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2020年4月15日 (水)

20200411「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(東員~楚原)」(その1)……チリン坂・律師智傳之碑、茶屋橋を渡って大谷神社からうりぼう(いなべ市農産物直売所)へ

200411touin  4月11日に行ってきた「勝手に三岐鉄道北勢線ハイキング『員弁街道を歩く』(東員~楚原)」の本編、その1です。前日の4月10日、三重県では知事から「三重県新型コロナウイルス『感染拡大阻止緊急宣言』」が出されましたが、「媒介者」にはならないよう、「3密」は極力避けて出かけてきました。「健康維持のための散歩やジョギングは不要不急の外出に含まれない」というのImg_2440c も出かけた根拠の一つです。前回、三岐鉄道北勢線の東員駅まで行きましたので、今回はここがスタート。前回見忘れた「チリン坂「律師智傳之碑」を見て、員弁街道に入り、いなべ市に進みます。旧員弁町が今日の主な行き先。大泉駅に併設された「うりぼう(農産物直売所)」を覗き、いくつかの神社、道標、石仏墓地を経て、ヨシヅヤにあるスガキヤで昼食。ゴールの楚原駅をいったん通り過ごして、撮り鉄スポットである「ねじり橋」「めがね橋」を見て、楚原駅にゴールというコース。これほど歩くつもりはありませんでしたが、現地で歩いたのは11.3㎞! 私にとっては、自宅から西桑名駅往復が2.1㎞ですから、合計13.4㎞。歩数は、24,835歩にもなりました。今日も、M、K両氏と3人旅。

Img_2118c_20200411173601 Img_2121c  西桑名駅のある桑名駅前のバスターミナルあたりは、ほとんど人が歩いていませんでした。北勢線の電車も、東員までは乗客3名。3両編成でしたから、1人あたり1両の貸し切り。西桑名駅を8時44分の楚原行きに乗車。途中からK氏が合流。東員駅には9時10分着。¥340。ここでM氏と待ち合わせ。すぐにスタート。右の写真は、東員駅から員弁街道に向かう途中、鈴鹿山脈を見たもの。天気がよく山並みがよく見えますし、近くに感じます。

200411touin1  こちらが実際に歩いたルートマップのその1。右上の写真は、「ふれあい農園東」あたりから撮ったもの。東員交番前で左折し、西へ。鳥取東交差点のところのバス停の前で「不忘碑(神田用水完成記念碑)」を見て、「チリン坂・律師智傳之碑」へ。その後、左折すると員弁街道に入ります。西北に向かって員弁街道を歩いて行きます。

Img_2124c_20200413203301  「不忘碑(神田用水完成記念碑)」。かつては、律師智傳之碑の前にあったようですが、現在は鳥取のバス停前に移設されています。六把野古井水、六把野新井水の水不足を解消するため、昭和25(1950)年、県営灌漑事業で完成しました。東員町山田にある員弁川左岸を取水口として、約4㎞北の三百坊という丘陵地まで三個所のポンプ場により水が揚げられました。神田用水は、現在も神田土地改良区(東員町山田)によって管理され、町内の多くの水田に農業用水を供給しているそうです。

Img_2130c_20200411173901  その鳥取東交差点を右折すると、チリン坂です。この坂のあたりに「律師智傳」が住んでいたといいます。「律師」は相当高い僧の位を意味し、「智傳」という名の高僧の碑です。しかしながら、智傳は、昭和22(1947)年頃、80歳くらいで亡くなったという以外、その来歴などは不明。この高僧「智傳」の名前がなまって「チリン」となり、坂の名前が「チリン坂」になったといいます。

Img_2136c Img_2139c  この坂の中程に「律師智傳之碑」という自然石でできた碑が建っています。碑陰には、「涼風や 麦田見下す 智伝坂」の句があるというのですが、はっきりとは読めません。また、碑には「素水建之」とあるそうでが、これもまた判読困難。この理由や経歴なども分かっていないといいます。先ほど見てきた「不忘碑」は、この「律師智傳之碑」の向かいにあったもの。ここには「旧鳥取学校」もあったといいます。

Img_2132c_20200413205101  「律師智傳之碑」の傍らには、地蔵堂がありました。お地蔵様の横の石碑には「嗟夫佐喜子Img_2134c_20200414051401 短命而逝……」と刻まれていました。「嗟夫」は、「ああ」と読むそうです。あとの方の文章を拾い読みすると「童女」、「菩提安置」という文字もありますから、佐喜子さんという方が短命で亡くなられた菩提を弔うためにお地蔵様を祀ったということかと思われます。

Img_2144c Img_2156c  「律師智傳之碑」の先で左折し、西に向かいます。この先、しばらくは見るところはありませんが、ご覧のように天気もよく、ハイキング日和。途中の民家では、右の写真のように、個人で建てたと思われる慰霊碑あるいは忠魂碑もあります。今までの経験上、こういうものは日清、日露戦争に出征された方ものが大半(勝手に入って確かめる訳にはいきません)。桑名でも中心部から離れたところではこういう碑を見かけます。その他、街道沿いのお宅などに植わっている樹木、草花も見て楽しんでいます。K氏がかなり詳しいので、教えられること多々あります。

Img_2169c  スタートから2.5㎞の手前で戸上川にかかる茶屋橋に差し掛かります。東員町といなべ市の境目です。この川はよく氾濫したようで、あたりの地名には上仮宿、下仮宿、仮宿というものがあるそうです。茶屋橋という名前は、このあたりに茶屋があったからといわれています。ここで、女性二人組に遭遇。われわれと同じく、員弁街道ウォーキングをしておられるようでした。

200411touin2  実際に歩いたルートマップは、その2に入っています。茶屋橋を渡って、予定では大泉駅に併設されているImg_2174c_20200411174901 「うりぼう(いなべ市農産物直売所)に行くことにしていましたが、街道沿いに鳥居があり、遠くに鎮守の森らしきものが見えましたので、「せっかくだから行ってみよう」ということになりました。

Img_2177c_20200414061101  神社は大谷神社でした。参道を歩いていると、脇には麦畑。麦はかなり生長してきていました。昔よりも、Img_2178c_20200414061101 身近なところで麦畑を見ることは少なくなった気がします。そして、ツクシ。ちょっと時期を過ぎた感じですが、これも春らしい。以前は、我が家近くの諸戸氏庭園前の土手にも出たのですが、最近は見当たらなくなっています。

Img_2184c_20200414061101  とあれこれ見ながら、大谷神社の境内へ。延喜式内社。創立は不詳ですが、古くは「大谷野魔里井上神社」と称し、神護景雲元(767)年に春日神社を合祀し、そのために「大谷春日」といったという説明がありました。主祭神は、罔象女命(みつはのめのみこと:伊奘冉尊が火の神を出産し、そのために火傷を負って亡くなるとき、その漏らした尿から生まれた水の神)。相殿神は、武甕槌神(タケミカヅチノカミ:伊弉諾尊が火神を切り殺したとき、剣に付着した血から化生(けしょう)した神。経津主神とともに葦原の中つ国に派遣され、国譲りの交渉に成功)、経津主神(ふつぬしのかみ:天孫降臨に先立って、出雲に行き、大己貴命を説いて国土を献上させた)、姫神(ひめがみ:女神。また、彦神(男神)の配偶神)、天児屋根命(アマノコヤネノミコト:天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神)、速玉之男命(はやたまのおのかみ:伊奘諾尊が黄泉国の伊奘冉尊を訪れたとき、見ないでほしいといわれたその姿をみてしまい、離縁することになった。その約束をかためるためにはいた唾から生まれた神)、伊邪那美尊事解之男命(日本書紀で伊弉諾尊が伊弉冉尊を追いかけて黄泉の国へ行ったときに生まれた神。速玉之男(ハヤタマノオ)と同じ)、火軻遇突智命建速須佐之男命埴安姫命(はにやすひめのみこと:土をつかさどる神)、埴安彦命(はにやすひこのみこと:孝元天皇の皇子)、大山祇神(おおやまつみのかみ:山の神)。

Img_2208c  ここは、藤原小黒麻呂に関わる伝承があります。宝亀11(780)年、小黒麻呂が蝦夷征伐の命を受けて奈良から東北地方に向かわれる途中、当社で戦勝祈願をし、帰路にも奉告参詣されました。その年、桓武天皇が即位、天応と改元、その後延暦12(793)年、東夷征服祈願の為、奉弊使(勅命により神宮や神社に出向いた使者)として再び参詣したのですが、この地に逗留中、病気にかかり62歳で亡くなっています。この時以来、村人は当社を小黒宮と呼ぶに至ったといいます。境内の西南には小黒麻呂の墳墓があると伝わります。嘉永元(1848)年、参道を改修中、巨石の重なっている中から太刀、花瓶、香炉、陶器類がたくさん出たので元どおりに埋蔵されました。

Img_2198c  この神社の巽の方角に「霊泉清水池」があったという石碑が建っていました。清水が湧き出ていて、この水を飲むと万病がたImg_2224c ちまちに癒えたと書かれています。また、この清泉が湧出したことが、大泉の村の名前になったともあります。泉は今は枯れてしまっていました。いや、やはり寄り道というか、道草というか、してみるものです。

Img_2214c_20200414061101  境内には、古い鬼瓦が残っています。「甍の由来」という石碑が脇に立っており、そこには、旧社務所の鬼瓦で、銘に「文政十三寅年(1830年)六月楚原村瓦屋兵左衛門」とあると書かれています。旧社務所は、明治40(1907)年、字屋敷にあった熊野神社を大谷神社に合祀したときその社殿をこの地に移築したものともあります。

Img_2230c_20200411190201 Img_2234c  大谷神社からまた員弁街道に戻り、次の目的地である「うりぼう(いなべ市農産物直売所)」へ。スタートから約4㎞、時刻は10時半頃、うりぼうに到着。大泉駅に併設されています。2年ほど前、ここのジェラート屋さんで日本酒の入ったジェラートを食べたことがあります(2018年7月16日:いなべの「うりぼう」から家内の実家へ)。鹿肉なども売っていたのですが、見るだけで何も買わず。

 実際に歩いたルートマップその2の途中ですが、キリも良く、あまり長くなってもいけませんので、本編その1はここまで。その2は、このすぐ先にある、もう一つの大谷神社から。

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