歴史散歩

2018年8月 9日 (木)

散歩のあと、市博物館で「戊辰戦争と桑名藩」展覧会を見る

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 猛暑続きにいささか疲れてきた気がします。というのも、昨日も、今日も「爆睡シエスタ」。昨日は2時間(朝4時に目覚めてしまったというのもあります)、今日は1時間半。畳の部屋で布団も敷かずに寝転がっていますが、体が痛くなって目が覚めます(苦笑)。
Img_1556c 散歩は朝7時40分スタート。例によって例の如く、住吉神社、九華公園、京Img_9591c 町、寺町と4.7㎞。少しずつ距離が短くなっている気がします。今日は夏には珍しく、木曽御嶽山が見えていました。空は真っ青。雲は出ていましたが低いところにだけ。鳥も少なく、散歩友達も少なく、帰宅は9時半過ぎとチョウ早い(笑)。
Img_9596c 揖斐長良川の中洲には、今日もアオサギが1羽。中洲の集合場所には、まImg_1564c だアオサギはほとんど来ていません。もうしばらくの辛抱でしょう。それまでは修行を継続であります。
Img_1611c 九華公園、人も鳥もいません。散歩する方はわずか。散歩友達も、鳥見の大先輩Sさんと、近所のOさんご夫婦くらい。鎮国守国神社でウスバキトンボ(と思います)。日本には初夏の頃に南国からやって来て、どんどん北に向かって行くそうです。秋に数が多くなり、学校のプールでもよく発生するといいます。
Img_1599c 灯籠ネコ、再び。今日は、灯籠猫の欠伸(笑)。ちょっとわかりにくいのですImg_9623c が、クリックして拡大して見てください。念のため、ホントにこの中が涼しいか、確かめてきました。灯籠の火袋の部分、確かにヒンヤリしていました。陽が当たってくると暖まるのでしょうが、午前中はいいお休み場所でしょう。
Img_1580c 奥平屋敷跡では、ミドリガメの卵の殻がいくつか散らばっていました。産卵期は6月頃までです。孵化するまでに60~80日。しかし、この様子では孵ったあととも思いにくい状況。カラスが掘り返して食べたのでしょうか?自然観察は面白いものの、よく分からないこと多数。
Dscn7391c 散歩から早く帰りましたので、シャワーを浴びて、こちら、桑名市博物館20180709173735 へ。現在、夏休み子ども企画「戊辰戦争と桑名藩」が開催されています。戊辰戦争は、市民大学講座の今年のテーマでもあり、興味があるところ。8月26日まで。休館は、毎週月・火曜。博物館の2階展示室にて。高校生以上は、150円が必要です。松平定敬肖像(右の写真、中央上)や、徳川慶喜の筆による色紙「福」「寿」(桑名市博物館蔵)が展示されています。また、最近発見された新資料、松平定敬が養子・萬之助に宛てた手紙の写しが初公開されています。手紙は、箱館から帰る意志を固めた明治2(1869)年2月のものとみられ、「天下にも徳川家にも藩にも面目ないが、萬之助が家名を存続できてよかった」と心境が綴られています。
Dscn7394c 特別展示として、「村正」の短刀が出ていました(この作品のみ写真撮影Bosin 可でした)。徳川家に祟るといわれ、「妖刀」とされます。妖刀かどうかは別にして、妖しげな魅力に吸い込まれそうになり、怖い気もします。この展覧会では、右の画像のように「戊辰戦争と桑名藩」という資料が¥300で販売されていましたので、1部を購入。年表もついていましたが、それは市民大学講座の講師・大塚先生がお作りになったもので、講座でもいただいたものでした。しかし、戊辰戦争と桑名藩の関わりについての説明は分かりやすく、役立ちます。
Img_9611c 午後からは、かねてより作成中であった「桑名の東海道」の展示パネルShichiri (九華公園で展示予定)を仕上げ、印刷(右の画像は、その一部。七里の渡し跡。散歩の時と、7月3日などに市内の東海道を歩いて再確認し、写真も撮ってきたものです(桑名市内旧東海道を歩く(その1)……伊勢両宮常夜燈から一目連神社まで桑名市内旧東海道を歩く(その2)……天武天皇社から十念寺まで【七曲見附跡などについて追記しました(7/5)】桑名市内旧東海道を歩く(その3)……光徳寺から京町見附跡へ(一応、完結)【七ツ屋橋にあった常夜灯の写真を変更(7/7)】))。パネル作成は、これからの作業。できあがって、展示されましたら、またpdfファイルで配布しますので、お待ち下さい。

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2018年8月 5日 (日)

今日は石取祭、本楽……近鉄ハイキング「ユネスコ無形文化遺産 祭り一色の桑名 日本一やかましいまつり「桑名石取祭」にふれる」について付記しました

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 11時で34.2℃。自力では何ともしようがないのに、毎日毎日気温が気になりImg_9198c ます。今朝は、家事をせねばならず、散歩に出たのは8時半を回っていました。暑いので、いつものコースをサッサと歩いてきました。住吉神社、九華公園、春日神社、京町、寺町と4.9㎞。10時過ぎ帰宅。九華公園の野球場では、この暑さの中、野球の試合。
Img_1176c 暑いので野鳥も、散歩友達も少なし。このスズメさん、九華公園の筏橋近くImg_1187c でボーッとして、空を見上げていました。ごく近くに行くまで逃げず。暑さでボンヤリしている感じ。他には、カワウとカルガモ1羽ずつ。こちらは奥平屋敷跡。ハクセキレイも見かけましたが、写真は撮れず。
Img_9213c 吉之丸堀の電線には、ツバメ。巣立ってきたヒナのように見えます。昨日までは、揖斐川沿いや、蟠龍櫓近くで餌を撮りに来たツバメの親を見ましたが、今日はゼロ。そろそろツバメの巣立ちも終わりかも知れません。
Img_9208c セミは相変わらず元気ですが、撮影のバリエーションが限られます(苦笑)。トンボやチョウも暑さのせいかあまり見ません。こちらは、ウチワヤンマ。好みのトンボ。戦闘型ヘリコプタを思わせるスタイルがカッコイイ。
Img_1206c ところで、今日は、石取祭の本楽の日。13:00から「南市場整列」。昨日もMinamiitiba 載せた地図ですが、鍛冶町とあるところを先頭に旧・東海道に38台の祭車が整列します。鍛冶町(吉津屋見附跡)までは我が家からは1.2㎞ほどですが、この暑い時間帯、なかなか腰が上がりません(苦笑)。
Img_1208c 昨日というか、今朝未明まで試楽が続いていたのですが(賑やかで何度Img_9229c も目が覚めました)、9時過ぎくらいから各町内とも祭車の準備をしておられました。左上は、三崎通、左は今片町、右は宮通。暑い時期のお祭りですので、大変です。
Img_9242c 先ほど、11時20分頃、鉦太鼓の音が響いてきたので、ベランダから見ましたら、今北町の祭車が出発。町内を練り歩いてから、整列場所へ向かいます。暑い中、浴衣に羽織の正装で大変です。この祭車、人力で曳いていくのです。
Img_9075c  本楽は、春日神社の楼門前で、18時30分から「花車」(一番くじを引いたImg_7814c 町内の祭車)の渡祭(奏楽の奉納)が始まります。それに先駆けて、花車を先頭に鍛冶町を16時30分に出発、各町内の祭車は列をなして春日神社を目指します。渡祭後は、七里の渡し跡を経て、22時頃から田町交差点で4台ずつの祭車による曳き別れが行われ。これが深夜過ぎまで続くのです。窓を閉め切って、エアコンを使っていてもよく聞こえて来ます。右の写真は、七里の渡し跡。次の写真は、田町交差点。
Img_8618c 春日神社前での渡祭は、大賑わいになります。子どもたちが小さい頃、180804chuunichisinbun 祭りに参加したときは出かけましたが、その後はご無沙汰。最近は夜は外出しませんし、大賑わいなのでたぶん今年も行かないでしょう。こちらにたたき出しの時の中日新聞の記事があります(リンク切れがあるかも知れません)。右に記事の画像を載せておきます。
 以下、追記です。
Img_9258c 15時半過ぎ、こちらへ行ってきました。桑名駅西口。近鉄桑名駅ですImg_9253c (東口は、JR桑名駅)。右の写真のマップをいただきました。そうなのです、近鉄ハイキングに参加。「特別企画ハイキング(踏破賞対象)ユネスコ無形文化遺産 祭り一色の桑名 日本一やかましいまつり「桑名石取祭」にふれる」であります。
Img_9251c 今日も、近鉄電車には乗らず、徒歩にて桑名駅へ。ただし、東口で入場券¥140なりを購入し、西口へ。入場券で桑名駅に入ったのは、たぶん2度目くらい。前回、いつだったか記憶がありませんが、入場券を買って入ったことだけは覚えています。
Img_9260c 桑名駅西口の先を北へ。スイミングスクールのあるところで右折して、東Img_9264c へ。近鉄名古屋線、養老鉄道、JR関西線の踏切をわたります。このあたりは時々、散歩で歩くところ。JR関西線の踏切は、八丁畷踏切という名前。JRの踏切は、このように地名が付けてあるので、なかなか興味深いのです。ここは、美濃街道から分かれてきた道。美濃街道は、桑名市川口町と江戸町の境で東海道から分かれ、三崎通を経て、参宮通で左右に分かれます。右へ行くと美濃・多度方面へ向かう「福島縄手」。左へ来ると、ここを経て照源寺に向かう「八丁畷」なのです。
Img_9282c 最初の立ち寄りポイントは、昨日、石取祭試楽を楽しんだ北桑名神社。ここは、元は、三崎神明社と称して、今一色各町内(現在の今片、今中、今北など)の氏神でした。我が家の氏神様でもあります。御祭神は、天照大御神建速須佐之男命鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)、泣沢女神(なきさわめのみこと)、天児屋根命(アマノコヤネノミコト)、持統天皇応神天皇宇迦之御魂神(うかのみたまのみこと)、火産霊神(ホムスビノカミ)、高水上命(タカミナカミノミコト:石清水の神といいます。こちらに言及があります)。
Img_9268c 創祀年代や鎭座の次第は詳かではありません。桑名は、古代には、自Img_9270c 凝洲崎(おのころすざき)・加艮洲崎(からすざき)・泡洲崎(あわすざき)の3つの洲に分かれていました。自凝洲崎に江ノ奥(えのおく)の記載があり、このあたりに社が奉斎され「江ノ奥神明」とも「三崎大神明」とも呼ばれていたようです。明治41(1908)年6月、太一丸神明社、同境内の八幡・稲荷・火産靈諸社を、また、同年10月、さらに、宝殿町にあった佐乃富神社、三崎中臣神社、持統天皇社、船魂神社を合祀し、「北桑名宗社北桑名神社」と改称しています。
Img_9278c 境内には摂社があり、ここには八天宮(火産霊神)、稲荷大明神(宇迦之Img_0803c 御魂神)、金刀比羅宮(大物主命)、天神社(菅原道真公)、船魂社(神功皇后)が祀られています。神社のある堤原の石取祭の祭車には神功皇后が飾り物となっていますが、この縁でしょうか。この神功皇后が載った祭車は、俳句にも詠まれており、春日神社境内にその句碑があります(7月13日:20180609近鉄ハイキング「桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る」(その2)……春日神社を参照)。
Img_0854c 北桑名神社には、このように「持統天皇御𦾔跡」の碑が建っています。由緒書きによれば、壬申の乱(672年)のとき、大海人皇子は一族を連れて桑名に来ています。妻の菟野皇女(うののひめのみこと、後の持統天皇)と幼い草壁皇子を桑名に残し戦場となる不破へと向かいました。、戦いは大海人軍が勝利し桑名の地にもどられました。この間、菟野皇女は桑名郡家に滞在され、それが当社であると伝えられています。菟野皇女が所持していた御物、鏡や硯を収めていた宝殿があったといわれる場所が「宝殿町」という地名で残っています。
Img_9271c 不覚にも今まで気づかなかったのですが、北桑名神社にも「献石」が奉Img_9272c 納されていました。堤原、寺町、今中町、今北町、今片町、宝殿町、新宝殿町、太一丸の8つの町内からのもの。これは、神社検索三重のサイトにある氏子地域とほぼ同じ。
Img_9287c 北桑名神社にお参りし、門前にある小川茶店を見たら、「アイス饅頭」のImg_9292c 看板が(微笑)。寿恵廣のものを売っていたのです。小豆を4個、土産にお買い上げ。
 近鉄ハイキングは、このあととらや饅頭、春日神社、石取り快感、京町交差点、吉津屋見附跡を周り、寺町商店街から八間通を経て桑名駅へ戻るのですが、このあたりは勝手知ったるというか、ほとんど毎日歩いているルート。それ故、勝手に「歩いたと見なし」ました(微笑)。

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2018年7月25日 (水)

20180714近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」(その3)……鶴澤神社を見て、伊坂ダムへ、そしてようやく三岐鉄道三岐線・暁学園前駅へゴール(完)

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 7月14日の近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねImg_9253c て」もその3で、ようやくゴールインできそうです。その2では、6㎞を過ぎて、円光寺を覗いて、東名阪自動車道の下のトンネルをくぐってきました。伊坂ダムは目の前に見えているのですが、坂道を上っていかねばなりません。
Img_9248c ルートマップで、右に曲がるところに鶴澤(つるさわ)神社があります。拝殿Img_9252c に行くには階段を上っていかなければなりませんでしたので(右の写真)、今日のところは、参拝はパス。鳥居の先に手水場が見えましたので、タオルを濡らさせてもらっただけ。御祭神は天照皇大神で、大山祇神が合祀されています。
Img_9250c 創立年代は不詳。明治40(1907)年、旧三重郡八郷村の山神社を同じく八郷村の村社神明社へ合祀し、社名を鶴澤神社としています。大正2(1913)年、さらに八郷村の郷社穂積神社に合祀しましたが、昭和22(1947)年、穂積神社から分祀して、再建されました。背後の山は、神奈備山といい、ここには5世紀後半から6世紀初めのものと思われる7基の古墳群があるそうです(こちら)。
Img_9255c ここまで来ると、伊坂ダムは目の前。ですが、ぐるっと回り込んで、坂道を上Img_9257c っていかねばなりません。右の写真の時点で11時15分過ぎ。坂の途中でスタートから7㎞(コースマップには約8㎞とありましたので、歩いているときにはそんな長距離を来たとは思わず)。息を切らしつつ、何とか上り終えます。
Img_9262c 伊坂ダムは、北伊勢工業用水の水源として建設され、昭和41(1966)に完成しました。四日市市を中心とする北伊勢臨海工業地帯へ工業用水を供給しています。ダム湖周辺はサイクリングロードや遊歩道として利用され、ウォーキング、ランニング、サイクリングに来る方多数。また、野鳥観察スポットとしても有名。小生も子どもを連れて来たり、野鳥を見に来たことがあります。伊坂ダムサイクルパークがあり、自転車のレンタルができます。このときはまったく思いつかなかったのですが、帰宅してからダムカードをもらい忘れたのに気づきました(苦笑)。
Img_9264c かなりへばっていましたので、木陰で休憩。お茶だけでは水分補給にならないと思い、スポーツドリンクを買って、ほぼ1本飲み干してしまいました。ご覧のように、眺めは良いのですが、ここで問題は、ハイキングのテーマ通り、「湖面を渡る風が心地よい」か? であります。
Img_9266c 答えは、これらの写真にあります。お分かりになるでしょうか? 湖面がきわめて静かで、水鏡のようになり、青い空や、白い雲がきれいに映っています。そうなのです、ほぼ無風。「湖面を渡る風は吹かず、ただただ蒸し暑い夏の伊坂ダム」を訪れてしまった、ということ(爆)。さらに、冒頭のルートマップのように、ダム湖を半周あまり歩くのです。地図ではわかりませんが、ここはけっこうアップダウンがあります。最後でこんな仕打ちに遭うとは(笑)。しかし、ゴールまでたどり着かないことには、帰宅できません。
Img_9276c ルートマップで「伊坂ダム」と書いてあるあたりからは、四日市港方面がよく見えます。先日行ったポートビルも見えますし、ガントリークレーンもよく見えます。手前に左右に通っているのは、東名阪自動車道。その向こう、四日市港のこちらには、これまた通ってきた北勢バイパスも見えます。
Img_9278c いくら暑くても、石碑があるとついつい見てしまいます。左は、ダム竣工Img_9279c 記念碑。「四日市市千代田町」とあります(このあたりの地名)。右は、「千秋桜由来」の碑。この桜は、樹齢200年だそうで、享和年間(1801~1804)に植樹されたといいます。老木に思いをはせて「千秋桜」と名付けたとあります。文を読むと、個人の方が建てたのかとも思えますが、碑陰を確認してきませんでした。これだけ暑いと、気持ちの余裕もなくなります。
Img_9283c 2㎞弱をひたすら歩きます。左の写真で奥の方に建物が見えますが、喫Img_9292c 茶店と伊坂ダムサイクルパークなどの建物。冒頭のルートマップで、ほぼ180度曲がっているあたり。ダム湖は、県立桑名西高校ボート部の練習場所になっています。9㎞地点の手前にはボート部の艇庫があり、生徒さんたちがたくさん来て、ボートの手入れなどをしていました。
Img_9295c 桑名西高校は、ここから3~400mほど上がったところにあります。暁学園前駅の方から、女子生徒さんが何人か歩いて上がってきて、すれ違うと挨拶をしてくれました。猛暑でヘトヘトでしたが、ちょっとさわやかな風が吹いた気分(微笑)。暁学園前駅に向かうには、いったん坂を上って、その後はほとんど下り。
Img_9297c 坂のピークを過ぎると、萱生の町や、あかつき台の住宅地などが見えてImg_9302c きます。遠くには、東芝メモリ四日市工場が見えていました。坂を下ったあたりでは、右手(西)に鈴鹿の山並みが見えます。こんなに暑くなければ、気持ちよさそうなのですがねぇ……。
Img_9307c 朝明川を再度渡るあたりで、サギ。アオサギもいましたが、うまく写真にImg_9316c 取れず。写真のサギは、ダイサギと思います。朝明川を渡って、三岐鉄道三岐線の跨線橋へ。ようやくゴールの暁学園前駅が見えてきます。12時を少し過ぎた頃。ホームには、たくさんのハイキング参加者が見えます。
Img_9320c このあたりに来ると、暁学園の中学、高校が見えます。ここは、萱生城があったところ。この一帯を支配した北勢四十八家の一つ春日部宗方(春日部家)が築城。 永禄11(1568)年、織田信長による北勢侵攻で、攻撃を受け、後に落城しています。容易に陥落しなかったものの、数日後に水分が不足して落城したといいます。一部は土塁状態になったようですが、その他の遺構としては、通称「髪(け)のびの井戸」だけが残されています。暁学園のサイトに萱生城をめぐる歴史が述べられています。
Img_9322c そして、12時10分、暁学園前駅へ到着。ゴールインであります。いやぁ、Img_9324c 暑かったですし、疲れました。駅前には「ちゃめっぺ」という店があり、時間があれば立ち寄りたかったのですが、ホームにあれだけ人がいたということは電車が来るかと思い、断念。以前、立ち寄ったことがあるのですが、この店、昔から駄菓子屋で売っている10円で買える駄菓子や当たりクジ付きのお菓子などが数多く売られているのです。暁学園の生徒さんにも人気だろうと思います。
Img_9327c 切符を買っていたら、ちょうど、近鉄富田行きの電車がホームに入ってきました。ラッキー。12時11分発。2両編成でしたが、何とか座れ、エアコンも効いていて快適。富田までは、平津、大矢知の2駅。近鉄富田駅着は、12時21分。鉄ちゃんではありませんので、詳しくはないのですが、乗ってきた車両は西武鉄道から譲り受けたものと思います(たぶん西武の401系、クモハ105でしょうか)。
Img_9354c 三岐鉄道の乗車券は、今でも、いわゆる硬券が使われています。小生は桑名までの乗車券を買いましたが、三岐線内のみのものと少しタイプが違うようです(こちら)。今では大変珍しいものです。ちなみに、暁学園前から近鉄桑名まで¥460でした。
Img_9338c こちらは近鉄富田駅。三岐鉄道三岐線は、近鉄富田駅に乗り入れています。三岐線(さんぎせん)の旅客列車は、この近鉄富田駅からいなべ市の西藤原駅までを結んでいます(貨物は、JR富田駅に入ります。JR富田駅から三岐朝明信号場間は貨物列車専用線があります)。近鉄名古屋線の下り(四日市、津、伊勢、大阪方面)が1番線、上り(桑名、弥富、名古屋方面)が2番線。三岐鉄道は3番線となっています。
Img_9335c ここまで乗ってきた電車は、折り返し、12時42分の西藤原行きになります。近鉄の上りは、12時33分に名古屋行き急行がありましたので、それに乗車。桑名着は12時41分。朝もらったコースマップでは、約8㎞となっていましたが、帰宅後距離測βで確かめたら、10.4㎞も歩いていました。我が家から桑名駅が、片道1㎞ほどですから、この猛暑の中、合計12.4㎞も歩いたという次第。しかし、アクシデントも起こさず、無事に完歩できました。
Img_9367c あみま倶楽部のスタンプは、この日で15個目をゲット。12月までの目標は20個ですから、これは何とか達成できそう。しかし、夏のハイキングは大変というのを十二分に実感しました。JRさわやかウォーキングは、7、8月はお休みというのがよく分かりました。「さわやか」ということは、まったくあり得ません(苦笑)。ただ、近鉄ハイキング、このあと桑名水郷花火大会や、石取祭にあわせて開催されるものがあります。これは、ちょっと来になりますねぇ。

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2018年7月24日 (火)

20180714近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」(その2)……旧・大矢知村役場跡、龜屋佐吉でかき氷、八郷小学校の3つの石碑から東名阪自動車道まで

Img_9104c  7月14日に出かけた近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」のその2です。実はいったん書き始めたものの、再起動せざるを得なくなり、ガックリ(苦笑)。猛暑などもあって、しばらく続きを書こうという気力が戻ってこなかったのです。

Img_9159c 伊藤手延製麺所の先の3差路を右折し、200mほど行くと、旧・大矢知(おおやち)村役場跡に出ます。現在は、JAみえきた大矢知があるところから道を挟んだ向かい側です。冒頭のコースマップでは、「記念碑」と書かれているところですが、他の参加者の方々は、見向きもされません(苦笑)。
Img_9158c 大矢知村は、後で出てくる三岐鉄道三岐線・大矢知駅の周辺で、明治Img_9150c 22(1889)年4月、町村制の施行により、朝明郡垂坂村・西富田村・蒔田村・松寺村・大矢知村(枝郷山添を除く)・下之宮村・川北村の区域をもって発足。昭和29(1954)年7に四日市市に編入されました。ここには、昭和3(1928)年に建設された村役場が昭和63(1988)年四日市市大矢知地区市民センターの新築移転によって取り壊された跡地という石碑が建っています。
 余談ですが、大矢知の地名は、朝明(あさけ)川流域で最初の大きな谷地を形成することに由来するといわれます。古くは朝明郡に属し、中世には「大矢知御厨」がありました。「御厨(みくりや)」は、神領。伊勢神宮の神領を御厨、御園 (みその) と呼んでいますから、このあたりもそうだったと思われます。江戸時代に入ると、大矢知村は桑名藩領となりますが、文政6(1823)年には武蔵国忍藩領、天保13(1842)年に幕府領(近江信楽代官所支配)、安政元(1854)年に再び忍藩領となっています。
Img_9146c この跡地にはいくつかの石碑があります。まずこれは、「日清戦役従軍祈念碑」です。「陸軍中将男爵大鳥義昌書」と書かれています。大鳥義昌は、明治27(1894)年7月の日清戦争開戦時には、第9旅団を率いて朝鮮半島におり(朝鮮国の首都漢城(ソウル)市内に1,000、その郊外に主力の7、000が駐留)、本国からの命令一下、清軍といつでも戦闘開始出来るよう準備を整えていたといいます(こちら)。この祈念碑は、明治40(1907)年の建立のようです(こちら)。
Img_9149c 日清戦役従軍祈念碑に向かって左には、「慰霊塔」が建っています。いのりむし文庫の説明では、「三重県遺族会『終戦50周年 三重県遺族会記念史』(平成7)によると、大正7年、帝国在郷軍人会大矢知村分団により設置され、1952年再建されたようです。かつては大矢知興譲小学校校庭にあったようですが、移築の時期・経緯は不明」ということです。大矢知興譲小学校は、ここから北西に100mほど。大正7年は1918年、1952年は昭和27年。
Img_9152c もう一つは、「西南の役 殉難碑」です。西南の役(西南戦争)は、明治Img_9155c 10(1877)年に鹿児島士族が起した、西郷隆盛を首領とする大規模な反乱ですが、政府軍としてこの地区からも多くの方が出征したといいます。11名の方のお名前我刻まれているとありますが、石碑そのものはかなり風化して読みにくくなっています。 元は観音山にあったあります(大矢知興譲小学校のすぐ西に観音寺がありますので、そこかと思います)。
Img_9164c 大矢知の町の中を歩き、三岐鉄道三岐線の踏切を越えると写真の道に出ます。ここは、八風道。八風道の起点は、四日市市富田一色。すぐに東海道と交差し、ここ大矢知、平津を経て菰野町田光で巡見道と合流します。巡見道の西は、八風越の道が八風峠を越え、滋賀県に至り、近江八幡市武佐町(中山道武佐宿)まで続きます。なんとなく昔からの道というイメージ。ここを西へ。この先に楽しみがあるのです(微笑)。
Img_9167c それはこちら。亀屋佐吉という和菓子屋さん。2年前にここに来たことがあります(2016年7月3日:コアジサシの営巣地で給餌シーン……なばなの里ではコチドリが抱卵、午後からは龜屋佐吉で氷(苦笑))。このときは、「白玉和三盆金時みるく」を食べたのですが、今日もコースマップには「お茶の振る舞いと和菓子の販売」とあり、ひょっとしたらかき氷も……と期待していたのです。暑い中、3㎞半ほど歩いてきて、汗だく&ヘロヘロになりかかっていましたし。
Img_9168c ありました! 「近鉄ハイキング限定200食 かき氷」です(微笑)。メニューに「白玉和三盆金時みるく(¥690だったと思います)」はなかったのですが、「和三盆みるく ¥280」があります。この中ではもっとも良いお値段ですが、もうこれをチョイスするしかありません。他の参加者の方は、ご存じないのか、イチゴやメロンを頼んでおられます。
Img_9175c こちらが、その「和三盆みるく」。白玉が入っていると、和菓子屋さんのものだけに絶品なのですが、今日はこれで大満足ですし、これが¥280なのですから、いうことなし。和三盆みるくを食べて、汗も引き、元気も回復。まさにかき氷パワーです。龜屋佐吉さんについたのは10時10分くらい、出発は10時25分。八風道をもう少し行きます。
Img_9182c 三岐鉄道三岐線・大矢知駅に入らなければならなかったのですが、またもやコースミス。少し行き過ぎました。歩きながら左後ろを振り返ったら、駅が見えて気づいた次第。他にも数名。慌てて戻って、正しいコースへ。駅の東を回って、裏に入り、大矢知幼稚園へ。
Img_9185c 幼稚園の前(南)に石碑が2つ建っています。向かって右のものは、「神Img_9186c 社御旧蹟」とありますが、これはネット検索では情報が得られませんでした。ネット検索では調べるのに限りがありますねぇ。向かって左の石碑には、「白龍○神」と刻まれていると思うのですが、これも不明(最初の文字はたぶん「白」。間違っていたら、ご教示ください。3文字目は、縄で隠れた部分があります)。
Img_9195c 大矢知から大矢知新町の住宅街を抜けて北に曲がります(左の写真)。Img_9202c ここで再び三岐鉄道三岐線を陸橋で越えますが、その手前から伊坂ダムが遠望できます(左の写真の中央)。右は、養雲寺跨線橋に差し掛かったとき、ちょうど西藤原行きの電車が通過。
Img_9204c 跨線橋を降りたところが、八郷小学校。八郷小学校は、八風道に面しています。ここには、石碑が合計3つありまImg_9205c した。まず、校舎南側に2つ。西側の運動場入り口に1つ。校舎南にあった2つの内、向かって右は「平田翁頌徳碑」。
平田翁とは、八郷村村長を務めた平田武氏。こちらに碑文が載っています。昭和28(1953)年12月の建立。篆額は三重県知事の青木理題、村上国市撰、水谷潔書。
Img_9207c 向かって左は、「島翁彰功碑」。「島翁」とは、島豊太郎氏。島氏は、江戸、明治、大正期の生涯を通じ、平津村村長、八郷村村長を歴任した方です。この碑は、大正8(1919)年8月建立。三重郡長従五位勲四等今村真福撰、斉木参渓謹書。八郷地区の広報誌に説明があります(こちらと、ここと2回)。
Img_9214c 八郷小学校西、運動場への入り口にあったのは、「忠魂碑」。建立年は、不明ですが、「陸軍中将渡辺章 書」とあります。三重県遺族会のサイトには「英霊137柱を祀る」とあります。裏には、以下の戦没者を対象としたものであることが記されています。
明治二十七八年日清戦役戦没者2名
明治三十七八年日露戦役戦没者11名
大正七年起シベリア出兵戦没者1名
昭和十二年起日支事変戦没者14名
昭和十六年起大東亜戦争戦没者109名

Img_9219c 八郷小学校でスタートから5㎞。かき氷パワーも長続きしません(苦笑)。というのも、この日四日市の最高気温は34.6℃、湿度は平均77%(こちら)。こんな日にハイキングなんか、来るんじゃなかったなどと思ったりしつつ、仕方なく歩き続け、朝明川を渡ります。

Img_9222c 朝明川を渡ったところに公園らしきものがあり、木陰も見えましたので、Img_9224c 小休止することに。ここで水分補給、塩分補給。ベンチもあったので座って木陰で休憩。他の参加者の方々でも、休憩する方がありました。ここは、四日市市水道局水源管理センター分所でした。ここで10分ほど休憩し、11時再スタート。この水源管理センター分所のところで左折し、北西に向かいます。
180714kintetsuhikingtomida3 地図では、「千代田町」とあるところ。ここから、伊坂ダムまではほぼ一直Img_9226c 線。水田地帯を進みますが、稲は青々としてきていて、それは気持ちよい景色なのですが、とにかく蒸し暑いことこの上なし(苦笑)。
Img_9232c お寺を見つけてしまったので、ちょっとだけ寄り道。浄土真宗本願寺派のImg_9234c 彼佛山円光寺というお寺を見つけました。山門と本堂だけ拝見。御本尊は、阿弥陀如来(こちら)。由緒などは、ネット情報には出て来ません。
Img_9242c 円光寺から100mあまりで、東名阪自動車道の下をくぐります。ここは、もちろん日陰ですし、風が通って涼しいこと! 他の参加者の方も、帽子を取って、汗をぬぐっておられます。「今日はトンでもなく暑いね」などと話しながら、小休止。小休止ばかりしていますが、本当に暑くてしんどかったのです。
Img_9243c ここまで来ると、伊坂ダムは目の前。距離にして1㎞もないのですが、ただし、ダムに上がるのに、坂を上らねばなりません。気合いを入れ直して進むことにします。
 今日は、ここまで。その3では、鶴澤神社、伊坂ダムを経てゴールの三岐鉄道三岐線・暁学園前駅までたどり着く予定。

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2018年7月16日 (月)

20180714近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」(その1)……吉玉稲荷、十四川堤、伊藤手延製麺所と長倉神社【長倉神社について付記しました(7/17)】

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 7月14日に出かけた近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂180714kintetsuhikingtomida1 ダムを訪ねて」の本編、その1です。連日の猛暑の中、この日も正午過ぎには、35℃を超え、熱中症警報メールが来る状況。少し迷ったものの、今月、まだ近鉄ハイキングに行っていないということもあって、参加してきました。ちなみに、JRさわやかウォーキングは、7、8月はお休み。さすがに「さわやか」とは行かないからでしょう(笑)。この日の近鉄ハイキングも、果たして「湖面を渡る風が心地よいか?」という根本的疑問もあったものの、途中の亀屋佐吉を楽しみに歩くことにしました。
Img_9108c スタートは、近鉄名古屋線・近鉄富田駅。9時20分から受付ということで、桑Img_9102c 名駅を9時1分発の五十鈴川行き急行に乗車。9時8分に到着。¥260。駅前にはすでに数10人の方が集まっていました。それも、小生よりも高齢と覚しき方が大半。皆さんお元気です。
Tomidastation マップをもらい、あみま倶楽部の会員証にスタンプを押してもらい、スタート20180714kintetsuhaike は9時25分。ここで、いきなり躓きました(苦笑)。コースを誤ったのです。左の地図で、赤い矢印のように駅からすぐ右折すべきところをそのまま直進してしまったのです。コースマップをよく見れば、百五銀行の先をすぐに曲がるように書いてあるのですが、見逃しました。が、そのお陰で、以前から気になっていた吉玉稲荷を見てこられました(苦笑)。その後、旧東海道との交差点まで進んでミスに気づき、引き返したという次第。念のため書いておきますが、小生だけでなく、曲がり角を間違えてウロウロしていた方、多数でした。
Img_9109c こちらが、数ヶ月前からの課題であった吉玉稲荷。「富田地区まちづくりImg_9113c 協議会」が平成29年度に発行した「とみだまちあるきマップ」によれば、「吉玉祭事・宇迦之御魂命稲荷神社」とあります。明治39(1906)年に伏見稲荷大社から勧請してつくられました。「とみだまちあるきマップ」には、この神殿に“三種の神器「別格大々祀式」の書簡”があるといいます。
 この「別格大々祀式」は、神社の格式と思われます。「大々祀式」については、こちらに言及がありました(以下、引用)。
万延元年の伏見稲荷での分祀に関しての式料と供物代がありましたのでご紹介します。大々祀式料20両(供物3両)、大祀式料7両2分(供物1両)、本祀式料3両(供物3分)、中祀式料2両(供物2分)、小祀式料1両(供物1分)、略祀式料3分(供物2朱)、大略祀式料2分(供物2朱)の7段階で、それぞれの神璽(印鑑もそれぞれ大きさが異なっている)を捺したお札を分祀してもらっています。

 要するに勧請する(分祀してもらう)にあたって、どれだけの式料、供物料を収めたかによるランクづけでしょう。万延元年は、1860年。桜田門外の変が起きた年。
Img_9115c 社殿の西には、小さいお社が2つありましたが、こちらは詳細不明。まImg_9110c た、境内には「天地龍神」の石碑があります。龍神は、龍宮に住むと伝えられる龍で、水神や海神として各地で祀られています。この石碑は、大正15(1926)の建立。コース間違いをしたお陰で吉玉稲荷について、ある程度分かったという次第。ケガの功名(笑)。
 旧東海道のところまで出て、コース間違いに気づきました。というのも、コースマップでは、富田幼稚園、富田小学校の北西側を通ることになっているのに、東海道から行くと南東側を歩くのです。一応、マジメに150mほど戻って正規ルートへ。
Img_9118c 近鉄富田駅南西の踏切。ここから十四川堤沿いを進みます。左の写真Img_9124c でも見えていますが、桜並木が続くのです。十四川は、四日市の花見スポットの一つ。1.2㎞ほどに渡って、桜並木が続きます。十四川の桜は、近鉄電車からは何度も見ていますが、花見に来たことはありません。
Img_9126c 近鉄富田駅の西、十四川に沿って県立四日市高校があります。「四高(しこう)」と呼ばれています。文武両道の名門校。明治32(1899)年4月、
三重県第二中学校として創立して以来、今年で119年。進学実績は素晴らしいものがありますし、昭和30(1955)年には甲子園で優勝しています。丹羽文雄や、藤田敏八など著名な文化人その他を輩出しています(こちら)。小生の学生時代にもここの出身の同級生がいましたし、最初の勤務先では入院している子どもたちが、通信制の教育を受けさせてもらっていました。卒業式にも付き添ったりしましたので、四高には親近感があります。
Img_9127c などと思いながら、十四川堤を進みます。1㎞半足らずですが、この時点で相当暑い! このあたりは、茂福。昨年12月22日の近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」で、茂福城跡や、伊賀留我神社、天武天皇迹太川御遥拝所跡を訪ねていますが、それらは、この日歩いたところのやや南西あたりにあります(2017年12月23日:近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」(12/22)へ(その2)、12月24日:近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」(12/22)へ(その3で完))。冒頭2枚目の歩いたルートマップにも、伊賀留我神社の名前が見えますし、そのすぐ北あたりに天武天皇迹太川御遥拝所跡があります(地図には記載なし)。こうやって歩くと、アタマの中の地図もよくつながって来ます。
Img_9134c 茂福から大矢知へ、2回ほど右折して、国道1号線北勢バイパスを目指し

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ます。北勢バイパスが近づいたところに久留部官衙遺跡があります。おおよそこのあたりにあるだろうというのは知っていましたし、一度来てみたいところです。奈良時代に伊勢国朝明郡の役所があったところ。国指定の史跡。最近、この遺跡を紹介する施設「くるべ古代歴史館」もオープンしましたので、一度見たいと思っています。
Img_9139c 北勢バイパスをくぐってしばらく行くと、この日最初の立ち寄りポイントで180714kintetsuhikingtomida2_2 ある伊藤手延製麺所。このあたりの大矢知地区は、手延べ素麺が名産。約200年前(江戸時代)より農家の副業として生産されるようになっています。旅の僧侶が朝明川畔の農家に一夜の宿を乞い、親切なもてなしに大変喜び、お礼として麺の作り方の秘伝を授けたと言い伝えられているそうです。ここ伊藤手延製麺所さんの製品は、「金魚印」。素麺、個人的には買いたいと思っていたのですが、「買ってこなくてよろしい」という指示で泣く泣くスルーしてきました。
Img_9140c 伊藤手延製麺所の向かいに長倉神社の鳥居があり、昇格記念参道という石柱が立っていました。由緒は不詳ですが、大矢知村の産神で八幡と称されていました。明治6(1873)年村社、明治41(1908)41月に式内桜神社を合祀。昭和6年9月御祭神は応神天皇木花之佐久夜毘売神大山祇命高おかみ神天照大御神倭姫命宇迦能御魂の6柱の神様が合祀されています。ただ、神社はこの鳥居からさらに200mほど奥にあるようで、そこまで寄り道する元気、意欲がありませんでした。
 ちなみにこの長倉神社、桜神社、斎宮神祠などを合祀しているようです。斎宮神祠(いつきのみやしんし)は、天武天皇迹太川御遙拝所跡にあったといいます。また、境内には境内に 「宮城遥拝所」 の碑があるといいます(こちら)。
 
 本日は、出かけていましたので、時間切れ。ここまで。次は、大矢知村旧役場跡の記念碑などから。

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2018年7月14日 (土)

20180609近鉄ハイキング「桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る」(その3)……住吉神社(完)

 6月9日の近鉄ハイキング「桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る」、その3です。住吉神社について、「完」というつもり。住吉神社は、ほぼ毎日、散歩でお参りしています。

Img_5509c ハイキング当日は、春日神社から九華公園を経て、七里の渡し跡を通り、Img_5545c 揖斐川の堤防を通って、住吉神社に向かいました。左の写真は、九華公園の入り口(西門)にある旧・桑名城の絵図。正保年間(1644~48)に作成された「勢州桑名城中之絵図」の一部です。右は、七里の渡し跡。奥に見えているのが、蟠龍櫓。
Img_5555c こちらが住吉神社。桑名は古くから伊勢湾や木曽三川を利用した舟運の拠点港として、「十楽の津」と呼ばれ、木材や米などの集散する自由活発な商業都市として発展してきました。住吉神社のある住吉浦は、廻船の舟溜まりで、全国から多数の廻船業者が集まっていました。これらの人達によって航海の安全を祈り、正徳5(1715)年に摂津の国「住吉大社」より勧請してこの住吉神社が建立されました。
Shitiric 現在は、上の写真のようになっていますが、これは平成15(2003)年に揖斐川防潮堤が高潮対策として改修整備され、社殿が新しく建て替えられてからの様子。小生が25年前(平成5(1993)年3月に桑名に引っ越してきた当時は、この写真のようになっていました(山川出版社,三重県の歴史散歩より)。子どもたちを連れ、散歩がてら住吉神社に来て、写真にある石段を降りてカニを捕まえたりして遊んだ記憶があります。
Img_5557c 御祭神は、底筒之男命(そこつつのおのみこと)、中筒之男命(なかつつImg_5566c のおのみこと)、表筒之男命(うわつつのおのみこと)のいわゆる住吉三神(すみよしさんじん)と、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)。合祀されているのは、天照大神、住吉町・東太一丸神明社、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。天照大神と東太一丸神明社は、明治40(19079年に、また、倉稲魂命は玉重稲荷として祀られていたのを大正15(1926)年に合祀しています。桑名宗社(春日神社)の境外末社として、地元・西船場町が管理しています。
Img_5265  3枚目の写真をよく見ていただくとお分かりですが、石造の一の鳥居の奥に、木造の二の鳥居があります。さらに、すぐ上の写真でお分かりのように、拝殿のすぐ前にも小さな鳥居があります。これは他ではあまり見たことがない気がします。
Img_5268 狛犬は、平成15(1993)年の社殿新築に伴って新しくつくられてImg_5267 います(台座は、昔のもの)向かって左は、「子取り」のタイプ。しかし、向かって右は「玉取り」ではありません。何故でしょう? 分かりません。分からないことがたくさんあり過ぎ(苦笑)。なお、もともとあった狛犬は、明治中頃に備前・備中や阿波の国の廻船業者たちによって寄進されたものでした。
Img_5569c 神社前の石の鳥居や、石灯籠は、天明8(1788)年に江戸の材木商たちによって寄進されたものです。
Img_5559c 境内には詩碑と句碑とが、合計2つあります。こちらは、有本芳水(ありもとほうすい)の詩碑です。大正5(1916)年につくられた「桑名にて」という詩が彫られています。昭和38(1963)年10月、芳水詩碑建設期成会が建てています。有本芳水は、明治-昭和時代の詩人(明治19(1886)~昭和51(1976)年)。以下のように刻まれています:
揖斐乃ながれのしがらみに
にほいあせたる花うきて
波にうたひて波に去る
可もめよ何を鳴き行く可
150x150_square_71277611  ちなみに、桑名の和菓子屋さん「花乃舎」に「志がらみ」というお菓子があります。それは、この有本芳水の詩に因むものだそうです。羽二重餅にやわらかい薄紅の羊羹をはさんだ川波型のお菓子です。食べたこと、あったかなぁ?
Img_5562c 句碑は、山口誓子のもの。「水神に 守られ冬も 大河なり」という句が刻まれています。絲遊俳句会が昭和49(1974)年6月に建立。絲遊俳句会は桑名市内の俳人グループで、同会が誓子氏の指導を受けて10年の記念に建てました。山口誓子(やまぐちせいし)は、大正-平成時代の俳人。明治34(1901)~平成6(1994)年。
 山口誓子は、このブログにも頻繁に登場していますが、肋膜炎の療養のため、昭和16(1941)年、伊勢冨田(現在の四日市市天カ須賀)に移って療養しています。その後、昭和23(1948)10月から昭和28年(1953)年10月までは鈴鹿市鼓ヶ浦で療養を継続しています。天カ須賀にいるときはなかなか健康が優れなかったようですが、鼓ヶ浦では目に見えて健康が回復したと回想しています。こういう関係で三重県北勢地方に多くの句碑があると考えられます。
 住吉神社、我が家から440m。徒歩5分。氏神様がどこか知らない間は、勝手に「マイ・氏神様」に認定していました(その後、北桑名神社が氏神様であることが判明)。今でも、通常の散歩コースを歩くときには、まずここに立ち寄ってお参りしています。
1_2 「久波奈名所図会」には、住吉神社の絵はありませんが、左の画像のような文章での説明があります。
住吉社 太一丸の東にあり。祭日六月三十日夏越祓なり。本社東向。祭神四座。底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命、神功皇后。鳥居 額 住吉大明神 滋野井亜相公麗卿筆 石灯籠二基 當社は中古水主町御船役方より勧請あり。よって本社西向きなりしが、近年東向にして七里の渡口を正面とす。祭礼の節は船場町の川岸に遙拝所を設て、諸人小舟の渡しを越て参詣す。
 6月9日の近鉄ハイキング「桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る」は、このあと、桑名七里の渡し公園と六華苑がコースでしたが、記事はこれにて完。
 今回の関連記事は、次の通り:

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2018年7月13日 (金)

20180609近鉄ハイキング「桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る」(その2)……春日神社

20180609kintetsuhikingkuwana  6月9日の近鉄ハイキング「桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る」のその2です。春日神社(桑名宗社)について。スタートから4㎞過ぎ、九華公園の西にあります。春日神社到着は、10時20分過ぎ。

Img_5423c こちらは、春日神社の楼門。もともと天保4(1833)年に建立された楼門がありました。当時は神仏習合で、花頭窓がついた仏教的な形式だったそうです昭和20(1945)年7月17日の空襲によって焼失。この楼門は、平成7(1995)年に再建されたもの。平成28(2016)年8月には左大臣・右大臣が安置されています(2016年8月21日:春日さんの左大臣・右大臣奉納奉告祭……伊勢大神楽の奉納も【動画をYouTubeにアップしました】)。
Img_5478c 楼門に鎮座する右大臣、左大臣。神様から見てですから、楼門に向かっImg_5480c て右に左大臣(右の写真)、左に右大臣(左の写真)。左大臣・右大臣をつくられたのは、桑名の彫り師・森西鶴さんです。
Img_5425c 春日神社の正式名称は、桑名宗社。桑名宗社とは、桑名神社と中臣神社の両社をあわせた名称で、古来、桑名の総鎮守として桑名首(くわなのおびと)の祖神を祀っています。桑名神社、中臣神社ともに延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)にその名が載る古社です。延喜式神名帳は、延長5(927)年に完成した、律令体制下で神祇官また諸国国司のまつるべき神社(3132座)の名を記したもの。
Img_5431c 拝殿は2つの神社がつながっいます。向かって右が桑名神社。御祭神は天照大御神の第三御子天津彦根命(あまつひこねのみこと)と、その大神の御子天久々斯比乃神の2柱。天津彦根命は、その子孫がとくに繁栄した神様で、また、天久々斯比乃命は神徳霊妙な神で、桑名首(上代桑名の豪族)の祖神です。そのため、桑名の開祖として「繁栄の神様」と仰がれています。
Img_5430c こちらは中臣神社。中臣神社は神護景雲(じんごけいうん)3(769)年に常陸国鹿島社(茨城県の鹿島神宮)より建御雷神霊がこの地を通過された基址に祀られるようになっています。御祭神は、天日別命(あめのひわけのみこと)。天日別命は、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)の子孫で、神武天皇が東征されたとき、伊勢を平定し、統治したといいます。「厄除けの神様」とされているそうです。もともと、中臣神社は山上にあったのですが、正応2(1289)年に桑名神社の境内に遷し、永仁4(1296)年に奈良の春日大社から春日四柱神建御雷神斎主神天児屋根命比売神)を勧請、合祀して以来「春日さん」と呼ばれています。
 ちなみに、比売神(ひめがみ)は、神道の女神で、特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すものだそうです。
 神社は、織田信長や徳川家康からも神領を寄進されたり、本多忠勝、松平定綱などの歴代桑名藩主から篤く崇敬されて来ました。明治になってからも、明治元(1868)年の御東行、2年の東京遷都の際、明治天皇、勅使が宿泊になっています。
Img_5494c 青銅の鳥居(市指定文化財)。俗謡に「勢州桑名に過ぎたる者は銅の鳥居に二朱女郎」と歌われた、日本随一のもの。神社境内から東方25mのところ、片町通(旧東海道)に面して立っています。寛文7(1667)年、桑名藩主・松平定重公が寄進したもの。慶長金250両を費し鋳物師の辻内善右衛門尉藤原種次に命じて建立させています。高さ6m90cm、笠木長さ8m10cm。この鳥居は伊勢湾台風など何度か天災に遭っていますが、その都度辻内家によって修復されました。
Img_5498c 春日神社のものではありませんが、この青銅の鳥居脇には「志るべいImg_5500c 志」があります。明治18(1885)年、東京の蘆田政吉により建てられました。ここは、上述のように旧東海道沿いで、昭和初め頃まで賑やかな盛場であったそうです。正面に「志るべい志」 、左面に「たづぬるかた」 、右面に「おしゆるかた」と刻まれていて、行方不明の人を探すための伝言板でした。迷子を捜すときは、「たづぬるかた」に子どもの特徴や服装などを書いた紙を貼り、心当たりのある人が「おしゆるかた」に子どもがいた場所などを書いて貼ります。人々が多く集まる各地の寺社門前に建てられていたのですが、現存するのは全国でも珍しいといわれます。
Img_8152c  境内に戻ります。手水舎の南に御膳水があります。江戸中期から神供用Img_5428c_2 として用いられていました。明治元(1868)年9月20日、明治天皇が桑名にお泊まりになったとき、御膳水として供されたといいます。井戸は、戦災で埋没しましたが、その後復元されたもの。
Img_5434c 境内社を見ていきましょう。まずは、春日稲荷神社。御祭神は、倉稲魂命Img_5436c (うかのみたまのみこと)。文政8(1825)年に伏見稲荷大社から勧請されました。明治の末から大正の初めにかけて市内各町の稲荷社を合祀してきています。
 明治40(1907)年に合祀されたのは、次の稲荷社:
  • 南魚町 魚之棚稲荷
  • 殿町 稲荷社
  • 京町 稲荷社
  • 油町 八坂稲荷社
  • 吉津屋町 寿稲荷
  • 入江葭町 稲荷神社
 京町、油町、四ツ屋町、入江葭町の稲荷社は、この年、境内の母山神社に合祀されたのち、平成9(1997)年、稲荷社の新築移転の時、こちらへ遷しています。その他、次の神社も合祀されています:
  • 吉津屋町 鳥清屋敷神 幹守稲荷(昭和初期)
  • 伝馬町 水貝家屋敷神稲荷(昭和初期)
  • 川口町 井筒屋屋敷神稲荷(昭和48(1973)年)
Img_5440c 続いて桑名東照宮。御祭神は、徳川家康公。元和3(1617)年、千姫が東照宮を勧請し、徳川家康座像(市指定文化財)を祀っています。千姫はご存じ、2代将軍徳川秀忠の娘で、慶長8 (1603) 年、7歳で豊臣秀頼に嫁いでいます。元和1 (1615) 年大坂夏の陣で豊臣氏が滅んでから関東に帰り、本多忠政(桑名藩初代藩主本多忠勝の長男、2代藩主)の長子・忠刻と同2年9月再婚。
Img_5443c  忠刻と結婚する時に、エピソードがあります。大坂夏の陣で救出され、江戸に向かう途中、本多忠刻が桑名でもてなし、七里の渡しの船渡しの指揮を執ったのですが、忠刻は武芸の達人で眉目秀麗な美男子。指揮を執る忠敏に千姫が一目惚れしたというのです。千姫は、江戸に着くとすぐに祖父・家康の許しをもらい、翌年桑名へ嫁入りしました。千姫と忠刻が桑名で過ごしたのはわずか1年でしたが、幸せな新婚生活を過ごしたといいます。
Img_5446c 皇大神宮御分霊社。御祭神は、天照大御神。明治初年、北魚町に融通会社という庶民金融機関があり、神宮司庁に願い出て天照大御神の御分霊を勧請し、明治9(1876)年11月御鎮座。
Img_5457c 母山神社。拝殿南側にあります。桑名宗社のサイトなどを見ても詳しいことが書かれていませんが、神社前2F特設祭事場によれば、神社の南にある職人町の産土神で、神奈備というサイトによれば、御祭神は火之迦具土神。火の神様です。
Img_5461c 母山(もやま)神社の拝殿前にはさざれ石が奉納されています。あの君が代に謳われているさざれ石です。「君が代」の歌詞の由来となったといわれるさざれ石の産地である、現在の岐阜県揖斐川町春日のものです。平成2(1990)年8月に奉納されたもの。君が代の元になったのは、古今集に収録されている藤原石位左衛門の「天皇の御代の弥栄を言祝ぎ祈り此の石の如くましませ」という歌だそうです。
Img_8156c 拝殿前の玉垣の中にある石。今まであまり気にしなかったのですが、調べてみたら「陽石」だそうです。一説には「夜泣石」とも伝わっているといいます。終戦前まではこの陽石を前にして高さ約3m、周囲約3.5m程の空洞になった楠の枯木があって、その前面は大きく割れて、性器崇拝の神木として参詣する者が多かったそうです。なるほど、それで「陽石」。納得。
Img_5433c 陽石のすぐ側には、金龍桜(こんりゅうざくら)があります。かなりの古木。金龍桜は若葉が赤褐色、花が白に近い淡紅色、一重と八重との咲き分けで、八重の優れた一品種だといいます(そこまで意識してみたことはありませんでした)。この名木は桑名藩主・松平定綱公が、摂津国(大阪府)古曽部の金龍寺の原木から分植したものだそうです。定綱公が藩主だったのは、元和12(1635)年から慶安4(1651)年でした。
Img_5452c 拝殿前の狛犬。台座を見ると、「天保三年 壬辰初夏」とImg_5451c あります。天保3年は、1832年。将軍は家斉。天保の飢饉が始まった頃。
Img_5455c 玉垣の奉納者の名前を見ていると、諸戸家初代の諸戸清六氏の名前がImg_5432c あるなど、歴史を感じさせられます。
Img_5474c  境内には句碑などもいくつかあります。こちらは、山口誓子による「山車統べて 鎧皇后 立ち給ふ(だしすべて よろいこうごう たちたまう)」という句。昭和40(1965)年9月、桑名の門下生の集まりである絲遊俳句会建立。
Img_5472c_2 もう一つの句碑は、二川のぼるの「山車の燈に 夜は紅顔の 皇后よ(だしのひに よはこうがんの こうごうよ)」。二川のぼるは、「天狼」の同人。句碑は、平成10(1998)年9月、八風俳句会が建立。八風俳句会は、桑名俳句会としてスタートした天狼伊勢北支部のようです(こちらを参照)。
Img_5475c これらの二句に読まれているのは、いずれも神功皇后(じんぐうこうごImg_8218c う)。堤原の石取祭の祭車に神功皇后の飾り物が載っています。右の写真は、昨年の石取祭の時に撮影したもの(2017年8月6日)。こちらに石取祭保存会のサイトがあり、祭車の一覧が載っています。第八組の堤原のものをご覧くださると説明もあります。
Img_5469c 千葉兎月の句碑。兎月は汀庵千葉兎月、桑名間遠社を宰した美濃派の俳人(こちらに兎月について触れたものがあります。桑名文化財のサイト)。あれこれ調べてみたものの、ネットで得られる情報はほとんどありませんでした。句碑も、部分的に読める(と思う)文字はあっても、全体としてどういう句なのか、小生の力ではいかんともしがたい(苦笑)。なお、美濃派とは、江戸時代の俳諧流派で、芭蕉門の各務(かがみ)支考一派をいいます。
 以上、竜頭蛇尾といいますが、竜頭はアヤシいものの、蛇尾でオシマイ(苦笑)。春日神社のお祭りは、石取祭。日本一やかましい祭りといわれ、ユネスコの無形文化遺産に
「山・鉾・屋台行事」の一つとして登録されています。今年は、8月4、5日の両日に開催されます。詳しくは、石取祭保存会のサイトをご覧ください。
2 記事をいったん書き終えてから思い出しましたので、最後に載せておき1 ます。「久波奈名所図会」に「春日神社往古の図」が載っています。図の中に、「母山権現」が載っています。現在の母山神社と思われます。本文には、「母山権現 本社後ろにあり。当初の地主神なり。職人町の産沙神とす。」とあります。神宮寺も描かれています。神宮寺は、 神社に付属して建てられた寺院。神仏習合思想の現れで、社僧(別当)が神社の祭祀を仏式で挙行しました。春日神社の神宮寺は、仏眼院。仏眼院の住職が春日神社の別当を兼ねていました。神宮寺は、明治元(1868)年の神仏分離令により廃絶または分離されました。
 その3は、住吉神社について書いて、完の予定。

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2018年7月10日 (火)

アンパンマンバスに乗って「東海道旧蹟撮影」へ

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 午後1時過ぎに32℃を超えました。梅雨明け、猛暑とお約束の通り(苦笑)。冒頭の写真のように、バス停におります。この間から時々書いていますように、九華公園の次の展示パネルの準備中。「桑名の東海道(仮称)」です。パワーポイントでパネル原稿をつくっているのですが、写真を撮り忘れていたり、どうも今ひとつという写真しかなかったりということが起きてきます。そこで、今日は、七曲見附跡と蟠龍櫓の再撮影。バスに乗って出かけ、その後は歩いてこようという算段。
Img_8940c 寺町商店街近くの寺町バス停から長島温泉行きのバスに乗車。このルーImg_7978c ト、ご覧のように「アンパンマンバス」が走っています。なぜかというと、ナガシマスパーランドに「名古屋アンパンマンこどもミュージアム&パーク」があるからです。このバス、よく見かけていましたが、乗車は初めて。もっとも内部は、ごく普通のバスでした(笑)。
Img_7980c 寺町バス停を8時38分に発車。5分で目的地の萱町バス停に到着。¥180。Img_7983c たかだか1.4㎞ほど(苦笑)。歩いてももちろんいけますが、この暑さの中、全行程を歩くのは大変と思ってのことです。目的地の七曲見附跡は、旧東海道にあった桑名藩の見附跡。今は、日進小学校と、道路を挟んだ消防団の車庫のあたりにありました(右の写真)。ここも枡形になっていたのですが、今はありません。右の写真で、向かって右手奥から来て、写真からは外れますが、左の方で奥に曲がるルートになっていました。
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 東海道上に七曲門(または釘貫門)があり、桑名城下南端の見附。この名前は、七里の渡しから7度曲がったところにあるからといいます。小学校の敷地内に左の写真のような案内板があります。7月3日に市内の東海道を歩いた記事は、7月4日のブログに載せました(桑名市内旧東海道を歩く(その2)……天武天皇社から十念寺まで【七曲見附跡などについて追記しました(7/5)】)。
Img_7999c  ここから九華公園まで歩いたのですが、その前に一ヶ所立ち寄り。日進Img_7998c 小学校のすぐ北に日蓮宗自栄山顕本寺があります。もとは天台宗で、大泉寺といい、三の丸付近にありました。永正6(1509)年、日蓮宗に改宗。慶長の町割の際、現在地へ移転。
Img_8001c 今回の「桑名の東海道」には載せませんが、ここは檀家に桑名藩士が多く、桑名藩ゆかりの人Img_8002c 物のお墓があるのです。中でも、吉村又右衛門宣充、水谷九左衛門光勝の墓は桑名市指定文化財に指定されています。今まで見たことがありませんでしたので、今日、立ち寄って来ました。
Img_8022c まずは、水谷九左衛門光勝(みつかつ)の墓(市指定文化財)。左の写真で向かって右がそれです。水谷光勝は、伊勢塩浜あたりの出身と推測されています。徳川家康最大の難とされた、本能寺の変の際の「神君伊賀越え」の折、伊勢から三河への渡海の案内をしました。その後、四日市代官、名古屋城築の作業奉行、山田奉行などを歴任しています。
Img_8009c  もう一基、市指定文化財になっているのは吉村権左衛門宣充(よしむらごんざえもんのぶみつ)の墓。宣充は福島正則に仕えて、多くの戦功を挙げたものの、福島家が取り潰され、浪人となってしまいました。あちこちの大名からの誘いがあったのですが、彼は一万石を要求したので、なかなか引き受ける大名はありませんでした。桑名藩主となった松平定綱は彼を寛永20(1643)年に、名目五千石、実質一万石で招きました。 その後の吉村家は本家、分家の二家系とも松平家の家老として代々勤めたのです。宣充は慶安3(1650)年に没し、ここ顕本寺に葬られました。
 さらに、これは桑名の方でもあまりご存じないと思うのですが、服部半蔵の墓も、顕本寺にあります。「半蔵」は、服部半蔵家の歴代当主の通称の名乗りです。2代の服部半蔵正成は、上述の神君伊賀越えの際、家康を助けた功で伊賀忍者を束ねることとなり、晩年は大名格の一万石を与えられました。
 その二人の息子が桑名藩に関係したのです。兄正就は父と同じ石見守を名乗り、桑名藩主・松平定勝公の娘・松尾を妻としました。仔細あって改易を申し付けられ、伊賀同心の支配の役目を解かれ岳父である松平定勝の元で蟄居となっています。
 弟正重は、兄の後を継いで服部半蔵を襲名し、徳川秀忠の小姓や家康の近侍、佐渡金山同心を務めました。のちに改易となり、その後、桑名藩主・松平定綱公に年寄の身分で召し抱えられ、二千石を得ました。これによって桑名藩の家老として服部半蔵家が存続したのです(大服部家)。
 なお、正就の系統は、上述のような血統から藩主一族の扱いを受け、重臣たちが住まう丸の内にひときわ大きな屋敷を与えられるなど、服部半蔵家以上に優遇されました(小服部家)。
Img_8015c  顕本寺には、服部半蔵を名乗り、家老となった系統の服部家の墓があります。現存するのは、正重(伊豆守)、正啓(正賢)、日記(内記)、正義です。
Img_8043c 九華公園には9時20分過ぎに到着。思ったより早く着きました。大雨の影Img_8041c 響で揖斐川の水が濁っており、堀に導水できない状態が続いています。そのため、堀の水位はかなり低下。右の写真のように、露出した岩にカメたちが乗って甲羅干し(いつもの甲羅干しスロープは、水面から10cm以上高い位置になってしまい、登れません)。
Img_8050c 九華公園内はいつものように一回り。この暑さなのに、散歩友達の高齢者の皆さん、元気に歩きに来ていらっしゃいます。蟠龍櫓に立ち寄って撮影。いつもは西側(三の丸公園側)から撮ってしまい、このような揖斐川の方からの写真(左のもの)は、あまり撮りません。こちら側の屋根に「蟠龍」が乗っています(写真中央あたり)。「蟠龍」は、天に昇る前のうずくまった状態の龍のこと。龍は水を司る聖獣ですから、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられています。
Img_8950c ということで、我が家から寺町バス停までと、萱町バス停から我が家までとをあわせて5.3㎞の散歩でした。アブラゼミの声が賑やかになって来て、いかにも夏を思わせます。時節柄、皆様にはご自愛ください。

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2018年7月 8日 (日)

いつも通りのコースで散歩……ウチワヤンマ、ツバメの親子など

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 ようやく大雨特別警報も解除されたようですが、たくさんの方がこの大雨の被害に遭われました。亡くなられた方、行方が分からない方がたくさんいらっしゃいます。お見舞い申し上げます。お陰様でわが家のあたりは、今日は好天。なんだか申し訳ないような気がしています。
Img_8661c 揖斐川(手前)、長良川(中州の向こう)ともに、水量はかなり多く、中洲が水Img_7858c 没しそうなくらいです。水も濁っていました。柿安コミュニティパーク西の堀にある石垣からは、水が噴き出していました。昨日もでしたが、あれだけ雨が降ると土の中にはかなりの水分がたまっているのだろうと思えます。
Img_7862c 遠征したい気もあったのですが、今日のところはいつも通りのコースへ。住吉神社、九華公園、京町、寺町、田町と5㎞ちょうど。火曜日以来の晴天で散歩する方も多く、あちこちで久しぶりに散歩友達の方に遭遇。散歩というより、おしゃべりをしに行ったようなものでした。
Img_8673c 九華公園でコゲラの鳴き声や、カワラヒワ、カラスなどを見たほかは、スズメ、ツバメくらい。セミは、クマゼミが、7月2日(月)から鳴いています。セミの写真もと思うのですが、まだ木の高いところにしかいません。左のスズメは、三の丸水門にて。今年生まれのスズメと思います。
Img_8684c ツバメは、あちこちで巣立ってきたヒナの姿が見られます。これらの写真Img_8683c は、柿安コミュニティパークのところで。左の写真で、向かって右にいる、のど元が赤いのは親。燕尾服の尾が短いのでメス。向かって左はヒナ。右の写真は、このヒナ。ここにはヒナが4羽ほど来ていました。
Img_8713c 九華公園では、やっとウチワヤンマの姿が見られるようになりました。腹Img_8724c 部の先端にウチワのような突起がついています。なかなかカッコイイと思っています。ウチワヤンマの写真を撮っていたら、スズメが近くに。このスズメさんは大人。250mmズームでノートリミング。
Img_8697c 奥平屋敷跡では、まだミドリガメが産卵のために上がってきていました。まだ赤ちゃんガメは見ていません。Wikipediaによれば、卵が孵るのに2~3ヶ月かかるといいますし、カラスがほとんどをほじって、卵を食べてしまう影響もあると思われます。
Img_8729c ツバメの巣も、昨日に引き続き巡回してきましたが、博物館と、田町の商Img_8742c 店の2ヶ所は巣立ってしまったようで、いませんでした。左は、京町の呉服屋さん。右は、田町のパン屋さんの向かいのお宅。パン屋さんの向かいのヒナ、目は開いてきたようですが、まだよく見えていないと思います。人が通ったり、手を動かすだけで、ご覧のようにエサくれアピールをするからです。
Img_7817c ところで、散歩の途中、七里の渡し跡近くで、作成中の「東海道パネルImg_7819c (仮称)」用の写真を撮ってきました。左は、船津屋さん。江戸時代、ここには大塚本陣がありました。塀のところに「歌行燈句碑」があります。明治の文豪・泉鏡花が大泉原村(現在のいなべ市員弁町)で講演するため、明治42(1909)年に来桑。ここ船津屋に一泊しています。このときの印象をもとに、小説「歌行燈」を書いています。昭和14(1939)年、東宝映画から依頼を受け、久保田万太郎は船津屋に止まって、戯曲「歌行燈」を書き上げ、翌年明治座で上演されたのち、昭和18年成瀬巳喜男監督によって映画化されています。久保田が船津屋の主人の求めに応じて読んだ句「かはをそに 火を盗まれて あけやすき 万」が刻まれています。
Img_7829c 「東海道パネル(仮称)」、江戸橋方面のお仕事が増えたこともあって、作業が遅れています。少々ねじを巻かねばなりません(微笑)。が、チョウトンボや、三ツ又池のカイツブリ、ハスの花なども気になりますねぇ(苦笑)。

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2018年7月 7日 (土)

20180609近鉄ハイキング「桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る」(その1)……走井山勧学寺

Img_5266c  6月9日に桑名で行われた近鉄ハイキング「桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る」に参加しました。概要編は、当日、記事を書きました(今日は桑名で近鉄ハイキング……桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る(概要編))。勧学寺、春日神社、住吉神社について、少し詳しく書いておこうと思います。今日はまず、走井山勧学寺

20180609kintetsuhikingkuwana こちらは当日、実際に歩いたルートマップ。勧学寺は、走井山公園に隣接しています。スタートの近鉄名古屋線・益生駅からは北西に直線距離で400mほど。三岐鉄道北勢線・馬道駅のすぐ側。公園内には、コースにも設定されていた「伝村正屋敷」もあります。
Img_5314c 現在、走井山公園になっているあたりには、矢田城がありました。室町時代に毛利氏の家臣山内俊行の子俊元が、国司北畠氏に属してこの地に築城して、矢田俊元と称しています。永禄年間(1558~1570)、織田信長の伊勢侵攻の際に落城し、天正2(1574)年に滝川一益が長島城主となると、矢田城は杉山左衛門・野呂孫右衛門に守らせています。天正11(1583)年、羽柴秀吉が滝川一益を北伊勢に追った時に矢田城も落城しました。
A7a1fb06s 公園の案内板に「伊勢湾を望む風景は絶景〉とありますが、まさにその通り。戦国時代、城を築くには好適の地だったと思います。左の写真は、2014年4月3日に桜を見に行ったときに撮ったもの(上野浄水場と走井山の桜、そして三岐鉄道北勢線)。勧学寺の鐘撞堂に上がって撮りました。東の方を見ています。赤い橋は、国道23号線の揖斐長良大橋。北勢線の電車を入れて撮りたかったのですが、あいにく時間が合わず。
Img_5324c こちらが勧学寺の本堂。聖武天皇の御代(724~749年)、行基菩薩の草創によるものと伝えられています。室町の頃(1390~1570年)までは走井山北麓にありました。同地内(現在の桑名高校付近)の海善寺が廃寺となり、本尊の千手観音立像が当寺へ移されてきています。走井山矢田城主の矢田市郎左右衛門は、この観音様を深く信仰していたといわれます。その後の経緯はよく分かりませんが、桑名藩主・松平定重公(1657~1710年)の時、現在地の矢田城跡に再建されました。明治の初め(1870~1880年頃)、いったん廃寺の憂き目に遭ったものの、近在の信者有志の尽力により再興されました。本堂は、松平定重公寄進のもので、市内に現存する寺社建築としては最も古いと推測されています。この写真ではわかりにくいのですが、久松松平家の家紋である梅鉢紋が屋根瓦に残っています。三重四国八十八箇所の第3番札所伊勢西国霊場の第31番札所。
Img_5344c  ご本尊は、千手観音立像(せんじゅかんのんりゅうぞう)。平安時Img_5337c 代後期のものとされています。像高165.3cmの樟の一木造り、三重県文化財。秘仏だったのですが、保存状態が悪かったため、昭和39(1964)年に京都国立博物館内美術院国宝修理所で解体修理し、復元しました(こちら)。右の写真は、ご本尊修復に際して、修復奉賛会が掲げた説明板。
Img_5326c 本堂天井に描かれた「水飲み龍」です。『桑名の伝説・昔話』(近藤杢・平岡潤編、昭和40年9月発行)の中に、勧学寺の天井に描かれた龍について「走井山観音堂附近の井戸に、或る夜、堂の天井に描かれている龍が動き、抜け出して、井戸の水を飲みに来た。そこで龍の目に大きな釘を打ちこんだと言い、今にその釘が残っている。名画や名工の作品によくある伝説の一つである。」と記されているそうです(こちら)。ただし、現在は釘は残っていません。
Img_5328c 桑名市教育委員会の文化財のサイトには「船絵馬や俳諧札、算額などImg_5334c が本堂に奉納されている」とあります。左の絵馬?には、「元禄六年」とあります(元禄6年は、1693年)。
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 一通り写真は撮ってきたものの、説明はなく、よく分からないというのが、Img_5347c 正直なところ。こちらのサイトには、「奉納された『大絵馬』伝説なども知られている」とあるのですが、この伝説は、ネット検索では不明。
Img_5340c 左の写真のようなものなども掲げられていますが、読めません(苦笑)。崩し字の読Img_5346c み方を習いたいと思いつつ、そのままですし、分かりません。最後の文字は、「畏」でしょうか? 右の写真は、天女のように見えますが、何でしょう? 知らないこと、分からないことばかりです。
Img_9214c 太子堂です(写真は、今年4月14日のJRさわやかウォーキングの時に撮影したもの)。本堂横にあります。もとは、明和年間(1764~1772年)に桑名惣大工中が寄進したものです。しかし、平成2(1990)年2月、火災のため焼失。平成3(1991)年、市建築組合の手によって再建されています。
Img_5325c 左の写真は、鐘楼。4枚目の写真は、ここに上がらせてもらって撮りまし2b57ecf3 た(微笑)。右は、仏足石(2013年4月2日に撮影:走井山勧学寺の桜と、三岐鉄道北勢線のナローゲージ電車、そして私の好きな三猿の庚申塔)。江戸末期の作で、分類上「勧学寺様式」ともいわれる特殊な福輪相図(足裏の絵)が精密に刻まれていて珍しいとされます(市指定民俗資料の説明板による)。
Img_9215c  勧学寺境内には、地蔵堂もいくつかあります。左の写真のお地蔵様は、鉢巻地蔵。鉢巻地Img_9231c_2 蔵は、太子堂のすぐ側。右は延命地蔵。他にも、水子地蔵もあります。
Hashirizan2  江戸時代の地誌「久波奈名所図絵」にも

Hashirizan2_2

走井山が載っています。走井山については、「当山は寺内に桜の木数株ありて、花の時幽艶なり。桑城の地境纔(わずか)に離て山に傍て清閑の地なる故、雅客来て常に吟詠す。七月十日の縁日には暁天より四来の参詣年々に増加せり。(俗に十日参りといふ)」と記しています。
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