寺院

2020年11月 8日 (日)

20201108JRさわやかウォーキング「蟹江町を散策。寺社・史跡巡り」へ(完)

1108kanie

 新型コロナウィルス感染症のため、2月からJRさわやかウォーキングも、近鉄ハイキングも中止になっていましたが、11月に入ってどちらも再開。ただし、近鉄ハイキングはイベントタイプのものはまだ行われず、常設コースに近い形。JRさわやかウォーキングは、感染症対策を施して、3密にならないよう配慮された、イベントタイプで行われるようになりました。ほぼ9ヶ月ぶりに参加(微笑)(近鉄ハイキングは、2月9日以来:20200209近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 早川酒造部『天一』」へ(完);JRさわやかウォーキングは、2月2日以来:20200202JRさわやかウォーキング「~新春キャンペーン~令和2年2月2日に、津の真ん中ウォーク 藤堂高虎ゆかりの地と日本三観音『津観音寺』を訪ねて」へ(予告編))。

Img_9465c_20201108162201  今日のJRさわやかウォーキングは、JR関西線蟹江駅がスタート&ゴール。受付は、8時半~12時。桑名駅を9時2分に出る名古屋行き普通に乗車。蟹江駅には9時21分着のところ、3~4分遅れ。¥240。蟹江のウォーキングは、去年11月3日にも開催され、参加しています(2019年11月3日:20191102JRさわやかウォーキング「老舗酒造『甘強酒造』の蔵開きと蟹江うまいもの巡り」(予告編))。

Img_9473c_20201108162201  駅前でコースマップ(冒頭の画像)と、「第3回蟹蟹フェア」のチラシを受け取ります。そして、久しぶりに「JRさわやかウォKanikani3 ーキング スタート」の看板を見られました。蟹江町のキャラクター「かに丸くん」がポーズを取ってくれます。受付開始から1時間経っていますが、参加者はコロナ以前よりも少ない印象があります。

20201108jrwalkingkanie  こちらは、今日歩いたルートの全体マップ。コースマップ上、7.8㎞となっていましたが、実際に歩いたのは、8.5㎞(実は途中で少しだけショートカットしているのですが)。蟹江でのJRさわやかウォーキングに参加するのは、上述の去年11月の他、2018年3月4日にも来ています(今日は、JRさわやかウォーキング「老舗造り酒屋できき酒と蟹江のまちを散策」へ(予告編))。それ故、3回目でかなり馴染みがあります。ほとんど訪ねたことがあるところですので、今回は1回完結の記事。

20201108jrwalkingkanie1  こちらは、コース前半部分の詳しいルートマップ。JR蟹江駅から南へ。蟹江城跡、蟹江神明社から、お楽しみの甘強酒造、銭洗尾張弁財天富吉神社にお参り。蟹江川を越えて、まちなか交流センター「楽人」、尾張温泉かにえ病院のところにある「足湯かにえの郷」と周り、JR関西線を越えます。

Img_9486c_20201108162201  蟹江駅前通に神社があったのですが、社号標も説明板もありません。ネットの地図にも載っておらず、不Img_9489c 明。三重県の神社については、「神社検索(三重)」というサイトがあって便利なのですが、これの愛知県バージョンはなさそう。右の写真は、駅前公民館の東あたりの様子。

Img_9499c_20201108162201  最初の立ち寄り先は、蟹江城跡。蟹江城は永享年間(1429年頃)、北条時Img_9505c_20201108162201 任(ときとう)が城塞を築いたのが初めといわれます。戦国時代には、本丸、二の丸、三の丸の三郭(さんかく)がありましたが、天正12(1584)年に起きた蟹江合戦と翌年の大地震(天正大地震)で壊滅しています。城跡の西、30mのところにで蟹江城本丸井戸跡。細い路地の、民家の軒先にあります。江戸時代の蟹江本町村絵図にも、ここに「古井」と記されています。この井戸跡が、蟹江城がここにあった証拠と考えられています。

Img_9507c_20201108162201  蟹江城本丸井戸跡のすぐ西には、秋葉社があり、氏子の方々が清掃奉仕をしていらっしゃいました。この秋葉社も、ネットの地図にも載っていませんし、ネット検索しても情報は出て来ません。しかし、地域の方が大事に守っていらっしゃる神社と思いました。以前のハイキングでも感じたことですが、蟹江のあたりには、秋葉社がたくさんあります。江戸時代に、火災予防のために祀ったのかも知れません。

Img_9532c_20201108162301  蟹江川沿いを歩いて、蟹江神明社へ。永享年間(1429~1441年)、北条時任が蟹江城築城の際、城の本丸Img_9518c_20201108162301 南の守護神として清洲から御薗神明社を迎えて祀ったのが始まり。天正12(1584)年、蟹江合戦で兵火に遭い、すべてが焼失し、元和5(1619)年に社殿を再興しました。御祭神は、天照大神。

Img_9535c_20201108162301  蟹江神明社の東隣には、「東照山」と山号のあるお堂と、地蔵堂がありますが、これもよく分かりません。「分からないのに何故書くのか?」と思われるでしょうが、その昔、研究者の端くれでした。研究をする上では、何が分かって、何が分からないかを区別しておくことが大切ですし、必要なのです。ひょっとしてご存じの方もいらっしゃるかも知れませんし、教えていただける可能性もゼロではないからなのです。

Img_9543c_20201108162301  続いて、私にとって、今日の最大の目的地・甘強(かんきょう)酒造。左の写真にある旧本社事務所の建物は、昭和12(1937)年建築で、登録有形文化財。味醂、清酒などをつくっておられます。去年11月にも来ています。

Img_9556c_20201108162301 Img_9558c_20201108162301  試飲を楽しみに来たのですが、去年同様、ミニカップでした(微苦笑)。名古屋正宗(本醸造)、いっこく(純米吟醸)(甘強酒造の日本酒のリストはここ)、里香梅 紅麹梅酒、味醂などから選べました。いっこくをいただいてきました。お願いすれば、他も試飲できそうでしたが、時節柄、自粛(苦笑)。

Img_9566c_20201108162301  直売も行われていましたが、今年はセット販売のみ。いっこく、名古屋正宗、あまさけの3本セット(いずれも350ml)を¥1,000でお買い上げ。¥3,000以上買うと、記念品(アルコール カンキョウ77:消毒用エタノールの代用品として、手指消毒に使用可能なもの。飲めませんし、火気厳禁だそうです。左の写真で右端に写っているのがそれ)がいただけ、抽選もできたのですが、さすがに荷物になりますからパス。

Img_9580c_20201108162301  甘強酒造さんの構内にも「蟹蟹フェア」の会場が設けられていました。かにかまの天ぷら、かにかま寿司もあったのですが、Img_9577c_20201108162301 気になったのは魚屋バーガーの蟹コロバーガー(蟹みそ入り)、¥600。「限定50食」とあって、並んでいる人もあり気になります(微苦笑)。元来、行列は大嫌いなのですが、さほど並んではいなかったので、少しだけ我慢。今日の昼ご飯にしようという算段(微笑)。これで、土産も買い、昼ご飯も用意しましたので、安心して歩けます。

Img_9598c_20201108162301  次に立ち寄るのは、銭洗尾張弁財天富吉神社。ここも、たぶん3回目の訪問。尾張で唯一の銭洗弁財天です。Img_9596c_20201108162301 室町時代、永享年間、北条平八郎時満が蟹江城を築くにあたり神のご加護を頂くため、鎌倉より銭洗弁天を勧請し、黄金の井戸銭洗いを造り、その浄水で軍資金を洗い、この福銭をもって蟹江城を築城したと伝えられています。さすがにお札を洗うのは、憚られましたし、大金はありませんので、持っているだけの小銭を洗ってきました。

Img_9621c_20201108162401  蟹江川を渡り、蟹江町役場、蟹江町体育館の前を通って、スタートから2.7㎞ほどで、まちなか交流センター「楽人」。カワラケツメイ茶のサービスがあるということでしたが、よく分からず、通過。カワラケツメイ茶は、健康茶として飲まれているようです。あとで訪ねた蟹江山龍照院でも、提供されていました。

Img_9630c_20201108162401  尾張温泉かにえ病院に行くまでの道路の歩道に写真のようなものがあるのを見つけました。「大相撲ストリート」といって、ここ尾張温泉通りに、二子山部屋・高砂部屋の力士16名の足型が路上に設置されていましImg_9634c_20201108162401 た。貴乃花、若乃花、朝青龍などの足型もありました。

Img_9637c Img_9646c_20201108162401  尾張温泉かにえ病院のところには、「足湯かにえの郷」。源泉掛け流しの足湯で、無料で利用できます。ウォーキング参加者でも足を浸している方もありましたが、今日は、21℃を超え、この時期にしては少し暑いくらい。なので、パス。

Img_9649c Img_9656c_20201108162401  蟹江のハイキング・ウォーキングは3回目と思いますが、西の方に来たのは初めて。帰ってから地図を見て、ホントに尾張温泉近くまで行ったんだと実感。しかし、温泉には立ち寄りません。北上してJR関西線を越えます。右の写真は、JR関西線を越えたあたりの公園のそば。マップで「今西3」とあるあたり。この先に八幡神社や、地図にはありませんが、松秀寺があり、立ち寄ってみたいとは思いつつ、先を急ぎました。

20201108jrwalkingkanie2  詳しいルートマップは、その2へ。スタートから6㎞ほど、須西小学校のところで、再び蟹江川沿いを歩きます。この先に観光交流センター「祭人」。そのすぐ北東に富吉建速神社・八剣社と、蟹江山龍照院。ここが最後の立ち寄りスポット。龍照院を出てからは、1.3㎞ほど歩いてゴールのはつらつ公園へ。コロナの関係で、ゴール受付はあるものの、参加証へのスタンプ押印はなし。はつらつ公園から蟹江駅までは約300m。

Img_9678c_20201108162401  途中、割愛して、観光交流センター「祭人」。ここは大賑わい。ユネスコ無形文化遺産「須成祭」の展示もありますが、それImg_9681c_20201108162401 は以前見たのでパス。去年も買ったのですが、蟹江の味彩もへのさんが出展していたので、「蟹タクちらし」(¥300)をゲット。去年11月のJRさわやかウォーキングのとき、「小腹が空いていませんか?」と売り込まれ、思わず買っしまったのが、とても美味しかったのです。ただし、これ、今日は土産にするつもり。

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 「祭人」では蟹タクちらしを買っただけで、富吉建速神社・八剣社、蟹江山龍照院へ。本来設定されたコースでは、御葭橋まで戻って、蟹江川を東に渡って行くようになっていたのですが、ショートカット(苦笑)。割とマジメだと自認しているのですが、そこまで堅くはありません(微笑)。

Img_9694c  まずは、富吉建速(とみよしたけはや)神社・八剣(はっけん)社にお参り。両社とも、天平5(733)年に創建、木曽義仲が再建、織田信長が社殿を造営したといわれます。須成祭は、この両社の祭礼とImg_9699c_20201108162401 して行われる川祭です。津島神社の天王祭りと似たお祭です。

Img_9705c_20201108162401 Img_9708c_20201108162401  両社の北に蟹江山常楽寺龍照院真言宗智山派のお寺。天平5年に行基菩薩によって、本尊に十一面観世音菩薩を奉安し創建されたといわれています。御本尊十一面観世音菩薩像は、寿永元(1182年)年、仏師僧教円によって造立されたといい、国の重要文化財となっています。今日は、特別にご開帳があり、拝観してきました。

Img_9735c_20201108185501  境内には、大日如来堂があり、木曾義仲の菩提を弔うために巴御前が安置したといわれる大日如来坐像があります。巴御前は、木曾義仲とともに幼少のころから生涯をともにし、木曾義仲が平家追討の兵を上げたとき、義仲に従って上洛した女性です。義仲の妾(しょう)とされ、元暦元(1184)年1月、近江粟津の戦では敵の首をねじ捨てるなどの活躍をしたのですが、死を覚悟した義仲の命令で戦場を離脱しています。巴御前は、故郷の信濃に向かう途中義仲が建てた寺があることを知り、出家、剃髪し義仲を弔ったという話があり、それがここ常楽寺龍照院だといいます。

Img_9722c  龍照院にお参りしたら、お下がりだということで、飴とポケットティッシュをいただいてしまいました。実Img_9719c は、銭洗尾張弁財天富吉神社で洗った小銭しかなかったので、お賽銭を上げず、拝んだだけなので、気が引けました(苦笑)。

Img_9725c  旧・須成村は、新撰組隊士・佐野七五三之助(さのしめのすけ)の出身地だそうで、境内にはその展示パネルがあり、「かにえボランティア夢案内人」の方が出て、説明をしておられました。佐野七五三之助は、天保5(1834)年、尾張国海部郡須成村の神職、寺西伊予守家班(いよのかみいえのり)の嫡子として誕生。嘉永3(1850)年、父が死去したImg_9728c 後、尊王攘夷を志し、名前を佐野七五三之助と改め、江戸へ向かい、北辰一刀流を学び、元治元(18649年、30歳のとき、新選組の隊士となり京へ行きました。慶応3(1867)年、新選組総員の幕臣取立に抗議し、新選組からの離脱を企てたものの挫折。京都守護職邸で仲間3人とともに自刃。ほぼ即死状態だったといわれる状況で、遺体を運ぼうとした新選組隊士に自分ののどに刺さっていた小刀で斬りかかったといいます。驚いたほかの隊士によりわき腹にとどめを刺されたのですが、屯所に運ばれる途中にも、息絶えたはずの佐野が、縛られていた縄を噛んだといい、隊士たちを仰天させたという壮絶な最後が伝わっています。京都・光縁寺に埋葬されています。享年34。明治2(1869)年、故郷須成村に伝えられ、神葬祭が営まれ、須成天王橋西に墓があります。佐野七五三之助の甥(妹の子)が、第24代内閣・総理大臣加藤高明

Img_9770c_20201108162501  これですべて回りましたので、ゴールのはつらつ公園に向かいます。龍照院からは1.3㎞ほど。11時42分に到着。ゴールにImg_9778c_20201108162501 は、いつものJRさわやかウォーキングのゴールパネル。これを観たのも9ヶ月ぶり。

Img_9784c  はつらつ公園では、甘強酒造さんでゲットしてきた蟹コロバーガーを食べることに。昼食という次第。美味しかったのですが、味が淡泊で、ちょっともの足らない気もしました。蟹みそも入っているということでしたが、よく分からず。バンズは、「全粒粉入りオーガニック」ですから、健康志向のバーガー。味が薄いのもやむを得ないか?

Img_9801c_20201108162501  ゴールのはつらつ公園から蟹江駅までは約5分。11時55分に到着。蟹江駅までが、8.5㎞。割とよく歩いていました。12時ちょうどに四日市行き普通電車があり、それに乗って桑名まで。12時16分着。

Img_9823c_20201108162501  今日のALKOOのデータ。17,066歩。JRさわやかウォーキングで歩いたImg_9824c_20201108162501 のが、8.5㎞。桑名駅往復が2.2㎞。合計10.7㎞を歩きました。JRさわやかウォーキングは、コロナで中断していましたので、スタンプの有効期間は、1年延長されます。スタンプ、今日で6個目。延長のお陰で有効期間はまだ1年以上ありますから、10個はクリアできそう。

Img_9817c_20201108162501  蟹タクちらしは、晩ご飯の時に家族でシェア。甘強酒造で買ってきた土産から、「名古屋正宗」を晩酌に(微笑)。酒蔵に行ったのも、2月9日に早川酒造部に行って以来(20200209近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 早川酒造部『天一』」へ(完))。次は、11月21日(土)に開催予定の「戦国武将ゆかりの地を眺めながら、岐阜公園を訪ねて」に行きたいのですが、この日は相談会を調整中。

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2020年11月 7日 (土)

20201031「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(いなべ市藤原町山口~阿下喜)」(その2)……浄円寺、御厨神明社、徳円寺、川合神社、春日神社、大西神社を経て阿下喜駅にゴール(完)

201031inabe2  10月31日の「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(いなべ市藤原町山口~阿下喜)」のその2です。その1では、いなべ市藤原町長尾にある猪名部神社までやって来ました。猪名部神社を出てそのまま南東へ向かうべきところを、地図をよく確認しなかったために大回りする羽目に。3人旅もよいのですが、しゃべっているとこういう確認ミスや、見逃しが生じがち。北に向かって、本来のコースから離れたところで県道107号線に出てしまいました。3㎞を過ぎて、員弁街道に戻れ、いなべ市藤原町日内に入っています。

Img_7421c_20201106042001  猪名部神社の近くで、忠魂碑。「陸軍歩兵宮木半十郎之碑」とあります。多少草が生えてはいますが、今でも手入れがされていImg_7423c る印象でした。さらにその近くで、変わった実をつけている草を発見(右の写真)。妙に目立っていますが、ちょっと毒々しい気もします。

Img_7428c_20201106042001 Img_7432c_20201106042001  県道107号線を進みます。3㎞半くらいのところで、北にお寺が見えます。浄円寺。真宗本願寺派のお寺。その隣に御厨神明社。大回りしてしまったあとで、何となくどちらにも立ち寄らず。浄円寺について、ネット検索ではこれという情報はありません。御厨神明社は、勧請年月は不詳。主祭神は、天照大御神。相殿神は、火産霊神底筒之男命中筒之男命表筒之男命大山祇神。「御厨」とありますから、もともと伊勢神宮に関係がある土地なのでしょう。それにしても、底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命はいわゆる住吉三神で、海や航海の神様。どうしてここに祀られているのでしょう。

Img_7440c_20201031192801  御厨神明社を過ぎ、しばらく行くと、員弁街道は県道107号線から東に逸れて行きます。道が分かれるあたりに鳥居が建ってImg_7435c_20201106044601 います。「みえの歴史街道」のマップには、川合と日内の境の鳥居とありましたが、鳥居の傍らには、「式内猪名部神社 従是九」と刻まれた石柱が建っていますというか、「九」以下は埋もれています。猪名部神社までの距離を示しているはずですが、全部見えるようにしておいてもらいたいところ。このあたりからも、藤原岳はよく見えています。

Img_7453c_20201106044701  いなべ市藤原町川合に入ってきました。民家のところに「彰忠碑」。「彰忠碑」という文字は読めますが、Img_7456c それ以外はかなり読みにくくなっています。日清・日露戦争の頃のものかという気がします。その先で、右の写真のようなお宅。これは、そのつくり方からみて、たぶん以前は茅葺き屋根の建物だったのでしょう。その上に覆いを掛けてあります。

Img_7462c_20201031192801  歩き始めて4.4㎞ほどで和田山徳円寺。真宗大谷派。ここも案内板はなく、ネットで調べてもとくに情報は出Img_7469c_20201106050101 て来ません。しかし、境内はなかなかよい雰囲気で、よく手入れされていました。

Img_7471c_20201106050301  徳円寺の先に小学校の跡地らしきところ。昔風の石柱の校門らしきものと、二宮金次郎像がImg_7481c 見えていました。この先で、川合橋で員弁川を渡ります。

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 川合橋を渡ったところに川合神社があります。勧請年月は不詳。神社にあった由緒書きによれば、、この地の住民は、古来尚武の気性に富んでいたこともあって、いつとなく諏訪明神を鎮祀して産土神としていたといいます。応神天皇(誉田別命)は、杉山龍之助という人物が元亀年代(1570年)頃祀ったものの、八幡社は荒廃したため、諏訪明神に合祀したそうです。さらに、伊邪那美尊については、永禄年代(1558年)頃、小寺太郎兵衛という武人が養老郡の和田川原でご神体を拾得し、川合字向沢に一族の氏神として和田明神を鎮祀したとあります。

Img_7490c  上述の経緯があり、主祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと:大国主命の子。武神。諏訪大社の御祭神)。相殿神は、Img_7495c 誉田別命火産霊神、土御祖神(つちのみおやのかみ:伊勢神宮では、外宮所在地・山田の原の地主の神とされるので、川合の土地の神か?)、御饌都神(みけつがみ:天照大御神にお供えする食事を司る神。天照大御神が伊勢に鎮座して約500年後に「御饌都神」として呼ばれたのは、穀物の神である豊受大御神)、大山祇神伊邪那美尊天照大御神

Img_7500c  川合神社には、おもしろい形の燈籠がありました。よくある春日燈籠よりも、「笠」の部分がかなり長いのです。左の写真で手前に写っているタイプは、金山型燈籠というようです。Img_7504c_20201106130501 拝殿の前にも金山型燈籠はありました。もう一つは、右のタイプ。濡鷺型灯籠。火袋に鷺を刻っていることと全体の形から、霧雨の中に立つ鷺のイメージを現しているようです。ただし、サギが彫られているかまでは確認していません。いや、知らないこと、気づいていないことはたくさんあります。

201031inabe3  川合神社のところからは、実測ルートマップはその3になっています。県道107号線からはいったん離れていましたが、川合神社の南、スタートから5㎞の手前で再び県道107号線を歩きます。「志礼石新田」の交差点で行動306号線に入り、下野尻交差点で右折すると春日神社。員弁川が、川合神社の東で大きく曲がって下野尻交差点のすぐ東に流れてきています。

Img_7529c  下野尻交差点を曲がってすぐに春日神社。下野尻の氏神様。勧請年月は不詳。『員弁雑誌』には、「春日大明神 字飯原野に在り、社頭南向、拝殿在り、両野尻の産土神なり、例祭八月一四日、神前の高麗狗古物なり、住古は壮大なる社なりしと云ふ」とあるそうです。桑名の春日神社の分霊を祀っているという話もありますが、神社検索のサイトなどではそういう記述はありません。

Img_7533c_20201031192801  御祭神は、少名毘古那命(すくなびこなのみこと:農業、酒造、医薬、温泉の神)。相殿神は、大山祇神火産霊神、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ:集落や道の要所にすわり、八衢比古神とともに邪神・悪霊の侵入をふせぐ)、久那斗神(くなどのかみ:道の分岐点で、旅人の道中の安全をはかる神)、磐長姫命(いわながひめ:長寿を司る神)、武甕槌神(タケミカヅチノカミ:鹿島神宮の祭神。経津主神とともに、葦原の中つ国に派遣され、国譲りの交渉に成功。また、神武東征においても、天皇の危難を救った)、天児屋根命(アマノコヤネノミコト:天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)、経津主命(フツヌシノカミ:香取神宮の祭神。天孫降臨に先立って、出雲に行き、大己貴命(おおなむちのみこと)を説いて国土を献上させた)、罔象女神(みつはのめのかみ:水の神)。春日神社には、獅子舞があり、例祭に奉納されます。「狂乱牡丹の舞」といわれ、今から300年余り前に江州から伝えられたもの。素朴で幻想的な舞といいます。

201031inabe4  春日神社を過ぎると、実測ルートマップはその4。員弁川を野尻橋で渡ります。野尻橋の手前で歩き始めから6㎞。この辺まImg_7544c_20201106153701 で来ると、藤原岳の見え方も変わってきます。時刻はすでに13時半。鎌田大橋を渡る手前で、猪毛利谷(いもりだに)神社があり、立ち寄ろうと思っていたのですが、M氏が「向こうにうどん屋があるから、あそこで昼飯にしよう、2時を過ぎると昼休憩になって食べるところがなくなる」というので、「うどん釜田」へ。猪毛利谷神社は断念。

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 うどん釜田。昼時は過ぎており、空いていました。広いのですが、落ち着いた印象の店。土曜限定ランチが、¥980とお得でDsc_0019c したから、私は天ぷらランチをチョイス。14時20分、店を出て、釜田川を越え、阿下喜の町へ向かいます。

201031inabe5  ルートマップはその5。大西神社の他、桐林館に立ち寄ることも考えていたのですが、結局、大西神社にお参りしてからは、阿下喜駅にまっしぐら。スタートのタクシーでつまずいたがために、時間が押してしまい、急ぐことになったというワケ。

Img_7577c_20201106155601  大西神社。員弁街道に面しています。勧請年月は不詳。私は、ここには、近鉄ハイキングで一度訪ねています(2018年2月27日:近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(予告編)……マップ上9kmなのに、12.4kmも歩いたお話(笑))。 と、神社検索(三重)によれば、御祭神は、次のリストの通り。創建年は不明ですが、織田信長の時代に阿下喜城主・片山大和守が、諏訪大明神を祀ったのが始まりで、建御名方神及び下照姫命、また、境内社として山神を祀っていたと由緒書きにあります。天保7(1836)年に大西神社となり、明治40(1907)年に諸社を合祀しています。

Img_7561c_20201031200401  御祭神は、建御名方神 (タケミナカタノカミ:大国主命の子。武神。諏訪大社の祭神)、相殿神は、下照姫命(シタテルヒメノミコト:大国主命の娘)、誉田別命(ホンダワケノミコト:応神天皇)、火産霊神(ホムスビノカミ:火の神)、須佐之男命(スサノオノミコト)、大山祇神(オオヤマツミノカミ:山をつかさどる神)、石神(イシガミ:「しゃくじん」ともいう。奇石、霊石を神体とする神)。

Img_7568c_20201031200401  拝殿前の狛犬。「子取り」「玉取り」になっています。時節柄、どちらもマスク着用。ソーImg_7562c_20201106155601 シャルディスタンスを十分にとっています。前足で子供をあやしている「子取り」の子の方もマスクをつけています。大西神社の詳細は、「近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(その4)……メイン会場のウッドヘッドで大ひな壇を見て、12㎞以上、4時間半を歩いた」(2018年3月5日)にありますので、ここでは割愛。

Img_7579c_20201106155601  員弁街道は、大西神社のところで左折し、阿下喜の昔の商店街を東南に直進します。途中、稲垣眼科の近くで忠魂碑。在郷軍人阿下喜分会が、北勢町旧阿下喜地区全戦没者を祀る慰霊碑として建てたもの。「元帥 陸軍大将 子爵 川村景明書」と読めます。川村景明(かわむらかげあき)は、薩摩の出身で、日清、日露の両戦争に従事しています。

Img_7586c_20201106164901  斎藤医院のところで右折し、阿下喜駅に向かいます。途中、街道の西側に、旧・稲垣屋。こImg_7591c_20201106155601 こは、明治31(1898)年、員弁銀行(のちに四日市銀行を経て、三重銀行)を開業し、頭取を務めた阿下喜村の稲垣專八氏の旧宅と思います。続いて、石井書店のところで、員弁街道と巡見道の合流点。前回も見た道標を確認。

Img_7594c  阿下喜駅前の信号のところで、前回十分確認しなかった「牛馬坂」をチェック。この写真に見える道が、おそらく牛馬坂。阿下喜湊・阿下喜駅から北の阿下喜集落の台地に上がる坂を牛馬坂と呼んだそうです。

Img_7247c  15時少し前、ようやく三岐鉄道北勢線・阿下喜駅に到着。朝9時22分にここに着いたわけですから、6時間Img_7597c_20201106155601 近くかかりました(もっとも、朝、スタートしたのが10時15分頃でした)。コースミスを2回ほどしましたが、歩いたのは8.9㎞でした。15時1分発の西桑名行きがありましたので、ジャストタイミング。¥510。

Img_7613c_20201106155601  この日のALKOOのデータ。22,940歩でした。いなべ市で8.9㎞を歩きましたが、自宅から西桑名駅往復は、2.2㎞。合計11.1㎞。

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2020年11月 6日 (金)

20201031「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(いなべ市藤原町山口~阿下喜)」(その1)……いなべ市藤原町長尾の常夜燈、本郷社、円琳寺、東泉寺、長尾廃寺から猪名部神社へ

 10月31日に出かけた「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(山口~阿下喜)」の本編その1です。「みえの歴史街道」にある「濃州道(員弁街道)」を歩くシリーズの最終回。濃州道は、桑名では員弁街道と呼ばれます。三岐鉄道北勢線とほぼ平行に通っています。この街道は員弁郡下から桑名城下へと続く道として発展したもの。3月15日に、桑名市三ツ矢橋から歩き始め(2020年3月15日:20200315「勝手に三岐鉄道ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』」(三ツ矢橋から三岐鉄道北勢線・星川駅)(予告編))、この日は星川駅まで。続いて、3月29日には星川駅から東員駅まで(20200329「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『桑名の員弁街道を歩く』(星川~東員)」(予告編))、夏を越え、10月3日には楚原駅から阿下喜駅(20201003「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」(予告編))と歩いてきました。当初は、桑名市内の街道を歩くつもりで計画したのですが、せっかくだから終点まで歩こうということになったのです。

201031inabe0  この日は、今までのやり方ですと、前回のゴールであった三岐鉄道北勢線阿下喜(あげき)駅から、いなべ市藤原町山口の員弁街道の終点(ここで、亀山からの巡見道と合流します。巡見道は、幕府の巡見使が通った道)までを歩くのですが、そうするとゴールしてからが困ります。阿下喜駅に戻るには、来た道をトボトボ歩いて、倍の距離になります。藤原には三岐鉄道三岐線が通っていますが、その終点の西藤原駅までは、ゴール地点から3.2㎞はあります。そこで、考えた末に、タクシーで終点まで行って、阿下喜駅に戻るルートを採用。同級生K氏、畏友M氏と3人旅。

Img_7226c  天気は良好。三岐鉄道北勢線西桑名駅を8時23分に発車する阿下喜行き普通に乗車。阿下喜までは、20.4㎞。途中には11の駅Img_7230c_20201105045301 があります。単線ですから、何回か列車のすれ違いがありますし、最高速度は45㎞/hですから、阿下喜到着は、9時22分。ほぼ1時間、ガタンゴトンとゆられ、小旅行という感じ。運賃は¥510。途中からK氏も乗込み、沿線風景を眺めながら行きます。M氏とは阿下喜駅で合流。

Img_7235c_20201031192801  阿下喜駅のホームから見える藤原岳(標高1,144m)。我が家からも見えますが、ここまで来ると目の前。駅前にはタクシーImg_7248c_20201031192801乗り場はあるものの、待機しているクルマはなし。やむなく麻生田(おうだ)にある近鉄タクシー配車センターに電話で依頼したものの、「出払っていて、いつ戻るか分からない。『かなりお待ちいただきます』としか申し上げられません」と、好天なのに、いきなり暗雲が垂れ込めたような感じ(苦笑)。

Img_7237c  やむなく、阿下喜駅前で待つことに。駅の南にある軽便鉄道博物館の車両やレールを見たり、私は、上空にImg_7260c 飛んできたトビや、ロータリーの木にやって来たジョウビタキを撮影したりしていますが、タクシーはいっこうにやって来ません。駅前にいなべ市の福祉バス(無料)のバス停があり、目的地の山口を通る「立田線」があるのを発見。「これでいいじゃないか!」となったものの、発車時刻になってもやって来ず。よくよく見たら、「土日祝日は運休」(爆)。よくあるパターン。桑名のコミュニティバスも、日曜は運休。待つことほぼ1時間でやって来たタクシーに乗って、いなべ市藤原町山口まで移動。¥2,990。

Img_7281c  本来であれば、員弁街道の終点はさらに西へ200mほど行ったところですが、目印になるものがありません。そこで、この常夜燈のところで下車。ここから歩くことにしました。集落の入り口にある常夜燈で、「内宮外宮/村内安全」と彫られています。

201031inabe1  こちらが実際に歩いたルートマップの詳細図その1。北側に流れているのは、員弁川。田舎の街道ですから、「員弁街道」などという表示はありませんし、道標も建ってはいません。自作コースマップとGoogleマップ(これには「濃州道」という表示が出るのです)が頼り。しかしながら、円琳寺・地蔵堂の手前で南側の道を歩くところで、直進するというミス(苦笑)。まぁこれくらいはやむを得ないかも知れません。

Img_7287c_20201105060701

 さて、常夜燈の背後(西側)には、忠魂碑が建っていました。「故陸軍軍曹勲七等藤田学之碑」とあります。昭和19(1944)年に建てられていますので、第二次世界大戦に従軍された方のものと思われます。常夜燈の北東にImg_7293c_20201105060701 も、同じように、忠魂碑が3基ありました。「故陸軍歩兵上等兵藤田政治郎碑」「故陸軍歩兵田中鐵治郎碑」などとありました。このあたりの村から出征された方のものでしょう。

Img_7308c  スタートから800mほどのところに本郷社という神社がありましたが、コースマップを描いたキョリ測にはImg_7329c_20201105124501 載っていません。しかし、見つけてしまったからには、立ち寄ります。勧請年月は不詳。樹齢からして数百年以上の歴史を持つと推測されます。従来、天白天神だけが鎮座していたのですが、天保6(1835)年、八幡大神を久保の旧社地から遷し、天保91838)年、天照大神を神明社の旧社地(現在の地蔵堂:あとで訪ねるところ)から遷し、三神宮または三神社と呼ばれたといいます。

Img_7334c Img_7331c_20201105062001  主祭神は、火産霊命(ほむすびのみこと:火の神)。相殿神は、品田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)、天照大御神天白大明神(天白信仰(てんぱくしんこう)は、本州のほぼ東半分にみられる民間信仰。長野県・静岡県を中心とし、三重県の南勢・志摩地方を南限、岩手県を北限としている。様々な研究・解釈が行なわれたが、1980年ころから伊勢土着の麻積氏の祖神天白羽神(あめのしらはのかみ、長白羽神の別名)に起源を求める説が紹介されることが多くなった)、大山祇神(オオヤマツミノカミ:山を司る神)、麓山祇命(はやまつみのみこと:山の麓を司る神)、道反大神(おおみちがえしのかみ:伊弉諾尊が伊弉尊に追われた時、さえぎるために用いた石のことで、道反大神とも呼んだ)、手置帆負神(たおきほおいのかみ:紀伊の忌部(いんべ)の祖。国ゆずり・国土平定の話に登場し、笠づくりの役目をになった)、彦狭知神(ひこさしりのみこと:天照大御神が天岩戸に隠れた時、手置帆負命とともに天御量を作り、材木を切って瑞殿を作ったことによ、木工の祖神とされている)の8柱。ずいぶんいろいろな神様がいらっしゃいます。初めて名前を知った神様も多い。ウ~ン、神社の世界、神様も奥が深い。

Img_7324c_20201105062001  本郷社は、なかなかよい雰囲気の神社。杜も、左の写真のように巨樹からなっています。拝殿、本殿も上の2枚の写真のようImg_7338c_20201105062101 に、木々に囲まれ、厳かな雰囲気が醸し出されています。聖なる空間という感じ。燈籠も苔生していたりして、これもこの雰囲気に貢献している気がします。ということで、なかなかよいスタートを切ることができました(微笑)。

Img_7309c  本郷社のすぐ近くのお宅で、「鍾馗様」を発見。たいていは、屋根の上に鎮座しているのですが、ここは「塀の上の鍾馗様」になっています。K氏も、M氏も初めて見たそうですが、私はずいぶん前から見つけるたびに写真を撮っています。京都で多いそうですが(こちら)、桑名でも時々見かけます。

Img_7301c_20201105124101  本郷社の先、スタートから1㎞を過ぎたあたりで、東南の道に入るべきところを直進してしImg_7356c まいましたが、すぐに員弁街道に戻りますので、まぁご愛敬。田園風景もよい感じ。蕎麦の畑もあちこちにありますが、花の季節は終わり、実がついていました。

Img_7350c_20201105124701  「すばらしきふるさと 白瀨マップ」という大きな看板を過ぎると、員弁街道沿いに地蔵堂と円琳寺。地蔵Img_7358c 堂の詳細は、不明ですが、本郷社の説明板によればここに神明社があったと思われます。地蔵堂の前に立つ石柱には、「地蔵堂再建記念」と刻まれていました。

Img_7362c_20201105125501  地蔵堂の奥、西側にあるのが、青龍山円琳寺(せいりゅうざんえんりんじ)。真宗大谷派のお寺。門は、石の柱が立っており、さらに、鳥居かと見まごうようなものがついていて、お寺の門とは思えないイメージ。もとは天台宗でしたが、天和2(1682)年、本山4世常如(じょうにょ)上人の頃に真宗大谷派の寺となり、桑名の本統寺与力の寺となったそうです。

Img_7365c_20201031192801  桑名藩主・久松松平家の知遇を得て、その家紋「梅鉢」を賜り、使用を許されています。円琳寺は代々学者として有名な人物が多く、特に赤心校を開き郷弟の教育に尽くし「猪名部神譜」の大作を世に送った梅田春濤先生、その子香樟先生も漢学者として有名で、町内には碑文が多く残されているといいます。寺の西に春濤先生の碑(大賀賢励撰・市川進書)と赤心校の跡があるそうですが、事前によく調べなかったため、見てきませんでした。

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 円琳寺・地蔵堂のところで員弁街道は左折して、北に向かいます。1.8㎞ほどのところで員弁川を渡ります。本郷橋です。員弁川は、鈴鹿Img_7382c_20201105130301 山脈御池岳北麓に発し、桑名と川越町との境で伊勢湾に注ぎます。桑名あたりでは、町屋川と呼ばれ、河口部では川幅はかなり広いのですが、この辺りは、当然ながら、イメージが違います。

Img_7385c_20201105130301  橋の上から振り返ると、藤原岳が見えますが、北東の方向から見る眺めですので、いつも我が家から見ている藤原岳とはまったく違います。我が家から見えるところは、太平洋セメント藤原鉱山となっていて、石灰石が山容が変わるほど採掘されているのです。

201031inabe2  員弁川を越えて少し進むと、実測ルートマップはその2の範囲になります。員弁街道はいったん員弁川から離れて、小高いところを進みます。東泉寺、猪名部神社とお参りしたあと、またもやコースミス(苦笑)。しゃべっていて、地図を確認し忘れます。懲りないというか、反省しないというか。本来の員弁街道はオレンジ色のルートを行くのですが、大回りしてしまいました。

Img_7389c_20201105132501  2㎞を過ぎたところに長尾山東泉寺(ながおさんとうせんじ)。臨済宗妙心寺派のお寺。この一帯は、伽藍遺跡「長尾廃寺」Img_7405c_20201105132501 だといいます。長尾廃寺は、「長尾山福林寺」と号し、俗に「地蔵寺」として親しまれました。現在の、この東泉寺境内、及び付近一帯が廃寺跡とされます。平安時代の延暦年間(782年-806年)の創建と伝わり、猪名部神社の宮寺、白瀨城主・近藤弾正左衛門吉綱(北勢四十八家の一つ)の菩提所であったともいわれます。

Img_7392c_20201105132501  東泉寺についての詳細は不明。ネットでも、「ふるさと いなべ市の紹介(いなべ市観光協Img_7395c_20201105132501 会・ふるさといなべ市の語り部の会発行)」にも情報はありません。なかなかよい感じのお寺です。

Img_7398c_20201105132501  境内には稲荷社がありました。福寿稲荷大神。由緒などを書いたものはありません。社殿の背後には、階段があり、居合わせた方に伺うと、誰かの墓があり、その向こうに池か何かあると聞いたということでした。先ほどの長尾廃寺の説明板によれば、山頂付近には「長尾経塚」とも「員弁三郎行綱の墓」とも呼ばれる墓石があるといいます。員弁三郎行綱は、鎌倉時代員弁大領であった員弁家綱の子で、現在の東員町大木の御殿に居城し、源頼朝の騎射・巻狩の上意に従って、青少年の士気を鼓舞するため建久3(1192)年、追野原に於いて流鏑馬の神事を奉納したといいます。これが、東員町の猪名部神社で現在も行われている上げ馬神事のもと。

Img_7411c_20201031192801  東泉寺の少し東に猪名部神社。上述のように、東員町北大社にも同名の神社があります。「延喜式神名帳」にある「猪名部神社(伊勢国・員弁郡)」に比定される式内社ですが、どちらが延喜式神名帳の猪名部神社かは決着がついていないようです。近代社格では村社。創祀・創建年代は不詳。東員町北大社の猪名部神社と同様に、春澄善縄(はるずみの よしただ:平安時代前期の公卿(くぎょう)、学者。文章(もんじょう)博士。藤原良房と「続日本後紀」を完成。伊勢出身。本姓は猪名部)・春澄洽子(高子:はるずみの こうし)(平安時代前期~中期の女官。陽成天皇の即位にともない皇太夫人となった藤原高子との同名をさけ、洽子(こうし)(「あまねいこ」ともよむ)と改名。従三位、典侍。古今和歌集に和歌1首がおさめられている)の父娘の伝承が残っています。

Img_7417c_20201031192801  主祭神は、伊香我色男命(イカガシコオノミコト:古代日本の豪族・物部氏の祖にして、猪名部氏の祖神。天孫瓊々杵尊(ニニギノミコト:天照大神の孫)の兄、饒速日命(ニギハヤヒノミコト:物部氏の祖神)の六世の孫)。相殿神は、大山祇神(おおやまつみのかみ:山の神)、火産霊神(ほむすびのかみ=軻遇突智神(かぐつちのかみ):火の神)、春澄善縄宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと:五穀、食物をつかさどる神)。員弁川の北岸、集落の中に鎮座するのですが、集落の西北隅の松林の中に春澄氏第宅跡と称する平坦な一角があり、土地の人はそこを「春澄屋敷」と称しているそうです。こちらにこのあたりの詳しい話があります。

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2020年10月31日 (土)

20201031「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(山口~阿下喜)」(超予告編)

Img_7235c_20201031192801  10月も末日になりました。今月3日に続き(2020年10月 3日:20201003「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」(予告編))、「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(山口~阿下喜)」に行ってきました。これで、員弁街道はほぼコンプリート。「ほぼ」というのは、微妙なところですが、これまでところどころで員弁街道を外れましたし、今日はコースミスもしでかしましたので、正確には「ほぼ」コンプリートということです。遠隔授業第4回の課題チェック、コメント書きや、明日はオンライン研修会もありますので、取り敢えず「超予告編」。実際に歩いたルートマップをまだつくっていません。当初調べたコースマップでは、8.5㎞となっていました。

Img_7248c_20201031192801  今までの続きからとなりますと、三岐鉄道北勢線阿下喜駅から、員弁街道(濃州道)の終点にして、巡見道との合流点であるいなべ市藤原町山口まで歩くのですが、藤原町山口から阿下喜駅に戻ると、倍の距離を歩かねばなりません。三岐鉄道三岐線の西藤原駅まで行くと、さらに3.2㎞を歩かねばなりません。それ故、阿下喜駅からタクシーで終点まで行き、そこから戻るというコース設定。しかし、阿下喜駅で近鉄配車センターに電話すると、「いつ戻ってくるか分かりません。かなりかかります」と。いなべ市の福祉バスがあるのですが、土日祝日は運休でした。結局、50分ほど待ってやって来たタクシーに乗車する羽目に。西桑名を8時23分に乗車し、阿下喜には9時22分着。¥510。タクシーに乗れたのは10時15分過ぎ。いなべ市藤原町山口まで約15分、¥2,990。

201031inabec  こちらが用意していったコースマップ。実際は、もっと拡大して5枚に分割しています。藤原町山口にある常夜燈のところを10時35分にスタート、途中、昼食休憩を取りましたが、阿下喜駅にゴールしたのは、15時少し前。4時間半ほどかかりました。東海道や、参宮街道など、メインの街道では道標や道案内がありますが、田舎の街道ではそういうものはほとんどありません。あちこちでルートを確かめたのですが(Googleマップには「濃州道」という表示が出て来て、ずいぶん助けられました)、何度かコースミスをしました。

Img_7281c  巡見道との合流点から歩くつもりでしたが、タクシーの運転手さんに分かりやすい目標ということで,こちらの常夜燈のところでクルマを降りました。集落の入り口に当たるところにあり、「内宮外宮/村内安全」と刻まれています。背後にあるのは,個人の忠魂碑。この常夜燈の東にも、忠魂碑が3基ありました。ここから東に向かって歩き始めたのが、10時35分頃。

Img_7331c_20201031192801  藤原町本郷にある本郷社。キョリ測のマップには載っておらず、リサーチしていませんでした。主祭神は、火産霊命。相殿神は、品田別命ほか7柱。勧請年月は不詳。なかなかよい雰囲気の神社でした。

Img_7356c  歩いたルート沿いのあちこちには、蕎麦畑。花はほとんど終わり、実が生長している途中です。ごく一部には、赤蕎麦が栽培されているところもありました。

Img_7358c  円琳寺の手前に地蔵堂。その奥に青龍山円琳寺(せいりゅうざんえんりんImg_7365c_20201031192801 じ)。今は、真宗大谷派ですが、もとは天台宗でした。天和2(1682)年、本山4世常如上人の頃に、真宗大谷派に改宗、桑名の本統寺与力の寺となっています。桑名藩主・久松松平家の知遇を得て、松平候の家紋「梅鉢」を賜り、その使用を許されました。

Img_7411c_20201031192801 Img_7417c_20201031192801  続いて、猪名部神社。「猪名部神社」というと、上げ馬の神事も行われる東員町の猪名部神社を思い浮かべる方もいらっしゃるとは思いますが、こちらも同名の神社。猪名部氏の祖神伊香我色男命を主神として祀り、古くから長尾、日内、川合の三村の氏神と尊崇してきた神社。猪名部氏の祖神伊香我色男命を主神として祀り、古くから長尾、日内、川合の三村の氏神と尊崇してきた古社です。延喜式内社。

Img_7440c_20201031192801  猪名部神社からしばらく行くと、村境に鳥居が立っています。鳥居の傍らにある道標によれば、これは猪名部神社の一の鳥居のようでした。

Img_7462c_20201031192801  さらに進みますと、徳円寺。真宗大谷派。

Img_7486c_20201031192801  その先、員弁川を渡ったところに川合神社。主祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと:大国主命の子、諏訪神社の祭神)。御鎮座年月は不詳。

Img_7533c_20201031192801  野尻橋の手前で春日神社。主祭神は、少名毘古那命(すくなびこなのみこと:農業・酒造・医薬・温泉の神)。勧請年月は不詳。獅子舞があります。桑名の春日神社の分霊を奉祀したという伝承もあるといいます。このあと、鎌田川を渡ります。

Img_7577c  阿下喜の町に戻ってきて、大西神社。主祭神は、建御名方神(たけみながたのかみ)。境内は広く、拝殿のほかに神輿殿があImg_7561c_20201031200401 り、神輿が保管されています。

Img_7568c_20201031200401  大西神社の拝殿前の狛犬。時節柄、マスク着用。前足で子供をあやしている「子取り」になっています。これには、子孫繁栄の意味があるのですが、その子の方もマスクをつけています。狛犬ですから、もう一方の方とは当然、ソーシャルディスタンスを十分にとっています。

Img_7597c_20201031200401  阿下喜駅には、初めに書きましたように、15時少し前に到着。15時1分に西桑名行きの電車があり、ジャストタイム。桑名には15時56分着。¥510。

Img_7613c_20201031200401  今日の歩数。ALKOOでは、22,940歩。17.5㎞となっていますが、これほどは歩いていないと思います。冒頭に書きましたように、やるべき仕事が滞っていますので、たぶん来週になってから本編を書く時間がとれると思います。ということで、超予告編でした。

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2020年10月 8日 (木)

20201003「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」(その2)……寝覚めの橋、大聖不動、文治の墓、久保院、麻績塚古墳、戦没者紀念碑を経て、阿下喜の町に近づく

Sohara1 10月3日の「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」、その2です。その1では、楚原駅、楚原神社、天白神社、真養寺から瑞龍院観音堂までやって来ました。寄り道が多く、スタートからは、まだ2㎞ほどです。詳細なコースマップもまだその1の範囲。瑞龍院観音堂は、国道421号線の笠田新田のすぐ北にあります。

Img_1780c  観音堂を過ぎたあたり。昔ながらの街道という雰囲気がたっぷりのところを下っていきます。同行のK氏、MImg_1782c_20201007072501 氏とも、「これで間違いないのか」と不安そう。確かに(微笑)。左の写真の先は、右のような写真のところを下っていくのです。

Img_1793c_20201007072901  この先で、寝覚めの橋。スタートから2.2㎞ほど。明智川にかかっていますが、かつては目も覚めるほImg_1784c_20201003190801 ど立派な朱塗りの橋だったそうです。左の写真の中央に写っているのですが、明らかに失敗写真。確かに歩いたという証拠としてご覧ください(苦笑)。その手前右に、石碑。何となくではありますが、「寝覚めの橋」と彫られているような気がします。「祢?免乃橋」とあると思うのですが、くずし字は読みたいと思えど、読めず。陰には「二井文?左衛門」とあるような感じ。これまたアヤシい。

Sohara2  寝覚めの橋を過ぎると、詳細なルートマップもやっとその2になります。「いなべ警察東」の交差点の北側を通って行きますが、ここで旧・員弁街道は大きく湾曲しています。この理由は定かではありません。文治の墓をみて、大聖不動を経て、いったん県道5号線にでます。上笠田の信号から、左に、細い道で逸れていきます。民家に入って行くような道でちょっと心配になります。3㎞を過ぎて、ちょっとだけコースミス。南(左)に逸れてしまいましたが、すぐに気づいて戻り、事なきを得ます。山田川にかかる山田橋を渡り、昭和電線ケーブルシステムの方へ坂道を上り、久保院、麻績塚古墳、戦没者紀念碑に立ち寄ります。

Img_1807c_20201003191701  寝覚めの橋を渡った先、街道がカーブしているところに「文治の墓」。寛政11(1799)年のもの。宇野村と笠田新田の水路Img_1810c の争いで亡くなった農民・文治の墓。鍬・鎌・竹槍等を手にした百姓の喧嘩で、宇野村の文治(35 歳)が重傷を負い、戸板に乗せられて村へ引き揚げる途中、明智川を渡った西側まで来てとうとう絶命するという悲惨な事件が起きた、その文治が絶命したといわれる地に、ため池を望むように墓が建てられたといいます(こちら)。上掲のルートマップ2の右上にわずかに見えているのが、笠田大溜。その手前にも、荒田溜、宇野溜があります。神明神社とあるのは、笠田新田の神明神社。文治の墓、古いものの向かって左には、新しい墓。この先も、本当に街道か?」と思うようなところを通って、大聖不動に出ます。

Img_1816c_20201003192501  大聖不動。かつては、藤の花が美しく、「藤の棚不動」と呼ばれたそうです。しかし、周りをざっと見たとImg_1819c_20201007075701 ころでは、藤らしきものは見当たりませんでした。ちなみに、不動明王は、大日如来の命を受けて魔軍を撃退し、災害悪毒を除き、煩悩を断ち切り、行者を守り、諸願を満足させます。右手に利剣、左手に縄を持ち、岩上に座して火炎に包まれた姿で、怒りの形相に表すといいます。この「大聖不動の前に石灯籠がある」とみえの歴史街道「濃州道(員弁街道)」のコースマップにあったのですが、左の写真にチラッと写っているだけで、きちんとは見てきませんでした。大聖不動で、2.7㎞。

Img_1813c_20201007080201  大聖不動の手前で県道5号線に出て、県道を300mほど歩きます。上笠田の信号交差点を過ぎて、左手に逸れImg_1828c て行きます。

Img_1831c_20201003192801 Img_1834c_20201003192801  民家の庭先に入っていきそうな道を恐る恐る進んだ先には、写真のように、木々が生い茂った中を通る道が見えてきます。またもや、「こんなところが街道か?」「間違いないのか?」と同行の二人に聞かれます。何度地図を見ても、間違いはありません。その先に「上笠田 北稲荷」。地図にもなく、ネット情報もありませんが、お参り。

Img_1839c  さらに行くと、自動車屋さん(笠田自動車)の工場。街道沿いの敷地には、古いFordのクルマが置いてありました。古き良きImg_1842c_20201007080801 時代のアメ車という感じ。ナンバーもついていて、走れるようでした。オーディオというか、ラジオも、何とも懐かしいスタイル。3人とも、あれこれ眺めてきました。

Img_1852c_20201003193201  このあと、いったんコースミス。行った先がグルッと左に回って、東を向いた道になりましImg_1857c_20201003193201 たので、ミスに気づき、すぐに戻って、結果オーライ。その後も木々の間を下っていきます。下った先で山田川に行き当たります。山田橋を渡っていなべ市北勢町麻生田に入っていきます。ここからは、一昨年、あげきのお雛さんを見るのに歩いたところ(2018年2月27日:近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(予告編)……マップ上9kmなのに、12.4kmも歩いたお話(笑))。

Img_1873c  その先、4㎞を過ぎたところで、久保院・麻績塚古墳、戦没者紀念碑に立ち寄ります。10時50分頃。ここも、上記のリンクにある近鉄ハイキングで訪ねています。久保(くぼ)院は、笠田村和波九十郎氏の二男、久保(ひさやす)氏(明治12(1879)年~明治29(1896)年9月没・当時18歳)の追善供養のため、私有地に寺院建立と霊場を作る事を発願し、近隣、同志に呼びかけ篤志浄財(郡内14大字区、個人133名)により明治31(1898)年9月に完成しました。「麻績塚(おみづか)古墳」は、4世紀ごろつくられたと伝わる、大小2つの古墳からなっています。埋葬された人物の名をとって、一般に「麻績塚」と呼ばれます。墓の主の名は、伝承によれば「神麻績連」。天物知命(あめのものしりのみこと)の后、また、桑田玖賀(クワタノクガ)の姫ともいわれていますが、その名の通り、麻の栽培・紡織といった生産に深い関係を持っていたと思われます。久保院には、四国八十八ヶ所の土をもらい受けて、新四国八十八ヶ所霊場も設けられています。詳細は、2018年3月3日の記事(近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(その3)……鈴鹿山脈を眺めながら、久保院、麻績塚古墳・久保院八十八ヶ所道など)をご覧ください。

Img_1868c  戦没者祈念碑は、「陸軍大将桂太郎謹書」と刻まれています。桂太郎は、明治時代の軍人、政治家(弘化4(1848)~大正2(1913)年)。明治34(1901)年には、総理大臣も務めた人物です。この紀念碑のところで休憩。休んでいたら、地域の方がいらっしゃいました。交代で掃除をしておられるそうで、冗談半分で「掃除に来てもらったのかと思った」といわれ、苦笑。

Img_1879c_20201003194201  さて、久保院・麻績塚古墳、戦没者紀念碑を出ると、しばらく立ち寄るところはありません。ひたすら歩きImg_1886c_20201003194201 ます。しばらくは上り坂が続くのですが、遠くに阿下喜の町や、藤原岳、太平洋セメントの工場が見えてきます。スタートから6.3㎞あたりで、再び、旧・員弁街道に入ります。6.7㎞付近から、街道は、三岐鉄道北勢線の線路と並行します。

Sohara3  詳細なルートマップは、その3へ。赤い星印をつけたところから、旧・員弁街道です。実は、その前に、神護山萬笑院(しんごさんばんしょういん)に立ち寄ろうと思ったのですが、昭和電線ケーブルシステムの工場を過ぎたところで左折しなければならなかったのを通り過ぎ、途中で尋ねたら要領を得ない答え。やむなく県道5号線の麻生田交差点南で左折して行こうと思ったものの、遠回りになることに気づき、断念。ちなみに、萬笑院は、臨済宗妙心寺派。御本尊は阿弥陀如来で、恵心僧都の作と伝わっています。は14世紀に龍象山萬松院と称え、天台宗の道場であつたと伝わっています。

Img_1895c  スタートから7㎞あたりで、「北勢町阿下喜」という表示板があります。天気がよければ、藤原岳もよく見えて、気持ちの良い景色が広がっていたはず。その2は、ここまで。その3では、阿下喜の町について。

 

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2020年10月 7日 (水)

20201003「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」(その1)……楚原駅から瑞龍院観音堂まで

Img_1675c_20201003172701  10月3日に行ってきた「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」の本編その1です。雨で予201003sohara 定を延ばさざるを得なかったり、猛暑の時期は避け、涼しくなるのを待っていたりしていて、前回からほぼ半年ぶり(2020年4月11日:20200411「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(東員~楚原)」(予告編)【参考資料を追加しました(4/12)】)になっていました。今回は、楚原駅から阿下喜駅までを歩きました。例の3人組(笑:決してアヤシい3人組ではありません、同級生K氏、畏友M氏と私)で行っております。冒頭の写真は、鉄道むすめ、三岐鉄道北勢線のキャラクター「楚原れんげ」ちゃん。楚原駅で撮影。ちなみに「楚原」は「そはら」、「阿下喜」は「あげき」と読みます。

Img_1660c_20201004190601  事前の打ち合わせにより、三岐鉄道北勢線西桑名駅を8時23分に出る阿下喜行きに乗車します。この日は、レトImg_1665c_20201004190601 ロカラー塗装の電車が運行されていました。これは、北勢線の開業100周年(2014年)を記念し、同線で運用している車両が三重交通時代の塗装に変更されたものです。当初は、車両の一部だけでしたが、その後4両ともレトロカラー塗装になっています。北勢線は大正3(1914)年4、現在の西桑名(三重県桑名市)~楚原(いなべ市)間が北勢鉄道(後に北勢電気鉄道に改称)として開業、昭和6(1931)年までに西桑名~阿下喜間が全通しました。戦時中の昭和19(1944)年、北勢線は三重県内の他の鉄道・バス会社との合併により三重交通の路線になったのです。

Img_1670c_20201004190601  西桑名から楚原までは、¥430。土曜日で、下り電車ですので、空いています。4両編成でしたが、多くても1両に4~5名の客。同級生K氏は、途中、星川駅から乗車。畏友M氏は、楚原駅へクルマで直行しますので、駅で待ち合わせ。北勢線は、いわゆるナローゲージの電車。

Img_1678c_20201003172701  楚原駅には、9時8分に到着。45分の乗車でしたが、のんびりとした小旅行というイメージ。最高速度45km/hで、ガタンゴトンと走ります。ここでM氏と合流。楚原駅を9時10分にスタート。

Sohara1  こちらが、この日の詳しいルートマップその1。楚原駅の北東に「ここから員弁街道」と書いてありますが、ここまでが、前回歩いたところ(ただし、その後ヨシヅヤ出食事をし、ねじり橋とめがね橋を見に行っています)。いったん、前回の終点に向かって進み、楚原神社に立ち寄り。楚原神社を出たところで、M氏が、踏切の向こうに天白神社があるというので、行ってみることにしました。その南に立派な寺が見えましたので、さらに寄り道。八英山真養寺。ここから元のルートに戻り、1㎞あたりで、里程標と石碑2基。員弁街道に入って北西に進み、国道421号線を越えて瑞龍院観音堂と、寝覚めの橋へ。

Img_1693c_20201003173501  楚原神社。旧社格は、村社。天文7(1583)年、八幡社(品陀和気命)を勧請し、氏神として尊崇されていました。しかし、永禄12(1569)年、兵火にかかり神殿を焼失し廃退しますが、のちに復興。明治40(1907)年、村内の小祠と御薗にあった御薗神社などを合祀して楚原神社と改称しています。

7776c598  主祭神は、品陀和気命(応神天皇)。相殿神は、天照大御神須佐之男命大山祇神火産霊神宇迦之御魂神大国主命。相殿神が、6柱いらっしゃいますが、これは、上記のように明治40(1907)年に御薗神社をImg_1684c_20201004194401 始めとする7社を合祀したため。

Img_1686c_20201003173901  境内には、忠魂碑が1基あります。昭和32(1957)年4月の建之。日陰には、「殉国英霊」として、昭和12(1937)年の日中戦争から第二次世界大戦までに戦没された23柱の方々のお名前が刻まれていました。

Img_1696c  続いて、楚原駅西の踏切を渡って、南西へ。天白神社に向かいます。このあたりは、M氏の父上の故郷だそうで、よくご存じ。神社のところだけ、こんもりと杜になっています。なかなかよい感じなのが、遠くからでも分かります。

Img_1699c_20201004195101  神社検索(三重)では、楚原御厨天白神社となっており、これが正式な名前のようです。鎮守の森がなかなかよい感じの神Img_1702c_20201003174101 社。主祭神は、天照大神。御厨ですので、伊勢神宮の神領地に関わりがあると考えられます。元暦年中(1184~85年)に村人がここに神社を再建して五穀の豊穣を祈ったといわれています。

Img_1711c  天白神社の南に、真宗大谷派の八英山真養寺(しんようじ)があります。楼門は平成15Img_1715c_20201003175501 (2003)年に再建されたといいます。ここに立派な虎の彫刻がありました。気になって調べたら、左甚五郎の一番弟子の手によるものだそうです(ただし、ここに飾られているのはレプリカ)(こちらを参照)。本物は、本堂に保管されています。

Img_1717c_20201003175501  天正2(1574)年に近江・番場(現滋賀県米原市)の時宗の蓮華寺の僧・麟龍がこの地に隠居して建立したのが始まり。元和7(1621)年、3代・蟠龍の時に真宗に改宗。寛永13~16(1636~39)年、大泉新田開発に伴う笠田溜池築造工事の頃、桑名藩主・松平定綱が溜池で舟遊びをした時に当寺を定宿にし、門信徒の工事の功績を称え星梅鉢の紋を賜ったといいます。天和2(1682)年、東本願寺常如上人から真養寺の寺号を賜っています。

Img_1746c_20201007044501  真養寺の北西に、楚原放光菩薩地蔵堂がありました。「放光地蔵」というのは、珍しいと思い、調べました。「放光」はもちろん光を放つことですが、とくに「仏菩薩が身体や白毫(びゃくごう)などから光をはなつこと」をいいます。六地蔵というものがあります。六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のそれぞれにあって、衆生(しゅじょう)の苦悩を救済する地蔵菩薩です。このうち、人間道を化すのが、放光地蔵とされています。

Img_1720c_20201003180401  真養寺から楚原駅の方に戻り、すでに1㎞近くを歩きましたが、公民館の庭に里程標が建っています。碑表には「桑名郡桑名Img_1722c_20201004201701 町字京町エ四里壱町十六間/津市元標エ十四里貳拾五町拾九間/大泉原村大字楚原」とあります。さらに、右側には「三重郡富田村大字東富田エ四里拾三町貳十四間/桑名郡七取村大字香取エ貳里三拾壱町四拾壱間」、碑陰には「明治四十五年三月 三重縣」、左側には「員弁郡阿下喜村大字阿下喜壱里三拾壱町四拾壱間」とあります。

Img_1725c_20201003180401  その先、市営住宅の敷地には、石碑が2基あります。向かって右の大きい石碑には「如禾必(以か?)稲/直胤筆」と刻まれています。「禾」は「のぎ」、イネ科植物の先端にある毛、穀物、いねなどの意味があります。その傍らにある、小さい石碑には、「死亡會員(?)霊位」とあり、碑陰には「昭和十一年一月?九日追?……」とありました。前回の疑問が解消されないままですが、ネットでの検索では情報が見つけられませんでした。

Img_1733c_20201003181601  員弁街道に入って北西に向かって進みます。道幅も、昔のままのような感じがします。旧街道は、生活道路になっていることImg_1740c_20201003181601 が多いのですが、楚原から笠田新田あたりは、クルマの通行もあまりありません。右の写真は、国道421号線を斜めに渡った先の辺りの様子。ヒガンバナも咲いていました。ここまで来ると、道は細く、田舎道という印象。

Img_1768c_20201003182001  スタートから2㎞ほど、笠田新田の信号の北側に瑞龍院観音堂があります。真宗大谷派。この観音堂には、真中に聖観音菩Img_1746c_20201007044501 薩像が、また、左側には抜雲(ばつうん)和尚が自分の像を彫ったもの(木像)が安置されているといいます。抜雲和尚の像は、旱魃のときこの像を背負って雨乞いをし、ご利益を得たそうです。抜雲和尚は、永明山長楽寺(いなべ市藤原町篠立)の第7代。その昔、三谷川の最源流、拘留孫岳(くるそんだけ、標高772m)中腹に大蛇が住んでいたそうです。抜雲和尚がここにある大杉の根元に石の唐戸を造り、念力をもってこの大蛇を小さなトカゲに変えて閉じ込めたのですが、篠立(いなべ市藤原町立田地区にある地名)が大日照りで困った時はこの唐戸に祈願すると雨を降らしてくれるようになったといい(「龍王さん」と呼ばれています)、抜雲和尚には、雨乞いに御利益があるとされたと思われます。観音堂の前には笠田新田延命地蔵堂。この地蔵堂は、昭和7(1932)年3月に、観音堂の和賛講中の11名の方が発起人となって建立したもので、堂は赤溜の旧観音堂を改築し、本尊の地蔵菩薩像は桑名で購入したそうです(こちら)。この延命地蔵の後ろに多湖健一の句碑があるというのですが(こちら)、後から調べて分かったことで、この時は見逃しました。

 ちなみに地蔵堂の横にあったのが左の写真Img_1755c_20201007045201 。文字が読めず、ネットで調べても分からず(苦笑)。右の写真は、地蔵堂の裏Img_1762c_20201007045201 の方に建っていました。まだ新しく、「銀杏の木青葉は黄金の色と散る/悉皆金色弥陀の本願念仏」とあります。短歌のような、違うような。

Img_1765c_20201007045201  さらには、左の写真のような石碑も。これには、「母繁八十歳の碑」とありました。けっこImg_1760c う古いもの。そして、地蔵堂の脇には、右の写真のように、「村社神明社」という標柱があります。陰には、大正8(1919)年9月に寄進されたと彫られていました。笠田新田の神明社は、現在は、笠田大溜のところにあります(ここから北へ1.1㎞ほどのところ)。昨年9月23日に「いなべ市員弁町「笠田新田」と「大泉新田」の両神明社合同『弁天祭』が開かれた」という記事がありました(こちら)。このとき、行列がこの観音堂にいったん入ってから、笠田新田の神明社に向かったとあります。観音堂と神明社に何か関わりがあると考えられますが、今のところ、これ以上は不明。

 その1はここまで。畏友M氏からも、「記事が長い」といわれております(苦笑)。楚原駅あたりで、いきなり寄り道をしていましたので、まだ2㎞ほどしか歩いていません。ハイキングはさらに西に進みます。

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2020年10月 3日 (土)

20201003「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(楚原~阿下喜)」(予告編)

 雨で予定が狂ったり、猛暑を避け涼しくなるのを待っていたりしていて、前回からずいぶん日にちが経ってしまいましたが(2020年4月11日:20200411「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(東員~楚原)」(予告編)【参考資料を追加しました(4/12)】)、「勝手にハイキング」シリーズの「員弁街道ハイキング」に行ってきました。ほぼ半年ぶりです(笑)。今回は、楚原駅から阿下喜駅までを歩きました。今日のところは、予告編。例の3人組で行っております(同級生K氏、畏友M氏と私)。

Img_1678c_20201003172701 Img_1675c_20201003172701  楚原駅に集合。私は、三岐鉄道北勢線西桑名駅を8時23分に出る阿下喜行きに乗車。途中からK氏も乗り込み、楚原には9時8分着。西桑名からは、¥430。M氏は楚原駅へクルマで直行。

201003sohara  こちらが本日歩いたルート。楚原駅あたりで、いきなり寄り道(楚原神社、天白神社、真養寺)をし、1㎞あまり歩いて、員弁街道(濃州道)に出て、左折し(ここまでが前回歩いたルート)、北上。瑞龍院観音堂、寝覚めの橋、文治の墓から大聖不動へ。山田橋あたりまでは員弁街道を辿っていきます。旧・員弁街道はここから現在の員弁街道(県道5号線)の方へ回りますので、その1本西の道を行きます。久保院・麻績塚古墳・戦没者紀念碑に立ち寄り、さらに萬笑院にも立ち寄ろうと思ったものの、ちょっと行き過ぎてしまい、断念。麻生田から再び、旧・員弁街道に入り、いなべ市北勢町阿下喜へ。阿下喜では、西六石橋を渡って、大西神社の御旅所、献燈籠を見て、巡見道(枝道)との分岐点まで。ここには道標があります。昼食を摂るのに、ちょっと歩いて「カドヤ食堂」にて。阿下喜駅まで下って、合計約9㎞。

 楚原神社。楚原駅の目の前にあります。Img_1693c_20201003173501主祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと)。天文7(1538)年、八幡社を勧請し氏Img_1686c_20201003173901  神として尊崇していたのが、始まりと伝わっています。境内には昭和32年に建立された忠魂碑があります。昭和12(1937)年の日中戦争から、第二次大戦までの戦没者の方が祀られています。

Img_1696c  M氏が、線路のすぐ向こうに天白神社があるというので、そちらにも立ち寄ることにしました。M氏の父上Img_1702c_20201003174101 の故郷だそうで、よくご存じ。楚原御厨天白神社が正式な名前のようです。鎮守の森がなかなかよい感じの神社。主祭神は、天照大神

Img_1711c  その近くに真宗大谷派の八英山真養寺。楼門は平成15Img_1715c_20201003175501 (2003)年に再建されたといいます。ここに立派な虎の彫刻がありました。気になって調べたら、左甚五郎の一番弟子の手によるものだそうです(ただし、ここに飾られているのはレプリカ)(こちらを参照)。

Img_1717c_20201003175501  天正2(1574)年に近江・番場(現滋賀県米原市)の時宗の蓮華寺の僧・麟龍がこの地に隠居して建立したのが始まり。元和7(1621)年、3代・蟠龍の時に真宗に改宗。寛永13~16(1636~39)年、大泉新田開発に伴う笠田溜池築造工事の頃、桑名藩主・松平定綱が溜池で舟遊びをした時に当寺を定宿にし、門信徒の工事の功績を称え星梅鉢の紋を賜ったといいます。天和2(1682)年、東本願寺常如上人から真養寺の寺号を賜っています。

Img_1720c_20201003180401  楚原駅方面に戻り、員弁街道に向かいますが、その手前で、まず里程標。4月11日にも見ています(2020年4月19日:Img_1725c_20201003180401 20200411「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(東員~楚原)」(その3)……石仏墓地、ヨシヅヤのスガキヤで昼食、ねじり橋・めがね橋を見て、員弁西小学校で句碑を確認して楚原駅にゴール(完))。碑表には「桑名郡桑名町字京町エ四里壱町十六間/津市元標エ十四里貳拾五町拾九間/大泉原村大字楚原」とあります。さらにその先、市営住宅のところには、石碑が2基。向かって右の大きい石碑には「如禾必(以か?)稲/直胤筆」と刻まれています。「禾」は、「のぎ」。イネ科植物の先端にある毛、穀物、いねなどの意味があります。その傍らにある、小さい石碑には「死亡會員霊位」とあり、碑陰には「昭和十一年……」とありました。

Img_1733c_20201003181601  1㎞を過ぎて、員弁街道に入ります。かなり細い道が続きます。国道421号線をいなべ警察署東交差点の手前Img_1740c_20201003181601 (東)で渡り、さらに細い道を進んでいきます。

Img_1768c_20201003182001  2㎞を過ぎたところに瑞龍院観音堂。この観音堂には、真中に聖観音菩Img_1746c_20201003182101 薩像が、また、左側に安置されているのは抜雲(ばつうん)和尚が自分の像を彫ったもの(木像)が安置されているといいます。抜雲和尚の像は、旱魃のときこの像を背負って雨乞いをし、ご利益を得たそうです。観音堂の前には笠田新田延命地蔵。ちなみに、抜雲和尚は、永明山長楽寺(いなべ市藤原町篠立)の第7代。その昔、三谷川の最源流、拘留孫岳中腹に大蛇が住んでいたそうです。抜雲和尚がここにある大杉の根元に石の唐戸を造り、念力をもってこの大蛇を小さなトカゲに変えて閉じ込めたのですが、篠立が大日照りで困った時はこの唐戸に祈願すると雨を降らしてくれるようになったといい(「龍王さん」と呼ばれています)、抜雲和尚には、雨乞いに御利益があるとされたと思われます。

Img_1780c  観音堂を過ぎたあたり。昔ながらの街道という雰囲気がたっぷりのところを下っていきます。同行のK氏、M氏とも、これで間違いないのかと不安そう。Img_1784c_20201003190801 この先で、寝覚めの橋。明智川にかかっていますが、かつては目も覚めるほど立派な朱塗りの橋だったそうです。その手前に、石碑。何となくではありますが、「寝覚めの橋」と彫られているような気がします。「祢?免乃橋」かと思うのですが、くずし字は読みたいと思えど、読めず。陰には「二井文?左衛門」とあるような感じ。これまたアヤシい。

Img_1807c_20201003191701  寝覚めの橋を渡った先、街道がカーブしているところに「文治の墓」。寛政11(1799)年のもの。宇野村とImg_1810c 笠田新田の水路の争いで亡くなった農民・文治の墓。鍬・鎌・竹槍等を手にした百姓の喧嘩で、宇野村の文治(35 歳)が重傷を負い、戸板に乗せられて村へ引き揚げる途中、明智川を渡った西側まで来てとうとう絶命するという悲惨な事件が起きた、その文治が絶命したといわれる地に、ため池を望むように墓が建てられたといいます(こちら)。向かって左には、新しい墓。ちなみに、ここでなぜカーブしているのか、不明。ルートマップでは、「員弁町上笠田」とあるところ。

Img_1816c_20201003192501  県道5号線に出たところに大聖不動明王堂。いなべ警察署前になります。昔は藤の花が咲き乱れ「藤の棚不動」と呼ばれたといいます。

Img_1831c_20201003192801  このまま少し、県道5号線を進み、旧・員弁街道は、上笠田の交差点から左Img_1834c_20201003192801 に逸れていきます。またもや、こんなところを進むのかという道へ。このすぐ先の北側(右手)に、上笠田北稲荷。Googleで検索しても出て来ません。

Img_1852c_20201003193201  途中、少しばかりコースミス。すぐに気づいて、旧・員弁街道に戻りました。この先で、山田川にかかる山Img_1857c_20201003193201 田橋を渡りますが、このあたりから本来の旧・員弁街道は、右手(北東)に行きます。山田橋は、昭和25(1950)年に竣工した橋。ここから、麻生田。昭和電線ホールディングス方面へ直進。登り坂。2年前の2月に近鉄ハイキングで歩いたところ(2018年2月27日:近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(予告編)……マップ上9kmなのに、12.4kmも歩いたお話(笑))。

Img_1868c Img_1873c  この先、4㎞を過ぎたところで、久保院・麻績塚古墳、戦没者紀念碑に立ち寄り、しばし休憩。ここも、上記のリンクにある近鉄ハイキングで訪ねています。久保(くぼ)院は、笠田村和波九十郎氏の二男、久保(ひさやす)氏(明治12(1879)年~明治29(1896)年9月没・当時18歳)の追善供養のため、私有地に寺院建立と霊場を作る事を発願し、近隣、同志に呼びかけ篤志浄財(郡内14大字区、個人133名)により明治31(1898)年9月に完成しました。「麻績塚(おみづか)古墳」は、4世紀ごろつくられたと伝わる、大小2つの古墳からなっています。埋葬された人物の名をとって、一般に「麻績塚」と呼ばれます。墓の主の名は、伝承によれば「神麻績連」。天物知命(あめのものしりのみこと)の后、また、桑田玖賀(クワタノクガ)の姫ともいわれていますが、その名の通り、麻の栽培・紡織といった生産に深い関係を持っていたと思われます。祈念碑は、「陸軍大将桂太郎謹書」と刻まれています。桂太郎は、明治時代の軍人、政治家(弘化4(1848)~大正2(1913)年)。明治34(1901)年には、総理大臣も務めた人物です。

Img_1879c_20201003194201  この先は、阿下喜までとくに見るところはなく、ひたすら歩きます。ただ、久保院あたりが坂のピークで、あとはほとんど下Img_1886c_20201003194201 り。このあたりからは、藤原岳や、太平洋セメントの工場が見えてきます。麻生田の町を過ぎる頃には、道は、北勢線と並行しています。

Img_1895c  スタートから6㎞半くらい歩いてきました。阿下喜という看板も出て来ます。向こうに阿下Img_1899c_20201003194601 喜の町や、日下病院、いなべ総合病院などが見えています。西六石橋を渡り、六石変電所の先、スタートから7㎞を歩いてきたあたりで旧・員弁街道は右に逸れていきます。

Img_1927c  阿下喜の町の手前に大西神社の御旅所と献燈籠。御旅所は、大西神社の八幡祭のとき、神輿Img_1933c_20201003194601 がここで小休止するところ。献燈籠は、高さ2.7m。元は常夜燈で、員弁川の高瀬舟の船着場の目印でした。文久元(1861)年のもの。正面には、「内外両宮/多度両社 献灯燈」とあります。ちなみに、高瀬舟とは、川船の一種。古くは小型で底が深かった(高背)のですが、のちには大型で舳が高く底の浅いものになりました。近世では多くの川筋で貨物輸送に用いられています。

Img_1951c_20201003194601  いよいよ今日のゴールも間近。8㎞の手前で、巡見道との分岐・道標となります。石井書店のすぐ北の三叉路に、道標があります。ここが、巡見道(いなべ市北勢町治田からの枝道)との分岐。道標には、「右 こもの 四日市」「左 くわな」とあります。コンクリートに囲まれ、ちょっとかわいそう。ここで時刻は、12時20分。阿下喜から西桑名に行く電車は、12時39分か13時39分。ちょっと迷ったものの、食事を選択。

Img_1968c_20201003194601 Img_1965c_20201003194601  上木(あげき)食堂を覗いたものの、待っている人多数で断念。北勢郵便局の近くまで行って大衆食堂「カドヤ食堂」へ。カツ丼(¥700)をチョイス。地元の方などでけっこう繁盛していました。カツ丼も美味しくいただけました(微笑)。

Img_1980c_20201003194601  桐林館なども見ようかと思ったものの、食事をしてからしゃべっていて、電車の時刻も近づいたので、阿下喜駅へ。13時28Img_1994c_20201003194601 分に到着。ここまで楚原駅から9㎞歩きました。13時39分の西桑名行きに乗車。西桑名駅には、14時26分に到着。¥510。

Img_2047c_20201003200301  今日の歩数。スマホのアプリ・ALKOOのデータ。20,000歩を越えました。自宅から西桑名駅往復が、2.2㎞。今日、ハイキングで歩いたのが、9.0㎞で、合計11.2㎞。久しぶりによく歩きました。詳細は、また、明日以降、ボチボチと書きますが、今日のところは、予告編。

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2020年8月24日 (月)

鳥も散歩友達も少なかったので、惣構現地調査2日目……今日は7.4㎞(爆)

Img_4600c_20200824145401  朝は、24.9℃と、かろうじて熱帯夜を免れ、北寄りの風で、多少過ごしやすい感じでしたが、日中は、34.3℃と相変わらずの暑さです。7時半スタートで散歩。いつものように、住吉神社、九華公園、貝塚公園と歩き、そこから昨日の続きで、惣構実地調査。柳原、江場、新屋敷、伝馬町から一色町、北鍋屋町、鍛冶町、大央町、吉津屋町、京町、寺町と、またもや7.4㎞も歩いて、10時帰宅。「暑いのに、よく歩くな」と思われるかも知れませんが、先週の暑さに比べると少し楽に思います。

Img_4314c  住吉神社から見た揖斐長良川の中洲。ダイサギのようですが、1羽だけいました。ここは、以前は、よくアオサギが集合していた場所です。多いときには20羽以上もいたことがあります。そういう光景をまた見たいと思っています。

Img_4342c_20200824145501  柿安コミュニティパークでは、ハクセキレイ。その他、ハシボソガラスたち。九華公園では、今日もあまり鳥Img_4352c はいません。奥平屋敷跡にある鳥小屋を確認してきたのですが、妙な具合になっていました。白いインコがペアで入れられたはずでしたが、カップルが、右の写真のように入れ替わっているようでした。う~ん、何と申しましょうか(笑)。

Img_4371c_20200824145501  その後、シルバー人材センターの脇を通ったら、ちょうど同級生K氏と遭遇。「ちょっと寄っていけ」ということになり、コーヒーをご馳走になりながら、少しばかりおしゃべり。猛暑の時期で、派遣されて仕事に行く方々も大変のようでした。冗談半分に「お前も、働くか?」といわれましたが、ブラブラ人生も長くなり、今さら役には立たない可能性大です(苦笑)。

Img_4563c_20200824145401  惣構実地調査の話は後にして、伝馬公園からは一色町、北鍋屋町、鍛冶町、大央町の境にある緑地帯を通り、定休日の寺町商店街を通過して、住吉入江へ。三崎見附跡の北でシジュウカラを目撃。2羽。Img_4596c しかし、ソメイヨシノの木に紛れてしまい、写真は撮れず。その後、拙宅前の住吉入江のところで休憩していたら、イソヒヨドリのメスが登場。実は、朝5時頃にも、鳴き声が聞こえていたのです。

0824walk  さて、惣構実地調査、2日目です。マップは、昨日とほぼ同じです。赤いラインは、惣構があったと考えられるところ、ブルーのラインが今日歩いてきたルート。昨日、回ってこなかった桑名税務署・桑名消防署の北から西側と、市営日進町住宅、長圓寺・報恩寺の南から、伝馬公園の裏手の2ヶ所が主な目的地でした。

Img_4377c  左の写真は、昨日も載せた桑名税務署から北に延びる桜並木。惣構の跡と考えられます。桑名税務署から北へ50mほどのところまで、桜並木と幅広い水路の跡らしきものが確認できます。

Img_4386c_20200824145501  桑名税務署のすぐ北にある交差点。向かって右手に一部見えているのが、税務署。その向こうに見える塔Img_4391c_20200824145501 は、消防署の訓練用のタワー。右の写真は、この交差点を曲がって、進む先。東新町市営住宅の北側へと続きます。堀の跡か? というと、何ともいいがたい感じです。

Img_4395c_20200824145501  少し進んだところの様子。道はほぼ直線で、少しだけ曲がっています。右Img_4400c の写真は、東新町市営住宅の西側を通っている道。直線で、県道401号線に向かっています。これまた、堀の跡かというと、微妙な感じです。ここは見通せて、道の様子も分かりましたので、曲がらず、東新町市営住宅の西側へ進むことにしました。

Img_4403c_20200824145501  税務署・東新町市営住宅の北の道を西に進み、行き当たりが、左の写真。三叉路になっています。江戸時代の城絵図では、惣Img_4405c_20200824145501 構は南の方に続いていますので、ここで左折して南へ。東新町市営住宅は、南北に建つ棟と、東西に建つ棟と2棟あります。左折して進むと、東西に建つ棟の裏につながります。

Img_4409c_20200824145501  市営住宅の敷地に行き当たったところに日進まちづくり拠点施設(公民館)。ここで道は右Img_4413c 折(西へ)。

Img_4418c_20200824145501  50mほどでT字路を左折すると、県道401号線が見えまImg_4421c_20200824145501 す。道幅はそれなりにあり、堀の跡といわれれば、そうかなと思える気がします。

Img_4423c_20200824145501  こちらは、県道504号線の手前で、歩いてきた道を振り返った写真。後ほど、城絵図と照らし合わせて、あれこれ考えてみましょう。

Img_4440c_20200824154301  昨日は、県道401号線から日進小学校方面に行くのに、東新町市営住宅と消防署の間の通りのところから南に向かいました。Img_4445c_20200824154301 そこで、今日は、県道401号線を西に向かい、日進小学校の東側の道路から行くことにしました。微妙なカーブになっています。古い道がそのまま残っているのかも知れません。

Img_4447c_20200824145501  日進小学校。七曲見附のあった辺りからの惣構は、ここの敷地内を通っていたと思われまImg_4450c_20200824145501 す。写真は、東から西を見ています。右の写真は、日進小学校の敷地の南東側にある交差点。昨日は、左から右へ(東から西へ)、ここを通過しています。昨日歩いたルートが、今のところ、惣構の跡ではないかと考えています。

Img_4456c_20200824145501  日進小学校南の交差点に出て来ました。左の写真で、正面が、今日歩くルート。左右(南北)の通りは、県道613号線。写真Img_4462c_20200824145501 に写っている辺りは、東海道が通っていたところで、向かって右に火の見櫓と消防団倉庫があります。そこから道路をはさんだ日進小学校の敷地にかかるあたりに七曲見附があったとされます。右の写真は、同じところから視線を少し左(南)に向けて撮ったもの。信号の向こうにある理髪店に向かってすぐ左から奥に向かうのが、東海道。

Img_4484c_20200824145501  県道613号線を渡って、伝馬公園の裏手に続く道に進みます。この右手に市営日進町住宅があります。その先には、長圓寺・Img_4487c_20200824145501 報恩寺があり、江戸時代の城絵図を見ても、道の形から、ここが惣構の跡であることは確実と思っています。少し進むと、道は右にカーブしていきます。

Img_4489c_20200824145501 Img_4493c_20200824145501  この左手(南側)には大きな民家があります。ここは、「廣瀬鋳物工場跡」です。桑名藩初代藩主本多忠勝公は、城の建設などのため、鋳物師を桑
名に招き地代を免除するなど優遇したのですが、廣瀬氏もその一人で、ここに土地を与えられました。そのため、この付近は「鍋屋町」と呼ばれています。工場は、戦災ご移転しています。

Img_4499c  道なりに進みますと、長圓寺と、報恩寺の裏手に出ます。向かって右が報恩寺、左が長圓寺。報恩寺は、真宗本願寺派。もとは江場村にありましたが、ここに移されています。寺内には、桑名町長を務めた竹内文平の墓があります。⻑圓寺は、大悲山(だいひざん)と号し、浄土真宗本願寺派。慶⻑の町割りでここに移りました。この寺の11世魯繽庵義道(ろこうあんぎどう、宝暦11(1761)〜天保5(1834)年)は「久波奈名所図会(くわなめいしょずえ)」などの地誌を著わすとともに、一枚の紙に切り込みを入れるだけで、連続した鶴を折る連鶴を考案し、寛政9(1797)年、『秘伝千羽鶴折形』が刊行され、49種類の連鶴が紹介されています(桑名の千羽鶴;市無形文化財)。今日のテーマからすると、余談が長くなりました。

Img_4508c_20200824145601  さらに進みますと、伝馬公園(願証寺跡)が見えてきます。惣構は、伝馬公園と天武天皇社の間を通っていました。左の写真Img_4513c_20200824145601 で三叉路を左手に進みます。それが右の写真。

Img_4516c  天武天皇社の裏(左の写真)を通って80mほど進むと道は右に曲がり、北向に(右の写Img_4528c_20200824145601 真)。この先で再び、県道401号線に出ます。この曲がるところまで、昨日、北側から来ています。

Img_4530c_20200824145601  さらに進んだ写真。柳の枝が垂れ下がったずっと向こうImg_4538c_20200824161001 に、昨日紹介した金刀比羅社が小さく見えています。これで、今日の目的は一通り、達成できました。

Img_4543c_20200824145401  伝馬公園で一休み。伝馬公園は、近世の桑名城下町でいうと、その南西端にあります。16世紀末頃からこの地に所在した浄土真宗の寺院「願証寺」の境内の一部であったと伝わっています。願証寺はImg_4545c もとは長島にあり、明応6(1497)年、蓮如上人の子・連淳が入って東海地方の浄土真宗の中心として、門徒10万人余を擁する一大勢力を保っていました。本願寺が織田信長と対立したとき、願証寺も信長に反旗を翻したのですが、天正2(1574)年に信長に滅ぼされました。しかし、江戸時代、桑名に再興し、約1万坪(約33,000平方メートル、野球場3個分くらい)に及ぶ境内を有していましたが、正徳5(1715)年の高田派への宗旨替えで内紛が起こり、廃寺に至ったといいます。伝馬役に従事する人々が多く住んでいたため、それが町名になりました。一昨年、市教育委員会が遺跡発掘調査を行い、江戸時代、桑名城下町に全国6番目に整備された上水道管が初めて敷設状態で見つかりました。その説明会に行っています(2018年12月13日:20181208伝馬公園遺跡発掘調査説明会に参加して来ました)。

Img_4586c_20200824145401  という次第で、2日間にわたり、惣構の現地調査をしてきました(たいそうなことではなく、現地と思われるところを歩いて、見て、写真を撮って来ただけ)。江戸時代の城絵図と現代、さらに明治などの地図と比較する作業をしっかりしてから、現地調査に行くべきだったかも知れませんが、散歩ルートから少し足を延ばせばよかったので、まずは見てきたということです。これから、地図をしっかり眺めることにします。遠隔授業は、先週が結果的に夏休み(オープンキャンパスが中止になったため)。明日、第9回のファイルをアップし、メールを送るのですが、今日、作業をしてしまい、メール送信の予約も済ませました。

【余談】Img_4297c_20200824182501  スマホの充電器が不調になって、ビックカメラで買ったと書きました。Anker PowerCore Fusion 5000 white A16210219です。まだ1回しか使っていません。Quick Chargeには対応していませんが、急速充電が無事にできました。気になったのは、ケーブルがちょっと熱を持ったこと。付属のケーブルは短かったので、別物を使用。スマホの充電が終わったあともコンセントに指しておくと、本体にあるバッテリーが充電され、モバイルバッテリーとして使用する準備ができます。もう少し使ってみて、また、レポートします。

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2020年8月17日 (月)

39.2℃のもと村正史跡めぐりスタンプラリーへ……3時間で7.9㎞を歩き村正の鍔の形のピンバッジをゲット

Img_3183c_20200817153401  猛暑のピークは下がるかと期待して、今日は、桑名宗社(春日神社)の村正史跡めぐりスタンプラリーに行くことにしていました。が、期待は得てして裏切られる運命にあります(苦笑)。今日の最高気温は、39.2℃(14時1分)。桑名宗社では、「宝刀村正特別公開」に合わせて、8月13日から31日まで「村正史跡めぐりスタンプラリー」が企画されています。うちわ型スタンプラリー台紙をもって、市内8か所の村正にゆかりあるチェックポイントを回るということ。すべてを揃えたら村正の鐔(つば)の形をした記念ピンバッジが先着1,000名にプレゼントされるのです。

Img_3190c_20200817153401  今日は、同級生K氏、畏友M氏と3人連れ。前期高齢者に入った3人のオッサンが、猛暑の中、連れだってヨタヨタして大丈夫Img_3198c か? と危惧しつつ、熱中症対策を万全にして9時に集合、早速スタート。その前に、桑名宗社にある「細石」をチェック。細石は、境内社の母山神社の拝殿に向かって右手にあります。

200817muramasawalking  今日歩いたコースマップ。桑名宗社をスタートして、京町交差点へ(桑名市博物館近く)。そこから西へ、桑名駅に向かいます。北勢線で西桑名から馬道まで行こうかとも考えましたが、「歩こう」ということになり、そのまま走井山勧学寺へ。ここで最初のスタンプを押し、ゴールに向かいます。和菓子屋さん・玉川軒から、旧東海道を通って、天武天皇社。寺町近くの仏眼院、我が家近くの浄土寺、七里の渡し跡と歩き、最終ポイントの柿安コミュニティパーク入り口にある本多忠勝像を経て、桑名宗社に戻って来ました。この間歩いたのは、7.9㎞でした。9時過ぎにスタートして、正午直前にゴールというほぼ3時間コース。玉川軒で葛アイスを食べていましたし、あちこちで休憩していました。

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 桑名駅南の近鉄名古屋線(標準軌)、JR関西線(狭軌)、三岐鉄道北勢線(ナローゲージ)の3つの幅の線路を渡る踏切を越Img_3205c_20200817153501 え、駅の西側へ。このあたりでスタートから1.5㎞ほど、時刻は9時20分。

Img_3208c Img_3210c  旧諸戸徳成邸(2017年4月29日:「諸戸徳成邸」特別公開へ……「見納め」になるということで)は、諸戸家墓所を残して住宅地になっています。しかもかなりの高級住宅が並んでいます。桑名高校近くの高台にあって、眺めはよいところ。諸戸徳成邸は、残して欲しかったと思います。

Img_3221c  走井山勧学寺には、9時40分頃到着。ここが最初の目的地。お参りして、本堂前に置かれたスタンプを押し、しばし休憩。雲があったもののやはり暑い。帰ってから調べたら、この時点ですでに32℃くらいあったようです。高野山真言宗の寺。開基は、聖武天皇の御代(724~49年)で、行基菩薩の草創によると伝えられています。元は走井山の麓にあったようですが、元和3(1617)年、七代桑名藩主松平定重が矢田城址に本堂を再建しました。桑名市内に現存する寺社建築では、もっとも古いものです。

Img_3231c_20200817153501  勧学寺から三岐鉄道北勢線・馬道駅の方に降りる階段の途中に「伝村正屋敷跡」があります。このすぐ東にあるマンションのあたりに村正の屋敷があったといいます。「勢桑見聞略史」によれば、「村正トテ(中略)其旧宅ノ地矢田走井山観音堂ノ下道ノ左、今庄屋ノ家是其旧地也」とあるそうです。

Img_3241c_20200817153501  馬道駅西の踏切。ちょうど北勢線の電車がやって来ました。私はこの踏切の北西に立つ「三猿像」が好きImg_3248c_20200817153501 で、このあたりに来ると必ず見ていきます。この先は、いつぞや歩いた員弁街道。員弁街道に出て左折し、東へ。市内に向かって行きます。

Img_3257c_20200817153501  国道1号線浅川交差点を横断歩道橋で渡り、2ヶ所目の目的地・玉川軒に向かいます。

Img_3264c  玉川軒。明治28(1895)年創業の老舗。冷たいものをと思い、葛アイス(1本¥200)をいただきました。見た目は普通のアイスキャンディーですが、葛でコーティングされていて、ムチっとした食感で噛み応えあり。アイスですが、溶けません。ここは、村正展で妖刀村正のお菓子を作っていました(現在は、Sold out)。ここでは、買い物をすることで、スタンプを押してもらえます。あまりにも暑かったので、写真を撮ることなど忘れて、アイスを食べてしまいました(爆)。ここで3.8㎞、10時25分頃。

Img_3267c  玉川軒さんの先(東)、掛樋交差点を右折し、さらに左折すると旧東海道に入ります。天武天皇社の手前で、「本願寺跡・梅花仏鏡塔」を見てきました。ここにはかつて本願寺という大きな寺があり、その境内に芭蕉の門人である各務支考の分骨墓・梅花仏鏡塔があります。墓は各務の姓にちなんで、円形の鏡を模しています。各務支考がなくなったあと、この地方の俳諧の指導的立場にあった、支考の門人・雲裡坊杉夫(桑名本願寺住職)がこれを建立しています。

Img_3272c_20200817153501  天武天皇社です。3ヶ所目の目的地。私自身は何度か訪ねています。ここで4.3㎞、時刻は10時35分。壬申の乱(672年)のときに大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名郡家に駐泊されたことにちなみ、のちに創建されました。元は新屋敷付近にあったのですが、江戸時代に鍋屋町(現在地)に移りました。天武天皇を主神として祀っている全国でここのみといいます。

Img_3281c_20200817153501 Img_3283c_20200817153501  さらに東海道を進みます。日進小学校前辺りには七曲見附がありました。そこから北には、寺が集まっています。慶長の町割でここに寺が集められています。左の写真は、仏光山十念寺。浄土宗のお寺。七福神祭で有名ですし、森陳明の墓所があります。右の写真は、鎮照山凝念院光徳寺。浄土宗。ここには、万古焼の創始者である沼波弄山の墓所があります。古くは泡洲崎念仏道場と称していました。

Img_3296c_20200817153501  鍛冶町付近では、枡形を通り、吉津屋町へ。ここで余談。NPO法人千姫のところにあった自販機で気になるものを見つけましImg_3298c た。この千姫は、精神保健ボランティアのグループです。あられやおかきを売っているのですが、もう一つ。ジャガイモも入っていたのです。千姫長島農園で獲れたもので、200gで60円。ちなみに千姫は、2代将軍徳川秀忠の娘で、豊臣秀頼の夫人。徳川・豊臣両氏和親のため慶長8(1603) 年、7歳で豊臣秀頼に嫁しています。元和元(1615)年、大坂夏の陣で豊臣氏が滅んでから関東に帰り、本多忠政(本多忠勝の嫡男)の長子・忠刻と同2年9月29日に再婚。ということで、千姫は、桑名にも縁があるのです。

Img_3305c_20200817153501  京町でここでスタート直後に歩いた道とクロス。南魚町の寳興山(ほうこうざん)仏眼院。天台宗のお寺。創建は不詳ですが、最澄によると伝わっています(2020年8月15日:寺町寺めぐりの続き)。4ヶ所目のポイント。5.8㎞、時刻は11時10分頃。墓所で、千子宗入禅定門(承応4(1655)年没)の墓や、桑名城の前身・東城の城主であった伊藤武左衛門実房(天正11(1583)年没、桑名東城主初代)・実倫(慶長8(1603)年、同2代)父子の墓も確認(8月15日の記事をご参照ください)。

Img_3308c_20200817153501  寺町商店街を通過し、寺町交差点を渡って、袖野山浄土寺へ。西山浄土宗のお寺。我が家のすぐ近くで、このあたりは散歩などですっかり馴染み。写真でも分かりますように、本多平八郎忠勝公本廟があります。ここが5ヶ所目のポイント。6.5㎞、11時25分頃。慶長の町割りで現在地に移り、桑名藩主本多家の菩提寺となりました。

Img_3316c Img_3319c_20200817153501  こちらが本多忠勝公の墓所。前から不思議に思っているのは、鳥居が立っていることです。神仏習合のためかと思うのですが、確信はありません。ちなみにこの鳥居は、その形から神明鳥居でしょう。

Img_3324c_20200817153501  いよいよゴールも近くなりますが、またもや余談。船津屋さんの西に「七里のわたし湯」という銭湯があります。大正時代に創業、平成になってリニューアルしています。そこの自販機にハンディ・ファンを¥1,000で売っているのです。USB充電で使用可能というもの。

Img_3329c  本論に戻って、次の、6ヶ所目のポイントは、七里の渡し跡。ここはもっともお馴染み。毎日の散歩で通過しImg_3333c_20200817153501 ています。スタンプは、すぐ近くの「宿場の茶店 一(はじめ)」さんにありました。宿場町の小さな休憩所というイメージ。軽食や飲み物が楽しめます。6.9㎞、11時40分頃到着。

Img_3336c_20200817153501  ここからまた少しだけ旧東海道を歩いて、北大手橋を渡って、柿安コミュニティパークの方Img_3339c へ。コミュニティパークの入り口に立つのが、本多忠勝像。7ヶ所目。7.3㎞、11時45分。スタンプを探してウロウロしたのですが、コミュニティパーク駐車場の管理室のところにありました。ここに詰めているシルバー人材センターの方に尋ねてしまいました。

Img_3347c  11時55分、7.9㎞を歩いて、桑名宗社(春日神社)に戻って来ました。桑名宗社にもスタImg_3342c_20200817172801 ンプがありますが、それはスタートの時に押しており、これで村正史跡めぐりスタンプラリーをコンプリート。

Img_3353c Img_3355c_20200817153501  社務所で宮司さんに確認していただき、無事に記念品の村正の鍔の形のピンバッジをゲットできました。宮司さんとは知り合いですが、「こんな暑い日に1日で回って来たんですか?!」と驚かれるやら、呆れられるやら。

Img_3359c_20200817153501  いや、それにしてもやはり暑かった(苦笑)。ペットボトル2本(1,100ml)を飲み干しましたし、桑名宗社からの帰り道にさらに1本買ったくらい。スタンプラリーで歩いたのは、初めの方にも書きましたが、7.9㎞、ほぼ3時間。我が家から桑名宗社までの往復が2.0㎞ですから、合計9.9㎞。歩数は、スマホのAlkooのデータで17,788歩でした。Kさん、Mさんもお疲れ様でした。猛暑の中、体調も崩さずゴールできてホッとしました。体力的には自信にはなりましたが、過信せぬようにと自らを戒めておきます。

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2020年8月16日 (日)

連日の猛暑……いささかの仕事と昨日の散歩写真@家内の実家

Img_3157c  いわずもがな、連日の猛暑。日々暑くなっています(苦笑)。「わざわざ書くな!」というお叱りもあるとは思いますが、今日は、13時45分に38.3℃だったそうです。一昨日の夜から昨日の夜までは家内の実家へ。日中は猛暑でしたが、山里ですから、日が当たり始めるのは遅く、日が陰るのは早く、自宅にいるよりも涼しい。今日は、7時半前からほぼ2時間、6.1㎞を歩いてきました。住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀南公園から入江葭町、吉津屋町、新築公園、常盤町、寺町といつも通り。冒頭の写真は、帰宅した9時半頃、拙宅マンション前の光景。

Img_3112c_20200816154401  歩き始めた7時半頃にはもう30℃越え。鳥も散歩友達もいません。歩いているのは、よほどの物好きなどと書くと、今日出遭っImg_3116c た方々には失礼ですが……(苦笑)。Sさん、Wさん、Yさんにはお詫びします。ツバメは、桑名七里の渡し公園近くにて。今年生まれの若鳥のようです。九華公園、ハクセキレイもいたものの、他はハシボソガラス、ムクドリ、ドバト、スズメが数えるほど。アーちゃんは、今日もいました。

Img_3125c  お盆も今日まで、ということで、御坊さんへ。写真は、南門から入ったところ。鐘楼、真宗大谷派の三重教区Img_3129c が入っている同朋会館の向こうに本堂が少し見えています。桑名別院ですので、今でもかなりの規模がありますが、昔はもっと広かったようです。

Img_3132c_20200816154401  ずっと以前、書いたことがあると思いますが、境内には松尾芭蕉の句碑があります。貞享元(1684)年、野ざらし紀行の折、ここ本統寺に一泊し、そのときに詠んだ句「冬牡丹 千鳥よ 雪のほととぎす はせを」の句碑です。市の文化財に指定されています。昭和12(1937)年4月に小林雨月が建立しています。

Img_3140c_20200816155901  また、これも以前の記事にありますが、境内には親鸞聖人像が立っています。現在の境内地で唯一戦火を免れたのが、この親Img_3143c_20200816155901 鸞聖人の銅像です(昭和13(1938)年の建立)。聖人が被られている笠を下から見上げると焼夷弾が貫通してできた小さな穴が3つあるのを見ることができます。

Img_3160c  散歩から帰宅して、シャワーを浴び、昼までの間に遠隔授業1コマ分の録音作業を済ませられました。これで前期分の授業資料と音声ファイルは、準備完了です。午後からは、珍しく午睡も貪らず(爆)、先週の分のQ&A書きと、課題の回答のチェック&評価。今週は、オープンキャンパスが予定されていましたので、休講(結局、オープンキャンパスも中止になりましたが)。次は来週。

Img_2895c_20200816154501  ところで、ここからは昨日の散歩写真。家内の実家辺りの町内一周と、義父の墓参りをしてきました。5㎞ほど。津市郊外の山里です。西に青山高原が望め、風力発電の風車がよく見えます。

Img_2893c Img_2888c_20200816154501  歩き始めてすぐ、近所のお宅に栗の木(あちこちにあります)。もう実はかなり大きくなってきていて、道路にも落ちていますし、田んぼに水を入れる用水路を流れていくのを見ることもあります。

Img_2912c  用水路脇で、カワトンボの仲間。たぶんアオハダトンボと思います。体が金属的な光沢をしており、ヒラヒラという感じで飛びます。私は、どうもこういうタイプのトンボが好きなようです。

Img_2947c  氏神様の射山神社にお参り。大己貴命・少彦名命・天照大神などをお祀りしています。延喜式内社の1つ。境内の裏手にある湯之瀬川の北岸にそびえる射山(貝石山)を御神体とし、今も山腹8合目に御社跡が残っています。

Img_2956c_20200816161401  境内には、芭蕉の反故塚があります。江戸時代の「温泉来由記」に掲載されている「榊原湯山図」に描かれているといいます。芭蕉が亡くなった後、芭蕉を慕う俳人がこの地で句会を開いた際に建立しました。かつて芭蕉がこの地で俳諧をした際に出た反故を埋めたと伝わっています。

Img_2995c  このあと、誓願寺、林性寺などを巡ってから、少し脚を伸ばして幼稚園近くへ。射山神社の「一の鳥居跡」の石柱(向かって左)と、「榊原信濃守塚跡」の石碑(向かって右)が並んで立っています。射山神社一の鳥居跡の背後は、射山神社の鎮守の森、さらにその後ろは貝石山です。

Img_3004c  左の写真が射山神社一の鳥居跡。貝石山は温泉の出る山、湯の山で、この「湯山」が転じてImg_3001c_20200816154401 「射山」になったといいます。それゆえ、温泉の神を祀ったということ。昭和63(1988)年に朽ちかけた石柱を立て替えています。右が、榊原信濃守塚跡碑。「榊原郷土を守る会」(田中萬年会長)が、明治27(1894)年に温泉会所が作成した絵地図を基に、榊原姓の発祥となった榊原城初代城主の榊原信濃守興経(おきつね)の塚跡碑を建立したものです(平成30(2018)年8月)。ここは、現在は、水田のあぜ道となっていますが、温泉に向かう古道沿いだそうです。碑と射山神社と御神体であった貝石山が一直線に並びます。

Img_3038c_20200816154401  歩いていると、稲穂がかなり実ってきて、頭を垂れ始めていました。良い景色です。途中、市営の温泉施設近くで、ヒガンバImg_3019c_20200816154401 ナと思われる花。1輪だけ咲いていました。真っ赤ではなく、ちょっとピンクっぽい気がします。

Img_3041c  少し脚を伸ばして、髙福山清淨光院圓淨寺へ。実家の菩提寺。永享元(1429)年に智海法師が開創したという、歴史のあるお寺。当初は、天台宗でしたが、寛文元(1661)年に真宗高田派線に改宗しています。線香も蝋燭も花も持っていなかったのですが、お盆ですから墓参り。ご住職のお孫さんが遊んでいたのですが、帰り際に大きな声で「ありがとうございました」といわれ、思わずニッコリ。

Img_3061c  川や水田でダイサギを合計3羽見られました。トビの鳴き声も聞こえて来たものの、姿は見られませんでした。水田を囲う動Img_3075c_20200816154401 物除けの電気柵には、よくトンボが止まっています。右は、全身真っ赤ですから、ショウジョウトンボのオスかと思います。

Img_3082c_20200816154401  実家近くに戻って、もう一軒のお寺。萬照山善福寺。こちらも真宗高田派のお寺。最近、掲Img_3086c 示板のことばが気になります(微苦笑)。高田本山作の「『なもあみだぶつ』は弥陀のよび声』というものが貼ってありました。「なもあみだぶつ」は、「南無阿弥陀仏」。「南無阿弥陀仏」とは、大辞林によれば、「阿弥陀仏に帰依するの意。浄土宗などでは、それを唱えることによって阿弥陀仏の浄土に救済されるとする」こと。主体は、個人であり、阿弥陀様ではないと思われますから、「弥陀の呼び声」とは違うんじゃないかというのが、凡夫の浅知恵ですが、いかに?

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