神社

2018年5月23日 (水)

昨日の写真の正解はこちら

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 アタマまでヘロヘロになってしまい(苦笑)、失念していました。これは、どうも支援が必要な状況かも知れません。お知り合いの皆様には、何卒よろしくお願いいたします。という冗談なのか、本当なのか、よく分からない与太話はさておき、引いて撮ると、次のようシーンになります。
Img_4889c 正解はお稲荷さん(九華稲荷社)の参道の赤鳥居が並んでいるところで撮ったものでした。切り取り方によって、見え方や、印象はまったく変わりますね、という好例と思ったのです。芸術的な写真を目指す、というのは多分にあいませんし、小生の能力を超えております。あくまでも遊びの一つ。

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2018年5月20日 (日)

20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(その3)……舟着社と野志里神社

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 近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(4/28)180428kintetsuhikingtado2 のその3です。その2では、多度大社を見て回りました。その後、多度大社前から東へ、またもや上り坂を経て、養老鉄道を越えたところで地道、竹藪の中を通り抜けてきました。前方に林というか、森が見えてきました。
Img_0748c コースに含まれてはいませんが、神社でしたのでここは立ち寄らざるを得まImg_0750c せん(微笑)。「村社 舟着社」という社名標が立っています。「舟着社」というからには、このあたりに舟が着いたということ。これは是非ともお参りし、見てこなくてはなりません。
Img_0752c 社伝によれば、多度神社別宮の一目連大神が度会郡山田郷よりの帰りに舟で当社附近に着かれたので舟着社と云うと伝えられています(こちら)。また、この近辺は尾津浜、尾津崎等の小字のとおり、木曽三川の川岸であったため附近の人々が氏神として舟着社の社名で海神を奉斎したとも伝えられているそうです。今は、揖斐川まで2.5㎞ほどあります。御祭神は、表筒男神(ウワツツノオノミコト)、中筒男神(なかつつのおのみこと)、大山津見神(オオヤマツミノカミ;山の神)、火之迦具土神(かぐつちのかみ;火の神)、底筒男神(そこつつのおのみこと)、天津日子根命(あまつひこねのみこと;多度大社の御祭神、天照大神の子)、気吹戸主命(いぶきどぬしのみこと;祓戸大神(はらえどのおおかみ)の一神。払戸大神とは、神道において祓を司どる神で、祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神)。表筒男神、中筒男神、底筒男神は住吉大社に祀られている御三神、住吉神(すみのえのかみ)。気吹戸主命とは、初めて知った神様。
Img_0754c 尋ねたとき、ちょうど氏子の方がお祭りの準備に来ていらっしゃり、説明をしてくださっただけでなく、本殿の方まで案内をしてくださいました。こういう出会いは、嬉しいものです。
Img_0763c 境内の一隅には、この石碑。「奉献 船置神社」と刻まれています。碑陰を確認するのを忘れてしまいましたが、社伝を裏付けるような石碑と思います。
Img_0765c 帰り際に、最初に見た社名標の碑陰を確認したところ、「国幣大社 御旅所」とありました。寄進したのは、水野英三郎というかた。国幣大社は、多度大社ですから、多度大社の御旅所ということ。5月5日の多度大社神輿渡御の折りには三基の神輿が奉安されるそうです。ちなみに、この記事を書くのにあれこれ調べていたら、日本武尊が東征において、この地から尾張国に向けて船を出したことにちなむという話もあるようです(こちら)。いやぁ、ここは立ち寄ってよかったと思います。このあたりは多度町肱江。肱江川を越え、さらに1㎞ほど進みます。
Img_0798c 美濃街道に面して野志里(のじり)神社があります。延喜式に名を列ねる古社。ここは、今回のハイImg_0801c キングで是非とも訪ねたかったところ。垂仁天皇の御代の創祀と伝えています。倭姫命が天照大神を奉じて、ここ桑名郡野代宮にお着きになり、4年間この地で宮居を造られたと伝わるとこなのです。倭姫命は、その後伊勢に遷幸され、その野代宮の跡に本社が創祀されたといいます。
Img_0803c 想像していたよりも、質素なお社でした。しかし、荘厳というか、由緒があることを十分に感じさせる雰囲気です。主祭神は、当然ながら、天照大神。相殿神は、たくさんおられます。建御雷神(タケミカヅチノカミ)、天児屋根命(アマノコヤネノミコト)、経津主神(フツヌシノカミ)、姫神(不明)、大山咋神(オオヤマクイノカミ)、速玉之男神(はやたまのおのかみ)、事解之男神(コトサカノオノカミ)、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(ヤチマタヒメノカミ)、衝立久那戸神(ツキタテフナドノカミ)、火之迦具土神(カグツチノカミ)、火之夜芸速男神(ひのやぎはやをのかみ)、火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)、品陀和気命(ホンダワケノミコト;応神天皇)、大山津見神(オオヤマツミノカミ)、宇迦之御魂神(うかのみたまのみこと)、白山比売神(しらやまひめのかみ)です。すでにおなじみの神様も多いのですが、ここで初めて名を目にする神様も多数。
Img_0796c 神社から美濃街道を挟んで東側の社地には、「伊勢神宮御旧蹟野代Img_0793c の宮」という石碑が建っています。一説によると、関ヶ原の戦いの時に、薩摩藩兵が多数、ここ美濃街道を通ったため、境内が東西に二分されたという話があるそうです。
Img_0791c 同じく東側の社地には、この「天照大神御𦾔跡式内野志里神社」という石碑もあります。明治Img_0835c 26(1893)年10月に建てられています。揮毫は、三重県知事・成川尚義(なりかわなおよし)。この石碑の上部にある「天照大神」の文字、よくよく見ると普通とは異なっています。「照」という文字のれっか(連火)の部分が「火」になっています。「照」の旧字だそうです。
Img_0820c 野志里神社の社殿の北西には、「千人塚」があります。これは、長島一Img_0822c 向一揆の時、法泉寺の空明は、農民たちと力を合わせて織田信長の軍と肱江川を挟んで戦っています。生き残った空明は戦死者の首を集めて,篤く葬ったのが、この千人塚だそうです。その後、関ヶ原の戦に負けた西軍の兵士の霊も慰めたそうです。
Img_0826c 野志里神社の境内には、まだ見るべきものがあります。左は、由緒を書Img_0830c いた石碑。大正13(1924)年3月に有志の方が建之したと碑陰にはありました。この記事の6つめのパラグラフに書いたような内容が刻まれています。右は、社務所の前に置かれていた「奉力石」。「大正ロマンの石」という副題があり、重さは36貫(150㎏)だそうです。「大正初期此石を肩迄上げた力自慢の面々」として、前野三エ門、前野与三郎他4名の方々のお名前が説明板に記されていました。
Img_0841c ところで、この野志里神社が面しているのは、旧・美濃街道。桑名から長良川に沿って美濃へと通じる街道です。桑名市川口町を起点とし桑名市多度町を通り岐阜県へと続く街道で、養老鉄道とほぼ平行して通っています。わが家近くの三崎見附を通っているのも、この美濃街道。神社で案内して下さっていた「のしろおたから発見隊」の方の説明によれば、関ヶ原の戦の時、ここを薩摩藩兵が通り、そのため、野志里神社の境内地が二分されてしまい、現在のようになったということでした。
Img_0844c 野志里神社を参拝し、見学を終えたのはもう12時少し前。この辺でスタImg_0845c ートからは6㎞半くらい。さらに南に、美濃街道をたどります。神社からすぐのところには、「前野先生頌徳碑」がありましたが、詳細は不明。碑陰を見てきませんでしたし、ネットでも情報は出て来ません。
Img_0848c この頌徳碑のすぐ目の前にはこのような道標がありました。「御衣野員辨道」とあります。御衣野は多度町内の地名で、下野代や下深谷の西あたりを指します。員辨(員弁;いなべ)は、現在の北勢町員弁。その3は、ここまでとします。ほぼ6.5㎞の地点。その4では、お寺の話が続きます。次に訪れた徳蓮寺は、ナマズの絵馬がたくさん奉納されていますし、秋篠宮殿下もいらっしゃったところです。

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2018年5月19日 (土)

近鉄ハイキング「潮風薫るハマヒルガオと春のおとずれを感じて」へ……楠中央緑地公園、吉崎海岸でハマヒルガオそして御園神社(完)

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 心配した雨も、目が覚めた5時過ぎには上がっており、7~8m/sという強風が吹いているものの、絶好のハイキング日和(微笑)。これはもう出かけるしかありません。今日は、「潮風薫るハマヒルガオと春のおとずれを感じて」というテーマ。
Img_2453c 本日のスタートは、近鉄名古屋線・北楠駅。9時50分受付開始ということで、Img_2456c 桑名駅を9時9分発の津新町行きの普通電車に乗車、9時49分着。¥400。ここでコースマップを受け取り、あみま倶楽部のスタンプをゲット。コースは、右の写真の通り。約9㎞とありました。
20180519kintetsuhikingkitakusu こちらが実際に歩いたルート。コースは、北楠駅から、楠中央緑地公園を経て吉崎海岸へ。ここでハマヒルガオを見て、鈴鹿川沿いを歩いて御薗神社に立ち寄って、名古屋線・塩浜駅がゴールです。いつもより立ち寄りポイントが少なく、ひたすら歩くイメージ。
Img_2470c 北楠駅を9時55分にスタート。遠くにコンビナートを眺めながら、田園地帯をImg_2476c 東へ。県道6号線を歩いて楠中央緑地公園を目指します。10時10分過ぎに公園に到着。スタートから1.5㎞足らず。遠くからも、公園にある中州の山が見えていました。
Img_2478c 高いところがあると、登りたくなります(苦笑)。風が強くて煽られそうでしたImg_2481c_2 が、負けずに登って行きます。まわりに高い建物もありませんから、眺望がよく効き、気持ちの良いところ。これで風が強くなければ、いうことはありません。右は、桑名方面を眺めたもの。
Img_4616c 名駅方面の高層ビル群も見えます。今日は、デジイチと、超望遠コンデImg_2488c ジの2台を持って行きましたので、こちらは超望遠コンデジの画像(今日の写真、2000番台のナンバーはデジイチ、4000番台は超望遠コンデジ)。てっぺんにある東屋の周りを一周して、「下山(大げさな)」。
Img_2511c 県道6号線に戻ってさらに東へ。2㎞半あまりのところで海岸道路に突きImg_4633c 当たり、北へ。堤防には、子どもたちが描いたと思われる絵があります。途中、堤防の切れ目から見ると、セントレアが遠くに見えました。管制塔上空を旅客機が通過していきます。セントレアには1回しか行ったことがありませんが、わが家からも見えますし、こういう海沿いに行くとついつい「見えるかな?」と気になるのです。
Img_2516c 海岸道路沿いにもハマヒルガオが咲いていました。これは、気分が高まImg_2565c ります。吉崎海岸では、一面に咲いているだろうと、想像が広がります。その吉崎海岸は、磯津漁港への入り口近くにあります。
Img_2522c 漁港入り口から吉崎海岸までは、さらに数百m。吉崎海岸は、四日市でImg_2530c も数少ない、埋め立て堤防ではなく綺麗な砂浜があるところです。ここは、ハマヒルガオだけでなく、ウミガメやシロチドリなどの貴重な生き物が見られる、自然海岸です。
Img_2527c 吉崎海岸には、10時55分頃到着。木道が整備されていて、ここを歩くよう指示されていまImg_4646c_2 す。広々としていて気持ちの良い空間が広がっています。が、しかし、肝心のハマヒルガオが広がる光景は……?? ありません(苦笑)。あちこちにハマヒルガオは咲いてはいるものの、一面に咲きそろっているというのは、勝手な妄想でした(苦笑)。近くにいらした、カメラを持った男性も、ガッカリしておられました。今日は、女性の参加者がいつもより多かったのですが、ハマヒルガオを期待した人は多数だったはず。
Img_2532c ウミガメはもちろんいませんし、人がたくさん歩いていますから、野鳥の姿もありません(苦笑)。やむなく、眺めを楽しんできました。今日は、実はバードウォッチングの下見というつもりもありましたから、まぁよし。コアジサシが来るという情報もありますし、冬になると渡り鳥も来るでしょう。左の写真は、南の方角。陸地の先端は、伊勢の朝熊山あたり。
Img_4657c 吉崎海岸からもセントレアの写真を(微笑)。私が体調を崩した平成17(2005)年に、このセントレアが開港しています。リビングのソファに座りながら、セントレアを離発着する飛行機をボンヤリ眺めていたことが思い出されます。あれからもう13年も経ってしまいました、などと思うことがあります。
Img_2571c 吉崎海岸から西へ。最初に立ち寄った楠中央緑地公園が見えるところまImg_2576c で戻り、北へ向かいます。写真は、スタートから5㎞ほどの地点。時刻は、11時20分を過ぎた頃。この先は工場地帯の中。地名でいうと、磯津、塩浜あたり。その先で磯津橋で鈴鹿川を渡ります。西には鈴鹿の山並みが見えています。
Img_2579c こちらは、鈴鹿川の下流方向。四日市市塩浜町のコンビナート地帯。石Img_2598c 原産業や、昭和四日市石油などの工場があるところ。この磯津橋を渡りきったところでちょうど6㎞。11時40分くらい。橋を渡って左折、鈴鹿川左岸を西へ。
Img_2610c 距離にして7㎞を過ぎたところ、小倉橋のところで右折。県道6号線、このImg_2613c あたりは塩浜街道と呼ばれる道へ入り、北へ。JRの引き込み線を越えて行きます。JR貨物の塩浜駅からの昭和四日市石油専用線です。
Img_2690c 御園町一丁目の交差点から西へ100mあまりのところに、御園神社があImg_2633c ります。12時を少し過ぎた時間に到着。神社検索(三重)のサイトによれば、創祀年代は不明ですが、もともと神宮の御園として御贄塩を納めていて、塩田の守護、住民の繁栄祈願のため外宮の御薗を社名に冠して創祀したと考えられています。
Img_2657c 主祭神は、天照大御神。相殿神は、天手力男神(アマノタヂカラオノミコト;天の岩屋の戸を手で開けた大力の神)、万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと;織物の神)、豊宇賀能売神(トヨウケビメノカミ;豊受大神(とようけのおおかみ)の異称)、天津日高日子番能迩迩芸能命(あまつひこひこほのににぎのみこと;一般には、邇邇芸命(ニニギノミコト)、農業の神)、天児屋根命(アマノコヤネノミコト;天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)、布刀玉命(フトダマノミコト;天照大神が天の岩屋に隠れた際、天児屋命とその出現を祈請し、また、天孫降臨に五伴緒神(いつとものおのかみ)の一として随従した)、豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ、豊受大神の異称)、応神天皇大山祇命(オオヤマツノカミ;山を司る神)、火之迦具土神(かぐつちのかみ;火の神)、天目一箇命(あまのまひとつのみこと;製鉄・鍛冶の神)、建御名方神(タケミナカタノカミ;武神)、大己貴命(おおなむちのみこと;大国主の別名)、事代主命(コトシロヌシノカミ;大国主命の子)、綿津見神(わたつみのかみ;海を司る神)の15柱。いやぁ、調べるのに大変でした。それにしても、たくさんいらっしゃるのと、豊受大神が重複しているのは、なぜでしょう?
Img_2669c 摂社・末社はありませんでしたが、ここの境内にもいろいろなものがありImg_2672c ました。まずは、「神武天皇遙拝所」。西に向かって拝むようになっています。紀元二千六百年に建てられたとあります。紀元二千六百年は、昭和15(1940)年。この年は、神武天皇が即位して2600年目の年で、日本国内で様々行事が行われました。11月10日には国をあげて大式典が執り行われ、各地の神社ではそれにあわせて神武天皇の陵墓、神武天皇を祭神にした橿原神宮がある奈良県橿原市の方角に向けて遥拝所を作ったといいます。
Img_2684c 境内の西側には、「忠魂碑」がありました。塩浜地区遺族会が、昭和終戦Img_2686c までの塩浜地区内全英霊を祀ったものです。書は、陸軍中将大久保春野によるとあります。大久保は、日清、日露の両戦争に従事した後、明治33(1900)年陸軍中将、その後教総参謀長などを務め、明治41(1908)年に陸軍大将になりました。碑陰も見てきましたが、そこには明治時代に亡くなられた方々のお名前が刻まれていましたので、元々は,日清・日露の戦没者の忠魂碑であったものと思われます。
Img_2636c 社名標の側には、「陸軍歩兵一等兵勲八等岡本熊吉碑」がありました。Img_2674c 詳細は分かりませんが、碑陰には「明治20……」とありましたので、日清戦争に従軍された方の碑と思われます(かなりすり減ってしまっていて、十分には判読できません)。もう一つ、右の写真は、「卯野精忠君祈念碑」というものもありました。碑陰には、日清戦争に従軍し帰国後亡くなった旨が記されているものの、建立年、建立者、改修等の経緯は不明です(こちらも参照)。
Img_2646c その他、あちこち見て回ってきましたが、神社入り口の鳥居のところにあImg_2643c った、この灯籠に興味深いものを見つけました。裏に寄進者の名前が記されていますが、正目から向かって右のものには、「昭和十一年十月 朝鮮京城本町三 伊藤米松 伊藤佐喜松」とありました。朝鮮京城は、ソウル。日本は、明治43(1910)年、併合に関する条約を締結して韓国を完全な植民地としましたが、その時代のもの。向かって右の灯籠裏には「伊藤與宗松」とありました。似た名前ですので、兄弟か、親戚かと思えます。
Img_2682c 新しいものとしては、こちらの「平和の礎」があります。こちらは、平成Img_2680c 4(1992)年2月に「大東亜戦争に御英霊を捧げた戦友の皆様 安らかに御眠り下さい。永遠の平和を 御誓い申し上げます」ということで、氏子一同の名とともに、寄進者として永田政成というお名前が刻まれていました。
Img_2694c 御園神社からゴールの近鉄・塩浜駅はすぐそこでしたが、南側にお寺らImg_2697c しき建物が見えましたので、確認だけしてきました。お寺は二つ。まずは、浄土真宗本願寺派の光耀山西願寺(左の写真)。もう一つは、浄土真宗大谷派の生浦山専福寺。
Img_2706c 少しだけ寄り道をして、ゴールの近鉄名古屋線・塩浜駅に着いたのは12Img_2719c 時33分。あまりたくさん歩いた感じはなく、「9㎞も歩いたか?」と思ったのですが、帰宅してチェックしたら、8.8㎞ほど歩いていました。12時46分に名古屋行き急行がありましたので、これに乗車することにしました。
Img_2721c 塩浜駅に隣接して、近鉄塩浜検修車庫があります。近鉄の車両検査をImg_2723c 行うほか、車庫周辺には資材センターなどもあるそうで、名古屋地区における近鉄の拠点になっています。ここでは、「きんてつ鉄道まつり」が開催されます。子どもたちが小さい頃、連れてきたこともあります。小生は、鉄ちゃんではありませんが、興味はあります。今日も、車庫内に「はかるくん」が止まっていましたので、1枚撮ってきました。電気検測車で、近鉄版ドクターイエローといえる電車です。養老鉄道なども走っているようです(こちら)。
 桑名駅到着は、13時04分。¥350。ハイキングで8.8㎞、桑名駅往復で約2㎞、合計10.8㎞ほど歩きました。今日は、6月以降の近鉄ハイキングのパンフレットもいただけました。あとで確認して、予定を立てようと思っています。「あるく みる まなぶ」という近鉄あみま倶楽部のキャッチフレーズというか、理念は、よく考えられていると思います。日頃のウォーキングと、JRさわやかウォーキングや近鉄ハイキングへの参加、歴史の勉強、続けましょう。もちろん、ご依頼があれば本業(どっちが?)の方も(心理アセスメント、心理学、心理検査などなど)。
 なお、今日の近鉄ハイキング「潮風薫るハマヒルガオと春のおとずれを感じて」の記事は、これで完了であります。4月28日の近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」は、「その3」がまだ途中ですので、続きます。そして、5月12日の近鉄ハイキング“四日市港ポートビルからの眺望と賑わう「四日市萬古まつり」を楽しむ」”は、多度編が終わったら、記事を書きます。

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2018年5月17日 (木)

20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(その2)……多度大社

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 4月28日の近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」、その2です。今回は、多度大社のお話し。何度も書いていますが、目の前までは来たことがあったものの、お参りするのは今回が初めて。式内社(名神大社)で、旧社格は国幣大社。よく調べていかなかったのですが、この鳥居に向かって左に、上げ馬神事が行われる「上げ坂」があったのでした。また、ここに写っている鳥居は、諸戸精太が寄付したもの。諸戸精太は、諸戸家初代・諸戸清六の次男(西諸戸家)。諸戸精太は、初代諸戸清六の屋敷(現在の諸戸氏庭園)を相続しています。
Img_0615c 主祭神は、天津彦根命(あまつひこねのみこと、天照大神の第3子)。天津彦根命は、このあたりの豪族・桑名首(くわなのおびと)の祖神です。天津彦根命が天照大神の御子神であることや、参詣のための街道沿いにあることから伊勢神宮との関係が深く、「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」とも詠われています。境内には天津彦根命の子である天目一箇命(あまのまひとつのみこと)を祀る別宮・一目連神社があり、本宮とともに「多度両宮」と称されます。
Img_0631c こちらがその本宮。神代の昔から御鎮座になり、雄略天皇の御代に神殿がImg_0620c 創建されたとあります。なかなか厳かな雰囲気で、陽の光の当たり方も絶妙という感じがしました。古代には、社殿背後の多度山を神体山としていました。天平宝字7(763)年、僧・万願によって神宮寺が創建されています。中世には国司・北畠氏が保護していたのですが、元亀2(1571)年、織田信長の長島一向一揆平定の際に兵火により焼失しました。慶長10(1605)年、桑名藩主・本多忠勝により再建されています。それにしても、三重県の北勢地方では、この織田信長と長島一向一揆については大きな影響があるものです。
Img_0629c 別宮・一目連神社です。天目一箇命は天津彦根命の子、桑名首の祖といImg_0618c われます。また、我が国金属工業の祖神でもあります。この社には、神の出入りを容易にするために、古来、扉がなく御簾が掛けてあるのみです。ちなみに、桑名市西鍋屋町にも一目連神社がありますし、赤須賀神明社にも天目一箇命が相殿神として祀られています。
Img_0599c 境内には摂社、末社がいくつか祀られています。まずは、雨宮八幡社。Img_0601c 御祭神は、天水分神(アマノミクマリノカミ;水の分配をつかさどる神で、豊作の神として信仰された)、國水分神(クニノミクマリノカミ;水分神、天水分神とともに、豊作の神として信仰されました)、品陀和気命(ホンダワケノミコト;応神天皇)。古くは水分社と八幡社の二社であったものが、大正6(1917)年に合祀されています。
Img_0605c こちらは、多度招魂社。明治10(1877)年の西南の役以降、出征、戦没さImg_0609c れた桑名郡市・員弁郡市・四日市市・三重郡・岐阜県下出身の方々を奉斎しています。創建されたのは、昭和27(1952)年、サンフランシスコ条約発効後だそうです。
Img_0612c 次いで、女性の皆様には見逃せないと思います。美御前社(うつくしごぜImg_0613c んのやしろ)。御祭神は、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)。耳、口、鼻、のどの諸病や、婦人の帯下の病の治癒、良縁、子授け、安産に御神徳があるといいます。常に美しくありたいと願う女性の参拝が多いそうです。
Img_0621c 本宮、別宮の近くにあるのは、神明社。神明社ですから、祀られているのImg_0624c は、天照大神。案内板の下には、「於伊勢さんとお多度さんはは親子の神様です」という説明が追加されています。
Img_0644c さて次は、ちょっと珍しい。「神馬」と書かれたお社。白馬舎(はくばしゃ)

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といいます。白馬伝説に因んだ白馬が納められています。多度大社には、昔から「白馬伝説」が伝わっています。多度山は昔から神がおられると信じられ、人々は暮らしの平穏や家族の幸せを祈り続けてきたのですが、その願いを神に届ける使者の役割を果たすのが、白馬なのです。
Img_0649c このお社の前に「歯ぎしり除け豆」を授与していただくとこImg_0651c ろがありました。歯ぎしり除けとはあまり見かけませんが、馬は非常に歯の丈夫な動物と言うことで、これにあやかった『歯ぎしり除けの豆』が頒布されています。無病息災ともあり、初穂料が100円でしたので、この「御神馬の豆」をいただいてきました(微笑)。
Img_0662c こちらは、新宮社。御祭神は、天津彦根命幸魂(あまつひこねのみことさImg_0665c きみたま)、天目一箇命幸魂(あめのまひとつのみことさきみたま)です。幸魂(さきみたま)、小生は知りませんでしたが、神道の一霊四魂(いちれいしこん)という考え方によるもので、人を幸せにする神霊のことだそうです。江戸時代、多度大社が復興される際、両宮の御祭神は美濃国赤坂山より、まず当社に還御になられたといいます。
Img_0666c 神馬舎(じんめしゃ)であります。鳥居をくぐったすぐのところ、西側にありImg_0677c ます。生きた神馬、「錦山」号が飼育されています。生きた神馬がいる神社は珍しいと思います。初穂料100円で、人参を与えることができます。
Img_0653c こちらは、参道脇にあった「切支丹灯籠」。江戸時代、キリスト教が禁じられていた時に、ひっそりと拝まれていた灯籠を切支丹灯籠といいます。形が十字架に似ているので、拝まれたといいますが、パッと見たところでは十字架に似ている感じはしません。
Img_0656c 切支丹灯籠の南には、筆塚がありました。さすがにこのロケーションでImg_0660c は、碑陰は確認できませんが、碑像マップによれば、明治百年記念で建てられたようです。さらに、切支丹灯籠の前、筆塚との間には右の写真のような奉寄進碑がありました。碑文などは、こちらを参照。天明3(1783年)、北勢桑名郡長嶋新田中が建てたと考えられます。
Img_0699c  これで境内は見て回ったと思ったのですが、帰宅してから調べてみたら、Img_0694c 摂社・末社は他にもありました(苦笑)。こちらの境内案内図をご覧ください。藤波社、皇子社、一挙社、鉾立社などです。 他にも、文学碑、句碑などもたくさんあります。松尾芭蕉句碑もあります。「宮人よ 我が名を散らせ 落葉川」と詠んでいます。芭蕉が多度を訪れたのは、元禄2(1689)年で、この句は多度大社を参拝した折に詠んだものだそうです。ということで見落としたところがまだたくさんありますので、これはもう一度参拝がてら確認してくる必要があります。
180428kintetsuhikingtado2 多度大社を参拝し、南へ。多度川を渡って、多度大社南の交差点を東にImg_0710c 向かいます。ここから、さらにきつい上り坂が、桑名市多度地区市民センターあたりまで続くのです。この坂道は、この日最大の難所(笑)。普段、平らなところを散歩していますから、ちょっと苦労。
Img_0717c こちらが多度地区市民センター。この前が、坂道のピーク。ここからは、Img_0720c 国道258号線方面へ下り坂。やれやれというところ。
Img_0724c 途中、ミカン畑越しに多度山を見ながら、Img_0729c 養老鉄道をまたぐ高架を過ぎるところまで進みます。右の写真は、高架橋から見た多度駅。ほぼ一周してきたことになります。
Img_0733c このすぐ先に、多度大社の大鳥居が立っています。この鳥居の下をくぐっImg_0736c て、南へ。地道を通って、竹藪を抜けていきます。右の写真のようなところを通ると、いかにもハイキングという感じがしてきますが、歩きながら、この道で間違いないのか? と若干不安になっていました。
Img_0742c 竹藪では、育ちすぎたタケノコがあちこちにニョキニョキ。市内の播磨あたりでもタケノコが名物なのですが、最近は世話をする(世話ができる)方が減って、タケノコを採らずに放置してあるところも多いと聞きます。いずこも同じようです。
Img_0743c ようやく竹藪を抜け、美濃街道が見えるあたりまでやって来ました。これImg_0745c らの写真を撮ったあたりで、5㎞直前。このあたりで時刻は、11時10分を過ぎたくらい。右の写真で、前方に見えている道が美濃街道。鎮守の森らしきものも見えてきました。ここが、実は面白い神社でしたが、今日はここまで。

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2018年5月16日 (水)

江戸橋は5回目を終了……久しぶりの当選に、ブログ掲載の写真を桑名宗社の紹介に使っていただいたお話し

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 久々の「祝! ご当選」です。昨日届きました。地元・中日新聞のサンデー版に載っている「クロスワード」に正解したごほうび。図書カード¥1,000分です。ブロ友のこころんさんにみならって、毎週コツコツと応募した成果が出ました。このクロスワード、当選は2回目。
 さて、今日は5回目の江戸橋方面への出勤。好天でやや湿度が高く、暑いくらいでした。今日で1/3となりました。受講登録者の名簿をもらったのですが、今まで1度も出て来ていない名前もあります。ということは、5回すべて欠席という強者(?)。5回欠席していると言うことは、すでにリミット一杯に達していて、こちらが心配になるくらい(6回以上欠席すると、試験受験資格がなくなるのです)。
 来週からは、1コマ目(8時50分開始!)も担当することになっています。早くに出かけないといけないのと、2コマ連続で授業という、超久しぶりの体験(前職の時代、まだ30代後半だった頃、教養部の授業で連続2コマという経験がありました。そのときは、心理学概論という科目の同じ内容を、2コマ連続で別の学生に講じていたのです。老体にむち打って(爆……誰がむち打つのか?という疑問はありますが)、やることにしましょう。
 帰宅後は(12時20分の電車に乗れれば、13時15~20分くらいに帰宅)、出欠チェックと、Q&A を書きます。出席票にコメントや、質問を書いてもらっています。すべて2~3回目を通し、質問には回答を、誤解していると思われるコメントには補足説明を書きます。この作業にだいたい3時間を要します。こちらの意図通りに理解してくれるとは限りませんので、個人的にはこの補足説明資料をつくって、次の時間に解説するというのは必須のお仕事。来週からは、これも倍の時間&労力となることでしょう。
Dscn5640c  ところで、今年1月8日にイオンモール桑名に出かけた記事を書きました(イオンモール桑名へ……桑名宗社イオンモール分社に参拝し、野帳を購入)。そのときに桑名宗社イオンモール分社にも参拝させていただいたのですが、とあるご縁で、桑名宗社を紹介するWebサイトにその写真を使っていただきました(写真は、1月8日撮影)。桑名宗社(春日さん)には、娘が高校生時代に奉仕させていただいていたというご縁もあります。桑名宗社の宮司様は、お若いのに、熱心に取り組んでいらっしゃいます。こちらにその紹介記事がありますので、是非ともお読みいただくとともに、機会がおありでしたら御参拝くださるようご案内します。

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2018年5月14日 (月)

20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(その1)……多度駅から、鯉料理大黒屋、宮川清めの池、地蔵堂、多度稲荷神社を経て、多度観音堂へ

 JRさわやかウォーキングや、近鉄ハイキングに参加するほか、さらには勝手に近鉄ハイキングなるものまで催してしまい、記事が遅れています。半月ほど遅くなっていますが、4月28日に行ってきた近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」の記事に着手します。ボチボチと参ります。
Img_0478c  この日は、桑名駅から養老鉄道に乗って多度駅へ。多度駅をスタートし、多Img_0479c 度の町並みを眺めながら、伊勢西国三十三所観音巡礼第33番・多度観音堂へ。美濃街道を通って野志里(のじり)神社、徳蓮寺、第32番・雨尾山飛鳥寺を経て、養老鉄道・下深谷駅がゴールという、マップ上約9㎞のコース。コースには多度大社もあります。桑名に住んで25年以上になりますが、まだお参りしていません。また、野志里神社は、倭姫命が天照大神を奉じて桑名郡野代宮にお着きになり、4年間この地に滞在されたところと伝わっており、是非とも一度は訪れたいと思っていたのです。また、美濃街道は、七里の渡しから東海道を200mほど南下した、川口町と江戸町の境から、わが家近くの三崎通、堤原を抜けて美濃、多度へ向かっていますので、これにも興味があります。
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 養老鉄道は、以前は近鉄養老線でした。近鉄の子会社で、平成19(2007)Img_0464c_3 年10月1日付けで近鉄から養老線の運営を引き継ぎました。桑名駅は、4番線から発着。近鉄桑名駅には、今は5番線はなく、同じホームの反対側は6番線(名古屋線下り、四日市、津方面)です。9時25分発大垣行きに乗車。多度駅には、9時38分着。¥310。受付が9時40分からですのでちょうどよい時刻。
Img_0471c 多度駅で見たかったものがありました。それは、こちら「ご当地駅名標」です。写真のように多度大社の馬をイメージしたもの。事業形態の変更に伴って、今年1月1日から設置されています。大垣駅、養老駅など全7駅にそれぞれ独特のものがあるそうです。多度大社は上げ馬神事で有名ですし、境内に神馬もいます。
Img_0473c スタートの多度駅。養老鉄道には乗ったことはありますが、降りるのは初180428kintetsuhikingtado1_2 めて。受付は予定より早くから行われたようで、到着時点では参加者の行列はありませんでした。受け取った地図は、#115。初めに載せましたように、裏表2ページ。これを見ると、歩き通せるのかと若干心配になります。歩いたコースの全体像は、右の画像の通り。縮尺の関係でたいしたことがないように見えますが、実際に歩いたのは、11㎞を。まさに「踏破(大げさな)」であります。
180428kintetsuhikingtado4 スタートから5㎞ほどまでの拡大地図は、こちら。多度駅から北に向かImg_0491c い、多度川を多度橋で渡ったところで、左折し、西へ。地図では分かりませんが、多度大社に向かうこの道、上り坂(苦笑)。この日はけっこう暑かったので、多度大社につくまでに汗ばんでいました。多度山を見ながら歩きます。道沿いで、そこかしこからウグイスのさえずりが聞こえ、また、ツバメが飛び交うという、恵まれた環境でした。
Img_0504c 鯉料理の大黒屋。江戸時代中期に多度大社の参詣者のための旅籠としImg_0509c て創業し、幕末に近くの木曽三川で獲れる天然の鯉を使用して鯉料理を始めています。庭園は、多度山を背景になかなか風流な感じ。仕入れた鯉を清流の中で数か月、餌を与えず飼育することで鯉特有の臭みを完全に消しているそうです。鯉料理は、信州に行ったときにご馳走になったことがありますが、まったく個人的には、海の近くで育っていますので、川魚料理はどうもなぁと思ってしまいます。しかし、こちらのサイトによれば、食べた人が「え、これが鯉!?」と驚くほど、洗練された味と食感の鯉料理とか。
Img_0506c こちらは、庭園への門。大黒屋の名前の通り、門の屋根には、大黒様がImg_0507c 鎮座。建物、お庭はもちろん店も歴史を感じさせるものがあります。機会があれば、鯉料理を味わってみたい気がしますが、今回は先を急ぎました。
Img_0513c 鯉料理の大黒屋の西隣には、西大黒屋さんがあります。多度名物のImg_0514c 壺豆を製造販売しています。大豆を軸にきな粉を練り合わせ、白砂糖で包みこんだ豆菓子で、多度土産として有名で、他にもいくつか店があります。わが家の近くでも、寺町商店街の町の駅で売っています。
Img_0521c 西大黒屋さんのほぼ正面、南側に「宮川清めの池」があります。ここは、Img_0516c 多度川の伏流水を利用した、垢離・掻池(みそぎ池)です。多度大社の参拝者は、ここで手を洗い、口をすすいで身を清めたといいます。いまでも、多度祭には、この池の水で御旅所行列の途中、各御厨(奉仕地区)の祭馬にそれぞれに水を飼い、足を清めるそうです。覗いてみると、確かにきれいな水をたたえていました。
Img_0536c 清めの池から西へ140mほど行くと、宮川常会集会所の脇に地蔵堂があImg_0533c ります。「半跏延命地蔵尊」「薬師如来」という看板が掲げられています。由来は明確ではないものの、半跏像(片足を組んだ像)は、作風からは室町末期から江戸初期(1500年代~1600年代初め)のものとされます。江戸時代から延命地蔵として、ここ柚井(ゆい)の人々の信仰を集めたそうです。並祀されている薬師如来の由来も不明のようですが、地元の方たちからの信仰が厚く、ここに併せ祀られています。
Img_0545c この日のコースのあちこちには、ご覧のように、タケノコの無人販売所がありました。時期的にはちょっと遅いと思います。というのも、並んでいるタケノコが皆大きめ。値段は、販売所によって異なりましたが、だいたい1個¥300~600でした。
Img_0552c 地蔵堂から500m弱で、多度稲荷神社に到着。次のスポットである多度観Img_0555c 音堂や、多度大社の門前に並んでいますが、多度大社の摂社や、末社ではなく、独立した神社です。御祭神は、宇迦之御霊大神。元治元(1864)年、多度の庄屋が伏見稲荷大社に参拝したときに御分霊を拝戴してここにお祭りしたといいます。
Img_0557c この神社、婚活に力を入れているようで、社務所に右のような掲示が出Img_0560c ていました.きちんとした写真を撮ってきませんでしたが、入り口には黄色い「婚活守り」と書いた幟が立っています。必要な方は、御神徳があるかも知れません。
Img_0563c 多度稲荷神社のすぐ北に多度観音堂があります。多度山法雲寺。御本Img_0565c 尊は、千手観音。伊勢西国三十三観音霊場第三十三番札所。宗派は、真言宗です。明治に至るまでたびたび洪水に出会い、元の御堂の位置は定かではないそうですが、明治34(1901)年の本堂再建以来、この場所にあります。本堂は、昭和38(1963)年に改築されています。ご本尊は、平安時代前期の作と推定され、多度神宮寺に関わりがあると考えられています。多度神宮寺は、天平宝字7(763)年に満願(まんがん)禅師が建てたといいます。
Img_0566c 石段を登った上に御堂があり、ご本尊の千手観音と、十一面観音菩薩立Img_0577c 像が祀られています。十一面観音菩薩立像は、南北朝時代前後の作と考えられ、これも多度神宮寺に関係があると推定されています。ちなみに、開基した満願禅師像もるそうですが、それには気づかず(苦笑)。
Img_0576c 梵鐘は、宝永2(1705)年、加賀金沢の鋳物師・平井与兵衛尉永能が鋳造したもの。第二次世界大戦の際、供出された歴史からみて、残されているのはとても珍しいということです。
Img_0580c 境内には石碑がいくつかあります。まずこちらは、「華山翁瘞遺物碑」とあります(ここを参照)。「享和癸亥」とありますから、これが建てられたのは、享和3(1803)年と思われます。あの渡辺崋山は、寛政5(1793)年~天保12(1841)ですので、この石碑の崋山翁葉、渡辺崋山とは思われませんが、これ以上は不明。碑文をしっかりと読めば分かるかも知れません。
Img0584c もう一つは、「満願禅師碑」でした。こちらは新しく、昭和5(1930)年8月と碑陰にありました。さらに、境内には「鱗魚供養之碑」があったのですが(こちら)、これら2つの石碑と、石段を挟んで反対側にあり、見逃してしまいました。
Img_0593c 多度青少年会館との間には、大きな「平野翁頌德碑」が建っています。平野武平という方を顕彰する碑で、昭和7(1932)年3月の建立。こちらに碑文があります。漢文で書かれていますが、ざっと見ると、村長を務めるなど、地元のために多大な貢献をなさった方のようです。ネット検索では詳しい情報は出て来ません。題額は、拓務政務次官加藤久米四郎 。加藤は、三重県桑名郡大山田村(現在の桑名市)出身で、衆議院議員を務め、犬養内閣で拓務政務次官に任じられています。
Img_0596c 多度観音堂の西隣が多度大社。はじめに書きましたが、まだお参りしたことがありませんでしたので、立ち寄っていくことにしました。ただし、観音堂から行きましたので、鳥居をくぐってきちんと参道を進むのではなく、横から入ってしまいました(苦笑)。次は、多度大社のお話し。多度大社の中で、出発から約2㎞。時刻は10時20分。

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2018年5月12日 (土)

20180423勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」(その4)……お城公園、高山神社を見て完

20180423tsuwalk  ずいぶん間が開いてしまいました。これも、遊んでばかりはいられない状況になったがためです。5月2日以来ですが、“勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」”のその4です。その3では、津観音から、大門商店街のディープな稲荷社を見て、蜂蜜まんを土産に、また、千寿の天むすを昼ご飯にゲットし、いよいよお城公園にというところまででした。地図では、中央あたりにお城公園があります。お城公園でほぼ7㎞。

Img_2476c お城公園に入る前に1ヶ所、立ち寄り。お城前公園に石碑が2つありましたのImg_2472c で、それを見てきました。まずは、向かって右。「しらはたや 花さく山の 一備へ 高虎」とあります。藤堂高虎公入府四百年記念俳句会が2008年に建立したとあります。高虎公が60歳の頃、関ヶ原の戦いを思い出して詠んだ句なのだといいます(こちら)。
Img_2473c 向かって左に立つのは、「古城址の池 くれなづむ 花あかり」という、内藤まさをの句(三重の句碑はこちら)。昭和43(1968)年12月に津史跡名勝保存会、三重俳句社が建立したもの。内藤まさをは、昭和23年に三重俳句社を創設、主宰した方のようです(こちらを参照)。文部大臣賞や、三重県教育文化功労者を受賞。内藤まさをの句碑は、三重の句碑によれば、県下9ヶ所にあります。
Img_2463c さて、前置きはこれくらいにして、いよいよ津城跡、お城公園へ。ここで告白Img_2483c しますが、小生、以前は、このお城公園と津偕楽公園との区別がしっかりとはついていませんでした。津偕楽公園の方は、昔は「御山荘山」といい、津藩第11代藩主・藤堂高猷(たかゆき)公が、安政年間(1855~1860年)に別荘を営んだところでした(微笑)。
Img_2478c お城公園は、津城の跡。津城は、織田信包(信長の弟)が天正8(1580)Img_2518c 年に築城。その後、藤堂高虎が、四国伊予の今治から移封、 慶長16(1611)年に大規模な改修を行っています。高虎は、城や城下町の整備を行うとともに、参宮街道を城下に引き入れたり、城の東に堀川を切り開いたりして津の基礎づくりを行いました。 明治維新まで、津は32万石の城下町として栄えてきました。公園入り口の脇には、丑寅櫓が再建されています。本丸の東北隅に位置し、層塔型三重三階。戌亥櫓とともに城内で最大の櫓であったと考えられています。
Img_2494c それはさておき、この時点で13時10分を過ぎていましたので、まずは腹Img_2499c ごしらえ。藤堂高虎公の像がある広場のベンチで、千寿で買ってきた天むすを広げます(微笑)。天むすというと、名古屋名物というイメージがありますが、この千寿さんが発祥のお店。
Img_2503c 5個で650円なり。天むすは、海老の天ぷらを具にしたおにぎり。千寿はもともと天ぷら定食店で、1950年代にまかない料理として考案されたもの

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だそうです。初代水谷ヨネが忙しくて夫の昼食を作る暇がない折に、車えびの天ぷらを切っておむすびの中に入れたのがきっかけ。その後、味付などを試行錯誤し、常連客向けの裏メニューとして振舞うようになったといいます。好評を得たため、天むすは「千寿」の正式なメニューとなり、1959年(昭和34年)頃に天むす専門店となったといいます。
Img_2514c 腹ごしらえを済ませてから、お城公園を散策。入り口に戻り、丑寅櫓に登っImg_2527c てきました。
Img_2533c  階段を上っていくと、ちょっと恐ろしい感じImg_2529c もするのですが、石垣の上に出られます。左の写真は、北西の方を見たところ。右は、東の方。大きなビルは、百五銀行本部。百五銀行の向こうに国道23号線が通り、その向こうを午前中歩き回ってきたということです。
Img_2553c 本丸の跡と思いますが、立派な高虎の騎馬像があります。この像は、津Img_2556c 青年会議所創立35周年事業として発案され、市民の浄財によって、市制100周年の年である平成10(1998)年に建立されました。
Img_2541c お城公園の中を散策。北側には、聱牙土井先生詩碑があります。土井Img_2544c 聱牙(どいごうが;文化14(1817)~明治13(1880)年)は、江戸後期~明治時代の儒者。津藩儒医土井橘窓の次男。藩校有造館の助教・講官をつとめ、佐幕を主張。明治2(1869)年、督学。この市は、彼が40歳の時、「書生に示す」という題でつくったもの。七言絶句。たくさんの書物を読んだ人が聖人、賢人であり、それは、読書という後天的努力によって先天的素質を補うからである。それ故、朝夕、あなたの二つの目を十分に活用し、精神を集中して灯火に向かって、たくさんの書物を読破しなさいという意味。
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 西側へ行くと、「西鉄門虎口(にしくろがねもんこぐち)」の碑が。図面を見Img_2551c ると虎口の左側には伊賀櫓という二重櫓が建っていたようですが、今はその土台の石垣ごとありません。碑の脇から向こうは、右の写真のような眺め。
Img_2558c 南へ回ると、津市傷痍軍人会が昭和56(1981)年10月に建てた「平和の碑」がありました。戦争の悲惨さを身をもって体験したものとして、後生にこれを伝え、世界平和を願望するために建てたとあります。傷痍軍人 というのは、今ではほとんど歴史的用語になっていると思いますが、小生が子どもの頃など、お祭りに傷痍軍人の方が数名いらして、楽器を弾いたりしていたのを思い出します。ちなみに、日本傷痍軍人会は、法人化時(昭和30(1955)年)には35万人であった会員数が、平成25(2013)年には約5000人まで減少したため、この年の11月末をもって解散しています。平成も来年で終わりますが、昭和はまさに遠くなりにけりです。
Img_2574c お城公園から西に向かうところ。堀に花菖蒲園がありました。このさらにImg_2601c 西には、津市役所が堀端に立っています。
Img_2581c 花菖蒲園のある少し西には、本丸跡の日本庭園へ続く入り口がありまImg_2585c す。左の写真で突き当たりを右へ(東へ)曲がります。曲がった先の日本庭園入口には藩校有造館の正門の入徳門が移築現存しています。文政3(1820)年、津藩10代藩主・なった藤堂高兌(たかさわ)公は、藩士やその子弟の教育機関として、有造館を創設しています。「入徳門」の名称は、「大学は諸学徳に入る門なり」ということばから来ているといいます。有造館は、明治4(1871)年には行こうになったものの、その後創設された小学校第一校、師範学校、津中学校などの正門として使われてきました。昭和46(1971)年、現在地に建てられています。
Img_2591c 左は日本庭園の一部。右は、旧・西の丸の門にあった津城跡の説明文。これがもImg_2583c っとも包括的で、よく分かりました。
Img_2594c この西の丸の跡のところには、左の写真のような小高い場所が残っていて、古い石段で登れます。櫓の跡かという気がしますが、確認できていません。こういうところを見ると、古くさい!といわれるでしょうが、三橋美智也「古城」という歌謡曲の歌詞が思い出されます。
Img_2631c お城公園を出て、高山神社に向かいました。藤堂高虎公を祀ります。津Img_2615c 発展の礎を築いた開祖として、「寒松院殿前伊州羽林道賢高山権大僧都」という法号で、「高山公」と通称されることに由来します。主祭神は、藤堂高虎霊。相殿神として、品陀別命大雀命大国主神八重事代主神大山祇命木花佐久夜毘賣命建速須佐之男命表筒之男命中筒之男命底筒之男命大物主命
Img_2620c 従来、津藩主藤堂家において藩祖藤堂和泉守高虎朝臣の霊を津城内に奉斎していたものを、明治維新の後、神社創建の議が起り、明治9(1876)年9月、神社創建となっています。明治10(1877)年8月、現在の津偕楽公園内に神祠を建立。明治34(1901)年12月、現在地に仮遷座。正式にここに移られたのは、明治36年4月。
Img_2608c 社務所の南にあった常夜灯。面白いことに、「古着屋仲間」が建立したとImg_2609c ありました。建立年は、風化などのためよく読めませんでしたが、「○○年乙丑」とあるようです。創建以降、「乙丑」の年は、大正14(19259年ですから、この年かと推測しています。
Img_2621c 境内にある「百度石」。碑陰には、「文久元辛酉年十二月吉展」とあるようでした。文久元年は、1861年。江戸も末の時期。ということは、神社の創建以前のものですから、どこか他にあったものなのでしょうか?
Img_2639c 境内には稲荷社もあります。この城山稲Img_2637c 荷神社は、もともと宇治山田町浦口に二八稲荷社として祀られていたもの。2月と8月の毎日、それ以外の2と8の日には地元町民よりも津市から御商工業者や、一般市民の参詣者が長蛇の列をなしたといいます。津市民の信仰が厚い現状に鑑み、明治44(1911)年、津市長から宇治山田町長(当時)へ懇請し、二八稲荷社をお社ごと、この高山神社へ移し、「城山稲荷神社」と改称し、津市の商工業は、産業育成の守護神としたと御由緒にあります。ちょっと驚くような話。百度石もこのときに来たのかと勝手に想像しています。
Img_2646c この城山稲荷神社は、お稲荷さん特有の赤い鳥居が続いた奥に鎮座しImg_2644c ておられます。ところが、稲荷社につきものであるはずの狐さんがいらっしゃいません。代わって、普通の神社にあるように、狛犬が赤鳥居脇に鎮座。ちょっと不思議な光景。
Img_2647c_2 鳥居のまわりを見回すと、裏側にこの左の写真のようなものがありましImg_2650c_2 た。それも一対になっています。水滴のようにも見えますが、それでは訳が分かりません。ネットで検索してみたら、こちらに言及されていましたが、どうやら宝珠の一種のようです。いやぁ、神社はワンダーランドとときどき書いていますが、本当にそうです。ちなみに狐様は、拝殿に祀られていました。
Img_2652c もう一つよく分からなくて、調べがついていないのは、こちら。城山稲荷神Img_2654c 社の西にもう一つ、赤鳥居の参道があり、その奥に2つのお社というか、祠というか。片や赤煉瓦造りで、中に小さな赤い鳥居。こちらもお稲荷さんに関係したものなのでしょうが、詳細は不明。社務所で尋ねればよかったと反省。
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 その他には、境内の一角に山の神様が集められていました。鳥居の奥に、「山の神(あるいは山神)」と刻まれた石碑が三体。ちなみにこの山の神様の脇からも、お城公園に続く道があります。さらに「針塚」も。針塚の方は、平成6(1994)年2月に日本和裁士会三重県支部が建てています。近鉄ハイキングで訪れた鈴鹿の江島若宮八幡神社にも針塚がありました。
Img_2668c 高山神社の余談。拝殿にあげられていた薦被りは、「高虎」というお酒でした。お酒の名前になるほど、津では高虎公が愛されているということでしょう。「高虎ドッグ」というのも有名。小生も2度ほど食べたことがありますが、種類も豊富で美味しくいただきました。ただし、大人気で、賑わっていますし、人気商品はすぐに売り切れご免。
Img_2677c さて、これで目的のところもすべて訪ね終え、高山神社から南へ。朝、津松菱百貨店に向かった道に戻って、1㎞半ほど歩いて津新町駅へ。9時50分にスタートし、津新町駅に戻ってきたのは、14時10分。4時間あまりかけて、8.8㎞を歩いてきました。案外たくさん歩いたのに自分でも少々驚き(苦笑)。14時13分に名古屋行き急行があったのですが、改札を通ったところで発車して、乗れずじまい。14時35分の名古屋行き急行で、桑名まで。桑名には15時22分着。片道¥750。
 4月23日に行ったのに、ここまで引っ張ってしまいました。4月28日には、近鉄ハイキングで「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」に行っていますし、昨日(5/12)にはさらに、近鉄ハイキングで“四日市港ポートビルからの眺望と賑わう「四日市萬古まつり」を楽しむ」”に参加しています。何を考えているのか、懲りないのか、どちらも本編を気長にお待ちください(笑)。
 なお、この“20180423勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」”の過去記事(予告編からその3)は、次の通りです:

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近鉄ハイキング“四日市港ポートビルからの眺望と賑わう「四日市萬古まつり」を楽しむ」”へ(懲りずに予告編か?)【一部訂正しました(5/22)】

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 JRさわやかウォーキングの“「朝市、三滝川慈善橋市場」と「四日市萬古まつり」を満喫しよう”と、近鉄ハイキング“四日市港ポートビルからの眺望と賑わう「四日市萬古まつり」を楽しむ”とで若干迷ったものの、結局、近鉄ハイキングに参加してきました。どちらも萬古まつりがコースに含まれていたのですが、近鉄に軍配を揚げたのは、四日市港ポートビルに行けるからでした。冒頭の写真は、本日のスタートである、近鉄名古屋線・富田駅。桑名を9時22分発の松阪行き急行に乗り、9時30分到着。¥260。受付は9時40分開始予定が若干早め。到着時にはすでに100名以上が列をなしていました。
Img_3873c 左の写真は、今日のコースマップ。富田駅から、四日市港ポートビル、霞ヶ浦緑地、霞ヶ浦パークブリッジ、三滝公園を経て、萬古まつり会場へ。近くに20180512 は、ばんこの里会館萬古神社があります。ゴールは、近鉄名古屋線・川原町駅まで。約8㎞。右は、距離測βに描いた、実際に歩いたルート。約8.9㎞ありました。今日は、ほとんど寄り道はしていません。というよりも、ほとんど四日市港や、その周辺の緑地を歩きましたので、立ち寄るところがなかったのです(苦笑)。
Img_3880c 近鉄富田駅を9時40分にスタートし、東南へ。300mほど行ったところで、旧・東海道とクロスしまImg_3881c す。左の写真は、下り方面(南西)。右は、上り方向。旧・東海道のこのあたりは、昨年12月22日にも近鉄ハイキングで歩きました(近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」へ(その1))。
Img_3895c 800mほど歩くと、今度は国道1号線に出ます。しばし下り方向に歩き、富田浜元Img_3898c 町で脇道に入るのですが、そこに富田一本松がありました。「伊勢軍記」による永禄3(1560)年の茂福合戦で、鈴鹿の神戸勢が海路から上陸する際、目印になったといいます。樹齢700年を数え、高さ12mの立派な松でしたが、昭和34(1959)年の伊勢湾台風などで遂に枯れてしまい、今見られるのは、その後に植えられた二代目の松だそうです。
Img_3905c 一本松の脇には、かつてこの地に居住していた俳人山口誓子の「町なかの 昔の松の 春の暮」の句碑が立っています。病気療養のため富田にしImg_3903c ばらく居を移していた時にこの一本松を詠んだもの。昭和22(1947)年7月に富田保勝会が建てたものです。句碑に並んで、やはり山口誓子による「史跡 一本松の碑」が立っています。こちらは、昭和49(19749年9月、富田文化財保存会が建てたもので、碑陰には「碑の謂われ」が刻まれています。
Img_3917c 冨田一本松の先には、赤煉瓦の塀があります。網勘製網株式会社といImg_3920c う看板が掛かっていますが、現在の社名は、アミカン。寛政6(1794)年に始まる老舗の漁網製造をする会社。現在は製網事業意外にも進出しています。この本社事務所は、昭和初期に完成した木骨タイル張りの2階建て一部3階建て塔屋付きの建物。ここは瓦屋根の木造建築が多い四日市富田地区でモダンな洋風の建物として国道1号線を通行する人々目印となったそうです。本社事務所・正門・煉瓦塀は、国の登録有形文化財(建造物)。
Img_3930c_2  富田浜の町を進み、Img_3938c 富田浜病院のある交差点を左折し、東へ。国道23号線を富田浜交差点で渡って、浜園緑地沿いの国道23号線を南下し、霞大橋に向かいます。このあたりで出発から2km。
Img_3948c 霞大橋を渡ると、霞埠頭に入っていきます。これまでのコースのところどImg_3950c ころからも見えていましたが、いよいよ四日市港ポートビルがよく見えてきます。四日市港ポートビルも、これまでに来たことがないのです。近くにいながら、行ったことのないところというのが、けっこうたくさんあります。そういうところへ行きたいということもあって、JRさわやかウォーキングや、近鉄ハイキングに参加しています。
Img_3963c 四日市港ポートビルには、10時20分到着。出発から2.8㎞ほど。今日のImg_3979c 近鉄ハイキング参加者は、無料入場券がもらえ、ラッキー(微笑)。このビルは、四日市港の開港100周年を記念して、平成11(1999)年8月5日に開館。14階建てですが、13~14階の間は18mの吹き抜け構造になっています。高さは地上100mで三重県内で最も高いビルです。
Img_3983c 14階の展望展示室は、愛称「うみてらす14(フォーティーン)」。地上90mImg_3984c で、昼は鈴鹿山脈からセントレア、名古屋方面まで見渡せます。夜は全国的にも有名になった四日市港の夜景が一望できるスポットです。今日は霞んでいて、遠くの眺望は今ひとつでしたが、それでも眺めは抜群。右は、ここに来るのに渡ってきた霞大橋が見える、西側。写真の左端あたりが、近鉄四日市駅あたり。鈴鹿山脈は、霞んでしまっています。
Img_3986c 左の写真は、南側の眺め。コンビナート地帯です。ここの夜景が素晴らしImg_3999c いのです。右の写真は、東側の眺め。伊勢湾の向こうには、細い筋のように、知多半島が見えています。セントレアも見えるはずなのですが、肉眼ではハッキリしませんでした。
Img_4002c そこでエイヤッとだいたいこの方角と思われる方向を、超望遠コンデジで撮ったのが、左の写真。結果オーライで、セントレアの管制塔と、滑走路、ジェット旅客機らしき姿が映っていました(微笑)。霞んでいなければ、当然もっときれいに見えたと思います。
Img_4028c 北側の眺め。右上に見える高い煙突があるところは、中部電力川越火力発電所。霞埠頭の先(ガントリークレーンの左あたり)に橋が見えます。こImg_4013c の橋は、4月1日に開通したばかりの愛称「四日市・いなばポートライン」です。伊勢湾岸自動車道の「みえ川越IC」から9分で来られるといいます。
Img_4019c わが家から、この四日市港ポートビルのうみてらす14あたりが見えますImg_4290c ので、逆も可能と思って探しました。これまた肉眼ではよく分からなかったものの、写っていました(微笑)。左の写真の通りです。ちなみに、わが家のベランダからは、右の写真のようにポートビルが見えています。ポートビル脇の2本の煙突は、中部電力四日市火力発電所のもの。
Img_4045c 中央は展示室になっており、四日市港のジオラマがあります。また、周囲Img_4057c には、四日市港の歴史などの紹介がされています。右の写真は、稲葉三右衛門の港づくりを紹介したもの。稲葉三右衛門は、四日市で廻船問屋を営んでいました。明治6(1873)年、四日市港の修築に着手し、私財を投じて明治17(1884)年に完成しました(現在、旧港とよばれるエリア;ここも去年11月25日(どういうわけか、JRさわやかウォーキングへ……~四日市市制120周年記念~ 家族みんなで楽しめる四日市旧港街歩き)と、今年3月23日(近鉄ハイキング「港町、四日市を散策 みやまどさんから四日市臨港をたずねて」へ……海山道稲荷を訪ねる)と2回訪れています)。
Img_4082c 無事に四日市港ポートビルを見学し終えましたので、個人的には今日のImg_4092c ハイキングの主要目標は達成してしまいました。このあとは四日市港にある公園沿いを三滝川の手前まで南下します。左の写真は、霞ヶ浦緑地脇にある「ロングビーチ通」。
Img_4097c ここですごいものを発見(微笑)。他の参加者は、どなたも気づいておらImg_4098c れなかったと思います。これは、おそらく「環水平(かんすいへい)アーク」。太陽と同じ方向に現れ、水平の帯の形状をしています。大気光学現象の一種で、太陽の下46度の水平線上の薄雲に虹色の光の帯が見えるもの出そうで、たぶん条件を満たしていると思います。過去に2回、見ています(2013年4月23日:これも虹?……「環水平アーク」という珍しい虹でした、そして、市博物館の”五霊硯と酔李白図”展……テレビロケで写ったかも!?、2017年5月15日:「環水平アーク」再び……ムクドリのバトルと、ツバメの巣の巡回結果も
Img_4119c その後、ずっとひたすら歩きました。霞ヶ浦緑地には、運動施設がたくさImg_4125c ん集まっています。これら2枚の写真は、四日市ドーム。内部は、人工芝のアリーナと観客席。サッカーなどのスポーツの他、各種展示会、フリーマーケット、コンサートなどが行われます。家内はここで行われた小田和正のコンサートに行ったことがあります。
Img_4128c 野球場も2つあります。夏の甲子園の予選の一部もここで行われます。Img_4131c 今日も、アナウンスなどが聞こえていましたので、第一球場をちょっと覗いたら、少年野球の試合が行われていましたが、暑かったので、先を急ぎました。
Img_4134c 霞ヶ浦緑地公園の先には、海蔵川。ここにかかる橋が、霞ヶ浦パークブImg_4138c リッジ。ブロ友のひらいさんが冬にバードウォッチングに来られるところ。来シーズンからは、小生もと思います。今日は、コサギ1羽と、カルガモ2羽の姿がありました。
Img_4157c このあとしばらく、国道23号線の一本東の道を歩きます。中部電力四日Img_4161c 市火力発電所の脇に、こんな空き地が。マサカ、ケリや、コチドリはいないよなと思ったのですが、あるものですねぇ、そのマサカが(微笑)。コチドリの親子を発見。何やら動くものが見えたので、超望遠コンデジで撮影したら、写っていました。このあたりで出発から6.2㎞。時刻は、11時50分頃。
Img_4187c 暑い中を歩いてきましたので、汗も掻き、いささかお疲れ。国道23号線をImg_4193c 渡り、三滝公園へ。正面入口に噴水があるそうです。テニスコートがたくさんあって、スポーツも楽しめるようですが、そのまま前を通過し、北西へ。8㎞地点で、国道1号線・川原町交差点を渡ると、いよいよ萬古まつりの会場に到着します。
Img_4196c 今日、明日と萬古まつりが開催中。好天とあって、人出もかなりありまImg_4199c す。萬古焼は、今では、四日市の代表的な地場産業になっています。耐熱性の特長を活かした紫泥の急須や土鍋が有名で、とくに土鍋の国内シェアは、7~8割を占めるといわれます。また、豚の形の蚊遣器「蚊遣豚」も有名です。ただ、小生は買い物の予定は、残念ながらありません。
Img_4200c 露店などを見ながら、ばんこの里会館へ。萬古焼は、もともと桑名の豪Img_4263c沼波弄山(ぬなみろうざん)が、元文年間(1736~1740年)に朝明郡小向(あさけぐん おぶけ、現在の三重郡朝日町小向;当時は桑名藩領)で創始したものです。弄山が、自身の作品に「萬古」または「萬古不易」の印を押したのが、名前の由来です(弄山の時代の作品は、現代では古萬古と呼ばれます)。弄山の没後、一時途絶えたものの、天保年間(1830~1843年)に森有節(本名は与五左衛門)らによって再興されました(桑名萬古焼)。四日市萬古焼は、山中忠左衛門の尽力によって興り、阿倉川や末広に最初の窯が建ったといいます。ちなみに、今年は沼波弄山生誕300年です。
Img_4268c ばんこの里会館の正面には、萬古神社があります。昭和10(1935)年にImg_4213c 創設されています。主祭神は、埴安彦神(はにやすひこのかみ;土を司る神)、埴安姫神(はにやすひめのかみ;土器・陶器の女神)、罔象女神(みずはのめのかみ;水の神)、火産霊神(ほむすびのかみ;火の神)。沼波寿山も合祀されています(沼波弄山命(ぬなみろうざんのみこと))。焼き物に関する御神徳があるとされます。
Img_4249c 境内にはいろいろな石碑などもあったのですが、まず目を引いたのは、Img_4261c こちらの灯籠。茶色をしています。陶器製に間違いありません。さすがというしかありません。また、右の写真にありますように、四日市萬古焼の礎となった山中忠左衛門(やまなかちゅうざえもん)を顕彰する碑もありました。山中忠左衛門は、幕末から明治の陶工。伊勢末永村(現在の四日市市)の人で、嘉永(1848~54年)の頃、森有節の万古製法をまねて急須などを製作し、その製品は新万古焼とよばれたといいます。碑は、昭和40(1965)年6月に建てられています。
Img_4212c さほど広くない境内は、イベントも行われていて大賑わい。いささか高齢Img_4247c のフラガールのダンスや、歌なども行われていて、なぜか小生もしばし見てしまいました(苦笑)。他にも句碑、石碑などがありましたが、今日のところは割愛。萬古神社についたのは、12時20分頃。露店では何も買いませんでしたが、ここで持参のコンビニおにぎりを1つ食べて、腹を満たしました。
Img_4272c ゴールの近鉄名古屋線・河原町駅。近鉄四日市駅から1駅名古屋方向。Img_4280c 12時40分到着。約8.9㎞。ホームの駅名表示板には、「萬古焼の郷」とあります。ウ~ム、もともと桑名発祥の萬古焼なのに、すっかりお株を奪われています。12時54分発の名古屋行き準急に乗車。桑名着は、13時11分。¥300。
Img_3875c あみま倶楽部のスタンプは、今日で11個目をゲット。今日は、お土産も、食レポもありません。それにしてもしかし、4月28日のの“20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」”どころか、4月23日の“勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」”も記事を書き終えていません。我ながら困ったもの(苦笑)。まぁ、慌てない慌てない(微笑)。
Dscn6951c それから、こちらも。うみてらす14のスタンプ。リーフレットの裏が台紙になっています。うみてらす14内の、各説明コーナーにありましたので、押してきました。あちこちの観光地や、お寺などにこういうスタンプがありますから、けっこうよく押してきます。ちなみにいつも行く九華公園にはこれがないですね。作ってもらいたいと思います。

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2018年5月 8日 (火)

鎮国守国神社で猫の欠伸を撮影(笑)……鳥はいません

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 ブログのタイトルそのまま、「猫の欠伸」であります(笑)。撮影したのは、鎮Img_1602c 国守国神社の境内社の一つ、高竈(たかおかみ)神社のところ。たまたまこの黒猫さんがお社にいるところを撮ったら、欠伸してくれたという次第。ブログは「猫の欠伸研究室」ですが、別に猫の欠伸そのものについて、調べているわけではありません。ブログのタイトルの下に示しましたように、“チベット・ラサの僧侶曰く、「人の生涯は猫の欠伸のようなものだ」”という逸話にしたがっているだけです。
Img_1566c 午前中は雲は多かったものの、雨は降りませんでした.いつも通り、8時20分くらいから、住吉神社、九華公園、貝塚公園、春日神社、京町、寺町、田町、桑名七里の渡し公園と、7.5㎞を歩いてきました。昨日の分も、という気もあって少し長め(微笑)。
Img_1568c 揖斐川と長良川の中洲からは、オオヨシキリの鳴き声がよく聞こえてくるようになりました。もちろん、揖斐川の右岸からはまったく見えません。河口堰に行っても、なかなか見つけられません。町屋川や、三ツ又池公園に行くと見られることがあります。
Img_3559c 三の丸水門では、ヒバリ。今日はこの1羽。揚げ雲雀も見せてくれましたのImg_1577c で、オスと考えられます。ここへ来るまで、住吉入江にも、揖斐川にも、七里の渡し跡にも鳥の姿はありません。時期的にやむを得ないのですが、やはり張り合いはありませんねぇ。
Img_1583c 少し前にも描きましたが、今時分もっともよく見るのは、スズメ。雑食性の鳥ですが、今頃は虫などを捕まえて食べているところをよく見ますし、人の近くにも寄ってきます。写真は撮れませんでしたが、九華公園のベンチで休んでいたら、「エサをくれ!」といわんばかりに、小生の座っていたベンチに降りてきました。ちょっとビックリ。
Img_1594c スズメ、ドバト、ムクドリ、カラス、キジバト、カワラヒワ以外に九華公園で見たのは、シジュウカラ。数羽の群れで、あちこちにいました。エナガは、鳴き声はしていたものの、一瞬見ただけ。「エナガ団子」は、見られないままシーズンを終わるのかという気がしてきました。
Img_1632c 貝塚公園でも成果がなく、京町と田町でツバメの巣をチェック。卵があるImg_1610c と思われるところ4ヶ所を重点的に見てきました。左は、田町の商店にある巣。ここは、たいてい親が巣に就いています。この写真を撮った直後、交代していました。右は、京町のマンション駐車場。ここも常時、親がいます。
Img_1620c ところが、京町の呉服屋さんの巣は、ときどき留守になっています。今日も、最初に見たときは親はいませんでした。他を見てから、もう一度確認したら、戻ってきていました。卵があっても、巣を留守にすることがあるようです。田町近くのパン屋さんの向かいにある巣でも同様の現象を観察しています。
Img_3584c あまりにも鳥が少なく、話題もありませんので、閑話休題のようなお話。Img_3589c 寺町商店街、今日は三八市でしたので、けっこう賑わっていました。市がないと、休日でも閑散としています。右は、桑名七里の渡し公園。せせらぎに水がありません。公園の拡張工事に伴って、今日からせせらぎの水が流れなくなっているのです。鳥たちの水浴びを見るのは当分お預け(7月末までの予定)。
Img_3575c ところで、“勝手に近鉄ハイキング「名古屋線・津新町駅から松菱、お城公園など」”の記事がその3で止まっていますし、4月28日に行ってきた“20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」”も予告編だけになっています。まだ正式には、決まっていないのですが、連休前から、江戸橋方面でお仕事が増えそうな雲行きとなり、急遽その準備を行っているのです。まさに「怠け者の節句働き」のような様相(ことわざ本来の意味からはずれて使っています)。
 明日は、その江戸橋方面で講義。4回目ですが、先週が、授業回数調整でお休みでしたので、調子を取り戻さなくてはなりません(笑)。

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2018年5月 5日 (土)

オシドリ発見、歴史散歩と高田本山専修寺へも……家内の実家へ(5/4、5)

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 5月4日午後から5日にかけて、家内の実家へ行っておりました。ゴールデンウィークですから一泊。山間にある温泉地です。すでにあちこちの水田では、ほとんど田植が終わっていました。自分の住まいにいるよりもゆったりとした時間が流れ、居心地のよいところです。
Img_3362c この2日間で最大のニュースは、こちら。オシドリのペアを見つけたことでImg_3370c す。5日午前中、散歩中に実家近くの川にいたのです。川の景色を写真に撮っていたら、向こうが驚いて飛び立って見つけられました(微笑)。実物は初めて。オスは本当にきれいですし、この質感やフォルムも美しい。
Img_3319c 実家のあたりには、ツバメがたくさん飛び交っています。実家前の道路の電Img_3322c 線や、引き込み線にもやって来ます。オスは盛んに「チュビチュビチュビチュルルルル」というようなさえずりを聞かせてくれます。
Img_3263c 実家の玄関先には、数年前のツバメの巣がそのまま残っています。ツバメたちは、この巣を何度も確認に来ているのですが、今のところまだここで子育てをするとは決めていない様子。義母は、何とかここで子育てをしてくれないかと願っています。
Img_3295c 夕方になると、実家近くにはホオジロのオスがやって来ます。電線や電柱Img_3347c の上でさえずっています。トビもよく見ます。超望遠コンデジしか持参しませんでしたので、飛んでいるところを撮るのは、なかなか難しい。このほか、ウグイスもよく鳴いていて、5日の朝は、ウグイスの鳴き声で目が覚めるという贅沢(微笑)。
Img_3326c 5日の午前中は、散歩。町内一周で、2.8㎞ほど。左は、地区(垣内(かいImg_3328c_2 と))の山の神様。庚申塚牛頭天王(インドの祇園精舎の守護神。除疫神)なども祀られています。鳥居に向かって右にある「御神」には、「文政六未十二月 花掛垣内」とありました。文政6年は、1823年。
Img_3396c 実家での散歩では、いつも氏神様の射山神社にお参りします。主祭神Img_3394c は、大名貴命と少名彦命。延喜式神名帳にも載っています。境内の裏手にある湯之瀬川の北岸にそびえる射山(貝石山)を御神体とし、今も山腹八合目に御社殿が残っているそうです。この境内は拝殿御旅所とされていましたが、天正16(1588)年3月、現地に遷座されています。
Img_3429c この3月に涅槃図のご開帳を拝観した林性寺の近くにある、湯元誓願寺観音堂にも立ち寄って来ました。駐在所の正面にあります。湯元は地名のようです。一志郡内三拾三所第30番札所といいます。ご本尊は、十一面観世音菩薩ですが、この他に近くにあった十王堂から閻魔さまが、また湯治場にあった観音堂から33体の観音様と大所帯です。無住職で、地元自治会が管理しておられます。
Img_3448c 「不動さん」で親しまれている、古井谷(ふりだん)のお不動さま。この存Img_3450c 在は、以前から知っていたのですが、きちんと拝観してきたのは、初めて。常夜灯が側にあり、大日さん(大日如来)、山の神さんも境内に祀られているそうです。中央にいらっしゃる、石に刻まれたお像が不動明王様。このお不動さん、榊原にお城があったころからの不動堂で、縄張り図(お城の図面)にも記されているそうです。
Img_3519c 午後からは、一身田の高田本山専修寺へ。ここには義父のお骨が納めImg_3518c てありますので、義母と家内、娘でお参り。もう少し賑わっているかと思ったのですが、空いていました。ゆっくりとお参り。
Img_2982c ここで、家内の希望もあり、1月16日の「勝手に「JR・近鉄さわやかハイキング(笑)」……高田本山専修寺と一身田寺内町散歩(その1)一身田寺内町に入り、聖俗の結界を超えるまで」のリベンジ(微笑)。京林堂さんで、カレー焼その他をゲット(写真は、1月16日のもの)。お客さんは小生達夫婦のみ。焼置きはしないということで、20分待ちでした。
Img_3305c 昨晩(5/5)は、国道23号線の渋滞を避けようと、夜9時過ぎに出発。四日市に入るまでは順調でしたが、蔵町交差点あたりから大渋滞。途中で国道1号に抜け、11時を大幅に回って帰宅。この記事も、5/6に、5/5の日付で遡って投稿しました。

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