地蔵

2020年4月 5日 (日)

20200329「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」(その3)……六把野新田の地蔵堂、道標、自然石の道標、鳥取塚と珪化木の碑を見て、東員駅へゴール(完)

200329hoshikawatouin3  3月29日に出かけた「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」のその3です。東員一中の手前でスタートから4㎞。その先に地蔵堂と道標1基。ピアゴ、しまむらを過ぎてまた、員弁街道は脇道に入っていき、藤川(上流に行くと、イヌナシを見に行った鳥取神社の横に続いています)を渡り、東員交番の裏で自然石の道標。その先で鳥取塚とそこに立つ珪化木の碑を見て、いよいよ東員駅にゴールします。

Img_8295  東員一中を過ぎ、4.4㎞のところに地蔵堂があります。「みえの歴史街道マップ(濃州道)」には、「延命地蔵堂」とありましImg_8292c たが、確か「病難除地蔵」と書かれていました。新型コロナウィルスも蔓延していますので、丁寧にお参りしてきました。大正末期に有志によってここに建立されたそうです(東員町観光パンフレットによる)。

Img_8286  地蔵堂の手前、交差点の東側に小さな道標があります。危うく見落としそうになります。「多度香取道」とあるのがかろうじて読めます。香取道は、ここ六把野新田の地蔵堂東側から大仲新田を通り、嘉例川を経て多度へ通じている道。この道は、昔は、3~4尺幅(約90~120cm)の細い道だったそうですが、多度祭ではかなり賑わったといいます。

Img_8298c  4.7㎞のところにある神田公園に「旧神田小学校跡」という案内板があります。明治34(1901)年、穴太にあった弘道尋常小学校と鳥取の養義(尋常)小学校が合併して、その中央に位置する六把野新田に神田小学校の前身である「神田尋常高等小学校」が創立され、ここに3棟の校舎が新築されたそうです。その後、昭和6(1931)年には木造2階建て北校舎が完成。さらに戦後、講堂が新築されたのですが、昭和48(1973)年に移転し、現在の神田小学校となっています。跡地が、神田公園として整備されました。

Img_8305  5㎞を歩き、神田変電所前の交差点から員弁街道は、右に逸れ、県道からは離れます。時刻は13時5分頃。このすぐ先で、藤Img_8307 川を渡ります。橋は、七ツ橋と呼ばれた橋。

Img_8317c_20200404204001  この藤川、鳥取神社のところから来ています(2020年4月 2日:今日も東員町で花見とバードウォッチング……イヌナシの花リベンジ、藤川の桜並木と町天然記念物のトウインヤエヤマザクラ)。鳥取神社までは1㎞足らずと思いますが、桜並木が続いているようです。

Img_8326  東員交番の裏に道標があります。自然石でできています。「右あげきはった/左大いづみ石Img_8322 ぐれ」とあります。それぞれ、阿下喜、治田、大泉、石榑を指しています。道標は、文化14(1817)年に鳥取(このあたりの地名)の俳人岩田卜斎(ぼくさい)によって建てられたものです。卜斎については、調べがつきませんが、こちらには「美濃派徐風庵で学ぶ」とあります。美濃派は俳諧の一派で、各務支考の系統。「徐風庵」は、美濃派の分派・再和派の九世・多賀徐風庵(1772~1832)。

Img_8331c_20200404204301  裏面には卜斎の「雲いくへ ひばり鳴くなり そりみ坂」の句が記されています(芭蕉が詠んだという説もあるようです。いつ詠まれたかなどは不詳)。かなり薄くなっていて詠みにくいのですが、こちらによれば、碑陰には、上記の句の他「文化十四丁丑年孟春中旬岐路人惑標石指南。楚里見坂 卜斎建立。是より道法 御城下へ二り半 あげきへ同はつたへ同 石南村へ同」とあるそうです。「そりみ坂」は、「楚里Img_8327c_20200404204301 見坂」「曲見坂」などと書きました。また、このこの小高いあたりにはヒバリがたくさん生息していたそうで、「雲雀が岡」と呼んだといいます。私は、春、揚げ雲雀を見上げるのに、体を反らせて見たから「反り見坂」かと想像しました。この道標のところで、道は二股に分かれ、一方は大木へ向かう道でしたが、今ははっきりしなくなっているようでした。道標は、平成19(2007)年4月に東員交番ができて、少し移動しました。

Img_8337c_20200405045001 Img_8349c_20200405045001  この道標の先、街道の北側に大きなお屋敷があります。庭の手入れもされており、立派な屋敷で、「岩田」という表札が出ていました。調べて見たら、ここが鳥取を代表する旧家である岩田家でした。そり見坂の道標を建てた卜斎も、ここ岩田家の俳人です(こちら)。

Img_8343c_20200329211901  もう少し西へ行き、スタートから5.4㎞を過ぎたところに、鳥取塚と珪化木の碑がありまImg_8353c す。鳥取塚は、饅頭型の円丘で、かつては古墳が4~5基ありました。今残っているのは1つで、東西21m×南北17m、高さ2.5m。桜などが植わっています。珪化木の碑には「鳥取塚」と刻まれています。碑は、明治44(1911)年3月の建立。珪化木(けいかぼく)とは、樹幹が珪質化(シリカ(SiO2)に富むようになること)して保存された植物化石。この鳥取塚のあるところを左折したところが、チリン坂で、「律師智伝之碑」があると思い込んでいたのですが、見当たらず。もう一度落ち着いて調べたら、これらはもう一本先を曲がったところでした(苦笑)。これは、次に見なくては。

Img_8360c_20200405050201  鳥取塚で13時20分。この日はここまでとし、ゴールに決めておいた三岐鉄道北勢線東員駅に向かいます。昼食は、予め調べておいた、東員駅近くのカフェレスト・ラフィーネで摂ることにします。写真は、東員駅に向かう途中に見た、鈴鹿山脈。この日は雨上がりで、風は強かったものの、それなりによい天気で、山もよく見えました。

Img_8372c_20200329212501  ラフィーネ。東員駅から線路を挟んですぐ北。13時40分着。オムライスが美味しそうでしたので、ランチのセットに。スImg_8370c_20200329212501 ープ、サラダ、茶碗蒸し、ミニハンバーグがついて、¥980。前期高齢者には、ボリュームたっぷりすぎるくらい。オムライスの中のご飯には、細かな海老やタマネギやニンジンなどの野菜、それにたまごなども入っていました。右の写真、先に出て来たミニハンバーグをかじってしまっています(苦笑)。満腹。この日の夕食は控えめにしました(微笑)。

Img_8383c Img_8384c  食事を終え、東員駅へは14時25分に着きました。ちょうどタイミング良く14時32分発の西桑名行きがありましたので、それに乗車。鉄道むすめ・楚原れんげのイラストが描かれた電車でした。西桑名までは¥340。M氏は星川駅で、K氏は蓮花寺駅でそれぞれ下車。西桑名には14時56分着。帰りも電車は空いていました。

Img_8395c_20200329212601  この日のALKOOのデータ。17,208歩でした。距離は、ハイキングで6.3㎞、自宅から西桑名駅往復が2.1㎞ですから、合計8.4㎞(キョリ測で測定)。帰り道、K氏、M氏からは、「次はいつ?」「どこを歩く?」と催促(苦笑)。員弁街道を阿下喜あたりまで歩くことにして、現在、少しずつ下調べ中。「勝手にハイキング」企画もそれなりに大変。過去の近鉄ハイキングや、JRさわやかウォーキングで歩いたコースに行くのも一つの手かと思いついたところ。これにて、3月29日の「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」も無事に「完」。

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2020年4月 4日 (土)

20200329「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」(その2)……七和の道標、薬師堂、穴太徳の碑へ

200329hoshikawatouin1   3月29日の「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」のその2です。その1では、星川駅をスタートして、天皇八幡神社(マップでは八幡神社)、クロガネモチの木まで来ましたが、実際のルートマップは、まだその1のエリアです。

Img_8225c_20200402043501  天皇八幡神社のすぐ南の交差点の北西に九華(くわな)はちみつがあります。大正元(1912)年創業の舘養蜂場本店がやっている直売所。無添加で純粋に国産の蜂蜜を取り扱っています。ちょっとだけ覗いてきましたが、蜂蜜の甘い香りが漂っていました。菰野町・いなべ市で採った「そば蜜」などもあります。これは古くから咳止めに使われてきたとか。

Img_8226c Img_8228c  その先、七和駅から来る道との交差点の北西角に道標。「(西)楚原道/東 桑名道/北 多度道/南 七和駅道」とあります。三岐鉄道が、北勢鉄道として大山田(現在の西桑名)~ 楚原間(14.5km)の開業を果たしたのは、大正3(1914)年ですから、それ以降の道標と思われます。員弁街道と多度へ向かう道の交差点ということで、ちょっとした交通の要衝であったと考えられます。「楚原道」の上には、「西」と刻まれているようですが、薄くなって(もしくは削られた)います。右は、多度方向を見た写真。

Img_8230c Img_8240c_20200402051401  この道標がある交差点で左折し(南へ)、七和駅方向に150mほど入っていったところに瑠璃山薬師堂があります奈良時代に創建され、本尊は室町時代の作といいます。御堂の前にソメイヨシノが咲いていて、なかなか落ち着いた、よい感じ。ここは中世の芳ヶ崎城(羽笠城)の遺跡ともいいます。

Img_8237c_20200402051401  ここでまた、M氏から質問、「瑠璃山の瑠璃はよく見聞きするが、何?」。私は、「知っていることは何でも知っているが、知らないことはまったく知らない」と嘯いていますが(苦笑)、瑠璃についてはちょっとアヤシい。瑠璃色が濃い紫みの鮮やかな青色なのは知っています。鳥にも、オオルリ、コルリ、ルリビタキがいます。しかし、分からないことは確認しないといけません。「瑠璃(るり)」は、7つの仏宝の1つで、青色の美しい宝石。「ラピスラズリ」ともいうということでした。

Img_8235c_20200402051401 境内には地蔵堂らしき御堂もありましたが、こちらについては不明。ちなみにこのあたりは、旧七和村でした。七和村は員弁郡に属していましたが、昭和26(1951)年に桑名市と合併。郡境を越えての合併でした。江戸時代にあった五反田村、大仲新田、巌新田(いわお)、嘉例川村、芳ヶ崎村、森忠村、星川村が明治22(1889)年に合併して七和村ができました。七つの村が合併したので、七和村といったそうです。

200329hoshikawatouin2  員弁街道に戻ってハイキングを続けます。ルートマップはその2へ。五反田の町を歩いて行きます。しばらくは立ち寄るとこImg_8242c_20200402052401 ろはありません。町の風景は、右の写真のような感じ。写真を撮ったあたりは道幅が広くなっていますが、昔の街道は、写真の奥に見えるくらいの道幅だったのであろうと思います。

Img_8249c_20200329202701  2.9㎞のところで寒谷川を渡ると、そこに大日堂と地蔵堂があります。大日堂は、この五反Img_8251c_20200329202801 田にあった伝西寺が真宗大谷派に改修し、星川に移るとき、ご本尊であった大日如来を安置する御堂を設置したといいます。大日如来がご本尊ということは、真言宗系統かと思います(ちなみに、真宗のご本尊は、阿弥陀如来)。右は地蔵堂。

Img_8259c  これら大日堂と地蔵堂のすぐ先にも、街道左側(南)に地蔵堂がありましたが、みえの歴史街道マップにも、くわな史跡めぐりにも載っておらず、不明。御堂にも何地蔵とは書かれていません。お地蔵様は、あちこちにありますが、資料に載っていないものも多く、地元の方に伺わないと分かりません。

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 スタートから3.1㎞、弁天川にかかる弁天橋に来ます。ここが、桑名市と東員町との境界。M氏、K氏とも途中で「ブログに写真を載せられるかも知れんなぁ」とおっしゃっていたので(期待されていた??)、ちょっと登場してもらいました(微笑)。橋を渡って、員弁郡東員町に入ります。平成の大合併で、員弁町、藤原町、大安町、北勢町が合併し(平成15(2003)年12月1日)、いなべ市が誕生しましたので、今では、員弁郡も東員町のみ。

Img_8268c_20200329205201  弁天橋の先、100mほどの民家の庭に「穴太徳(あのうとく)の碑」があります。「穴太徳事 神戸屋徳次郎碑」と刻まれています。穴太徳(本名は中野徳次郎)は、慶応2年4月8日(1866年5月22日)の「荒神山の喧嘩」で、神戸の長吉(かんべのながきち)と私闘を展開した、桑名を縄張りとした博徒です。この荒神山の喧嘩では、神戸の長吉側の助っ人として乗り込んだ吉良仁吉は、鉄砲で撃たれた上、斬られて死亡しました。吉良仁吉は、清水次郎長一家の応援をえて、穴太徳勢になぐりこんで、義理に殉じてしまったのです。「荒神山の喧嘩」は、2代目広沢虎造による「血煙荒神山」の浪曲で有名ですし、吉良の仁吉については、村田英雄の歌う「人生劇場」にも出てきました(♪俺も生きたや仁吉の様に~♫)。何度も書きましたが、この碑は、是非とも見たいと思っていました。ちなみに、「荒神山の喧嘩」があった荒神山観音は、鈴鹿にあり、私の最初の職場がその近くでした。近鉄ハイキングやJRさわやかウォーキングでも訪ねています(2018年12月7日:20181202近鉄ハイキング「鈴鹿の隠れた紅葉の名所「荒神山の喧嘩」で有名な荒神山観音寺を訪ねて」へ(その3)……加佐登の町を経て、荒神山観音寺へ、2019年4月20日:20190420JRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」へ(予告編)。荒神山の喧嘩については、2018年12月7日の近鉄ハイキングの記事に詳しくあります。

 この穴太徳の碑のすぐ先に神田屋敷と、六把野井水(ろっぱのいすい)があると「三重の歴史街道マップ 濃州道」にはあったのですが、結局よく分からず。マップには、小さな写真が載っていますが、それをよく確認し、記憶していなかったのです。さらに、マップをプリントアウトしたものを忘れて出かけていました(苦笑)。六把野井水について、こちらのサイトには「道の横を流れる六把野井水は江戸時代に桑名藩の行った水利開発の一つで、安政12年(1635)に完成した。今の北勢町麻生田にある大井口から員弁川の水を堰入れ、桑名市大仲新田山ケ道に至る流程12キロに渡る井水で、完成当時の受益面積は約460町といわれた」とありました。結局、このあたりでは員弁街道に沿って流れていたようです。本多忠勝が桑名に来てから着工したといいます。この先、北勢線楚原駅を過ぎたところにある「ねじり橋」があり、これが六把野井水にかかる橋ですから、そこで見ることにしましょう。神田屋敷は調べたものの、よく分かりません。手持ちの資料にも、ネットにも出てこないのです。

 この先穴太西の交差点から員弁街道は、県道14号線に合流します。こちらは、「現代の員弁街道」ともいえ、車の通行量がかなり多いところ。しばらく見るところはありません。ルートマップその2はここまでで、キリが良いので記事もここで区切りをつけます。

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2020年4月 3日 (金)

20200403「勝手に養老鉄道ハイキング『専通寺のしだれ桜と羽根谷だんだん公園』(駒野)」(完)

Img_9711c  朝は5℃を切り、冷えましたが、日中は暖かくなるという予報でしたので、海津市にある専通寺のしだれ桜と、羽根谷だんだん公園の桜などを見に行くことにしました。散歩友達からも勧められ、ブロ友のくろしばくろまるさんも先日行っていらしたそうで、機会があればと思っていたのを実行に移したという訳です。名づけて「勝手に養老鉄道ハイキング『専通寺のしだれ桜と羽根谷だんだん公園』(駒野)」です。不要不急の外出を続けておりますが、「密閉」「密集」「密接」の3密ではありません。冒頭の写真は、帰りの養老鉄道の車内であります。

Komano  専通寺や、羽根谷だんだん公園へは我が家からクルマで30分ほどですが、今日も養老鉄道を利用しました。多度や養老の山でも眺めながら、のんびり行こうという次第です。桑名から1駅先のImg_9225c_20200403173001 播磨駅まで送ってもらい、8時47分の大垣行きに乗車。駒野駅には9時15分に到着。¥470。

Img_9244c_20200403173201  駒野駅にも、特産物をモチーフにした駅名表示板があります。グーグルマップで調べておい200403komano た地図をてに9時20分にスタート。いつも通り、ブラブラ、あちこち眺めながらです。が、いきなり大回りの道をとってしまいました(苦笑)。駅を出てすぐ左に行けばよかったのですが、それを見落としました。駅からすぐのところに市神神社があり、まずはそこに立ち寄り。ナイガイテキスタイルの工場脇を抜け、薩摩カイコウズ街道と国道258号線を渡り、海津市南濃町奥条地内を歩いたのですが、258号線を渡ったところで曲がるところを見逃し、スマホのグーグルマップに道案内され、専通寺へ。しだれ桜を見て、羽根谷だんだん公園へ。ソメイヨシノの、見応えある桜並木を眺め、上流にあるさぼう遊学館方面へ。ヨハネスデレーケが指導してつくったという「巨石積み堰堤(砂防ダム)」を見て駒野駅に戻るというコース。5.7㎞+αを歩きました。

Img_9267c Img_9270c_20200403174001  市神神社。猿田彦命(さるたひこのみこと)を祀っています。創立年月日は不詳ですが、古来より崇敬が厚く、明治3(1872)年11月に再建したといいます。

Img_9259c  駒野招魂社が隣接してありました。招魂社の境内には、紀念碑。明治33(あるいは35)年Img_9262c に建てられていますので、日清戦争にかかわるものと思われますが、草木が生い茂っていて、詳細は読めません。

Img_9295c_20200403175001  途中、やや端折りますが、専通寺の近くにお地蔵様。こImg_9298c_20200403175001 のあたり、道が思っていたよりもかなり細く、微妙に曲がっていて、昔のままと思われます。このお地蔵様、なかなかよいお顔をなさっていました。

Img_9326c_20200403175401  黄金山専通寺。真宗大谷派のお寺。9時45分に着きました。ここは、しだImg_9308c れ桜で有名。樹齢二百数十年と百数十年の2本の親子しだれ桜があり、古くから地域の人々に親しまれているといいます。葉が出て来ており、時期的にちょっと遅かった気がしますが、さすがに立派でした。

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 私がついたときには、他には女性が一人、写真を撮っておられただけで、ほぼ独占状態で楽しめました。あちこち周りながImg_9318c_20200403175501 ら、写真を撮ってきました。ここ専通寺、ネットで調べたのですが、情報が出て来ませんでしたので、その由緒などは分かりませんでした。

Img_9391c  専通寺の山門とそこへ続く参道。いい感じでした。古刹という感じ。この参道入り口には、Img_9302c忠魂碑と「南無阿弥陀佛」の名号碑がありました。忠魂碑は、昭和8(1933)年5月に奥條在郷軍人青年会が建てています。名号碑は、昭和22(1947)年2月、奥條信濃會が建てたもの。

Img_9371c_20200403193701  さらに、その北には、「九条殿御納経地」という石碑がありました。「安政三丙辰年三月建之 黄金山」と刻まれています。九条殿があの九条家であるなら、藤原氏の一支族で、五摂家の一つとして代々摂政,関白に任じられることが多かった家ですが、詳細は分かりません。あまりにも想像をたくましくするのも何ですから、次へ(微笑)。

Img_9440c_20200403195101  専通寺から南へ300mほどいくと、羽根谷だんだん公園に行き着きます。さぼう遊学館巨石積堰堤を中心にした自然豊かImg_9466c_20200403195101 な公園です。今の季節、羽根谷に沿って約1,800本の桜が咲くそうです。とくに八重桜は、1,000本もあるといいます。ここは、本当に見事。桑名ですと九華公園や走井山が桜の名所ですが、ここに来てみて、羽根谷だんだん公園の方が見応えがあることを実感しました。

Img_9476c_20200403200701 Img_9486c_20200403195201  羽根谷は養老山系の代表的渓流で、昔は大雨ごとに大量の土砂を押し出し、広大な扇状地をつくり、津屋川や揖斐川を埋めて大洪水の原因となっていました。そこで、河川氾濫を防ぐため、明治6(1873)年に政府が招いたオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの指導で砂防工事が進められました。「砂防先達之碑」は、昭和62(1987)年9月に先人の業績に感謝して建立されています。

Img_9502c  上流の方向へ進み、さぼう遊学館のところを目指します。途中、八重桜の並木。すでに咲き始めていました。1,000本あるとImg_1674c_20200403195201 いいますが、ここはたぶんその一部。

Img_9530c_20200403195201 Img_9551c_20200403195301  前方に巨石積堰堤が見えてきます。これが、ヨハネス・デ・レーケの指導を得てつくられた砂防ダムです。羽根谷には多くの巨石積堰堤があります。ヨハネス・デ・レーケの教えにより、明治11(1878)年に着工し、明治24(189)年に完成しています。

Img_9554c_20200403195301  堰堤に使った石は、人がそりに乗せて運んでいたそうです。石を切り出した跡が、現在も残っているそうです。この明治時代Img_9573c につくられた砂防ダムは、現在も土石流から人々の暮らしを守るための働きをしているといいます。高台にあり、眺めもかなりよいものがありました。いや、来てよかったですねぇ。

Img_9597c  この巨石積堰堤は、さぼう遊学館のすぐ近く。ここで10時50分頃でした。ちょうど小腹も空いてきましたので、一休み(微笑)。近所の方からいただいたお菓子を持参していましたので、それをいただき、お茶を飲んで10分ほど休憩。奥に見えているのが、さぼう遊学館。ただし、新型コロナウィルスの関係で、4月12日までは休館中でした。

Img_9602c_20200403195301  11時に再スタートして、駒野駅まで戻ります。登ってくるときは背後(東)の景色はあまり眺めませんでしたが、帰り道、上から眺めるとかなりよい眺めでした。揖斐川を挟んだ海津の市街地から、名古屋の方まで見渡せます。こういう広々として、開けた空間は気持ちいいですね。日頃のモヤモヤを忘れさせてくれます。

Img_9616c_20200403203201  専通寺の方に戻り、ほぼ来た道を辿って駒野駅に向かいます。羽根谷だんだん公園を出てすぐのあたりで、Img_9639c_20200403195301 駒野駅まで1.5㎞、約20分。薩摩カイコウズ街道のところまで戻ったら、お地蔵さんと石碑があるのに気づきました。お地蔵様も石碑も詳細は不明。石碑には、「奉……」と刻まれているのですが、薄くなって判読困難。「嘉永七……」とあるような気がします。嘉永7年であれば、1855年で、この年に安政に改元されています。

Img_9657c_20200403195301  往きにもここを通ってきたのですが、駒野駅の南には、ナイガイテキスタイルの工場と、シキボウ物流センターがあります。Img_9653c_20200403204001 ナイガイテキスタイルは、シキボウのグループ企業。シキボウは、明治25(1892)年に有限責任伝法紡績会社として創業。私の世代には、敷島紡績という名前が馴染みがあります。私が通ったのは、西側のナイガイテキスタイルの工場脇。西側から見える範囲は、ちょっと荒れた感じ。祠と鳥居も見えたのですが、手入れはされていないような印象。繊維業ですから、最盛期にはさぞ栄えたと思います。

Img_9690c  駒野駅には、11時35分に戻って来ました。駒野駅に着いたときに時刻表を確認したつもりでしたが、どうもImg_9691c_20200403195401 大垣行きの時刻を見たようで、11時56分に桑名行きがあると思い込んでいました(苦笑)。実際には、11時43分に桑名行きがやって来ましたが、無事に乗車。¥470。播磨までと同一料金。帰りは桑名まで乗車。12時18分着、徒歩にて帰宅。

Img_9753c_20200403195401  ALKOOのデータ。歩いたのは、駒野で5.7㎞。桑名駅から自宅が0.9㎞ですから、合計6.6㎞。歩数は、14,158歩でした。けっこう疲れたようで、午後から1時間半も午睡を貪っておりました(苦笑)。

Img_9741c  オマケ。今日はあちこちでツバメが飛び交っていました。こちらは、桑名駅を出たところで見たツバメ。巣をつくって(修繕して)、営巣するのはもう少し先と思いますが、また、ツバメの巣の巡回もしなくてはなりません。

Img_9749c_20200403195401  オマケその2。マイソメイヨシノ。玄関先から見下ろした写真です。ここ何日か、新型コロナウィルスにまつわる動きについてぼやいておりましたが、よほどのことがなければもうやめておきます。例の「アベノマスク」は、経済官庁出身のお役人が、「マスク2枚を配れば、国民の不安は吹っ飛ぶ」と安倍首相に入れ知恵したという話があります。これが本当なら、まったくわれわれを舐めているとしたいいようがありません。呆れましたので、もうぼやくのも止めようと思った次第。いずれにしても、私も含め、皆様にはくれぐれもご留意、ご自愛ください。「移されない」というのも大事ですが、「移さない」配慮も大切と思っています。

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2020年4月 1日 (水)

20200329「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」(その1)……北勢線星川駅をスタート、星川神社、星川山安渡寺、森忠名神明神社、ヤマモリの工場を見て、天皇八幡神社、市天然記念物のクロガネモチの木へ

200329hoshikawatouin  3月29日に「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」に行きました。今回は、その本編その1です。昨今の状況下では、不要不急の外出に間違いはありませんが、人と接触がきわめて少ない、旧街道を歩くハイキングなら、コロナの感染リスクも低く、健康増進にもよいと勝手に考え、3月15日の「益生(三ツ矢橋)~星川」に続いての第2弾として、三岐鉄道北勢線の星川駅から、桑名の隣の東員町にある北勢線・東員駅まで歩いてきました。休日の北勢線は、1両にせいぜい数人の乗客、歩いているのは旧街道で人混みとはほど遠い。昼食だけはカフェレストにてという次第。

Img_8071c_20200331203101  当日は、朝、雨がわりと遅くまで残りましたので、スタートを11時に変更。三岐鉄道北勢線西桑名駅を10時35分に発車Img_8085c する楚原行きに乗車。星川駅には10時48分着、¥240。実際には、10時55分にスタート。今日も、前回同様、K氏、M氏との「オッサン三人旅」。私の悪影響を受けたのか、お二人とも「是非とも行く」という意気込み(微笑)。何だかツアーコンダクターになった気分。「太一丸ツアーズ」か、「mamekichiトラベル」という会社でも立ち上げようかと思ったりします。

200329hoshikawatouin1  さて、実際に歩いたルートマップの詳しいもの、その1。星川駅を出て南へ。町屋川(員弁川)の堤防に突き当たるところからが、員弁街道。右折して、西に向かいます。1㎞までの間に星川城跡、星川神社、安渡寺とあります。星川の町を進み、森忠名神明神社(マップでは名神明神社)に寄って、2㎞を過ぎたところで天皇八幡神社(マップでは八幡神社)と市天然記念物のクロガネモチの木を見ます。続いて、道標を1つ確認してから七和駅の方に入って薬師堂。

Img_8089c_20200331211701  星川駅を出て300mほどで嘉例川(かれがわ)を渡ります。嘉例川は水量が少なく、すぐに枯渇するため、「枯川」の意味で名づけられたといいます。上流には、市天然記念物の「ヒメタイコウチ」が生息します。ヒメタイコウチ(姫太鼓打)は、カメムシ目タイコウチ科に属する小さな水生昆虫なのですが、私は見たことはありません。絶滅が危惧されていて、嘉例川地区ではビオトープを整備するなど保護事業も行われています。

Img_8087c_20200329180801  嘉例川を渡るあたりから進行方向(北西)を見た写真。中央に見える白い建物(万代家具)に向かって左手あたりに星川城がHoshikawacastleruin ありました。室町時代、春日部若狭守が居城したといいます。春日部氏は、旧朝明郡萱生(現在の四日市市萱生町)の豪族で、星川城主はその一族。織田信長の伊勢侵攻の時に滅んだといいます。現在は、はっきりした遺構はないようです(こちら)。右の画像は、桑名市教育委員会の文化財のサイトにある遺跡分布図に目印を記入したもの(こちら)。オレンジの網掛け部分が、星川城跡と考えられています。青いルートが員弁街道。

Img_8091c_20200331212901  嘉例川から少し先の員弁街道の様子。ゆるやかな登り坂になっています。偉そうにM・K両氏を引率して歩いていましたが、この先、実は未知の土地(苦笑)。予め調べて自作したコースマップを見ながらの道中なのです。

Img_8093c_20200329182201  星川駅から600mほどで星川神社。街道の北側に「延喜式内星川神社/神厨星川神明神社」と刻まれた社号Img_8109c_20200331213401 標があります(明治34(1901)年建立)。右は、一の鳥居。

Img_8106c_20200331213401  御祭神は、天照皇大神。相殿神は、須佐之嗚命(すさのおのみこと)、大山祇神(オオヤマツミノカミ;山の神)、宇迦之御魂神(うかのみたまのみこと;五穀、食物をつかさどる神)、火産霊神(ほむすびのかみ;火の神)。一説によれば、この地を開拓した星川武彦命の祖先を祀るともいいます(勢桑見聞志抄)。社伝によれば、創立は応神天皇時代とされますが、詳細は不明。明治40(1907)年11月に八坂神社、御厨神明社、山神社を、また、同45(1912)年2月に大字仲新田の稲荷社を合祀しています。ちなみに、勢桑見聞志抄は上巻が、桑名私立中央図書館のサイトで見られます(ここ)。

Img_8102c_20200331213401  神社は、台地の上にあります。社殿の背後は、この写真のようになっていて、「このあたりも星川城の範囲だったのかという気もした」と予告編に書いたのですが、上記の遺跡分布図によれば違ったようです。しかしながら、地図や資料を見たり、現地に行ったりして、あれこれ想像をたくましくするのは楽しいものです。

Img_8115c_20200329183101  街道に戻って、1㎞の手前に星川山安渡寺(ほしかわざんあんどじ)。ここは、特定の宗派には属さない単立Img_8130c_20200331220201 の寺院。ご本尊は、平安時代の聖観世音菩薩(桑名市指定文化財)。蓮華座、仏身約35cmの檜の一木造りで、平安中期の作とされます。伊勢巡礼30番札所といいますが、この「伊勢巡礼」は不明。

Img_8120c_20200329183201  奈良時代、行基によって創建され、その昔、本堂裏に行基の腰掛松があったといいます。星川城主・春日部Img_8148c_20200329183201 若狭守によって大伽藍が建立されたといいますが、織田信長の兵火で焼失したといいます。鎌倉時代から「星川の観音さん」として知られていたことが、四日市市南富田町の善教寺が所蔵する阿弥陀如来像の胎内文書に記されているそうです(こちらにその紹介があります)。子安観音として安産守護の霊験あらたかで、また開運・厄除けの守護としても人びとから篤く信仰されています。

Img_8152c_20200331220501  境内には、見事なしだれ桜(左の写真)とソメイヨシノがありましたし、ここからの眺めはかなりよいものImg_8122c があります。

Img_8158c_20200401071602  安渡寺を出てしばらく行くと森忠に入ります。員弁街道は、左の写真のような感じ。前回の三ツ矢橋から星川あたりは、クルマもほとんど通らなかったのですが、星川から西は、けっこう車が頻繁に通ります。このあたりの方が、前回歩いたところよりも住宅が多いからなのだろうと思います。旧東海道や、旧伊勢街道(参宮街道)も生活道路になっているところが多かったのですが、員弁街道のこのあたりもそうなのでしょう。

Img_8159c_20200329193301  森忠名神明神社(もりただなしんめいじんじゃ)が、1.2㎞ほどのところにあります。ちょっと珍しい名前の神社です。主祭Img_8169c_20200329193301 神は、天照皇大神。相殿神は、大山津見命。創始は不詳。古代、このあたりは伊勢神宮の領地で、「守忠」あるいは「盛忠」という人の名田(みょうでん)でした。神宮の領地管理に貢献があったので、その名が地名となったといいます。守忠/盛忠の名田に建てられた神明社から、神社の名前が来ています。

Img_8176c  この神社の境内には、「伊勢神宮遙拝所」と、「神武天皇遙拝所/明治天皇遙拝所」の石碑がありました。写真で向かって左が伊勢神宮遙拝所です。さほどたくさん見て回ったわけではありませんが、桑名市内の神社では、こうした遙拝所は初めて見ました。両遙拝所とも、皇紀二千五百八十三年(大正12(1923)年)に山上甚兵衛という方が建立しています。

Img_8171c  拝殿に向かって右手(東)にもう一つ、社殿がありました。神社検索三重のサイトには、「末社火産霊社(祭神火産霊命)」と、村内の「山神社(祭神大山津見命)」が、いずれも明治40(1907)年に合祀を許可されたとありますので、これらのどちらかかと思います。

Img_8188c  2㎞ほどのところにヤマモリの桑名工場があります。ヤマモリは、明治22(1889)年創業。三林専太郎が、Img_8190c 味噌・しょうゆ醸造業を始めました。今日では、それ以外にもかまめしの素、レトルト食品なども製造しています。三重大学カレーや、桑名カレーのレトルトもつくっています。ちなみに、昭和42(1967)年に日本で初めて「袋詰液体スープ」を発売したそうです。工場の正門脇に朱い鳥居が並んでいましたので、お稲荷さんが祀ってあるかと思いきや、猿田彦さんでした。工場、会社などにはお稲荷さんが定番だと思っていました。猿田彦さんは、導きの神様ですから、これもありかも知れません。

Img_8194c  ヤマモリのすぐ先の北に天皇八幡神社。芳ヶ崎(はがさき)の産土神。春日社と牛頭天王社を相殿とします。御祭神は、品陀和気命(ホンダワケノミコト;応神天皇)、素盞嗚命(すさのおのみこと)、火産靈命(ほむすびのみこと)、大山津見命(オImg_8199c オヤマツミノミコト)、天兒屋根命(アマノコヤネノミコト)。由緒は不詳ですが、鳥居は文化2(1805)年に再建した記録があるといいます。

Img_8209c_20200403051901  境内には、拝殿横に順正稲荷大明神があります。以前には、このあと訪れる薬師堂の南に鎮座していたのでImg_8203c_20200403051901 すが、祠の老朽化もあり、建て替えて、平成24(2012)年11月に遷座。拝殿の屋根瓦には菊の紋章らしき模様がありましたが、よく見ると花弁が12枚。本物の菊の紋章は「十六八重表菊」ですから、異なったもの。ちなみに、天皇八幡神社という名前も、牛頭天王辛きていると説明がありました。

 ここの社号標に「村社」とあるのを見て、M氏から「村社とは?」と尋ねられました。神社には、その等級を示す「社格(しゃかく)」がありました。歴史的にそのあり方は変遷していますが、明治以降は、官幣の大社、中社、小社、国幣の大社、中社、小社、別格官幣社、府社、県社、郷社、村社、無格社などの別が定められました。第2次世界大戦後廃止されていますが、今でも「旧社格」といって、神社の格を表す目安になっています。Wikipediaの「近代社格制度」に詳しく説明がありますが、端的には、どこから奉幣(ほうへい)を受けるかということです(ちょっと乱暴な結論ではあります)。

Img_8222c_20200329194501  天皇八幡神社の南、員弁街道を越えたところに市の天然記念物に指定されているクロガネモチの木があります。クロガネモチは暖地に生える常緑高木。これは、天皇八幡神社のご神木で、地元が大切に守っていますが、剪定などはしてはならないとされているそうで、周囲にお住まいの方にはご苦労もおありのようです。多数の枝を四方に張り見事な傘状をした名木です。

 長くなりそうですから、ひとまずここで区切りとします。その2は、この近くにある九華はちみつ、道標、薬師堂から。 

 

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2020年3月29日 (日)

20200329「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」(予告編)

Img_8073c_20200329180701 Img_8082c_20200329180701  不要不急の外出は避けるべきところではありますが、厚生労働省の勧告「換気が悪く、人が密に集まって過ごすような空間に集団で集まることを避けてください」を遵守して、「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』に行ってきました。3月15日の「益生(三ツ矢橋)~星川」に続いての第2弾として、三岐鉄道北勢線の星川駅から、桑名の隣の東員町にある北勢線・東員駅まで歩いてきました。休日の北勢線は、1両にせいぜい数人の乗客、歩いているのは旧街道で人混みとはほど遠い。昼食だけはカフェレストにてという次第。本日は、予告編で主な立ち寄り先を取り上げます。

Img_8085c  朝方、雨がわりと遅くまで残りましたので、スタート時刻を11時に変更。三岐鉄道北勢線西桑名駅を10時35分に発車する楚原行きに乗車。星川駅には10時48分着、¥240。10時55分にスタート。今日も、前回同様、K氏、M氏との三人旅。私の悪影響を受けたのか、お二人とも「是非とも行く」という意気込み(微笑)。

200329hossikawatouin  こちらが本日歩いたコース。前回同様、ほとんど三岐鉄道北勢線に沿っています。ハイキングで歩いた距離は6.3㎞。自宅から西桑名駅往復が、2.1㎞ですから、合計8.4㎞。今日のコースには、寺社仏閣、地蔵堂などの他、道標、桑名市の天然記念物、穴太徳の碑などさまざま見るべきところがあり、楽しめます。予定していたところで見つけられなかったものもありましたが、概ね満足。

Img_8087c_20200329180801  星川駅をスタートして、北勢線の踏切を渡って右折する(西に向かう)と員弁街道に出ます。嘉例川を越え、すぐにまた北勢線を渡った先、右手あたりが星川城跡です(左の写真で、中央に見える万代家具に向かって左あたりの守と思われます)。室町時代の城館跡。春日部若狭守が居城したといいます。春日部氏は、旧朝明郡萱生(現在の四日市市萱生町)の豪族で、星川城主はその一族。織田信長の伊勢侵攻の時に滅んだといいます。

Img_8093c_20200329182201  スタートから700mほどで星川神社の参道入り口に来ます。員弁街道脇には一の鳥居と、「延喜式内星川神社/神厨星川神明Img_8106c_20200329182201 神社」の石柱(明治34(1901)年建立)。星川神社は、この地を開拓した星川武彦命の祖先を祀ります(勢桑見聞志抄)。御祭神は、天照皇大神。相殿神は、須佐之嗚命、大山祇神、宇迦之御魂神、火産霊神。社伝によれば、創立は応神天皇時代とされますが、詳細は不明。明治40(1907)年11月に八坂神社、御厨神明社、山神社を、また、同45(1912)年2月に大字仲新田の稲荷社を合祀しています。台地の上にあり、このあたりも星川城の範囲だったのかという気もしました。

Img_8115c_20200329183101  1㎞の手前に星川山安渡寺(ほしかわざんあんどじ)。特定の宗派には属さない単立の寺院。ご本尊は、平安時代の聖観世音Img_8120c_20200329183201 菩薩(桑名市指定文化財)。檜の一木造り。伊勢巡礼30番札所。奈良時代、行基によって創建され、星川城主・春日部若狭守によって大伽藍が建立されたといいますが、織田信長の兵火で焼失したといいます。鎌倉時代には、「星川の観音さん」として知られていたことが、四日市市南富田町の善教寺が所蔵する阿弥陀如来像の胎内文書に記されています。境内には、見事なしだれ桜とソメイヨシノがありましたし、ここからの眺めはかなりよいものがあります。

Img_8159c_20200329193301  森忠名神明神社(もりただなしんめいじんじゃ)です。スタートからは約1.2㎞。主祭神は、天照皇大神。相殿神は、大山津Img_8169c_20200329193301 見命。創始は不詳。古代、このあたりは伊勢神宮の領地で、「守忠」あるいは「盛忠」という人の名田でした。神宮の領地管理に貢献があったので、その名が地名となったといいます。守忠/盛忠の名田に建てられた神明社から、神社の名前が来ています。

Img_8176c  この神社の境内には、伊勢神宮遙拝所と、神武天皇遙拝所/明治天皇遙拝所の石碑がありました。さほどたくさん見て回ったわけではありませんが、桑名市内の神社では、こうした遙拝所は初めて見ました。皇紀二千五百八十三年(大正12(1923)年)に、山上甚兵衛という方が両者とも建立しています。

Img_8190c  その先でヤマモリの桑名工場脇を通り、天皇八幡神社へ。ヤマモリは、明治22(1889)年創業。三林専太郎が、味噌・しょうゆ醸造業を始めました。今日では、それ以外にもかまめしの素、レトルト食品なども製造しています。三重大学カレーや、桑名カレーのレトルトもつくっています。

Img_8194c  天皇八幡神社。芳ヶ崎(はがさき)の産土神。春日社と牛頭天王社を相殿とします。御祭神Img_8199c は、品陀和気命、素盞嗚命、火産靈命、大山津見命、天兒屋根命。由緒は不詳ですが、鳥居は文化2(1805)年に再建した記録があるといいます。

Img_8222c_20200329194501  天皇八幡神社の南に桑名市の天然記念物に指定されているクロガネモチの木があります。ヤマモリの工場の西。クロガネモチは関東以西から四国九州、沖縄に分布する常緑高木樹。この木は雄株。天皇八幡神社のご神木で、剪定などはしてはならないとされているそうです。このあたりでスタートから約2㎞。

Img_8226c  天皇八幡神社のすぐ西に道標。ここを下ると北勢線七和駅に行きます。「(西)楚原道/東 桑名道/北 多度道/南 七和Img_8230c 駅」とあります。三岐鉄道が、北勢鉄道として大山田(現在の西桑名)~ 楚原間(14.5km)の開業を果たしたのは、大正3(1914)年ですから、それ以降の道標と思われます。道標のある交差点から、南、七和駅に向かってはいると、薬師堂があります。奈良時代に創建され、ご本尊は室町時代の作で、ここは中世の芳ヶ崎城跡(羽笠城跡)といいます。

Img_8249c_20200329202701  員弁街道に戻って五反田地内を進みます。大仲新田に入る手前、寒谷川を渡ったところに大日堂と地蔵堂がImg_8251c_20200329202801 あります。2.9㎞地点です。大日堂は、五反田にあった伝西寺が真宗大谷派に改宗し、星川に移るとき、本尊であった大日如来を安置する御堂を設けたといいます。現在、伝西寺は、バロー星川店の東にあります。地蔵堂については、詳細は不明。

Img_8261c  スタートから3.1㎞で弁天川にかかる弁天橋に来ます。ここが、桑名市と東員町の境界。昭和5(1930)年に完成した橋。弁天橋の先、100mほどの民家の庭に「穴太徳(あのうとく)の碑」があります。「穴太徳事 神戸屋徳次郎Img_8268c_20200329205201 碑」と刻まれています。穴太徳は「荒神山の喧嘩」の一方の当事者で、2代目広沢虎造による「血煙荒神山」の浪曲で有名です。かなり以前から、このあたりにこの碑があることを知っていて、是非とも見たいと思っていました。「穴太徳」は、通称(穴太徳次郎(あのうのとくじろう))で、本名は中野徳次郎。昨日の記事にも書きましたが、穴太徳は、慶応2年4月8日(1866年5月22日)の「荒神山の喧嘩」で、神戸の長吉(かんべのながきち)と私闘を展開した、桑名を縄張りとした博徒です。この荒神山の喧嘩では、神戸の長吉側の助っ人として乗り込んだ吉良仁吉は鉄砲で撃たれた上、斬られて死亡しました。吉良仁吉は、清水次郎長一家の応援をえて、穴太徳勢になぐりこんで、義理に殉じたのですが、講談で紹介され、庶民の人気者となりました。また、村田英雄の歌う「人生劇場」にも出てきました(♪俺も生きたや仁吉の様に~♫)。ちなみに、吉良は現在の愛知県西尾市吉良町。故郷からほど近いところですし、忠臣蔵で有名な吉良上野介は、この吉良の領主でした。話が広がってしまいましたが、あれこれいろいろなところで思わぬつながりがあるものだ、ということです。この穴太徳の碑の近くに「神田屋敷」と「六把野井水(ろっぱのゆすい)」があるはずでした。神田屋敷はここかと思うところはあったものの、確信が持てず。六把野井水は、見つけられませんでした。みえの歴史街道マップを見直したら、かなり細い水路でした。もう少ししっかり予習が必要です。

Img_8295  ここからしばらくは見どころはありません。3.8㎞地点で県道14号線に出ます。東員一中の前を通過し、六把野新田ふれあいImg_8286 広場近くに延命地蔵堂と、道標があります(4.4㎞あたり)。みえの歴史街道マップには延命地蔵堂とありましたが、「病難除地蔵尊」と書かれていました。大正末期、有志の方々が建立し、祀ったもの。道標は、小さい上にかなりすり減ってしまっており、危うく見逃すところでした。「多度香取道」と刻まれています。右面は読めなかったのですが、こちらによれば「草薙稲次郎建」とあるようです。昔は、幅3~4尺(約90~120cm)の細い道だったのですが、多度祭では参詣客で賑わったそうです。

Img_8305  神田変電所前の信号のすぐ先で県道から分かれます。しまむらのすぐ先で藤川を渡ります。Img_8307 藤川橋という細い橋がありますが、かつては七ツ橋と呼ばれたそうです。この富士川の堤防、左岸にはソメイヨシノの桜並木。満開になったら見事だと思います。

Img_8326  東員交番の裏に道標があります。自然石でできています。「右あげきはった/左大いづみ石Img_8322 ぐれ」とあります。阿下喜、治田、大泉、石榑を指しています。道標は、文化14(1817)年に鳥取(このあたりの地名)の俳人岩田卜斎によって建てられ、裏面には卜斎の「雲いくへ ひばりなくなく そりみ坂」の句が記されています。「そりみ坂」は、「楚里見坂」「曲見坂」などと書いたといいます。また、このこの小高いあたりにはヒバリがたくさん生息していたそうで、「雲雀が岡」と呼んだといいます。私は、春、揚げ雲雀を見上げるのに、体を反らせて見たから「そりみ坂」かと想像しました。この道標のところで、道は二股に分かれていたようです(向かって左は途絶えたというのか、県道になったというか)。

Img_8343c_20200329211901

 道標の先、5.7㎞のところに鳥取塚と、珪化木の碑があります。鳥取塚は、饅頭型の円丘で、かつては古墳が4~5基ありました。今残っているのは1つで、東西21m×南北17m、高さ2.5m。桜などが植わっています。珪化木の碑には「鳥取塚」と刻まれています。明治44(1911)年の建立。この先にチリン坂や、「律師智傳之碑」という自然石の碑があったのですが、私が、この鳥取塚の西の道沿いにあると勘違いしていて、「碑がない」と思ってしまいました。次があれば、チリン坂や石碑からスタートしたいと思います。最後に勘違いがありましたが、予定ではここまで。ちょっと戻って、ゴールに設定した三岐鉄道北勢線・東員駅に向かいます。東員交番の交差点から南へ。

Img_8372c_20200329212501  その前に13時半を過ぎていましたので、昼食を摂ることに。あらかじめリサーチしておいたカフェレスト・Img_8370c_20200329212501 ラフィーネへ。東員駅から線路を挟んですぐ北。オムライスが美味しそうでしたので、ランチのセットに。スープ、サラダ、茶碗蒸し、ミニハンバーグがついて、¥980。前期高齢者には、ボリュームたっぷりすぎるくらい。オムライスの中のご飯には、細かな海老やタマネギやニンジンなどの野菜、それにたまごなんかも入っていました。右の写真、先に出て来たミニハンバーグをかじってしまっています(苦笑)。

Img_8383c  食事を終え、東員駅へ。14時32分発の西桑名行きに乗車。鉄道むすめ・楚原れんげの電車でした。西桑名までは¥340。M氏Img_8384c は星川駅で、K氏は蓮花寺駅でそれぞれ下車。西桑名には14時56分着。帰りも電車は空いていました。

Img_8395c_20200329212601  本日のALKOOのデータ。17,208歩でした。距離は、初めの方に書いたとおり、8.4㎞(キョリ測で測定)。本編は、また明日以降ボチボチと書きますが、K氏、M氏からは、次はいつ? どこを歩く? と催促(苦笑)。員弁街道を阿下喜あたりまで歩くことにするかも知れませんが、企画、下調べともストックがありません。

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2020年3月18日 (水)

20200315「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)(補遺編にて完)

 3月15日に行ってきた「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)の補遺編です。見てきたところはさほど多くありませんし、話に夢中になって見逃したところもいくつかありますので、補遺編として書くことにしました。概要は、昨日(3/15)の予告編をご覧ください(2020年3月15日:20200315「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)(予告編))。

200315masuohoshikawa1  まずは、歩いたルートと、立ち寄ったところの詳しいマップその1です。私とM氏は、桑名駅から近鉄名古屋線に乗って益生駅まで。ここでK氏と合流。員弁街道を歩く前に、お二人とも有王塚と俊寬塚の存在は知ってはいたものの、行ったことはないということでしたので、まずはそちらへ。これは益生駅の西にあります。

Img_6491c_20200316185201  有王塚の全景。右手前にある「有王塚」の石碑。碑陰には「「哀弧忠零落僅修荒墳 大正7年夏 昌忠」とありImg_6497c_20200316185201 ます。大正7年は1918年。これは、天春静堂(本名又三郎。明治6(1873)年、三重郡保々村(現四日市市中野町)生まれ。実業界で活躍したが、心臓病により引退。静養の傍ら俳句に精進したといいます)によるもの。さらに、この石碑の正面に句碑が建っています。句碑の正面には、「塚になけわが泣くあとを友千鳥 句仏」、裏に「有王者俊寛侍者也 少尋師絶島事生収骨行脚没 桑名里人塚之此是也 大正十四年十二月十二日」とあります。大正14年は1925年。句仏は、大谷句仏(浄土真宗の僧・俳人。東本願寺二十三世)。案内の石碑も、句碑も俳人天春静堂が、この塚の荒廃を惜しんで修築し、 静堂をめぐる桑名の俳人たちによって句碑を建て、また有王講という保存会を創ったことによります。なお、俊寬は、平家物語に登場するのですが、そこに有王という侍童は出て来ません。潤色されて有王が登場するのは後代の俗書だそうです。この地には、往昔、りん(舟偏に侖)崇寺(りんそうじ)があって、また付近に塚が多く、後年、りん崇寺によって有王伝説が流布されたようです。すなわち、俊寛の侍童有王丸が、流罪中の俊寛を鬼界ヵ島に訪ね、師の骨を抱いて高野に収めるために行脚中 、りん崇寺門前で生き倒れたというのです。この種の伝説はあちこちに残っていて、高野聖の宣伝によったものとされます。なお、りん崇寺は、現在は、南寺町(桑名別院本統寺の南)にあります(帰帆山円林院りん崇寺)。

Img_6502c_20200315161201  員弁街道の起点は、益生駅の東300mほどのところにある三ツ矢橋交差点です。東海道は、この三ツ矢橋交差点の南120mほどのところを通っています。東海道のその辺りは、矢田立場でした。街道は、別の街道から追分などでつながっているものだと思っていましたが、員弁街道は東海道から分岐するという風にはなっていないようです。ちなみに、員弁街道(濃州道)は、ここから、東員町鳥取、いなべ市員弁町笠田、いなべ市北勢町阿下喜、いなべ市藤原町川合などを通り、いなべ市藤原町山口で巡見道と合流し、濃州(今の岐阜県)へ向かいます。

Img_6511c_20200315161201  馬道駅の東にある阿耨山善龍寺。詳細は、3/15の予告編に書きました。この寺の山号の文字「」という文字が、3人とも読Img_6515c めず、唸っていました(苦笑)。調べたら、音読みは「ドウ・ジョク・ヌ・ドク・ノク」、訓読みは「くわ・くさぎる・すく」でした。意味は、「くわ。くわで草をかる。くさぎる。すく」といいます。「阿耨山」は「あどうざん」と読むのでしょうか。

Img_6548c_20200316193301  続いて、玉三稲荷神社。この近くの何ヶ所かに大きな看板が出ており、前から気になっていた神社でした。Img_6538c 員弁街道沿いには、左の写真のように一の鳥居と社号標が建っています。神社は、ここから奥に入っていきます。京都にある伏見稲荷大社の桑名支部、しかも現存する最古の支部といいます。拝殿は、3/15の記事にも載せましたが、右の写真のようになっています。御祭神は、玉三稲荷大神と清龍大神。「玉三稲荷大神」は、お稲荷様ですから、宇迦之御魂神と思います。また、清瀧大神は、龍神と考えます。

Img_6543c  こちらが、清瀧大神。伊勢神宮とも書かれています。伊勢で龍神伝説で有名なのは、松尾観音寺(龍神伝説については、こちらを参照)。清瀧大神の背後には、「玉龍之瀧」という石碑がはめ込まれた人工の瀧。かつては、水が流れていたと思われます。このほか、北側に祖霊社、別社として金山稲荷社(金運)と長福稲荷社(健康運)が祀られていましたが、これらにはお参りはしてきませんでした。Img_6545c_20200316195301

 玉三稲荷には、神宝として「白蛇の天然石」があるそうですが、下調べが十分でなく、あとから気づいた次第。2匹の白蛇がお互いの尻尾で結び合い、顔を向かい合わせて巻き付いており、良縁・縁結びのご利益があるそうです。ちなみに、白蛇は七福神の一柱である弁財天の化身で、古来より財宝神として崇められているといいます。また、ここにある松は「三鈷(さんこ)の松」と呼ばれており、葉が三葉で一組(通常は二葉一組)になっているという貴重な品種とか。これもあとから気づいたので、見ていません。

Img_6552c  明正中学校の北西あたりで、員弁街道は右折するところにある地蔵堂と、石碑「瑠璃山明光寺 三界萬霊」については、割愛します。3/15の予告編をご覧ください。予告編では触れませんでしたが、もう一つ石碑? 墓?がありました。読める範囲では、「竹本三津杢(以下は、地中に埋まっていて見えず)」「行年?」とあります。「行年(ぎょうねん)」とあるからには、墓かと思いますが、「くわな史跡めぐり」にも「みえの歴史街道 濃州道」にも言及はありません。言及がないということは、歴史的な人物ではない人の個人の墓なのかという気がしますが、なぜここにあるのかは謎。

Img_6562c_20200315161301  西別所駅の南にあった小祠堂。クローズアップ写真を右に載せておきます。予告編で書いたように、10cmほImg_6564c_20200316201201 どの高さの、小さなお地蔵様が祀られていました。お供え物がありますから、お参りする方もいらっしゃるのでしょう。

200315masuohoshikawa2_20200317070901  詳しいマップは、その2の範囲へ。西別所駅のすぐ南には、辻内鋳物鉄工Img_6566 本社工場があります。ここは、500年を越える鋳物業の歴史があります。江戸時代、鋳物師の辻内家は、揖斐川右岸に住み、このあたりを「鍋屋堤」といいました。現在も、桑名水郷花火大会(今年は、11月21日(土)に開催)の会場は、「鍋屋堤」と表現されています。辻内善右衛門尉藤原種次は、桑名藩主・松平定重の命により、桑名宗社の青銅の鳥居をつくっています(寛文7(1667)年完成)。この鳥居は、その後たびたび崩れたのですが、その都度、辻内家によって補修され、現在に至っています。このように歴史のある辻内鋳物鉄工ですが、本社工場は稼働していないようでした。

Img_6570c_20200317070101  辻内鋳物鉄工の前を過ぎると、員弁街道は三岐鉄道を渡って、右斜め(北西)に向かいます。そこに「日露戦争出征兵士の記念の碑」と書かれた「従軍紀念碑」がありました。まだ新しいもので、碑陰には西別所の勇士の方のお名前が刻まれていました。こんな新しい戦争の紀念碑は珍しいのですが、古いものを建て直したのかという気がします。建立年月日はありませんでした。そして、このあたりに安永6(1777)年の地蔵堂があるはずですが、この紀念碑に気をとられ、見忘れました(苦笑)。マルチタスクがアヤシくなっています。ということは、ワーキングメモリーが低下しているためか(爆)。そろそろ前期高齢者ですからねぇ。

200315masuohoshikawa3  このあとは、蓮花寺川に沿ってしばらく行きます。城下橋のところでも子安地蔵を見落としました(気づいて、振り返って、遠目の写真は撮りましたが)。在良駅と東名阪自動車道のところまでは、「くわな史跡めぐり」や「みえの歴史街道マップ」に載っているような見るところはありません。在良駅手前の東名阪自動車道の高架下にも地蔵堂があるのですが、これも気づかずに通過(苦笑)。ここは、このあと行く額田の子安地蔵を分祀したものです。あとで気づいたのですが、額田の、いわばご本尊を拝めばよいかと。

Img_6634c_20200315161301  スタートから4㎞の手前、員弁街道が左折するところに額田神社の社号標。額田神社は、ここから400mほど北に行ったところにあります。式内社。意富伊我都命(おおいがつのみこと:額田連(ぬかたのむらじ)の祖)、天照大御神天津彦根命を祀っています。意冨伊我都命と額田神社について、神社検索三重には、「天津彦根命ノ御孫ニシテ額田部連ノ御祖神デアリ第十九代(允恭天皇:西暦440年)ノ御世ニ御奉斎セラル。延喜式神名帳ニ桑名郡(郷)額田神社也トアル」とあります。「額田部」氏は、推古天皇の時代には外交で活躍した一族で、応神天皇の子であった額田大中彦の名代であるという説や天津彦根命の末裔だという説などいろいろあります。一度は行ってみないといけません。

Img_6653c_20200317073101  予告編には書きましたが、額田の子安地蔵様はきちんと拝んできました。4.7㎞ほどで坂井橋に至ります。その手前、北側の北勢線の線路際に顕彰碑がありました。これは、「くわな史跡めぐり」や「みえの歴史街道マップ」には載っておらず、ノーチェック。「故水越徳次郎翁顕彰碑」とあります。水越徳次郎という方については、ネット検索では情報が出て来ませんが、K氏によれば、この地域の有力者で、地元に貢献した人だそうです。顕彰碑も、「桑名市長 水谷昇 書」とあります。そのご子孫が、このすぐ近くの貞昭院というお寺を開いたそうです。顕彰碑は、県道の向こうにありましたので、写真を撮ったのみで碑陰などは見ていません。

Img_6664c  ゴールは、三岐鉄道北勢線・星川駅としました。駅の先の員弁街道沿いに、星川城跡星川神社など見るべきところがたくさんあります。星川城には、中世、春日部若狭守が居城したとされます。春日部氏は、旧朝明郡萱生(現在の四日市市萱生町)の豪族で、城主の若狭守はその一族。城は、織田信長の伊勢侵攻で滅ぼされています。星川神社は、式内社。この地を開拓した星川建彦(たけるひこ)命を祀るといわれます。星川から先も近いうちに歩きたいと思っていますが、相談会準備もあり、今の時点では未定。

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2020年3月15日 (日)

20200315「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)(予告編)

 近鉄ハイキングも、JRさわやかウォーキングも今月いっぱいは中止です。近鉄ハイキングは、4月の予定がネットに載っていましたが、どうなりますか? ということで、「勝手にハイキング」企画の第2弾。「桑名の員弁街道を歩く」に出かけてきました。員弁街道(濃州道)は、桑名市の三ツ矢橋町から、東員町鳥取、いなべ市員弁町笠田、いなべ市北勢町阿下喜、いなべ市藤原町川合などを通り、いなべ市藤原町山口で巡見道と合流して濃州(今の岐阜県)へ向かう街道です。

200315masuohoshikawa  こちらが、今日歩いたコースの全体像。近鉄名古屋線・益生駅に集合。有王塚・俊寬塚を見たあと、東に向かい、スタートの三ツ矢橋町交差点へ。ここから、益生駅までは来た道を戻り、県道63号線と三岐鉄道北勢線に沿って西へ歩いて行きます。県道と北勢線の間を通るところがほとんど。地蔵堂などが多いところ。寺社仏閣、名所旧跡は、星川から先の方がたくさんあります。天気もよく、風はややあったものの、まぁまぁのハイキング日和でした。

Img_6485c  近鉄名古屋線・益生駅。M氏と二人で、桑名駅を8時59分に出る塩浜行き普通に乗車。何と1分で益生駅着。これで¥160はちょっと高い(?)。ここでK氏と合流。お二人に確認したところ、有王塚/俊寬塚を訪れたことはないということでしたので、員弁街道を歩く前にそちらへ行くことにしました。益生駅の西にあります。9時少し過ぎにスタート。

Img_6487c_20200315161201  左の写真が俊寬塚、右が有王塚。俊寬は、平安末期の真言宗の僧。平氏討伐の謀議に参加したのですが、発Img_6493c_20200315161201 覚。平清盛に捕えられて薩摩国鬼界ヶ島に配流されました。共に流された藤原成経・平康頼は翌年許され帰京したが、俊寛は一人残され、治承3(1179)年頃同地で没したとされます。有王は、俊寬の侍童。俊寬を慕って鬼界ヶ島を訪ねましたがすでに俊寬は死亡。遺骨を持って全国を行脚中、桑名で倒れ、亡くなったと伝わります。

Img_6502c_20200315161201  有王塚/俊寬塚を見たあと、県道63号線を東へ。員弁街道のスタート地点である三ツ矢橋の交差点へ向かいます。三ツ矢橋Img_6505c 交差点は、旧・東海道の矢田立場から北へ100mほどのところにあります。旧地名は「本願寺村枝郷」。大きな水車があったといいます。知人に伺ったところ、このあたりの地名を「水車(みずぐるま)」と呼んだり、「水車」という名前がつく店があったりしたそうで、不思議に思っていたということです。ここから来た道を戻り、益生駅北の踏切(JR側は「員弁街道踏切」という名称)を越え、旧道に入っていきます。国道421号線の1本北の道です。

Img_6510c_20200315161201  こちらが、踏切を越えたあたりの員弁街道。馬道という地名で、明治時代に建てられた古い家が残っています。中には、江戸Img_6511c_20200315161201 時代のものもあるとみえの歴史街道マップには書かれていました。三岐鉄道北勢線・馬道駅の東に阿耨山善龍寺。真宗本願寺派のお寺。もとは、萱町にある真宗本願寺派・法盛寺(ほうじょうじ)の末寺。寛永2(1625)年、本尊と寺号を授与され、明治14(1881)年にここに移ってきました。話が逸れますが、法盛寺は、桑名坊舎柳堂と号し、元は三河国矢矧(やはぎ、現同崎市)にあり、室町時代後期に戦乱を避けて桑名三崎に移り、長島一向一揆では本願寺の基幹寺院として重要な位置を占めました。この戦乱ののち法盛寺と改称、慶長の町割で萱町へ移りました。東御坊の本統寺に対し、西御坊とも呼ばれ、明治初年まで尾張、美濃、伊勢に末寺200余ヵ寺を数え、境内地4,000坪余、寺内寺7ヵ寺があるという大きな寺でした。明治8(1875)年桑名別院となっています。

Img_6523c  馬道駅を過ぎると、右手(北)に走井山、勧学寺が見えます。走井山は戦国時代に矢田城があったところ。春には桜の名所とImg_6525c して親しまれています。北畠氏の家臣である矢田半右衛門俊元の居城でしたが、織田信長の伊勢侵攻の際に滝川一益によって攻められ落城すると、その後は一益に与えられ、長島一向一揆を攻略する最前線基地として使われました。公園内には庚申塔がたくさん集められているなど、見どころがあります。勧学寺は、織田信長に滅ぼされたあと、桑名藩主・松平定重により跡地に本堂が再建されました。市内に現存する寺社建築としては最も古いと推測されています。また、伝説では、このあたりに村正の屋敷があったといいます。私は、この馬道駅から走井山に上がっていく階段の下にある「三猿」が気に入っています。現役の頃、この三猿の写真を研究室のドアに貼って「魔除け」と称していました(微笑)。

Img_6535c_20200315161201  走井山からさらに進み、三ツ矢橋交差点から800mほどのところに玉三(たまみつ)稲荷神社があります。伏見稲荷大社の桑Img_6538c 名支部となっています。江戸時代末期に、松平定永が白河藩(現福島県)より桑名藩へ移封された際に、初代が家臣として随行し、現在の地に鎮座されたと伝えられています。みえの歴史街道マップには「安藤家の屋敷神であった」とあります。御祭神は、玉三稲荷大神と清龍大神。

Img_6550c  明正中学校の北西あたりで、員弁街道は右折(北へ)します。そこに地蔵堂と、石碑がありImg_6556c_20200315161301 ます。地蔵堂の詳細は不明。大きなお地蔵様がいらっしゃいました。地蔵堂に向かって右手に「瑠璃山明光寺 三界萬霊」と刻まれた石碑が建っています。光明寺は、西山浄土宗で、新町にあります。光明寺は、室町時代にはすでに本町付近に設立されていたといい、江⼾時代、慶⻑の町割の時、新町に移っています。なぜこの石碑がここに建っているのかは不明。

Img_6562c_20200315161301  西別所駅の南、スタートから1.6㎞地点に小さな祠堂が建っています。ウッカリすると見逃しそう。中を拝見Img_6580c_20200315161301 すると、高さ10cmほどの小さなお地蔵様がいらっしゃいました。このあと、話に夢中で、地蔵堂1箇所を見逃していました(苦笑)。オッサンも話しに夢中になるのです。2㎞地点の手前に照林寺。西別所の会所でしたが、明治44(1911)年に萱町の法盛寺の塔頭であった照林寺がここに移転してきています。真宗本願寺派のお寺。この北東300mほどのところに万機庵跡(江戸時代の城館跡)がありますが、ちょっと離れていますから、今回はパス。

Img_6584c  西別所駅から蓮花寺駅あたりの員弁街道。蓮花寺川沿いをしばらく歩いていきます。城下橋をわたって、蓮Img_6588c 花寺川の南に出るのですが、そこでも子安地蔵様を見忘れました(苦笑)。もとは北部の台地の上に祀られていたのが、廃寺に伴い、安全祈願のため街道沿いに遷されたといいます。在良小学校を過ぎると、蓮花寺駅。

Img_6604c_20200315161301  その先、ヤマザキマザック精工の工場あたりで、北勢線のレトロカラー電車(楚原行き)がやって来ましImg_6621c た。昭和34(1959)年8月に、当時の三重交通が三重線に導入した車両。当時の色に塗装されています。この先、3.7㎞地点、東名阪道の下に在良駅があり、ここで電車の行き違いがあるのです。代わって、西桑名行きの電車。鉄道むすめ「楚原れんげ」のキャラクターが描かれています。「楚原れんげ」の由来は、いなべ市「楚原駅」と桑名市「蓮花寺駅」、勤務地は東員町「東員駅」だそうです。これ、一度見たかった車両です。

Img_6629c_20200315173601  東名阪自動車道の高架下に在良駅。実は、この高架下にお地蔵様がいらしたのですが、これも見忘れ(苦笑)。今日はこんなImg_6634c_20200315161301 ことばかり。4㎞の手前、員弁街道が左折するところに、額田(ぬかた)神社の石碑。ここから北に参道があり、400mほど行くと山の中腹に額田神社があります。神社には行っていません。式内社。意富伊我都命(おおいがつのみこと:額田連(ぬかたのむらじ)の祖)、天照大御神、天津彦根命を祀っています。

Img_6640c  左折していったん県道63号線に出ます。県道を100mほど進んでまた、左斜めに進みます。ここにも地蔵堂。子安地蔵です。石仏の他、五輪塔片なども祀られています。これらは、旧・浄蓮寺(額田廃寺)跡の一部といいます。額田廃寺は、大化改新以前に建てられたお寺で、大変立派な寺であったようです。現在は宅地になってしまっていて、昔の様子はうかがえず、残念です。

Img_6647c  額田地内の員弁街道。この先で、町屋川の堤防に出ます。三ツ矢橋交差点からは4.5㎞ほどで右の写真のように町屋川の堤防Img_6651c_20200315161301 に出ます。ここまで来ると、ゴールの三岐鉄道北勢線・星川駅はすぐ近く。町屋川は、正式には員弁川ですが、桑名では町屋川と呼んでいます。

Img_6660c_20200315174801  一説によれば、この坂井橋を境に上流を員弁川、下流を町屋川というといいます。坂井橋のImg_6664c 「坂井」は「境」だというわけです。坂井橋を過ぎると(坂井橋は渡りません)、星川南交差点を通って、三岐鉄道北勢線・星川駅にゴール。11時25分。所要時間は2時間20分ほど。歩いたのは、6.6㎞。

Img_6669c  11時41分に西桑名行きの普通電車がありましたので、それに乗車。あのレトロカラー電車Img_6673c が来ました。これにも乗ってみたかったのです。ちなみにK氏は三岐鉄道北勢線初体験、M氏は40年ぶりだそうです。¥240。西桑名駅には、11時56分着。

Img_6674c  途中、蓮花寺駅で「鉄道むすめ・楚原れんげ」の駅名板を撮影。本当は、中止になってしまImg_6681c_20200315161301 った2月22日の近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 令和2年2月22日に歩いて銘酒「青雲」で祝酒」の集合・受付が、ここ蓮花寺駅でしたから、そのときに見ようと思っていたもの。ようやく念願を果たした次第。西桑名駅に楚原れんげちゃんの等身大パネルがあったのだそうですが、見落とし(苦笑)。まぁ、西桑名駅ならまた歩いても行けますから。

Img_6684c_20200315161301  昼は、桑栄メイト2階にあるエベレストでカレーランチ。チキンキーマカレー(辛さは普通)、ナン、チャイをチョイス。ヨImg_6686c ーグルトとサラダもついて、¥700。我が家近くでは、たぶんもっとも美味しいカレー屋さんです。桑栄メイトは、老朽化のため今年6月か、7月で閉鎖。取り壊して、ホテルが建つという噂。桑栄メイトには、ハンバーガーのドムドムや、餃子の新北京もあります。今のうちに楽しんでおかないといけません。

Img_6691c  今日の歩数は、ALKOOのデータで16,662歩。朝、桑名駅までが0.9㎞、西桑名駅で下車して昼食を食べて帰宅するのに、1.4㎞、ハイキングで歩いたのが6.6㎞で、合計8.9㎞。それなりによく歩きました。見てきたところが多くありませんので、今のところ、本編とするか、補遺編とするか未定。来週の相談会の準備との兼ね合いもあります。「桑名の員弁街道を歩く」の続き、北勢線の星川駅から東員駅までも近いうちに歩きたいと思っていますが、今のところまだ決めていません。この区間の方が、たくさんの寺社仏閣などがあります。

【付記(員弁街道起点の「水車」その他について(3/21)】

 員弁街道の起点である三ツ矢橋は、本願寺村に属し、その枝郷(支郷)「水車(みずくるま)」と称していました。慶長年間、綿実から油を絞るための水車を儲けたので、この地名となったといいます(三重県教育委員会編集、歴史の道調査報告書 美濃街道、濃州道、八風道、菰野道、巡見道、巡礼道、鈴鹿の峠道、1984年)。

 馬道は、「久波奈名所図会」には、「馬道 員弁郡への通路、御城下町の出はつれり、矢田村と本願寺村の地内なり、日々午馬の通り道なるゆへ、自然と地名に呼なせるなり……」とありました。

 現在、三重県教育委員会編集、歴史の道調査報告書 美濃街道、濃州道、八風道、菰野道、巡見道、巡礼道、鈴鹿の峠道、1984年を読んでいますので、さらに追記するかも知れません。

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2020年3月10日 (火)

20200306勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(下深谷~多度)(その2)……いくつかの地蔵堂、ナマズの徳蓮寺、倭姫命ゆかりの野志里神社を経て、船着社へ【岩井戸の特徴についての付記(3/21)】

200306tado2   3月6日の「勝手に養老鉄道ハイキング『桑名の美濃街道を歩く』」(下深谷~多度)のその2です。その1では下深谷駅をスタートし、上深谷部と多度町下野代との境あたりまで行き、地蔵堂にお参りしました。下野代の町に入って、養老鉄道線沿いをさらに進みます。

Img_5606c  下野代駅の近く、スタートから2.7㎞ほどのところにも地蔵堂があります。この地蔵堂は、明治4(1871)年に建てられたもの。お地蔵様は、僧形で左手には宝珠、右手には錫杖を持っておられます。蓮台の下の基台には「三界萬霊」と刻まれているそうですが、それは見えませんでした。三界萬霊とは、「三つの世界、すべての精霊に対して供養することの大切さを示す」ことです。三界は、無色界(むしきかい:心だけが生きている世界)、色界(しきかい:形質だけの世界)、欲界(よくかい:物質欲の世界)の3つ。

Img_5619c  このお地蔵様の西、養老鉄道線を越えたところに岩井戸、大淀の松株跡を示す石柱、石仏、弘法大師の石像があります。「みえImg_5621c_20200309052301 の歴史街道」のウォーキングマップには、この岩井戸は、「扇状地帯の地形、地質の特徴を示す」とありましたが、私の知識ではよく分かりません。石仏は、左の写真で向かって左にあります。板碑(いたび)型に薄肉彫りの石仏。その隣が、弘法大師の石像。

Img_5624c_20200306202201  岩井戸に向かって右(北側)に建っているのが、「大淀の松株跡」の石柱。岩井戸のそばに巨大な松があったという伝説が消えるのを惜しんだ村人によって明治31(1898)年に建てられたもの。「くわな史跡めぐり」には、新古今集に載る「大淀の松」の和歌はここにあった松を詠んだものという記述があります。「大よどの浦立つ波のかえらずば松のかわらず色もみましや」(女御徽子女王)。しかし、ネット検索ではそういう情報は出て来ず、「大淀」は三重県明和町の大淀と考えられているようです(こちらなど)。大淀海岸にこの歌碑もあるといいます(ここ)。

Img_5630c_20200309072501  このすぐ北に、無畏野山徳蓮寺真言宗東寺派のお寺。このあたりのお寺、神社は、美濃街道からは養老鉄Img_5642c 道の踏切を渡らないと行けないところがたくさんあります。さらに、丘陵の中腹やその上に建っていることもおおいのです。徳蓮寺も、右のような階段を登っていかねばなりません。以前、近鉄ハイキングで来ていますので、「この階段を登るのもなぁ」とは思ったものの、考え直して、上まで行ってきました。

Img_5647c  ここは、弘仁11(820)年、弘法大師によって建立されました。ご本尊は弘法大師がつくった虚空蔵菩薩像で、これは7年に一度開帳されます。ちょうど今年4月4、5日にご開帳があるという掲示が出ていました。ちなみに虚空蔵菩薩は、知恵を授けて下さいます。この寺には、200枚を超えるナマズなどの珍しい絵馬も奉納されています。これは、この寺が明応7(1499)年と、天正13(1586)年の2回の地震で破壊されたのですが、行方不明になったご本尊が、土中からナマズとウナギに守られた状態で見つかったことに由来します。ナマズつながりで、秋篠宮殿下も平成17(2005)年にここを訪ねていらっしゃいます。以前、近鉄ハイキングの記事を書いていますので、詳細はそちらをご覧ください(2018年5月21日:20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(その4)……徳蓮寺他のお寺を回って、雨尾山飛鳥寺を経て、下深谷駅へゴール(完))。

Img_5670c_20200309073401  前回来たとき、見落としていたのは、稲荷社と小さな石仏群。寺の南側にありました。石仏は30体以上最前列には、お坊様らしい小さな石像もあります。石仏の由来は、不明。

Img_5680c_20200309074201  徳蓮寺から降りて、美濃街道に戻ったところでスタートからは3㎞、時刻は10時少し前。まぁまぁのペースImg_5681c_20200309074301 で歩いてきています。左の写真は、下野代あたりの美濃街道。クルマもあまり通らず、安心して歩けます。下野代駅の前を過ぎて、野志里神社の手前、西側に頌徳碑があります。「前野先生頌徳碑」とありましたが、詳細は不明。

Img_5683c_20200309174101  頌徳碑に向かって左手に道標があります。「御衣野員辯(みぞのいなべ)道」とあります。ただし、この先は養老鉄道の線路に行き当たって、行き止まり。道標を建てた頃とは、道路事情が変わってしまったのかも知れませんし、こことは別のところにあったのかも知れません。「御衣野」は下野代の西の地名、員弁は、現在のいなべ市。碑陰には、「御大典記念 下野代青年団」とあります。

Img_5690c_20200309174901  この頌徳碑の西、養老鉄道の線路を越えたところにお寺がありますので、Img_5695c_20200309174901 野志里神社の手前の踏切から回って、そちらへ立ち寄ります。無量山延柳寺。真宗本願寺派のお寺です。天正2(1574)年、比叡山から阿弥陀仏を本尊として授与されましたが、後に真宗に改宗しています。昔は、野志里神社の東にあったのですが、江戸時代に現在地に移転しています。

Img_5696c  続いて野志里(のじり)神社。式内社。垂仁天皇の御代の創祀と伝えています。倭姫命が天照大神を奉じて、ここ桑名郡野代Img_5702c_20200309175501 宮にお着きになり、4年間この地で宮居を造られたと伝わるところです。倭姫命は、その後伊勢に遷幸され、その野代宮の跡に本社が創祀されたといいます。一昨年4月の近鉄ハイキングで訪れています(2018年5月20日:20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(その3)……舟着社と野志里神社)。詳細は、リンク先をご覧ください。主祭神は、天照大神。相殿神は、建御雷神天児屋根命経津主神ほか。

Img_5704c_20200309180401 Img_5720c_20200306203701  境内には、「千人塚」や、「伊勢神宮御旧蹟野代之宮」という石碑などがあります。千人塚は、長島一向一揆の時、法泉寺の空明が、農民たちと力を合わせて織田信長の軍と肱江川を挟んで戦っています。生き残った空明が戦死者の首を集めて篤く葬ったのが、この千人塚だそうです。その後、関ヶ原の戦に負けた西軍の兵士の霊も慰めたそうです。一説によると、関ヶ原の戦いの時に、薩摩藩兵が多数、ここ美濃街道を通ったため、境内が東西に二分されたそうです。

200306tado3  野志里神社を過ぎると、実測ルートマップはその3になります。スタートから4.3㎞あたりで肱江川に行き当たり、肱江橋を渡ります。多度町肱江を通り、戸津へと進んでいきます。

Img_5730c_20200310080701

 肱江橋。多度山が正面に、しかもかなり近く見えます。この日はよく晴れて暖かく、歩いてImg_5732c_20200310080701 いても気持ちの良い日でした。肱江橋の親柱の飾りには、ナマズのレリーフ。徳蓮寺のエピソードに因むのでしょう。

Img_5747c_20200310080701  肱江橋を渡りきり、地図を見ると、ほぼまっすぐに行くルートになっていImg_5751c ます。が、その先にあるのは、こんな階段。ちょっと迷って、地図を見直したのですが、これを行くはず。階段を降りて、肱江の町を行きます。その先で、美濃街道は、水田になってしまっていて、途切れています。右回りをして迂回。

Img_5756c  迂回して、本来の美濃街道に戻る手前に菜の花。道沿いというか、水路沿いに植えられています。なかなかよい景色。5㎞地点のところでみかんの直売所があります。今シーズンの販売は終え、男性が店の片づけをしておられましたが、「菜の花を撮りに来たのか?」と声をかけられました。先頃、新聞に載ったとかで写真を撮りに来る人が多いとい話です。私が見てきたところと、国道258号線の東に菜の花畑があるそうです。「美濃街道を歩いている」と答え、歩き続けます。予告編にひらいさんからいただいたコメントでは、このあたりの水田には野鳥がけっこう来るとか。

Img_5774c_20200306205101  5.3㎞地点のすぐ西に船着社がありますので、寄り道。ここも、一昨年4月の近鉄ハイキングで寄り道しています(2018年5Img_5784c 月20日:20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(その3)……舟着社と野志里神社)。多度神社別宮の一目連大神が、度会郡山田郷よりの帰りに舟で当社附近に着かれたので舟着社と云うと伝えられています(こちら)。また、この近辺は尾津浜、尾津崎等の小字のとおり、木曽三川の川岸であったため附近の人々が氏神として舟着社の社名で海神を奉斎したとも伝えられているそうです。今は、揖斐川まで2.5㎞ほどあります。

Img_5791c  御祭神は、大山津見神(オオヤマツミノカミ;山の神)、表筒男神、中筒男神、底筒男神ほか。多度大社の御旅所となっておImg_5799c り、5月5日の多度大社神輿渡御の折りには三基の神輿が奉安されるそうです。詳細は、上記のリンク先をご覧ください。船着社で10時40分。この先で、県道26号線の天王平跨線橋の下を潜ると、戸津の町に入っていきます。県道にかかる、多度大社の鳥居を見上げながら進みますが、その2はここまで。

【大淀の松株跡近くの岩井戸についての付記(3/21)】 この岩井戸について「「みえの歴史街道」のウォーキングマップに、この岩井戸は、「扇状地帯の地形、地質の特徴を示す」とあると引用して書きました。この意味は、このあたりから扇状地帯の近い・地質の特徴が現れ始め、岐阜県に入ると壮大な扇状地形が見られることになるという意味でした(三重県教育委員会編集 歴史の道調査報告書 美濃街道、濃州道、八風道、菰野道、巡見道、巡礼道、鈴鹿の峠道、1984年)。

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2020年3月 8日 (日)

20200306勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(下深谷~多度)(その1)……下深谷駅をスタートし、深谷の町を進む

Img_5060c  3月6日に出かけた「勝手に養老鉄道ハイキング『桑名の美濃街道を歩く』」(下深谷~多度)の本編です。新型コロナウイルス200306tado の影響で近鉄ハイキングも、JRさわやかウォーキングも中止となっていますので、その代わりに「勝手にハイキング(もしくは「一人ハイキング」)」を計画したのです。前から近くの旧街道を歩きたいと思っていましたし、混雑する電車に乗らなくて済むことを考え、美濃街道を行くことにしました。一般に美濃街道といえば、尾張の東海道宮宿と美濃の中山道乗井宿をつなぐ脇街道のことですが、江戸時代には、桑名から長良川に沿って美濃へと通じる街道を美濃街道と呼んでいました。「みえの歴史街道」にある美濃街道のウォーキングマップを参考に桑名から、岐阜県境の多度までを2回に分けて歩くことにし、第1回は3月1日に美濃街道のスタートである桑名市川口町から下深谷まで歩きました(2020年3月1日:20200301勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(川口町~下深谷)(予告編))。この日は、その続きとして、下深谷から多度へ。冒頭の写真は、我が家の玄関前から撮ったもので、同じようなものをよく載せます。奥に小さく見えているのが、多度山。この日のハイキングでは、この多度山の麓を目指して行ったのです。右は、予告編に載せました。歩いたルートの全体図。

Img_5485c_20200306183801  スタート地点は、前回のゴールであった養老鉄道下深谷駅。そこまでは、播磨駅から養老鉄道で。8時47分発の大垣行きに乗りImg_5498c_20200306183801 ます。やって来た電車は、通称「ラビットカラー」リバイバル塗色の車両。ラビットカーは、昭和32(1957)年から、近鉄南大阪線などで運転されていた通勤車両につけられた愛称だそうです。この車両には、初めて乗ります。

Img_5494c_20200308164001 Img_5502c_20200308164001  養老鉄道ではICカード初変えません。播磨駅は、無人駅ですので、ホームにある機械から乗車票を取ります。車内で係の方が回ってこられ、料金を支払い、今では珍しいカーボン複写の「車内補充券」を受け取りました。もちろん係の方の手書きです。いかにも田舎の電車に乗っているという感じ。

Img_5505c  下深谷駅は播磨駅から1駅。8時51分着、¥210。降りたのは、私一人。そもそも1車両に数人しか乗客はありませんでした。余談ですが、サイクルトレインですので、桑名駅以外のすべての駅で、無料で(乗車券を持っていれば)自転車を持ち込めます。どこかで降りて、サイクリングも可能ということ。

Img_5512c  ハイキングは、8時55分にスタート。駅から踏み切りの手前の細い道を通って、130mほど行くと、前回通ったところ(左の200306tado1 写真)に出ます。前回は、手前奥から来ました。美濃街道は右折するのですが、直進して養老鉄道の踏切を渡って、深江神社、西林寺方面に行ったのです。右は、下深谷駅からの詳しい実測ルートマップ(その1)。養老鉄道に沿って北に向かいます。

Img_5516c  下深谷部の町を行く美濃街道。道幅も、昔の街道とほぼ同じではないかという印象があります(東海道なImg_5520c_20200308165701 ど、江戸幕府が定めた五街道では、標準的な道幅はおおよそ3間から4間(5.4~7.2m)とされていました)。スタートして200mあまり、JAの近くに「和弘(わこう)地蔵堂」。比較的新しい、ごく普通のお地蔵様が祀られていました。みえの歴史街道には、昭和52(1977)年のもので、幼児の交通事故供養のためだそうです。

Img_5525c_20200308170001  深谷小学校を通過。美濃街道を挟んで西側に校舎、東側に屋内運動場がありますので、街道の上を通路が通Img_5527c っています。新型コロナウィルスの関係で休校中。桑名では、学校で子どもたちを預かることはしていませんので、静か。ここで、オスのモズに遭遇。他には、水田でツグミを見たり、ヒヨドリにはあちこちで出会いましたが、この日の野鳥はそれくらい。

Img_5534c_20200306185701 Img_5537c  深谷小学校の北、スタートから830mのところに、高野山真言宗のお寺、法光寺。山号や、由緒、詳細は不明。境内には、稲荷社があります。しかも稲荷社の社は、本堂に接続するように建っています。法光寺の背後の丘には、室町時代に三砂城という城館がありました(玉井四郎左衛門)。

Img_5542c_20200308171201  事前の下調べでは、法光寺の先、養老鉄道の線路を潜った西に薬師如来堂があるということでした。法光寺の北で養老鉄道のImg_5543c 西に行けるのは、左の写真のところしかありません。しかし、これを行った先は、深い竹林。右の写真で右手に登っていけそうな坂道があったのですが、竹や草が生い茂っていて、あまり気持ちの良い感じではありませんでしたので、撤退(苦笑)。後で三砂城跡についてよく調べたら、このあたりにあったようで、薬師如来堂も私が撤退した坂道を登ったところにありました。ちょっと残念なことをしたかも。

Img_5547c_20200306190101  美濃街道に戻って進みます。1.1㎞を超えたところで、小さな川を渡ります。これが三砂川。日本武尊が東国Img_5550c_20200308172901 征伐に行く途中、御衣野(みぞの;桑名市多度町にある地名。草薙神社という日本武尊を祀る神社があります)で休憩したとき、その庭にこの里の五色の砂を奉ったといいます。この三砂川を越えた西側に地蔵堂。もう少し北にあったものが、明治初期にここに移ったといいます。お地蔵様は3体、薬師如来も祀られているようです。

Img_5558c  森大明神社(もりだいみょうじんじゃ)。スタートから1.5㎞、9時15分を過ぎた頃。養老鉄道の踏切を越えたすぐのところImg_5565c_20200306190101 に2基一対の常夜燈があります。勧請年月は不詳。主祭神は、天日方奇日方命(あめのひがたくしびがたのみこと:事代主神(ことしろぬしのかみ)の子)。相殿神は、宇迦之御魂命品田和気命大山津見神、天照大神。ここは、かつて堺城があった丘陵の中腹で、北伊勢小島大森大明神といったといいます。ここも、室町時代に城館がありました(片岡掃部頭または深谷監物)。

Img_5579c Img_5587c  森大明神社のすぐ北にあるのが、真宗大谷派の明光寺。北畠氏が奥州の国司の時、北畠顕家が討たれ、その孫顕道が奥州海老原に妙光寺を建立。北畠氏が伊勢に移ったとき、寺もここに移転し、寺号も改称しています。しかし、それ以上の詳細は分かりませんでした。山号も不明。

Img_5581c_20200308180601  このお寺の山門脇に気になる石碑があります。「天牌奉安地」と刻まれています。碑陰には、明治45(1912)年11月に建立されたと記されていました。興味は持ったものの、いったい何か? 「天牌(てんぱい)」は仏語で、「天子の宝祚ならびに聖寿無窮を奉祷するため、仏本尊前に安置する位牌」だそうです。「天子」は、一国の帝王、日本では天皇。「宝祚(ほうそ)」は天皇の位。「聖寿(せいじゅ)」は天子の寿命で、「無窮(むきゅう)」は果てしないこと。明治45年は7月に明治天皇が崩御されました。大正天皇が即位なさったのですが、わざわざ「明治45年11月」とあるのは、明治天皇に捧げたものなのでしょうか? 建立者や、位牌を安置したのが誰かなどは書かれていませんでした。境内には、他に、「南無阿弥陀佛」の六字を刻んだ石碑も建っていました。

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 明光寺を出てさらに進みます。実測ルートマップはその2へ。街道の東西には遺跡もありますが、整備はされていないようですから、立ち寄らずに行きます。

Img_5595c  上深谷部と多度町下野代の境あたりに地蔵堂があります。地蔵堂なのですImg_5599c_20200308184301 が、祀られているのは、阿弥陀立像。江戸時代のもの(御堂は、昭和61(1986)年に建てられました)。阿弥陀立像は、上品下生(じょうぼんげしょう)の印を結び、舟形光背をもった石仏です。仏教における九等級の品位を表すことばに「九品(くほん)」があります。上品下生は、その一つ。上中下の三品(さんぼん)を、さらにそれぞれ上中下に分けたものです。浄土教では、生前の行いによって、極楽浄土に生まれ変わるとき、9つのパターンがあるとされていて、それがこの九品で表されるそうです。9つのパターンによって極楽浄土から迎えに来る仏様のメンバーや乗り物などが異なるとか(こちら)。表の右端の列がその乗り物です。上品、中品は「生前なんらかの善業をした人」で、上品下生は、上から3番目のランク。極楽浄土にいて衆生を救済するとされるのが阿弥陀様のはず。へそ曲がりの私は、なのになぜこういうランクが生じるのか、今のところ、納得できかねています。我が家の宗派である浄土真宗の教えでは、「本願を信じ念仏申さば仏になる」となっていたと思います。もっともしっかり仏教を勉強したわけではありませんので、間違った理解をしている可能性が大。細部にこだわりすぎました。今日のところは、ここまで。

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2020年3月 6日 (金)

20200306勝手に養老鉄道ハイキング「桑名の美濃街道を歩く」(下深谷~多度)(予告編)

Img_5923c  3月1日に引き続き、「勝手に養老鉄道ハイキング」に行ってきました。前回は、東海道・七里の渡し跡から200mほどの、桑名市川口町と江戸町の境にある美濃街道の起点をスタートし、下深谷駅まで歩きました。今日は、その続きとして、下深谷駅から美濃街道に出て、多度駅まで。冒頭の写真はよく載せていますが、奥に見えるのが多度山。この手前まで歩いたという次第。今日のところは、予告編。主な立ち寄り先を紹介します。

Img_5485c_20200306183801  養老鉄道には播磨駅から乗車。桑名駅からは大垣方向に1駅目。8時47分発の大垣行きに乗車。やって来た電車は、通称「ラビImg_5498c_20200306183801 ットカラー」リバイバル塗色の車両。この車両には、初めて乗ります。無人駅ですので、ホームにある機械から乗車票を取ります。車内で係の方が回ってこられ、料金を支払い、今では珍しいカーボン複写の「車内補充券」を受け取りました。

Img_5505c  下深谷駅は、播磨駅から1駅。8時51分に到着。ハイキングは、8時55分にスタート。駅から踏み切りの手前のImg_5512c 細い道を通って、前回通ったところまで(右の写真)。前回は、手前奥から来ました。美濃街道は右折するのですが、直進して養老鉄道の踏切を渡って、深江神社、西林寺方面に行ったのです。

Img_5516c  美濃街道を北に進みます。写真の中央に、遠く、小さく今日のゴール近くにある多度山が見え200306tado ています。これを目標に、ほぼ養老鉄道に沿って歩いて行きます。右が今日、歩いたルート。船着社から南で今日立ち寄ったところのほとんどは、一昨年4月の近鉄ハイキングでも訪ねています(2018年4月28日:20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(予告編))。今日のコースも、「みえの歴史街道」にある美濃街道のウォーキングマップを参照しました。

Img_5534c_20200306185701  深谷小学校を過ぎて、スタートから900mほどのところにあるのが、高野山真言宗のお寺、法光寺。山号や、由緒、詳細は不明。境内には、稲荷社があります。しかも稲荷社の社は、本堂に接続するように建っています。法光寺の背後の丘には、かつて三砂城という城館がありました。この先で、養老鉄道の線路を潜った西に薬師如来堂があるはずでしたが、竹林の奥深くで結局パス。

Img_5547c_20200306190101  1.1㎞を過ぎたところで細い川を渡ります。これが三砂川。日本武尊が東国征伐に行く途中、御衣野で休憩したとき、その庭Img_5565c_20200306190101 にこの里の五色の砂を奉ったといいます。さらに進み、1.5㎞で、森大明神社。勧請年月は不詳。主祭神は、天日方奇日方命(あめのひがたくしびがたのみこと:事代主神(ことしろぬしのかみ)の子)。相殿神は、宇迦之御魂命品田和気命大山津見神天照大神

Img_5579c Img_5606c  森大明神社のすぐ先にあるのが、真宗大谷派の明光寺。北畠氏が奥州の国司の時、奥州海老原に妙光寺を建立。北畠氏が伊勢に移ったとき、寺もここに移転し、寺号も改称しています。下野代に入ってスタートから2.8㎞のところに地蔵堂があります。明治4(1871)年に建立。お地蔵様は僧形で、左手に宝珠、右手には錫杖を持っています。

Img_5619c  この地蔵堂の西、養老鉄道の線路のすぐ西に岩井戸、大淀の松跡、石仏があります。「大淀の松跡」の石柱は、明治Img_5624c_20200306202201 31(1898)年のもの。ここにその昔、大淀の松という巨大な松があったといいます。この石柱に向かって左にあるのが、石仏と弘法大師の石像。手前にある岩井戸は、扇状地帯の地形、地質を示すのだそうですが、私にはよく分かりませんでした。

Img_5647c  地蔵堂のすぐ北には、無畏野山徳蓮寺。真言宗東寺派のお寺。ここは、弘仁11(820)年、弘法大師によって建立されました。ご本尊は弘法大師がつくった虚空蔵菩薩像で、これは7年に一度開帳されます。ちょうど今年4月4、5日にご開帳があるという掲示が出ていました。この寺には、200枚を超えるナマズなどの珍しい絵馬も奉納されています。これは、この寺が明応7(1499)年と、天正13(1586)年の2回の地震で破壊されたのですが、行方不明になったご本尊が、土中からナマズとウナギに守られた状態で見つかったことに由来します。

Img_5690c_20200306203501  下野代駅を過ぎて、野志里神社の手前、養老鉄道の西側に無量山延柳寺。天正2(1574)年、比叡山から阿弥陀仏を本尊として授与されましたが、後に真宗本願寺派に改宗。野志里神社の東にあったのですが、江戸時代後期にここに移転しています。

Img_5696c  美濃街道に戻って野志里神社(のじりじんじゃ)。垂仁天皇の御代の創始と伝わっています。倭姫命が天照Img_5720c_20200306203701 大神を奉じて美濃の伊久良河宮から尾張中島宮にお移りになり、 さらに桑名郡野代宮にお着きになり、4年間この地で宮居を造られたというのがここです。主祭神は、天照大神。相殿神は、建御雷神天児屋根命経津主神(フツヌシノカミ)など17柱。野志里神社でスタートから3.8㎞、時刻は10時5分。

Img_5730c  4.3㎞で肱江川に行き当たります。ここまで来ると、多度山がかなり近くなります。肱江橋で肱江川を渡りまImg_5747c_20200306204501 す。肱江橋を渡って、ほぼ直進するのですが、それらしい道はなく、細い階段があるだけ。地図を見直しても、この階段を降りるのが美濃街道と考えられますので、そのまま階段を降りて直進。この先で、昔の美濃街道は部分的に途絶えています(マップには群青色で示してあります)。

Img_5756c  迂回ルートから本来の美濃街道に戻ったあたりに菜の花。この先にあったみかん直売所のご主人から声をかけられ、「菜の花を撮りに来たのか?」と。左の写真のところと、国道258号線の東に菜の花畑があるようで、これが新聞に載ったため撮影に来る方が多いのだそうです。

Img_5774c_20200306205101  さらに進んで、県道26号線の手前で船着社。多度神社別宮の一目連大神が最初にここに船で着いたという伝承があります。上げ馬神事の時の御旅所になっています。主祭神は、表筒男神中筒男神、大山津見神、火之迦具土神

Img_5799c  船着社から県道26号線の下を潜って、多度町戸津の町に入っていきます。多度大社の大きImg_5807c_20200306205601 な鳥居が、県道にかかっています。この鳥居は、我が家の玄関先からも見えます。

Img_5813c_20200306210101  戸津の町の中を進む美濃街道。昭和の初めまでは人家もなく、一人歩きは恐ろしいほどであったといいます。戸津の町には、戸津村の庄屋を世襲した西田家があり、長屋門と塀があると「みえの歴史街道」のマップにはあったのですが、見つけられませんでした。コースミスをしたかと思って、あたりを回ったのですが見つかりません。

Img_5887c_20200306210501  やむを得ず、さらに進んで美濃街道が多度川に突き当たるところまで行きました。川を渡ると、多度中学校があります。左手Img_5885c_20200306210501 の方には、多度山。川口町と江戸町の境にある美濃街道の起点からは、寄り道をしなければ10.5㎞ほどのはず。ここで引き返して、尾津神社に向かいます。ただし、尾津神社という名前の神社は、多度町には小山、戸津、御衣野の3箇所にあります。このうち、戸津は古代には川湊であり、日本武尊が刀を忘れたという「尾津前」も戸津のあたりといいます。まずは、戸津にある尾津神社を目指します。

Img_5819c_20200306210901  戸津の尾津神社。戸津の氏神様。延喜式の式内社。主祭神は、倭建命。相殿神は、足鏡別命(アシカガミワケ:倭建命のImg_5836c 子)、稚武彦命(わかたけひこのみこと:第7代孝霊天皇皇子で、吉備臣(吉備氏)の遠祖。「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」と称される)、品陀和気命など8柱。

Img_5852c  戸津の尾津神社から南西に300mほど行くと、小山の尾津神社があります。主祭神は、倭建Img_5866c 命と、足鏡別命。相殿神は、大山津見神の他、不詳の神様。これで、今日訪ねようと思ったところは、ほぼコンプリート。多度駅に向かいます。美濃街道を若干もどって、西田家があるはずのところから西へ。

Img_5906c_20200306212101  多度駅には11時半に到着。スタートからは2時間35分をかけて7.9㎞を歩いてきました。桑名行きの普通電車は、12時2分までありません。大阪からいらしたという男性に出会いました。「どこも新型コロナウィルスとかで行くところがないから、人が少なそうなところに来て、多度山を登ってきた」とおっしゃいます。午後からはなばなの里へいらっしゃるとか。

Img_5915c_20200306212101  やって来た電車は、通称「赤歌舞伎」。東急電鉄で活躍した7700系。昭和37(1962)年から製造開始された、日本初のオImg_5916c ールステンレス車両です。赤歌舞伎には、初めて乗れました。桑名駅には、12時18分着、¥310。これで、桑名市内の美濃街道はほぼコンプリート。多度川から先、岐阜県境まで1㎞あまり残すのみ。一度、多度山に登りたいと思っていますので、それが実現できたら、そのときに残りを歩こうと思っています。歩数は、16,000歩あまり。帰りに桑名駅から自宅までが0.9㎞ですから、今日歩いたのは、8.8㎞ほど。

 本編はまた追々書いて、載せていきます。ただ、今月下旬以降2回の相談会を予定しており、その資料も届き始めていますから、そちらの読み込みや、アセスメントを優先しなくてはなりません。また、来年度の江戸橋での仕事の準備もありますし、市民大学郷土史学科の「城と城下町」のまとめも終わっていません。忙しい(苦笑)。勝手に忙しくしているだけですが、次の「勝手にハイキング」は濃州道(員弁街道)を歩こうと計画中。こちら、三岐鉄道北勢線に沿っています。

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