寺院

2018年12月27日 (木)

20181223近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 酒蔵めぐり油正『初日』と桃園三地蔵」へ(その3)……真光寺からいよいよ油正で酒蔵見学と試飲をして「完」

181223kintetsuhikinghisai2  12月23日、年内最後の近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 酒蔵めぐり油正181223kintetsuhikinghisai3 『初日』と桃園三地蔵」のその3です。今回でゴールできる見込み。光明寺、宝樹寺、栄松寺と回って、桃園三地蔵を拝観してきました。栄松寺でスタートから4.6㎞。栄松寺を11時に出て、この先、昔からの久居の町に入っていきます。右の実測ルートマップその3には、しまむらなどが見えますがこのあたりには来たことがあります。

Img_7154c 栄松寺から1㎞ほど、津市久居元町にある野辺山真光寺。11時25分着。こちらも天台真Img_7165c 盛宗のお寺。残念ながら、ここもネット検索では情報は出て来ませんし、久居城下案内人の方にいただいたパンフレットにも載っていません。このお寺は、かなり格式が高いお寺だったということで(久居城下案内人の方のお話し)、本堂の天井に、ご住職が江戸時代から明治時代にかけて葬儀や法要に出かけるときに使ったという駕籠が2つ下げてありました。
Img_7163c 山門の脇に地蔵堂があり、そこに石造の地蔵菩薩立像がおられます。高さImg_7158c 170cm。船底方の石に刻まれいます。体の割りに顔が大きく、優しいまなざしをしていらっしゃいます(津市指定文化財)。像には、慶長14(1609)年の銘があり、真光寺のために建立されたといいます。
Img_7166c 津市教育委員会の説明板。地蔵堂内に「石造五輪塔 3基」ともありまImg_7160c す。右の写真の端に写っているのがそれかと思います(が、5基ありますのでそのうちどれかは不明)。一石五輪塔(一本の石を刻んでつくったもの)。室町時代後半の天文年間(1532~55)につくられ、亡くなった人の供養に建てられたといいます。また、本堂には、鎌倉時代初期の作とされる木造地蔵菩薩立像があります(津市文化財)。
Img_7168c 境内にはこのほかにも、古いお地蔵様がいらっしゃいまImg_7171c したが、こちらについては詳細は不明。何らかの説明があるとありがたいのですが……。
Img_7156c 六地蔵様もおられました。
Img_7179c 栄松寺の先を右折し、昔からの町へ入っていきます。久居元町から久居Img_7181c 本町。商店街に向かいます。途中、神社が見えました。川併(かわい)神社です。門松がすでにしつらえられているのも見えましたが、油正さんも目前ですし、Gさんと一緒でしたので、寄り道はせず。創始は不詳ですが、このあたりは旧・野辺村といい、「野辺惣社」と称されて、久居城下設置以前は氏神であったといいます。戦国時代、荒廃していたものの、寛永2(1625)年、現在の本殿が造立され、また同7年には山城国宇治郡木幡神社より八王子を勧請したといいます。
Img_7183c 油正さんを目前にして通ってきた道を振り返ってしまいました(苦笑)。4Img_7185c 差路の交差点のすぐ脇にここまで来た道が通じていて、変則的な5差路になっています(左の写真で向かって左がここまで来た道)。中央の建物に「右すぐ江戸善→」とあります。さらに、西を見るとバス停が「江戸善前」となっています。気になります(笑)。これは何かすごいところかと思ったら、食器、包丁、金物類を売っているお店でした。
Img_7186c 与太話はこれくらいにして、いよいよ最大の目的地である油正さんへ到Img_7188c 着。12時ちょうど。スタートからは、6.2㎞。つい1ヶ月前に来たばかりのところ(2018年11月23日:油正さんの蔵開きと、かかしコンテスト……家内の実家方面にて)。
Img_7191c まずは、蔵見学へ。蔵の奥へと進んでいきますと、「初日(はつひ)」のしImg_7201c ぼりたてが出て来ています。「あらっぱしり」は、「荒走り(あらばしり)」。荒走りは、(もろみ)を圧搾濾過して、清酒と清酒粕に分離する操作をいい、あげふねとも呼ばれます。自動圧搾機が普及する以前は、酒袋(さかぶくろ)に醪をつめて、槽(ふね)の中にならべて搾ったそうです。まず、醪を酒袋(5~9リットル入り)につめ、槽(ふね)の中に並べて積みます。この間に、最初に出てくる白く濁った清酒を荒走り(あらばしり)というのです。
Img_7204c 早速、試飲をいただいてきました。前回、初めて飲んだときの方が、濃くImg_7208c て、アルコール度数も高いような感じがしましたが、微妙な差が分かるほどの通ではありません。決して「呑兵衛」ではありませんが、これは堪りません(微笑)。機会があれば、是非賞味なさることをお勧めします。
Img_7211c 試飲のあとは、これまたお約束の甘酒の振る舞いをいただいてきました。酒蔵で、そこの酒粕で造った甘酒も美味しいもの。何がどう違うか説明できるほどの味覚は持ち合わせていませんが、とにかく美味しい(微笑)。同行のGさんは、大吟醸の酒粕が欲しかったようですがあいにく売り切れ。
Img_7213c この日は、お楽しみ抽選会もありました。その商品は、油正さんのロゴ入Img_7237c りの前掛け。自分で使う機会はなさそうですが、これ欲しかったですねぇ。当選番号は、コースマップの番号の下2桁が72。残念。619番でしたから、掠りもせず(苦笑)。Gさんは、720番。惜しかった。
Img_7215c いつものように即売コーナーで、試飲した「あらっぱしり」を買ってきましImg_7241c た。720ml入りで¥1,400。ラベルには、「このお酒は、上糟(しぼり)中にくみ上げた“そのまま”の生原酒です。酒蔵でしか味わえない”味”をお楽しみください。含まれているもろみの発酵時のガスは、徐々に消えてしまいます。お早めにお召し上がり下さい」とあります。が、大晦日か、正月にと思って、冷蔵庫にキープ中。10日以内に飲むようにとありましたから、大晦日か元旦ならセーフ。
Img_7222c またもや余談。油正さんには、「油正ホール」があります。木造2階建、切妻造桟瓦葺の土蔵、149㎡のホールですが、もとは醸造のための米蔵兼精米所でした。江戸末期の建築で、登録有形文化財になっています。展覧会やコンサートなどが行われるそうです。
Img_7228c これにて、この日の近鉄ハイキングの予定は無事終了。久居本町の昔からの商店街を通って、近鉄久居駅へ。ゴールは、12時半。スタートから7.4㎞。Gさんは、これから四日市へ向かうということでしたので、一緒に久居駅を12時47分の名古屋行き急行に乗車。私は、桑名まで。13時40分に到着。¥820。一緒に行ってくださる方があるのも、また楽しという感じでした。
Img_7235c あみま倶楽部の会員証を更新して、この日でスタンプは3個目。これで、年内のウォーキング/ハイキングはすべて終了。新年は、まだ思案中。1月5日に近鉄ハイキングで伊勢神宮参拝のコースがあるのですが(特別企画ハイキング 新春初詣ハイキング 新春初願い・平成最後の伊勢神宮初詣~足神さんへもお参り~)、この日では伊勢も、近鉄電車も大賑わいでしょうね。まぁ、ゆっくり考えます。
Img_7196c オマケ。年末特別サービス(笑)。「初日」の樽の前で記念撮影。これらの樽は、伊勢神宮猿田彦神社二見興玉神社、護国神社、結城神社に奉納し、飾られた後、引き上げてきたものだそうです。まぁ、縁起物の一種。これで何か良いことがあるかもしれません(微笑)。

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2018年12月26日 (水)

20181223近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 酒蔵めぐり油正『初日』と桃園三地蔵」へ(その2)……宝樹寺から奈良道を通って、八柱神社に立ち寄り、栄松寺へ

181223kintetsuhikinghisai2_2  12月23日の近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 酒蔵めぐり油正『初日』と桃園三地蔵」のその2です。その1では長い余談を書いたあと、ようやくスタートし、最初の立ち寄り先である光明寺まで来ました。ここで、鎌倉時代後期につくられた地蔵菩薩立像を拝観。

Img_7031c 光明寺はスタートから2.1㎞。次の宝樹寺まで、1.3㎞ほど。近鉄名古屋線のImg_7033c 線路を桃園駅の南で渡ります。このあたりの近鉄路線は、近鉄ハイキングなどに出かけるようになって、何度も通ります。今まで知らなかったのですが、歴史は古く、昭和5(1930)年5月に参宮急行電鉄が開通したときに開業していました。無人駅ですが、急行が停車します。全くの余談ですが、そのため、近鉄名古屋線の急行は、江戸橋から伊勢中川までは各駅停車の状態になります。

Img_7035c 桃園駅の西でV字に左折、南へ。このあたりでマンホールに目が向きました(あちこちでなるべく見つけたら、写真を撮るようにはしています。どうでも良いことが気になる質で、我ながら困ります)。旧・久居市の下水道のもの。榊原温泉の露天ぶろ入浴を描いたデザイン蓋になっていました。

Img_7044c スタートから3.4㎞、10時35分に宝樹寺に到着。こちらも天台真盛宗のおImg_7046c 寺。しかしながら、由緒などについては情報がありません。ネットで検索しても、当日、久居城下案内人の方にいただいた「永久鎮居の地久居めぐり」のパンフレットにも記載がないのです。

Img_7049c 本堂は新しい感じです。が、残念ながら、本堂の扉は閉まっており、ご本Img_7051c 尊は拝観できませんでした。本堂に向かって左手に地蔵堂があり、その中に地蔵菩薩坐像がおられます。

Img_7054c こちらがその地蔵菩薩坐像。高さ2.17m。円形の基台に複弁の「反花(かImg_7056c えりはな)」が刻んであり、その上に扁平にした丸形で、蓮の花弁を並べた「敷茄子(しきなす)」、さらに単弁の台座を置いて座像が安置されています。「反花」は、仏像の蓮華座で上向きについた蓮弁。「敷茄子」は、蓮華台の下の鼓型の台で、花と茎の付け根部を表したもの。光背に「願主 右衛門少尉 源 幹重」 「正和三年(1314)甲寅八月廿九日建立之」の刻銘があるそうです。願主の「右衛門少尉 源幹重」については、地元の人物らしいということしか分かっていません。

Img_7057c 境内には、左の写真にあるような、これまた古そうなお地蔵様もいらっしImg_7063c ゃいました。台座にある文字を追うと、日露戦役忠霊のため、三地蔵講の方が建てたということのようでした。他にも、右のように、これは六地蔵というのでしょう。説明も何もありません。

Img_7078c 宝寿寺を出て西へ向かいましたが、100mほどいったところに小さな道標がありました。写真は、西から宝樹寺の方角を撮っています。「左 さんくうみち 右 ならみち」と刻まれています。ということは、奈良と伊勢街道(参宮海道)とを結んでいた道か? 永松寺で久居城下案内人の方に伺ったところ、この道は、「奈良道」だそうです。

Img_7074c 調べてみましたら、「安濃津から伊賀街道・大和街道を経由して奈良へImg_7077c 通じる道を、かつては「伊賀越えならみち」「奈良道」と言った。現在では、五百野(津市美里町)で伊賀街道と分岐し、久居城下を経て月本追分(松阪市中林町)で伊勢街道と合流する区間が「奈良街道」と称される」ということでした(こちら)。江戸初期から中期位までは、この奈良街道から伊勢参宮街道へ入る人が多かったといいます。街道は久居城下町の中を、久居万町・久居幸町・久居旅籠町・久居本町・久居二ノ町・久居元町と進み、今の桃園工業団地辺りで雲出川を渡っていました(こちら)。ここにも道中記があります。

Img_7086c 道標の先にかなり古びた神社がありました。ここは、立ち寄りポイントではありませんでしたが、見つけてしまったからには、立ち寄らなければなりません。ということで、寄り道。社号標などはありません。帰ってから地図で調べたら、八柱神社。郷里にも同じ名前の神社がありました(こちら)。八柱神社は、多くの場合、八王子神社とも呼ばれ、スサノオの八柱の御子神を祀る神社です(しかし、一方で、単に八柱の神を祀る神社ということもあるようです)。詳細は長くなりますので、リンク先のWikipediaの説明をご覧ください。

 ちなみに、郷里にある八柱神社は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)、天之菩卑能命(アメノホヒ)、天津日子根命(アマツヒコネ)、活津日子根命(イクツヒコネ)、熊野久須毘命(クマノクスビ)、多紀理毘売命(タキリビメ)、市寸島比売命(イチキシマヒメ)、多岐都比売命(タキツヒメ)を祀っています。

Img_7087c

 一の鳥居の手前、両側に山の神の石碑が6柱並んでいました。近くのもImg_7089c のをここに合祀したということかと思います。

Img_7108c 左は、二の鳥居と拝殿。右は、拝殿の写Img_7104c 真。かなり古びているというか、少し傷んでいる感じ。残念ながら、ネット検索では何も情報は出て来ません。

Img_7096c 拝殿に向かって右には、神武天皇御陵遙拝所がありました。神武天皇陵は、畝傍山(うねびやま)の北東の麓、橿原神宮に北接して置かれています。

Img_7130c 寄り道を終え、正規ルートに戻ります。冒頭の実測ルートマップにありますように、ちょっとクネクネと曲がって、牧町と川方町の間を北に進みます。この少し南に雲津川が流れています。その昔、桃園村はもっと低いところにあり(桃園駅南約1㎞にある物部神社あたり)、雲津川の氾濫に悩まされたそうで、その後やや高いところに移ったといいます。確かに光明寺から宝樹寺、八柱神社は、一段高いところにありました。

Img_7123c このクネクネ道のあたりから東には、近鉄名古屋線の線路がよく見 えまImg_7132c す。雲津川を渡るとすぐに中川短絡線を通って伊勢中川駅になります。4㎞地点の辺りからは、青山高原にある風力発電用の風車がよく見えました。

Img_7140c 細い川沿いの道を歩いて、宝窟山栄松寺。真宗高田派のお寺。山門は、Img_7142c コウヤマキでできています。上述のように、桃園の集落は、以前は、もっと雲津川に近いところにあったそうですが、洪水を避けて少し高い、現在地あたりに移ったそうで、洪水で流されるということもあって、このようなコウヤマキ山門になったということでした(久居城下案内人の方のお話し)。なかなか洒落ています。

Img_7145c 栄松寺についても、由緒などの情報は得られませんでした。ネット検索で

Img_7147c

も、「開創は不明」という記述のみ。こちらのお地蔵様は立像ですが、右の写真のように、境内の片隅に覆い屋を建てられ安置されていました。ちょっと独特な造りでした。柱状凝灰岩に深さ約30cm近くも二重光背を彫り窪め、(がん)(厨子)状にした中に地蔵立像を刻み出してあります。龕は、仏像を納めるため、岩壁を掘りくぼめた場所。お地蔵様自体は、高さ63.6cm。蓮華文の扁平な台座の上に鎮座。背面には「正和三年(1314)甲寅八月十六日造立也」、「願主沙弥淪海」とあります。この願主についても、詳細は不明。桃園三地蔵は、これですべて拝観しました。

 その2はここまでとしますが、栄松寺で、知人G氏と合流。油正の蔵開きにぜひとも行きたいということで、参加されました。が、諸般の事情で、私より1本後の電車で久居駅に到着。久居駅で待っているとかえって気を遣わせるかと思い、「先にゆっくり行っていますから」ということで先行していたのです。私はあちこちでいろいろと見て回りますから、どこかで追いついてくださると勝手に決めて、先にスタートした次第。ここからは、Gさんと同行。それは、その3にて。

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2018年12月25日 (火)

20181223近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 酒蔵めぐり油正『初日』と桃園三地蔵」へ(その1)……久居駅を出発、陸上自衛隊久居駐屯地を見て、光明寺へ

Img_6933c 12月23日に行ってきた近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 酒蔵めぐり油正『初日』と桃園三地蔵」の本編、その1です。これで、今年のウォーキング/ハイキング納めです。今年1月からの累計で、近鉄ハイキングには27回、JRさわやかウォーキングには6回、合計33回参加しました。

Img_6936c 出がけに小雨がぱらついたりして、今ひとつの天気でしたが、年内のウォーImg_6931c キング/ハイキング納めということもあり、エイヤッと出かけました。受付・集合は、近鉄名古屋線・久居駅。すでに何度も利用したことがあり、勝手知ったる駅。9時半から10時半が受付でしたので、桑名駅を8時42に分に発車する松阪行き急行に乗車。9時34分着。¥820。改札口に向かう階段・エスカレーターは、右の写真のようにラッシュ並みの混雑。酒蔵みてある記はいつも大人気。私が受け取ったコースマップの番号は、何と619番でした。
Img_6939c こちらがこの日のコースマップ。久居駅の東口駅前広場で受付、陸上自衛181223kintetsuhikinghisai 隊の久居駐屯地の南を歩いて、光明寺、宝樹寺、栄松寺から、真光寺を回り、酒蔵・油正さんで酒蔵見学。ゴールは、スタートした久居駅(ただし、西口がゴール)。マップ上7㎞。久居駅からは南のあたりを歩きます。家内の実家が津市榊原町にありますが、このあたりの土地勘はほとんどありません。右は、この日、実際に歩いたルートマップ。あまり余分に立ち寄りませんでしたので、7.4㎞でした(立ち寄り先の中で歩いた分は割愛)。
Img_6945c 久居駅東口駅前広場のところには、「緑の風公園」があります。ここは、旧・国立津病院の跡地(三重中央医療センターのサイトのここに沿革があります)。旧・国立療養所鈴鹿病院に勤務していた頃、労働組合の用事などで何度か来たことがありました。津病院は、明治41(1908)年11月、歩兵第51連隊の設置に伴い、津衛咸(えいじゅ)病院として創立され、戦後、国立津病院として平成10(1998)6月までここにありました(その後は、旧・国立療養所静澄(せいちょう)病院(現在の津市白山町二本木にありました)と統合され、国立三重中央病院から、国立病院機構三重中央医療センターになっています)。それ故、ちょっと懐かしいところ。ですが、病院があった面影はすっかりなくなっています。
Img_6951c この公園の一角に「上野英三郎博士とハチ公」という銅像があります。Img_6949c 「ハチ公」は、あの忠犬ハチ公です。ハチ公の飼い主の東京帝国大学教授・上野英三郎博士が、現在の津市久居元町(一志郡本村)に生まれたという縁でここに平成24(2012)年10月銅像が建てられたのです。2016年4月28日にこれを見に来ています(久居駅で忠犬ハチ公、自衛隊の駐屯地など……家内の実家へ)。
Img_6944c 銅像のすぐそばには句碑がありました。平成26(2014)年12月に「久居藩初代藩主藤堂高通公・俳聖松尾芭蕉 生誕370年記念」ということで建てられた「任口、芭蕉 久居句碑」だそうです。藤堂高通公と松尾芭蕉は、ともに寛永21(1644)年生まれで、この年に生誕370年を迎えることを記念してNPO法人俳句みえが建てています。「任口(にんこう)」は、高通公の俳号。です。生誕地のつながりで、任口の俳句を前葉泰幸津市長が、芭蕉の俳句を岡本栄伊賀市長が揮毫しました。
  • 詠(なが)むるや 江戸にはまれな 山の月 芭蕉
  • はなむけぞ 江戸紫の 菊の枝 任口
 芭蕉の句は、延宝4(1676)年、芭蕉33歳の時の作。二度目の帰郷のとき、伊賀上野で見た月を、江戸の濁った月と比較しての感慨を詠んだもの。この句には、「久居藩開祖藤堂高通公(任口)に挨拶」と添えられています。任口の句の方には、「武蔵野かたへゆくものにつかわしける」と。「伊勢久居藩史」にも芭蕉が松尾宗房・桃青時代より、藤堂高通とは京都の俳諧宗匠北村季吟の同門であったとの記述があり、江戸から伊賀上野へ帰郷の際には、久居藩にたびたび立ち寄ったようです(こちら)。
 ちなみに、「久居」の地名は、藤堂高通公がこの地に永久に鎮居するといったことに由来するといいます。
Img_6925c スタート前から余談が過ぎていますが、もう少しご容赦を。上に「明治41(1908)年11月、歩兵第51連隊が設置されたのに伴い、津衛咸病院も創立された」と書きました。久居駅東には、陸上自衛隊久居駐屯地があります。主力部隊は、第33普通科連隊です。
Img_6928c この駐屯地の歴史は古く、明治41(1908)年に旧日本陸軍の駐屯地(Img_6926c 兵第51連隊)として発足しています。大正14(1925)年には、名古屋市の守山駐屯地から歩兵第33聯隊がここに移ってきています。現在駐屯する陸上自衛隊第33普通科連隊は、この旧・大日本帝国陸軍歩兵第33連隊の連隊番号を継承していることになります。
181223kintetsuhikinghisai1 さて、長々と余談を書き連ねましたが、ようやくスタートします。スタートしたのは9時43分。久居駅から南下し、すぐに右折(東へ)。自衛隊久居駐屯地の間の道路を歩いて行きます。この道路の北側は駐屯地で、さまざまな建物が建ち、また車両などが置いてあります。南側は訓練場。
Img_6968c 駐屯地の正門。「写真を撮って大丈夫か?」とちょっとビビったので、こんImg_6966c な風(笑)。すでに門松が立っていました。右は、訓練場の様子。またもや余談になりますが、久居の花火大会(サマーフェスタインひさい(久居花火大会))は、この訓練場で開催されます。昔(久居市だった頃)からそうで、結婚当初、見に来たことがありました。
Img_6972c 訓練場の東の方に、こういうものが見えました。気になります(苦笑)。そImg_6973c ばに寄ってよく見ると、「大正天皇御野立所御手植之松」という石柱が立っています。この訓練場は、旧・陸軍津練兵場でした。大正天皇は、皇太子時代に何度か三重県に行啓しておられます(下記参照。こちらを参照)。内容から推測するに、明治39年か、45年の行啓の際に立ち寄られた可能性が高い気がします。なお、この石碑は、昭和31(1956)年1月10日、時の久居駐屯地司令により建立されました。
  • 明治33(1999)年5月23~6月2日:伊勢神宮・神武天皇陵などに結婚奉告のため三重、奈良、京都を10日間初巡啓
  • 明治38(1905)年11月:陸海軍少将に進級、戦勝報告の為に伊勢神宮を参拝
  • 明治39(1906)年10月:名古屋を訪れ、愛知・三重・岐阜三県で行われた陸軍大学校参謀旅行演習を見学。はじめての本格的な軍事行啓
  • 明治43(1910)年9月:三重、愛知を巡啓
  • 明治45(1912)年4月22日から:滋賀県と三重県を舞台にした参謀本部参謀旅行演習の見学
Img_6979c 最初の立ち寄り先の来迎山光明寺までは、2㎞あまり。その間、立ち寄るImg_6980c ところは設定されていませんので、ひたすら歩きます。久居駐屯地を過ぎて、1㎞地点で県道24号線から右折。住宅地や、畑などのあるところがつづきます。1.3㎞ほどで津市立久居東中学校前を通過。10時ちょうど。
Img_6983c 少し歩いて右折。このあたりには、梨畑があります。久居は、梨の名産地なのです。幹線道路沿いの直売店などで販売されます。8月中旬~下旬にImg_6984c は「幸水」、9月初旬は「豊水」が採れます。
 これから訪ねる桃園(ももぞの)地区は、かつては桃園村と呼ばれ、鎌倉時代後期(正和3(1314))年につくられた石造地蔵菩薩が3体残っており、これが「桃園三地蔵」と呼ばれています(三重県文化財)。3体の地蔵尊は、次の通り:
  • 栄松寺地蔵菩薩立像(津市川方町)
  • 光明寺地蔵菩薩立像(津市新家(にのみ)町)
  • 宝樹寺地蔵菩薩坐像(津市牧町)
 製作年の明らかな石仏では、三重県内最古のものです。
Img_6992c  スタートから2.1㎞で来迎山光明寺に到着。10時10分。天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)のお寺。天台真盛宗については、よく知りませんでした。天台系仏教の一派であることは推測が付いていました。総本山は、戒光山西教寺(滋賀県大津市)。ここのご本尊は阿弥陀如来。開基は聖徳太子とする伝承もあるそうですが、判然としません。室町時代、中興の祖であり天台真盛宗の宗祖である真盛(しんせい)が入寺(文明18(1486)年)してから栄えたお寺です。真盛は、伊勢の出身。
Img_6999c  光明寺については、創建などについての情報が得られませんでした。しImg_6990c かし、地蔵菩薩立像には、「正和三年(1314)甲寅八月廿四日 願主 沙弥道観」と一行の刻銘があります。沙弥道観は、光明寺の僧で、建長2(1250)年生まれ、石仏がつくられた正和3(1314)年には64歳でした。この頃には、すでに光明寺はあったということです。
Img_7007c こちらが、その地蔵菩薩立像。本堂に向かって左手にある薬師堂に安置Img_7010c されています。説明板によれば、高さ2.11mで光背があり、半浮き彫りに像が彫られています。像そのものの高さは、1.4m。砂岩に彫られています。右手に錫杖、左手に宝珠を持っておられます。
Img_6996c 光明寺には、地蔵菩薩立像の他、木造阿弥陀如来立像と、木造二十五菩薩像があります(本堂内の撮影は不可)。二十五体の仏像群はいずれも江戸初期の作で、阿弥陀如来が西方浄土から二十五菩薩をしたがえて来迎される様子を彫刻化したもので、二十五菩薩象がすべて揃っているのは極めて珍しいそうです。
Img_6997c 境内には、もう一つの地蔵堂があります。こちらについては、詳細は不明。内部には2体のお地蔵様がいらっしゃいます。
Img_7016c 上の写真の地蔵堂にいらっしゃるお地蔵様。説明もありませんし、ネットImg_7018c で検索しても何も出て来ません。久居の郷土史についての本を見れば、何か記述があるかもしれません。
Img_7012c こちらは、庚申塔。「庚申」という文字と、その上部に何かが彫られているのですが、私には不明(梵字かという気もしますが、全くの当て推量)。
Img_7013c 墓所の側には石碑が2柱。向かって右のものには「故陸軍歩兵一等卒小玉(?)京蔵君碑」、左は「故陸軍歩兵上等兵小玉(?)久雄君碑」と読めます。碑陰にはそれぞれ法名があり、また、右側には明治38(1905)年の日付がありますから、おそらく日露戦争に従軍された方の碑と思われます。
Img_7024c 光明寺を出て、次の目的地である宝樹寺へ向かいます。光明寺を出たとImg_7031c ころにもお地蔵様。3体いらっしゃいましたが、何も説明もありません。宝樹寺へは、近鉄名古屋線・桃園駅の南を通って1.2㎞。今日は、ここまで。その2で宝樹寺から、桃園三地蔵の続きも。
181223kintetsuhikinghisai2 その1で触れた光明寺から、次の立ち寄り先あたりの実測ルートマップは、左の画像の通りです。

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2018年12月23日 (日)

20181223近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 酒蔵めぐり油正『初日』と桃園三地蔵」へ……予告編、年内のウォーキング/ハイキング納め

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 出がけに小雨がぱらついたりして、今ひとつの天気でしたが、年内のウォーキング/ハイキング納めということもあり、近鉄ハイキングに参加してきました。今回は、「酒蔵みてある記 酒蔵めぐり油正「初日」と桃園三地蔵」です。今日のところは、例によって予告編。
Img_6936c 受付・集合は、近鉄名古屋線・久居駅。すでに何度も利用したことがあり、Img_6931c 勝手知ったる駅。9時半から10時半が受付でしたので、桑名駅を8時42に分に発車する松阪行き急行に乗車。9時34分着。¥820。改札口に向かう階段・エスカレーターは、右の写真のようにラッシュ並みの混雑。酒蔵みてある記は大人気。
Img_6939c_2 本日のコースマップ。久居駅の東口駅前広場で受付、陸上自衛隊の久居181223kintetsuhikinghisai_2 駐屯地の南を歩いて、光明寺、宝樹寺、栄松寺から、真光寺を回り、酒蔵・油正さんで酒蔵見学。ゴールは、スタートした久居駅(ただし、西口がゴール)。マップ上7㎞。右は、実測ルートマップ。今日は、寄り道をしたのは、2ヶ所でしたので、実際に歩いた距離は、7.4㎞でした(立ち寄り先内で歩いた距離はカウントしていません)。これから訪ねる桃園(ももぞの)地区は、かつては桃園村と呼ばれ、鎌倉時代後期(正和3(1314))年につくられた石造地蔵菩薩が3体残っており、これが「桃園三地蔵」と呼ばれています(三重県文化財)。3体の地蔵尊は、次の通り:
  • 栄松寺地蔵菩薩立像(津市川方町)
  • 光明寺地蔵菩薩立像(津市新家(にのみ)町)
  • 宝樹寺地蔵菩薩坐像(津市牧町)
 製作年の明らかな石仏では、三重県内最古のものです。
Img_6948c スタートの久居駅東口広場前には、「緑の風公園」があり、その一角には、「上野英三郎博士とハチ公」という銅像があります。あの忠犬ハチ公です。飼い主の上野英三郎博士が、現在の津市久居元町(一志郡本村)に生まれたという縁でここに平成24(2012)年10月銅像が建てられたのです。2016年4月28日にこれを見に来ています(久居駅で忠犬ハチ公、自衛隊の駐屯地など……家内の実家へ)。
Img_6968c 久居駅のすぐ東には、陸上自衛隊の久居駐屯地があります。主要部隊は、第33普通科連隊Img_6928c この駐屯地の歴史は古く、明治41(1908)年に旧日本陸軍の駐屯地として発足しています。大正14(1925)年には、名古屋市の守山駐屯地から歩兵第33聯隊がここに移ってきています。
Img_6992c スタートから約2㎞。来迎山光明寺天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)のお寺。地蔵菩薩立像Img_6999c の他、木造阿弥陀如来立像と、木造二十五菩薩像があります。二十五体の仏像群はいずれも江戸初期の作で、阿弥陀如来が西方浄土から二十五菩薩をしたがえて来迎される様子を彫刻化したもので、二十五菩薩象がすべて揃っているのは極めて珍しいそうです。
Img_7007c 地蔵菩薩立像は、本堂脇にある地蔵堂に安置されています。高さ2.11mで光背があり、半浮き彫りになっています。先に述べたように、正和(しょうわ)3(1314)年の建立銘があるそうです。こちらのブログの情報に寄れば、
「栄松寺が同年8月16日、光明寺が8月24日、宝樹寺が8月29日の造立、殆ど同時期に同一作者だと思われる石工の作」だといいます。写真を並べてみると、姿形が何となく似ている気もします。
Img_7044c 光明寺から近鉄名古屋線・桃園駅の南を通って1.2㎞、桃園駅からは300mほどでしょうか、宝樹寺へ。こちImg_7049c らも天台真盛宗のお寺。本堂は新しい感じです。
Img_7054c 宝樹寺も、地蔵堂があり、その中に地蔵菩薩坐像がおられます。高さ2.17m。円形の基台に複弁の反花(かえりはな)我刻んであり、その上に扁平にした丸形で、蓮の花弁を並べた「しきなす」、さらに単弁の台座を置いて座像が安置されていると、説明板にありました(微笑)。もう少し勉強しないといけませんねぇ。顔を洗って出直してきます。
Img_7078c 宝樹寺を出て、少し行ったところに道標(津市牧町)。写真は、西から宝樹寺の方角を撮っています。「左 さんくうみち 右 ならみち」と刻まれています。あれこれ眺めていたら、私よりも高齢の女性、二人連れの方が「何と刻んでありますか?」とお尋ね。現地では、「さんくう」が読めませんでした(苦笑)。このあと永松寺で久居城下案内人の方に伺ったところ、この道は、「奈良道」だそうです(まだ十分には調べが付いていません)。
Img_7086c 道標の先にかなり古びた神社がありました。立ち寄りポイントではありまImg_7104c せんが、ここに立ち寄らなければどこに立ち寄るということで、寄り道。社号標などはありません。帰ってから地図で調べたら、八柱神社。郷里にも同じ名前の神社がありました。残念ながら、ネット検索では何も出て来ません。ここには、山の神が6柱合祀されている他、神武天皇御陵遙拝所がありました。
Img_7114c コースに戻り、いったん雲津川の堤防に出て、すぐに北上。細い川というImg_7130c か、水路というかそれ沿いに歩いて行きます。地図を見ても、名前が書かれていないくらい(調べが足らないだけかもしれませんが)。遠くに青山高原や、そこにある風力発電の風車も見えました。
Img_7140c 宝窟山栄松寺。真宗高田派のお寺。山門は、コウヤマキでできていまImg_7145c す。桃園の集落は、以前は、もっと雲津川に近いところにあったそうですが、洪水を避けて少し高い、現在地あたりに移ったそうです(久居城下案内人の方のお話し)。洪水で流されるということもあって、このようなコウヤマキ山門になったということでした。
Img_7147c  桃園三地蔵の3体目、地蔵菩薩立像が安置されています。像高66cm。方形の凝灰岩の一材を光背の形に彫りくぼめて(がん)(厨子)状にし、その中に半肉彫りになっています。龕は、仏像を納めるため,岩壁を掘りくぼめた場所。桃園三地蔵は、これですべて拝観しました。
Img_7154c 栄松寺から1㎞ほど、津市久居元町にある野辺山真光Img_7165c 寺。こちらも天台真盛宗のお寺。このお寺は、かなり格式が高いお寺だったということで(久居城下案内人の方のお話し)、本堂の天井に、ご住職が江戸時代から明治時代にかけて葬儀や法要に出かけるときに使ったという駕籠が2つ下げてありましたし、葛籠と思われるものも2つありました。本堂には、鎌倉時代初期の作とされる木造地蔵菩薩立像があります(津市文化財)。
Img_7158c_2 真光寺にも石造地蔵菩薩立像があります(市文化財)。こちらは、江戸時Img_7160c 代のもの。慶長14(1609)年の銘があるそうです。真光寺のために建立されたといいます。地蔵堂に納められていますが、同じお堂内には、津市文化財に指定された石造の五輪塔も3基あります。1つの石を刻んでつくられる「一石五輪塔」で、室町時代後半の天文年間(1532~55)につくられました。
Img_7190c 真光寺から、本日のメインイベントである、油正さんの酒蔵見学は目のImg_7191c 前。4~500mほど。1ヶ月前にも蔵開きで来ました(2018年11月23日:油正さんの蔵開きと、かかしコンテスト……家内の実家方面にて)。蔵開きのときに比べると、静かでした(微笑)。あのときは大賑わい。
Img_7201c 今日も蔵見学&試飲。油正さんは、「初日(はつひ)」というブランド。蔵開Img_7204c きのときもそうでしたが、しぼりたての「あらっぱしり」を今日も試飲させてもらいました。前回の方が、濃くて、アルコール度数も高いような感じがしましたが、微妙な差が分かるほどの通ではありません。
Img_7213c 今日のハイキング、配られたコースマップに振られた番号で、抽選会がImg_7237c ありました。油正さんの「初日」の前掛けが当たるということでしたが、残念ながら外れ。当選は、下2桁が72でしたが、私のマップのナンバーは、619。
Img_7215c 今日も、即売会でお買い上げ(苦笑)。いつも通り、試飲をしたお酒を買Img_7241c います。もちろん「あらっぱしり」です。720mlで、¥1,400。年越しか、新年の酒と思って買ったのですが、「含まれているもろみの発酵時のガスは、徐々に消えてしまいます。お早めにお召し上がり下さい」と書いてあって、気になりますねぇ(笑)。10日ほどは大丈夫そうですから、予定通りのつもり。
Img_7228c ゴールの久居駅には、12時半に到着。今日、途中の栄松寺で、旧知のG先生と合流。油正さんの蔵開きに行きたいということです。G先生も、「あらっぱしり」と酒粕をお買い上げ。四日市に行くとおっしゃるので、一緒に久居駅を12時47分の名古屋行き急行に乗車。私は、桑名まで。13時40分に到着。¥820。一緒に行ってくださる方があるのも、また楽しという感じでした。
Img_7235c あみま倶楽部の会員証を更新して、今日でスタンプは3個目。これで、年内のウォーキング/ハイキングは終了。新年は、まだ思案中。1月5日に近鉄ハイキングで伊勢神宮参拝のコースがあるのですが(特別企画ハイキング 新春初詣ハイキング 新春初願い・平成最後の伊勢神宮初詣~足神さんへもお参り~)、この日では大賑わいでしょうね。まぁ、ゆっくり考えます。
 本編は、また明日以降、年内には書き終えるつもり。ただ、ネットだけでは調べが付かない気もしています。

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2018年12月18日 (火)

20181209近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 青木酒造の銘酒「米宗」をたずねて」へ(その2)……青木酒造、源空寺に立ち寄った後コースミスで余分に歩いて弥富駅へゴール(完)

20181209kintetsuhikingyatomi2  12月9日の近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 青木酒造の銘酒「米宗」をたずねて」の続き(その2)です。その1では、薬師寺の大楠、鯏浦城跡を見て、難畑地蔵尊、興善寺地蔵を巡ってきました。東名阪自動車道・弥富インターのあたりから北へ向かいます。青木酒造までは1㎞あまり。

Img_5622c スタートからほぼ3㎞地点。西に養老山地が見えます。雪をかぶっていますImg_5626c し、養老山地から吹き下ろす風がけっこう冷たい。田園地帯を黙々と進みますが、今シーズン初の酒蔵みてある記ですから、期待も高まるのです(苦笑)。
Img_5662c スタートから3.8㎞、青木酒造に10時半に到着。実は、近鉄弥富駅から東名Img_5669c 阪自動車道を越え、愛西市(青木酒造は、愛西市本部田町)まで行かねばならないということで、かなり遠いイメージを持っていました。しかし、歩いてきてみて、けっこう近かったのに驚き。青木酒造さんの創業は、文化2(1805)年。江戸時代後期、210年以上の歴史があります。
Img_5637c まずは、抽選会の結果を確認。近鉄ハイキングのコースマップには、ナンバーが振ってあります。このナンバーで抽選というワケ。今回のナンバーは113。何度も見ましたが、残念ながら、何も当たらず(苦笑)。掠りもしませんでした。
Img_5642c 気を取り直して、試飲コーナーへ。ここは無料試飲。別に1杯100円でのImg_5639c 有料試飲コーナーもありました。まずは、「純米 米宗(こめそう)」を。「完全発酵 初しぼり 無濾過生原酒」だそうです。ここに出ている「初しぼり 若水しぼりたて」と同じだと思います。純米酒で、辛口。トロッとした印象。美味い!
Img_5647c 飲みながら試飲コーナーを見ていますと、お代わりしても大丈夫そうでしたし、純米・米宗の他に、梅酒も出て来ていましたので、これも試飲をお願いしました(微笑)。山廃本醸造原酒と梅酒用品種である剣先梅を氷砂糖は控え目にして漬け込んだ梅酒だそうです。梅酒のエキスがかなり感じられました。
Img_5649c 続いて、甘酒の振る舞いへ。酒蔵の酒粕で造られた甘酒は、どこでいたImg_5634c だいても美味しい(微笑)。体も温まります。
Img_5654c 続いて即売コーナーへ。たいていは、試Img_5736c 飲した酒を買ってきます。「純米 米宗(こめそう) 完全発酵 初しぼり 無濾過生原酒」の720ml入りを買ってきました。¥1,300と、なかなか良いお値段ですが、たまにはいいでしょう。この頃、愚息もこれを密かに楽しみにしています。
Img_5658c ところで、土産を買っていると、試飲コーナーから、「いきなり開けると危険だから、ちょっと待って」という話が聞こえImg_5657c て来ました。「危険な酒?」とは、気になります。そういえば、即売コーナーでも、小生が買った酒の隣にあった瓶に「危険 生原酒」と書かれたものがありました。これも試飲できるならと、無料試飲へ再度突入(笑)。「米宗の活性ふなくち 手汲みどぶ」です。どぶろくでした。純米生にごり酒で、瓶の中で2次醗酵させているため、いきなり開けると、炭酸ガスが吹きこぼれるということでした。最後に、最初の「純米 米宗」をもう1杯いただいて、試飲も、青木酒造みてある記も無事終了(微笑)。都合4杯も試飲してしまいました。
Img_5666c 青木酒造滞在は15分ほど。寒かったせいもあるのか、さほど飲んだ感じImg_5675c もありませんでした。ましてや酔っているという自覚はほとんどゼロ。青木酒造からは東に向かいます。300mほどのところに源空寺というお寺がありましたので、立ち寄って来ました。
Img_5681c 浄土宗のお寺。稱名山源空寺。由緒などを記した看板なImg_5684c どはありませんでしたが、例によって、ネット検索すれば何か分かると高を括ったのが間違いでした。浄土宗のお寺を検索するサイトでは出てきたものの、それ以外は分かりませんでした。楠でしょうか、大木が印象的です。
Img_5677c お寺の入り口に地蔵堂。さらに境内の墓地への入り口あたりには、お社Img_5685c が3つあったのですが、これも不明。木柱が建っていたものの、文字は読めず。やむなく、境内を一通り拝見してそのまま出て来ました。
Img_5691c このあとすぐの道を右折するのが、本来設定されたコースでしたが、「違うな」と勝手に思い込んでさらに300mほど先に行ってから右折。ところが、マップにある神社が見えず。「間違えたな」とは思ったのですが、正規ルートを行っても、再び東名阪自動車道に突き当たって右折し、西に向かいますから、そのまま間違ったルートで行くことにしました。同じあたりで、女性の参加者の方も、「私、地図が読めないんです」といって迷っておられたのですが、お誘いして同行。「旅は道連れ、世は情け」とばかりに(笑)、世間話や、ハイキングの話をしながら、本来のコースに戻りました。帰宅してから確かめたら、500mほど余分に歩いていました(苦笑)。冒頭の実測ルートマップには、正規ルートも入れてあります。「何本目で曲がる」ということもきちんと確かめないといけないという教訓を得ました。
Img_5694c 青木酒造から弥富駅までは立ち寄るところもありませんので、ひたすらゴImg_5696c ールの近鉄弥富駅を目指します。途中、愛西市西條町あたりで、アヤシげな(失礼)漢方薬局を発見。営業しているのかどうかも定かではありません。この日は閉まっていました。「薬草」と大書されていたり、「スッポンまむし」という看板があったりでした。
Img_5698c 往きに通った西中地北交差点で左折すると、弥富市内に戻ります。ここ20181209kintetsuhikingyatomi1 から南下。西中地の交差点からは、往きのルートをそのまま戻ります。再び難畑地蔵尊を見て、このあたりで7㎞。弥富駅も近づいてきます。
Img_5711c 11時43分に近鉄弥富駅に戻ってきました。歩いたのは7.7㎞。コースミスをしなければ、7.2㎞でしたが、まぁ歩きに来たのですから、多少はいいでしょう。養老でしでかしたように2㎞も余分に歩くといけませんが……。要した時間は、2時間15分。立ち寄り先が少なかったのと、あまりウロウロと見て回るところがなかったからです。11時55分に五十鈴川行き急行がありましたので、それで帰宅。桑名駅着は、12時1分。¥260。
Img_5744c 前日に続き、あみま倶楽部のスタンプをゲット。12月16日にはJRさわやかウォーキングがありました。神楽酒造へ行くものでしたが、研究会で参加できませんでした。この次は、12月22日の近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ「中風封じの田村寺」と垂坂公園を訪ねて!」。去年も行ったコースですが、今年も行こうと思っています。

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2018年12月17日 (月)

20181209近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 青木酒造の銘酒「米宗」をたずねて」へ(その1)……薬師寺の大楠・鯏浦城跡、難畑地蔵尊、興善寺地蔵へ

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 12月9日、多度山から北、養老山地の方は、雪が降っているような感じでImg_5664c あしたが、この日もまた、お出かけ(笑)。連日の近鉄ハイキングへの参加です。翌週(12/15、16)は、ハイキング/ウォーキングと予定が合わず、次に行けるのは12月22日になってしまいますし、今日は、待望の「酒蔵みてある記」の初回なのです。
Img_5521c  この日の近鉄ハイキングは、「酒蔵みてある記 青木酒造の銘酒「米宗」をたずねて」。近鉄名古屋線・弥富駅がスタート&ゴールの約7㎞。コースマッ20181209kintetsuhikingyatomi プは、左の写真の通り。弥富駅をスタートし、薬師寺の大楠・鯏浦(うぐいうら)城跡、難畑地蔵尊、興善寺地蔵を経て、青木酒造で酒蔵見学&試飲、甘酒のふるまい、即売会・抽選会。そして、ひたすら歩いて、弥富駅に戻るというもの。ですが、試飲をしすぎたせいか(笑)、曲がるべきところを見逃し、大回り(爆)。500mほど余分に歩いてきました。といっても、他にも同じ誤りをしでかした方があり、大笑い。右の画像が実際に歩いたルート。歩くために行ったはずですから、まぁ良し。
Img_5527c_2 受付は、9時半からでしたので、桑名駅を9時11分の名古屋行き準急に乗Img_5517c 車。2駅目が弥富。9時19分着。¥260。受付は9時半からとなっていましたが、すでに始まっていました。というのも、この「酒蔵みてある記」は参加者が多いのです。9時28分にはスタートしました。
Img_5525c 最初に向かうのは、薬師寺の大楠・鯏浦城跡ですが、不勉強にしてこのImg_5528c 「鯏」という漢字を知りませんでした。駅を出て早速の電柱にもこの町名が表示されています。現地について、ボランティアガイドの方の説明を聞いてようやく分かりました。「うぐい」と読みます。ウグイは淡水魚ですから、昔このあたりにたくさんいたということかもしれません。午前中、北西の風が5m/s前後、気温6~8℃という「好条件」の中、頑張って歩きます。
Img_5532c 近鉄弥富駅の北口を出て、JR関西線の踏切を越え、800mほどで鯏浦山薬師寺Img_5535c に到着。9時40分。遠くからも大楠がよく見えています。
Img_5539c ここは、曹洞宗のお寺ですが、かつて織田信長が築いた鯏浦城と呼ばれる砦がありました。このあたりに勢力を持つ一向門徒・服部党を攻めるためです。信長の弟・彦七郎信興が城主となったのですが、元亀元(1570)年、小木江城(現在の愛西市)で戦死。怒った信長は大軍を送って、天正2(1574)年、ことごとく焼き尽くしたといいます。鯏浦城には信興の念持仏薬師如来を安置する御堂があり、それがこの薬師寺の前身です。明治時代、この薬師如来像を本尊とする薬師寺が建立され現在に至っています。この日のハイキングでは、弥富ふるさとボランティアガイドの方たちが待機して、説明してくださっています。
Img_5544c_2 境内には、この「鯏浦城跡」の石碑があります。この辺りは、昔は海岸線であり、荷之上集落とともに自然堤防上に立地し、蟹江城と並んで中世期城砦の最南に位置しており、織田が服部党に対峙する拠点だったのでしょう。この碑は昭和51(1976)年に建てられました。
Img_5560c 境内にあるクスノキの大木は、「薬師寺の大楠」として親しまれていまImg_5547c す。この大楠は、樹齢600年以上といわれます。かつてこの付近が海岸線だったことから磯部の楠として有名だったそうです。説明板(昭和51(1976)年の設置)によれば、目通り8.3mに及ぶとあります。人々は、この楠の葉を薬として用い病を治したといわれ、 また一説には、信長の一向門徒勢・服部党攻撃の際、信長軍がこの木に舟をつないだとも伝えられています。樹下には小祠が祀られ参拝者が跡を絶たなかったようですが、明治時代に弥富神杜に合祀されています。
Img_5562c この薬師寺には、境内と、山門の外にそれぞれ地蔵堂があります。境内Img_5574c にある地蔵堂の前には、「西国三十三ヵ所観音霊場御砂踏」という石柱が立っています。山門の外(ここも境内かも知れませんが)にあるのは、延命地蔵尊。このあと、2ヶ所のお地蔵様を巡るのですが、弥富には地蔵尊がたくさんあるように思えます。
Img_5580c 薬師寺の大楠を見て、出て来た道路にもお地蔵様があります。実測ルートマップで「1km」とあるところです。こちらのお地蔵様も延命地蔵尊で、その前には「南無延命地蔵菩薩」という石柱がありました。
Img_5584c この延命地蔵から200mも行かないところの道ばたに「難畑地蔵(なんばImg_5586c たじぞう)尊」があります。このお地蔵様は、織田信長と服部党・一向門徒との戦場となり多くの犠牲者を供養するために建立されたもので、もとは、この場所ではなく、この東にある東弥生台団地の一角にあったそうです(実測ルートマップで、難畑地蔵尊と入れたところの南西。今はそこに石碑が建っているそうですが、それは見て来ませんでした)。信長に一面焼き払われた「鯏浦下の割」古戦場は、その後、人骨や武具、矢刀などが掘り出され、耕作しようとしても大変難儀に合うことがあり、難畑と呼ばれていました。そのうちに遺骨などを集めて、地蔵尊を祀りました。明治になって、ある時、農家の娘が眼病になり、地蔵尊が「我を中地道の人通りに移してくれたらお前の眼病を治してやる」とその娘の夢枕に立ったそうです。村人十数人が、そのとおり、中地道の傍らにお堂を建立し、道行く人にお参りさせたら娘の眼病はたちどころに治ったという言い伝えがあります。案内してくださった弥富ボランティアガイドの方が熱心にしてくださったお話。
Img_5596c 難畑地蔵尊から西中地交差点で左折、北西に向かいます。東名阪自動Img_5602c 車道をくぐる手前には、興善寺地蔵があります。このあたりは、「白頭(しらこうべ)」といい、蓮如上人の孫にあたる実正を養子に迎えたほどの由緒ある寺「荷上山(がじょうざん)興善寺」がありました。末寺は70ケ寺にもおよぶ大きな勢力があったといいます。寺伝によると、桓武天皇の勅願で延暦14(796)年に創建されました。元は天台宗でしたが、永正年間(1504~1521年)に浄土真宗に改めています。信長の時代に長島の願證寺と組んで一揆を起こし、天正2(1574)年に焼き払われたものの、直ちに復興。しかし 寛永4(1627)年の大地震で倒壊し 清州に移転し さらに名古屋に移りました。
Img_5598c このあたりは、天正13年(1586)の地震で陥没し、白頭池ができています。明治24(1891)年、濃尾地震の後、村人がこの池を浚えた際に、2体の地蔵尊を探り当て、服部家と斉藤家が荷之上の墓地に安置してきました。この地蔵尊は、昭和51(1976)年に弥富市の文化財指定を受け、それ以降、荷之上区によって管理され、毎年3月に供養祭が営まれています。弥富市に残るもっとも古い石仏だそうです。
Img_5606c これでこの日のハイキングの前半部分は終了。東名阪自動車道を弥富Img_5624c インターの西で潜り、弥富インターあたりを通り、北へ向かいます.弥富インターのところで2.6㎞。10時10分くらい。北風がけっこう強く、多度山の北にある養老山地には、雪がかぶっているのが見えました(右の写真)。しかし、だんだんと青木酒造も近づいてきますので、足取りは重くはありません。
 その1はここまで。青木酒造の酒蔵みてある記、源空寺、そして痛恨の(笑)コースミスの話は、その2にて。

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2018年12月15日 (土)

20181208近鉄ハイキング「千年の歴史を、あるこう 伊勢西国三十三所観音巡礼 四日市の古刹・宝性寺から街中の禅寺・長興寺へ」(その2)……田村寺、聖武天皇社、長興寺で「完」

20181208kintetsuhikingkawagoetomi_4  12月8日の近鉄ハイキング「千年の歴史を、あるこう 伊勢西国三十三所観Img_5134c 音巡礼 四日市の古刹・宝性寺から街中の禅寺・長興寺へ」のその2です。その1では、鏡ヶ池まで来ました。蒔田の交差点からわずかに歩いたところが、旧・東海道です(法勝寺へ行くのに、一度横切っています;右の写真)。この道は、この先、三岐鉄道とJR関西線がクロスする手前で八風道と交差します。コースは、八風道を上って、富田方面に向かいます。

Img_5142c 八風道に入って200mほど進むと、弘法山田村寺があります。10時25分に到着。ここは、昨Img_5156c 年(平成29(2017)年12月22日の近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」で訪ねています。真言宗醍醐派のお寺で、三重四国八十八箇所の5番札所に当たります。冬至の時期に「中風封じ」法要が開かれ、ご祈祷を受けた参拝者にかぼちゃぜんざいが振舞われます。「かぼちゃ大師」の日として親しまれています。今年も、この中風封じにあわせてまた、近鉄ハイキングがあります(12月22日:巨大かぼちゃ「中風封じの田村寺」と垂坂公園を訪ねて!)。
Img_5144c  創立は江戸時代末期(1850年頃~)。寺伝によれば、平安時代初期、坂上田村麻呂公が東征の帰途、この地で休息した際、村人のもてなしに感謝し、田村の姓を下賜され(それ故、この地区には田村姓が多いようです)、江戸時代に坂上田村麻呂公の霊を弔い、草庵を開いたといいます。明治時代、大慈遍照二世の大導師が弘法大師を信奉し、信徒ともに厄除け大師の恩恵に浴し、大師堂を建立。さらに真養大和尚により寺格を整え、弘法山・田村寺と称し、真言宗醍醐派に属することになった。(別の伝承もあります。こちらもご覧ください)。
Img_5147c 境内には地蔵堂があります。ここを覗いて驚きました。すでに大きなかぼちImg_5149c ゃが置かれていたのです。まさか去年のものということはないでしょうから、今年の中風封じの時に使うかぼちゃかと思います。
Img_5151c かぼちゃだけを撮影すると、こんな感じ。6個もの特大かぼちゃ。去年訪2604006d ねたときには、本堂にも大きなかぼちゃが置かれていましたし、参道にも右の写真のようにあり、皆さん撫でていました。
Img_5154c 境内には、こちらの碑があります。去年も気になったのですが、大混雑でImg_5158c 碑陰を見られませんでした。碑表には、「高野山開創千百五十年大法会記念 父母恩重碑」とあります。さらに細かい字で和歌らしきものが刻まれているのですが、あいにく読めないくずし字(苦笑)。「たらちねの」など部分的にしか読めませんでした。昭和42(1967)年2月に建てられています。4名の方の俗名と法名の他、一段と大きく、「田村将軍後裔 発願主 弘法山初代 田村眞養」とありました。「眞養」は、上に引用したように、明治時代にこの田村寺の寺格を整えた僧侶。今ひとつよく分かりませんが、田村眞養の名前で4名の方のご家族が建てたということでしょうか?
Img_5174c 疑問が解消し尽くせないまま、先に進みます。田村寺から南西へ。三岐Img_5178c 鉄道三岐線の高架を2回くぐり、また、南東へ進路を変え、さらに近鉄名古屋線をくぐって行きます。松原野球場の脇に出ます。この宮城は、近鉄名古屋線からもよく見えます。このときまた、「つどい」を目撃。本日2度目ですが、このときは運行中。近鉄名古屋駅から湯の山温泉駅へ向かっていました。
Img_5189c 田村寺を出て800mほどで聖武天皇社に到着。10時40分。その名の通Img_5184c り、御祭神は聖武天皇。例祭は7月16日で、これは松原の石取祭だそうです。旧社格は、村社で、松原の氏神様。
Img_5197c 「続日本紀」によれば、聖武天皇は、天平12(740)年の藤原広嗣の乱の際、伊勢に行幸されました。このとき、朝明郡衙(朝明郡の役所)に泊まったといいます。社伝では、神社の名称やこのあたりに樹木のあったことから考えて、松原村を朝明頓宮の跡として、鎌倉時代の安貞元(1227)年に聖武天皇社が創建されたといいます。
Img_5216c 境内には、聖武天皇の御製「妹に恋い 吾がの松原 見渡せば 潮干のImg_5222c 潟に 鶴鳴き渡る(いとしい人に焦がれて自分が逢うことを待っているという名の松原を見渡すと、潮の引いた遠浅の海に鶴が鳴いてずっと飛んでいくことだ)」という(万葉集に掲載)。ここに詠まれている松原をこの聖武天皇社付近と解釈する説があります。昭和30(1955)年に建てられています。揮毫は、鈴鹿の石薬師で幼少期を過ごした歌人佐々木信綱によります。
Img_5205c こちらは、白玉龍神社。龍神様を祀る神社はいろいろありますが、白玉Img_5210c 龍神はよく分かりません。名古屋市中村区太閤にも同じく、白玉龍神があるようです(こちら)。拝殿の前には右の写真のように石が2つ置かれていましたが、とくに説明はありませんでした。時々見かける「重軽石」のような気がします(持ち上げてはみませんでした)。
Img_5199c さらに「力石」も。説明によれば、800年の昔から若衆等が、ことある毎にImg_5203c 体力を試そうさんと競い合ってこの石を持ち上げたとあります。「健康の石」として松原村に保存されていたものを平成5(1993)年にここに移したということです。ちなみに、この富田地区の神社などには、こういう力石がたくさん残っています。
Img_5230c 石碑はもう1つありました。「聖武天皇社 造営基金芳名碑」で、大正Img_5246c 10(1921)年8月の建之。碑陰には、基金を寄せた方々のお名前が実にたくさん刻まれていました。これで、聖武天皇社の参拝も終え、境内も一通り見て回って来ました。
Img_5252c  聖武天皇社からは100mほどで国道1号線に出ます。イオンモール四日市北があります。ここにはかつて、東洋紡績(現:東洋紡)富田工場がありました。しかし、繊維業界の低迷を受けて、平成9(1997)年に閉鎖され、その跡地に平成13(2001)年1月にジャスコ四日市北ショッピングセンターとして開業しました。ここまで買い物に来ることもあります。
Img_5251c イオンモールの向かい側(北西)は、四日市北警察署があったところ。Img_5257c 「あったところ」というのは、最近、四日市市大字羽津に移転したからです。イオンモールの西はJR富田駅前交差点。ここには、JR関西線・富田駅の東口と、三岐鉄道の本社があります。三岐鉄道三岐線は、富田といなべ市の西藤原駅までを結んでいます。JR富田駅~三岐朝明信号場間は貨物列車専用で、旅客列車は近鉄富田駅~三岐朝明信号場間の近鉄連絡線を通り、すべて近鉄富田駅発着となっています。富田駅~東藤原駅間でセメントを中心とした貨物輸送を行っています。旅客列車は、主に西武鉄道の中古車両が使われています。このあたりでスタートから3㎞。
Img_5272c 富田三丁目の交差点を右折。国道1号線から離れ、富田の町へ入っていImg_5274c きます。300mほど入ったところに富田山長興寺。曹洞宗のお寺。養老6(722)年、泰澄大師が開基となって堂宇を創建。大師が寺前の大木を夜籠もりして彫刻した大日如来を本尊としたと伝わっています。伊勢西国三十三所観音巡礼第27番札所。弘仁8(817))年、弘法大師により再建されたといわれています。天文14(1545)年、この地の城主・南部甲斐守兼綱が菩提所として再興した際、真言宗から曹洞宗に改めています。その後、永禄11(1568)年、織田信長の伊勢侵攻の兵火により灰燼に帰しました。本堂は、明和3(1766)年に再建されたものの、安政元(1854)年の大地震で倒壊。明治11(1878)年になって再建されていますが、老朽化のため、平成15(2003)に現在の本堂が竣工。
Img_5277c この日は11時から法要が執り行われているということで、本堂への参拝Img_5291c や、ご本尊の拝観は叶いませんでした。ここまで来て、3.3㎞。このときは、3㎞あまりしか歩いていないことはあまり意識していませんでした。長興寺から100mほど、ちょうど寺の裏手に当たりますが、富田菓庵清華堂が最後の立ち寄りスポット。800円(税込)以上買うと、「鯨船ふやきせんべい」が1枚プレゼントされるということでしたが、申し訳ないと思いつつ、見て、写真を撮っただけで通過。
Img_5290c この富田菓庵清華堂の手前にある寺本商店(酒屋さん)の前には、里程Img_5281c 標があります。「津市元標へ拾里 三重郡富田町」と刻まれています。この里程標は、大正3(1914)年11月に三重県が建てたもの。向かって右側には「桑名郡桑名町大字桑名へ弐里弐拾町/員辨郡大泉原村大字楚原へ四里拾参町弐拾四間」と、また左側には「四日市市大字四日市へ壱里八町」とあります。
Img_5296c スタートから3.8㎞、11時7分に近鉄名古屋線・近鉄富田駅にゴール。多少寒かったものの、距離も短く、さほど負担ではありませんでした。午後からの伝馬公園遺跡発掘調査説明会は2時からですので、いったん帰宅することにしました。11時16分の名古屋行き急行に乗車。桑名には、11時22分着。¥260。
Img_5313c 先だって更新してきた新しいあみま倶楽部の会員証に1個目のスタンプ20181208kintetsuhikingkawagoetomi_2 を押してもらいました。また、今日のハイキングは、「近鉄あみま倶楽部KIPS対象ハイキング」。参加すると、KIPSポイント100ポイントがいただけました(微笑)。いわば「100円の駄賃をいただいた」ということ。桑名駅までの往復は、1.8㎞。都合ここまでで、本日は、5.6㎞。いつもの散歩並み(笑)。田村寺あたりからゴールの近鉄富田駅までの実測ルートマップは、右の画像の通りです。短い距離でしたが、聖武天皇に関わる旧跡、神社があって楽しめました。
Img_5066c ところで、その1で触れた宝性寺の参道入り口には、このような掲示が出ていました。東海道の表示と、龍王山宝性寺の説明、「伝承による昔の大矢知想像図」です。桑名、四日市への距離と時間も書かれています。四日市市内の旧東海道沿いには、「ここは東海道」という看板があちこちに掛かっています。また、名所・旧跡、寺社仏閣に、各地区の方がつくられた案内板、説明板が出ているのもよく見ます(教育委員会などの公的なものの他にも、ということ)。
Img_5067c こういうところを訪れる立場としてもありがたいものですし、地元を盛り上Img_5069c げるという点でも良いことと思えます。右の想像図には、現在地も示されています。桑名でもこういう活動があるといいといつも思うのです。

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2018年12月14日 (金)

20181208近鉄ハイキング「千年の歴史を、あるこう 伊勢西国三十三所観音巡礼 四日市の古刹・宝性寺から街中の禅寺・長興寺へ」(その1)……宝性寺、御厨神明神社、長明寺から鏡ヶ池へ

Img_5031c 12月8日(土)、朝はご覧のように、真冬の空という印象でした。空を見て少し迷ったのですが、近鉄ハイキングに行ってきました。迷ったというのは、天候のこともあったのですが、この日は、午後2時から、市内の伝馬公園で「遺跡発掘調査説明会」もあり、少々キツいかと思ったからです。しかし、この日の近鉄ハイキングは約5㎞と案内に書いてありましたし、何とかなるだろうとまずは、ハイキングに出かけることにしました。結局は、どちらも参加しました(微笑)。

Img_5048c  この日の近鉄ハイキングは、名古屋線・川越富洲原駅が受付で、「千年の歴史を、あるこう 伊勢西国三十三所観音巡礼 四日市の古刹・宝性寺から街中の禅寺・長興寺へ」というテーマ。近鉄ハイキングでは、シリーズで伊勢20181208kintetsuhikingkawagoetomi_2 西国三十三所観音巡礼が行われていますが、その最終回ということでした。左は、コースマップ。ネットでは約5㎞となっていましたが、マップでは約4㎞。「ファミリー向き」とありましたから、これくらいなのでしょう。これはありがたい。伊勢西国三十三所観音巡礼は、宝性寺と長興寺の2つのお寺。川越富洲原駅をスタートして、龍王山宝性寺、聖武天皇神社、富田山長興寺から、富田菓庵清華堂に立ち寄って、名古屋線・近鉄富田駅がゴールです。右が実際に歩いたルートマップ。立ち寄り先でウロウロと見て回った分は省いてあります。3.8㎞でした。
Img_5052c  川越富洲原駅での受付は、9時45分から10時45分。桑名駅を9時9分の津Img_5040c 新町行き普通に乗車。川越富洲原までは、3駅です。9時17分に到着。¥260。すでに30名ほどの方が並んでいました。定刻までコンコースで待機。
Img_5034c いきなりの余談で恐縮ですが、川越富洲原駅に着いたとき、上りホームImg_5042c に「つどい」が停車していました。湯の山温泉開湯1300年のイベント列車。電車に足湯があるのです。普段は、白塚電車区に留置されていて、運航日の朝、名古屋まで回送されます。乗ってみたいと思うのですが、前売りでかなり売れているようです。
20181208kintetsuhikingkawagoetomi_3 川越富洲原駅をスタートしたのは、9時45分。左は、歩いたルートの前半部分。川越富洲原駅は、川越町の南の端にあり、少し歩くと四日市市になります。川越富洲原からまずは、北西へ進み、龍王山宝性寺に向かいます。約1㎞。
Img_5058c 宝性寺までは住宅街を縫っていきます。途中、暁小学校の前を通りましImg_5055c た。暁小学校は、四日市大学や、暁中学、暁高校と同じく、暁学園の学校。暁学園は、平田漁網製造(後の平田紡績)株式会社の宗村佐信社長が、当時の四日市市長吉田勝太郎氏等と相諮り、「文化国家の建設は次代を担う国民の教育の振興にあり」との信念の下に、1946(昭和21)年3月財団法人暁学園を創立したことに始まる、歴史のある学園です。当初は、暁幼稚園と暁女子専門学校でスタートしました。などということを書いたのは、小生が学んだ大学の研究室の初代教授が、戦後、この暁女子専門学校で教鞭を執っておられたからです。
Img_5062c 最初の立ち寄り先である龍王山宝性寺には、10時3分に到着。ここは、伊勢西国三十三所観音巡礼の第28番札所。ご本尊は、十一面観音菩薩像。それを安置している本堂が市指定文化財です。享保4(1719)年の棟札が残りますが、現在の本堂は、鬼瓦の銘から文化11(1814)年の建立と推定されます。宝性寺は、実は2回目去年(平成29(2017)年11月9日に「旧・東海道ウォーク」をしましたが、そのときです(2017年11月10日:旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(後編))。
Img_5093c_2  天平12(740)年、聖武天皇が朝明行宮の際、摩伊多の里に野立されたImg_5083c 地で、勅願により建立されたのが創建とされています。ちなみに、現在地の西方300mには、宝性寺、堂前の地名が残っているそうです。創建時は、樹木が鬱蒼とした敷地28,000㎡の中に七堂伽藍の荘厳なお堂が立並んでいたと伝わっています。御本尊の十一面観世音菩薩像は、江州(滋賀県)石山寺を開基した良弁僧正(689~773)による一刀三礼の彫刻になるものだそうです。
Img_5081c その後、永禄11(1568)年の春、織田信長の家臣滝川一益の長島一揆Img_5085c 攻略の戦火に遭遇して焼失しました。のちに現在地に小堂が建立されたのですが、正徳元(1711)年の冬、火災により再度焼失してしまいます。享保4(1719)年6月、桑名藩第6代藩主・松平忠雅公の寄進によって再興されたのが現在の本堂です。御本尊とともに「蒔田観音」と愛称され、今日まで広く信仰されています。もとは天台宗でしたが、現在は、住職はいらっしゃらず、蒔田第一自治会が所有しています。それ故、特定の宗派には属さず、いわゆる単立寺院です。
Img_5101c 前回訪れた時には気づかなかったのですが、本道の南には阿弥陀堂がImg_5103c ありました。この阿弥陀堂については、案内板にも触れられていませんし、ネット検索でも情報は出て来ませんでした。
Img_5071c ところで、この宝性寺の参道には鳥居もあります。2度目ですのでヘンにImg_5065c は思わなかったのですが、初めてご覧になると不思議に感じられるかもしれません。8枚前の写真の右手に「御厨神明神社」という、神社の社号標があります。
Img_5108c 宝性寺の本堂の北東にこの御厨神明神社があります(リンク先の神社検索(三重)のサイトでは単に神明神社となっています)。左の写真で、右端に半分くらい社殿が移っています。
Img_5087c 御祭神は、豊宇気毘売神(とようけひめのかみ;豊受大神の異称)。大山祇命(おおやまつみのみこと;山の神)、応神天皇(おうじんてんのう)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)も祀られています。創建年代は不明でImg_5090c すが、伊勢神宮の御厨の地に建てられ、蒔田村の氏神として信仰されました。明治41(1908)年、三重郡大矢知村蒔田字古屋敷の山神社を合祀しました。拝殿近くに右の写真のように、「山神」の石碑がありますが、これが合祀された山神社を示すものかもしれません。
Img_5074c 宝性寺の境内で見てきたもの。こちらは、「奉建立十一面観世音菩薩専祈」と刻まれています。さらにその下に「國家安穏 村内隆昌」と小さくありました。いつものように碑陰を見たかったのですが、柵で囲われていて裏側には入れませんでした。 
Img_5095c こちらは前回も見て来ましたが、「舟止石」だそうです。約Img_5097c 60㎝。変形した穴が通る硅灰岩(珪灰石か?)で、この穴に縄を通し、海中に投入して、船の碇にしたと説明されています。この寺の本尊と、近江国石山寺の開基である良弁上人の縁によって石山寺から運ばれたものと考えられているそうです。寄進者は、羽津庄屋・伊藤源衛門。
Img_5113c 宝性寺と御厨神明社のすぐ南にもお寺があります。朝明殿長明寺です。Img_5111c ここも、昨年11月、訪ねています。浄土真宗本願寺派。立派な山門があるのと、寺の周りが、素掘りの環濠で囲まれています。環濠に囲まれているのは、ここは文治年間(1185~90)に蒔田相模守宗勝が居城した、蒔田城(まいた)跡といわれるからです。宗勝は、平安時代の末期、時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めました。もともとは、寿永年間(1182~1185)に伊勢平氏の一族である平家資(たいらのいえすけ)が、富田館と同時期にここに築城したものに始まると説明板にありました。その当時、外堀は南にある鏡ヶ池(後で触れます)まであったそうです。
Img_5126c 創立年代、開基などは不明ですが、寺誌によれば、もとは真言宗潮音寺といい、近郷の豊田村(川越町豊田)にあったと考えられています(字長恩寺という地名があるといいます)。文明17(1485)年、画像本尊を下付されたといいますので、その頃、真宗に改宗したと考えられます。慶長9(1604)年、現在の寺号を公称し、のち慶安4(1651)年、領主松平隠岐守(松平定綱公と思います)から現在の寺地を賜り、翌年寺基を移したといいます。
Img_5118c 山門脇に、「文化三年丙寅二月」と刻まれた石碑が建っています(文化3年は、1806年)。何の石碑かと思ったのですが、よく分かりませんでした。ネットで検索してみて、こちらのブログに橋に関わるものだと書かれていました。新しい、白い橋の下に古い橋があるのだそうです。さすがにそこまで気が回りませんでした(笑)。橋の親柱なのでしょうか。
Img_5132c_2 長明寺を出て200mあまりのところに「鏡ヶ池」があります。ここも2度目。東海道が、八風街道と交わるところの少し手前。ここは、聖武天皇ゆかりの地です。聖武天皇の伊勢行幸の際(天平12(740)年11月23日に朝明郡の頓宮にお着きになったといいます)、このあたりで天皇の笠が風で飛んで池に落ちたのを洗濯をしていた娘が拾い上げたそうです。翌日、旅立つ天皇と見送る娘の姿が池に映り、それが鏡のようだったとして鏡池と言うようになったと伝わっています。なお、この鏡ヶ池は、旧・東海道に面しています。
 その1はここまで。今回は、2回で終えられそうです。

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2018年12月13日 (木)

20181208伝馬公園遺跡発掘調査説明会に参加して来ました

Img_5470c  このところ、あちこち遊び歩いていて、12月8日(日)の午後行ってきた桑名市内の伝馬公園遺跡発掘調査説明会のことを書いていませんでした。桑名市伝馬町の伝馬公園では市の公共施設整備計画がありますが、市教育委員会が行っている遺跡発掘調査で、江戸時代、桑名城下町に全国6番目に整備された上水道管が初めて敷設状態で見つかりました。12月8日午後2時から現地説明会があるということで、行ってきました。我が家からは、南へほぼまっすぐ。徒歩で1.7㎞、20分あまりで行けますので、歩いて往復。試掘調査は、今年9月からこの12月にかけて行われています。

Img_4973c  伝馬公園は、近世の桑名城下町でいうと、その南西端にあります。16世紀末頃からこの地に所在した浄土真宗の寺院「願証寺」の境内の一部であったと伝わります。願証寺はもとは長島にあり、明応6(1497)年、蓮如上人の子・連淳が入って東海地方の浄土真宗の中心として、門徒10万人余を擁する一大勢力を保っていました。本願寺が織田信長と対立したとき、願証寺も信長に反旗を翻したのですが、天正2(1574)年に信長に滅ぼされました。しかし、江戸時代、桑名に再興し、約1万坪(約33,000平方メートル、野球場3個分くらい)に及ぶ境内を有していましたが、正徳5(1715)年の高田派への宗旨替えで内紛が起こり、廃寺に至ったといいます。伝馬役に従事する人々が多く住んでいたため、それが町名になりました。
20181208setsumeikai 左の画像は、当日配布していただいた説明資料(A4版4ページ)。当日は、Img_5420c 13時半から入場ができ、説明会は14時からで、調査を担当なさった学芸員の方が説明してくださいました。遺跡発掘調査の説明会には、興味はあったものの、今回が初めての参加でしたが、大変面白いものでした。参加者は、思ったよりもたくさん。右の写真は、水道管が発掘された試掘孔(トレンチ)での説明の様子。現地には13時40分頃到着。14時までは自由に見て回って良いということでした。
181208trench 左の画像は、説明会資料からお借りしました。伝馬公園内のトレンチの位置を示した図。今回は、T1-1とT3について説明があったほか、出土品も展示され、説明がありました。T1-1では、町屋御用水の遺構、T3では江戸時代の墓域が見つかっています。T1-2とT2はすでに埋められていました。ここは中世末から近世初頭頃に盛り土したと考えられる整地面が確認できたそうで、この頃以降本格的に土地利用が始まったと考えられます。桑名では、このころ「慶長の町割」が行われていますので、それに関連するかもしれません。
Img_5337c T1-1を北東から眺めた写真。手前の方に東西方向に土管が並んでいま

Img_5349c

す。近世遺物包含層に掘り込まれるように埋められていますから、町屋御用水の遺構と考えられたということです。右の写真は、同じトレンチを東側から見たもの。上水道管は途中で途切れていますが、手前側(東側)には、割れているものを含め5本、向こう側(西側)には3本が、それぞれつながった状態で見つかっています。「久波奈名所図会」には、「願証寺境内に桑名町中の水道を通す」とありますから、それに該当する可能性があるそうです。

Img_5344c 左は、東側部分をクローズアップした写真(写真奥が東側)。手前側の2Img_5353c 本は割れてしまっていますが、奥(東)は3本の水道管が連結された状態になっています。右の写真は、西側部分。こちらには3本がつながっています。
Img_5335c これは、別のところ(新屋敷)から出土した町屋御用水の上水道管。長さImg_5454c 30㎝、外径10㎝、内径5㎝。瓦のように焼かれたものだそうです。
Img_5373c こちらは、T3を東から見た写真です(人骨が写っていますので、ご注意ください)。倒壊した多数の墓石の下に、甕棺や木棺などに埋葬された人骨がたくさん出て来たそうです。副葬品や骨壺、お供えに用いたと思われる陶磁器もたくさん出土しています。試掘範囲では10人以上が埋葬されたと思われるそうです。また、説明会資料によれば、墓石の祈念銘から遅くとも18世紀中頃には墓地として利用され、19世紀以降廃絶したと見られるといいます。願証寺との関連は、現時点では不明。
Img_5367c 左は甕棺。上左の写真では、手前の深い水たまりの向こう側(西)に見えていImg_5365c るものです。右の写真は、この甕棺に向かって右(北)にある人骨(写真をクリックすると拡大しますので、ご注意ください)。人骨は、トレンチに見えている限りで4体ありました。かなり年月を経ているので、もろくなっており、取り出すには慎重な作業が必要だそうです。
Img_5409c T1-1の西側には、T3から出土した墓石などがクリーニングの上、展示さImg_5404c れていました。たとえば、右の墓石には、「宝永八辛卯年 法名釋教西信士 二月廿七日」と刻まれています。宝永8年は1711年(なお、この年4月には正徳に改元されています)。墓石は、説明会の時点で65点(ただし、パーツに分かれていますので、墓が65基ということではありません)。
Img_5400c こちらは、墓碑銘と思われます。野呂さんという、元禄8(1695)年Img_5394c に生まれ、明和元(1764)年に亡くなった医師のもの。これら2点の墓石・墓碑銘は、18世紀初め~半ばのものですから、ここは、上記のように遅くとも18世紀半ばには墓地となっていたことを示しています。
Img_5458c 説明会の受付には、今回の試掘調査で発掘された出土品の一部が展示されていました。左の写真には、地蔵様の頭部、皿、徳利、鍋、植木鉢などがあります。これらはトレンチ2、3から出土したもの。
Img_5455c こちらはトレンチ2からの出土品。横に説明が書かれていました。左上のImg_5456c_2 大きな破片は、すり鉢。右側、上から2列目には天目茶碗とあります。天目茶碗といえば、鑑定団などでも「お宝」として出てくることがあります。
Img_5331c さらにトレンチ3からは、瓦もたくさん出て来たということでした。この試掘調査で得られた遺物は、近世の瓦屋陶磁器が多いものの、中世のものも一定量出土しているといいます。トレンチ2の最深部では、中世末から近世初頭の陶磁器がまとまって出土したそうです。このあたりの土地利用がいつ頃始まったということを考える上で重要な手がかりということです。
Img_5377c 説明会では、試掘調査のプロセスを示す写真も展示されており、興味深Img_5384c く見て来ました。町屋御用水は、複数の絵図が残っていて、江戸時代の通り沿いに埋まっていると考えられていたのですが、現場はそれより約30m南に位置しており、想定外の発見だったといいます。
 以下は、補足説明。
【町屋御用水】
 桑名の土地は、木曽三川(揖斐・長良川、木曽川)の砂が積もってできた低い土地でした。そのため、大雨によって土地が水につかり、井戸水は飲み水に適していませんでしたので、上水道の整備は、桑名藩の大きな願いでした。桑名藩主の松平定行は、桑名藩の水問題を解決するために、寛永3(1626)年に上水道をつくり始めました。これが「町屋御用水」で、それ以降、明治37(1904)年に諸戸水道が完成するまで約280年にわたって使われました。
Img_6371c  町屋御用水の取水口は上野にあり、現在は水を調整するための水門がImg_6536c 残っています。ここから2.5㎞の間は溝を掘った形で地上に水路が見えており、その先は地中に潜っています。吉津屋御門(今の吉津屋町)から町内に入ると水道は地下に潜り、所々に水をくむめの井戸がつくられました。その井戸を「通り井」といいます。人々は、長い竿のついた桶をもって水をく みに来たといいます。左の画像は、「久波奈名所図会」から撮ったもの。下水道工事により見つかっ た「通り井」の場所には右の写真にあるような標識が埋められ、現在でもその場所を知ることができます。これは、旧・東海道筋にある歌行燈(うどん屋)の近くのもの。
【掛樋(かけひ)】
Img_5477c  伝馬公園のすぐ近く、矢田郵便局付近に「掛樋」という地名があります。Img_5478c 交差点の名前にもなっています。これは、当時、御用水が城の惣構え堀をまたぐための水道橋がかけられたことに由来するものです。
【願証寺】
Img_6374c こちらは、「久波奈名所図会」に描かれている願証寺。画面、左上に「願Tenmapark 證寺」と書かれています。顕本寺(日蓮宗)は、現在も日進小学校の北にあります。中央には、「傳馬町通」が通っています。右は、伝馬公園あたりのマップ。赤いラインが旧・東海道。

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2018年12月 9日 (日)

20181209近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 青木酒造の銘酒「米宗」をたずねて」へ(予告編)……いよいよ「酒蔵みてある記」の季節到来

Img_5508c

 多度山から北、養老山地の方は、雪が降っているような感じであります。今Img_5664c 日もまた、お出かけ(笑)。「毎日、毎日、何をしているのだ?!」といわれそうですが、今日もまた近鉄ハイキングです。来週は、ハイキング/ウォーキングと予定が合わず、次になると12月22日になってしまいますし、今日は、待望の「酒蔵みてある記」の初回なのです。
Img_5521c  今日の近鉄ハイキングは、「酒蔵みてある記 青木酒造の銘酒「米宗」をたずねて」。近鉄名古屋線・弥富駅がスタート&ゴールの約7㎞。コースマップ20181209kintetsuhikingyatomi は、左の写真の通り。弥富駅をスタートし、薬師寺の大楠・鯏浦(うぐいうら)城跡、難畑地蔵尊、興善寺地蔵を経て、青木酒造で酒蔵見学&試飲、甘酒のふるまい、即売会・抽選会。そして、ひたすら歩いて、弥富駅に戻ります。なのですが、試飲をしすぎたせいか(笑)、曲がるべきところを見逃し、大回り(爆)。500mほど余分に歩いてきました。といっても、他にも同じ誤りをしでかした方があり、大笑い。右の画像が実際に歩いたルート。歩くために行ったはずですから、まぁ良し。
Img_5527c 桑名駅を9時11分の名古屋行き準急に乗車。2駅目が弥富。9時19分着。Img_5517c ¥260。受付は9時半からとなっていましたが、すでに始まっていました。というのも、この「酒蔵みてある記」は参加者が多いのです。9時28分にはスタート。
Img_5525c 最初に向かうのは、薬師寺の大楠・鯏浦城跡ですが、この「鯏」という漢Img_5528c 字を知りませんでした。「うぐい」なのです。ウグイは淡水魚ですから、昔このあたりにたくさんいたということかもしれません。午前中、北西の風が5m/s前後、気温6~8℃という「好条件」の中、頑張って歩きます。
Img_5532c 1㎞足らずで、鯏浦山薬師寺に到着。ここは、曹洞宗のお寺ですが、かつ

Img_5539c

て織田信長が築いた鯏浦城と呼ばれる砦がありました。このあたりに勢力を持つ一向門徒・服部党を攻めるためです。信長の弟・彦七郎信興が城主となったのですが、元亀元(1570)年、小木江城で戦死。怒った信長は大軍を送って、天正2(1574)年、ことごとく焼き尽くしたといいます。鯏浦城には信興の念持仏薬師如来を安置する御堂があり、それがこの薬師寺の前身です。
Img_5544c 境内には、この「鯏浦城跡」の石碑があります。この辺りは、昔は海岸線であり、荷之上集落とともに自然堤防上に立地し、蟹江城と並んで中世期城砦の最南に位置しており、織田が服部党に対峙する拠点だったのでしょう。この碑は昭和51(1976)年に建てられました。
Img_5560c また、クスノキの大木があり、「薬師寺の大楠」として親しまれています。この大楠は、樹齢600年以上といわれます。かつてこの付近が海岸線だったことから磯部の楠として有名だったそうです。人々は、この楠の葉を薬として用い病を治したといわれ、 また一説には豊臣秀吉が舟をつないだとも伝えられています。樹下には小祠神明社が祀られ参拝者が跡を絶たなかったようですが、明治時代に弥富神杜に合祀されています。織田信長と一向門徒・服部党との戦いは、後の長島一向一揆にもつながるものですが、小生、その辺りは、知識不足。本編では、もう少し調べ、頭を整理して書きます。
Img_5581c
 西中地の交差点に向かう途中、スタートから1.3㎞ほどのところにあるのImg_5586c が、難畑地蔵尊。このお地蔵様は、織田信長と服部党・一向門徒との戦場となり多くの犠牲者を供養するために建立されたもので、もとは、この場所ではなく、この東にある東弥生台団地の一角にあったそうです。信長に一面焼き払われた「鯏浦下の割」古戦場は、その後、その後人骨や武具、矢刀などが掘り出され、耕作しようとしても大変難儀に合うことがあり、難畑と呼ばれていました。そのうちに遺骨などを集めて、地蔵尊を祀りました。明治になって、ある時、農家の娘が眼病になり、地蔵尊が「我を中地道の人通りに移してくれたらお前の眼病を治してやる」とその娘の夢枕にたったといいます。村人十数人が、そのとおり、中地道の傍らにお堂を建立し、道行く人にお参りさせたら娘の眼病はたちどころに治ったという言い伝えがあります。案内してくださった弥富ボランティアガイドの方に伺ったお話。
Img_5596c 東名阪自動車道弥富インターチェンジのすぐ南西、興善寺地蔵があります。このあたりは、「白頭(しらこうべ)」といい、蓮如上人の孫にあたる実正を養子に迎えたほどの由緒ある寺「荷上山(がじょうざん)興善寺」がありました。寺伝によると、桓武天皇の勅願で延暦14(796)年に創建されたといます。元は天台宗でしたが、永正年間(1504~1521年)に浄土真宗に改めています。信長の時代に長島の願證寺と組んで一揆を起こし、天正2(1574)年に焼き払われたものの、直ちに復興。しかし 寛永4(1627)年の大地震で倒壊し 清州に移転し さらに名古屋に移りました。
Img_5598c 廃跡となったその後、白頭池からこの2体の石仏が掘り出され、「興善寺の地蔵」として、服部肇家と斎藤光男家が先代より代々この墓地に安置してきました。昭和51(1976)年に弥富の文化財に指定を受けてからは荷之上区が管理しています。弥富市に残るもっとも古い石仏だそうです。
Img_5606c このあと、東名阪自動車道の下をくぐって、弥富から愛西市に入っていきImg_5624c ます。途中、寒く、北風もかなり強く吹いています。西の養老山地を見ると、薄ら雪が積もっているのが見えます。道理で寒いわけ。はやく青木酒造へ行って試飲がしたい(笑)。
Img_5666c 10時半、青木酒造に到着。スタートから約3.9㎞。弥富駅から東名阪自動Img_5634c 車道を越えて、愛西市まで行くと思うと、かなり遠いイメージでしたが、案外近く思えました。すでにたくさんの参加者が、試飲や即売会に。青木酒造さん、創業は江戸後期・文化2(1805)年。
Img_5642c 無料の試飲はこちら(というのも、有料の試飲、1杯100円もありました)。Img_5639c
早速、「米宗(こめそう)」をいただきました。「完全発酵 初しぼり 無濾過生原酒」。純米酒で、辛口。トロッとした印象。美味い!
Img_5658c  このほか、限定商品の「活性手汲みどぶ 純米酒」も試飲に出て来ましImg_5657c たので、こちらも味わってきました(微笑)。搾られたばかりの原酒どぶろくが瓶詰めされています。そのため、いきなり開けると爆発(?)して「危険」なのだそうです。即売会で売っていた「米宗の活性ふなくち手汲みどぶ」には、「危険生原酒」という赤いラベルがあったくらい(笑)。体が温まり、美味しかったものですから、普通の「米宗」をもう1杯と、梅酒も1杯、都合4杯もいただいてきました(笑)。そうそう、甘酒もでした。
Img_5736c 「酒蔵みてある記」に参加したとき恒例のお買い上げ、今日は、こちら。Img_5654c 最初に試飲した「純米 米宗(完全発酵 初しぼり 無濾過生原酒)」、720ml入り、¥1,300です。なかなか良いお値段ですが、たまにはいいでしょう。この頃、愚息もこれを密かに楽しみにしているようです。
Img_5675c 青木酒造を10時45分に出て、東へ。300mほどのところに、稱名山源空寺。浄土Img_5680c 宗のお寺がありましたので、勝手に立ち寄って来ました。由緒などを記した看板などはありませんでしたが、例によって、ネット検索すれば何か分かると高を括ったのが間違いでした。浄土宗のお寺を検索するサイトでは出てきたものの、それ以外は分かりませんでした。楠でしょうか、大木が印象的です。
Img_5685c 境内には、お社が3つ。これも何も説明はありません。神社に詳しい方であれば、お社の形からある程度のことはお分かりになるのでしょうが、あいにくそこまでの知識もありません。
Img_5691c このあと、はじめの方にも書きましたように、本来右折すべきところを見逃し、大回り。ただし、他にも10名以上の方が同様のミス。実際に曲がったあたりで、女性の方も「私、地図がよく読めないんです」と、迷っておられたのですが、「いずれにしても東名阪自動車道に突き当たれば良いのですから、ここから行きましょう」とお誘いし、結局、ゴールまでご一緒してきました。帰ってから調べたら、500mほど余分に歩いてきたという次第。青木酒造以降は、今日は立ち寄るところは設定されていませんので、3.8㎞ほどをひたすら歩いてきました。たくさん試飲をいただいて、ほろ酔い気分でよかったのかも知れません。
Img_5711c ゴールの弥富駅に戻ってきたのは、11時43分。7.7㎞を歩きましたが、その割りにかかった時間は、2時間15分でした。立ち寄り先が少なかったのと、立ち寄り先であまりウロウロと見て回るところがなかったからです。11時55分に五十鈴川行き急行がありましたので、それで帰宅。桑名駅着は、12時1分。¥260。
Img_5744c 昨日に続き、あみま倶楽部のスタンプをゲット。来週末は、この辺りでは近鉄ハイキングも、酒蔵みてある記もありません。12/16には、JRさわやかウォーキングが南四日市駅であり(醸造文化(味噌・醤油・酒)が残る四日市を丸ごと体験ウォーク)、神楽酒造へ行くコースなのですが、あいにくと研究会(あいにくなどと書くと、お叱りを受けますが)。神楽酒造さん、去年も行って、好みなのですが、残念。また、酒蔵みてある記で来年2月に行く機会がありそうですから、そのときの楽しみに。
 昨日の近鉄ハイキング「千年の歴史を、あるこう 伊勢西国三十三所観音巡礼 四日市の古刹・宝性寺から街中の禅寺・長興寺へ」の本編と、伝馬公園遺跡発掘調査説明会の記事も書かねばなりませんが、少しずつ載せていきます。

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