地蔵

2020年11月 8日 (日)

20201108JRさわやかウォーキング「蟹江町を散策。寺社・史跡巡り」へ(完)

1108kanie

 新型コロナウィルス感染症のため、2月からJRさわやかウォーキングも、近鉄ハイキングも中止になっていましたが、11月に入ってどちらも再開。ただし、近鉄ハイキングはイベントタイプのものはまだ行われず、常設コースに近い形。JRさわやかウォーキングは、感染症対策を施して、3密にならないよう配慮された、イベントタイプで行われるようになりました。ほぼ9ヶ月ぶりに参加(微笑)(近鉄ハイキングは、2月9日以来:20200209近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 早川酒造部『天一』」へ(完);JRさわやかウォーキングは、2月2日以来:20200202JRさわやかウォーキング「~新春キャンペーン~令和2年2月2日に、津の真ん中ウォーク 藤堂高虎ゆかりの地と日本三観音『津観音寺』を訪ねて」へ(予告編))。

Img_9465c_20201108162201  今日のJRさわやかウォーキングは、JR関西線蟹江駅がスタート&ゴール。受付は、8時半~12時。桑名駅を9時2分に出る名古屋行き普通に乗車。蟹江駅には9時21分着のところ、3~4分遅れ。¥240。蟹江のウォーキングは、去年11月3日にも開催され、参加しています(2019年11月3日:20191102JRさわやかウォーキング「老舗酒造『甘強酒造』の蔵開きと蟹江うまいもの巡り」(予告編))。

Img_9473c_20201108162201  駅前でコースマップ(冒頭の画像)と、「第3回蟹蟹フェア」のチラシを受け取ります。そして、久しぶりに「JRさわやかウォKanikani3 ーキング スタート」の看板を見られました。蟹江町のキャラクター「かに丸くん」がポーズを取ってくれます。受付開始から1時間経っていますが、参加者はコロナ以前よりも少ない印象があります。

20201108jrwalkingkanie  こちらは、今日歩いたルートの全体マップ。コースマップ上、7.8㎞となっていましたが、実際に歩いたのは、8.5㎞(実は途中で少しだけショートカットしているのですが)。蟹江でのJRさわやかウォーキングに参加するのは、上述の去年11月の他、2018年3月4日にも来ています(今日は、JRさわやかウォーキング「老舗造り酒屋できき酒と蟹江のまちを散策」へ(予告編))。それ故、3回目でかなり馴染みがあります。ほとんど訪ねたことがあるところですので、今回は1回完結の記事。

20201108jrwalkingkanie1  こちらは、コース前半部分の詳しいルートマップ。JR蟹江駅から南へ。蟹江城跡、蟹江神明社から、お楽しみの甘強酒造、銭洗尾張弁財天富吉神社にお参り。蟹江川を越えて、まちなか交流センター「楽人」、尾張温泉かにえ病院のところにある「足湯かにえの郷」と周り、JR関西線を越えます。

Img_9486c_20201108162201  蟹江駅前通に神社があったのですが、社号標も説明板もありません。ネットの地図にも載っておらず、不Img_9489c 明。三重県の神社については、「神社検索(三重)」というサイトがあって便利なのですが、これの愛知県バージョンはなさそう。右の写真は、駅前公民館の東あたりの様子。

Img_9499c_20201108162201  最初の立ち寄り先は、蟹江城跡。蟹江城は永享年間(1429年頃)、北条時Img_9505c_20201108162201 任(ときとう)が城塞を築いたのが初めといわれます。戦国時代には、本丸、二の丸、三の丸の三郭(さんかく)がありましたが、天正12(1584)年に起きた蟹江合戦と翌年の大地震(天正大地震)で壊滅しています。城跡の西、30mのところにで蟹江城本丸井戸跡。細い路地の、民家の軒先にあります。江戸時代の蟹江本町村絵図にも、ここに「古井」と記されています。この井戸跡が、蟹江城がここにあった証拠と考えられています。

Img_9507c_20201108162201  蟹江城本丸井戸跡のすぐ西には、秋葉社があり、氏子の方々が清掃奉仕をしていらっしゃいました。この秋葉社も、ネットの地図にも載っていませんし、ネット検索しても情報は出て来ません。しかし、地域の方が大事に守っていらっしゃる神社と思いました。以前のハイキングでも感じたことですが、蟹江のあたりには、秋葉社がたくさんあります。江戸時代に、火災予防のために祀ったのかも知れません。

Img_9532c_20201108162301  蟹江川沿いを歩いて、蟹江神明社へ。永享年間(1429~1441年)、北条時任が蟹江城築城の際、城の本丸Img_9518c_20201108162301 南の守護神として清洲から御薗神明社を迎えて祀ったのが始まり。天正12(1584)年、蟹江合戦で兵火に遭い、すべてが焼失し、元和5(1619)年に社殿を再興しました。御祭神は、天照大神。

Img_9535c_20201108162301  蟹江神明社の東隣には、「東照山」と山号のあるお堂と、地蔵堂がありますが、これもよく分かりません。「分からないのに何故書くのか?」と思われるでしょうが、その昔、研究者の端くれでした。研究をする上では、何が分かって、何が分からないかを区別しておくことが大切ですし、必要なのです。ひょっとしてご存じの方もいらっしゃるかも知れませんし、教えていただける可能性もゼロではないからなのです。

Img_9543c_20201108162301  続いて、私にとって、今日の最大の目的地・甘強(かんきょう)酒造。左の写真にある旧本社事務所の建物は、昭和12(1937)年建築で、登録有形文化財。味醂、清酒などをつくっておられます。去年11月にも来ています。

Img_9556c_20201108162301 Img_9558c_20201108162301  試飲を楽しみに来たのですが、去年同様、ミニカップでした(微苦笑)。名古屋正宗(本醸造)、いっこく(純米吟醸)(甘強酒造の日本酒のリストはここ)、里香梅 紅麹梅酒、味醂などから選べました。いっこくをいただいてきました。お願いすれば、他も試飲できそうでしたが、時節柄、自粛(苦笑)。

Img_9566c_20201108162301  直売も行われていましたが、今年はセット販売のみ。いっこく、名古屋正宗、あまさけの3本セット(いずれも350ml)を¥1,000でお買い上げ。¥3,000以上買うと、記念品(アルコール カンキョウ77:消毒用エタノールの代用品として、手指消毒に使用可能なもの。飲めませんし、火気厳禁だそうです。左の写真で右端に写っているのがそれ)がいただけ、抽選もできたのですが、さすがに荷物になりますからパス。

Img_9580c_20201108162301  甘強酒造さんの構内にも「蟹蟹フェア」の会場が設けられていました。かにかまの天ぷら、かにかま寿司もあったのですが、Img_9577c_20201108162301 気になったのは魚屋バーガーの蟹コロバーガー(蟹みそ入り)、¥600。「限定50食」とあって、並んでいる人もあり気になります(微苦笑)。元来、行列は大嫌いなのですが、さほど並んではいなかったので、少しだけ我慢。今日の昼ご飯にしようという算段(微笑)。これで、土産も買い、昼ご飯も用意しましたので、安心して歩けます。

Img_9598c_20201108162301  次に立ち寄るのは、銭洗尾張弁財天富吉神社。ここも、たぶん3回目の訪問。尾張で唯一の銭洗弁財天です。Img_9596c_20201108162301 室町時代、永享年間、北条平八郎時満が蟹江城を築くにあたり神のご加護を頂くため、鎌倉より銭洗弁天を勧請し、黄金の井戸銭洗いを造り、その浄水で軍資金を洗い、この福銭をもって蟹江城を築城したと伝えられています。さすがにお札を洗うのは、憚られましたし、大金はありませんので、持っているだけの小銭を洗ってきました。

Img_9621c_20201108162401  蟹江川を渡り、蟹江町役場、蟹江町体育館の前を通って、スタートから2.7㎞ほどで、まちなか交流センター「楽人」。カワラケツメイ茶のサービスがあるということでしたが、よく分からず、通過。カワラケツメイ茶は、健康茶として飲まれているようです。あとで訪ねた蟹江山龍照院でも、提供されていました。

Img_9630c_20201108162401  尾張温泉かにえ病院に行くまでの道路の歩道に写真のようなものがあるのを見つけました。「大相撲ストリート」といって、ここ尾張温泉通りに、二子山部屋・高砂部屋の力士16名の足型が路上に設置されていましImg_9634c_20201108162401 た。貴乃花、若乃花、朝青龍などの足型もありました。

Img_9637c Img_9646c_20201108162401  尾張温泉かにえ病院のところには、「足湯かにえの郷」。源泉掛け流しの足湯で、無料で利用できます。ウォーキング参加者でも足を浸している方もありましたが、今日は、21℃を超え、この時期にしては少し暑いくらい。なので、パス。

Img_9649c Img_9656c_20201108162401  蟹江のハイキング・ウォーキングは3回目と思いますが、西の方に来たのは初めて。帰ってから地図を見て、ホントに尾張温泉近くまで行ったんだと実感。しかし、温泉には立ち寄りません。北上してJR関西線を越えます。右の写真は、JR関西線を越えたあたりの公園のそば。マップで「今西3」とあるあたり。この先に八幡神社や、地図にはありませんが、松秀寺があり、立ち寄ってみたいとは思いつつ、先を急ぎました。

20201108jrwalkingkanie2  詳しいルートマップは、その2へ。スタートから6㎞ほど、須西小学校のところで、再び蟹江川沿いを歩きます。この先に観光交流センター「祭人」。そのすぐ北東に富吉建速神社・八剣社と、蟹江山龍照院。ここが最後の立ち寄りスポット。龍照院を出てからは、1.3㎞ほど歩いてゴールのはつらつ公園へ。コロナの関係で、ゴール受付はあるものの、参加証へのスタンプ押印はなし。はつらつ公園から蟹江駅までは約300m。

Img_9678c_20201108162401  途中、割愛して、観光交流センター「祭人」。ここは大賑わい。ユネスコ無形文化遺産「須成祭」の展示もありますが、それImg_9681c_20201108162401 は以前見たのでパス。去年も買ったのですが、蟹江の味彩もへのさんが出展していたので、「蟹タクちらし」(¥300)をゲット。去年11月のJRさわやかウォーキングのとき、「小腹が空いていませんか?」と売り込まれ、思わず買っしまったのが、とても美味しかったのです。ただし、これ、今日は土産にするつもり。

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 「祭人」では蟹タクちらしを買っただけで、富吉建速神社・八剣社、蟹江山龍照院へ。本来設定されたコースでは、御葭橋まで戻って、蟹江川を東に渡って行くようになっていたのですが、ショートカット(苦笑)。割とマジメだと自認しているのですが、そこまで堅くはありません(微笑)。

Img_9694c  まずは、富吉建速(とみよしたけはや)神社・八剣(はっけん)社にお参り。両社とも、天平5(733)年に創建、木曽義仲が再建、織田信長が社殿を造営したといわれます。須成祭は、この両社の祭礼とImg_9699c_20201108162401 して行われる川祭です。津島神社の天王祭りと似たお祭です。

Img_9705c_20201108162401 Img_9708c_20201108162401  両社の北に蟹江山常楽寺龍照院真言宗智山派のお寺。天平5年に行基菩薩によって、本尊に十一面観世音菩薩を奉安し創建されたといわれています。御本尊十一面観世音菩薩像は、寿永元(1182年)年、仏師僧教円によって造立されたといい、国の重要文化財となっています。今日は、特別にご開帳があり、拝観してきました。

Img_9735c_20201108185501  境内には、大日如来堂があり、木曾義仲の菩提を弔うために巴御前が安置したといわれる大日如来坐像があります。巴御前は、木曾義仲とともに幼少のころから生涯をともにし、木曾義仲が平家追討の兵を上げたとき、義仲に従って上洛した女性です。義仲の妾(しょう)とされ、元暦元(1184)年1月、近江粟津の戦では敵の首をねじ捨てるなどの活躍をしたのですが、死を覚悟した義仲の命令で戦場を離脱しています。巴御前は、故郷の信濃に向かう途中義仲が建てた寺があることを知り、出家、剃髪し義仲を弔ったという話があり、それがここ常楽寺龍照院だといいます。

Img_9722c  龍照院にお参りしたら、お下がりだということで、飴とポケットティッシュをいただいてしまいました。実Img_9719c は、銭洗尾張弁財天富吉神社で洗った小銭しかなかったので、お賽銭を上げず、拝んだだけなので、気が引けました(苦笑)。

Img_9725c  旧・須成村は、新撰組隊士・佐野七五三之助(さのしめのすけ)の出身地だそうで、境内にはその展示パネルがあり、「かにえボランティア夢案内人」の方が出て、説明をしておられました。佐野七五三之助は、天保5(1834)年、尾張国海部郡須成村の神職、寺西伊予守家班(いよのかみいえのり)の嫡子として誕生。嘉永3(1850)年、父が死去したImg_9728c 後、尊王攘夷を志し、名前を佐野七五三之助と改め、江戸へ向かい、北辰一刀流を学び、元治元(18649年、30歳のとき、新選組の隊士となり京へ行きました。慶応3(1867)年、新選組総員の幕臣取立に抗議し、新選組からの離脱を企てたものの挫折。京都守護職邸で仲間3人とともに自刃。ほぼ即死状態だったといわれる状況で、遺体を運ぼうとした新選組隊士に自分ののどに刺さっていた小刀で斬りかかったといいます。驚いたほかの隊士によりわき腹にとどめを刺されたのですが、屯所に運ばれる途中にも、息絶えたはずの佐野が、縛られていた縄を噛んだといい、隊士たちを仰天させたという壮絶な最後が伝わっています。京都・光縁寺に埋葬されています。享年34。明治2(1869)年、故郷須成村に伝えられ、神葬祭が営まれ、須成天王橋西に墓があります。佐野七五三之助の甥(妹の子)が、第24代内閣・総理大臣加藤高明

Img_9770c_20201108162501  これですべて回りましたので、ゴールのはつらつ公園に向かいます。龍照院からは1.3㎞ほど。11時42分に到着。ゴールにImg_9778c_20201108162501 は、いつものJRさわやかウォーキングのゴールパネル。これを観たのも9ヶ月ぶり。

Img_9784c  はつらつ公園では、甘強酒造さんでゲットしてきた蟹コロバーガーを食べることに。昼食という次第。美味しかったのですが、味が淡泊で、ちょっともの足らない気もしました。蟹みそも入っているということでしたが、よく分からず。バンズは、「全粒粉入りオーガニック」ですから、健康志向のバーガー。味が薄いのもやむを得ないか?

Img_9801c_20201108162501  ゴールのはつらつ公園から蟹江駅までは約5分。11時55分に到着。蟹江駅までが、8.5㎞。割とよく歩いていました。12時ちょうどに四日市行き普通電車があり、それに乗って桑名まで。12時16分着。

Img_9823c_20201108162501  今日のALKOOのデータ。17,066歩。JRさわやかウォーキングで歩いたImg_9824c_20201108162501 のが、8.5㎞。桑名駅往復が2.2㎞。合計10.7㎞を歩きました。JRさわやかウォーキングは、コロナで中断していましたので、スタンプの有効期間は、1年延長されます。スタンプ、今日で6個目。延長のお陰で有効期間はまだ1年以上ありますから、10個はクリアできそう。

Img_9817c_20201108162501  蟹タクちらしは、晩ご飯の時に家族でシェア。甘強酒造で買ってきた土産から、「名古屋正宗」を晩酌に(微笑)。酒蔵に行ったのも、2月9日に早川酒造部に行って以来(20200209近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 早川酒造部『天一』」へ(完))。次は、11月21日(土)に開催予定の「戦国武将ゆかりの地を眺めながら、岐阜公園を訪ねて」に行きたいのですが、この日は相談会を調整中。

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2020年11月 6日 (金)

20201031「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(いなべ市藤原町山口~阿下喜)」(その1)……いなべ市藤原町長尾の常夜燈、本郷社、円琳寺、東泉寺、長尾廃寺から猪名部神社へ

 10月31日に出かけた「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(山口~阿下喜)」の本編その1です。「みえの歴史街道」にある「濃州道(員弁街道)」を歩くシリーズの最終回。濃州道は、桑名では員弁街道と呼ばれます。三岐鉄道北勢線とほぼ平行に通っています。この街道は員弁郡下から桑名城下へと続く道として発展したもの。3月15日に、桑名市三ツ矢橋から歩き始め(2020年3月15日:20200315「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)(予告編))、この日は星川駅まで。続いて、3月29日には星川駅から東員駅まで(20200329「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」(予告編))、夏を越え、10月3日には楚原駅から阿下喜駅(20201003「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」(予告編))と歩いてきました。当初は、桑名市内の街道を歩くつもりで計画したのですが、せっかくだから終点まで歩こうということになったのです。

201031inabe0  この日は、今までのやり方ですと、前回のゴールであった三岐鉄道北勢線阿下喜(あげき)駅から、いなべ市藤原町山口の員弁街道の終点(ここで、亀山からの巡見道と合流します。巡見道は、幕府の巡見使が通った道)までを歩くのですが、そうするとゴールしてからが困ります。阿下喜駅に戻るには、来た道をトボトボ歩いて、倍の距離になります。藤原には三岐鉄道三岐線が通っていますが、その終点の西藤原駅までは、ゴール地点から3.2㎞はあります。そこで、考えた末に、タクシーで終点まで行って、阿下喜駅に戻るルートを採用。同級生K氏、畏友M氏と3人旅。

Img_7226c  天気は良好。三岐鉄道北勢線西桑名駅を8時23分に発車する阿下喜行き普通に乗車。阿下喜までは、20.4㎞。途中には11の駅Img_7230c_20201105045301 があります。単線ですから、何回か列車のすれ違いがありますし、最高速度は45㎞/hですから、阿下喜到着は、9時22分。ほぼ1時間、ガタンゴトンとゆられ、小旅行という感じ。運賃は¥510。途中からK氏も乗込み、沿線風景を眺めながら行きます。M氏とは阿下喜駅で合流。

Img_7235c_20201031192801  阿下喜駅のホームから見える藤原岳(標高1,144m)。我が家からも見えますが、ここまで来ると目の前。駅前にはタクシーImg_7248c_20201031192801乗り場はあるものの、待機しているクルマはなし。やむなく麻生田(おうだ)にある近鉄タクシー配車センターに電話で依頼したものの、「出払っていて、いつ戻るか分からない。『かなりお待ちいただきます』としか申し上げられません」と、好天なのに、いきなり暗雲が垂れ込めたような感じ(苦笑)。

Img_7237c  やむなく、阿下喜駅前で待つことに。駅の南にある軽便鉄道博物館の車両やレールを見たり、私は、上空にImg_7260c 飛んできたトビや、ロータリーの木にやって来たジョウビタキを撮影したりしていますが、タクシーはいっこうにやって来ません。駅前にいなべ市の福祉バス(無料)のバス停があり、目的地の山口を通る「立田線」があるのを発見。「これでいいじゃないか!」となったものの、発車時刻になってもやって来ず。よくよく見たら、「土日祝日は運休」(爆)。よくあるパターン。桑名のコミュニティバスも、日曜は運休。待つことほぼ1時間でやって来たタクシーに乗って、いなべ市藤原町山口まで移動。¥2,990。

Img_7281c  本来であれば、員弁街道の終点はさらに西へ200mほど行ったところですが、目印になるものがありません。そこで、この常夜燈のところで下車。ここから歩くことにしました。集落の入り口にある常夜燈で、「内宮外宮/村内安全」と彫られています。

201031inabe1  こちらが実際に歩いたルートマップの詳細図その1。北側に流れているのは、員弁川。田舎の街道ですから、「員弁街道」などという表示はありませんし、道標も建ってはいません。自作コースマップとGoogleマップ(これには「濃州道」という表示が出るのです)が頼り。しかしながら、円琳寺・地蔵堂の手前で南側の道を歩くところで、直進するというミス(苦笑)。まぁこれくらいはやむを得ないかも知れません。

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 さて、常夜燈の背後(西側)には、忠魂碑が建っていました。「故陸軍軍曹勲七等藤田学之碑」とあります。昭和19(1944)年に建てられていますので、第二次世界大戦に従軍された方のものと思われます。常夜燈の北東にImg_7293c_20201105060701 も、同じように、忠魂碑が3基ありました。「故陸軍歩兵上等兵藤田政治郎碑」「故陸軍歩兵田中鐵治郎碑」などとありました。このあたりの村から出征された方のものでしょう。

Img_7308c  スタートから800mほどのところに本郷社という神社がありましたが、コースマップを描いたキョリ測にはImg_7329c_20201105124501 載っていません。しかし、見つけてしまったからには、立ち寄ります。勧請年月は不詳。樹齢からして数百年以上の歴史を持つと推測されます。従来、天白天神だけが鎮座していたのですが、天保6(1835)年、八幡大神を久保の旧社地から遷し、天保91838)年、天照大神を神明社の旧社地(現在の地蔵堂:あとで訪ねるところ)から遷し、三神宮または三神社と呼ばれたといいます。

Img_7334c Img_7331c_20201105062001  主祭神は、火産霊命(ほむすびのみこと:火の神)。相殿神は、品田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)、天照大御神天白大明神(天白信仰(てんぱくしんこう)は、本州のほぼ東半分にみられる民間信仰。長野県・静岡県を中心とし、三重県の南勢・志摩地方を南限、岩手県を北限としている。様々な研究・解釈が行なわれたが、1980年ころから伊勢土着の麻積氏の祖神天白羽神(あめのしらはのかみ、長白羽神の別名)に起源を求める説が紹介されることが多くなった)、大山祇神(オオヤマツミノカミ:山を司る神)、麓山祇命(はやまつみのみこと:山の麓を司る神)、道反大神(おおみちがえしのかみ:伊弉諾尊が伊弉尊に追われた時、さえぎるために用いた石のことで、道反大神とも呼んだ)、手置帆負神(たおきほおいのかみ:紀伊の忌部(いんべ)の祖。国ゆずり・国土平定の話に登場し、笠づくりの役目をになった)、彦狭知神(ひこさしりのみこと:天照大御神が天岩戸に隠れた時、手置帆負命とともに天御量を作り、材木を切って瑞殿を作ったことによ、木工の祖神とされている)の8柱。ずいぶんいろいろな神様がいらっしゃいます。初めて名前を知った神様も多い。ウ~ン、神社の世界、神様も奥が深い。

Img_7324c_20201105062001  本郷社は、なかなかよい雰囲気の神社。杜も、左の写真のように巨樹からなっています。拝殿、本殿も上の2枚の写真のようImg_7338c_20201105062101 に、木々に囲まれ、厳かな雰囲気が醸し出されています。聖なる空間という感じ。燈籠も苔生していたりして、これもこの雰囲気に貢献している気がします。ということで、なかなかよいスタートを切ることができました(微笑)。

Img_7309c  本郷社のすぐ近くのお宅で、「鍾馗様」を発見。たいていは、屋根の上に鎮座しているのですが、ここは「塀の上の鍾馗様」になっています。K氏も、M氏も初めて見たそうですが、私はずいぶん前から見つけるたびに写真を撮っています。京都で多いそうですが(こちら)、桑名でも時々見かけます。

Img_7301c_20201105124101  本郷社の先、スタートから1㎞を過ぎたあたりで、東南の道に入るべきところを直進してしImg_7356c まいましたが、すぐに員弁街道に戻りますので、まぁご愛敬。田園風景もよい感じ。蕎麦の畑もあちこちにありますが、花の季節は終わり、実がついていました。

Img_7350c_20201105124701  「すばらしきふるさと 白瀨マップ」という大きな看板を過ぎると、員弁街道沿いに地蔵堂と円琳寺。地蔵Img_7358c 堂の詳細は、不明ですが、本郷社の説明板によればここに神明社があったと思われます。地蔵堂の前に立つ石柱には、「地蔵堂再建記念」と刻まれていました。

Img_7362c_20201105125501  地蔵堂の奥、西側にあるのが、青龍山円琳寺(せいりゅうざんえんりんじ)。真宗大谷派のお寺。門は、石の柱が立っており、さらに、鳥居かと見まごうようなものがついていて、お寺の門とは思えないイメージ。もとは天台宗でしたが、天和2(1682)年、本山4世常如(じょうにょ)上人の頃に真宗大谷派の寺となり、桑名の本統寺与力の寺となったそうです。

Img_7365c_20201031192801  桑名藩主・久松松平家の知遇を得て、その家紋「梅鉢」を賜り、使用を許されています。円琳寺は代々学者として有名な人物が多く、特に赤心校を開き郷弟の教育に尽くし「猪名部神譜」の大作を世に送った梅田春濤先生、その子香樟先生も漢学者として有名で、町内には碑文が多く残されているといいます。寺の西に春濤先生の碑(大賀賢励撰・市川進書)と赤心校の跡があるそうですが、事前によく調べなかったため、見てきませんでした。

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 円琳寺・地蔵堂のところで員弁街道は左折して、北に向かいます。1.8㎞ほどのところで員弁川を渡ります。本郷橋です。員弁川は、鈴鹿Img_7382c_20201105130301 山脈御池岳北麓に発し、桑名と川越町との境で伊勢湾に注ぎます。桑名あたりでは、町屋川と呼ばれ、河口部では川幅はかなり広いのですが、この辺りは、当然ながら、イメージが違います。

Img_7385c_20201105130301  橋の上から振り返ると、藤原岳が見えますが、北東の方向から見る眺めですので、いつも我が家から見ている藤原岳とはまったく違います。我が家から見えるところは、太平洋セメント藤原鉱山となっていて、石灰石が山容が変わるほど採掘されているのです。

201031inabe2  員弁川を越えて少し進むと、実測ルートマップはその2の範囲になります。員弁街道はいったん員弁川から離れて、小高いところを進みます。東泉寺、猪名部神社とお参りしたあと、またもやコースミス(苦笑)。しゃべっていて、地図を確認し忘れます。懲りないというか、反省しないというか。本来の員弁街道はオレンジ色のルートを行くのですが、大回りしてしまいました。

Img_7389c_20201105132501  2㎞を過ぎたところに長尾山東泉寺(ながおさんとうせんじ)。臨済宗妙心寺派のお寺。この一帯は、伽藍遺跡「長尾廃寺」Img_7405c_20201105132501 だといいます。長尾廃寺は、「長尾山福林寺」と号し、俗に「地蔵寺」として親しまれました。現在の、この東泉寺境内、及び付近一帯が廃寺跡とされます。平安時代の延暦年間(782年-806年)の創建と伝わり、猪名部神社の宮寺、白瀨城主・近藤弾正左衛門吉綱(北勢四十八家の一つ)の菩提所であったともいわれます。

Img_7392c_20201105132501  東泉寺についての詳細は不明。ネットでも、「ふるさと いなべ市の紹介(いなべ市観光協Img_7395c_20201105132501 会・ふるさといなべ市の語り部の会発行)」にも情報はありません。なかなかよい感じのお寺です。

Img_7398c_20201105132501  境内には稲荷社がありました。福寿稲荷大神。由緒などを書いたものはありません。社殿の背後には、階段があり、居合わせた方に伺うと、誰かの墓があり、その向こうに池か何かあると聞いたということでした。先ほどの長尾廃寺の説明板によれば、山頂付近には「長尾経塚」とも「員弁三郎行綱の墓」とも呼ばれる墓石があるといいます。員弁三郎行綱は、鎌倉時代員弁大領であった員弁家綱の子で、現在の東員町大木の御殿に居城し、源頼朝の騎射・巻狩の上意に従って、青少年の士気を鼓舞するため建久3(1192)年、追野原に於いて流鏑馬の神事を奉納したといいます。これが、東員町の猪名部神社で現在も行われている上げ馬神事のもと。

Img_7411c_20201031192801  東泉寺の少し東に猪名部神社。上述のように、東員町北大社にも同名の神社があります。「延喜式神名帳」にある「猪名部神社(伊勢国・員弁郡)」に比定される式内社ですが、どちらが延喜式神名帳の猪名部神社かは決着がついていないようです。近代社格では村社。創祀・創建年代は不詳。東員町北大社の猪名部神社と同様に、春澄善縄(はるずみの よしただ:平安時代前期の公卿(くぎょう)、学者。文章(もんじょう)博士。藤原良房と「続日本後紀」を完成。伊勢出身。本姓は猪名部)・春澄洽子(高子:はるずみの こうし)(平安時代前期~中期の女官。陽成天皇の即位にともない皇太夫人となった藤原高子との同名をさけ、洽子(こうし)(「あまねいこ」ともよむ)と改名。従三位、典侍。古今和歌集に和歌1首がおさめられている)の父娘の伝承が残っています。

Img_7417c_20201031192801  主祭神は、伊香我色男命(イカガシコオノミコト:古代日本の豪族・物部氏の祖にして、猪名部氏の祖神。天孫瓊々杵尊(ニニギノミコト:天照大神の孫)の兄、饒速日命(ニギハヤヒノミコト:物部氏の祖神)の六世の孫)。相殿神は、大山祇神(おおやまつみのかみ:山の神)、火産霊神(ほむすびのかみ=軻遇突智神(かぐつちのかみ):火の神)、春澄善縄宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと:五穀、食物をつかさどる神)。員弁川の北岸、集落の中に鎮座するのですが、集落の西北隅の松林の中に春澄氏第宅跡と称する平坦な一角があり、土地の人はそこを「春澄屋敷」と称しているそうです。こちらにこのあたりの詳しい話があります。

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2020年10月31日 (土)

20201031「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(山口~阿下喜)」(超予告編)

Img_7235c_20201031192801  10月も末日になりました。今月3日に続き(2020年10月 3日:20201003「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」(予告編))、「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(山口~阿下喜)」に行ってきました。これで、員弁街道はほぼコンプリート。「ほぼ」というのは、微妙なところですが、これまでところどころで員弁街道を外れましたし、今日はコースミスもしでかしましたので、正確には「ほぼ」コンプリートということです。遠隔授業第4回の課題チェック、コメント書きや、明日はオンライン研修会もありますので、取り敢えず「超予告編」。実際に歩いたルートマップをまだつくっていません。当初調べたコースマップでは、8.5㎞となっていました。

Img_7248c_20201031192801  今までの続きからとなりますと、三岐鉄道北勢線阿下喜駅から、員弁街道(濃州道)の終点にして、巡見道との合流点であるいなべ市藤原町山口まで歩くのですが、藤原町山口から阿下喜駅に戻ると、倍の距離を歩かねばなりません。三岐鉄道三岐線の西藤原駅まで行くと、さらに3.2㎞を歩かねばなりません。それ故、阿下喜駅からタクシーで終点まで行き、そこから戻るというコース設定。しかし、阿下喜駅で近鉄配車センターに電話すると、「いつ戻ってくるか分かりません。かなりかかります」と。いなべ市の福祉バスがあるのですが、土日祝日は運休でした。結局、50分ほど待ってやって来たタクシーに乗車する羽目に。西桑名を8時23分に乗車し、阿下喜には9時22分着。¥510。タクシーに乗れたのは10時15分過ぎ。いなべ市藤原町山口まで約15分、¥2,990。

201031inabec  こちらが用意していったコースマップ。実際は、もっと拡大して5枚に分割しています。藤原町山口にある常夜燈のところを10時35分にスタート、途中、昼食休憩を取りましたが、阿下喜駅にゴールしたのは、15時少し前。4時間半ほどかかりました。東海道や、参宮街道など、メインの街道では道標や道案内がありますが、田舎の街道ではそういうものはほとんどありません。あちこちでルートを確かめたのですが(Googleマップには「濃州道」という表示が出て来て、ずいぶん助けられました)、何度かコースミスをしました。

Img_7281c  巡見道との合流点から歩くつもりでしたが、タクシーの運転手さんに分かりやすい目標ということで,こちらの常夜燈のところでクルマを降りました。集落の入り口に当たるところにあり、「内宮外宮/村内安全」と刻まれています。背後にあるのは,個人の忠魂碑。この常夜燈の東にも、忠魂碑が3基ありました。ここから東に向かって歩き始めたのが、10時35分頃。

Img_7331c_20201031192801  藤原町本郷にある本郷社。キョリ測のマップには載っておらず、リサーチしていませんでした。主祭神は、火産霊命。相殿神は、品田別命ほか7柱。勧請年月は不詳。なかなかよい雰囲気の神社でした。

Img_7356c  歩いたルート沿いのあちこちには、蕎麦畑。花はほとんど終わり、実が生長している途中です。ごく一部には、赤蕎麦が栽培されているところもありました。

Img_7358c  円琳寺の手前に地蔵堂。その奥に青龍山円琳寺(せいりゅうざんえんりんImg_7365c_20201031192801 じ)。今は、真宗大谷派ですが、もとは天台宗でした。天和2(1682)年、本山4世常如上人の頃に、真宗大谷派に改宗、桑名の本統寺与力の寺となっています。桑名藩主・久松松平家の知遇を得て、松平候の家紋「梅鉢」を賜り、その使用を許されました。

Img_7411c_20201031192801 Img_7417c_20201031192801  続いて、猪名部神社。「猪名部神社」というと、上げ馬の神事も行われる東員町の猪名部神社を思い浮かべる方もいらっしゃるとは思いますが、こちらも同名の神社。猪名部氏の祖神伊香我色男命を主神として祀り、古くから長尾、日内、川合の三村の氏神と尊崇してきた神社。猪名部氏の祖神伊香我色男命を主神として祀り、古くから長尾、日内、川合の三村の氏神と尊崇してきた古社です。延喜式内社。

Img_7440c_20201031192801  猪名部神社からしばらく行くと、村境に鳥居が立っています。鳥居の傍らにある道標によれば、これは猪名部神社の一の鳥居のようでした。

Img_7462c_20201031192801  さらに進みますと、徳円寺。真宗大谷派。

Img_7486c_20201031192801  その先、員弁川を渡ったところに川合神社。主祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと:大国主命の子、諏訪神社の祭神)。御鎮座年月は不詳。

Img_7533c_20201031192801  野尻橋の手前で春日神社。主祭神は、少名毘古那命(すくなびこなのみこと:農業・酒造・医薬・温泉の神)。勧請年月は不詳。獅子舞があります。桑名の春日神社の分霊を奉祀したという伝承もあるといいます。このあと、鎌田川を渡ります。

Img_7577c  阿下喜の町に戻ってきて、大西神社。主祭神は、建御名方神(たけみながたのかみ)。境内は広く、拝殿のほかに神輿殿があImg_7561c_20201031200401 り、神輿が保管されています。

Img_7568c_20201031200401  大西神社の拝殿前の狛犬。時節柄、マスク着用。前足で子供をあやしている「子取り」になっています。これには、子孫繁栄の意味があるのですが、その子の方もマスクをつけています。狛犬ですから、もう一方の方とは当然、ソーシャルディスタンスを十分にとっています。

Img_7597c_20201031200401  阿下喜駅には、初めに書きましたように、15時少し前に到着。15時1分に西桑名行きの電車があり、ジャストタイム。桑名には15時56分着。¥510。

Img_7613c_20201031200401  今日の歩数。ALKOOでは、22,940歩。17.5㎞となっていますが、これほどは歩いていないと思います。冒頭に書きましたように、やるべき仕事が滞っていますので、たぶん来週になってから本編を書く時間がとれると思います。ということで、超予告編でした。

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2020年10月14日 (水)

20201014勝手に養老鉄道ハイキング「多度山に登ろう」

Img_3204c_20201014183701  「思い立ったが吉日」と申します。以前から漠然と考えていたものの、なかなか実行に移せずにいたのですが、つい2~3日Img_3868c 前、「多度山なら、どのコースで登っても、1時間もあれば、頂上に行けますよ」といわれ、その気になってしまいました(爆)。後で良く考えたら、これをおっしゃった方は、キャンプの達人でした(苦笑)。多度山は、我が家の玄関先からもよく見えています。

Img_3207c  朝、養老鉄道播磨駅まで送ってもらい、8時47分の大垣行きに乗車。やって来た電車は、「近鉄ラビットカImg_3216c_20201014183901 ー」の600系。近鉄の時代に導入された車両で、名古屋線や大阪線を走っていたそうです(こちら)。昭和40年代製とか。

Img_3223c_20201014183901  多度駅には、8時58分に到着。¥310。今日は、近鉄ハイキングの「多度山水郷展望コースImg_3226c_20201014183901 のマップを利用して、多度山に登っていくつもりで、拡大コピーした自作マップを持参。9時にスタート。

201014tadoyama  こちらが、今日、多度で歩いたルートマップ。市の観光案内では、「眺望満喫コース」となっています。これを歩いて、多度山の頂上へ。帰りも途中までこれを辿ってきたのですが、途中第1見晴台の下から「のんびりコース」へ。愛宕神社にお参りして、そこからは「健脚コース」を下ってきました。

Img_3229c_20201014183901  多度駅から北に向かいます。多度川を多度橋で渡って、Img_3232c_20201014183901 600mあまり行くと、宇賀神社の一の鳥居があり、そこが多度山に登るコースの入り口の一つになっています。多度橋から見た多度山が右の写真。標高は403m。

Img_3242c  宇賀神社の一の鳥居。向かって右の常夜燈の陰になっていますが、オレンジ色の看板で「入り口 多度山上公園/自然教室・Img_3258c_20201014185401 水郷展望ハイキングコース」と大書されています。その、向かって右の常夜燈の背後に石碑があったのですが、良く読めず、残念。碑表には、名前が刻まれているようでしたので、忠魂碑のようなものかも知れません。碑陰には、「明治39年7月建之」とともに、西田さんという名字の方5名の他、「取持 宮守中・消防組」「肝煎 字総代」とあります。この一の鳥居のところを左折し(西に向かい)、多度山の登山道に入っていきます。ここの交差点でスタートから650m。

Img_3261c_20201014183901  200mほど行くと、宇賀神社があります。元々は、有力者を祀っていたのが、後に農耕神として宇迦之御魂神を祀るようになImg_3267c_20201014185601 ったといわれています。正面にはシイの巨木群があります。主祭神は、宇賀御魂神。相殿神は、大山津見神火之迦具土神、火之夜芸速男神、火之炫毘古神(以上の2神は、火之迦具土神に同じ)、表筒男神、中筒男神、底筒男神(以上の3神は、いわゆる住吉大神)、大己貴命少彦名命

Img_3276c Img_3283c_20201014185601  古くは「天田社」といったといい、天田はあがたの訛ではないかとされています。「県の神」として農耕神を祀り五穀豊熟を祈つた社ではなかったかと推測されるのです。延喜式内社で明治43(1910)年、境内、区内の神々を合祀し、現在の宇賀神社となっています。大正年間に村社より郷社に昇格したのですが、遠く、仁寿元(851)年すでに神階正六位に叙せられています。農事、山と火の安全、舟便、医薬の神として崇められているといいます。

Img_3270c_20201014190701  ちなみに、正面にシイの巨木群があります。拝殿の前にも、ご覧のように巨木が立っています。教育委員会による「シイの巨Img_3290c 樹からなる宇賀神社の森」という説明板もありました。

Img_3296c_20201014191001 Img_3293c_20201014191001  宇賀神社から登山ルートに入ると、そこには「農道竣工の碑」がありました。

Img_3303c  ポケットパークの駐車場の手前に、こんな石碑がありまImg_3322c_20201014191901 す。昭和4年11月2日に神社に畑を寄附したという記念碑でした。こういう畑を寄附した記念碑は、初めて見ました。ここからいよいよ本格的に登りになります。

Img_3402c_20201014192001  途中、お地蔵様。2.5㎞地点にある「中央地蔵」と思いますが、詳細は不明。このあとは、ひたすら登りでしたので、割愛して、一気に、頂上近くまでワープします。

Img_3479c が、一つだけ。パラグライダーが飛び立つ「飛行台(発射台?)」がありました。以前は、良く多度山からパラグライダーが飛んでくるのを見ました。

Img_3486c_20201014192301 Img_3491c  スタートから1時間半、10時半頃、山上公園に到着。このあたりで、約4.6㎞を歩いてきたはず。登り始めと、この近くがキツく、「来なければ良かった」と思わないでもありませんでした(苦笑)。途中、中間あたりは、平坦なところもあり、見晴台や休憩所もあり、休憩を取りつつ来ましたので、比較的楽でした。

Img_3497c_20201014192301  山上公園の広場を見て、いよいよ頂上へ。やっと403m(三角点の正式な高さは、402.7mとなっていました)を登り切れまImg_3513c_20201014192301 した。いや、天気が良くて良かった (^_^) 多度山には一度は登りたいと思っていましたので、念願を叶えられました(微笑)。

Img_3501c_20201014192301  こちらが、三角点や、「三本杉の相場振り」のところ。「三本杉の相場振り」というのは、電信電話がまだ発達していなかった明治の初期、大阪、桑名、名古屋、大垣の間の米相場は、「旗振り通信」で伝えられていました。相場の値段が決まると、高いところから赤・白の大きな旗(旗信号)を振って、その値段を伝えたのです。ここ三本杉にも信号所(中継所)が設けられていて、桑名米穀取引所から送られる旗信号を望遠鏡で確認して、同じ信号を振ると、四日市・名古屋・高須で見て、次々と中継されて各地に伝えられました。

Img_3506c_20201014192301  こちらが、「相場振り」の説明。「新桑名歴史散歩(西羽晃著)」によれば、桑名米穀取引所では、他の市場が閉店した後、夕市が開かれ、とくに注目されたといいます。あの初代諸戸清六氏は、大隈重信と懇意になり、情報を早く仕入れ、政府の公金を低利で借り入れ、米相場で成功しています。

Img_3517c_20201014193901  さて、山頂からの眺めは抜群。左の写真、中央あたりが、木曽三川公園木曽三川公園センター。川は、手Img_3530c_20201014193901 前から揖斐、長良、木曽の木曽三川。そのやや左上に名古屋駅前の高層ビル群がありますが、この写真でははっきりしません。右は、木曽三川の下流方向。中央やや上には、ナガシマスパーランドが見えますし、その手前には国道23号線の揖斐長良大橋。中央の左には、長良川河口堰、JR・近鉄の揖斐長良川鉄橋、東名阪高速道路の鉄橋なども見えます。ただ、この時間、南の方角はやや雲がかかっていましたし、逆光で今ひとつ。

Img_3574c 山頂には、高峯神社があります。神社の境内に三本杉があります。商売繁盛・家内安全・進学祈願の神様だそうです。

Img_3565c また、高峯神社の脇には、千体地蔵菩薩が安置されている御堂がありました。多度大社にお参りするものImg_3567c_20201014195001
は、ここに鎮座する高峯神社と、地蔵大菩薩に額づいて、心身を清めたそうです。高峯神社と千体地蔵菩薩との間には、「多度山古戦場跡戦没者総慰霊之碑」があります。詳細は不明。「壬申の乱に関わる」としているブログもありました(こちら)。山頂には、10時50分まで20分ほど滞在。

Img_3614c 山頂近くには、いくつもの無線中継所が立っています。山上公園の西側あたりです。ここから、来たルートを下っていきます。

Img_3655c 途中、木曽三川公園や名古屋駅方面がさらによく見えるところがありました。同じところかImg_3667c_20201014200101 ら、木曽三川の下流方面も眺めてみました。

Img_3650c_20201014200201 木曽三川公園の手前をよく見ますと、平野のあちこちに池や、曲がりくねった水路が残っているのが見えます。これらは、かつて河川が蛇行していた跡だそうです。「河跡湖(かせきこ)」あるいは「三日月湖」と呼ばれています。河川改修工事で、川の流路を変え、堤防を建設するなど、多くの治水工事をした結果、このような姿になったのです。

Img_3683c_20201014200101  登ってきたときの1.5㎞地点に戻って来ました。ここから「のんびりコース」にルート変更。まっすぐ行くと、多度大社に出Img_3690c_20201014200101 ます。名前の通り、起伏はあるものの、さほどではありません。右の写真は、赤谷川にかかる長尾橋。

Img_3707c_20201014200801  長尾橋を越えてしばらく行くと、約9㎞地点に愛宕神社があります。ここにも立ち寄りたかったのです。社伝によれば、勧請の年月は不詳であものの、古くから鎮座し、元亀年間の兵火に遭い、いったんは衰退したものを、元和2(1616)年、桑名藩主・松平定勝公が再興されたのを、松平定行公が寛永6(1629)年、再び社殿を造営し、毎年正月・5月・9月の3度家臣を遣わして厚く祭祀を厳修せしめたといいます。その後も、松平家によって崇敬され、手厚く庇護されたそうです。『多度大神本縁略記』には多度大社の第四別宮であったことが伝わっています。大正9(1920)年、境内社山神社、厳島社を合祀しています。

Img_3711c  御祭神は、火之夜芸速男神。境内には、合祀された神様を祀っていると思われる社がありましたが、説明板などはありませImg_3716c ん。

Img_3725c_20201014200801  愛宕神社から健脚コースへ降りていきます。道をはさんで、駐車場の脇に下に降りていく階Img_3727c 段がそれ。距離は約1,680メートルで、所要時間約40分と最短コースなのですが、これはとても登れそうにありません。短い間でしたが、下るのにも苦労しました。

Img_3745c  多度の町に降りてきました。予想通り、桔梗屋さんの東にある鳥居のところでした。多度のハイキングで、ここに鳥居があるのが気になっていました。ハイキングコースを調べると、たぶんここからが健脚コースだろうと思っていたのです。「いにしえコース」と石柱が建っています。昔の人たちはここを登ったということでしょうか。桔梗屋さんは、享保元(1716)年の和菓子の店。八壺豆(多度豆)などを売っていたと思います。写真で、左手に行くと多度大社、右手は多度駅方面。

Img_3773c_20201014200801  大黒屋さん。鯉料理のお店。過去に近鉄ハイキングで庭を拝見しています(2020年1月26日:20200126近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 細川酒造の銘酒『上げ馬』と多度大社・追儺祭」へ……祝ご当選!でめでたく「完」)。こちらにも詳しい案内があります。

Img_3792c  汗だくになって、多度駅にゴール。12時15分。3時間15分かかり、10.5㎞を歩いてきました。カッターがImg_3816c_20201014200801 濡れて気持ち悪かったので、着替えたくらい(苦笑)。桑名行きは、12時42分。¥310。電車は、養老鉄道7700系、通称「緑歌舞伎」でした。桑名には、12時58分着。

Img_3871c_20201014203101  いやぁ、よく歩きました。それに、400mの高低差(苦笑)。登りはさすがにキツかったですねぇ。現地で10.5㎞、桑名駅から自宅が1.1㎞ですから、合計11.6㎞ほど。スマホのALKOOでは、21,000歩あまりの記録。途中、私よりも高齢、70歳代と覚しき男性が自転車でスイスイと登っていくのを目撃。次の見晴台で休憩しておられたので、話しかけてみたら、何と電動自転車でした。脊柱管狭窄症を患い、10分も歩くとしびれるので、電動自転車なら登れるかと思って来たとおっしゃっていました。他にも走って登る人が3名。いろいろな方に出会いました。

 余談、こぼれ話はまだありますが、それらはまた明日以降のオマケに。

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2020年10月 7日 (水)

20201003「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」(その1)……楚原駅から瑞龍院観音堂まで

Img_1675c_20201003172701  10月3日に行ってきた「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」の本編その1です。雨で予201003sohara 定を延ばさざるを得なかったり、猛暑の時期は避け、涼しくなるのを待っていたりしていて、前回からほぼ半年ぶり(2020年4月11日:20200411「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(東員~楚原)」(予告編)【参考資料を追加しました(4/12)】)になっていました。今回は、楚原駅から阿下喜駅までを歩きました。例の3人組(笑:決してアヤシい3人組ではありません、同級生K氏、畏友M氏と私)で行っております。冒頭の写真は、鉄道むすめ、三岐鉄道北勢線のキャラクター「楚原れんげ」ちゃん。楚原駅で撮影。ちなみに「楚原」は「そはら」、「阿下喜」は「あげき」と読みます。

Img_1660c_20201004190601  事前の打ち合わせにより、三岐鉄道北勢線西桑名駅を8時23分に出る阿下喜行きに乗車します。この日は、レトImg_1665c_20201004190601 ロカラー塗装の電車が運行されていました。これは、北勢線の開業100周年(2014年)を記念し、同線で運用している車両が三重交通時代の塗装に変更されたものです。当初は、車両の一部だけでしたが、その後4両ともレトロカラー塗装になっています。北勢線は大正3(1914)年4、現在の西桑名(三重県桑名市)~楚原(いなべ市)間が北勢鉄道(後に北勢電気鉄道に改称)として開業、昭和6(1931)年までに西桑名~阿下喜間が全通しました。戦時中の昭和19(1944)年、北勢線は三重県内の他の鉄道・バス会社との合併により三重交通の路線になったのです。

Img_1670c_20201004190601  西桑名から楚原までは、¥430。土曜日で、下り電車ですので、空いています。4両編成でしたが、多くても1両に4~5名の客。同級生K氏は、途中、星川駅から乗車。畏友M氏は、楚原駅へクルマで直行しますので、駅で待ち合わせ。北勢線は、いわゆるナローゲージの電車。

Img_1678c_20201003172701  楚原駅には、9時8分に到着。45分の乗車でしたが、のんびりとした小旅行というイメージ。最高速度45km/hで、ガタンゴトンと走ります。ここでM氏と合流。楚原駅を9時10分にスタート。

Sohara1  こちらが、この日の詳しいルートマップその1。楚原駅の北東に「ここから員弁街道」と書いてありますが、ここまでが、前回歩いたところ(ただし、その後ヨシヅヤ出食事をし、ねじり橋とめがね橋を見に行っています)。いったん、前回の終点に向かって進み、楚原神社に立ち寄り。楚原神社を出たところで、M氏が、踏切の向こうに天白神社があるというので、行ってみることにしました。その南に立派な寺が見えましたので、さらに寄り道。八英山真養寺。ここから元のルートに戻り、1㎞あたりで、里程標と石碑2基。員弁街道に入って北西に進み、国道421号線を越えて瑞龍院観音堂と、寝覚めの橋へ。

Img_1693c_20201003173501  楚原神社。旧社格は、村社。天文7(1583)年、八幡社(品陀和気命)を勧請し、氏神として尊崇されていました。しかし、永禄12(1569)年、兵火にかかり神殿を焼失し廃退しますが、のちに復興。明治40(1907)年、村内の小祠と御薗にあった御薗神社などを合祀して楚原神社と改称しています。

7776c598  主祭神は、品陀和気命(応神天皇)。相殿神は、天照大御神須佐之男命大山祇神火産霊神宇迦之御魂神大国主命。相殿神が、6柱いらっしゃいますが、これは、上記のように明治40(1907)年に御薗神社をImg_1684c_20201004194401 始めとする7社を合祀したため。

Img_1686c_20201003173901  境内には、忠魂碑が1基あります。昭和32(1957)年4月の建之。日陰には、「殉国英霊」として、昭和12(1937)年の日中戦争から第二次世界大戦までに戦没された23柱の方々のお名前が刻まれていました。

Img_1696c  続いて、楚原駅西の踏切を渡って、南西へ。天白神社に向かいます。このあたりは、M氏の父上の故郷だそうで、よくご存じ。神社のところだけ、こんもりと杜になっています。なかなかよい感じなのが、遠くからでも分かります。

Img_1699c_20201004195101  神社検索(三重)では、楚原御厨天白神社となっており、これが正式な名前のようです。鎮守の森がなかなかよい感じの神Img_1702c_20201003174101 社。主祭神は、天照大神。御厨ですので、伊勢神宮の神領地に関わりがあると考えられます。元暦年中(1184~85年)に村人がここに神社を再建して五穀の豊穣を祈ったといわれています。

Img_1711c  天白神社の南に、真宗大谷派の八英山真養寺(しんようじ)があります。楼門は平成15Img_1715c_20201003175501 (2003)年に再建されたといいます。ここに立派な虎の彫刻がありました。気になって調べたら、左甚五郎の一番弟子の手によるものだそうです(ただし、ここに飾られているのはレプリカ)(こちらを参照)。本物は、本堂に保管されています。

Img_1717c_20201003175501  天正2(1574)年に近江・番場(現滋賀県米原市)の時宗の蓮華寺の僧・麟龍がこの地に隠居して建立したのが始まり。元和7(1621)年、3代・蟠龍の時に真宗に改宗。寛永13~16(1636~39)年、大泉新田開発に伴う笠田溜池築造工事の頃、桑名藩主・松平定綱が溜池で舟遊びをした時に当寺を定宿にし、門信徒の工事の功績を称え星梅鉢の紋を賜ったといいます。天和2(1682)年、東本願寺常如上人から真養寺の寺号を賜っています。

Img_1746c_20201007044501  真養寺の北西に、楚原放光菩薩地蔵堂がありました。「放光地蔵」というのは、珍しいと思い、調べました。「放光」はもちろん光を放つことですが、とくに「仏菩薩が身体や白毫(びゃくごう)などから光をはなつこと」をいいます。六地蔵というものがあります。六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のそれぞれにあって、衆生(しゅじょう)の苦悩を救済する地蔵菩薩です。このうち、人間道を化すのが、放光地蔵とされています。

Img_1720c_20201003180401  真養寺から楚原駅の方に戻り、すでに1㎞近くを歩きましたが、公民館の庭に里程標が建っています。碑表には「桑名郡桑名Img_1722c_20201004201701 町字京町エ四里壱町十六間/津市元標エ十四里貳拾五町拾九間/大泉原村大字楚原」とあります。さらに、右側には「三重郡富田村大字東富田エ四里拾三町貳十四間/桑名郡七取村大字香取エ貳里三拾壱町四拾壱間」、碑陰には「明治四十五年三月 三重縣」、左側には「員弁郡阿下喜村大字阿下喜壱里三拾壱町四拾壱間」とあります。

Img_1725c_20201003180401  その先、市営住宅の敷地には、石碑が2基あります。向かって右の大きい石碑には「如禾必(以か?)稲/直胤筆」と刻まれています。「禾」は「のぎ」、イネ科植物の先端にある毛、穀物、いねなどの意味があります。その傍らにある、小さい石碑には、「死亡會員(?)霊位」とあり、碑陰には「昭和十一年一月?九日追?……」とありました。前回の疑問が解消されないままですが、ネットでの検索では情報が見つけられませんでした。

Img_1733c_20201003181601  員弁街道に入って北西に向かって進みます。道幅も、昔のままのような感じがします。旧街道は、生活道路になっていることImg_1740c_20201003181601 が多いのですが、楚原から笠田新田あたりは、クルマの通行もあまりありません。右の写真は、国道421号線を斜めに渡った先の辺りの様子。ヒガンバナも咲いていました。ここまで来ると、道は細く、田舎道という印象。

Img_1768c_20201003182001  スタートから2㎞ほど、笠田新田の信号の北側に瑞龍院観音堂があります。真宗大谷派。この観音堂には、真中に聖観音菩Img_1746c_20201007044501 薩像が、また、左側には抜雲(ばつうん)和尚が自分の像を彫ったもの(木像)が安置されているといいます。抜雲和尚の像は、旱魃のときこの像を背負って雨乞いをし、ご利益を得たそうです。抜雲和尚は、永明山長楽寺(いなべ市藤原町篠立)の第7代。その昔、三谷川の最源流、拘留孫岳(くるそんだけ、標高772m)中腹に大蛇が住んでいたそうです。抜雲和尚がここにある大杉の根元に石の唐戸を造り、念力をもってこの大蛇を小さなトカゲに変えて閉じ込めたのですが、篠立(いなべ市藤原町立田地区にある地名)が大日照りで困った時はこの唐戸に祈願すると雨を降らしてくれるようになったといい(「龍王さん」と呼ばれています)、抜雲和尚には、雨乞いに御利益があるとされたと思われます。観音堂の前には笠田新田延命地蔵堂。この地蔵堂は、昭和7(1932)年3月に、観音堂の和賛講中の11名の方が発起人となって建立したもので、堂は赤溜の旧観音堂を改築し、本尊の地蔵菩薩像は桑名で購入したそうです(こちら)。この延命地蔵の後ろに多湖健一の句碑があるというのですが(こちら)、後から調べて分かったことで、この時は見逃しました。

 ちなみに地蔵堂の横にあったのが左の写真Img_1755c_20201007045201 。文字が読めず、ネットで調べても分からず(苦笑)。右の写真は、地蔵堂の裏Img_1762c_20201007045201 の方に建っていました。まだ新しく、「銀杏の木青葉は黄金の色と散る/悉皆金色弥陀の本願念仏」とあります。短歌のような、違うような。

Img_1765c_20201007045201  さらには、左の写真のような石碑も。これには、「母繁八十歳の碑」とありました。けっこImg_1760c う古いもの。そして、地蔵堂の脇には、右の写真のように、「村社神明社」という標柱があります。陰には、大正8(1919)年9月に寄進されたと彫られていました。笠田新田の神明社は、現在は、笠田大溜のところにあります(ここから北へ1.1㎞ほどのところ)。昨年9月23日に「いなべ市員弁町「笠田新田」と「大泉新田」の両神明社合同『弁天祭』が開かれた」という記事がありました(こちら)。このとき、行列がこの観音堂にいったん入ってから、笠田新田の神明社に向かったとあります。観音堂と神明社に何か関わりがあると考えられますが、今のところ、これ以上は不明。

 その1はここまで。畏友M氏からも、「記事が長い」といわれております(苦笑)。楚原駅あたりで、いきなり寄り道をしていましたので、まだ2㎞ほどしか歩いていません。ハイキングはさらに西に進みます。

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2020年10月 3日 (土)

20201003「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」(予告編)

 雨で予定が狂ったり、猛暑を避け涼しくなるのを待っていたりしていて、前回からずいぶん日にちが経ってしまいましたが(2020年4月11日:20200411「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(東員~楚原)」(予告編)【参考資料を追加しました(4/12)】)、「勝手にハイキング」シリーズの「員弁街道ハイキング」に行ってきました。ほぼ半年ぶりです(笑)。今回は、楚原駅から阿下喜駅までを歩きました。今日のところは、予告編。例の3人組で行っております(同級生K氏、畏友M氏と私)。

Img_1678c_20201003172701 Img_1675c_20201003172701  楚原駅に集合。私は、三岐鉄道北勢線西桑名駅を8時23分に出る阿下喜行きに乗車。途中からK氏も乗り込み、楚原には9時8分着。西桑名からは、¥430。M氏は楚原駅へクルマで直行。

201003sohara  こちらが本日歩いたルート。楚原駅あたりで、いきなり寄り道(楚原神社、天白神社、真養寺)をし、1㎞あまり歩いて、員弁街道(濃州道)に出て、左折し(ここまでが前回歩いたルート)、北上。瑞龍院観音堂、寝覚めの橋、文治の墓から大聖不動へ。山田橋あたりまでは員弁街道を辿っていきます。旧・員弁街道はここから現在の員弁街道(県道5号線)の方へ回りますので、その1本西の道を行きます。久保院・麻績塚古墳・戦没者紀念碑に立ち寄り、さらに萬笑院にも立ち寄ろうと思ったものの、ちょっと行き過ぎてしまい、断念。麻生田から再び、旧・員弁街道に入り、いなべ市北勢町阿下喜へ。阿下喜では、西六石橋を渡って、大西神社の御旅所、献燈籠を見て、巡見道(枝道)との分岐点まで。ここには道標があります。昼食を摂るのに、ちょっと歩いて「カドヤ食堂」にて。阿下喜駅まで下って、合計約9㎞。

 楚原神社。楚原駅の目の前にあります。Img_1693c_20201003173501主祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと)。天文7(1538)年、八幡社を勧請し氏Img_1686c_20201003173901  神として尊崇していたのが、始まりと伝わっています。境内には昭和32年に建立された忠魂碑があります。昭和12(1937)年の日中戦争から、第二次大戦までの戦没者の方が祀られています。

Img_1696c  M氏が、線路のすぐ向こうに天白神社があるというので、そちらにも立ち寄ることにしました。M氏の父上Img_1702c_20201003174101 の故郷だそうで、よくご存じ。楚原御厨天白神社が正式な名前のようです。鎮守の森がなかなかよい感じの神社。主祭神は、天照大神

Img_1711c  その近くに真宗大谷派の八英山真養寺。楼門は平成15Img_1715c_20201003175501 (2003)年に再建されたといいます。ここに立派な虎の彫刻がありました。気になって調べたら、左甚五郎の一番弟子の手によるものだそうです(ただし、ここに飾られているのはレプリカ)(こちらを参照)。

Img_1717c_20201003175501  天正2(1574)年に近江・番場(現滋賀県米原市)の時宗の蓮華寺の僧・麟龍がこの地に隠居して建立したのが始まり。元和7(1621)年、3代・蟠龍の時に真宗に改宗。寛永13~16(1636~39)年、大泉新田開発に伴う笠田溜池築造工事の頃、桑名藩主・松平定綱が溜池で舟遊びをした時に当寺を定宿にし、門信徒の工事の功績を称え星梅鉢の紋を賜ったといいます。天和2(1682)年、東本願寺常如上人から真養寺の寺号を賜っています。

Img_1720c_20201003180401  楚原駅方面に戻り、員弁街道に向かいますが、その手前で、まず里程標。4月11日にも見ています(2020年4月19日:Img_1725c_20201003180401 20200411「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(東員~楚原)」(その3)……石仏墓地、ヨシヅヤのスガキヤで昼食、ねじり橋・めがね橋を見て、員弁西小学校で句碑を確認して楚原駅にゴール(完))。碑表には「桑名郡桑名町字京町エ四里壱町十六間/津市元標エ十四里貳拾五町拾九間/大泉原村大字楚原」とあります。さらにその先、市営住宅のところには、石碑が2基。向かって右の大きい石碑には「如禾必(以か?)稲/直胤筆」と刻まれています。「禾」は、「のぎ」。イネ科植物の先端にある毛、穀物、いねなどの意味があります。その傍らにある、小さい石碑には「死亡會員霊位」とあり、碑陰には「昭和十一年……」とありました。

Img_1733c_20201003181601  1㎞を過ぎて、員弁街道に入ります。かなり細い道が続きます。国道421号線をいなべ警察署東交差点の手前Img_1740c_20201003181601 (東)で渡り、さらに細い道を進んでいきます。

Img_1768c_20201003182001  2㎞を過ぎたところに瑞龍院観音堂。この観音堂には、真中に聖観音菩Img_1746c_20201003182101 薩像が、また、左側に安置されているのは抜雲(ばつうん)和尚が自分の像を彫ったもの(木像)が安置されているといいます。抜雲和尚の像は、旱魃のときこの像を背負って雨乞いをし、ご利益を得たそうです。観音堂の前には笠田新田延命地蔵。ちなみに、抜雲和尚は、永明山長楽寺(いなべ市藤原町篠立)の第7代。その昔、三谷川の最源流、拘留孫岳中腹に大蛇が住んでいたそうです。抜雲和尚がここにある大杉の根元に石の唐戸を造り、念力をもってこの大蛇を小さなトカゲに変えて閉じ込めたのですが、篠立が大日照りで困った時はこの唐戸に祈願すると雨を降らしてくれるようになったといい(「龍王さん」と呼ばれています)、抜雲和尚には、雨乞いに御利益があるとされたと思われます。

Img_1780c  観音堂を過ぎたあたり。昔ながらの街道という雰囲気がたっぷりのところを下っていきます。同行のK氏、M氏とも、これで間違いないのかと不安そう。Img_1784c_20201003190801 この先で、寝覚めの橋。明智川にかかっていますが、かつては目も覚めるほど立派な朱塗りの橋だったそうです。その手前に、石碑。何となくではありますが、「寝覚めの橋」と彫られているような気がします。「祢?免乃橋」かと思うのですが、くずし字は読みたいと思えど、読めず。陰には「二井文?左衛門」とあるような感じ。これまたアヤシい。

Img_1807c_20201003191701  寝覚めの橋を渡った先、街道がカーブしているところに「文治の墓」。寛政11(1799)年のもの。宇野村とImg_1810c 笠田新田の水路の争いで亡くなった農民・文治の墓。鍬・鎌・竹槍等を手にした百姓の喧嘩で、宇野村の文治(35 歳)が重傷を負い、戸板に乗せられて村へ引き揚げる途中、明智川を渡った西側まで来てとうとう絶命するという悲惨な事件が起きた、その文治が絶命したといわれる地に、ため池を望むように墓が建てられたといいます(こちら)。向かって左には、新しい墓。ちなみに、ここでなぜカーブしているのか、不明。ルートマップでは、「員弁町上笠田」とあるところ。

Img_1816c_20201003192501  県道5号線に出たところに大聖不動明王堂。いなべ警察署前になります。昔は藤の花が咲き乱れ「藤の棚不動」と呼ばれたといいます。

Img_1831c_20201003192801  このまま少し、県道5号線を進み、旧・員弁街道は、上笠田の交差点から左Img_1834c_20201003192801 に逸れていきます。またもや、こんなところを進むのかという道へ。このすぐ先の北側(右手)に、上笠田北稲荷。Googleで検索しても出て来ません。

Img_1852c_20201003193201  途中、少しばかりコースミス。すぐに気づいて、旧・員弁街道に戻りました。この先で、山田川にかかる山Img_1857c_20201003193201 田橋を渡りますが、このあたりから本来の旧・員弁街道は、右手(北東)に行きます。山田橋は、昭和25(1950)年に竣工した橋。ここから、麻生田。昭和電線ホールディングス方面へ直進。登り坂。2年前の2月に近鉄ハイキングで歩いたところ(2018年2月27日:近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(予告編)……マップ上9kmなのに、12.4kmも歩いたお話(笑))。

Img_1868c Img_1873c  この先、4㎞を過ぎたところで、久保院・麻績塚古墳、戦没者紀念碑に立ち寄り、しばし休憩。ここも、上記のリンクにある近鉄ハイキングで訪ねています。久保(くぼ)院は、笠田村和波九十郎氏の二男、久保(ひさやす)氏(明治12(1879)年~明治29(1896)年9月没・当時18歳)の追善供養のため、私有地に寺院建立と霊場を作る事を発願し、近隣、同志に呼びかけ篤志浄財(郡内14大字区、個人133名)により明治31(1898)年9月に完成しました。「麻績塚(おみづか)古墳」は、4世紀ごろつくられたと伝わる、大小2つの古墳からなっています。埋葬された人物の名をとって、一般に「麻績塚」と呼ばれます。墓の主の名は、伝承によれば「神麻績連」。天物知命(あめのものしりのみこと)の后、また、桑田玖賀(クワタノクガ)の姫ともいわれていますが、その名の通り、麻の栽培・紡織といった生産に深い関係を持っていたと思われます。祈念碑は、「陸軍大将桂太郎謹書」と刻まれています。桂太郎は、明治時代の軍人、政治家(弘化4(1848)~大正2(1913)年)。明治34(1901)年には、総理大臣も務めた人物です。

Img_1879c_20201003194201  この先は、阿下喜までとくに見るところはなく、ひたすら歩きます。ただ、久保院あたりが坂のピークで、あとはほとんど下Img_1886c_20201003194201 り。このあたりからは、藤原岳や、太平洋セメントの工場が見えてきます。麻生田の町を過ぎる頃には、道は、北勢線と並行しています。

Img_1895c  スタートから6㎞半くらい歩いてきました。阿下喜という看板も出て来ます。向こうに阿下Img_1899c_20201003194601 喜の町や、日下病院、いなべ総合病院などが見えています。西六石橋を渡り、六石変電所の先、スタートから7㎞を歩いてきたあたりで旧・員弁街道は右に逸れていきます。

Img_1927c  阿下喜の町の手前に大西神社の御旅所と献燈籠。御旅所は、大西神社の八幡祭のとき、神輿Img_1933c_20201003194601 がここで小休止するところ。献燈籠は、高さ2.7m。元は常夜燈で、員弁川の高瀬舟の船着場の目印でした。文久元(1861)年のもの。正面には、「内外両宮/多度両社 献灯燈」とあります。ちなみに、高瀬舟とは、川船の一種。古くは小型で底が深かった(高背)のですが、のちには大型で舳が高く底の浅いものになりました。近世では多くの川筋で貨物輸送に用いられています。

Img_1951c_20201003194601  いよいよ今日のゴールも間近。8㎞の手前で、巡見道との分岐・道標となります。石井書店のすぐ北の三叉路に、道標があります。ここが、巡見道(いなべ市北勢町治田からの枝道)との分岐。道標には、「右 こもの 四日市」「左 くわな」とあります。コンクリートに囲まれ、ちょっとかわいそう。ここで時刻は、12時20分。阿下喜から西桑名に行く電車は、12時39分か13時39分。ちょっと迷ったものの、食事を選択。

Img_1968c_20201003194601 Img_1965c_20201003194601  上木(あげき)食堂を覗いたものの、待っている人多数で断念。北勢郵便局の近くまで行って大衆食堂「カドヤ食堂」へ。カツ丼(¥700)をチョイス。地元の方などでけっこう繁盛していました。カツ丼も美味しくいただけました(微笑)。

Img_1980c_20201003194601  桐林館なども見ようかと思ったものの、食事をしてからしゃべっていて、電車の時刻も近づいたので、阿下喜駅へ。13時28Img_1994c_20201003194601 分に到着。ここまで楚原駅から9㎞歩きました。13時39分の西桑名行きに乗車。西桑名駅には、14時26分に到着。¥510。

Img_2047c_20201003200301  今日の歩数。スマホのアプリ・ALKOOのデータ。20,000歩を越えました。自宅から西桑名駅往復が、2.2㎞。今日、ハイキングで歩いたのが、9.0㎞で、合計11.2㎞。久しぶりによく歩きました。詳細は、また、明日以降、ボチボチと書きますが、今日のところは、予告編。

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2020年4月 5日 (日)

20200329「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」(その3)……六把野新田の地蔵堂、道標、自然石の道標、鳥取塚と珪化木の碑を見て、東員駅へゴール(完)

200329hoshikawatouin3  3月29日に出かけた「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」のその3です。東員一中の手前でスタートから4㎞。その先に地蔵堂と道標1基。ピアゴ、しまむらを過ぎてまた、員弁街道は脇道に入っていき、藤川(上流に行くと、イヌナシを見に行った鳥取神社の横に続いています)を渡り、東員交番の裏で自然石の道標。その先で鳥取塚とそこに立つ珪化木の碑を見て、いよいよ東員駅にゴールします。

Img_8295  東員一中を過ぎ、4.4㎞のところに地蔵堂があります。「みえの歴史街道マップ(濃州道)」には、「延命地蔵堂」とありましImg_8292c たが、確か「病難除地蔵」と書かれていました。新型コロナウィルスも蔓延していますので、丁寧にお参りしてきました。大正末期に有志によってここに建立されたそうです(東員町観光パンフレットによる)。

Img_8286  地蔵堂の手前、交差点の東側に小さな道標があります。危うく見落としそうになります。「多度香取道」とあるのがかろうじて読めます。香取道は、ここ六把野新田の地蔵堂東側から大仲新田を通り、嘉例川を経て多度へ通じている道。この道は、昔は、3~4尺幅(約90~120cm)の細い道だったそうですが、多度祭ではかなり賑わったといいます。

Img_8298c  4.7㎞のところにある神田公園に「旧神田小学校跡」という案内板があります。明治34(1901)年、穴太にあった弘道尋常小学校と鳥取の養義(尋常)小学校が合併して、その中央に位置する六把野新田に神田小学校の前身である「神田尋常高等小学校」が創立され、ここに3棟の校舎が新築されたそうです。その後、昭和6(1931)年には木造2階建て北校舎が完成。さらに戦後、講堂が新築されたのですが、昭和48(1973)年に移転し、現在の神田小学校となっています。跡地が、神田公園として整備されました。

Img_8305  5㎞を歩き、神田変電所前の交差点から員弁街道は、右に逸れ、県道からは離れます。時刻は13時5分頃。このすぐ先で、藤Img_8307 川を渡ります。橋は、七ツ橋と呼ばれた橋。

Img_8317c_20200404204001  この藤川、鳥取神社のところから来ています(2020年4月 2日:今日も東員町で花見とバードウォッチング……イヌナシの花リベンジ、藤川の桜並木と町天然記念物のトウインヤエヤマザクラ)。鳥取神社までは1㎞足らずと思いますが、桜並木が続いているようです。

Img_8326  東員交番の裏に道標があります。自然石でできています。「右あげきはった/左大いづみ石Img_8322 ぐれ」とあります。それぞれ、阿下喜、治田、大泉、石榑を指しています。道標は、文化14(1817)年に鳥取(このあたりの地名)の俳人岩田卜斎(ぼくさい)によって建てられたものです。卜斎については、調べがつきませんが、こちらには「美濃派徐風庵で学ぶ」とあります。美濃派は俳諧の一派で、各務支考の系統。「徐風庵」は、美濃派の分派・再和派の九世・多賀徐風庵(1772~1832)。

Img_8331c_20200404204301  裏面には卜斎の「雲いくへ ひばり鳴くなり そりみ坂」の句が記されています(芭蕉が詠んだという説もあるようです。いつ詠まれたかなどは不詳)。かなり薄くなっていて詠みにくいのですが、こちらによれば、碑陰には、上記の句の他「文化十四丁丑年孟春中旬岐路人惑標石指南。楚里見坂 卜斎建立。是より道法 御城下へ二り半 あげきへ同はつたへ同 石南村へ同」とあるそうです。「そりみ坂」は、「楚里Img_8327c_20200404204301 見坂」「曲見坂」などと書きました。また、このこの小高いあたりにはヒバリがたくさん生息していたそうで、「雲雀が岡」と呼んだといいます。私は、春、揚げ雲雀を見上げるのに、体を反らせて見たから「反り見坂」かと想像しました。この道標のところで、道は二股に分かれ、一方は大木へ向かう道でしたが、今ははっきりしなくなっているようでした。道標は、平成19(2007)年4月に東員交番ができて、少し移動しました。

Img_8337c_20200405045001 Img_8349c_20200405045001  この道標の先、街道の北側に大きなお屋敷があります。庭の手入れもされており、立派な屋敷で、「岩田」という表札が出ていました。調べて見たら、ここが鳥取を代表する旧家である岩田家でした。そり見坂の道標を建てた卜斎も、ここ岩田家の俳人です(こちら)。

Img_8343c_20200329211901  もう少し西へ行き、スタートから5.4㎞を過ぎたところに、鳥取塚と珪化木の碑がありまImg_8353c す。鳥取塚は、饅頭型の円丘で、かつては古墳が4~5基ありました。今残っているのは1つで、東西21m×南北17m、高さ2.5m。桜などが植わっています。珪化木の碑には「鳥取塚」と刻まれています。碑は、明治44(1911)年3月の建立。珪化木(けいかぼく)とは、樹幹が珪質化(シリカ(SiO2)に富むようになること)して保存された植物化石。この鳥取塚のあるところを左折したところが、チリン坂で、「律師智伝之碑」があると思い込んでいたのですが、見当たらず。もう一度落ち着いて調べたら、これらはもう一本先を曲がったところでした(苦笑)。これは、次に見なくては。

Img_8360c_20200405050201  鳥取塚で13時20分。この日はここまでとし、ゴールに決めておいた三岐鉄道北勢線東員駅に向かいます。昼食は、予め調べておいた、東員駅近くのカフェレスト・ラフィーネで摂ることにします。写真は、東員駅に向かう途中に見た、鈴鹿山脈。この日は雨上がりで、風は強かったものの、それなりによい天気で、山もよく見えました。

Img_8372c_20200329212501  ラフィーネ。東員駅から線路を挟んですぐ北。13時40分着。オムライスが美味しそうでしたので、ランチのセットに。スImg_8370c_20200329212501 ープ、サラダ、茶碗蒸し、ミニハンバーグがついて、¥980。前期高齢者には、ボリュームたっぷりすぎるくらい。オムライスの中のご飯には、細かな海老やタマネギやニンジンなどの野菜、それにたまごなども入っていました。右の写真、先に出て来たミニハンバーグをかじってしまっています(苦笑)。満腹。この日の夕食は控えめにしました(微笑)。

Img_8383c Img_8384c  食事を終え、東員駅へは14時25分に着きました。ちょうどタイミング良く14時32分発の西桑名行きがありましたので、それに乗車。鉄道むすめ・楚原れんげのイラストが描かれた電車でした。西桑名までは¥340。M氏は星川駅で、K氏は蓮花寺駅でそれぞれ下車。西桑名には14時56分着。帰りも電車は空いていました。

Img_8395c_20200329212601  この日のALKOOのデータ。17,208歩でした。距離は、ハイキングで6.3㎞、自宅から西桑名駅往復が2.1㎞ですから、合計8.4㎞(キョリ測で測定)。帰り道、K氏、M氏からは、「次はいつ?」「どこを歩く?」と催促(苦笑)。員弁街道を阿下喜あたりまで歩くことにして、現在、少しずつ下調べ中。「勝手にハイキング」企画もそれなりに大変。過去の近鉄ハイキングや、JRさわやかウォーキングで歩いたコースに行くのも一つの手かと思いついたところ。これにて、3月29日の「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」も無事に「完」。

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2020年4月 4日 (土)

20200329「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」(その2)……七和の道標、薬師堂、穴太徳の碑へ

200329hoshikawatouin1   3月29日の「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」のその2です。その1では、星川駅をスタートして、天皇八幡神社(マップでは八幡神社)、クロガネモチの木まで来ましたが、実際のルートマップは、まだその1のエリアです。

Img_8225c_20200402043501  天皇八幡神社のすぐ南の交差点の北西に九華(くわな)はちみつがあります。大正元(1912)年創業の舘養蜂場本店がやっている直売所。無添加で純粋に国産の蜂蜜を取り扱っています。ちょっとだけ覗いてきましたが、蜂蜜の甘い香りが漂っていました。菰野町・いなべ市で採った「そば蜜」などもあります。これは古くから咳止めに使われてきたとか。

Img_8226c Img_8228c  その先、七和駅から来る道との交差点の北西角に道標。「(西)楚原道/東 桑名道/北 多度道/南 七和駅道」とあります。三岐鉄道が、北勢鉄道として大山田(現在の西桑名)~ 楚原間(14.5km)の開業を果たしたのは、大正3(1914)年ですから、それ以降の道標と思われます。員弁街道と多度へ向かう道の交差点ということで、ちょっとした交通の要衝であったと考えられます。「楚原道」の上には、「西」と刻まれているようですが、薄くなって(もしくは削られた)います。右は、多度方向を見た写真。

Img_8230c Img_8240c_20200402051401  この道標がある交差点で左折し(南へ)、七和駅方向に150mほど入っていったところに瑠璃山薬師堂があります奈良時代に創建され、本尊は室町時代の作といいます。御堂の前にソメイヨシノが咲いていて、なかなか落ち着いた、よい感じ。ここは中世の芳ヶ崎城(羽笠城)の遺跡ともいいます。

Img_8237c_20200402051401  ここでまた、M氏から質問、「瑠璃山の瑠璃はよく見聞きするが、何?」。私は、「知っていることは何でも知っているが、知らないことはまったく知らない」と嘯いていますが(苦笑)、瑠璃についてはちょっとアヤシい。瑠璃色が濃い紫みの鮮やかな青色なのは知っています。鳥にも、オオルリ、コルリ、ルリビタキがいます。しかし、分からないことは確認しないといけません。「瑠璃(るり)」は、7つの仏宝の1つで、青色の美しい宝石。「ラピスラズリ」ともいうということでした。

Img_8235c_20200402051401 境内には地蔵堂らしき御堂もありましたが、こちらについては不明。ちなみにこのあたりは、旧七和村でした。七和村は員弁郡に属していましたが、昭和26(1951)年に桑名市と合併。郡境を越えての合併でした。江戸時代にあった五反田村、大仲新田、巌新田(いわお)、嘉例川村、芳ヶ崎村、森忠村、星川村が明治22(1889)年に合併して七和村ができました。七つの村が合併したので、七和村といったそうです。

200329hoshikawatouin2  員弁街道に戻ってハイキングを続けます。ルートマップはその2へ。五反田の町を歩いて行きます。しばらくは立ち寄るとこImg_8242c_20200402052401 ろはありません。町の風景は、右の写真のような感じ。写真を撮ったあたりは道幅が広くなっていますが、昔の街道は、写真の奥に見えるくらいの道幅だったのであろうと思います。

Img_8249c_20200329202701  2.9㎞のところで寒谷川を渡ると、そこに大日堂と地蔵堂があります。大日堂は、この五反Img_8251c_20200329202801 田にあった伝西寺が真宗大谷派に改修し、星川に移るとき、ご本尊であった大日如来を安置する御堂を設置したといいます。大日如来がご本尊ということは、真言宗系統かと思います(ちなみに、真宗のご本尊は、阿弥陀如来)。右は地蔵堂。

Img_8259c  これら大日堂と地蔵堂のすぐ先にも、街道左側(南)に地蔵堂がありましたが、みえの歴史街道マップにも、くわな史跡めぐりにも載っておらず、不明。御堂にも何地蔵とは書かれていません。お地蔵様は、あちこちにありますが、資料に載っていないものも多く、地元の方に伺わないと分かりません。

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 スタートから3.1㎞、弁天川にかかる弁天橋に来ます。ここが、桑名市と東員町との境界。M氏、K氏とも途中で「ブログに写真を載せられるかも知れんなぁ」とおっしゃっていたので(期待されていた??)、ちょっと登場してもらいました(微笑)。橋を渡って、員弁郡東員町に入ります。平成の大合併で、員弁町、藤原町、大安町、北勢町が合併し(平成15(2003)年12月1日)、いなべ市が誕生しましたので、今では、員弁郡も東員町のみ。

Img_8268c_20200329205201  弁天橋の先、100mほどの民家の庭に「穴太徳(あのうとく)の碑」があります。「穴太徳事 神戸屋徳次郎碑」と刻まれています。穴太徳(本名は中野徳次郎)は、慶応2年4月8日(1866年5月22日)の「荒神山の喧嘩」で、神戸の長吉(かんべのながきち)と私闘を展開した、桑名を縄張りとした博徒です。この荒神山の喧嘩では、神戸の長吉側の助っ人として乗り込んだ吉良仁吉は、鉄砲で撃たれた上、斬られて死亡しました。吉良仁吉は、清水次郎長一家の応援をえて、穴太徳勢になぐりこんで、義理に殉じてしまったのです。「荒神山の喧嘩」は、2代目広沢虎造による「血煙荒神山」の浪曲で有名ですし、吉良の仁吉については、村田英雄の歌う「人生劇場」にも出てきました(♪俺も生きたや仁吉の様に~♫)。何度も書きましたが、この碑は、是非とも見たいと思っていました。ちなみに、「荒神山の喧嘩」があった荒神山観音は、鈴鹿にあり、私の最初の職場がその近くでした。近鉄ハイキングやJRさわやかウォーキングでも訪ねています(2018年12月7日:20181202近鉄ハイキング「鈴鹿の隠れた紅葉の名所「荒神山の喧嘩」で有名な荒神山観音寺を訪ねて」へ(その3)……加佐登の町を経て、荒神山観音寺へ、2019年4月20日:20190420JRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」へ(予告編)。荒神山の喧嘩については、2018年12月7日の近鉄ハイキングの記事に詳しくあります。

 この穴太徳の碑のすぐ先に神田屋敷と、六把野井水(ろっぱのいすい)があると「三重の歴史街道マップ 濃州道」にはあったのですが、結局よく分からず。マップには、小さな写真が載っていますが、それをよく確認し、記憶していなかったのです。さらに、マップをプリントアウトしたものを忘れて出かけていました(苦笑)。六把野井水について、こちらのサイトには「道の横を流れる六把野井水は江戸時代に桑名藩の行った水利開発の一つで、安政12年(1635)に完成した。今の北勢町麻生田にある大井口から員弁川の水を堰入れ、桑名市大仲新田山ケ道に至る流程12キロに渡る井水で、完成当時の受益面積は約460町といわれた」とありました。結局、このあたりでは員弁街道に沿って流れていたようです。本多忠勝が桑名に来てから着工したといいます。この先、北勢線楚原駅を過ぎたところにある「ねじり橋」があり、これが六把野井水にかかる橋ですから、そこで見ることにしましょう。神田屋敷は調べたものの、よく分かりません。手持ちの資料にも、ネットにも出てこないのです。

 この先穴太西の交差点から員弁街道は、県道14号線に合流します。こちらは、「現代の員弁街道」ともいえ、車の通行量がかなり多いところ。しばらく見るところはありません。ルートマップその2はここまでで、キリが良いので記事もここで区切りをつけます。

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2020年4月 3日 (金)

20200403「勝手に養老鉄道ハイキング『専通寺のしだれ桜と羽根谷だんだん公園』(駒野)」(完)

Img_9711c  朝は5℃を切り、冷えましたが、日中は暖かくなるという予報でしたので、海津市にある専通寺のしだれ桜と、羽根谷だんだん公園の桜などを見に行くことにしました。散歩友達からも勧められ、ブロ友のくろしばくろまるさんも先日行っていらしたそうで、機会があればと思っていたのを実行に移したという訳です。名づけて「勝手に養老鉄道ハイキング『専通寺のしだれ桜と羽根谷だんだん公園』(駒野)」です。不要不急の外出を続けておりますが、「密閉」「密集」「密接」の3密ではありません。冒頭の写真は、帰りの養老鉄道の車内であります。

Komano  専通寺や、羽根谷だんだん公園へは我が家からクルマで30分ほどですが、今日も養老鉄道を利用しました。多度や養老の山でも眺めながら、のんびり行こうという次第です。桑名から1駅先のImg_9225c_20200403173001 播磨駅まで送ってもらい、8時47分の大垣行きに乗車。駒野駅には9時15分に到着。¥470。

Img_9244c_20200403173201  駒野駅にも、特産物をモチーフにした駅名表示板があります。グーグルマップで調べておい200403komano た地図をてに9時20分にスタート。いつも通り、ブラブラ、あちこち眺めながらです。が、いきなり大回りの道をとってしまいました(苦笑)。駅を出てすぐ左に行けばよかったのですが、それを見落としました。駅からすぐのところに市神神社があり、まずはそこに立ち寄り。ナイガイテキスタイルの工場脇を抜け、薩摩カイコウズ街道と国道258号線を渡り、海津市南濃町奥条地内を歩いたのですが、258号線を渡ったところで曲がるところを見逃し、スマホのグーグルマップに道案内され、専通寺へ。しだれ桜を見て、羽根谷だんだん公園へ。ソメイヨシノの、見応えある桜並木を眺め、上流にあるさぼう遊学館方面へ。ヨハネスデレーケが指導してつくったという「巨石積み堰堤(砂防ダム)」を見て駒野駅に戻るというコース。5.7㎞+αを歩きました。

Img_9267c Img_9270c_20200403174001  市神神社。猿田彦命(さるたひこのみこと)を祀っています。創立年月日は不詳ですが、古来より崇敬が厚く、明治3(1872)年11月に再建したといいます。

Img_9259c  駒野招魂社が隣接してありました。招魂社の境内には、紀念碑。明治33(あるいは35)年Img_9262c に建てられていますので、日清戦争にかかわるものと思われますが、草木が生い茂っていて、詳細は読めません。

Img_9295c_20200403175001  途中、やや端折りますが、専通寺の近くにお地蔵様。こImg_9298c_20200403175001 のあたり、道が思っていたよりもかなり細く、微妙に曲がっていて、昔のままと思われます。このお地蔵様、なかなかよいお顔をなさっていました。

Img_9326c_20200403175401  黄金山専通寺。真宗大谷派のお寺。9時45分に着きました。ここは、しだImg_9308c れ桜で有名。樹齢二百数十年と百数十年の2本の親子しだれ桜があり、古くから地域の人々に親しまれているといいます。葉が出て来ており、時期的にちょっと遅かった気がしますが、さすがに立派でした。

Img_9314c_20200403175501

 私がついたときには、他には女性が一人、写真を撮っておられただけで、ほぼ独占状態で楽しめました。あちこち周りながImg_9318c_20200403175501 ら、写真を撮ってきました。ここ専通寺、ネットで調べたのですが、情報が出て来ませんでしたので、その由緒などは分かりませんでした。

Img_9391c  専通寺の山門とそこへ続く参道。いい感じでした。古刹という感じ。この参道入り口には、Img_9302c忠魂碑と「南無阿弥陀佛」の名号碑がありました。忠魂碑は、昭和8(1933)年5月に奥條在郷軍人青年会が建てています。名号碑は、昭和22(1947)年2月、奥條信濃會が建てたもの。

Img_9371c_20200403193701  さらに、その北には、「九条殿御納経地」という石碑がありました。「安政三丙辰年三月建之 黄金山」と刻まれています。九条殿があの九条家であるなら、藤原氏の一支族で、五摂家の一つとして代々摂政,関白に任じられることが多かった家ですが、詳細は分かりません。あまりにも想像をたくましくするのも何ですから、次へ(微笑)。

Img_9440c_20200403195101  専通寺から南へ300mほどいくと、羽根谷だんだん公園に行き着きます。さぼう遊学館巨石積堰堤を中心にした自然豊かImg_9466c_20200403195101 な公園です。今の季節、羽根谷に沿って約1,800本の桜が咲くそうです。とくに八重桜は、1,000本もあるといいます。ここは、本当に見事。桑名ですと九華公園や走井山が桜の名所ですが、ここに来てみて、羽根谷だんだん公園の方が見応えがあることを実感しました。

Img_9476c_20200403200701 Img_9486c_20200403195201  羽根谷は養老山系の代表的渓流で、昔は大雨ごとに大量の土砂を押し出し、広大な扇状地をつくり、津屋川や揖斐川を埋めて大洪水の原因となっていました。そこで、河川氾濫を防ぐため、明治6(1873)年に政府が招いたオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの指導で砂防工事が進められました。「砂防先達之碑」は、昭和62(1987)年9月に先人の業績に感謝して建立されています。

Img_9502c  上流の方向へ進み、さぼう遊学館のところを目指します。途中、八重桜の並木。すでに咲き始めていました。1,000本あるとImg_1674c_20200403195201 いいますが、ここはたぶんその一部。

Img_9530c_20200403195201 Img_9551c_20200403195301  前方に巨石積堰堤が見えてきます。これが、ヨハネス・デ・レーケの指導を得てつくられた砂防ダムです。羽根谷には多くの巨石積堰堤があります。ヨハネス・デ・レーケの教えにより、明治11(1878)年に着工し、明治24(189)年に完成しています。

Img_9554c_20200403195301  堰堤に使った石は、人がそりに乗せて運んでいたそうです。石を切り出した跡が、現在も残っているそうです。この明治時代Img_9573c につくられた砂防ダムは、現在も土石流から人々の暮らしを守るための働きをしているといいます。高台にあり、眺めもかなりよいものがありました。いや、来てよかったですねぇ。

Img_9597c  この巨石積堰堤は、さぼう遊学館のすぐ近く。ここで10時50分頃でした。ちょうど小腹も空いてきましたので、一休み(微笑)。近所の方からいただいたお菓子を持参していましたので、それをいただき、お茶を飲んで10分ほど休憩。奥に見えているのが、さぼう遊学館。ただし、新型コロナウィルスの関係で、4月12日までは休館中でした。

Img_9602c_20200403195301  11時に再スタートして、駒野駅まで戻ります。登ってくるときは背後(東)の景色はあまり眺めませんでしたが、帰り道、上から眺めるとかなりよい眺めでした。揖斐川を挟んだ海津の市街地から、名古屋の方まで見渡せます。こういう広々として、開けた空間は気持ちいいですね。日頃のモヤモヤを忘れさせてくれます。

Img_9616c_20200403203201  専通寺の方に戻り、ほぼ来た道を辿って駒野駅に向かいます。羽根谷だんだん公園を出てすぐのあたりで、Img_9639c_20200403195301 駒野駅まで1.5㎞、約20分。薩摩カイコウズ街道のところまで戻ったら、お地蔵さんと石碑があるのに気づきました。お地蔵様も石碑も詳細は不明。石碑には、「奉……」と刻まれているのですが、薄くなって判読困難。「嘉永七……」とあるような気がします。嘉永7年であれば、1855年で、この年に安政に改元されています。

Img_9657c_20200403195301  往きにもここを通ってきたのですが、駒野駅の南には、ナイガイテキスタイルの工場と、シキボウ物流センターがあります。Img_9653c_20200403204001 ナイガイテキスタイルは、シキボウのグループ企業。シキボウは、明治25(1892)年に有限責任伝法紡績会社として創業。私の世代には、敷島紡績という名前が馴染みがあります。私が通ったのは、西側のナイガイテキスタイルの工場脇。西側から見える範囲は、ちょっと荒れた感じ。祠と鳥居も見えたのですが、手入れはされていないような印象。繊維業ですから、最盛期にはさぞ栄えたと思います。

Img_9690c  駒野駅には、11時35分に戻って来ました。駒野駅に着いたときに時刻表を確認したつもりでしたが、どうもImg_9691c_20200403195401 大垣行きの時刻を見たようで、11時56分に桑名行きがあると思い込んでいました(苦笑)。実際には、11時43分に桑名行きがやって来ましたが、無事に乗車。¥470。播磨までと同一料金。帰りは桑名まで乗車。12時18分着、徒歩にて帰宅。

Img_9753c_20200403195401  ALKOOのデータ。歩いたのは、駒野で5.7㎞。桑名駅から自宅が0.9㎞ですから、合計6.6㎞。歩数は、14,158歩でした。けっこう疲れたようで、午後から1時間半も午睡を貪っておりました(苦笑)。

Img_9741c  オマケ。今日はあちこちでツバメが飛び交っていました。こちらは、桑名駅を出たところで見たツバメ。巣をつくって(修繕して)、営巣するのはもう少し先と思いますが、また、ツバメの巣の巡回もしなくてはなりません。

Img_9749c_20200403195401  オマケその2。マイソメイヨシノ。玄関先から見下ろした写真です。ここ何日か、新型コロナウィルスにまつわる動きについてぼやいておりましたが、よほどのことがなければもうやめておきます。例の「アベノマスク」は、経済官庁出身のお役人が、「マスク2枚を配れば、国民の不安は吹っ飛ぶ」と安倍首相に入れ知恵したという話があります。これが本当なら、まったくわれわれを舐めているとしたいいようがありません。呆れましたので、もうぼやくのも止めようと思った次第。いずれにしても、私も含め、皆様にはくれぐれもご留意、ご自愛ください。「移されない」というのも大事ですが、「移さない」配慮も大切と思っています。

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2020年4月 1日 (水)

20200329「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」(その1)……北勢線星川駅をスタート、星川神社、星川山安渡寺、森忠名神明神社、ヤマモリの工場を見て、天皇八幡神社、市天然記念物のクロガネモチの木へ

200329hoshikawatouin  3月29日に「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」に行きました。今回は、その本編その1です。昨今の状況下では、不要不急の外出に間違いはありませんが、人と接触がきわめて少ない、旧街道を歩くハイキングなら、コロナの感染リスクも低く、健康増進にもよいと勝手に考え、3月15日の「益生(三ツ矢橋)~星川」に続いての第2弾として、三岐鉄道北勢線の星川駅から、桑名の隣の東員町にある北勢線・東員駅まで歩いてきました。休日の北勢線は、1両にせいぜい数人の乗客、歩いているのは旧街道で人混みとはほど遠い。昼食だけはカフェレストにてという次第。

Img_8071c_20200331203101  当日は、朝、雨がわりと遅くまで残りましたので、スタートを11時に変更。三岐鉄道北勢線西桑名駅を10時35分に発車Img_8085c する楚原行きに乗車。星川駅には10時48分着、¥240。実際には、10時55分にスタート。今日も、前回同様、K氏、M氏との「オッサン三人旅」。私の悪影響を受けたのか、お二人とも「是非とも行く」という意気込み(微笑)。何だかツアーコンダクターになった気分。「太一丸ツアーズ」か、「mamekichiトラベル」という会社でも立ち上げようかと思ったりします。

200329hoshikawatouin1  さて、実際に歩いたルートマップの詳しいもの、その1。星川駅を出て南へ。町屋川(員弁川)の堤防に突き当たるところからが、員弁街道。右折して、西に向かいます。1㎞までの間に星川城跡、星川神社、安渡寺とあります。星川の町を進み、森忠名神明神社(マップでは名神明神社)に寄って、2㎞を過ぎたところで天皇八幡神社(マップでは八幡神社)と市天然記念物のクロガネモチの木を見ます。続いて、道標を1つ確認してから七和駅の方に入って薬師堂。

Img_8089c_20200331211701  星川駅を出て300mほどで嘉例川(かれがわ)を渡ります。嘉例川は水量が少なく、すぐに枯渇するため、「枯川」の意味で名づけられたといいます。上流には、市天然記念物の「ヒメタイコウチ」が生息します。ヒメタイコウチ(姫太鼓打)は、カメムシ目タイコウチ科に属する小さな水生昆虫なのですが、私は見たことはありません。絶滅が危惧されていて、嘉例川地区ではビオトープを整備するなど保護事業も行われています。

Img_8087c_20200329180801  嘉例川を渡るあたりから進行方向(北西)を見た写真。中央に見える白い建物(万代家具)に向かって左手あたりに星川城がHoshikawacastleruin ありました。室町時代、春日部若狭守が居城したといいます。春日部氏は、旧朝明郡萱生(現在の四日市市萱生町)の豪族で、星川城主はその一族。織田信長の伊勢侵攻の時に滅んだといいます。現在は、はっきりした遺構はないようです(こちら)。右の画像は、桑名市教育委員会の文化財のサイトにある遺跡分布図に目印を記入したもの(こちら)。オレンジの網掛け部分が、星川城跡と考えられています。青いルートが員弁街道。

Img_8091c_20200331212901  嘉例川から少し先の員弁街道の様子。ゆるやかな登り坂になっています。偉そうにM・K両氏を引率して歩いていましたが、この先、実は未知の土地(苦笑)。予め調べて自作したコースマップを見ながらの道中なのです。

Img_8093c_20200329182201  星川駅から600mほどで星川神社。街道の北側に「延喜式内星川神社/神厨星川神明神社」と刻まれた社号Img_8109c_20200331213401 標があります(明治34(1901)年建立)。右は、一の鳥居。

Img_8106c_20200331213401  御祭神は、天照皇大神。相殿神は、須佐之嗚命(すさのおのみこと)、大山祇神(オオヤマツミノカミ;山の神)、宇迦之御魂神(うかのみたまのみこと;五穀、食物をつかさどる神)、火産霊神(ほむすびのかみ;火の神)。一説によれば、この地を開拓した星川武彦命の祖先を祀るともいいます(勢桑見聞志抄)。社伝によれば、創立は応神天皇時代とされますが、詳細は不明。明治40(1907)年11月に八坂神社、御厨神明社、山神社を、また、同45(1912)年2月に大字仲新田の稲荷社を合祀しています。ちなみに、勢桑見聞志抄は上巻が、桑名私立中央図書館のサイトで見られます(ここ)。

Img_8102c_20200331213401  神社は、台地の上にあります。社殿の背後は、この写真のようになっていて、「このあたりも星川城の範囲だったのかという気もした」と予告編に書いたのですが、上記の遺跡分布図によれば違ったようです。しかしながら、地図や資料を見たり、現地に行ったりして、あれこれ想像をたくましくするのは楽しいものです。

Img_8115c_20200329183101  街道に戻って、1㎞の手前に星川山安渡寺(ほしかわざんあんどじ)。ここは、特定の宗派には属さない単立Img_8130c_20200331220201 の寺院。ご本尊は、平安時代の聖観世音菩薩(桑名市指定文化財)。蓮華座、仏身約35cmの檜の一木造りで、平安中期の作とされます。伊勢巡礼30番札所といいますが、この「伊勢巡礼」は不明。

Img_8120c_20200329183201  奈良時代、行基によって創建され、その昔、本堂裏に行基の腰掛松があったといいます。星川城主・春日部Img_8148c_20200329183201 若狭守によって大伽藍が建立されたといいますが、織田信長の兵火で焼失したといいます。鎌倉時代から「星川の観音さん」として知られていたことが、四日市市南富田町の善教寺が所蔵する阿弥陀如来像の胎内文書に記されているそうです(こちらにその紹介があります)。子安観音として安産守護の霊験あらたかで、また開運・厄除けの守護としても人びとから篤く信仰されています。

Img_8152c_20200331220501  境内には、見事なしだれ桜(左の写真)とソメイヨシノがありましたし、ここからの眺めはかなりよいものImg_8122c があります。

Img_8158c_20200401071602  安渡寺を出てしばらく行くと森忠に入ります。員弁街道は、左の写真のような感じ。前回の三ツ矢橋から星川あたりは、クルマもほとんど通らなかったのですが、星川から西は、けっこう車が頻繁に通ります。このあたりの方が、前回歩いたところよりも住宅が多いからなのだろうと思います。旧東海道や、旧伊勢街道(参宮街道)も生活道路になっているところが多かったのですが、員弁街道のこのあたりもそうなのでしょう。

Img_8159c_20200329193301  森忠名神明神社(もりただなしんめいじんじゃ)が、1.2㎞ほどのところにあります。ちょっと珍しい名前の神社です。主祭Img_8169c_20200329193301 神は、天照皇大神。相殿神は、大山津見命。創始は不詳。古代、このあたりは伊勢神宮の領地で、「守忠」あるいは「盛忠」という人の名田(みょうでん)でした。神宮の領地管理に貢献があったので、その名が地名となったといいます。守忠/盛忠の名田に建てられた神明社から、神社の名前が来ています。

Img_8176c  この神社の境内には、「伊勢神宮遙拝所」と、「神武天皇遙拝所/明治天皇遙拝所」の石碑がありました。写真で向かって左が伊勢神宮遙拝所です。さほどたくさん見て回ったわけではありませんが、桑名市内の神社では、こうした遙拝所は初めて見ました。両遙拝所とも、皇紀二千五百八十三年(大正12(1923)年)に山上甚兵衛という方が建立しています。

Img_8171c  拝殿に向かって右手(東)にもう一つ、社殿がありました。神社検索三重のサイトには、「末社火産霊社(祭神火産霊命)」と、村内の「山神社(祭神大山津見命)」が、いずれも明治40(1907)年に合祀を許可されたとありますので、これらのどちらかかと思います。

Img_8188c  2㎞ほどのところにヤマモリの桑名工場があります。ヤマモリは、明治22(1889)年創業。三林専太郎が、Img_8190c 味噌・しょうゆ醸造業を始めました。今日では、それ以外にもかまめしの素、レトルト食品なども製造しています。三重大学カレーや、桑名カレーのレトルトもつくっています。ちなみに、昭和42(1967)年に日本で初めて「袋詰液体スープ」を発売したそうです。工場の正門脇に朱い鳥居が並んでいましたので、お稲荷さんが祀ってあるかと思いきや、猿田彦さんでした。工場、会社などにはお稲荷さんが定番だと思っていました。猿田彦さんは、導きの神様ですから、これもありかも知れません。

Img_8194c  ヤマモリのすぐ先の北に天皇八幡神社。芳ヶ崎(はがさき)の産土神。春日社と牛頭天王社を相殿とします。御祭神は、品陀和気命(ホンダワケノミコト;応神天皇)、素盞嗚命(すさのおのみこと)、火産靈命(ほむすびのみこと)、大山津見命(オImg_8199c オヤマツミノミコト)、天兒屋根命(アマノコヤネノミコト)。由緒は不詳ですが、鳥居は文化2(1805)年に再建した記録があるといいます。

Img_8209c_20200403051901  境内には、拝殿横に順正稲荷大明神があります。以前には、このあと訪れる薬師堂の南に鎮座していたのでImg_8203c_20200403051901 すが、祠の老朽化もあり、建て替えて、平成24(2012)年11月に遷座。拝殿の屋根瓦には菊の紋章らしき模様がありましたが、よく見ると花弁が12枚。本物の菊の紋章は「十六八重表菊」ですから、異なったもの。ちなみに、天皇八幡神社という名前も、牛頭天王辛きていると説明がありました。

 ここの社号標に「村社」とあるのを見て、M氏から「村社とは?」と尋ねられました。神社には、その等級を示す「社格(しゃかく)」がありました。歴史的にそのあり方は変遷していますが、明治以降は、官幣の大社、中社、小社、国幣の大社、中社、小社、別格官幣社、府社、県社、郷社、村社、無格社などの別が定められました。第2次世界大戦後廃止されていますが、今でも「旧社格」といって、神社の格を表す目安になっています。Wikipediaの「近代社格制度」に詳しく説明がありますが、端的には、どこから奉幣(ほうへい)を受けるかということです(ちょっと乱暴な結論ではあります)。

Img_8222c_20200329194501  天皇八幡神社の南、員弁街道を越えたところに市の天然記念物に指定されているクロガネモチの木があります。クロガネモチは暖地に生える常緑高木。これは、天皇八幡神社のご神木で、地元が大切に守っていますが、剪定などはしてはならないとされているそうで、周囲にお住まいの方にはご苦労もおありのようです。多数の枝を四方に張り見事な傘状をした名木です。

 長くなりそうですから、ひとまずここで区切りとします。その2は、この近くにある九華はちみつ、道標、薬師堂から。 

 

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