歴史散歩

2017年10月 7日 (土)

モズの食餌とアオサギの身繕い……九華公園でまたもや「俄歴史案内人」

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 午後からは晴れ間も見えてきましたので、2時過ぎから4時頃まで散歩してきました。住吉神社から九華公園へ。田町から三崎見附を通って、5.4㎞。けっこう蒸し暑く、汗ばみました。九華公園にカモが来ないかと思っているのですが、まだでした。
Img_6127c 午後からのこんな時間、こんな天候ですから、鳥もいないかと思ったのですImg_6135c が、九華公園の奥平屋敷跡では、モズの食餌シーンに遭遇。ふと見上げたら、こういうシーンが展開されていたのです。ラッキーでした。獲物はハチのようでした。
Img_6106c こちらはいつものアオサギさん。鎮国守国神社の社務所裏のセンダンの木Img_6109c の枝に止まって、身繕いに専念。しばらく見ていたのですが、実に丁寧に身繕いをします。右の写真は、身繕いというよりも、首か顔のあたりがかゆかったのかという気がします。
Img_6111c しつこく観察し、写真を撮っていたら、睨まれた気がします(苦笑)。「またおまえか、いつもしつこいな!」とでも言われたかも知れません。しかし、アオサギさんの行動を見ていると、飽きないのでやむを得ません。見ているだけですから、我慢してもらいましょう。
Img_6099c そのほかは、パッとしません(苦笑)。遠くて、証拠写真です。左は、揖斐長Img_6105c 良川の中州。いつもアオサギが集まるところより少し上流。ダイサギと思われます。右は、三の丸公園の南東隅の電柱。モズ。三の丸公園にはモズがよくいます。九華公園では、今日は一度、鳴き声を聞いただけでした。
Dscn5413 余談であります。九華公園の入り口(西側)には、この石碑があります。歩いている途中、ここで高齢女性のグループが、「なんて読むの?」などと話しておられました。お教えすると、「これは(「華」という文字)、はなという字の難しい方なのね」と。さらに、「『楽翁公』というのは、この『福原』なんとかという人?」と聞かれましたので、説明させてもらいました。またもや、「俄歴史案内人」を務めてしまいました。「楽翁公」は、松平定信公であります。「福原銭太郎」は、この碑の文字を書いた方。陸軍士官学校を卒業した陸軍中将で、桑名藩士・福原資英の長男(慶応3(1867)年~昭和13(1938)年)。日清、日露戦争に出征、その後、桑名町長、三重県議会議員、長島村長を務めています。女性の皆さんからは、歴史を語る公園や、春日神社への行き方も尋ねられました。

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2017年10月 5日 (木)

朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼

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 今日もまた外出してきました。今日は、JR関西線に乗って一駅、三重郡Img_5796c 日町へ。運賃は¥190。朝日町は、小さな町ですが、弥生時代の遺跡があり、壬申の乱の時には、この付近で大海人皇子(天武天皇)が伊勢神宮を遥拝し、戦勝祈願をしたと伝わっています。また、縄生廃寺からは、国の重要文化財に指定された出土した舎利具などの遺物が発掘されています。町名は、天武天皇が壬申の乱の際に付近で朝日を拝んだという、日本書紀の故事によるといいます。
Asahiwalking  今日の目的は、歴史散歩。桑名駅にあった「JR関西本線ウォーキングガイド 朝日駅編」というパンフレットをしばらく前に入手し、一度行ってみようと思っていたのですが、涼しくなってきたので、ようやく実現したということです。左の画像が、これに載っていたウォーキングコース。2㎞、1時間と書いてあったのですが、小生が歩いたら、4㎞、2時間でした。他にも行ってみたいところはあったものの、今日のところは、ほぼこのコース通りに回ってきました。
Img_5802c JR朝日駅から、まずは、この旧・東海道に出ます。コース図に「スタート」と矢印がついている先の曲がり角から、上り方向を撮ったものです。今は、生活道路となっていて、クルマも案外たくさん通ります。
Img_5805c 最初の目的地である朝明山西光寺。浄土真宗大谷派。確実な證跡はないImg_5826c そうですが、現存する絵像御本尊の裏書からは、明応5(1496)年に開基とされています。その後、貞享2(1685)年、大谷派に転じ現在に至ったといいます。現在の建物は、明治10~23年にかけて建立されたもの。立派な松があり、松並木の名残かという気がします。
Img_5812c 本堂の南隅に半鐘がかかっていますが、これは江戸時代のものだそうです。ただ、この西光寺、バイクや、自転車はおかれていたのですが、人気がありませんでした。
Img_5841c 西光寺から旧・東海道を約5分進みますと、小向山浄泉坊に到着します。Img_5842c 浄土真宗本願寺派。慶長8(1603)年に、伊勢慶昭が小向にあった正治寺を再興し、小向山浄泉坊と改称したのに始まります。徳川家にゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたことがあるといわれ、本堂の棟や、山門に徳川家の定紋三ツ葉葵が入っています。そのため参勤交代の大名はこの寺の門の前では駕籠から降りて一礼したと伝えられます。右の写真は、山門脇にあった、旧本堂の鬼瓦を安置したもの。
Img_5855c 左は、本堂の屋根の写真。右は、山門の扉。いずれも、三ツ葉葵のご紋Img_5858c が入っています。このお寺では、地元の男性から声をかけられました。その方もカメラを持っていらしたのですが、ご住職から寺の絵を描くよう依頼され、その構想を練るために写真を撮っているということでした。
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 浄泉坊のほぼ斜向かいに、国学者・橘守部誕生地遺跡の案内板があります。17歳のとき、一家離散のため江戸に下り、20歳を過ぎてから学問を志したのですが、香川景樹、平田篤胤、伴信友とともに「天保の国学四大家」の一人に数えられるに至っています。
Img_5891c この「誕生地遺跡」の案内板の裏手に町役場があります。その一角に「橘守部翁生誕の地」の石碑が建っていました。県史跡に登録されているのは、こちらのようです。この碑は、昭和27(1952)年に建立。鈴鹿市出身の歌人佐佐木信綱の賛歌2首「くちせぬ名を国つ学の道の上に残せる大人はこの里そ生みし」「時じくのかぐのこのみのかぐわしきたかき名仰がむ八千とせの後も」が刻まれています。
Img_5874c ちなみに、この橘守部の父親である、庄屋・飯田長十郎元親の墓が、浄泉坊にあります。浄泉坊を出て、誕生地遺跡を見ているときに思い出して、戻ってみてきました。元親は、亀崎、金井などの村々を支配する大庄屋格で、津の国学者・谷川士清の門人であったといわれています。寛政4(1792)年に一揆加担の疑いをかけられ、そのため一家が離散したといいます。
Img_5881c 「橘守部誕生地遺跡」からさらに東海道を上ると、「御厨 小向神社」といImg_5884c う石柱が立つ交差点に出ます。ここで右折(東へ)。少し行くと、朝日町歴史資料館があります。ただ、うっかりして見逃しそうになりました(苦笑)。大正5(1916)年に建てられた旧朝日町役場庁舎で、国の登録文化財にも指定されています。ただし、公開は、木曜・土曜で、今日は見られませんでした。
Img_5911c ここでUターンして西へ約10分。東海道、JR関西線を横切って、小向神社Img_5913c へ。御厨神明社とも呼ばれたといいます。「御厨」は、「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、神饌を調進する場所のことですから、このあたりは神領だったと思われます。御祭神は、右の写真の通りですが、大日霊貴尊は天照大神です。橘守部も祀られています。
Img_5919c 境内は広く、また、木々が鬱蒼としていて、神聖な雰囲気を醸し出していImg_5931c ます。 垂仁天皇の25年、皇大神宮が桑名郡の野代宮から鈴鹿郡忍山へ遷るときの頓宮の跡と伝えられています。「頓宮」とは、仮の宮、一時的な宮のことです。垂仁天皇の第4皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神の御杖代として大和から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされますが、それに因むものかと思います。
Img_5937c 境内には、「皇大神宮遙拝所」という石柱が立っていました。ちょうど伊勢Img_5935c 神宮の方角を向いたと思われるところです。ほとんど余談というか、感想なのですが、この小向神社の拝殿前には、とても大きな灯籠がありました。春日神社の灯籠も大きいのですが、負けず劣らずという印象です。
Img_5944c 神社の掃除をしていらっしゃった地元の女性が、「裏山に登ると、見晴らしがよい」と教えてくださったので、行ってきました。普段、主に平地を歩いていますから、ちょっと苦労しましたが、ご覧のような眺め。四日市市街や、港、コンビナート、ポートビルがよく見えます。帰ってから気づいたのですが、このあたり、小向城があったところのようでした(苦笑)。飯田庄之助の居城でしたが、織田信長に攻められて滅んだところです(1567年)。このあたりから西、今は白梅の丘という住宅団地になっていて、消滅してしまっています。
Img_5966c 次の目的地は、初代森有節の墓です。JR関西線沿いの道に戻り、5分ほImg_5968c ど。名谷(めんだに)公園の中にあります。有節は、萬古焼中興の祖です。ここは、18世紀半ばに沼波弄山によって萬古焼が始められたところです。一時途絶えていたのを19世紀初め、有節がここに窯を構えて再興したのです。実は、ここまで大回りしてきたのですが、有節の墓から右(北)を見上げたら、さっきまでいた小向神社の裏山が見えたのです。そこからストレートに降りてくる道もあります(苦笑)。まぁ、散歩にきたのですから、たくさん歩くのはよいことです。
Img_5972c 有節の墓の横には、「三重県指定史跡 有節萬古窯跡」の説明板があります。有節は、独自の作風を確立し、明治以降、パリ万国博覧会へも出品するなど活躍しました。その技法は四日市萬古などに引き継がれているのですが、桑名在住者としては、萬古焼は、桑名の豪商・沼波弄山が始めただけに四日市が中心になっているのは、ちょっと残念です。
Img_5982c 残りは2カ所。朝日町歴史博物館と、柿城跡。歴史博物館までは、約9Asahimuseum 分。JR関西線沿いをてくてくと歩き、朝日町体育館のところから少し坂を上らねばなりません。ここへは、今年1月24日に来ています(朝日町歴史博物館へ真田信繁(幸村)の書状を見に行く)。今は常設展だけ開催中でしたが、10月28日からは、“開館20周年記念企画展「朝日のいにしえ ―縄生廃寺―」”が開催されますので、見に来ます。
Img_5991c さぁ、いよいよ最終目的地、柿城跡です。ここも実は、2度目。博物館からはImg_5992c 徒歩4分なのですが、標高40mほどの丘陵先端に位置していますので、これまた坂道(苦笑)。トレーニング不足であります。城主は佐脇氏。室町幕府に奉公衆として仕えました。弘治3(1557)年に近江国の戦国大名六角氏によって攻められ、柿城は落城しています。城跡は、現在は公園となっています。
Img_5994c 主郭があったところからは伊勢平野や東海道が一望できます。Img_6004c 戦国時代の城(というか、城館といった方がよいのかも知れません)は、こういう眺めのよいところにあったのだという気がします(小向城跡もそうです)。
Ts3v0113  この後、本来であれば、JR関西線朝日駅に戻るのですが、今日の昼は、Img_6007c 家内と外食することにしており、朝日町歴史博物館に戻って、迎えを待ってクルマで天ぷら兎波へ。味噌天丼をいただいてきました。「おすすめの食べ方」として、半分ほど食べたら、「味噌天茶漬け」にとありましたので、試してみました。味噌は八丁味噌。味噌の味が結構強いので、この茶漬けで食べるというのは、なかなかよいものです。
 余談。今日は、ウォーキングガイドにしたがって散歩してきました。しかし、朝日町には、まだまだ見所がたくさんあります。縄生廃寺跡や、苗代神社、井後神社は是非とも行きたいところですし、東海道沿いには、山口誓子句碑、一里塚跡、小向立場跡、多賀大社常夜灯などがあります。また近いうちに。

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2017年10月 2日 (月)

市民大学講座6回目……久松、奥平の両松平家と服部半蔵の話

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 昼前から猛烈な雨になりました。冒頭の写真は、拙宅玄関前の様子。夕方に撮影しましたので、余計にそう思うのですが、暗くてうっとうしいのです(苦笑)。気分が滅入りそうになります。我が家は、高圧洗浄は終わり、来週くらいにベランダ側の塗装のやり直しの予定。そうしますと、窓が養生されますので、1週間、南の窓が開けられないという事態になります。いやはや、きれいにしてもらうのも大変です。
Dscn4119c さて、今日は、月1回の市民大学講座の日。午前中、9時半から2時間、中Dscn4121 央公民館でしっかりと頭を使ってきました(笑)。7回シリーズも、早くも6回目。これで出席8割以上をクリアしましたので、「修了証書」がいただけます。今日のテーマは、桑名の江戸時代、2回目。藩主の松平家のことや、国替えの話。桑名藩は、初代、2代と本多家が続いた後、松平家が移封されています。ただし、松平家といっても、様々な系統があり(徳川家から、松平の姓を賜った家系もたくさんあるのです)、旧姓をつけて区別します。桑名藩では、久松松平家と、奥平松平家が藩主を務めました。まだ復習をしていませんので、詳しいことは歴史書や、リンク先をご覧ください。
Dscn4123 ところで、あの服部半蔵が、桑名藩に関わりがあったということは案外知られていません。服部半蔵は、戦国時代から江戸時代初期にかけて松平氏から徳川氏の麾下で活躍しています。2代目半蔵・正成が、いわゆる「服部半蔵」として世間でよく知られています。3代目半蔵・正就は、配下の伊賀同心の反発を招き、結局は役目を解かれています。その後を正就の弟である正重が継ぎ、4代目半蔵・正重となるのですが、舅である大久保長安の事件に巻き込まれて失脚。紆余曲折の後、5代藩主・松平定綱公に召し抱えられるのです。これによって、服部半蔵家は、桑名藩の家老として存続します。ちなみに、兄・正就の妻は桑名藩主松平定勝の姉であり、その子・服部正辰(正重の甥)も桑名藩に仕えています。こちらは、血統から藩主一族の扱いを受け、服部半蔵家以上に優遇されたといいます。
 余談ながら、2代目半蔵・正成は、あの「神君伊賀越え」で有名です。天正10(1582)年6月、本能寺の変の後、堺に滞在していた徳川家康が、甲賀・伊賀を通って伊勢から三河に抜けたのを「神君伊賀越え」といいます。このとき、先祖が伊賀出身である正成は、商人である茶屋四郎次郎清延とともに家康一行を安全に通行させ伊勢から船で、三河・岡崎まで護衛したのです。伊勢国から船に乗ったのは、白子浜(鈴鹿の長太)というのが定説(四日市だという説もあるそうです)。そのたどり着いた先は、「三河の大浜」です。この「大浜」というのは、小生の故郷なのです。
 子供の頃、「権現岬」とか、「権現松」というのがあって、気になったのですが、それはどうも「熊野権現宮」の関係の名称で、家康との直接の関連はなさそうでした。
Dscn4126 話を戻して、服部半蔵家は、桑名藩・家老ですので、左の写真のように、お城近くに屋敷を賜っています。現在の立教小学校の東あたりと思われます。兄・正就の系統も、服部石見守として、現在の三の丸町内あたりに屋敷がありました。
 市民大学講座終了後は、メディアライブにある市立中央図書館にも行ってきました。第12回「昭和の記憶」収集資料展「吉田初三郎画 鳥瞰図と在りし日の桑名」が10月24日(火)まで開催されているのです。吉田発三郎の鳥瞰図とか、昔の桑名となると、これは何はさておき、見に行かねばなりません(苦笑)。展示資料だけでなく、何か配付資料も作ってくださるとありがたいのですが……。アンケートにはそのように書いてきました。

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2017年9月17日 (日)

諸戸氏庭園、本邸の修復工事現場を覗く

Dscn3697_800x600  今日、散歩に行くとき、諸戸氏庭園の修復工事現場のシャッターが開いてDscn3694_800x600 いました。たぶん台風に備えてなのでしょうが、中が見えましたので、ちょっと覗いてきました。ロープが張られていましたので、それよりも内側には入っておりません(微笑)。

Dscn3700_800x600 本邸の前には、ブルーシートがかかったものがありますが、これは、本邸前を掘った土だったと思います。このシートがかかったところの向こう側を掘っていました。諸戸水道のパイプが埋まっていたと諸戸氏庭園のFacebookにあったように記憶しています。本邸は、1884年(明治17年)から数年の間に建てられ、1889年(明治22年)「諸戸店」開業時に、店舗として使用されたといいます。初代清六氏は、玄関外の脇に縁台を置いて、せんべい座布団に座っていらしたそうです。本邸は、重要文化財。
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 1枚前の写真のさらに左手奥、御殿や、玉突場に行く途中には、主奥脇にあった大門があります。こちらも国の重要文化財。薬医門形式というそうです。2本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切妻屋根をかけてあります。
Dscn3701_800x600 本邸の正面玄関。玄関の上にあった門灯と表札は取り外されていImg_2668_800x533 ます。「桑名商工會議所會員」というプレートだけが残っています。このプレートの左上にある表札には、住所が書かれているのがかすかに見えました。
Dscn3704_800x600 本邸に向かって右にある洋室の部分。煉瓦塀が見えていますが、現在Dscn3743_800x600 、ここも解体しています。煉瓦塀の上には薄いコンクリートが被せてありました。それをはがし、さらに煉瓦を一つずつ取り外して、丁寧に掃除しています。修復の際、再利用するものと思います。
Img_3803_800x564 この煉瓦塀のところ、7月11に撮った写真では、左のようになっていましImg_1111_800x569 た。コンクリート塀とばかり思っていました。右は、9月5日の写真。煉瓦塀から一つずつ煉瓦を取り外して、本邸前でそれをきれいにしている作業をしています。気が遠くなるような作業と思います。
Dscn3711_800x592 この煉瓦塀、煉瓦を長手だけの段、小口だけの段と一段おきに積んでありますので、イギリス積みのようです。諸戸氏庭園の煉瓦蔵も同じだったと記憶しています。
Dscn3710_600x800 洋館部分の東側、軒のあたりは、けっこう傷んでいます。本邸全体を解体修理すると聞いています。3~4年はかかるものと思います。今年の秋の公開は、まだ日程が出ていませんが、煉瓦蔵から出入りするようになると伺っています。工事現場見学会が9月30日にあるのですが、申し込みをすっかり失念していました(苦笑)。すでに予約一杯ということで、残念。
 諸戸氏庭園は、今年6月3日、見学しています。「諸戸氏庭園 春の一般公開へ【花菖蒲の名前、訂正あります(6/10)】」をご覧下さい。

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2017年9月14日 (木)

長島で鳥見、歴史散歩……河口堰と、長島城跡、蓮生寺、八幡社へ

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 台風来襲を前に、長良川河口堰他へ遠征であります。夕方の予報では、土Dscn3548_800x600 日が雨のようですし、台風もまともに来そうです。河口堰には9時到着、1時間あまり滞在。カワセミを久しぶりに堰西側で見ました。せせらぎ魚道の上流側から、親水広場に降りるスロープを越えて、揖斐川との中州に飛んでいきました。あっという間で、写真は撮れず仕舞い。それと、例のヤギさん、あの会社の周りを歩いてみましたが、本日は不在でした。
Img_2212_800x560 河口堰の東側にいたのは、アオサギさん1羽。このアオサギさん、一回りしImg_2349_800x598 て戻ってきたら、楽しませてくれました。先にその話題から。右のように、一段降りて、覗き込んでいました。「位置について、ヨーイ」という感じでした(微笑)。
Img_2350_800x563 期待に違わず、ダイビングしてくれました! 今シーズン初のダイビングシImg_2351_800x551 ーンであります。といいながら、右の写真を見ますと、足が付くところで、頭を長良川に突っ込んだということのようでした。
Img_2352_800x572 やや遠くて(かなりトリミングしています)、首尾がどうだったかよく分かりません。しかし、何となくではあるものの、獲物はあったような感じがします。
Img_2223_800x574 河口堰西側。いつもの閘門へのアプローチには、ダイサギ1羽と、カワウImg_2225_800x592 が計9羽。そこへ、別のダイサギが飛来。右の写真は、この場所へ着地寸前の様子。先日も着地シーンを載せましたが、サギたちのこの場面、なかなか興味深いものがあります。
Img_2241_800x546 西側の魚道、上流。アオサギが1羽。今日見たアオサギは、合計4羽。たImg_2243_800x547 だし、このアオサギさんも、かなり離れていたものの、このあとすぐに逃げられました。右は、その逃げた先での様子。閘門へのアプローチ、上流側のところです。
Img_2233_800x607 ハクセキレイは、この頃、河口堰でよく見られます。今日も管理橋の上Img_2325_800x610 や、堰西側あたり、親水広場で何羽も目撃。イソシギは、閘門のところで見かけました。イソシギもいつも、逃げ足が速いのです。
Img_2309_800x577 こちらは、揖斐川の方から飛来して、閘門の上流側に降り立ったアオサギさん。親水広場の東側。西側にいたのですが、大急ぎで回って、写したもの。しかし、これを撮った直後、逃げられました。全く、どうしようもありません。
Img_2249_800x590 アオサギがやってくる直前、猛禽類の姿が。トビかと思ったのですが、違うかも知れません。管理橋の上空を悠然と旋回しつつ、次第に下流方向へ飛び去りました。
Dscn3567_800x551 さて10時過ぎからは、長島町内歴史散歩(微笑)。やすらぎパーク駐車場にクルマを入れて、長島城跡と、蓮生寺へ。
Dscn3579_800x600 長島城の跡は、ほとんど遺構はありません。長島中学校と長島中部小学Img_2371_800x545 校になっています。ただ、長島中部小学校の敷地内には、本丸の南西隅にあった樹齢300年以上の黒松が今でも城郭の名残として、その威容を誇っています。
Dscn3583_800x600 長島城は、文明年間(1469~87)に伊勢国安濃郡の長野氏一族といわれる伊藤重晴が築城したと言われます。その後、長島北部にあった願証寺が浄土真宗の一大拠点となり、伊藤氏は滅ぼされ、長島城も願証寺の支配下に入ります。長島一向一揆の際には、織田信長に攻められ、破れます。その後、菅沼氏、松平氏が藩主となった後、元禄15(1702)年に増山正弥が藩主になってからは、明治維新まで増山家が支配しました。
Dscn3600_800x567 長島城の遺構はないと書きましたが、近くの蓮生寺(長島町又木)には、Dscn3606_800x600 大手門の一部が山門として使われています。蓮生寺第十一世賢道のとき(明治9(1876)年)に払い下げを受けたものです。旧大手門より縮小されているようです。
Dscn3587_800x600 長島城跡に立つ長島中学校、なかなかおもしろい意匠で建てられていまImg_2377_800x533 す。左は、門。まるで城の大手門のようです。右は、校舎の一つ。何だか、お城の天守閣のようにも見えます。勉強するにも気分が違うかも知れません。この他、近くにあった正敬寺、花林院なども見てきました。
Dscn3624_800x600 帰り道、もう1ヵ所立ち寄ってきました。長島最古の神社である八幡神社Dscn3626_800x600 です。今日・明日が例祭。以前箱の冷菜に合わせて奉納されていたようですが、獅子舞神事があるのです(今は、9月の第3土・日)。
Dscn3631_800x600 この神社は、寛元3(1245)年に藤原道家が勧請したと伝えられていまDscn3635_800x600 す。歴代長島城主からも武神として崇敬されていたそうです。獅子舞は、元禄12(1699)年に北島村の氏子によって始められたといいます。一度見てみたいと思うのですが、土・日は台風18号の襲来と重なりそうです。

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2017年9月 9日 (土)

4日連続のアオサギ(笑)……歴史を語る公園、春日神社にも行ってきました

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 今日も「出かけなければならない」ような、良い天気です(微笑)。午後から所用もありましたので、8時半から住吉神社、九華公園ルートで散歩。5.2㎞であります。朝夕は涼しいのですが、日中は、30℃近くになったせいもあってちょっと暑く感じました。
Img_1629_800x521 先日からアオサギに恵まれた日々が続いています。今日で4日目となりました(笑)。まずは、住吉神社の東、揖斐長良川の中州。合計5羽のアオサギが集まっていました。難点は、ちょっと距離があるということ。「キョリ測ベータ」というネット上の地図ソフトで調べますと、430mほどあるのです。左の写真も、250mmズームで撮り、トリミングをしています。
Img_1639_800x594 九華公園、いつものように、鎮国守国神社の社務所の裏にアオサギさんがImg_1679_800x598 いました。春先から8月末くらいまでは不在になります(たぶん繁殖期だからでしょう)が、9月頃からはよくここに来ています。アオサギがここにいると、なぜか安心します(微笑)。右は、近くでカラスの鳴き声がした直後の様子。頭の羽が一瞬だけ逆立ったのですが、それは取り逃してしまいました。
Dscn3362_800x600 公園内は静かでしたが、休日とあってか散歩する方はやや多し。鳥好きのSさんの同級生Oさんが、珍しく写真を撮っていらっしゃいました。訳を伺ったら、「最近、墨絵を習い始め、近々ここでスケッチをすることになっていて、その予習」とおっしゃっていました。御年81歳にして、新しいことを始められます。
Img_1690_800x551 鳥は、カワラヒワ、スズメ、ヒヨドリ、ムクドリなど。コゲラの鳴き声は聞こえるImg_1693_800x581 のですが、まだ姿を確認できないでいます。いつものカルガモたち。上左の写真の隅っこにも写っています。元気そうですが、今日はマッタリ中。
Img_1666_800x520 野球場の照明灯の上にカワウが、合計11羽。右下の照明灯にもいます。いつもの倍以上もいました。今日は、揖斐川から水を入れていましたので、餌を狙って待っていたような気がします。4枚前の、堀の中の東屋が写った写真の手前のところに揖斐川からの導水路があり、そこから水が入ってくるのですが、魚も一緒に流れてくるのです。
Dscn3370_800x600 九華公園からは少しルートを変えて、まずは歴史を語る公園へ。東海道Dscn3372_800x600 五十三次をモチーフにしてあるのですが、それよりもこの公園の東に旧・桑名城の城壁が残っています。「創建当時の面影を残す石垣」ということです。七里の渡し跡の川口樋門から南大手橋に至る堀川沿い、約500mです。ただ、残念ながら、ボートや船が係留されていて、景観としてはよろしくありません。
Dscn3379_800x600 春日神社が近くにありますので、お参りしていくことにしました。石取祭はDscn3386_800x600 この神社のお祭りです。桑名神社と中臣神社の2つからなっています。前から不思議に思っていることがあります。拝殿前の鳥居の脇にある灯篭が、大きいのです。右の写真をご覧下さい。手前にあるから大きく写っているのではありません。
Dscn3380_800x600 春日神社の境内社の一つに桑名東照宮があります。東照宮ですので、当然ご祭神は、徳川家康公。元和3(1617)年、千姫が勧請し、家康公の座像が祀られています。千姫はもちろん、二代将軍秀忠公の長女(家康公の孫)。豊臣秀頼に嫁いでいたものの、大坂夏の陣で逃れ、江戸に向かう途中桑名に立ち寄っています。そのとき、桑名藩主の息子・本多忠刻(忠勝の孫)が千姫一行をもてなし、その際に、千姫が忠刻に一目惚れしたというエピソードが伝わっています。
Dscn3366_800x600 午後からは、所用で外出してきました。明日は、10月4日の特別支援教育支援員養成講座のレジメの締切。ほぼできあがっていますので、チェックしてメールで送らせていただく予定。毎回、少しずつ手直しして、全く同じものではないようにしています。
Dscn3319_800x600 昨日の余談。長島へ行ったついでに、願證寺というお寺に立ち寄って来Dscn3311_800x600 ました。願證寺は戦国時代、長島一向一揆の舞台となった寺として知られています。ただし、元々の願證寺は、明治期の河川改修工事によって、長良川の川底に沈んでしまいました。現在の願證寺は、門徒のために祐泉寺を寺縁により願證寺の名称で呼ぶようになったものです。ところが、写真のような状況。何と、本堂の立て替え工事中だったのです。やすらぎパークの駐車場にクルマを置いて歩いて行ったのですが、途中から見えた光景が右の写真。「何かヘンだぞ」と思ったのですが……。
Dscn3320_800x596 工事現場の前に「長島一向一揆殉教之碑」がありましたので、そちらにお参りして来ました。工事は、来年の9月いっぱいかかるという掲示がありました。市民大学を聴講し始めて以来、歴史散歩への興味が甦ってきています。体調を崩して、散歩を始めた頃、名所旧跡、寺社仏閣を見て回っていたこともありますので、「甦ってきた」という訳です。こういうハプニングにめげず、折を見て続けたいと思っています。

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2017年8月31日 (木)

六華苑へ……六華苑新収蔵品展を見る

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 ずいぶん久しぶりに行ってきました。六華苑です。昨日書きましたが、今日Img_0590_563x800 まで「六華苑新収蔵品展」が行われていましたので、それを見に行ったというわけです。この展覧会は、六華苑が重要文化財に指定されて20周年となる記念で開催されたものです。新たに寄附を受けて収蔵予定の建設当時の調度品や、二代・諸戸清六氏の肖像画、愛用の茶碗などが展示されていました。残念ながら、展示品は撮影禁止。出品リストは、末尾に載せておきます。
Img_0954_800x533 左は、長屋門。入場券の販売窓口があります。その脇にImg_0566_800x533 は、イチョウの大木。これは遠くからでも見えますので、目印になると思います。
Img_0572_800x547 六華苑は、山林王と呼ばれた桑名の実業家二代目諸戸清六氏の邸宅として大正2年に竣工しています。洋館部分は、ジョサイア・コンドルが手がけた地方に唯一残る作品です。揖斐・長良川を望む約18,000平方メートルの敷地に洋館、和館などの建物、地泉回遊式の庭園があります。創建当時の姿をほぼそのままとどめているといわれます。洋館と和館は、平成9年に国の重要文化財に指定されています。庭園も平成13年に国の名勝になっています。今日は、かいつまんで紹介します。
Img_0576_800x533 長屋門をくぐり、左にカーブしていくと、塔屋が付属した洋館が見えてきます。全体的にはシンプルなデザインとなっていますが、4階建ての塔屋が目立ちます。設計段階では3階となっていたものを4階建てに変更したといいます。「揖斐川を見渡せるように」という清六氏の意向によります。揖斐長良川などがよく見えました。過去形で書いたのは、以前は4階まで上れた記憶があるのですが、最近は、3・4階は非公開です。
Img_0693_800x521 2階の南側にあるサンルーム。奥にはロッキングチェアも見えます。太陽が燦々と注ぎ込みますし、庭園が一望できます。そのためか、大変気持ちのよい空間となっています。
Img_0879_800x533 洋館の西に続く和館。この写真は、庭園の南側から撮ったもの。明治期の洋風建築には和館を併設する例が多くあったそうです。
Img_0723_800x531 洋館と和館の接続部分から、和館の方を見た写真。廊下が、畳廊下と、普通の板敷きの廊下と2つあります。板敷きの廊下は、使用人が通ったところで、畳敷きの方はお客や家族が使ったもの。小生? 本来であれば畳廊下などは使える身分ではありませんが、今日のところは勝手ながらそちらを歩かせてもらいました(微笑)。
Img_0769_800x533 苑内には、洋館、和館の他に内玄関棟、複数の蔵、稲荷社、番蔵棟などImg_0790_800x533 がありますが、こちらは、離れ屋。離れ屋は桑名市の有形文化財です。ここに限りませんが、部屋の中も開放的で、気持ちのよい空間です。私がいったときは、お客さんも少なく、しばらく座り込んで眺めを楽しんできました。最高気温は33℃を超える日でしたが、庭園や室内は風が通って、涼しくさえ感じられました。
Img_0900_800x533 建物の外観や、内部など見るべきところは多々あります。ディテールにもImg_0909_800x533 こだわりがあり、紹介したいところもたくさんあります。右は、洋館の基礎部分。換気口と思いますが、意匠は諸戸家の家紋である「違い鷹羽」になっていました。
Img_0939_800x533 洋館1階のホール部分を、北側の窓の外から撮った写真です。「鑑定団」Img_0716_533x800_2 に出てきそうなランプがあります。右手には2階に続く階段が一部見えています。この階段の手すり部分には、右のような意匠が凝らされています。その他、シャンデリアやランプ、和室の欄間などなど見どころは満載です。
Img_0808_800x533 ところで、5枚目の写真にある案内図をよくご覧いただくとお分かりになりますが、六華苑は溝渠を挟んで諸戸氏庭園と隣り合っています。六華苑の南端に行くと、左の写真のように、諸戸氏庭園が見えます。
Img_0848_800x533 これはほとんど余談でありますが、諸戸氏庭園が見えるあたりに行き、Img_0550_800x497 場所を選ぶと、左の写真にあるように、拙宅マンションが木々の合間に見えるのです。ちなみに、拙宅玄関前(9階)から見ると、右の写真のようになります。六華苑の洋館の塔屋部分が見えますし、左下にある大きな屋根は、諸戸氏庭園の御殿です。御殿は、3枚前の写真(諸戸氏庭園が見えるという写真)に写っている建物です。
Img_0926_800x523 という次第で、今日は、9時過ぎからほぼ2時間、六華苑を訪れてきました。午後は、仕事の続き。夕方は、仕事に倦んできましたので、住吉入江から田町、九華公園、住吉神社と小1時間散歩して来ました。明日からは9月。といってもほとんど生活に変わりはありませんが、気分を変えてやっていきたいところです。
Rokka1_583x800 Rokka2_583x800 こちらの2枚は、「六華苑新収蔵品展」の出品リスト。二代目・諸戸清六氏の肖像画や、六華苑で使っていた調度品、清六氏愛用の茶碗、清六氏が夫人のために作られた茶碗などがありましたが、個人的には、吉田初三郎が描いた「西桑名町鳥瞰図」(昭和9年頃)が最も興味を引きました。

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2017年8月20日 (日)

九華公園にアオサギ……午後からは「伊勢大橋を学ぶ会」へ

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 31.9℃と昨日ほどではありませんが、相変わらず蒸し暑いです。ウロウロしているうちに、気づけば8月も20日。夏休みもうじき終わり……といっても、小生にはほとんど関係ありませんが(苦笑)。午後から出かける予定がありましたので、朝8時20分から、九華公園方面へ散歩。サッサと帰ってこようと思うときに限って、知り合いに会ったり、あれこれ話をすることになったりです。今日は、途中で久しぶりに鳥見の大先輩Sさん(御年81歳)にお目にかかりました。「運転免許を返したわ。でもその前に、琵琶湖の湖北野鳥センターまで行ってきた」と、おっしゃり、ビックリ。この他、九華公園に掃除に来ていらっしゃる女性から、本多忠勝のことを聞かれたり、「バールフレンド」のYさんとしゃべっていたりで、1時間で帰って来る予定が1時間半。住吉神社、九華公園、田町、住吉入江と3.6㎞。
Img_9288_800x555 住吉神社の東、あの「揖斐長良川の中州」には、アオサギが1羽。肉眼では気づきませんでした。河口堰にもサギたちが戻ってくると、ここにもアオサギが集まってきます。これからもっと増えるはずですから、散歩の楽しみも戻ってきたという次第。
Img_9297_800x533 九華公園、鎮国守国神社の社務所の裏には、アオサギさん。「新お立ち台」Img_9299_800x533 と勝手に命名しているところです。先だっては、ここにいるのに気づく前に逃げられました(そういうことはほとんどないのですが)。左は、250mmズーム&ノートリミング。右は、55mmでやはりノートリミング。右は、ほぼ肉眼で見たのと同じような感じです。少し前から、ここにもときどきアオサギが来るようになりました(微笑)。
Img_9313_800x593 九華公園内、今日はほぼ半周。奥平屋敷跡のステージの階段のところImg_9317_800x608 でハクセキレイ。考えるかのように階段を見ていましたが、さすがに階段を降りるという芸当は見せてくれませんでした。階段横のスロープを降りてきました。
Isebridge_566x800 午後からは、かねてからの予定通り、「伊勢大橋を学ぶ会」へ行ってきまDscn2676_800x600 した。⻑島ふれあい学習館/多目的ホールで、2時から4時まで。けっこう混むかも知れないと思って早めに出かけました。予想通り、年配の方を中心に多数の参加者でした。桑名市立中央図書館が集めている昭和の写真の中から伊勢大橋に関するものの展示もありました。
 内容は、次のとおり:
  • 伊勢大橋に残る,太平洋戦争時の弾痕……加藤颯真さん(伊勢大橋に残る弾痕を調査した中学生)
  • 伊勢大橋の歴史的な魅⼒,価値について……西羽晃さん(郷土史家,前桑名市文化財保護審議会会⻑)
  • 伊勢大橋の土木工学的な魅⼒,価値……山田健太郎さん(名古屋大学名誉教授/橋梁工学)
  • 伊勢大橋の今昔をたどるパネル展示
Img_8848_800x616  加藤さんは、2年前、小学校6年生の夏休みの自由研究で伊勢大橋を取Img_8859_570x800 り上げ、第2次大戦中、アメリカ軍の機銃掃射によってできた弾痕弾痕を調査し、その時点で12ヵ所を発見しています(それまで、例えば、「桑名の戦争遺跡」では、7ヵ所とされていました)。その後、さらに3ヵ所を見つけておられます。伊勢大橋は15連のスパンからなっていますが、長島側にもっとも近いスパンにも1つ見つけたそうです。左右の写真は小生自身が撮ってきたものですが、左の写真の「上横構」にあるものは、機銃掃射でできたにしては大きく、破壊力も大きいものです。右は、長島側から1つめのスパン、上流側にあるものです。戦争の傷跡は、まだまだ調べてみる価値があります。
Dscn2654_800x600 西羽先生のお話は、明治の初め頃から、伊勢大橋完成までの、東海道の交通の歴史のお話でした。左の写真は、明治7年に撮られた桑名の七里の渡し場。海上七里の渡しの話から、佐屋への三里の渡し明治の東海道 などのことも伺え、ためになりました。明治の東海道は、明治天皇などもお通りになったといいます。現在の弥富市内には、明治天皇がお休みになったところや、お昼を召し上がったところなどが残っているそうです。明治の東海道では、弥富の前ヶ須から桑名までは舟のルートだといいます。尾張大橋東詰交差点近くには「ふたつやの渡し跡」の石碑があるようです(ここは、三ツ又池公園に行くとき、通るルートですが、全く気づいていませんでした)。話があちこちしますが(まだまとめておらず、記憶に頼って書いています)、伊勢大橋ができる以前、桑名と長島の間は、手こぎ渡船を利用していたそうです。桑名側は上之輪(現在、舟だまりがあるところでしょう)、長島は松ヶ島の西あたりのようでした。
Dscn2663_800x599 山田先生は、土木工学、とくに橋梁の専門家でいらっしゃり、伊勢大橋には学生時代から関わりがおありだったそうです。お話のテーマは、左の写真にもありますように、1つは、「伊勢大橋は、橋梁技術の生き証人」ということでした。増田淳という橋梁設計技術者が設計していますし、今は使われなくなった「リベット接合技術」で部材が連結されています。もう1つは、橋の中央に、「中堤」への入り口があることです。中堤は、宝暦治水で知られる千本松原、木曽三川公園を経て、岐阜方面まで通じています。さらに、第2次大戦の弾痕があり ますし、「耐爆橋梁」でもあるそうです。耐爆橋梁というのは、部材が細く、隙間が多いため機銃掃射などの影響を受けにくいことを意味するそうです。
Dscn2672_800x628 これらの2枚は、今日の山田先生のお話のまとめです。土木工学的な

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意義とは別に、伊勢大橋は、3の新橋建設後も伊勢大橋の活用は可能ということと、4の地域の住民とともにあったというところが、我々にとっては重要な点であるように思います。桑名では、「諸戸徳成邸」の保存活用が求められていましたが、実現しませんでした。伊勢大橋も歴史遺産ですから、せめて一部保存でもできないかいう気がします。
 「伊勢大橋を学ぶ会」の内容、これから整理し、また、弾痕など、改めて確認しようと思っています。

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2017年8月12日 (土)

雨の中、長良川河口堰でカワセミを確認……伊勢大橋で第2次大戦の弾痕も

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 昼前からは晴れてきたのですが、午前中出かけたときは、相当の雨風にやDscn2277_800x600 られました(苦笑)。出かけた場所は、右の写真のとおり、長良川河口堰であります。出るときに空模様が怪しく迷ったのですが、エイヤッと勢いで来てしまいました。
Img_8414_800x560 そのお陰で、長良川河口堰にてカワセミを初めて確認できました(微笑)。ブImg_8420_800x545 ロ友のひらいさんが、昨日(2017.08.11 河口堰にて)、カワセミをご覧になったというので、早速やって来たのです。東側の魚道のところに2羽いました。しかし、到着前から雨が降り始め、こんな証拠写真しか撮れませんでした。
Img_8429_800x584 色があまりよく出ておらず、嘴の色も定かではありませんので、雌雄の判別は困難。しかし、このまましばらくいてくれれば、また挽回のチャンスも出てくると期待しています。
Img_8406_800x564 さて、カワセミを確認したあと、周りを見ますと、魚道の東側、上流にはコサImg_8439_800x550 ギが2羽。この2羽、魚道の水路を挟んでいたのですが、何やら動きがシンクロしているようにも見えました。このあと、飛び去って行きましたので、詳細は不明。下流側には、コサギらしき姿が1羽(右の写真)。
Img_8476_800x555 遠く、西に見える鈴鹿の山並みの方には晴れ間もありましたので、そのままImg_8457_800x566 河口堰を渡ることにしました。堰西側の閘門アプローチ、上流側にはアオサギ。ひらいさんの真似をして、伊勢志摩ライナーとセットで(左の写真)。近くには、ダイサギとコサギも(右の写真)。コサギは他にもう1羽いました。
Img_8495_800x533 閘門の下流側には、コサギ3羽と、カワウ1羽。カワウも一頃に比べるとDscn2276_800x600 減ってしまいました。ここまで来たのはよいのですが、雨がかなり強くなってきました。「雨中のバードウォッチング」であります(苦笑)。風も強く、折りたたみ傘が煽られます。
Img_8538_800x519 一時は、この左の写真に写っているくらいの雨。ダイサギかコサギらしき姿が2羽写っているのですが、ハッキリ確認できません。やむなく、閘門アプローチの上の通路へ避難。
Img_8503_800x553 小降りになってきたので、東に戻りますが、その前に西側の魚道あたりをImg_8518_800x534 もう一度確認。コサギが、魚道の水路に降りていました。魚道のさらに上流、橋の下にもう1羽のアオサギを発見。まさか雨宿りをしているのではないと思いますが……。
Img_8522_800x591 先ほど伊勢志摩ライナーとセットで撮ったアオサギさん。側にコサギがやって来ていました。前傾姿勢になっているのか、風がけっこう強かったからです。傘やカメラを持って行かれそうになるくらいの風も吹きました。
Img_8561_800x591 堰の東に戻ってきましたが、いくら待っても、もうカワセミの姿は出てきまImg_8569_800x587 せんでした。代わって、下流側にアオサギ。餌をゲットしようという様子もありましたが、獲物はありませんでした。右は、堰上流側にいたコサギ。このあとすぐに飛び立ちました。
Dscn2285_522x800  ということで、雨には降られたものの、長良川河口堰で初めてカワセミを確認できたので、成果は大いにありというところです。アクアプラザながらの2階展示室には、左の写真のように、「河口ぜき周辺で見られる留鳥たち」というパネルがあります。が、カワセミは含まれていないのです。カワセミが継続して確認できるようになったら、ここに追加してもらわないといけないかも(微笑)。ちなみに、ゴイサギ、なたね通信さんのブログによれば(最近個体数が少ないゴイサギ)、最近三重県内でも減少しているというお話で、ちょっと気になります。
Dscn2296_800x600 せっかく揖斐長良川を渡ってきましたので、あの臨時駐車場の様子を見Img_8585_800x533 てきました。しかし、カワラヒワやヒバリが少しいただけで、コアジサシや、コチドリ、ケリの姿は全くなし。ここは、なばなの里の、あの巨大イルミネーションのちょうど裏。もう足場のようなものが組まれていました。今年はどういうテーマなのでしょう? といいつつも、小生は一度も見に行っておりません(苦笑)。
Img_8595_800x533 終戦記念日を前にして、関連した話題を1つ。今までも見たいと思っていImg_8597_800x533 たのですが、なかなか機会がありませんでした。帰り道、ちょうど伊勢大橋の東の端で止まり、上を見上げたら、第2次大戦中の弾痕を確認できました。伊勢大橋は、スパンが15ありますが、最も東のところです。「桑名の戦争遺跡(桑名しるべ石勉強会発行、2012年)」によれば、この弾痕は、昭和20(1945)年7月30日の米軍艦載機の機銃掃射によるものだといいます。

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2017年7月27日 (木)

今日も会議……昼休みに「元市長 貝塚栄之助氏頌徳碑」を見る

Dscn1660_480x640_2  昨日とは打って変わって、どんよりした一日でした。今日は、一昨日に続いて、市役所で会議。9時から始まり、若干延長されて、5時半頃終了でした。「怠け者の節句働き」で、急にフルに働く日々が続きましたので、疲れました(苦笑)。これでは、もう一度どこかに勤めようと思っても、役に立たないこと必至であります。委員長の先生を初め、事務局を担当してくださった先生方は、さぞお疲れのことと思います。毎年、委員長の先生は、「土曜日の花火大会を楽しみに、この会議を乗り切ろうと思っています」とおっしゃいます(微笑)。
Dscn1671_480x640_2 今日は昼休みが45分ほどありましたので、弁当を食べてから市役所の周りDscn1661_640x425_2 を歩いて一回りしてきました。少しでも身体を動かそう、歩こうということです。市役所の北広場の片隅で、元桑名市長の貝塚栄之助氏の胸像を見つけました。「見つけました」などとエラそうに書いていますが、しっかり意識していなかっただけです。右の写真のように、北庁舎の脇にあります「ちなみにこの建物を北庁舎と呼ぶことも、2~3年前まで知りませんでした。昔々は、図書館だったように記憶しています。
Dscn1672_490x640_2  貝塚栄之助氏は、貝塚卯兵衛の三男。長男、次男が相次いで早世したため、貝塚家の家督を継いでいます。明治15(1882)年生まれ。三重県立一中学(現・津高校)、東京高等工業学校(現東京工業大学)電気化学科を卒業し、名古屋電燈に入社しています。その後、松阪工業学校(現・松阪工業高校)の教員をしたのですが、大正4(1915)年に父の死去に伴い家督を継いでいます。当時の貝塚家は大地主でしたが、栄之助氏は実業界へ乗りだしたということです。大正7(1918)年に名古屋で高岳製作所(現東光高岳)を設立し、社長となり、23年間務めました。その後、さまざまな企業の社長を務めた後、桑名町名誉助役(昭和5((1930)年)を経て、昭和9(1394)年4月に桑名町長に推薦されます。さらに、昭和12(1937)年には西桑名町と合併して成立した桑名市の初代市長となり、それ以後、戦中の激動期を市長として激務をこなした人物です(西羽晃先生の桑名歴史ニュースの関連記事は、こちら。また、中部電気協会のサイトにも記事があります。ここをご覧ください)。栄之助は昭和20(1945)年6月に桑名市長を退任しています。
 ちなみに、栄之助は2女・2男に恵まれました。長女の美代さんは昭和8(1933)年4月3日に京都の都ホテルで、京都帝国大学(現・京都大学)教授の小川茂樹氏と結婚しました。その後、貝塚家は連続して不幸に見舞われ、長男は戦死、次男は病死。跡継ぎがいなくなってしまったため、長女と結婚していた小川茂樹氏を昭和20(1945)年3月に貝塚家の養子としています。小川茂樹氏は、貝塚茂樹となったのですが、家業を継ぐことはなく、学者として研究活動を続けることを許され、生活費も栄之助から援助されたといいます。
 昭和20(1945)同年7月には、アメリカ軍の空襲で船馬町の自宅も内堀の別邸も焼失しています。敗戦後は財産税と農地解放で大きな打撃を受け、栄之助は昭和22(1947)年に永眠しました。
 今日見てきた「元桑名市長貝塚栄之助氏頌徳碑」は、栄之助の遺徳を偲び、昭和30年に建立されたものです。また、昭和44年には、もと貝塚家の別邸のあった、桑名市内堀(九華公園の南)に「貝塚公園」が開園しています。ここには、「桑名空襲慰霊之碑」も建てられています。貝塚公園でお目にかかる年配の方からは、「ここは風呂場のあとだ」といったお話を伺うことがあります。
 さらに余談を続けますが、貝塚茂樹氏は、東洋学者、中国史学者。専攻は古代中国考古学です。学生時代に、貝塚先生の論語や中国の歴史についての岩波新書を読んだ記憶があります。ただし、「読んだ記憶がある」だけで、中身については忘却の彼方であります(爆)。

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