歴史散歩

2018年5月22日 (火)

20180512近鉄ハイキング“四日市港ポートビルからの眺望と賑わう「四日市萬古まつり」を楽しむ」”へ(その1)……冨田一本松と四日市港ポートビル、うみてらす14

Img_3873c ようやく5月12日に行ってきた近鉄ハイキング“四日市港ポートビルからの眺望と賑わう「四日市萬古まつり」を楽しむ」”の本編に取りかかれます(微笑)。この日のコースは、近鉄富田駅がスタート。四日市港ポートビルを見学し、霞ヶ浦緑地、霞ヶ浦パークブリッジ、三滝公園を経て、萬古まつり会場へ。近くのばんこの里会館と萬古神社も立ち寄りスポットで、ゴールは、近鉄名古屋線・川原町駅。マップのサブタイトルに、「萬古焼の始祖 沼波弄山(ぬなみろうざん) 生誕300年記念」とありますが、沼波弄山は、桑名の豪商。元文年間(1736~1741年)、当時、桑名藩領だった、現在の朝日町小向に窯を構えたのです。今では、萬古焼というとすっかり四日市のイメージで、個人的には「お株を奪われた」と思っています。それはまた、後ほど触れるかも知れません。

20180512 いただいたコースマップには、約8㎞とありました。ほとんど寄り道するところがありませんでしたので、距離測βで確認しても、8.8㎞でした。左が、実際に歩いたコースと距離。今回行きたかったのは、四日市港ポートビル(うみてらす14)と、萬古まつり、萬古神社です。いずれも、近いのに今までいっていないところ(微笑)。
Img_3877c 受付は9時40分から11時。ポートビルが10時からのため。桑名駅を。9時22分発の松阪行き急行に乗り、9時30分到着。¥260。スタートの富田駅には、到着時、すでに100名以上が列をなしていました。受付は予定より早くから行われ、9時40分にはスタートできました。富田駅から東南へ。国道1号線を目指します。
Img_3879c 富田駅から200mほど、北側にお稲荷さんが見えました。道路の右(南側)を歩いていましたので、今回はパス。後で調べたら、吉玉稲荷というお稲荷さんでしたが、詳しいことは不明。ちなみに、この吉玉稲荷と、近鉄富田駅の間にある市立富田幼稚園のあたりは、旧・富田城跡だそうです(ただし、遺構は何も残っていません)。
Img_3881c 吉玉稲荷の隣に三重銀行富田支店があり、その先で、旧・東海道とクロImg_3880c スします。左の写真が、朝日、桑名方面、右は四日市方面。ここの東海道は、去年(2017年)12月22日の“近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」”で歩いています。このときは、川越富洲原駅からスタートし、中風封じの田村寺、茂福神社や垂坂公園を経て、名古屋線・霞ヶ浦駅まででした。こうして実際に歩くと土地勘ができ、それが次第にアタマの中でつながって来ます。
Img_3889c 国道1号線に出て、近鉄富田駅口の信号で南下。少しだけ1号線を歩き、Img_3893cJR関西線の跨線橋の手前、東富田町と富田浜元町の境あたりで脇道にそれて行きます。このあたりではスタートして間もないので、参加者がずらり。
Img_3900c コースマップにはありませんが、脇道に入ってすぐのところに「富田一本松」があります(東富田町)。市指定記念物(史跡)になっています。東富田Img_3895c_2 付近が波打ち際であった頃に、伊勢湾の内海航路の船、伊勢湾の漁船の目印となっていたといいます。「伊勢軍記」によれば、永禄3(1560)年の茂福合戦で、鈴鹿の神戸勢が海路から上陸する際、目印になったといいます。樹齢700年を数え、高さ12mの立派な松でしたが、昭和34(1959)年の伊勢湾台風などで遂に枯れてしまい、今見られるのは、その後に植えられた2代目の松だそうです。
Img_3905c 一本松の脇には、かつてこの地に居住していた俳人山口誓子の「町なかImg_3903c_3 の 昔の松の 春の暮」の句碑が立っています。病気療養のため富田にしばらく居を移していた時にこの一本松を詠んだもの。昭和22(1947)年7月に富田保勝会が建てたものです。句は、山口誓子自筆の書で刻まれています。句碑に向かって右には、同じく山口誓子の書による「史跡 一本松の碑」があります。昭和49(1974)年9月に富田文化財保存会が建てたもの。碑陰には、「碑の謂われ」が刻まれています。茂福合戦のことや、安永9(1780)年の富田大火にも類焼せず「瑞祥の松」として崇められたことが記されていました。なお、この一本松のすぐ南を十四川が流れています(予告編の記述には誤りがありました)。
Img_3917c  一本松のすぐ先に赤煉瓦の塀があり、その内側にはレトロな建物が見えます。赤煉瓦塀はマップにも載っていまImg_3920c した。網勘製網株式会社という看板が掛かっています。寛政6(1794)年に始まる老舗の漁網製造業。富田漁港があったことから、富田地区は漁業に使用する漁網作りの製網が江戸時代から盛んだったといいます。この本社事務所は、昭和初期に完成した木骨タイル張りの2階建て一部3階建て塔屋付きの建物。瓦屋根の木造建築が多い四日市富田地区で、モダンな洋風の建物として国道1号線を通行する人々の目印となったそうです。本社事務所・正門・煉瓦塀は、国の登録有形文化財(建造物)。
Img_3921c 漁業の衰退に合わせて事業を多角化し、現在の社名は、アミカン (平成12(2000)年に変更しています)。製網だけでなく、スイミングスクールを運営するスポーツ事業などにも参入しているそうです。
Img_3930c  富田浜の町を進み、富田浜病院がある交差点を左折し、東へ。国道23号Img_3938c 線を富田浜交差点で渡り、そのまま国道23号線を浜園緑地に沿って南下し、霞大橋に向かいます。このあたりで出発から2km。
Img_3948c 霞大橋は、国道23号線や、東名阪道の四日市東インター、北勢バイパスImg_3950c の斎宮西インターから霞埠頭への入り口。これまでのコースのところどころからも見えていましたが、いよいよ四日市港ポートビルがよく見えてきます。四日市港ポートビルも、わが家からも遠望できるのですが、これまでに来たことがないのです。近くにいながら、行ったことのないところというのが、けっこうたくさんあります。そういうところへ行きたいということもあって、JRさわやかウォーキングや、近鉄ハイキングに参加しています。
Img_3963c 四日市港ポートビル四日市港管理組合の所有。四日市港の開港100Img_3979c 周年を記念して、平成11(1999)年8月に開館しました。 14階建てですが、13~14階までの間は18mの吹き抜け構造になっています。高さは、地上100mですが、これでも三重県内で最も高いビルです。今日は、近鉄ハイキング参加者は、コースマップを提示すると、無料で入れました(微笑)。10時20分到着。出発から2.8㎞ほど。
Img_3983c ポートビルの14階は、展望展示室になっています。愛称は「うみてらすImg_4007c 14(フォーティーン)」。地上90mからの眺望が楽しめますし、四日市港について学べるような展示があります。昼は、鈴鹿山脈からセントレア、名古屋方面まで見渡せますし、夜は全国的にも有名になった四日市港の夜景が一望できます。夜景も見てみたいと思いますが、それはまたいずれ。
Img_3984c この日は霞んでいて、遠くの眺望は今ひとつでしたが、それでも眺めは抜群。左の写真では、ここに来るのに渡ってきた霞大橋が見えます(写真中央)。うみてらす14の西側。写真の右端から左に伸びているのが、国道23号線。霞大橋から右上に向かうラインが、北勢バイパスや、東名阪道につながる道。写真の左端が、近鉄四日市駅あたり。鈴鹿山脈は、霞んでしまっています。
Img_3986c 左の写真は、南側の眺め。霞地区のコンビナート風景。夜眺めると、絶Img_3999c 好の夜景でしょう。向かって右が、霞大橋(西)。右の写真は、東側の景色。東ソー、中電、東邦ガス、コスモ石油などがあるところです。ガントリークレーンや、コンテナも見えています。この方向の先に、あの(苦笑)セントレアが見えるはずですが、肉眼ではよく分かりませんでした。
Img_4002c そこで、だいたいこの方角と思われる方向を、エイヤッと超望遠コンデジで撮ったのが、左の写真。結果オーライで、セントレアの管制塔と、滑走路、ジェット旅客機らしき姿が映っていました(微笑)。霞んでいなければ、当然もっときれいに見えたと思います。
Img_4013c こちらは北の眺め。霞埠頭から北に向かって伸びている、新しい道路は、4月1日に開通したばかりの「四日市・いなばポートライン(臨港道路 霞4号幹線)」です。霞埠頭と、伊勢湾岸自動車道・みえ川越インターチェンジを結んでいます。
Img_4019c 上にも書きましたが、この四日市港ポートビル、わが家からも見えますのImg_4290c で、うみてらす14からも拙宅マンションが見えるかもと思って、これまたテキトーにエイヤッと撮ってみました(苦笑)。肉眼では分かりませんでしたが、超望遠コンデジ+パソコンのお陰で何とか判別できました。左の写真のとおりです。ちなみに、帰宅後、わが家のベランダから撮った四日市港ポートビルの写真は、右の通り。
Img_4045c ここうみてらす14は、展望展示室になっていると書きました。中央には、Img_4046c 四日市港の大きなジオラマがあります。左の写真で、中央からやや右が、ポートビルのある霞地区。その部分をクローズアップしたのが、右の写真(ちょっとピントが甘い)。
Map_kouwan2015 それにしてもさすがに広い。左の画像は、四日市港管理組合のサイトからお借りしたものですが、これが四日市港の全体像(左上のジオラマとは逆向き)。川越から塩浜まで広がっています。この画像で「四日市地区」とあるあたりは、いわゆる「旧港」と呼ばれ、これまでの近鉄ハイキングや、JRさわやかウォーキングで訪れたことがあります(去年11月25日(どういうわけか、JRさわやかウォーキングへ……~四日市市制120周年記念~ 家族みんなで楽しめる四日市旧港街歩き)と、今年3月23日(近鉄ハイキング「港町、四日市を散策 みやまどさんから四日市臨港をたずねて」へ……海山道稲荷を訪ねる)と2回訪れています)。
Img_4057c 展示も一通り見てきました。左は、港のあゆみコーナー。稲葉三右衛門Img_4051c_3 の港づくりなどについて勉強できます。稲葉三右衛門は、四日市で廻船問屋を営んでいました。明治6(1873)年、四日市港の修築に着手し、私財を投じて明治17(1884)年に完成しました。このほか、港のやくわり、港ではたらく、港にしたしむといったコーナーがあります。スタンプがおいてあり、また、いただいたリーフレットにスタンプ欄がありましたので、4つすべて押してきました(微笑)。
Img_4067c 無事に四日市港ポートビルを見学し終えましたので、個人的には今日のImg_4068c ハイキングの主要目標は達成してしまいました(笑)。四日市港ポートビルにいたのは、10時50分過ぎまで。滞在移管は約30分。このあとは四日市港にある公園沿いを三滝川の手前まで南下、三滝公園に立ち寄ったあと、萬古まつりの会場を目指します。

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2018年5月21日 (月)

20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(その4)……徳蓮寺他のお寺を回って、雨尾山飛鳥寺を経て、下深谷駅へゴール(完)

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 4月28日の近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」のその4です。その3では、舟着社と野志里神社の2つの神社を見てきました。野志里神社は、去年の歴史講座を聴いてから是非とも行きたかったところで、念願を一つ果たせました。野志里神社で、6.5㎞過ぎ、時刻はちょうど12時頃。この日は暑くて、いささかお疲れ(苦笑)。しかし、次の目的地を目指して、美濃街道を下ります。ここから先は、ちょうど養老鉄道の線路沿いになります。
Img_0855c_2 コース7㎞のあたりに養老鉄道の下野代駅があります。そこを過ぎたとこImg_0870c_2 ろに常夜灯があり、その台座に徳蓮寺の案内が出ていました。見ると、踏切があり、その向こうには階段が(微笑)。ここが徳蓮寺への入り口。2月27日に出かけた近鉄ハイキングでも、三岐鉄道北勢線の踏切を渡らないと行けない神社がありましたが、ここも同様(近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(予告編)……マップ上9㎞なのに、12.4㎞も歩いたお話(笑))。
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 さて、踏切を渡り、100段ある階段を上って徳蓮寺を拝観に行きます。手Img_0881c_2 すりはあるものの、古くてけっこう急な階段を上って行くと、山の中腹にお寺がありました。眺めはよく、伊勢湾や、アルプスまで見えます。いただいたパンフレットによれば、冬には富士山も見えるとありました。古いお寺です。徳蓮寺(とくれんじ)は、真言宗東寺派で、無畏野山徳蓮寺といいます。 ご本尊が、弘法大師の作と伝わる虚空蔵菩薩であるため、「虚空蔵寺」あるいは「コクゾッサン」と呼ばれ親しまれています。ご本尊は秘仏で、7年に一度開帳されます。
Img_0863c_2 古くは、この地に三輪宗の中蓮寺という寺があったといいますが、壬申

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の乱(672年)の時に焼失しました。しばらく再建されることはなかったのですが、弘仁2(811)年、弘法大師が関東に下向された折、ここを訪れ虚空蔵菩薩を刻み、5つの寺院を建て、5座の神祠を勧請しこの地の守護としたと伝えられています。その後、明応7(1498)年の地震で大破し、元亀・天正年間の織田信長の兵火は免れたものの、天正13(1585)年の大地震でほとんどの堂塔が潰れ、弘法大師の遺物や縁起などすべてが土中に埋もれ、本尊の行方も分からなくなってしまいます。しかし、夜な夜な土中が光ることから、掘り返してみると、ナマズとウナギに守られた本尊が見つかりました。慶長10(1605)年、桑名藩主・本多忠勝公によって寺の由緒についての調べが行われ、寺領が寄進されて再興されました。慶安3(1650)年には大洪水で山崩れが起こり再び堂宇が倒壊するものの、万治2(1659)年に再建し、寺号も徳蓮寺と改められ、現在に至っています。現在、住職はご不在で地元の方々が護持しておられます。
Img_0887c_2 本堂には、252枚の絵馬が奉納されていますが、そのほとんどが、Img_0883c_2 上記のエピソードに因み、本尊をお守りしていたナマズとウナギの絵馬となっています。これらの絵馬は地震除けに奉納されたともいわれているそうです。
Img_0901c_2 古いものがたくさんありました。1枚ずつ確認するのは到底無理でしたImg_0897c_2 が、気づいた中で古かったのは、左の写真にある「天保6乙未十二月」と読めました。しかもこの絵馬の願主は、桑名宿の人です。他にも、桑名の人が奉納したものがたくさんありました。右の写真で下の方の絵馬には、「堤原 正木元治郎 正木助治郎」とあります。堤原は、今も拙宅近くにある地名。上の方の絵馬には、「今一色堤原 桶商」とあります。堤原のあたりは、昔は地名に「今一色」がついていました。
Img_0894c 絵馬は、他にも歌舞伎を描いたかと思われるものなど、ナマズ、ウナギImg_0885c_2 以外の図柄のものもあります。また、古いものばかりでなく、比較的新しいものも奉納されていました。右のものは、平成になってからのものだと伺いました。
Img_0910c_2 ナマズの絵馬がたくさん奉納されているからだと思いますが、秋篠宮殿下が徳蓮寺に平成17年にご来訪になっています。余談でありますが、ご来訪の2~3ヶ月後に長男悠仁親王のご懐妊が発表されたそうです。
Img_0926c_2 もう一つ、境内には、地震慰霊碑があります。「諸国大地震横死萬霊」と読めます。慰霊碑の下半分は地面に埋まっています。この碑、「嘉永七甲寅六月十四 十一月」ともあります(同様に、下の方は地中で読めず)。嘉永7年は、1854年。嘉永7年は、11月27日(グレゴリオ暦1855年1月15日)に安政に改元されていますが、その前に伊賀地震、東海地震、南海地震が起きています(こちらを参照)。日付から見て、これらの地震の被災者を慰霊するもののようです。今でも地元の方によって供養されているそうです。碑陰には、「當山住賢信」とあります。
Img_0935c_2 徳蓮寺には、この鐘にもエピソードがあります。この鐘は、安永4(1775)Img_0921c_2 年、桑名の鋳物師・広瀬与左衛門によって鋳造されています。鐘には、徳蓮寺の寺暦が刻まれています。昭和19(1944)年、第二次世界大戦の時、金属供出令によって供出されたのですが、終戦後、鳥居辰美氏と住職・井高長雅氏が、四日市の石原産業へ引き取りに行き、全国から集められたたくさんの鐘の中から探して、持ち帰ったものだそうです。
Img_0918c_2 閑話休題。野志里神社でも、ここ徳蓮寺でも、地元の「のしろおたから発Img_0864c_2 見隊」の方が説明してくださいました。そのユニフォーム(ベスト)がなかなかのものでしたので、お願いして写真を撮らせてもらいました。野志里神社にもありましたが、このおたから発見隊作の案内板があります。四日市でも地元の方たちによる案内板が各所にありますが、旧・桑名市内ではこういう活動はありません。見倣うとよいと思います。おなじくおたから発見隊の方がお作りになったパンフレットもいただいてきました。
Img_0868c_2 徳蓮寺の境内には他にもいくつか、興味深いものがありました。左の写Img_0867c_2 真は、階段の下にあった「松永先生頌徳之碑」ですが、詳細は不明。右は、「一榊 壱株 伯爵清浦奎吾閣下 御寄附」(ちょっと読みがアヤシい)とありました。清浦奎吾(きようらけいご)は、肥後の人で内務官僚の後、司法相、農商務相の他、枢密顧問官、総理大臣などを歴任。どういう関係があるのかは、ネット検索では不明。こういうことはよくあります。何かのつてをたどってお願いした、ということでしょうか? 分からないこと、多々あります。
Img_0941c 12時半頃、徳蓮寺を拝観して下に降りてきたところで、小生よりも年長の男性に遭遇。ここは何度目かということで、「上には上がりません」とおっしゃいます。しばらくお話しし、何となく気が合う方と思い、このあと、「同行二人(微笑)」。弘法大師が関わるお寺でお目にかかったのも何かのご縁ということ。桑名の大山田の方。飄々としておられ、いろいろとご存じでした。
Img_0948c この方とお話ししながら、徳蓮寺から1㎞余りを歩いて、明光寺へ。スタートからは、8㎞過ぎ。このImg_0951c 男性、近鉄ハイキングに参加なさるようになってもう10年以上と、大ベテラン。1㎞あまりがあっという間。旅は道連れ世は情けというのは、本当です。ここは、もう上深谷。明光寺は、浄土真宗大谷派。ここも踏切を渡って境内に入ります。
Img_0957c 本堂前で休ませてもらっていたら、踏切の警報器が鳴り始めました。これまた例によって、「俄撮り鉄(微笑)」。もうちょっと電車が手前で撮れた方がよかったかと思うのですが、素人撮り鉄としてはまあまあ。撮り鉄の方には、是非ともご助言をお願いいたします。
Img_0974c さらに1㎞弱、ほぼ9㎞地点。法光寺。高野山真言宗のお寺。深谷弘法大師とも呼ばれImg_0975c るようです。山号は、御砂山。このお寺の北、三砂川沿いに三砂城跡があったはず。市内の城跡巡りもしたいと思ってはいるものの、手つかず。やりたいことは多いものの、なかなか実現するのは難しいですねぇ。
Img_0979c この法光寺で珍しかったのは、稲荷社が併設されていたことです。江戸時代までは、神社とお寺が一緒に建てられていることが多かったことや、神仏習合、本地垂迹説などは知識としては知っていました。しかし、ここ法光寺のように、本堂と続きの建物にお稲荷さんが祀られているのは、初めて見ました。稲荷社には、神社名はありませんでした。
Img_0991c 深谷小学校を過ぎ、深谷郵便局の手前で右折。あとは、最終のポイントである雨尾山飛鳥寺を目指すだけと思っていたら、途中に西林寺というお寺がありました。浄土真宗本願寺派のお寺。山号は、北廻山。ここは、北廻城跡。室町時代、近藤右京亮家教の居城でした。織田信長の伊勢侵攻の時、滝川一益によって攻められ籠城。水が無くなったのを知られないため、馬を洗うのに、白米を用いたことから、「白米城」とも呼ばれたといいます。最後には攻め滅ぼされています。
Img_0989c  西林寺は、永正6(1509)年、禅宗の済林寺として創立しています。天正2(1574)年、本願寺第9世実如上人により、浄土真宗に改めました。その後、元禄8(1695)年に西林寺に改称しています。
Img_1002c 西林寺から桑名北高校の北側を通って、雨尾山飛鳥寺(あまおざんひちょうじ)へ。東寺真言宗。霊鳥が飛来した寺という事で「飛鳥寺」と名付けられています。十一面観世音菩薩をご本尊として、弘法大師、大日如来、善光寺如来、馬頭観音、千手観音、子安地蔵尊、不動明王、寺宝として弘法大師画像(桑名市文化財)等、多くの仏像を安置しています。伊勢西国三十三ヵ所観音巡礼の第32番札所。真言密教の名刹でしたが、元亀2(1571)年、織田信長の兵火により、焼失。その後、寛永12(1635)年、桑名藩主・松平定綱公が、この山に遊覧の折り往時を偲んで供料田を寄進、また、万治3(1660)年、同じく松平定重公より年々祈願料を寄進されています。
Img_1008c 高台にあり、木曽三川から、名古屋市街、濃尾平野、遠くは木曽の御嶽山が、一望できる、風光明媚なところにあります。左がその眺め。これ、昨年末にNHKで放送していた「マチ工場のオンナ」でよく出て来たところでした。「どこだろう、深谷あたりか?」と思っていたのです。
Img_1024c 飛鳥寺についたのは、もう13時半を回っていましたので、持参したおにぎりを食べて、その後、境内を見て回りました。左は、三吉稲荷社。由緒などはとくに示されていません。稲荷社によくある「正一位」の幟があったくらい。
Img_1028c もう一つのお社が。こちらも、社名標も由緒書きも何もなく、どういうお社かは不明。飛鳥寺のサイトにも説明はありません。
Img_1038c 今日のゴールは、こちら、養老鉄道・下深谷駅。飛鳥寺Img_1045c の境内から、すぐ東の下に見えています。ゴールは、14時ちょうど。スタートから4時間20分もかかりました。マップ上は、約9㎞ということでしたが、実測で11㎞を踏破(大げさな)。14時12分発で桑名まで。14時18分着。¥260。
 実際に行ったのが4月28日でしたが、完了まで3週間あまりかかってしまいました m(_ _)m お付き合い下さった皆様には篤く御礼申し上げます。これで、近鉄ハイキングでまだ書いていないのは、5月12日の“四日市港ポートビルからの眺望と賑わう「四日市萬古まつり」を楽しむ」”だけです。余り間を置くと、細部を忘れてしまいますし、雑になりますので、また時間を見計らって、なるべく早めに記事を書こうと思っています。書かないと、次にもいけませんし(苦笑)。

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2018年5月20日 (日)

20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(その3)……舟着社と野志里神社

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 近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(4/28)180428kintetsuhikingtado2 のその3です。その2では、多度大社を見て回りました。その後、多度大社前から東へ、またもや上り坂を経て、養老鉄道を越えたところで地道、竹藪の中を通り抜けてきました。前方に林というか、森が見えてきました。
Img_0748c コースに含まれてはいませんが、神社でしたのでここは立ち寄らざるを得まImg_0750c せん(微笑)。「村社 舟着社」という社名標が立っています。「舟着社」というからには、このあたりに舟が着いたということ。これは是非ともお参りし、見てこなくてはなりません。
Img_0752c 社伝によれば、多度神社別宮の一目連大神が度会郡山田郷よりの帰りに舟で当社附近に着かれたので舟着社と云うと伝えられています(こちら)。また、この近辺は尾津浜、尾津崎等の小字のとおり、木曽三川の川岸であったため附近の人々が氏神として舟着社の社名で海神を奉斎したとも伝えられているそうです。今は、揖斐川まで2.5㎞ほどあります。御祭神は、表筒男神(ウワツツノオノミコト)、中筒男神(なかつつのおのみこと)、大山津見神(オオヤマツミノカミ;山の神)、火之迦具土神(かぐつちのかみ;火の神)、底筒男神(そこつつのおのみこと)、天津日子根命(あまつひこねのみこと;多度大社の御祭神、天照大神の子)、気吹戸主命(いぶきどぬしのみこと;祓戸大神(はらえどのおおかみ)の一神。払戸大神とは、神道において祓を司どる神で、祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神)。表筒男神、中筒男神、底筒男神は住吉大社に祀られている御三神、住吉神(すみのえのかみ)。気吹戸主命とは、初めて知った神様。
Img_0754c 尋ねたとき、ちょうど氏子の方がお祭りの準備に来ていらっしゃり、説明をしてくださっただけでなく、本殿の方まで案内をしてくださいました。こういう出会いは、嬉しいものです。
Img_0763c 境内の一隅には、この石碑。「奉献 船置神社」と刻まれています。碑陰を確認するのを忘れてしまいましたが、社伝を裏付けるような石碑と思います。
Img_0765c 帰り際に、最初に見た社名標の碑陰を確認したところ、「国幣大社 御旅所」とありました。寄進したのは、水野英三郎というかた。国幣大社は、多度大社ですから、多度大社の御旅所ということ。5月5日の多度大社神輿渡御の折りには三基の神輿が奉安されるそうです。ちなみに、この記事を書くのにあれこれ調べていたら、日本武尊が東征において、この地から尾張国に向けて船を出したことにちなむという話もあるようです(こちら)。いやぁ、ここは立ち寄ってよかったと思います。このあたりは多度町肱江。肱江川を越え、さらに1㎞ほど進みます。
Img_0798c 美濃街道に面して野志里(のじり)神社があります。延喜式に名を列ねる古社。ここは、今回のハイImg_0801c キングで是非とも訪ねたかったところ。垂仁天皇の御代の創祀と伝えています。倭姫命が天照大神を奉じて、ここ桑名郡野代宮にお着きになり、4年間この地で宮居を造られたと伝わるとこなのです。倭姫命は、その後伊勢に遷幸され、その野代宮の跡に本社が創祀されたといいます。
Img_0803c 想像していたよりも、質素なお社でした。しかし、荘厳というか、由緒があることを十分に感じさせる雰囲気です。主祭神は、当然ながら、天照大神。相殿神は、たくさんおられます。建御雷神(タケミカヅチノカミ)、天児屋根命(アマノコヤネノミコト)、経津主神(フツヌシノカミ)、姫神(不明)、大山咋神(オオヤマクイノカミ)、速玉之男神(はやたまのおのかみ)、事解之男神(コトサカノオノカミ)、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(ヤチマタヒメノカミ)、衝立久那戸神(ツキタテフナドノカミ)、火之迦具土神(カグツチノカミ)、火之夜芸速男神(ひのやぎはやをのかみ)、火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)、品陀和気命(ホンダワケノミコト;応神天皇)、大山津見神(オオヤマツミノカミ)、宇迦之御魂神(うかのみたまのみこと)、白山比売神(しらやまひめのかみ)です。すでにおなじみの神様も多いのですが、ここで初めて名を目にする神様も多数。
Img_0796c 神社から美濃街道を挟んで東側の社地には、「伊勢神宮御旧蹟野代Img_0793c の宮」という石碑が建っています。一説によると、関ヶ原の戦いの時に、薩摩藩兵が多数、ここ美濃街道を通ったため、境内が東西に二分されたという話があるそうです。
Img_0791c 同じく東側の社地には、この「天照大神御𦾔跡式内野志里神社」という石碑もあります。明治Img_0835c 26(1893)年10月に建てられています。揮毫は、三重県知事・成川尚義(なりかわなおよし)。この石碑の上部にある「天照大神」の文字、よくよく見ると普通とは異なっています。「照」という文字のれっか(連火)の部分が「火」になっています。「照」の旧字だそうです。
Img_0820c 野志里神社の社殿の北西には、「千人塚」があります。これは、長島一Img_0822c 向一揆の時、法泉寺の空明は、農民たちと力を合わせて織田信長の軍と肱江川を挟んで戦っています。生き残った空明は戦死者の首を集めて,篤く葬ったのが、この千人塚だそうです。その後、関ヶ原の戦に負けた西軍の兵士の霊も慰めたそうです。
Img_0826c 野志里神社の境内には、まだ見るべきものがあります。左は、由緒を書Img_0830c いた石碑。大正13(1924)年3月に有志の方が建之したと碑陰にはありました。この記事の6つめのパラグラフに書いたような内容が刻まれています。右は、社務所の前に置かれていた「奉力石」。「大正ロマンの石」という副題があり、重さは36貫(150㎏)だそうです。「大正初期此石を肩迄上げた力自慢の面々」として、前野三エ門、前野与三郎他4名の方々のお名前が説明板に記されていました。
Img_0841c ところで、この野志里神社が面しているのは、旧・美濃街道。桑名から長良川に沿って美濃へと通じる街道です。桑名市川口町を起点とし桑名市多度町を通り岐阜県へと続く街道で、養老鉄道とほぼ平行して通っています。わが家近くの三崎見附を通っているのも、この美濃街道。神社で案内して下さっていた「のしろおたから発見隊」の方の説明によれば、関ヶ原の戦の時、ここを薩摩藩兵が通り、そのため、野志里神社の境内地が二分されてしまい、現在のようになったということでした。
Img_0844c 野志里神社を参拝し、見学を終えたのはもう12時少し前。この辺でスタImg_0845c ートからは6㎞半くらい。さらに南に、美濃街道をたどります。神社からすぐのところには、「前野先生頌徳碑」がありましたが、詳細は不明。碑陰を見てきませんでしたし、ネットでも情報は出て来ません。
Img_0848c この頌徳碑のすぐ目の前にはこのような道標がありました。「御衣野員辨道」とあります。御衣野は多度町内の地名で、下野代や下深谷の西あたりを指します。員辨(員弁;いなべ)は、現在の北勢町員弁。その3は、ここまでとします。ほぼ6.5㎞の地点。その4では、お寺の話が続きます。次に訪れた徳蓮寺は、ナマズの絵馬がたくさん奉納されていますし、秋篠宮殿下もいらっしゃったところです。

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2018年5月19日 (土)

近鉄ハイキング「潮風薫るハマヒルガオと春のおとずれを感じて」へ……楠中央緑地公園、吉崎海岸でハマヒルガオそして御園神社(完)

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 心配した雨も、目が覚めた5時過ぎには上がっており、7~8m/sという強風が吹いているものの、絶好のハイキング日和(微笑)。これはもう出かけるしかありません。今日は、「潮風薫るハマヒルガオと春のおとずれを感じて」というテーマ。
Img_2453c 本日のスタートは、近鉄名古屋線・北楠駅。9時50分受付開始ということで、Img_2456c 桑名駅を9時9分発の津新町行きの普通電車に乗車、9時49分着。¥400。ここでコースマップを受け取り、あみま倶楽部のスタンプをゲット。コースは、右の写真の通り。約9㎞とありました。
20180519kintetsuhikingkitakusu こちらが実際に歩いたルート。コースは、北楠駅から、楠中央緑地公園を経て吉崎海岸へ。ここでハマヒルガオを見て、鈴鹿川沿いを歩いて御薗神社に立ち寄って、名古屋線・塩浜駅がゴールです。いつもより立ち寄りポイントが少なく、ひたすら歩くイメージ。
Img_2470c 北楠駅を9時55分にスタート。遠くにコンビナートを眺めながら、田園地帯をImg_2476c 東へ。県道6号線を歩いて楠中央緑地公園を目指します。10時10分過ぎに公園に到着。スタートから1.5㎞足らず。遠くからも、公園にある中州の山が見えていました。
Img_2478c 高いところがあると、登りたくなります(苦笑)。風が強くて煽られそうでしたImg_2481c_2 が、負けずに登って行きます。まわりに高い建物もありませんから、眺望がよく効き、気持ちの良いところ。これで風が強くなければ、いうことはありません。右は、桑名方面を眺めたもの。
Img_4616c 名駅方面の高層ビル群も見えます。今日は、デジイチと、超望遠コンデImg_2488c ジの2台を持って行きましたので、こちらは超望遠コンデジの画像(今日の写真、2000番台のナンバーはデジイチ、4000番台は超望遠コンデジ)。てっぺんにある東屋の周りを一周して、「下山(大げさな)」。
Img_2511c 県道6号線に戻ってさらに東へ。2㎞半あまりのところで海岸道路に突きImg_4633c 当たり、北へ。堤防には、子どもたちが描いたと思われる絵があります。途中、堤防の切れ目から見ると、セントレアが遠くに見えました。管制塔上空を旅客機が通過していきます。セントレアには1回しか行ったことがありませんが、わが家からも見えますし、こういう海沿いに行くとついつい「見えるかな?」と気になるのです。
Img_2516c 海岸道路沿いにもハマヒルガオが咲いていました。これは、気分が高まImg_2565c ります。吉崎海岸では、一面に咲いているだろうと、想像が広がります。その吉崎海岸は、磯津漁港への入り口近くにあります。
Img_2522c 漁港入り口から吉崎海岸までは、さらに数百m。吉崎海岸は、四日市でImg_2530c も数少ない、埋め立て堤防ではなく綺麗な砂浜があるところです。ここは、ハマヒルガオだけでなく、ウミガメやシロチドリなどの貴重な生き物が見られる、自然海岸です。
Img_2527c 吉崎海岸には、10時55分頃到着。木道が整備されていて、ここを歩くよう指示されていまImg_4646c_2 す。広々としていて気持ちの良い空間が広がっています。が、しかし、肝心のハマヒルガオが広がる光景は……?? ありません(苦笑)。あちこちにハマヒルガオは咲いてはいるものの、一面に咲きそろっているというのは、勝手な妄想でした(苦笑)。近くにいらした、カメラを持った男性も、ガッカリしておられました。今日は、女性の参加者がいつもより多かったのですが、ハマヒルガオを期待した人は多数だったはず。
Img_2532c ウミガメはもちろんいませんし、人がたくさん歩いていますから、野鳥の姿もありません(苦笑)。やむなく、眺めを楽しんできました。今日は、実はバードウォッチングの下見というつもりもありましたから、まぁよし。コアジサシが来るという情報もありますし、冬になると渡り鳥も来るでしょう。左の写真は、南の方角。陸地の先端は、伊勢の朝熊山あたり。
Img_4657c 吉崎海岸からもセントレアの写真を(微笑)。私が体調を崩した平成17(2005)年に、このセントレアが開港しています。リビングのソファに座りながら、セントレアを離発着する飛行機をボンヤリ眺めていたことが思い出されます。あれからもう13年も経ってしまいました、などと思うことがあります。
Img_2571c 吉崎海岸から西へ。最初に立ち寄った楠中央緑地公園が見えるところまImg_2576c で戻り、北へ向かいます。写真は、スタートから5㎞ほどの地点。時刻は、11時20分を過ぎた頃。この先は工場地帯の中。地名でいうと、磯津、塩浜あたり。その先で磯津橋で鈴鹿川を渡ります。西には鈴鹿の山並みが見えています。
Img_2579c こちらは、鈴鹿川の下流方向。四日市市塩浜町のコンビナート地帯。石Img_2598c 原産業や、昭和四日市石油などの工場があるところ。この磯津橋を渡りきったところでちょうど6㎞。11時40分くらい。橋を渡って左折、鈴鹿川左岸を西へ。
Img_2610c 距離にして7㎞を過ぎたところ、小倉橋のところで右折。県道6号線、このImg_2613c あたりは塩浜街道と呼ばれる道へ入り、北へ。JRの引き込み線を越えて行きます。JR貨物の塩浜駅からの昭和四日市石油専用線です。
Img_2690c 御園町一丁目の交差点から西へ100mあまりのところに、御園神社があImg_2633c ります。12時を少し過ぎた時間に到着。神社検索(三重)のサイトによれば、創祀年代は不明ですが、もともと神宮の御園として御贄塩を納めていて、塩田の守護、住民の繁栄祈願のため外宮の御薗を社名に冠して創祀したと考えられています。
Img_2657c 主祭神は、天照大御神。相殿神は、天手力男神(アマノタヂカラオノミコト;天の岩屋の戸を手で開けた大力の神)、万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと;織物の神)、豊宇賀能売神(トヨウケビメノカミ;豊受大神(とようけのおおかみ)の異称)、天津日高日子番能迩迩芸能命(あまつひこひこほのににぎのみこと;一般には、邇邇芸命(ニニギノミコト)、農業の神)、天児屋根命(アマノコヤネノミコト;天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)、布刀玉命(フトダマノミコト;天照大神が天の岩屋に隠れた際、天児屋命とその出現を祈請し、また、天孫降臨に五伴緒神(いつとものおのかみ)の一として随従した)、豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ、豊受大神の異称)、応神天皇大山祇命(オオヤマツノカミ;山を司る神)、火之迦具土神(かぐつちのかみ;火の神)、天目一箇命(あまのまひとつのみこと;製鉄・鍛冶の神)、建御名方神(タケミナカタノカミ;武神)、大己貴命(おおなむちのみこと;大国主の別名)、事代主命(コトシロヌシノカミ;大国主命の子)、綿津見神(わたつみのかみ;海を司る神)の15柱。いやぁ、調べるのに大変でした。それにしても、たくさんいらっしゃるのと、豊受大神が重複しているのは、なぜでしょう?
Img_2669c 摂社・末社はありませんでしたが、ここの境内にもいろいろなものがありImg_2672c ました。まずは、「神武天皇遙拝所」。西に向かって拝むようになっています。紀元二千六百年に建てられたとあります。紀元二千六百年は、昭和15(1940)年。この年は、神武天皇が即位して2600年目の年で、日本国内で様々行事が行われました。11月10日には国をあげて大式典が執り行われ、各地の神社ではそれにあわせて神武天皇の陵墓、神武天皇を祭神にした橿原神宮がある奈良県橿原市の方角に向けて遥拝所を作ったといいます。
Img_2684c 境内の西側には、「忠魂碑」がありました。塩浜地区遺族会が、昭和終戦Img_2686c までの塩浜地区内全英霊を祀ったものです。書は、陸軍中将大久保春野によるとあります。大久保は、日清、日露の両戦争に従事した後、明治33(1900)年陸軍中将、その後教総参謀長などを務め、明治41(1908)年に陸軍大将になりました。碑陰も見てきましたが、そこには明治時代に亡くなられた方々のお名前が刻まれていましたので、元々は,日清・日露の戦没者の忠魂碑であったものと思われます。
Img_2636c 社名標の側には、「陸軍歩兵一等兵勲八等岡本熊吉碑」がありました。Img_2674c 詳細は分かりませんが、碑陰には「明治20……」とありましたので、日清戦争に従軍された方の碑と思われます(かなりすり減ってしまっていて、十分には判読できません)。もう一つ、右の写真は、「卯野精忠君祈念碑」というものもありました。碑陰には、日清戦争に従軍し帰国後亡くなった旨が記されているものの、建立年、建立者、改修等の経緯は不明です(こちらも参照)。
Img_2646c その他、あちこち見て回ってきましたが、神社入り口の鳥居のところにあImg_2643c った、この灯籠に興味深いものを見つけました。裏に寄進者の名前が記されていますが、正目から向かって右のものには、「昭和十一年十月 朝鮮京城本町三 伊藤米松 伊藤佐喜松」とありました。朝鮮京城は、ソウル。日本は、明治43(1910)年、併合に関する条約を締結して韓国を完全な植民地としましたが、その時代のもの。向かって右の灯籠裏には「伊藤與宗松」とありました。似た名前ですので、兄弟か、親戚かと思えます。
Img_2682c 新しいものとしては、こちらの「平和の礎」があります。こちらは、平成Img_2680c 4(1992)年2月に「大東亜戦争に御英霊を捧げた戦友の皆様 安らかに御眠り下さい。永遠の平和を 御誓い申し上げます」ということで、氏子一同の名とともに、寄進者として永田政成というお名前が刻まれていました。
Img_2694c 御園神社からゴールの近鉄・塩浜駅はすぐそこでしたが、南側にお寺らImg_2697c しき建物が見えましたので、確認だけしてきました。お寺は二つ。まずは、浄土真宗本願寺派の光耀山西願寺(左の写真)。もう一つは、浄土真宗大谷派の生浦山専福寺。
Img_2706c 少しだけ寄り道をして、ゴールの近鉄名古屋線・塩浜駅に着いたのは12Img_2719c 時33分。あまりたくさん歩いた感じはなく、「9㎞も歩いたか?」と思ったのですが、帰宅してチェックしたら、8.8㎞ほど歩いていました。12時46分に名古屋行き急行がありましたので、これに乗車することにしました。
Img_2721c 塩浜駅に隣接して、近鉄塩浜検修車庫があります。近鉄の車両検査をImg_2723c 行うほか、車庫周辺には資材センターなどもあるそうで、名古屋地区における近鉄の拠点になっています。ここでは、「きんてつ鉄道まつり」が開催されます。子どもたちが小さい頃、連れてきたこともあります。小生は、鉄ちゃんではありませんが、興味はあります。今日も、車庫内に「はかるくん」が止まっていましたので、1枚撮ってきました。電気検測車で、近鉄版ドクターイエローといえる電車です。養老鉄道なども走っているようです(こちら)。
 桑名駅到着は、13時04分。¥350。ハイキングで8.8㎞、桑名駅往復で約2㎞、合計10.8㎞ほど歩きました。今日は、6月以降の近鉄ハイキングのパンフレットもいただけました。あとで確認して、予定を立てようと思っています。「あるく みる まなぶ」という近鉄あみま倶楽部のキャッチフレーズというか、理念は、よく考えられていると思います。日頃のウォーキングと、JRさわやかウォーキングや近鉄ハイキングへの参加、歴史の勉強、続けましょう。もちろん、ご依頼があれば本業(どっちが?)の方も(心理アセスメント、心理学、心理検査などなど)。
 なお、今日の近鉄ハイキング「潮風薫るハマヒルガオと春のおとずれを感じて」の記事は、これで完了であります。4月28日の近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」は、「その3」がまだ途中ですので、続きます。そして、5月12日の近鉄ハイキング“四日市港ポートビルからの眺望と賑わう「四日市萬古まつり」を楽しむ」”は、多度編が終わったら、記事を書きます。

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2018年5月17日 (木)

20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(その2)……多度大社

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 4月28日の近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」、その2です。今回は、多度大社のお話し。何度も書いていますが、目の前までは来たことがあったものの、お参りするのは今回が初めて。式内社(名神大社)で、旧社格は国幣大社。よく調べていかなかったのですが、この鳥居に向かって左に、上げ馬神事が行われる「上げ坂」があったのでした。また、ここに写っている鳥居は、諸戸精太が寄付したもの。諸戸精太は、諸戸家初代・諸戸清六の次男(西諸戸家)。諸戸精太は、初代諸戸清六の屋敷(現在の諸戸氏庭園)を相続しています。
Img_0615c 主祭神は、天津彦根命(あまつひこねのみこと、天照大神の第3子)。天津彦根命は、このあたりの豪族・桑名首(くわなのおびと)の祖神です。天津彦根命が天照大神の御子神であることや、参詣のための街道沿いにあることから伊勢神宮との関係が深く、「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」とも詠われています。境内には天津彦根命の子である天目一箇命(あまのまひとつのみこと)を祀る別宮・一目連神社があり、本宮とともに「多度両宮」と称されます。
Img_0631c こちらがその本宮。神代の昔から御鎮座になり、雄略天皇の御代に神殿がImg_0620c 創建されたとあります。なかなか厳かな雰囲気で、陽の光の当たり方も絶妙という感じがしました。古代には、社殿背後の多度山を神体山としていました。天平宝字7(763)年、僧・万願によって神宮寺が創建されています。中世には国司・北畠氏が保護していたのですが、元亀2(1571)年、織田信長の長島一向一揆平定の際に兵火により焼失しました。慶長10(1605)年、桑名藩主・本多忠勝により再建されています。それにしても、三重県の北勢地方では、この織田信長と長島一向一揆については大きな影響があるものです。
Img_0629c 別宮・一目連神社です。天目一箇命は天津彦根命の子、桑名首の祖といImg_0618c われます。また、我が国金属工業の祖神でもあります。この社には、神の出入りを容易にするために、古来、扉がなく御簾が掛けてあるのみです。ちなみに、桑名市西鍋屋町にも一目連神社がありますし、赤須賀神明社にも天目一箇命が相殿神として祀られています。
Img_0599c 境内には摂社、末社がいくつか祀られています。まずは、雨宮八幡社。Img_0601c 御祭神は、天水分神(アマノミクマリノカミ;水の分配をつかさどる神で、豊作の神として信仰された)、國水分神(クニノミクマリノカミ;水分神、天水分神とともに、豊作の神として信仰されました)、品陀和気命(ホンダワケノミコト;応神天皇)。古くは水分社と八幡社の二社であったものが、大正6(1917)年に合祀されています。
Img_0605c こちらは、多度招魂社。明治10(1877)年の西南の役以降、出征、戦没さImg_0609c れた桑名郡市・員弁郡市・四日市市・三重郡・岐阜県下出身の方々を奉斎しています。創建されたのは、昭和27(1952)年、サンフランシスコ条約発効後だそうです。
Img_0612c 次いで、女性の皆様には見逃せないと思います。美御前社(うつくしごぜImg_0613c んのやしろ)。御祭神は、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)。耳、口、鼻、のどの諸病や、婦人の帯下の病の治癒、良縁、子授け、安産に御神徳があるといいます。常に美しくありたいと願う女性の参拝が多いそうです。
Img_0621c 本宮、別宮の近くにあるのは、神明社。神明社ですから、祀られているのImg_0624c は、天照大神。案内板の下には、「於伊勢さんとお多度さんはは親子の神様です」という説明が追加されています。
Img_0644c さて次は、ちょっと珍しい。「神馬」と書かれたお社。白馬舎(はくばしゃ)

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といいます。白馬伝説に因んだ白馬が納められています。多度大社には、昔から「白馬伝説」が伝わっています。多度山は昔から神がおられると信じられ、人々は暮らしの平穏や家族の幸せを祈り続けてきたのですが、その願いを神に届ける使者の役割を果たすのが、白馬なのです。
Img_0649c このお社の前に「歯ぎしり除け豆」を授与していただくとこImg_0651c ろがありました。歯ぎしり除けとはあまり見かけませんが、馬は非常に歯の丈夫な動物と言うことで、これにあやかった『歯ぎしり除けの豆』が頒布されています。無病息災ともあり、初穂料が100円でしたので、この「御神馬の豆」をいただいてきました(微笑)。
Img_0662c こちらは、新宮社。御祭神は、天津彦根命幸魂(あまつひこねのみことさImg_0665c きみたま)、天目一箇命幸魂(あめのまひとつのみことさきみたま)です。幸魂(さきみたま)、小生は知りませんでしたが、神道の一霊四魂(いちれいしこん)という考え方によるもので、人を幸せにする神霊のことだそうです。江戸時代、多度大社が復興される際、両宮の御祭神は美濃国赤坂山より、まず当社に還御になられたといいます。
Img_0666c 神馬舎(じんめしゃ)であります。鳥居をくぐったすぐのところ、西側にありImg_0677c ます。生きた神馬、「錦山」号が飼育されています。生きた神馬がいる神社は珍しいと思います。初穂料100円で、人参を与えることができます。
Img_0653c こちらは、参道脇にあった「切支丹灯籠」。江戸時代、キリスト教が禁じられていた時に、ひっそりと拝まれていた灯籠を切支丹灯籠といいます。形が十字架に似ているので、拝まれたといいますが、パッと見たところでは十字架に似ている感じはしません。
Img_0656c 切支丹灯籠の南には、筆塚がありました。さすがにこのロケーションでImg_0660c は、碑陰は確認できませんが、碑像マップによれば、明治百年記念で建てられたようです。さらに、切支丹灯籠の前、筆塚との間には右の写真のような奉寄進碑がありました。碑文などは、こちらを参照。天明3(1783年)、北勢桑名郡長嶋新田中が建てたと考えられます。
Img_0699c  これで境内は見て回ったと思ったのですが、帰宅してから調べてみたら、Img_0694c 摂社・末社は他にもありました(苦笑)。こちらの境内案内図をご覧ください。藤波社、皇子社、一挙社、鉾立社などです。 他にも、文学碑、句碑などもたくさんあります。松尾芭蕉句碑もあります。「宮人よ 我が名を散らせ 落葉川」と詠んでいます。芭蕉が多度を訪れたのは、元禄2(1689)年で、この句は多度大社を参拝した折に詠んだものだそうです。ということで見落としたところがまだたくさんありますので、これはもう一度参拝がてら確認してくる必要があります。
180428kintetsuhikingtado2 多度大社を参拝し、南へ。多度川を渡って、多度大社南の交差点を東にImg_0710c 向かいます。ここから、さらにきつい上り坂が、桑名市多度地区市民センターあたりまで続くのです。この坂道は、この日最大の難所(笑)。普段、平らなところを散歩していますから、ちょっと苦労。
Img_0717c こちらが多度地区市民センター。この前が、坂道のピーク。ここからは、Img_0720c 国道258号線方面へ下り坂。やれやれというところ。
Img_0724c 途中、ミカン畑越しに多度山を見ながら、Img_0729c 養老鉄道をまたぐ高架を過ぎるところまで進みます。右の写真は、高架橋から見た多度駅。ほぼ一周してきたことになります。
Img_0733c このすぐ先に、多度大社の大鳥居が立っています。この鳥居の下をくぐっImg_0736c て、南へ。地道を通って、竹藪を抜けていきます。右の写真のようなところを通ると、いかにもハイキングという感じがしてきますが、歩きながら、この道で間違いないのか? と若干不安になっていました。
Img_0742c 竹藪では、育ちすぎたタケノコがあちこちにニョキニョキ。市内の播磨あたりでもタケノコが名物なのですが、最近は世話をする(世話ができる)方が減って、タケノコを採らずに放置してあるところも多いと聞きます。いずこも同じようです。
Img_0743c ようやく竹藪を抜け、美濃街道が見えるあたりまでやって来ました。これImg_0745c らの写真を撮ったあたりで、5㎞直前。このあたりで時刻は、11時10分を過ぎたくらい。右の写真で、前方に見えている道が美濃街道。鎮守の森らしきものも見えてきました。ここが、実は面白い神社でしたが、今日はここまで。

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2018年5月14日 (月)

20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(その1)……多度駅から、鯉料理大黒屋、宮川清めの池、地蔵堂、多度稲荷神社を経て、多度観音堂へ

 JRさわやかウォーキングや、近鉄ハイキングに参加するほか、さらには勝手に近鉄ハイキングなるものまで催してしまい、記事が遅れています。半月ほど遅くなっていますが、4月28日に行ってきた近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」の記事に着手します。ボチボチと参ります。
Img_0478c  この日は、桑名駅から養老鉄道に乗って多度駅へ。多度駅をスタートし、多Img_0479c 度の町並みを眺めながら、伊勢西国三十三所観音巡礼第33番・多度観音堂へ。美濃街道を通って野志里(のじり)神社、徳蓮寺、第32番・雨尾山飛鳥寺を経て、養老鉄道・下深谷駅がゴールという、マップ上約9㎞のコース。コースには多度大社もあります。桑名に住んで25年以上になりますが、まだお参りしていません。また、野志里神社は、倭姫命が天照大神を奉じて桑名郡野代宮にお着きになり、4年間この地に滞在されたところと伝わっており、是非とも一度は訪れたいと思っていたのです。また、美濃街道は、七里の渡しから東海道を200mほど南下した、川口町と江戸町の境から、わが家近くの三崎通、堤原を抜けて美濃、多度へ向かっていますので、これにも興味があります。
Img_0461c
 養老鉄道は、以前は近鉄養老線でした。近鉄の子会社で、平成19(2007)Img_0464c_3 年10月1日付けで近鉄から養老線の運営を引き継ぎました。桑名駅は、4番線から発着。近鉄桑名駅には、今は5番線はなく、同じホームの反対側は6番線(名古屋線下り、四日市、津方面)です。9時25分発大垣行きに乗車。多度駅には、9時38分着。¥310。受付が9時40分からですのでちょうどよい時刻。
Img_0471c 多度駅で見たかったものがありました。それは、こちら「ご当地駅名標」です。写真のように多度大社の馬をイメージしたもの。事業形態の変更に伴って、今年1月1日から設置されています。大垣駅、養老駅など全7駅にそれぞれ独特のものがあるそうです。多度大社は上げ馬神事で有名ですし、境内に神馬もいます。
Img_0473c スタートの多度駅。養老鉄道には乗ったことはありますが、降りるのは初180428kintetsuhikingtado1_2 めて。受付は予定より早くから行われたようで、到着時点では参加者の行列はありませんでした。受け取った地図は、#115。初めに載せましたように、裏表2ページ。これを見ると、歩き通せるのかと若干心配になります。歩いたコースの全体像は、右の画像の通り。縮尺の関係でたいしたことがないように見えますが、実際に歩いたのは、11㎞を。まさに「踏破(大げさな)」であります。
180428kintetsuhikingtado4 スタートから5㎞ほどまでの拡大地図は、こちら。多度駅から北に向かImg_0491c い、多度川を多度橋で渡ったところで、左折し、西へ。地図では分かりませんが、多度大社に向かうこの道、上り坂(苦笑)。この日はけっこう暑かったので、多度大社につくまでに汗ばんでいました。多度山を見ながら歩きます。道沿いで、そこかしこからウグイスのさえずりが聞こえ、また、ツバメが飛び交うという、恵まれた環境でした。
Img_0504c 鯉料理の大黒屋。江戸時代中期に多度大社の参詣者のための旅籠としImg_0509c て創業し、幕末に近くの木曽三川で獲れる天然の鯉を使用して鯉料理を始めています。庭園は、多度山を背景になかなか風流な感じ。仕入れた鯉を清流の中で数か月、餌を与えず飼育することで鯉特有の臭みを完全に消しているそうです。鯉料理は、信州に行ったときにご馳走になったことがありますが、まったく個人的には、海の近くで育っていますので、川魚料理はどうもなぁと思ってしまいます。しかし、こちらのサイトによれば、食べた人が「え、これが鯉!?」と驚くほど、洗練された味と食感の鯉料理とか。
Img_0506c こちらは、庭園への門。大黒屋の名前の通り、門の屋根には、大黒様がImg_0507c 鎮座。建物、お庭はもちろん店も歴史を感じさせるものがあります。機会があれば、鯉料理を味わってみたい気がしますが、今回は先を急ぎました。
Img_0513c 鯉料理の大黒屋の西隣には、西大黒屋さんがあります。多度名物のImg_0514c 壺豆を製造販売しています。大豆を軸にきな粉を練り合わせ、白砂糖で包みこんだ豆菓子で、多度土産として有名で、他にもいくつか店があります。わが家の近くでも、寺町商店街の町の駅で売っています。
Img_0521c 西大黒屋さんのほぼ正面、南側に「宮川清めの池」があります。ここは、Img_0516c 多度川の伏流水を利用した、垢離・掻池(みそぎ池)です。多度大社の参拝者は、ここで手を洗い、口をすすいで身を清めたといいます。いまでも、多度祭には、この池の水で御旅所行列の途中、各御厨(奉仕地区)の祭馬にそれぞれに水を飼い、足を清めるそうです。覗いてみると、確かにきれいな水をたたえていました。
Img_0536c 清めの池から西へ140mほど行くと、宮川常会集会所の脇に地蔵堂があImg_0533c ります。「半跏延命地蔵尊」「薬師如来」という看板が掲げられています。由来は明確ではないものの、半跏像(片足を組んだ像)は、作風からは室町末期から江戸初期(1500年代~1600年代初め)のものとされます。江戸時代から延命地蔵として、ここ柚井(ゆい)の人々の信仰を集めたそうです。並祀されている薬師如来の由来も不明のようですが、地元の方たちからの信仰が厚く、ここに併せ祀られています。
Img_0545c この日のコースのあちこちには、ご覧のように、タケノコの無人販売所がありました。時期的にはちょっと遅いと思います。というのも、並んでいるタケノコが皆大きめ。値段は、販売所によって異なりましたが、だいたい1個¥300~600でした。
Img_0552c 地蔵堂から500m弱で、多度稲荷神社に到着。次のスポットである多度観Img_0555c 音堂や、多度大社の門前に並んでいますが、多度大社の摂社や、末社ではなく、独立した神社です。御祭神は、宇迦之御霊大神。元治元(1864)年、多度の庄屋が伏見稲荷大社に参拝したときに御分霊を拝戴してここにお祭りしたといいます。
Img_0557c この神社、婚活に力を入れているようで、社務所に右のような掲示が出Img_0560c ていました.きちんとした写真を撮ってきませんでしたが、入り口には黄色い「婚活守り」と書いた幟が立っています。必要な方は、御神徳があるかも知れません。
Img_0563c 多度稲荷神社のすぐ北に多度観音堂があります。多度山法雲寺。御本Img_0565c 尊は、千手観音。伊勢西国三十三観音霊場第三十三番札所。宗派は、真言宗です。明治に至るまでたびたび洪水に出会い、元の御堂の位置は定かではないそうですが、明治34(1901)年の本堂再建以来、この場所にあります。本堂は、昭和38(1963)年に改築されています。ご本尊は、平安時代前期の作と推定され、多度神宮寺に関わりがあると考えられています。多度神宮寺は、天平宝字7(763)年に満願(まんがん)禅師が建てたといいます。
Img_0566c 石段を登った上に御堂があり、ご本尊の千手観音と、十一面観音菩薩立Img_0577c 像が祀られています。十一面観音菩薩立像は、南北朝時代前後の作と考えられ、これも多度神宮寺に関係があると推定されています。ちなみに、開基した満願禅師像もるそうですが、それには気づかず(苦笑)。
Img_0576c 梵鐘は、宝永2(1705)年、加賀金沢の鋳物師・平井与兵衛尉永能が鋳造したもの。第二次世界大戦の際、供出された歴史からみて、残されているのはとても珍しいということです。
Img_0580c 境内には石碑がいくつかあります。まずこちらは、「華山翁瘞遺物碑」とあります(ここを参照)。「享和癸亥」とありますから、これが建てられたのは、享和3(1803)年と思われます。あの渡辺崋山は、寛政5(1793)年~天保12(1841)ですので、この石碑の崋山翁葉、渡辺崋山とは思われませんが、これ以上は不明。碑文をしっかりと読めば分かるかも知れません。
Img0584c もう一つは、「満願禅師碑」でした。こちらは新しく、昭和5(1930)年8月と碑陰にありました。さらに、境内には「鱗魚供養之碑」があったのですが(こちら)、これら2つの石碑と、石段を挟んで反対側にあり、見逃してしまいました。
Img_0593c 多度青少年会館との間には、大きな「平野翁頌德碑」が建っています。平野武平という方を顕彰する碑で、昭和7(1932)年3月の建立。こちらに碑文があります。漢文で書かれていますが、ざっと見ると、村長を務めるなど、地元のために多大な貢献をなさった方のようです。ネット検索では詳しい情報は出て来ません。題額は、拓務政務次官加藤久米四郎 。加藤は、三重県桑名郡大山田村(現在の桑名市)出身で、衆議院議員を務め、犬養内閣で拓務政務次官に任じられています。
Img_0596c 多度観音堂の西隣が多度大社。はじめに書きましたが、まだお参りしたことがありませんでしたので、立ち寄っていくことにしました。ただし、観音堂から行きましたので、鳥居をくぐってきちんと参道を進むのではなく、横から入ってしまいました(苦笑)。次は、多度大社のお話し。多度大社の中で、出発から約2㎞。時刻は10時20分。

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2018年5月12日 (土)

20180423勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」(その4)……お城公園、高山神社を見て完

20180423tsuwalk  ずいぶん間が開いてしまいました。これも、遊んでばかりはいられない状況になったがためです。5月2日以来ですが、“勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」”のその4です。その3では、津観音から、大門商店街のディープな稲荷社を見て、蜂蜜まんを土産に、また、千寿の天むすを昼ご飯にゲットし、いよいよお城公園にというところまででした。地図では、中央あたりにお城公園があります。お城公園でほぼ7㎞。

Img_2476c お城公園に入る前に1ヶ所、立ち寄り。お城前公園に石碑が2つありましたのImg_2472c で、それを見てきました。まずは、向かって右。「しらはたや 花さく山の 一備へ 高虎」とあります。藤堂高虎公入府四百年記念俳句会が2008年に建立したとあります。高虎公が60歳の頃、関ヶ原の戦いを思い出して詠んだ句なのだといいます(こちら)。
Img_2473c 向かって左に立つのは、「古城址の池 くれなづむ 花あかり」という、内藤まさをの句(三重の句碑はこちら)。昭和43(1968)年12月に津史跡名勝保存会、三重俳句社が建立したもの。内藤まさをは、昭和23年に三重俳句社を創設、主宰した方のようです(こちらを参照)。文部大臣賞や、三重県教育文化功労者を受賞。内藤まさをの句碑は、三重の句碑によれば、県下9ヶ所にあります。
Img_2463c さて、前置きはこれくらいにして、いよいよ津城跡、お城公園へ。ここで告白Img_2483c しますが、小生、以前は、このお城公園と津偕楽公園との区別がしっかりとはついていませんでした。津偕楽公園の方は、昔は「御山荘山」といい、津藩第11代藩主・藤堂高猷(たかゆき)公が、安政年間(1855~1860年)に別荘を営んだところでした(微笑)。
Img_2478c お城公園は、津城の跡。津城は、織田信包(信長の弟)が天正8(1580)Img_2518c 年に築城。その後、藤堂高虎が、四国伊予の今治から移封、 慶長16(1611)年に大規模な改修を行っています。高虎は、城や城下町の整備を行うとともに、参宮街道を城下に引き入れたり、城の東に堀川を切り開いたりして津の基礎づくりを行いました。 明治維新まで、津は32万石の城下町として栄えてきました。公園入り口の脇には、丑寅櫓が再建されています。本丸の東北隅に位置し、層塔型三重三階。戌亥櫓とともに城内で最大の櫓であったと考えられています。
Img_2494c それはさておき、この時点で13時10分を過ぎていましたので、まずは腹Img_2499c ごしらえ。藤堂高虎公の像がある広場のベンチで、千寿で買ってきた天むすを広げます(微笑)。天むすというと、名古屋名物というイメージがありますが、この千寿さんが発祥のお店。
Img_2503c 5個で650円なり。天むすは、海老の天ぷらを具にしたおにぎり。千寿はもともと天ぷら定食店で、1950年代にまかない料理として考案されたもの

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だそうです。初代水谷ヨネが忙しくて夫の昼食を作る暇がない折に、車えびの天ぷらを切っておむすびの中に入れたのがきっかけ。その後、味付などを試行錯誤し、常連客向けの裏メニューとして振舞うようになったといいます。好評を得たため、天むすは「千寿」の正式なメニューとなり、1959年(昭和34年)頃に天むす専門店となったといいます。
Img_2514c 腹ごしらえを済ませてから、お城公園を散策。入り口に戻り、丑寅櫓に登っImg_2527c てきました。
Img_2533c  階段を上っていくと、ちょっと恐ろしい感じImg_2529c もするのですが、石垣の上に出られます。左の写真は、北西の方を見たところ。右は、東の方。大きなビルは、百五銀行本部。百五銀行の向こうに国道23号線が通り、その向こうを午前中歩き回ってきたということです。
Img_2553c 本丸の跡と思いますが、立派な高虎の騎馬像があります。この像は、津Img_2556c 青年会議所創立35周年事業として発案され、市民の浄財によって、市制100周年の年である平成10(1998)年に建立されました。
Img_2541c お城公園の中を散策。北側には、聱牙土井先生詩碑があります。土井Img_2544c 聱牙(どいごうが;文化14(1817)~明治13(1880)年)は、江戸後期~明治時代の儒者。津藩儒医土井橘窓の次男。藩校有造館の助教・講官をつとめ、佐幕を主張。明治2(1869)年、督学。この市は、彼が40歳の時、「書生に示す」という題でつくったもの。七言絶句。たくさんの書物を読んだ人が聖人、賢人であり、それは、読書という後天的努力によって先天的素質を補うからである。それ故、朝夕、あなたの二つの目を十分に活用し、精神を集中して灯火に向かって、たくさんの書物を読破しなさいという意味。
Img_2549c
 西側へ行くと、「西鉄門虎口(にしくろがねもんこぐち)」の碑が。図面を見Img_2551c ると虎口の左側には伊賀櫓という二重櫓が建っていたようですが、今はその土台の石垣ごとありません。碑の脇から向こうは、右の写真のような眺め。
Img_2558c 南へ回ると、津市傷痍軍人会が昭和56(1981)年10月に建てた「平和の碑」がありました。戦争の悲惨さを身をもって体験したものとして、後生にこれを伝え、世界平和を願望するために建てたとあります。傷痍軍人 というのは、今ではほとんど歴史的用語になっていると思いますが、小生が子どもの頃など、お祭りに傷痍軍人の方が数名いらして、楽器を弾いたりしていたのを思い出します。ちなみに、日本傷痍軍人会は、法人化時(昭和30(1955)年)には35万人であった会員数が、平成25(2013)年には約5000人まで減少したため、この年の11月末をもって解散しています。平成も来年で終わりますが、昭和はまさに遠くなりにけりです。
Img_2574c お城公園から西に向かうところ。堀に花菖蒲園がありました。このさらにImg_2601c 西には、津市役所が堀端に立っています。
Img_2581c 花菖蒲園のある少し西には、本丸跡の日本庭園へ続く入り口がありまImg_2585c す。左の写真で突き当たりを右へ(東へ)曲がります。曲がった先の日本庭園入口には藩校有造館の正門の入徳門が移築現存しています。文政3(1820)年、津藩10代藩主・なった藤堂高兌(たかさわ)公は、藩士やその子弟の教育機関として、有造館を創設しています。「入徳門」の名称は、「大学は諸学徳に入る門なり」ということばから来ているといいます。有造館は、明治4(1871)年には行こうになったものの、その後創設された小学校第一校、師範学校、津中学校などの正門として使われてきました。昭和46(1971)年、現在地に建てられています。
Img_2591c 左は日本庭園の一部。右は、旧・西の丸の門にあった津城跡の説明文。これがもImg_2583c っとも包括的で、よく分かりました。
Img_2594c この西の丸の跡のところには、左の写真のような小高い場所が残っていて、古い石段で登れます。櫓の跡かという気がしますが、確認できていません。こういうところを見ると、古くさい!といわれるでしょうが、三橋美智也「古城」という歌謡曲の歌詞が思い出されます。
Img_2631c お城公園を出て、高山神社に向かいました。藤堂高虎公を祀ります。津Img_2615c 発展の礎を築いた開祖として、「寒松院殿前伊州羽林道賢高山権大僧都」という法号で、「高山公」と通称されることに由来します。主祭神は、藤堂高虎霊。相殿神として、品陀別命大雀命大国主神八重事代主神大山祇命木花佐久夜毘賣命建速須佐之男命表筒之男命中筒之男命底筒之男命大物主命
Img_2620c 従来、津藩主藤堂家において藩祖藤堂和泉守高虎朝臣の霊を津城内に奉斎していたものを、明治維新の後、神社創建の議が起り、明治9(1876)年9月、神社創建となっています。明治10(1877)年8月、現在の津偕楽公園内に神祠を建立。明治34(1901)年12月、現在地に仮遷座。正式にここに移られたのは、明治36年4月。
Img_2608c 社務所の南にあった常夜灯。面白いことに、「古着屋仲間」が建立したとImg_2609c ありました。建立年は、風化などのためよく読めませんでしたが、「○○年乙丑」とあるようです。創建以降、「乙丑」の年は、大正14(19259年ですから、この年かと推測しています。
Img_2621c 境内にある「百度石」。碑陰には、「文久元辛酉年十二月吉展」とあるようでした。文久元年は、1861年。江戸も末の時期。ということは、神社の創建以前のものですから、どこか他にあったものなのでしょうか?
Img_2639c 境内には稲荷社もあります。この城山稲Img_2637c 荷神社は、もともと宇治山田町浦口に二八稲荷社として祀られていたもの。2月と8月の毎日、それ以外の2と8の日には地元町民よりも津市から御商工業者や、一般市民の参詣者が長蛇の列をなしたといいます。津市民の信仰が厚い現状に鑑み、明治44(1911)年、津市長から宇治山田町長(当時)へ懇請し、二八稲荷社をお社ごと、この高山神社へ移し、「城山稲荷神社」と改称し、津市の商工業は、産業育成の守護神としたと御由緒にあります。ちょっと驚くような話。百度石もこのときに来たのかと勝手に想像しています。
Img_2646c この城山稲荷神社は、お稲荷さん特有の赤い鳥居が続いた奥に鎮座しImg_2644c ておられます。ところが、稲荷社につきものであるはずの狐さんがいらっしゃいません。代わって、普通の神社にあるように、狛犬が赤鳥居脇に鎮座。ちょっと不思議な光景。
Img_2647c_2 鳥居のまわりを見回すと、裏側にこの左の写真のようなものがありましImg_2650c_2 た。それも一対になっています。水滴のようにも見えますが、それでは訳が分かりません。ネットで検索してみたら、こちらに言及されていましたが、どうやら宝珠の一種のようです。いやぁ、神社はワンダーランドとときどき書いていますが、本当にそうです。ちなみに狐様は、拝殿に祀られていました。
Img_2652c もう一つよく分からなくて、調べがついていないのは、こちら。城山稲荷神Img_2654c 社の西にもう一つ、赤鳥居の参道があり、その奥に2つのお社というか、祠というか。片や赤煉瓦造りで、中に小さな赤い鳥居。こちらもお稲荷さんに関係したものなのでしょうが、詳細は不明。社務所で尋ねればよかったと反省。
Img_2658c
 その他には、境内の一角に山の神様が集められていました。鳥居の奥に、「山の神(あるいは山神)」と刻まれた石碑が三体。ちなみにこの山の神様の脇からも、お城公園に続く道があります。さらに「針塚」も。針塚の方は、平成6(1994)年2月に日本和裁士会三重県支部が建てています。近鉄ハイキングで訪れた鈴鹿の江島若宮八幡神社にも針塚がありました。
Img_2668c 高山神社の余談。拝殿にあげられていた薦被りは、「高虎」というお酒でした。お酒の名前になるほど、津では高虎公が愛されているということでしょう。「高虎ドッグ」というのも有名。小生も2度ほど食べたことがありますが、種類も豊富で美味しくいただきました。ただし、大人気で、賑わっていますし、人気商品はすぐに売り切れご免。
Img_2677c さて、これで目的のところもすべて訪ね終え、高山神社から南へ。朝、津松菱百貨店に向かった道に戻って、1㎞半ほど歩いて津新町駅へ。9時50分にスタートし、津新町駅に戻ってきたのは、14時10分。4時間あまりかけて、8.8㎞を歩いてきました。案外たくさん歩いたのに自分でも少々驚き(苦笑)。14時13分に名古屋行き急行があったのですが、改札を通ったところで発車して、乗れずじまい。14時35分の名古屋行き急行で、桑名まで。桑名には15時22分着。片道¥750。
 4月23日に行ったのに、ここまで引っ張ってしまいました。4月28日には、近鉄ハイキングで「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」に行っていますし、昨日(5/12)にはさらに、近鉄ハイキングで“四日市港ポートビルからの眺望と賑わう「四日市萬古まつり」を楽しむ」”に参加しています。何を考えているのか、懲りないのか、どちらも本編を気長にお待ちください(笑)。
 なお、この“20180423勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」”の過去記事(予告編からその3)は、次の通りです:

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2018年5月 5日 (土)

オシドリ発見、歴史散歩と高田本山専修寺へも……家内の実家へ(5/4、5)

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 5月4日午後から5日にかけて、家内の実家へ行っておりました。ゴールデンウィークですから一泊。山間にある温泉地です。すでにあちこちの水田では、ほとんど田植が終わっていました。自分の住まいにいるよりもゆったりとした時間が流れ、居心地のよいところです。
Img_3362c この2日間で最大のニュースは、こちら。オシドリのペアを見つけたことでImg_3370c す。5日午前中、散歩中に実家近くの川にいたのです。川の景色を写真に撮っていたら、向こうが驚いて飛び立って見つけられました(微笑)。実物は初めて。オスは本当にきれいですし、この質感やフォルムも美しい。
Img_3319c 実家のあたりには、ツバメがたくさん飛び交っています。実家前の道路の電Img_3322c 線や、引き込み線にもやって来ます。オスは盛んに「チュビチュビチュビチュルルルル」というようなさえずりを聞かせてくれます。
Img_3263c 実家の玄関先には、数年前のツバメの巣がそのまま残っています。ツバメたちは、この巣を何度も確認に来ているのですが、今のところまだここで子育てをするとは決めていない様子。義母は、何とかここで子育てをしてくれないかと願っています。
Img_3295c 夕方になると、実家近くにはホオジロのオスがやって来ます。電線や電柱Img_3347c の上でさえずっています。トビもよく見ます。超望遠コンデジしか持参しませんでしたので、飛んでいるところを撮るのは、なかなか難しい。このほか、ウグイスもよく鳴いていて、5日の朝は、ウグイスの鳴き声で目が覚めるという贅沢(微笑)。
Img_3326c 5日の午前中は、散歩。町内一周で、2.8㎞ほど。左は、地区(垣内(かいImg_3328c_2 と))の山の神様。庚申塚牛頭天王(インドの祇園精舎の守護神。除疫神)なども祀られています。鳥居に向かって右にある「御神」には、「文政六未十二月 花掛垣内」とありました。文政6年は、1823年。
Img_3396c 実家での散歩では、いつも氏神様の射山神社にお参りします。主祭神Img_3394c は、大名貴命と少名彦命。延喜式神名帳にも載っています。境内の裏手にある湯之瀬川の北岸にそびえる射山(貝石山)を御神体とし、今も山腹八合目に御社殿が残っているそうです。この境内は拝殿御旅所とされていましたが、天正16(1588)年3月、現地に遷座されています。
Img_3429c この3月に涅槃図のご開帳を拝観した林性寺の近くにある、湯元誓願寺観音堂にも立ち寄って来ました。駐在所の正面にあります。湯元は地名のようです。一志郡内三拾三所第30番札所といいます。ご本尊は、十一面観世音菩薩ですが、この他に近くにあった十王堂から閻魔さまが、また湯治場にあった観音堂から33体の観音様と大所帯です。無住職で、地元自治会が管理しておられます。
Img_3448c 「不動さん」で親しまれている、古井谷(ふりだん)のお不動さま。この存Img_3450c 在は、以前から知っていたのですが、きちんと拝観してきたのは、初めて。常夜灯が側にあり、大日さん(大日如来)、山の神さんも境内に祀られているそうです。中央にいらっしゃる、石に刻まれたお像が不動明王様。このお不動さん、榊原にお城があったころからの不動堂で、縄張り図(お城の図面)にも記されているそうです。
Img_3519c 午後からは、一身田の高田本山専修寺へ。ここには義父のお骨が納めImg_3518c てありますので、義母と家内、娘でお参り。もう少し賑わっているかと思ったのですが、空いていました。ゆっくりとお参り。
Img_2982c ここで、家内の希望もあり、1月16日の「勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング(笑)」……高田本山専修寺と一身田寺内町散歩(その1)一身田寺内町に入り、聖俗の結界を超えるまで」のリベンジ(微笑)。京林堂さんで、カレー焼その他をゲット(写真は、1月16日のもの)。お客さんは小生達夫婦のみ。焼置きはしないということで、20分待ちでした。
Img_3305c 昨晩(5/5)は、国道23号線の渋滞を避けようと、夜9時過ぎに出発。四日市に入るまでは順調でしたが、蔵町交差点あたりから大渋滞。途中で国道1号に抜け、11時を大幅に回って帰宅。この記事も、5/6に、5/5の日付で遡って投稿しました。

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2018年5月 3日 (木)

長島町内プチ遠征と、金魚まつり……楽翁公百年祭記念宝物館一般公開も見てきました

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 雨は上がりましたが、曇天。午前中は蒸し暑い感じ、午後からは風が出て来ました。さてどうしようと思ったのですが、午前中は長島町内へプチ遠征。ブロ友のひらいさんが教えてくださったケリの巣、ヒナとコチドリの巣を確認に行ってきました。ついでに河口堰にも。午後からは、鎮国守国神社の金魚まつりを見てきました。金魚神輿の練り込みは、今まで見たことがありませんでしたので。冒頭の写真は、長島町内某所にて見つけたコアジサシ。ここにいたのは1羽だけ。去年は、弥富市内に広い営巣地があったものの、そこには建物が建ってしまい、コアジサシが今年どこに来るか、気になっています。
Img_1294c さて、長島で、まずはケリの巣を見に行ったところ、近くで飛んでいました。Img_3127c ここでは、ひらいさんの情報通りのところに巣がありました。しかし、少し近づいたところで、親は巣から離れてしまいました(右の写真)。
Img_1297c 左は、巣に就いていた親ケリ。100m以上離れていたのに、警戒されたのかImg_3130c も知れません。威嚇はしてきませんでしたが、水田のあぜ道の近くから、警戒の鳴き声が続きました。ちなみに、この近くにあったというコチドリの巣は、残念ながら、見つけられず。
Img_1325c コチドリの巣は見つかりませんでしたが、近くでは、コサギが飛んでいたり、Img_3149c アオサギが水田にいたりしました。長島の水田、恐るべし(微笑)。
Img_3150c さらには、水田にカルガモさんが1羽。浮いていられるほど水はないようImg_1331c な気もするのですが、このような姿。ケリの雛が3羽いたというあたりでは、ケリの巣だったと思われるものを見つけたものの、周囲を回ってもケリの姿はありませんでした。
Img_3158c  長島の別の場所へ移動。ここでは、ケリが合計2ペア。そのうち、1組のペImg_1343c アのうち1羽は、ずっとこのように座っていました。おそらく、ここが巣でしょう。すぐ近くには、別のケリ。この2羽がペアと思います。昨年も、この場所でケリの雛を撮影しています。
Img_1333c 数10m離れたところに、別のケリのペア。こちらは、左のケリが座っていImg_1339c たものの、近づいたら立ち上がりました。右は、もう1羽。こちらは、威嚇もしてきませんし、警戒音も発しませんでしたので、営巣はしていないと思います。
Img_3163c さらにここでは、コチドリの巣がありました。左の写真、超望遠コンデジでImg_1362c 撮りましたが、睨まれているようです(苦笑)。何をしたのかよく分かりませんが、右のようなシーンも見られました。ここでは、去年もコチドリの雛を見ていますから、今年も期待できそうです。
Img_3170c このあと、長良川河口堰へ。時間も11時に近かったので、期待しませんImg_3193c でしたが、予想通り(苦笑)。コサギを6羽ほど見ただけ。右のコサギさん、もう繁殖期を示すピンク色は呈していません。
Img_3197c 西側の魚道や、親水広場にカルガモ2羽。こちらの姿を見ると、魚道~親Img_3206c 水広場を移動します。まだ目元や足先がピンク色で、繁殖期のコサギもいました。
Img_3203c あまりにも鳥がいないので、アオスジアゲハと、(たぶん)モクズガ二。いImg_1405c ずれも、親水広場にて。遠くにトビも見えたものの、的真名写真にはなりませんでした。
Img_3213c 久しぶりにアクアプラザながらにも行ってきました。展示は変わりませんが、この訪問者数を確認(微笑)。今年初めが、900,000人でしたから、4ヶ月ほどでプラス2,400人となります。
Dscn6907c 午後からは、2時過ぎに九華公園、鎮国守国神社へ。金魚まつりをきちDscn6886c んと見たことがなかったので、金魚神輿の練り込みを見てこようという次第。これまで見たことがないほど賑わっていました。
Dscn6878c 金魚神輿の練り込みは、すでに13時40分から20分間格でスタートしていImg_1432c ました。こちらは、吉之丸の練り込み。小さな子ども達が元気よく金魚神輿を操っています。
Dscn6901c こちらは拝殿前の様子。鳥居の前で練り込みをしたあと、拝殿前で宮司Img_1438c さんからお祓いをしていただくようでした。神輿は、各町内それぞれに工夫されたものが出ていて楽しめます。右は、外堀町内の金色のらんちゅうを模したもの。
Dscn6902c 練り込みを見てから、せっかくの機会ですから、鎮国守国神社にある「楽翁公百年祭記念宝物館」の一般公開を拝観。¥300なり。ここは、昭和9(1934)年に建ち、昭和33(1958)年に改修されています。鉄筋コンクリート造2階建、瓦葺で、国の登録有形文化財。松平定信(楽翁)公を顕彰する記念宝物館で、定信公に関わるもの、定綱公や、歴代桑名藩主に関わるもの(甲冑、書画)の他、定信公が発意し、編集出版された文化財目録である「集古十種」の版木、桑名藩の藩校立教館二課か悪者などが収蔵されています。一般公開は、金魚まつりにあわせ、年1回、5月2、3日のみ。

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2018年5月 2日 (水)

20180423勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」(その3)……津観音から、蜂蜜まん本舗、千寿で天むすをゲットし、お城公園へ

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 勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」のそ20180423tsuwalk の3です。津観音の途中です。右のマップでは、中央やや右上、スタートの津新町駅からは5㎞ほどのところ。時刻は、ちょうどお昼を過ぎた頃。
Img_2352c こちらは、境内の西にある護摩堂。Weblioの説明では、元は寛永18(1641年)年に創建されました。津観音は、昭和20(1945)年7月28日の夜、アメリカ軍による空襲によって、市街建造物の大半と共に一夜にして灰になっています。観音堂は、昭和43(1968)年に再建。この護摩堂は、平成6(1994)に再建されています。
Img_2362c 護摩堂の北隣には、地蔵堂と、お地蔵様が数体いらっしゃいます。さらにImg_2363c その北には、三十三ヵ所の観音さん巡りと思いますが、設けられていました。北端には、「弘法大師降誕千二百年 昭和48年6月15日」と台座に刻まれた弘法大師像があります。ただ、よく確かめて来ませんでした。
Img_2328c 境内には、「東町 三社宮」も祀られています。東側にあります。御堂の傍らImg_2330c には、「火守神 猿田彦神社 秋葉神社 阿多古神社」という立て札があります。秋葉さんは火除けの神様ですが、猿田彦神は、道案内の神様。阿多古神社は、愛宕神社(あたごじんじゃ)と思われます。愛宕神社は火伏せ・防火に霊験のある神社。3社のうち2社が火除けの神様ですから、「火守社」でまぁ、いいか。「東町」というのは、町名変更(昭和45(1972)年5月))までは、「津市大字大門字東町」というのがあったようですから、それと関係があるかも知れません(こちら)。
Img_2336c 三社宮のすぐ北には、「小津安二郎記念碑」があります。小津安二郎(1903Img_2334c ~63)については説明の要はないと思いますが、映画監督で、旧制・宇治山田中学の卒業。なぜ小津の碑がここにあるかというと、母方は代々旧一志郡竹原村の名家で、祖母・津志が、この津観音の近くに嫁いでいます。小津は、若い日の10年間三重県で育ったのですが、津観音境内の映画館にもなじんだからという縁があったためです。碑は、平成27(2015)年3月に建てられています。裏には協賛者名が示されていました。
Img_2342c こちらは、「清雲院於奈津の方顕彰碑」です。於奈津の方は、徳川家康の側室。伊勢北畠家の旧臣であった長谷川藤直の娘。慶長2(1597)年に17歳で二条城の奥勤めとなり、当時56歳であった家康の側室となりました。家康没後は、落飾し清雲院と号します。晩年は、唯一生存している家康の側室として大事にされたそうです。伊勢国山田(現在の三重県伊勢市山田)に清雲院を創建しています。万治3(1660)年、死去。享年80。この碑は、於奈津の方の母方の子孫の方が昭和56(1981)年3月に建てたとありました。
Img_2367c 境内の北西隅には、津八幡宮御旅所がありました。御旅所(おたびしょ)は、神霊の渡御 (神幸) のとき、神霊を仮に安置するところ。津八幡宮は、津市藤方にあります。応神天皇を祭神とし、藤堂藩歴代の崇敬が厚かった神社です。津観音も、明治維新までは、藩主や将軍家から保護されていました。津まつりのとき、八幡宮のご神体がこられます。
Img_2384c こちらは、本坊ともいうべき蓬莱山大宝院。以前は六大院と称し、後花園天皇以来、歴代天皇の勅願寺。また、その第9世長尭上人は、尾張出身で豊臣秀吉の手習学問の師をつとめた人です。現在は、観音寺の寺務所として境内西側に位置し、芭蕉の句碑や什物を収めた収蔵庫などがあるのですが、ここは前を通過したのみでした。
Img_2382c 大門商店街そのものが、昭和の雰囲気たっぷりのところなのですが、津Img_2389c 観音の境内西側には、その典型といえるところがあります。一つは、大門駐車場。家内曰く、「昔のまんま」であります。もう一つは、大門シネマ。ただし、2009年7月20日に閉館。前身は東宝系の封切館だったようです。閉館していたのをある方が借り受けて営業していらしたようです。大門シネマと同じビルに入っている喫茶サンモリッツ(ここも歴史があるようです)は、営業していました。
Img_2396c ここから平治煎餅の本店前を通って、国道23号線へ。出たところのややImg_2401c 南には岡三証券津支店。津は岡三証券発祥の地で、大正12(1923)年の創業以来の歴史があるそうです。1階には三重テレビのスタジオもありますし、4階には神楽洞夢というプラネタリウムまであるのです。
Img_2404c 23号線を少しだけ南に行くと、蜂蜜まん本舗があります。蜂蜜まんじゅうで有名。津のソウルフードの一つといってもよいでしょう。水谷養蜂場ゆかりの初代が「蜂蜜をもっと身近に」との想いから生み出した名物饅頭。焼き立てをほおばると皮はパリッ、中のこしあんはアツアツ、そしてほんのり蜂蜜の風味が広がる。1個60円。10個入りをゲット。
Img_2407c 蜂蜜まんを勝手から、お昼御飯にしようと思った千寿の天むすを探してImg_2410c ウロウロ。記憶では、蜂蜜まん本舗のすぐ東にあったと思ったのですが、通りの筋が違っていました。千寿にたどり着く前に、稲荷社を発見。大門西の交差点から東に入ったところ。お参りする人はあるようですが、何やら異界に入っていくような、ちょっと怖い雰囲気。
Img_2413c 勇気を出して入っていくと、このようなお社がありました。灯りもともっていImg_2408c ますし、お参りする人もあって、それなりに世話がされているようでした。一の鳥居をくぐったところには、日露戦争(明治37(1904)年、二○三高地で残り少なくなったという砲弾があります。「二八榴砲弾」とあります(リンク先のWikipediaでは、二十八糎榴弾砲(にじゅうはちせんちりゅうだんほう)となっています。朱く塗られ、無造作に置いてある感じで、ちょっと驚きます。
Img_2417c 稲荷社を出て、少し、無事に千寿を見つけ、天むす5個セImg_2419c ットをテイクアウト。お店でも食べられますが、お城公園でお昼にするつもりでした。右の写真は、千寿の手前で電柱にあったもの。「千寿 めいふつ 天むす」とある脇に「5m先」とあって、笑いました。確かにそうでした。
Img_2427c 国道23号線にもどって、津センターパレスビル のところで、国道を横断。センターImg_2432c パレスには、市民活動センターや、公民館、ホールなど公共施設が入っていますし、隣には都ホテルがあります。センターパレスビルから、23号線を隔てたところにあるのは、三重会館。みずほ銀行、三重交通などが入る合同ビル。以前は、津中央郵便局も入っていたのですが、今は、隣に独立したビルになっています。昔、ここには「三重会館のメリーさん」と呼ばれる女性が、1階にバス待合所のベンチに、毎日、赤い服を着て一日中座っていたという伝説があります。三重会館が改修(平成12(2000)年)される前の話です。
Img_2426c ここ三重会館前の交差点の南西角には百五銀行の本部もあります。明治11(1878)年11月に第百五国立銀行として創業。明治30(1897)年、普通銀行に改組、百五銀行として発足しています。
Img_2435c 百五銀行本部の前には、谷川士清の像が立っています。丸の内商店街が歴史モニュメントとして設置したもの(こちら)。松菱百貨店前の松尾芭蕉像もその一つ。谷川士清は、本居宣長と並び称される、伊勢の生んだ二大国学者の一人。宝永6(1709)年、八町で町医を営む谷川義章の長男として生まれました。享保15(1730)年頃から約5年間京都に遊学し、医の宗家福井丹波守に学び医師免許を受け、享保20(1735)年8月、津に帰郷。
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 父の跡を継いで医者となり、医業のかたわら学問にもうちこみ、宝暦元(1751)年には日本書紀の注釈書「日本書紀通証」(全35巻)を完成させています。また、わが国最初の五十音順にならべられた国語辞典、「和訓栞」(全93巻)もまとめました。
Img_2451c またこの百五銀行本部のすぐ北には、旧・津城の石垣が保存されていまImg_2444c す。津城は天正8(1580)年頃、織田信長の弟・信包が築城。この場所は、津城内堀の北東隅にあたります。発掘調査でみつかったもののうち、もっとも状態のよい約5m分を解体し、移築、復元整備したものだそうです。
Img_2463c ここまで来ると、津城跡のお城公園までは、ほぼ100m。このお城公園もImg_2527c 一度は訪れてみたかったところ。地元の桑名城跡・九華公園は、櫓も石垣もほとんど何も残っていませんので、こういう石垣や、再建されたとはいえ、櫓があるところにはあこがれます。
 というところで、切りがよいので、本日はここまで。

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