寺院

2018年8月13日 (月)

ツクツクボウシの鳴き声を聞きました……イソヒヨドリとお遊び写真、花火も

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 お盆になりますので、寺参りに行ってきました。左は、真宗大谷派桑名別Img_9920c 院・本統寺、右は真宗高田派・常信寺です。いずれも寺町商店街の西にあります。我が家は、オヤジの本家からしてお墓がありません。理由は聞かされておらずよく分かりませんが、今にしてみれば、時代の超最先端を行っていたのかと思ったりもします。
Img_2233c 7時50分から散歩に出ました。5時過ぎに起きたときには、それなりに涼しいと感じたのですが、この時間にはいつものように蒸し暑いくらいでした。いつも通り、住吉神社、九華公園、歴史を語る公園、京町、寺町と5.2㎞。この時期にしてはまあまあでしょう(と自己満足)。そうそう、忘れないうちに書いておきますが、三の丸公園でツクツクボウシの鳴き声を聞きました。
Img_2161c  相変わらず野鳥は少なし。左の写真は、揖斐長良川の中洲。アオサギがよImg_9905c_2 く集まるところ。肉眼では何も見えなかったのですが、写真で確認したら、アオサギが1羽写っていました。右は、柿安コミュニティパーク脇の堀端に北イソヒヨドリのメス。木陰でしたのでこんな色。イソヒヨドリ、この頃あまり見かけません。
Img_9914c 九華公園、お盆になるということもあってか散歩する方はいつも以上に少なImg_2171c し。バールフレンドのTさん、Yさん、鳥見の大先輩Sさんと他に2~3人。Tさんたちは、いずれも御年80歳前後、頭が下がります。九華公園にいたのは、スズメとムクドリ、カルガモ1羽。
Img_9918c 歴史を語る公園。九華公園から京町に向かう途中、南大手橋のところにあります。夏になると、ギンヤンマなどトンボがよくいたのですが、今年はサッパリ。この公園、東海道五十三次をモチーフにしています。
Img_2226c 寺町商店街は三八市。大賑わい。花屋さんの店頭には鬼灯。お盆の風Img_2223c 景と思って、撮ってきました。
Img_9932c 桑名別院・本統寺の池。睡蓮が数輪咲いています。撮っているときには気づかなかったのですが、端っこにイトトンボの姿があります。
Img_2203c 桑名別院でお遊び写真。前にも載せたことがありますが、池の側に建つ照明灯の裏側にある反射板に写った景色。向かって右に山門と池、中央の木々の向こうには寺町商店街の建物(ただし、裏側)、左の方には鐘楼と同朋会館の建物。
Img_2238c セミの数が減ってきました。上にも書きましたが、ツクツクボウシの鳴き声が聞こえましたから、季節は進んでいると思えます。午後からはシエスタのあと、お仕事。来週の教研研究大会の資料読みと、話題提供の資料作り。暑いせいもあって、なかなか考えがまとまらず。
Img_2308c 夜は、またナガシマスパーランドの花火。一昨日よりは多少マシになって来ていると自己評価。

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2018年7月24日 (火)

20180714近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」(その2)……旧・大矢知村役場跡、龜屋佐吉でかき氷、八郷小学校の3つの石碑から東名阪自動車道まで

Img_9104c  7月14日に出かけた近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」のその2です。実はいったん書き始めたものの、再起動せざるを得なくなり、ガックリ(苦笑)。猛暑などもあって、しばらく続きを書こうという気力が戻ってこなかったのです。

Img_9159c 伊藤手延製麺所の先の3差路を右折し、200mほど行くと、旧・大矢知(おおやち)村役場跡に出ます。現在は、JAみえきた大矢知があるところから道を挟んだ向かい側です。冒頭のコースマップでは、「記念碑」と書かれているところですが、他の参加者の方々は、見向きもされません(苦笑)。
Img_9158c 大矢知村は、後で出てくる三岐鉄道三岐線・大矢知駅の周辺で、明治Img_9150c 22(1889)年4月、町村制の施行により、朝明郡垂坂村・西富田村・蒔田村・松寺村・大矢知村(枝郷山添を除く)・下之宮村・川北村の区域をもって発足。昭和29(1954)年7に四日市市に編入されました。ここには、昭和3(1928)年に建設された村役場が昭和63(1988)年四日市市大矢知地区市民センターの新築移転によって取り壊された跡地という石碑が建っています。
 余談ですが、大矢知の地名は、朝明(あさけ)川流域で最初の大きな谷地を形成することに由来するといわれます。古くは朝明郡に属し、中世には「大矢知御厨」がありました。「御厨(みくりや)」は、神領。伊勢神宮の神領を御厨、御園 (みその) と呼んでいますから、このあたりもそうだったと思われます。江戸時代に入ると、大矢知村は桑名藩領となりますが、文政6(1823)年には武蔵国忍藩領、天保13(1842)年に幕府領(近江信楽代官所支配)、安政元(1854)年に再び忍藩領となっています。
Img_9146c この跡地にはいくつかの石碑があります。まずこれは、「日清戦役従軍祈念碑」です。「陸軍中将男爵大鳥義昌書」と書かれています。大鳥義昌は、明治27(1894)年7月の日清戦争開戦時には、第9旅団を率いて朝鮮半島におり(朝鮮国の首都漢城(ソウル)市内に1,000、その郊外に主力の7、000が駐留)、本国からの命令一下、清軍といつでも戦闘開始出来るよう準備を整えていたといいます(こちら)。この祈念碑は、明治40(1907)年の建立のようです(こちら)。
Img_9149c 日清戦役従軍祈念碑に向かって左には、「慰霊塔」が建っています。いのりむし文庫の説明では、「三重県遺族会『終戦50周年 三重県遺族会記念史』(平成7)によると、大正7年、帝国在郷軍人会大矢知村分団により設置され、1952年再建されたようです。かつては大矢知興譲小学校校庭にあったようですが、移築の時期・経緯は不明」ということです。大矢知興譲小学校は、ここから北西に100mほど。大正7年は1918年、1952年は昭和27年。
Img_9152c もう一つは、「西南の役 殉難碑」です。西南の役(西南戦争)は、明治Img_9155c 10(1877)年に鹿児島士族が起した、西郷隆盛を首領とする大規模な反乱ですが、政府軍としてこの地区からも多くの方が出征したといいます。11名の方のお名前我刻まれているとありますが、石碑そのものはかなり風化して読みにくくなっています。 元は観音山にあったあります(大矢知興譲小学校のすぐ西に観音寺がありますので、そこかと思います)。
Img_9164c 大矢知の町の中を歩き、三岐鉄道三岐線の踏切を越えると写真の道に出ます。ここは、八風道。八風道の起点は、四日市市富田一色。すぐに東海道と交差し、ここ大矢知、平津を経て菰野町田光で巡見道と合流します。巡見道の西は、八風越の道が八風峠を越え、滋賀県に至り、近江八幡市武佐町(中山道武佐宿)まで続きます。なんとなく昔からの道というイメージ。ここを西へ。この先に楽しみがあるのです(微笑)。
Img_9167c それはこちら。亀屋佐吉という和菓子屋さん。2年前にここに来たことがあります(2016年7月3日:コアジサシの営巣地で給餌シーン……なばなの里ではコチドリが抱卵、午後からは龜屋佐吉で氷(苦笑))。このときは、「白玉和三盆金時みるく」を食べたのですが、今日もコースマップには「お茶の振る舞いと和菓子の販売」とあり、ひょっとしたらかき氷も……と期待していたのです。暑い中、3㎞半ほど歩いてきて、汗だく&ヘロヘロになりかかっていましたし。
Img_9168c ありました! 「近鉄ハイキング限定200食 かき氷」です(微笑)。メニューに「白玉和三盆金時みるく(¥690だったと思います)」はなかったのですが、「和三盆みるく ¥280」があります。この中ではもっとも良いお値段ですが、もうこれをチョイスするしかありません。他の参加者の方は、ご存じないのか、イチゴやメロンを頼んでおられます。
Img_9175c こちらが、その「和三盆みるく」。白玉が入っていると、和菓子屋さんのものだけに絶品なのですが、今日はこれで大満足ですし、これが¥280なのですから、いうことなし。和三盆みるくを食べて、汗も引き、元気も回復。まさにかき氷パワーです。龜屋佐吉さんについたのは10時10分くらい、出発は10時25分。八風道をもう少し行きます。
Img_9182c 三岐鉄道三岐線・大矢知駅に入らなければならなかったのですが、またもやコースミス。少し行き過ぎました。歩きながら左後ろを振り返ったら、駅が見えて気づいた次第。他にも数名。慌てて戻って、正しいコースへ。駅の東を回って、裏に入り、大矢知幼稚園へ。
Img_9185c 幼稚園の前(南)に石碑が2つ建っています。向かって右のものは、「神Img_9186c 社御旧蹟」とありますが、これはネット検索では情報が得られませんでした。ネット検索では調べるのに限りがありますねぇ。向かって左の石碑には、「白龍○神」と刻まれていると思うのですが、これも不明(最初の文字はたぶん「白」。間違っていたら、ご教示ください。3文字目は、縄で隠れた部分があります)。
Img_9195c 大矢知から大矢知新町の住宅街を抜けて北に曲がります(左の写真)。Img_9202c ここで再び三岐鉄道三岐線を陸橋で越えますが、その手前から伊坂ダムが遠望できます(左の写真の中央)。右は、養雲寺跨線橋に差し掛かったとき、ちょうど西藤原行きの電車が通過。
Img_9204c 跨線橋を降りたところが、八郷小学校。八郷小学校は、八風道に面しています。ここには、石碑が合計3つありまImg_9205c した。まず、校舎南側に2つ。西側の運動場入り口に1つ。校舎南にあった2つの内、向かって右は「平田翁頌徳碑」。
平田翁とは、八郷村村長を務めた平田武氏。こちらに碑文が載っています。昭和28(1953)年12月の建立。篆額は三重県知事の青木理題、村上国市撰、水谷潔書。
Img_9207c 向かって左は、「島翁彰功碑」。「島翁」とは、島豊太郎氏。島氏は、江戸、明治、大正期の生涯を通じ、平津村村長、八郷村村長を歴任した方です。この碑は、大正8(1919)年8月建立。三重郡長従五位勲四等今村真福撰、斉木参渓謹書。八郷地区の広報誌に説明があります(こちらと、ここと2回)。
Img_9214c 八郷小学校西、運動場への入り口にあったのは、「忠魂碑」。建立年は、不明ですが、「陸軍中将渡辺章 書」とあります。三重県遺族会のサイトには「英霊137柱を祀る」とあります。裏には、以下の戦没者を対象としたものであることが記されています。
明治二十七八年日清戦役戦没者2名
明治三十七八年日露戦役戦没者11名
大正七年起シベリア出兵戦没者1名
昭和十二年起日支事変戦没者14名
昭和十六年起大東亜戦争戦没者109名

Img_9219c 八郷小学校でスタートから5㎞。かき氷パワーも長続きしません(苦笑)。というのも、この日四日市の最高気温は34.6℃、湿度は平均77%(こちら)。こんな日にハイキングなんか、来るんじゃなかったなどと思ったりしつつ、仕方なく歩き続け、朝明川を渡ります。

Img_9222c 朝明川を渡ったところに公園らしきものがあり、木陰も見えましたので、Img_9224c 小休止することに。ここで水分補給、塩分補給。ベンチもあったので座って木陰で休憩。他の参加者の方々でも、休憩する方がありました。ここは、四日市市水道局水源管理センター分所でした。ここで10分ほど休憩し、11時再スタート。この水源管理センター分所のところで左折し、北西に向かいます。
180714kintetsuhikingtomida3 地図では、「千代田町」とあるところ。ここから、伊坂ダムまではほぼ一直Img_9226c 線。水田地帯を進みますが、稲は青々としてきていて、それは気持ちよい景色なのですが、とにかく蒸し暑いことこの上なし(苦笑)。
Img_9232c お寺を見つけてしまったので、ちょっとだけ寄り道。浄土真宗本願寺派のImg_9234c 彼佛山円光寺というお寺を見つけました。山門と本堂だけ拝見。御本尊は、阿弥陀如来(こちら)。由緒などは、ネット情報には出て来ません。
Img_9242c 円光寺から100mあまりで、東名阪自動車道の下をくぐります。ここは、もちろん日陰ですし、風が通って涼しいこと! 他の参加者の方も、帽子を取って、汗をぬぐっておられます。「今日はトンでもなく暑いね」などと話しながら、小休止。小休止ばかりしていますが、本当に暑くてしんどかったのです。
Img_9243c ここまで来ると、伊坂ダムは目の前。距離にして1㎞もないのですが、ただし、ダムに上がるのに、坂を上らねばなりません。気合いを入れ直して進むことにします。
 今日は、ここまで。その3では、鶴澤神社、伊坂ダムを経てゴールの三岐鉄道三岐線・暁学園前駅までたどり着く予定。

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2018年7月14日 (土)

20170714近鉄ハイキング「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」(予告編)……猛暑でしたが、10㎞あまりを完歩!8

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 今日も正午過ぎには35℃を超える猛暑日。熱中症警報は午後になってメールが来ましたが、暑いこと。若干迷ったものの、予定通り、近鉄ハイキングへ行ってきました(湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて)。ほぼ1ヶ月ぶり。前回は、6月9日に「桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る」に参加しています。
Img_9104c 今日のコースは、近鉄名古屋線・近鉄富田駅が受付(9時20分から)、十四Img_9102c 川堤、伊藤手延製麺所、亀屋佐吉を経て、伊坂ダムを半周し、三岐鉄道・三岐線暁学園前駅がゴール。案内では、約8㎞ということでした。桑名駅を9時1分発の五十鈴川行き急行に乗車。近鉄富田駅には9時8分に到着。¥260。駅前にはすでに数10人が集まっています。それも小生よりも高齢と覚しき方が大半。皆さんお元気です。今回は、いつものように予告編として、概要を記事にします。
180714kintetsuhikingtomida こちらは今日、実際に歩いたルートを距離測βで描いたもの。約8㎞だったはずが、ほとんど寄り道もしていないのに、10.4㎞。これに、我が家から桑名駅までの往復2㎞をプラスすると、この暑さの中、12.4㎞以上歩いたことになります。ひんやりグッズを首の後ろに貼る、水分補給をしっかりするなどの対策をしましたが、暑かったこと!
Img_9108c 受付は、お馴染み近鉄名古屋線・近鉄富田駅。ハイキングでもう何度も来ています。地図を受け取り、あみま倶楽部のスタンプを押してもらい、9時25分にスタート。なのですが、いきなり道を間違えました(苦笑)。ただし、小生だけでなく、他にもゾロゾロ。その間違え方もいろいろ。早めに曲がったり、曲がらないまままっすぐ東に行ったり。今日の地図、わかりにくいところが多々ありました。他の参加者の方もおっしゃっていたので、小生だけではありません。
Img_9109c 曲がるところを間違えて直進したお陰で今まで気になっていたものの、確かめていなかった富田駅東のお稲荷さんを見てきました。吉玉稲荷といいます。明治39(1907)年、伏見稲荷大社から勧請。境内には、「天地龍神」の石碑もありました。詳細はまた改めて。
Img_9118c  吉玉稲荷の先の、旧・東海道まで出てコース間違いに気づきました(苦Img_9127c 笑)。150mほど戻って、富田幼稚園、富田小学校の北西の細い道から十四川堤に出ます。十四川は、四日市の花見スポットの一つ。1.2㎞ほどに渡って、桜並木が続きます。
Img_9134c 十四川沿いから1.5㎞ほど歩くと、国道1号線の北勢バイパスが見えてきます。このあたりには久留部官衙遺跡があります。奈良時代の役所跡で、国指定の史跡。伊勢国朝明郡の役所があったところ。最近、この遺跡を紹介する施設「くるべ古代歴史館」もオープンしましたので、一度見たいと思っています。
Img_9139c 北勢バイパスをくぐって300mほど行くと、今日、最初の立ち寄りポイントである伊藤手延製麺所があります。このあたり、大矢知は素麺で有名(大矢知素麺)。個人的には買いたいと思っていたのですが、「買ってこなくてよろしい」という指示でスルーしてきました。
Img_9140c 伊藤手延製麺所の向かいに長倉神社の鳥居があり、昇格記念参道という石柱が立っていました。御祭神は応神天皇。他に木花之佐久夜毘売神など6柱の神様が合祀されています。ただ、神社は、この鳥居からさらに200mほど奥にあるようで、そこまで寄り道する元気、意欲がありませんでした。
Img_9159c 伊藤手延製麺所の先を右に曲がって300mほど行くと、JAみえきた大矢Img_9150c 知に出ます。このJAの向かいに旧・大矢知村役場がありました。その跡地に役場の記念碑の他、日清戦役従軍記念碑、慰霊塔、西南の役殉難碑が建っていました。
Img_9164c このあたりは、大矢知といいますが、その由来は、朝明川流域で最初の大きな谷地を形成することによるといわれれます。古くは朝明郡に属し、中世には、大矢知御厨がありました。江戸時代には、大矢知村は桑名藩領となりました。文政6(1823)年武蔵国忍藩領、天保13(1842)年に幕府領(近江信楽代官所支配)、安政元(1854)年に再び忍藩領となっています。JAみえきた大矢知から300mほどあるいて、昔の八風道に出ます(左の写真)。
Img_9167c 八風道に出てすぐに亀屋佐吉があります。ここは2年前にわざわざかき氷を食べに来たところ(2016年7月3日:コアジサシの営巣地で給餌シーン……なばなの里ではコチドリが抱卵、午後からは龜屋佐吉で氷(苦笑))。そのときに食べたのは、「白玉和三盆金時みるく」。今日も空いていたら、是非とも食べたいと思って、猛暑の中を歩いてきた次第。
Img_9175c 今日は、店舗前で近鉄ハイキング参加者向け、200食限定販売が行わImg_9168c れていました。「和三盆ミルク」をチョイス。店内で食べると¥550のところが、¥280とかなりお得。亀屋佐吉まで約3.5㎞、相当へばっていたのですが、これで元気回復(微笑)。歩き続けられます。
Img_9182c このあとコースは、大矢知駅の前から大矢知新町に向かうのですが、駅Img_9185c に入るところがわかりにくくて、行き過ぎていったん戻るというミス(他にも何名かいらっしゃいました)。大矢知幼稚園の前には、「神社御旧蹟」他の石碑がありました。
Img_9199c 養雲寺跨線橋で三岐鉄道三岐線を越え、八郷へ。この跨線橋のところかImg_9195c ら、遠くに次の目的地である伊坂ダムが見えます。右の写真でほぼ中央にあるのがそれ。
Img_9204c_2  跨線橋を下ったところにある八郷小学校には、頌徳碑など3つも石碑が建っていました。詳細は、また本編にて(これから調べるのです……微笑)。
Img_9222c 八郷小学校で5㎞を過ぎ、朝明川を渡ります。かき氷パワーも切れそうにImg_9226c なって来ましたので、朝明川を越えたところにあった四日市市水道局の水源管理センター分所の公園でまた小休止。水分補給を行い、ひんやりグッズを交換。水源管理センターから左折し、伊坂ダムへほぼ直線。東名阪道をくぐってほぼ1㎞。
Img_9232c 途中で、浄土真宗本願寺派の円光寺というお寺を見つけました。ルートImg_9243c からすぐでしたので、山門と本堂だけ拝見。その後、東名阪道をくぐります。右の写真で前方に見える山の右手から伊坂ダムに登って行きます。
Img_9248c 伊坂ダムに登って行く道に入るところに、鶴澤神社。御祭神は、天照皇Img_9257c 大神。鳥居脇脇に手水場がありましたので、ちょっとお水を拝借。タオルを濡らしたりさせてもらいました。ここから先、上り道(苦笑)。今日の難所。
Img_9255c 伊坂ダム到着は、11時半。入り口あたりで、7.2㎞ほど。サイクルパークImg_9264c 管理事務所前の木陰&ベンチで一休み。来るときにコンビニで買ったお茶は、ホットになっている有様。自販機でスポーツ飲料を買って、一気飲み。ちなみに、伊坂ダムは、北伊勢工業用水の水源として昭和41(1966)年に完成。と書きながら思い出しました。ダムカードをもらい忘れました(苦笑)。
Img_9266c サイクルパークがあり、自転車をレンタルできますし、ダム湖周囲はウォImg_9276c ーキングの方もたくさん来ます。過去に2~3回、野鳥観察に来ました。東南のあたりからは、四日市港や、ポートビル、ガントリークレーンなどもよく見えます。今日は、ダム湖周囲をほぼ半周。ちなみに、今日のテーマは、「湖面を渡る風が心地よい夏の伊坂ダムを訪ねて」でしたが、ほぼ無風でした(苦笑)。
Img_9292c ダム湖の北西には、近くにある県立桑名西高校カヌー部の艇庫がありImg_9297c ます。今日もたくさんの生徒たちが集まっていました。ここまで来ると、ゴールまではあと1㎞ほど。少し上れば後は、ほぼ下り坂。ただし、木陰がないので、暑いこと。
Img_9302c 坂を下りてくると、西には鈴鹿山脈が見えます。御在所岳のロープウェイImg_9307c は、改修工事が終わり、ゴンドラも新しくなって、床がシースルーだそうです。今の時期頂上まで行くと、涼しいだろうななどと思いながら、暑さに耐え、修行をするかのようにゴールを目指します(笑)。再び朝明川を渡りますが、ここでアオサギ1羽と、ダイサギ(?)1羽を目撃。
Img_9316c 12時少し過ぎ、三岐鉄道の跨線橋からゴールの暁学園前駅が見えてきImg_9323c ました。ようやくゴールできそうな実感。12時10分に到着。スタートから2時間45分かかりました。暑くてヘトヘトであります。
Img_9327c 切符を買っていたら、12時11分発の近鉄富田駅行きの電車がちょうどホImg_9335c ームに入ってきて、ラッキー。2両編成でしたが、何とか座れ、エアコンも効いていて快適。富田までは、平津、大矢知の2駅。近鉄富田駅着は、12時21分。鉄ちゃんではありませんので、詳しくはないのですが、乗ってきた車両は西武鉄道から譲り受けたものと思います(たぶん西武の401系、クモハ105でしょうか)。
Img_9354c それと三岐鉄道の乗車券は、今でも、いわゆる硬券が使われています。小生は桑名までの乗車券を買いましたが、三岐線内のみのものと少しタイプが違うようです(こちら)。今では大変珍しいものです。ちなみに、暁学園前から近鉄桑名まで¥460でした。
Img_9338c 三岐鉄道三岐線は、近鉄富田駅に乗り入れています。近鉄名古屋線の下り(四日市、津、伊勢、大阪方面)が1番線、上り(桑名、弥富、名古屋方面)が2番線。三岐鉄道は3番線となっています。12時33分の名古屋行き急行に乗車し、桑名着は12時41分。という次第で、猛暑ではありましたが、無事に完歩し、帰宅いたしました。お付き合いくださり、お疲れ様でした(微笑)。詳細は、またいつものように何編かに分けて書く予定でいます。

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2018年7月10日 (火)

アンパンマンバスに乗って「東海道旧蹟撮影」へ

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 午後1時過ぎに32℃を超えました。梅雨明け、猛暑とお約束の通り(苦笑)。冒頭の写真のように、バス停におります。この間から時々書いていますように、九華公園の次の展示パネルの準備中。「桑名の東海道(仮称)」です。パワーポイントでパネル原稿をつくっているのですが、写真を撮り忘れていたり、どうも今ひとつという写真しかなかったりということが起きてきます。そこで、今日は、七曲見附跡と蟠龍櫓の再撮影。バスに乗って出かけ、その後は歩いてこようという算段。
Img_8940c 寺町商店街近くの寺町バス停から長島温泉行きのバスに乗車。このルーImg_7978c ト、ご覧のように「アンパンマンバス」が走っています。なぜかというと、ナガシマスパーランドに「名古屋アンパンマンこどもミュージアム&パーク」があるからです。このバス、よく見かけていましたが、乗車は初めて。もっとも内部は、ごく普通のバスでした(笑)。
Img_7980c 寺町バス停を8時38分に発車。5分で目的地の萱町バス停に到着。¥180。Img_7983c たかだか1.4㎞ほど(苦笑)。歩いてももちろんいけますが、この暑さの中、全行程を歩くのは大変と思ってのことです。目的地の七曲見附跡は、旧東海道にあった桑名藩の見附跡。今は、日進小学校と、道路を挟んだ消防団の車庫のあたりにありました(右の写真)。ここも枡形になっていたのですが、今はありません。右の写真で、向かって右手奥から来て、写真からは外れますが、左の方で奥に曲がるルートになっていました。
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 東海道上に七曲門(または釘貫門)があり、桑名城下南端の見附。この名前は、七里の渡しから7度曲がったところにあるからといいます。小学校の敷地内に左の写真のような案内板があります。7月3日に市内の東海道を歩いた記事は、7月4日のブログに載せました(桑名市内旧東海道を歩く(その2)……天武天皇社から十念寺まで【七曲見附跡などについて追記しました(7/5)】)。
Img_7999c  ここから九華公園まで歩いたのですが、その前に一ヶ所立ち寄り。日進Img_7998c 小学校のすぐ北に日蓮宗自栄山顕本寺があります。もとは天台宗で、大泉寺といい、三の丸付近にありました。永正6(1509)年、日蓮宗に改宗。慶長の町割の際、現在地へ移転。
Img_8001c 今回の「桑名の東海道」には載せませんが、ここは檀家に桑名藩士が多く、桑名藩ゆかりの人Img_8002c 物のお墓があるのです。中でも、吉村又右衛門宣充、水谷九左衛門光勝の墓は桑名市指定文化財に指定されています。今まで見たことがありませんでしたので、今日、立ち寄って来ました。
Img_8022c まずは、水谷九左衛門光勝(みつかつ)の墓(市指定文化財)。左の写真で向かって右がそれです。水谷光勝は、伊勢塩浜あたりの出身と推測されています。徳川家康最大の難とされた、本能寺の変の際の「神君伊賀越え」の折、伊勢から三河への渡海の案内をしました。その後、四日市代官、名古屋城築の作業奉行、山田奉行などを歴任しています。
Img_8009c  もう一基、市指定文化財になっているのは吉村権左衛門宣充(よしむらごんざえもんのぶみつ)の墓。宣充は福島正則に仕えて、多くの戦功を挙げたものの、福島家が取り潰され、浪人となってしまいました。あちこちの大名からの誘いがあったのですが、彼は一万石を要求したので、なかなか引き受ける大名はありませんでした。桑名藩主となった松平定綱は彼を寛永20(1643)年に、名目五千石、実質一万石で招きました。 その後の吉村家は本家、分家の二家系とも松平家の家老として代々勤めたのです。宣充は慶安3(1650)年に没し、ここ顕本寺に葬られました。
 さらに、これは桑名の方でもあまりご存じないと思うのですが、服部半蔵の墓も、顕本寺にあります。「半蔵」は、服部半蔵家の歴代当主の通称の名乗りです。2代の服部半蔵正成は、上述の神君伊賀越えの際、家康を助けた功で伊賀忍者を束ねることとなり、晩年は大名格の一万石を与えられました。
 その二人の息子が桑名藩に関係したのです。兄正就は父と同じ石見守を名乗り、桑名藩主・松平定勝公の娘・松尾を妻としました。仔細あって改易を申し付けられ、伊賀同心の支配の役目を解かれ岳父である松平定勝の元で蟄居となっています。
 弟正重は、兄の後を継いで服部半蔵を襲名し、徳川秀忠の小姓や家康の近侍、佐渡金山同心を務めました。のちに改易となり、その後、桑名藩主・松平定綱公に年寄の身分で召し抱えられ、二千石を得ました。これによって桑名藩の家老として服部半蔵家が存続したのです(大服部家)。
 なお、正就の系統は、上述のような血統から藩主一族の扱いを受け、重臣たちが住まう丸の内にひときわ大きな屋敷を与えられるなど、服部半蔵家以上に優遇されました(小服部家)。
Img_8015c  顕本寺には、服部半蔵を名乗り、家老となった系統の服部家の墓があります。現存するのは、正重(伊豆守)、正啓(正賢)、日記(内記)、正義です。
Img_8043c 九華公園には9時20分過ぎに到着。思ったより早く着きました。大雨の影Img_8041c 響で揖斐川の水が濁っており、堀に導水できない状態が続いています。そのため、堀の水位はかなり低下。右の写真のように、露出した岩にカメたちが乗って甲羅干し(いつもの甲羅干しスロープは、水面から10cm以上高い位置になってしまい、登れません)。
Img_8050c 九華公園内はいつものように一回り。この暑さなのに、散歩友達の高齢者の皆さん、元気に歩きに来ていらっしゃいます。蟠龍櫓に立ち寄って撮影。いつもは西側(三の丸公園側)から撮ってしまい、このような揖斐川の方からの写真(左のもの)は、あまり撮りません。こちら側の屋根に「蟠龍」が乗っています(写真中央あたり)。「蟠龍」は、天に昇る前のうずくまった状態の龍のこと。龍は水を司る聖獣ですから、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられています。
Img_8950c ということで、我が家から寺町バス停までと、萱町バス停から我が家までとをあわせて5.3㎞の散歩でした。アブラゼミの声が賑やかになって来て、いかにも夏を思わせます。時節柄、皆様にはご自愛ください。

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2018年7月 7日 (土)

20180609近鉄ハイキング「桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る」(その1)……走井山勧学寺

Img_5266c  6月9日に桑名で行われた近鉄ハイキング「桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る」に参加しました。概要編は、当日、記事を書きました(今日は桑名で近鉄ハイキング……桑名九華公園花菖蒲まつりと文化・歴史を知る(概要編))。勧学寺、春日神社、住吉神社について、少し詳しく書いておこうと思います。今日はまず、走井山勧学寺

20180609kintetsuhikingkuwana こちらは当日、実際に歩いたルートマップ。勧学寺は、走井山公園に隣接しています。スタートの近鉄名古屋線・益生駅からは北西に直線距離で400mほど。三岐鉄道北勢線・馬道駅のすぐ側。公園内には、コースにも設定されていた「伝村正屋敷」もあります。
Img_5314c 現在、走井山公園になっているあたりには、矢田城がありました。室町時代に毛利氏の家臣山内俊行の子俊元が、国司北畠氏に属してこの地に築城して、矢田俊元と称しています。永禄年間(1558~1570)、織田信長の伊勢侵攻の際に落城し、天正2(1574)年に滝川一益が長島城主となると、矢田城は杉山左衛門・野呂孫右衛門に守らせています。天正11(1583)年、羽柴秀吉が滝川一益を北伊勢に追った時に矢田城も落城しました。
A7a1fb06s 公園の案内板に「伊勢湾を望む風景は絶景〉とありますが、まさにその通り。戦国時代、城を築くには好適の地だったと思います。左の写真は、2014年4月3日に桜を見に行ったときに撮ったもの(上野浄水場と走井山の桜、そして三岐鉄道北勢線)。勧学寺の鐘撞堂に上がって撮りました。東の方を見ています。赤い橋は、国道23号線の揖斐長良大橋。北勢線の電車を入れて撮りたかったのですが、あいにく時間が合わず。
Img_5324c こちらが勧学寺の本堂。聖武天皇の御代(724~749年)、行基菩薩の草創によるものと伝えられています。室町の頃(1390~1570年)までは走井山北麓にありました。同地内(現在の桑名高校付近)の海善寺が廃寺となり、本尊の千手観音立像が当寺へ移されてきています。走井山矢田城主の矢田市郎左右衛門は、この観音様を深く信仰していたといわれます。その後の経緯はよく分かりませんが、桑名藩主・松平定重公(1657~1710年)の時、現在地の矢田城跡に再建されました。明治の初め(1870~1880年頃)、いったん廃寺の憂き目に遭ったものの、近在の信者有志の尽力により再興されました。本堂は、松平定重公寄進のもので、市内に現存する寺社建築としては最も古いと推測されています。この写真ではわかりにくいのですが、久松松平家の家紋である梅鉢紋が屋根瓦に残っています。三重四国八十八箇所の第3番札所伊勢西国霊場の第31番札所。
Img_5344c  ご本尊は、千手観音立像(せんじゅかんのんりゅうぞう)。平安時Img_5337c 代後期のものとされています。像高165.3cmの樟の一木造り、三重県文化財。秘仏だったのですが、保存状態が悪かったため、昭和39(1964)年に京都国立博物館内美術院国宝修理所で解体修理し、復元しました(こちら)。右の写真は、ご本尊修復に際して、修復奉賛会が掲げた説明板。
Img_5326c 本堂天井に描かれた「水飲み龍」です。『桑名の伝説・昔話』(近藤杢・平岡潤編、昭和40年9月発行)の中に、勧学寺の天井に描かれた龍について「走井山観音堂附近の井戸に、或る夜、堂の天井に描かれている龍が動き、抜け出して、井戸の水を飲みに来た。そこで龍の目に大きな釘を打ちこんだと言い、今にその釘が残っている。名画や名工の作品によくある伝説の一つである。」と記されているそうです(こちら)。ただし、現在は釘は残っていません。
Img_5328c 桑名市教育委員会の文化財のサイトには「船絵馬や俳諧札、算額などImg_5334c が本堂に奉納されている」とあります。左の絵馬?には、「元禄六年」とあります(元禄6年は、1693年)。
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 一通り写真は撮ってきたものの、説明はなく、よく分からないというのが、Img_5347c 正直なところ。こちらのサイトには、「奉納された『大絵馬』伝説なども知られている」とあるのですが、この伝説は、ネット検索では不明。
Img_5340c 左の写真のようなものなども掲げられていますが、読めません(苦笑)。崩し字の読Img_5346c み方を習いたいと思いつつ、そのままですし、分かりません。最後の文字は、「畏」でしょうか? 右の写真は、天女のように見えますが、何でしょう? 知らないこと、分からないことばかりです。
Img_9214c 太子堂です(写真は、今年4月14日のJRさわやかウォーキングの時に撮影したもの)。本堂横にあります。もとは、明和年間(1764~1772年)に桑名惣大工中が寄進したものです。しかし、平成2(1990)年2月、火災のため焼失。平成3(1991)年、市建築組合の手によって再建されています。
Img_5325c 左の写真は、鐘楼。4枚目の写真は、ここに上がらせてもらって撮りまし2b57ecf3 た(微笑)。右は、仏足石(2013年4月2日に撮影:走井山勧学寺の桜と、三岐鉄道北勢線のナローゲージ電車、そして私の好きな三猿の庚申塔)。江戸末期の作で、分類上「勧学寺様式」ともいわれる特殊な福輪相図(足裏の絵)が精密に刻まれていて珍しいとされます(市指定民俗資料の説明板による)。
Img_9215c  勧学寺境内には、地蔵堂もいくつかあります。左の写真のお地蔵様は、鉢巻地蔵。鉢巻地Img_9231c_2 蔵は、太子堂のすぐ側。右は延命地蔵。他にも、水子地蔵もあります。
Hashirizan2  江戸時代の地誌「久波奈名所図絵」にも

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走井山が載っています。走井山については、「当山は寺内に桜の木数株ありて、花の時幽艶なり。桑城の地境纔(わずか)に離て山に傍て清閑の地なる故、雅客来て常に吟詠す。七月十日の縁日には暁天より四来の参詣年々に増加せり。(俗に十日参りといふ)」と記しています。
 最近の関連記事は、次の通りです:

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20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(その5)……松阪もめん手織りセンターから岡寺山継松寺を経て、松阪駅でゴール(完)

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 5月26日のJRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」、とうとうというか、やっとというか、その5で完結編を迎えられそうです。その4では、旧長谷川邸を見たところまで。スタートから約7㎞。
Img_3889c 魚町通りから本町へ。県道24号線に面して、松阪市産業振興センターがあり、この中に松阪もめん手織りセンターが入っています。松阪もめんは、天然藍の先染め糸を使い、「松坂嶋(まつさかじま)」と呼ばれる縞模様が特徴の松阪地域で生産される綿織物です。江戸時代、松阪もめん(当時は伊勢木綿、もしくは勢州木綿と呼ばれた)が大流行したそうです。このセンターは、松阪もめんを普及させようという目的で作られました。松阪木綿の反物や商品が売られており、また、6台の体験用機織り機があり、機織り体験もできるそうですが、ざっと一通り見ただけ。商品は、こちらのリンク先をご覧ください。
Img_3892c 松阪もめん手織りセンターの東隣、本町交差点の角にあるのが、豪商ポケImg_3900c ットパーク。ちょっとしたイベントなどができるようです。四阿は、かつての三井家に存在した建物の2階部分の屋根をイメージした「寄棟」。四阿の前には「来遠像」が鎮座。来遠は、ライオン。三井家と松阪市の歴史と未来をつなぐ象徴として、三越伊勢丹ホールディングスから市に寄贈されたそうです。三越の前にいるライオンさんです。
Img_3898c この日のさわやかウォーキングのテーマを忘れそうですが、この松阪撫子です。豪商ポケットパークにも飾られていました(微笑)。この豪商ポケットパークは、上述のように、三井家との縁でここにできています。というのも、このすぐ近くに三井家発祥の地があるのです。
Img_3912c 豪商ポケットパークの東は旧伊勢街道。伊勢街道を少し北に行くと、このImg_3905c 三井家発祥の地があります。江戸時代屈指の豪商であった三井家は、松阪本町から、天下に飛躍していきました。豪商三井家の創業の祖は、3代高利(たかとし)(元和8(1622)~元禄7(1694)年)ですが、ここには白粉町(おしろいまち)来迎寺より移した初代高安と2代高俊の墓、高利の長兄らの供養碑などがあります。また、高利の産湯に使ったという伝承のある井戸や、発祥の地の記念碑も建っているそうです(ただし、内部は非公開。こちらの三井広報委員会のサイトをご覧ください)。
Img_3919c 三井家発祥の地から、旧伊勢街道を北へ100mあまりのところに、松阪商Img_3925c 人の館があります。江戸で紙や木綿を手びろく商いしていた豪商・小津清左衛門の邸宅です。小津清左衛門については、パスしてしまった歴史民俗資料館で企画展を開催していました。格子と矢来のある質素な外観ですが、内部はかなり広く、土蔵も2つ残っています。
Img_3930c 左の写真は、内蔵。18世紀初頭の建設で、木造二階建て。現在、内部はImg_3941c 資料室として、小津清左衛門や松阪商人についての資料を公開(内部は撮影禁止)。右は、台所にある竈。主屋は、17世紀末から18世紀初めにかけて建てられ、明治期まで数度にわたって増改築が施されています。見世の間、奥見世の間、勘定場など15の部屋があります。
Img_3944c 旧長谷川邸にも展示されていたのかも知れませんが、ここで千両箱万両箱を発見。どちらもこの状態で、ケースに入れて展示されていましたが、千両箱は時代劇などで見るものとイメージがかなり違っていました。松阪商人の館に着いたのが13時35分、15分ほど見学して次の目的である岡寺山継松寺に向かって、旧伊勢街道を南に向かいます。
Img_3957c こちらが旧伊勢街道。南を向いて歩いています。伊勢街道は、日永の追分(四日市市)で東海道から分岐し、ほぼ伊勢湾沿いに津、松阪と南下し伊勢へと至る街道です。歩きながら、ずっと前の方を見ますと、「和田…」という大きな建物が見えてきました。ひょっとして、これは……。
Img_4022c やはりそうでした。あの和田金です。言わずと知れた松阪肉の名店。「松Img_4017c 阪肉元祖」ということばが店名の前についているくらい。明治の創業以来130年あまり。牛銀本店よりも古い。寿き焼きコースのお値段は、松が16,700円、竹 14,600円、梅は12,200円となっています。ここも縁がありませんが、昔々、家内の友人のご両親から和田金のお肉をいただいたことがありました。
Img_3968c さて、与太話はともかく、この日最後の目的地は、岡寺山継松寺(おかでらさんけいしょうじ)。高野山真言宗のお寺。ご本尊は、如意輪観世音菩薩。通称「岡寺さん」。天平15年(743年)に聖武天皇の勅願により行基菩薩が創建したと伝わっています。東大寺建立の大事業が無事成功することを祈願するために建てられた寺院でした。元来は市内石津町にあったが、江戸時代初期の慶長17(1612年)年、時の松坂藩主古田重治により現在地に移転されました。到着は、14時。
Img_3980c 継松寺は、厄除け、開運の観音さまとして知られていますし、もう一つは、3月の初午大祭で有名です。初午大祭は、3月初めの午の日を中心に前後3日間に渡って行われ、県内の仏教寺院としては最大の規模だそうです。厄年の男女、特に振袖で着飾った19歳の女性で賑い、厄落としと称してハンカチを境内に落としていく習わしがあります。
Img_3977c この日は、「第12回松阪撫子どんな花?祭り」を開催していましたが、継Img_4007c 松寺では、撫子姫大茶会や撫子市が開かれていましたので、けっこうな賑わい。振り袖のお嬢さん方や、侍に扮した男性などもいたりしました。
Img_3986c 本堂には、奉納された絵馬がいくつかありました。いずれもかなり古そImg_3990c う。右の写真の絵馬には、「江戸 岩城屋」と書いてあります。調べてみたら、「岩城屋江戸店」の絵馬でした(こちら)。もとは近江商人で、麹町に江戸店があったようです。寺宝もいろいろとあります。それらはこちら
Img_4009c 岡寺さんで目についたもの。まずは、「千度拝標石」といImg_3970c うのが、山門をくぐってすぐ右手にありました。「お百度石」はあちこちで見ますが、「千度石」は見たことがありませんでした。もう一つはお寺の筋塀(すじべい)。白い水平線が入った土塀で、御所や門跡寺院などに用います。格式により数が増え、5本が最高ですので、岡寺山継松寺は格式の高いお寺ということ。継松寺も一度は来たかったところで、念願が叶いました。今度は、初午大祭の時にでもと思うのですが、大賑わいらしいのでちょっと迷います。
Img_3965c 伊勢街道から岡寺山継松寺への道は、「観音小路(かんのんしょうじ)」と014 呼ばれます。ここで、文政2(1819)年創業という店がありました。伊賀屋。「さわ餅」が名物。さわ餅は、松阪・伊勢志摩で身近なお餅。四角に切ったのし餅に餡を挟んだシンプルなお餅で、白とよもぎの2種類があります。いやぁ、買ってくればよかった。
Img_4023c 観音小路から旧伊勢街道へ出て300mほど。鯛屋という旅館がありましImg_4024c た。由緒がありそうでしたので、写真を撮ってきて、調べたら創業220年とか。ネットで調べると、リーズナブルなお値段でも泊まれるようですし、女将などのおもてなしもいい感じだそうです。泊まってみたいものです。鯛屋旅館の先の日野町交差点を左折(東へ)すると、スタート&ゴールのJR松阪駅までは400m足らず。
Img_4028c 途中でお寺を見つけましたので、ちょっとだけ寄り道。浄土真宗高田派の龍渓山願證寺。近江国日野から移築したと伝わるそうです(こちら)。本堂裏の墓所には小泉家歴代の墓があり、その一角に宣長の歌碑があるのですが、これは後から調べて分かったこと(苦笑)。予習をしないと、こんなことばかりです。
Img_4035c JR松阪駅到着は、14時20分。スタートから4時間5分、歩いたのは9.4㎞。Img_4039c この日は蒸し暑くて大変でした。14時54分の、これまた近鉄急行名古屋行きに乗車して帰宅。桑名駅着は、16時2分。今までのJRさわやかウォーキング、近鉄ハイキングの中でもっとも疲れた気がします。
Img_7732c  JRさわやかウォーキングのスタンプは、5個目をゲット。近鉄ハイキングに比べスローペースです。近鉄ハイキングは桑名やその近くでもかなり頻繁に開催されるのに対して、JRさわやかウォーキングJR東海のエリアで広く開催されますので、遠方には行っていないからです。
 5月26日に出かけ、記事が完成するのに1ヶ月と10日ほどもかかってしまいました。もう愛想を尽かされたかも知れません(苦笑)。見落としたところや、行かなかったところもありますので、城下町・松阪、もう一度出かけたいと思っています。
 ところで、JRさわやかウォーキングは、7、8月はお休みだそうです(こちら)。さすがに〈さわやか〉とは行かないからでしょうねぇ(微笑)。それに、開始以来参加者が500万人に達したということです。

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2018年7月 5日 (木)

桑名市内旧東海道を歩く(その3)……光徳寺から京町見附跡へ(一応、完結)【七ツ屋橋にあった常夜灯の写真を変更(7/7)】

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 「桑名市内旧東海道を歩く」のその3です。森陳明の墓があり、七福神まつりが行われる十念寺まで来ました。このあたりにはお寺がたくさん集まっています。地名でいうと、伝馬町から新町あたり。この東にある萱町、新屋敷にもお寺があります。
Img_8451c 光徳寺。山号は、鎮照山凝念院(ちんしょうざんぎょねんいん)。浄土宗。鎌Img_8459c 倉時代に泡洲崎念仏道場として創建されています。天文2(1533)年、智恩院の徳誉上人が荒廃していた道場を再建して「光徳寺」と名付けたといわれています。明治7(1874)年には、日進小学校の前身「進善学校」がこの寺で開始されました。
Img_8463c 光徳寺には、萬古焼の創始者である沼波弄山(ぬなみろうざん)の墓(三重Img_8465c 県指定史跡)があります。沼波弄山(享和3(1718)~安永6(1777)年) は 、 桑名・船場町の商人で、茶道や作陶を学び、小向(現在の三重郡朝日町小向、当時は桑名藩領)の別荘内に窯を作り製陶を始めました。後には江戸へ出て作陶し、その舶来趣味的な陶器は好評を博しました。弄山は「萬古不易」の印を用いたので、彼の作品は「古萬古(こばんこ)」と呼ばれます。
Img_8478c 光徳寺の隣には、泡洲崎八幡社があります。御祭神は、誉田別命。相殿Img_8481c 神は、天照大御神と天児屋根命。昔、新町から江場にかけての一帯を「泡洲崎」といい、 泡洲崎八幡社はこの一帯の鎮守でした。神社は現在の一色町にありましたが、江戸時代の慶長の町割りの時ここに移されました。
Img_8482c 境内には、道標があります。元は、新町北端の東海道筋にあったのですImg_8487c が、戦後、現在地に移転されています。「右きやういせみち ひだりふなばみち」とあります。天保13(1842)年に建立されたもの。
Img_8497c 光徳寺の北には瑠璃山光明寺があります。西山浄土宗のお寺。開基は不明ですが、室町時代には本町付近に設立されていて、慶長の町割の時、ここに移っています。当時の正門は、東海道筋に面していたようですが、今は違いますので、ちょっと分かりにくくなっています。
Img_8495c あとで調べて分かったのですが(こういうことが多い!)、桑名町初代町長の町田武須計(まちだぶすけ)の墓があります。元桑名藩士、昌平黌に学び、戊辰戦争では神風隊の隊長を務めました。明治になって、桑名の権大参事兼軍務総監督となり、西南戦争にも参加しています。立見尚文は実弟。
Img_8488c こちらは、教宗寺。浄土真宗本願寺派のお寺。江戸時代には、萱町にある法盛寺の塔頭の1つとして、その境内にあったのですが、昭和39(1964)年にここへ移っています。ちなみに、法盛寺はもとは三河国矢矧(やはぎ、現同崎市)にあり、室町時代後期に戦乱を避けて桑名三崎に移って来ています。長島一向一揆では本願寺の基幹寺院として重要な位置を占めました。この戦乱ののち法盛寺と改称、慶長の町割りで現在地へ移りました。
Img_8520c 教宗寺から150mほど行くと、吉津屋見附跡にさしかかります。ここには今Img_8518c でも枡形が残っています。写真では表現しにくいので、まずは左の案内板を撮影したものをご覧ください。ここには吉津屋門と番所がありました。江戸時代の初めは吉津屋町に属していましたが、その後「鍛冶町」として独立したため、「鍛冶町門」あるいは「七つ屋門(小字名に由来)」といいました。
Img_8514c1  案内図でお分かりのように、四角形の三辺を回る枡形になっています。現在でも道路は使われています。左の写真で右端に写っているのが案内板など。この角を右手奥に進み(手前側が北方向、七里の渡し方面)、ぐるっと回って、左手奥に見えている「ほねつぎ」のところに来ます(赤いラインを入れました)。石取祭の祭車もここを通ります。
Img_8510c  なお、東海道の上り方向では、この吉津屋見附跡の手前に「七ツ屋橋」がありました。西から来て鍛冶町に入ってすぐのところで、旧東海道の一部分が広くなっています。ここが、新町と鍜冶町の境をなす水堀に架けられた七ツ屋橋西詰に当たると思われます。「くわな史跡めぐり」によれば、横幅3間3寸、長さ4間1尺2寸の石橋が架かっていたといいます。
Img_7757c  また、この七ツ屋橋の近く、東海道北側には多度大社の常夜燈がありました。天保4(1833)年5月の建立。しかし自動車交通の邪魔になるため、戦後、七里の渡し跡に移築されました。左の写真は、七里の渡し跡。常夜灯の写真は、7月7日に撮影したものに変更しました。
Img_8544c 京町見附跡。京町門と番所がありました。桑名には、見附は、ここまで見Img_8543c てきたように3ヶ所あったのです(吉津屋見附跡、七曲見附跡とここ)。左の写真は、現在は京町公園になっていますがここに郷方役所(のちの市役所)がありました。門の西側は外郭堀で橋はなく、東海道はここで南に曲がり、さらに東、南と曲がる枡形になっていました。現在は、枡形はありません。
 東海道は、さらにこの先、七里の渡し跡まで800mほど続きます。しかし、この日(7/3)は京町見附跡でちょうど正午でしたので、ここまでとします。京町見附跡から七里の渡し跡については、ほぼ散歩コースでもありますので、また機会を改めて書くことにします。

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2018年7月 4日 (水)

桑名市内旧東海道を歩く(その2)……天武天皇社から十念寺まで【七曲見附跡などについて追記しました(7/5)】

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 夕方近くになって晴れ間も出て来たのですが、今日は水曜日。そうなのです、江戸橋方面のお仕事の日。朝の通勤電車、鈴鹿あたりまでは曇りだったのに、津市内に入る頃から雨が降り始めました。駅に着く頃には本降り(苦笑)。非常勤先について、授業を始める頃には小降りになって、その後はそのまま。行いが悪いのか、運が悪いのか、ジンクスは活きております(爆)。授業は、2科目ともつつがなく終了。レポートも返却。レギュラー科目は、残り3回となりました。
1c  さて、昨日の「桑名市内旧東海道を歩く」の続きです。町屋橋をスタートしたのが、9時25分頃。一目連神社は、左のマップでは、87ページ(左側のページ)のほぼ中央にあります。ここに着いたのが、10時40分頃。町屋橋からは2.1㎞ほど。2㎞あまりで1時間以上かかっていますが、写真を撮りつつ、ウロウロしつつですから思いの外、時間がかかりました。
Img_8293c 続いては、天武天皇社。御祭神は、天武天皇、持統天皇、高市皇子(天武Img_8296c 天皇の子)です。天武天皇を主祭神として祀っている神社は、全国で唯一です。大海人皇子(のちの天武天皇)が壬申の乱(672年)のときに、桑名郡家に駐泊されたことにちなみ、のちに創建された神社です。鳥居の脇に立つ石柱には「天武天皇御𦾔跡」と刻まれています。これは、幕末の桑名藩主・松平定敬公によるもの。
Img_8300c 由緒書きには、明治天皇が御東幸の際、この天武天皇社のことをお聞きになり、明治2(1869)年2月に次のような沙汰をなさったと書いてあります:天武天皇社は御旧蹟であるので、永世湮滅(いんめつ)なきよう藩において取り扱う旨、御沙汰候こと。「行政官」の名前になっていますが、この「行政官」は、慶応4 (1868) 年閏4月に定められた「七官」中の一つで、いくつかの官からなり、政府行政の中心機関でした。明治2 (1869) 年の官制改革で、太政官と改められています。
Img_8305c こちらは拝殿なのですが、賽銭箱に菊の御紋章が付いているのが目立Img_8307c ちます。まだ新しい賽銭箱ですので、比較的最近設置されたものでしょう。以前にも何度か訪れていますが、賽銭箱に菊の御紋章があったのには気づきませんでした。
Img_8304c 気になったのは、拝殿前にある鳥居。笠木や島木がなく、柱と貫だけです。壊れているのか?とも思ったのですが、柱のてっぺんには照明が付いていたりして、よく分かりません。天武天皇社は、春日神社(桑名宗社)の宮司さんが兼務していらっしゃるようですから、機会があればうかがってみたいものです。境内には、稲荷社と、もう一つお社がありました。神社検索(三重)のサイトによれば、火産霊神(ホムスビノカミ)を祀っているそうですから、そのお社かという気がします。
Img_8325c 天武天皇社の先には、廣瀬鋳物工場跡があります。桑名藩初代藩主・本多忠勝公が、城の建設などのため、鋳物師を桑名に招いたのですが、廣瀬氏もその一人で、ここに土地を与えられました。このため、この付近は「鍋屋町」と呼ばれています。文政9(1826)年には、シーボルトがここを通った際に工場を見学したといいます。戦災後、工場は移転し、現在は個人のお宅となっています。
 と、ここまで来て、何やら忘れたような気がしてきました。本を見直すと、本願寺跡をスルーしてきていたのに気づき、戻ります。一目連神社と天武天皇社の間、西側にあるのに、すっかり忘れたのです(苦笑)。戻って確認してきました。ただ、この本願寺跡、道路から奥まっていますので、見逃しやすいと思います。
Img_8338c 御影山(みえいざん)本願寺という、西山浄土宗のお寺があったとされます(マップには、本願寺と書いてありますが、現在は廃寺になっています)。由来は不詳ですが、江戸時代には本願寺村があり、古くから巨刹であっ たと思われます。室町時代に天台宗の寺として創建されたそうです。
Img_8343c 境内に梅花仏鏡塔(ばいかぶつかがみとう)と句碑(桑名市指定史跡)があります。梅花仏鏡塔は、各務支考(1665~1731)の分骨墓です。支考は美濃の人で、松尾芭蕉について俳句を学び、美濃俳壇の中心人物でした。当時のこの寺の住職雲裡坊は支考の俳諧の弟子で、「間遠社(まどおしゃ)」という俳句結社を結成していました。支考が亡くなった時、雲裡坊は骨を分けてもらいこの鏡塔を建立したのです。形が円形なのは、支考の姓「各務=鏡」にちなんだものといいます。ちなみに、この梅花仏鏡塔、「くわな史跡めぐり」では、「鑑塔」と訂正されていますし、市の観光パンフレットにもそう記載されています。
Img_8340c 梅花仏鏡塔の周囲には、句碑が立ち並んでいます。それらは間遠社歴代社長のものだそうです。ちなみに、「間遠社」というのは、桑名の七里の渡しを「間遠の渡し」ともいったことから来ていると思われます。天武天皇が桑名から熱田に渡られるとき、船が着くのが遅いので「間遠なり」と仰せられたことによるという言い伝えがあります(こちら)。
Nanamagarimitsukeato  廣瀬鋳物工場跡から日進小学校前の交差点で左折(東へ)。ここには、七曲見附があったといいます。桑名城下南端の見附で、門(木戸)と番所がありました。この名称は、七里の渡しから東海道を7度曲ってきたことに由来します。門は、「七曲門」とも「釘貫門(くぎぬきもん)」ともよび、門を出ると道は枡形に曲折していたそうです。ただし、今は、この枡形はありません。跡地は日進小学校の一部と桑名市消防団第一分団車庫付辺です。
 なお、日進小学校敷地に七曲見附の説明板と泡洲橋の親柱がありますが、今回は見てImg_8323c きませんでした。泡洲橋の親柱らしきものは、天武天皇社の境内にもありましたが(右の写真)、そうかどうかは未確認(このパラグラフ、7/5に追記しました)。
Img_8355c 報恩寺。浄土真宗本願寺派のお寺。山号は、謝徳山。「くわな史跡めぐImg_8361c り」によれば、もとは江場村にあり、ここに移ったといいます。報恩寺のすぐ隣には大悲山(だいひざん)長圓寺があります(ただし、このちゃんと歩ける東海道の本の地図には、載っていません。長圓寺は載せていただかないといけません)。浄土真宗本願寺派。もとは真言宗で江場にありましたが、明応5(1496)年、真宗に改宗、江戸時代の慶長の町割りで現在地に移りました。
Img_8370c このお寺の11世・魯繽庵義道(ろこうあんぎどう;宝暦11(1761)~天保5(1834)年)は、桑名を語る上で欠かせない人です。博学の人で、『久波奈名所図会(くわなめいしょずえ)』『 桑府名勝志(そうふめいしょうし)』(いずれも市指定文化財)などの地誌を著わした他、「桑名の千羽鶴」の創始者としても知られています。桑名の千羽鶴は、一枚の紙に切り込みを入れるだけで、連続した鶴を折るもので、寛政9(1797)年、『秘伝千羽鶴折形』が刊行され、49種類の連鶴が紹介されています(市無形文化財)。
Img_8368c こちらは、魯縞庵義道顕彰碑。平成25(2013)年1月に魯縞庵義道の事績を称えるために建立されました。このほか、墓地には、大坂相撲の力士である千田川善太郎(せんだがわぜんたろう:釈宗香・文化元81804)年没)の墓があります。千田川は四日市出身、文筆が得意でしたので、代筆を頼まれ、その筆の先に毒を塗られ、桑名で亡くなったといわれています。墓は義道が建立し「文化改元歳次甲子(1804)十月九日、難波力士千田川於当駅終(以下略)」とあるそうです(あとで調べて分かったので、今回は見ておりません)。
Img_8380c 県道421号線を渡ります。「ちゃんと歩ける東海道」の地図では、十念寺があると書かれていますが、これは間違い。この地図では、十念寺と寿量寺とが入れ替わっています。ということで、まずは妙延山(みょうえんざん)寿量寺。日蓮宗のお寺。
Img_8401c 初めは一色町にあり、天台宗で「妙蓮寺」といいましたが、法華宗に改宗し、寺の名称も改めました。江戸時代の慶長の町割の時、現在地へ移転しています。寺宝には、「銅磬(どうけい)(市指定文化財)、「日蓮聖人御本尊(市指定文化財)」などがあります。
Img_8413c 境内にある旧大黒殿(左の写真)と鐘楼(右の写真)は、平成25(2013)年Img_8397c に国登録有形文化財となりました。
Img_8391c また、寿量寺には、狩野光信の墓があ
ります(桑名市指定史跡)。狩野光信(永禄4(1565)~慶長13(1608)年)は、信長・秀吉・家康に仕えた狩野派の絵師で、安土城の襖絵などを描きました。江戸城のふすま絵を描いて、江戸から京都への帰路、桑名で病気になり亡くなり、当寺に葬られました。入口すぐ南則に「狩野光信墓」の小さな五輪塔がありますが、一見すると、これがあの有名な狩野光信の墓?と思ってしまうほど。
 なお、境内には明治2(1689)年銘の仏足石がありますが、今回は見忘れました。
Img_8418c_2 続いては、仏光山九品院(ぶっこうさんくほんいん)十念寺。浄土宗のお寺で、元は朝明寺(あさけでら)といい、朝明郡切畑(現在の三重郡菰野町)にあり、室町時代に桑名(のちの桑名城本丸の地)に移り、慶長町割の際に現在地に移ったといいます。寺宝には、「祭礼図屏風」(江戸初期)、「 当麻曼荼羅図(たいままんだらず)」(室町初期)、「仏涅槃図」(室町時代)などがあります。

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 十念寺には、西側道路を隔てた墓地に「森陳明(もりつらあき)之墓」がImg_8443c あります。森陳明は明治維新の際に、桑名藩敗北の責任を負って切腹した藩士です。森陳明は、松平定敬公が京都所司代に在職中、公用人として助け、勤王佐幕に心を砕き、戊辰戦争当時は、定敬公に従って函館に立て籠りました。戊辰戦争に負けて、朝廷から反逆の主謀者を出せと命じた時、陳明が進んで全藩に代わって出頭し、明治2(1869)年11月13日、東京深川にあった藩邸で死に就きました。享年44、法号は智勇院清挙忠誠義剣居士。九華公園には、別に殉難旌節の「精忠苦節」の碑があります。
Img_8436c 十念寺境内には七福神が祀られ、11月23日に七福神まつりが行われます。まつりでは、七福神が勢揃いし、市内を練り上げ、氏子各家の七福神祈願を行います。境内では大正琴・舞踊などが終日奉納され、七福神とミス桑名を写す会や競書大会表彰式も行われます。最後の餅投げで投げる餅は七福餅と呼ばれ、無病息災・七福開運が舞い込むといわれています。この祭り、小生はまだきちんと見たことがありません。
 というところで、今日はここまで。天武天皇社から十念寺までは、500m足らずしか進んでいません(苦笑)。時刻は11時20分。小生の歴史散歩、あちこち立ち寄って、あれこれ見て回りますので、けっこう時間がかかるのです。続きは明日にでも。

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2018年7月 3日 (火)

桑名市内旧東海道を歩く(その1)……伊勢両宮常夜燈から一目連神社まで

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 相変わらず蒸し暑い天候が続きます。いつもの散歩コースは鳥がいませんし、そろそろ九華公園に展示しているパネルの次のバージョンを仕上げなければなりません。ということで、天気も良さそうでしたから、桑名市内の旧東海道を歩いてきました。
2c 今度の九華公園のパネル展示は、東海道にしようということになっていま1c す。基本的な参考文献は、マイブックスにもあげてありますが、「ちゃんと歩ける東海道五十三次 西袋井宿~京三条大橋」です。この桑名市内のところを取り上げようということです。いつものOさんとの「企み」(微笑)。このマップに取り上げられた名所旧跡、寺社仏閣をパネル化しようということです。いつものようにパワーポイントでパネル原稿を作り始めているのですが、市内の東海道を歩き通したのはずいぶん前。チェックと、写真撮影を兼ねて、町屋橋跡から上ってきました。三交バスで城南口まで行き、京町見附跡あたりまで歩いてきました。本当は、七里の渡し跡まで行く予定でしたが、時間切れ。朝駅前のバス停まで歩いたのも含めると、8㎞。画像は、「ちゃんと歩ける東海道」の本の該当ページ。左の「伊勢神宮常夜燈(正しくは、伊勢両宮常夜燈(かように本には間違いもありますので、そのチェックも含め))」から右の画像の「京町見附跡」まで歩いて、その後は寺町を通り、帰宅。
Img_8005c 左は町屋橋。町屋川(員弁川)にかかる、国道1号線の橋。旧・東海道の町Img_8021c 屋橋は、ここより約100mに上流(向かって右)に、寛永10(1635)年に掛けられたといいます。右は、旧・東海道筋にある伊勢両宮常夜燈。文政元(1818)年に東海道の道しるべとして、また、伊勢神宮への祈願を兼ねて、桑名・岐阜の材木商が寄進したもの。向かって右に建つのは、里程標。町屋川の中央から北が桑名郡であること、三重県庁・桑名郡役所までの距離が刻まれています。里程標は、明治26(1893年)の建立。「三重縣廰拾一里丗甼余」、「桑名郡役所丗三町余」とあります。桑名郡役所は、現在の総合福祉会館です。
 常夜燈からすぐのところに玉喜亭があります。このあたりは安永立場の跡で、玉喜亭の本宅で安永餅が売られていました。その話は、6月24日に書きましたので、そちらをご覧ください(20180624勝手に近鉄・三交バスハイキング「朝日町天神山、苗代神社、縄生廃寺跡から東海道を江場まで」
Img_8071c 国道258号線を地下道でくぐり、しばらく行くと、西側(左手)に晴雲寺があImg_8100c ります。浄土真宗大谷派、山号は清浄山。右は、城南神社。倭姫命が皇祖神天照大神の鎮座地を求めて巡行なさったとき、この地で休息したとの言い伝えがあります。晴雲寺、城南神社ともに、“20180624勝手に近鉄・三交バスハイキング「朝日町天神山、苗代神社、縄生廃寺跡から東海道を江場まで」”に詳しく書きました。
Img_8142c 日立金属桑名工場の東あたりは、今ではまったく面影はありませんが、江戸時代は家はなく、松並木が続いていたところ。鈴鹿山脈もよく見えたといいます。6月24日は、ここで時間切れとなっていました。
Img_8146c 城南神社から300mほど進みますと、了順寺に出ます。桑部山と号し、浄土真宗本願寺派のお寺。戦国時代の桑部城主・毛利秀重の孫・秀元が出家して元和7(1621)年に創建した寺。写真に写っている山門は、桑名城の門を移したものといいます。
Img_8175c 神戸岡神社。「ごうどおかじんじゃ」なのか「かんべおかじんじゃ」なのか、不明(資料によって読み方が違うのです)。縁起は不詳。このあたりに伊勢神宮の領地があり、古地図には「神戸岡」とあるそうです。明治には、立坂神社に合祀されたものの、昭和35(1960)年に現在地に再建。
Img_8195c 矢田の火の見櫓跡。文政8(1825)年、町方からの願いによって火の見櫓Img_8223c が建てられています。現在のものは、東海道宿駅制定400年を記念して復元されたもの。矢田には立場があったのですが、それは、国道1号線の矢田町西にある善西寺のあたり。右がその善西寺。山号は走井山。浄土真宗本願寺派のお寺。善西寺を検索したら、ご住職は、名古屋大学大学院理学研究科修了の理学博士。生命科学の研究者でいらしたそうです。なお、「ちゃんと歩ける東海道五十三次 西袋井宿~京三条大橋」では、この火の見櫓跡に「浄土真宗」という説明が付いていますが、これは明らかな誤り。善西寺に付ける注釈ではないかと思います。
Img_8215c 矢田立場、善西寺の西にある竹内家には、馬をつないだ輪が今も街道Img_8218c に面して残っています。前にも見た記憶があったのですが、場所の記憶があやふやで、もっと火の見櫓跡に近いかと思って、ウロウロ(笑)。
Img_8236c 善西寺のすぐ東が、国道1号線矢田町交差点。写真は、朝日町方面を向いて撮ったもの。よくご覧いただくと、左右に建っている建物が、対称なのです。左側は和菓子屋さんの「(かず)」です。右側は呉服屋の「にし眞」ですが、もう営業はしていないようです。和の最中は絶品。
Img_8249c 矢田町交差点からさらに東海道を上ります。交差点のすぐ東には、中川Img_8250c 梵鐘店(中川鋳造所)。全国各地の梵鐘を手がけておられ、永平寺、名古屋の日泰寺、三河の鳳来寺などもここがつくったものだそうです。店に並んでいる鐘は音色などの点で納得できず、出荷しなかったものだといいます。
Img_8254c こちらは、教覚寺。浄土真宗本願寺派のお寺。文明3(1471)年、深谷部Img_8267c の地主・紀伊氏の一族紀伊直行が出家して正玄と名乗り、町屋に道場を開いたのが始まりとされます。右は明圓寺。山号は瑞瑋山。浄土真宗大谷派のお寺。開基は不明ですが、戦国時代に香取(多度)の安田空明の家臣・伊藤孫右衛門が出家して再興したといいます。
Img_8277c 続いて、一目連神社。多度大社の別宮で、天目一箇命を祀っています。Img_8287c 天目一箇命は、古くから金属工業の神として知られ、鍛冶や鋳物を生業とする人から信仰を集めました。ここ鍋屋町には、鋳物師が多く住んでいたことから、勧請されたと思われます。境内に徐風庵の句碑「名いろいろ定まる夏の木げ 可南」があり、さらに、道路の向かい側には明治20(1887)年建立の道標があり、「左東海道渡船場道、右西京伊勢道」と刻まれています。
 まだ続きますが(こんなのばかりで、途中で止まっている記事が山積しています)、今日は、ここまで。

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2018年6月24日 (日)

20180624勝手に近鉄・三交バスハイキング「朝日町天神山、苗代神社、縄生廃寺跡から東海道を江場まで」

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 今日は、こちらにやって来ました。「勝手にハイキング」シリーズ、第3弾であります(微笑)。近鉄名古屋線・朝日駅であります。桑名駅を8時58分の塩浜行き普通電車に乗って、2駅。¥210。9時7分着。ここから、天神山、苗代神社そして縄生廃寺跡を目指します。何を思い立ったかといいますと、九華公園で時々お目にかかるご夫婦(天神山近くにお住まいとのこと)から、キビタキやら鳥がたくさんいると教えていただいたのです。天神山には、苗代神社があり、そこから4~500mのところに縄生廃寺跡があります。バードウォッチングと歴史散歩が一度に楽しめるかもと思って出かけてきました。
Img_6690c 駅前にあった観光案内図。伊勢朝日駅から北のところに苗代神社と縄生廃Img_6688c 寺跡が示されています。1㎞あまりですので、まずは、近鉄の線路沿いに北に向かいます。左側に見えているのは、東芝三重工場。
Img_6700c 近鉄名古屋線の高架をくぐると、JR関西線の踏切があり、その向こうに天Img_6701c 神山が見えてきます。このあたりの景色や、江戸橋通いの時や、四日市へ行くときなどに見慣れた景色。苗代神社も、一度行こうと思っていたところです。
Img_6708c JR関西線の縄生踏切を越えたところに苗代神社の社名標が建っていまImg_6711c す。ここを右折(北東へ)すると、すぐに神社の前に出ます。「延喜式内社」とありますように、古い神社です。社伝によれば、白鳳年間に伊賀国の敢國(あえくに)神社より少名彦命を勧請して祀ったと伝えられています。また、後に山城国の北野神社より菅原道真公を勧請したといいます。
 ちなみに、白鳳年間(白鳳時代)は、「私年号」で、正式に朝廷で定められた年号ではありません(日本書紀には載っていないそうです)。狭義では天武~持統朝 (673~697年) から平城京遷都 (710年) までの約 40年間をいい、広義には大化改新 (645年) から平城京遷都までの約 60年間で、飛鳥時代と奈良時代との中間をさします。
Img_6726c 近鉄電車からもよく見えるのですが、二の鳥居の奥には長い、長い階段がありImg_6738c ます。しかも踊り場なし(苦笑)。9時過ぎの時間帯、まだ今朝まで降った雨が乾ききっておらず、滑りそうな感じがします。
Img_6735c 二の鳥居をくぐったところにある「明治天皇十年祭祈念」Img_6733c 碑や、「百度石」、また、「奉柏」と刻まれた碑を見ながら、石段を登り始めます。「奉柏」碑には、明治35(1902)年4月菅公千年祭○○」とありました。この年は、菅原道真公の千年紀に当たります。この年、それを祈念して本殿、社殿を新築再建しています。
Img_6758c 長い階段を上ったところには、社務所がImg_6753c あり、拝殿に行くにはさらに階段を上る必要がありました。左の写真が、苗代神社の拝殿。天神山の中腹にあります。拝殿に向き合うように、南側には神馬舎があります。白馬をかたどった木馬が鎮座。
Img_6723c 苗代神社の御祭神は、少彦名命(すくなびこなのみこと:大国主神の国土経営に協力した。農業・酒造・医薬・温泉の神として信仰される)と菅原道真公。相殿神は、建速須佐之男命五男三女神火之加具土神宇迦之御魂神応神天皇大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ;食物を司る女神)、天照大御神豊宇気毘売神(以上は、神社検索三重による)。神社の説明には、このほか「不詳一座」とありました。
Img_6746c 由緒書き。先に触れたように、白鳳年間に伊賀国の敢國神社から少名彦命を勧請して祀った後、山城国の北野神社より菅原道真公を勧請したといいます。禁制になって、元和31617)年、桑名城主となった松平定勝公から松平家の家紋の使用が許され、さらに牛飼料として田三反の寄進がされるなど、桑名藩主の崇敬篤い神社となっています(当時は、桑名藩領)。明治40(1907)年、縄生鎮座の須佐之男舎、愛宕社、稲荷社、八幡社、両大神社、蛭子社の各境内社を合祀しています。
Img_6715_2c 拝殿の屋根や、拝殿正面には、確かに松平家の家紋である「梅鉢紋」があしらImg_6771c われています。
Img_6783c 境内に入る頃から、野鳥の鳴き声が聞こえてきていました。気になります。神馬舎の脇に上に登って行く道がありましたのでので、ちょっと濡れていて足下が気にはなったのですが、登ってみました。
Img_6785c しばらく登ると、ちょっと広いところに出ました。ここが頂上のようです。回Img_6788c りは木々に覆われて、眺望はほとんど利きません。野鳥の鳴き声は相変わらずしていますが、姿は見えず。ツバメが時々飛来するくらい。むしろヤブ蚊が多くて参りました。もう一本、道がついていましたので、そちらから降りることにします。
Img_6793c 天神山古墳があるはずなのですが、それらしきものは小生には分かりまImg_6744c せんでした。このあたりは竹林。この辺から桑名にかけて、竹林が続いています。どこへ降りられるか分からないまま来たのですが、結局、社務所の東に降りられました。
Img_6806c 苗代神社の南側の道路に出て、縄生廃寺跡を目指して北西へ向かいまImg_6808c す。途中、朝日町立梅林香苑の前を通過。白梅・紅梅が約50本あり、地元の方々が手入れしていらっしゃるようです。
Img_6811c 道路には、縄生廃寺跡への案内板があり、これにしたがえば行けそうでImg_6818c す。ちょうど苗代神社の裏手に当たるあたり。右の写真のようなところからさらに竹林を通っていきます。地元の方が農作業をしておられ、道を教えて下しました。と同時に「雨が降ったからぬかるんでいて、滑るぞ」ともいわれました。
Img_6821c こんなところを通って行くのです。たしかに落ち葉が濡れて、滑りそう。ぬImg_6827c_2 かるむほどではありませんでしたので、道なき道という感じのところをいってきました。右の写真が、縄生廃寺跡。正確には、ここに塔があった跡。江戸時代から「金光寺跡」として知られ、戦前には土取りの際に瓦片が多量に出土したと伝えられていました。中部電力が送電用鉄塔を建設するため、昭和61(1986)年9月から翌年3月に行った発掘調査で、その出土した軒丸瓦などから、7世紀末から8世紀初頭に造営された白鳳時代の古代寺院塔跡の存在が確認されました。
Img_6824c 塔の心礎中心の舎利孔(しゃりこう)と呼ばれる小さな穴から、唐三彩碗を伴った舎利容器が発見されています。これは、平成元(1989)年に重要文化財に指定されて、文化庁が保管しているそうです。
C5fb2274 縄生廃寺跡については、朝日町歴史博物館に詳しい展示があります。Ce3789e4 発掘状況のレプリカや、三重塔の復元模型もあり楽しめます。写真は、今年2月11日に近鉄ハイキングで立ち寄ったときに撮影しました(20180211近鉄ハイキング“駅長お薦め酒蔵みてある記 早川酒造部「天一」”へ(その1)……朝日町歴史博物館、若松園を経て、朝日町の水田地帯を、寒風に震えながら行く)。
Img_6732_2c 縄生廃寺跡で10時過ぎ。思ったより早い時間。いったん伊勢朝日駅までImg_6847c 戻ってきました。駅近くのポケットパークで一休み。朝日町には何度も来て、東海道も歩きましたし、名所旧跡、寺社仏閣もけっこう回っています。主なところでまだ行っていないのは、井後(いじり)神社移田(うつしだ)神社善照寺など。ただし、これらは、町の南西部にあり、もっとも遠い移田神社までは3㎞以上あります。かなり暑くなってきたので、これらはまたの機会とし、旧東海道を桑名に向かって歩くことにしました。
Img_6849c このあたりは、昨年11月9日に「旧・東海道ウォーク(安永~富田)」と称しImg_6745_2c て、安永から富田まで歩いたときに通っていますし(旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(前編))、上記の近鉄ハイキングでも少しだけ歩いています。
Img_6853c 縄生には「一里塚跡」の石碑があります。桑名の七里の渡や、西富田の庚申橋から、それぞれちょうど一里のところ。伊勢国には、12カ所に一里塚が設けられたといいます。この石碑は、平成13(2001)年に、東海道宿場・伝馬制度制定400周年記念事業で作られたもの。
Img_6856c 一里塚跡の石碑からわずかに桑名寄り、水谷たばこ店の店先に山口誓Img_6858c 子の句碑があります。この句碑には山口誓子の筆跡で、「露けさよ 祷りの指を 唇に触れ 誓子」と刻まれているのだそうですが、判読はかなり難しいです。昭和25(1950)年10月建立。誓子は、昭和16(1941)年、伊勢富田(四日市市富田)に移り、療養したといいますから、その頃の句かと思われます。
Img_6867c 伊勢朝日駅前のポケットパークからは1km弱で、町屋川Img_6869c (員弁川)に来ます。旧・東海道の橋は、現在の国道1号線の橋より少し上流に架かっていました。
Img_6896c 左の写真は、桑名市安永、料理旅館すし清さんのところにある公園に建っている説明板。江戸時代、この安永は、いわゆる立場であり、町屋川の船着き場でもあったところ。茶店では、名物の安永餅を売っていました。寛永12(1635)年に初めて橋が架けられたといいます。
Img_6887c すし清さんから少し北に伊勢両宮常夜燈。文政元(1818)年の建立。昔の灯標で伊勢神宮への祈願を兼ねたものです。桑名在住の材木商が連名で寄進し、「作名」は石工根来市蔵ほかとあります。常夜灯の脇に立つのは、里程標。町屋川の中央から北が桑名郡であること、三重県庁・桑名郡役所までの距離が刻まれています。里程標は、明治26(1893年)の建立。「三重縣廰拾一里丗甼余」、「桑名郡役所丗三町余」とあります。桑名郡役所は、現在の総合福祉会館だそうです(こちらを参照)。
Img_6904c 常夜灯からすぐ北に料理旅館玉喜亭があります。東海道中膝栗毛に「旅人を茶屋の暖簾に招かせて、のぼりくだりをまち屋川かな」と出てくるそうです。創業以来200有余年、すし清さんも藤で有名ですが、ここも立派な藤棚があります。前の道は東海道。
Img_6906c 前は何度も通ったのですが、一度も覗いたことがありませんでした。営業Img_6907c しているのかどうか定かではありませんが、藤棚は手入れされているようでした。平成3(1991)年に立てられた説明板がありました。藤は樹齢200数十年で、根が張っているので地震の時集結場所であったといいます。また、人馬の休息所とされていて、この向かいの母屋には「御馬口御洗水」の高札が残っているそうです。
Img_6912c 母屋はしっかり見てこなかったのですが、左の写真がそれだと思います。文政元(1818)年の建物で、昭和18(1943)年ころまで安永餅を作るのに使用されたかまどと、看板が今もあるといいます。現在の道よりも、低いところに立っていますが、上記の看板によれば、江戸時代の東海道は、今の道よりも低い位置にあったといいます。
Img_6928c 国道258号線を地下道でくぐり、しばらく行くと、西側(左手)に晴雲寺があります。浄土真宗大谷派、山号は清浄山。大永2(1522)年、東城(現在の九華公園付近にあったといいます)の城主・伊藤武左衛門の一族の明西(めいさい)が、一族の菩提を弔う寺として建てました。
Img_6930c 江戸へ下る大名は、この寺で衣服を改めて桑名城下に入ったといわれImg_6931c ています。
Img_6948c
 晴雲寺から500m足らず行ったところに城南神社に出ます。倭姫命が皇Img_6959c 祖神天照大神の鎮座地を求めて大和から近江、美濃を通り伊勢へ巡行の折り、この地に休息したとの言い伝えがあります。この故事に因んで、境内には、右の写真のように、「天照大神御遷幸旧蹟」という石碑があります。
Img_6957c こちらは、拝殿。御祭神は、天照大御神。合祀されているのは、保食神(うけもちのかみ:五穀をつかさどる神。食物の神)、少彦名神天目一箇命大山津見命火産霊神豊受比売命。明治41(1908)年、旧城南村各大字の神社を合祀、城南総鎮守となっていますが、昭和30(1955)年、各大字の神社は旧社地に分祀しています。このあたりは、昨年末からの町屋川へのバードウォッチング記事に書きました(1月23日:町屋川第2回遠征(寄り道編)……神社、古い看板、ホーロー看板など 、2月7日:町屋川遠征3回目余談……大貝須神社と、古い看板の話など )。
Img_6962c 倭姫命のご巡幸の言い伝えに因んで、古来、神宮式年御遷宮ごとに、Img_6953c 皇大神宮(伊勢神宮・内宮)一ノ鳥居、古殿舎の一部が下賜され、改築するという慣例になっています。現在の一の鳥居も、平成26(2014)年の御遷宮に際して、払い下げられたものです(建て替えられたのは、平成27(2015)年春)。境内には、乙石稲荷大明神も祀られています。もとは、明王院(みょういん)の邸内社で古くは越後高田にありました。宝永7(1710)年、桑名から越後に国替えになった松平定重公の崇敬篤く、守護所を仰せつかり、家中同様の扱いを受け、寛保元(1741)年奥州白河、文政6(1823)年桑名へと、松平越中守に随従しています。文政6(1823)年に桑名・柳原、同12(1829)年矢田川原、大正3(1914)年現地へ遷座しています。
 城南神社でほぼ11時半。5.5㎞を歩いてきています。ご覧のような上天気の中を歩いてきましたので、けっこう汗を掻き、疲れてきました。時間も時間でしたから、近鉄・益生駅まで行って1駅電車に乗るか、三交バスに乗るかと迷ったものの、バス停の方が近く、そろそろ、町屋川でのバードウォッチングの帰りによく乗っていた桑名駅前行きのバスが来る時間でしたので、バスで桑名駅まで行くことにしました。
Img_6967c
 いったん国道1号線まで出て、バス停を探します。国道安永か、若宮町がImg_6970c 近いはず。若宮町バス停で確認したら、11時55分に桑名駅前行きのバスがありました。少し時間がありましたので、もう一度東海道に戻り、日立金属桑名工場の前へ。ここは、今ではまったく面影はありませんが、江戸時代は家はなく、松並木が続いていたところ。鈴鹿山脈もよく見えたといいます。松並木は、伊勢湾台風の頃まで残っていたそうです(昭和34(1959)年)。
Img_6972c さすがに相当疲れました。夏場のハイキング、ウォーキングはよほど準Img_6974c 備してかからなければならないことがよく分かりました。国道1号線の若宮町バス停に来て、11時55分のバスで、桑名駅前へ。バスは5分遅れ。¥200。
180624asahiwalk1 歩いたルートは、これら2枚の地図の通り。いつものように、距離測βで180624asahiwalk2 確認しました。伊勢朝日駅から若宮町バス停までは、6.6㎞。これに桑名駅往復がプラス2.1㎞で、合計8.7㎞。けっこう歩きました。
Img_6737_2c バードウォッチングもともくろんだのですが、肝心の天神山では見られImg_6874c ず。鳴き声はウグイスその他、たくさん聞きましたが、写真を撮ったのは、伊勢朝日駅のポケットパークでハクセキレイ、町屋橋から見たサギ。このサギ、誰? 大きさはかなり大きいものの、ダイサギの夏羽とは違うような感じも。嘴の先が黒くなるのは、チュウサギの特徴。しかし、チュウサギは減っているらしい。迷います。

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