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2017年12月 5日 (火)

カモも冬鳥も少なし……桑名城城壁の刻印石も見に行く

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 三の丸水門あたりからみた北の方角。蟠龍櫓があり、その左手に伊勢一の鳥居が小さく見えていますし、奥には多度山、伊勢大橋が望めます。多度山の方から流れるような雲は、冬の雲。これを見ると、寒いとか、寒くなると思えます。いつものように、8時40分から11時半頃まで散歩。住吉神社、九華公園、貝塚公園から中橋、多聞橋(立ち寄った理由があります)、田町、住吉入江と5.1㎞。
Img_5478c 住吉神社から揖斐川を眺めたら、ユリカモメが20羽ほど並んでいるのが見えました。そして、その中心辺りにいるのは、カンムリカイツブリ。まるで、「ユリカモメの学校」で、先生がカンムリカイツブリという様子。なぜこういう光景が展開されているのか、不思議です。
Img_5507c ハクセキレイは、三の丸水門にて。この辺や、吉之丸コミュニティパークでは、ハクセキレイをよく見ます。ハクセキレイ、時々こちらに興味を持ったような視線を向けてくれます。
Img_5516c 九華公園、いつも九華橋からカモの様子を見るのですが、今日は南の方に離れて集まっていました。カウンターで数え始めたら、急いで寄ってくること! 31羽が写っています。今日は、これらを含め合計52羽。相変わらず、去年の今頃に比べ、やや少なめです。ツグミはわずかに見るものの、シロハラ、シメ、ビンズイなどはまだ見られません。
Img_5542c ハシビロガモは、この頃、カルガモと一緒に、ここ(奥平屋敷跡入り口のImg_5552c 花菖蒲園の東、日当たりがよいのです)によくいます。今日は、ハシビロガモのオスは2羽。奥から2羽目は、多少男らしくなってきた感じです。右の写真は、接近して撮らせてもらいました。睨まれましたが、逃げはしませんでした。あまり邪魔をしても行けませんので、即退散(苦笑)。
Img_5526c 他にいたのは、ホシハジロのオス2羽、ヒドリガモのペア2組に、あぶれオス1羽。その他大勢は、キンクロハジロ。左の写真で、手前がホシハジロのオス。
Img_5588c ヒドリガモのオス(左の写真)と、メス(右の写真)。ヒドリガモはたいてい、Img_5590c ペアでいるのですが(行動も共にしていることが多いのです)、なぜか1羽だけ単独行動のオスがいます。ちなみに、これらの写真のヒドリガモは、一緒に行動していましたので、ペアであると思います。
Img_5565c 朝日丸跡では、カワラヒワの集団。秋から冬は、集団行動をしているとこImg_5574c ろをよく見ます。この集団も15羽ほどがともに行動していました。褐色に見えますが、飛ぶ時は、翼の黄色帯が鮮やかですし、鳴き声もきれいです。リンク先で鳴き声が聞けます。
Img_5608c ゴイサギ。いつものように、鎮国守国神社の社務所の裏のクスノキに。公園に着いたときは、写真にも撮れないような、もっと奥の陰にいたのですが、日当たりに移動してきたようです。ホシゴイや、アオサギは不在。ちなみに、今日はユリカモメも、九華公園には来ていませんでした。
Img_5615c ゴイサギがいたクスノキの北にあるセンダンの木。今日は、ムクドリがたかっていました。実を食べに来たようです。この写真には10羽ほどしか写っていませんが、20~30羽くらいが来ていました。ヒヨドリはまだセンダンの実は食べに来ていません。それと、もったいないことに、ムクドリたち、実をけっこう、この下にある堀に落としてしまっていました。
Img_5596c 余談です。鎮国守国神社境内を歩いていたら、こんなものがあるのに気Img_5597c づきました。どこだと思いますか? 右の写真のように、鳥居の「貫(ぬき)」と呼ばれる部分のところです。いたずらで石を放り投げたりする、あの場所。馬のぬいぐるみのようです。まだきれいですから、最近ここにあげられたように思えます。
Dscn5411c 最後に、中橋と、多聞橋と立ち寄った理由について。中橋は、九華公園から春日神社に行く途中にある朱色の橋、多聞橋は、江戸町の柿安料亭本店の脇にあります。いずれも、七里の渡し跡から歴史を語る公園に続く堀にかかっています。先日、九華公園にある「刻印石」の話を書きましたが(11/23:「刻印石」研究家に出会う……鳥果は上がらなかったものの、石や石垣の話は面白かったですねぇ(笑))、この中橋周辺の石垣にも刻印がついたものがあると聞きましたので、見てきたというわけです。こういう話を聞くと、見たくなるという悪い癖があります(苦笑)。
Img_5682c 今日は、ざっと確認というつもり。中橋の東側に城壁が残っています。ざImg_5696c っと見ただけでも数個の刻印がありました。市の観光ガイドのサイトの「桑名城城壁」にも、「積石の状態は乱積で、野面はぎ、打込はぎのニ方法によっており、また刻印を刻んだ積石も多く見られます」と書かれています。今日は、歴史を語る公園のところや、江戸町、川口町の方は見てきませんでした。興味はあるのですが、あまりあれこれ手を広げるのはよくないかとも思っているところです。

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2017年11月28日 (火)

またもや四日市へ……「阿弥陀さまと極楽の世界-四日市の浄土教-」を見て、鵜の森神社、浜田城跡、諏訪神社そして旧・東海道も(微笑)

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 「また四日市?」といわれそうですが、今日も行ってきました(微笑)。先週土曜(11/25)、JRさわやかウォーキングで行ったばかりです(どういうわけか、JRさわやかウォーキングへ……~四日市市制120周年記念~ 家族みんなで楽しめる四日市旧港街歩き)。そんなに用事があるわけではありませんが、とあるところへ行きたかったのです。
Amidayokkaichic それは、こちら。四日市市立博物館で12月3日まで開催している「阿弥陀さDscn5075c まと極楽の世界-四日市の浄土教-」という企画展が見たくて、行ってきたという次第です。「いったいどうしたんだ?」と思われるかも知れませんが、阿弥陀様は、我が家の宗旨である浄土真宗大谷派のご本尊なのであります。信心深いとは決していえませんが、関心はあります、ということです。四日市市内には200のお寺があるそうですが、そのうち、160ヵ寺が浄土真宗や浄土宗の寺院で、阿弥陀如来を本尊とします。この博物館の学芸員の方が20年あまり前から市内を回って調査なさった成果がこの展覧会になっています。平安から昭和までの仏像16点、仏画40点など、書、本、数珠など100点が展示されていました。仏像は、すべて寄せ木造りで、阿弥陀如来像12点、親鸞聖人座像、聖徳太子立像がそれぞれ2点ありました。こちらに中日新聞の記事があります。
Yokkaichimapc 博物館では、この企画展のみを見て、ほぼ1時間。ついでに近くで、行ってみたかったところ(四日市には、3年ほど住んだことがありましたが、いったことがありませんでした)を回ることにしました。それは、この地図にある鵜の森公園諏訪公園。いずれも近鉄四日市駅から徒歩5分ほど。
Dscn5096c 鵜の森公園で見たかったのは、文豪・丹羽文雄先生の句碑。「古里は菜Dscn5098c の花もあり父の顔」という句が刻まれています。丹羽文雄が、36歳ごろの作品といわれ、自筆の毛筆墨書を拡大したものです。丹羽文雄(1904~2005)は、四日市市北浜田にある浄土真宗専修寺高田派の崇顕寺の住職の長男。旧制・富田中学(元・四日市高校)を経て、早大国文科卒業後、いったん住職を務めたものの、小説家に転じています。1977年に文化勲章受章、文化功労者。この碑は、市制施行90周年記念事業として、昭和62(1987)年5月に除幕されています。
Dscn5105c 公園内には、茶室・泗水庵(しすいあん)がありますが、お茶はどうも敷Dscn5107c 居が高いので建物と庭を覗いただけでパス(笑)。鵜の森神社、浜田城跡へ向かいます。鵜の森神社の脇で、水鏡になった紅葉を撮影。
Dscn5147c 鵜の森神社は、浜田城の旧跡で、文明年代(1400年代)から浜田城主・田原家が崇敬した社だそうです。元は江田神社あるいは鵜森大明神と称していたといいます。江田神社という名称は、江田川、江田町等の旧地名に由来すると言われ、また、「鵜森」の語源は、昔、このあたりが松林の続く海岸で、海鵜が多く生息していた森ということに由来しているようです。
Dscn5139c_2 天正12(1584)年、美濃加賀野井城の戦いで田原家は滅亡したのですが、その後、旧臣達が、城跡に慶長以後、万治以前(1596~1658)に鵜森大明神を創立し、同家の遠祖である田原藤太秀郷及び初代浜田城主・田原美作守忠秀(たはらみまさかのかみただひで)以下4代の霊を祀ったのが、鵜の森神社の始まりといいます。さらに、天保8(1837)年、別社として御霊社を創建し忠秀以下4代の霊を祀り直し、鵜森大明神に、天照大御神と建速須佐之男命を祀って明治に至ったそうです。
Dscn5142c 境内には、皇大神宮遙拝所がありましたが、これまでにあちこちで見たDscn5144c 中では、もっとも立派な遙拝所でした。多くのところでは、右のような石柱が立っているだけなのですが、こんもりした丘になっていたのです。
Dscn5116c 先にも書きましたが、ここは浜田城跡でもあります。15世紀後半、この地を治める田原美作守忠秀(たはらみまさかのかみただひで)によって築かれた城です。田原氏は、もともと上野国赤堀庄(こうづけのくにあかほりのしょう)に住んでいたのが、応永年間(1394~1428)に景信(かげのぶ)が伊勢に移り、四日市の赤堀に城を構えたといいます。景信は、長男・盛宗(もりむね)を羽津に、次男・秀宗(ひでむね)を赤堀に、そして三男・忠秀を浜田に配しました(赤堀三家)。田原市の系図は、こちら
Dscn5115c 境内に新しい冠木門(かぶらきもん)が建てられていました。昨年(平成28、2016年)10月に、四日市の町の礎を築いた浜田氏を検証するとともに、浜田城跡の存在を認識してもらうために、浜田城や赤堀三家を中心に四日市の歴史研究を行う研究会「綱の会」が作ったということです。ちなみに、この研究会の調査で、浜田氏の末裔も発見したとありました。
Dscn5160c 鵜の森神社から10分ほどあるいて、諏訪公園へ。中世ヨーロッパ調の中庭をイメージした公園として、中央にせせらぎと噴水があります。奥の建物は、「すわ公園交流館」。元々は昭和4(1929)年に建てられたようですが、今は、様々なイベントを企画・開催し、中心市街地活性化をはかるための施設として活用されています。
Dscn5183c 公園に隣接して、諏訪神社があります。その名前の通り、鎌倉時代初期

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の建仁2(1202)年に、信州の諏訪大社の御分霊をこの地に勧請し、創祀されたそうです。御祭神は、建御名方命(タケミナカタノミコト)と八重事代主命(ヤエコトシロヌシノミコト)。四日市の歴史とともに歩んできた総産土神といいます。右の写真、向かって右が拝殿、左は社務所と思います。立派な建物です。
Dscn5166c 御祭神は、「武」と「文」にたける二神だそうです。建御名方命は、大国主Dscn5173c 命の子で、八重事代主命の弟。大国主命が高天原の天照大神から国の禅譲を迫られたとき、これに最後まで抵抗したということで、狩猟の神、また武神だといいます。八重事代主命は、豊漁、海上安全守護の神、またえびす信仰の福神とされます。商店からは、「諏訪恵比須」として崇敬されてきたそうです。
Dscn5193c 境内には、明治天皇の御製の歌碑もありました。「目にみえぬ 神にむかいて はぢざるは ひとのこころの まことなりけり」と刻されています。目に見ることのできない神様に向って、少しも恥ずかしくないという心境は、人としての誠の心であるという意味だそうです。この歌碑は、昭和8(1933)年9月、上田谷松(栖華)という画家が建立したもので、彼は、明治天皇を崇拝していたところからこの歌碑を自費で建立したということです。明治天皇は東京遷都の際を初めとして合計4回、四日市に行幸しているそうですが、それとは関わりはなさそうです。
Dscn5169c 諏訪神社で驚いたことは、こちら、「明治神宮遙拝所」があったことです。Dscn5171c 境内社である政成稲荷神社の脇に立っています。この地方では、伊勢神宮遙拝所はあちこちの神社にありますが、明治神宮遙拝所は、初めて見ました。この方角に明治神宮があり、ここから明治神宮を遥拝するということです。石柱は昭和9(1936)年1月に、稲葉町青年団によって寄進されたとありました。
Dscn5164c もう一つというか、もっと驚いたものも、諏訪公園で発見Dscn5209c しました。こちら。最初はなんだか分かりませんでしたが、上にある塔に刻まれた文言を見て、少し分かりました。右の写真をご覧ください。「廣く会議を興し万機公論に決すべし」とあります。あの「五箇条の御誓文」です。五角柱に刻まれていましたし、しかも登れるようになっていたのにビックリ。昭和9(1934)年に建立されています。半田の乙川公園にもあるとするブログもありました(こちら)。
Dscn5214c ところで、この諏訪神社の門前には、旧・東海道が通っています。左の写Dscn5188c 真は、鳥居の前から東を見たものです。車が通っているのは、国道1号線。この斜めの道が、旧・東海道。さらに面白いのが、この先(向かって右)、旧・東海道は、アーケードの商店街になっているのです(表参道スワマエ発展会)。
Dscn5187c 左の写真のような横断幕や、右の写真のような旗が掲げDscn5217c られています。事情を知らないと、不思議に思うでしょうが、この表参道スワマエ発展会の商店街は、まさに旧・東海道に沿って作られたものです。旧・東海道ウォーク、そろそろ富田から、この四日市辺りを歩かねばなりません。

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2017年11月22日 (水)

ジョウビタキ、モズ、イソシギ@九華公園……ドウダンツツジも色づいてきました

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 鎮国守国神社、御車修祓殿のところの紅葉。今迄あまり意識していませんDscn4971c でしたが、けっこう見事です。右は、同じく鎮国さんの拝殿前のドウダンツツジの紅葉。ちょっとコントラストを強めにしましたが、けっこう見られるようになってきました。このほか、近所では、諸戸氏庭園の紅葉が気になります。今日、歴史案内人の方に伺ったところでは、月末が見頃だろうということでした。
Img_3301c さて、今日は、まずはジョウビタキのメスに接近遭遇。九華公園の野球場の南、シダレザクラの木です。ここから東にある表具屋さん付近でよくジョウビタキのメスが出てきます。この辺りでよく見るジョウビタキなのだろうと思います。
Img_3327c オスのモズは、九華公園の土俵近く。いつもアオサギやゴイサギを見るところに出てきました。何か動いたと思って追いかけたら、このモズでした。割と近くまで行くことができ、ラッキーでした。
Img_3269c もう一種類。イソシギ。二の丸跡で話をしているとき、南側の遊歩道に見えたのです。伊賀町のご隠居・Hさんは、昨日も見たとおっしゃっていました。10月17日に初めて見て以来、時々見かけています(九華公園でイソシギ……午前中は網戸張り替え、取り付け作業)。
Img_3216c 九華公園の鎮国さんの社務所裏のゴイサギと、ホシゴイ、このところ、毎日いるようです。ただし、いるところはこの写真のように、いつも西から見て、木の奥の方。「隠れている」としか思えません。夜行性だから仕方ないのでしょうが、もう少し手前側に出てきてもらいたいもの。
Img_3231c カモたち、今日は、合計42羽。去年の今頃は、60羽以上、多いときは70羽をImg_3255c 超えるくらいいましたので、少なめという印象です。今日いたのは、ホシハジロのオス1羽、メス1羽、ハシビロガモのオス1羽、メス1羽と、キンクロハジロたち。他に、オオバンが2羽。
Img_3225c 今日は餌を与える人もなく、皆、お休み体勢。しかし、視線だけはこちらにImg_3228c 向けていて、笑えます。警戒しているのか、それとも、「こいつは、餌をくれるのか、くれないのか」とチェックしているのか(笑)?
Img_3271c ユリカモメは、23羽。こちらも、野球場のフェンスの上にいます。下の方、Img_3279c 旗を掲げるポールの上にいたユリカモメ、急に飛び立って、堀にダイビング。ピントが合っていませんが、右の写真のように、小魚をゲットして飛んでいく様子が見られました。九華公園でもまれに、このようにユリカモメのダイビングが見られます。ちなみに、左の写真で、ユリカモメたちの左の方に小さく写っている鳥は、モズです。
Dscn4970c このほか、九華公園では、ツグミも見ましたが、イチョウの木のてっぺん辺りにいて、まだ降りてきません。さらに、貝塚公園にも回ってみましたが、ヒヨドリ、カワラヒワ、キジバトくらい。貝塚公園はツグミが多いところなのですが、まだ来ていないようです。
Img_3324c ということで本日の散歩は、8時40分から11時半。住吉神社、九華公園、貝塚公園、京町、寺町、三崎見附と5.9㎞。さほど風もなく、予報と違って日当たりもあって、比較的楽でした。

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2017年11月15日 (水)

毎年恒例の「なんちゃって紅葉」(笑)

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 天候も回復しましたので、紅葉の名所に行ってきました、と書きたいところでDscn4843c すが、毎年恒例の「なんちゃって紅葉」です(微笑)。以前からこのブログをご覧いただいている方々には、「またか!?」ということで、恐縮です。
Dscn4839c 出かけた先は、いつも通りの九華公園であります。「なんちゃって紅葉」は、Img_1681c 公園内の鎮国守国神社の拝殿前で撮影したものです。今日はちょうど七五三。子どもたちもかつて通った保育園の子どもたちもやって来てお祓いを受けていました。ということで、今日の散歩は、8時40分から12時近くまで、例によって、住吉神社、九華公園、貝塚公園、入江葭町、田町、再び住吉入江と6.2㎞。バードウォッチングと、知人とのおしゃべりでした(微笑)。
Img_1563c 「住吉キンクロウズ」、今日はオス、メス1羽ずつ。朝6時過ぎに新聞を取りにImg_1573c 行ったときには、不在でしたので、これまでのところは、通ってきていると思われます。昨シーズンは、早朝からここにいることもありました。ここで夜を過ごすこともありうると思います。住吉入江には、オオバンも1羽。オオバンは、このほか、北大手橋(七里の渡し跡の奥の堀)にも3羽、吉之丸コミュニティパークの西の堀にも5羽と、あちこちで見られました。
Img_1593c 9時過ぎに九華公園到着。アオサギさんは、定位置にいます。アオサギがこImg_1598c こにいてくれると、散歩に来た目的の1つが達成できたことになります。例のスロープ、甲羅干しをするミドリガメは減ってきたものの、まだいます。今日は、すぐ側にカワウの姿も。
Img_1654c ゴイサギは、今日も、遅れて登場(と思いますが、九華公園についたときには、見つけられなかっただけかも知れません)。アオサギのいる木のすぐ北。クスノキの奥に、後ろ向きにひっそりとたたずんでいました。
Img_1606c カモ、今日は合計48羽。ハシビロガモのオス1羽、メス1羽、ヒドリガモのメImg_1613c ス1羽の他は、キンクロハジロ(45羽)。左の写真はキンクロハジロのメス、右は、カルガモとハシビロガモのメス。ちなみに、カモの数には、カルガモはカウントしていません。
Img_1619c ユリカモメは、12羽。なかなか増えてきません(小生のしばらく前にカウンImg_1716c トした、鳥見の大先輩Sさんは、20羽以上いたとおっしゃっていましたが)。
Img_1661c モズは、野球場の照明塔の上で鳴いていました。このところ、モズやジョウビタキをあまり見かけなくなっています。ツグミ、シロハラもまだやって来ません。貝塚公園では、ツグミやシロハラをよく見ますので、確認に行ったのですが、そちらでも姿は見られませんでした。
Dscn4836c ところで、今日は、鎮国守国神社の境内社の一つである高龗神社(たかおかみじDscn4837c んじゃ)の例祭日でもありました。由緒は、右の写真のように、松平定綱公が、奉祀されたことによります。高龗 は、水をつかさどる竜神で、京都の貴船神社の祭神だそうです。
Dscn4838c わざわざ高龗神社のことを書いたのは、この祭礼に出席された、神社の氏子総代の方にお目にかかり、お話しする機会があったからです。歴史案内人もしていらっしゃるそうですし、小生作の「九華公園の野鳥たち」や「九華公園を楽しく歩こう」などもご覧いただいているということでした。これらの資料のことや、神社や、楽翁公百年祭記念宝物館のことなど、あれこれお話ししてきました。僭越ながら、もっとPRをした方が良いと考えていることや、宝物館を拝観できる機会を増やしてもらいたいと思っていることなどをお伝えしました。有意義な時間でした。
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 今週の土曜日、18日には、名古屋で相談会を予定しています。日にちも迫ってきましたので、資料の分析や、その解説、支援方法の検討など、「大車輪で」とまでは行きませんが、準備を進めています。少しでもお役に立てるようにと、あれこれと考えております。

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2017年11月10日 (金)

旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(後編)

 昨日の記事(旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(前編))の続きです。昨日は、安永から朝日町柿までの道中について書きました。今日は、四日市市松寺から富田まで。

Img_0173c 伊勢湾岸自動車道の手前にある柿交差点を過ぎ、伊勢湾岸自動車道と、北勢バイパスの高架をくぐると、朝明川にかかる朝明橋。ここを渡ると、四日市市松寺に入っていきます。
Img_0183c 朝明橋を渡りきったところに、小公園があり、この看板と力石があります。Img_0184c 看板には、広重の東海道五十三次「四日市宿」や、ここを通ったというシーボルトの説明などが書かれています。力石は、この地で営まれていた茶店の主が残したもので、「二十七メ」と刻まれ、重さ27貫目(約100㎏)と考えられています。北勢地方では、神社やお寺に残っていることが多いそうですが、これは数少ない、民家の軒先にあったものといいます。
Img_0192c 朝明川の河岸段丘をおりて、松寺に入ります。朝日町内にも、「東海Img_0228c 道」 案内板が所々にありましたが、四日市市内にもあちこちにあり、助かります。御厨神明社の手前にあったもの。右は、四日市市内各所に掲げられているもの。桑名でもこういうものを整備してもらいたいところ。
Img_0196c 松寺にある御厨神明社。御厨という名称ですから、伊勢神宮に関わりのImg_0199c ある土地であったことがわかります。静かで、小さな神社。この神明社を過ぎると、薬師堂があると「ホントに歩く東海道」の地図にはあったのですが、見逃してしまいました。細い道の奥に入っていく必要がありました。
Img_0206c 蓮證寺の手前、左(東)側に、松寺の立場跡があります。江戸時代、桑名Img_0207c 宿と四日市宿との間には、5カ所の立場があり、その一つがここ。この「松寺の立場跡」の看板の奥には、「輝子頌徳記念碑」がありました。
Img_0211c 松栄山蓮證(れんしょう)寺。浄土真宗本願寺派の寺。古いお寺で、400年くらい前にここにお堂があり、本堂も200年くらい前に立てられたと伝えられているようです。ご本尊は、阿弥陀如来様。
Img_0230c 蓮證寺を過ぎると、蒔田の御厨神明社と、宝性寺(ほうしょうじ)があります。参道の両側に神社とお寺の石柱が並んでいて、ちょっと不思議に思いました。先に種明かしをしてしまうと、この正面に龍王山宝性寺の本堂があり、すぐ北側に御厨神明社の本殿があったのです。
Img_0237c 龍王山宝性寺の本堂。天平12(740)年に聖武天皇の勅願により創建されたのが始まりだそうです。リンク先の市役所のサイトによれば、蒔田第一自Img_0245c 治会が所有しています。本尊に十一面観音菩薩像を安置している本堂が指定文化財です。享保4(1719)年の棟札が残りますが、現在の本堂は、鬼瓦の銘から文化11(1814)年の建立と推定されるといいます。
Img_0241c こちらは、宝性寺本堂に向かって右手(北側)にある、蒔田の御厨神明Img_0253c 社。特段の由緒書きなどは見当たりませんでした。ほとんど余談ですが、宝性寺の境内に右の写真のような石が置かれていました。「舟止石」だそうです。約60㎝。変形した穴が通る硅灰岩(珪灰石か?)で、穴に縄を通し、海中に投入して、船の碇にしたと説明されています。
Img_0279c 宝性寺・御厨神明社のすぐ南に朝明殿長明寺があります。浄土真宗本Img_0271c 願寺派。立派な山門があるのと、寺の周りが、素掘りの環濠で囲まれていたのにビックリ。それもそのはず、文治年間(1185~90)に蒔田相模守宗勝が居城した、蒔田城跡といわれます。宗勝は、平安時代の末期、時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めました。
Img_0269c 創立年代、開基などは不明ですが、寺誌によると、もと真言宗潮音寺と称し、近郷の豊田村(川越町豊田)にあったと考えられています。慶安4(1651)年、領主松平隠岐守(松平定綱公と思います)から現在の寺地を賜り、翌年寺基を移したといいます。余談ですが、この辺りは大矢知素麺の産地で、街道沿いにも製麺所がいくつかあります。
Img_0291c 東海道が、八風街道と交わるところの少し手前ある「鏡ヶ池跡」は、聖武Img_0295c 天皇ゆかりの地です。聖武天皇の伊勢行幸の際(天平12(740)年11月23日に朝明郡の頓宮にお着きになったといいます)、このあたりで天皇の笠が風で飛んで池に落ちたのを洗濯をしていた娘が拾い上げたそうです。翌日、旅立つ天皇と見送る娘の姿が池に映り、それが鏡のようだったとして鏡池と言うようになったと伝わっています。
Img_0305c 鏡ヶ池跡のすぐ先で、東海道と八風街道とが交差します。左の写真で、Img_0311c 左右を横切っているのが東海道、手前から向こうに通っているのが八風街道。道の奥に小さく、JR関西線の八風踏切が見えています。右の写真は、さらに少し先にある関西線西富田踏切。上を通っているのが、三岐鉄道三岐線。
Img_0316c 西富田踏切の先にある浄土真宗本願寺派の木下山三光寺あたりから、地名は富田になります。三光寺には、長明寺のところで出てきた蒔田相模守宗勝の墓碑があるのですが、それはあとで気づいたこと(笑)。三光寺の先で東海道は、大きく左折。
Img_0337c 名所旧跡ではありませんが三幸毛糸紡績富田工場の前を通ります。子Img_0340c どもの頃、実家の近くにも紡績工場がありましたので、なんとなく懐かしい気がしました。この近くには、東洋紡績富田工場もありました。
Img_0355c 三岐鉄道三岐線と近鉄名古屋線が合流する高架をすぎたところで「富田Img_0358c 一里塚跡」の大きな石碑が見えてきます。標柱は立っていますが、塚じたいはすでにありません。日本橋から98番目ですから、98里ということ。四日市市内には、このほか、三ツ谷、日永、采女にもあります。一里塚の先は、東富田村。ここは、間の宿(あいのしゅく)として賑わったそうです。
Img_0365c その先、JR関西線富田駅の近くには、八幡神社があります。弘安Img_0366c 2(1279)年に勧請された八幡神社が起こりです。かつては「八幡の森」と呼ばれ、樹木が鬱蒼と茂り、昼でも暗かったといいます。八幡社は、明治42(19096)年に鳥出神社に合祀された後、昭和40(1965)年頃、現在の社殿が再建され、富田西町の産土神として戻されたといいます。
Img_0367c 境内の一角には、力石が置かれていました。本日、2つめであります。この力石も、重量約100㎏という説明がありました。説明板には、「ここ八幡神社の「力石」は、力比べ体力を養うことを対象にしたものであり、この石に触れることによって健康長寿への親交を深めたのであろう」と書かれていました。
Img_0379c 本日(11/9)の最終目的地も近づいてきました。八幡神Img_0377c 社から目と鼻の先に、「行啓記念道路碑」が立っています。大正天皇が皇太子の時(明治43(1910)年11月)に、創立間もない三重県立第二中学校(旧制富田中学校・現四日市高校)に立ち寄られ、授業参観されました。そのとき、この道路を通られたことを記念して建てたものです。「まさに破天荒の出来事」とあるくらい驚き、感激だったようです。
Img_0383c 東海道はまだ続きますが、そろそろ12時も近く、6㎞ほど歩いてきましたImg_0387c ので、今日はここまで。行啓記念道路碑のところを右折して、近鉄名古屋線富田駅へ向かいます。9時から歩き始めて3時間。けっこう歩いた気がします。
Img_0393c 駅に着いたとき、急行は出てしまったものの、ホームに上がったら、ちょうどうまい具合に、名古屋行き準急(12時1分Img_0401c 発)が入ってきましたので、これで桑名駅まで。\260。ちなみに、名古屋方向のホーム、反対側は三岐鉄道三岐線が使用しています。
Kyutoukaidou3c
 こちらが、今日のコースのメインの部分(松寺に入ったところは、昨日のKyutoukaidou4c 最後の画像をご覧ください)。出かける前には、大丈夫かといささか自信がなかったのですが、何とか無事に歩き通せました。次は、富田から近鉄四日市駅までをと考えています。
 

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2017年11月 9日 (木)

旧・東海道ウォーク(安永~富田)へ(前編)

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 マイブックスにも載せましたが、しばらく前に「ホントに歩く東海道第12集(桑名~庄野)」を入手し、これを見ながら、近くの東海道を歩いてみようと思っていました。先日、「朝日町歴史散歩」に出かけましたが(10月5日;朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼)、それは実は、この東海道ウォークの試しという意味合いもありました。桑名市安永辺りから、四日市市富田まで歩いてきましたが、長くなりますので、今日は、その前編ということで、桑名市安永から、朝日町柿までのお話。
Img_0017c_2 桑名駅前のバス乗り場まで歩き、8時50分発の「ヨナハ総合病院」行きに乗Img_0030c_2 り、城南口で下車(約10分、210円)。ここは、町屋川(員弁川)にかかる町屋橋(国道1号線)のやや北。右の写真は、現在の町屋橋です。旧・東海道の町屋橋は、この少し上流側に、寛永12(1635)年にはじめて架橋されています。安永立場と、縄生(なお)村との間です。安永立場では、今も名物となっている「安永餅」が売られていたといいます(現在は、この辺りでは売るところはありません)。
Img_0046c_2 町屋橋を渡り、朝日町縄生へ。町屋橋の少し上流のところから、旧・東海道Img_0047c_2 が続きます。左の写真で、町屋川越しに見えるのが、桑名市街地。この交差点を左(南)へと進みます(右の写真)。
Img_0051c_2 橋本川を越えるとじきに、金光寺(こんこうじ)が右手(西)にあります。金光寺は、寛政年間(1789~1800)に類焼し、3年後に現在地に再建されたものの、明治3(1870)年、当時の住職・浄海(じょうかい)を最後に無住となり、この小さな本堂のみが残されています。ご本尊は、十一面観音菩薩。
Img_0058c_2 金光寺の隣には、桔梗山真光寺(しんこうじ)があります。浄土真宗本願Img_0060c_2 寺派。大同2(807)年、最澄が天台精舎として創建。興国元(1340)年に本願寺第三世覚如上人の教化を受けて浄土真宗に改宗しています。
Img_0064c_2 ここ真光寺には、松平家の定紋である梅鉢紋入りの大手水鉢があります。これは、桑名藩7代藩主・松平定重公が、万治3(1660)年に寄進した ものです。先代藩主の定良公が、有馬温泉での湯治から帰藩途中に病死したのですが、町屋川の洪水で、川留めになり、真光寺がその遺骸を3日間安置し、供養したことへの返礼で拝領したものです。
Img_0076c_2 さらに進みますと、水谷たばこ店の店先に山口誓子の句碑があります。Img_0073c_2 この句碑には山口誓子の筆跡で、「露けさよ 祷りの指を 唇に触れ 誓子」と刻まれているのだそうですが、判読はかなり難しいです。「俳句のくに 三重」の説明によれば、「外に出て露けき中でお祈りをした。合掌し、その手を唇に近づけたので指の先が唇に触れた。私はその指先を感じながら祈りを続けた」ということです。昭和25(1950)年10月建立。誓子は、昭和16(1941)年、伊勢富田(四日市市富田)に移り、療養したといいますから、その頃の句でしょうか(未確認です)。
Img_0078c_2 山口誓子句碑のすぐ先に、縄生の「一里塚跡」の石碑があります。ここは、桑名の七里の渡や、西富田の庚申橋から、それぞれちょうど一里のところ。伊勢国には、12カ所に一里塚がもうけられたといいます。この石碑は、平成13(2001)年に、東海道宿場・伝馬制度制定400周年記念事業で作られたもの。
Img_0084c_2 近鉄名古屋線・伊勢朝日駅近くに「安達本家酒造」があります。実は、今Img_0085c_2 日のウォーキングでもっとも楽しみにしていたことが、ここにあるのです。右の写真のように、自動販売機で、ここが造っている地酒を買えるというのを聞いていたのです。「富士の光」という純米大吟醸酒が有名。
Img_0086c ところが、大変なことが起こりました! 写真にあるように、「免許証を入れて」、「販売可」となったら、お金を入れて購入という段取りなのですが、何度やっても、「販売不可」。20歳以上とは認識されなかったのでしょうか(苦笑)。はたまた機械の不調? あいにく、どなたもいらっしゃらなかったので、泣く泣く諦めて、歩き続けました。
Img_0095c 近鉄・伊勢朝日駅のすぐ前には、あの(!?)東芝三重工場があります。この三重工場では、電動機、変圧器、インバータ、車載用ジェネレータなどの開発・製造を行っているようです。地図を見ると、その敷地の広さには驚きます。
Img_0096c 伊勢朝日駅近くには、踏切を渡った左に、ポケットパークがあり、樹齢Img_0113c 300年のエノキが残っています。東海道を往き来した人々を見てきたのでしょう。
Img_0098c 焼蛤といえば、「その手は桑名の……」という言葉もあって、有名ですが、この辺り(縄生村、小向(おぶけ)村)でも、焼蛤を名物として商う茶屋があったといいます。火鉢に松かさを燃やして蛤を焼いて売っていたといいます。
Img_0115c 朝日町役場や、朝日町資料館に入っていくところには、小向神社の標柱や、案内板が立っています。ここから、JR朝日駅の東辺りは、10月5日に歩いたところです(朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼)。東海道沿いにも、橘守部生誕地跡、浄泉坊、西光寺などがありますが、今日は割愛。10月5日の記事をご覧ください。
Img_0128c 小向神社の標柱から800mほど行ったところ(柳屋酒店)Img_0130c で、東海道は大きく左折。「東海道はこちらでござる」という手作りの標識があったりして、うれしくなります。ここらは、昔の柿(かき)村。
Img_0138c 柳屋の先ではまた、大きく右へ曲がっています。明治の地図では、このImg_0140c 辺り、東海道の両側は水田だったようです。「ホントに歩く東海道」の解説には、「当時は民家は一軒もなかった。郷土資料「大矢知地区幕末・明治生まれの実話」には、「追い剥ぎ、辻切り、乞食」の出没する寂し い道だったとある」と書かれています。柳屋から300mほど行ったところに「豊田一色」の小さな道標が立っています。豊田一色は、川越町の地名。ここから南東側にあります。
Img_0145c 豊田一色の道標の先には、桜並木が続いています。その昔は、松並木だったのだろうと思います。ここまで来ると、伊勢湾岸自動車道や、北勢バイパスの高架が見えてきます。右手(西)には、鈴鹿の山並みがよく見えますが、江戸時代などは、上にも引用したように、さみしいところだったと思われます。
Img_0156c 高速道路、バイパスの高架橋をくぐる手前、柿交差点脇に、多賀大社常夜灯が立っています。弘化3(1846)年に、滋賀県の多賀大社から勘定して祀られた神社(現在は、井後(いじり)神社に合祀)の神殿前に建てられていたものといいます。元々は、東海道沿いにあったものでしたが、昭和46 (1971)年に街道から30m西の現在地に移転されています。「お多賀さんの灯籠」と親しまれ、かつては燈籠番が毎夜、火を灯していたといいます。
Img_0167c 伊勢湾岸自動車道の手前にある柿交差点。左右に横切っているのが、旧・東海道。この辺りまでが、朝日町。右手に進むと、伊勢湾岸自動車道と、北勢バイパスの高架をくぐって、朝明川にかかる朝明橋を渡ると、四日市市松寺。
Kyutoukaidou1c 今日歩いたコースの前半部分は、これら2枚の画像の通り。左の画像Kyutoukaidou2c で、町屋橋南詰交差点から北に入ったところから、旧・東海道を歩いています。今日の記事は、右の画像で、伊勢湾岸自動車道・北勢バイパス側にある「柿交差点」のところまで。この先、四日市市内になります。バスを降りてから、富田までは、6.1㎞を歩いていますが、桑名駅までの往復でプラス2.2㎞。トータル8㎞以上歩きました。

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2017年10月13日 (金)

秋雨前線停滞……ベランダの塗装が終了し、外が見えるようになり、気分スッキリ(微笑)

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 秋雨前線が日本列島南岸に停滞しているそうで、すっきりしない天気です。これが向こう1週間ほど続くとか。ヤレヤレとため息をつきたくなります。しかしまぁ、行けるときには散歩に出ようと思っています。ということで、今日も8時40分から2時間半ほど、5.3㎞歩いてきました。住吉神社、九華公園、春日神社、寺町であります。冒頭の写真は、九華招魂社の狛犬の足下でお休み中の旅ネコさん。一瞬目を開けましたが、すぐにまたこの状態。今日のような天気では、寝ていたいのはよく分かります。
Img_6981c 「鳥果」は上がりませんでした。種類、数も少ない上に、証拠写真ばかり(苦笑)。左は、諸戸氏庭園の西側の樹上にいたモズのオス。朝、起きた頃や、新聞を取りに行く6時頃、諸戸氏庭園からモズの鳴き声がよく聞こえてきます。このモズかも知れません。
Img_6996c 揖斐川の堤防。今日は、赤須賀の漁船が出ていましたので(たぶん蜆のImg_6991c 漁)、中州にはサギの姿は見られません。代わって、上流の方からアオサギが飛んできて、下流の方へ。
Img_7055c 九華公園、今日はキンクロハジロのメスが2羽に増えていました。二の丸堀Img_7017c あたり、先日いたハシビロガモのオスは、その後、姿を消したまま。カルガモは、涼しくなったためか、元気よく声を上げながら、堀を泳ぎ回っています。「グワッ、グワッ」と一段と元気なのは、右の写真で後ろにいる方。
Img_7026c 吉之丸堀の東屋がある橋の欄干には、ハクセキレイ。ハクセキレイは、Img_7033c ちょくちょく見かけます。モズは、三の丸公園でも、九華公園でも必ずと言ってよほど見かけます。右の写真は、公園内野球場の照明灯の上。ここは、モズにとって絶好のロケーションかも知れません。九華公園の中では最も高いところだからです(たぶん)。
Dscn4279c 管理事務所でしばし話し込んで、出てきたら、中学生のグループから、歴史を語る公園への行き方を尋ねられ、またもや「俄案内人」。管理人さんから、「mamekichiさん、ワシよりよく知っているから、そこに立って案内していてくれ」と(爆)。中学生たちがきちんと行けたか確認しつつ、春日神社に立ち寄ってきました。今月1日から、七五三詣が始まっています。この後、寺町商店街へ。今日は、三八市。小学生の子どもたちが、先生に引率されて、「買い物学習」に来ていました。どの子もたくさん買い込んでいて、微笑ましい光景があちこちで展開されていました。
Dscn4293c ところで、大規模修繕が進行中の拙宅。今日、夕方になって、ベランダ側の塗装工事が終了したようで、養生のためのビニールが撤去されました。床の上などには、まだビニールが貼られていますので、ベランダには出られませんが、外が見えるようになって、気分的にはこれまでと大違い(笑)。窓もたぶん開けて良いのだろうと思います(ただし、未確認)。
Dscn4295c_2 ご近所の方とは、「病気になりそうだよね」という話をしていました。外が見えない、太陽光がほとんど入らない、窓も開けられない、ベランダに出られない、換気も十分できないというのは、かなり厳しい状況だというのが、もう十二分に実感できました。

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2017年10月 5日 (木)

朝日町歴史散歩へ……昼は、味噌天丼

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 今日もまた外出してきました。今日は、JR関西線に乗って一駅、三重郡Img_5796c 日町へ。運賃は¥190。朝日町は、小さな町ですが、弥生時代の遺跡があり、壬申の乱の時には、この付近で大海人皇子(天武天皇)が伊勢神宮を遥拝し、戦勝祈願をしたと伝わっています。また、縄生廃寺からは、国の重要文化財に指定された出土した舎利具などの遺物が発掘されています。町名は、天武天皇が壬申の乱の際に付近で朝日を拝んだという、日本書紀の故事によるといいます。
Asahiwalking  今日の目的は、歴史散歩。桑名駅にあった「JR関西本線ウォーキングガイド 朝日駅編」というパンフレットをしばらく前に入手し、一度行ってみようと思っていたのですが、涼しくなってきたので、ようやく実現したということです。左の画像が、これに載っていたウォーキングコース。2㎞、1時間と書いてあったのですが、小生が歩いたら、4㎞、2時間でした。他にも行ってみたいところはあったものの、今日のところは、ほぼこのコース通りに回ってきました。
Img_5802c JR朝日駅から、まずは、この旧・東海道に出ます。コース図に「スタート」と矢印がついている先の曲がり角から、上り方向を撮ったものです。今は、生活道路となっていて、クルマも案外たくさん通ります。
Img_5805c 最初の目的地である朝明山西光寺。浄土真宗大谷派。確実な證跡はないImg_5826c そうですが、現存する絵像御本尊の裏書からは、明応5(1496)年に開基とされています。その後、貞享2(1685)年、大谷派に転じ現在に至ったといいます。現在の建物は、明治10~23年にかけて建立されたもの。立派な松があり、松並木の名残かという気がします。
Img_5812c 本堂の南隅に半鐘がかかっていますが、これは江戸時代のものだそうです。ただ、この西光寺、バイクや、自転車はおかれていたのですが、人気がありませんでした。
Img_5841c 西光寺から旧・東海道を約5分進みますと、小向山浄泉坊に到着します。Img_5842c 浄土真宗本願寺派。慶長8(1603)年に、伊勢慶昭が小向にあった正治寺を再興し、小向山浄泉坊と改称したのに始まります。徳川家にゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたことがあるといわれ、本堂の棟や、山門に徳川家の定紋三ツ葉葵が入っています。そのため参勤交代の大名はこの寺の門の前では駕籠から降りて一礼したと伝えられます。右の写真は、山門脇にあった、旧本堂の鬼瓦を安置したもの。
Img_5855c 左は、本堂の屋根の写真。右は、山門の扉。いずれも、三ツ葉葵のご紋Img_5858c が入っています。このお寺では、地元の男性から声をかけられました。その方もカメラを持っていらしたのですが、ご住職から寺の絵を描くよう依頼され、その構想を練るために写真を撮っているということでした。
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 浄泉坊のほぼ斜向かいに、国学者・橘守部誕生地遺跡の案内板があります。17歳のとき、一家離散のため江戸に下り、20歳を過ぎてから学問を志したのですが、香川景樹、平田篤胤、伴信友とともに「天保の国学四大家」の一人に数えられるに至っています。
Img_5891c この「誕生地遺跡」の案内板の裏手に町役場があります。その一角に「橘守部翁生誕の地」の石碑が建っていました。県史跡に登録されているのは、こちらのようです。この碑は、昭和27(1952)年に建立。鈴鹿市出身の歌人佐佐木信綱の賛歌2首「くちせぬ名を国つ学の道の上に残せる大人はこの里そ生みし」「時じくのかぐのこのみのかぐわしきたかき名仰がむ八千とせの後も」が刻まれています。
Img_5874c ちなみに、この橘守部の父親である、庄屋・飯田長十郎元親の墓が、浄泉坊にあります。浄泉坊を出て、誕生地遺跡を見ているときに思い出して、戻ってみてきました。元親は、亀崎、金井などの村々を支配する大庄屋格で、津の国学者・谷川士清の門人であったといわれています。寛政4(1792)年に一揆加担の疑いをかけられ、そのため一家が離散したといいます。
Img_5881c 「橘守部誕生地遺跡」からさらに東海道を上ると、「御厨 小向神社」といImg_5884c う石柱が立つ交差点に出ます。ここで右折(東へ)。少し行くと、朝日町歴史資料館があります。ただ、うっかりして見逃しそうになりました(苦笑)。大正5(1916)年に建てられた旧朝日町役場庁舎で、国の登録文化財にも指定されています。ただし、公開は、木曜・土曜で、今日は見られませんでした。
Img_5911c ここでUターンして西へ約10分。東海道、JR関西線を横切って、小向神社Img_5913c へ。御厨神明社とも呼ばれたといいます。「御厨」は、「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、神饌を調進する場所のことですから、このあたりは神領だったと思われます。御祭神は、右の写真の通りですが、大日霊貴尊は天照大神です。橘守部も祀られています。
Img_5919c 境内は広く、また、木々が鬱蒼としていて、神聖な雰囲気を醸し出していImg_5931c ます。 垂仁天皇の25年、皇大神宮が桑名郡の野代宮から鈴鹿郡忍山へ遷るときの頓宮の跡と伝えられています。「頓宮」とは、仮の宮、一時的な宮のことです。垂仁天皇の第4皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神の御杖代として大和から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされますが、それに因むものかと思います。
Img_5937c 境内には、「皇大神宮遙拝所」という石柱が立っていました。ちょうど伊勢Img_5935c 神宮の方角を向いたと思われるところです。ほとんど余談というか、感想なのですが、この小向神社の拝殿前には、とても大きな灯籠がありました。春日神社の灯籠も大きいのですが、負けず劣らずという印象です。
Img_5944c 神社の掃除をしていらっしゃった地元の女性が、「裏山に登ると、見晴らしがよい」と教えてくださったので、行ってきました。普段、主に平地を歩いていますから、ちょっと苦労しましたが、ご覧のような眺め。四日市市街や、港、コンビナート、ポートビルがよく見えます。帰ってから気づいたのですが、このあたり、小向城があったところのようでした(苦笑)。飯田庄之助の居城でしたが、織田信長に攻められて滅んだところです(1567年)。このあたりから西、今は白梅の丘という住宅団地になっていて、消滅してしまっています。
Img_5966c 次の目的地は、初代森有節の墓です。JR関西線沿いの道に戻り、5分ほImg_5968c ど。名谷(めんだに)公園の中にあります。有節は、萬古焼中興の祖です。ここは、18世紀半ばに沼波弄山によって萬古焼が始められたところです。一時途絶えていたのを19世紀初め、有節がここに窯を構えて再興したのです。実は、ここまで大回りしてきたのですが、有節の墓から右(北)を見上げたら、さっきまでいた小向神社の裏山が見えたのです。そこからストレートに降りてくる道もあります(苦笑)。まぁ、散歩にきたのですから、たくさん歩くのはよいことです。
Img_5972c 有節の墓の横には、「三重県指定史跡 有節萬古窯跡」の説明板があります。有節は、独自の作風を確立し、明治以降、パリ万国博覧会へも出品するなど活躍しました。その技法は四日市萬古などに引き継がれているのですが、桑名在住者としては、萬古焼は、桑名の豪商・沼波弄山が始めただけに四日市が中心になっているのは、ちょっと残念です。
Img_5982c 残りは2カ所。朝日町歴史博物館と、柿城跡。歴史博物館までは、約9Asahimuseum 分。JR関西線沿いをてくてくと歩き、朝日町体育館のところから少し坂を上らねばなりません。ここへは、今年1月24日に来ています(朝日町歴史博物館へ真田信繁(幸村)の書状を見に行く)。今は常設展だけ開催中でしたが、10月28日からは、“開館20周年記念企画展「朝日のいにしえ ―縄生廃寺―」”が開催されますので、見に来ます。
Img_5991c さぁ、いよいよ最終目的地、柿城跡です。ここも実は、2度目。博物館からはImg_5992c 徒歩4分なのですが、標高40mほどの丘陵先端に位置していますので、これまた坂道(苦笑)。トレーニング不足であります。城主は佐脇氏。室町幕府に奉公衆として仕えました。弘治3(1557)年に近江国の戦国大名六角氏によって攻められ、柿城は落城しています。城跡は、現在は公園となっています。
Img_5994c 主郭があったところからは伊勢平野や東海道が一望できます。Img_6004c 戦国時代の城(というか、城館といった方がよいのかも知れません)は、こういう眺めのよいところにあったのだという気がします(小向城跡もそうです)。
Ts3v0113  この後、本来であれば、JR関西線朝日駅に戻るのですが、今日の昼は、Img_6007c 家内と外食することにしており、朝日町歴史博物館に戻って、迎えを待ってクルマで天ぷら兎波へ。味噌天丼をいただいてきました。「おすすめの食べ方」として、半分ほど食べたら、「味噌天茶漬け」にとありましたので、試してみました。味噌は八丁味噌。味噌の味が結構強いので、この茶漬けで食べるというのは、なかなかよいものです。
 余談。今日は、ウォーキングガイドにしたがって散歩してきました。しかし、朝日町には、まだまだ見所がたくさんあります。縄生廃寺跡や、苗代神社、井後神社は是非とも行きたいところですし、東海道沿いには、山口誓子句碑、一里塚跡、小向立場跡、多賀大社常夜灯などがあります。また近いうちに。

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2017年9月14日 (木)

長島で鳥見、歴史散歩……河口堰と、長島城跡、蓮生寺、八幡社へ

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 台風来襲を前に、長良川河口堰他へ遠征であります。夕方の予報では、土Dscn3548_800x600 日が雨のようですし、台風もまともに来そうです。河口堰には9時到着、1時間あまり滞在。カワセミを久しぶりに堰西側で見ました。せせらぎ魚道の上流側から、親水広場に降りるスロープを越えて、揖斐川との中州に飛んでいきました。あっという間で、写真は撮れず仕舞い。それと、例のヤギさん、あの会社の周りを歩いてみましたが、本日は不在でした。
Img_2212_800x560 河口堰の東側にいたのは、アオサギさん1羽。このアオサギさん、一回りしImg_2349_800x598 て戻ってきたら、楽しませてくれました。先にその話題から。右のように、一段降りて、覗き込んでいました。「位置について、ヨーイ」という感じでした(微笑)。
Img_2350_800x563 期待に違わず、ダイビングしてくれました! 今シーズン初のダイビングシImg_2351_800x551 ーンであります。といいながら、右の写真を見ますと、足が付くところで、頭を長良川に突っ込んだということのようでした。
Img_2352_800x572 やや遠くて(かなりトリミングしています)、首尾がどうだったかよく分かりません。しかし、何となくではあるものの、獲物はあったような感じがします。
Img_2223_800x574 河口堰西側。いつもの閘門へのアプローチには、ダイサギ1羽と、カワウImg_2225_800x592 が計9羽。そこへ、別のダイサギが飛来。右の写真は、この場所へ着地寸前の様子。先日も着地シーンを載せましたが、サギたちのこの場面、なかなか興味深いものがあります。
Img_2241_800x546 西側の魚道、上流。アオサギが1羽。今日見たアオサギは、合計4羽。たImg_2243_800x547 だし、このアオサギさんも、かなり離れていたものの、このあとすぐに逃げられました。右は、その逃げた先での様子。閘門へのアプローチ、上流側のところです。
Img_2233_800x607 ハクセキレイは、この頃、河口堰でよく見られます。今日も管理橋の上Img_2325_800x610 や、堰西側あたり、親水広場で何羽も目撃。イソシギは、閘門のところで見かけました。イソシギもいつも、逃げ足が速いのです。
Img_2309_800x577 こちらは、揖斐川の方から飛来して、閘門の上流側に降り立ったアオサギさん。親水広場の東側。西側にいたのですが、大急ぎで回って、写したもの。しかし、これを撮った直後、逃げられました。全く、どうしようもありません。
Img_2249_800x590 アオサギがやってくる直前、猛禽類の姿が。トビかと思ったのですが、違うかも知れません。管理橋の上空を悠然と旋回しつつ、次第に下流方向へ飛び去りました。
Dscn3567_800x551 さて10時過ぎからは、長島町内歴史散歩(微笑)。やすらぎパーク駐車場にクルマを入れて、長島城跡と、蓮生寺へ。
Dscn3579_800x600 長島城の跡は、ほとんど遺構はありません。長島中学校と長島中部小学Img_2371_800x545 校になっています。ただ、長島中部小学校の敷地内には、本丸の南西隅にあった樹齢300年以上の黒松が今でも城郭の名残として、その威容を誇っています。
Dscn3583_800x600 長島城は、文明年間(1469~87)に伊勢国安濃郡の長野氏一族といわれる伊藤重晴が築城したと言われます。その後、長島北部にあった願証寺が浄土真宗の一大拠点となり、伊藤氏は滅ぼされ、長島城も願証寺の支配下に入ります。長島一向一揆の際には、織田信長に攻められ、破れます。その後、菅沼氏、松平氏が藩主となった後、元禄15(1702)年に増山正弥が藩主になってからは、明治維新まで増山家が支配しました。
Dscn3600_800x567 長島城の遺構はないと書きましたが、近くの蓮生寺(長島町又木)には、Dscn3606_800x600 大手門の一部が山門として使われています。蓮生寺第十一世賢道のとき(明治9(1876)年)に払い下げを受けたものです。旧大手門より縮小されているようです。
Dscn3587_800x600 長島城跡に立つ長島中学校、なかなかおもしろい意匠で建てられていまImg_2377_800x533 す。左は、門。まるで城の大手門のようです。右は、校舎の一つ。何だか、お城の天守閣のようにも見えます。勉強するにも気分が違うかも知れません。この他、近くにあった正敬寺、花林院なども見てきました。
Dscn3624_800x600 帰り道、もう1ヵ所立ち寄ってきました。長島最古の神社である八幡神社Dscn3626_800x600 です。今日・明日が例祭。以前箱の冷菜に合わせて奉納されていたようですが、獅子舞神事があるのです(今は、9月の第3土・日)。
Dscn3631_800x600 この神社は、寛元3(1245)年に藤原道家が勧請したと伝えられていまDscn3635_800x600 す。歴代長島城主からも武神として崇敬されていたそうです。獅子舞は、元禄12(1699)年に北島村の氏子によって始められたといいます。一度見てみたいと思うのですが、土・日は台風18号の襲来と重なりそうです。

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2017年8月29日 (火)

伊曽島神社の御利益か、アオサギに恵まれ、ウミネコまで登場した遠征……伊曽島神社南で、「明治改修着工之地」石碑も見る

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 本当に性懲りもなく、またもや長良川河口堰へ行ってきました(苦笑)。9時Dscn2963_800x600 過ぎに到着、1時間あまり鳥を見ながら歩いてきました。残念ながら、カワセミは目撃できず。また、あのヤギさんの姿も見つけられませんでした。ヤギさんがいた会社の正門の方へも回ってみたのですが、確認できません。左の写真は、河口堰管理橋の中央あたりから、伊勢大橋の西詰(桑名側)を見たもの。右の写真も管理橋の途中から、西を眺めたもの。管理橋は、たぶん800mくらいの長さがあります。
Img_0264_800x587 今日はまずは、こちら。アオサギさんの飛び姿。左は、9時半過ぎ、河口堰Img_0329_800x579 の西から伊勢大橋に向かって飛ぶところ。右は、親水広場を回って、堰の東に戻ろうとしたとき(10時前)、閘門の上流から南へと飛ぶアオサギ(左とは別個体)。カワセミは見られませんでしたが、アオサギの飛び姿を捉えられましたので、まぁ満足であります。
Img_0290_800x595 上右の写真のアオサギだと思いますが、堰の南へ飛ぶ前に、閘門上流のImg_0294_800x543 ところへ降り立つシーンも。後ろ姿ではありますが、羽の使い方というか、動きはなかなか興味深いところが捉えられた気がします。まだ後からもありますが、今日はアオサギさんに楽しませてもらいました。
Img_0188_800x569 さて、河口堰の東側には、上流、やや遠くにアオサギが1羽と、下流にカワImg_0205_800x533 ウがいただけでした。西側の閘門へのアプローチの上流側、先日賑わっていたのに、今日は、閑散としていました(右)。カワウ3羽にアオサギ1羽。アオサギは、先端の方(向かって左)に小さく写っています.アオサギのさらに先にコサギもいましたが、遠すぎます。
Img_0225_800x541 堰の西、下流側にある中州の中の池には、ダイサギらしく姿が1羽と、コImg_0237_800x589 サギが2羽。親水広場の水路で、今日もイソシギを目撃。イソシギは、アオサギと同じか、それ以上に逃げ足が速いので、これだけでも写真に撮れるのは珍しいくらい。
Img_0318_643x800 親水広場には、今日はスズメくらいしかいません。よくいるカワラヒワは、Dscn2974_800x600 鳴き声もせず。親水広場を回って東へと戻るとき、閘門へのアプローチの上流に、カワウ、アオサギ、コサギ。このアオサギが、4~6枚目の写真のアオサギさん。今日のように、平日に河口堰に行きますと、管理点検作業などが行われています。親水広場にあるマンホールのところは、右のようになっていました。係の方がクルマで移動されたのに、姿が見えないと思ったら、こういう次第。秘密の地下施設(?)があるようです。今日はもう1ヵ所、西側の魚道のところでも同じような作業が行われていました。
Img_0370_800x533 初めにも書きましたが、「ヤギさん探し」に行ってきました。堤防上からもImg_0371_800x533 見えません(左の写真)。堤防から降りて、会社の正門の方へ回ってみましたが、同様(右の写真)。作業している方はいらっしゃったのですが、ヤギさん、姿形も鳴き声もなしでした。
Dscn3011_800x600 このあと、木曽川の水制(国道23号線木曽川大橋の北)に行くことにしたDscn3009_800x575 のですが、その前に久しぶりに伊曽島神社に立ち寄ることにしました。河口堰から長良川左岸を南下、国道23号線の下をくぐって、長島スポーツランドの南から回りました。このルートから行くのは初めて。これが幸い。伊曽島神社のすぐ南に「明治改修着工之地」という石碑を発見(というか、今まで気づかなかっただけですが……)。
Dscn2996_600x800 何と、ヨハネス・デレーケが計画した明治改修(木曽三川の分流工事)のDscn3008_600x800 工事が、ここ長島町横満蔵(当時は、伊曽島村横満蔵)で明治20(1887)年に始まったというのです。この記念碑は、昭和62(1987)年に、木曽三川近代治水百周年に当たって、これを記念して建立されたのだそうです。伊曽島神社や、木曽川の水制には何度も来たのですが、気づきませんでした(苦笑)。
Dscn3003_800x600 こちらは、説明板にあった「明治改修計画図」の一部。長島町あたりのところを撮ったもの。現在の桑名市長島町あたりは、輪中の集まりであったことがよく分かります。黒線は旧堤防、黄色い線は新堤防、緑に塗られた川は廃川地、灰色のところは「開削地」とあります。この石碑や、伊曽島神社のあるあたりは、改修以前は、青鷺川だったところです。葭ヶ須輪中と、横満蔵・白鶏新田の間に青鷺川が流れています。青鷺川の跡には長島の七里の渡し跡があります(2016/08/19;木曽川、伊曽島神社・七里の渡し跡あたりへ遠征……コサギ、アオサギ、シギの他、ネコと戯れ、旧・青鷺川を知る【白鷺川について追記あります(8/20)】)。あまり明確に記憶していたわけではありませんが、今日の遠征は、アオサギさんに導かれているようです(微笑)。
Dscn3024_800x600 ということで、伊曽島神社にお参りして、こちら、木曽川の水制へ。左のDscn3025_800x600 写真で右端に写っているのが、国道23号線木曽川大橋。上流側、1番目の水制です。右の写真は、上流方向。中央あたりは、弥富市街地。
Img_0431_800x576 今日は、ここでもアオサギさんに恵まれました。伊曽島神社にお参りしたImg_0435_800x588 御利益であります。左の写真は、木曽川の北東から小生のいた方に向かって飛んで来たところ。右は、同じアオサギさんが、方向をやや変え、2枚前の水制に降りる前のところ。
Img_0415_800x606 この水制には、ウミネコもやって来ました。下流側から飛んで来て、着Img_0421_800x582 水。初めは少し離れた木曽川に降りたのですが、しばらくして、水制の上に移動。見ていましたら、どうも左足に支障があるようでした。
Img_0422_800x564 ウミネコのやって来た水制には、ダイサギらしきサギと、コサギ2羽がいまImg_0472_800x598 した。ここには、上のアオサギも降り立ちました。が、アオサギさん、暑そうで、のどをブルブルしていました。
Img_0468_800x533 もう一つ上流側の水制の方が、賑やかでした。カワウも5~6羽いたほか、コサギも10数羽、ダイサギらしきサギも。さすがに暑くて、近くまで行くのは諦めました。
Dscn3014_800x600 ということで、伊曽島神社の御利益か、アオサギさんに恵まれた遠征でしImg_0379_800x588 た。伊曽島神社の境内では、ナガサキアゲハ。2羽(2頭というのが正しいようです)。
Dscn3052_800x600 余談といいますか、自分のための記録。拙宅マンション、2回目の大規模Dscn3043_600x800 修繕が始まっています。現在、工事のための足場を組む作業中。今日は、大型クレーンが入って、その作業が進んでいます。このクレーン、9階まで届くもの。目の前にクレーンの先端部分があって、ちょっと驚きます。明日は、わが家のベランダも作業にかかってきて、洗濯物はベランダには干せないようです。鬱陶しいといってはいけませんが、ちょっと不便な日々が続くことになります。メダカハウス、現在5軒に分かれているのですが、これをどうしましょう?

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