寺院

2017年11月10日 (金)

旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(後編)

 昨日の記事(旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(前編))の続きです。昨日は、安永から朝日町柿までの道中について書きました。今日は、四日市市松寺から富田まで。

Img_0173c 伊勢湾岸自動車道の手前にある柿交差点を過ぎ、伊勢湾岸自動車道と、北勢バイパスの高架をくぐると、朝明川にかかる朝明橋。ここを渡ると、四日市市松寺に入っていきます。
Img_0183c 朝明橋を渡りきったところに、小公園があり、この看板と力石があります。Img_0184c 看板には、広重の東海道五十三次「四日市宿」や、ここを通ったというシーボルトの説明などが書かれています。力石は、この地で営まれていた茶店の主が残したもので、「二十七メ」と刻まれ、重さ27貫目(約100㎏)と考えられています。北勢地方では、神社やお寺に残っていることが多いそうですが、これは数少ない、民家の軒先にあったものといいます。
Img_0192c 朝明川の河岸段丘をおりて、松寺に入ります。朝日町内にも、「東海Img_0228c 道」 案内板が所々にありましたが、四日市市内にもあちこちにあり、助かります。御厨神明社の手前にあったもの。右は、四日市市内各所に掲げられているもの。桑名でもこういうものを整備してもらいたいところ。
Img_0196c 松寺にある御厨神明社。御厨という名称ですから、伊勢神宮に関わりのImg_0199c ある土地であったことがわかります。静かで、小さな神社。この神明社を過ぎると、薬師堂があると「ホントに歩く東海道」の地図にはあったのですが、見逃してしまいました。細い道の奥に入っていく必要がありました。
Img_0206c 蓮證寺の手前、左(東)側に、松寺の立場跡があります。江戸時代、桑名Img_0207c 宿と四日市宿との間には、5カ所の立場があり、その一つがここ。この「松寺の立場跡」の看板の奥には、「輝子頌徳記念碑」がありました。
Img_0211c 松栄山蓮證(れんしょう)寺。浄土真宗本願寺派の寺。古いお寺で、400年くらい前にここにお堂があり、本堂も200年くらい前に立てられたと伝えられているようです。ご本尊は、阿弥陀如来様。
Img_0230c 蓮證寺を過ぎると、蒔田の御厨神明社と、宝性寺(ほうしょうじ)があります。参道の両側に神社とお寺の石柱が並んでいて、ちょっと不思議に思いました。先に種明かしをしてしまうと、この正面に龍王山宝性寺の本堂があり、すぐ北側に御厨神明社の本殿があったのです。
Img_0237c 龍王山宝性寺の本堂。天平12(740)年に聖武天皇の勅願により創建されたのが始まりだそうです。リンク先の市役所のサイトによれば、蒔田第一自Img_0245c 治会が所有しています。本尊に十一面観音菩薩像を安置している本堂が指定文化財です。享保4(1719)年の棟札が残りますが、現在の本堂は、鬼瓦の銘から文化11(1814)年の建立と推定されるといいます。
Img_0241c こちらは、宝性寺本堂に向かって右手(北側)にある、蒔田の御厨神明Img_0253c 社。特段の由緒書きなどは見当たりませんでした。ほとんど余談ですが、宝性寺の境内に右の写真のような石が置かれていました。「舟止石」だそうです。約60㎝。変形した穴が通る硅灰岩(珪灰石か?)で、穴に縄を通し、海中に投入して、船の碇にしたと説明されています。
Img_0279c 宝性寺・御厨神明社のすぐ南に朝明殿長明寺があります。浄土真宗本Img_0271c 願寺派。立派な山門があるのと、寺の周りが、素掘りの環濠で囲まれていたのにビックリ。それもそのはず、文治年間(1185~90)に蒔田相模守宗勝が居城した、蒔田城跡といわれます。宗勝は、平安時代の末期、時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めました。
Img_0269c 創立年代、開基などは不明ですが、寺誌によると、もと真言宗潮音寺と称し、近郷の豊田村(川越町豊田)にあったと考えられています。慶安4(1651)年、領主松平隠岐守(松平定綱公と思います)から現在の寺地を賜り、翌年寺基を移したといいます。余談ですが、この辺りは大矢知素麺の産地で、街道沿いにも製麺所がいくつかあります。
Img_0291c 東海道が、八風街道と交わるところの少し手前ある「鏡ヶ池跡」は、聖武Img_0295c 天皇ゆかりの地です。聖武天皇の伊勢行幸の際(天平12(740)年11月23日に朝明郡の頓宮にお着きになったといいます)、このあたりで天皇の笠が風で飛んで池に落ちたのを洗濯をしていた娘が拾い上げたそうです。翌日、旅立つ天皇と見送る娘の姿が池に映り、それが鏡のようだったとして鏡池と言うようになったと伝わっています。
Img_0305c 鏡ヶ池跡のすぐ先で、東海道と八風街道とが交差します。左の写真で、Img_0311c 左右を横切っているのが東海道、手前から向こうに通っているのが八風街道。道の奥に小さく、JR関西線の八風踏切が見えています。右の写真は、さらに少し先にある関西線西富田踏切。上を通っているのが、三岐鉄道三岐線。
Img_0316c 西富田踏切の先にある浄土真宗本願寺派の木下山三光寺あたりから、地名は富田になります。三光寺には、長明寺のところで出てきた蒔田相模守宗勝の墓碑があるのですが、それはあとで気づいたこと(笑)。三光寺の先で東海道は、大きく左折。
Img_0337c 名所旧跡ではありませんが三幸毛糸紡績富田工場の前を通ります。子Img_0340c どもの頃、実家の近くにも紡績工場がありましたので、なんとなく懐かしい気がしました。この近くには、東洋紡績富田工場もありました。
Img_0355c 三岐鉄道三岐線と近鉄名古屋線が合流する高架をすぎたところで「富田Img_0358c 一里塚跡」の大きな石碑が見えてきます。標柱は立っていますが、塚じたいはすでにありません。日本橋から98番目ですから、98里ということ。四日市市内には、このほか、三ツ谷、日永、采女にもあります。一里塚の先は、東富田村。ここは、間の宿(あいのしゅく)として賑わったそうです。
Img_0365c その先、JR関西線富田駅の近くには、八幡神社があります。弘安Img_0366c 2(1279)年に勧請された八幡神社が起こりです。かつては「八幡の森」と呼ばれ、樹木が鬱蒼と茂り、昼でも暗かったといいます。八幡社は、明治42(19096)年に鳥出神社に合祀された後、昭和40(1965)年頃、現在の社殿が再建され、富田西町の産土神として戻されたといいます。
Img_0367c 境内の一角には、力石が置かれていました。本日、2つめであります。この力石も、重量約100㎏という説明がありました。説明板には、「ここ八幡神社の「力石」は、力比べ体力を養うことを対象にしたものであり、この石に触れることによって健康長寿への親交を深めたのであろう」と書かれていました。
Img_0379c 本日(11/9)の最終目的地も近づいてきました。八幡神Img_0377c 社から目と鼻の先に、「行啓記念道路碑」が立っています。大正天皇が皇太子の時(明治43(1910)年11月)に、創立間もない三重県立第二中学校(旧制富田中学校・現四日市高校)に立ち寄られ、授業参観されました。そのとき、この道路を通られたことを記念して建てたものです。「まさに破天荒の出来事」とあるくらい驚き、感激だったようです。
Img_0383c 東海道はまだ続きますが、そろそろ12時も近く、6㎞ほど歩いてきましたImg_0387c ので、今日はここまで。行啓記念道路碑のところを右折して、近鉄名古屋線富田駅へ向かいます。9時から歩き始めて3時間。けっこう歩いた気がします。
Img_0393c 駅に着いたとき、急行は出てしまったものの、ホームに上がったら、ちょうどうまい具合に、名古屋行き準急(12時1分Img_0401c 発)が入ってきましたので、これで桑名駅まで。\260。ちなみに、名古屋方向のホーム、反対側は三岐鉄道三岐線が使用しています。
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 こちらが、今日のコースのメインの部分(松寺に入ったところは、昨日のKyutoukaidou4c 最後の画像をご覧ください)。出かける前には、大丈夫かといささか自信がなかったのですが、何とか無事に歩き通せました。次は、富田から近鉄四日市駅までをと考えています。
 

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2017年11月 9日 (木)

旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(前編)

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 マイブックスにも載せましたが、しばらく前に「ホントに歩く東海道第12集(桑名~庄野)」を入手し、これを見ながら、近くの東海道を歩いてみようと思っていました。先日、「朝日町歴史散歩」に出かけましたが(10月5日;朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼)、それは実は、この東海道ウォークの試しという意味合いもありました。桑名市安永辺りから、四日市市富田まで歩いてきましたが、長くなりますので、今日は、その前編ということで、桑名市安永から、朝日町柿までのお話。
Img_0017c_2 桑名駅前のバス乗り場まで歩き、8時50分発の「ヨナハ総合病院」行きに乗Img_0030c_2 り、城南口で下車(約10分、210円)。ここは、町屋川(員弁川)にかかる町屋橋(国道1号線)のやや北。右の写真は、現在の町屋橋です。旧・東海道の町屋橋は、この少し上流側に、寛永12(1635)年にはじめて架橋されています。安永立場と、縄生(なお)村との間です。安永立場では、今も名物となっている「安永餅」が売られていたといいます(現在は、この辺りでは売るところはありません)。
Img_0046c_2 町屋橋を渡り、朝日町縄生へ。町屋橋の少し上流のところから、旧・東海道Img_0047c_2 が続きます。左の写真で、町屋川越しに見えるのが、桑名市街地。この交差点を左(南)へと進みます(右の写真)。
Img_0051c_2 橋本川を越えるとじきに、金光寺(こんこうじ)が右手(西)にあります。金光寺は、寛政年間(1789~1800)に類焼し、3年後に現在地に再建されたものの、明治3(1870)年、当時の住職・浄海(じょうかい)を最後に無住となり、この小さな本堂のみが残されています。ご本尊は、十一面観音菩薩。
Img_0058c_2 金光寺の隣には、桔梗山真光寺(しんこうじ)があります。浄土真宗本願Img_0060c_2 寺派。大同2(807)年、最澄が天台精舎として創建。興国元(1340)年に本願寺第三世覚如上人の教化を受けて浄土真宗に改宗しています。
Img_0064c_2 ここ真光寺には、松平家の定紋である梅鉢紋入りの大手水鉢があります。これは、桑名藩7代藩主・松平定重公が、万治3(1660)年に寄進した ものです。先代藩主の定良公が、有馬温泉での湯治から帰藩途中に病死したのですが、町屋川の洪水で、川留めになり、真光寺がその遺骸を3日間安置し、供養したことへの返礼で拝領したものです。
Img_0076c_2 さらに進みますと、水谷たばこ店の店先に山口誓子の句碑があります。Img_0073c_2 この句碑には山口誓子の筆跡で、「露けさよ 祷りの指を 唇に触れ 誓子」と刻まれているのだそうですが、判読はかなり難しいです。「俳句のくに 三重」の説明によれば、「外に出て露けき中でお祈りをした。合掌し、その手を唇に近づけたので指の先が唇に触れた。私はその指先を感じながら祈りを続けた」ということです。昭和25(1950)年10月建立。誓子は、昭和16(1941)年、伊勢富田(四日市市富田)に移り、療養したといいますから、その頃の句でしょうか(未確認です)。
Img_0078c_2 山口誓子句碑のすぐ先に、縄生の「一里塚跡」の石碑があります。ここは、桑名の七里の渡や、西富田の庚申橋から、それぞれちょうど一里のところ。伊勢国には、12カ所に一里塚がもうけられたといいます。この石碑は、平成13(2001)年に、東海道宿場・伝馬制度制定400周年記念事業で作られたもの。
Img_0084c_2 近鉄名古屋線・伊勢朝日駅近くに「安達本家酒造」があります。実は、今Img_0085c_2 日のウォーキングでもっとも楽しみにしていたことが、ここにあるのです。右の写真のように、自動販売機で、ここが造っている地酒を買えるというのを聞いていたのです。「富士の光」という純米大吟醸酒が有名。
Img_0086c ところが、大変なことが起こりました! 写真にあるように、「免許証を入れて」、「販売可」となったら、お金を入れて購入という段取りなのですが、何度やっても、「販売不可」。20歳以上とは認識されなかったのでしょうか(苦笑)。はたまた機械の不調? あいにく、どなたもいらっしゃらなかったので、泣く泣く諦めて、歩き続けました。
Img_0095c 近鉄・伊勢朝日駅のすぐ前には、あの(!?)東芝三重工場があります。この三重工場では、電動機、変圧器、インバータ、車載用ジェネレータなどの開発・製造を行っているようです。地図を見ると、その敷地の広さには驚きます。
Img_0096c 伊勢朝日駅近くには、踏切を渡った左に、ポケットパークがあり、樹齢Img_0113c 300年のエノキが残っています。東海道を往き来した人々を見てきたのでしょう。
Img_0098c 焼蛤といえば、「その手は桑名の……」という言葉もあって、有名ですが、この辺り(縄生村、小向(おぶけ)村)でも、焼蛤を名物として商う茶屋があったといいます。火鉢に松かさを燃やして蛤を焼いて売っていたといいます。
Img_0115c 朝日町役場や、朝日町資料館に入っていくところには、小向神社の標柱や、案内板が立っています。ここから、JR朝日駅の東辺りは、10月5日に歩いたところです(朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼)。東海道沿いにも、橘守部生誕地跡、浄泉坊、西光寺などがありますが、今日は割愛。10月5日の記事をご覧ください。
Img_0128c 小向神社の標柱から800mほど行ったところ(柳屋酒店)Img_0130c で、東海道は大きく左折。「東海道はこちらでござる」という手作りの標識があったりして、うれしくなります。ここらは、昔の柿(かき)村。
Img_0138c 柳屋の先ではまた、大きく右へ曲がっています。明治の地図では、このImg_0140c 辺り、東海道の両側は水田だったようです。「ホントに歩く東海道」の解説には、「当時は民家は一軒もなかった。郷土資料「大矢知地区幕末・明治生まれの実話」には、「追い剥ぎ、辻切り、乞食」の出没する寂し い道だったとある」と書かれています。柳屋から300mほど行ったところに「豊田一色」の小さな道標が立っています。豊田一色は、川越町の地名。ここから南東側にあります。
Img_0145c 豊田一色の道標の先には、桜並木が続いています。その昔は、松並木だったのだろうと思います。ここまで来ると、伊勢湾岸自動車道や、北勢バイパスの高架が見えてきます。右手(西)には、鈴鹿の山並みがよく見えますが、江戸時代などは、上にも引用したように、さみしいところだったと思われます。
Img_0156c 高速道路、バイパスの高架橋をくぐる手前、柿交差点脇に、多賀大社常夜灯が立っています。弘化3(1846)年に、滋賀県の多賀大社から勘定して祀られた神社(現在は、井後(いじり)神社に合祀)の神殿前に建てられていたものといいます。元々は、東海道沿いにあったものでしたが、昭和46 (1971)年に街道から30m西の現在地に移転されています。「お多賀さんの灯籠」と親しまれ、かつては燈籠番が毎夜、火を灯していたといいます。
Img_0167c 伊勢湾岸自動車道の手前にある柿交差点。左右に横切っているのが、旧・東海道。この辺りまでが、朝日町。右手に進むと、伊勢湾岸自動車道と、北勢バイパスの高架をくぐって、朝明川にかかる朝明橋を渡ると、四日市市松寺。
Kyutoukaidou1c 今日歩いたコースの前半部分は、これら2枚の画像の通り。左の画像Kyutoukaidou2c で、町屋橋南詰交差点から北に入ったところから、旧・東海道を歩いています。今日の記事は、右の画像で、伊勢湾岸自動車道・北勢バイパス側にある「柿交差点」のところまで。この先、四日市市内になります。バスを降りてから、富田までは、6.1㎞を歩いていますが、桑名駅までの往復でプラス2.2㎞。トータル8㎞以上歩きました。

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2017年11月 2日 (木)

紅葉はまだながら、永源寺へ……ダムカレーといわな天巻、土産が傑作

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 本日のランチであります。永源寺ダムカレー@道の駅奥永源寺渓流の里です。永源寺ダム は、左岸側がコンクリート重力式ダム、右岸側はロックフィルダムとする複合ダムで、それを模しています。ミンチカツは、鹿肉でした。中辛で、おいしくいただきました。
Img_8932c もう1つ、奥永源寺産いわな天巻も。一人で食べたのではありません。家内Img_8937c とシェア。ちなみに、永源寺ダムカレーの方は、鹿肉や、イノシシ肉がない時は、イワナのフライがつくということでした。
Img_8697c 実は、今日は、藤原岳を眺めつつ、国道421号線(昔のImg_8707c_2 風街道)を通り、石榑トンネルを通って、滋賀県東近江市へ。八風街道は、現在の四日市市富田から鈴鹿山脈の八風峠を越えて、東近江市や、近江八幡市へ抜ける街道という、歴史的な街道。「みえの歴史街道」にも取り上げられています。石榑トンネルは、2011(平成23)年3月に供用が開始され、一度通ってみたかったのですが、念願がようやく叶いました。その昔、石榑峠をクルマで通ったことはあったのですが、当時は、狭隘な急坂で、難所でした。
Img_8736c ということで、今日は、紅葉はまだまだということを承知の上で、紅葉の名所である永源寺まで出かけてきたのです。臨済宗永源寺派の大本山。康安元(1361)年、近江国守護佐々木氏頼が、臨済宗の僧・寂室元光を開山として開いたそうです。ここには、結婚してすぐの頃、来たことがありますから、20数年ぶり。前回来た時の記憶は朧気な状態(微笑)。
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 さすがに紅葉は、まだごく一部に限られていました。左の写真は、総門Img_8756cにいたる参道の途中。ご覧のように、観光客は少なく、静かでした。途中、所々に、右の写真のように、かなり紅葉した木々もありますので、まったく楽しめないということはありません。
Img_8778c 総門をくぐり、拝観料を納め、山門へと向かいます。山門は、寛政Img_8800c 7(1795)年に建立が発願され、7年後の享和2(1802)年、霊隠道仙禅師の時に完成したといいます。楼上には釈迦牟尼仏、文殊菩薩、普賢菩薩、十六羅漢像が奉安されていますが、登楼は禁止。平成10(1998)年に大改修が施されています。重要文化財に指定されています。
Img_8810c 左は、山門脇の紅葉の様子。このように、まだ部分的という感じでした。今日の永源寺のサイトでは、「連日の冷え込みで、モミジは日増しに色づいていますが、全体を通しては、まだ色づきはじめと言ったところでしょうか」と書かれていましたが、まさにその通り。また、昔に比べ、紅葉が早くなっていて、「10年ほど前は、色づき始めは11月中頃、落葉が12月初旬でしたが、近年は11月初旬には紅葉が始まり、12月を待たず落葉してしまいます」ともありました。
Img_8816c こちらは、本堂。市内の小学校の子どもたちが来ていましたが、ほかに観光客は少なく、静まりかえっているという表現がよく当てはまります。本堂に上がらせていただいて来ました。御本尊は、「世継観世音菩薩」でいらっしゃるのですが、秘仏ということで、厨子の扉の奥に鎮座されていました。御開帳はおよそ四半世紀に一度だそうです。また、この大屋根は、琵琶湖のヨシで葺かれているといいます。
Img_8832c その後、昔来た記憶をたどりつつ、奥にある禅堂や、開山堂、蔵の方まImg_8836c で行ってきましたが、記憶があるような、ないような、不思議な感覚でした。
Img_8763c 総門に行くまでのところには、十六羅漢像がありました。数えてみると、Img_8769c何度数えても、十七体いらっしゃいました。参道に近いところに鎮座している羅漢さんは、少し新しい気もしますので、別なのかも知れません。お寺のサイトにも説明はありませんでした。
Img_8773c もう一つ、興味を引いたのは、ここ。階段を上がってみてImg_8776c みましたら、右の写真のように、「井伊家の霊廟」という説明板があります。井伊家四代目の直興(なおおき)公(1656~1717年)の墓所でした。「彦根藩主井伊家墓所」は、彦根市清凉寺、東京都世田谷区豪徳寺、ここ永源寺と合わせ3か所あり、いずれも国の史跡に指定されています。四代藩主直興公は、仏教への信仰が篤く、永源寺に深く帰依したため、歴代藩主の中で直興公のみが、側室とともに永源寺を墓所としたということでした。
Img_8904c 永源寺では、1時間ほどを過ごしました。静かな境内をゆっくりと散策し、Img_8724c 心洗われる思いをすることができました。左の写真は、永源寺前駐車場から永源寺に渡る「旦度橋」。愛知川(えちがわ)の上流方向を眺めていたら、何とカモの姿が(笑)。ここまで来てバードウォッチングかという気もしましたが、そこはツッコミはなしで。マガモでした。かなり上流まで含めると、10数羽のマガモがいました。
Img_8912c このあと、永源寺ダムに立ち寄ってきました。「ダムが好き」ということでもDscn4633c ありませんが、ここでダムカードをいただいてきました(微笑)。ダムカードマニアでもありませんが、長良川河口堰のダムカードも持っています。ついでがあれば、立ち寄ってということです。
Img_8950c そして、昼食を摂るのと、お土産でも見ようというのとで、道の駅奥永源寺渓流の里へ。道の駅にしては、なんだか学校のような建物だなと思ったら、平成15年に閉校した旧政所(まんどころ)中学 校の校舎を再利用し平成27年10月10日にオープンそうでした(こちら)。
Img_8933c ダムカレーを食べようと、席を探していたら、こんな女性がいました。思わず声をかけそうになりますが、こちら、よくできた人形でした。確か、去年湖北野鳥センターへ行ったとき、隣の湖北みずどりステーションにもあったような気がします。滋賀県ではこれがフツーなのでしょうか(爆)?
Dscn4630c そして、お土産。特産の赤こんにゃく、地酒のほかにこんなものがあっDscn4631c て、飛びついてしまいました(飛び出し注意なのに……笑)。「とび太くん 飛び出し注意!! ソックス」であります。表面が、とび太くんのデザイン、裏面には、「とび出し注意!」の文字が。なぜこういうお土産があるかというと、「飛び出し坊や」の看板は40年前に滋賀県で生まれたものだからです(こちら)。このお土産も作っている東近江市の看板製作業「久田工芸」が、その生みの親なのです。
Dscn4628c 小生自身は、さすがにこのソックスはと思い、キーホルダーにしました。人形になっているものもありましたが、もとが看板で平面的なものですから、写真にあるようにプレートタイプを選択。
Img_8973c 帰り道、石榑からちょっと寄り道。両ヶ池公園へ。カモが来ているか、見Img_9007c てきました。ホシハジロ、カルガモ、コガモ、キンクロハジロ、オオバンなどの姿が見えました。ミコアイサはまだ見当たらずでした。ここも冬の探鳥スポット。本日、9時半出発、14時帰宅でありました。

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2017年10月 5日 (木)

朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼

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 今日もまた外出してきました。今日は、JR関西線に乗って一駅、三重郡Img_5796c 日町へ。運賃は¥190。朝日町は、小さな町ですが、弥生時代の遺跡があり、壬申の乱の時には、この付近で大海人皇子(天武天皇)が伊勢神宮を遥拝し、戦勝祈願をしたと伝わっています。また、縄生廃寺からは、国の重要文化財に指定された出土した舎利具などの遺物が発掘されています。町名は、天武天皇が壬申の乱の際に付近で朝日を拝んだという、日本書紀の故事によるといいます。
Asahiwalking  今日の目的は、歴史散歩。桑名駅にあった「JR関西本線ウォーキングガイド 朝日駅編」というパンフレットをしばらく前に入手し、一度行ってみようと思っていたのですが、涼しくなってきたので、ようやく実現したということです。左の画像が、これに載っていたウォーキングコース。2㎞、1時間と書いてあったのですが、小生が歩いたら、4㎞、2時間でした。他にも行ってみたいところはあったものの、今日のところは、ほぼこのコース通りに回ってきました。
Img_5802c JR朝日駅から、まずは、この旧・東海道に出ます。コース図に「スタート」と矢印がついている先の曲がり角から、上り方向を撮ったものです。今は、生活道路となっていて、クルマも案外たくさん通ります。
Img_5805c 最初の目的地である朝明山西光寺。浄土真宗大谷派。確実な證跡はないImg_5826c そうですが、現存する絵像御本尊の裏書からは、明応5(1496)年に開基とされています。その後、貞享2(1685)年、大谷派に転じ現在に至ったといいます。現在の建物は、明治10~23年にかけて建立されたもの。立派な松があり、松並木の名残かという気がします。
Img_5812c 本堂の南隅に半鐘がかかっていますが、これは江戸時代のものだそうです。ただ、この西光寺、バイクや、自転車はおかれていたのですが、人気がありませんでした。
Img_5841c 西光寺から旧・東海道を約5分進みますと、小向山浄泉坊に到着します。Img_5842c 浄土真宗本願寺派。慶長8(1603)年に、伊勢慶昭が小向にあった正治寺を再興し、小向山浄泉坊と改称したのに始まります。徳川家にゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたことがあるといわれ、本堂の棟や、山門に徳川家の定紋三ツ葉葵が入っています。そのため参勤交代の大名はこの寺の門の前では駕籠から降りて一礼したと伝えられます。右の写真は、山門脇にあった、旧本堂の鬼瓦を安置したもの。
Img_5855c 左は、本堂の屋根の写真。右は、山門の扉。いずれも、三ツ葉葵のご紋Img_5858c が入っています。このお寺では、地元の男性から声をかけられました。その方もカメラを持っていらしたのですが、ご住職から寺の絵を描くよう依頼され、その構想を練るために写真を撮っているということでした。
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 浄泉坊のほぼ斜向かいに、国学者・橘守部誕生地遺跡の案内板があります。17歳のとき、一家離散のため江戸に下り、20歳を過ぎてから学問を志したのですが、香川景樹、平田篤胤、伴信友とともに「天保の国学四大家」の一人に数えられるに至っています。
Img_5891c この「誕生地遺跡」の案内板の裏手に町役場があります。その一角に「橘守部翁生誕の地」の石碑が建っていました。県史跡に登録されているのは、こちらのようです。この碑は、昭和27(1952)年に建立。鈴鹿市出身の歌人佐佐木信綱の賛歌2首「くちせぬ名を国つ学の道の上に残せる大人はこの里そ生みし」「時じくのかぐのこのみのかぐわしきたかき名仰がむ八千とせの後も」が刻まれています。
Img_5874c ちなみに、この橘守部の父親である、庄屋・飯田長十郎元親の墓が、浄泉坊にあります。浄泉坊を出て、誕生地遺跡を見ているときに思い出して、戻ってみてきました。元親は、亀崎、金井などの村々を支配する大庄屋格で、津の国学者・谷川士清の門人であったといわれています。寛政4(1792)年に一揆加担の疑いをかけられ、そのため一家が離散したといいます。
Img_5881c 「橘守部誕生地遺跡」からさらに東海道を上ると、「御厨 小向神社」といImg_5884c う石柱が立つ交差点に出ます。ここで右折(東へ)。少し行くと、朝日町歴史資料館があります。ただ、うっかりして見逃しそうになりました(苦笑)。大正5(1916)年に建てられた旧朝日町役場庁舎で、国の登録文化財にも指定されています。ただし、公開は、木曜・土曜で、今日は見られませんでした。
Img_5911c ここでUターンして西へ約10分。東海道、JR関西線を横切って、小向神社Img_5913c へ。御厨神明社とも呼ばれたといいます。「御厨」は、「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、神饌を調進する場所のことですから、このあたりは神領だったと思われます。御祭神は、右の写真の通りですが、大日霊貴尊は天照大神です。橘守部も祀られています。
Img_5919c 境内は広く、また、木々が鬱蒼としていて、神聖な雰囲気を醸し出していImg_5931c ます。 垂仁天皇の25年、皇大神宮が桑名郡の野代宮から鈴鹿郡忍山へ遷るときの頓宮の跡と伝えられています。「頓宮」とは、仮の宮、一時的な宮のことです。垂仁天皇の第4皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神の御杖代として大和から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされますが、それに因むものかと思います。
Img_5937c 境内には、「皇大神宮遙拝所」という石柱が立っていました。ちょうど伊勢Img_5935c 神宮の方角を向いたと思われるところです。ほとんど余談というか、感想なのですが、この小向神社の拝殿前には、とても大きな灯籠がありました。春日神社の灯籠も大きいのですが、負けず劣らずという印象です。
Img_5944c 神社の掃除をしていらっしゃった地元の女性が、「裏山に登ると、見晴らしがよい」と教えてくださったので、行ってきました。普段、主に平地を歩いていますから、ちょっと苦労しましたが、ご覧のような眺め。四日市市街や、港、コンビナート、ポートビルがよく見えます。帰ってから気づいたのですが、このあたり、小向城があったところのようでした(苦笑)。飯田庄之助の居城でしたが、織田信長に攻められて滅んだところです(1567年)。このあたりから西、今は白梅の丘という住宅団地になっていて、消滅してしまっています。
Img_5966c 次の目的地は、初代森有節の墓です。JR関西線沿いの道に戻り、5分ほImg_5968c ど。名谷(めんだに)公園の中にあります。有節は、萬古焼中興の祖です。ここは、18世紀半ばに沼波弄山によって萬古焼が始められたところです。一時途絶えていたのを19世紀初め、有節がここに窯を構えて再興したのです。実は、ここまで大回りしてきたのですが、有節の墓から右(北)を見上げたら、さっきまでいた小向神社の裏山が見えたのです。そこからストレートに降りてくる道もあります(苦笑)。まぁ、散歩にきたのですから、たくさん歩くのはよいことです。
Img_5972c 有節の墓の横には、「三重県指定史跡 有節萬古窯跡」の説明板があります。有節は、独自の作風を確立し、明治以降、パリ万国博覧会へも出品するなど活躍しました。その技法は四日市萬古などに引き継がれているのですが、桑名在住者としては、萬古焼は、桑名の豪商・沼波弄山が始めただけに四日市が中心になっているのは、ちょっと残念です。
Img_5982c 残りは2カ所。朝日町歴史博物館と、柿城跡。歴史博物館までは、約9Asahimuseum 分。JR関西線沿いをてくてくと歩き、朝日町体育館のところから少し坂を上らねばなりません。ここへは、今年1月24日に来ています(朝日町歴史博物館へ真田信繁(幸村)の書状を見に行く)。今は常設展だけ開催中でしたが、10月28日からは、“開館20周年記念企画展「朝日のいにしえ ―縄生廃寺―」”が開催されますので、見に来ます。
Img_5991c さぁ、いよいよ最終目的地、柿城跡です。ここも実は、2度目。博物館からはImg_5992c 徒歩4分なのですが、標高40mほどの丘陵先端に位置していますので、これまた坂道(苦笑)。トレーニング不足であります。城主は佐脇氏。室町幕府に奉公衆として仕えました。弘治3(1557)年に近江国の戦国大名六角氏によって攻められ、柿城は落城しています。城跡は、現在は公園となっています。
Img_5994c 主郭があったところからは伊勢平野や東海道が一望できます。Img_6004c 戦国時代の城(というか、城館といった方がよいのかも知れません)は、こういう眺めのよいところにあったのだという気がします(小向城跡もそうです)。
Ts3v0113  この後、本来であれば、JR関西線朝日駅に戻るのですが、今日の昼は、Img_6007c 家内と外食することにしており、朝日町歴史博物館に戻って、迎えを待ってクルマで天ぷら兎波へ。味噌天丼をいただいてきました。「おすすめの食べ方」として、半分ほど食べたら、「味噌天茶漬け」にとありましたので、試してみました。味噌は八丁味噌。味噌の味が結構強いので、この茶漬けで食べるというのは、なかなかよいものです。
 余談。今日は、ウォーキングガイドにしたがって散歩してきました。しかし、朝日町には、まだまだ見所がたくさんあります。縄生廃寺跡や、苗代神社、井後神社は是非とも行きたいところですし、東海道沿いには、山口誓子句碑、一里塚跡、小向立場跡、多賀大社常夜灯などがあります。また近いうちに。

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2017年9月21日 (木)

コサメビタキ(?)、ゴイサギ

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 好天で、散歩日和です。8時40分頃から11時半まで、5㎞を歩いてきました。時間が長かった割に距離が伸びていませんが、久しぶりに会った知り合いと話し込んだのと、待望の鳥に出会えたからです。住吉神社から九華公園、寺町と周り、お彼岸ですから桑名別院にお参りしてきました。
Img_3356_800x620 「待望の鳥」と書きましたのは、こちら。コサメビタキかと思うのですが、自信Img_3339_800x620 がありません。エゾビタキではないと思いますが、サメビタキかもしれません。そんな判別に自信がない鳥なのですが、毎年9月頃、短い期間、九華公園や吉野丸コミュニティパークに姿を見せるのです。今日は、九華公園の本丸跡で見かけました。
Img_3249_800x611 そして、今日はゴイサギの姿もありました。いつものように、鎮国守国神社Img_3245_800x535 の社務所の裏です。今のところ1羽だけのようですし、毎日いるかどうかは不明。というのも、ゴイサギは、この気の中に上手に隠れている(堀の対岸からは見えないという意味)ことが多いからです。いつも、様々な位置から、視線の高さを変えたりしてよく見ているつもりですが゙、見逃しているかもしれません。
Img_3212_800x516 さて、散歩の前半、揖斐川の堤防を歩いていましたら、中州の方からダイサギImg_3213_800x566 が1羽飛んできました。旅館・山月の裏あたりに降りたのですが、アオサギがこのようにやってくることは時々あるものの、ダイサギは珍しいことです。
Img_3239_800x533 九華公園の北門あたり。暑い時期には、ドバトもあまりいなかったのですImg_3238_800x533 が、涼しくなったためか戻ってきたようです。べったりと座り込んでいるハトもいますが、これは何をしているのでしょう?
Img_3240_800x573 ハクセキレイも割とよく見かけます。このハクセキレイは、ドバトと同じく、Img_3244_800x546 北門のところにいました。九華公園に常駐するカルガモは、北門近くの堀で、浮かんでいた落ち葉を懸命につついていました。
Img_3312_800x533 ところで、鎮国守国神社の拝殿の裏には、たくさんの彼岸花が咲いてきました。アングルを工夫すると、それなりに撮れます(微笑)。ただ、この間から、鎮国さんの境内、すごいにおいが蔓延していて、参ります(苦笑)。
Img_3315_800x533 その元は、こちら。台風18号の強風で、銀杏がたくさん落ちたためです。Img_3322_800x533 台風直後よりも、日にちがたった今の方が、臭いは強烈です。時期的にも早いのでしょうし、最近は拾う方も減ったと聞きます。拾ったとしても、始末が大変だからでしょう。
Dscn3894_800x600 帰り道、お彼岸ということで、寺町にある浄土真宗大谷派・桑名別院本統寺にお参りしてきました。慶長元(1596)年、本願寺第12代教如上人によって、儀式・聞法の中心道場として開創されたのが始まりだそうです。徳川家茂や明治天皇も宿泊なさったお寺でもあります。
Dscn3886_800x600 パソコン不調のため、回復に時間を要していました。この記事は、9月23日に、21日付で投稿しました。パソコンは、一応回復したように思うのですが、まだ細かいところでいくつか調整などが必要です。パソコンが不調に陥りますと、元に戻すのにかなりの労力が必要となりますので、ガックリします(苦笑)。

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2017年9月14日 (木)

長島で鳥見、歴史散歩……河口堰と、長島城跡、蓮生寺、八幡社へ

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 台風来襲を前に、長良川河口堰他へ遠征であります。夕方の予報では、土Dscn3548_800x600 日が雨のようですし、台風もまともに来そうです。河口堰には9時到着、1時間あまり滞在。カワセミを久しぶりに堰西側で見ました。せせらぎ魚道の上流側から、親水広場に降りるスロープを越えて、揖斐川との中州に飛んでいきました。あっという間で、写真は撮れず仕舞い。それと、例のヤギさん、あの会社の周りを歩いてみましたが、本日は不在でした。
Img_2212_800x560 河口堰の東側にいたのは、アオサギさん1羽。このアオサギさん、一回りしImg_2349_800x598 て戻ってきたら、楽しませてくれました。先にその話題から。右のように、一段降りて、覗き込んでいました。「位置について、ヨーイ」という感じでした(微笑)。
Img_2350_800x563 期待に違わず、ダイビングしてくれました! 今シーズン初のダイビングシImg_2351_800x551 ーンであります。といいながら、右の写真を見ますと、足が付くところで、頭を長良川に突っ込んだということのようでした。
Img_2352_800x572 やや遠くて(かなりトリミングしています)、首尾がどうだったかよく分かりません。しかし、何となくではあるものの、獲物はあったような感じがします。
Img_2223_800x574 河口堰西側。いつもの閘門へのアプローチには、ダイサギ1羽と、カワウImg_2225_800x592 が計9羽。そこへ、別のダイサギが飛来。右の写真は、この場所へ着地寸前の様子。先日も着地シーンを載せましたが、サギたちのこの場面、なかなか興味深いものがあります。
Img_2241_800x546 西側の魚道、上流。アオサギが1羽。今日見たアオサギは、合計4羽。たImg_2243_800x547 だし、このアオサギさんも、かなり離れていたものの、このあとすぐに逃げられました。右は、その逃げた先での様子。閘門へのアプローチ、上流側のところです。
Img_2233_800x607 ハクセキレイは、この頃、河口堰でよく見られます。今日も管理橋の上Img_2325_800x610 や、堰西側あたり、親水広場で何羽も目撃。イソシギは、閘門のところで見かけました。イソシギもいつも、逃げ足が速いのです。
Img_2309_800x577 こちらは、揖斐川の方から飛来して、閘門の上流側に降り立ったアオサギさん。親水広場の東側。西側にいたのですが、大急ぎで回って、写したもの。しかし、これを撮った直後、逃げられました。全く、どうしようもありません。
Img_2249_800x590 アオサギがやってくる直前、猛禽類の姿が。トビかと思ったのですが、違うかも知れません。管理橋の上空を悠然と旋回しつつ、次第に下流方向へ飛び去りました。
Dscn3567_800x551 さて10時過ぎからは、長島町内歴史散歩(微笑)。やすらぎパーク駐車場にクルマを入れて、長島城跡と、蓮生寺へ。
Dscn3579_800x600 長島城の跡は、ほとんど遺構はありません。長島中学校と長島中部小学Img_2371_800x545 校になっています。ただ、長島中部小学校の敷地内には、本丸の南西隅にあった樹齢300年以上の黒松が今でも城郭の名残として、その威容を誇っています。
Dscn3583_800x600 長島城は、文明年間(1469~87)に伊勢国安濃郡の長野氏一族といわれる伊藤重晴が築城したと言われます。その後、長島北部にあった願証寺が浄土真宗の一大拠点となり、伊藤氏は滅ぼされ、長島城も願証寺の支配下に入ります。長島一向一揆の際には、織田信長に攻められ、破れます。その後、菅沼氏、松平氏が藩主となった後、元禄15(1702)年に増山正弥が藩主になってからは、明治維新まで増山家が支配しました。
Dscn3600_800x567 長島城の遺構はないと書きましたが、近くの蓮生寺(長島町又木)には、Dscn3606_800x600 大手門の一部が山門として使われています。蓮生寺第十一世賢道のとき(明治9(1876)年)に払い下げを受けたものです。旧大手門より縮小されているようです。
Dscn3587_800x600 長島城跡に立つ長島中学校、なかなかおもしろい意匠で建てられていまImg_2377_800x533 す。左は、門。まるで城の大手門のようです。右は、校舎の一つ。何だか、お城の天守閣のようにも見えます。勉強するにも気分が違うかも知れません。この他、近くにあった正敬寺、花林院なども見てきました。
Dscn3624_800x600 帰り道、もう1ヵ所立ち寄ってきました。長島最古の神社である八幡神社Dscn3626_800x600 です。今日・明日が例祭。以前箱の冷菜に合わせて奉納されていたようですが、獅子舞神事があるのです(今は、9月の第3土・日)。
Dscn3631_800x600 この神社は、寛元3(1245)年に藤原道家が勧請したと伝えられていまDscn3635_800x600 す。歴代長島城主からも武神として崇敬されていたそうです。獅子舞は、元禄12(1699)年に北島村の氏子によって始められたといいます。一度見てみたいと思うのですが、土・日は台風18号の襲来と重なりそうです。

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2017年4月11日 (火)

明日から「新学期」……専正寺の「蛤墳」についても

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 夜には上がるという予報ですが、朝から終日雨です。ホームセンターかどこかへ行って歩くという手もあるのですが(笑)、明日から小生にとっては新学期ですので、その準備などをして過ごしていました。というのも、明日から7月末まで、15回にわたって、毎週水曜日に1コマだけ、津市の江戸橋あたりへ非常勤で講義に出かけるのです。昨年度前期に引き続いてですが、今年度も依頼があったということは、昨年の授業では特段の不始末はしでかさなかったということでしょう(笑)。冗談はともかく、授業の資料は、昨年のものを何度か見直し、加除修正をほぼ終えています。
Dscn7759_800x592 出講先の短大、今日までオリエンテーションなどがあり、明日から授業開始です。昨年の例では、受講生は、1年生が2/3以上でした。授業は、1コマ90分。高校の授業はおそらく1コマが45~50分というのが多いと思うのですが、1年生の皆さんにとっては、それがいきなり倍というのは大変かも知れません。まぁ、明日の小生の授業では、オリエンテーションをした後、「自己理解の演習」ということで、自分自身の社会的スキルを知るための質問紙を行うつもりですから、何とか頑張ってもらいたいと思っています。
Dscn7463_800x537 さて、散歩にも行っていませんので、持ちネタから、近所にある専正寺の蛤Dscn7462_800x600 墳について書くことにします。専正寺は、桑名市今中町にある浄土真宗本願寺派のお寺。三龍山専正寺。寛永4(1627)年に「称念寺」として創建されています。承応元(1652)年、藩主松平定良公から境内地の寄付があり、その時に「正念寺」と改名しました。戦災にて焼失後、昭和22(1947)年に専久寺と合併して「専正寺」となっています。
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Dscn7467_600x800  この専正寺に「蛤墳(こうふん)」(市指定文化財)があるということは、桑名に来てすぐの頃から知っていたのですが、訪れたことがありませんでした。山門をくぐって、正面やや右手にありました。勝手に、もっと大きくて立派なものを想像していましたので、ちょっと拍子抜け。失礼な感想であります。
Dscn7471_800x600 蛤墳が造られたのは、文政6(1823)年です。このあたりは当時、今一色と呼ばれ、漁村でした。付近一帯にたくさんの貝殻が埋もれていたため、今一色に住んでいた谷氏が蛤供養のため、正念寺にこの蛤墳を建てました。大正12年(1923)には、時雨蛤業者によって建て替えられ、現在に至っています。
 この蛤墳の碑文は、桑名の狂歌師・黒沢行業(一雲山人)が書いています。行業は、奥平松平家の家臣。行業の息子は、国学者・歌人として知られた翁満(おきなまろ)です。
あまおふねのりのみ声にはまぐりの貝の耳にもとめてしのばむ
 ところで、このときはまったく失念していたのですが、専正寺には、あの鳥居強右衛門(とりいすねえもん)一族の墓7基もあったのです。不覚でした(苦笑)。もっともこういうことは、最近、たびたびです(爆)。
 鳥居強右衛門は、奥平家の家臣で(陪臣であったとも言われます)、戦国時代の足軽です。名は勝商(かつあき)か、とされています。強右衛門が、有名になったのは、天正3(1575)年の長篠の戦いの時です。
 強右衛門は、天正3(1575)年、長篠の合戦の前哨戦で、長篠城が武田勝頼の大軍に包囲された長篠城から脱出し、援軍依頼の使者の役割を果たし、帰陣の寸前で捕らえられました。そのとき、徳川・織田の援軍が来ることを大声で叫び、城内に告げたため磔刑(たっけい)に処せられていますが、結果的にこれが織田・徳川連合軍の大勝の大きな要因となったのです。この功績により、強右衛門の子・信商が、千石を与えられ、奥平家の重臣になっています。この逸話については、池波正太郎が、「炎の武士」(角川文庫)に書いています。
 詳細は、割愛しますが、松平(奥平)忠雅が宝永7(1710)年に備後国福山から桑名藩へ移封となり、鳥居強右衛門の子孫6代目強右衛門清商(きよあき)も桑名へ移りました。鳥居家の墓所は、最初は藩主ゆかりの桃林寺にあったのですが、松平家が忍藩に移封後は、真如寺が墓地を管理。それ以後、日進学校の拡長、都市計画などで無縁墓地となってしたのですが、戦後、この7基は奇特の人の世話で専正寺へ移ったといいます。専正寺に7代商宥、9代商義、10代商寿、11代商正などの墓碑が現存しているそうです。
 強右衛門一族のお墓も、今度尋ねて来ようと考えています。

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2017年1月25日 (水)

今日も蟄居……正受老人の「一日暮らし」が気になる

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 今日5時過ぎの夕景です。17時過ぎ。太陽が鈴鹿の山並みに沈んだ直後です。なかなかよい景色だと思い、コンデジで何枚か撮った内の1枚です。昨日出かけたのがよくなかったのか、まだ風邪気味です(苦笑)。今日は、終日、蟄居です。
 来月依頼された講演の準備をしたり、論文や、捕物帖などを読んだりして過ごしておりました。論文と捕物帖を並べてはいけないかも知れませんが……(苦笑)。
Shoujuroujin_748x303 今日読んでいた中に、この昨日の中日新聞の切り抜きがありました。「今週のことば」というコラムで、正受老人(道鏡慧端)の「一日暮らし」という言葉が取り上げられていました。
 正受老人というのは、不勉強にして知りませんでしたが、道鏡慧端(1642-1721)の通称です。道鏡慧端は、江戸時代前期-中期の僧で、松代藩主真田信之の子です。つまり、あの真田信繁(幸村)の甥。白隠禅師の師でもあります。信濃飯山に正受庵をむすび、修行に専念し、享保6年10月6日に80歳で亡くなられています。
 「一日暮らし」とは、千年万年の始めである一日をよく暮らすようにしていると、その日は充実したものとなり、それは一生をよく暮らすことにつながるといった意味です。飯山市教育委員会から「正受老人物語」が発行されており、その概要がこちら、龍雲寺のブログで読めます。

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2016年11月 2日 (水)

九華公園にユリカモメ、ツツドリらしき鳥も……住吉入江でカイツブリの漁

Img_9525_800x533_2  九華公園にユリカモメがやって来ました。「冬の使者」の代表といってよいImg_9447_800x579_2 でしょう。今日は2羽が、10時半すぎに二之丸堀の東側に登場。去年は、10月24日に初めて1羽が飛来。次は、11月16日でした。

Img_9416_800x586_2  早速、いろいろなシーンを撮ることができました。やはり鳥は、飛んでいるImg_9481_800x533_2 ところが美しいですねぇ。ほれぼれします(自分の写真にではありません。鳥の方にです)。

Img_9412_800x533_2  キンクロさんたちに混じって餌をもらっていましたが、ユリカモメの方が運動能力が高く(ユリカモメは、浮いていてもそこからすぐに飛べますが、キンクロさんたちカモは、助走を付けないと飛べません)、ユリカモメが餌を独占してしまいます。

Img_9562_800x533_2  今日は、もう一つよいことがありました。九華公園の外周遊歩道東を歩いていたら、目の前にこの鳥がやってきました。最初は、ヒヨドリかと思ったのですが、ヒヨドリよりはかなり大きく、カッコウの仲間のツツドリかなと考えています。夏鳥で、秋の渡りの時には、市街地の桜の木などにやってくるとありました。

Img_9564_800x551_2  追いかけたのですが、結局、北側の野球場を越えて飛んで行ってしまい、あまりはっきりした写真は、撮れませんでした。

Img_9280_800x547_2  さて、ここからは時間的順序に沿って行きます。住吉水門の内側には、カImg_9304_800x566_2 イツブリと、オオバンが1羽ずつやって来ていました。珍しいシーンが撮れました。右の写真をご覧ください。魚を捕らえたところです。初めて見ました。カイツブリの体の大きさに比べ、かなり大きな魚を捕まえるものだと感心します。もう少しクリアに撮れていればよかったのですが……。

Img_9299_800x604_2  オオバンは、冬になるとここ住吉入江や、七里の渡し跡などにも姿を見せます。今日は、住吉水門の内側にある浮き桟橋のところで、桟橋についた藻のようなものを啄んでいました。

Img_9317_800x521_2  住吉神社前から見える、揖斐長良川の中州。今日はアオサギは7羽。拡大していただいても、よく分からないとは思いますが、自分の記録のようなものです。ご容赦ください。

Img_9345_800x540_2  九華公園のカモたち、今日は、合計47羽と、昨日に比べやや少なくなってImg_9353_800x545 いました。キンクロさんが44羽。ハシビロガモが2羽(オス、メス1羽ずつと見えました。右の写真)。そして、ホシハジロのオスが1羽(左の写真)。

Img_9371_800x583  ナナちゃんのお父さんから(この方も鳥好きでいらっしゃいます)から、「コImg_9383_800x607 ガラの群れがいた」という情報をいただいたのですが、見つからず。代わりにシジュウカラと、メジロ。曇天になって、証拠写真(苦笑)。

Img_9507_800x595  公園内の野球場では、フェンスの上にハクセキレイが1羽。グラウンドにImg_9537_800x554 は、セグロセキレイ。これらの他にも、ハクセキレイが2羽、戯れながら飛んでいました。

Img_9552_800x597  野球場の東側のフェンスには、メスのモズ。九華公園では久しぶりにモズImg_9571_800x611 の姿を確認しました(鳴き声はしていたのですが)。また、久しぶりといえば、ジョウビタキのメス。外周遊歩道の東の電線の上。ツツドリらしき鳥を追いかけて、少し戻ったところで発見。

 だんだんと冬の役者たちがそろってきて、散歩が楽しみになります。

Img_9605_800x577  散歩は、9時半から12時。ちょっとした用事で遅くなりました。住吉神社かImg_9613_800x542 ら九華公園、京町、寺町と回り、もう一度住吉水門の方へ(オオバンや、カイツブリがまだいるか、見に行ったのです)。5.8㎞。帰りがけに立ち寄った住吉入江にて、ハクセキレイ2羽。左のハクセキレイ、やたら白いような気がします。下から見上げたからかも知れません。

Img_9615_800x538  諸戸氏庭園の東側、桑名七里の渡し公園との境にある電線には、よくカImg_9620_800x598 ワラヒワや、キジバトがいます。時にはモズが止まっていることもあります。


Img_9406_800x533  九華公園で巣作りをしていたコゲラ、日曜日から姿を見ません。これだけきちんとした巣穴を作ったのに、どうしたのでしょう? 鳥の行動、よく分からないことがたくさんあります。

Img_9603_800x533  余談であります。10月31日の中日新聞朝刊の「くらし歳時記」に「菩提樹の実」という記事がありました。「菩提樹の苞がプロペラのようにくるくる回り、種を運んでいる」というのが、気になって、寺町の桑名別院で見てきました。が、ご覧のように、実がなっているだけ。風もあまりありませんでしたし、また見に行こうと思っています。ちなみに、お釈迦様がその下で悟りを開いたというのは、印度菩提樹で、日本にある菩提樹とは違うのだそうです。

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2016年10月20日 (木)

九華公園にはホシハジロのオス登場……吉津屋堀で大きなカニ(いったい誰ぁれ?)

Dscn0516_800x600 最低気温20℃、最高気温28.1℃だそうです。道理で朝から「ちょっと暑いDscn0543_800x599 な」と感じるわけです。明日の朝は、気温が下がるそうですから、風邪を引かないようにしなくてはなりません。冒頭の写真は、諸戸氏庭園の煉瓦蔵。手前は、桜の木。土手の雑草はいただけませんが、好みの景色。今日は8時半から11時過ぎまで6.0㎞も歩いてきました(苦笑)。いつもの住吉神社から九華公園、貝塚公園のあと、吉津屋町あたりから旧東海道をちょっと南に下って、吉津屋見附跡まで足を延ばしてきたからです。右の写真で、「現在地」とあるあたりまで。ここは、旧東海道が、枡形になっています。その後は、吉津屋堀、寺町とたどってきました。

Img_6559_800x601  今日はまず、こちらから。九華公園の堀にホシハジロのオスが1羽、登場しImg_6584_800x553 ました。ただし、昨日いたオナガガモのメスと思われるカモは、不在。ハシビロガモのメスは、今日もいてくれました(右の写真)。

Img_6515_800x533  この2羽を含み、今日の九華公園には、カモは計16羽。当初は、二之丸堀Img_6540_800x532 の東西に分かれていましたが、グループは適宜離合集散するようです。左は、吉之丸堀の西、神戸櫓の下にいたキンクロさんたち。この近くにハシビロガモのメスもいました。右は、東屋の東にいたカモたち。この中にホシハジロのオスがいます。

Img_6479_800x586  さて、アオサギさんを何羽か見ました。左の写真は、川口水門(七里の渡し跡のところ)の上流側にいたアオサギさん。住吉水門のところから撮ったもので、200mほど先。この他、住吉神社の前の中州にもアオサギが3羽いるのが見えました。

Img_6490_800x532  吉之丸コミュニティパークの西側、水門近くにも1羽のアオサギ。そっと近Img_6494_800x533 寄ろうとしたのですが、30mほどの距離があったにもかかわらず、逃げました(笑)。揖斐川を越えて、長良川との中州方面へ飛び去りました。

Img_6505_800x552 九華公園、鎮国さんの社務所の裏の、いつもの場所にもアオサギさんがImg_6507_800x537 いました。ここに来るアオサギはいつも同じ個体のように思えます。興味、見ていたほとんどの時間、身繕いに費やしていました。

Img_6475_800x573  今日は、モズも、諸戸氏庭園の東や、六華苑入り口のイチョウの木、また、九華公園でも2箇所で見たのですが、残念ながら、きちんとした写真は撮れず仕舞い。左は、六華苑入り口のイチョウの木のてっぺんにいたモズ。100数十m先ですから、そもそも250mmズームでは撮れません。

Img_6467_800x546  代わりに、スズメさん。住吉神社のあたりにはいつもスズメがいます。普Img_6470_800x560 段は滅多に撮らないのですが、今日は気になって撮ってきました。休憩所や、案内板の上で遊んでいるところです。

Img_6484_800x570  川口水門に来たハクセキレイ。もう1羽やって来たのですが、そちらはピンぼけ写真(苦笑)。貝塚公園では、ヒヨドリなどはいたものの、これという鳥はいません。

Img_6615_800x580  ところで、吉津屋堀で、こんな大きなカニを見つけました。モクズガニかとImg_6629_800x532 思ったのですが、そうであれば、体長はせいぜい数㎝。ちょうど流れてきた落ち葉の何倍もの大きさがありました。ガザミでもありません。いったい誰なのでしょう? よく分からないこと、知らないこと、この年になっても多々あります。もう少し調べますが、ご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示ください。

Img_6645_800x532  オマケは、御坊さん(桑名別院本統寺)の山門前でとった落ち葉などの写Img_6649_800x533 真。ここにはソメイヨシノの木が何本かあります。夏は涼風が通り過ぎ、これからの時期は日だまりになり、一休みに好適な場所です。

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