歴史散歩

2017年12月15日 (金)

午後から散歩……余談は「新しい」刻印石と大規模修繕ほか

Dscn5483c 夕方の九華公園であります。今日は、午後、2時から4時にかけて散歩して来ました。住吉神社から九華公園を一回りして、田町、三崎見附を通って4.9㎞。この時間、出会う知人の方も、午前中とは異なり、久しぶりという方がたくさん。

Img_7168c  拙宅前の住吉入江。キンクロハジロのオス1羽と、ホシハジロのオス1羽。子細は不明ながら、どうもここにはオスがよくやってくるようです。帰りには、キンクロのオスと、オオバンが2羽。オオバンはさすがに、オス・メスの判別はできません。

Img_7174c  住吉神社東の揖斐長良川の中州、今日は、12羽ものアオサギが集合していました。こんなにたくさん見るのは、いつ以来でしょう? できれば、毎日、お願いしたいところです。

Img_7235c  九華公園、カモは54羽。おとといよりはやや多いものの、例年に比べImg_7267c 10~20羽少なめ。今日のメンバーは、ヒドリガモのオス3羽、メス2羽、ホシハジロのオス2羽、メス1羽、ハシビロガモのメス2羽、他はキンクロハジロでした。ハシビロガモのオスの姿がありません。

Img_7352c  ユリカモメは、5羽のみ。公園内を歩いているとき、飛び交っていたのですが、その後は、ご覧のように、野球場のフェンスでお休み中。ユリカモメは、例年に比べ、かなり少ない気がします。


Img_7283c  九華公園のアオサギ、いつものところ(鎮国守国神社の社務所裏)にいImg_7289c ましたが、2度目に見に行ったとき、いつもにない行動をしていました。このように、首を伸ばしたり、ひねったりしながら、時々鳴き声を上げているのです。地鳴きなのでしょうが、これまでにあまり聞いたことがありませんでした。ここでアオサギの地鳴きが聞けます。

Img_7307c  オスのモズ。朝日丸跡で見たしばらく後、管理事務所のところにもオスのモズがやって来ました。同じ個体のような気がしますが、全くの印象です。


Img_7217c  その他。ヒヨドリは、アオサギが止まっているセンダンの木にやって来て、Img_7323c 実を啄んでいます。管理事務所の前や、神戸櫓跡あたりでは、ウグイスかと思う鳥がいました。ウグイスの地鳴きと同じ声が聞こえてきていました(こちら)。だいぶ待ったり、そっと追いかけたりしたのですが、こんな写真しか撮れませんでした。

Dscn5480c  ほとんど余談。11月23日に九華公園の刻印石の話を書きました(「刻印石」研究家に出会う……鳥果は上がらなかったものの、石や石垣の話は面白かったですねぇ(笑))。今日、新たに1つ、発見しました(正確には、今迄見逃していただけですが……。見れども、見えずの典型)。これで、管理事務所の東にある刻印石は、合計6つであります(微笑)。

Img_0832c  ちなみに午前中は、大規模修繕の塗装作業と、ガス器具点検があり、「自宅警備」をしながら、市民大学講座でいただいた年表をデジタルデータ化していました。大規模修繕、南のベランダ側は塗装作業もすべて終わり、この足場も来週には撤去してもらえる予定。

Img_0838c  北側の通路は、現在、塗装作業が進行中で、今日は、玄関ドアの枠を塗るため、ドアを開放しておく必要があったのです。2度塗りをし、乾燥に時間がかかるため、作業開始から4~5時間、ドアを閉め切ることができませんでした。今日はまだ風がなく、暖かでしたから、助かったと思います。夕方まで左の写真のように、ビニールで養生されていましたが、これはすでに外してもらえました。

Dscn5487c  市民大学の歴史講座、先日、今年度分が終了したものです(12/4:市民大学最終回「幕末維新と桑名」……修了証もいただきました)。講義のまとめをつくっているのですが、その作業の一環として、年表もデジタルデータにしようということで、スキャナーで読み込んで、Word文書を作っています。この年表は、第3回(7/3)の「中世の騒乱の陰に本願寺あり」というテーマの時のもの(苦笑)。「今頃?」と思われること必至ですが、もっと面倒だと思って伸ばしていたのです。今日の午前中でほとんど終えられました。案ずるより産むが易しであります。

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2017年12月14日 (木)

町屋川にて、ミサゴ、セグロカモメ、オナガガモ、オカヨシガモなど……マンホールカードもゲット

Img_0550c 今朝の桑名の最低気温は、0.7℃。冷えました。名古屋では、氷点下になったとImg_0795c いっていたくらいです。鈴鹿の山々も雪化粧です。冒頭の写真をご覧いただくと、すでに「ネタバレ」ですが、今日は、町屋川方面へ出かけてきました。桑名駅から、町屋川近くの日の出橋まで行くバスがあります。11月の旧東海道ウォークの時にも乗った路線です(11/9:旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(前編))。9時10分発、27分着、片道\340。日の出橋は、桑名市と川越町との間の町屋川にかかる、県道401号線です。

171214walk  こういうコースで4.9㎞ほどを歩き、鳥を見てきました。スタートは、地図中央の日の出橋。町屋川左岸を南下。伊勢湾岸自動車道をくぐった少し先、伊勢湾に面したところでUターン。予定では、国道1号線の町屋大橋まで戻るつもりでしたが、時間の都合と、途中にあった「記念碑前」のバス停近くの銅像や、石碑が気になって、そちらを見てきました。帰りは、同じバス路線の、この「記念碑前」から桑名駅まで乗車。11時36分発、桑名駅11時57分着、運賃は同じく\340。往きの乗客は小生を含め2名(終点まで行ったのは小生のみ)、帰りは5名。三重交通さん、儲からないと思えます。

Img_0667c  ミサゴ。2度ほど現れましたが、同じ個体かどうかは不明。左の写真は、Img_6937c 超望遠コンデジで撮りました。このカメラ、やるときはやってくれます(微笑……コンデジだなぁと思うこともたびたびありますが)。右は、デジイチ写真。比較のため載せておきます。

Img_0651c  これは、セグロカモメと思ってみていましたが、確信があるわけではありImg_0647c ません。若い個体のように思います。この個体は、カニを食べていました。他にも、セグロカモメらしきカモメは、このほかに3羽確認。途中、カラスが横取りしようと思ったのか、寄って来ましたが、追い払って事なきを得ていました。

Img_7029c  さて、「シギの仲間」です(苦笑)。シギ・チドリは、難しいです。ハマシギのImg_7016c ように思うのですが、自信はほとんどありません(笑)。笑って済ませる場合ではありませんが……。日の出橋近くでも見ましたし、伊勢湾岸自動車道をくぐった辺りでは、右の写真のように4~5羽が集まっていました。

Img_6798c  もう一つ難題。「千鳥の仲間」であります。首のところの「黒帯」がはっきりImg_0582c しませんし、前までつながっていませんから、シロチドリと思います。シロチドリであれば、これは、三重県の県の鳥です。

Img_7096c  これは、大丈夫です(微笑)。イソシギ。なじみがあります。九華公園にも来るようになっています。今日は、数は多くはありませんでした。

Img_0741c  カモたち。オナガガモがけっこうたくさんいました。久しぶりに見ました。というのも、Img_0621c いつも行く九華公園には来ませんし、長良川河口堰、三ツ又池公園などでも見ないからです。


Img_0769c  こちらは、オカヨシガモと思われます。九華公園で、2012年1月に一度だImg_0597c け見たことがありましたので、ほぼ5年ぶり。いろいろと調べていたら、何かに「カモの中でもっともおいしい」と書いてあるところがありました。ちなみに、2番目はマガモ、3番目はコガモだそうです(もちろん、好みには個人差があると思います)。

Img_0560c  そのほかのカモたち。まずは、カルガモ。10羽ほどが日の出橋のすぐ下流 辺りに集まっていました。


Img_0635c  ヒドリガモは、かなりたくさんいます。時々、「ピュー」という、笛の音のようImg_0650c な強い鳴き声が響いてきていました。左の写真をパソコンで見て気づきましたが、先頭の個体、目の後ろが緑色になっていました。オオバンと一緒に移動しているグループもあります。

Img_0638c  コガモ。数はヒドリガモほどは、多くないように見えました。それと、キンクImg_7117c ロハジロもいました。見た限りでは、非常に少なかったように思います。


Img_7112c  そのほかの鳥たち。まずは、オオバン。ヒドリガモと一緒に、たくさんいましたが、それは右岸側でかなり距離がありました。このオオバンは、帰り道、左岸側にて。

Img_6778c  セキレイは、2種類。セグロセキレイと、ハクセキレイ。セグロセキレイは1Img_7118c 羽。ハクセキレイはあちこちにいました。そうそう、けっこうカラスがたくさんいたのには、ちょっと驚きました。カワウは、数羽しか見かけませんでした。

Img_0689c  伊勢湾岸自動車道をくぐったところは、伊勢湾に面しています。広々としImg_7014c ていますし、中電川越火力発電所や、ナガシマスパーランドなどがよく見えます。気持ちの良い空間。名古屋港や、知多にあるIHIの工場なども見えます。


Img_0810c  さて、帰り道、思いの外、時間がかかってしまったのと、往きに見たこのImg_0793c バス停側の銅像と石碑が気になって、見てきました。日の出橋からは、バス停2つ分戻りました。その前に、日の出橋のバス停の横には、神社がありました。神社の神社には、由緒書も、名前を示すものもありませんでしたが、地図で見る、萱町神明社となっていました。境内に萱町集会所がありました。

Img_0808c  途中、大貝須のバス停のところで、こんな石碑を見ましImg_0819c た。あとで調べたら、ここには大貝須神社があったのでした。急いでいたのでよく確かめず、この石碑だけ写真に撮ってきただけ(苦笑)。「春日三崎神社旧蹟地」という石碑。目的地は、城南漁協水産物荷捌場のところにあります。

Img_0812c  一つは、「後藤栄三郎翁像」。後藤栄三郎は、旧・城南村の村長を務めImg_0814c た方(弘化5(1848年)~明治43(1910)年)。三重県会議員などを経て、明治26(1893)年に城南村の村長となっています。水産養殖を推奨し城南漁業組合を創立してノリ養殖に力をそそいだそうです。石碑の方は、「後藤嘉一郎君碑」(右の写真)。「秋山断撰 佐治爲善書 根来市藏刻」とあります。ネット検索では詳しい情報は出て来ませんし、手元にある本にも載っていません。

Dscn5466c  余談であります。12月8日の中日新聞北勢版に桑名でもマンホールカードDscn5468c が配布されるというニュースが載っていました。4,000枚を桑名市物産観光案内所で配るということでしたので、帰りに立ち寄っていただいてきました。カードには、はまぐりのデザインのものが載っていますが、実際に使われているマンホールは、この他に、七里の渡し跡、桑名の千羽鶴の2種類があります。

Img_0825c  さらなる余談(苦笑)。この桑名市物産観光案内所は、桑栄メイトの1階にあります。ここは、昭和48(1973)年に建った、飲食店・物販店・サービス店・事務所・診療所など商業店舗と、住宅が入居する複合用途ビルです。ご覧のように、昭和の雰囲気たっぷりで、現在、NHK総合テレビで放映されている「マチ工場のオンナ」の冒頭シーンで、舘ひろしさんが出て来たのが、この場所です。この出入り口のすぐ左が、物産観光案内所。

Img_6907c  明日の朝は、さらに冷えるという予報です。四日市で-1℃とか。日中は暖かくなり、10℃を超えるといいます。ただ、明日は、大規模修繕工事の一環として、午前中、玄関周りの塗装をしてもらいますので、家にいなくてはなりません。ちょうどうまい具合に、ガス器具点検や、エレベーター点検も重なりましたので、午前中は、留守番(苦笑)。午後から、散歩に行きたいと思っています。

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2017年12月 5日 (火)

カモも冬鳥も少なし……桑名城城壁の刻印石も見に行く

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 三の丸水門あたりからみた北の方角。蟠龍櫓があり、その左手に伊勢一の鳥居が小さく見えていますし、奥には多度山、伊勢大橋が望めます。多度山の方から流れるような雲は、冬の雲。これを見ると、寒いとか、寒くなると思えます。いつものように、8時40分から11時半頃まで散歩。住吉神社、九華公園、貝塚公園から中橋、多聞橋(立ち寄った理由があります)、田町、住吉入江と5.1㎞。
Img_5478c 住吉神社から揖斐川を眺めたら、ユリカモメが20羽ほど並んでいるのが見えました。そして、その中心辺りにいるのは、カンムリカイツブリ。まるで、「ユリカモメの学校」で、先生がカンムリカイツブリという様子。なぜこういう光景が展開されているのか、不思議です。
Img_5507c ハクセキレイは、三の丸水門にて。この辺や、吉之丸コミュニティパークでは、ハクセキレイをよく見ます。ハクセキレイ、時々こちらに興味を持ったような視線を向けてくれます。
Img_5516c 九華公園、いつも九華橋からカモの様子を見るのですが、今日は南の方に離れて集まっていました。カウンターで数え始めたら、急いで寄ってくること! 31羽が写っています。今日は、これらを含め合計52羽。相変わらず、去年の今頃に比べ、やや少なめです。ツグミはわずかに見るものの、シロハラ、シメ、ビンズイなどはまだ見られません。
Img_5542c ハシビロガモは、この頃、カルガモと一緒に、ここ(奥平屋敷跡入り口のImg_5552c 花菖蒲園の東、日当たりがよいのです)によくいます。今日は、ハシビロガモのオスは2羽。奥から2羽目は、多少男らしくなってきた感じです。右の写真は、接近して撮らせてもらいました。睨まれましたが、逃げはしませんでした。あまり邪魔をしても行けませんので、即退散(苦笑)。
Img_5526c 他にいたのは、ホシハジロのオス2羽、ヒドリガモのペア2組に、あぶれオス1羽。その他大勢は、キンクロハジロ。左の写真で、手前がホシハジロのオス。
Img_5588c ヒドリガモのオス(左の写真)と、メス(右の写真)。ヒドリガモはたいてい、Img_5590c ペアでいるのですが(行動も共にしていることが多いのです)、なぜか1羽だけ単独行動のオスがいます。ちなみに、これらの写真のヒドリガモは、一緒に行動していましたので、ペアであると思います。
Img_5565c 朝日丸跡では、カワラヒワの集団。秋から冬は、集団行動をしているとこImg_5574c ろをよく見ます。この集団も15羽ほどがともに行動していました。褐色に見えますが、飛ぶ時は、翼の黄色帯が鮮やかですし、鳴き声もきれいです。リンク先で鳴き声が聞けます。
Img_5608c ゴイサギ。いつものように、鎮国守国神社の社務所の裏のクスノキに。公園に着いたときは、写真にも撮れないような、もっと奥の陰にいたのですが、日当たりに移動してきたようです。ホシゴイや、アオサギは不在。ちなみに、今日はユリカモメも、九華公園には来ていませんでした。
Img_5615c ゴイサギがいたクスノキの北にあるセンダンの木。今日は、ムクドリがたかっていました。実を食べに来たようです。この写真には10羽ほどしか写っていませんが、20~30羽くらいが来ていました。ヒヨドリはまだセンダンの実は食べに来ていません。それと、もったいないことに、ムクドリたち、実をけっこう、この下にある堀に落としてしまっていました。
Img_5596c 余談です。鎮国守国神社境内を歩いていたら、こんなものがあるのに気Img_5597c づきました。どこだと思いますか? 右の写真のように、鳥居の「貫(ぬき)」と呼ばれる部分のところです。いたずらで石を放り投げたりする、あの場所。馬のぬいぐるみのようです。まだきれいですから、最近ここにあげられたように思えます。
Dscn5411c 最後に、中橋と、多聞橋と立ち寄った理由について。中橋は、九華公園から春日神社に行く途中にある朱色の橋、多聞橋は、江戸町の柿安料亭本店の脇にあります。いずれも、七里の渡し跡から歴史を語る公園に続く堀にかかっています。先日、九華公園にある「刻印石」の話を書きましたが(11/23:「刻印石」研究家に出会う……鳥果は上がらなかったものの、石や石垣の話は面白かったですねぇ(笑))、この中橋周辺の石垣にも刻印がついたものがあると聞きましたので、見てきたというわけです。こういう話を聞くと、見たくなるという悪い癖があります(苦笑)。
Img_5682c 今日は、ざっと確認というつもり。中橋の東側に城壁が残っています。ざImg_5696c っと見ただけでも数個の刻印がありました。市の観光ガイドのサイトの「桑名城城壁」にも、「積石の状態は乱積で、野面はぎ、打込はぎのニ方法によっており、また刻印を刻んだ積石も多く見られます」と書かれています。今日は、歴史を語る公園のところや、江戸町、川口町の方は見てきませんでした。興味はあるのですが、あまりあれこれ手を広げるのはよくないかとも思っているところです。

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2017年12月 4日 (月)

市民大学最終回「幕末維新と桑名」……修了証もいただきました

Jukouhagakic  5月から通っていた、中央公民館での「平成29年度くわな『市民大学』講座」の「ゼミナール『郷土史学科』」が、いよいよ今日で最終回。全7回の講座、ご覧のように、すべて出席しました。全体を通してのテーマは、『桑名の歴史発掘-桑名の重要事件を探る-」。講師は、市博物館元館長の大塚由良美先生。桑名の千羽鶴の復元にも努めていらっしゃいます。人気の講座だそうで、定員40名のところに倍以上の応募者があり、抽選で当たって受講できました。

Dscn5372c 今日は、「幕末維新と桑名」という内容でした。今年は、大政奉還150年ですから、最後を飾るにふさわしいテーマです。左の写真は、今日とったノートの一部。アタマの働きがだいぶぎこちなくなってはいますが、講師の先生のお話を何とか筆記できていると思います。ノートは、このあと、関連する事項を調べ、付け足すなどして、清書しています。自分が講義する際も、学生諸君には、「復習しなさい」と話していますが、自らも実践しております(微笑)。
Dscn5374c こちらは、今日の配付資料。大塚先生はいつも詳しい資料を作って、配ってくださるので、勉強になりますし、大変参考になるのです。今日の資料は、尊皇攘夷や、公武合体運動が高まる中、安政5(1858)年、時の桑名藩主・松平定猷公が、京都警護を命じられたところから、明治2(1869)年、桑名の旧・藩主・松平定敬(京都所司代を務めました)が、新政府から許されるまでの年表と、島津家(薩摩藩)と久松松平家(桑名藩)の関連を示す系図でした。
Dscn5377c  久松松平家では、桑名藩第4代藩主・松平定行公が、家康の命により、島津忠恒(家久)の養女を室としたり、16代藩主・定和公は、島津重豪の娘・孝姫を迎えていたりなど、島津家(薩摩藩)とけっこう姻戚関係があったそうです。定行公は、天保9(1838)年、家督を相続したものの、在任3年足らずの天保12(1841)年、30歳で亡くなってしまいます。その後は、嫡男の定猷公がわずか7歳で継ぐのですが、定猷公も心労で倒れ、26歳で急死。この二人の藩主が、長生きをなさっていたら、薩摩藩との関係もあって、幕末の桑名藩の運命も変わったかも知れないというお話でした。
 幕末の大政奉還、戊辰戦争、明治維新と桑名藩の関連などについては、大変興味があるのですが、残念ながらはじめにも書きましたように、今年度は今日で最終回。概論という感じのお話でした。もっと詳しい話を聞きたいと思っていたところ、来年度もこの講座が開講され、大塚先生がこのあたりについて、詳しく話をしてくださる予定だということでした。これは、来年の講座にも応募して、是非とも聴講しなくてはなりません。幸い、大研修室で開催され、受講可能人数も増やしていただける見込みだとか(微笑)。
Shuuryoushouc ところで、8割以上出席すると(7回中6回以上)、「修了証」がいただけるということで、お陰様で小生もめでたく、この修了証をいただいてきました。こういう立派なものをいただくのは、久しぶり。たぶん、学位をもらったとき以来でしょう(平成11(1999)年に学位を取得しました)。額に入れて飾るというのは、大げさですが、大切に保管しておくことにしましょう。

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2017年11月28日 (火)

またもや四日市へ……「阿弥陀さまと極楽の世界-四日市の浄土教-」を見て、鵜の森神社、浜田城跡、諏訪神社そして旧・東海道も(微笑)

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 「また四日市?」といわれそうですが、今日も行ってきました(微笑)。先週土曜(11/25)、JRさわやかウォーキングで行ったばかりです(どういうわけか、JRさわやかウォーキングへ……~四日市市制120周年記念~ 家族みんなで楽しめる四日市旧港街歩き)。そんなに用事があるわけではありませんが、とあるところへ行きたかったのです。
Amidayokkaichic それは、こちら。四日市市立博物館で12月3日まで開催している「阿弥陀さDscn5075c まと極楽の世界-四日市の浄土教-」という企画展が見たくて、行ってきたという次第です。「いったいどうしたんだ?」と思われるかも知れませんが、阿弥陀様は、我が家の宗旨である浄土真宗大谷派のご本尊なのであります。信心深いとは決していえませんが、関心はあります、ということです。四日市市内には200のお寺があるそうですが、そのうち、160ヵ寺が浄土真宗や浄土宗の寺院で、阿弥陀如来を本尊とします。この博物館の学芸員の方が20年あまり前から市内を回って調査なさった成果がこの展覧会になっています。平安から昭和までの仏像16点、仏画40点など、書、本、数珠など100点が展示されていました。仏像は、すべて寄せ木造りで、阿弥陀如来像12点、親鸞聖人座像、聖徳太子立像がそれぞれ2点ありました。こちらに中日新聞の記事があります。
Yokkaichimapc 博物館では、この企画展のみを見て、ほぼ1時間。ついでに近くで、行ってみたかったところ(四日市には、3年ほど住んだことがありましたが、いったことがありませんでした)を回ることにしました。それは、この地図にある鵜の森公園諏訪公園。いずれも近鉄四日市駅から徒歩5分ほど。
Dscn5096c 鵜の森公園で見たかったのは、文豪・丹羽文雄先生の句碑。「古里は菜Dscn5098c の花もあり父の顔」という句が刻まれています。丹羽文雄が、36歳ごろの作品といわれ、自筆の毛筆墨書を拡大したものです。丹羽文雄(1904~2005)は、四日市市北浜田にある浄土真宗専修寺高田派の崇顕寺の住職の長男。旧制・富田中学(元・四日市高校)を経て、早大国文科卒業後、いったん住職を務めたものの、小説家に転じています。1977年に文化勲章受章、文化功労者。この碑は、市制施行90周年記念事業として、昭和62(1987)年5月に除幕されています。
Dscn5105c 公園内には、茶室・泗水庵(しすいあん)がありますが、お茶はどうも敷Dscn5107c 居が高いので建物と庭を覗いただけでパス(笑)。鵜の森神社、浜田城跡へ向かいます。鵜の森神社の脇で、水鏡になった紅葉を撮影。
Dscn5147c 鵜の森神社は、浜田城の旧跡で、文明年代(1400年代)から浜田城主・田原家が崇敬した社だそうです。元は江田神社あるいは鵜森大明神と称していたといいます。江田神社という名称は、江田川、江田町等の旧地名に由来すると言われ、また、「鵜森」の語源は、昔、このあたりが松林の続く海岸で、海鵜が多く生息していた森ということに由来しているようです。
Dscn5139c_2 天正12(1584)年、美濃加賀野井城の戦いで田原家は滅亡したのですが、その後、旧臣達が、城跡に慶長以後、万治以前(1596~1658)に鵜森大明神を創立し、同家の遠祖である田原藤太秀郷及び初代浜田城主・田原美作守忠秀(たはらみまさかのかみただひで)以下4代の霊を祀ったのが、鵜の森神社の始まりといいます。さらに、天保8(1837)年、別社として御霊社を創建し忠秀以下4代の霊を祀り直し、鵜森大明神に、天照大御神と建速須佐之男命を祀って明治に至ったそうです。
Dscn5142c 境内には、皇大神宮遙拝所がありましたが、これまでにあちこちで見たDscn5144c 中では、もっとも立派な遙拝所でした。多くのところでは、右のような石柱が立っているだけなのですが、こんもりした丘になっていたのです。
Dscn5116c 先にも書きましたが、ここは浜田城跡でもあります。15世紀後半、この地を治める田原美作守忠秀(たはらみまさかのかみただひで)によって築かれた城です。田原氏は、もともと上野国赤堀庄(こうづけのくにあかほりのしょう)に住んでいたのが、応永年間(1394~1428)に景信(かげのぶ)が伊勢に移り、四日市の赤堀に城を構えたといいます。景信は、長男・盛宗(もりむね)を羽津に、次男・秀宗(ひでむね)を赤堀に、そして三男・忠秀を浜田に配しました(赤堀三家)。田原市の系図は、こちら
Dscn5115c 境内に新しい冠木門(かぶらきもん)が建てられていました。昨年(平成28、2016年)10月に、四日市の町の礎を築いた浜田氏を検証するとともに、浜田城跡の存在を認識してもらうために、浜田城や赤堀三家を中心に四日市の歴史研究を行う研究会「綱の会」が作ったということです。ちなみに、この研究会の調査で、浜田氏の末裔も発見したとありました。
Dscn5160c 鵜の森神社から10分ほどあるいて、諏訪公園へ。中世ヨーロッパ調の中庭をイメージした公園として、中央にせせらぎと噴水があります。奥の建物は、「すわ公園交流館」。元々は昭和4(1929)年に建てられたようですが、今は、様々なイベントを企画・開催し、中心市街地活性化をはかるための施設として活用されています。
Dscn5183c 公園に隣接して、諏訪神社があります。その名前の通り、鎌倉時代初期

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の建仁2(1202)年に、信州の諏訪大社の御分霊をこの地に勧請し、創祀されたそうです。御祭神は、建御名方命(タケミナカタノミコト)と八重事代主命(ヤエコトシロヌシノミコト)。四日市の歴史とともに歩んできた総産土神といいます。右の写真、向かって右が拝殿、左は社務所と思います。立派な建物です。
Dscn5166c 御祭神は、「武」と「文」にたける二神だそうです。建御名方命は、大国主Dscn5173c 命の子で、八重事代主命の弟。大国主命が高天原の天照大神から国の禅譲を迫られたとき、これに最後まで抵抗したということで、狩猟の神、また武神だといいます。八重事代主命は、豊漁、海上安全守護の神、またえびす信仰の福神とされます。商店からは、「諏訪恵比須」として崇敬されてきたそうです。
Dscn5193c 境内には、明治天皇の御製の歌碑もありました。「目にみえぬ 神にむかいて はぢざるは ひとのこころの まことなりけり」と刻されています。目に見ることのできない神様に向って、少しも恥ずかしくないという心境は、人としての誠の心であるという意味だそうです。この歌碑は、昭和8(1933)年9月、上田谷松(栖華)という画家が建立したもので、彼は、明治天皇を崇拝していたところからこの歌碑を自費で建立したということです。明治天皇は東京遷都の際を初めとして合計4回、四日市に行幸しているそうですが、それとは関わりはなさそうです。
Dscn5169c 諏訪神社で驚いたことは、こちら、「明治神宮遙拝所」があったことです。Dscn5171c 境内社である政成稲荷神社の脇に立っています。この地方では、伊勢神宮遙拝所はあちこちの神社にありますが、明治神宮遙拝所は、初めて見ました。この方角に明治神宮があり、ここから明治神宮を遥拝するということです。石柱は昭和9(1936)年1月に、稲葉町青年団によって寄進されたとありました。
Dscn5164c もう一つというか、もっと驚いたものも、諏訪公園で発見Dscn5209c しました。こちら。最初はなんだか分かりませんでしたが、上にある塔に刻まれた文言を見て、少し分かりました。右の写真をご覧ください。「廣く会議を興し万機公論に決すべし」とあります。あの「五箇条の御誓文」です。五角柱に刻まれていましたし、しかも登れるようになっていたのにビックリ。昭和9(1934)年に建立されています。半田の乙川公園にもあるとするブログもありました(こちら)。
Dscn5214c ところで、この諏訪神社の門前には、旧・東海道が通っています。左の写Dscn5188c 真は、鳥居の前から東を見たものです。車が通っているのは、国道1号線。この斜めの道が、旧・東海道。さらに面白いのが、この先(向かって右)、旧・東海道は、アーケードの商店街になっているのです(表参道スワマエ発展会)。
Dscn5187c 左の写真のような横断幕や、右の写真のような旗が掲げDscn5217c られています。事情を知らないと、不思議に思うでしょうが、この表参道スワマエ発展会の商店街は、まさに旧・東海道に沿って作られたものです。旧・東海道ウォーク、そろそろ富田から、この四日市辺りを歩かねばなりません。

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2017年11月26日 (日)

諸戸氏庭園の紅葉

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 諸戸氏庭園の紅葉であります。そろそろ良いかと思って、今日、娘を連れてImg_4185c 行ってきました。我が娘、最近、何を思ってか、ミラーレス一眼デジカメを買い、「写真を撮る!」といっているのであります。諸戸氏庭園、11月30日まで秋の特別公開中です。散歩を早めに切り上げ、10時40分から1時間あまり、庭園内を散策してきました。冒頭の写真は、庭園外から、煉瓦蔵の東にある紅葉を撮ったものです。
Img_4197c こちらは、ドウダンツツジの紅葉。ドウダンツツジ、漢字では「満天星」。漢字のImg_4212c 方が何か良い感じがします(親父ギャグではありません。念のため……微笑)。たぶん花の様子から名付けられた気がします。ドウダンツツジの紅葉、庭園内のあちこちにあります。
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 推敲亭を望む景色。推敲亭は、覚々斎原叟(かくかくさいげんそう)(1687~1730)作と伝えられている草庵です。ほぼ300年前からあるということです。ここから手前の菖蒲池へと続く低い地形を水面に見立てて沢飛石が打たれ、山間の渓流のような雰囲気を醸し出しています。広さは三畳。茶室としても仕えますが、その名の通り、庭園を眺めながら思索にふけるのに良さそうですが、我々が入ることはできません。一度だけで良いので、ここに座して、景色を眺めてみたいものです。
Img_4237c こちらは、庭園の北側の方を見たところだったと思います。「と思います」なImg_4276c どと書くのは無責任ですが、夢中になって写真を撮っていたため、しっかりと思い出せないのです。菖蒲池を中心とした回遊式庭園で、諸戸氏庭園の中でも歴史的に最も古い部分です。この写真の奥には、六華苑があります。諸戸氏庭園の北の端に行くと、溝渠越しに六華苑が見えます(右の写真)。中央やや左に、六華苑の洋館が見えています。
Img_4253c 諸戸氏庭園から見える六華苑の紅葉も見事でした。Img_4258c 六華苑にも行けば良かったと思えます(微笑)。左の写真、右下の燈籠などは諸戸氏庭園のものですが、わずかに見える煉瓦塀やフェンスの向こうは六華苑。右の写真の右下に両庭園を分ける溝渠が少し見えています。
Img_4309c  本邸(主屋)の裏手にある茶室。良い景色なのですが、何枚も撮ったにもImg_4314c_2 かかわらず、なかなか満足がいく写真になりませんでした。実際にご覧になった方が良いと思います。どちらが良いか、自分としては甲乙つけがたかったので、2枚載せてしまいました。
Img_4321c 左は、推敲亭をバックに煉瓦蔵の方向を見た写真。これまたなかなかのImg_4348c 景色と思います。ローアングルで撮って、飛び石や、クマザサも入れてみました。右の写真は、本邸の裏から煉瓦蔵へ行くところ。東を見ています。
Img_4385c 途中で親しくしていただいている歴史案内人のKさんにお目にかかり、紅葉の撮影スポットや、庭園の歴史についていろいろと伺うことができました。晩秋の一日、拙宅のお隣というごく近場で紅葉を十二分に楽しんで来られました。

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2017年11月25日 (土)

どういうわけか、JRさわやかウォーキングへ……~四日市市制120周年記念~ 家族みんなで楽しめる四日市旧港街歩き

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 珍しいところに降り立ちました。JR関西線四日市駅です。「いったい何用か?」といぶかしく思われるでしょうが、実は、今朝6時前に思い立ってやって来たのです。いつもより早く5時過ぎに起き出して、ネット検索をしていたら、今日、四日市駅出発でJR東海の「さわやかウォーキング」があるのを知ったのです。「~四日市市制120周年記念~ 家族みんなで楽しめる四日市旧港街歩き」というもの。
171125sawayakayokkaichic コースはご覧の通り。「駅がスタート、駅がゴール」という宣伝文句の通り、JR四日市駅から四日市旧港を回る、約6.6㎞、2時間ほどのコース(あちこちウロウロしましたので、実際の距離は8㎞ほど歩きましたし、2時間45分ほどかかりました)。思案橋、稲葉翁記念公園(ここからは潮吹防波堤が見られます)、臨港橋、末広橋梁の他、みなと公園近くの桟橋では、「清掃船じんべい」やタグボート「ちとせ丸」見学会もあります。この辺りで見たいと思っていたところが網羅されていましたので、これは行くしかないという次第なのです。
Img_3673c 桑名駅8時51分発に乗車。車内には、さわやかウォーキングに行くと思われImg_3674c る方多数。四日市駅着は、9時7分。ご覧のように降り立った人多数ですし、ウォーキングスタイルの方がほとんどに見えました。駅でコースマップや、スタンプラリーの用紙、「四日市旧港まちあるきMAPを受取、早速スタート。
Img_3698c 皆さん歩くのがとても速いのでビックリ。そして、ほとんどの方は脇目も振Img_3701c らずという風。小生は、500mも行かないところで寄り道。コースマップにはありませんが気になったので、不動寺(黄檗宗)へ。かつては、寺近くまで海であり四日市湊のそばにあったそうです。寛永16(1639)年、揖斐川の大洪水のとき、美濃国高須にある観音寺から不動明王像が流れだし、四日市南納屋の漁師の網にかかったといいます。この地に縁のある仏様だろうと、竜灯松(竜の形をした松に灯明をつけて、灯台代わりにしていたもの)の下にお堂を建立し、祀ったのが始まりと伝わっています。門の形がユニーク。境内はさほど広くありませんでした。由緒書きがなかったのは残念。
Img_3714c 一人だけコースを外れていましたが、元に戻って、国道164号線新町交Img_3709c 差点を右折(東へ)。関西線の踏切を越えたところに思案橋があります。天正10(1582)年6月、本能寺の変を避けた徳川家康は、泉州堺から三河岡崎に向かう途上、海路を進むか、陸路を進むかを思案にくれたという故事に因み、思案橋と呼ばれることになっています。昔は、このちかくに四日市湊があったのです。
Img_3770c  国道23号線を越え、さらに東進。稲葉翁記念公園へ。稲葉翁とは、四日Img_3739c_2 市湊を修築して、近代港湾への基礎を築いた稲葉三右衛門です。この公園の向かい側には、「潮吹き防波堤」が残っています。稲葉翁の貢献によって、四日市港が近代港湾としての形を整えたのは、明治17(1884)年でしたが、不幸にもその5年後、台風で防波堤などの施設が大破してしまいました。それを改修したのが、木曽三川の明治改修にも携わったオランダ人土木技師デ・レーケらなのです。
Img_3742c  潮吹き防波堤には、波の力を弱めるため、平行する大小2つの「こぶ」と水抜穴をもつという世界的にも珍しいユニークな構造が採用されているそうです。もっと近くまで行けるようでしたが、今日はまだ先が長いのでパス。
Img_3758c 稲葉翁記念公園には、この「潮吹き防波堤」のレプリカがあり、実際に動Img_3749c くようになっています。ここには、四日市案内人協会の方がいらして、説明して下さいました。また、四日市のゆるキャラである「こにゅうどうくん」もいて、カメラを向けるとポーズを撮ってくれ、和ませてもらいました。先日行われたゆるキャラグランプリでは、堂々4位入賞です。
Img_3817c プロムナードと呼ばれる、高潮護岸の防壁の平場を利用した遊歩道を通Img_3838c り、太平洋セメントへの引き込み線を渡り、みなと公園の方へ進みます。途中、千歳運河にかかる臨港橋 (可動橋)が上がるということで(今日のイベント用に特別)、そちらへ。このときは気づかなかったのですが、後で見学する「清掃船じんべい」が通過していきました。
Img_3859c 臨港橋の300mほど北には、末広橋梁があります。こちらも千歳運河にかImg_3867c かる可動橋で、三岐鉄道三岐線東藤原駅から関西本線富田駅、四日市駅を経由して、四日市港の太平洋セメントへセメントや土砂を運ぶ貨物列車が通る橋です。1日5往復程度の運行です。小生がここへ来る直前(10時10分頃)、列車が行きましたので、列車通過は見られませんでした。通常、橋は上がった状態で、列車が通るときに下ろされます。向かって左が四日市駅側です。この末広橋梁、是非とも見たかったところでした。
Img_3894c 千歳町の合同庁舎があるところへ。港のここには、公的な船がたくさんImg_3897c 係留されています。海上保安庁の船も3隻ありました。左は、巡視艇「いせぎく」。右は、同じく「さるびあ」。どちらも、20メートル型(汎用)だそうです。もちろん、巡視艇は、今日は見るだけ。
Img_3922c タグボートの見学会へ。「ちとせ丸」であります。四日市港管理組合の所有。2003年に進水しています。全長33.8m、型幅9.6m、最Img_3899c 高速力14.3ノット(約26㎞)、総トン数196トン、3,600馬力、曳航力は、前進56.0トン、後進51トンだそうです。海面に流出した油の処理装置や、放水銃3基も備えています。
Img_3914cc 操舵室や、機関室を見せてもらえました(内部の写真Img_3919c は、割愛します)。左は、操舵室から出たところで、前方を撮ったもの。右の写真は、降りてから操舵室とその上部にある放水中などを見たもの。
Img_3924c その後、戻ってきた清掃船「じんべい」を見てきました。こImg_3925c ちらは乗船はできません。双胴船で、この下に網があり、ゴミを掬うということでした。その様子が、ジンベイザメが餌を食べるところに似ているため、この名前をつけたということでした。流木なども切断して、収集できるそうです。これでコース半ばを過ぎたあたりでしょうか。11時になりましたので、次へと急ぎます。
Img_3967c 臨港橋を渡って、末広橋梁のところへ。ここでスタンプラリーはゴール。クImg_3974c リアファイルか、コーヒーをいただけるということで、スタバのコーヒー2袋をゲット。末広橋梁、次に列車が通過するのは、12時52分。2時間近く待つのは断念。列車通過を見るのは、また今度ということにしました。ちなみに、この橋は、橋梁技術史上貴重な存在だそうで、高名な橋梁技術者である山本卯太郎の設計によります。可動橋として、初の重要文化財に指定されています。橋梁上には、「構外側線」(JR関西線四日市駅~四日市港)が通っています。
Img_3998c ウォーキングコースは、北上して、南納屋町へ。ここでは、まず、鯨船明神丸山車Img_4005c を見学できました。蔵に保管されているのを見せていただいたので、飾りなどは施されてはいませんでしたが、全長約8m、幅約2mの船型の山車で、屋形があります。金箔張の彫刻と幕で飾り、船首部には大型の水押しと金糸の下がりを持つ豪華な意匠だそうです(写真が展示されていました。上のリンク先に画像があります)。ちなみに調べてみたところでは、富田地区の鳥出神社の鯨船祭とは別のようでした。
Img_4014c 鯨船明神丸山車蔵から200m足らずのところには、中納屋町の大入道山車蔵。毎年10月に行なわれる諏訪神社の祭礼の四日市Img_4023c 祭、毎年8月の第1土・日曜日に開催される「大四日市まつり」で曳き出されます。高さ2.2mの山車の上に、身の丈3.9m、伸縮し前へ曲がる首の長さが2.2mという大入道が乗ります。舌を出したり目玉が変わる巨大なからくり人形です。右は、大入道の顔。手と比べるとその大きさがお分かりいただけるでしょう。実際の画像は、リンク先にあります。一度実際のものを見てみたいと思うのですが、大四日市まつりは、桑名の石取祭と重なるのです。
Img_4016c こちらは、蔵の前に置かれていた大入道のわらじ。これもまた、トンでもImg_4026c なく大きなものでした。ちなみに、稲葉翁記念公園にいた、四日市市のゆるキャラ「こにゅうどうくん」は彼の息子という設定だそうです。このあとは、また国道23号線を越えて、スタート&ゴールのJR四日市駅へ向かいます。
Img_4030c 途中、国道23号線脇(中納屋町側)に、このような石碑が建っていました。この辺りの旧町名が、「桶之町」であったことを示すものです。説明によれば、延宝年間(1673~81)、海岸の州浜を開拓し、造成したところで、納屋地の一部でしたが、時代の変遷のなかで中納屋、南納屋とも呼ばれたものの、文化・文政年間(1804~1830)の頃、桶にちなみ、「桶之町」と呼ばれるようになったとあります。昭和38年の区画整理でその名は消えたということです。
Img_4055c JR関西線の踏切を越え、本町通り商店街を抜け、ゴールの四日市駅Dscn5049c へ。ほぼ12時に到着。参加カードと、今日の記念品(亀山運転区の運転士さん、車掌さん手作りの手形のようなもの)をいただき、無事終了。12時26分の快速みえ似て、桑名駅12時37分着。実際に歩いたのは8㎞+桑名駅往復が約2㎞で、10㎞!
171125yokkaitirallyc 今日のスタンプラリーの台紙。マップにもなっていて、なかなかのものでした。
Img_4048c まったくの余談(微笑)。四日市駅間近、本町通り商店街Img_4046c の一角にこういう看板がありました。お笑いコンビ「ザブングル」の加藤歩さんの出生の地だそうです。加藤さんが四日市出身というのは知っていましたが、ここだとは。なんとなく疲れが吹っ飛びました。

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2017年11月23日 (木)

「刻印石」研究家に出会う……鳥果は上がらなかったものの、石や石垣の話は面白かったですねぇ(笑)

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 7時を過ぎた頃、雨は上がりました。勤労感謝の日でありますが、ごくまれにしか働いておりませんので、感謝しても良いか迷うような祝日です(苦笑)。それはさておき、晴れてくるという予報でしたので、いつも通り散歩に出たものの、雲がとれて、晴れてきたなと思ったら、北風が出て来ました。最大8m/s以上の風。鳥見にはあまり適さない天候です。結局、住吉神社から九華公園を往復して、4.1㎞だけ。しかし、面白い方に出会い、楽しめました。冒頭の写真は、諸戸氏庭園のイチョウの大木。よく色づいて、遠くからでも目立ちます。
Dscn4991c 面白い方というのは、この「刻印石」に関わります。管理事務所東にある、この刻印石について、小生が調べた範囲では(といってもたかが知れていますが)、「それが示すものは不明」としか分かりませんでした。城の石垣の石にはさまざまな文様や記号が刻まれています。これを「刻印」といい、刻印は、築城に関わった関係者による家紋、家印、符丁、石の産地などを示したものです。今日、九華公園についたら、管理人のSさんが、「刻印石を調べに来たという方がいらっしゃいますよ」と教えてくださったのです。
Dscn5001c 九華公園の管理事務所の東には、5つの刻印石があります。この方は、そDscn4990c れをビニールシートにマジックインキで写し取っていらっしゃいました。ちょうど写し終えたところに行き会わせ、話を伺ってきたのです。その方によれば、この刻印は、池田輝政のものだそうです。池田輝政と言えば、他の大名たちとともに、慶長11(1606)年の江戸城、同14(1609)年の篠山城、翌15(1610)年の名古屋城などの普請に従事し、篠山城普請では総普請奉行を務めています。輝政の刻印では、「三佐」が有名のようですが、篠山城の展示には、これに似た印も残っているといいます(こちら)。
Dscn4998c これら2つは、蜂須賀至鎮(はちすか よししげ;いわゆる蜂須賀小六の子Dscn5000c 孫)の刻印に似ているといいます。左の印では、上の横棒「横一」がない、「卍」だけであれば、蜂須賀のものだそうです。確かに、蜂須賀の家紋は、「蜂須賀卍」(丸の中に卍)。右の印では、「くびれ」がない形であれば、やはりそうだということでした。
Dscn4992c 残りのこれら2つは、不明ということでした。左のものは、○の中に書かれDscn4994c_2 た文字らしきものがよく分からないそうです。確かに、仮名でも、漢字でもなさそうです。梵字かという気もしますが、その方面は全く知識がありません。右の「四角に三(菱形に三、かも知れないと思いますが)」も不明。
Dscn4997c 最初に触れた3つが、池田輝政や、蜂須賀至鎮のものだとして、それらがなぜここにあるのでしょう? 桑名城は、慶長6(1601)年、本多忠勝が桑名10万石に封じられ、築城を開始しています。築城開始当初には徳川四天王の一人である井伊直政も家臣を動員して普請の応援を行ったという逸話があるそうですが、池田や蜂須賀が関わったのでしょうか。
Dscn4999c 池田輝政は、その頃、初代姫路藩主として姫路城を大規模に改修しています。蜂須賀至鎮は、はじめ父・蜂須賀家政ととともに、豊臣秀吉の家臣でしたが、徳川家康の養女(小笠原秀政の娘・氏姫)を娶ったことから、関ヶ原の戦には、東軍に与し、その功績で家康から所領を安堵され、阿波国徳島藩初代藩主になっています。一瞬、刻印の謎が一部解けたようにも思ったのですが、そうではありません。
 この、九華公園でお目にかかった方は、蒲郡市の郷土史家・壁谷善吉さん。名古屋城や吉田城(豊橋)を初めとする城に使われていた三河の石の産地を自らの足で、21年という永きに渡って調べておられます。地元・蒲郡の西浦半島は、名古屋城築城の際の石切場の一つで、ここで加藤清正、池田輝政、福島正則などの刻印がある石を発見なさったそうです。いやぁ、「面白い」というと失礼かも知れませんが、世の中にはいろいろなことに興味を持って、熱心に研究を続けている方がいらっしゃるものです。あれこれとお話を伺っていたら、あっという間に1時間以上経っていました(微笑)。久しぶりに「三河弁」を聞いて、大変懐かしかったということもあります。
Img_3483c ところで、鳥見の方はあまり成果が上がりませんでした。ゴイサギは、今Img_3500c 日は2羽。ホシゴイは1羽。左の写真は、このところいつもいるものたち。右は、このクスノキの南の端に潜んでいました。やはり「忍者」です。
Img_3440c カモは、合計41羽。と思います。「と思います」というのもヘンですが、今Img_3431c 日は、餌をくれる人もないのに、やたら動き回っていたからです。ハシビロガモのオスが1羽、メスが3羽、ヒドリガモのペアが2組に、キンクロハジロ。強風のためか、ユリカモメの姿は見られませんでした。
Dscn4975c それから注目している「住吉キンクロウズ」、今日もオスが3羽。「住吉キImg_3394c ンクロウズ三人衆」とでも、新しいニックネームを献上したいくらいです(微笑……「三人組」とすると、悪人のように聞こえますから)。
Dscn4983c 余談。今日は、桑名でJR東海の「さわやかウォーキング」が行われていDscn5004c ました。「桑名の海風が心地よい九華公園と七福神祭りで賑わう十念寺を楽しもう」というテーマです。実にたくさんの方が九華公園を通って、赤須賀神明社に向かって行かれました(マップは、ここにあります)。こういう鉄道会社のウォーキング・イベント、一度行ってみたいと思っていますが、なかなかお尻が重くて……。どうも集団行動をあまり好まないのかも知れません(笑)。

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2017年11月10日 (金)

旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(後編)

 昨日の記事(旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(前編))の続きです。昨日は、安永から朝日町柿までの道中について書きました。今日は、四日市市松寺から富田まで。

Img_0173c 伊勢湾岸自動車道の手前にある柿交差点を過ぎ、伊勢湾岸自動車道と、北勢バイパスの高架をくぐると、朝明川にかかる朝明橋。ここを渡ると、四日市市松寺に入っていきます。
Img_0183c 朝明橋を渡りきったところに、小公園があり、この看板と力石があります。Img_0184c 看板には、広重の東海道五十三次「四日市宿」や、ここを通ったというシーボルトの説明などが書かれています。力石は、この地で営まれていた茶店の主が残したもので、「二十七メ」と刻まれ、重さ27貫目(約100㎏)と考えられています。北勢地方では、神社やお寺に残っていることが多いそうですが、これは数少ない、民家の軒先にあったものといいます。
Img_0192c 朝明川の河岸段丘をおりて、松寺に入ります。朝日町内にも、「東海Img_0228c 道」 案内板が所々にありましたが、四日市市内にもあちこちにあり、助かります。御厨神明社の手前にあったもの。右は、四日市市内各所に掲げられているもの。桑名でもこういうものを整備してもらいたいところ。
Img_0196c 松寺にある御厨神明社。御厨という名称ですから、伊勢神宮に関わりのImg_0199c ある土地であったことがわかります。静かで、小さな神社。この神明社を過ぎると、薬師堂があると「ホントに歩く東海道」の地図にはあったのですが、見逃してしまいました。細い道の奥に入っていく必要がありました。
Img_0206c 蓮證寺の手前、左(東)側に、松寺の立場跡があります。江戸時代、桑名Img_0207c 宿と四日市宿との間には、5カ所の立場があり、その一つがここ。この「松寺の立場跡」の看板の奥には、「輝子頌徳記念碑」がありました。
Img_0211c 松栄山蓮證(れんしょう)寺。浄土真宗本願寺派の寺。古いお寺で、400年くらい前にここにお堂があり、本堂も200年くらい前に立てられたと伝えられているようです。ご本尊は、阿弥陀如来様。
Img_0230c 蓮證寺を過ぎると、蒔田の御厨神明社と、宝性寺(ほうしょうじ)があります。参道の両側に神社とお寺の石柱が並んでいて、ちょっと不思議に思いました。先に種明かしをしてしまうと、この正面に龍王山宝性寺の本堂があり、すぐ北側に御厨神明社の本殿があったのです。
Img_0237c 龍王山宝性寺の本堂。天平12(740)年に聖武天皇の勅願により創建されたのが始まりだそうです。リンク先の市役所のサイトによれば、蒔田第一自Img_0245c 治会が所有しています。本尊に十一面観音菩薩像を安置している本堂が指定文化財です。享保4(1719)年の棟札が残りますが、現在の本堂は、鬼瓦の銘から文化11(1814)年の建立と推定されるといいます。
Img_0241c こちらは、宝性寺本堂に向かって右手(北側)にある、蒔田の御厨神明Img_0253c 社。特段の由緒書きなどは見当たりませんでした。ほとんど余談ですが、宝性寺の境内に右の写真のような石が置かれていました。「舟止石」だそうです。約60㎝。変形した穴が通る硅灰岩(珪灰石か?)で、穴に縄を通し、海中に投入して、船の碇にしたと説明されています。
Img_0279c 宝性寺・御厨神明社のすぐ南に朝明殿長明寺があります。浄土真宗本Img_0271c 願寺派。立派な山門があるのと、寺の周りが、素掘りの環濠で囲まれていたのにビックリ。それもそのはず、文治年間(1185~90)に蒔田相模守宗勝が居城した、蒔田城跡といわれます。宗勝は、平安時代の末期、時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めました。
Img_0269c 創立年代、開基などは不明ですが、寺誌によると、もと真言宗潮音寺と称し、近郷の豊田村(川越町豊田)にあったと考えられています。慶安4(1651)年、領主松平隠岐守(松平定綱公と思います)から現在の寺地を賜り、翌年寺基を移したといいます。余談ですが、この辺りは大矢知素麺の産地で、街道沿いにも製麺所がいくつかあります。
Img_0291c 東海道が、八風街道と交わるところの少し手前ある「鏡ヶ池跡」は、聖武Img_0295c 天皇ゆかりの地です。聖武天皇の伊勢行幸の際(天平12(740)年11月23日に朝明郡の頓宮にお着きになったといいます)、このあたりで天皇の笠が風で飛んで池に落ちたのを洗濯をしていた娘が拾い上げたそうです。翌日、旅立つ天皇と見送る娘の姿が池に映り、それが鏡のようだったとして鏡池と言うようになったと伝わっています。
Img_0305c 鏡ヶ池跡のすぐ先で、東海道と八風街道とが交差します。左の写真で、Img_0311c 左右を横切っているのが東海道、手前から向こうに通っているのが八風街道。道の奥に小さく、JR関西線の八風踏切が見えています。右の写真は、さらに少し先にある関西線西富田踏切。上を通っているのが、三岐鉄道三岐線。
Img_0316c 西富田踏切の先にある浄土真宗本願寺派の木下山三光寺あたりから、地名は富田になります。三光寺には、長明寺のところで出てきた蒔田相模守宗勝の墓碑があるのですが、それはあとで気づいたこと(笑)。三光寺の先で東海道は、大きく左折。
Img_0337c 名所旧跡ではありませんが三幸毛糸紡績富田工場の前を通ります。子Img_0340c どもの頃、実家の近くにも紡績工場がありましたので、なんとなく懐かしい気がしました。この近くには、東洋紡績富田工場もありました。
Img_0355c 三岐鉄道三岐線と近鉄名古屋線が合流する高架をすぎたところで「富田Img_0358c 一里塚跡」の大きな石碑が見えてきます。標柱は立っていますが、塚じたいはすでにありません。日本橋から98番目ですから、98里ということ。四日市市内には、このほか、三ツ谷、日永、采女にもあります。一里塚の先は、東富田村。ここは、間の宿(あいのしゅく)として賑わったそうです。
Img_0365c その先、JR関西線富田駅の近くには、八幡神社があります。弘安Img_0366c 2(1279)年に勧請された八幡神社が起こりです。かつては「八幡の森」と呼ばれ、樹木が鬱蒼と茂り、昼でも暗かったといいます。八幡社は、明治42(19096)年に鳥出神社に合祀された後、昭和40(1965)年頃、現在の社殿が再建され、富田西町の産土神として戻されたといいます。
Img_0367c 境内の一角には、力石が置かれていました。本日、2つめであります。この力石も、重量約100㎏という説明がありました。説明板には、「ここ八幡神社の「力石」は、力比べ体力を養うことを対象にしたものであり、この石に触れることによって健康長寿への親交を深めたのであろう」と書かれていました。
Img_0379c 本日(11/9)の最終目的地も近づいてきました。八幡神Img_0377c 社から目と鼻の先に、「行啓記念道路碑」が立っています。大正天皇が皇太子の時(明治43(1910)年11月)に、創立間もない三重県立第二中学校(旧制富田中学校・現四日市高校)に立ち寄られ、授業参観されました。そのとき、この道路を通られたことを記念して建てたものです。「まさに破天荒の出来事」とあるくらい驚き、感激だったようです。
Img_0383c 東海道はまだ続きますが、そろそろ12時も近く、6㎞ほど歩いてきましたImg_0387c ので、今日はここまで。行啓記念道路碑のところを右折して、近鉄名古屋線富田駅へ向かいます。9時から歩き始めて3時間。けっこう歩いた気がします。
Img_0393c 駅に着いたとき、急行は出てしまったものの、ホームに上がったら、ちょうどうまい具合に、名古屋行き準急(12時1分Img_0401c 発)が入ってきましたので、これで桑名駅まで。\260。ちなみに、名古屋方向のホーム、反対側は三岐鉄道三岐線が使用しています。
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 こちらが、今日のコースのメインの部分(松寺に入ったところは、昨日のKyutoukaidou4c 最後の画像をご覧ください)。出かける前には、大丈夫かといささか自信がなかったのですが、何とか無事に歩き通せました。次は、富田から近鉄四日市駅までをと考えています。
 

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2017年11月 9日 (木)

旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(前編)

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 マイブックスにも載せましたが、しばらく前に「ホントに歩く東海道第12集(桑名~庄野)」を入手し、これを見ながら、近くの東海道を歩いてみようと思っていました。先日、「朝日町歴史散歩」に出かけましたが(10月5日;朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼)、それは実は、この東海道ウォークの試しという意味合いもありました。桑名市安永辺りから、四日市市富田まで歩いてきましたが、長くなりますので、今日は、その前編ということで、桑名市安永から、朝日町柿までのお話。
Img_0017c_2 桑名駅前のバス乗り場まで歩き、8時50分発の「ヨナハ総合病院」行きに乗Img_0030c_2 り、城南口で下車(約10分、210円)。ここは、町屋川(員弁川)にかかる町屋橋(国道1号線)のやや北。右の写真は、現在の町屋橋です。旧・東海道の町屋橋は、この少し上流側に、寛永12(1635)年にはじめて架橋されています。安永立場と、縄生(なお)村との間です。安永立場では、今も名物となっている「安永餅」が売られていたといいます(現在は、この辺りでは売るところはありません)。
Img_0046c_2 町屋橋を渡り、朝日町縄生へ。町屋橋の少し上流のところから、旧・東海道Img_0047c_2 が続きます。左の写真で、町屋川越しに見えるのが、桑名市街地。この交差点を左(南)へと進みます(右の写真)。
Img_0051c_2 橋本川を越えるとじきに、金光寺(こんこうじ)が右手(西)にあります。金光寺は、寛政年間(1789~1800)に類焼し、3年後に現在地に再建されたものの、明治3(1870)年、当時の住職・浄海(じょうかい)を最後に無住となり、この小さな本堂のみが残されています。ご本尊は、十一面観音菩薩。
Img_0058c_2 金光寺の隣には、桔梗山真光寺(しんこうじ)があります。浄土真宗本願Img_0060c_2 寺派。大同2(807)年、最澄が天台精舎として創建。興国元(1340)年に本願寺第三世覚如上人の教化を受けて浄土真宗に改宗しています。
Img_0064c_2 ここ真光寺には、松平家の定紋である梅鉢紋入りの大手水鉢があります。これは、桑名藩7代藩主・松平定重公が、万治3(1660)年に寄進した ものです。先代藩主の定良公が、有馬温泉での湯治から帰藩途中に病死したのですが、町屋川の洪水で、川留めになり、真光寺がその遺骸を3日間安置し、供養したことへの返礼で拝領したものです。
Img_0076c_2 さらに進みますと、水谷たばこ店の店先に山口誓子の句碑があります。Img_0073c_2 この句碑には山口誓子の筆跡で、「露けさよ 祷りの指を 唇に触れ 誓子」と刻まれているのだそうですが、判読はかなり難しいです。「俳句のくに 三重」の説明によれば、「外に出て露けき中でお祈りをした。合掌し、その手を唇に近づけたので指の先が唇に触れた。私はその指先を感じながら祈りを続けた」ということです。昭和25(1950)年10月建立。誓子は、昭和16(1941)年、伊勢富田(四日市市富田)に移り、療養したといいますから、その頃の句でしょうか(未確認です)。
Img_0078c_2 山口誓子句碑のすぐ先に、縄生の「一里塚跡」の石碑があります。ここは、桑名の七里の渡や、西富田の庚申橋から、それぞれちょうど一里のところ。伊勢国には、12カ所に一里塚がもうけられたといいます。この石碑は、平成13(2001)年に、東海道宿場・伝馬制度制定400周年記念事業で作られたもの。
Img_0084c_2 近鉄名古屋線・伊勢朝日駅近くに「安達本家酒造」があります。実は、今Img_0085c_2 日のウォーキングでもっとも楽しみにしていたことが、ここにあるのです。右の写真のように、自動販売機で、ここが造っている地酒を買えるというのを聞いていたのです。「富士の光」という純米大吟醸酒が有名。
Img_0086c ところが、大変なことが起こりました! 写真にあるように、「免許証を入れて」、「販売可」となったら、お金を入れて購入という段取りなのですが、何度やっても、「販売不可」。20歳以上とは認識されなかったのでしょうか(苦笑)。はたまた機械の不調? あいにく、どなたもいらっしゃらなかったので、泣く泣く諦めて、歩き続けました。
Img_0095c 近鉄・伊勢朝日駅のすぐ前には、あの(!?)東芝三重工場があります。この三重工場では、電動機、変圧器、インバータ、車載用ジェネレータなどの開発・製造を行っているようです。地図を見ると、その敷地の広さには驚きます。
Img_0096c 伊勢朝日駅近くには、踏切を渡った左に、ポケットパークがあり、樹齢Img_0113c 300年のエノキが残っています。東海道を往き来した人々を見てきたのでしょう。
Img_0098c 焼蛤といえば、「その手は桑名の……」という言葉もあって、有名ですが、この辺り(縄生村、小向(おぶけ)村)でも、焼蛤を名物として商う茶屋があったといいます。火鉢に松かさを燃やして蛤を焼いて売っていたといいます。
Img_0115c 朝日町役場や、朝日町資料館に入っていくところには、小向神社の標柱や、案内板が立っています。ここから、JR朝日駅の東辺りは、10月5日に歩いたところです(朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼)。東海道沿いにも、橘守部生誕地跡、浄泉坊、西光寺などがありますが、今日は割愛。10月5日の記事をご覧ください。
Img_0128c 小向神社の標柱から800mほど行ったところ(柳屋酒店)Img_0130c で、東海道は大きく左折。「東海道はこちらでござる」という手作りの標識があったりして、うれしくなります。ここらは、昔の柿(かき)村。
Img_0138c 柳屋の先ではまた、大きく右へ曲がっています。明治の地図では、このImg_0140c 辺り、東海道の両側は水田だったようです。「ホントに歩く東海道」の解説には、「当時は民家は一軒もなかった。郷土資料「大矢知地区幕末・明治生まれの実話」には、「追い剥ぎ、辻切り、乞食」の出没する寂し い道だったとある」と書かれています。柳屋から300mほど行ったところに「豊田一色」の小さな道標が立っています。豊田一色は、川越町の地名。ここから南東側にあります。
Img_0145c 豊田一色の道標の先には、桜並木が続いています。その昔は、松並木だったのだろうと思います。ここまで来ると、伊勢湾岸自動車道や、北勢バイパスの高架が見えてきます。右手(西)には、鈴鹿の山並みがよく見えますが、江戸時代などは、上にも引用したように、さみしいところだったと思われます。
Img_0156c 高速道路、バイパスの高架橋をくぐる手前、柿交差点脇に、多賀大社常夜灯が立っています。弘化3(1846)年に、滋賀県の多賀大社から勘定して祀られた神社(現在は、井後(いじり)神社に合祀)の神殿前に建てられていたものといいます。元々は、東海道沿いにあったものでしたが、昭和46 (1971)年に街道から30m西の現在地に移転されています。「お多賀さんの灯籠」と親しまれ、かつては燈籠番が毎夜、火を灯していたといいます。
Img_0167c 伊勢湾岸自動車道の手前にある柿交差点。左右に横切っているのが、旧・東海道。この辺りまでが、朝日町。右手に進むと、伊勢湾岸自動車道と、北勢バイパスの高架をくぐって、朝明川にかかる朝明橋を渡ると、四日市市松寺。
Kyutoukaidou1c 今日歩いたコースの前半部分は、これら2枚の画像の通り。左の画像Kyutoukaidou2c で、町屋橋南詰交差点から北に入ったところから、旧・東海道を歩いています。今日の記事は、右の画像で、伊勢湾岸自動車道・北勢バイパス側にある「柿交差点」のところまで。この先、四日市市内になります。バスを降りてから、富田までは、6.1㎞を歩いていますが、桑名駅までの往復でプラス2.2㎞。トータル8㎞以上歩きました。

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