寺院

2018年10月12日 (金)

20181012近鉄ハイキング“「開湯1300年 ゆこうよ 湯の山」こもガク&大日本市菰野博覧会を楽しもう!”(予告編)

Img_6986c  10月8日に行ってきた近鉄ハイキングの記事も予告編しか書いていないのに(20181008近鉄ハイキング「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」へ(予告編))、今日はまたもや次のハイキングに出かけてきてしまいました(苦笑)。“開湯1300年 ゆこうよ 湯の山」こもガク&大日本市菰野博覧会を楽しもう!”であります。

Img_6949c 受付は、近鉄湯の山線・菰野駅で10時からということで、桑名を9時1分の五Img_6957c 十鈴川行き急行に乗車。近鉄四日市に9時13分着、湯の山線の湯の山温泉行き(9時31分発)に乗り換えて、菰野駅には、9時49分に到着。菰野駅は、9月2日の近鉄ハイキングのゴール(20180902近鉄ハイキング“「開湯1300年 ゆこうよ 湯の山」菰野藩主土方雄豊公ゆかりの見性寺での開湯1300年記念祭を訪ねて”へ……予告編)。コースもこのときと一部重なります。
Img_6962c 駅に着いた時点ですでに受付は始まっていました。今日のコースマップは、181012kintetsuhikingkomono 左の写真の通り。菰野町の南東部を歩きます。約6㎞ということでしたが、マップ上は、5.5㎞。実際に歩いたのは、右のルート。少し寄り道をしましたが、5.7㎞でした。こちらで実測ルートがご覧いただけます。今日のところは、例によって「予告編」ということです。それもかなりかいつまんでということで、ご了解ください。
Img_6967c 菰野駅からはまず、西に向かいます。ここは、9月2日にも立ち寄っていますが、宝樹院西覚寺。菰野駅西の踏切の側にあります。浄土真宗大谷派のお寺ですが、ネットではこれという情報はありません。
Img_6977c 近くを金渓川が流れています。南に向かうと、9月2日のハイキングで訪Img_6981c ねた見性寺。菰野藩主の菩提寺です。今日は、そちらには向かわず、西へ。冒頭の写真のように、正面に御在所岳が見えます。右は、冒頭の写真と同じあたりから1,365mmズームで撮った写真。
Img_6990c スタートから600mほどのところに、忠魂碑と地蔵堂があります。忠魂碑Img_6998c_2 は、遺族会のリストをざっと見ましたが、載っていないようです。地蔵堂は、延命地蔵様を祀ってありました。これらは、また本編を書くときにきちんと調べることにします。
Img_7006c 1㎞の少し手前、洗心教団の角に道標がありました。「右 ゆ乃山道」と見えます。札の辻(東町商店街の一角、最後から3枚目の写真に写っているあたり)を南へとり、明福寺西裏を抜けて、金渓川の堤防を西に進む旧湯の山道の樋の口橋詰めにあったものを、大正10(1921)年、県道湯の山線が新設された際に移されたといいます。
Img_7019c 四日市菰野バイパスを渡って、左折(南へ)。廣幡神社です。旧くは「正Img_7050c 八幡宮」と称し、寛永7(1630)年8月15日、菰野藩主・土方雄氏公が、京都の石清水八幡宮から勧請したもので、それ以来、土方家の鎮守社となっています。
Img_7082c 廣幡神社、主祭神は、八幡様ということで、誉田天皇ですが、相殿神は、かなり多数いらっしゃいます。軻遇突智命、建葉槌命、大日孁神、蒼稲魂神、市杵島姫命、大山祇命、建速須佐之男命、倭比売命、伊波比主命、菅原道真、中山祇命、奥山祇命、八衢彦命、八衢姫命、万幡豊秋津師比売命、土方雄永、比売神、建御雷之男命、五十猛神、大屋津比売命、大市比売命、抓津姫命、八十神、大穴名牟遅神、大山咋命、天兒屋根命、羽山津見、建御名方命、事志呂主命であります。
Img_7085c 明治4(1871)年に諏訪神社を合祀してからは廣幡神社と号するようになりました。さらに、明治40(1907)年から、村内全部の郷社1社、村社である倭文神社、菰野神社、平岡神社、日吉神社、江田神社、須賀神社、豊岡御厨神社、春日神社を合祀しています。このため、上記のように多数の神様がいらっしゃるということ。
Img_7124c 廣幡神社からは来た道を戻り、バイパスへ。菰野南の交差点あたりでImg_7131c 2km。高架橋をわたったところで左折し、再び西へ。菰野保育園の前を通過。子どもたちがたくさん園庭で元気いっぱいに遊んでいました。門が、なんだか古風でカッコイイ。前にベンチがあって休めるようになっています。
Img_7137c 住宅街を抜け、湯の山街道に出て少し行くと、道の駅・菰野。9月2日にもImg_7332c 来ました。今日は、土産は買うなという指示があったのですが、店内をくまなく見て回ったら、よいものを見つけてしまいました(微笑)。菰野の早川酒造がつくっている「早春」というお酒。これ、最初の職場の大先輩Mさんから教えられて以来好みの酒なのです。3種類売っていて、散々迷った末、純米原酒を買ってきました。¥1,700なり。道の駅・菰野には10時55分着。買い物をし、小休止。11時10分再スタート。この先でスタートから3㎞。
Img_7144c 湯の山街道を下っていきます。菰野交差点で左折し、北に向かいます。

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このあたりまで来ると、関ヶ原という交通案内板が出て来
ます。まっすぐ行くと、町役場に出ますが、三滝川の手前で右折(東へ)。こもガク&大日本市博覧会が行われている、町民センターに行きます。
Img_7153c こもガク&大日本市博覧会は、菰野町で体験型イベントを行う「こもガク」と、中川政七商店の「大日本市博覧会」が手を組み、3日間のおまつりを開催するというイベント。今日から14日まで行われます。
Img_7157c 中川政七商店の期間限定ストアが、体育センターで行われていましたのImg_7168c で、見て来ました。巨大なやぐらがくまれた特設売り場になっています。中川政七商店のブランドの他、全国各地から選りすぐられた工芸品が販売されていました。また、「東海市」と名付けられたエリアでは、東海3県の工芸メーカーやデザインプロダクトを扱うショップが出展されていました。
Img_7172c 玄関ホールにあったのは、萬古焼の鹿。地元・菰野町の陶芸家・堀野証嗣さん(八幡窯)が制作されたもの。古萬古をイメージした赤絵模様が精巧に描かれた力作。萬古焼の特徴の一つに、自由さがあると聞きますが、まさにそういう感じ。
Img_7180c 隣の町民センターでは、トークイベントがあるそうです(こちら)。その他、Img_7185c いろいろなイベントがあり、実際に体験することもできるようです(こちら)。左の町民センターの前にある石碑のようなもの、何気なく見て来たのですが、写真をよく見たら、御製が刻まれていました。商工会館のところで右折(南へ)。
Img_7257c 東町商店街を目指すだけと思っていたのですが、菰野中学校の西にImg_7227c 野神社(神社検索(三重)で検索すると、廣幡神社のページに飛びます。菰野神社は、廣幡神社の御旅所という表示がありました。廣幡神社が本社で、菰野神社はその御旅所という位置づけのようです)。
Img_7195c 拝殿には、多数の絵馬が奉納されていました(廣幡神社Img_7203c にもあります)。境内には、「御成婚記念井」(大正13(1924)年建之でしたので、昭和天皇の御成婚記念と思います)などもあり、なかなか興味深いところです。
Img_7256c 菰野神社についたのは、11時40分。おおむね4.5㎞。ここでお昼を食べ、休憩することにしました。他にも数名の方が休憩and/orお昼。中には、缶チューハイを美味しそうに飲んでいるオジ様も(微笑)。気持ちは分かります。
Img_7260c 12時15分に歩き始めました。すぐ近くに湧水池がありました。きれいな水が湧き出ていて、しばらく見とれていました。ただし、ネットでざっと見たところでは情報はないようでした。鈴鹿山脈から流れてきているのだろうと勝手に推測しています。
Img_7274c 湯の山街道を渡って、東町商店街へ。ここは、9月2日の近鉄ハイキングImg_7277c のコースでもありました。長松山瑞龍寺にも再び立ち寄りました。臨済宗妙心寺派ですが、もとは天台宗のお寺。ご本尊は薬師如来。菰野藩士たちの菩提寺でした。
Img_7278c このお寺と、東町商店街は。地蔵盆が有名で、盛ん。境内には延命殿があり、お地蔵様がいらっしゃいました。地蔵さんは延命除災の功徳があるとあつい信仰を受け、菰野の町に昔から大きな火事が起きたことがないことも、この地蔵さんの加護があるからと信じられているそうです。
Img_7285c 東町商店街は、閉店してしまった店もあるものの、まだまだ頑張っているImg_7289c お店もたくさんあります。今日のハイキング参加者は、商店街のいくつかの店でサービスを受けられたのですが、¥1,000以上とか、\3,000以上購入が条件でしたので、残念ながらパス。
Img_7300c 菰野駅にゴールしたのは、12時32分。5.7㎞。菰野神社から思ったほど時間はImg_7311c かかりませんでした(微笑)。近鉄四日市行きの電車は、ちょうどよい具合に12時40分発。近鉄四日市駅に12時59分着。四日市からは13時10分の名古屋行き急行に乗車し、桑名着は13時22分。運賃は、片道¥470。自宅から桑名駅までの往復も含め、7.7㎞ほどでした。
 宇治山田での記事を書いてから、今日の菰野の記事を書きます。

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2018年10月 8日 (月)

20181008近鉄ハイキング「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」へ(予告編)

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 体育の日、絶好のハイキング日和です。今日は、近鉄ハイキング「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」に行ってきました。近鉄名古屋線・宇治山田駅から、御幸道路、錦水橋、河邊七種神社、河崎の町並み、河崎商人館、勢田川沿い散策、橘神社、二軒茶屋餅角屋本店、松尾観音寺そして倭姫宮を訪ね、近鉄鳥羽線・五十鈴川駅がゴールという、コースマップ上8.4㎞のハイキング。
Img_5751c いつもハイキングに出かける時よりも1時間近く早い電車に乗ります。自宅は7時40分過ぎに出発。というのも、桑名から宇治山田まで急行で行くと、ほぼ1時間半かかるのです。8時3分の伊勢中川行き急行に乗り、伊勢中川に9時4分着、9時7分発の五十鈴川行き急行にに乗り換え、宇治山田到着は、9時31分。料金は、何と¥1,200! これまでに参加した近鉄ハイキングでは、最長の乗車時間であり、最高の運賃(笑)。本日は、例によって「予告編」。写真もどういう風か、800枚以上撮ってきており、まだざっと見ただけです。
Img_5786c 近鉄名古屋線・宇治山田駅。昭和6(1931)年に開業。当時の面影を、今でも残しています。国登録有形文化財。駅名は開業当時の市名である宇治山田にちなんでいます。内部のコンコースは広々として二階までの吹き抜けがあり、荘重でゆったりとした駅舎ですが、団体待合室や食堂など、多数の参詣客に対応できる機能的な設計もされています。貴賓室があり、天皇など皇族の方や、内閣総理大臣の伊勢神宮参拝の際の乗降駅となっています。
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 駅舎は開業当時からの鉄骨鉄筋コンクリート3階建て(塔屋を含めると5階建て)。設計は、同じ1931年に開業した東武鉄道浅草駅や1932年竣工の南海電気鉄道難波駅(南海ビルディング)をも手がけた久野節。建築面積は3,201㎡、幅128mの堂々たる駅舎です。外壁はクリーム色のテラコッタ・タイルで全面装飾され、入口上部には八角形の窓が並んでいます。屋根には茶色のスペイン瓦が使われていて、昭和初期の名建築です。就職した年、初詣で来たと思うのですが、夜中でしたのではっきりした記憶がありません。一度しっかりと見ておきたかった駅。
Img_5801c 左は、本日のコースマップ。伊勢へ来たのですが、外宮、内宮など伊勢20181008kintetsuhikingujiyamada 神宮にお参りするコースではありません。河崎といって、江戸時代から伊勢の台所として発展した問屋街あたりを回り、勢田川沿いを散策。伊勢名物の一つ、二軒茶屋餅を味わいます。最後に、伊勢神宮の別宮の一つである倭姫宮へお参りします。右は、実際に歩いたルートマップを、いつものように距離測に描いたもの(こちらを参照)。多少とも寄り道をしたりしましたので、実際には、9.6㎞を歩きました。自宅から桑名駅までの往復を含め11.6㎞ほどです。
Img_5889c 宇治山田駅を出て左折を重ね、御幸道路へ出ます。伊勢神宮の豊受大神宮(外宮)と皇大神宮(内宮)を結んでいます。全長はおよそ5.5km。明治天皇の行幸で神宮へ参拝するための道路として、自動車が通行できる道が倉田山を経由して作られたのです。明治43(1910)年に竣工。篤志家によって献灯された石灯籠が並んでいたのですが、今年4月路線バスがバス停に止まろうとした際、道路脇に設置されていた石灯籠に接触。これが倒壊して歩行者の男性を直撃し、亡くなるという事故があって、撤去されてしまいました。歩道の新しい舗装は、石灯籠があったところと思います。
Img_5900c  上の写真に写っている橋が、錦水橋。御幸道路が勢田川を渡る橋です。12 基の擬宝珠 が付いたこの橋は、明治36(1903)年、倉田山に神宮徴古館が開館した時にできました。この橋のあたりから山の方を見ると、秋には紅葉が広がり、それが「錦」のようだったため名付けられたといいます。昔は路面電車(三重交通神都線)も走る橋でした。三重交通神都線は、山田駅(現・伊勢市駅)前を起点とし、内宮までと二見までの路線がありましたが、昭和36(1961)年に廃線となり、バス路線に替わりました。伊勢市のターミナル駅から、伊勢神宮・二見浦へ向かう観光・参拝客輸送の役割を果たしていたのです。全路線長は、14.0km。
Img_5904c 錦水橋からは、勢田川沿いを歩き、河崎の町並みに向かいます。写真は、清浄坊橋のやや上流から、上流方向(南)を見たもの。勢田川は、伊勢市街地を流れる主要な河川で、江戸時代にはお蔭参りの客や物資の輸送で大変賑わいました。
Img_5939c 河崎の町並み。今もたくさんの店などが営業していて、楽しめます。こちImg_5930c らにある「伊勢河崎商人館」のサイトにたくさん情報が載っています。町歩き地図もあります(ここ)。河崎を始め、伊勢地方では、右のような注連飾りが年中飾ってあります。「蘇民将来(そみんしょうらい)子孫家之門」という文言が書かれています。「蘇民将来」とは、神に宿を貸した善行により茅(ち)の輪の法を教えられ、子孫に至るまで災厄を免れることを約束された説話上の貧者の名です。
Img_5960c 河崎の氏神様である河邊七種神社(かわべななくさじんじゃ)。通称は「天王さん」。創祀の年代は不詳ですが、旧家村田氏が宝徳3(1451)年、室町・足利時代に初めて当地に来住し祭祀して創立され、河邊の里の地名由来に依り、河崎社と称したのを、明治4(1871)年6月から河邊七種神社となりました。
Img_5985c 主祭神は、須佐之男神(スサノオノミコト)。相殿神は、八衢比古神、八衢比売神、久那斗Img_5987c 神、大物主神、火産霊神、菅原道真公、水神、宇迦之御魂神、祭神不詳二座(相殿神は、本編で触れます)。
Img_5991c 境内社には、吉家稲荷神社があります。町内に無格社として祀られていたものを昭和11(1936)年にここに遷し、祀っています。他には、境内には、樹齢600年といわれる大楠がありました。
Img_6043c 河崎商人館。江戸時代中期(約300年前)に創業された酒問屋「小川酒店」を保存し、伊勢河崎の歴史文化興隆拠点として整備された施設です。江戸・明治期に建築された蔵7棟、町家2棟からなっています。といっても、小生は、中は見ておりません(苦笑)。9時30分~17時00分、火曜日休館、大人300円です。ちなみに、町並みは「切妻妻入(きりづまつまいり)」になっています。神宮の御正殿が平入りのため、同じでは畏れ多いという理由だそうです。
Img_6034c 川に面して建つ酒類の商品蔵は、日常で使う雑貨、食品を中心とした販Img_6054c 売と展示をしています(こちらを参照)。ちょっとだけ覗いてきました。また、商家には大きな鬼瓦、飾り瓦があります。飾り瓦には「隅蓋」といわれる、切り妻の両端にあり、水が建物に入り込むのを防ぐ蓋の役割をするものがついています。右は、河崎商人館のものの1つ。火災から家を守るという祈りも込められているようです。
Img_6074c 川辺の蔵。かつては、川の両岸に川から直接荷物を運び入れることができる蔵が建ち並んでいたといいます。左の写真は、「川の駅」近くで撮ったもの。勢田川の左岸にあります。これも見たかった景色。
Img_6108c その後は、勢田川沿いを延々と歩きます(笑)。次の目的地である橘神社に行くまで、瀬田大橋を渡って2.5㎞。川沿いです。しかし、退屈はしません。川沿いで、カワウ、モズ、トビ、イソヒヨドリなどが登場してくれたからです。
 瀬田大橋を渡って、勢田川の右岸を歩き、4.5㎞地点。橘神社です。Img_6129c しかImg_6144c し、参加者の方、ほとんどここには見向きもしません。次の二軒茶屋餅・角屋本店が気になるのでしょう(笑)。御祭神は、橘諸兄(たちばなのもろえ)。橘諸兄は、敏達天皇の子孫で、天平9(730)年に大納言に抜擢された、いわば奈良時代の政治家。
Img_6122c 境内には、勝廣稲荷社もありました。倉稲魂神が御祭神。御鎮座は不明ですが、伊勢学園高校の敷地に鎮座していたものの、平成6(1994)年、ここに移転してきたそうです。
Img_6196c 次は、いよいよ「名物二軒茶屋餅で舌鼓」であります。5㎞直前、11時25Img_6193c 分。お腹は空いています(微笑)。二軒茶屋餅は、角屋本店の商品。角屋は、天正3(1575)年に伊勢神宮へ参拝する舟参宮の港であった大湊から勢田川をさかのぼる舟着場の近くで創業されました。創業当時、舟着場付近には角屋と湊屋の二軒の茶屋があったことから、このあたりは、二軒茶屋と呼ばれるようになったと伝えられます。湊屋は、今はありません。
Img_6170c 今日の近鉄ハイキング参加者には、二軒茶屋餅を1つプImg_6174cc レゼントされます。二軒茶屋餅は、きな粉餅で、中にあんこが入っています。三重県内、東海道から伊勢街道(参宮街道)沿いは、「餅街道」なのです。ちなみに、まだ全部制覇はしていません。
Img_6158c 二軒茶屋餅角屋本店の敷地内には、明治天皇の記念碑があります。樹齢400余年の大楠の下に建っています。 この記念碑は、明治5(1872)年に明治天皇が海路より伊勢神宮に参拝した際、二軒茶屋に上陸したことを記念して建立されたものです。
Img_6244c ちょっと飛びますが、倉田山公園。野球場のところに「野口みずき金メダルロード」の顕彰記念碑と、沢村栄治投手・西村幸生投手の胸像がありましたので、寄り道。野口Img_6250c みずき選手は、アテネオリンピックの女子マラソンで優勝しました。伊勢市出身で、県立宇治山田商業高校時代に実際にトレーニングで走ったコースを顕彰記念道路としています。沢村、西村ともに伊勢市出身の偉大なプロ野球選手。ともに太平洋戦争当時に、沢村投手は現読売巨人軍、西村投手は現阪神タイガースで、それぞれエースとして活躍したのですが、両選手とも戦争で命を落としています。
Img_6286c 倉田山公園野球場から3~400mのところに、松尾観音寺があります。山号は、龍池山。約1,300年前の奈良時代始め(712年)、当時の高僧・行基が伊勢神宮参拝の折、この松尾山に雄・雌の龍が住むと伝えられる池があることを知り、その池のほとりに自ら観音様を刻み寺を創建したと伝えられています。創建以来、本山も末寺も檀家も持たず、いずれの既成宗派にも属さない“単立”という特異な形態の祈願寺です。ご本尊は、「十一面観世音菩薩」と脇仕の「地蔵菩薩」「毘沙門天」。龍神伝説に因んで、「災難除け」「縁結び」などに利益があるとされます。 龍池は、本堂裏(伊勢学園高校の南)にあります。「二つ池」と呼ばれ、東の池には雄龍、西の池には雌龍がそれぞれ住んでおり、観音様をお守りになっていると言われています。松尾観音寺に着いたのは、12時ちょうど。ここで6.4㎞ほど。
Img_6301c 境内には、松尾龍池社などいろいろなもなものがありました。まだこれかImg_6358c ら調べないといけませんので、それは本編にて。松尾観音寺から、皇學館大学、高校、中学などの脇を通って、倭姫宮へ向かいます。右は、皇學館大学の寮。門がかなり立派。
Img_6376c 倭姫宮へ入るところの交差点は、「倭姫前」。交差点のところには、「神宮Img_6380c 文庫」という看板がありました。よく分からなかったのですが、この奥には皇學館大学の神道博物館があるようです。交差点を渡って、倭姫宮への入口には、「古市へニ町」という道標が建っていました(道標好きです)。
Img_6391c 倭姫宮。内宮の別宮。御祭神は倭姫命(やまとひめのみこと)。伊勢神宮には内宮と外宮と合わせ別宮は14宮ありますが、そのうち創建が明確であるのはここ倭姫宮だけです。大正12(1923)年11月5日創建で、もっとも新しい別宮です。倭姫命は、第11代垂仁天皇の第四皇女と伝えられます。倭姫命は天照大神を祀る宮を定めるため、数国を経たのち現在地に伊勢神宮を創建し、祭祀や神職の制度を定め、神道の基礎を作ったと伝えられます。その途中、桑名にも立ち寄られています。
Img_6413c こちらが、倭姫宮。伊勢神宮の別宮ですので、倭姫宮も遷宮が行われまImg_6415c す。最近では、平成26(2014)年12月10日に遷御の儀が執り行われました(こちらを参照)。
Img_6431c この倭姫宮のあたりは、「倭姫文化の森」として整備されています。神宮Img_6439c 徴古館(左の写真)、神宮農業館、神宮美術館など神宮に関わる博物館もすぐ近くにあります。時間的、体力的余裕があれば、是非とも立ち寄りたいところですが、12時半を過ぎていましたので、ここのいこいの広場で昼食&休憩としました。今日も桑名駅の駅ナカコンビニでゲットしてきました。選択肢があまりなかったのと、電車の時間が迫っていたので、「いなり&おむすびのミニセット」(税込み¥298)。
Img_6468c 13時に再スタート。倭姫前の交差点から再び御幸道路に出て、ゴールの五十鈴川駅へ。倭姫前の交差点からは、ほぼ直線で1㎞弱。左の大鳥居をくぐって、下り坂。帰りに下り坂は楽ちん(微笑)。ここの御幸道路にも石灯籠があったのですが、すべて撤去。風情はありましたが、昭和30(1955)年に設置したもので、管理責任も曖昧になっていましたから、撤去やむなしと思います。

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 ゴールの近鉄鳥羽線・五十鈴川駅。13時18分に到着。スタートからほぼ3時間半。9.6㎞を完歩。ここは初めて来ました。江戸橋の仕Img_6503c 事の時、五十鈴川行きの急行に乗ることがありましたが、その電車は、ここまで来ていたのです。 特急停車駅ですが、コンビニもありません。ただ、周りの景色はとてもよい感じ。右の写真で奥に見えているのは、朝熊山と思います。我が家からも天気がよければ、この朝熊山は見えます。
Img_6543c 昼の時間帯、ここから名古屋まで直通の急行は、1時間に1本。特急は、2本。急行が出るまで40分弱。たくさん歩いて疲れましたので、ちょっと贅沢をして、特急で帰ることにしました。桑名までの特急料金は\1,320、運賃は¥1,270。合計¥2,590という大枚をはたきました。13時49分発で、桑名着は14時59分。特急なら1時間あまりということでした。
Img_6530c 五十鈴川駅は、直線区間の途中にあります。何かで調べたら、「隠れたImg_6538c 電車撮影スポット」と書いてありました。素人考えですが、確かにそうかも知れません。
Img_6561c お陰様で、今日であみま倶楽部のスタンプは、目出度く20個を達成しました。12月まで、1年の会員期間がありますので、もうちょっと頑張ってみたいと思うのですが、次は40個スタンプを集めないと賞品がもらえません。これはさすがにキツそう(笑)。
 以上、今日の近鉄ハイキング「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」の予告編でした。800枚以上の写真を整理し、あれこれ調べてまた本編を書くことにします。

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2018年10月 6日 (土)

20180924近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」へ(その4)……徳川家康公船出の浦、江島若宮八幡神社、久住屋菓舗でおはらぎ、青龍寺そして勝速日神社を経て白子駅へゴール(完)

 9月24日に開催された近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」のその4です。その3では、大黒屋光太夫らの供養碑、若松緑地の光太夫漂流記壁画、2代目開国曙光碑を経て、ようやく春日神社へ。5.7㎞地点、時刻は、12時半頃。

20180924kintetsuisewakamatsu3 今日の記事で出てくるところのルートマップ。伊勢湾から少し離れた住宅街Img_3883c の中を進みます。ハイキングで設定された立ち寄りスポットは、徳川家康公船出の浦、江島若宮八幡社などですが、2㎞ほどは立ち寄るところはありませんので、ひたすら歩きました(笑)。鈴鹿市立愛宕小学校を過ぎると、7㎞。
Img_3930c 7.1㎞地点、東江島町に入ってしばらくしたところで左折。奥に見える森は、Img_3931c 江島若宮八幡神社の鎮守の森。これは地図をよく見ていないと見逃しそうなところ。「近鉄ハイキング」のコースを示す、朱い矢印が2つ、電柱に貼ってあります。これを行くと、「ここが本当にハイキングコース?」と思えるようなところを通って行きます。伊勢マリンホームという特別養護老人ホームの脇を通って海岸に出ます。
Img_3934c このあたりが、「徳川家康公船出の浦」です。案内板は、このすぐ近くの江Img_3937c 島公園の中に建てられています。案内板には「徳川家康公九死に一生を得て駿府に戻る船出の港(浦)」とあります。天正10(1582)年6月2日(旧暦)、本能寺の変が発生しましたが、その際、徳川家康は本多忠勝を始めとする家臣たちに説得されて帰国を決意し、伊賀国を経由して、三河国へ帰還しました。
Img_3940c この案内板によれば、伊賀越えをして、亀山を抜け、家康はここ江島北部(当時は、川南村)にたどりつきました。小川孫三の農事納屋に身を隠したのち、6月4日に白子若松浦から孫三の漕ぐ船で脱出したというのです。ちなみに、このあと家康は、小生の生まれ故郷である三河国大浜に上陸しています。ただし、家康が伊勢国から船に乗ったのは確かなようですが、乗船したところについては、いくつかの説があります。ここ白子という説の他にも、津、浜村(四日市市)という話もあります。四日市には、浜町および蔵町に思案橋(しあんばし)という史跡があります。今は、川は流れていませんが、国道164号を挟んで両側の歩道に復元された橋が設置されています。本能寺の変を避けた家康が、ここより海路を進むか、陸路を進むか、を思案したとされます(ここは、去年11月25日にJRさわやかウォーキングで行っています:どういうわけか、JRさわやかウォーキングへ……~四日市市制120周年記念~ 家族みんなで楽しめる四日市旧港街歩き)。
Img_3946c  どこから船に乗ったかにもよるのでしょうが、伊勢国から三河国大浜までの船を手配して、家康や供廻の帰還を助けたのは、伊勢商人の角屋七郎次郎秀持ともいいます(こちらWikipediaの説明)。また、案内板には駿府に帰ったような記述がありますが、小生の生まれ故郷である三河国大浜(現在の碧南市浜寺町あたり)に上陸したというのが通説です。ただし、白子から海路最短コースを通っても、三河大浜までは、海上16里(約64㎞)ありますので、上陸地点は知多半島常滑とする説もあります(常滑であれば、海路直線距離で6里弱、約22.5㎞)。写真は、江島公園の前から伊勢湾、北東を見たもの。もっと天気がよければ、知多半島が見えるはず。
Img_3942c 江島公園の中を抜けて行きます。この公園は、千代崎海岸につながる海Img_3949c 岸に面しています。夕雲整備されていて、家族連れなどで楽しめそうです。
Img_3955c 江島公園のすぐ西に江島若宮八幡神社があります。ここは、ここは、3月17日の近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」で来ました(近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(予告編)、3月22日:近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その4)……芙蓉館から江島若宮八幡神社へ(まだ続きます))。鈴鹿市内で2番目に広い境内を持つ神社(最も広いのは、椿大神社です)。
Img_3958c_2 主祭神は、大鷦鷯命(オオササキノミコト、仁徳天皇)、品陀和気命(ホンダワケノミコト、応神天皇)、息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト、神功皇后)となっています。平安時代初期、禁中(内裏)に奉祀されていた若宮八幡宮(京都石清水八幡宮の御分霊)を人皇六十代延喜帝醍醐天皇が、神意に問いて伊勢宗廟(皇大神宮)の戌亥の方なる当地に奉遷したといいます。相殿神は、建速須佐之男命を含め14柱。今回は割愛しますので、ご興味がおありでしたら、3月1日の近鉄ハイキングの記事をご覧ください。
Img_3961c  江島若宮八幡神社は、伊勢湾にほど近いところにあり、江戸時代から海上の守護神として信仰を集めて来ました。安全祈願などで奉納された多数の絵馬がありますが、そのうち、江戸時代の71面は三重県の有形民俗文化財に指定されています。今日は、予約制の宝物館の扉が開けていただいてあり、絵馬を直接見られました。弁財天、武者絵、町絵図、帆前船などの図柄があります。廻船業で賑わった白子湊の繁栄と信仰が窺えます。神社の南にある常夜灯もまた見てきましたが、それも含め、その他、江島若宮八幡神社についての詳細は、3月17日の近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」をご覧ください。
Img_4019c 江島若宮八幡神社の近くからは、しばらく伊勢街道を下ります。このあたImg_4026c りは、3月17日の近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」で、上ってきたところ(近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(予告編))。伊勢街道(参宮街道)沿いには、「安濃津治安裁判所・登記所・法務局跡」、「江島陣屋跡」などがあります(3月21日:近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その3)……同心屋敷跡、道標を見て久留真神社、大徳屋長久山で土産をゲットし、まちかど博物館などへ)。
Img_4039c  今日のコースには買えるところはないと諦めていたのですが、ありましImg_4144c た。コースマップをよく見なくてはなりませんでした。鈴鹿の銘菓・大はら木(おはらぎ)。久住屋菓舗さんのお店の前のところで曲がるというルートでした(微笑)。久住屋菓舗さんは、創業は文久年間という老舗。3月の時は、小原木本舗大徳屋長久さんで購入しました。鈴鹿で働いていましたので、懐かしいお菓子。手焼きした柔らかいおせんべいに粒あんが挟んであります。久住屋菓舗さんでは、1個¥85。
Img_3848c ちなみに、久住屋菓舗さんの看板が、若松堤防漂流記壁画から2代目開国曙光碑へ行く途中にありました。昔よくあったタイプの看板で、懐かしい感じがします。
20180924kintetsuisewakamatsu4 最後の実測ルートマップです。久住屋菓舗さんのところで伊勢街道から離れ、右折し、白子の町の方へと向かいます。
Img_4042c 次に立ち寄るのは勝速日神社ですが、そこへ向かう途中お寺がありましたので、寄り道(微笑)。體用山(たいゆうざん)青龍寺です。真宗高田派のお寺。3月のハイキングで下調べはしていたものの、足を伸ばさなかったところです。あまり有名ではないようですが、お宝は充実しています。
Img_4053c 天長7(830)年、弘法大師空海によって開創されたと伝承されています。弘法大師の作になるという弁財天が祀られており、光背に漢文で次のように銘があるといいます。「天長七年七月七日江島ニオイテ辨財天ノ法秘密護摩一萬座修行シ奉ル其ノ墨ヲ以テコノ像作ル者也 空海 印」。その後、寛正元(1460)年鈴鹿に根拠を置いて布教に努めた真慧上人(しんねしょうにん)に帰依し、真宗高田派に改宗しました。真慧上人は、室町後期の浄土真宗の僧。伊勢一身田に無量寿院(専修寺)を建立し、高田派教団の勢力を拡大しています。伊勢専修寺第十代。
Img_4047 今日のコースではありませんので、お宝は拝見できませんでしたが、ご覧のようにたくさんのものがあるそうです。主なものの一つ目は、徳川吉宗作の「紅梅白梅図(掛け軸)」です。白子が紀州藩領だったこともあり、徳川吉宗とも縁があったと思われます。二つ目は、「弘法大師の手形」です。弘法大師(空海)が護摩(ごま)の修行で出た灰を固めて作ったとされます。
Img_4049c 三つ目は、第11次朝鮮通信使(延享3(1746)年)の通訳官、朴徳源の肉筆による「體用山(たいゆうざん)」の額です。平成15(2003)年に、本物であることが確認されています。朝鮮通信使が書いた扁額は、全国的にも少ないので、貴重な文化財です。ただ、鈴鹿は朝鮮通信使のルートからは外れているのに、何故ここにこれがあるのかは不明。
Img_4061c 本堂に向かって左手には、「倶會一處(くえいっしょ)」の石碑と、もう一Img_4065c つ。「倶會一處」とは、人々が一定の場所に集ること。原義は仏教で阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、すでに往生している人々と会うことをいうそうです。
Img_4063c もう一つの石碑には、「三疑翁退筆冢之記」と刻まれています。4枚前の「體用山青龍寺の文化財」の説明板の7に「久住三疑の筆塚」とありますが、それがこれです。久住三疑(宝暦8(1758)~天保元(1830)年)は、白子の廻船業者で、好景気に支えられ、当時、白子湊の大富豪であったといいます。能筆家としても知られています(久住五左衛門三疑。三疑は号の一つ)(こちらでも言及されています)。退筆は、古い筆。石碑は、天保五(1834)年申午四月に建てられています。内容、読み下しはこちらを参照。青龍寺で8㎞。
Img_4093c 神社の由緒書きによれば、文明年間(1469~1486年、室町時代)の創建。主祭神は、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト。この神様は、天之忍穂耳命と同じで、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の父)。相殿神は、天御蔭命、素盞嗚命、稲田姫命、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、天美津玉照比売命。詳細は、上記の3月のハイキングのリンク先をご覧ください。
Img_4092c 鈴鹿でF1グランプリが始まりましたが、レース関係者がこの神社の名前と、御祭神に注目して、必勝祈願に訪れるそうです(たとえば、こちら)。正勝吾勝勝速日天忍穂耳命は、稲穂の神、農業神として信仰されることがおおいようですが、「正勝吾勝(マサカツアカツ)」は「正しく勝った、私が勝った」の意、「勝速日(カチハヤヒ)」は「勝つこと日の昇るが如く速い」または「素早い勝利の神霊」の意で、誓約の勝ち名乗りと考えられています」(Wikipediaから)。これですべてコンプリート。
Img_4103c ゴールの近鉄名古屋線・白子駅には13時42分に到着。9.5㎞を完歩しまImg_4116c した。コースマップでは8㎞でしたが、寄り道もしましたし、よく歩いたという感じでした。13時51分発名古屋行き急行に乗車して帰宅。桑名駅は、14時22分。¥490。
Img_4138c あみま倶楽部スタンプは、これで19個。あと1つで20個となります。シルバー会員になっていますので、スタンプ20個で銅賞がもらえます。バッチと1,000円分の賞品(こちら)。1,000円分は、近鉄グループの商品券か、景品がもらえます。今日(10/6)、塩浜のハイキング(いにしえの六呂見町並み散策と勅願院観音寺)に行っていれば、20個になったのですが、朝から小雨が続いて、断念しました。
 なお、このハイキング、「距離測」に描いた実測ルートは、こちらでご覧いただけます。

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2018年10月 4日 (木)

20180924近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」へ(その2)……心海寺、小川神社、宝祥寺

 9月24日(月・振替休日)に行ってきた、近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」のその2です。大黒屋光太夫については、その1に簡単な説明を書きました(2018年10月1日:20180924近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」へ(その1)……伊勢若松駅をスタートして、緑芳寺、開国曙光碑、大黒屋光太夫記念館、若松小学校の光太夫像と道標)。このその1では、大黒屋光太夫記念館と、若松小学校にある光太夫像(二宮金次郎ではなく)まで見て来ました。その2では、この近くにある心海寺、小川神社からスタートします。

20180924kintetsuisewakamatsu1 スタートの伊勢若松駅からはまだ2㎞足らず、開国曙光碑、大黒屋光太夫記念館、若松小学校と、心海寺、小川神社はすぐ近くにあります。小川神社は、コースにはなっていませんが、心海寺の目の前にあり、気になったのでお参りしてきたという訳です。
Img_3676c まずは、心海寺。記念館からすぐ南。真宗高田派のお寺。山号は、松生Img_3677c 山。元禄16(1703)年に現在地より東に約300メートルの場所に創建されました。しかし地盤沈下などで本堂の床下まで浸水するようになり、明治23(1890)年にここに移転されました。大黒屋家と、光太夫と共にロシアから戻った磯吉の菩提寺です。磯吉(明和3(1766)~享保14(1729)年)は、大黒屋光太夫の神昌丸乗組員。このあと訪れた光太夫らの供養碑で、地元の方に伺ったところ、磯吉の子孫の方が今もいらっしゃるそうです。
Img_3687c ここでも大黒屋光太夫顕彰会の方が説明して下さいました。左の写真は、本堂。心海寺の当時の住職・実静が、帰郷した磯吉から聞き取った見聞録をまとめた「極珍書(ごくちんしょ)」というものが保存されているそうです。光太夫の帰国後、桂川甫周(かつらがわほしゅう:幕末の蘭方医で、幕府の医官)が聞き取ってまとめたものに「北槎聞略(ほくさぶんりゃく)」があります。これは、いわば公式記録であるのに対して、「極珍書」の方は、少しも拘束を受けぬ私的な陳述書で、磯吉の若さからくる新鮮な観察が随所にみられるとされます(吉村昭「大黒屋光太夫」新潮文庫版のあとが気にあるそうです。こちら)。さらに、「魯西亜国漂舶聞書」という磯吉の陳述記録もあるそうで、これら2編はいずれも、顕彰会が発掘したものだそうです。
Img_3683c ところで、この心海寺は大黒屋の菩提寺であると書きました。境内Img_3684c には、「寄進者・大黒屋銀太夫、同彦太夫」の名が刻まれた御手洗石(享保14(1729)年)があります。享保14年ですから、光太夫が生まれる前(光太夫は、宝暦1(1751)年生まれ)。ご先祖ということになります。
Img_3693c 心海寺に行く前に気づいていましたが、小川神社。寺社、気になりますImg_3694c (微笑)。しかも延喜式内社とあっては、これは立ち寄らねばなりません。それにしても、この日このあと行く江島若宮八幡神社も、勝速日神社もそうなのですが、一の鳥居からの参道が一直線で長いこと(約100m)。地域による特徴があるでしょうか?
Img_3699c
 それはさておき、由緒書きによれば、平安時代、大同Img_3697c 4(809)年、第52代嵯峨天皇の御代に現在の中野地区に創建されたといいます。天明6(1786)年の棟札によれば、社殿倒壊のため長らく春日社の相殿であったそうです(こちらによれば、安永6(1777)年に社殿が大破したため春日社(春日社は南若松町西裏所在の小川神社という、現社地より南東150mの小川神社か?)。また、元の鎮座地は現在地の北方約500mのところと伝わっています。明治40(1907)、明治42(1909)年の2度に渡って村内の神社を合祀。明治42(1909)年に村社、明治44(1911)年に現在地に奉斎されました。
Img_3705c 主祭神は、弥都波能売神(みつはのめのかみ)。水の神様。相殿神は、合祀を繰り返したためか、たくさImg_3713c んいらっしゃいます。以下にリストアップしておきますが(神社検索三重のサイトにある順で、右の写真の順とは異なります)、拝殿近くには、右の写真のような一覧表があったくらい。氏子の方でもたぶんこれをご覧にならないと、覚えていらっしゃらないかも。
  • 宇気母知神(うけもちのかみ)…食物の神、女神と考えられています
  • 大国主神 (おおくにのぬしのかみ)…出雲大社の御祭神、医療・まじないの法を定めた
  • 木花佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)…富士山の神とされ、浅間(せんげん)神社に祭られる
  • 大山津見神(オオヤマツミノカミ)…山の神
  • 天児屋命(アマノコヤネノミコト)……中臣(なかとみ)氏の祖神。天の岩屋戸の神話では、うるわしき称辞を読み上げて天照大神を引き出すことに成功。枚岡(ひらおか)、春日の諸神社に祭られた
  • 迩迩芸命(ににぎのみこと)…天照大神の孫。天孫降臨の主役の神。木花佐久夜毘売命を妻とした
  • 市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト)…福岡県の宗像(むなかた)大社の辺津(へつ)宮の祭神、神に斎(いつ)く島の女性の意味をもつ
  • 伊邪那美命(イザナミノミコト)…伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と結婚し、国生みと神生みを行った女神。火神を生んで死に、黄泉国(よもつくに)を支配する黄泉大神となった
  • 天照大御神(あまてらすおおみかみ)……太陽神であり、また、皇室の祖神として伊勢神宮の内宮に祭られている
  • 迦具土神(カグツチノカミ)…伊弉諾尊・伊弉冉尊の子。火の神
  • 品陀和気命(ホンダワケノミコト)…第15代応神天皇
  • 菊理比売命(くくりひめのみこと)…黄泉国からにげる伊奘諾尊と、伊奘冉尊が争ったとき、二神の主張を聞きいれ、助言した神。仲介の神様
  • 瀬織津比売命(セオリツヒメノミコト)…神道の大祓詞に登場する神、祓い浄めの女神
  • 上津綿津見命(わたつみのかみ)…伊邪那岐命と伊邪那美命の間に生まれた。底津綿津見、中津綿津見、上津綿津見の3神は、海をつかさどる神
  • 中津綿津見命(ナカツワタツミノミコト)
  • 底津綿津見命(そこつわたつみのみこと)
  • 大山咋命(おおやまくいのみこと)…大津の日吉(ひえ)神社、京都の松尾神社などの祭神
  • 宇加之御魂神(うかのみたまのかみ)…穀物の神。伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている
 ということで、主祭神以下19柱の神様がいらっしゃいます。
Img_3708c 拝殿は、平成28(2016)年10月に竣工したばかりです。拝殿脇には、力石Img_3711c と思われる、「力」と刻まれた石が置いてあります。拝殿新築前の写真を見ますと、「若人の力比べ石」と台座にありましたが(こちら)、今はそれは見当たりませんでした。
 
Img_3717c 小川神社の境内には、弁財天も祀られています。これについて、神社検Img_3719c 索三重の小川神社のところには言及はありません。由緒書きでも触れられていません。弁財天は、貧困を救い財物を与える天女で、七福神の一人。
Img_3721c この弁財天には、拝殿の中に金の狛犬が鎮座。狛犬なのでしょうね。いやぁ、驚きました。ちなみにネットで「狛犬 金色」で検索すると、他にもあるようですし、風水の関係で縁起物として売られていました。小川神社の境内でスタートから2㎞。時刻はほぼ11時。
Img_3745c
 続いて、宝祥寺へ。小川神社からは、記念館と心海寺の間を通って500mImg_3738c_2 ほど。宝祥寺は真宗高田派。ここは、光太夫とともに帰国した小市の菩提寺です。光太夫と帰国できたのは、この小市と磯吉だけでした。しかし、小市は、根室に到着して約半年後の寛政5(1793)年4月2日に根室で亡くなってしまい、伊勢には戻れませんでした(享年46)。この寺には、小市の供養碑があります。
Img_3733c こちらがその「小市之供養碑」です。上で述べたように根室でなくなったたImg_3736c め、根室にも供養碑があり、毎年4月2日の命日には供養が行われているそうです(こちらをご覧ください)。ここ宝祥寺の供養碑は、小市之さらに安らかな眠りを願い、また後世に伝えるために平成17(2005)年10月に建立されています。
Img_3731c 宝祥寺の境内には、地蔵堂があります。その説明板には、光太夫や小市は、このお堂の付近で生まれ育ち、幼少のこれからこの境内で遊び、お参りしたと伝えられているとあります。
Img_3740c 地蔵堂はこちら。延命地蔵となっています。上記説明板によれば、本堂の東、100mの海岸(通称なべのはな)から不思議に光る地蔵菩薩の石像が漁夫によって引き上げられ、村人が宝祥寺計第貳個の御堂を建てて安置、供養したといいます(建久元(1190)年)。このお地蔵様は、海出山延命地蔵菩薩として、海に出て業をなす人の安全や、多くの人々の無病息災を願って信仰されてきました。
Img_3742c ここにも光太夫顕彰会の方が待機しておられ、いろいろと説明して下さいました。地蔵堂には大きな数珠があり、行事の際には、掲げられた真言を唱えながら、皆でそれを回すということでした。お堂入り口に「おん かかか びさんまえい そわか」が、その真言。「かかか」は、呵々大笑(カカタイショウ)と同じく喜び笑う声。お地蔵様がありがたいご利益をたくさん授けてくださることを願い、感謝もしつつ唱えるものです。「びさんまえい」とは、珍しい、不思議なといった意味です。「おん」は帰依します、また、「そわか」は成就しますようにという聖語です。全体では、「すべての人々が喜悦する不思議霊妙なご利益をお授けくださる地蔵菩薩へ帰依します。その成就あらしめたまえ」となります。なお、真言は意味の理解もさることながら、唱えてこそその意義が発揮されるそうです。
 
 長くなりそうですから、その2はここまで。その3は、千代崎漁港近くにある大黒屋光太夫らの供養碑や、若松漁港の若松緑地堤防に描かれた「漂流記壁画」から。

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2018年10月 1日 (月)

20180924近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」へ(その1)……伊勢若松駅をスタートして、緑芳寺、開国曙光碑、大黒屋光太夫記念館、若松小学校の光太夫像と道標

 9月24日(月・振替休日)に行ってきた、近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」の本編、その1です。

Img_3541c 大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)(宝暦1(1751)年~文政11(1828)年)Koudayu は、江戸時代、ロシアに漂流した船頭です。大黒屋は、白子の廻船問屋。光太夫はそこの船頭。安永9(1780)年に沖船頭に取り立てられ、名を大黒屋光太夫に改めました。天明2 (1782) 年 12月、伊勢の白子から江戸への航行中、駿河灘で台風にあい、7ヵ月余漂流を続けて翌年夏、アリューシャン列島のアムチトカ島に着き、4年後、カムチャツカ半島に渡ります。のち帰国を願ってシベリアを西行し、1791年、首都ペテルブルグにいたり、女帝エカテリーナ2世 (大帝) に謁見。寛政4 (1792) 年、遣日使節 A.ラクスマンに連れられて帰国し、将軍家斉に謁見しています。出帆時には17名だったのが3 名になっていました(光太夫の他は、磯吉、小市)。吉村昭の小説「大黒屋光太夫」や、井上靖の「おろしや国酔夢譚」のモデルです。右の画像、やや不鮮明ですが、光太夫が出航してから、漂流し、ロシアに渡って戻るまでの旅程図(大黒屋光太夫記念館だより24号より)。冒頭の写真は、近鉄・伊勢若松駅前にある大黒屋光太夫の銅像。昭和62(1987)年、若松小学校創立100周年記念として、小学校校庭に建立されたものが、「大黒屋光太夫記念館」完成を機に、光太夫のふるさとの玄関口となる伊勢若松駅前に移設され
ました。
Img_3548c 台座の側面には、和歌が刻まれています。これは、鈴鹿市が生んだ歌人Img_3546c で、第1回分か勲章受章者である佐佐木信綱が、昭和3(1928)年に若松を訪ねたとき、光太夫に思いをはせ、詠んだもの。次のように詠まれています:
海ほからに まつ原青し この浦ゆ 船出せし人の くしき一生 若まつにて 信綱
Img_3552c スタートは、近鉄名古屋線・伊勢若松駅。受付は、9時45分からでしたので、桑名を9時22分の松阪行き急行に乗車。9時45分に到着。¥440。伊勢若松駅は、江戸橋に仕事に行くときに通るのですが、降りたのは初めて(ここから分岐する鈴鹿線には何度か乗車しました)。
Img_3533c  この日のコースマップ。両面になっています。いただいたもののナンバーImg_3530c_2 は、416。伊勢若松駅をスタートして、緑芳寺、開国曙光碑、大黒屋光太夫記念館、心海寺、宝祥寺、光太夫らの供養碑、若松緑地堤防(漂流記壁画)と、ここまでは光太夫ゆかりのところを訪ねます。その後、江島若宮八幡神社、勝速日神社とこのあたりの有名な神社に立ち寄って(この2社は、3月17日の近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」で訪ねています)(2018年3月17日:近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(予告編))、近鉄名古屋線・白子駅がゴール。コースマップ上は、約8㎞となっています。スタートしたのは10時。
20180924kintetsuisewakamatsu0_2  こちらが実際に歩いたルート。「よく歩いたな」と思ったのですが、9.5㎞でした。道草、寄り道は少しだけ(微笑)。開国曙光碑は、台風などで壊れたりして、現在のものは3代目。そのため①~③まであります。ここにキョリ測に描いたルートがあります。ちなみに今日のルートはほぼ平坦。最高地点は、6m(最低は、0m)。
20180924kintetsuisewakamatsu1 拡大したルートマップ。伊勢若松駅を10時にスタートし、まずは、緑芳寺Img_3560c に向かいます(山号を確認してくるのを忘れました)。駅のすぐ西、300mほど。真宗大谷派のお寺。光太夫の菩提寺(生家といわれる亀屋の菩提寺)です。しかし、光太夫のお墓はここにはなく、江戸本郷元町の興安寺にあります。
Img_3564c こちらが本堂。この日、大黒屋光太夫顕彰会(大黒屋光太夫ネットワーImg_3566c ク)の方々が、立ち寄り先で案内や説明をしてくださいました。
Img_3571c 今日は、特別にお宝を見せていただけました。左は、エカテリーナ2世かImg_3573c ら下賜された銀貨。エカテリーナ2世の像が刻まれています。寛政7(1795)年8月に光太夫が寄進したもの。ご住職は、磨くと価値が下がるかも知れないと心配され、磨いていないとおっしゃっていました。右は、ロシア語で書かれた箴言(しんげん)。当然、小生には読めません。これも光太夫ゆかりの品。
Img_3575c 光太夫からは離れますが、緑芳寺には、松尾芭蕉句碑があります。「雁ゆくかたやしろ子若松」と刻まれているそうですが、ほとんど読めない状態。というのも、当時の住職であった櫟玄籍によって嘉永年間(1848~54)に建てられたという説があるそうです。これは、元禄3(1690)年、越人の『ひさご』の中の花見の部にでています(こちら)。菅沼曲水、珍碩(浜田洒堂(はまだしゃどう)ともいいます。高田本山専修寺にも句碑がありました)らと詠んだうちの付句。付句を刻した碑としては全国的に非常に珍しいといいます(三重の句碑)。
Img_3587c_2 緑芳寺の角(東側)に、道標があるのに気づきました。「左 箕田 長太 Img_3585c 四日市道」、「右 白子道」と刻まれていました。これについては、ネットで検索したのですが、今のところ情報を見つけられないでいます。
Img_3586c 「右 白子道」と刻まれている方。植え込みに隠れていてハッキリとは確認できません。
Img_3595c 緑芳寺から次の立ち寄りポイントである開国曙光碑までは、水田地帯を歩きます。近鉄鈴鹿線を越え、名古屋線沿いに1.6㎞ほど。写真の電車は、近鉄鈴鹿線。平田町から伊勢若松を結んでいます。
Img_3621c 開国曙光碑は、若松地区市民センターの敷地にあります。これは3代Img_3623c 目。この碑は光太夫の功績を称えた顕彰碑です。碑に刻まれた「開国曙光」の文字は、江戸幕府崩壊後、徳川宗家を相続した公爵・徳川家達(とくがわいえさと)の筆であり、「開国へ向けて差し込んだ明け方の光」という意味です。碑の本文は、広辞苑の編者で知られる新村出(しんむらいづる)博士によります。ここに建つ碑は、3代目。実測ルートマップでは、「開国曙光碑①」としてあります。
Img_3626c 碑はもともと、大正7(1918)年、若松尋常小学校長の伊藤六三郎氏や若Img_3629c 松村長の内山治右衛門氏などが発起人になって寄付を募り、若松小学校校門前に建設されました。しかし、碑は昭和9(1934)年の室戸台風で倒壊。千代崎海岸に2代目が再建されたものの、これも昭和34(1959)年の伊勢湾台風で上部が欠けてしまいます。3代目のこの碑は、昭和51(1976)年に建てられたもの。
Img_3633c 若松地区市民センターの敷地には、この「南無阿弥陀仏」と刻まれた碑も建っています。開国曙光碑のすぐ北隣にあります。調べたところ、若松地区遺族会が建てた忠霊塔でした。英霊189柱を祀る碑ということです。ただ、碑陰も確認したものの、何も由来などは刻まれていません。
Img_3657c 開国曙光碑から200mほど、若松小学校の東に大黒屋光太夫記念館Img_3659c あります。平成17(2005)年に開館。主な収蔵品は、光太夫が書いたロシア語の墨書やロシア使節の人相書、漂流記、古文書などです。現在、夏の企画展「知っておどろき!大黒屋光太夫」が10月14日まで開催されています。入場は無料。見学は10時~16時。休館日は、月・火曜日、第3水曜日(ただし、月曜日のみ休日の場合は開館)と年末年始。なお、記念館の前身は、鈴鹿市立若松小学校の校舎内に平成3(1991)年に設けられた『大黒屋光太夫資料室』です(平成17年まで)。
Img_3650c この記念館の前にあるのが、開国曙光碑の初代の一部と思います(実測ルートマップでは、開国曙光碑②と記しています)。上述の新村出博士は、「大黒屋光太夫という海外との交流の先駆者となった人物がいる」ことを広く世に知らせることに積極的だったそうです(こちらを参照)。このため若松地区でも偉業を後世に伝えていこうという気運が高まり、大正7(1918)年に「大黒屋光太夫頌功碑」が建てられたのです。しかし、上述のように室戸台風で倒壊し(2つに折れ、上部1.5mが現存)、千代崎海岸に2代目が建立されたのです。
Img_3641c 上にも書きましたように、大黒屋光太夫記念館の向かいに鈴鹿市立若松小学校があります。ここには、記念館設立に先立ち、大黒屋光太夫資料室がありました。校舎の方を見てみると、座り込んだ石像が見えました。小学校にある石像といえば、たいてい二宮金次郎像です。座った二宮金次郎像は珍しいなと思ったのですが……。
Img_3665c ズームアップして写真を撮って確かめたら、何と大黒屋光太夫の像でした。よくよく考えてみれば納得できるのですが、このときはちょっとビックリ。台座には「大黒屋光太夫之像」と刻まれています。勝手に敷地内に入れませんので、学校のサイトを見ると「台座には「皇紀二千六百年記念」 「昭和15年二月十一日」「寄贈者 若松村女子青年団」とあり台座の上の跡からおそらく石像の金次郎像があったと思われる。その後、何かの理由で金次郎像がなくなり、あとに光太夫像が昭和42年に設置されたようだ」とありました。寄付者は、「中條信男」他3名の連名だそうです。上記のリンク先に詳しい情報があります。
Img_3669c 光太夫の像の脇には道標が立っているのが見えました。 こちらのサイトによれば、もとは塩浜街道沿いの何処かにあったと思われるということです。「右 四日市道 すぐ船場」、「弘化四丁未春 施主 西城吉次郎」、「左 白子みち」とあるそうです。
 今回は、ここまで。次は、光太夫記念館の近くにある、心海寺(大黒屋光太夫家と、光太夫と共にロシアから戻った磯吉の菩提寺)、小川神社から。
 昨日(9/30)、途中で投稿した記事に加筆したものです。

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2018年9月29日 (土)

20180922JRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」へ(その3)……高田本山専修寺を見てJR紀勢線・一身田駅にて「完」

Img_3194c  9月22日のJRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂20180922jrwalkingtsu13_2 と一身田寺内町を訪ねて」のその3です。スタートのJR紀勢線・津駅から5㎞半ほど歩いて、一身田寺内町の館まで来ました。ここが本日のゴールで、まだ高田本山専修寺にお参りしていませんが、取り敢えずゴールしました(微笑)。12時25分です。

Img_3198c 寺内町の館から高田本山専修寺は、目と鼻の先。時間も時間ですし、5㎞Img_3197c 半も歩いてきましたので、高田会館の食事処あかりの「名物 伊勢芋とろろ」の看板が気になりますが、あいにくと津駅で弁当を買ってきていました。あかりの「伊勢いも御膳(¥900)」は、マスコミでも取り上げられたりしているのですが、それはまたの機会に。
Img_3202c こちらは山門。国指定重要文化財。御影堂の正面にあり、専修寺の総門です。五間三戸二階二重門の形式になっています。これは山門として最高の格式だそうですが、確かに立派。何度見てもすごいなと思います。宝永元(1704)年の建築とされています。
Img_3206c 総門をくぐった正面にあるのが御影堂。宗祖親鸞聖人の木像が中央須弥Img_3216c 壇上に安置されています。725畳敷きの御堂で、全国の現存木造建築の中でも5番目の巨大な堂です。寛文7(1667)年の建立。まずはこちらにお参り。内部も写真を撮って構わないのですが、ネットには揚げないようにということですから、割愛。右の写真は、御影堂から北西を見たもの。個人的にはこの景色、かなり気に入っています。
Img_3221c 続いて、これまでに見逃していた大玄関や対面所の方に向かいます。そImg_3223c の前に、御影堂の東に「安楽庵(あんらくあん、三重県史跡名勝)」への入り口の石碑が建っています。安楽庵は、如来堂と御影堂の背後にある庭園にたたずむお茶席。庭園は「雲幽園(」といい、ほとんど石組みを作らず、自然の美をそのままに生かし、蓮池を主体としているそうでます。独特な構造で格式が高く、茶席は江戸時代初期の名席といわれています。雲幽園(安楽庵)の見学は事前の申し込みが必要です。
Img_3270c ただし、納骨堂へ行く途中、この門をくぐった先で庭園(雲幽園)と思われImg_3272c るところを垣間見ることができます(右の写真)。このあたりは、ちょうど如来堂の裏。お庭は一度葉見てみたい気がします。
Img_3276c もう少し進み、納骨堂の手前にはこういう景色も見られます。何というのか不勉強でよく知らないのですが、木製の橋が架かった先に庭門があり、その向こうにお庭が広がっています。いわゆる池泉回遊式庭園になっています。
Img_3225c 話を戻します。「安楽庵入り口」の石碑の東にあるのが、大玄関。これもImg_3227c 国指定重要文化財です。境内の中心からはやや東になり、御影堂の北東にあります。焼失した天明3(1783)年の火災で焼失したのち、対面所と共に再興されました。寛政2(1790)年の再建と伝わっています。その当初は、対面所の東に位置し、正面を東に向けて建っていたそうですが、明治11(1878)年に現在の位置に移築され、その際に正面は南向きに改められました。これは明治13(1880)年の天皇行幸に備えたものと考えられています。
Img_3234c 御対面所(おたいめんしょ)で、こちらも国指定重要文化財。5室ずつ3列の座敷からなる建物だそうで、周囲に廊下がつけているといいます。大正初年までは、法主が座を設けて、ここから門信徒に対面していたところ。御対面所も、天明3(1783)年の火災で焼失したのですが、直ちに再建に取りかかり、天明6(1786)年閏10月に落成遷仏が行われました。
Img_3230c これで1月に来たときに見忘れたところは、「賜春館」を除いてコンプリーImg_3251c ト。「賜春館(ししゅんかん)」は、明治11(1878)年に貴賓接待用として新築された書院ですが、明治13(1880)年の明治天皇行幸の行在所として使用されたことがあり、それを祝って「賜春館」と命名されました。国指定重要文化財。ここはもちろん、われわれは見に行けません。画像はリンク先をご覧ください。右の写真は、大玄関に行くアプローチあたり。
Img_3245c これで見忘れたところもすべて見ましたので、ようやく、安心してお昼にしImg_3248c ます。12時45分であります。近鉄津駅のファミマで買ってきた弁当を御影堂が見える、鐘楼の近くの建物の陰でいただきました。
Img_3254c 食事を済ませ、如来堂と、家内の父のお骨が収めてある納骨堂にお参りします。が、その前によく見たら、蓮の鉢が並んでいるところに句碑らしきものがあるのに気づきました。割と新しいもの。浜田珍碩(はまだちんせき)の「千部読む花の盛りの一身田」という句が刻まれていました。浜田珍碩は、浜田洒堂(はまだしゃどう)ともいい、江戸時代中期の俳人です。別号に珍夕、珍碩があり、芭蕉の門人。近江国膳所の出身。「千部」というのは、「永代経法会(えいたいきょうほうえ)」のことだそうです。「千部会」、「千部法会」といい、高田本山の千部法会は、江戸時代には、報恩講以上の賑わいであったと伝えられています。春秋に勤められるようです。珍碩の句は、「千部法要」に群参する善男善女の方々を詠んだものということ。
Img_3256c 国宝・如来堂。御影堂の西にあります。「証拠の如来」と呼ばれる阿弥陀如来立像をご本尊としており、教義の上では、この堂が伽藍の本堂となります。発願は享保4(1719)年、着工は翌々6(1721)年ですが、資金難から工事が渋滞し、ようやく元文5(1740)年から地築にかかりました。しかし、地盤が軟弱なために寛保3(1743)年8月まで満3年を要して完成。このとき勘六という老人が人柱に立ったと言われているそうです。
Img_3277c 如来堂に参拝してから、納骨堂へお参り。4年前の6月17日に家内の父のお骨を収めています(2014年6月17日:高田本山専修寺へ……納骨でした【6/18に加筆修正】)。納骨の方がお一組。
Map これで高田本山専修寺もコンプリートと思っていたのですが、記事を書きながらマップをよく見ていましたら、大講堂を忘れていました(宗務院やら婦人会館などの一般施設を除いて)。いやぁ苦笑せざるを得ませんが、これでまた出かける口実ができました。
Img_3279c 帰る前にもう一度、如来堂と御影堂を振り返り、唐門から外に出ます。唐Img_3281c 門(からもん)も国指定重要文化財です。如来堂の正面にあります。すべて良質の欅を用い、豪華な装飾で埋め尽くされています。建築。天保15(1844)年に上棟しています。
Img_3284c 唐門を出て西へ行くと、環濠にかかる安楽橋。一身田寺内町は、「環濠Img_3285c によって囲まれています。東西約500m、南北約450m。寺内町を区画することに加え、町を防御する機能もあったのです(南側は毛無川を利用しています)。この一身田の環濠は、寺内町の周囲を巡る環濠としては、日本で唯一ほぼ完全な形で残る貴重なものだそうです。
Img_3291c
 高田本山専修寺からJR紀勢線・一身田駅までは300mほど。駅名は、「いImg_3294c しんでん」となっていますが、町名は、「いっしんでん」という方がほとんどと思います。無人駅ですが、駅舎は、大正12(1923)年12月に竣工したもの。13時20分に到着。13時31分の鳥羽行きの普通電車に乗って、津駅まで戻ります。無人駅ですが、この日は、JRさわやかウォーキングとあって、助役さんと駅員さんが出張してきておられました。
Img_3306c 帰りの電車は、東一身田駅から伊勢鉄道でもよかったのですが、伊勢鉄Img_3312c 道は一応全線乗っています。紀勢線で一身田駅から津駅は乗車したことがありませんでしたので、こちらへ。津駅までは1駅で、¥190。13時34分着とたった3分でちょっともの足らず。途中、車窓からは、午前中に歩いた辺りの景色が見えます。
Img_3317c ワンマン列車ですので、降りるときには「あける」ボタンを押します。ランプが付いたら、これを押すとドアが開きます。ドアを開けて乗るのは、1月16日の“勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング“の時に経験しました(2018年1月21日:勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング(笑)」……高田本山専修寺と一身田寺内町散歩(その4)環濠を巡り、伊勢別街道を通って、一身田駅で「完」)。まったく子どもみたいで、我ながら笑えます。
Img_3320c 津駅からは、家内の実家へ行くことにしていました。バスは、津駅始発Img_3327c で、どうしようか迷ったのですが、時刻を調べていなかったのと、確か1時間かかったのを思い出して、久居駅までは近鉄で行くことに。久居まで近鉄は¥260。久居駅でバスは、14時16分発でした。¥530。津駅から乗ると、バス代は¥840。結果的には、運賃、時間とも差はありませんでした。
 JRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」のこれまでの記事は、以下の通りです。また、実測ルートは、こちらで見られます。

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20180922JRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」へ(その2)……勝楽寺、伊勢別街道、下津醤油、春乃舎であられをゲットし、取り敢えず一身田寺内町の館でゴール(まだ続く)

Img_3097c  秋雨前線の影響で雨で、今日の近鉄ハイキング&JRさわやかウォーキングへは出かけません。9月22日のJRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」のその2を書くことにします。その1では、宗宝院と三重県総合博物館について書きました。博物館では念願だったミエゾウを見て、また、これも知りたかった松浦武四郎の展覧会も楽しみ、土産もすでにゲットしてしまいました。

20180922jrwalkingtsu11 その1で歩いたのは、このマップのあたり。地図を改めて見て気づいたのですが、いつも仕事に行く江戸橋の駅の真西あたりに、宗宝院や三重県総合博物館があるんですね。実際に歩いてみた上で地図を確認すると、位置関係が改めてよく分かります。博物館は、三重県総合文化センター、県立図書館と隣り合っています。
Img_3098c こちらがその三重県総合文化センター。文化会館、生涯学習施設、男女共Img_3101c 同参画施設を兼ねています。会合や研修会の講師で何度か来ていますが、最近はご無沙汰。博物館を出たのが11時半。このとき、総合文化センターのエントランスでは、ブラスバンドの演奏をしていました。「Saturday & Sunday Concert」とあり、この時間に演奏していたのは、津市立一身田中学校の吹奏楽部の皆さんでした。今から行くのも一身田。
20180922jrwalkingtsu12 これからのルート。博物館・文化センターから東へ下り、県道10号線に戻ります。このあたりは、1月11日の近鉄ハイキング「高田本山専修寺『お七夜』と寺内町散策」であるきました(2018年1月11日:近鉄ハイキング「高田本山専修寺『お七夜』と寺内町散策」へ(その1)……勝久寺、大乃巳所神社、魚歳食品)。ただし、このときは、本の王国のところから一本西側の道に入り、勝久寺に立ち寄って北西に向かい、魚歳食品に行くというルートで、いわば大回りして高田本山専修寺へ行きました。
Img_3111c 博物館から県道10号線に下る道筋には、ヒガンバナ。シロバナヒガンバナも咲いていました。シロバナヒガンバナは、普通のヒガンバナと一緒に咲いていると、その白さが一段と引き立つ気がします。ちなみに、このあたりはマンションも建ち並んでいます。
Img_3116c 県道10号線。道の西側には、マックスバリュのショッピングセンターとか、Img_3122c いろいろ立ち並んでいますが、東側は水田。少し向こうにJR紀勢本線と伊勢鉄道線が望めます。そして、ここまで来ると、遠くに高田本山専修寺も見えるのです(右の写真)。しかし、しばらくは立ち寄りポイントもなく、ひたすら歩くという感じ。
Img_3123c マックスバリュ・ショッピングセンターの入り口からクルマが渋滞。何Img_3128c 事? と思ったら、マクドナルドのドライブスルー待ちの行列のようです。お昼ですからねぇ。お腹も空いてきましたが、まだまだ3㎞も歩いていません。高田本山専修寺までは、3㎞以上もあります。皆さん、黙々と歩いておられますので、小生も(笑)。
Img_3142c 津駅から3.4㎞。名前のない交差点を右折。さらに水田地帯を進みます。Img_3134c左の写真で中央左に見えるのは、一身田中学校。文化センターで吹奏楽部の皆さんが演奏していました。遠くには、三重大学の病院も見えます。というよりも、ダイサギらしき姿が気になりました(笑)。どこへ行っても野鳥は気になります。というか、バードウォッチングは、どこでも楽しめるということです(微笑)。
Img_3142c_2 南を振り返ると、総合文化センターや、近くのマンション群が見えます。Img_3143c 交差点を曲がって少し行くと、大里窪田の町に入っていきます。窪田は、東海道関宿と参宮街道を結ぶ伊勢別街道の宿場町。江戸時代には本陣や問屋場が置かれ、旅籠が軒を連ねたとされています。伊勢別街道は、江戸時代、京都滋賀方面から伊勢神宮へのルートとして、賑わったそうです。窪田には、市内最大の常夜灯があり、これは1月11日のハイキングで見て来ました(1月12日:近鉄ハイキング「高田本山専修寺『お七夜』と寺内町散策」へ(その2)……石積神社、窪田の常夜灯、高田本山専修寺)。
Img_3145c JR紀勢線の踏切を渡る直前、スタートから3.8㎞で、大古山勝楽寺に立ち寄りまImg_3150c す。真宗高田派。お彼岸ですので、宗宝院も、ここも本堂の扉は開けていただいてあり、ご本尊を拝むことができました。11時50分を過ぎた頃。
Img_3158c
 JR紀勢線の踏切を渡り、すぐに五六川。この川は、江戸橋の方まで続Img_3160c き、非常勤先の近くで志登茂川に合流しています。大古曽橋を渡って一身田の町に入っていきます。直進すれば、一身田の寺内町に行き、近いのですが、すぐに右折して、しばらく伊勢別街道を歩くコースになっています。たぶん距離を稼ぐのと、次の立ち寄りスポットに行くためでしょう。
20180922jrwalkingtsu13 勝楽寺の手前から伊勢別街道、下津醤油、一身田寺内町の館、高田本山専修寺、そして、JR紀勢線・一身田駅あたりの地図は、こちらの通り。右端に半分だけ入っているのは、伊勢鉄道・東一身田駅。
Img_3161c 伊勢別街道を歩いたのは500mほど。途中、伊勢木綿の臼井織布さんのImg_3166c ところを通ります。1月16日の“勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング(笑)」……高田本山専修寺と一身田寺内町散歩”ここは歩いています(1月21日:勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング(笑)」……高田本山専修寺と一身田寺内町散歩(その4)環濠を巡り、伊勢別街道を通って、一身田駅で「完」)。「伊勢木綿」は、江戸時代から続く伝統の布なのですが、現在では臼井織布一軒だけが作っています。
Img_3167c 4.6㎞地点、一身田中学校の北で右折。伊勢鉄道を見ながら北へ進みまImg_3172c す。これから向かう先の一身田の寺内町や、伊勢鉄道の東側あたりは、何度も来ました。毛無川を渡ります。この川は一身田の寺内町では、町を取り巻く環濠の一つとなっています。毛無川も江戸橋の方まで流れ、志登茂川に合流します。
Img_3174c 途中、コスモスを見つけたので撮ろうとしたら、風に煽られご覧のようなImg_3177c 写真に(苦笑)。まぁ、これも良し。そしてスタートからちょうど5㎞で、下津醤油さんに到着。ここも2度目(2018年1月13日:近鉄ハイキング「高田本山専修寺『お七夜』と寺内町散策」へ(その3)……一身田寺内町、一御田神社、下津醤油、おぼろタオル、江戸橋常夜灯と道標そして江戸橋で「完」)。
Img_3179c 工場見学会もあるということでしたが、付いたのがあいにくと昼休み(12時10分)。どなたもいらっしゃらず、勝手にちょっと覗いただけ。ここから西へ400mほど行くと、いよいよ一身田寺内町。
Img_3183c ここが寺内町の東の入り口、栄橋。環濠に架かった橋の一つ。この通りImg_3184c をまっすぐに行くと、高田本山専修寺の山門、唐門のあるところに出ます。栄端から見た、北側の環濠。
Img_3201c 話が逸れます。一身田は、高田本山専修寺の門前町ですが、専修寺は、もともとは、栃木県の高田というところにありました。そこが戦火に見舞われたため、真慧上人が一身田に移って来たことで、一身田が高田教団の中心となっています。それに先立つ、寛正5(1464)年、真慧上人は東海北陸地方の布教活動の中心として、この地に無量寿院(専修寺の前身)を建立していました。一身田寺内町がいつごろ成立したのかは明らかではありませんが、文禄元(1592)年の一御田神社の棟札に「寺内」という呼び方がみられることから、その頃にはすでに寺内町が成立していたものと考えられています。
Img_3006c ところで、スタートの時、「一身田商店街のすてきなプレゼント引換券」をImg_3191c_2 もらっていました。先ほど立ち寄った下津醤油さんでも「専修寺醤油」と引き替えられたのですが、それはパス。その他、まんじゅう(2ヶ所)、あられ、こんにゃく、ハンカチ、活命茶などと引き替え可能でした。専修寺近く、一身田寺内町の館(ここが今日のゴール)の手前に菓子司・春乃舎さんがありましたので、ここであられと引き替えていただきました。
Img_3188c 「花舞煎(はなまいせん)」と名付けられたもの。春乃舎さんでは、桜おこし、みのり、四季折々の生菓子を製造販売しておられます。桜おこしは、黒糖を使った昔ながらの高田本山土産。桜おこしは、1月16日の“勝手にJR・近鉄さわやかハイキングの時に別のお店で買っています(2018年1月16日:勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング(笑)」……高田本山専修寺と一身田寺内町散歩(予告編))。
Img_3193c この春乃屋さんの隣が、今日のゴールに設定されている一身田寺内町Img_3189c の館。JRさわやかウォーキングは、駅がスタート、駅がゴールというキャッチフレーズだったと思いますが、今日は例外。さらに、本来の今日のコースは、高田本山専修寺や、一身田商店街を回ってからゴールすべきだったのですが、先に&勝手にここでゴールすることにしました(笑)。12時25分、ここまでスタートから5.7㎞。
Img_3190c まだ完歩していないのに、「完歩記念」のパネルも撮影(苦笑)。スタンプImg_3357c もゲットしてしまいました。商店街はともかく、ここまで来て高田本山専修寺に行かないことはあり得ません。家内の父のお骨が収めてありますからお参りしていくつもりですし、1月の時に見逃しているところがあるのです(2018年1月20日:勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング(笑)」……高田本山専修寺と一身田寺内町散歩(その3)専修寺の境内を歩く(後半))。
Senjujimap 1月に2回出かけたにもかかわらず、御対面所、賜春館、大玄関、大講堂などを見ていないのです。
 長くなりましたので、その2はここまで。取り敢えずゴールはしてしまいましたが、その3で高田本山専修寺のことと、JR紀勢線・一身田駅までの話を書き、「完」とする予定。

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2018年9月25日 (火)

20180922JRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」へ(その1)……宗宝院と三重県総合博物館

Img_2980c  9月22日に出かけたJRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」の本編その1です(20180922JRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」へ(予告編)……【キョリ測データを付記しました(9/23)】)。この日は、朝方まで雨でしたが、8時過ぎには上がってきましたので、予定通り、出かけました。
Img_2991c JRさわやかウォーキングなのに、近鉄の切符を買っています。JRで桑名かImg_2994c ら津まで行くと¥920かかるのですが、近鉄ならご覧のように、¥690で済むからです(苦笑)。時間的には、JRの快速みえで30分あまりに対して、近鉄の急行では50分弱かかります(近鉄特急であれば、30分あまりですが、特急料金が¥900)。急ぐ訳ではありませんから、50分かかってもまったく問題はありません。ということで、桑名駅を9時1分発の五十鈴川行き急行に乗車し、津駅に9時46分到着。
Img_3002c 津駅は、JR紀勢線と近鉄名古屋線が乗り入れています。桑名駅と同じく、Img_3010c JRは東口、近鉄は西口。スタート受付は、東口を出たところに設けられていました。津は県庁所在地ではありますが、人出は多くありません。近鉄四日市駅の方がよほど賑やか。東口には、駅ビルはチャム、北側にアスト津(ちなみに、明日都だそうです)というビルがあります。
Img_3004c_2 こちらがコースマップ。津駅をスタートして、宗宝院、三重県立博物館Img_3006c (MieMu、みえむ)、勝楽寺、下津醤油、一身田商店街、高田本山専修寺、一身田寺内町の館がゴール。コースマップ上は5.9㎞です。先着700名に「一身田商店街のすてきなプレゼント引換券」がプレゼントされるということで、見事ゲット。ウォーキングスタートは、10時。
20180922jrwalkingtsu1 実際に歩いたルートはこの地図の通り。こちらにキョリ測に描いたルート20180922jrwalkingtsu11 マップがあります。とくに寄り道、道草はしなかったものの、高田本山専修寺の中を歩き回ったりしましたので、JR紀勢線・一身田駅に着いたときには、7.5㎞を歩いていました。
Img_3012c 今日のコースは、津駅から見ると西側ですので、東西連絡の地下通路をImg_3013c 通って、駅西に出ます。西側が、上にも書きましたが、近鉄津駅。
Img_3014c 近鉄津駅(西口)から津駅西の交差点に向かいます。ここからは、キツくImg_3015c はないものの、上り坂。津駅西の交差点の向こうは、住宅街が広がり、三重県立美術館もあります。住宅街はたぶんけっこう高級。交差点の角には、津偕楽公園があります(右の写真)。津藩第11代藩主・藤堂高猷(たかゆき)が安政6(1859)年につくった別荘「御山荘」(ござんそう)を起源としています。以前、小生はお城公園と区別が付いてませでした(笑)。昔、子どもたちが小さい頃、ここに保存されているD51蒸気機関車を見に行ったことがあったのに、です。この日の目的地の一つ、三重県立博物館は昔は、この公園の一角にありました。
Img_3019c 偕楽公園を見て右折し、県道10号線を歩きます。津駅あたりは標高4mImg_3020c ほどですが、この先、20mほどを上る(登る?)ことになります。こういうダラダラ坂、けっこうキツいのです。なので、黙々と登って行きます。このあたり、マンションなどがけっこう建っています。途中、ヒガンバナも咲いています。
Img_3022c 途中、歩道にはこんな道案内があったり、よく分からないモニュメントがImg_3023c あったり(笑)。地名でいうと、大谷町から上浜6丁目のあたり。
Img_3025c 上浜6丁目のバス停で1.1㎞ほど。バス停を過ぎてすぐにImg_3031c この日最初の目的地である宗宝院に向かうため、ひょうたん池のところを左折し、西へ。こういう池は、冬になるとカモたちがやって来そうです。
Img_3033c スタートから1.7㎞、けっこう蒸し暑い中、汗をかきながら最初の目的地でImg_3036c ある白龍山宗宝院に到着(10時20分)。曹洞宗のお寺。コースマップには、彼岸の行事で、本堂には入れないと書いてありましたが、扉は開いていましたので、ご本尊は拝めました。
Img_3042c ここ宗宝院は、慶長9(1604)年、当時の津藩主・富田信濃守信高の子Img_3039c 息・千代丸(享年12)の菩提を弔うため、現在の津市栄町(津駅の東南あたり)に建立されました。寺名の由来は、この千代丸の法名によります(宗宝院殿桂室芳公大禅定門)。その後、大正年間に白龍天山禅師によって法地開山されましたが、昭和20(1945)年7月の戦災で一切を焼失します。しかし、四世大鑑良雄大和尚によって再建が図られ、昭和45(1970)年には本堂も再建されました。
Img_3050c ところが、昭和60年代に入って、津市の都市計画事業がおこり、宗宝院Img_3053c もその計画の対象となったため、平成に入って移転再建が行われるに至りました。平成8(1996)年5月に一切の移転が完成しました。本殿の裏には、右の写真のような「安楽石(席)」がありました。静かに座ると、心が安まるそうですので、指示通り、静かに座ってみました。瞑想する(迷走ではありません)のに、なかなかよい感じでした。
Img_3061c 安楽石(席)の脇には、こちらのワンちゃんが控えておられました。「ジョImg_3056c ージュ」だそうです。今ようやく気づきましたが、「成就」なのでしょうね。お寺の守護犬だそうですが、なかなか徳のあるお顔のように見えました。修行のためではなく、健康維持のため、食物はお断りします、だそうです(微笑)。そういえば、見るからにふくよかです。
Img_3063c 宗宝院の墓地には、観音様と思われる石像がありました。コースマップImg_3065c では、宗宝院の裏手を進むように指示されています。「大丈夫か?」とちょっと不安になりつつ、右の写真のようなところを歩いて行きます。
Img_3067c しばらく行くと、この写真のような建物が見えてきました。これが、三重県総合博物館のようでした(ちなみに、これまで三重県立博物館と書いていましたが、正しくは、三重県総合博物館でした)。よかった、よかった。
Img_3070c 建物をグルッと回ってエントランス。スタートからほぼ2㎞、時刻は10時35Img_3072_5 分。ここはずっと以前から、一度は来てみたいと思っていたところ。愛称は、MieMu(みえむ)。前身の「三重県立博物館」は、昭和28(1953)年6月に開館。博物館の建物が耐震基準を満たさないため、平成19(2007)年10に閉鎖。平成26(2014)年4月に三重県総合文化センターの隣接地にこの新しい博物館が開館しました。
Img_3075c ここでまず見たかったのは、この「ミエゾウ」全身復元骨格。「ミエゾウ」Img_3083c は、その化石が三重県内で最初に発見されたことから、世界中で通用する正式な学名を「Stegodon miensis(ステゴドン・ミエンシス)」と名づけられた太古のゾウ。県内各所からも多数の化石が発見され、ここでも多くの化石資料が収蔵されています。これは、国内各地で発掘・保管されているミエゾウ化石の形態データを3次元スキャンで収集して制作した全身骨格復元標本。
Img_3080c 「ミエゾウ」の脇には、ミエゾウのものと推定される足跡化石のレプリカがImg_3081c 展示されています。これは、伊賀市から出土したもの。5本の指の形が分かり、それからゾウの足跡と判別されるそうです。当時日本にいたゾウはミエゾウだけであることから、ミエゾウの足跡と推定されています。
Img_3086c この日、もう一つみたいと思ったのは、「幕末維新を生きた旅の巨人 松浦武四郎」展です。この展覧会は、武四郎の生誕200年を記念したもの。松浦武四郎(文化15(1818)~明治21(1888))は、現在の三重県松阪市に生まれ、幕末の樺太北海道開拓の先駆者・大台ヶ原開拓者です。「北海道の名付け親」とよばれる武四郎の北海道踏査の軌跡や、幕末の志士・文人たちとの幅広い交友、当代随一の情報収集家・古物蒐集家としての魅力が展示されています。11月11日まで。大人は¥800(この日は、ウォーキング参加者割引で¥700)。
20180922j1  松浦武四郎は16歳の江戸への一人旅をきっかけに、武四郎は諸国をめ20180922j ぐり、名所旧跡を訪ね、日本の百名山にも登ります。自らが見て、聞いたことを記録し、多くの資料を残しました。冒険家、探検家、地誌学者、作家、出版者と、いわばマルチ・タレントであり、知の巨人といえる人物です。記録は『初航蝦夷日誌』・『再航蝦夷日誌』・『三航蝦夷』などの日誌風の地誌や、『石狩日誌』・『唐太日誌』・『久摺日誌』・『後方羊蹄日誌』・『知床日誌』などの大衆的な旅行案内、蝦夷地の地図など多くの出版物になっています。堪能しました。
Img_3376c 基本展示も見て(この日は、あのあずきバーや、肉まん・あんまんの井村Img_3379c 屋グループのお陰で、無料開放されていました)、ミュージアム・ショップへ。博物館のグッズよりも、食べ物に目が向いてしまいました。というのも大好物の「関の戸」を売っていたのです。関宿(三重県亀山市)にて、江戸時代から14代続く「深川屋 陸奥大掾(ふかわや むつだいじょう)」がつくっています。「関の戸」は、赤小豆のこし餡をぎゅうひ餅で包み、阿波特産の「和三盆」をまぶした、一口大の餅菓子です。最近、これに亀山茶の分待つをまぶした「お茶の香 関の戸」もあるのですが、昔からある関の戸をお買い上げ(¥600)。さらに、井村屋の「煮小豆 ようかん」も気になっていたので、これも買ってきました。1本15gの食べきりサイズのミニようかんが7本入っています(¥291)。
Img_3097c ということで博物館を11時半まで楽しんできました。今日は、ここまで。次は、また県道10号線に戻って、一身田地内をひたすら歩きます。

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2018年9月24日 (月)

20180924近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」へ(予告編)

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 大黒屋光太夫の銅像であります。一昨日のJRさわやかウォーキング「国宝高田本山専修寺御影堂・如来堂と一身田寺内町を訪ねて」もまだ予告編しか書いていないのに、もう次か? というツッコみ、大歓迎です(苦笑)。今日は、近鉄ハイキング「ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!」へ行ってきました。大黒屋光太夫のことは、多少は知っていますが、もう少しきちんと知りたいと思ってのことです。大学院を修了して、就職したのが、鈴鹿にある国立療養所(当時)でした。しかし、大黒屋光太夫にゆかりのある伊勢若松あたりはほとんど行ったことがなかったのです。
Img_3552c 今日のスタートは、近鉄名古屋線・伊勢若松駅。受付は、9時45分からでしたので、桑名を9時22分の松阪行き急行に乗車。9時45分に到着。¥440。伊勢若松駅は、江戸橋に仕事に行くときに通るのですが、降りたのは初めて(ここから分岐する鈴鹿線には何度か乗車しました)。冒頭の大黒屋光太夫の銅像は、駅前にあるもの。昭和62(1987)年、若松小学校創立100周年記念として、小学校校庭に建立されたものが、「大黒屋光太夫記念館」完成を機に、光太夫のふるさとの玄関口となる伊勢若松駅前に移設されました。
 大黒屋光太夫は、宝暦1(1751)年~文政11(1828)年。江戸時代、ロシアに漂流した船頭です。大黒屋は屋号。養子に入り、亀屋兵蔵と称したこともあります。天明2 (1782) 年 12月、伊勢の白子から江戸への航行中、駿河灘で台風にあい、7ヵ月余漂流を続けて翌年夏、アリューシャン列島のアムチトカ島に着き、4年後、カムチャツカ半島に渡ります。のち帰国を願ってシベリアを西行し、1791年、首都ペテルブルグにいたり、女帝エカテリーナ2世 (大帝) に謁見。寛政4 (1792) 年、遣日使節 A.ラクスマンに連れられて帰国し、将軍家斉に謁見しています。吉村昭の小説「大黒屋光太夫」や、井上靖の「おろしや国酔夢譚」のモデル。
Img_3530c 本日のコースマップ。表裏になっています。いただいたもののナンバーは、416。伊勢若松駅をImg_3533c スタートして、緑芳寺、開国曙光碑、大黒屋光太夫記念館、心海寺、宝祥寺、光太夫らの供養碑、若松緑地堤防(漂流記壁画)と、ここまでは光太夫ゆかりのところを訪ねます。その後、江島若宮八幡神社、勝速日神社とこのあたりの有名な神社に立ち寄って(この2社は、3月17日の近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」で訪ねています)、近鉄名古屋線・白子駅がゴール。コースマップ上は、約8㎞となっています。スタートは10時。
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 こちらは、実際に歩いたルートマップ。コースの他にいくつか寄り道、道草をしたところがありますので、9.5㎞を歩いてきました(苦笑)。ここにキョリ測に描いたルートがあります。ちなみに今日のルートはほぼ平坦。最高地点は、6m(最低は、0m)。いつものように、今日のところは予告編であります。
Img_3560c_2 最初の立ち寄りスポットは、緑芳寺。伊勢若松駅から300mほど。真宗大Img_3564c 谷派のお寺。光太夫の菩提寺(生家といわれる亀屋の菩提寺)です。
Img_3571c 今日は、特別にお宝を見せていただけました。左は、エカテリーナ2世かImg_3573c ら下賜された銀貨。エカテリーナ2世の像が刻まれています。寛政7(1795)年8月、光太夫が寄進したもの。右は、ロシア語で書かれた箴言(しんげん)。当然、小生には読めません。これも光太夫ゆかりの品。
Img_3575c 光太夫からは離れますが、緑芳寺には、松尾芭蕉句碑があります。「雁ゆくかたやしろ子若松」と刻まれているそうですが、ほとんど読めない状態。というのも、当時の住職であった櫟玄籍によって嘉永年間(1848~54)に建てられたという説があるそうです。これは、元禄3(1690)年、越人の『ひさご』の中の花見の部にでています(こちら)。菅沼曲水珍碩らと詠んだうちの付句。付句を刻した碑としては全国的に非常に珍しいといいます(三重の句碑)。
Img_3593c 緑芳寺からは1.3㎞ほど、近鉄名古屋線沿いの水田地帯を歩Img_3621c_2 いて行きます。鈴鹿市若松地区市民センターの敷地内に「開国曙光碑」があります。この碑は光太夫の功績を称えた顕彰碑です。
Img_3623c 碑に刻まれた「開国曙光」の文字は、江戸幕府崩壊後、徳川宗家を相続した徳川家達公爵の筆であり、「開国へ向けて差し込んだ明け方の光」という意味。碑の本文は、広辞苑の編者で知られる新村出博士によります。ここに建つ碑は、3代目。もともと、大正7(1918)年、若松尋常小学校長の伊藤六三郎氏や若松村長の内山治右衛門氏などが発起人になって寄付を募り、若松小学校校門前に建設されました。しかし、碑は昭和9(1934)年の室戸台風で倒壊。千代崎海岸に2代目が再建されたものの、これも昭和34(1959)年の伊勢湾台風で上部が欠けてしまいます。3代目のこの日は、昭和51(1976)年に建てられたもの。
Img_3657c 開国曙光碑からすぐ、鈴鹿市立若松小学校の東に大黒屋光太夫記Img_3650c 念館があります。平成17(2005)年に開館。主な収蔵品は、光太夫が書いたロシア語の墨書やロシア使節の人相書、漂流記、古文書などです。現在、夏の企画展「知っておどろき!大黒屋光太夫」が10月14日まで開催されています。入場は無料。この記念館の前にあるのが、開国曙光碑の初代の一部と思います。なお、記念館の前身は、鈴鹿市立若松小学校の校舎内に平成3(1991)年に設けられた『大黒屋光太夫資料室』です(平成17年まで)。
Img_3665c 大黒屋光太夫記念館の向かいにあるのが市立若松小学校。その敷地に石像が見えました。二宮金次郎像かと思ったのですが、座った像です。二宮金次郎像で座ったものは見たことがないなどと思って、カメラを超望遠にしてよく見たら、大黒屋光太夫であるということでした。さすが、光太夫の地元。光太夫の石像の脇には、道標が見えましたが、勝手に小学校敷地内には入れず、確認できません。
Img_3676c 記念館のすぐ南にあるのが、心海寺。真宗高田派のお寺。元禄16(1703)年に現在地より東に約300メートルの場所に創建されました。しかし地盤沈下などで本堂の床下まで浸水するようになり、明治23(1890)年にここに移転されました。大黒屋光太夫家と、光太夫と共にロシアから戻った磯吉の菩提寺です。磯吉(明和3(1766)~享保14(1729)年)は、大黒屋光太夫の神昌丸乗組員。このあと訪れた光太夫らの供養碑で、地元の方に伺ったところ、磯吉の子孫の方が今もいらっしゃるそうです。
Img_3683c 心海寺の境内には寄進者・大黒屋銀太夫、同彦太夫の名が刻まれた御手洗石(享保14(1729)年)があります。享保14年ですから、光太夫が生まれる前。先祖ということになります。
Img_3693c コースには入っていませんが、小川神社。心海寺の向かって西に御鎮座。延喜式内社とあります。旧社格は、村社(明治42(1909))年)。由緒は、大同4(809)年2月奉斎と古い棟札にあったそうです。また、天明6(1786)年までは春日社の相殿でした。明治44(1911)年、現在地に移転したといいます。
Img_3705c 明治40(1907)年、42(1909)年の2回にわたり村内の神社を合祀したといImg_3713c います。その関係か、御祭神は賑やか。主祭神は、弥都波能売神(みずはのめのかみ:水の神)。相殿神は、宇気母知神、大国主神、木花佐久夜毘売命、大山津見神、天児屋命、迩迩芸命、市寸島比売命、伊邪那美命、天照大御神、迦具土神、品陀和気命、菊理比売命、瀬織津比売命、上津綿津見命、中津綿津見命、底津綿津見命、大山咋命、宇加之御魂神。今日のところは、主祭神のみ調べました。境内には、弁天様もありました。
Img_3745c 小川神社からは、記念館と心海寺の間を通って、宝祥寺へ。真宗高田派。ここは、光Img_3733c 太夫とともに帰国した小市の菩提寺。光太夫と帰国できたのは、この小市と磯吉だけでした。しかし、小市は、根室に到着して約半年後の寛政5(1793)年4月2日に根室で亡くなってしまい、伊勢には戻れませんでした。この寺には、小市の供養碑があります。
Img_3759c 宝祥寺から200mほど南へ行った、千代崎漁港近くの住宅街の真ん中のImg_3757c 墓地に大黒屋光太夫の供養碑があります。光太夫らが消息を絶った2年後(天明4(1784)年に、荷主である木綿問屋長谷川家(松阪の出身)によって建てられています。長谷川家(丹波屋)は、松阪の豪商のひとり。5月26日のJRさわやかウォーキングで松阪に残るお屋敷を訪ねています(20180526JRさわやかウォーキング「~松阪撫子どんな花?~新緑の松坂城跡から眺める御城番屋敷」へ、なぜか近鉄で(予告編))。先に触れた、磯吉の子孫の方は、この近くにお住まいだそうです。
Img_3787c 供養碑の近く、若松漁港のところにある若松緑地堤防には、「漂流記壁Img_3785c 画」があります。その名の通り、漂流記を10枚の絵にしてあります。ここでほぼ11時半。
Img_3817c ということで、この若松緑地で、昼ご飯にしました。コンビニ弁当ではありImg_3823c ますが、ガパオライス。ファミマで購入。好き好んでこれにしたのではありません。ハイキング/ウォーキングの時は、あまりたくさん食べるとそのあと、歩くのに差し障りがあります。少なめの弁当を桑名駅の駅ナカコンビニで探したら、これしかなかったのです(苦笑)。タイ料理とか。ガパオ炒め、ブロッコリー炒め、パッタイ風春雨炒めと目玉焼き風オムレツがトッピングしてありました。税込360円。今日は、コースにコンビニはなく、あらかじめ買っておいてよかった(微笑)。
Img_3832c 12時過ぎに再スタート。若松漁港近くで、イソヒヨドリのメスを目撃。漁港Img_3858c の南で、千代崎海岸に出ます。海水浴場もありますが、台風の影響か、海岸には漂着ゴミ、流木などが一杯。
Img_3865c 千代崎海水浴場の観光案内所(現在は閉鎖中)のところで、2代目の開国曙光碑を確認。昭和34(1959)年の伊勢湾台風で上部が欠けてしまったものが、これです。このあと、南若松町内の住宅街を歩いて行きます。伊勢街道から一本東の道。
Img_3884c 伊勢若松駅から5.7㎞のところに、春日神社天児屋命(あめのこやねのImg_3897c みこと)を祀っています。創祀年代は不詳。明治41(1908)年、南若松の小川神社へ合祀されましたが、昭和26(1951)年、氏子の総意により元の鎮座地へ分祀され今に至っています。
Img_3940c さらに南に1㎞半ほど。江島公園に到着。ひたすら歩いてきました(苦Img_3934c 笑)。公園内に「徳川家康公九死に一生を得て駿府に戻る船出の港」という案内板があります。本能寺の変に際して(天正10(1582)年)、伊賀越えをして、亀山を抜け、6月2日ここ江島北部(当時は、川南村)にたどりつきました。小川孫三の農事納屋に身を隠したのち、6月4日に白子若松浦から孫三の漕ぐ船で脱出したのです。ちなみに、このあと家康は、小生の生まれ故郷である三河国大浜に上陸しています。なお、伊勢国から三河国大浜までの船を手配して、家康や供廻の帰還を助けたのは、伊勢商人の角屋七郎次郎秀持ともいいます(こちらWikipediaの説明)。
Img_3955c 江島公園のすぐ南西には、江島若宮八幡神社があります。ここは、3月Img_3958c 17日の近鉄ハイキング「近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」で来ました(近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(予告編))。鈴鹿市内で2番目に広い境内を持つ神社(最も広いのは、椿大神社です)。主祭神は、大鷦鷯命(オオササキノミコト、仁徳天皇)、品陀和気命(ホンダワケノミコト、応神天皇)、息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト、神功皇后)となっています。平安時代初期、禁中(内裏)に奉祀されていた若宮八幡宮(京都石清水八幡宮の御分霊)を人皇六十代延喜帝醍醐天皇が、神意に問いて伊勢宗廟(皇大神宮)の戌亥の方なる当地に奉遷したといいます。
Img_3961c 江島若宮八幡神社は、伊勢湾にほど近いところにあり、江戸時代から海上の守護神として信仰を集めて来ました。安全祈願などで奉納された多数の絵馬がありますが、そのうち、江戸時代の71面は三重県の有形民俗文化財に指定されています。今日は、予約制の宝物館の扉が開けていただいてあり、絵馬を直接見られました。弁財天、武者絵、町絵図、帆前船などの図柄があります。廻船業で賑わった白子湊の繁栄と信仰が窺えます。
Img_4019c 江島若宮八幡神社の近くからは、しばらく伊勢街道を下ります。このあたImg_4026c りは、3月17日の近鉄ハイキング「近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」で、上ってきたところ(近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(予告編))。このあたりには、「安濃津治安裁判所・登記所・法務局跡」、「江島陣屋跡」などがあります(3月21日:近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その3)……同心屋敷跡、道標を見て久留真神社、大徳屋長久山で土産をゲットし、まちかど博物館などへ
Img_4039c 今日のコースには買えるところはないと諦めていたのですが、ありましImg_4144c た。鈴鹿の銘菓・大はら木久住屋菓舗さんのお店の前のところで曲がるというルートでした(微笑)。3月の時は、小原木本舗大徳屋長久さんで購入しました。鈴鹿で働いていましたので、懐かしいお菓子。手焼きした柔らかいおせんべいに粒あんが挟んであります。
Img_4042c 久住屋菓舗からあとは勝速日神社に寄ってゴールだと思っていたら、體用山(たいゆうざん)青龍寺がありました。3月のハイキングで下調べはしていたものの、足を伸ばさなかったところです。真宗高田派のお寺。あまり有名ではないようですが、お宝は充実しています。
Img_4053c 徳川吉宗作の「紅梅白梅図(掛け軸)」、「弘法大師の手形、第11次朝鮮通信使(1746年)の通訳官、朴徳源の肉筆による
「體用山(たいゆうざん)」の額の3点です。白子は紀州藩領だったこともあり、徳川吉宗とも縁があったようです。「弘法大師の手形」は、弘法大師(空海)が護摩(ごま)の修行で出た灰を固めて作ったとされます。青龍寺は、もとは真言宗のお寺でした。
Img_4072c そして、いよいよ最終立ち寄りスポットは、勝速日神社。ここは、3月のハイキングで寄り道したところ(3月23日:近鉄ハイキング「伊勢型紙とおひなさま 旧参宮街道とおひなさまめぐり」へ(その5)……白子港、伊勢型紙資料館、龍源禅寺、勝速日神社などを経てようやくゴール(完))。文明年間(1469~1486年、室町時代)の創建 といわれ、創建時には八重賀岐神社として素戔嗚尊(スサノオノミコト、牛頭天王)と稲田姫命(イナダヒメノミコト)が祀られていました。
Img_4093c 寛永11(1671)年、八重垣神社の神域に龍源寺の境内に祀られていた勝手明神(天之忍穂耳命(アマノオシホミミノミコト)、天御蔭命(アマノミカゲノミコト)の2柱を遷し、元禄に至るまで2社を並べて祭祀していました。元禄以降、一社殿としています。さらに、明治41(1908)年、春日神社他附近の小祀6社を合祀しています。
Img_4092c 主祭神は、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト。この神様は、天之忍穂耳命と同じで、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の父。この神社がある鈴鹿は、鈴鹿サーキットがあり、F1も開催されるモータースポーツの聖地。レース関係者がこの神社の名前と、御祭神に注目して、必勝祈願に訪れるところ。
Img_4103c ゴールは、こちら近鉄名古屋線・白子駅。13時42分に到着。9.5㎞を完歩Img_4138c しました。コースマップでは8㎞でしたが、寄り道もしましたし、よく歩いたという感じでした。13時51分発名古屋行き急行に乗車して帰宅。桑名駅は、14時22分。¥490。あみま倶楽部スタンプは、これで19個。
 予告編からとてつもない長編になりまして、恐縮。JRさわやかウォーキングの記事が終わったらゆっくりと本編を書くことにします。

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2018年9月23日 (日)

桑名七里の渡し公園で水辺マルシェ……午前中の散歩でイソヒヨドリのオス、コサメビタキ(?)、モズのメス

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 今日の午後4時まで、近くの桑名七里の渡し公園で桑名ほんぱく「水辺マルシェ」を開催Dscn0297c していました。昨日は行けませんでしたので、今日3時になって娘と覗いてきました。昼前に散歩をしているときに出会った知人からは「賑わっているよ」と聞いていました。
Dscn0312c_2 移動販売者や、キッチンカーの他、テントなどでアクセサリー、焼き菓子、古着などの出店が行われていました。終わりがけに行ったのに、けっこうな賑わいでした。近くで(徒歩2分!)、こういう催しがあるのはありがたいことです。
Dscn0296c お目当てはこちら。大内山ソフトクリーム。ローカルでは有名ブランドであるDscn0299c 大内山牛乳を使ったもの(大内山酪農組合、三重県度会郡大紀町大内山)。ノーマルサイズのコーンが¥400。味は濃厚。けっこう暑かったので、美味しくいただきました(微笑)。
Dscn0302c 娘のチョイスは、多度グリーンファームの「けずりイチゴ」。¥600なりと、よいお値段。凍らせたイチゴを削って、練乳をかけたもの。ソフトクリームも、こちらもシェア。
Dscn0308c もう一つ、昨日から気になっていたものが出店していました。こちらの「ラジDscn0314c オ焼」。昨日のJRさわやかウォーキングを終えて、実家に向かうバスの車窓から、農産物直売所の駐車場にキッチンカーで来ているのが見えたのです(微笑)。今日のマルシェでも発見! 家族の土産に買ってきました。ラジオ焼は、たこ焼きの元祖だそうで、牛スジ肉を具材として焼いたものでした。まったりとコクのある味わいという感じでした。
Img_3440c さて、散歩の方は、8時スタート。猛暑の頃の習慣がそのまま根付いていImg_3438c ます。スタートの時点で、桑名七里の渡し公園でマルシェの準備をしているのが見え、気になっていました。散歩は、いつも通り、住吉神社、九華公園、京町、寺町と5.1㎞。何故か3時間もかかって歩いてきました(例によって、油を売っておりました)。
Img_3395c まずは、こちら、イソヒヨドリのオス。マルシェの準備をしているところを覗いていたら、鳴き声がしてきたのです。探したら、すぐ南の住吉ポンプ場の屋上にいました。オス2羽が、割と近いところに。しばらく前は、七里の渡し跡あたりで何度か目撃しています。
Img_3402c 揖斐長良川の中洲には、ダイサギが2羽。いつもアオサギが集まるところImg_6099c ではありません。そして、三の丸公園では、シジュウカラが2羽。
Img_3409c 柿安コミュニティパークに来たら、今度はモズの鳴き声がどこかの木の上から聞こえて来ました。探し回りました(微笑)。しばらく前からこのあたりには、メスのモズがやって来ていました。堀の間にある水門のところの木にいるのを見つけたのですが、写真が撮れません。困っていたら、電柱の上に移動してくれました。
Img_6130c 九華公園、鎮国守国神社では、ヒガンバナが花盛り。もう十分撮ったとはImg_3428c 思いつつ、それでもいいアングルはないかと思ってしまいます。パターンを変えるのは難しいのですが、少しだけ工夫(笑)。
Img_6151c アオサギさんは、定位置に。ブロ友のひらいさんの言葉を借りれば、「安心の場所」になっています(いつ行ってもそこにアオサギがいてくれるという意味で、安心なのです)。
Img_6143c そして、今日はこちらが登場。コサメビタキ、エゾビタキ、サメビタキのどImg_6148c れか(笑)。神戸櫓跡のベンチで休んでいたら登場したのですが、逆光気味のところで、模様がよく分からない(苦笑)。胸のところに明瞭な斑紋がある訳ではなさそうですから、エゾビタキではなさそう。嘴の印象からは(嘴も基の部分が黄色くて幅広い印象)、コサメビタキの可能性大と思っています。
Img_3435c 「油を売っていた」のは、九華公園にて。管理人Sさんや、散歩友達Oさん(Oさんには夏前以来)などとお目にかかったため。帰りは、お彼岸の中日でもあり、寺町で桑名別院・本統寺にお参りしてきました。明日は、近鉄ハイキングが伊勢若松駅であり、大黒屋光太夫ゆかりのコース(ロシアを見てきた最初の日本人 鈴鹿の偉人・大黒屋光太夫のふるさとを歩く!)。曇りという予報ですが、出かけたいと思っています。
 昨日のJRさわやかウォーキング、写真整理がまだこれから。お待ちください。

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