀された神社数が多く、そのために各神社の祭神が多くなっています。「どうしてこれらの神様が一緒に祀られているのか」とか「なぜこれほどたくさんの御祭神が祀られているのか」と思うことがありますが、合祀がかなり強引に行われたためでしょう。

Img_5967c  八重垣神社は、神舘神社からほど近く、国道1号線沿いに一の鳥居が建っています。江戸時代は牛頭天王社と称していまし た。牛頭天王は、インドの祇園精舎の守護神。スサノオノミコトの本地仏と説かれ、除疫神として、京都八坂神社、愛知津島神社に祀られています。桑名市史には清和天皇貞観年中、卜部清麻呂が尾張国津島の牛頭天王を京都祇園に勧請のため当所通過の節、供御を献じた地だとあります。

Img_6004c_20200501170301  八重垣神社は、古くは近くにあった大福田寺(だいふくでんじ)の鎮守でした。大福田寺は、もともと、今より約1,400年前、聖徳太子(574~622年)が伊勢の山田に創建されたお寺。その後、後弘年間(1278~1288年)、天災・火災に遭い堂塔伽藍は荒廃し、寺運は衰えたのですが、時の後宇多天皇(在位1274~1287年)はその荒廃を嘆き、勅命により北勢四ヶ郡内(三重、朝明、猪名郡、桑名)の土地を寄進し、桑名郡神戸郷(現在の桑名市大福地内)に七堂伽藍、塔頭三十七、末寺四百四十余ヶ寺を有する大寺院を再建しました。上掲の​「益田庄桑名三崎天正元亀以前之図」には(上掲の図、左端)はその当時の位置に描かれています。元亀・天正年間の兵火に直接被害を受けることはなかったものの、近隣での度重なる兵火、劫掠(ごうりゃく)、風水害の難を受け、再び寺運は衰退し、江戸時代、万治3年から寛文2年(1660~1662年)に現在地(桑名市東方、桑名高校東)に移転しています。

Img_6013c  境内には、「赤龍社」というお社があります。ここも由緒書きなどはなく、桑名市史の八重垣神社のところにも言及はありまImg_6009c せん。名前からして、龍神を祀っているように思うのですが、参道には右の写真のように、朱い鳥居が並んでいます。龍神は、普通は水神の一つ。朱い鳥居といえば、お稲荷さん。さて、どういう神様を祀っているのでしょう? ネットで調べると、田無神社には五行思想に基づいて「五龍神」が祀られ、赤龍神は南方を守護しているといいます。

Img_6092c_20200503174301  もう一社、天武天皇社。天武天皇を主祭神とするのは、全国でこの神社のみです。元は現在の新屋敷付近にありましたが、慶Img_6105c_20200501170401 長の町割の際に本願寺とともに、現在の鍋屋町に移りました。上掲の「益田庄桑名三崎天正元亀以前之図」には、元あった場所に描かれています。

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 境内社としては、稲荷社ともう1社が祀られています。どちらも御祭神名などは示されていません。右のお社Img_6116c_20200510094101 は、火産霊(ほむすび)社かと思うのですが(桑名市史に合祀したという記述があります)、確認できていません。

Img_6102c_20200503174301  私が気になったのは、境内にあるこちら。初めて見たときには、「鳥居が壊れているのか」などと思ったのですが、そうではなさそうです。いろいろと調べて見たら「冠木(かぶき)鳥居」というタイプがあると書いてあるサイトがありました(こちら)。冠木門(二本の柱に貫を通したもの)の形式の鳥居(厳密に鳥居といってよいのかどうか不明ですが、参道にありますから鳥居と見てよいのでしょう)。

Img_6121c_20200510095801  さらに境内には「あわすはし」と彫られた石柱が1基、ひっそりと立っています。「泡洲橋」の親柱かと思うのですが、未確認です。日進小学校の敷地内に七曲見附の説明板と泡洲橋の親柱があるのですが、きちんと確認した記憶がありません。

 以上、調べが不十分であったり、説明がなかったりではありますが、5月1日の「ご近所神社めぐり」の補遺編です。

【追記(5/11)】

Img_5784c_20200501170201  あとから思い出しましたので、追記しておきます。立坂神社の西参道にも「冠木鳥居」がありました。天武天皇社のものはコンクリート製でしたが、こちらは木製で注連縄がかかっています。

 

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2020年5月 4日 (月)

20200501ご近所神社めぐり……(その2)一目連神社、本願寺跡・梅花仏鏡塔、天武天皇社、伝馬公園、金刀比羅神社

0501walking2  5月1日の「ご近所神社めぐり」のその2です。その1では、市役所から南あたりにある立坂神社、神舘神社、八重垣神社に参拝してきた話を書きました。続きをどうするか決めてありませんでしたが、取り敢えずは、このあと回って来た旧東海道沿いにある一目連神社、本願寺跡・梅花仏鏡塔、天武天皇社、さらに、伝馬公園、金刀比羅社について取り上げることにします。左はその1でも載せた歩いたルートマップですが、八重垣神社を出てから南に行き、若宮町方面を回っていますが、これは歩く距離を稼ぐためで、立ち寄ろうと思ったところはありません。地図では、本願寺とあるあたり(西鍋屋町交差点)で右折しています。右折して歩いたところは、旧東海道。東海道、西は善西寺の方に続き、益世小学校の手前(東)で左折し南に続いて、安永から町屋川方面に行きます。今日の記事で取り上げるところは、以前の記事でも取り上げていますから、内容の重複があります。

Img_6039c_20200503161901  グルッと回ったあたりには、カラオケ店とか、飲食店、パチンコ店が集まっています。写真は、県内の大手チェーンのパチンコ店の店頭の掲示。自粛要請を受けて休業中。私自身は、最初の勤務先の患者さんのレクレーションの付き添いで何度かしたことがあるくらいで、もう40年近くやったことはありません。あちこちで休業要請に応じないパチンコ店が問題になっていますが、かなりのランニングコストがかかるそうですから、パチンコ店もかなり大変なのでしょう(単なる感想です)。

Img_6054c_20200503161901   さて、旧東海道に入って50mほどのところに一目連神社があります。御祭神は、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)。大Img_6060c_20200503161901 物主神をまつる祭具をつくったとき、鍛冶(かじ)を担当した神様。多度大社の別宮にも祀られています。先ほど「西鍋屋町交差点」を曲がったと書きました。このあたりは「鍋屋町」という名前が記すとおり、鍋屋が多かったので、天目一箇命に対する信仰が篤く、金属工業の神として勧請されたと考えられています。

Img_6058c_20200503161901  一目連神社の境内には、美濃派の俳人・徐風庵(じょふうあん)の句碑があります。「名いろいろ さだまる夏の 木かげかな 徐風庵」と刻まれています。徐風庵は、芭蕉門下の各務支考(かがみしこう)が美濃に興した俳諧の一派。美濃派(再和派)の第九世・多賀徐風庵(1772~1832)。旗本加藤平内に仕えた代官です。美濃派は、員弁街道ハイキングで、東員町交番の裏に自然石の石碑がありそこに岩田卜際の句「雲いくへ ひばりなくなく そりみ坂」が刻まれていました(2020年3月29日:20200329「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」(予告編))。卜際も徐風庵に学んでいます。

Img_6066c  一目連神社の向かいに道標が1基あります。「左 東海道渡舩場道」「右 西京伊勢道」と刻まれています。「渡舩場」は、七里Img_6067c_20200503161901 の渡しを指していると考えられます。碑陰には、「明治廿年十一月廿八日開店之祝意建…」とあります。明治20年は、1887年。「西京」とあるのは、京都のことで、東京に対しての表現と思われます。伊勢道は、東海道を下って、四日市の日永の追分から分かれます。

Img_6076c  一目連神社からさらに50mほど先の右手(南)に本願寺跡があります。火災で記録が消失したため、詳しいImg_6080c_20200503161901 ことは分かりませんが、江戸時代には本願寺村があり、古くからの古刹であったと考えられています。このあたりから東鍋屋町。

Img_6083c_20200503161901 Img_6086c_20200503161901  境内には、松尾芭蕉の門人である各務支考の分骨供養塔である「梅花仏鏡(鑑)塔(ばいかぶつかがみとう)」があります。支考は、上述のように、美濃派の創始者であり、美濃国だけに限らず近国に多数の門弟を抱えていました。支考は、宝永8(1711)年に佯死(ようし;死んだふりをすること)して、墓を同国山県郡北野村(現岐阜市山県北野)の獅子庵に建てました。この墓は各務の姓にちなんで、円形の鏡を模して、鑑塔と称しています。支考が実際に亡くなったのは、享保16(1731)年。この頃桑名では、美濃派の俳諧が流行しており、その指導的立場にあったのは、支考の直門の雲裡坊杉夫で、桑名本願寺住職を務めていたと考えられています。彼は、支考の没後に、その人物を片田舎に埋もれさせることを惜しみ、分骨を受けて北伊勢の門人たちの手により本願寺に鑑塔を建立し、「桑名万句」を編するなどして支考の霊を供養するとともに、東海道を往来する旅人にも参詣させようとしたといいます。この前後に雲裡坊を初代社長として北伊勢美濃派俳人等を統合し、「間遠社(まとおしゃ)」が結成されています。鑑塔の周囲には、歴代の間遠社社長の句碑が建っています。

Img_6092c_20200503174301  天武天皇社。天武天皇社の御祭神は、天武天皇、皇后持統天皇高市皇子です。天武天皇を主祭神とするのは、全国でこImg_6105c_20200503174301 の神社のみです。天武天皇(大海人皇子)は、壬申の乱の時に、皇后と共に吉野より潜幸され、桑名郡家に宿泊されました。「6月24日に吉野を出発した大海人皇子の一行は、26日には朝明郡を経て、桑名郡家に到着し、宿泊する。翌27日、大海人皇子は吉野から同行していた妃の讃良皇女(のちの持統天皇)を残して不破に向い進発した」というのですが、桑名郡家がどこかは確定していません。天武天皇の桑名滞在は僅かでしたが、皇后は約2ヵ月も逗留され、当地が2帝との関係浅からぬものがあるため、後世、祭ったものです。

Img_6123c_20200503174301  天武天皇社の背後(北側)には、伝馬(てんま)公園があります。伝馬公園は、近世の桑名城下町でいうと、その南西端にあります。16世紀末頃からこの地に所在した浄土真宗の寺院「願証寺」の境内の一部であったと伝わっています。願証寺はもとは長島にあり、明応6(1497)年、蓮如上人の子・連淳が入って東海地方の浄土真宗の中心として、門徒10万人余を擁する一大勢力を保っていました。本願寺が織田信長と対立したとき、願証寺も信長に反旗を翻したのですが、天正2(1574)年に信長に滅ぼされました。しかし、江戸時代、桑名に再興し、約1万坪(約33,000平方メートル、野球場3個分くらい)に及ぶ境内を有していましたが、正徳5(1715)年の高田派への宗旨替えで内紛が起こり、廃寺に至ったといいます。伝馬役に従事する人々が多く住んでいたため、それが町名になりました。一昨年、市教育委員会が遺跡発掘調査を行い、江戸時代、桑名城下町に全国6番目に整備された上水道管が初めて敷設状態で見つかりました。その説明会にも行っています(2018年12月13日:20181208伝馬公園遺跡発掘調査説明会に参加して来ました)。

Img_6125c_20200503174301  ここで一休み。上の写真のように、ほとんど誰もいませんでした。若い男性が一人、ベンチに座ってスマホを見ていただけ。私は藤棚の下のベンチで休憩。藤の花にはクマバチが寄って来ます。羽音が大きく、ずんぐりむっくりの体も壊そうに見えますが、温厚な性格なので、こちらが手を出さなければ大丈夫。

Img_6135c_20200503174301  伝馬公園の近くに掛樋という交差点があります。これは、江戸時代、御用水が城の惣構堀をまたぐための水Img_6137c_20200503174301 道橋がかけられたことに由来するものです。掛樋交差点の東に金刀比羅神社があります。宝永7(1710)年、桑名藩主・松平忠雅公が備後福山から移封されたときに随伴した円覚院住持が境内に祀られ、維新後廃寺となったものの、御祭神は現存したと由緒書きにあります。御祭神は、薬師十二神将の一つとあります。これは、宮毘羅 (くびら) です。薬師如来の家来から船神となり、航海安全を守る神となっています(桑名市史本編)。桑名は、伊勢湾舟運の中心の一つでしたから、金刀比羅神社の崇敬者は多かったかも知れません。由緒書きには水神を祀っているともあります。ちなみに、金刀比羅宮の御祭神は、大物主神と、崇徳天皇となっています。

Img_6145c_20200503174301  境内には、金刀比羅神社と宗霊社と2つの社が祀られています。たぶん向かって左が金刀比羅神社、右が宗霊社。神社検索三重のサイトには載っていませんので、神社庁傘下の神社ではありません。宗霊社は、祖霊社かという気がしますが、不明。祖霊社であるならば、祖先の霊を祭るための社です。

 5月1日の「ご近所神社めぐり」で回って来た神社は以上。それぞれの神社の境内社などについては触れていません。「補遺編」または「その3」として書こうと思っています。

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2020年5月 2日 (土)

諸戸氏庭園にキビタキのオス

Img_6221c  夏日になりました。最高気温は27.1℃。さすがに歩くと、暑くて汗をかきました。今日は、いつものコースへ。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、寺町商店街、田町、三崎通と6.2㎞。8時10分から3時間ほどです。揖斐川の堤防は、七里の渡し跡から伊勢大橋あたりの間は、ウォーキング、ジョギングの人がそれなりにいますが、いつもの公園は、人出は多くはありません。お陰でゆっくりと歩き、鳥や花を見ることができます。

Img_6196c  今日はまずは、こちら。キビタキのオス。全長13.5cm。オスはこのようにカラフルですが、メスは地味な暗緑色をしています。夏鳥としてやって来ます。例年、ゴールデンウィーク頃、九華公園で見ることがあります。今日は、散歩に出てすぐ、さえずりが響いていました。諸戸氏庭園にある高い枯れ木のてっぺんにいました。超望遠コンデジの65倍ズームで撮って、さらにトリミングしています。

Img_4638c  船津屋さんの裏手や、蟠龍櫓近くの2箇所で「揚げ雲雀」。写真は撮ったものの、小さくて載せられるものではありません。七里の渡し跡には、ツバメが2羽、降りてきていました。肉眼ではよく分からなかったのですが、巣の材料を取りに来ていたようです。ツバメたち、すでに巣に就いているものもけっこういますが、巣をつくっているか、修理しているかというツバメもいるのです。

Img_4650c  九華公園では、久しぶりにホシゴイが1羽。鎮国守国神社の社務所裏。30分ほど後にもう一度行って見たら、すでに不在。そして、今日は、カモが見当たりませんでした。知人に聞いたところでは、昨日もいなかったそうです。予想通り、ゴールデンウィークになると皆、帰って行ってしまうということです。また10月末か、11月始めにやって来てくれるのを待ちましょう。

Img_6217c  コゲラ、今日もいました。これはもう営巣中であること、間違いなし。楽しみです。5年前は5月中旬に、親鳥がヒナにエサを運んでいるのを見られました。ツグミもいません。貝塚公園でも見ませんでした。こんなに暖かいというか、暑くなったのですから当然です。シジュウカラ、メジロ、カワラヒワなどの他は、スズメ、ムクドリ、ヒヨドリ、ドバトなど。猛禽類も遠くに見えたのですが、写真は撮れず(腹が白かったので、ミサゴ?)。グラウンド近くを歩いているときには、ケリの鳴き声がしたのですが、姿は見えず。

Img_4664c_20200502165101  これまた、写真で見て気づいたのですが、モミジには実がつき始めていました。「翼果(よくか)」です。果皮の一部が平らImg_6260c な翼状に発達した果実。風によって離れたところへ運ばれるためです。明日にでももう一度よく見てくることにしましょう。ツツジは、満開に近づいたのですが、早くから咲いていた花はもう痛み始めています。今年は、ソメイヨシノもそうですが、開花時期がバラバラになっています。

Img_6231c  鎮国守国神社では、本来であれば、今日と明日は金魚まつりなのですが、ご多分に漏れず、中止。露店も出ていませんし、金魚神輿の練り込みもありません。宮司さんにお目にかかったら、午後から、神事だけ執り行うとおっしゃっていました。多度祭の上げ馬も中止になっています。桑名水郷花火大会は、今年は、もともと東京オリンピックとの兼ね合いで11月21日(土)になっています。石取祭、今のところ、音沙汰がありません。祭に携わる方々はやりたいのでしょうが、客観情勢としては、難しいでしょうねぇ。

Img_4685c_20200502165101  貝塚公園では散歩友達に会っただけ。小学校低学年くらいの女の子が、お母さんと竹馬の練習に来ていました。さすがに少しImg_4687c だけの練習で乗れるようになっていました。柔軟性も、身体能力もあってうらやましい(苦笑)。京町でツバメの巣チェック。左は、あるお宅の巣。少し修復していましたが、今日は親が巣に就いていました。右は、市立博物館の巣。呉服屋さんでも、この間修復していた奥にある巣にツバメがいました(写真は、なぜか真っ暗)。

Img_6276c_20200502165101  寺町商店街は、ご覧のように、空いていました。三八市の時は、大賑わいですが、普段はこれくらい。人が少ないので、久しImg_6278c ぶりに通り抜けてきました。ここにも留意事項が掲示されていました。

Img_6281c_20200502172701  町の駅にも立ち寄ったのですが、去年の近鉄ハイキングで行った伊勢で買ってきた「萬金丹」を売っていました(2019年12月 1日 :20191201近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅12日目~【最終日】伊勢街道、旅人気分で一層賑やか古市から念願のお伊勢さんへ」……無事内宮に参拝し、全行程踏破(予告編))。町の駅には、本当は、「多度ういろ」がないか見に行ったのですが、売り切れていました。

Img_4658c  「三密」を避け、いつもと違うところを歩こうと思って、桑名の「八風道」を考えています。一般に知られている「八風道Img_4661c_20200502173101 は、四日市市富田一色を起点としてすぐに東海道と交差し、大矢知、平津を経て菰野町田光で巡見道と合流する道ですが、桑名では、町屋川右岸の街道を「八風道(あるいは八風街道)」といいます(くわな史跡めぐり)。この町屋川右岸の道が、田光付近で八風街道と交わるため、こう呼ばれていると考えられています。ただ、スタート地点までは我が家から2㎞以上先。バスに乗って城南口あたりまで行ってもさらに1㎞ほど歩かねばなりません。桑名市内の八風道の終点からもっとも近い公共交通機関は、三岐鉄道北勢線穴太駅。ここまでやはり2㎞あまり。バスも北勢線も空いているとは思うのですが、思案中。写真は、ニホンタンポポ。九華公園にて。

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2020年5月 1日 (金)

20200501ご近所神社めぐり……(その1)立坂神社、神舘神社、八重垣神社と善西寺、オマケは「特別定額給付金」オンライン申請の話

0501walking2  24.5℃になって夏日直前という陽気でした。今日の散歩は、鳥も少ないこともあり、また、目先を変えて気分も変えようと考Img_6183c_20200501170101 え、「ご近所神社めぐり」と銘打って歩いてきました。主な目的地は、国道1号線沿い、市役所から南あたりにある立坂神社、神舘神社、八重垣神社でした。立坂神社は行ったことがありますが、神舘神社と八重垣神社はまだ参拝したことがありません。歩く距離を稼ぐため、若宮町から大福を回って、旧東海道にある一目連神社、本願寺跡・梅花仏鏡塔、天武天皇社、伝馬公園、金刀比羅社も回って来ました。8時20分にスタート、11時10分に帰宅。6.9㎞、13,802歩。暑かったせいか、もっと歩いたような気がします。今回は、その1として、立坂神社、神舘神社、八重垣神社と善西寺について、その概要です。

Img_5665c Img_5670c_20200501171201  参宮町交差点で国道1号線に出て、ずっと南下。八間交差点(左の写真)、総合医療センターや、アピタ、市役所の前を通って行きます。クルマで通ることがほとんどのところですが、歩いてみたら、案外近いと感じました。

Img_5687c  左の写真は桑名市役所。手前に写っている「新城」はうなぎ屋さん。評判のお店ですが、残念Img_5683c_20200501171601 ながら一度も行ったことはありません。右は、ホリという桑名では老舗の喫茶店。休業自粛要請に応えて、休業中。他にも、通り道では、休業中の店がたくさん。

Img_5698c  立坂神社。国道1号線から少し入ったところに鳥居があります。ただし、本来Img_5705c の参道は、神社から南にまっすぐ延び、旧東海道に面したところに石造の一の鳥居があります。もともとは「矢田八幡社」でしたが、明治以後は、東方にあった式内社立坂神社が矢田八幡社に名称を譲ったため、こちらが式内立坂神社と呼ばれるようになりました。桑名藩主本多忠勝の宗敬深く、以後代々の藩主の保護を受けています。

Img_5733c Img_0437c  主祭神は、大日孁貴尊(おおひるめのむち;天照大神の別名)。相殿神は、武甕槌神(タケミカヅチノカミ)、斎主神(ふつぬしのかみ)、天児屋根命(あまのこやねのみこと)、姫大神(ひめがみ)、木花咲夜比売神(このはなさくやひめ)、大山津見神(おおやまつみのかみ)、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)、応神天皇(おうじんてんのう)、玉依姫(たまよりひめ)。社宝として、紙本淡彩本多忠勝像短刀村正があります。九華公園にある本多忠勝像(右の写真)は、この立坂神社の紙本淡彩本多忠勝像をもとにつくられています。 

Img_5794c  立坂神社は、戦災を免れたので、昔の風情を残しており、なかなかよい雰囲気で落ち着きます。地域の方の崇敬も厚いようで、私がいる間も、数は少なかったものの参拝の方が何名かいらっしゃいました。境内には、大日孁貴尊社、子安稲Img_5778c 荷社、八天宮、菅原神社、御霊舎があります。さらに、これは以前からのようですが、烏骨鶏が飼われています。

Img_5784c_20200501170201  もう一つ、興味深いことは、立坂神社のすぐ西にキリスト教の教会があるのです。西側の参Img_5786c_20200501170201 道の鳥居の向こうに十字架が掲げられた教会の建物が見えます。

 カトリック桑名教会-桑名の聖母-がそれです。Img_5812c昭和34(1959)年12月に聖堂献堂式が行われたそうです。ちょうど伊勢湾台風の年です。この教会には、円形の聖堂、祭壇があるそうです。初代の神父の考えで、すべての会衆が中央に置かれた祭壇に近づけるようにと円形になっているといいます。

Img_5859c_20200501170201  門前から約250m離れた東海道筋に、立坂神社の石造鳥居があります。左の写真で鳥居の前の道が、旧東海道です。この鳥居のあたりが、矢田立場でした。立場は、宿場と宿場の間にあって、旅人が休憩する茶店などが集まっているところです。『久波奈名所図会』には、「此立場は、食物自由にして、河海の魚鱗・山野の蔬菜四時無きなし」とあります。

Img_5861c Img_5863c  西矢田町には現在でも、馬をつなぎとめた鉄環のある家が残っています。このお宅(竹内家)は、建て替えたのですが、この鉄環の部分は、新しい建物にも残されています。こういう配慮はうれしいことです。

Img_5846c  一の鳥居に向かって右、東側には真宗本願寺派の走井山善西寺(はしりいImg_5853c_20200501170201 ざんぜんせいじ)があります。リンク先によれば、ご住職は理学博士号(名古屋大学)をもっておられます。戦国時代の矢田城(現在の走井山公園)の城主・矢田俊元(としもと)は、織田信長と戦って敗死。孫の俊勝(としかつ)は出家して、この寺を建て、祖父の法号をとって寺号にしています。

Img_5866c_20200501181601 Img_5874c  立坂神社から旧東海道を越え、さらに南へ行くと、若宮公園に行き当たります。若宮公園の南に神舘(こうだて)神社があります。神舘神社の通称が「若宮神社」。公園の名前はこれに因んでいると思われます。公園で一休みしてから、神舘神社へ。

Img_5956c_20200501181901

 神舘神社は、伊勢神宮の領地があったここ神戸岡に建てられたといわれます。倭姫命が伊勢Img_5922c 神宮地座地を求めて巡幸したとき、御休泊所として神館(かんだち)が建てられ、その旧跡に御厨神社として、当社が創建されたといいます。境内には、右の写真のように、それを記念する石碑が建てられています。

Img_5883c Img_5939c_20200501182801  神社には、写真のように周豪があり、昔は神戸の役館であったとも推定されています。右の写真は、神社の裏手。表にも裏にも門があって立派です。

Img_5889c_20200501170301 Img_5895c  御祭神は、天照皇大御神豊受大神(トヨウケノオオカミ)、倭姫命(やまとひめのみこと)、大山祗神(おおやまつみのかみ)、火産靈神(ほむすびのかみ)。永享7(1435)年銘の獅子頭があり、伊勢太神楽は巡業の時にはこの神社から出発したという仮説を裏付けています。現在も、秋の祭礼には伊勢太神楽が奉納されます。天文22(1553)年の銘のある村正の刀、剣も奉納されています。

Img_5899c_20200501170301  境内には鏡ヶ池があり、その向こうには社が2つ。向かって左は、鏡ヶ池社。天照大神がここに留まった際、水を求められてつくられた池がこれで、鏡の形に似ていたことから鏡ヶ池と名づけられました。御祭神は、竜神で俗に白龍さんといわれています。

Img_5960c_20200501193501  神舘神社の参道を南に行き、一の鳥居があります。ここを潜ってすぐに左折。国道1号線の八重垣町交差点にImg_5967c 出ます。この交差点に面して八重垣神社があります。江戸時代の書物には牛頭天王社と記されており、大福にあった大福田寺の鎮守でした。大福田寺は東方に移転したのですが、神社はそのまま残り、大福と福江町の氏神となっています。

Img_6004c_20200501170301  主祭神は、建速須佐之男命(たけはやのすさのおのみこと)、相殿神は大山祇神(おおやまつみのかみ)と火産霊神(ほむすびのかみ)。創立は、清和天皇貞観年中(859年~)と伝えられています。桑名市史には清和天皇貞観年中、卜部清麻呂が尾張国津島の牛頭天王を京都祇園に勧請のため当所通過の節、供御を献じた地だといいます。

Img_5994c  八重垣神社では大門祭が行われます。「久波奈名所図会」によると、江戸時代は旧暦6月14日夜に行われ、松明数十本を灯し、鉦太鼓を叩きながら、「大門の祭は出て行は出て行出て行……」と囃しながら、海浜に行列したといいます。現在は、7月の最終日曜日に行われている。また、湯立神事が行われていた頃使用されていた「湯立釜」が残っています。明和7(1770)年の銘があり、制作者は桑名の鋳物師・広瀬与左衛門政次。

Img_5678c  「20200501ご近所神社めぐり」のその1は、取り敢えずここまでとします。次は、今日訪ねた神社仏閣の詳細とするか、他に訪ねた一目連神社や、天武天皇社の話に行くか、また明日、目が覚めたら決めます(微笑)。

10manen  以下、余談。地元・桑名市では、今日午前8時30分から「特別定額給付金」のオンライン申請が始まりました(こちらに総務省の資料があります)。マイナンバーTeigaku カードがあると、マイナポータルから申請できるのです。e-TAXを利用するため、マイナンバーカードは作ってありますので、午後から試しにアクセスしてみました。「マイナポータル」のサイトにはアクセスでき、マイナンバーカードでログインまでは行けました。

Konzatsu  しかし、「特別定額給付金の申請」は、ご覧のように、「只今、サイトが大変混み合っております」でした。何度か繰り返しても同様。明日にでも、朝、早く起きたら再挑戦してみましょう。ちなみに、オンラインで申請すると、5月中旬には振込が行われるそうです。

【付記(5/1、20:35)】 先ほど(夜8時半)「マイナポータル」に再度アクセスを試みたところ、晴れて(?)「特別定額給付金」のオンライン申請にアクセスできました。ものの5分足らずで申請完了です(微笑)。マイナンバーカード、便利です。情報漏れやらプライバシー侵害やらいろいろと課題は指摘されますが、それらをクリアした上であれこれ使えるようにしたら、今回のような非常事態に対する対応も早くなるのにと思います。

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2020年4月17日 (金)

20200411「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(東員~楚原)」(その2)……もう一つの大谷神社、長宮公園、神明社と道標、大泉新田開発記念碑を見る

200411touin2  4月11日に出かけた「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(東員~楚原)」のその2です。その1では、東員駅をスタートし、チリン坂・律師智傳之碑から、茶屋橋を渡って大谷神社にお参りし、うりぼう(いなべ市農産物直売所)まででした。その2では、うりぼうからほど近い、もう一つの大谷神社から。うりぼうを出て県道555号線へ。途中で左に入って611号線に。いなべ東小学校のところで北勢線を渡っていきます。

Img_2275c_20200411190201  もう一つの大谷神社。ただし、裏参道というか、「横参道」というか、東側にあるJAの敷地から入っていき、拝殿の横から境Img_2242c 内  にお邪魔しました。本来の参道は、南に200mほど行ったところからです。主祭神は、水分神(ミクマリノカミ:水の分配をつかさどる神)と、天児屋根命(アマノコヤネノミコト:天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)。相殿神は、宇気母智神(うけもちのかみ:食物の神)、天照大御神。大泉の氏神様。社名はこの地が「大谷御厨(みくりや)」の地であったことよると考えられています。ちなみに、御厨は、古代、中世の神社の荘園である神領。伊勢神宮では各地の神宮神領を御厨、御園 (みその) と呼びました。もとは、員弁川対岸の梅戸にあったのですが、明応8(1499)年、大洪水のため押流され、村落ごと大泉に移転し、大泉の春日明神(永仁4(1296)年、奈良の春日大社から分霊)へ合祀しました(そのため、大谷春日大明神と称しています)。拝殿前には狛犬ではなく、鹿の像。春日神社との関わりがあるからと思われます。

Img_2266c  表参道の鳥居からまっすぐに150mに及ぶ長い参道があるため、昔から「長宮さん」と呼ばれてきました。上記の神鹿の他、Img_2273c_20200411190201 狛犬もあったのですが、それがどういうわけか、「子取り、玉取り」になっておらず、拝殿に向かって左の狛犬が子どもを抱き、その子どもが玉を持っているスタイルでした。「玉取り」の狛犬は、鞠で遊んでいるような様子から「運気がよく転がるように」という意味合いで、縁起がいいといいます。一方、「子取り」の方は、文字通り子どもを連れている狛犬で、子孫繁栄のご利益があるといわれています。こういうタイプは初見。

Img_2271c_20200411190201  ちなみに対をなす方には、子も玉もありませんでした。また、由緒書きには、桑名に関わるImg_2249c_20200416080201 こととして、次のような記述がありました。「元禄3(1690)年桑名藩主松平定重の重臣野村増右衛門が耕地に適するとしてこの氏神を岡の茶臼山に移し耕地としたが不思議にも作物悉く実らずこれ神慮なりとして改めてこの地に鎮座するに至ったのである」。江戸時代、このあたりも桑名藩領でした。

Img_2260c  境内には、「殉国義士の碑」があります。員弁町大泉区自治会と大泉区遺族会が、昭和30(1955)年4月に建立したもので、大泉地区全戦没者の慰霊碑です。明治37(1904)年~昭和20(1945)年にかけて亡くなられた27名の方のお名前が刻まれています。日露戦争、日中戦争(支那事変)、第2次世界大戦に出征された方々です。

Img_2279c  大谷神社で一息入れて、また、員弁街道に戻ります。北勢線の線路を越えImg_2285c_20200411190301 て、員弁東小学校の北東側に来ると、長宮公園があり、鳥居が立っていました。ここは、大谷神社の裏参道なのでしょう。そこに北勢線(発足当時は、北勢鉄道)が通り、さらに小学校ができたのでしょう。この公園にある鳥居から、表参道に見えた鳥居までは500mほどありますから、確かに「長宮」といえます。

Img_2283  公園の中をよく見ると、「長宮」という駅名板が残っています。平成16(2004)年4月に廃止された駅です。駅名板には、「大泉東」「楚原」の文字も見えます。うりぼうが併設されていた大泉駅は、大泉東駅と長宮駅を統合し、両駅の中間部分に新設された駅です。長宮公園で11時頃、スタートからは5.2㎞ほど。

Img_2296c  大谷神社の先の員弁街道からの眺め。麦畑の向こうに空に向かう北勢線の黄色い電車。さらにその向こうには、藤原岳や、龍ヶ岳が見えています。天気もよく、いい眺め。山もはっきり見えます。途中、喜之助橋という橋を渡りますが、名前の由来は不明。喜之助さんという方がかけたのかなどと想像だけが膨らみます。

200411touin3

 このあたりで実際に歩いたルートマップは、その3に入ります。神明社、石仏墓地に立ち寄ると、ゴールの楚原駅が間近になります。石仏墓地で11時40分を過ぎましたので、取り敢えず楚原駅近くで昼食を摂ろうということになり、結局、ヨシヅヤへ。相談の結果、ねじり橋、眼鏡橋を見ることになり、そちらへ行ってから楚原駅にゴールということに。

Img_2304  スタートから5.8㎞、大泉新田に神明社。主祭神は、天照大御神。相殿神は、誉田別命(ほImg_2308 んだわけのみこと:応神天皇)、須佐之男命(すさのおのみこと)、市寸島姫命(いちきしまひめのみこと)、火産霊神(ほむすびのかみ)。寛永13(1636) 年、大溜をが豪雨で大破し修復するとき、庄屋・正木嘉兵衛を伊勢の山田へ遣わし、笠田大溜に勧請した神明社の分霊を遷座したといいます。明治40(1907)年に厳島神社(宇賀神弁財天(市寸島姫命)を祀る)を合祀しています。

Img_2316c Img_2323c  境内には珪化木らしきものでつくった碑があります。文字はとても読みにくく、何かの「記念」に昭和8(1933)年に「青年会」がつくったことしか分かりません。忠魂碑も1基。これをネットで調べようと思ったら、三重県遺族会のサイトがリニューアルして、慰霊碑のリストへのリンクがなくなってしまっていました。

Img_2327c  境内には、仏像を刻んだ石や、五輪塔の頭らしき石が、きちんと並べられて、榊が供えられています。これについて、詳細は分かりません。

Img_2301  この神社は、旧里道の畑新田道と員弁街道の分岐点にあります。神社の前には、小さい道標が立っています。道標には「北平古 たど」とあります。碑陰には「青年支部」とあります。「平古(ひらこ)」は、ここから北東に2㎞あまり行ったところにあります。平古の向こうが多度の美鹿(びろく)・古野(この)になります。余談ですが、平古は、桑名藩が戊辰戦争に負けた後、11万3,000石から6万石(実収2万3,450石)に減封となりました。分領地の越後柏崎陣屋や、江戸藩邸・大坂蔵屋敷・京都所司代屋敷から藩士が家族を連れて桑名城下に帰郷したため、禄高は半分になって生活が苦しくなった上に、住むところのない藩士が多数出ました。桑名藩は、この対策として原野であった平古野を開拓させ、農業によって士族の自立を図ろうとしたといいます。

Img_2335c_20200411202401  神社の裏手には、「大泉新田開発之碑」があります。この碑は、上でも触れましたが、寛永年間に大泉新田を開発し、笠田大溜完成のために力を尽くした正木嘉兵衛の功労を顕彰する碑となっています。さらにこの先、員弁街道と下笠田道との分岐点にも道標があったのですが、こちらは見逃してしまいました。見逃した道標は、旧里道の下笠田道との分岐点にあり、「左下笠田三笠橋ちか道」と刻んであるのだそうです。

Img_2340c_20200417193201  6㎞あたりのところで、員弁街道に鳥居が立っています。この鳥居、南東から北西に向かって潜るようになっているようですが(北西側に建立年月日などが刻まれているのです)、どこの神社の鳥居なのかはよく分かりません(三重県教育委員会編の歴史の道調査報告書「濃州道」にも鳥居があることは触れられていますが、詳細については書かれていないのです)。この鳥居から500mほど行き、左折し、北勢線の踏切を越えると石仏墓地がありますが、キリが良いので、その2はここまで。その3は、石仏墓地からとします。

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2020年4月15日 (水)

20200411「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(東員~楚原)」(その1)……チリン坂・律師智傳之碑、茶屋橋を渡って大谷神社からうりぼう(いなべ市農産物直売所)へ

200411touin  4月11日に行ってきた「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(東員~楚原)」の本編、その1です。前日の4月10日、三重県では知事から「三重県新型コロナウイルス『感染拡大阻止緊急宣言』」が出されましたが、「媒介者」にはならないよう、「3密」は極力避けて出かけてきました。「健康維持のための散歩やジョギングは不要不急の外出に含まれない」というのImg_2440c も出かけた根拠の一つです。前回、三岐鉄道北勢線の東員駅まで行きましたので、今回はここがスタート。前回見忘れた「チリン坂「律師智傳之碑」を見て、員弁街道に入り、いなべ市に進みます。旧員弁町が今日の主な行き先。大泉駅に併設された「うりぼう(農産物直売所)」を覗き、いくつかの神社、道標、石仏墓地を経て、ヨシヅヤにあるスガキヤで昼食。ゴールの楚原駅をいったん通り過ごして、撮り鉄スポットである「ねじり橋」「めがね橋」を見て、楚原駅にゴールというコース。これほど歩くつもりはありませんでしたが、現地で歩いたのは11.3㎞! 私にとっては、自宅から西桑名駅往復が2.1㎞ですから、合計13.4㎞。歩数は、24,835歩にもなりました。今日も、M、K両氏と3人旅。

Img_2118c_20200411173601 Img_2121c  西桑名駅のある桑名駅前のバスターミナルあたりは、ほとんど人が歩いていませんでした。北勢線の電車も、東員までは乗客3名。3両編成でしたから、1人あたり1両の貸し切り。西桑名駅を8時44分の楚原行きに乗車。途中からK氏が合流。東員駅には9時10分着。¥340。ここでM氏と待ち合わせ。すぐにスタート。右の写真は、東員駅から員弁街道に向かう途中、鈴鹿山脈を見たもの。天気がよく山並みがよく見えますし、近くに感じます。

200411touin1  こちらが実際に歩いたルートマップのその1。右上の写真は、「ふれあい農園東」あたりから撮ったもの。東員交番前で左折し、西へ。鳥取東交差点のところのバス停の前で「不忘碑(神田用水完成記念碑)」を見て、「チリン坂・律師智傳之碑」へ。その後、左折すると員弁街道に入ります。西北に向かって員弁街道を歩いて行きます。

Img_2124c_20200413203301  「不忘碑(神田用水完成記念碑)」。かつては、律師智傳之碑の前にあったようですが、現在は鳥取のバス停前に移設されています。六把野古井水、六把野新井水の水不足を解消するため、昭和25(1950)年、県営灌漑事業で完成しました。東員町山田にある員弁川左岸を取水口として、約4㎞北の三百坊という丘陵地まで三個所のポンプ場により水が揚げられました。神田用水は、現在も神田土地改良区(東員町山田)によって管理され、町内の多くの水田に農業用水を供給しているそうです。

Img_2130c_20200411173901  その鳥取東交差点を右折すると、チリン坂です。この坂のあたりに「律師智傳」が住んでいたといいます。「律師」は相当高い僧の位を意味し、「智傳」という名の高僧の碑です。しかしながら、智傳は、昭和22(1947)年頃、80歳くらいで亡くなったという以外、その来歴などは不明。この高僧「智傳」の名前がなまって「チリン」となり、坂の名前が「チリン坂」になったといいます。

Img_2136c Img_2139c  この坂の中程に「律師智傳之碑」という自然石でできた碑が建っています。碑陰には、「涼風や 麦田見下す 智伝坂」の句があるというのですが、はっきりとは読めません。また、碑には「素水建之」とあるそうでが、これもまた判読困難。この理由や経歴なども分かっていないといいます。先ほど見てきた「不忘碑」は、この「律師智傳之碑」の向かいにあったもの。ここには「旧鳥取学校」もあったといいます。

Img_2132c_20200413205101  「律師智傳之碑」の傍らには、地蔵堂がありました。お地蔵様の横の石碑には「嗟夫佐喜子Img_2134c_20200414051401 短命而逝……」と刻まれていました。「嗟夫」は、「ああ」と読むそうです。あとの方の文章を拾い読みすると「童女」、「菩提安置」という文字もありますから、佐喜子さんという方が短命で亡くなられた菩提を弔うためにお地蔵様を祀ったということかと思われます。

Img_2144c Img_2156c  「律師智傳之碑」の先で左折し、西に向かいます。この先、しばらくは見るところはありませんが、ご覧のように天気もよく、ハイキング日和。途中の民家では、右の写真のように、個人で建てたと思われる慰霊碑あるいは忠魂碑もあります。今までの経験上、こういうものは日清、日露戦争に出征された方ものが大半(勝手に入って確かめる訳にはいきません)。桑名でも中心部から離れたところではこういう碑を見かけます。その他、街道沿いのお宅などに植わっている樹木、草花も見て楽しんでいます。K氏がかなり詳しいので、教えられること多々あります。

Img_2169c  スタートから2.5㎞の手前で戸上川にかかる茶屋橋に差し掛かります。東員町といなべ市の境目です。この川はよく氾濫したようで、あたりの地名には上仮宿、下仮宿、仮宿というものがあるそうです。茶屋橋という名前は、このあたりに茶屋があったからといわれています。ここで、女性二人組に遭遇。われわれと同じく、員弁街道ウォーキングをしておられるようでした。

200411touin2  実際に歩いたルートマップは、その2に入っています。茶屋橋を渡って、予定では大泉駅に併設されているImg_2174c_20200411174901 「うりぼう(いなべ市農産物直売所)に行くことにしていましたが、街道沿いに鳥居があり、遠くに鎮守の森らしきものが見えましたので、「せっかくだから行ってみよう」ということになりました。

Img_2177c_20200414061101  神社は大谷神社でした。参道を歩いていると、脇には麦畑。麦はかなり生長してきていました。昔よりも、Img_2178c_20200414061101 身近なところで麦畑を見ることは少なくなった気がします。そして、ツクシ。ちょっと時期を過ぎた感じですが、これも春らしい。以前は、我が家近くの諸戸氏庭園前の土手にも出たのですが、最近は見当たらなくなっています。

Img_2184c_20200414061101  とあれこれ見ながら、大谷神社の境内へ。延喜式内社。創立は不詳ですが、古くは「大谷野魔里井上神社」と称し、神護景雲元(767)年に春日神社を合祀し、そのために「大谷春日」といったという説明がありました。主祭神は、罔象女命(みつはのめのみこと:伊奘冉尊が火の神を出産し、そのために火傷を負って亡くなるとき、その漏らした尿から生まれた水の神)。相殿神は、武甕槌神(タケミカヅチノカミ:伊弉諾尊が火神を切り殺したとき、剣に付着した血から化生(けしょう)した神。経津主神とともに葦原の中つ国に派遣され、国譲りの交渉に成功)、経津主神(ふつぬしのかみ:天孫降臨に先立って、出雲に行き、大己貴命を説いて国土を献上させた)、姫神(ひめがみ:女神。また、彦神(男神)の配偶神)、天児屋根命(アマノコヤネノミコト:天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)、速玉之男命(はやたまのおのかみ:伊奘諾尊が黄泉国の伊奘冉尊を訪れたとき、見ないでほしいといわれたその姿をみてしまい、離縁することになった。その約束をかためるためにはいた唾から生まれた神)、伊邪那美尊事解之男命(日本書紀で伊弉諾尊が伊弉冉尊を追いかけて黄泉の国へ行ったときに生まれた神。速玉之男(ハヤタマノオ)と同じ)、火軻遇突智命建速須佐之男命埴安姫命(はにやすひめのみこと:土をつかさどる神)、埴安彦命(はにやすひこのみこと:孝元天皇の皇子)、大山祇神(おおやまつみのかみ:山の神)。

Img_2208c  ここは、藤原小黒麻呂に関わる伝承があります。宝亀11(780)年、小黒麻呂が蝦夷征伐の命を受けて奈良から東北地方に向かわれる途中、当社で戦勝祈願をし、帰路にも奉告参詣されました。その年、桓武天皇が即位、天応と改元、その後延暦12(793)年、東夷征服祈願の為、奉弊使(勅命により神宮や神社に出向いた使者)として再び参詣したのですが、この地に逗留中、病気にかかり62歳で亡くなっています。この時以来、村人は当社を小黒宮と呼ぶに至ったといいます。境内の西南には小黒麻呂の墳墓があると伝わります。嘉永元(1848)年、参道を改修中、巨石の重なっている中から太刀、花瓶、香炉、陶器類がたくさん出たので元どおりに埋蔵されました。

Img_2198c  この神社の巽の方角に「霊泉清水池」があったという石碑が建っていました。清水が湧き出ていて、この水を飲むと万病がたImg_2224c ちまちに癒えたと書かれています。また、この清泉が湧出したことが、大泉の村の名前になったともあります。泉は今は枯れてしまっていました。いや、やはり寄り道というか、道草というか、してみるものです。

Img_2214c_20200414061101  境内には、古い鬼瓦が残っています。「甍の由来」という石碑が脇に立っており、そこには、旧社務所の鬼瓦で、銘に「文政十三寅年(1830年)六月楚原村瓦屋兵左衛門」とあると書かれています。旧社務所は、明治40(1907)年、字屋敷にあった熊野神社を大谷神社に合祀したときその社殿をこの地に移築したものともあります。

Img_2230c_20200411190201 Img_2234c  大谷神社からまた員弁街道に戻り、次の目的地である「うりぼう(いなべ市農産物直売所)」へ。スタートから約4㎞、時刻は10時半頃、うりぼうに到着。大泉駅に併設されています。2年ほど前、ここのジェラート屋さんで日本酒の入ったジェラートを食べたことがあります(2018年7月16日:いなべの「うりぼう」から家内の実家へ)。鹿肉なども売っていたのですが、見るだけで何も買わず。

 実際に歩いたルートマップその2の途中ですが、キリも良く、あまり長くなってもいけませんので、本編その1はここまで。その2は、このすぐ先にある、もう一つの大谷神社から。

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2020年4月11日 (土)

20200411「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(東員~楚原)」(予告編)【参考資料を追加しました(4/12)】

 昨日(4/10)、三重県では知事から「三重県新型コロナウイルス『感染拡大阻止緊急宣言』」が出されました。県内の4月9日現在の感染者数は15名ですが、いずれも感染経路が明らかです。しかし、隣接する愛知県、岐阜県では相変わらず感染者数が増えていますので、両県と共同して、この宣言を発するに至ったということです。「愛知県、岐阜県については、移動自粛による感染拡大防止の効果を最大限に発揮するため、医療機関への通院や通勤等生活の維持に必要な場合を除く移動の自粛<」が求められました。勝手にハイキングもヤバいかという気もしましたが、県外に出る訳ではなく、3密は避けていますし、健康維持のための散歩やジョギングは不要不急の外出に含まれないという報道もありましたので、出かけることとしました。

200411touin

 2回目の前回、三岐鉄道北勢線の東員駅まで行きましたので、今日はここがスタート。前回見忘れた「チリン坂「律師智傳之Img_2440c 碑」を見て、員弁街道に入り、いなべ市に進みます。旧員弁町が今日の主な行き先。大泉駅に併設された「うりぼう(農産物直売所)」を覗き、いくつかの神社、道標、石仏墓地を経て、ヨシヅヤにあるスガキヤで昼食。ゴールの楚原駅をいったん通り過ごして、撮り鉄スポットである「ねじり橋」「めがね橋」を見て、楚原駅にゴールというコース。こんなに歩くつもりはありませんでしたが、現地で歩いたのは11.3㎞! 私は西桑名駅往復が2.1㎞ですから、合計13.4㎞。歩数は、24,835歩にもなりました。今日も、M、K両氏と3人旅。お疲れさまでした。

Img_2109c  西桑名駅のあるあたり(バスターミナル)の今朝の様子。ほとんど人が歩いていませんでした。北勢線の電車も、東員までは乗Img_2118c_20200411173601 客3名。3両編成でしたから、1人1両貸し切り。西桑名駅を8時44分の楚原行きに乗車。途中からK氏が合流。東員駅には9時10分着。¥340。ここでM氏と待ち合わせ。すぐにスタート。

Img_2130c_20200411173901  県道14号線(菰野東員線)の鳥取交差点を右折(北へ)すると、チリン坂です。坂の中程にImg_2136c 「律師智傳之碑」という自然石でできた碑が建っています。「律師」は相当高い僧の位を意味し、「智傳」という名の高僧の碑です。しかしながら、智傳は、昭和22(1947)年頃、80歳くらいで亡くなったという以外、その来歴などは不明。この高僧「智傳」の名前がなまって「チリン」となり、坂の名前が「チリン坂」になったといいます。碑の表面には「涼風や 麦田見下す 智伝坂」の句があるというのですが、はっきりとは読めません。

Img_2144c  チリン坂を登って、員弁街道に出ます。いなべ市に入るまで、次に見るべきところはありませんので、ひたすら歩きます。というのは結果的にはウソで、あれこれしゃべりながら、また、道ばたや民家に生えている樹木、草花などを見て、ああだこうだといいながら進みました。これまでに見た草花などを突然指さして、「これ、何だった?」と聞いてみたり、それなりに楽しめます(苦笑)。

Img_2174c_20200411174901 Img_2208c  いなべ市内に入って、遠くに神社らしきものが見え、少し進むと鳥居がありましたので、予定にはなかったものの立ち寄ることに。延喜式内大谷神社です。創立は不詳ですが、古くは「大谷野魔里井上神社」と称し、神護景雲元(767)年に春日神社を合祀し、そのために「大谷春日」といったという説明がありました。主祭神は、罔象女命(みつはのめのみこと:伊奘冉尊が火の神を出産し、そのために火傷を負って亡くなるとき、その漏らした尿から生まれた水の神)。相殿神は、武甕槌神経津主神他10柱。ここは、藤原小黒麻呂に関わる伝承がありますが、それはまた本編にて。

Img_2198c  この神社の巽の方角に「霊泉清水池」があったという石碑が建っていました。清水が湧き出ていて、この水を飲むと万病がたImg_2224c ちまちに癒えたと書かれています。また、この清泉が湧出したので、大泉の村の名前になったともあります。泉は今は枯れてしまっていました。

Img_2230c_20200411190201  スタートから約4㎞、時刻は10時半頃、「うりぼう(いなべ農産物直売所)」に到着。大泉Img_2234c 駅に併設されています。2年ほど前、ここのジェラート屋さんで日本酒の入ったジェラートを食べたことがあります(2018年7月16日:いなべの「うりぼう」から家内の実家へ)。鹿肉なども売っていたのですが、今日は見るだけ。

Img_2275c_20200411190201  うりぼう&大泉駅の先、員弁東小学校の南にも、大谷神社があります。主祭神は、水分神(ミクマリノカミ:水の分配をつかImg_2242c さどる神)と、天児屋根命(アマノコヤネノミコト:天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)。相殿神は、宇気母智神(うけもちのかみ:食物の神)、天照大御神。大泉の氏神様。社名はこの地が「大谷御厨」の地であったことよると考えられています。員弁川対岸の梅戸にあったのですが、明応8(1499)年、大洪水のため押流され、村落ごと大泉に移転し、大泉の春日明神へ合祀しました(そのため、大谷春日大明神と称しています)。拝殿前には狛犬ではなく、鹿の像。春日神社との関わりがあるからと思われます。

Img_2266c  表参道の鳥居からまっすぐに150mに及ぶ長い参道があるため、昔から「長宮さん」と呼ばれてきました。上記の神鹿の他、Img_2273c_20200411190201 狛犬もあったのですが、それがどういうわけか、「子取り、玉取り」になっておらず、拝殿に向かって左の狛犬が子どもを抱き、その子どもが玉を持っているスタイルでした。「玉取り」の狛犬は、鞠で遊んでいるような様子から「運気がよく転がるように」という意味合いで、縁起がいいといいます。一方、「子取り」の方は、文字通り子どもを連れている狛犬で、子孫繁栄のご利益があるといわれています。こういうタイプは初見。ちなみに対をなす方には、子も玉もありませんでした。

Img_2285c_20200411190301 Img_2283  員弁東小学校の北、員弁街道に戻ると、長宮公園があります。ここには、鳥居があります。ここも大谷神社の境内であったと思われます。また、ここは、かつて、北勢線の長宮駅があったところ。平成16(2004)年4月1日に廃駅になりました。ちなみに、大泉駅は、長宮駅と大泉東駅を統合し、両駅の中間部分に新設されています。

Img_2304  6㎞の手前に神明社。主祭神は、天照大御神。相殿神は、誉田別命、須佐之男命、市寸島姫命、火産霊神。寛永13(1636)Img_2308 年、大溜を築いたものの、たびたび堤切れしたため、庄屋・正木嘉兵衛を伊勢の山田へ遣わし、笠田大溜に勧請した神明社の分霊を遷座したといいます。

Img_2335c_20200411202401  その正木嘉兵衛の功労に対する顕彰碑が神明社の裏手に建っています。

Img_2301  この神明社が建つのは、員弁街道と旧・里道の畑新田道との分岐点です。神社の南に小さな道標がありました。「北 平古 たど」とあります。碑陰には「青年支部」。さらにこの先、員弁街道と下笠田道との分岐点にも道標があったのですが、こちらは見逃してしまいました。

Img_2350c_20200411202601  スタートから7㎞ほどのところで、石仏墓地に立ち寄ります。員弁中学校を過ぎたところ。美濃国守護・土岐大膳太夫父子の墓があるのです。高さ92cmの五輪の塔3基が、土岐康行、その子・康政、その子・持頼の墓とされています。土岐大膳太夫は、金井城主種村弾正左衛門攻撃に際し、敗れ、玉手の森に(今の石仏)に逃れ切腹して打ち果てています(金井城跡は、いなべ市員弁町北金井亀谷)。

Img_2363c_20200411204601  ここで11時45分。ねじり橋めぐり橋を見に行くにしても、その前に腹ごしらえをしようと、国道421号線まで出ました。ヨシヅヤ員弁店がありましたので、フードコートがあるだろうとここへ。ところが、あったのはスガキヤ1店のみ(苦笑)。たまにはいいかということで、ここで「直火焼き塩豚カルビ丼・サラダセット」(¥350)。食事、休憩、次回の話をして、楚原駅方面に戻り、ねじり橋、めがね橋を見に行くことに。往復でプラス2㎞ほど。

Img_2378c_20200411205401  楚原駅の北で員弁街道からは離れ、員弁西小学校方面へ。小学校を過ぎて坂を下っていくと、まずは、ねじり橋。長さは約Img_2376c 9.1m。正式には、「六把野井水拱橋(きょうきょう)」といい、大正5(1916)年に建造。江戸時代につくられた六把野井水にかかる橋。線路と用水が斜めに交差するため(約40度で)、アーチ橋下部のブロックは、ひねりを入れてつくられています。この構造は、「ねじり間歩(まんぽ)」といい、現存するコンクリートブロック製の橋では唯一といわれます。「日本の近代土木遺産-現存する重要な土木構造物2000選(土木学会)」に選ばれています。私は、2年前の2月27日の近鉄ハイキングで訪ねています(近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(予告編)……マップ上9kmなのに、12.4kmも歩いたお話(笑))。今日は、電車が通過する時間にうまく合いませんでした。電車が通っている写真は、このハイキングの記事にあります。

Img_2384c  こちらがめがね橋。長さは約19.8m。正式には、「明智川穹㝫橋(きゅうりゅうきょう)」。眼鏡橋は、全国に数多く存在しますが、ここが珍しいのは、コンクリートブロック製だということ。三連式のアーチはとても美しい。ねじり橋ともども、三岐鉄道北勢線の代表的な撮影スポットとなっています。

Img_2430c  ねじり橋、めがね橋を見ましたので、楚原駅に向かいました。13時45分に到着。今日はここまで。ちょうどImg_2434c 13時51分に西桑名行き電車がありましたので、それに乗車して帰途につきました。鉄道むすめ・楚原れんげの名字「楚原」はこの駅の名前から。「れんげ」という名前は、前にも書きましたが、「蓮花寺駅」に由来します。ちなみに楚原れんげ嬢は、東員駅の駅務員という設定。西桑名駅には、14時26分着。¥430。

 「員弁街道ハイキング」、前回までは桑名市内を主に歩いていましたので「桑名の」とつけていましたが、桑名を離れましたから、今回から割愛。本編はまた明日以降順次載せる予定。次は、新型コロナウイルスの影響が拡大しない限り、来週にでも楚原から阿下喜まで歩くつもりでいます。北勢線は、この阿下喜が終点。員弁街道はさらに続くのですが、電車に乗って出かけられない範囲になってしまいますから、取り敢えず阿下喜まで歩いてキリをつけるつもりです。

【参考資料リスト(4/12追加)】

・みえの歴史街道ウォーキングマップ 濃州道(員弁街道)

東員町文化財マップ

ふるさといなべ市の紹介

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2020年4月 6日 (月)

町屋川にてミヤコドリと、まさに“black-headed gull”の「ガングロユリカモメ」

Img_0601c Img_1154c_20200406174901  今日も風が強い日でした。桜はまだ散らないでしょう。風が強いと桜の水鏡写真はダメですし、町屋川にミヤコドリがいるという情報を得ましたので、プチ遠征としました。うまい具合に、干潮は11時ちょうど(四日市港潮汐表によります)。1月25日と同じく、「20200125勝手に三岐鉄道・三交バス『バードウォッチング@町屋川」」です(微笑)。このときと同じく、三岐鉄道北勢線で西別所駅まで行き、員弁街道を横切って町屋川の堤防へ。JR関西線・近鉄名古屋線の鉄橋、国道1号線、国道23号線と渡って、伊勢湾岸自動車道の橋の近くまでいって、三交バス・日の出橋バス停に戻り、バスで桑名駅前に帰ってきました。8時44分の電車に乗って出かけ、桑名駅前に戻って来たのは、12時過ぎ。電車賃とバス代で、¥540。現地で歩いたのは7.3㎞。駅までの往復が、2.1㎞。合計9.4㎞、15,584歩と、今日もよく歩きました。

Img_0942c_20200406175101 Img_1062c  まずは、目的のミヤコドリ。伊勢湾岸自動車道の橋から上流300mほどのあたりの中洲というか、干潟になったあたりに35羽ほどがいました。ただし、町屋川左岸堤防からは、たぶん130mほどのところにいて、デジイチの250mmではいかにも非力。超望遠コンデジでもさほど大きくは写りませんし、コンデジでは画像が今イチ。たぶん200枚以上撮ったのですが、アイキャッチは難しい。しかし、初見、初撮影ですから、それなりに満足。

Img_1010c_20200406175701  在原業平が「名にしおはば  いざこと問はむ みやこどり 我が思う人は ありやなしやと」と詠んでいますが(伊勢物語9段、「東下り」;古今集にも掲載)、ここに詠まれている「都鳥」は、ユリカモメとされています。業平一行が、都を離れ、三河、駿河と旅をし、武蔵の国と下総の国の間に位置する隅田川まで足を運んだところで目にした鳥の名前を都鳥と聞いて詠んだ歌とされます。「『都』という名を持っているのなら、(都の事情に詳しいであろうから)さあ尋ねよう、都鳥よ。私が恋い慕う人は無事でいるのかいないのかと」という意味で、都や都に残してきた人を思う気持ちが強く感じられます。伊勢物語も、古今集も、そしてこの業平の和歌も高校時代に習いました。「みやこどり」は、大友家持も詠んでいるそうですし、枕草子にも出てくるそうです(日本野鳥歳時記、大橋弘一著、ナツメ社)。ただし、家持の歌と、枕草子に出てくる「みやこどり」が、ミヤコドリなのかユリカモメなのかは、定かではないようです。

Img_0953c  業平が詠んだミヤコドリは、ユリカモメ。そのユリカモメ、ミヤコドリがいたさらに下流の干潟に大集合。これ、全部というか、ほとんどすべてがユリカモメ。このほか、少数Img_0898c が他のところでエサを探していたり、波に浮いていたり。カウンターを持っていきませんでしたし、これほどいると数えるのは面倒。「かなりたくさんいた」ということにしておきます(微苦笑)。

Img_0858c  珍しい鳥がいる! と思いかけたのがこちら。落ち着いて、よく見たら、何のことはなし。ガングロになったユリカモメです。夏羽にモデルチェンジ済みということ。すぐ上右の写真もよく見ると、ガングロユリカモメがかなり混じっています。

Img_0865c  堤防から高水敷に降りて休憩していたら、目の前にもやって来ました。ユリカモメは、英語では“black-Img_0910c_20200406180801 headed gull”といいますが、この容貌から来ているのでしょう。講釈ついでに和名を漢字で書くと「百合鴎」。

Img_1940c_20200406183801  さて、このほか見て来た鳥たちなど。町屋川の堤防にあがってすぐに、モズ。Img_0618c_20200406183801 遠くて、こんな証拠写真。モズは、もう1羽を見ました。ホオジロのオス。枝というか、幹が被ってしまっています。盛んにさえずっていました。ウグイスのさえずりも、何ヶ所かで聞こえて来ました。

Img_0651c_20200406184001  アオサギさんには、4羽に遭遇。1羽は飛んで行くところを見ましたが、それ以外は、JR関西線・近鉄名古屋線の鉄橋よりもImg_0659c 上流側で、中洲にいました。左の写真と、右の写真とは別もの。2羽は、嘴がピンク色になってきていますが、右の写真で向かって右にいるアオサギさんの嘴は色が変わっていません。

Img_1990c_20200406184501  国道1号線のすぐ上流にある安永第一公園(ここは、旧東海道の町屋橋がかかっていたあたImg_0674c り)ではツグミ。

Img_0688c_20200406184701  安永第一公園の隣は、すし清という料理旅館。創業164年Img_1992c_20200406184701 で、藤が美しいのです。2~3回、見に来たことがあります(2015年4月30日:すし清の藤を見に行く)。最近、新聞とかで紹介されませんが、また見に来たいと思います。つぼみは右の写真のようでした。

Img_0696c_20200406185201  国道1号線を越えたところで菜の花。さらに、町屋川緑地公園の手前でソメイヨシImg_0701c_20200406185201 ノ。あちこちハイキングやウォーキングで歩きましたが、こういう何気ないところにも美しい桜の木があるのが、何ともありがたく、楽しいです。

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 日の出橋。ここまでで5kmほど。ここからさらに伊勢湾岸自動車道の橋の近くまで行きまImg_0732c_20200406193801
す。前回来てから2ヶ月半ほど。変わったことが1つありました。堤防のところどころから町屋川に降りる階段があるのですが、その入り口のほとんどが新たにコンクリートで塞がれていたのです。ここは、ときどき立ち止まって、町屋川にいる鳥を見るのに便利なところだったのに、残念。

 セグロカモメ。ずっと佇んでいました。そして、川の下流なのに、セグロセキレイ。セグロ続き(微笑)。Img_0737c 海岸には出ませImg_0752c_20200406194101 ん。飛行は上下に揺れる波型を描き、その時には「ジジッ ジジッ」といった濁った声を出しています。
近年、日本では急速に分布を拡げているハクセキレイとの軋轢(あつれき)があり、個体数が減少する傾向にあります。

Img_0772c  こちらは、イカルチドリと思います。パッと見たときは、コチドリかと思いましたが、目のあたりの模様かImg_0794c_20200406194101 らしてイカルチドリと考えました。カモはほとんどがヒドリガモでしたが、コガモや、オカヨシガモも混じっていました。他には、マガモのオス。カモの仲間の代表種とされますが、桑名あたりではキンクロハジロや、ヒドリガモの方が多数派。

Img_1029c  このほかには、ダイサギや、コサギなど。キジも見たいと思ったのですが、見当たらず。セイタカシギもいImg_1120c_20200406194101 たという情報もありましたが、こちらも見当たらず。しかしまぁ、ミヤコドリが見られたので、かなり満足したプチ遠征でした。

Img_2184c_20200406194101  猛禽類もいませんでしたが、飛ぶものがいると写真を撮りたくなります(苦笑)。中日本航空のヘリでした。日の出橋のバス停には15分ほど早く戻ってきましたので、近くの神社2社を回って来ました。

Img_1140c  バス停に行って、ビックリ。私がいうところの「チンチクリンバス」からマイクロバスに変Img_1144c_20200406194101 わっていました。ちなみに新車のようで、最近変わったばかりと思われます。2ヶ月半ほどの間に変わったのでしょう。普通の路線バスは、「後ろ乗り、前降り」などになっていますが、乗降口は1つ。なのにICカードをタッチするところは、乗り降りで別(2つありました)で、迷いそう(苦笑)。乗客は必ずしも多くはありませんから、やむを得ません。

32de1db6s  ちなみに私がいう「チンチクリンバス」はこちら。普通の路線バスを縮めたようなバスのことをいっています。

 

 

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