寺院

2018年5月21日 (月)

20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(その4)……徳蓮寺他のお寺を回って、雨尾山飛鳥寺を経て、下深谷駅へゴール(完)

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 4月28日の近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」のその4です。その3では、舟着社と野志里神社の2つの神社を見てきました。野志里神社は、去年の歴史講座を聴いてから是非とも行きたかったところで、念願を一つ果たせました。野志里神社で、6.5㎞過ぎ、時刻はちょうど12時頃。この日は暑くて、いささかお疲れ(苦笑)。しかし、次の目的地を目指して、美濃街道を下ります。ここから先は、ちょうど養老鉄道の線路沿いになります。
Img_0855c_2 コース7㎞のあたりに養老鉄道の下野代駅があります。そこを過ぎたとこImg_0870c_2 ろに常夜灯があり、その台座に徳蓮寺の案内が出ていました。見ると、踏切があり、その向こうには階段が(微笑)。ここが徳蓮寺への入り口。2月27日に出かけた近鉄ハイキングでも、三岐鉄道北勢線の踏切を渡らないと行けない神社がありましたが、ここも同様(近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(予告編)……マップ上9㎞なのに、12.4㎞も歩いたお話(笑))。
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 さて、踏切を渡り、100段ある階段を上って徳蓮寺を拝観に行きます。手Img_0881c_2 すりはあるものの、古くてけっこう急な階段を上って行くと、山の中腹にお寺がありました。眺めはよく、伊勢湾や、アルプスまで見えます。いただいたパンフレットによれば、冬には富士山も見えるとありました。古いお寺です。徳蓮寺(とくれんじ)は、真言宗東寺派で、無畏野山徳蓮寺といいます。 ご本尊が、弘法大師の作と伝わる虚空蔵菩薩であるため、「虚空蔵寺」あるいは「コクゾッサン」と呼ばれ親しまれています。ご本尊は秘仏で、7年に一度開帳されます。
Img_0863c_2 古くは、この地に三輪宗の中蓮寺という寺があったといいますが、壬申

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の乱(672年)の時に焼失しました。しばらく再建されることはなかったのですが、弘仁2(811)年、弘法大師が関東に下向された折、ここを訪れ虚空蔵菩薩を刻み、5つの寺院を建て、5座の神祠を勧請しこの地の守護としたと伝えられています。その後、明応7(1498)年の地震で大破し、元亀・天正年間の織田信長の兵火は免れたものの、天正13(1585)年の大地震でほとんどの堂塔が潰れ、弘法大師の遺物や縁起などすべてが土中に埋もれ、本尊の行方も分からなくなってしまいます。しかし、夜な夜な土中が光ることから、掘り返してみると、ナマズとウナギに守られた本尊が見つかりました。慶長10(1605)年、桑名藩主・本多忠勝公によって寺の由緒についての調べが行われ、寺領が寄進されて再興されました。慶安3(1650)年には大洪水で山崩れが起こり再び堂宇が倒壊するものの、万治2(1659)年に再建し、寺号も徳蓮寺と改められ、現在に至っています。現在、住職はご不在で地元の方々が護持しておられます。
Img_0887c_2 本堂には、252枚の絵馬が奉納されていますが、そのほとんどが、Img_0883c_2 上記のエピソードに因み、本尊をお守りしていたナマズとウナギの絵馬となっています。これらの絵馬は地震除けに奉納されたともいわれているそうです。
Img_0901c_2 古いものがたくさんありました。1枚ずつ確認するのは到底無理でしたImg_0897c_2 が、気づいた中で古かったのは、左の写真にある「天保6乙未十二月」と読めました。しかもこの絵馬の願主は、桑名宿の人です。他にも、桑名の人が奉納したものがたくさんありました。右の写真で下の方の絵馬には、「堤原 正木元治郎 正木助治郎」とあります。堤原は、今も拙宅近くにある地名。上の方の絵馬には、「今一色堤原 桶商」とあります。堤原のあたりは、昔は地名に「今一色」がついていました。
Img_0894c 絵馬は、他にも歌舞伎を描いたかと思われるものなど、ナマズ、ウナギImg_0885c_2 以外の図柄のものもあります。また、古いものばかりでなく、比較的新しいものも奉納されていました。右のものは、平成になってからのものだと伺いました。
Img_0910c_2 ナマズの絵馬がたくさん奉納されているからだと思いますが、秋篠宮殿下が徳蓮寺に平成17年にご来訪になっています。余談でありますが、ご来訪の2~3ヶ月後に長男悠仁親王のご懐妊が発表されたそうです。
Img_0926c_2 もう一つ、境内には、地震慰霊碑があります。「諸国大地震横死萬霊」と読めます。慰霊碑の下半分は地面に埋まっています。この碑、「嘉永七甲寅六月十四 十一月」ともあります(同様に、下の方は地中で読めず)。嘉永7年は、1854年。嘉永7年は、11月27日(グレゴリオ暦1855年1月15日)に安政に改元されていますが、その前に伊賀地震、東海地震、南海地震が起きています(こちらを参照)。日付から見て、これらの地震の被災者を慰霊するもののようです。今でも地元の方によって供養されているそうです。碑陰には、「當山住賢信」とあります。
Img_0935c_2 徳蓮寺には、この鐘にもエピソードがあります。この鐘は、安永4(1775)Img_0921c_2 年、桑名の鋳物師・広瀬与左衛門によって鋳造されています。鐘には、徳蓮寺の寺暦が刻まれています。昭和19(1944)年、第二次世界大戦の時、金属供出令によって供出されたのですが、終戦後、鳥居辰美氏と住職・井高長雅氏が、四日市の石原産業へ引き取りに行き、全国から集められたたくさんの鐘の中から探して、持ち帰ったものだそうです。
Img_0918c_2 閑話休題。野志里神社でも、ここ徳蓮寺でも、地元の「のしろおたから発Img_0864c_2 見隊」の方が説明してくださいました。そのユニフォーム(ベスト)がなかなかのものでしたので、お願いして写真を撮らせてもらいました。野志里神社にもありましたが、このおたから発見隊作の案内板があります。四日市でも地元の方たちによる案内板が各所にありますが、旧・桑名市内ではこういう活動はありません。見倣うとよいと思います。おなじくおたから発見隊の方がお作りになったパンフレットもいただいてきました。
Img_0868c_2 徳蓮寺の境内には他にもいくつか、興味深いものがありました。左の写Img_0867c_2 真は、階段の下にあった「松永先生頌徳之碑」ですが、詳細は不明。右は、「一榊 壱株 伯爵清浦奎吾閣下 御寄附」(ちょっと読みがアヤシい)とありました。清浦奎吾(きようらけいご)は、肥後の人で内務官僚の後、司法相、農商務相の他、枢密顧問官、総理大臣などを歴任。どういう関係があるのかは、ネット検索では不明。こういうことはよくあります。何かのつてをたどってお願いした、ということでしょうか? 分からないこと、多々あります。
Img_0941c 12時半頃、徳蓮寺を拝観して下に降りてきたところで、小生よりも年長の男性に遭遇。ここは何度目かということで、「上には上がりません」とおっしゃいます。しばらくお話しし、何となく気が合う方と思い、このあと、「同行二人(微笑)」。弘法大師が関わるお寺でお目にかかったのも何かのご縁ということ。桑名の大山田の方。飄々としておられ、いろいろとご存じでした。
Img_0948c この方とお話ししながら、徳蓮寺から1㎞余りを歩いて、明光寺へ。スタートからは、8㎞過ぎ。このImg_0951c 男性、近鉄ハイキングに参加なさるようになってもう10年以上と、大ベテラン。1㎞あまりがあっという間。旅は道連れ世は情けというのは、本当です。ここは、もう上深谷。明光寺は、浄土真宗大谷派。ここも踏切を渡って境内に入ります。
Img_0957c 本堂前で休ませてもらっていたら、踏切の警報器が鳴り始めました。これまた例によって、「俄撮り鉄(微笑)」。もうちょっと電車が手前で撮れた方がよかったかと思うのですが、素人撮り鉄としてはまあまあ。撮り鉄の方には、是非ともご助言をお願いいたします。
Img_0974c さらに1㎞弱、ほぼ9㎞地点。法光寺。高野山真言宗のお寺。深谷弘法大師とも呼ばれImg_0975c るようです。山号は、御砂山。このお寺の北、三砂川沿いに三砂城跡があったはず。市内の城跡巡りもしたいと思ってはいるものの、手つかず。やりたいことは多いものの、なかなか実現するのは難しいですねぇ。
Img_0979c この法光寺で珍しかったのは、稲荷社が併設されていたことです。江戸時代までは、神社とお寺が一緒に建てられていることが多かったことや、神仏習合、本地垂迹説などは知識としては知っていました。しかし、ここ法光寺のように、本堂と続きの建物にお稲荷さんが祀られているのは、初めて見ました。稲荷社には、神社名はありませんでした。
Img_0991c 深谷小学校を過ぎ、深谷郵便局の手前で右折。あとは、最終のポイントである雨尾山飛鳥寺を目指すだけと思っていたら、途中に西林寺というお寺がありました。浄土真宗本願寺派のお寺。山号は、北廻山。ここは、北廻城跡。室町時代、近藤右京亮家教の居城でした。織田信長の伊勢侵攻の時、滝川一益によって攻められ籠城。水が無くなったのを知られないため、馬を洗うのに、白米を用いたことから、「白米城」とも呼ばれたといいます。最後には攻め滅ぼされています。
Img_0989c  西林寺は、永正6(1509)年、禅宗の済林寺として創立しています。天正2(1574)年、本願寺第9世実如上人により、浄土真宗に改めました。その後、元禄8(1695)年に西林寺に改称しています。
Img_1002c 西林寺から桑名北高校の北側を通って、雨尾山飛鳥寺(あまおざんひちょうじ)へ。東寺真言宗。霊鳥が飛来した寺という事で「飛鳥寺」と名付けられています。十一面観世音菩薩をご本尊として、弘法大師、大日如来、善光寺如来、馬頭観音、千手観音、子安地蔵尊、不動明王、寺宝として弘法大師画像(桑名市文化財)等、多くの仏像を安置しています。伊勢西国三十三ヵ所観音巡礼の第32番札所。真言密教の名刹でしたが、元亀2(1571)年、織田信長の兵火により、焼失。その後、寛永12(1635)年、桑名藩主・松平定綱公が、この山に遊覧の折り往時を偲んで供料田を寄進、また、万治3(1660)年、同じく松平定重公より年々祈願料を寄進されています。
Img_1008c 高台にあり、木曽三川から、名古屋市街、濃尾平野、遠くは木曽の御嶽山が、一望できる、風光明媚なところにあります。左がその眺め。これ、昨年末にNHKで放送していた「マチ工場のオンナ」でよく出て来たところでした。「どこだろう、深谷あたりか?」と思っていたのです。
Img_1024c 飛鳥寺についたのは、もう13時半を回っていましたので、持参したおにぎりを食べて、その後、境内を見て回りました。左は、三吉稲荷社。由緒などはとくに示されていません。稲荷社によくある「正一位」の幟があったくらい。
Img_1028c もう一つのお社が。こちらも、社名標も由緒書きも何もなく、どういうお社かは不明。飛鳥寺のサイトにも説明はありません。
Img_1038c 今日のゴールは、こちら、養老鉄道・下深谷駅。飛鳥寺Img_1045c の境内から、すぐ東の下に見えています。ゴールは、14時ちょうど。スタートから4時間20分もかかりました。マップ上は、約9㎞ということでしたが、実測で11㎞を踏破(大げさな)。14時12分発で桑名まで。14時18分着。¥260。
 実際に行ったのが4月28日でしたが、完了まで3週間あまりかかってしまいました m(_ _)m お付き合い下さった皆様には篤く御礼申し上げます。これで、近鉄ハイキングでまだ書いていないのは、5月12日の“四日市港ポートビルからの眺望と賑わう「四日市萬古まつり」を楽しむ」”だけです。余り間を置くと、細部を忘れてしまいますし、雑になりますので、また時間を見計らって、なるべく早めに記事を書こうと思っています。書かないと、次にもいけませんし(苦笑)。

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2018年5月20日 (日)

20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(その3)……舟着社と野志里神社

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 近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(4/28)180428kintetsuhikingtado2 のその3です。その2では、多度大社を見て回りました。その後、多度大社前から東へ、またもや上り坂を経て、養老鉄道を越えたところで地道、竹藪の中を通り抜けてきました。前方に林というか、森が見えてきました。
Img_0748c コースに含まれてはいませんが、神社でしたのでここは立ち寄らざるを得まImg_0750c せん(微笑)。「村社 舟着社」という社名標が立っています。「舟着社」というからには、このあたりに舟が着いたということ。これは是非ともお参りし、見てこなくてはなりません。
Img_0752c 社伝によれば、多度神社別宮の一目連大神が度会郡山田郷よりの帰りに舟で当社附近に着かれたので舟着社と云うと伝えられています(こちら)。また、この近辺は尾津浜、尾津崎等の小字のとおり、木曽三川の川岸であったため附近の人々が氏神として舟着社の社名で海神を奉斎したとも伝えられているそうです。今は、揖斐川まで2.5㎞ほどあります。御祭神は、表筒男神(ウワツツノオノミコト)、中筒男神(なかつつのおのみこと)、大山津見神(オオヤマツミノカミ;山の神)、火之迦具土神(かぐつちのかみ;火の神)、底筒男神(そこつつのおのみこと)、天津日子根命(あまつひこねのみこと;多度大社の御祭神、天照大神の子)、気吹戸主命(いぶきどぬしのみこと;祓戸大神(はらえどのおおかみ)の一神。払戸大神とは、神道において祓を司どる神で、祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神)。表筒男神、中筒男神、底筒男神は住吉大社に祀られている御三神、住吉神(すみのえのかみ)。気吹戸主命とは、初めて知った神様。
Img_0754c 尋ねたとき、ちょうど氏子の方がお祭りの準備に来ていらっしゃり、説明をしてくださっただけでなく、本殿の方まで案内をしてくださいました。こういう出会いは、嬉しいものです。
Img_0763c 境内の一隅には、この石碑。「奉献 船置神社」と刻まれています。碑陰を確認するのを忘れてしまいましたが、社伝を裏付けるような石碑と思います。
Img_0765c 帰り際に、最初に見た社名標の碑陰を確認したところ、「国幣大社 御旅所」とありました。寄進したのは、水野英三郎というかた。国幣大社は、多度大社ですから、多度大社の御旅所ということ。5月5日の多度大社神輿渡御の折りには三基の神輿が奉安されるそうです。ちなみに、この記事を書くのにあれこれ調べていたら、日本武尊が東征において、この地から尾張国に向けて船を出したことにちなむという話もあるようです(こちら)。いやぁ、ここは立ち寄ってよかったと思います。このあたりは多度町肱江。肱江川を越え、さらに1㎞ほど進みます。
Img_0798c 美濃街道に面して野志里(のじり)神社があります。延喜式に名を列ねる古社。ここは、今回のハイImg_0801c キングで是非とも訪ねたかったところ。垂仁天皇の御代の創祀と伝えています。倭姫命が天照大神を奉じて、ここ桑名郡野代宮にお着きになり、4年間この地で宮居を造られたと伝わるとこなのです。倭姫命は、その後伊勢に遷幸され、その野代宮の跡に本社が創祀されたといいます。
Img_0803c 想像していたよりも、質素なお社でした。しかし、荘厳というか、由緒があることを十分に感じさせる雰囲気です。主祭神は、当然ながら、天照大神。相殿神は、たくさんおられます。建御雷神(タケミカヅチノカミ)、天児屋根命(アマノコヤネノミコト)、経津主神(フツヌシノカミ)、姫神(不明)、大山咋神(オオヤマクイノカミ)、速玉之男神(はやたまのおのかみ)、事解之男神(コトサカノオノカミ)、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(ヤチマタヒメノカミ)、衝立久那戸神(ツキタテフナドノカミ)、火之迦具土神(カグツチノカミ)、火之夜芸速男神(ひのやぎはやをのかみ)、火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)、品陀和気命(ホンダワケノミコト;応神天皇)、大山津見神(オオヤマツミノカミ)、宇迦之御魂神(うかのみたまのみこと)、白山比売神(しらやまひめのかみ)です。すでにおなじみの神様も多いのですが、ここで初めて名を目にする神様も多数。
Img_0796c 神社から美濃街道を挟んで東側の社地には、「伊勢神宮御旧蹟野代Img_0793c の宮」という石碑が建っています。一説によると、関ヶ原の戦いの時に、薩摩藩兵が多数、ここ美濃街道を通ったため、境内が東西に二分されたという話があるそうです。
Img_0791c 同じく東側の社地には、この「天照大神御𦾔跡式内野志里神社」という石碑もあります。明治Img_0835c 26(1893)年10月に建てられています。揮毫は、三重県知事・成川尚義(なりかわなおよし)。この石碑の上部にある「天照大神」の文字、よくよく見ると普通とは異なっています。「照」という文字のれっか(連火)の部分が「火」になっています。「照」の旧字だそうです。
Img_0820c 野志里神社の社殿の北西には、「千人塚」があります。これは、長島一Img_0822c 向一揆の時、法泉寺の空明は、農民たちと力を合わせて織田信長の軍と肱江川を挟んで戦っています。生き残った空明は戦死者の首を集めて,篤く葬ったのが、この千人塚だそうです。その後、関ヶ原の戦に負けた西軍の兵士の霊も慰めたそうです。
Img_0826c 野志里神社の境内には、まだ見るべきものがあります。左は、由緒を書Img_0830c いた石碑。大正13(1924)年3月に有志の方が建之したと碑陰にはありました。この記事の6つめのパラグラフに書いたような内容が刻まれています。右は、社務所の前に置かれていた「奉力石」。「大正ロマンの石」という副題があり、重さは36貫(150㎏)だそうです。「大正初期此石を肩迄上げた力自慢の面々」として、前野三エ門、前野与三郎他4名の方々のお名前が説明板に記されていました。
Img_0841c ところで、この野志里神社が面しているのは、旧・美濃街道。桑名から長良川に沿って美濃へと通じる街道です。桑名市川口町を起点とし桑名市多度町を通り岐阜県へと続く街道で、養老鉄道とほぼ平行して通っています。わが家近くの三崎見附を通っているのも、この美濃街道。神社で案内して下さっていた「のしろおたから発見隊」の方の説明によれば、関ヶ原の戦の時、ここを薩摩藩兵が通り、そのため、野志里神社の境内地が二分されてしまい、現在のようになったということでした。
Img_0844c 野志里神社を参拝し、見学を終えたのはもう12時少し前。この辺でスタImg_0845c ートからは6㎞半くらい。さらに南に、美濃街道をたどります。神社からすぐのところには、「前野先生頌徳碑」がありましたが、詳細は不明。碑陰を見てきませんでしたし、ネットでも情報は出て来ません。
Img_0848c この頌徳碑のすぐ目の前にはこのような道標がありました。「御衣野員辨道」とあります。御衣野は多度町内の地名で、下野代や下深谷の西あたりを指します。員辨(員弁;いなべ)は、現在の北勢町員弁。その3は、ここまでとします。ほぼ6.5㎞の地点。その4では、お寺の話が続きます。次に訪れた徳蓮寺は、ナマズの絵馬がたくさん奉納されていますし、秋篠宮殿下もいらっしゃったところです。

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2018年5月19日 (土)

近鉄ハイキング「潮風薫るハマヒルガオと春のおとずれを感じて」へ……楠中央緑地公園、吉崎海岸でハマヒルガオそして御園神社(完)

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 心配した雨も、目が覚めた5時過ぎには上がっており、7~8m/sという強風が吹いているものの、絶好のハイキング日和(微笑)。これはもう出かけるしかありません。今日は、「潮風薫るハマヒルガオと春のおとずれを感じて」というテーマ。
Img_2453c 本日のスタートは、近鉄名古屋線・北楠駅。9時50分受付開始ということで、Img_2456c 桑名駅を9時9分発の津新町行きの普通電車に乗車、9時49分着。¥400。ここでコースマップを受け取り、あみま倶楽部のスタンプをゲット。コースは、右の写真の通り。約9㎞とありました。
20180519kintetsuhikingkitakusu こちらが実際に歩いたルート。コースは、北楠駅から、楠中央緑地公園を経て吉崎海岸へ。ここでハマヒルガオを見て、鈴鹿川沿いを歩いて御薗神社に立ち寄って、名古屋線・塩浜駅がゴールです。いつもより立ち寄りポイントが少なく、ひたすら歩くイメージ。
Img_2470c 北楠駅を9時55分にスタート。遠くにコンビナートを眺めながら、田園地帯をImg_2476c 東へ。県道6号線を歩いて楠中央緑地公園を目指します。10時10分過ぎに公園に到着。スタートから1.5㎞足らず。遠くからも、公園にある中州の山が見えていました。
Img_2478c 高いところがあると、登りたくなります(苦笑)。風が強くて煽られそうでしたImg_2481c_2 が、負けずに登って行きます。まわりに高い建物もありませんから、眺望がよく効き、気持ちの良いところ。これで風が強くなければ、いうことはありません。右は、桑名方面を眺めたもの。
Img_4616c 名駅方面の高層ビル群も見えます。今日は、デジイチと、超望遠コンデImg_2488c ジの2台を持って行きましたので、こちらは超望遠コンデジの画像(今日の写真、2000番台のナンバーはデジイチ、4000番台は超望遠コンデジ)。てっぺんにある東屋の周りを一周して、「下山(大げさな)」。
Img_2511c 県道6号線に戻ってさらに東へ。2㎞半あまりのところで海岸道路に突きImg_4633c 当たり、北へ。堤防には、子どもたちが描いたと思われる絵があります。途中、堤防の切れ目から見ると、セントレアが遠くに見えました。管制塔上空を旅客機が通過していきます。セントレアには1回しか行ったことがありませんが、わが家からも見えますし、こういう海沿いに行くとついつい「見えるかな?」と気になるのです。
Img_2516c 海岸道路沿いにもハマヒルガオが咲いていました。これは、気分が高まImg_2565c ります。吉崎海岸では、一面に咲いているだろうと、想像が広がります。その吉崎海岸は、磯津漁港への入り口近くにあります。
Img_2522c 漁港入り口から吉崎海岸までは、さらに数百m。吉崎海岸は、四日市でImg_2530c も数少ない、埋め立て堤防ではなく綺麗な砂浜があるところです。ここは、ハマヒルガオだけでなく、ウミガメやシロチドリなどの貴重な生き物が見られる、自然海岸です。
Img_2527c 吉崎海岸には、10時55分頃到着。木道が整備されていて、ここを歩くよう指示されていまImg_4646c_2 す。広々としていて気持ちの良い空間が広がっています。が、しかし、肝心のハマヒルガオが広がる光景は……?? ありません(苦笑)。あちこちにハマヒルガオは咲いてはいるものの、一面に咲きそろっているというのは、勝手な妄想でした(苦笑)。近くにいらした、カメラを持った男性も、ガッカリしておられました。今日は、女性の参加者がいつもより多かったのですが、ハマヒルガオを期待した人は多数だったはず。
Img_2532c ウミガメはもちろんいませんし、人がたくさん歩いていますから、野鳥の姿もありません(苦笑)。やむなく、眺めを楽しんできました。今日は、実はバードウォッチングの下見というつもりもありましたから、まぁよし。コアジサシが来るという情報もありますし、冬になると渡り鳥も来るでしょう。左の写真は、南の方角。陸地の先端は、伊勢の朝熊山あたり。
Img_4657c 吉崎海岸からもセントレアの写真を(微笑)。私が体調を崩した平成17(2005)年に、このセントレアが開港しています。リビングのソファに座りながら、セントレアを離発着する飛行機をボンヤリ眺めていたことが思い出されます。あれからもう13年も経ってしまいました、などと思うことがあります。
Img_2571c 吉崎海岸から西へ。最初に立ち寄った楠中央緑地公園が見えるところまImg_2576c で戻り、北へ向かいます。写真は、スタートから5㎞ほどの地点。時刻は、11時20分を過ぎた頃。この先は工場地帯の中。地名でいうと、磯津、塩浜あたり。その先で磯津橋で鈴鹿川を渡ります。西には鈴鹿の山並みが見えています。
Img_2579c こちらは、鈴鹿川の下流方向。四日市市塩浜町のコンビナート地帯。石Img_2598c 原産業や、昭和四日市石油などの工場があるところ。この磯津橋を渡りきったところでちょうど6㎞。11時40分くらい。橋を渡って左折、鈴鹿川左岸を西へ。
Img_2610c 距離にして7㎞を過ぎたところ、小倉橋のところで右折。県道6号線、このImg_2613c あたりは塩浜街道と呼ばれる道へ入り、北へ。JRの引き込み線を越えて行きます。JR貨物の塩浜駅からの昭和四日市石油専用線です。
Img_2690c 御園町一丁目の交差点から西へ100mあまりのところに、御園神社があImg_2633c ります。12時を少し過ぎた時間に到着。神社検索(三重)のサイトによれば、創祀年代は不明ですが、もともと神宮の御園として御贄塩を納めていて、塩田の守護、住民の繁栄祈願のため外宮の御薗を社名に冠して創祀したと考えられています。
Img_2657c 主祭神は、天照大御神。相殿神は、天手力男神(アマノタヂカラオノミコト;天の岩屋の戸を手で開けた大力の神)、万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと;織物の神)、豊宇賀能売神(トヨウケビメノカミ;豊受大神(とようけのおおかみ)の異称)、天津日高日子番能迩迩芸能命(あまつひこひこほのににぎのみこと;一般には、邇邇芸命(ニニギノミコト)、農業の神)、天児屋根命(アマノコヤネノミコト;天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)、布刀玉命(フトダマノミコト;天照大神が天の岩屋に隠れた際、天児屋命とその出現を祈請し、また、天孫降臨に五伴緒神(いつとものおのかみ)の一として随従した)、豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ、豊受大神の異称)、応神天皇大山祇命(オオヤマツノカミ;山を司る神)、火之迦具土神(かぐつちのかみ;火の神)、天目一箇命(あまのまひとつのみこと;製鉄・鍛冶の神)、建御名方神(タケミナカタノカミ;武神)、大己貴命(おおなむちのみこと;大国主の別名)、事代主命(コトシロヌシノカミ;大国主命の子)、綿津見神(わたつみのかみ;海を司る神)の15柱。いやぁ、調べるのに大変でした。それにしても、たくさんいらっしゃるのと、豊受大神が重複しているのは、なぜでしょう?
Img_2669c 摂社・末社はありませんでしたが、ここの境内にもいろいろなものがありImg_2672c ました。まずは、「神武天皇遙拝所」。西に向かって拝むようになっています。紀元二千六百年に建てられたとあります。紀元二千六百年は、昭和15(1940)年。この年は、神武天皇が即位して2600年目の年で、日本国内で様々行事が行われました。11月10日には国をあげて大式典が執り行われ、各地の神社ではそれにあわせて神武天皇の陵墓、神武天皇を祭神にした橿原神宮がある奈良県橿原市の方角に向けて遥拝所を作ったといいます。
Img_2684c 境内の西側には、「忠魂碑」がありました。塩浜地区遺族会が、昭和終戦Img_2686c までの塩浜地区内全英霊を祀ったものです。書は、陸軍中将大久保春野によるとあります。大久保は、日清、日露の両戦争に従事した後、明治33(1900)年陸軍中将、その後教総参謀長などを務め、明治41(1908)年に陸軍大将になりました。碑陰も見てきましたが、そこには明治時代に亡くなられた方々のお名前が刻まれていましたので、元々は,日清・日露の戦没者の忠魂碑であったものと思われます。
Img_2636c 社名標の側には、「陸軍歩兵一等兵勲八等岡本熊吉碑」がありました。Img_2674c 詳細は分かりませんが、碑陰には「明治20……」とありましたので、日清戦争に従軍された方の碑と思われます(かなりすり減ってしまっていて、十分には判読できません)。もう一つ、右の写真は、「卯野精忠君祈念碑」というものもありました。碑陰には、日清戦争に従軍し帰国後亡くなった旨が記されているものの、建立年、建立者、改修等の経緯は不明です(こちらも参照)。
Img_2646c その他、あちこち見て回ってきましたが、神社入り口の鳥居のところにあImg_2643c った、この灯籠に興味深いものを見つけました。裏に寄進者の名前が記されていますが、正目から向かって右のものには、「昭和十一年十月 朝鮮京城本町三 伊藤米松 伊藤佐喜松」とありました。朝鮮京城は、ソウル。日本は、明治43(1910)年、併合に関する条約を締結して韓国を完全な植民地としましたが、その時代のもの。向かって右の灯籠裏には「伊藤與宗松」とありました。似た名前ですので、兄弟か、親戚かと思えます。
Img_2682c 新しいものとしては、こちらの「平和の礎」があります。こちらは、平成Img_2680c 4(1992)年2月に「大東亜戦争に御英霊を捧げた戦友の皆様 安らかに御眠り下さい。永遠の平和を 御誓い申し上げます」ということで、氏子一同の名とともに、寄進者として永田政成というお名前が刻まれていました。
Img_2694c 御園神社からゴールの近鉄・塩浜駅はすぐそこでしたが、南側にお寺らImg_2697c しき建物が見えましたので、確認だけしてきました。お寺は二つ。まずは、浄土真宗本願寺派の光耀山西願寺(左の写真)。もう一つは、浄土真宗大谷派の生浦山専福寺。
Img_2706c 少しだけ寄り道をして、ゴールの近鉄名古屋線・塩浜駅に着いたのは12Img_2719c 時33分。あまりたくさん歩いた感じはなく、「9㎞も歩いたか?」と思ったのですが、帰宅してチェックしたら、8.8㎞ほど歩いていました。12時46分に名古屋行き急行がありましたので、これに乗車することにしました。
Img_2721c 塩浜駅に隣接して、近鉄塩浜検修車庫があります。近鉄の車両検査をImg_2723c 行うほか、車庫周辺には資材センターなどもあるそうで、名古屋地区における近鉄の拠点になっています。ここでは、「きんてつ鉄道まつり」が開催されます。子どもたちが小さい頃、連れてきたこともあります。小生は、鉄ちゃんではありませんが、興味はあります。今日も、車庫内に「はかるくん」が止まっていましたので、1枚撮ってきました。電気検測車で、近鉄版ドクターイエローといえる電車です。養老鉄道なども走っているようです(こちら)。
 桑名駅到着は、13時04分。¥350。ハイキングで8.8㎞、桑名駅往復で約2㎞、合計10.8㎞ほど歩きました。今日は、6月以降の近鉄ハイキングのパンフレットもいただけました。あとで確認して、予定を立てようと思っています。「あるく みる まなぶ」という近鉄あみま倶楽部のキャッチフレーズというか、理念は、よく考えられていると思います。日頃のウォーキングと、JRさわやかウォーキングや近鉄ハイキングへの参加、歴史の勉強、続けましょう。もちろん、ご依頼があれば本業(どっちが?)の方も(心理アセスメント、心理学、心理検査などなど)。
 なお、今日の近鉄ハイキング「潮風薫るハマヒルガオと春のおとずれを感じて」の記事は、これで完了であります。4月28日の近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」は、「その3」がまだ途中ですので、続きます。そして、5月12日の近鉄ハイキング“四日市港ポートビルからの眺望と賑わう「四日市萬古まつり」を楽しむ」”は、多度編が終わったら、記事を書きます。

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2018年5月14日 (月)

20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(その1)……多度駅から、鯉料理大黒屋、宮川清めの池、地蔵堂、多度稲荷神社を経て、多度観音堂へ

 JRさわやかウォーキングや、近鉄ハイキングに参加するほか、さらには勝手に近鉄ハイキングなるものまで催してしまい、記事が遅れています。半月ほど遅くなっていますが、4月28日に行ってきた近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」の記事に着手します。ボチボチと参ります。
Img_0478c  この日は、桑名駅から養老鉄道に乗って多度駅へ。多度駅をスタートし、多Img_0479c 度の町並みを眺めながら、伊勢西国三十三所観音巡礼第33番・多度観音堂へ。美濃街道を通って野志里(のじり)神社、徳蓮寺、第32番・雨尾山飛鳥寺を経て、養老鉄道・下深谷駅がゴールという、マップ上約9㎞のコース。コースには多度大社もあります。桑名に住んで25年以上になりますが、まだお参りしていません。また、野志里神社は、倭姫命が天照大神を奉じて桑名郡野代宮にお着きになり、4年間この地に滞在されたところと伝わっており、是非とも一度は訪れたいと思っていたのです。また、美濃街道は、七里の渡しから東海道を200mほど南下した、川口町と江戸町の境から、わが家近くの三崎通、堤原を抜けて美濃、多度へ向かっていますので、これにも興味があります。
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 養老鉄道は、以前は近鉄養老線でした。近鉄の子会社で、平成19(2007)Img_0464c_3 年10月1日付けで近鉄から養老線の運営を引き継ぎました。桑名駅は、4番線から発着。近鉄桑名駅には、今は5番線はなく、同じホームの反対側は6番線(名古屋線下り、四日市、津方面)です。9時25分発大垣行きに乗車。多度駅には、9時38分着。¥310。受付が9時40分からですのでちょうどよい時刻。
Img_0471c 多度駅で見たかったものがありました。それは、こちら「ご当地駅名標」です。写真のように多度大社の馬をイメージしたもの。事業形態の変更に伴って、今年1月1日から設置されています。大垣駅、養老駅など全7駅にそれぞれ独特のものがあるそうです。多度大社は上げ馬神事で有名ですし、境内に神馬もいます。
Img_0473c スタートの多度駅。養老鉄道には乗ったことはありますが、降りるのは初180428kintetsuhikingtado1_2 めて。受付は予定より早くから行われたようで、到着時点では参加者の行列はありませんでした。受け取った地図は、#115。初めに載せましたように、裏表2ページ。これを見ると、歩き通せるのかと若干心配になります。歩いたコースの全体像は、右の画像の通り。縮尺の関係でたいしたことがないように見えますが、実際に歩いたのは、11㎞を。まさに「踏破(大げさな)」であります。
180428kintetsuhikingtado4 スタートから5㎞ほどまでの拡大地図は、こちら。多度駅から北に向かImg_0491c い、多度川を多度橋で渡ったところで、左折し、西へ。地図では分かりませんが、多度大社に向かうこの道、上り坂(苦笑)。この日はけっこう暑かったので、多度大社につくまでに汗ばんでいました。多度山を見ながら歩きます。道沿いで、そこかしこからウグイスのさえずりが聞こえ、また、ツバメが飛び交うという、恵まれた環境でした。
Img_0504c 鯉料理の大黒屋。江戸時代中期に多度大社の参詣者のための旅籠としImg_0509c て創業し、幕末に近くの木曽三川で獲れる天然の鯉を使用して鯉料理を始めています。庭園は、多度山を背景になかなか風流な感じ。仕入れた鯉を清流の中で数か月、餌を与えず飼育することで鯉特有の臭みを完全に消しているそうです。鯉料理は、信州に行ったときにご馳走になったことがありますが、まったく個人的には、海の近くで育っていますので、川魚料理はどうもなぁと思ってしまいます。しかし、こちらのサイトによれば、食べた人が「え、これが鯉!?」と驚くほど、洗練された味と食感の鯉料理とか。
Img_0506c こちらは、庭園への門。大黒屋の名前の通り、門の屋根には、大黒様がImg_0507c 鎮座。建物、お庭はもちろん店も歴史を感じさせるものがあります。機会があれば、鯉料理を味わってみたい気がしますが、今回は先を急ぎました。
Img_0513c 鯉料理の大黒屋の西隣には、西大黒屋さんがあります。多度名物のImg_0514c 壺豆を製造販売しています。大豆を軸にきな粉を練り合わせ、白砂糖で包みこんだ豆菓子で、多度土産として有名で、他にもいくつか店があります。わが家の近くでも、寺町商店街の町の駅で売っています。
Img_0521c 西大黒屋さんのほぼ正面、南側に「宮川清めの池」があります。ここは、Img_0516c 多度川の伏流水を利用した、垢離・掻池(みそぎ池)です。多度大社の参拝者は、ここで手を洗い、口をすすいで身を清めたといいます。いまでも、多度祭には、この池の水で御旅所行列の途中、各御厨(奉仕地区)の祭馬にそれぞれに水を飼い、足を清めるそうです。覗いてみると、確かにきれいな水をたたえていました。
Img_0536c 清めの池から西へ140mほど行くと、宮川常会集会所の脇に地蔵堂があImg_0533c ります。「半跏延命地蔵尊」「薬師如来」という看板が掲げられています。由来は明確ではないものの、半跏像(片足を組んだ像)は、作風からは室町末期から江戸初期(1500年代~1600年代初め)のものとされます。江戸時代から延命地蔵として、ここ柚井(ゆい)の人々の信仰を集めたそうです。並祀されている薬師如来の由来も不明のようですが、地元の方たちからの信仰が厚く、ここに併せ祀られています。
Img_0545c この日のコースのあちこちには、ご覧のように、タケノコの無人販売所がありました。時期的にはちょっと遅いと思います。というのも、並んでいるタケノコが皆大きめ。値段は、販売所によって異なりましたが、だいたい1個¥300~600でした。
Img_0552c 地蔵堂から500m弱で、多度稲荷神社に到着。次のスポットである多度観Img_0555c 音堂や、多度大社の門前に並んでいますが、多度大社の摂社や、末社ではなく、独立した神社です。御祭神は、宇迦之御霊大神。元治元(1864)年、多度の庄屋が伏見稲荷大社に参拝したときに御分霊を拝戴してここにお祭りしたといいます。
Img_0557c この神社、婚活に力を入れているようで、社務所に右のような掲示が出Img_0560c ていました.きちんとした写真を撮ってきませんでしたが、入り口には黄色い「婚活守り」と書いた幟が立っています。必要な方は、御神徳があるかも知れません。
Img_0563c 多度稲荷神社のすぐ北に多度観音堂があります。多度山法雲寺。御本Img_0565c 尊は、千手観音。伊勢西国三十三観音霊場第三十三番札所。宗派は、真言宗です。明治に至るまでたびたび洪水に出会い、元の御堂の位置は定かではないそうですが、明治34(1901)年の本堂再建以来、この場所にあります。本堂は、昭和38(1963)年に改築されています。ご本尊は、平安時代前期の作と推定され、多度神宮寺に関わりがあると考えられています。多度神宮寺は、天平宝字7(763)年に満願(まんがん)禅師が建てたといいます。
Img_0566c 石段を登った上に御堂があり、ご本尊の千手観音と、十一面観音菩薩立Img_0577c 像が祀られています。十一面観音菩薩立像は、南北朝時代前後の作と考えられ、これも多度神宮寺に関係があると推定されています。ちなみに、開基した満願禅師像もるそうですが、それには気づかず(苦笑)。
Img_0576c 梵鐘は、宝永2(1705)年、加賀金沢の鋳物師・平井与兵衛尉永能が鋳造したもの。第二次世界大戦の際、供出された歴史からみて、残されているのはとても珍しいということです。
Img_0580c 境内には石碑がいくつかあります。まずこちらは、「華山翁瘞遺物碑」とあります(ここを参照)。「享和癸亥」とありますから、これが建てられたのは、享和3(1803)年と思われます。あの渡辺崋山は、寛政5(1793)年~天保12(1841)ですので、この石碑の崋山翁葉、渡辺崋山とは思われませんが、これ以上は不明。碑文をしっかりと読めば分かるかも知れません。
Img0584c もう一つは、「満願禅師碑」でした。こちらは新しく、昭和5(1930)年8月と碑陰にありました。さらに、境内には「鱗魚供養之碑」があったのですが(こちら)、これら2つの石碑と、石段を挟んで反対側にあり、見逃してしまいました。
Img_0593c 多度青少年会館との間には、大きな「平野翁頌德碑」が建っています。平野武平という方を顕彰する碑で、昭和7(1932)年3月の建立。こちらに碑文があります。漢文で書かれていますが、ざっと見ると、村長を務めるなど、地元のために多大な貢献をなさった方のようです。ネット検索では詳しい情報は出て来ません。題額は、拓務政務次官加藤久米四郎 。加藤は、三重県桑名郡大山田村(現在の桑名市)出身で、衆議院議員を務め、犬養内閣で拓務政務次官に任じられています。
Img_0596c 多度観音堂の西隣が多度大社。はじめに書きましたが、まだお参りしたことがありませんでしたので、立ち寄っていくことにしました。ただし、観音堂から行きましたので、鳥居をくぐってきちんと参道を進むのではなく、横から入ってしまいました(苦笑)。次は、多度大社のお話し。多度大社の中で、出発から約2㎞。時刻は10時20分。

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2018年5月 5日 (土)

オシドリ発見、歴史散歩と高田本山専修寺へも……家内の実家へ(5/4、5)

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 5月4日午後から5日にかけて、家内の実家へ行っておりました。ゴールデンウィークですから一泊。山間にある温泉地です。すでにあちこちの水田では、ほとんど田植が終わっていました。自分の住まいにいるよりもゆったりとした時間が流れ、居心地のよいところです。
Img_3362c この2日間で最大のニュースは、こちら。オシドリのペアを見つけたことでImg_3370c す。5日午前中、散歩中に実家近くの川にいたのです。川の景色を写真に撮っていたら、向こうが驚いて飛び立って見つけられました(微笑)。実物は初めて。オスは本当にきれいですし、この質感やフォルムも美しい。
Img_3319c 実家のあたりには、ツバメがたくさん飛び交っています。実家前の道路の電Img_3322c 線や、引き込み線にもやって来ます。オスは盛んに「チュビチュビチュビチュルルルル」というようなさえずりを聞かせてくれます。
Img_3263c 実家の玄関先には、数年前のツバメの巣がそのまま残っています。ツバメたちは、この巣を何度も確認に来ているのですが、今のところまだここで子育てをするとは決めていない様子。義母は、何とかここで子育てをしてくれないかと願っています。
Img_3295c 夕方になると、実家近くにはホオジロのオスがやって来ます。電線や電柱Img_3347c の上でさえずっています。トビもよく見ます。超望遠コンデジしか持参しませんでしたので、飛んでいるところを撮るのは、なかなか難しい。このほか、ウグイスもよく鳴いていて、5日の朝は、ウグイスの鳴き声で目が覚めるという贅沢(微笑)。
Img_3326c 5日の午前中は、散歩。町内一周で、2.8㎞ほど。左は、地区(垣内(かいImg_3328c_2 と))の山の神様。庚申塚牛頭天王(インドの祇園精舎の守護神。除疫神)なども祀られています。鳥居に向かって右にある「御神」には、「文政六未十二月 花掛垣内」とありました。文政6年は、1823年。
Img_3396c 実家での散歩では、いつも氏神様の射山神社にお参りします。主祭神Img_3394c は、大名貴命と少名彦命。延喜式神名帳にも載っています。境内の裏手にある湯之瀬川の北岸にそびえる射山(貝石山)を御神体とし、今も山腹八合目に御社殿が残っているそうです。この境内は拝殿御旅所とされていましたが、天正16(1588)年3月、現地に遷座されています。
Img_3429c この3月に涅槃図のご開帳を拝観した林性寺の近くにある、湯元誓願寺観音堂にも立ち寄って来ました。駐在所の正面にあります。湯元は地名のようです。一志郡内三拾三所第30番札所といいます。ご本尊は、十一面観世音菩薩ですが、この他に近くにあった十王堂から閻魔さまが、また湯治場にあった観音堂から33体の観音様と大所帯です。無住職で、地元自治会が管理しておられます。
Img_3448c 「不動さん」で親しまれている、古井谷(ふりだん)のお不動さま。この存Img_3450c 在は、以前から知っていたのですが、きちんと拝観してきたのは、初めて。常夜灯が側にあり、大日さん(大日如来)、山の神さんも境内に祀られているそうです。中央にいらっしゃる、石に刻まれたお像が不動明王様。このお不動さん、榊原にお城があったころからの不動堂で、縄張り図(お城の図面)にも記されているそうです。
Img_3519c 午後からは、一身田の高田本山専修寺へ。ここには義父のお骨が納めImg_3518c てありますので、義母と家内、娘でお参り。もう少し賑わっているかと思ったのですが、空いていました。ゆっくりとお参り。
Img_2982c ここで、家内の希望もあり、1月16日の「勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング(笑)」……高田本山専修寺と一身田寺内町散歩(その1)一身田寺内町に入り、聖俗の結界を超えるまで」のリベンジ(微笑)。京林堂さんで、カレー焼その他をゲット(写真は、1月16日のもの)。お客さんは小生達夫婦のみ。焼置きはしないということで、20分待ちでした。
Img_3305c 昨晩(5/5)は、国道23号線の渋滞を避けようと、夜9時過ぎに出発。四日市に入るまでは順調でしたが、蔵町交差点あたりから大渋滞。途中で国道1号に抜け、11時を大幅に回って帰宅。この記事も、5/6に、5/5の日付で遡って投稿しました。

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2018年5月 2日 (水)

20180423勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」(その3)……津観音から、蜂蜜まん本舗、千寿で天むすをゲットし、お城公園へ

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 勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」のそ20180423tsuwalk の3です。津観音の途中です。右のマップでは、中央やや右上、スタートの津新町駅からは5㎞ほどのところ。時刻は、ちょうどお昼を過ぎた頃。
Img_2352c こちらは、境内の西にある護摩堂。Weblioの説明では、元は寛永18(1641年)年に創建されました。津観音は、昭和20(1945)年7月28日の夜、アメリカ軍による空襲によって、市街建造物の大半と共に一夜にして灰になっています。観音堂は、昭和43(1968)年に再建。この護摩堂は、平成6(1994)に再建されています。
Img_2362c 護摩堂の北隣には、地蔵堂と、お地蔵様が数体いらっしゃいます。さらにImg_2363c その北には、三十三ヵ所の観音さん巡りと思いますが、設けられていました。北端には、「弘法大師降誕千二百年 昭和48年6月15日」と台座に刻まれた弘法大師像があります。ただ、よく確かめて来ませんでした。
Img_2328c 境内には、「東町 三社宮」も祀られています。東側にあります。御堂の傍らImg_2330c には、「火守神 猿田彦神社 秋葉神社 阿多古神社」という立て札があります。秋葉さんは火除けの神様ですが、猿田彦神は、道案内の神様。阿多古神社は、愛宕神社(あたごじんじゃ)と思われます。愛宕神社は火伏せ・防火に霊験のある神社。3社のうち2社が火除けの神様ですから、「火守社」でまぁ、いいか。「東町」というのは、町名変更(昭和45(1972)年5月))までは、「津市大字大門字東町」というのがあったようですから、それと関係があるかも知れません(こちら)。
Img_2336c 三社宮のすぐ北には、「小津安二郎記念碑」があります。小津安二郎(1903Img_2334c ~63)については説明の要はないと思いますが、映画監督で、旧制・宇治山田中学の卒業。なぜ小津の碑がここにあるかというと、母方は代々旧一志郡竹原村の名家で、祖母・津志が、この津観音の近くに嫁いでいます。小津は、若い日の10年間三重県で育ったのですが、津観音境内の映画館にもなじんだからという縁があったためです。碑は、平成27(2015)年3月に建てられています。裏には協賛者名が示されていました。
Img_2342c こちらは、「清雲院於奈津の方顕彰碑」です。於奈津の方は、徳川家康の側室。伊勢北畠家の旧臣であった長谷川藤直の娘。慶長2(1597)年に17歳で二条城の奥勤めとなり、当時56歳であった家康の側室となりました。家康没後は、落飾し清雲院と号します。晩年は、唯一生存している家康の側室として大事にされたそうです。伊勢国山田(現在の三重県伊勢市山田)に清雲院を創建しています。万治3(1660)年、死去。享年80。この碑は、於奈津の方の母方の子孫の方が昭和56(1981)年3月に建てたとありました。
Img_2367c 境内の北西隅には、津八幡宮御旅所がありました。御旅所(おたびしょ)は、神霊の渡御 (神幸) のとき、神霊を仮に安置するところ。津八幡宮は、津市藤方にあります。応神天皇を祭神とし、藤堂藩歴代の崇敬が厚かった神社です。津観音も、明治維新までは、藩主や将軍家から保護されていました。津まつりのとき、八幡宮のご神体がこられます。
Img_2384c こちらは、本坊ともいうべき蓬莱山大宝院。以前は六大院と称し、後花園天皇以来、歴代天皇の勅願寺。また、その第9世長尭上人は、尾張出身で豊臣秀吉の手習学問の師をつとめた人です。現在は、観音寺の寺務所として境内西側に位置し、芭蕉の句碑や什物を収めた収蔵庫などがあるのですが、ここは前を通過したのみでした。
Img_2382c 大門商店街そのものが、昭和の雰囲気たっぷりのところなのですが、津Img_2389c 観音の境内西側には、その典型といえるところがあります。一つは、大門駐車場。家内曰く、「昔のまんま」であります。もう一つは、大門シネマ。ただし、2009年7月20日に閉館。前身は東宝系の封切館だったようです。閉館していたのをある方が借り受けて営業していらしたようです。大門シネマと同じビルに入っている喫茶サンモリッツ(ここも歴史があるようです)は、営業していました。
Img_2396c ここから平治煎餅の本店前を通って、国道23号線へ。出たところのややImg_2401c 南には岡三証券津支店。津は岡三証券発祥の地で、大正12(1923)年の創業以来の歴史があるそうです。1階には三重テレビのスタジオもありますし、4階には神楽洞夢というプラネタリウムまであるのです。
Img_2404c 23号線を少しだけ南に行くと、蜂蜜まん本舗があります。蜂蜜まんじゅうで有名。津のソウルフードの一つといってもよいでしょう。水谷養蜂場ゆかりの初代が「蜂蜜をもっと身近に」との想いから生み出した名物饅頭。焼き立てをほおばると皮はパリッ、中のこしあんはアツアツ、そしてほんのり蜂蜜の風味が広がる。1個60円。10個入りをゲット。
Img_2407c 蜂蜜まんを勝手から、お昼御飯にしようと思った千寿の天むすを探してImg_2410c ウロウロ。記憶では、蜂蜜まん本舗のすぐ東にあったと思ったのですが、通りの筋が違っていました。千寿にたどり着く前に、稲荷社を発見。大門西の交差点から東に入ったところ。お参りする人はあるようですが、何やら異界に入っていくような、ちょっと怖い雰囲気。
Img_2413c 勇気を出して入っていくと、このようなお社がありました。灯りもともっていImg_2408c ますし、お参りする人もあって、それなりに世話がされているようでした。一の鳥居をくぐったところには、日露戦争(明治37(1904)年、二○三高地で残り少なくなったという砲弾があります。「二八榴砲弾」とあります(リンク先のWikipediaでは、二十八糎榴弾砲(にじゅうはちせんちりゅうだんほう)となっています。朱く塗られ、無造作に置いてある感じで、ちょっと驚きます。
Img_2417c 稲荷社を出て、少し、無事に千寿を見つけ、天むす5個セImg_2419c ットをテイクアウト。お店でも食べられますが、お城公園でお昼にするつもりでした。右の写真は、千寿の手前で電柱にあったもの。「千寿 めいふつ 天むす」とある脇に「5m先」とあって、笑いました。確かにそうでした。
Img_2427c 国道23号線にもどって、津センターパレスビル のところで、国道を横断。センターImg_2432c パレスには、市民活動センターや、公民館、ホールなど公共施設が入っていますし、隣には都ホテルがあります。センターパレスビルから、23号線を隔てたところにあるのは、三重会館。みずほ銀行、三重交通などが入る合同ビル。以前は、津中央郵便局も入っていたのですが、今は、隣に独立したビルになっています。昔、ここには「三重会館のメリーさん」と呼ばれる女性が、1階にバス待合所のベンチに、毎日、赤い服を着て一日中座っていたという伝説があります。三重会館が改修(平成12(2000)年)される前の話です。
Img_2426c ここ三重会館前の交差点の南西角には百五銀行の本部もあります。明治11(1878)年11月に第百五国立銀行として創業。明治30(1897)年、普通銀行に改組、百五銀行として発足しています。
Img_2435c 百五銀行本部の前には、谷川士清の像が立っています。丸の内商店街が歴史モニュメントとして設置したもの(こちら)。松菱百貨店前の松尾芭蕉像もその一つ。谷川士清は、本居宣長と並び称される、伊勢の生んだ二大国学者の一人。宝永6(1709)年、八町で町医を営む谷川義章の長男として生まれました。享保15(1730)年頃から約5年間京都に遊学し、医の宗家福井丹波守に学び医師免許を受け、享保20(1735)年8月、津に帰郷。
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 父の跡を継いで医者となり、医業のかたわら学問にもうちこみ、宝暦元(1751)年には日本書紀の注釈書「日本書紀通証」(全35巻)を完成させています。また、わが国最初の五十音順にならべられた国語辞典、「和訓栞」(全93巻)もまとめました。
Img_2451c またこの百五銀行本部のすぐ北には、旧・津城の石垣が保存されていまImg_2444c す。津城は天正8(1580)年頃、織田信長の弟・信包が築城。この場所は、津城内堀の北東隅にあたります。発掘調査でみつかったもののうち、もっとも状態のよい約5m分を解体し、移築、復元整備したものだそうです。
Img_2463c ここまで来ると、津城跡のお城公園までは、ほぼ100m。このお城公園もImg_2527c 一度は訪れてみたかったところ。地元の桑名城跡・九華公園は、櫓も石垣もほとんど何も残っていませんので、こういう石垣や、再建されたとはいえ、櫓があるところにはあこがれます。
 というところで、切りがよいので、本日はここまで。

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2018年5月 1日 (火)

20180423勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」(その2)……乱歩の墓のある浄明院、阿漕平治に関わる上宮寺、西来寺、大門商店街から津観音

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 “勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」”、20180423tsuwalk ゆるりと進んでおります(苦笑)。その1では、松菱百貨店から藤堂家墓所の寒松院を見て、フェニックス通りまで来ました。まだまだ序の口。先行き不透明ではありますが、なるべく余分な話は割愛しつつ進めましょう。
Img_2113c 出発から3㎞、フェニックス通り沿いに浄明院(じょうみょういん)があります。Img_2115c 津藩・3代藩主・藤堂高久が藤堂家の菩提所としました。入り口から東には、右の写真のように、祠がいくつも建っています。四国八十八ヶ所をこれで再現していたと思われますが、必ずしも良好な状態ではありませんでした。
Img_2131c 「三重県の歴史散歩」で紹介されていたのは、この花崗岩でできた「石造Img_2135c 篋印塔(ほうきょういんとう)」です(県文化財)。宝篋印塔は、宝篋印陀羅尼という呪文を収めた塔だそうです。笠の四隅に「角(つの)」と呼ばれる突起があり、屋根に何段かの造り出しがあるのが特徴といいます。基壇には「文保2(1318)年」の銘文が刻まれ、鎌倉時代の作です。
Img_2121c 浄明院の鐘は、第2代津藩主・藤堂高次公が江戸で造った寺にあったものを、第3代藩主・高久公が貞享元(1684)年、ここに移したものとされます。作者は、江戸初期に活躍した津の鋳物師・辻越後守陳種(のぶたね)。銘文には慶安2(1649)年鋳造とありますが、他の資料から考え合わせると、貞享元(1684)~2(1685)年頃の作と思われるということです。
 ちなみに、津城下では鋳物師・辻家が発展していますが、これには初代・高虎公が、「方広寺鐘銘事件」に関わって幕府から罪人扱いされていた初代越後守家種を津城下に住まわせて守ったことに始まります。有力者が寺院に寄進する、仏像や梵鐘、燈籠などの銅製品の注文は代々の辻氏が請け負ったことから、津城下には江戸初期の辻一族の作品がいっぱいあるのです。このあと訪ねた津観音の銅製の燈籠もそうですし、1月に行った高田本山専修寺にも灯籠などがあります。
Img_2222c 浄明院墓地には、探偵小説で有名な江戸川乱歩が建てた平池祖先代々の墓があります。江戸川乱歩は、現在の三重県名張市生まれ。本名は、平井太郎。乱歩の祖先は、津藩士で、ここが菩提寺。この墓は、乱歩が昭和26(1951)年に建てました。ここには、乱歩の骨も分骨されているといいます。実は、最初に浄明院に行ったときには、見忘れ(というか、墓所そのものを見なかったのです)、西来寺で思い出し、戻りました(苦笑)。
Img_2212c もう一つ、ここ浄明院は、津藩の歴代藩主の生母が眠っています。「浄明院」は、津藩第3代藩主・藤堂高久の母(多羅尾光誠の娘)の甥・拙堂和尚のために延宝8(1680)年、創建された寺です。高久公の母の死後、その法号浄明院を寺号としています。
Img_2145c 「三重県の歴史散歩」の記述に従い、浄明院からフェニックス通りを西へ。西来寺というお寺に向かったのですが、津フェニックスビルのある交差点を右折(北へ)したところで、この看板を発見。浄土真宗高田派・上宮寺(じょうぐうじ)なのですが「あこぎ平治の寺」と書いてあるではありませんか! 「阿漕平治(あこぎへいじ)」といえば、津の伝説。「阿漕な」ということばの語源でもあり、津名物「平治煎餅」にもその名が残っています。これは見逃してはならじと、戻って拝観。
Img_2140c こちらが上宮寺の山門(というか、門)。浄土真宗高田派のお寺で、山号Img_2147c は太楽山。縁起によれば、推古天皇の時代に朝廷の許しを得て創建され、聖徳太子が紫雲寺と命名、後に舒明天皇から上宮寺の号を賜ったとあります。これが事実であれば、東大寺や唐招提寺より古い、飛鳥時代からあったお寺となります。これによって、「津市最古のお寺」とされています。
Img_2175c あまり知られていない気がしますが、毎年8月16日には、ご住職が旧知の境内・阿漕塚に出歩して、読経念仏をしていらっしゃるといいます。禁漁区の阿漕裏で漁をしたため、平治は死罪になったのですが、その霊は成仏できず、海をさまよっていたそうです。当時の西信律師(さいしんりっし)はお経を書いた石を海に沈めて、平治の霊を成仏させ、塚(阿漕塚)を築いて、平治を弔いました。
Img_2153c もう一つは、江戸初期の僧・清韓のお墓があります。清韓(文英清韓)はImg_2157c 伊勢国三宅(鈴鹿市)の生まれ、臨済宗の僧。豊臣秀吉の庇護を受けて、慶長5(1600)年東福寺の第227世となり、同9(1604)年には南禅寺(世代不明)に昇住しています。同19(1614)年、豊臣秀頼に請われて方広寺の鐘銘を書したのですが、これが史上有名な「国家安康」の銘文なのです。徳川方の怒りを買い、大坂の陣を引き起こす原因となったとされています。
Img_2151c 「伊勢の海阿漕が浦に引く網もたび重なれば人もこそ知れ」という古歌の歌碑もありました。これも、阿漕平治に関わるもの。裏を見てくるのを忘れました m(_ _)m 謡曲にも「阿漕」というものがあります。世阿弥作と伝わりますから、室町時代前期のもの。そうだとすれば、阿漕平治の話は相当古い。謡曲は、旅僧が、阿漕ヶ浦で密漁をして海に沈められた漁師の霊から懺悔物語を聞くというストーリーだそうです。
Img_2182c 続いて、すぐ北隣の西来寺(せいらいじ)へ。ここは、天台真盛宗別格本Img_2201c 山。天台真盛宗、小生はよく知りませんでしたが、宗祖は室町時代中期の天台僧・真盛上人(1443~95)、総本山は大津市坂本(比叡山・横川の麓)にある西教寺です。西来寺は宗祖真盛上人が伊勢の地に来られ、安濃津で初めてご説法なされ、不断念仏道場が建立されたのを開基としています。延徳2(1490)年4月のことです。
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 別格本山ということで、慶大にはいくつもの塔頭があります。こちらは、元三大師堂元三大師は、平安中期の天台宗の僧、良源。比叡山第17代の座主で、比叡山中興の祖。寛和元(985)年正月3日に没したのでこのように呼ばれます。
Img_2233c 西来寺で、「三重県の歴史散歩」のコピーを見直して、浄明院の墓地や、Img_2239c 江戸川乱歩の墓を見忘れたのに気づき、引き返して確認してきました。その後、またフェニックス通りを経て、いよいよ大門商店街へ。三重県在住39年にして初訪問でした。津観音(恵日山観音寺、日本三大観音の一つ)を中心に発達した商店街と飲食店街とが複合した地域。以前は、津を代表する繁華街でしたが、アクセスの不便さなどによって、最近は衰退しているといわざるを得ません。訪れたのは月曜で、定休日という店も多くて、閑散としていました。
Img_2256c 大門商店街を北へ向かうと、津観音に行き当たります(恵日山観音寺)。

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本尊は聖観音菩薩。日本三大観音の一つとされます(ちなみに他の2つは、浅草観音、大須観音)。ここも以前から、来てみたかったところ。真言宗の古刹。和銅2(709)年の建立とされ、室町時代の永享2(1430)年に、将軍足利義教が勅命を奉じ境内に三重塔や恵音院を建立したり、延徳2年(1490)には天台真盛宗の開祖、真盛上人が山内不動院に滞在し、観音堂に於いて説法され天台真盛宗を広められたといいます。
Img_2263c 仁王門には、当然お二人の仁王様。仏教護持の神像。忿怒の相で、一Img_2270c_2 体は口を開き、一体は口を閉じ両者で「阿吽(あうん)」の相をなしています。本来は、金剛力士とするものなど諸説があります。左の写真は、商店街から向かって左、阿吽の「吽」。右の写真は、仁王門の境内側におわす狛犬。これも向かって左のもの。
Img_2267c 仁王門の中央には、「撫で石」がありました。四国八十八ヶ所の中でもっとも難所と言われる第六十番札所「横峰寺」からもたらされたもの。石を撫でた手で、身体の悪いところをこすると、よくなると伝えられています。「口が悪い」のも直るのでしょうか(苦笑)?
Img_2286c 正面参道の中央には、銅燈籠が1基あります。これは、浄明院の鐘と同じく、津の鋳物師であった辻一族がつくったもの。初代・家種の二人の息子、重種・吉種の作。銘文によれば、寛永5(1628)年のもの。写真を撮り忘れたのですが、ここの銅鐘も、辻家種、重種、吉種の作です。銅鐘の方は、元和3(1617)年のもの。
Img_2292c こちらが観音堂。階段の左右には、抜苦与楽(ばっくよらく)地蔵が対になっておられます。抜苦与楽とは仏・菩薩が衆生を苦しみから救い、福楽を与えるという意味です。真の楽を得るためには、まず苦を抜くという考えを元にしています。慈悲に相当する言葉で、抜苦とは悲に、また、与楽とは慈に相当します。
Img_2303c 観音堂の内部。天井には、右の写真のような彩色画が描かれていましImg_2315c た。ご本尊でもある観音様でしょうか、秘仏とされる阿弥陀様でしょうか? 小生の知識では判別不能。
Img_2346c 左は、丈六地蔵尊。ひときわ大きなお地蔵様。丈六というのは、調べてImg_2355c みたら、仏像の像高の規準の1つで、立像の高さが1丈6尺(約4.8メートル)ある仏像のことだそうです。座像の場合は、立てば丈六ということで、半分の8尺(訳2.4メートル)の像を丈六像と呼びます。独り言ですが、知らないこと、多々あります。右は、五重塔。三重県下初の純木造五重塔で、平成13(2001)年5月に落慶。内部は、Googleのインドアビューで見られます(https://goo.gl/maps/B1FqHJqmDuB2)。見てみたら、内部の荘厳は素晴らしいの一言。
Img_2290c 津観音の境内では、ちょうど桐の花が咲いていました。桐の花は初めてで、現地ではなんだか分からず、帰って調べて、判明。
 津観音の主なところは見てきましたが、このほか、小津安二郎の碑などまだまだあります。今日のところは、タイムアップ。その3へ続きます。

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2018年4月29日 (日)

20180423勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」(その1)……津新町駅界隈、松菱百貨店、藤堂家墓所の寒松院

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 出かけた日から1週間近く経過してしまい、さらには、昨日(4/28)にも近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」に行ってしまいました(20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(予告編))。我ながら何をしているのかと思いますが、ボツボツと記事を書いていくことにします。ご用とお急ぎでない方にはお付き合いをお願い申し上げます。
20180423tsuwalk この日歩いたルートはこの地図の通り。ときどき寄り道をしたり、戻って見直しをしたりしましたが、左にある津新町駅をスタートし、反時計回りに一周して戻ってきています。9時50分にスタートし、津新町駅に戻ってきたのは、14時10分。4時間あまりかけて、8.8㎞を歩きました。
Img_2677c タイトル通り、この日のスタートは、近鉄名古屋線・津新町駅。Img_1961c 桑名を9時1分に発車する五十鈴川行き急行に乗って、9時48分に到着。¥750。一駅手前の津までは、¥690なのに¥60もアップ。津新町駅、昔々(最初の勤務先の時代ですから、30数年前から20数年前くらい)、何度か来ましたが、ずいぶんご無沙汰。
Img_1963c 駅前にあるビルも、建て変わっています。左は、改札を出て左手のビル。昔Img_1966c は、確か近鉄東海ストアがあったところ(こちら)。現在は、高層マンション。他にもボウリング場や、映画館(津東映)があったはず。右の写真は、駅正面。向かって左に建つビルは、産婦人科病院。いささかゆかりがありますが、病院名は変わっていました。「今は昔」という印象(笑)。
Dscn6823c この日、行きたかったところは、津松菱百貨店。ここもずいぶん前に1~2度来た覚えはあります。「夢のメダカの祭典と山野草・盆栽展」が前週の金曜から、この日まで開かれていたのです。メダカを見ようというのと、スイレン栽培セットを見て、気に入ったら買おうと思ったのです。前日の研究会も終わり、依頼された仕事もほぼ一段落つきましたので出かけたのですが、ついでに近くを歴史散歩しようという算段。とはいえ、準備をまったくしておらず、「三重県歴史散歩(山川出版社)」の該当ページを出かける直前にコピーし、電車の中で読むという、泥縄。先行きが思いやられます。
Img_1970c 津新町駅の改札を出て東へ。すぐ側に交番がありますが、交番脇で右Img_1968c のような石柱を発見。このあたりの現在の町名は、「南丸之内」ですが、旧町名の「古河町」を表示しています。向かって右側には、由来が簡単に書かれています。古くは1㎞ほど南にあった衆楽のあたりを安濃川の旧河道が通っていたそうで、その旧河道に因んだ地名といいます。今日、このあと歩いた先々でこの旧町名を表す石柱がありました。石柱の反対側には新町名が刻まれています。なかなかよいアイデアと思います。
Img_1978c 駅そばの踏切を渡って、岩田橋に続く道に出ます。Googleマップや、距離測βでは、「伊賀街道」となっていますが(予告編では、これにしたがって、旧・伊賀街道と書きました)、「みえの歴史街道」によれば、伊賀街道は現在の三重会館からお城公園などの北を通って、安濃川に沿う道になっています(ここからさらに北)。昔は、アーケードのある商店街だった記憶があるのですが、確信はありません。すっかり景色が変わった印象。
Img_2005c 岩田橋の手前で、ちょっと気になって、右折(南へ)。昭和橋という橋が岩田川にかかっています。よく考えてみたら、この先にあるのは三重刑務所。我ながら不思議だったのですが、最初の勤務先時代、このあたりを何度か通っていて、記憶の片隅にあったのだと思います。もちろん刑務所には縁はありません。
Img_2000c 橋の手前には、地蔵堂がありました。たいそう立派な建物で、きちんと世Img_2003c 話がなされている様子です。どういうお地蔵様が祀られているのか気になるのですが、示されていないことがよくあります。ここには「光徳地蔵」と刻まれていました。ネットで検索すると、「光明功徳仏(ピンピンコロリ地蔵)」というものが出て来ましたが(こちら)、関連があるのかはまったく不明。あちこちにあるお地蔵様は、よほど有名なものでないとその情報は出て来ませんねぇ。
Img_2015c もとの道に戻って岩田橋を目指します。中部電力の支店Img_2022c 近くには、小生のイメージ通り、アーケードのある商店街がありました。しかし、いわゆる「シャッター通り」という感じ。昔、どこかで、先輩ノ高校時代行きつけのお好み焼き屋さんに入ったと思うのですが、すっかり忘却の彼方。
Img_2026c 1㎞半ほどで、岩田橋。江戸時代初期には木橋が架けられ、欄干が擬宝Img_2025c 珠で装飾されていたといいます。「参宮道中の橋に擬宝珠をつけたのは、瀬田の唐橋とこの岩田橋以外には天下にない」といわれたそうです。この岩田橋の北東にあるのが、松菱百貨店。本日の目的地。
Dscn6821c 県内には、百貨店(歴史的用語!)は、この松菱百貨店と四日市近鉄百Dscn6824c 貨店のみと思います。しばらく前までは、四日市に松坂屋があり、松阪には三交百貨店がありましたが、いれも撤退、廃業(と思います)。月曜日のためか、空いていました(笑)。大都会のデパートとは異なり、店内の売り場もゆったりとしていますし、お客さんも少ないのでゆっくり回れます。
Dscn6827c 「夢のメダカの祭典と山野草・盆栽展」は6階催事場で開Dscn6837c 催。ただし、実際には、展示・即売会でした。この日が最終日で、お客さんはそれなりに。メダカは、高級品種がほとんど。たとえば、黒ラメ幹之 松井ヒレ長 1匹(税込)5,000円とか、三色ラメ 1匹(税込)6,000円とか。とても手が出ませんし、買ったとしても小生では、夜もおちおち眠れませんので、メダカは見ただけ(苦笑)。
02241626_58afe0429e8b5 結局、「このままスイレン栽培セット(ロイヤルパープル)」を1つお買い上げ(笑)。しかし、これでDscn6867c 予定通りなのです(写真は、ネットから借りました)。ネットでは¥1,300ほどで売っていますが、この日は¥980。現在は、右の写真のように、球根を水につけて、葉っぱが出てくるのを待っています。赤い小さな芽が出てきたところ。
Dscn6828c 余談が続きますが、松菱百貨店の6階催事場脇には、茶室があります。Dscn6831c 「松南軒」。江戸末期、京都に建てられ、西郷隆盛や、富岡鉄斎なども来たといわれます。百貨店創業者の方が移築なさったそうです。ネットで見ると、ここで実際にお茶会も開かれるようです(2年前の情報ですが、こちら)。
Img_2037c このあと、1回の食品名店街を覗くだけ覗いて(お買い上げはなし)、外Img_2039c へ。松菱滞在は、10時20分から30分ほど。外へ出て、次の目的地へ向かおうと思ったら、百貨店前に松尾芭蕉の銅像。側に箱がありますから、ここに俳句を投稿できるようです。芭蕉は、ご承知の通り、伊賀上野の生まれ。奥の細道の旅の後、大垣から桑名を経て伊勢に向かいました。その途中、津に立ち寄り、岩田川河畔から阿漕裏を眺め、「月の夜を 何を阿古木(あこぎ)に なく千鳥」と詠んだそうです。ちなみに、この芭蕉像は、丸の内商店街が平成10年(1998)年に行われた全国高虎サミットにあわせて設置したもの。偉人像として、他に藤堂高虎、谷川士清、西嶋八兵衛の像があります(こちら)。
Img_2052c  津に来る車中での泥縄予習にしたがって、松菱の後は、寒松院(藤堂家墓所)、浄明院、観音寺とまわり、千寿で天むすをゲットしお城公園でお昼にするつもりでした。寒松院は、松菱から東へ1㎞足らず。寒松院は、「津藩主 久居藩主 歴代墓苑」として津の史跡になっています。
Img_2073c 本堂ですが、これは、戦後、他所から古い堂を持ってきたものだそうで、Img_2074c 昔の寒松院をしのぶことはできません。実際、この御堂には、右の写真のように、「瀬日山 顛(?)王寺」と読める額がかかっていました。江戸初期には昌泉院といい、2代藩主藤堂高次(たかつぐ)公が、藩祖高虎公の霊をまつるようになってから、高虎公の院号をとって寒松院 というようになっています。それ以後、この寺は藩主の菩提寺とされました。
Img_2062c 左は、初代高虎公の五輪塔。右は、高虎夫人のもの。いずれも壮大なもImg_2067c ので圧倒されます。桑名で松平家や、本多家のお墓を見ましたが、これほど大きなものではありません。昭和20(1945)年6月26日の爆撃によって、7代高朗(たかあき)公の墓碑が欠けたそうです。北側には、津の支藩久居藩歴代藩主の墓塔が並んでいます。
Img_2064c こちらは墓所案内図。津藩主、久居藩主あわせて26基あります。久居藩主の墓は、津藩主のものに比べやや小ぶりになっています。墓石の形は、五輪塔のものと、板石のものと2種類。
Img_2088c いつものように、境内を探索。するとまずは、「明治天皇行在所跡」の石Img_2093c 碑を見つけました。明治13(1880)年、山梨県ご巡幸のあと、7月4日に津にいらっしゃり、3日間に渡って、県庁、裁判所、師範学校、中学校などをご覧になり、7日に伊勢神宮に御親謁され、その後、名古屋、大阪に向かわれたといいます。この日は、「昭和4年紀元節日建之」とあります。このご巡幸の前には四日市・富田でお休みになっています(2017年12月23日:近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」(12/22)へ(その2))し、伊勢神宮にいらした後は、一身田の高田本山にお泊まりになられました(2018年1月19日:勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング(笑)」……高田本山専修寺と一身田寺内町散歩(その2)専修寺の境内を歩く(前半))。
Img_2072c こちらは「伊予松」。藤堂高虎公は伊予松山から移封されています。そのとき持参された松を伊賀上野服部河畔に移植しています。この松は、昭和52(1977)年に枯死。その後、2代目として今治から取り寄せ植えたものと同じ伊予末として、昭和57(1982)年にここにも植えたと、石柱の説明にあります。石柱には、伊勢柏翠の「こののちの幾秋風の松ならん」という句が刻まれていました(こちらを参照)。石柱は昭和59(1984)年10月に建之。
Img_2082c 御堂の東には、神社がありましたが、社名標などはありません。神社検Img_2084c_2 索(三重)にも載っていません。詳しい方にご覧いただくと、どの系統の神様が祀られているかお分かりになるのではないかと思いますが、小生の知識では判別不能。
Img_2098c このあと、寒松院の北東にある乙部公園脇を通って、フェニックス通りへ。乙部公園では、こんな木を発見。これ、実は藤の木。藤棚にしつらえないと、こういう風なんだとちょっと感心。
Img_2105c フェニックス通り。同じ名前の通りは各地にあるようですが、ここは、津市Img_2109c 中央から津市なぎさまちを結んでいます。もとは、近鉄道路より西が、昭和42(1967)年に開通し、その後、高速船ターミナル開業に伴い、近鉄道路から東へ延長されました。シンボルのフェニックスはかなり大きくなっています。
 本日は、ここまで。次は、江戸川乱歩の墓もある浄明院から。

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2018年4月28日 (土)

20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(予告編)

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 本日は、桑名駅から養老鉄道に乗って、多度へ。近鉄ハイキング「多度観Img_0471c 音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」に参加してきました。桑名駅を9時25分の大垣行き電車に乗って、多度駅には9時38分着。¥310。多度駅には、最近、右のような駅名表示板が設置されています。もちろん、多度大社の上げ馬神事に因んだもの。
Img_0478c 多度駅前でコースマップをいただき、近鉄あみま倶楽部のスタンプを押してImg_0479c もらい、9時47分にスタート。今日のコースは、多度の町並みを見ながら、多度観音堂、美濃街道を歩いて、野志里神社、徳蓮寺、雨尾山飛鳥寺を経て、養老鉄道・下深谷駅がゴール。コースマップ、約10㎞。ただし、歩いてみて分かりましたが、けっこう上り坂があり、また、かなり暑く、疲れました(涙)。途中、徳蓮寺からは、たまたま一緒になった男性と「同行二人」。同じ桑名の大山田ご在住の方でした。ひょうひょうとしておられ、いろいろなこともご存じで、後半、楽しく歩けました。
180428kintetsuhikingtado2 実際に歩いたルートを、いつものように、距離測βに描きました。1枚に納め180428kintetsuhikingtado3 ると、細かくなって分かりませんので、2分割。コース途中に、今まで行きたいと思いつつ、実現していなかったところがいくつかあったので参加したのです。それは、多度大社、野志里神社、徳蓮寺、飛鳥寺です。多度大社は、神社の前までは行ったものの、参拝はしていませんでした。野志里神社、徳蓮寺、飛鳥寺は、歴史に興味を持ってから行こうと思っていたところ。今日のところは、予告編として、今日行ってきた主なところを概観します。
Img_0552c 多度駅から坂をずっと登ってきて、多度観音堂や、多度大社の目前に多度稲荷神社があります。多度の庄屋さんが伏見稲荷から分祀してもらったのが始まりのようです。 多度大社のすぐ脇にありますが、多度大社の摂末社ではありません。「婚活守り」がいただけるそうですから、ご関心がおありの方はどうぞ(微笑)。
Img_0566c 本来の最初の目的地である多度観音堂。伊勢西国三十三ヵ所観音巡礼の第三十三番札所。多度山法雲寺という真言宗のお寺。ご本尊は、千手観音。天平宝宇(73)年、満願禅師が道場を開き、修行をしていたことに始まるようです。長島一向一揆の際、兵火によりすべてを喪失したのですが、江戸時代になって、承応2(1653)年、多度大社の別当として宝雲寺が再興されたといいます。

Img_0596c 次いで、多度大社へ。上げ馬神事で知られていますが、式内社で、旧社格は国幣大社。天津彦根命(天照大神の第3子)を主祭神とし、境内には天津彦根命の子である天目一箇命を祀る別宮・一目連神社もあります。昔から北伊勢大神宮として「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片まいり」といわれてきた古社。目の前までは来たことがありますが、お参りは桑名在住20数年にして初めて。

Img_0631c 左が、本宮・多度神社。ここの御祭神が、天津彦根命です。社伝では、雄略天皇の御代の創建と伝えられ、古代には、社殿背後の多度山を神体山としていました。元亀2(1571)年、織田信長の長島一向一揆平定の際に兵火により焼失しましたが、慶長10(1605)年、桑名藩主・本多忠勝公により再建されています。ちなみに、天津彦根命は、桑名の春日神社(桑名宗社)の御祭神でもあります。

Img_0629c 天目一箇命を祀る別宮・一目連神社です。天目一箇命は、天津彦根命Img_0677c の子で、製鉄・鍛冶の神。本宮とともに「多度両宮」と称されます。摂社、末社は多数ありますが、それはまた本編で。境内には、神馬の「錦山(きんざん)号」がいます(オス)。白馬。100円の初穂料でエサの人参をあげられます。多度大社到着は10時20分、このあたりで2㎞。

Img_0742c 多度大社を出て南下。多度川を越え、東へ。多度町総合支所を通って、Img_0545c 養老鉄道の線路あたりで右折し、南下。竹林の中の地道を通っていきます。途中、タケノコがかなり大きくなったものがあちこちに。もっと大きいものもあります。これくらいになってしまうともちろん食べられません。余談ですが、コース途中のお店や、無人販売所がいくつもあり、タケノコを売っていました。

Img_0748c コース途中で神社を見つけ、当然、寄り道。舟着社とあります。御祭神Img_0754c は、表筒男神、中筒男神、大山津見神、火之迦具土神。社伝によると、多度神社別宮の一目連大神が、度会郡山田郷からの帰りに舟でこのあたりに着いたので舟着社と云うと伝えられています。ちょうど、多度まつりの準備のため、氏子の方がいらっしゃって、話を伺えました。このあたりは、木曽三川の川岸であったようでもあります。

Img_0765c 帰り際、社名標を確認したら「国幣大社御旅所」とありました。国幣大社Img_0763c は、多度神社。御旅所(おたびしょ)は、神霊の渡御 (神幸) のとき神霊を仮に安置するところ。5月5日の多度大社神輿渡御の折りには、3基の神輿が奉安されるそうです。この舟着社の境内には、「奉献 船置神社」と記された石碑がありました。上のパラグラフに書いた言い伝えに関連するのでしょう。


Img_0798c コースに戻ってさらに1㎞半ほど歩くと、野志里神社(のじりじんじゃ)があImg_0803c ります。ここは、美濃街道沿い。ここは今回、是非とも来たかったところ。創建は、垂仁天皇の御代と伝わっています。倭姫命が、天照大神の御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、ここ桑名郡野代宮にお着きになり、4年間この地で宮居を造られたといいます。この野代宮の行宮の跡に創始されたのが、野志里神社とされます。

Img_0796c ここでは、地元の「のしろおたから発見隊」の方が、案内をしてくださってImg_0791c いました。美濃街道の西側に野志里神社がありますが、東側には、2本の石柱があります。「伊勢神宮御旧蹟野代の宮」と、「天照大神御𦾔跡式内野志里神社」とです。「発見隊」の方の説明によれば、もとはどちらも野志里神社の境内だったそうですが、関ヶ原の戦のとき、薩摩藩の兵がここを通ったため、神社の敷地が2つに分かれてしまったといいます。境内には、長島一向一揆のとき、戦死者の首を集めて造られたという「千人塚」があります。この塚には、関ヶ原の戦で敗れた西軍の兵士の霊も慰めたといいます。

Img_0855c 続いてはこちら。養老鉄道の踏切を渡らないといけません。無畏野山徳Img_0938c 蓮寺(むいのさんとくれんじ)。真言宗東寺派のお寺。ここは、弘仁11(820)年、弘法大師によって建立されました。ご本尊は弘法大師がつくった虚空蔵菩薩像で、これは7年に一度開帳されます。

Img_0883c 寺宝に県指定文化財の「紺紙金泥阿惟越致遮経巻下一巻」、「釈迦涅槃図」があり、200枚を超えるナマズなどの珍しい絵馬も奉納されています。これは、この寺が明応7(1499)年と、天正13(1586)年の2回の地震で破壊されたのですが、行方不明になったご本尊が、土中からナマズとウナギに守られた状態で見つかったことに由来します。余談ですが、ナマズつながりでしょう、平成17(2005)年には、秋篠宮殿下がご来訪になったそうです。さらに、そのすぐ後、紀子親王妃殿下のご懐妊の発表があったといいます。

Img_0918c 閑話休題。徳蓮寺でも「のしろおたから発見隊」の方が、案内をしてくださったのですが、ユニフォームがなかなかのものでしたので、お願いして、1枚撮らせていただきました。「のしろ」は、このあたりの地名である「野代」です。徳蓮寺あたりで7㎞、時刻は12時を過ぎた頃。


Img_0948c 浄土真宗大谷派の明光寺。ここも養老鉄道の踏切を越えないとお参りでImg_0951c きません。立ち寄って、一休み。なかなかよく手入れされたお庭がありました。



Img_0957c 一休みしていたら、山門前の踏切の警報器が鳴り始めました。これはチャンスとばかりに連写。左のような写真が撮れました(微笑)。できがよいのかどうか分かりませんが……。撮り鉄の方にご教示いただかねばなりません。明光寺は、12時50分着。


Img_0974c さらに次は、法光寺。高野山真言宗のお寺。もう13時を過ぎています。おImg_0975c にぎり1個を持っていたのですが、食べるチャンスを失っています(苦笑)。それはともかく、山号が不明。サイトによっては、「深谷弘法大師法光寺」とあります。


Img_0979c_2  境内にはお稲荷さんがあります。昔は神仏習合でしたから、驚くわけではありませんが、本堂と同じ建物というか、続きの建物になっていました。これにはビックリ。稲荷にはとくに神社名は示されていませんでした。



Img_0991c お寺が続きます。こちらは、浄土真宗本願寺派・北廻山西林寺。ここは、北廻城跡。南北朝期の延元年間(1336~1340年)に、近藤右京亮が築城しました。織田信長の伊勢侵攻時、滝川一益らにより落城させられたといいます。



Img_1002c_2 そして、最後のスポットが、雨尾山味光院飛鳥寺(ひちょうじ)。ご本尊Img_1008c は、十一面観世音菩薩。伊勢西国三十三ヵ所観音巡礼の第32番札所。桑名市深谷町字山之城にあり、木曽三川を眼下に、名古屋市街、濃尾平野、遠くは木曽の御嶽が、一望できる眺望絶佳の高台にあります。右がその眺め。これ、昨年末にNHKで放送していた「マチ工場のオンナ」でよく出て来たところでした。「どこだろう、深谷あたりか?」と思っていたのです。

Img_1038c 14時ちょうどに養老鉄道・下深谷駅にゴール。4時間20分、実測で11㎞をImg_1045c 踏破(大げさな)。14時12分発で桑名まで。14時18分着。¥260。



Img_1058c 今日で近鉄ハイキング参加、10回を達成しました。スタンプ10個で踏破記念バッジ(銅)がもらえるのですが、バッジだけではどうもねぇという気がしますので、20個を目指しましょう。踏破記念バッジ(銅)に、近鉄グループ商品券1,000円分がついてきますから。

 先日のまたもや勝手に近鉄ハイキング(笑)……本日は、名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園などなど」(4月23日)の記事も予告編で終わっているのに、今日もまたハイキングに出かけてしまい、自分で課題を増やしているような気がします。ボチボチそれぞれの本編を投稿したいと思いますので、ゆるりとお待ちくだされば、幸いです。

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2018年4月27日 (金)

20180414 JRさわやかウォーキング「桑名の山野辺散策とサンジルシ醸造をたずねて」(その3、完)……走井山勧学寺、三猿、サンジルシ醸造、有王塚を経てゴール

Img_9198c

 遅くなった上に、途切れ途切れの記事になってしまっています。小人閑居しておりますが、なかなか思うとおりに行かないところもあります(苦笑)。走井山公園の途中まで来ました。実は、公園には、佐藤華山翁遺愛碑があるようなのですが、今回の記事を書くのにあれこれ調べるまで、その存在すら知りませんでした。この碑は、もとは愛宕山にあったもので、文政2(1819)年に門人が建てたそうです。佐藤崋山は、桑名藩の能筆で、桑名城の時の鐘(行田市に現存)の書丹者です。これは、次に行ったときの宿題。
Img_9218c 公園に隣接して、東側に走井山勧学寺があります。高野山真言宗のお寺。Img_9226c ご本尊は、千手観音立像(県文化財)。境内に名水「走り井」があったので、山号を「走井山」としたといいます。ここは、戦国時代、矢田氏の居城であった矢田城跡の一画。創立については、天平年間(729~749年、聖武天皇の御代)、行基の草創と伝わりますが、正確なことは不明。近世までは走井山(矢田城)北麓にあり、元和年間(1615~1624年)、桑名藩2代藩主本多忠政の家臣・半弥によって現在地へ移されたといいます。その後、7代藩主・松平定重(在職1657~1710年)の代に本堂が再建されています。市内に現存する寺社建築としては最も古いとされています。
Img_9221c 境内にある仏足石。仏像が出現する以前、インド初期仏教では法輪、菩提Img_9223c 樹、塔などを拝んだが、この仏足石も崇拝対象の一つだったといいます。この仏足石、説明板によれば、江戸時代末期の作で、珍しい様式だとか。市の文化財。
Img_9217c 境内には、太子堂もあります。この太子堂は、明和年間(1764~72年)、Img_9214c 聖徳太子への信仰が厚かった「桑名惣大工中」が建立したのが始まりだそうです。火災に遭い、平成3(1991)年、桑名建築組合が再建しました。
Img_9215c 地蔵堂もいくつかあります。こちらのお地蔵様は、鉢巻地蔵。鉢巻地蔵Img_9231c_2 は、太子堂のすぐ側。右は延命地蔵。他にも、水子地蔵もあります。
Img_9232c  JRさわやかウォーキングのコースはここから、三岐鉄道北勢線・馬道駅の方へ降りていきます。ここ走井山あたりは、実は、三岐鉄道北勢線の撮影スポットでもあります。勧学寺の鐘楼あたりからというアングルもなかなか。以前は何度か撮ったのですが、桜の季節ですと、桜の間から三岐のナロー電車がJR・近鉄をまたぐ跨線橋を通ってくるシーンなどが撮れます。
Img_9234c ちょうど、馬道駅を発車する下り電車がありましたので、ゆる鉄風に撮っImg_9250c てみました(苦笑)。あくまでも「俄撮り鉄」ですので、ご笑覧のほどを。この馬道駅へ下る階段の途中に、右の写真のように、「伝村正屋敷跡」という案内板があります。村正は、あの妖刀村正。桑名の刀工。室町時代中期以後、代々活躍しました。文亀・天文年間 (1501~55年) に同名の刀工が数代あるのですが、永正年間 (1504~21年) の作品に傑作が多いといいます。あくまでも「伝」ということですが、この東にあるマンションのところに村正の屋敷があったと伝わっています。地下水が豊富であったので、作刀に適していたのかも知れません。
Img_9251c 馬道駅西の踏切に降りるまでのところ、西側に鳥居があります。「お菊稲荷大神」という社名標。ここがお菊稲荷への参道の入り口ということになります。今度来たら、ここから上がっていってみることにします。何か別のものが見えるかも知れません。
Img_9258c この鳥居の下に、三猿の塔があります。予告編でも書きImg_9261c ましたが、これ、大のお気に入り。2005年5月、体調を崩してしばらくの頃、このあたりに気分転換に散歩に連れてきてもらって、見つけたのです。この日は、久しぶりに対面してきました。復職を試みていた頃、この三猿の写真を「魔除け」として、研究室のドアに貼っていたことがありました。左の写真でご覧いただけるかも知れませんが、台座には、「此の心 我れができぬは 人?はせよとハそれハむり志や ?てくだされハ ありがたし」と刻まれています。
Img_9271c 馬道駅のところ(この辺で4km)を過ぎると、濃州道を渡ります。この街道は、桑名市三ツImg_9273c 矢橋町から、東員町鳥取、いなべ市員弁町笠田、いなべ市北勢町阿下喜などを経て、いなべ市藤原町山口で巡見道に合流します。いなべの方も桑名藩領でしたので、員弁郡下から桑名城下へと続く道として発展したところです。桑名では員弁街道ということが多いようです。
Img_9278c 近鉄名古屋線・益生駅の西を南下して、最終の目的地であるサンジルシ醸造へ向かいます。途中、ある会社の敷地内に稲荷社がありました。「末廣稲荷大神」という社名標が鳥居に掲げられています。この会社の「マイお稲荷さん」のように思えます。
Img_9317c 10時20分頃、サンジルシ醸造に到着。味噌、醤油などを造っています。Img_9299c その昔、桑名藩のご用商人として、回船問屋を営んでいたそうですが、文化元(1804)年、藩命を受けて「みそ・たまり醸造業」をはじめたそうです。サンジルシ醸造はまた、インスタント食品のはしりともいうべき固形みそ、粉末しょうゆを全国で初めて開発、販売したそうです。また、過去には「一・二・三のサンジルシ」のキャッチフレーズで一世を風靡しました。
Img_9300c サンジルシ醸造の社章は、伊勢湾に注ぐ、木曽三川(揖斐、長良、木曽川)を表すそうです。上記のように藩の御用商人として、廻船問屋を営んでいました。藩主の命によって、醸造業に進出したのですが、廻船問屋を営んでいた頃の船の旗印を社章として引き継いでいます。
Img_9283c 会社の正門を入ると、醸造用の大きな樽と、佐藤信之助の像が迎えてくImg_9284c れます。佐藤信之助は、昭和12(1937)年、祖父を継いで社業を発展させた人物。経済界だけでなく、社会公共分野で活躍しました。桑名商工会議所会頭の他、県の公安委員会の委員長、中京テレビ社長など、多くの役割を兼ねておられました。
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 サンジルシ醸造さんでは、味噌汁の接待をしていただきました。さすがにImg_9289c 醸造元、暖かいものを美味しくいただきました。社員の方が席まで運んでくださるというサービス。即売会も開かれていたのですが、何といっても地元の会社ですから、ここで買わなくてもいいかなと思って、パス(帰宅後、誉められました……苦笑)。
Img_9308c 味噌汁をいただいたあとは、味噌蔵を見学してきました。見せてもらえたImg_9309c_2 のは、「天然醸造蔵」。速醸室ではなく、自然の環境で味噌を熟成させるための蔵。熟成期間は、1年以上だそうです。味噌の香りが堪りませんでした(微笑)。このあたりは、基本的に豆味噌。小生の出身地である、愛知県西三河もそうでした。
Img_9310c 工場内にいくつも置かれていました。味噌樽などの重しに使うものだと思Img_9313c います。昭和47(1972)年に現地へ移転したそうですから、50年近くが経過します。さすがに50年経つと、工場や設備も由緒正しいものという印象が深まっていました。
Img_9320c コースマップでは、サンジルシ醸造が最終の立ち寄りスImg_9334c ポットでしたが、小生はせっかくだからと近鉄名古屋線・益生駅近くにある「有王塚 付 俊寬塚(ありおうづかつけたりしゅんかんづか)」を見てきました。あまり有名ではありませんので、ご存じの方は少ないと思います。ここも2005年5月に馬道あたりに来たときに初めて訪れました。ブラブラしていたら、俳句好きとおっしゃる男性が案内してくださったのです。
Img_9329c 「有王塚 付 俊寬塚」は、俊寬は平家物語に登場する伝説の塚です。俊寛僧都の侍童有王が、流罪中の俊寛を鬼界ヵ島に訪ねたものの、すでに師は亡くなっていたため、高野山に収めるべく師の骨を抱いて行脚をしていた途中、鎌倉時代にここにあった「りん(舟偏に侖)崇寺<りんそうじ>」(現在は、市内寺町にあります)の前で没したと伝わっています。大正時代に俳人天春静堂と桑名の俳人達によって修築保存されたといいます(大正10年2月11日)。このあたりで6㎞。
Img_9325c 有王塚の北にありました。これが俊寬塚だったかなと思ったのですが、13d61f22 2015年08月31日の散歩写真を見ると明らかに違いました(右の写真、撮影も2005年(平成17年)5月16日)有王塚も、写真にあるようにマンションが建っていますから、移転されていると思います。益生駅の方にも見に行ったもののの、見つけられませんでした。もう少し先まで行く必要があったようです。
Img_9340c 近鉄名古屋線・益生駅近くに戻り、近鉄名古屋線・JR関Img_9351c_2 西線の線路際を通って、桑名駅方面へ。三岐鉄道北勢線の高架橋の下を久具他ところで、吊りかけモーターの音が聞こえてきました。待っていたら、北勢線のレトロカラー電車が通っていきました。北勢線は、次の西桑名駅が終点で、折り返し運転のはず。このレトロカラー電車、阿下喜のお雛さんの近鉄ハイキングの時も見たのですが(3月3日;近鉄ハイキングで“昭和レトロな町でおひなさん 早春の鈴鹿山脈を眺め「あげきのおひなさん」へ”(その3)……鈴鹿山脈を眺めながら、久保院、麻績塚古墳・久保院八十八ヶ所道からいよいよ阿下喜の町へ(まだ続く))、もう少しよい写真を撮りたいと思っていました。
 時刻表(ハイキングに行くと、その駅の時刻表をもらってきています。それは、ハイキングセットの中に入れてあるのです)をチェックすると、10分後に折り返し運転(西桑名駅11時05分発)。近くにいた母娘連れの方も、「えっ!? そうなの? じゃぁ待っていようか」と。この娘さんに「何でそんな時刻表まで持っているの?」と不思議がられました(苦笑)。
Img_9380c どこから撮るか迷ったのですが、少し戻って、上2枚の写真にある高架橋の北東から撮ることにしました。町名でいうと、新矢田1丁目あたり。またもや、準備もなしの「俄撮り鉄」でしたから、こんな写真。見上げるアングルを試しました。
Img_9410c コースに戻り、線路沿いを桑名駅に向かいます。行きに渡った跨線橋をImg_9413c 再び登ります。右の写真は、この直前に通ってきたあたりを撮っています。向かって右手は、最近、住宅団地が開発されたところです。右から近鉄、JRの線路で、三岐鉄道北勢線は、向かって左手にあるマンション近くを走っています。
Img_9416c 桑名駅近くまで戻ってきました。 ゴールは、桑名駅ではなく、バス乗り場Img_9419c の北の端。ゴールは11時20分頃。スタートしたのが8時50分でしたから、2時間半。歩いた距離は、距離測βで見ると、6.6㎞。
Img_9420c こちら、いつもの完歩記念パネル。毎回Dscn6726c 同じとはいうものの、これがないと落ち着きません。スタンプはようやく4個目。先は長い。
 4月14日に行って以来、2週間近くかかって記事の方もゴールしました。皆さまに御礼申し上げます。23日(月)に行ってきた「勝手に近鉄ハイキング」もなるべく早めに着手したいと思ってはいますが、どうなりますか?

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