勝手にハイキング

2020年11月 7日 (土)

20201031「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(いなべ市藤原町山口~阿下喜)」(その2)……浄円寺、御厨神明社、徳円寺、川合神社、春日神社、大西神社を経て阿下喜駅にゴール(完)

201031inabe2  10月31日の「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(いなべ市藤原町山口~阿下喜)」のその2です。その1では、いなべ市藤原町長尾にある猪名部神社までやって来ました。猪名部神社を出てそのまま南東へ向かうべきところを、地図をよく確認しなかったために大回りする羽目に。3人旅もよいのですが、しゃべっているとこういう確認ミスや、見逃しが生じがち。北に向かって、本来のコースから離れたところで県道107号線に出てしまいました。3㎞を過ぎて、員弁街道に戻れ、いなべ市藤原町日内に入っています。

Img_7421c_20201106042001  猪名部神社の近くで、忠魂碑。「陸軍歩兵宮木半十郎之碑」とあります。多少草が生えてはいますが、今でも手入れがされていImg_7423c る印象でした。さらにその近くで、変わった実をつけている草を発見(右の写真)。妙に目立っていますが、ちょっと毒々しい気もします。

Img_7428c_20201106042001 Img_7432c_20201106042001  県道107号線を進みます。3㎞半くらいのところで、北にお寺が見えます。浄円寺。真宗本願寺派のお寺。その隣に御厨神明社。大回りしてしまったあとで、何となくどちらにも立ち寄らず。浄円寺について、ネット検索ではこれという情報はありません。御厨神明社は、勧請年月は不詳。主祭神は、天照大御神。相殿神は、火産霊神底筒之男命中筒之男命表筒之男命大山祇神。「御厨」とありますから、もともと伊勢神宮に関係がある土地なのでしょう。それにしても、底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命はいわゆる住吉三神で、海や航海の神様。どうしてここに祀られているのでしょう。

Img_7440c_20201031192801  御厨神明社を過ぎ、しばらく行くと、員弁街道は県道107号線から東に逸れて行きます。道が分かれるあたりに鳥居が建ってImg_7435c_20201106044601 います。「みえの歴史街道」のマップには、川合と日内の境の鳥居とありましたが、鳥居の傍らには、「式内猪名部神社 従是九」と刻まれた石柱が建っていますというか、「九」以下は埋もれています。猪名部神社までの距離を示しているはずですが、全部見えるようにしておいてもらいたいところ。このあたりからも、藤原岳はよく見えています。

Img_7453c_20201106044701  いなべ市藤原町川合に入ってきました。民家のところに「彰忠碑」。「彰忠碑」という文字は読めますが、Img_7456c それ以外はかなり読みにくくなっています。日清・日露戦争の頃のものかという気がします。その先で、右の写真のようなお宅。これは、そのつくり方からみて、たぶん以前は茅葺き屋根の建物だったのでしょう。その上に覆いを掛けてあります。

Img_7462c_20201031192801  歩き始めて4.4㎞ほどで和田山徳円寺。真宗大谷派。ここも案内板はなく、ネットで調べてもとくに情報は出Img_7469c_20201106050101 て来ません。しかし、境内はなかなかよい雰囲気で、よく手入れされていました。

Img_7471c_20201106050301  徳円寺の先に小学校の跡地らしきところ。昔風の石柱の校門らしきものと、二宮金次郎像がImg_7481c 見えていました。この先で、川合橋で員弁川を渡ります。

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 川合橋を渡ったところに川合神社があります。勧請年月は不詳。神社にあった由緒書きによれば、、この地の住民は、古来尚武の気性に富んでいたこともあって、いつとなく諏訪明神を鎮祀して産土神としていたといいます。応神天皇(誉田別命)は、杉山龍之助という人物が元亀年代(1570年)頃祀ったものの、八幡社は荒廃したため、諏訪明神に合祀したそうです。さらに、伊邪那美尊については、永禄年代(1558年)頃、小寺太郎兵衛という武人が養老郡の和田川原でご神体を拾得し、川合字向沢に一族の氏神として和田明神を鎮祀したとあります。

Img_7490c  上述の経緯があり、主祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと:大国主命の子。武神。諏訪大社の御祭神)。相殿神は、Img_7495c 誉田別命火産霊神、土御祖神(つちのみおやのかみ:伊勢神宮では、外宮所在地・山田の原の地主の神とされるので、川合の土地の神か?)、御饌都神(みけつがみ:天照大御神にお供えする食事を司る神。天照大御神が伊勢に鎮座して約500年後に「御饌都神」として呼ばれたのは、穀物の神である豊受大御神)、大山祇神伊邪那美尊天照大御神

Img_7500c  川合神社には、おもしろい形の燈籠がありました。よくある春日燈籠よりも、「笠」の部分がかなり長いのです。左の写真で手前に写っているタイプは、金山型燈籠というようです。Img_7504c_20201106130501 拝殿の前にも金山型燈籠はありました。もう一つは、右のタイプ。濡鷺型灯籠。火袋に鷺を刻っていることと全体の形から、霧雨の中に立つ鷺のイメージを現しているようです。ただし、サギが彫られているかまでは確認していません。いや、知らないこと、気づいていないことはたくさんあります。

201031inabe3  川合神社のところからは、実測ルートマップはその3になっています。県道107号線からはいったん離れていましたが、川合神社の南、スタートから5㎞の手前で再び県道107号線を歩きます。「志礼石新田」の交差点で行動306号線に入り、下野尻交差点で右折すると春日神社。員弁川が、川合神社の東で大きく曲がって下野尻交差点のすぐ東に流れてきています。

Img_7529c  下野尻交差点を曲がってすぐに春日神社。下野尻の氏神様。勧請年月は不詳。『員弁雑誌』には、「春日大明神 字飯原野に在り、社頭南向、拝殿在り、両野尻の産土神なり、例祭八月一四日、神前の高麗狗古物なり、住古は壮大なる社なりしと云ふ」とあるそうです。桑名の春日神社の分霊を祀っているという話もありますが、神社検索のサイトなどではそういう記述はありません。

Img_7533c_20201031192801  御祭神は、少名毘古那命(すくなびこなのみこと:農業、酒造、医薬、温泉の神)。相殿神は、大山祇神火産霊神、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ:集落や道の要所にすわり、八衢比古神とともに邪神・悪霊の侵入をふせぐ)、久那斗神(くなどのかみ:道の分岐点で、旅人の道中の安全をはかる神)、磐長姫命(いわながひめ:長寿を司る神)、武甕槌神(タケミカヅチノカミ:鹿島神宮の祭神。経津主神とともに、葦原の中つ国に派遣され、国譲りの交渉に成功。また、神武東征においても、天皇の危難を救った)、天児屋根命(アマノコヤネノミコト:天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)、経津主命(フツヌシノカミ:香取神宮の祭神。天孫降臨に先立って、出雲に行き、大己貴命(おおなむちのみこと)を説いて国土を献上させた)、罔象女神(みつはのめのかみ:水の神)。春日神社には、獅子舞があり、例祭に奉納されます。「狂乱牡丹の舞」といわれ、今から300年余り前に江州から伝えられたもの。素朴で幻想的な舞といいます。

201031inabe4  春日神社を過ぎると、実測ルートマップはその4。員弁川を野尻橋で渡ります。野尻橋の手前で歩き始めから6㎞。この辺まImg_7544c_20201106153701 で来ると、藤原岳の見え方も変わってきます。時刻はすでに13時半。鎌田大橋を渡る手前で、猪毛利谷(いもりだに)神社があり、立ち寄ろうと思っていたのですが、M氏が「向こうにうどん屋があるから、あそこで昼飯にしよう、2時を過ぎると昼休憩になって食べるところがなくなる」というので、「うどん釜田」へ。猪毛利谷神社は断念。

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 うどん釜田。昼時は過ぎており、空いていました。広いのですが、落ち着いた印象の店。土曜限定ランチが、¥980とお得でDsc_0019c したから、私は天ぷらランチをチョイス。14時20分、店を出て、釜田川を越え、阿下喜の町へ向かいます。

201031inabe5  ルートマップはその5。大西神社の他、桐林館に立ち寄ることも考えていたのですが、結局、大西神社にお参りしてからは、阿下喜駅にまっしぐら。スタートのタクシーでつまずいたがために、時間が押してしまい、急ぐことになったというワケ。

Img_7577c_20201106155601  大西神社。員弁街道に面しています。勧請年月は不詳。私は、ここには、近鉄ハイキングで一度訪ねています(2018年2月27日:近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(予告編)……マップ上9kmなのに、12.4kmも歩いたお話(笑))。 と、神社検索(三重)によれば、御祭神は、次のリストの通り。創建年は不明ですが、織田信長の時代に阿下喜城主・片山大和守が、諏訪大明神を祀ったのが始まりで、建御名方神及び下照姫命、また、境内社として山神を祀っていたと由緒書きにあります。天保7(1836)年に大西神社となり、明治40(1907)年に諸社を合祀しています。

Img_7561c_20201031200401  御祭神は、建御名方神 (タケミナカタノカミ:大国主命の子。武神。諏訪大社の祭神)、相殿神は、下照姫命(シタテルヒメノミコト:大国主命の娘)、誉田別命(ホンダワケノミコト:応神天皇)、火産霊神(ホムスビノカミ:火の神)、須佐之男命(スサノオノミコト)、大山祇神(オオヤマツミノカミ:山をつかさどる神)、石神(イシガミ:「しゃくじん」ともいう。奇石、霊石を神体とする神)。

Img_7568c_20201031200401  拝殿前の狛犬。「子取り」「玉取り」になっています。時節柄、どちらもマスク着用。ソーImg_7562c_20201106155601 シャルディスタンスを十分にとっています。前足で子供をあやしている「子取り」の子の方もマスクをつけています。大西神社の詳細は、「近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(その4)……メイン会場のウッドヘッドで大ひな壇を見て、12㎞以上、4時間半を歩いた」(2018年3月5日)にありますので、ここでは割愛。

Img_7579c_20201106155601  員弁街道は、大西神社のところで左折し、阿下喜の昔の商店街を東南に直進します。途中、稲垣眼科の近くで忠魂碑。在郷軍人阿下喜分会が、北勢町旧阿下喜地区全戦没者を祀る慰霊碑として建てたもの。「元帥 陸軍大将 子爵 川村景明書」と読めます。川村景明(かわむらかげあき)は、薩摩の出身で、日清、日露の両戦争に従事しています。

Img_7586c_20201106164901  斎藤医院のところで右折し、阿下喜駅に向かいます。途中、街道の西側に、旧・稲垣屋。こImg_7591c_20201106155601 こは、明治31(1898)年、員弁銀行(のちに四日市銀行を経て、三重銀行)を開業し、頭取を務めた阿下喜村の稲垣專八氏の旧宅と思います。続いて、石井書店のところで、員弁街道と巡見道の合流点。前回も見た道標を確認。

Img_7594c  阿下喜駅前の信号のところで、前回十分確認しなかった「牛馬坂」をチェック。この写真に見える道が、おそらく牛馬坂。阿下喜湊・阿下喜駅から北の阿下喜集落の台地に上がる坂を牛馬坂と呼んだそうです。

Img_7247c  15時少し前、ようやく三岐鉄道北勢線・阿下喜駅に到着。朝9時22分にここに着いたわけですから、6時間Img_7597c_20201106155601 近くかかりました(もっとも、朝、スタートしたのが10時15分頃でした)。コースミスを2回ほどしましたが、歩いたのは8.9㎞でした。15時1分発の西桑名行きがありましたので、ジャストタイミング。¥510。

Img_7613c_20201106155601  この日のALKOOのデータ。22,940歩でした。いなべ市で8.9㎞を歩きましたが、自宅から西桑名駅往復は、2.2㎞。合計11.1㎞。

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2020年11月 6日 (金)

20201031「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(いなべ市藤原町山口~阿下喜)」(その1)……いなべ市藤原町長尾の常夜燈、本郷社、円琳寺、東泉寺、長尾廃寺から猪名部神社へ

 10月31日に出かけた「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(山口~阿下喜)」の本編その1です。「みえの歴史街道」にある「濃州道(員弁街道)」を歩くシリーズの最終回。濃州道は、桑名では員弁街道と呼ばれます。三岐鉄道北勢線とほぼ平行に通っています。この街道は員弁郡下から桑名城下へと続く道として発展したもの。3月15日に、桑名市三ツ矢橋から歩き始め(2020年3月15日:20200315「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)(予告編))、この日は星川駅まで。続いて、3月29日には星川駅から東員駅まで(20200329「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」(予告編))、夏を越え、10月3日には楚原駅から阿下喜駅(20201003「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」(予告編))と歩いてきました。当初は、桑名市内の街道を歩くつもりで計画したのですが、せっかくだから終点まで歩こうということになったのです。

201031inabe0  この日は、今までのやり方ですと、前回のゴールであった三岐鉄道北勢線阿下喜(あげき)駅から、いなべ市藤原町山口の員弁街道の終点(ここで、亀山からの巡見道と合流します。巡見道は、幕府の巡見使が通った道)までを歩くのですが、そうするとゴールしてからが困ります。阿下喜駅に戻るには、来た道をトボトボ歩いて、倍の距離になります。藤原には三岐鉄道三岐線が通っていますが、その終点の西藤原駅までは、ゴール地点から3.2㎞はあります。そこで、考えた末に、タクシーで終点まで行って、阿下喜駅に戻るルートを採用。同級生K氏、畏友M氏と3人旅。

Img_7226c  天気は良好。三岐鉄道北勢線西桑名駅を8時23分に発車する阿下喜行き普通に乗車。阿下喜までは、20.4㎞。途中には11の駅Img_7230c_20201105045301 があります。単線ですから、何回か列車のすれ違いがありますし、最高速度は45㎞/hですから、阿下喜到着は、9時22分。ほぼ1時間、ガタンゴトンとゆられ、小旅行という感じ。運賃は¥510。途中からK氏も乗込み、沿線風景を眺めながら行きます。M氏とは阿下喜駅で合流。

Img_7235c_20201031192801  阿下喜駅のホームから見える藤原岳(標高1,144m)。我が家からも見えますが、ここまで来ると目の前。駅前にはタクシーImg_7248c_20201031192801乗り場はあるものの、待機しているクルマはなし。やむなく麻生田(おうだ)にある近鉄タクシー配車センターに電話で依頼したものの、「出払っていて、いつ戻るか分からない。『かなりお待ちいただきます』としか申し上げられません」と、好天なのに、いきなり暗雲が垂れ込めたような感じ(苦笑)。

Img_7237c  やむなく、阿下喜駅前で待つことに。駅の南にある軽便鉄道博物館の車両やレールを見たり、私は、上空にImg_7260c 飛んできたトビや、ロータリーの木にやって来たジョウビタキを撮影したりしていますが、タクシーはいっこうにやって来ません。駅前にいなべ市の福祉バス(無料)のバス停があり、目的地の山口を通る「立田線」があるのを発見。「これでいいじゃないか!」となったものの、発車時刻になってもやって来ず。よくよく見たら、「土日祝日は運休」(爆)。よくあるパターン。桑名のコミュニティバスも、日曜は運休。待つことほぼ1時間でやって来たタクシーに乗って、いなべ市藤原町山口まで移動。¥2,990。

Img_7281c  本来であれば、員弁街道の終点はさらに西へ200mほど行ったところですが、目印になるものがありません。そこで、この常夜燈のところで下車。ここから歩くことにしました。集落の入り口にある常夜燈で、「内宮外宮/村内安全」と彫られています。

201031inabe1  こちらが実際に歩いたルートマップの詳細図その1。北側に流れているのは、員弁川。田舎の街道ですから、「員弁街道」などという表示はありませんし、道標も建ってはいません。自作コースマップとGoogleマップ(これには「濃州道」という表示が出るのです)が頼り。しかしながら、円琳寺・地蔵堂の手前で南側の道を歩くところで、直進するというミス(苦笑)。まぁこれくらいはやむを得ないかも知れません。

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 さて、常夜燈の背後(西側)には、忠魂碑が建っていました。「故陸軍軍曹勲七等藤田学之碑」とあります。昭和19(1944)年に建てられていますので、第二次世界大戦に従軍された方のものと思われます。常夜燈の北東にImg_7293c_20201105060701 も、同じように、忠魂碑が3基ありました。「故陸軍歩兵上等兵藤田政治郎碑」「故陸軍歩兵田中鐵治郎碑」などとありました。このあたりの村から出征された方のものでしょう。

Img_7308c  スタートから800mほどのところに本郷社という神社がありましたが、コースマップを描いたキョリ測にはImg_7329c_20201105124501 載っていません。しかし、見つけてしまったからには、立ち寄ります。勧請年月は不詳。樹齢からして数百年以上の歴史を持つと推測されます。従来、天白天神だけが鎮座していたのですが、天保6(1835)年、八幡大神を久保の旧社地から遷し、天保91838)年、天照大神を神明社の旧社地(現在の地蔵堂:あとで訪ねるところ)から遷し、三神宮または三神社と呼ばれたといいます。

Img_7334c Img_7331c_20201105062001  主祭神は、火産霊命(ほむすびのみこと:火の神)。相殿神は、品田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)、天照大御神天白大明神(天白信仰(てんぱくしんこう)は、本州のほぼ東半分にみられる民間信仰。長野県・静岡県を中心とし、三重県の南勢・志摩地方を南限、岩手県を北限としている。様々な研究・解釈が行なわれたが、1980年ころから伊勢土着の麻積氏の祖神天白羽神(あめのしらはのかみ、長白羽神の別名)に起源を求める説が紹介されることが多くなった)、大山祇神(オオヤマツミノカミ:山を司る神)、麓山祇命(はやまつみのみこと:山の麓を司る神)、道反大神(おおみちがえしのかみ:伊弉諾尊が伊弉尊に追われた時、さえぎるために用いた石のことで、道反大神とも呼んだ)、手置帆負神(たおきほおいのかみ:紀伊の忌部(いんべ)の祖。国ゆずり・国土平定の話に登場し、笠づくりの役目をになった)、彦狭知神(ひこさしりのみこと:天照大御神が天岩戸に隠れた時、手置帆負命とともに天御量を作り、材木を切って瑞殿を作ったことによ、木工の祖神とされている)の8柱。ずいぶんいろいろな神様がいらっしゃいます。初めて名前を知った神様も多い。ウ~ン、神社の世界、神様も奥が深い。

Img_7324c_20201105062001  本郷社は、なかなかよい雰囲気の神社。杜も、左の写真のように巨樹からなっています。拝殿、本殿も上の2枚の写真のようImg_7338c_20201105062101 に、木々に囲まれ、厳かな雰囲気が醸し出されています。聖なる空間という感じ。燈籠も苔生していたりして、これもこの雰囲気に貢献している気がします。ということで、なかなかよいスタートを切ることができました(微笑)。

Img_7309c  本郷社のすぐ近くのお宅で、「鍾馗様」を発見。たいていは、屋根の上に鎮座しているのですが、ここは「塀の上の鍾馗様」になっています。K氏も、M氏も初めて見たそうですが、私はずいぶん前から見つけるたびに写真を撮っています。京都で多いそうですが(こちら)、桑名でも時々見かけます。

Img_7301c_20201105124101  本郷社の先、スタートから1㎞を過ぎたあたりで、東南の道に入るべきところを直進してしImg_7356c まいましたが、すぐに員弁街道に戻りますので、まぁご愛敬。田園風景もよい感じ。蕎麦の畑もあちこちにありますが、花の季節は終わり、実がついていました。

Img_7350c_20201105124701  「すばらしきふるさと 白瀨マップ」という大きな看板を過ぎると、員弁街道沿いに地蔵堂と円琳寺。地蔵Img_7358c 堂の詳細は、不明ですが、本郷社の説明板によればここに神明社があったと思われます。地蔵堂の前に立つ石柱には、「地蔵堂再建記念」と刻まれていました。

Img_7362c_20201105125501  地蔵堂の奥、西側にあるのが、青龍山円琳寺(せいりゅうざんえんりんじ)。真宗大谷派のお寺。門は、石の柱が立っており、さらに、鳥居かと見まごうようなものがついていて、お寺の門とは思えないイメージ。もとは天台宗でしたが、天和2(1682)年、本山4世常如(じょうにょ)上人の頃に真宗大谷派の寺となり、桑名の本統寺与力の寺となったそうです。

Img_7365c_20201031192801  桑名藩主・久松松平家の知遇を得て、その家紋「梅鉢」を賜り、使用を許されています。円琳寺は代々学者として有名な人物が多く、特に赤心校を開き郷弟の教育に尽くし「猪名部神譜」の大作を世に送った梅田春濤先生、その子香樟先生も漢学者として有名で、町内には碑文が多く残されているといいます。寺の西に春濤先生の碑(大賀賢励撰・市川進書)と赤心校の跡があるそうですが、事前によく調べなかったため、見てきませんでした。

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 円琳寺・地蔵堂のところで員弁街道は左折して、北に向かいます。1.8㎞ほどのところで員弁川を渡ります。本郷橋です。員弁川は、鈴鹿Img_7382c_20201105130301 山脈御池岳北麓に発し、桑名と川越町との境で伊勢湾に注ぎます。桑名あたりでは、町屋川と呼ばれ、河口部では川幅はかなり広いのですが、この辺りは、当然ながら、イメージが違います。

Img_7385c_20201105130301  橋の上から振り返ると、藤原岳が見えますが、北東の方向から見る眺めですので、いつも我が家から見ている藤原岳とはまったく違います。我が家から見えるところは、太平洋セメント藤原鉱山となっていて、石灰石が山容が変わるほど採掘されているのです。

201031inabe2  員弁川を越えて少し進むと、実測ルートマップはその2の範囲になります。員弁街道はいったん員弁川から離れて、小高いところを進みます。東泉寺、猪名部神社とお参りしたあと、またもやコースミス(苦笑)。しゃべっていて、地図を確認し忘れます。懲りないというか、反省しないというか。本来の員弁街道はオレンジ色のルートを行くのですが、大回りしてしまいました。

Img_7389c_20201105132501  2㎞を過ぎたところに長尾山東泉寺(ながおさんとうせんじ)。臨済宗妙心寺派のお寺。この一帯は、伽藍遺跡「長尾廃寺」Img_7405c_20201105132501 だといいます。長尾廃寺は、「長尾山福林寺」と号し、俗に「地蔵寺」として親しまれました。現在の、この東泉寺境内、及び付近一帯が廃寺跡とされます。平安時代の延暦年間(782年-806年)の創建と伝わり、猪名部神社の宮寺、白瀨城主・近藤弾正左衛門吉綱(北勢四十八家の一つ)の菩提所であったともいわれます。

Img_7392c_20201105132501  東泉寺についての詳細は不明。ネットでも、「ふるさと いなべ市の紹介(いなべ市観光協Img_7395c_20201105132501 会・ふるさといなべ市の語り部の会発行)」にも情報はありません。なかなかよい感じのお寺です。

Img_7398c_20201105132501  境内には稲荷社がありました。福寿稲荷大神。由緒などを書いたものはありません。社殿の背後には、階段があり、居合わせた方に伺うと、誰かの墓があり、その向こうに池か何かあると聞いたということでした。先ほどの長尾廃寺の説明板によれば、山頂付近には「長尾経塚」とも「員弁三郎行綱の墓」とも呼ばれる墓石があるといいます。員弁三郎行綱は、鎌倉時代員弁大領であった員弁家綱の子で、現在の東員町大木の御殿に居城し、源頼朝の騎射・巻狩の上意に従って、青少年の士気を鼓舞するため建久3(1192)年、追野原に於いて流鏑馬の神事を奉納したといいます。これが、東員町の猪名部神社で現在も行われている上げ馬神事のもと。

Img_7411c_20201031192801  東泉寺の少し東に猪名部神社。上述のように、東員町北大社にも同名の神社があります。「延喜式神名帳」にある「猪名部神社(伊勢国・員弁郡)」に比定される式内社ですが、どちらが延喜式神名帳の猪名部神社かは決着がついていないようです。近代社格では村社。創祀・創建年代は不詳。東員町北大社の猪名部神社と同様に、春澄善縄(はるずみの よしただ:平安時代前期の公卿(くぎょう)、学者。文章(もんじょう)博士。藤原良房と「続日本後紀」を完成。伊勢出身。本姓は猪名部)・春澄洽子(高子:はるずみの こうし)(平安時代前期~中期の女官。陽成天皇の即位にともない皇太夫人となった藤原高子との同名をさけ、洽子(こうし)(「あまねいこ」ともよむ)と改名。従三位、典侍。古今和歌集に和歌1首がおさめられている)の父娘の伝承が残っています。

Img_7417c_20201031192801  主祭神は、伊香我色男命(イカガシコオノミコト:古代日本の豪族・物部氏の祖にして、猪名部氏の祖神。天孫瓊々杵尊(ニニギノミコト:天照大神の孫)の兄、饒速日命(ニギハヤヒノミコト:物部氏の祖神)の六世の孫)。相殿神は、大山祇神(おおやまつみのかみ:山の神)、火産霊神(ほむすびのかみ=軻遇突智神(かぐつちのかみ):火の神)、春澄善縄宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと:五穀、食物をつかさどる神)。員弁川の北岸、集落の中に鎮座するのですが、集落の西北隅の松林の中に春澄氏第宅跡と称する平坦な一角があり、土地の人はそこを「春澄屋敷」と称しているそうです。こちらにこのあたりの詳しい話があります。

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2020年10月31日 (土)

20201031「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(山口~阿下喜)」(超予告編)

Img_7235c_20201031192801  10月も末日になりました。今月3日に続き(2020年10月 3日:20201003「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」(予告編))、「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(山口~阿下喜)」に行ってきました。これで、員弁街道はほぼコンプリート。「ほぼ」というのは、微妙なところですが、これまでところどころで員弁街道を外れましたし、今日はコースミスもしでかしましたので、正確には「ほぼ」コンプリートということです。遠隔授業第4回の課題チェック、コメント書きや、明日はオンライン研修会もありますので、取り敢えず「超予告編」。実際に歩いたルートマップをまだつくっていません。当初調べたコースマップでは、8.5㎞となっていました。

Img_7248c_20201031192801  今までの続きからとなりますと、三岐鉄道北勢線阿下喜駅から、員弁街道(濃州道)の終点にして、巡見道との合流点であるいなべ市藤原町山口まで歩くのですが、藤原町山口から阿下喜駅に戻ると、倍の距離を歩かねばなりません。三岐鉄道三岐線の西藤原駅まで行くと、さらに3.2㎞を歩かねばなりません。それ故、阿下喜駅からタクシーで終点まで行き、そこから戻るというコース設定。しかし、阿下喜駅で近鉄配車センターに電話すると、「いつ戻ってくるか分かりません。かなりかかります」と。いなべ市の福祉バスがあるのですが、土日祝日は運休でした。結局、50分ほど待ってやって来たタクシーに乗車する羽目に。西桑名を8時23分に乗車し、阿下喜には9時22分着。¥510。タクシーに乗れたのは10時15分過ぎ。いなべ市藤原町山口まで約15分、¥2,990。

201031inabec  こちらが用意していったコースマップ。実際は、もっと拡大して5枚に分割しています。藤原町山口にある常夜燈のところを10時35分にスタート、途中、昼食休憩を取りましたが、阿下喜駅にゴールしたのは、15時少し前。4時間半ほどかかりました。東海道や、参宮街道など、メインの街道では道標や道案内がありますが、田舎の街道ではそういうものはほとんどありません。あちこちでルートを確かめたのですが(Googleマップには「濃州道」という表示が出て来て、ずいぶん助けられました)、何度かコースミスをしました。

Img_7281c  巡見道との合流点から歩くつもりでしたが、タクシーの運転手さんに分かりやすい目標ということで,こちらの常夜燈のところでクルマを降りました。集落の入り口に当たるところにあり、「内宮外宮/村内安全」と刻まれています。背後にあるのは,個人の忠魂碑。この常夜燈の東にも、忠魂碑が3基ありました。ここから東に向かって歩き始めたのが、10時35分頃。

Img_7331c_20201031192801  藤原町本郷にある本郷社。キョリ測のマップには載っておらず、リサーチしていませんでした。主祭神は、火産霊命。相殿神は、品田別命ほか7柱。勧請年月は不詳。なかなかよい雰囲気の神社でした。

Img_7356c  歩いたルート沿いのあちこちには、蕎麦畑。花はほとんど終わり、実が生長している途中です。ごく一部には、赤蕎麦が栽培されているところもありました。

Img_7358c  円琳寺の手前に地蔵堂。その奥に青龍山円琳寺(せいりゅうざんえんりんImg_7365c_20201031192801 じ)。今は、真宗大谷派ですが、もとは天台宗でした。天和2(1682)年、本山4世常如上人の頃に、真宗大谷派に改宗、桑名の本統寺与力の寺となっています。桑名藩主・久松松平家の知遇を得て、松平候の家紋「梅鉢」を賜り、その使用を許されました。

Img_7411c_20201031192801 Img_7417c_20201031192801  続いて、猪名部神社。「猪名部神社」というと、上げ馬の神事も行われる東員町の猪名部神社を思い浮かべる方もいらっしゃるとは思いますが、こちらも同名の神社。猪名部氏の祖神伊香我色男命を主神として祀り、古くから長尾、日内、川合の三村の氏神と尊崇してきた神社。猪名部氏の祖神伊香我色男命を主神として祀り、古くから長尾、日内、川合の三村の氏神と尊崇してきた古社です。延喜式内社。

Img_7440c_20201031192801  猪名部神社からしばらく行くと、村境に鳥居が立っています。鳥居の傍らにある道標によれば、これは猪名部神社の一の鳥居のようでした。

Img_7462c_20201031192801  さらに進みますと、徳円寺。真宗大谷派。

Img_7486c_20201031192801  その先、員弁川を渡ったところに川合神社。主祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと:大国主命の子、諏訪神社の祭神)。御鎮座年月は不詳。

Img_7533c_20201031192801  野尻橋の手前で春日神社。主祭神は、少名毘古那命(すくなびこなのみこと:農業・酒造・医薬・温泉の神)。勧請年月は不詳。獅子舞があります。桑名の春日神社の分霊を奉祀したという伝承もあるといいます。このあと、鎌田川を渡ります。

Img_7577c  阿下喜の町に戻ってきて、大西神社。主祭神は、建御名方神(たけみながたのかみ)。境内は広く、拝殿のほかに神輿殿があImg_7561c_20201031200401 り、神輿が保管されています。

Img_7568c_20201031200401  大西神社の拝殿前の狛犬。時節柄、マスク着用。前足で子供をあやしている「子取り」になっています。これには、子孫繁栄の意味があるのですが、その子の方もマスクをつけています。狛犬ですから、もう一方の方とは当然、ソーシャルディスタンスを十分にとっています。

Img_7597c_20201031200401  阿下喜駅には、初めに書きましたように、15時少し前に到着。15時1分に西桑名行きの電車があり、ジャストタイム。桑名には15時56分着。¥510。

Img_7613c_20201031200401  今日の歩数。ALKOOでは、22,940歩。17.5㎞となっていますが、これほどは歩いていないと思います。冒頭に書きましたように、やるべき仕事が滞っていますので、たぶん来週になってから本編を書く時間がとれると思います。ということで、超予告編でした。

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2020年10月15日 (木)

さすがに昨日の疲労が残る(苦笑)……九華公園のキンクロは2羽に

Img_3902c_20201015170601  昨日の「勝手に養老鉄道ハイキング」は、さすがに疲れました(微苦笑)。熟睡はしましたが、疲労感を持ち越しています。もう若くはないという事実を再確認するために行ったのかも知れません。しかし、決して「懲りた」ということはありません。「勝手にハイキング」シリーズは続けます。写真は、揖斐川から見た多度山。あのてっぺんまで行ってきたのです。

Img_3944c  さて、今日も、散歩であります。懲りていない証拠(笑)。7時半過ぎにスタート。いつものように、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、寺町と5.6㎞。疲れたので、今日はホドホドにしておこうと思ったものの、九華公園でウロウロしたので、この距離。

Img_3985c  九華公園では、キンクロハジロが2羽になっていました。オス、メス1羽ずつ。二の丸堀にいました。8時過ぎ頃には、2羽とも盛んに身繕いをしていましたが、9時過ぎに見たときは、このように、堀を泳ぎ回っていました。堀端から写真を撮っていたら、寄って来ましたので、去年も来て、エサをもらえることを学習したのかも知れません。

Img_3926c_20201015170601  エゾビタキは今日もいましたが、奥平屋敷跡に、です。パッと見た印象では、先日、野球場の南で見たエゾビタキに比べ、若いImg_3344c ような気がします。奥平屋敷跡には、いつもメジロやカワラヒワなどがいるのですが、今日は、ドバト、ムクドリ、ヒヨドリくらいで、鳥は少なめ。ヒヨドリは少しずつ増えてきています。右の写真のメジロは、鎮国守国神社の境内にて。公園の外周遊歩道の東では、シジュウカラとヤマガラが出て来ました。写真に撮ったものの、枝被りその他で、不可(苦笑)。

Img_3398c_20201015170601  あの柿の木レストラン、ヒヨドリで賑わっていましたが、私が歩いて行くと逃げてしまい、代わりにメジロたちが集Img_3964c_20201015170601 まって来ました。メジロは、側で見ていても、逃げるようなことはありません。右の「チョー証拠写真」は、キッチン寿さんの屋根のテレビアンテナにいたモズのオス。今年は、モズを見たり、見なかったり。

Img_3448c_20201015170601  貝塚公園では、カワラヒワ。あちこち歩き回ったり、四阿で待っていたりしたものの、これだけ。もちろん、ヒヨドリやムクドリはいますが……。

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ところで、川口水門の耐震補強工事の様子。まだ工事は始まっていませんが、準備は進んでいImg_3892c ます。左の写真は、川口水門の西から見た、住吉神社の方向。右は、振り向いて撮った川口水門。囲われて入れないようになっています。

Img_3895c  看板が、このようにズラリ。「テロ対策」というのは、この頃、定番(というと語弊がありますが)のようです。しかし、水門の耐震補強工事現場でテロが起きる可能性は低いような気がしますがねぇ……。

Img_3847c  昨日の余談。まずは、桑名駅。自由通路の東端に「伊勢ノ国ダイニングしちり」という店があるのは、いつぞや書きましたImg_3845c (2020年9月8日:遠隔授業講習会のついでに新しい桑名駅もチェック)。「はまぐり天むす」という表示が気になったので、テイクアウトのサンプルをマジマジと見てきました。はまぐり天むすは¥800、海老天重は¥900となっていました。案外お値打ちかも。さらに桑名では有名な魚城の玉子焼きも売っていました。¥1,100。ここ、案外よいかも知れないと思った次第。

Img_3874c  もう一つ、昨日の余談。伊藤園の「濃いお茶 お~いお茶」です。若い知人のFacebookで知ったのですが、キオスクなど限Img_3878c_20201015173001 定で、現在、「新幹線マスキングテープ」がオマケになっているのです。名づけて「トレインマスキングテープ」。何だか欲しくなって、2種類(2本)ゲットしてきました。ドクターイエローと、N700Sのバージョン。このほか、秋田新幹線E6と、ALFA-Xとがあります。「どうして4種類全部ゲットしてこなかったのか?!」と家族からは詰問されましたが(苦笑)。またいずれ、「勝手にハイキング」を企画して、その時にでも。

Img_3386c_20201015175401  遠隔授業第2回目の出席状況は、夕方現在で、17名。コメントに「遠隔授業で他の学生とコミュニケーションをする機会が少ないので、補足説明は参考になると感じた」というものがあり、ニヤリ。補足説明を書くのは大変ですが、こういうコメントがあると、励まされます。金木犀の香りがあちこちから漂ってきます。

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2020年10月14日 (水)

20201014勝手に養老鉄道ハイキング「多度山に登ろう」

Img_3204c_20201014183701  「思い立ったが吉日」と申します。以前から漠然と考えていたものの、なかなか実行に移せずにいたのですが、つい2~3日Img_3868c 前、「多度山なら、どのコースで登っても、1時間もあれば、頂上に行けますよ」といわれ、その気になってしまいました(爆)。後で良く考えたら、これをおっしゃった方は、キャンプの達人でした(苦笑)。多度山は、我が家の玄関先からもよく見えています。

Img_3207c  朝、養老鉄道播磨駅まで送ってもらい、8時47分の大垣行きに乗車。やって来た電車は、「近鉄ラビットカImg_3216c_20201014183901 ー」の600系。近鉄の時代に導入された車両で、名古屋線や大阪線を走っていたそうです(こちら)。昭和40年代製とか。

Img_3223c_20201014183901  多度駅には、8時58分に到着。¥310。今日は、近鉄ハイキングの「多度山水郷展望コースImg_3226c_20201014183901 のマップを利用して、多度山に登っていくつもりで、拡大コピーした自作マップを持参。9時にスタート。

201014tadoyama  こちらが、今日、多度で歩いたルートマップ。市の観光案内では、「眺望満喫コース」となっています。これを歩いて、多度山の頂上へ。帰りも途中までこれを辿ってきたのですが、途中第1見晴台の下から「のんびりコース」へ。愛宕神社にお参りして、そこからは「健脚コース」を下ってきました。

Img_3229c_20201014183901  多度駅から北に向かいます。多度川を多度橋で渡って、Img_3232c_20201014183901 600mあまり行くと、宇賀神社の一の鳥居があり、そこが多度山に登るコースの入り口の一つになっています。多度橋から見た多度山が右の写真。標高は403m。

Img_3242c  宇賀神社の一の鳥居。向かって右の常夜燈の陰になっていますが、オレンジ色の看板で「入り口 多度山上公園/自然教室・Img_3258c_20201014185401 水郷展望ハイキングコース」と大書されています。その、向かって右の常夜燈の背後に石碑があったのですが、良く読めず、残念。碑表には、名前が刻まれているようでしたので、忠魂碑のようなものかも知れません。碑陰には、「明治39年7月建之」とともに、西田さんという名字の方5名の他、「取持 宮守中・消防組」「肝煎 字総代」とあります。この一の鳥居のところを左折し(西に向かい)、多度山の登山道に入っていきます。ここの交差点でスタートから650m。

Img_3261c_20201014183901  200mほど行くと、宇賀神社があります。元々は、有力者を祀っていたのが、後に農耕神として宇迦之御魂神を祀るようになImg_3267c_20201014185601 ったといわれています。正面にはシイの巨木群があります。主祭神は、宇賀御魂神。相殿神は、大山津見神火之迦具土神、火之夜芸速男神、火之炫毘古神(以上の2神は、火之迦具土神に同じ)、表筒男神、中筒男神、底筒男神(以上の3神は、いわゆる住吉大神)、大己貴命少彦名命

Img_3276c Img_3283c_20201014185601  古くは「天田社」といったといい、天田はあがたの訛ではないかとされています。「県の神」として農耕神を祀り五穀豊熟を祈つた社ではなかったかと推測されるのです。延喜式内社で明治43(1910)年、境内、区内の神々を合祀し、現在の宇賀神社となっています。大正年間に村社より郷社に昇格したのですが、遠く、仁寿元(851)年すでに神階正六位に叙せられています。農事、山と火の安全、舟便、医薬の神として崇められているといいます。

Img_3270c_20201014190701  ちなみに、正面にシイの巨木群があります。拝殿の前にも、ご覧のように巨木が立っています。教育委員会による「シイの巨Img_3290c 樹からなる宇賀神社の森」という説明板もありました。

Img_3296c_20201014191001 Img_3293c_20201014191001  宇賀神社から登山ルートに入ると、そこには「農道竣工の碑」がありました。

Img_3303c  ポケットパークの駐車場の手前に、こんな石碑がありまImg_3322c_20201014191901 す。昭和4年11月2日に神社に畑を寄附したという記念碑でした。こういう畑を寄附した記念碑は、初めて見ました。ここからいよいよ本格的に登りになります。

Img_3402c_20201014192001  途中、お地蔵様。2.5㎞地点にある「中央地蔵」と思いますが、詳細は不明。このあとは、ひたすら登りでしたので、割愛して、一気に、頂上近くまでワープします。

Img_3479c が、一つだけ。パラグライダーが飛び立つ「飛行台(発射台?)」がありました。以前は、良く多度山からパラグライダーが飛んでくるのを見ました。

Img_3486c_20201014192301 Img_3491c  スタートから1時間半、10時半頃、山上公園に到着。このあたりで、約4.6㎞を歩いてきたはず。登り始めと、この近くがキツく、「来なければ良かった」と思わないでもありませんでした(苦笑)。途中、中間あたりは、平坦なところもあり、見晴台や休憩所もあり、休憩を取りつつ来ましたので、比較的楽でした。

Img_3497c_20201014192301  山上公園の広場を見て、いよいよ頂上へ。やっと403m(三角点の正式な高さは、402.7mとなっていました)を登り切れまImg_3513c_20201014192301 した。いや、天気が良くて良かった (^_^) 多度山には一度は登りたいと思っていましたので、念願を叶えられました(微笑)。

Img_3501c_20201014192301  こちらが、三角点や、「三本杉の相場振り」のところ。「三本杉の相場振り」というのは、電信電話がまだ発達していなかった明治の初期、大阪、桑名、名古屋、大垣の間の米相場は、「旗振り通信」で伝えられていました。相場の値段が決まると、高いところから赤・白の大きな旗(旗信号)を振って、その値段を伝えたのです。ここ三本杉にも信号所(中継所)が設けられていて、桑名米穀取引所から送られる旗信号を望遠鏡で確認して、同じ信号を振ると、四日市・名古屋・高須で見て、次々と中継されて各地に伝えられました。

Img_3506c_20201014192301  こちらが、「相場振り」の説明。「新桑名歴史散歩(西羽晃著)」によれば、桑名米穀取引所では、他の市場が閉店した後、夕市が開かれ、とくに注目されたといいます。あの初代諸戸清六氏は、大隈重信と懇意になり、情報を早く仕入れ、政府の公金を低利で借り入れ、米相場で成功しています。

Img_3517c_20201014193901  さて、山頂からの眺めは抜群。左の写真、中央あたりが、木曽三川公園木曽三川公園センター。川は、手Img_3530c_20201014193901 前から揖斐、長良、木曽の木曽三川。そのやや左上に名古屋駅前の高層ビル群がありますが、この写真でははっきりしません。右は、木曽三川の下流方向。中央やや上には、ナガシマスパーランドが見えますし、その手前には国道23号線の揖斐長良大橋。中央の左には、長良川河口堰、JR・近鉄の揖斐長良川鉄橋、東名阪高速道路の鉄橋なども見えます。ただ、この時間、南の方角はやや雲がかかっていましたし、逆光で今ひとつ。

Img_3574c 山頂には、高峯神社があります。神社の境内に三本杉があります。商売繁盛・家内安全・進学祈願の神様だそうです。

Img_3565c また、高峯神社の脇には、千体地蔵菩薩が安置されている御堂がありました。多度大社にお参りするものImg_3567c_20201014195001
は、ここに鎮座する高峯神社と、地蔵大菩薩に額づいて、心身を清めたそうです。高峯神社と千体地蔵菩薩との間には、「多度山古戦場跡戦没者総慰霊之碑」があります。詳細は不明。「壬申の乱に関わる」としているブログもありました(こちら)。山頂には、10時50分まで20分ほど滞在。

Img_3614c 山頂近くには、いくつもの無線中継所が立っています。山上公園の西側あたりです。ここから、来たルートを下っていきます。

Img_3655c 途中、木曽三川公園や名古屋駅方面がさらによく見えるところがありました。同じところかImg_3667c_20201014200101 ら、木曽三川の下流方面も眺めてみました。

Img_3650c_20201014200201 木曽三川公園の手前をよく見ますと、平野のあちこちに池や、曲がりくねった水路が残っているのが見えます。これらは、かつて河川が蛇行していた跡だそうです。「河跡湖(かせきこ)」あるいは「三日月湖」と呼ばれています。河川改修工事で、川の流路を変え、堤防を建設するなど、多くの治水工事をした結果、このような姿になったのです。

Img_3683c_20201014200101  登ってきたときの1.5㎞地点に戻って来ました。ここから「のんびりコース」にルート変更。まっすぐ行くと、多度大社に出Img_3690c_20201014200101 ます。名前の通り、起伏はあるものの、さほどではありません。右の写真は、赤谷川にかかる長尾橋。

Img_3707c_20201014200801  長尾橋を越えてしばらく行くと、約9㎞地点に愛宕神社があります。ここにも立ち寄りたかったのです。社伝によれば、勧請の年月は不詳であものの、古くから鎮座し、元亀年間の兵火に遭い、いったんは衰退したものを、元和2(1616)年、桑名藩主・松平定勝公が再興されたのを、松平定行公が寛永6(1629)年、再び社殿を造営し、毎年正月・5月・9月の3度家臣を遣わして厚く祭祀を厳修せしめたといいます。その後も、松平家によって崇敬され、手厚く庇護されたそうです。『多度大神本縁略記』には多度大社の第四別宮であったことが伝わっています。大正9(1920)年、境内社山神社、厳島社を合祀しています。

Img_3711c  御祭神は、火之夜芸速男神。境内には、合祀された神様を祀っていると思われる社がありましたが、説明板などはありませImg_3716c ん。

Img_3725c_20201014200801  愛宕神社から健脚コースへ降りていきます。道をはさんで、駐車場の脇に下に降りていく階Img_3727c 段がそれ。距離は約1,680メートルで、所要時間約40分と最短コースなのですが、これはとても登れそうにありません。短い間でしたが、下るのにも苦労しました。

Img_3745c  多度の町に降りてきました。予想通り、桔梗屋さんの東にある鳥居のところでした。多度のハイキングで、ここに鳥居があるのが気になっていました。ハイキングコースを調べると、たぶんここからが健脚コースだろうと思っていたのです。「いにしえコース」と石柱が建っています。昔の人たちはここを登ったということでしょうか。桔梗屋さんは、享保元(1716)年の和菓子の店。八壺豆(多度豆)などを売っていたと思います。写真で、左手に行くと多度大社、右手は多度駅方面。

Img_3773c_20201014200801  大黒屋さん。鯉料理のお店。過去に近鉄ハイキングで庭を拝見しています(2020年1月26日:20200126近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 細川酒造の銘酒『上げ馬』と多度大社・追儺祭」へ……祝ご当選!でめでたく「完」)。こちらにも詳しい案内があります。

Img_3792c  汗だくになって、多度駅にゴール。12時15分。3時間15分かかり、10.5㎞を歩いてきました。カッターがImg_3816c_20201014200801 濡れて気持ち悪かったので、着替えたくらい(苦笑)。桑名行きは、12時42分。¥310。電車は、養老鉄道7700系、通称「緑歌舞伎」でした。桑名には、12時58分着。

Img_3871c_20201014203101  いやぁ、よく歩きました。それに、400mの高低差(苦笑)。登りはさすがにキツかったですねぇ。現地で10.5㎞、桑名駅から自宅が1.1㎞ですから、合計11.6㎞ほど。スマホのALKOOでは、21,000歩あまりの記録。途中、私よりも高齢、70歳代と覚しき男性が自転車でスイスイと登っていくのを目撃。次の見晴台で休憩しておられたので、話しかけてみたら、何と電動自転車でした。脊柱管狭窄症を患い、10分も歩くとしびれるので、電動自転車なら登れるかと思って来たとおっしゃっていました。他にも走って登る人が3名。いろいろな方に出会いました。

 余談、こぼれ話はまだありますが、それらはまた明日以降のオマケに。

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2020年10月 9日 (金)

20201003「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」(その3)……阿下喜の町を歩いて「完」

Sohara4  10月3日の「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」、その3です。今回で、ゴールに至ります。その2で7㎞地点まで来ています。六石橋を過ぎて、員弁街道は右に逸れていきます。7.8㎞ほどのところに大西神社の御旅所があります。ここには、献燈籠も。8㎞の少し手前で、阿下喜駅から登ってくる道に行き当たりますが、ここが巡見道(治田からの枝道)との分岐点。員弁街道は右折して北に向かいます。ここには道標もありました。そのすぐ北、詳細なルートマップに星印をつけたところで、員弁街道は左折して西へ。今回の街道歩きはここまで。12時20分頃で、ちょっと迷いましたが、昼食を食べることに。上木(あげき)食堂に行ったものの、大賑わいで待っている人も多数で、断念。すぐ先にあるカドヤ食堂で昼食。阿下喜駅に向かいました。

Img_1899c_20201003194601  阿下喜の町に入る手前に六石橋。旧・員弁街道、過去のルートはこのあたりからもう少し員弁川に近いところを通っていましImg_1904c_20201007191201た。われわれが渡ったのは、西六石橋。すぐ南を北勢線が通っていますが、過去の員弁街道は、右の写真で、北勢線の向こうを通っていたということです。

Img_1916c  六石橋の先、7.4㎞あたりで旧・員弁街道は右に逸れていきます(左の写真)。この先、スタImg_1927c ートから7.8㎞のところに、大西神社御旅所と献燈籠があります。大西神社の八幡祭のとき、神輿がここで小休止します。

Img_1933c_20201003194601  献燈籠は、高さ2.7m。元は常夜燈で、員弁川の高瀬舟の船Img_1937c_20201007191901 着場の目印でした。文久元(1861)年のもの。正面には、「内外両宮/多度両社 献燈」とあります。ちなみに、高瀬舟とは、川船の一種。古くは小型で底が深かった(高背)のですが、のちには大型で舳が高く底の浅いものになりました。近世では多くの川筋で貨物輸送に用いられています。高瀬舟というと、森鴎外の短編小説にあります。弟殺しの罪に問われた喜助が、遠島の途次、高瀬舟の中で、同心羽田庄兵衛に問われるままに、罪を犯した事情を打ち明ける、というストーリーです。

Img_1951c_20201003194601  いよいよ今日のゴールも間近。8㎞の手前で、巡見道との分岐・道標となります。石井書店のすぐ北の三叉路に、道標があります。ここが、巡見道(いなべ市北勢町治田からの枝道)との分岐。道標には、「右 こもの 四日市」「左 くわな」とあります。コンクリートに囲まれ、ちょっとかわいそう。ここで時刻は、12時20分。阿下喜から西桑名に行く電車は、12時39分か13時39分。ちょっと迷ったものの、食事を選択。

Img_1956c_20201003194601  左の写真のように本町通りの坂を登って上木食堂に向かったのですが、上述のように、大賑わいで、待っている人が10Img_1959c 組くらい。残念。その手前に右の写真のように、何やら由緒がありそうな建物もありました。このほか、旧家・稲垣家もあります。ここは、写真を撮り忘れましたが、明治31(1898)年に員弁銀行を設立したといいます。

Img_1968c_20201003194601  結局、上木食堂から少し先、北勢郵便局の北にある大衆食堂「カドヤ食堂」へ。地元の方などでけっこう繁Img_1965c_20201003194601 盛していました。カツ丼(¥700)をチョイス。前期高齢者になったということもあってか(苦笑)、普段、こういうものは食卓には上りません(爆)。美味しくいただけました(微笑)。

Img_1975c_20201003194601  桐林館なども見ようかと思ったものの、食事をしてからしゃべっていて、電車の時刻も近づ  きましたので、阿下喜駅へ。その途中、石井書店の先に「牛馬坂」という坂があるのですが、はっきり確認できず。たぶん左の写真の坂が牛馬坂。

Img_1980c_20201003194601

 13時28分に到着。スタートからは4時間8分。ここまで楚原駅から9㎞歩きました。帰りImg_1994c_20201003194601 も、レトロカラー塗装の電車でした。

Img_1991c  ここ阿下喜駅は、「日本最西端のナローゲージ駅」だそうです。狭軌(1,067mm)より狭い線路幅は特殊狭軌、またはナローゲージといわれます。現在、日本で、通年に旅客営業をしているナローゲージは、ここ北勢線の他、四日市あすなろう鉄道の内部線と八王子線のみ。この3路線では、阿下喜駅がもっとも西にあるということ(こちら)。

Img_1997c  阿下喜駅の東には、軽便鉄道博物館があります。第1・3日曜のみ会館(ただし、現在、コロナウィルスの関係で休館が続いています)。モニ226が屋外展示されています。

Img_2010c_20201007194201  13時39分の西桑名行きに乗車。西桑名駅には、14時26分に到着。¥510。途中、めがね橋では、撮り鉄の方が数人、写真を撮っているのが見えました。

Img_2047c_20201003200301  この日のスマホ・アプリ・ALKOOのデータ。20,628歩でした。久しぶりによく歩いたという感じ。

Ageki0  「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」は、これにて「完」です。旧・員弁街道は、この先、いなべ市藤原町山田まで続きます(みえの歴史街道「濃州道(員弁街道)」)。まだ8㎞あまりあるのです。しかし、阿下喜からいなべ市藤原町山田まで歩くと、帰りに困ってしまうのです。最も近い駅は、三岐鉄道三岐線の西藤原駅。そこまで歩くとなると、約3.2㎞。いっそ、いなべ市藤原町山田までタクシーで行き、阿下喜駅に歩いてくることにしようかと思案中。

Img_1650c_20201007200501  余談。新しい桑名駅から西桑名駅の間に、桑名駅東口駅前広場の整備予想図が2種類、掲げられていました。サンファーレのImg_2012c 方から、回廊が続き、東口にもエスカレーターが設置される構想になっていました。桑栄メイトは立て替えられて、新しいホテルとして描かれています。駅前というのは、賑わいが必要と思いますが、さて実際にはどうなるのでしょう?

Img_2016c_20201007200901  ついでに旧桑名駅あたりも見てきました。左の写真は、閉館した桑栄メイトと、向かって右はサンファーレ。右の写真は、桑栄メイトの南にある階段。階段を上がった先に、旧・桑名駅東口がありますが、すでに登れないようになっImg_2017c_20201007200901 ています。

Img_2020c_20201007200901  桑栄メイトの北側の細い通り。桑名駅まで迎えに来てもらうとき、左の写真あたりにクルマ  を止めて待っていました。左の写真で右端に桑栄メイトへの入り口が写っています。ここを入ってすぐ右手にカトウ医院さんがありましたが、入れないようになっていました。

Img_2034c  旧・桑名駅東口(左の写真)。ここも入れなくなっていました。この階段のすぐ東には、調 Img_2025c 剤薬局(小林薬局さん)がありました。本社機能は残っているようですが、薬局そのものは閉店。

Img_2031c_20201007200901  東口には、名鉄タクシーの営業所もありましたが、こちらImg_2037c_20201007200901 も閉鎖。旧・桑名駅東口の北東には、桑名グリーンホテルがあります。その角に桑名市物産観光案内所が移転してきていました。ここはもともと「新之助貝新」があったところ。今は、たぶん人通りが少なく、新しい桑名駅からは来にくいところです。せめてサンファーレの中に移転すればよかったのに、と思います。

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2020年10月 8日 (木)

20201003「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」(その2)……寝覚めの橋、大聖不動、文治の墓、久保院、麻績塚古墳、戦没者紀念碑を経て、阿下喜の町に近づく

Sohara1 10月3日の「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」、その2です。その1では、楚原駅、楚原神社、天白神社、真養寺から瑞龍院観音堂までやって来ました。寄り道が多く、スタートからは、まだ2㎞ほどです。詳細なコースマップもまだその1の範囲。瑞龍院観音堂は、国道421号線の笠田新田のすぐ北にあります。

Img_1780c  観音堂を過ぎたあたり。昔ながらの街道という雰囲気がたっぷりのところを下っていきます。同行のK氏、MImg_1782c_20201007072501 氏とも、「これで間違いないのか」と不安そう。確かに(微笑)。左の写真の先は、右のような写真のところを下っていくのです。

Img_1793c_20201007072901  この先で、寝覚めの橋。スタートから2.2㎞ほど。明智川にかかっていますが、かつては目も覚めるほImg_1784c_20201003190801 ど立派な朱塗りの橋だったそうです。左の写真の中央に写っているのですが、明らかに失敗写真。確かに歩いたという証拠としてご覧ください(苦笑)。その手前右に、石碑。何となくではありますが、「寝覚めの橋」と彫られているような気がします。「祢?免乃橋」とあると思うのですが、くずし字は読みたいと思えど、読めず。陰には「二井文?左衛門」とあるような感じ。これまたアヤシい。

Sohara2  寝覚めの橋を過ぎると、詳細なルートマップもやっとその2になります。「いなべ警察東」の交差点の北側を通って行きますが、ここで旧・員弁街道は大きく湾曲しています。この理由は定かではありません。文治の墓をみて、大聖不動を経て、いったん県道5号線にでます。上笠田の信号から、左に、細い道で逸れていきます。民家に入って行くような道でちょっと心配になります。3㎞を過ぎて、ちょっとだけコースミス。南(左)に逸れてしまいましたが、すぐに気づいて戻り、事なきを得ます。山田川にかかる山田橋を渡り、昭和電線ケーブルシステムの方へ坂道を上り、久保院、麻績塚古墳、戦没者紀念碑に立ち寄ります。

Img_1807c_20201003191701  寝覚めの橋を渡った先、街道がカーブしているところに「文治の墓」。寛政11(1799)年のもの。宇野村と笠田新田の水路Img_1810c の争いで亡くなった農民・文治の墓。鍬・鎌・竹槍等を手にした百姓の喧嘩で、宇野村の文治(35 歳)が重傷を負い、戸板に乗せられて村へ引き揚げる途中、明智川を渡った西側まで来てとうとう絶命するという悲惨な事件が起きた、その文治が絶命したといわれる地に、ため池を望むように墓が建てられたといいます(こちら)。上掲のルートマップ2の右上にわずかに見えているのが、笠田大溜。その手前にも、荒田溜、宇野溜があります。神明神社とあるのは、笠田新田の神明神社。文治の墓、古いものの向かって左には、新しい墓。この先も、本当に街道か?」と思うようなところを通って、大聖不動に出ます。

Img_1816c_20201003192501  大聖不動。かつては、藤の花が美しく、「藤の棚不動」と呼ばれたそうです。しかし、周りをざっと見たとImg_1819c_20201007075701 ころでは、藤らしきものは見当たりませんでした。ちなみに、不動明王は、大日如来の命を受けて魔軍を撃退し、災害悪毒を除き、煩悩を断ち切り、行者を守り、諸願を満足させます。右手に利剣、左手に縄を持ち、岩上に座して火炎に包まれた姿で、怒りの形相に表すといいます。この「大聖不動の前に石灯籠がある」とみえの歴史街道「濃州道(員弁街道)」のコースマップにあったのですが、左の写真にチラッと写っているだけで、きちんとは見てきませんでした。大聖不動で、2.7㎞。

Img_1813c_20201007080201  大聖不動の手前で県道5号線に出て、県道を300mほど歩きます。上笠田の信号交差点を過ぎて、左手に逸れImg_1828c て行きます。

Img_1831c_20201003192801 Img_1834c_20201003192801  民家の庭先に入っていきそうな道を恐る恐る進んだ先には、写真のように、木々が生い茂った中を通る道が見えてきます。またもや、「こんなところが街道か?」「間違いないのか?」と同行の二人に聞かれます。何度地図を見ても、間違いはありません。その先に「上笠田 北稲荷」。地図にもなく、ネット情報もありませんが、お参り。

Img_1839c  さらに行くと、自動車屋さん(笠田自動車)の工場。街道沿いの敷地には、古いFordのクルマが置いてありました。古き良きImg_1842c_20201007080801 時代のアメ車という感じ。ナンバーもついていて、走れるようでした。オーディオというか、ラジオも、何とも懐かしいスタイル。3人とも、あれこれ眺めてきました。

Img_1852c_20201003193201  このあと、いったんコースミス。行った先がグルッと左に回って、東を向いた道になりましImg_1857c_20201003193201 たので、ミスに気づき、すぐに戻って、結果オーライ。その後も木々の間を下っていきます。下った先で山田川に行き当たります。山田橋を渡っていなべ市北勢町麻生田に入っていきます。ここからは、一昨年、あげきのお雛さんを見るのに歩いたところ(2018年2月27日:近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(予告編)……マップ上9kmなのに、12.4kmも歩いたお話(笑))。

Img_1873c  その先、4㎞を過ぎたところで、久保院・麻績塚古墳、戦没者紀念碑に立ち寄ります。10時50分頃。ここも、上記のリンクにある近鉄ハイキングで訪ねています。久保(くぼ)院は、笠田村和波九十郎氏の二男、久保(ひさやす)氏(明治12(1879)年~明治29(1896)年9月没・当時18歳)の追善供養のため、私有地に寺院建立と霊場を作る事を発願し、近隣、同志に呼びかけ篤志浄財(郡内14大字区、個人133名)により明治31(1898)年9月に完成しました。「麻績塚(おみづか)古墳」は、4世紀ごろつくられたと伝わる、大小2つの古墳からなっています。埋葬された人物の名をとって、一般に「麻績塚」と呼ばれます。墓の主の名は、伝承によれば「神麻績連」。天物知命(あめのものしりのみこと)の后、また、桑田玖賀(クワタノクガ)の姫ともいわれていますが、その名の通り、麻の栽培・紡織といった生産に深い関係を持っていたと思われます。久保院には、四国八十八ヶ所の土をもらい受けて、新四国八十八ヶ所霊場も設けられています。詳細は、2018年3月3日の記事(近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(その3)……鈴鹿山脈を眺めながら、久保院、麻績塚古墳・久保院八十八ヶ所道など)をご覧ください。

Img_1868c  戦没者祈念碑は、「陸軍大将桂太郎謹書」と刻まれています。桂太郎は、明治時代の軍人、政治家(弘化4(1848)~大正2(1913)年)。明治34(1901)年には、総理大臣も務めた人物です。この紀念碑のところで休憩。休んでいたら、地域の方がいらっしゃいました。交代で掃除をしておられるそうで、冗談半分で「掃除に来てもらったのかと思った」といわれ、苦笑。

Img_1879c_20201003194201  さて、久保院・麻績塚古墳、戦没者紀念碑を出ると、しばらく立ち寄るところはありません。ひたすら歩きImg_1886c_20201003194201 ます。しばらくは上り坂が続くのですが、遠くに阿下喜の町や、藤原岳、太平洋セメントの工場が見えてきます。スタートから6.3㎞あたりで、再び、旧・員弁街道に入ります。6.7㎞付近から、街道は、三岐鉄道北勢線の線路と並行します。

Sohara3  詳細なルートマップは、その3へ。赤い星印をつけたところから、旧・員弁街道です。実は、その前に、神護山萬笑院(しんごさんばんしょういん)に立ち寄ろうと思ったのですが、昭和電線ケーブルシステムの工場を過ぎたところで左折しなければならなかったのを通り過ぎ、途中で尋ねたら要領を得ない答え。やむなく県道5号線の麻生田交差点南で左折して行こうと思ったものの、遠回りになることに気づき、断念。ちなみに、萬笑院は、臨済宗妙心寺派。御本尊は阿弥陀如来で、恵心僧都の作と伝わっています。は14世紀に龍象山萬松院と称え、天台宗の道場であつたと伝わっています。

Img_1895c  スタートから7㎞あたりで、「北勢町阿下喜」という表示板があります。天気がよければ、藤原岳もよく見えて、気持ちの良い景色が広がっていたはず。その2は、ここまで。その3では、阿下喜の町について。

 

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2020年10月 7日 (水)

「桑名城惣構ツアー」とバードウォッチング少々……キンクロハジロ飛来、サメビタキ(?)も

Img_2596c_20201007151701  今日は、かねてからのご依頼で、「桑名城惣構ツアー」に行ってきましたというか、俄(インチキ?)ツアーコンダクターを務Kuwanasougamae0_20201007151701 めてきました。ずいぶん以前のブログの記事について、ご質問をいただいてメールでやりとりをしたSさんから、「桑名城の惣構(そうがまえ:城や砦の外郭、またはその囲まれた内部をいいます。今回は、惣構堀です)を案内して欲しい」というご依頼を受け、今日のツアーに至りました。柿安コミュニティパーク入り口にある本多忠勝銅像前にて待ち合わせ。Sさんご一行4名と、歩いてきました。桑名城惣構については、8月に実地調査を何回かして、右の画像のように確認。住吉神社のところから、住吉入江、寺町堀、吉津屋堀から吉津屋見附西の緑地帯、伝馬公園の南、七曲がり見附跡、日進小学校南、市営東新町住宅から桑名税務署付近、柳原の南から赤須賀へと約3.4㎞。

Img_2601c_20201007151701  今日は、昼食をはまぐりプラザの食堂はまかぜで11時半に予約ということで、まずは、本多忠勝銅像から九華公園(桑名城址)、中橋から歴史を語る公園あたりの桑名城城壁、春日神社の青銅鳥居、志るべ石、貝塚公園を経てはまぐりプラザへ。ここで昼食の後、赤須賀から惣構を辿って歩いて来ました。ほぼ2枚目の画像通りに歩いたのですが、吉津屋見附跡からは東海道を京町見附跡(京町公園)へ。一部寺町商店街を通って、桑名別院本統寺で、芭蕉の句碑を見て、本多忠勝の菩提寺である浄土寺へ。この頃から雨が降り始め、ちょっと残念。その後は、拙宅前を通りましたので、私はここでお役御免としていただきました。Sさんご一行は、六華苑をご覧になって、揖斐川沿いを歩いて、七里の渡し跡、蟠龍櫓から本多忠勝銅像に戻られたはず。「ブラタモリ」みたいでおもしろいといっていただいたので、素人ツアコンとしては一安心。

Dsc_0003c  昼食は、ご馳走になってしまいました。食堂はまかぜで、焼きはまぐり定食(¥2,000)。焼Dsc_0004c き蛤4個の他、シジミの味噌汁、海苔の風味のはまぐり磯部揚げ、はまぐりフライなど、あさりの時雨の炊き込みご飯。デザートもついていました。

Dsc_0005c  焼き蛤は、その場でコンロで焼いて食べます。アルミホイルにつつまれた生の蛤。焼けると殻が開いてきます。生の蛤ですので、塩分が利いていて、プルプルで美味しい。満腹(微笑)。別れ際には、我が家の大好物であるお土産までいただいてしまい、恐縮至極。楽しんで帰っていただけたらなら幸いです。

Img_2580c_20201007151701  ところで、待ち合わせは9時半過ぎでした。時間に余裕がありましたので、少し早めに出て、九華公園を半周し、バードウォッチング(微笑)。良いことがありました。二の丸堀にキンクロハジロが1羽、やって来ていました。今年のカモ飛来第1号です。去年は、10月4日にハシビロガモのオスが1羽(2019年10月4日:九華公園に遠来の客、ハシビロガモ……上之輪新田偵察の結果はいかに?)、キンクロハジロは10月7日に来ています(2019年10月 7日 :九華公園にキンクロハジロ飛来、揖斐川沿いでノビタキか?……午後は市民大学講座へ【付記:コメントの反映遅延について】)。ほぼ同じ時期にやって来ます。

Img_2592c_20201007151701  他には、こちら。ちょっと判別が難しいのですが、胸のあたりに縦の斑紋がはっきりとは見えませんから、エゾビタキではなさそう。灰褐色の、不明瞭な斑紋があるので、サメビタキかという気がしますが、斜め後ろからしか見えませんでしたので、自信はありません。サメビタキなら、鳥図鑑+1になるのですが……。

Img_2552c_20201007151701  アオサギさんは、2羽。左の写真は、九華橋近くの高いところにいつも来ているアオサギ。右は、鎮国守国神Img_2549c_20201007151701 社の社務所裏に近い木にいたアオサギ。なお、今日は、トータルで9.5㎞を歩いてきました。よく歩きました。

Img_2526c_20201007151701 Img_2522c  今日は、時間割上、後期の遠隔授業第1回の日。16時現在で、受講登録者は、51名。けっこう多い(去年の対面授業に近い人数)。出席確認は、13名ほど。コメントを見ても、まあまあ順調にスタートしたかと思います。左の写真は、今朝の南東の空(6時20分過ぎ)。アサガオ、さすがにもうつぼみは出て来ていません。

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20201003「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」(その1)……楚原駅から瑞龍院観音堂まで

Img_1675c_20201003172701  10月3日に行ってきた「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」の本編その1です。雨で予201003sohara 定を延ばさざるを得なかったり、猛暑の時期は避け、涼しくなるのを待っていたりしていて、前回からほぼ半年ぶり(2020年4月11日:20200411「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(東員~楚原)」(予告編)【参考資料を追加しました(4/12)】)になっていました。今回は、楚原駅から阿下喜駅までを歩きました。例の3人組(笑:決してアヤシい3人組ではありません、同級生K氏、畏友M氏と私)で行っております。冒頭の写真は、鉄道むすめ、三岐鉄道北勢線のキャラクター「楚原れんげ」ちゃん。楚原駅で撮影。ちなみに「楚原」は「そはら」、「阿下喜」は「あげき」と読みます。

Img_1660c_20201004190601  事前の打ち合わせにより、三岐鉄道北勢線西桑名駅を8時23分に出る阿下喜行きに乗車します。この日は、レトImg_1665c_20201004190601 ロカラー塗装の電車が運行されていました。これは、北勢線の開業100周年(2014年)を記念し、同線で運用している車両が三重交通時代の塗装に変更されたものです。当初は、車両の一部だけでしたが、その後4両ともレトロカラー塗装になっています。北勢線は大正3(1914)年4、現在の西桑名(三重県桑名市)~楚原(いなべ市)間が北勢鉄道(後に北勢電気鉄道に改称)として開業、昭和6(1931)年までに西桑名~阿下喜間が全通しました。戦時中の昭和19(1944)年、北勢線は三重県内の他の鉄道・バス会社との合併により三重交通の路線になったのです。

Img_1670c_20201004190601  西桑名から楚原までは、¥430。土曜日で、下り電車ですので、空いています。4両編成でしたが、多くても1両に4~5名の客。同級生K氏は、途中、星川駅から乗車。畏友M氏は、楚原駅へクルマで直行しますので、駅で待ち合わせ。北勢線は、いわゆるナローゲージの電車。

Img_1678c_20201003172701  楚原駅には、9時8分に到着。45分の乗車でしたが、のんびりとした小旅行というイメージ。最高速度45km/hで、ガタンゴトンと走ります。ここでM氏と合流。楚原駅を9時10分にスタート。

Sohara1  こちらが、この日の詳しいルートマップその1。楚原駅の北東に「ここから員弁街道」と書いてありますが、ここまでが、前回歩いたところ(ただし、その後ヨシヅヤ出食事をし、ねじり橋とめがね橋を見に行っています)。いったん、前回の終点に向かって進み、楚原神社に立ち寄り。楚原神社を出たところで、M氏が、踏切の向こうに天白神社があるというので、行ってみることにしました。その南に立派な寺が見えましたので、さらに寄り道。八英山真養寺。ここから元のルートに戻り、1㎞あたりで、里程標と石碑2基。員弁街道に入って北西に進み、国道421号線を越えて瑞龍院観音堂と、寝覚めの橋へ。

Img_1693c_20201003173501  楚原神社。旧社格は、村社。天文7(1583)年、八幡社(品陀和気命)を勧請し、氏神として尊崇されていました。しかし、永禄12(1569)年、兵火にかかり神殿を焼失し廃退しますが、のちに復興。明治40(1907)年、村内の小祠と御薗にあった御薗神社などを合祀して楚原神社と改称しています。

7776c598  主祭神は、品陀和気命(応神天皇)。相殿神は、天照大御神須佐之男命大山祇神火産霊神宇迦之御魂神大国主命。相殿神が、6柱いらっしゃいますが、これは、上記のように明治40(1907)年に御薗神社をImg_1684c_20201004194401 始めとする7社を合祀したため。

Img_1686c_20201003173901  境内には、忠魂碑が1基あります。昭和32(1957)年4月の建之。日陰には、「殉国英霊」として、昭和12(1937)年の日中戦争から第二次世界大戦までに戦没された23柱の方々のお名前が刻まれていました。

Img_1696c  続いて、楚原駅西の踏切を渡って、南西へ。天白神社に向かいます。このあたりは、M氏の父上の故郷だそうで、よくご存じ。神社のところだけ、こんもりと杜になっています。なかなかよい感じなのが、遠くからでも分かります。

Img_1699c_20201004195101  神社検索(三重)では、楚原御厨天白神社となっており、これが正式な名前のようです。鎮守の森がなかなかよい感じの神Img_1702c_20201003174101 社。主祭神は、天照大神。御厨ですので、伊勢神宮の神領地に関わりがあると考えられます。元暦年中(1184~85年)に村人がここに神社を再建して五穀の豊穣を祈ったといわれています。

Img_1711c  天白神社の南に、真宗大谷派の八英山真養寺(しんようじ)があります。楼門は平成15Img_1715c_20201003175501 (2003)年に再建されたといいます。ここに立派な虎の彫刻がありました。気になって調べたら、左甚五郎の一番弟子の手によるものだそうです(ただし、ここに飾られているのはレプリカ)(こちらを参照)。本物は、本堂に保管されています。

Img_1717c_20201003175501  天正2(1574)年に近江・番場(現滋賀県米原市)の時宗の蓮華寺の僧・麟龍がこの地に隠居して建立したのが始まり。元和7(1621)年、3代・蟠龍の時に真宗に改宗。寛永13~16(1636~39)年、大泉新田開発に伴う笠田溜池築造工事の頃、桑名藩主・松平定綱が溜池で舟遊びをした時に当寺を定宿にし、門信徒の工事の功績を称え星梅鉢の紋を賜ったといいます。天和2(1682)年、東本願寺常如上人から真養寺の寺号を賜っています。

Img_1746c_20201007044501  真養寺の北西に、楚原放光菩薩地蔵堂がありました。「放光地蔵」というのは、珍しいと思い、調べました。「放光」はもちろん光を放つことですが、とくに「仏菩薩が身体や白毫(びゃくごう)などから光をはなつこと」をいいます。六地蔵というものがあります。六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のそれぞれにあって、衆生(しゅじょう)の苦悩を救済する地蔵菩薩です。このうち、人間道を化すのが、放光地蔵とされています。

Img_1720c_20201003180401  真養寺から楚原駅の方に戻り、すでに1㎞近くを歩きましたが、公民館の庭に里程標が建っています。碑表には「桑名郡桑名Img_1722c_20201004201701 町字京町エ四里壱町十六間/津市元標エ十四里貳拾五町拾九間/大泉原村大字楚原」とあります。さらに、右側には「三重郡富田村大字東富田エ四里拾三町貳十四間/桑名郡七取村大字香取エ貳里三拾壱町四拾壱間」、碑陰には「明治四十五年三月 三重縣」、左側には「員弁郡阿下喜村大字阿下喜壱里三拾壱町四拾壱間」とあります。

Img_1725c_20201003180401  その先、市営住宅の敷地には、石碑が2基あります。向かって右の大きい石碑には「如禾必(以か?)稲/直胤筆」と刻まれています。「禾」は「のぎ」、イネ科植物の先端にある毛、穀物、いねなどの意味があります。その傍らにある、小さい石碑には、「死亡會員(?)霊位」とあり、碑陰には「昭和十一年一月?九日追?……」とありました。前回の疑問が解消されないままですが、ネットでの検索では情報が見つけられませんでした。

Img_1733c_20201003181601  員弁街道に入って北西に向かって進みます。道幅も、昔のままのような感じがします。旧街道は、生活道路になっていることImg_1740c_20201003181601 が多いのですが、楚原から笠田新田あたりは、クルマの通行もあまりありません。右の写真は、国道421号線を斜めに渡った先の辺りの様子。ヒガンバナも咲いていました。ここまで来ると、道は細く、田舎道という印象。

Img_1768c_20201003182001  スタートから2㎞ほど、笠田新田の信号の北側に瑞龍院観音堂があります。真宗大谷派。この観音堂には、真中に聖観音菩Img_1746c_20201007044501 薩像が、また、左側には抜雲(ばつうん)和尚が自分の像を彫ったもの(木像)が安置されているといいます。抜雲和尚の像は、旱魃のときこの像を背負って雨乞いをし、ご利益を得たそうです。抜雲和尚は、永明山長楽寺(いなべ市藤原町篠立)の第7代。その昔、三谷川の最源流、拘留孫岳(くるそんだけ、標高772m)中腹に大蛇が住んでいたそうです。抜雲和尚がここにある大杉の根元に石の唐戸を造り、念力をもってこの大蛇を小さなトカゲに変えて閉じ込めたのですが、篠立(いなべ市藤原町立田地区にある地名)が大日照りで困った時はこの唐戸に祈願すると雨を降らしてくれるようになったといい(「龍王さん」と呼ばれています)、抜雲和尚には、雨乞いに御利益があるとされたと思われます。観音堂の前には笠田新田延命地蔵堂。この地蔵堂は、昭和7(1932)年3月に、観音堂の和賛講中の11名の方が発起人となって建立したもので、堂は赤溜の旧観音堂を改築し、本尊の地蔵菩薩像は桑名で購入したそうです(こちら)。この延命地蔵の後ろに多湖健一の句碑があるというのですが(こちら)、後から調べて分かったことで、この時は見逃しました。

 ちなみに地蔵堂の横にあったのが左の写真Img_1755c_20201007045201 。文字が読めず、ネットで調べても分からず(苦笑)。右の写真は、地蔵堂の裏Img_1762c_20201007045201 の方に建っていました。まだ新しく、「銀杏の木青葉は黄金の色と散る/悉皆金色弥陀の本願念仏」とあります。短歌のような、違うような。

Img_1765c_20201007045201  さらには、左の写真のような石碑も。これには、「母繁八十歳の碑」とありました。けっこImg_1760c う古いもの。そして、地蔵堂の脇には、右の写真のように、「村社神明社」という標柱があります。陰には、大正8(1919)年9月に寄進されたと彫られていました。笠田新田の神明社は、現在は、笠田大溜のところにあります(ここから北へ1.1㎞ほどのところ)。昨年9月23日に「いなべ市員弁町「笠田新田」と「大泉新田」の両神明社合同『弁天祭』が開かれた」という記事がありました(こちら)。このとき、行列がこの観音堂にいったん入ってから、笠田新田の神明社に向かったとあります。観音堂と神明社に何か関わりがあると考えられますが、今のところ、これ以上は不明。

 その1はここまで。畏友M氏からも、「記事が長い」といわれております(苦笑)。楚原駅あたりで、いきなり寄り道をしていましたので、まだ2㎞ほどしか歩いていません。ハイキングはさらに西に進みます。

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2020年10月 3日 (土)

20201003「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」(予告編)

 雨で予定が狂ったり、猛暑を避け涼しくなるのを待っていたりしていて、前回からずいぶん日にちが経ってしまいましたが(2020年4月11日:20200411「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(東員~楚原)」(予告編)【参考資料を追加しました(4/12)】)、「勝手にハイキング」シリーズの「員弁街道ハイキング」に行ってきました。ほぼ半年ぶりです(笑)。今回は、楚原駅から阿下喜駅までを歩きました。今日のところは、予告編。例の3人組で行っております(同級生K氏、畏友M氏と私)。

Img_1678c_20201003172701 Img_1675c_20201003172701  楚原駅に集合。私は、三岐鉄道北勢線西桑名駅を8時23分に出る阿下喜行きに乗車。途中からK氏も乗り込み、楚原には9時8分着。西桑名からは、¥430。M氏は楚原駅へクルマで直行。

201003sohara  こちらが本日歩いたルート。楚原駅あたりで、いきなり寄り道(楚原神社、天白神社、真養寺)をし、1㎞あまり歩いて、員弁街道(濃州道)に出て、左折し(ここまでが前回歩いたルート)、北上。瑞龍院観音堂、寝覚めの橋、文治の墓から大聖不動へ。山田橋あたりまでは員弁街道を辿っていきます。旧・員弁街道はここから現在の員弁街道(県道5号線)の方へ回りますので、その1本西の道を行きます。久保院・麻績塚古墳・戦没者紀念碑に立ち寄り、さらに萬笑院にも立ち寄ろうと思ったものの、ちょっと行き過ぎてしまい、断念。麻生田から再び、旧・員弁街道に入り、いなべ市北勢町阿下喜へ。阿下喜では、西六石橋を渡って、大西神社の御旅所、献燈籠を見て、巡見道(枝道)との分岐点まで。ここには道標があります。昼食を摂るのに、ちょっと歩いて「カドヤ食堂」にて。阿下喜駅まで下って、合計約9㎞。

 楚原神社。楚原駅の目の前にあります。Img_1693c_20201003173501主祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと)。天文7(1538)年、八幡社を勧請し氏Img_1686c_20201003173901  神として尊崇していたのが、始まりと伝わっています。境内には昭和32年に建立された忠魂碑があります。昭和12(1937)年の日中戦争から、第二次大戦までの戦没者の方が祀られています。

Img_1696c  M氏が、線路のすぐ向こうに天白神社があるというので、そちらにも立ち寄ることにしました。M氏の父上Img_1702c_20201003174101 の故郷だそうで、よくご存じ。楚原御厨天白神社が正式な名前のようです。鎮守の森がなかなかよい感じの神社。主祭神は、天照大神

Img_1711c  その近くに真宗大谷派の八英山真養寺。楼門は平成15Img_1715c_20201003175501 (2003)年に再建されたといいます。ここに立派な虎の彫刻がありました。気になって調べたら、左甚五郎の一番弟子の手によるものだそうです(ただし、ここに飾られているのはレプリカ)(こちらを参照)。

Img_1717c_20201003175501  天正2(1574)年に近江・番場(現滋賀県米原市)の時宗の蓮華寺の僧・麟龍がこの地に隠居して建立したのが始まり。元和7(1621)年、3代・蟠龍の時に真宗に改宗。寛永13~16(1636~39)年、大泉新田開発に伴う笠田溜池築造工事の頃、桑名藩主・松平定綱が溜池で舟遊びをした時に当寺を定宿にし、門信徒の工事の功績を称え星梅鉢の紋を賜ったといいます。天和2(1682)年、東本願寺常如上人から真養寺の寺号を賜っています。

Img_1720c_20201003180401  楚原駅方面に戻り、員弁街道に向かいますが、その手前で、まず里程標。4月11日にも見ています(2020年4月19日:Img_1725c_20201003180401 20200411「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(東員~楚原)」(その3)……石仏墓地、ヨシヅヤのスガキヤで昼食、ねじり橋・めがね橋を見て、員弁西小学校で句碑を確認して楚原駅にゴール(完))。碑表には「桑名郡桑名町字京町エ四里壱町十六間/津市元標エ十四里貳拾五町拾九間/大泉原村大字楚原」とあります。さらにその先、市営住宅のところには、石碑が2基。向かって右の大きい石碑には「如禾必(以か?)稲/直胤筆」と刻まれています。「禾」は、「のぎ」。イネ科植物の先端にある毛、穀物、いねなどの意味があります。その傍らにある、小さい石碑には「死亡會員霊位」とあり、碑陰には「昭和十一年……」とありました。

Img_1733c_20201003181601  1㎞を過ぎて、員弁街道に入ります。かなり細い道が続きます。国道421号線をいなべ警察署東交差点の手前Img_1740c_20201003181601 (東)で渡り、さらに細い道を進んでいきます。

Img_1768c_20201003182001  2㎞を過ぎたところに瑞龍院観音堂。この観音堂には、真中に聖観音菩Img_1746c_20201003182101 薩像が、また、左側に安置されているのは抜雲(ばつうん)和尚が自分の像を彫ったもの(木像)が安置されているといいます。抜雲和尚の像は、旱魃のときこの像を背負って雨乞いをし、ご利益を得たそうです。観音堂の前には笠田新田延命地蔵。ちなみに、抜雲和尚は、永明山長楽寺(いなべ市藤原町篠立)の第7代。その昔、三谷川の最源流、拘留孫岳中腹に大蛇が住んでいたそうです。抜雲和尚がここにある大杉の根元に石の唐戸を造り、念力をもってこの大蛇を小さなトカゲに変えて閉じ込めたのですが、篠立が大日照りで困った時はこの唐戸に祈願すると雨を降らしてくれるようになったといい(「龍王さん」と呼ばれています)、抜雲和尚には、雨乞いに御利益があるとされたと思われます。

Img_1780c  観音堂を過ぎたあたり。昔ながらの街道という雰囲気がたっぷりのところを下っていきます。同行のK氏、M氏とも、これで間違いないのかと不安そう。Img_1784c_20201003190801 この先で、寝覚めの橋。明智川にかかっていますが、かつては目も覚めるほど立派な朱塗りの橋だったそうです。その手前に、石碑。何となくではありますが、「寝覚めの橋」と彫られているような気がします。「祢?免乃橋」かと思うのですが、くずし字は読みたいと思えど、読めず。陰には「二井文?左衛門」とあるような感じ。これまたアヤシい。

Img_1807c_20201003191701  寝覚めの橋を渡った先、街道がカーブしているところに「文治の墓」。寛政11(1799)年のもの。宇野村とImg_1810c 笠田新田の水路の争いで亡くなった農民・文治の墓。鍬・鎌・竹槍等を手にした百姓の喧嘩で、宇野村の文治(35 歳)が重傷を負い、戸板に乗せられて村へ引き揚げる途中、明智川を渡った西側まで来てとうとう絶命するという悲惨な事件が起きた、その文治が絶命したといわれる地に、ため池を望むように墓が建てられたといいます(こちら)。向かって左には、新しい墓。ちなみに、ここでなぜカーブしているのか、不明。ルートマップでは、「員弁町上笠田」とあるところ。

Img_1816c_20201003192501  県道5号線に出たところに大聖不動明王堂。いなべ警察署前になります。昔は藤の花が咲き乱れ「藤の棚不動」と呼ばれたといいます。

Img_1831c_20201003192801  このまま少し、県道5号線を進み、旧・員弁街道は、上笠田の交差点から左Img_1834c_20201003192801 に逸れていきます。またもや、こんなところを進むのかという道へ。このすぐ先の北側(右手)に、上笠田北稲荷。Googleで検索しても出て来ません。

Img_1852c_20201003193201  途中、少しばかりコースミス。すぐに気づいて、旧・員弁街道に戻りました。この先で、山田川にかかる山Img_1857c_20201003193201 田橋を渡りますが、このあたりから本来の旧・員弁街道は、右手(北東)に行きます。山田橋は、昭和25(1950)年に竣工した橋。ここから、麻生田。昭和電線ホールディングス方面へ直進。登り坂。2年前の2月に近鉄ハイキングで歩いたところ(2018年2月27日:近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(予告編)……マップ上9kmなのに、12.4kmも歩いたお話(笑))。

Img_1868c Img_1873c  この先、4㎞を過ぎたところで、久保院・麻績塚古墳、戦没者紀念碑に立ち寄り、しばし休憩。ここも、上記のリンクにある近鉄ハイキングで訪ねています。久保(くぼ)院は、笠田村和波九十郎氏の二男、久保(ひさやす)氏(明治12(1879)年~明治29(1896)年9月没・当時18歳)の追善供養のため、私有地に寺院建立と霊場を作る事を発願し、近隣、同志に呼びかけ篤志浄財(郡内14大字区、個人133名)により明治31(1898)年9月に完成しました。「麻績塚(おみづか)古墳」は、4世紀ごろつくられたと伝わる、大小2つの古墳からなっています。埋葬された人物の名をとって、一般に「麻績塚」と呼ばれます。墓の主の名は、伝承によれば「神麻績連」。天物知命(あめのものしりのみこと)の后、また、桑田玖賀(クワタノクガ)の姫ともいわれていますが、その名の通り、麻の栽培・紡織といった生産に深い関係を持っていたと思われます。祈念碑は、「陸軍大将桂太郎謹書」と刻まれています。桂太郎は、明治時代の軍人、政治家(弘化4(1848)~大正2(1913)年)。明治34(1901)年には、総理大臣も務めた人物です。

Img_1879c_20201003194201  この先は、阿下喜までとくに見るところはなく、ひたすら歩きます。ただ、久保院あたりが坂のピークで、あとはほとんど下Img_1886c_20201003194201 り。このあたりからは、藤原岳や、太平洋セメントの工場が見えてきます。麻生田の町を過ぎる頃には、道は、北勢線と並行しています。

Img_1895c  スタートから6㎞半くらい歩いてきました。阿下喜という看板も出て来ます。向こうに阿下Img_1899c_20201003194601 喜の町や、日下病院、いなべ総合病院などが見えています。西六石橋を渡り、六石変電所の先、スタートから7㎞を歩いてきたあたりで旧・員弁街道は右に逸れていきます。

Img_1927c  阿下喜の町の手前に大西神社の御旅所と献燈籠。御旅所は、大西神社の八幡祭のとき、神輿Img_1933c_20201003194601 がここで小休止するところ。献燈籠は、高さ2.7m。元は常夜燈で、員弁川の高瀬舟の船着場の目印でした。文久元(1861)年のもの。正面には、「内外両宮/多度両社 献灯燈」とあります。ちなみに、高瀬舟とは、川船の一種。古くは小型で底が深かった(高背)のですが、のちには大型で舳が高く底の浅いものになりました。近世では多くの川筋で貨物輸送に用いられています。

Img_1951c_20201003194601  いよいよ今日のゴールも間近。8㎞の手前で、巡見道との分岐・道標となります。石井書店のすぐ北の三叉路に、道標があります。ここが、巡見道(いなべ市北勢町治田からの枝道)との分岐。道標には、「右 こもの 四日市」「左 くわな」とあります。コンクリートに囲まれ、ちょっとかわいそう。ここで時刻は、12時20分。阿下喜から西桑名に行く電車は、12時39分か13時39分。ちょっと迷ったものの、食事を選択。

Img_1968c_20201003194601 Img_1965c_20201003194601  上木(あげき)食堂を覗いたものの、待っている人多数で断念。北勢郵便局の近くまで行って大衆食堂「カドヤ食堂」へ。カツ丼(¥700)をチョイス。地元の方などでけっこう繁盛していました。カツ丼も美味しくいただけました(微笑)。

Img_1980c_20201003194601  桐林館なども見ようかと思ったものの、食事をしてからしゃべっていて、電車の時刻も近づいたので、阿下喜駅へ。13時28Img_1994c_20201003194601 分に到着。ここまで楚原駅から9㎞歩きました。13時39分の西桑名行きに乗車。西桑名駅には、14時26分に到着。¥510。

Img_2047c_20201003200301  今日の歩数。スマホのアプリ・ALKOOのデータ。20,000歩を越えました。自宅から西桑名駅往復が、2.2㎞。今日、ハイキングで歩いたのが、9.0㎞で、合計11.2㎞。久しぶりによく歩きました。詳細は、また、明日以降、ボチボチと書きますが、今日のところは、予告編。

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