名所旧跡

2020年8月25日 (火)

今日も結局、「桑名城惣構調査」の補足……九華公園でゴイサギを一応確認

Img_4625c  今朝は、早くから湿度が高いのか、南風の影響もあるのか、蒸し暑くなっています。正午までのところでは、最高気温は32.5℃。9階の我が家は開け放しておくと、風は通るのですが、日が高くなるにつれ、湿った温風に変わってきます。さて、今日もいつも通り、散歩へ。散歩をしないことには始まりません。7時40分から、住吉神社、九華公園、貝塚公園へ。ここから、昨日で調べ終えたと思った「桑名城惣構調査」の補足調査へ。柳原から東野、伊賀町、赤須賀辺りを歩いて、貝塚公園に戻り、京町、寺町と6.4㎞。2時間コース。昨日までの2日間より、若干短め。

Img_4614c_20200825115401  住吉神社から見る揖斐長良川の中洲、今日もダイサギがいるのが確認できました。向かって右の黒い鳥は、カワウ。それにしてImg_4640c_20200825115401 も我が家から、三之丸公園あたりまで、セミがほとんど鳴いていません。昨日はまだ三之丸公園でクマゼミが鳴いていたのに。九華公園まで来ると、ところどころでまだクマゼミが鳴いて、木の下を歩くと、アブラゼミが逃げまどいます。今日も、散歩する人も、鳥も少なく、張り合いがありません。前管理人Oさんが、「暑くて鳥がいないので、あかんなぁ」とおっしゃいます。本当です。9月になると渡り鳥が立ち寄るかも知れません.もう少しの辛抱。

Img_4642c  その九華公園で、奥平屋敷跡の東側を歩いていたら、カラスとゴイサギらしき鳥が、空中戦。というと大袈裟ですが、追いかけあいをしているのが見えました。二の丸橋の向こうに降りたように見えたので、二の丸跡から朝日丸跡へ急いだのですが、肉眼でははっきり確認できません。「たぶんあの辺」と見当をつけて、公園の外周遊歩道の南を撮ったら、ホシゴイからゴイサギになりかけくらいのゴイサギ(ヘンな書き方)がいました。

Img_4659c_20200825115401  その他はいつも通り、ハシボソガラス、スズメ、ムクドリ、キジバト、カワラヒワくらい。アーちゃんもいましたが(微Img_4647c_20200825115401 笑)。これといって変わったこともありませんし、ヘンな人もいません(苦笑)。まぁ、フツーが何より。このあと貝塚公園から「桑名城惣構調査(補足編)」へ。それについては、後ほど。

Img_4766c_20200825124601  寺町商店街のアーケードの南端です。種苗店のあとに占いの店があったのですが、今日は看板が撤去されていました。一昨日まではあったような気がします。見るところ、お客さんはあまり入っていないようでした。今年の3月7日開店で、占いは500円とあったのですが(2020年3月5日:不安定な天候で雨宿り3回、散歩のメインは寺町商店街)、立地条件がよくないのかという気がします。占いに興味がある(と私が思う)若い女性はほとんど通らないのです。

18881898  さて、桑名城惣構調査(補足編)の話。昨日、ブログの記事を書いてから、「今昔マップon the Web」というサイトで、該当する辺りの古い地図を見ていました。左の画像は、そのハードコピーに描き込んだもの。この今昔マップでは、古い地図と現代の地図を比較してみられます。向かって左は1888~1898年の地図。明治でいうと、21~31年。これがもっとも古い地図です。明治になってはいますが、江戸時代の終わり頃から激しく変化はしていないだろうという前提です。赤で囲んだ辺りが、柳原交差点から桑名税務署・桑名消防署の東辺りの桜並木のところ。惣構は、桜並木から柳原交差点を通り、貝塚公園の南から東に続いたと考えていたのですが、柳原交差点の南100m足らずのところから東に向かっているように描かれています。これが新たに出来した課題。もう一つは、現在の桑名税務署・桑名消防署の付近で、惣構がどうなっていたかという課題がありました.地図では緑で囲ったところ。これは、昨日通ってきたルートでほぼ間違いなさそうです。さらに、七曲見附付近から東の辺りがどうであったかも今ひとつ明確にはなっていません。今日は、赤枠のところ、惣構が柳原交差点の南から東に向かっているように描かれていた現地を見てこようという次第。

Img_4666c  左の写真は、柳原交差点のすぐ北から東を見た写真(一昨日も同じような写真を載せました)。向かって左手の森は、貝塚公Img_4671c_20200825115401 園。ずっと奥に見えている大きな建物がはまぐりプラザ。これが惣構だと思っていたのですが、上記の明治の地図を見ると、間違っている可能性が出て来たということ。右の写真は、柳原交差点を渡ったところから見た南の方角。桜並木が見えていますが、ここまでが惣構であったのはほぼ確実と考えられます。

0525walk  こちらは、今日の補足調査で歩いたルート(薄いブルーのラインで示しました)。貝塚公園の南西から南へ100mほど進んで左折し、東へ。赤須賀郵便局前を通って、船溜まりの東へ.そこから貝塚公園に戻って来ました。赤い太いラインは、これまで惣構があったと考えていたところ。柳原交差点の南から東へ描いた緑のラインは、上記の明治の地図で見た堀と考えられるところ。

Img_4673c  左の写真は、柳原交差点から南へ100m弱進んだところから見た東側の様子。すぐ手前にある道は、堀があったと思われるとImg_4682c_20200825115401 ころの1本手前の道。右の写真は、もう1本南にある曲がり角。向かって右手に桜並木があります。上の古地図・現代地図の対比図で見ると、ここから東に堀が延びていたように読めますので、こちらを進みます。この辺はときどき歩いていたのですが、この道は初めて通ります。

Img_4688c_20200825115401  上記の角を曲がったところ。道は細いのですが、向かって左側にずっと先まで、2階建てのImg_4694c_20200825115401 それなりに新しい長屋が続いています。長屋が建っているところまで含めて見ると、惣構堀があったと思っても、納得できそうな印象。

Img_4697c  右上の写真を撮ったところから、来た道を振り返って撮った写真。向かって右側(上2枚の写真では、左側)は、伊賀町という名前。未確認ですが、服部半蔵にしたがってきた伊賀者の侍屋敷があったので、伊賀町という名前になったという話を、年配の方からよく伺います。侍屋敷があったのであれば、城下で、惣構の内と考えてもよいのですが、この辺は、江戸時代の城絵図をよく見て考える必要があります。

Img_4700c_20200825115401  さらに進んで、東野神社の近くまで来ました。右は、東野神社の北東にある四差路。四差路の東(向こう側)や、南(右側)Img_4707c が赤須賀(あかすか)になります。左手にある建物は、スナック「スミ」。営業はしていない感じでしたが、赤須賀は漁師町ですから、漁師さんなどが来ていたかも知れません。

Img_4713c_20200825115401  ちょっと東野神社により道。赤須賀神明社の境外神社。御祭神は火産霊室神、天津彦根命、Img_4716c_20200825115401 大物主神。明治40(1907)年にいったん赤須賀神明社へ合祀されましたが、昭和29(1954)年に分祀独立して現在に至っています。

Img_4721c_20200825115401  スナックスミや、東野神社のある交差点から来た道を振り返って撮った写真。道幅は狭いものの、途中にあった2階建て長屋や、このスナックの建物の建っている敷地の幅と道の幅を合わせると堀の幅のように見えます。

Img_4728c_20200825115401  この四差路から先、堀があったとしてどうなっていたか、上掲の明治の地図では読み取りにくくなっています。堀はここまでのようにも見えますし、左下(南西)から来ている道?堀?が、現在の船溜まりの方へと続いているようにも見えます。すぐ先にもう一つ四差路の交差点があり、左折すると赤須賀郵便局の前を通って船溜まりに行き当たります。郵便局が面している方がメインストリートかと考え、そちらに行くことにしました。左の写真は、この一つ先の四差路から赤須賀郵便局方面に行く道。

Img_4738c_20200825115401  赤須賀郵便局の前を通ります。ここは何度か来ましたので、ここまで来れば土地勘があります。郵便局の前をさらに進むと、Img_4740c_20200825115401  右の写真のように、低い堤防があるところに行き当たります。ここが赤須賀漁港の奥(西)にある船溜まり。このすぐ右にはまぐりプラザがあります。

Img_4749c_20200825115401  船溜まりの様子。堤防のところから覗いた写真。この船溜まりから右手(東)に堤防道路をImg_4744c_20200825115401 くぐり、水門を通して赤須賀漁港、揖斐長良川へと続きます。右の写真は、同じところから見た東の方角。右手には伊勢しぐれの本店があります。奥には、はまぐりプラザの建物の一部が写っています。その先は、赤須賀漁港。

Img_4752c_20200825115401  同じところから左(西)を見た写真。左にややカーブして奥の方向に続く道が県道504号線。ずっと先に柳原交差点があります。

Img_4755c  左は、船溜まりから西を見た写真。貝塚公園と柳原交差点の間から続く、当初惣構の跡と考えたルートが続Img_4758c_20200825115401 いています。右の写真は、この「堀跡」の北側を貝塚公園に向かう途中で撮った写真。

 これで伝馬公園~七曲見附跡・日進小学校~桑名税務署・桑名消防署の付近~柳原交差点南~赤須賀と現地を歩いてきたことになります。昨日書いたように、地図を比較対照して調べ、考えることになります。

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2020年8月24日 (月)

鳥も散歩友達も少なかったので、惣構現地調査2日目……今日は7.4㎞(爆)

Img_4600c_20200824145401  朝は、24.9℃と、かろうじて熱帯夜を免れ、北寄りの風で、多少過ごしやすい感じでしたが、日中は、34.3℃と相変わらずの暑さです。7時半スタートで散歩。いつものように、住吉神社、九華公園、貝塚公園と歩き、そこから昨日の続きで、惣構実地調査。柳原、江場、新屋敷、伝馬町から一色町、北鍋屋町、鍛冶町、大央町、吉津屋町、京町、寺町と、またもや7.4㎞も歩いて、10時帰宅。「暑いのに、よく歩くな」と思われるかも知れませんが、先週の暑さに比べると少し楽に思います。

Img_4314c  住吉神社から見た揖斐長良川の中洲。ダイサギのようですが、1羽だけいました。ここは、以前は、よくアオサギが集合していた場所です。多いときには20羽以上もいたことがあります。そういう光景をまた見たいと思っています。

Img_4342c_20200824145501  柿安コミュニティパークでは、ハクセキレイ。その他、ハシボソガラスたち。九華公園では、今日もあまり鳥Img_4352c はいません。奥平屋敷跡にある鳥小屋を確認してきたのですが、妙な具合になっていました。白いインコがペアで入れられたはずでしたが、カップルが、右の写真のように入れ替わっているようでした。う~ん、何と申しましょうか(笑)。

Img_4371c_20200824145501  その後、シルバー人材センターの脇を通ったら、ちょうど同級生K氏と遭遇。「ちょっと寄っていけ」ということになり、コーヒーをご馳走になりながら、少しばかりおしゃべり。猛暑の時期で、派遣されて仕事に行く方々も大変のようでした。冗談半分に「お前も、働くか?」といわれましたが、ブラブラ人生も長くなり、今さら役には立たない可能性大です(苦笑)。

Img_4563c_20200824145401  惣構実地調査の話は後にして、伝馬公園からは一色町、北鍋屋町、鍛冶町、大央町の境にある緑地帯を通り、定休日の寺町商店街を通過して、住吉入江へ。三崎見附跡の北でシジュウカラを目撃。2羽。Img_4596c しかし、ソメイヨシノの木に紛れてしまい、写真は撮れず。その後、拙宅前の住吉入江のところで休憩していたら、イソヒヨドリのメスが登場。実は、朝5時頃にも、鳴き声が聞こえていたのです。

0824walk  さて、惣構実地調査、2日目です。マップは、昨日とほぼ同じです。赤いラインは、惣構があったと考えられるところ、ブルーのラインが今日歩いてきたルート。昨日、回ってこなかった桑名税務署・桑名消防署の北から西側と、市営日進町住宅、長圓寺・報恩寺の南から、伝馬公園の裏手の2ヶ所が主な目的地でした。

Img_4377c  左の写真は、昨日も載せた桑名税務署から北に延びる桜並木。惣構の跡と考えられます。桑名税務署から北へ50mほどのところまで、桜並木と幅広い水路の跡らしきものが確認できます。

Img_4386c_20200824145501  桑名税務署のすぐ北にある交差点。向かって右手に一部見えているのが、税務署。その向こうに見える塔Img_4391c_20200824145501 は、消防署の訓練用のタワー。右の写真は、この交差点を曲がって、進む先。東新町市営住宅の北側へと続きます。堀の跡か? というと、何ともいいがたい感じです。

Img_4395c_20200824145501  少し進んだところの様子。道はほぼ直線で、少しだけ曲がっています。右Img_4400c の写真は、東新町市営住宅の西側を通っている道。直線で、県道401号線に向かっています。これまた、堀の跡かというと、微妙な感じです。ここは見通せて、道の様子も分かりましたので、曲がらず、東新町市営住宅の西側へ進むことにしました。

Img_4403c_20200824145501  税務署・東新町市営住宅の北の道を西に進み、行き当たりが、左の写真。三叉路になっています。江戸時代の城絵図では、惣Img_4405c_20200824145501 構は南の方に続いていますので、ここで左折して南へ。東新町市営住宅は、南北に建つ棟と、東西に建つ棟と2棟あります。左折して進むと、東西に建つ棟の裏につながります。

Img_4409c_20200824145501  市営住宅の敷地に行き当たったところに日進まちづくり拠点施設(公民館)。ここで道は右Img_4413c 折(西へ)。

Img_4418c_20200824145501  50mほどでT字路を左折すると、県道401号線が見えまImg_4421c_20200824145501 す。道幅はそれなりにあり、堀の跡といわれれば、そうかなと思える気がします。

Img_4423c_20200824145501  こちらは、県道504号線の手前で、歩いてきた道を振り返った写真。後ほど、城絵図と照らし合わせて、あれこれ考えてみましょう。

Img_4440c_20200824154301  昨日は、県道401号線から日進小学校方面に行くのに、東新町市営住宅と消防署の間の通りのところから南に向かいました。Img_4445c_20200824154301 そこで、今日は、県道401号線を西に向かい、日進小学校の東側の道路から行くことにしました。微妙なカーブになっています。古い道がそのまま残っているのかも知れません。

Img_4447c_20200824145501  日進小学校。七曲見附のあった辺りからの惣構は、ここの敷地内を通っていたと思われまImg_4450c_20200824145501 す。写真は、東から西を見ています。右の写真は、日進小学校の敷地の南東側にある交差点。昨日は、左から右へ(東から西へ)、ここを通過しています。昨日歩いたルートが、今のところ、惣構の跡ではないかと考えています。

Img_4456c_20200824145501  日進小学校南の交差点に出て来ました。左の写真で、正面が、今日歩くルート。左右(南北)の通りは、県道613号線。写真Img_4462c_20200824145501 に写っている辺りは、東海道が通っていたところで、向かって右に火の見櫓と消防団倉庫があります。そこから道路をはさんだ日進小学校の敷地にかかるあたりに七曲見附があったとされます。右の写真は、同じところから視線を少し左(南)に向けて撮ったもの。信号の向こうにある理髪店に向かってすぐ左から奥に向かうのが、東海道。

Img_4484c_20200824145501  県道613号線を渡って、伝馬公園の裏手に続く道に進みます。この右手に市営日進町住宅があります。その先には、長圓寺・Img_4487c_20200824145501 報恩寺があり、江戸時代の城絵図を見ても、道の形から、ここが惣構の跡であることは確実と思っています。少し進むと、道は右にカーブしていきます。

Img_4489c_20200824145501 Img_4493c_20200824145501  この左手(南側)には大きな民家があります。ここは、「廣瀬鋳物工場跡」です。桑名藩初代藩主本多忠勝公は、城の建設などのため、鋳物師を桑
名に招き地代を免除するなど優遇したのですが、廣瀬氏もその一人で、ここに土地を与えられました。そのため、この付近は「鍋屋町」と呼ばれています。工場は、戦災ご移転しています。

Img_4499c  道なりに進みますと、長圓寺と、報恩寺の裏手に出ます。向かって右が報恩寺、左が長圓寺。報恩寺は、真宗本願寺派。もとは江場村にありましたが、ここに移されています。寺内には、桑名町長を務めた竹内文平の墓があります。⻑圓寺は、大悲山(だいひざん)と号し、浄土真宗本願寺派。慶⻑の町割りでここに移りました。この寺の11世魯繽庵義道(ろこうあんぎどう、宝暦11(1761)〜天保5(1834)年)は「久波奈名所図会(くわなめいしょずえ)」などの地誌を著わすとともに、一枚の紙に切り込みを入れるだけで、連続した鶴を折る連鶴を考案し、寛政9(1797)年、『秘伝千羽鶴折形』が刊行され、49種類の連鶴が紹介されています(桑名の千羽鶴;市無形文化財)。今日のテーマからすると、余談が長くなりました。

Img_4508c_20200824145601  さらに進みますと、伝馬公園(願証寺跡)が見えてきます。惣構は、伝馬公園と天武天皇社の間を通っていました。左の写真Img_4513c_20200824145601 で三叉路を左手に進みます。それが右の写真。

Img_4516c  天武天皇社の裏(左の写真)を通って80mほど進むと道は右に曲がり、北向に(右の写Img_4528c_20200824145601 真)。この先で再び、県道401号線に出ます。この曲がるところまで、昨日、北側から来ています。

Img_4530c_20200824145601  さらに進んだ写真。柳の枝が垂れ下がったずっと向こうImg_4538c_20200824161001 に、昨日紹介した金刀比羅社が小さく見えています。これで、今日の目的は一通り、達成できました。

Img_4543c_20200824145401  伝馬公園で一休み。伝馬公園は、近世の桑名城下町でいうと、その南西端にあります。16世紀末頃からこの地に所在した浄土真宗の寺院「願証寺」の境内の一部であったと伝わっています。願証寺はImg_4545c もとは長島にあり、明応6(1497)年、蓮如上人の子・連淳が入って東海地方の浄土真宗の中心として、門徒10万人余を擁する一大勢力を保っていました。本願寺が織田信長と対立したとき、願証寺も信長に反旗を翻したのですが、天正2(1574)年に信長に滅ぼされました。しかし、江戸時代、桑名に再興し、約1万坪(約33,000平方メートル、野球場3個分くらい)に及ぶ境内を有していましたが、正徳5(1715)年の高田派への宗旨替えで内紛が起こり、廃寺に至ったといいます。伝馬役に従事する人々が多く住んでいたため、それが町名になりました。一昨年、市教育委員会が遺跡発掘調査を行い、江戸時代、桑名城下町に全国6番目に整備された上水道管が初めて敷設状態で見つかりました。その説明会に行っています(2018年12月13日:20181208伝馬公園遺跡発掘調査説明会に参加して来ました)。

Img_4586c_20200824145401  という次第で、2日間にわたり、惣構の現地調査をしてきました(たいそうなことではなく、現地と思われるところを歩いて、見て、写真を撮って来ただけ)。江戸時代の城絵図と現代、さらに明治などの地図と比較する作業をしっかりしてから、現地調査に行くべきだったかも知れませんが、散歩ルートから少し足を延ばせばよかったので、まずは見てきたということです。これから、地図をしっかり眺めることにします。遠隔授業は、先週が結果的に夏休み(オープンキャンパスが中止になったため)。明日、第9回のファイルをアップし、メールを送るのですが、今日、作業をしてしまい、メール送信の予約も済ませました。

【余談】Img_4297c_20200824182501  スマホの充電器が不調になって、ビックカメラで買ったと書きました。Anker PowerCore Fusion 5000 white A16210219です。まだ1回しか使っていません。Quick Chargeには対応していませんが、急速充電が無事にできました。気になったのは、ケーブルがちょっと熱を持ったこと。付属のケーブルは短かったので、別物を使用。スマホの充電が終わったあともコンセントに指しておくと、本体にあるバッテリーが充電され、モバイルバッテリーとして使用する準備ができます。もう少し使ってみて、また、レポートします。

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2020年8月23日 (日)

九華公園にダイサギ……7.2㎞歩いて、惣構調査も

Img_4078c_20200823121601  ウロウロしているうちに8月も下旬、23日になっています。本来であれば、地蔵盆だと思うのですが、近所では案内が貼られていませんので、今年は中止なのでしょう。季節の行事も自粛というのは、昨今の状況からしてやむを得ないとは思うものの、残念な気がします。今日は、暑さもやや和らいで、正午現在で、最高気温は31.9℃。朝のうちは、北寄りの風で過ごしやすい感じでした。いつもの散歩に加え、「桑名城惣構」調査も。7時45分スタート、住吉神社、九華公園、貝塚公園から柳原、江場の税務署・消防署辺り、新屋敷の日進小学校、伝馬町(伝馬公園)、掛樋、一色町、西鍋屋町あたり、大央町、鍛冶町、吉津屋町、京橋町、京町、寺町と、何と7.2㎞も歩いてきました(笑)。10時15分頃帰宅。

Img_4100c_20200823130201  我が家あたり、最近はセミの鳴き声が聞こえなくなりました。三之丸公園、九華公園まで行くと、聞こえて来ます。変わって、Img_4157c_20200823121701 揖斐川の堤防沿いでは秋の虫の声が聞こえて来ます。九華公園では、今日は、ダイサギが1羽やってきました。アオサギが来る、鎮国守国神社の社務所裏です。九華公園でダイサギを見るのは、久しぶり。しばらくいて、北の方へと飛び去って行きました。

Img_4093c_20200823121601  他にはハクセキレイ。奥平屋敷跡でエサを拾っていました。スズメは、神戸櫓跡の東辺りに集Img_4108c まって来ます。いつもここに自転車で来る男性が、エサを与えているようで、それを学習したと思います。すぐ側にまで寄ってくるスズメもいます。

Img_4119c_20200823121701  左の写真は、今年生まれの幼鳥と思うのですが、羽毛が乱れており、色も白Img_4148c_20200823121701 っぽい感じがします。奇形なのかも知れませんが、見ている限り、行動的にはとくに気になるところはありません。他のスズメからいじめられるという様子もなし。右の写真も、今年生まれの幼鳥でしょう。今日は、エサをくれる人がおらず、しばらくウロウロして、また散っていきました。

Img_4170c  九華公園の外周遊歩道の南のお宅には、柿の木があります。色づいてきた実もありますし、すでに青いまま落下した実もあります。

0823soumgamaewalk  このあと、貝塚公園を通過して、柳原へ。マップ上、赤いルートが桑名城の惣構。日進小学校の南西で途切れていますが、ここは東海道とクロスするところで、七曲見附があったところ。土橋でもかかっていたのかも知れません。薄いブルーのラインを歩いてきました。日進小学校のところから西へ行けばよかったのですが、ふと「もう帰ろう」と思ってしまい、北へ。萱町交差点で思い直して、伝馬公園方面に行きました。ちょっと中途半端なことをしました。

Img_4173c_20200823121701  惣構については、税務署・消防署辺りで正確にどこにあったのか、まだ私にはよく分かっていません。柳原交差点の少し南かImg_4181c_20200823121701 ら税務署のすぐ北まで桜並木が続いています。ここに惣構があったのは間違いないと思います。左の写真は、桜並木の途切れるところから南を見たもの。この少し先、民家や倉庫が建っているところまでは惣構であったと思われます。中央やや右に消防署の訓練用の塔が見えます。その手前が税務署。右の写真は、税務署の東辺りで南を撮ったもの。コンクリートで固められたところの脇に水路があり、ここらまでが惣構だったような気がします。

Img_4187c_20200823121701  左の写真は、右上の写真を撮ったところの少し南から、北を撮ったもの。手前側の水路というか、溝のところは細くなっていImg_4193c_20200823121701 ますから、ここらで惣構は西に向かっていたのではないかと考えています。右の写真は、消防署側の歩道に渡って、左を見たもの。歩道の幅、その向こうの水路の幅から推測すると、ここは惣構ではないように感じられます。惣構は、税務署の北側から西側を廻っていたのではないかと思っています。

Img_4203c_20200823121701  消防署の南側の通り(県道401号線)に出て、消防署前から西の方を撮った写真です。向かって右に立つのは、消防本部の建物。惣構は、この向こう(西側)を通っていたと見ています。

Img_4205c_20200823132101  消防署の西側には細い道があります。ここが、惣構が通っていたと私が考えているところ。塗装店の向こうImg_4207c に建っているは東新町の市営住宅。ざっと見たところでは、惣構があったと思わせるようなものはなさそうです。右の写真は、県道401号線をはさんだ南側。住宅街が見えますが、この道路が惣構の跡ではないかと思っています。しかし、こちらにもはっきりとした痕跡はない感じ。

Img_4209c_20200823121701  右上の写真の道路に進みます。すぐに変形の四差路。ここを右折すると、右の写真のような道路になります。これは、その広Img_4211c_20200823121701 さなどから、何となく堀の跡のような気がしてきます。この先を西に進むと、日進小学校に行き当たります。

Img_4215c_20200823121701  ただし、途中から道は細くなっています。左の写真の中央に高い樹木やフェンスがあります。ここが日進小学校。道路は突き当たりで左折し、すぐに右折します。城絵図で見る惣構の形に似ている気がします。

Img_4223c_20200823133001  上記のように進んでいくと、日進小学校の南に出ます。惣構は、日進小学校の敷地内を通っImg_4226c_20200823133001 ていたようですから、この2枚の写真の辺りよりも北のはず。

Img_4233c  日進小学校沿いに行くと、日進小学校南の交差点の北に出ます。西側には、消防団の車庫があります。ここから日進小学校の敷地辺りに七曲見附があり、東海道は枡形になっていたそうです(今は、枡形はありません)。消防団車庫のすぐ前を東海道が通っていました(北から南=写真では右から左)。

Img_4235c  余談。日進小学校の敷地内に「泡洲橋」の親柱が1対、保存されていました。ここにあるのは知ってはいたのですが、普段は入れませんので、見たのは初めて。ちょっと読みにくいのですが、「昭和六年七月架橋」とあるようです。天武天皇社の境内にも「あわすはし」と彫られた石柱が1基あります。

Img_4247c_20200823121801  ここから西へ惣構跡をたどってみればよかったのですが、上に書いたように、「帰ろう」と思ってしまいまImg_4250c_20200823121801 した。しかし、まぁ時間はありますから、税務署・消防署の北から西側辺りも含め、もう一度調べることにします。県道401号線を通って、伝馬公園(願証寺跡)の前まで来ました。伝馬公園の西側の細い道路、ここも惣構の跡ともいます。

Img_4252c_20200823121801  この伝馬公園の西側の道を進み、最初の曲がり角まで行ってみました。この写真は、伝馬公園の南側です。惣構の跡と思います。この先を進むと、長圓寺・報恩寺の南を通って、日進の市営住宅の裏から七曲見附跡の方へ出られます。

Img_4245c_20200823121801  伝馬公園から県道401号線を挟んで北側の写真。吉津屋からここまで、城絵図にある惣構の形そのままに緑Img_4257c 地帯というか遊歩道というか、そういう風になっています。左の写真で、建物が建っている向こう側(北)はもう少し幅が広くなっています。建物の手前(南)には、金刀比羅社。宝永7(1710)年、松平忠雅公が備後福山から移封されたとき随伴してきた円覚院の住持が境内に祀られ、維新後廃寺となったものの、金刀比羅社のみが現存しているものといいます。

Img_4263c  このあたりから北は、この写真のように、ゆるかなにカーブしつつ遊歩道が続いています。ところどころには、近所の方が花Img_4271c を育てていたりします。

Img_4275c  県道504号線近くまで来ました。遊歩道の北の端。労金や、中央自動車がある近く。県道Img_4277c 504号線をはさんだ向こうには、吉津屋堀にある藤棚が見えます。右の写真は、同じところから南を振り返った写真。この遊歩道は、いかにも堀の跡という感じがします。

Img_4281c  県道を渡ったところにある「吉津屋堀・寺町堀」の案内板。堀の名称は、現代になってつけImg_4285c られたもの。江戸時代の城絵図には、堀の名前は書かれていません。右の写真は、2つある藤棚を通り過ぎたところから撮った吉津屋堀の様子。寺町堀と同じく、水路と遊歩道とが整備されています。水路に水を流してくれるとよいと常々思うのですが、流れがあるのはほとんど見られません。右の写真の方向に進むと、京町、寺町に行き当たります。

Img_4267c_20200823135401  という次第で、いささか暑い中、7.2㎞歩いて惣構調査をしてきたのですが、税務署・消防署辺りと、伝馬公園南から七曲見附跡のところは、宿題が残りました。それは、また近いうちに。週明けからまた遠隔授業が再開されますが、準備は万端のはずですので、午後はゆるりと過ごすことにいたします。

 

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2020年8月19日 (水)

またもや九華公園でカワセミ……プチ歴史散歩も

Img_3427c  今日は、暑さはやや和らいで、最高気温は34℃の予報です。しかし、正午までですでに33.6℃(11時40分)。昨日ほど(38.2℃(13時8分)にはならないと期待しています。昼もさることながら、夜になっても遅い時間まで 30℃を下回らないのには参ります。いつも通り、7時半スタートで2時間の散歩。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀南公園、入江葭町、吉津屋町、新築公園、常盤町、京町、寺町と5.9㎞。昨日までのように、汗だくとまでは行きませんでした。冒頭の写真は、桑名七里の渡し公園。百日紅があちこちに咲いています。

Img_3494c  今日は、8月14日に続いて、九華公園でカワセミが見られました。相撲場の近くで、堀端に止まっていました。しかも、カワセミまで約20mという至近距離。これはなかなかありません(微笑)。ただ、残念だったのは、逆光の位置だったこと。鎮国守国神社の裏から柿安本社の駐車場を抜けて来たのですが、堀の側に来たときにカワセミがいるのに気づきました。

Img_3464c_20200819115301  カワセミに気づく直前には、ハグロトンボ。このトンボもヒラヒラと飛びますし、オスは、この写真のようImg_3484c_20200819115301 に、胴体が金緑色に輝いています。止まっているときも、ときどき羽根を開いたり閉じたりします。鎮国守国神社の裏手で見つけたのですが、九華公園でハグロトンボを見たのは、たぶん初めて。

Img_3441c_20200819115301 Img_3450c_20200819115301  さて、話を戻して、七里の渡し跡まで野鳥の姿はなし。中洲にも、サギはおらず。七里の渡し跡にいたのは、スズメとハクセキレイ2羽。このハクセキレイ、15mほど先にいたのですが、カメラ目線(微笑)。セミは、クマゼミが激減した印象。アブラゼミはいるものの、あまり鳴いていません。ツクツクボウシの声もときどき聞こえます。

Img_3454c_20200819115301  九華公園も静かです。アーちゃん(カルガモ、シルバー人材センターの方がこう名づけてかわいがっておられます)は、二のImg_3559c 丸堀にいました。暑くなってから姿をよく見かけます。他には、スズメ、ムクドリ、キジバトくらい。8月9日の記事に書きましたが、管理人さんがサンコウチョウを見たという情報がありましたので、気をつけてみているのですが、まったくいません(2020年8月 9日:九華公園でサンコウチョウの目撃情報)。

Img_3543c_20200819115301  旧鳥小屋前のアサガオは、少ないながらもけっこう花が咲いてきています。うらやましい(苦笑)。というImg_3654c のも、我が家のアサガオは、相変わらず繁れども、花はつかずなのです(右の写真)。九華公園のアサガオは、蔓が伸びて高いところに咲いていましたので、下から見上げたショット。得意の下からというか、裏から見てみました。

Img_3588c_20200819115301  このあとは、いつも通り黙々と歩いて新築公園へ。歩く距離・歩数を稼ぐのにちょっと遠回りをしているのですが、実は、ここは、その昔、「桑名米穀取引所」があったところ(西羽晃著:新桑名歴史散歩、pp.133~134)。明治26(1893)年10月にそれ以前の「米商会所」(明治11(1878)年に発足、殿町にあった)が模様替えして発足し、翌年12月にここ(当時の大山田村大字桑名)に移転したのです。このあたりは、明治23(1880)年に田を埋め立てたため「新築」と呼ばれました。先日の「くわな村正史跡めぐりスタンプラリー」の時にM氏と話していて、思い出したプチ歴史。さらに「新桑名歴史散歩」から引用しますと、桑名だけは、全国の他の市場が閉店したあとも夕市が開かれ、注目されていました。初代諸戸清六は、大隈重信と懇意になり、情報を早くに仕入れ、政府の公金を低利で借りて、米相場で成功しました。

Img_3609c_20200819115301  さらに、ついでにプチ歴史散歩。京町公園。このあたりに京町御門がありました。かつて東海道は枡形になっていたといいます。京町公園には、桑名町役場が置かれ、その後、桑名市が発足したときには市役所もここに設置されました。公園内には「桑名市制施行時 桑名市役所跡」という石碑があります。

Img_3612c_20200819115301  寺町堀。寺町商店街の裏というか、東側にあります。桑名城の総構え堀の一部。ずっと以前は、寺町堀は雑Img_3615c 草が生えていたと思いますが、堀の半分を埋め立てて遊歩道が整備され、残り半分の堀の部分は、水深・幅が以前の1/2程度の石積み水路となっています。

Img_3624c_20200819115201  寺町商店街を通り抜け、寺町交差点を北に渡ると、美濃街道と交差しまImg_3627c_20200819115201 す。ここには、三崎見附がありました。

Img_3637c_20200819115201  その先、現在は、きれいに整備されて住Img_3642c 吉入江と呼ばれていますが、ここも総構堀でした。昔の城絵図にあるのとほとんど同じ形に見えます。住吉入江が曲がっているところにあるのが、諸戸氏庭園。江戸時代の豪商・山田家の屋敷であったものが、明治18(1885)年頃に諸戸家の所有になっています。

Img_3578c_20200819115301  昨日の午後、少しだけ仕事をしようと思ったものの、爆睡(苦笑)。授業で課した課題の評価を確認し損ないましたので、今日に持ち越し。暑いのはもう勘弁して欲しいところですが、来週にならないと猛暑は収まらないとか。皆様もご自愛ください。吉津屋町で見たヒマワリです。

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2020年8月17日 (月)

39.2℃のもと村正史跡めぐりスタンプラリーへ……3時間で7.9㎞を歩き村正の鍔の形のピンバッジをゲット

Img_3183c_20200817153401  猛暑のピークは下がるかと期待して、今日は、桑名宗社(春日神社)の村正史跡めぐりスタンプラリーに行くことにしていました。が、期待は得てして裏切られる運命にあります(苦笑)。今日の最高気温は、39.2℃(14時1分)。桑名宗社では、「宝刀村正特別公開」に合わせて、8月13日から31日まで「村正史跡めぐりスタンプラリー」が企画されています。うちわ型スタンプラリー台紙をもって、市内8か所の村正にゆかりあるチェックポイントを回るということ。すべてを揃えたら村正の鐔(つば)の形をした記念ピンバッジが先着1,000名にプレゼントされるのです。

Img_3190c_20200817153401  今日は、同級生K氏、畏友M氏と3人連れ。前期高齢者に入った3人のオッサンが、猛暑の中、連れだってヨタヨタして大丈夫Img_3198c か? と危惧しつつ、熱中症対策を万全にして9時に集合、早速スタート。その前に、桑名宗社にある「細石」をチェック。細石は、境内社の母山神社の拝殿に向かって右手にあります。

200817muramasawalking  今日歩いたコースマップ。桑名宗社をスタートして、京町交差点へ(桑名市博物館近く)。そこから西へ、桑名駅に向かいます。北勢線で西桑名から馬道まで行こうかとも考えましたが、「歩こう」ということになり、そのまま走井山勧学寺へ。ここで最初のスタンプを押し、ゴールに向かいます。和菓子屋さん・玉川軒から、旧東海道を通って、天武天皇社。寺町近くの仏眼院、我が家近くの浄土寺、七里の渡し跡と歩き、最終ポイントの柿安コミュニティパーク入り口にある本多忠勝像を経て、桑名宗社に戻って来ました。この間歩いたのは、7.9㎞でした。9時過ぎにスタートして、正午直前にゴールというほぼ3時間コース。玉川軒で葛アイスを食べていましたし、あちこちで休憩していました。

Img_3201c_20200817153501

 桑名駅南の近鉄名古屋線(標準軌)、JR関西線(狭軌)、三岐鉄道北勢線(ナローゲージ)の3つの幅の線路を渡る踏切を越Img_3205c_20200817153501 え、駅の西側へ。このあたりでスタートから1.5㎞ほど、時刻は9時20分。

Img_3208c Img_3210c  旧諸戸徳成邸(2017年4月29日:「諸戸徳成邸」特別公開へ……「見納め」になるということで)は、諸戸家墓所を残して住宅地になっています。しかもかなりの高級住宅が並んでいます。桑名高校近くの高台にあって、眺めはよいところ。諸戸徳成邸は、残して欲しかったと思います。

Img_3221c  走井山勧学寺には、9時40分頃到着。ここが最初の目的地。お参りして、本堂前に置かれたスタンプを押し、しばし休憩。雲があったもののやはり暑い。帰ってから調べたら、この時点ですでに32℃くらいあったようです。高野山真言宗の寺。開基は、聖武天皇の御代(724~49年)で、行基菩薩の草創によると伝えられています。元は走井山の麓にあったようですが、元和3(1617)年、七代桑名藩主松平定重が矢田城址に本堂を再建しました。桑名市内に現存する寺社建築では、もっとも古いものです。

Img_3231c_20200817153501  勧学寺から三岐鉄道北勢線・馬道駅の方に降りる階段の途中に「伝村正屋敷跡」があります。このすぐ東にあるマンションのあたりに村正の屋敷があったといいます。「勢桑見聞略史」によれば、「村正トテ(中略)其旧宅ノ地矢田走井山観音堂ノ下道ノ左、今庄屋ノ家是其旧地也」とあるそうです。

Img_3241c_20200817153501  馬道駅西の踏切。ちょうど北勢線の電車がやって来ました。私はこの踏切の北西に立つ「三猿像」が好きImg_3248c_20200817153501 で、このあたりに来ると必ず見ていきます。この先は、いつぞや歩いた員弁街道。員弁街道に出て左折し、東へ。市内に向かって行きます。

Img_3257c_20200817153501  国道1号線浅川交差点を横断歩道橋で渡り、2ヶ所目の目的地・玉川軒に向かいます。

Img_3264c  玉川軒。明治28(1895)年創業の老舗。冷たいものをと思い、葛アイス(1本¥200)をいただきました。見た目は普通のアイスキャンディーですが、葛でコーティングされていて、ムチっとした食感で噛み応えあり。アイスですが、溶けません。ここは、村正展で妖刀村正のお菓子を作っていました(現在は、Sold out)。ここでは、買い物をすることで、スタンプを押してもらえます。あまりにも暑かったので、写真を撮ることなど忘れて、アイスを食べてしまいました(爆)。ここで3.8㎞、10時25分頃。

Img_3267c  玉川軒さんの先(東)、掛樋交差点を右折し、さらに左折すると旧東海道に入ります。天武天皇社の手前で、「本願寺跡・梅花仏鏡塔」を見てきました。ここにはかつて本願寺という大きな寺があり、その境内に芭蕉の門人である各務支考の分骨墓・梅花仏鏡塔があります。墓は各務の姓にちなんで、円形の鏡を模しています。各務支考がなくなったあと、この地方の俳諧の指導的立場にあった、支考の門人・雲裡坊杉夫(桑名本願寺住職)がこれを建立しています。

Img_3272c_20200817153501  天武天皇社です。3ヶ所目の目的地。私自身は何度か訪ねています。ここで4.3㎞、時刻は10時35分。壬申の乱(672年)のときに大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名郡家に駐泊されたことにちなみ、のちに創建されました。元は新屋敷付近にあったのですが、江戸時代に鍋屋町(現在地)に移りました。天武天皇を主神として祀っている全国でここのみといいます。

Img_3281c_20200817153501 Img_3283c_20200817153501  さらに東海道を進みます。日進小学校前辺りには七曲見附がありました。そこから北には、寺が集まっています。慶長の町割でここに寺が集められています。左の写真は、仏光山十念寺。浄土宗のお寺。七福神祭で有名ですし、森陳明の墓所があります。右の写真は、鎮照山凝念院光徳寺。浄土宗。ここには、万古焼の創始者である沼波弄山の墓所があります。古くは泡洲崎念仏道場と称していました。

Img_3296c_20200817153501  鍛冶町付近では、枡形を通り、吉津屋町へ。ここで余談。NPO法人千姫のところにあった自販機で気になるものを見つけましImg_3298c た。この千姫は、精神保健ボランティアのグループです。あられやおかきを売っているのですが、もう一つ。ジャガイモも入っていたのです。千姫長島農園で獲れたもので、200gで60円。ちなみに千姫は、2代将軍徳川秀忠の娘で、豊臣秀頼の夫人。徳川・豊臣両氏和親のため慶長8(1603) 年、7歳で豊臣秀頼に嫁しています。元和元(1615)年、大坂夏の陣で豊臣氏が滅んでから関東に帰り、本多忠政(本多忠勝の嫡男)の長子・忠刻と同2年9月29日に再婚。ということで、千姫は、桑名にも縁があるのです。

Img_3305c_20200817153501  京町でここでスタート直後に歩いた道とクロス。南魚町の寳興山(ほうこうざん)仏眼院。天台宗のお寺。創建は不詳ですが、最澄によると伝わっています(2020年8月15日:寺町寺めぐりの続き)。4ヶ所目のポイント。5.8㎞、時刻は11時10分頃。墓所で、千子宗入禅定門(承応4(1655)年没)の墓や、桑名城の前身・東城の城主であった伊藤武左衛門実房(天正11(1583)年没、桑名東城主初代)・実倫(慶長8(1603)年、同2代)父子の墓も確認(8月15日の記事をご参照ください)。

Img_3308c_20200817153501  寺町商店街を通過し、寺町交差点を渡って、袖野山浄土寺へ。西山浄土宗のお寺。我が家のすぐ近くで、このあたりは散歩などですっかり馴染み。写真でも分かりますように、本多平八郎忠勝公本廟があります。ここが5ヶ所目のポイント。6.5㎞、11時25分頃。慶長の町割りで現在地に移り、桑名藩主本多家の菩提寺となりました。

Img_3316c Img_3319c_20200817153501  こちらが本多忠勝公の墓所。前から不思議に思っているのは、鳥居が立っていることです。神仏習合のためかと思うのですが、確信はありません。ちなみにこの鳥居は、その形から神明鳥居でしょう。

Img_3324c_20200817153501  いよいよゴールも近くなりますが、またもや余談。船津屋さんの西に「七里のわたし湯」という銭湯があります。大正時代に創業、平成になってリニューアルしています。そこの自販機にハンディ・ファンを¥1,000で売っているのです。USB充電で使用可能というもの。

Img_3329c  本論に戻って、次の、6ヶ所目のポイントは、七里の渡し跡。ここはもっともお馴染み。毎日の散歩で通過しImg_3333c_20200817153501 ています。スタンプは、すぐ近くの「宿場の茶店 一(はじめ)」さんにありました。宿場町の小さな休憩所というイメージ。軽食や飲み物が楽しめます。6.9㎞、11時40分頃到着。

Img_3336c_20200817153501  ここからまた少しだけ旧東海道を歩いて、北大手橋を渡って、柿安コミュニティパークの方Img_3339c へ。コミュニティパークの入り口に立つのが、本多忠勝像。7ヶ所目。7.3㎞、11時45分。スタンプを探してウロウロしたのですが、コミュニティパーク駐車場の管理室のところにありました。ここに詰めているシルバー人材センターの方に尋ねてしまいました。

Img_3347c  11時55分、7.9㎞を歩いて、桑名宗社(春日神社)に戻って来ました。桑名宗社にもスタImg_3342c_20200817172801 ンプがありますが、それはスタートの時に押しており、これで村正史跡めぐりスタンプラリーをコンプリート。

Img_3353c Img_3355c_20200817153501  社務所で宮司さんに確認していただき、無事に記念品の村正の鍔の形のピンバッジをゲットできました。宮司さんとは知り合いですが、「こんな暑い日に1日で回って来たんですか?!」と驚かれるやら、呆れられるやら。

Img_3359c_20200817153501  いや、それにしてもやはり暑かった(苦笑)。ペットボトル2本(1,100ml)を飲み干しましたし、桑名宗社からの帰り道にさらに1本買ったくらい。スタンプラリーで歩いたのは、初めの方にも書きましたが、7.9㎞、ほぼ3時間。我が家から桑名宗社までの往復が2.0㎞ですから、合計9.9㎞。歩数は、スマホのAlkooのデータで17,788歩でした。Kさん、Mさんもお疲れ様でした。猛暑の中、体調も崩さずゴールできてホッとしました。体力的には自信にはなりましたが、過信せぬようにと自らを戒めておきます。

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2020年8月16日 (日)

連日の猛暑……いささかの仕事と昨日の散歩写真@家内の実家

Img_3157c  いわずもがな、連日の猛暑。日々暑くなっています(苦笑)。「わざわざ書くな!」というお叱りもあるとは思いますが、今日は、13時45分に38.3℃だったそうです。一昨日の夜から昨日の夜までは家内の実家へ。日中は猛暑でしたが、山里ですから、日が当たり始めるのは遅く、日が陰るのは早く、自宅にいるよりも涼しい。今日は、7時半前からほぼ2時間、6.1㎞を歩いてきました。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀南公園から入江葭町、吉津屋町、新築公園、常盤町、寺町といつも通り。冒頭の写真は、帰宅した9時半頃、拙宅マンション前の光景。

Img_3112c_20200816154401  歩き始めた7時半頃にはもう30℃越え。鳥も散歩友達もいません。歩いているのは、よほどの物好きなどと書くと、今日出遭っImg_3116c た方々には失礼ですが……(苦笑)。Sさん、Wさん、Yさんにはお詫びします。ツバメは、桑名七里の渡し公園近くにて。今年生まれの若鳥のようです。九華公園、ハクセキレイもいたものの、他はハシボソガラス、ムクドリ、ドバト、スズメが数えるほど。アーちゃんは、今日もいました。

Img_3125c  お盆も今日まで、ということで、御坊さんへ。写真は、南門から入ったところ。鐘楼、真宗大谷派の三重教区Img_3129c が入っている同朋会館の向こうに本堂が少し見えています。桑名別院ですので、今でもかなりの規模がありますが、昔はもっと広かったようです。

Img_3132c_20200816154401  ずっと以前、書いたことがあると思いますが、境内には松尾芭蕉の句碑があります。貞享元(1684)年、野ざらし紀行の折、ここ本統寺に一泊し、そのときに詠んだ句「冬牡丹 千鳥よ 雪のほととぎす はせを」の句碑です。市の文化財に指定されています。昭和12(1937)年4月に小林雨月が建立しています。

Img_3140c_20200816155901  また、これも以前の記事にありますが、境内には親鸞聖人像が立っています。現在の境内地で唯一戦火を免れたのが、この親Img_3143c_20200816155901 鸞聖人の銅像です(昭和13(1938)年の建立)。聖人が被られている笠を下から見上げると焼夷弾が貫通してできた小さな穴が3つあるのを見ることができます。

Img_3160c  散歩から帰宅して、シャワーを浴び、昼までの間に遠隔授業1コマ分の録音作業を済ませられました。これで前期分の授業資料と音声ファイルは、準備完了です。午後からは、珍しく午睡も貪らず(爆)、先週の分のQ&A書きと、課題の回答のチェック&評価。今週は、オープンキャンパスが予定されていましたので、休講(結局、オープンキャンパスも中止になりましたが)。次は来週。

Img_2895c_20200816154501  ところで、ここからは昨日の散歩写真。家内の実家辺りの町内一周と、義父の墓参りをしてきました。5㎞ほど。津市郊外の山里です。西に青山高原が望め、風力発電の風車がよく見えます。

Img_2893c Img_2888c_20200816154501  歩き始めてすぐ、近所のお宅に栗の木(あちこちにあります)。もう実はかなり大きくなってきていて、道路にも落ちていますし、田んぼに水を入れる用水路を流れていくのを見ることもあります。

Img_2912c  用水路脇で、カワトンボの仲間。たぶんアオハダトンボと思います。体が金属的な光沢をしており、ヒラヒラという感じで飛びます。私は、どうもこういうタイプのトンボが好きなようです。

Img_2947c  氏神様の射山神社にお参り。大己貴命・少彦名命・天照大神などをお祀りしています。延喜式内社の1つ。境内の裏手にある湯之瀬川の北岸にそびえる射山(貝石山)を御神体とし、今も山腹8合目に御社跡が残っています。

Img_2956c_20200816161401  境内には、芭蕉の反故塚があります。江戸時代の「温泉来由記」に掲載されている「榊原湯山図」に描かれているといいます。芭蕉が亡くなった後、芭蕉を慕う俳人がこの地で句会を開いた際に建立しました。かつて芭蕉がこの地で俳諧をした際に出た反故を埋めたと伝わっています。

Img_2995c  このあと、誓願寺、林性寺などを巡ってから、少し脚を伸ばして幼稚園近くへ。射山神社の「一の鳥居跡」の石柱(向かって左)と、「榊原信濃守塚跡」の石碑(向かって右)が並んで立っています。射山神社一の鳥居跡の背後は、射山神社の鎮守の森、さらにその後ろは貝石山です。

Img_3004c  左の写真が射山神社一の鳥居跡。貝石山は温泉の出る山、湯の山で、この「湯山」が転じてImg_3001c_20200816154401 「射山」になったといいます。それゆえ、温泉の神を祀ったということ。昭和63(1988)年に朽ちかけた石柱を立て替えています。右が、榊原信濃守塚跡碑。「榊原郷土を守る会」(田中萬年会長)が、明治27(1894)年に温泉会所が作成した絵地図を基に、榊原姓の発祥となった榊原城初代城主の榊原信濃守興経(おきつね)の塚跡碑を建立したものです(平成30(2018)年8月)。ここは、現在は、水田のあぜ道となっていますが、温泉に向かう古道沿いだそうです。碑と射山神社と御神体であった貝石山が一直線に並びます。

Img_3038c_20200816154401  歩いていると、稲穂がかなり実ってきて、頭を垂れ始めていました。良い景色です。途中、市営の温泉施設近くで、ヒガンバImg_3019c_20200816154401 ナと思われる花。1輪だけ咲いていました。真っ赤ではなく、ちょっとピンクっぽい気がします。

Img_3041c  少し脚を伸ばして、髙福山清淨光院圓淨寺へ。実家の菩提寺。永享元(1429)年に智海法師が開創したという、歴史のあるお寺。当初は、天台宗でしたが、寛文元(1661)年に真宗高田派線に改宗しています。線香も蝋燭も花も持っていなかったのですが、お盆ですから墓参り。ご住職のお孫さんが遊んでいたのですが、帰り際に大きな声で「ありがとうございました」といわれ、思わずニッコリ。

Img_3061c  川や水田でダイサギを合計3羽見られました。トビの鳴き声も聞こえて来たものの、姿は見られませんでした。水田を囲う動Img_3075c_20200816154401 物除けの電気柵には、よくトンボが止まっています。右は、全身真っ赤ですから、ショウジョウトンボのオスかと思います。

Img_3082c_20200816154401  実家近くに戻って、もう一軒のお寺。萬照山善福寺。こちらも真宗高田派のお寺。最近、掲Img_3086c 示板のことばが気になります(微苦笑)。高田本山作の「『なもあみだぶつ』は弥陀のよび声』というものが貼ってありました。「なもあみだぶつ」は、「南無阿弥陀仏」。「南無阿弥陀仏」とは、大辞林によれば、「阿弥陀仏に帰依するの意。浄土宗などでは、それを唱えることによって阿弥陀仏の浄土に救済されるとする」こと。主体は、個人であり、阿弥陀様ではないと思われますから、「弥陀の呼び声」とは違うんじゃないかというのが、凡夫の浅知恵ですが、いかに?

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2020年6月21日 (日)

古代ハスとジョサイア・コンドル没後100年メモリアルイベントでフローティングフラワーを見る……六華苑へ

Img_3744c_20200621192001  今日は夏至で、部分日食が見られるはずでした。が、部分日食が見られる時間帯は、雲がかかっていました。残念。今日の散歩は、六華苑で行われている「ジョサイア・コンドル没後100年メモリアルイベント」と、古代ハスの花を見て来ようということで、いつもとは逆コースで、田町、京町、入江葭町、内堀南公園、貝塚公園、九華公園、住吉神社から六華苑と回って来ました。6.2㎞+α。8時から11時半の散歩。最高気温は、27.7℃。木陰は風も通って涼しいのですが、日向はやや暑い。

Img_3751c_20200621192601  六華苑の入り口、長屋門。我が家の隣といってよいほど近くにありますが、来るのはせいぜい1年に1回。前回は、去年9月6日Img_3917c (2019年09月06日:九華公園、旧東海道、七里の渡し跡、宿場の茶店「一」から六華苑を漫遊)。それなりに賑わっていました。人気の的は、古代ハスの花と、メモリアルイベントの一環として行われているフローティングフラワー(花手水)でした。後者は、女性に大人気です。

Img_3782c_20200621192101  まずは、古代ハスの花。花弁の数が少ない原始的な特徴を持つそうです。濃いピンクの花を咲かせていまImg_3790c_20200621193501 し た。国名勝に指定されている庭園の池の⻄側に植えられています。中日新聞の記事によれば、今年は約20個と、例年より多くのつぼみが出てきているといいます。

Img_3886c  この古代ハスは、平成9(1997)年、市制施行60年を記念し、友好都市の埼玉県行田市から3Img_3881c 株が寄贈されたものです。行田市が1970年代に行った公共施設造成⼯事により、1,300~1,400年前の地層から出土した実が自然発芽したものだそうです。桑名市でも増殖、維持の努力が続けられたものの、徐々に弱ったため、2年前に行田市から再び寄贈されました。ハスですので、花は早朝に咲き、昼ごろには閉じてつぼみの状態に戻ってしまいます。これを4日繰り返して散ります。散策路から近いところから撮ったのは、上の2枚。花が東向きに咲いていますので、裏から見る感じになります。こちらの2枚は、池を挟んで対岸から望遠で撮ったもの。

Img_4088c_20200621192101  フローティングフラワーは、苑内6箇所にあるということなのですが(これは、帰ってきてからネットで調べて分かりましImg_9390c_20200621192101 た)、3箇所しか気づきませんでした。よく反省して、事前の下調べが必要と書いているのですが、年を取ると学習効果が身につかないようです(苦笑)。こちらの2枚は、和館の南にある手水鉢。ここは人気スポットで、女性の皆さんが群がっておられました。フラワーアレンジメントのように色とりどりの花を浮かべて飾られています。

Img_4195c_20200621192101  左の写真は稲荷社の南のフローティングフラワー。苑内の北西奥にありますので、ここまでいらっしゃらない方も多数。私も6箇所のうち、半分しか気づきませんでしたので、偉そうなことはいえませんが、もったいない。苑内のマップはここにあります。

Img_4214c_20200621192101  こちらは離れ家の近くにひっそりと置かれていた感じ。これ、気づかずに素通りしてしまいそうです。これImg_4222c_20200621192101 もなかなかよい感じです。

Img_3930c  せっかく入場料¥460を支払って入りましたので、建物の中も見てきました。左の写真は、玄関ホールの内側。ここだけで我が家一軒分が入りそうです(苦笑)。

Img_3947c  こちらは、洋館1階の食堂。「ジョサイア・コンドル没後100年メモリアルイベント」の1つとして、テーブルコーディネートが施されています。英国スタイルのテーブルコーディネートになっています。使用されている食器は和洋折衷です。作品は、 一般社団法人ジャパンテーブルコーディネート協会桑名校が提供しています。

Img_4015c_20200621192201  2階のサンルーム。広々としていて、日当たりはとても良く、気持ちの良い空間です。隅にロッキングチェアーが置かれています。許されるのであれば、このロッキングチェアーに座って、しばらくボンヤリとしていたいと思います。ちなみに、このサンルームや、苑内の各所から拙宅マンショが見えます(微笑)。

Img_4006c  六華苑(旧諸戸清六邸) は、山林王・二代諸戸清六の新居として明治44 (1911)年に着工、大正2(1913) 年に竣工しています。揖斐・長良川を望む約18,000 ㎡の敷地に、洋館と和館、蔵などの建造物群と「池泉回遊式」庭園で構成された邸宅です。一部は改修され、また、戦災を受けてはいますが、創建時の姿をほぼそのままにとどめています。洋館の設計は、鹿鳴館やニコライ堂などを手がけたイギリス人建築家 ジョサイア・コンドル。東京以外に、コンドルが設計した建物で残っているのは、ここが唯一。

Img_4036c_20200621195301  和館。廊下は、畳廊下と板張り廊下と2つが並行しています。板張り廊下は、使用人の方が通ったところ。畳廊下は、家族やImg_4046c 客人が歩くところ。世が世なら、私など板張り廊下しか通れなかったでしょう(笑)。建物案内図は、こちらにあります。

Img_3808c  六華苑というと、この景色も忘れてはいけません。庭園の池越しに見た建物です。今日は、天気もよく、風もありませんでしたので、建物が水鏡になってきれいでした。「ジョサイア・コンドル没後100年メモリアルイベント」は、昨日、今日で終了。古代ハスの花は、7月半ば頃まで楽しめるということです。

Img_4228c_20200621200101  余談と申し上げては失礼ですが、和館と番蔵棟の間では、若いカップルの方が、結婚式の前撮り写真を撮影中でした。いやぁ、いいですね。正直、そう思います。

Img_3964c_20200621200501  余談その2。洋館2階の女中室では、「諸戸徳成邸水彩画展」が開かれていました。徳成邸は、もうありませImg_4270c んが、何度も特別公開を見に行きました。たとえば、2017年4月29日には最後の特別公開を見ています(「諸戸徳成邸」特別公開へ……「見納め」になるということで)。ここは、一時、桑名市が買いあげるという話もあったものの、財政難から諦めました。実にもったいないと思います。水彩画展に出展された絵をもとにした「諸戸徳成邸絵はがき(10枚セット、¥500)」を売っていましたので、ゲットしてきました。

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2020年5月 4日 (月)

20200501ご近所神社めぐり……(その2)一目連神社、本願寺跡・梅花仏鏡塔、天武天皇社、伝馬公園、金刀比羅神社

0501walking2  5月1日の「ご近所神社めぐり」のその2です。その1では、市役所から南あたりにある立坂神社、神舘神社、八重垣神社に参拝してきた話を書きました。続きをどうするか決めてありませんでしたが、取り敢えずは、このあと回って来た旧東海道沿いにある一目連神社、本願寺跡・梅花仏鏡塔、天武天皇社、さらに、伝馬公園、金刀比羅社について取り上げることにします。左はその1でも載せた歩いたルートマップですが、八重垣神社を出てから南に行き、若宮町方面を回っていますが、これは歩く距離を稼ぐためで、立ち寄ろうと思ったところはありません。地図では、本願寺とあるあたり(西鍋屋町交差点)で右折しています。右折して歩いたところは、旧東海道。東海道、西は善西寺の方に続き、益世小学校の手前(東)で左折し南に続いて、安永から町屋川方面に行きます。今日の記事で取り上げるところは、以前の記事でも取り上げていますから、内容の重複があります。

Img_6039c_20200503161901  グルッと回ったあたりには、カラオケ店とか、飲食店、パチンコ店が集まっています。写真は、県内の大手チェーンのパチンコ店の店頭の掲示。自粛要請を受けて休業中。私自身は、最初の勤務先の患者さんのレクレーションの付き添いで何度かしたことがあるくらいで、もう40年近くやったことはありません。あちこちで休業要請に応じないパチンコ店が問題になっていますが、かなりのランニングコストがかかるそうですから、パチンコ店もかなり大変なのでしょう(単なる感想です)。

Img_6054c_20200503161901   さて、旧東海道に入って50mほどのところに一目連神社があります。御祭神は、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)。大Img_6060c_20200503161901 物主神をまつる祭具をつくったとき、鍛冶(かじ)を担当した神様。多度大社の別宮にも祀られています。先ほど「西鍋屋町交差点」を曲がったと書きました。このあたりは「鍋屋町」という名前が記すとおり、鍋屋が多かったので、天目一箇命に対する信仰が篤く、金属工業の神として勧請されたと考えられています。

Img_6058c_20200503161901  一目連神社の境内には、美濃派の俳人・徐風庵(じょふうあん)の句碑があります。「名いろいろ さだまる夏の 木かげかな 徐風庵」と刻まれています。徐風庵は、芭蕉門下の各務支考(かがみしこう)が美濃に興した俳諧の一派。美濃派(再和派)の第九世・多賀徐風庵(1772~1832)。旗本加藤平内に仕えた代官です。美濃派は、員弁街道ハイキングで、東員町交番の裏に自然石の石碑がありそこに岩田卜際の句「雲いくへ ひばりなくなく そりみ坂」が刻まれていました(2020年3月29日:20200329「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」(予告編))。卜際も徐風庵に学んでいます。

Img_6066c  一目連神社の向かいに道標が1基あります。「左 東海道渡舩場道」「右 西京伊勢道」と刻まれています。「渡舩場」は、七里Img_6067c_20200503161901 の渡しを指していると考えられます。碑陰には、「明治廿年十一月廿八日開店之祝意建…」とあります。明治20年は、1887年。「西京」とあるのは、京都のことで、東京に対しての表現と思われます。伊勢道は、東海道を下って、四日市の日永の追分から分かれます。

Img_6076c  一目連神社からさらに50mほど先の右手(南)に本願寺跡があります。火災で記録が消失したため、詳しいImg_6080c_20200503161901 ことは分かりませんが、江戸時代には本願寺村があり、古くからの古刹であったと考えられています。このあたりから東鍋屋町。

Img_6083c_20200503161901 Img_6086c_20200503161901  境内には、松尾芭蕉の門人である各務支考の分骨供養塔である「梅花仏鏡(鑑)塔(ばいかぶつかがみとう)」があります。支考は、上述のように、美濃派の創始者であり、美濃国だけに限らず近国に多数の門弟を抱えていました。支考は、宝永8(1711)年に佯死(ようし;死んだふりをすること)して、墓を同国山県郡北野村(現岐阜市山県北野)の獅子庵に建てました。この墓は各務の姓にちなんで、円形の鏡を模して、鑑塔と称しています。支考が実際に亡くなったのは、享保16(1731)年。この頃桑名では、美濃派の俳諧が流行しており、その指導的立場にあったのは、支考の直門の雲裡坊杉夫で、桑名本願寺住職を務めていたと考えられています。彼は、支考の没後に、その人物を片田舎に埋もれさせることを惜しみ、分骨を受けて北伊勢の門人たちの手により本願寺に鑑塔を建立し、「桑名万句」を編するなどして支考の霊を供養するとともに、東海道を往来する旅人にも参詣させようとしたといいます。この前後に雲裡坊を初代社長として北伊勢美濃派俳人等を統合し、「間遠社(まとおしゃ)」が結成されています。鑑塔の周囲には、歴代の間遠社社長の句碑が建っています。

Img_6092c_20200503174301  天武天皇社。天武天皇社の御祭神は、天武天皇、皇后持統天皇高市皇子です。天武天皇を主祭神とするのは、全国でこImg_6105c_20200503174301 の神社のみです。天武天皇(大海人皇子)は、壬申の乱の時に、皇后と共に吉野より潜幸され、桑名郡家に宿泊されました。「6月24日に吉野を出発した大海人皇子の一行は、26日には朝明郡を経て、桑名郡家に到着し、宿泊する。翌27日、大海人皇子は吉野から同行していた妃の讃良皇女(のちの持統天皇)を残して不破に向い進発した」というのですが、桑名郡家がどこかは確定していません。天武天皇の桑名滞在は僅かでしたが、皇后は約2ヵ月も逗留され、当地が2帝との関係浅からぬものがあるため、後世、祭ったものです。

Img_6123c_20200503174301  天武天皇社の背後(北側)には、伝馬(てんま)公園があります。伝馬公園は、近世の桑名城下町でいうと、その南西端にあります。16世紀末頃からこの地に所在した浄土真宗の寺院「願証寺」の境内の一部であったと伝わっています。願証寺はもとは長島にあり、明応6(1497)年、蓮如上人の子・連淳が入って東海地方の浄土真宗の中心として、門徒10万人余を擁する一大勢力を保っていました。本願寺が織田信長と対立したとき、願証寺も信長に反旗を翻したのですが、天正2(1574)年に信長に滅ぼされました。しかし、江戸時代、桑名に再興し、約1万坪(約33,000平方メートル、野球場3個分くらい)に及ぶ境内を有していましたが、正徳5(1715)年の高田派への宗旨替えで内紛が起こり、廃寺に至ったといいます。伝馬役に従事する人々が多く住んでいたため、それが町名になりました。一昨年、市教育委員会が遺跡発掘調査を行い、江戸時代、桑名城下町に全国6番目に整備された上水道管が初めて敷設状態で見つかりました。その説明会にも行っています(2018年12月13日:20181208伝馬公園遺跡発掘調査説明会に参加して来ました)。

Img_6125c_20200503174301  ここで一休み。上の写真のように、ほとんど誰もいませんでした。若い男性が一人、ベンチに座ってスマホを見ていただけ。私は藤棚の下のベンチで休憩。藤の花にはクマバチが寄って来ます。羽音が大きく、ずんぐりむっくりの体も壊そうに見えますが、温厚な性格なので、こちらが手を出さなければ大丈夫。

Img_6135c_20200503174301  伝馬公園の近くに掛樋という交差点があります。これは、江戸時代、御用水が城の惣構堀をまたぐための水Img_6137c_20200503174301 道橋がかけられたことに由来するものです。掛樋交差点の東に金刀比羅神社があります。宝永7(1710)年、桑名藩主・松平忠雅公が備後福山から移封されたときに随伴した円覚院住持が境内に祀られ、維新後廃寺となったものの、御祭神は現存したと由緒書きにあります。御祭神は、薬師十二神将の一つとあります。これは、宮毘羅 (くびら) です。薬師如来の家来から船神となり、航海安全を守る神となっています(桑名市史本編)。桑名は、伊勢湾舟運の中心の一つでしたから、金刀比羅神社の崇敬者は多かったかも知れません。由緒書きには水神を祀っているともあります。ちなみに、金刀比羅宮の御祭神は、大物主神と、崇徳天皇となっています。

Img_6145c_20200503174301  境内には、金刀比羅神社と宗霊社と2つの社が祀られています。たぶん向かって左が金刀比羅神社、右が宗霊社。神社検索三重のサイトには載っていませんので、神社庁傘下の神社ではありません。宗霊社は、祖霊社かという気がしますが、不明。祖霊社であるならば、祖先の霊を祭るための社です。

 5月1日の「ご近所神社めぐり」で回って来た神社は以上。それぞれの神社の境内社などについては触れていません。「補遺編」または「その3」として書こうと思っています。

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2020年5月 1日 (金)

20200501ご近所神社めぐり……(その1)立坂神社、神舘神社、八重垣神社と善西寺、オマケは「特別定額給付金」オンライン申請の話

0501walking2  24.5℃になって夏日直前という陽気でした。今日の散歩は、鳥も少ないこともあり、また、目先を変えて気分も変えようと考Img_6183c_20200501170101 え、「ご近所神社めぐり」と銘打って歩いてきました。主な目的地は、国道1号線沿い、市役所から南あたりにある立坂神社、神舘神社、八重垣神社でした。立坂神社は行ったことがありますが、神舘神社と八重垣神社はまだ参拝したことがありません。歩く距離を稼ぐため、若宮町から大福を回って、旧東海道にある一目連神社、本願寺跡・梅花仏鏡塔、天武天皇社、伝馬公園、金刀比羅社も回って来ました。8時20分にスタート、11時10分に帰宅。6.9㎞、13,802歩。暑かったせいか、もっと歩いたような気がします。今回は、その1として、立坂神社、神舘神社、八重垣神社と善西寺について、その概要です。

Img_5665c Img_5670c_20200501171201  参宮町交差点で国道1号線に出て、ずっと南下。八間交差点(左の写真)、総合医療センターや、アピタ、市役所の前を通って行きます。クルマで通ることがほとんどのところですが、歩いてみたら、案外近いと感じました。

Img_5687c  左の写真は桑名市役所。手前に写っている「新城」はうなぎ屋さん。評判のお店ですが、残念Img_5683c_20200501171601 ながら一度も行ったことはありません。右は、ホリという桑名では老舗の喫茶店。休業自粛要請に応えて、休業中。他にも、通り道では、休業中の店がたくさん。

Img_5698c  立坂神社。国道1号線から少し入ったところに鳥居があります。ただし、本来Img_5705c の参道は、神社から南にまっすぐ延び、旧東海道に面したところに石造の一の鳥居があります。もともとは「矢田八幡社」でしたが、明治以後は、東方にあった式内社立坂神社が矢田八幡社に名称を譲ったため、こちらが式内立坂神社と呼ばれるようになりました。桑名藩主本多忠勝の宗敬深く、以後代々の藩主の保護を受けています。

Img_5733c Img_0437c  主祭神は、大日孁貴尊(おおひるめのむち;天照大神の別名)。相殿神は、武甕槌神(タケミカヅチノカミ)、斎主神(ふつぬしのかみ)、天児屋根命(あまのこやねのみこと)、姫大神(ひめがみ)、木花咲夜比売神(このはなさくやひめ)、大山津見神(おおやまつみのかみ)、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)、応神天皇(おうじんてんのう)、玉依姫(たまよりひめ)。社宝として、紙本淡彩本多忠勝像短刀村正があります。九華公園にある本多忠勝像(右の写真)は、この立坂神社の紙本淡彩本多忠勝像をもとにつくられています。 

Img_5794c  立坂神社は、戦災を免れたので、昔の風情を残しており、なかなかよい雰囲気で落ち着きます。地域の方の崇敬も厚いようで、私がいる間も、数は少なかったものの参拝の方が何名かいらっしゃいました。境内には、大日孁貴尊社、子安稲Img_5778c 荷社、八天宮、菅原神社、御霊舎があります。さらに、これは以前からのようですが、烏骨鶏が飼われています。

Img_5784c_20200501170201  もう一つ、興味深いことは、立坂神社のすぐ西にキリスト教の教会があるのです。西側の参Img_5786c_20200501170201 道の鳥居の向こうに十字架が掲げられた教会の建物が見えます。

 カトリック桑名教会-桑名の聖母-がそれです。Img_5812c昭和34(1959)年12月に聖堂献堂式が行われたそうです。ちょうど伊勢湾台風の年です。この教会には、円形の聖堂、祭壇があるそうです。初代の神父の考えで、すべての会衆が中央に置かれた祭壇に近づけるようにと円形になっているといいます。

Img_5859c_20200501170201  門前から約250m離れた東海道筋に、立坂神社の石造鳥居があります。左の写真で鳥居の前の道が、旧東海道です。この鳥居のあたりが、矢田立場でした。立場は、宿場と宿場の間にあって、旅人が休憩する茶店などが集まっているところです。『久波奈名所図会』には、「此立場は、食物自由にして、河海の魚鱗・山野の蔬菜四時無きなし」とあります。

Img_5861c Img_5863c  西矢田町には現在でも、馬をつなぎとめた鉄環のある家が残っています。このお宅(竹内家)は、建て替えたのですが、この鉄環の部分は、新しい建物にも残されています。こういう配慮はうれしいことです。

Img_5846c  一の鳥居に向かって右、東側には真宗本願寺派の走井山善西寺(はしりいImg_5853c_20200501170201 ざんぜんせいじ)があります。リンク先によれば、ご住職は理学博士号(名古屋大学)をもっておられます。戦国時代の矢田城(現在の走井山公園)の城主・矢田俊元(としもと)は、織田信長と戦って敗死。孫の俊勝(としかつ)は出家して、この寺を建て、祖父の法号をとって寺号にしています。

Img_5866c_20200501181601 Img_5874c  立坂神社から旧東海道を越え、さらに南へ行くと、若宮公園に行き当たります。若宮公園の南に神舘(こうだて)神社があります。神舘神社の通称が「若宮神社」。公園の名前はこれに因んでいると思われます。公園で一休みしてから、神舘神社へ。

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 神舘神社は、伊勢神宮の領地があったここ神戸岡に建てられたといわれます。倭姫命が伊勢Img_5922c 神宮地座地を求めて巡幸したとき、御休泊所として神館(かんだち)が建てられ、その旧跡に御厨神社として、当社が創建されたといいます。境内には、右の写真のように、それを記念する石碑が建てられています。

Img_5883c Img_5939c_20200501182801  神社には、写真のように周豪があり、昔は神戸の役館であったとも推定されています。右の写真は、神社の裏手。表にも裏にも門があって立派です。

Img_5889c_20200501170301 Img_5895c  御祭神は、天照皇大御神豊受大神(トヨウケノオオカミ)、倭姫命(やまとひめのみこと)、大山祗神(おおやまつみのかみ)、火産靈神(ほむすびのかみ)。永享7(1435)年銘の獅子頭があり、伊勢太神楽は巡業の時にはこの神社から出発したという仮説を裏付けています。現在も、秋の祭礼には伊勢太神楽が奉納されます。天文22(1553)年の銘のある村正の刀、剣も奉納されています。

Img_5899c_20200501170301  境内には鏡ヶ池があり、その向こうには社が2つ。向かって左は、鏡ヶ池社。天照大神がここに留まった際、水を求められてつくられた池がこれで、鏡の形に似ていたことから鏡ヶ池と名づけられました。御祭神は、竜神で俗に白龍さんといわれています。

Img_5960c_20200501193501  神舘神社の参道を南に行き、一の鳥居があります。ここを潜ってすぐに左折。国道1号線の八重垣町交差点にImg_5967c 出ます。この交差点に面して八重垣神社があります。江戸時代の書物には牛頭天王社と記されており、大福にあった大福田寺の鎮守でした。大福田寺は東方に移転したのですが、神社はそのまま残り、大福と福江町の氏神となっています。

Img_6004c_20200501170301  主祭神は、建速須佐之男命(たけはやのすさのおのみこと)、相殿神は大山祇神(おおやまつみのかみ)と火産霊神(ほむすびのかみ)。創立は、清和天皇貞観年中(859年~)と伝えられています。桑名市史には清和天皇貞観年中、卜部清麻呂が尾張国津島の牛頭天王を京都祇園に勧請のため当所通過の節、供御を献じた地だといいます。

Img_5994c  八重垣神社では大門祭が行われます。「久波奈名所図会」によると、江戸時代は旧暦6月14日夜に行われ、松明数十本を灯し、鉦太鼓を叩きながら、「大門の祭は出て行は出て行出て行……」と囃しながら、海浜に行列したといいます。現在は、7月の最終日曜日に行われている。また、湯立神事が行われていた頃使用されていた「湯立釜」が残っています。明和7(1770)年の銘があり、制作者は桑名の鋳物師・広瀬与左衛門政次。

Img_5678c  「20200501ご近所神社めぐり」のその1は、取り敢えずここまでとします。次は、今日訪ねた神社仏閣の詳細とするか、他に訪ねた一目連神社や、天武天皇社の話に行くか、また明日、目が覚めたら決めます(微笑)。

10manen  以下、余談。地元・桑名市では、今日午前8時30分から「特別定額給付金」のオンライン申請が始まりました(こちらに総務省の資料があります)。マイナンバーTeigaku カードがあると、マイナポータルから申請できるのです。e-TAXを利用するため、マイナンバーカードは作ってありますので、午後から試しにアクセスしてみました。「マイナポータル」のサイトにはアクセスでき、マイナンバーカードでログインまでは行けました。

Konzatsu  しかし、「特別定額給付金の申請」は、ご覧のように、「只今、サイトが大変混み合っております」でした。何度か繰り返しても同様。明日にでも、朝、早く起きたら再挑戦してみましょう。ちなみに、オンラインで申請すると、5月中旬には振込が行われるそうです。

【付記(5/1、20:35)】 先ほど(夜8時半)「マイナポータル」に再度アクセスを試みたところ、晴れて(?)「特別定額給付金」のオンライン申請にアクセスできました。ものの5分足らずで申請完了です(微笑)。マイナンバーカード、便利です。情報漏れやらプライバシー侵害やらいろいろと課題は指摘されますが、それらをクリアした上であれこれ使えるようにしたら、今回のような非常事態に対する対応も早くなるのにと思います。

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2020年4月28日 (火)

河口堰でコアジサシ、コムクドリ、ヒレンジャク、ササゴイ、長島水辺のやすらぎパークで牡丹……プチ遠征を楽しみました

Img_5124c_20200428191901  風はありましたが、20℃を超え、この時期らしい気候。プチ遠征としました。とはいえ、県境を越えるのは自粛を要請されていますので、行き先は長良川河口堰とその周辺です。河口堰、臨時駐車場、長島水辺のやすらぎパーク、願證寺などを回ってきました。現地で歩いたのは、合計4.5㎞ほど。河口堰で出会ったのは3組計5人、やすらぎパークでは先客2名、願證寺では私一人です。しかし、気になったのは、河口堰でも、やすらぎパーク駐車場でも、名古屋ナンバーの車が複数止まっていました。県外への外出は自粛が要請されています。どちらも「密」になるところではありませんが、時節柄いかがかという気がします。

Img_4935c  さて、長良川河口堰。8時35分到着、10時10分まで。サギはあまりいないかと思ったのですが、かなりたくさんいました。コImg_4328c_20200428191701 サギがほとんどで、ダイサギが混じり、アオサギもいるという状況。右は、管理橋を渡った西側、魚道あたりの様子。乱舞しています。ダイサギとコサギが混じっています。

Img_5067c  その河口堰では、親水広場でヒレンジャクを見つけました。6~7羽がいました。先だっての九Img_5109c_20200428191901 華公園に続いての幸運(2020年4月15日:九華公園で7年4ヶ月ぶりにヒレンジャク)。親水広場あたりを移動していましたが、見ている間はあたりの木を移動していました。キレンジャクの方はいません。キレンジャクも見てみたいものです。

Img_4342c_20200428191801  さらに、先日も見たコムクドリがまだいました(2020年4月21日:その後の御衣黄、河口堰でコムクドリ、某所でケリは営巣……なばなの里は花ひろばのみ公開中)。全長19cm。オスは頭から胸にかけて灰色味のある白色で、頬に赤褐色斑があります。Img_4349c-2メスは頭から背は黄褐色で、くちばしと脚は黒色。ヒレンジャクとコムクドリとは、同じ木に集まっていました。いやぁ、それにしてもラッキーでした。

Img_4365c_20200428191901  ヒレンジャクと、ホオジロのオスとのコラボ写真も撮れました(微笑)。そうなのです、今日もホオジロが見られたのです。

Img_4992c_20200428191701 Img_5003c  現地ではホオジロのオスが2羽と思い込んだのですが、帰ってパソコンで見たら、1羽はメスでした。メスの写真は、ちょっとピンぼけ(苦笑)。

Img_5012c  その上、ササゴイ(笹五位)までいたのです。親水広場の東側。気づかずに近づいてしまい、逃げられたのですが、証拠写真は撮れました。翼の上面は青藍色で、各羽の羽縁に白く縁取りがあり、「笹の葉」のように見えるので、この名前が付けられているそうです。

Img_4295c_20200428191701  いや、しっかり楽しめましたが、もう一つ、ニュースがあります。コアジサシが飛来していたのです。長良川の中央から右岸Img_4293c_20200428191701 側(西側)で数羽を見かけました。ただし、いかにも遠い。証拠写真もいいところ。クリックして拡大していただき、よくよく見ていただくとコアジサシらしいことが分かっていただけると思います。以前、この近くにあった繁殖地は、建物が建ったりして見当たらなくなっています。ここに来るということは、どこかに繁殖地を決めて、来ていると思うのですが、それはまだ不明。揖斐長良川の中洲あたりも飛んでいたのですが、中洲には普通は立ち入れませんので、確認できません。

Img_4278c_20200428191601  忘れてはいけません。キンクロハジロはまだ14羽ほどが滞在中。上に書きましたように、アオサギもいました。西側の魚道Img_4319c_20200428191701 でエサを探していたものが飛び立ったのが右の写真。

Img_5155c_20200428192001  それにしても、今日は河口堰まで出かけてよかったですねぇ。コサギが魚をゲットするシーImg_4404c_20200428192101 ンも見られたのですが、写真はピンぼけでした(苦笑)。1時間半もいてしまいました。

Img_4444c_20200428192101  続いては、某臨時駐車場。先だっては(2020年4月21日:その後の御衣黄、河口堰でコムクドリ、某所でケリは営巣……なばなの里は花ひろばのみ公開中)、ケリの営巣やら、コチドリやら見られたのですが、今日はどちらも不在。ケリは営巣を諦めたようで、残念。今日いたのは、カワラヒワ4羽のみ。

Img_5177c_20200428192101 Img_5207c_20200428192101  続いて、長島水辺のやすらぎパークへ。ここには牡丹園があるのです。公園自体は休館中でも、牡丹は見られるだろうと思って、です。予想通りでした。水辺のやすらぎパークにある久我屋敷は入れず、また、イベントも行われてはいませんでしたが、牡丹園は開放されていました。久我屋敷は、長島藩の重臣であった久我家のもの。明治になって久我氏は戸長に任命され、長島・大島・松ヶ島・駒江・出口・又木・小島の各村を治めました。、家屋は明治12(1879)年)に建築されたもの。後裔は長島町を離れ、空家となっていた家屋敷を平成15(2003)年、長島町が譲り受け、観光客などの休憩施設として改装をしました。

Img_5231c_20200428192201  牡丹は早く咲いたものは盛りを過ぎつつありましたが、見応え十分でした。最初に書きましたように、先客は近くからいらしImg_5229c_20200428192201 たという女性お二人のみ。他には、ここの整備を担当している男性のみ。堪能してきました(微笑)。

Img_5199c_20200428192101  昨日も書きましたが、牡丹の花はボリュームがあります。こういうことを書くといけませんImg_5272c が、グラマラスな女性を連想させます。お断りしておきますが、主観的には、決してセクハラオヤジではありません。こう見えても、現役当時は、セクハラ相談員でしたから(微苦笑)。

Img_5244c_20200428192201  牡丹園のところには藤棚もあります。そこで、両者のコラボ写真も。ここは、穴場スポッImg_5283c_20200428200601 ト。そばには、長島川が流れていて、とても気持ちの良いところです。水辺のやすらぎパークには、桜の木もたくさんあり、実が色づき始めていました。食べてみたい衝動に駆られたのですが、触ってみたらまだ固くて食べられそうもありませんでした。

Img_5281c_20200428200801  ここもよいところです。長島川に沿って遊歩道が整備されていて、近鉄長島駅近くから、長島城跡(長島中Img_5298c_20200428201101 学校、長島中部小学校)、又木茶屋、長島水辺のやすらぎパークを経て、なばなの里近くまで歩けるのです。ゴールデンウィーク中、もう一度来て散策を楽しむのもよいかと思います。このように近場でもけっこう楽しめるところが、どこにでもあるように思います。とくに、ここのように水辺の空間は、気持ちよいと思うのです。

Img_5322c_20200428192201  長島水辺のやすらぎパーク駐車場まで戻って、近くの神社仏閣へ。すでに行ったことはあるのですが、駐車場のとなりには神明社。主祭神は、天照皇大神。社伝によれば、慶長19(1614)年に西外面村遠浅に神明宮として勧請したものの、その後荒廃。そのため西外面鎮座のハ幡宮を産土神として崇敬するに至りました。大阪の陣に際し、当地の民が多く徴発されて出陣したものの、全員つつがなく帰村できたのは神明の加護によるものとして再び社殿を造営し奉斎したと伝えられています。簡素な社ですが、それなりの由緒、経緯があるものです。

Img_5328c_20200428192201 Img_5340c_20200428192201  そして、長島山願證寺。願證寺(がんしょうじ)は戦国時代、織田信長と長島の一向宗門徒の間で起こった長島一向一揆の舞台となった寺として、悲惨な歴史があります。しかし、もともとの寺跡は明治期の河川改修工事によって、長良川の川底に沈んでしまいました。現在の願證寺は、門徒のために祐泉寺を寺縁により願證寺の名称で呼ぶようになったものです。長島一向一揆の激しい戦いは、上宮寺絵伝や長島一向一揆殉教の碑にしのばれます。

Img_5345c_20200428192201  こちらが長島一向一揆殉教の碑。木曽・長良・揖斐の三川に囲まれたデルタ地帯にある長島には、大坂の石山本願寺の末寺、願證寺(がんしょうじ)があり、東海地方の一向宗の中心として、その門徒は、およそ10万人といわれるほどで、長島の城主伊藤重晴を追い出し、一向宗門徒による自治を行っていました。天正2(1574)年7月、信長は三度目の長島攻撃を開始し、志摩の九鬼水軍を中心に数百艘の軍船を用いるなど、これまでにない大軍を動員しました。この軍船の威力は大きく、長島方の受けた被害は甚大でした。長島方では食糧不足から餓死者が続出、二つの砦は落ち、風雨に紛れて砦から脱出した男女千人余りが信長軍に斬り殺されました。三カ月にわたる籠城戦が続き、9月29日、遂に長島方は降伏し、門徒衆は船で逃げ出しました。しかし、待ちかまえていた信長軍に攻められ、砦に残っていた男女2万人余りは、周囲に柵を設けて閉じ込められ、四方から火を放たれ焼き殺されてしまいました。現在の長島町の人口の約2倍の人々が殺されたことになります。ナガシマスパーランドなどで知られる長島の地にも、このような痛ましい出来事があったのです。

Img_5349c_20200428192201  ということで、プチ遠征、しっかり楽しんできました。連休中も(連休とはいえ、ほとんど関係ない立場ではありますが)、このように近場で、あるいは、いつもの散歩コースで楽しみ、人混みには無縁の生活を送ろうと思っています。写真は、願證寺近くの水田。長島町内ではほぼ田植が終わっています。中央やや左に見える山は、多度山。多度山にも登に行きたい気もしています。

【付記(4/28)】 江戸橋の非常勤先から、5月12日からの開講は当面延期とすること、検討されていた集中講義型時間割は取りやめ、開講時期を遅らせて、遠隔授業の実施を予定するという連絡がありました。学生たちの負担を避けるため、講義の音声ファイルと講義資料を学生に配信する、という形で授業を実施するということです。非常事態ですから、協力することにしますが、1回の講義につき、講義資料のpdfファイル(A4で4~5枚程度まで)と、講義音声を録音した音声ファイル(20分弱×3)を用意することになります。まだ詳細が分かりませんが、けっこう大変かも知れません。しかし、学生の皆さんのために何とか工夫しなければなりません。

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