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2019年12月25日 (水)

20191215近鉄ハイキング「名古屋の繁華街に残る古墳めぐり」(その2)……横井也有翁隠棲之址、下茶屋公園から東別院、コースをショートカットして寺をめぐって、断夫山古墳、白鳥古墳へ

191215kintetsuhikingnagoya2Img_3106c_20191223192601 12月15日の近鉄ハイキング「名古屋の繁華街に残る古墳めぐり」のその2です。その1では、近鉄名古屋駅地下改札をスタートし、ナナちゃん人形を見て、大須まで来ました。大須に古墳があるなど、今まで知りもしませんでした。商店街で何かを買ったり、食べたりはしませんでしたが、富士浅間神社、まねき稲荷など面白いところも見て、万松寺通りを抜けて、大津通に出て上前津から南に進みます。

Img_3109c  大津通を下って、スタートから3.3㎞ほどのところの歩道脇に「横井也有翁隠棲之址」碑があります。横井也有(元禄15(1702)~天明3(1783)年)は、江戸時代中期の俳人。名は時般(ときつら)。尾張藩の重臣で、武芸・詩歌・絵画・音曲などにもすぐれ、多芸多能であったといいますが、53歳で引退。知雨亭に石原文樵(ぶんしょう)とともに暮らしました。ここ前津に知雨亭があったと思われます。也有の「辞世」に、「病来辞世路 久隠舞津農」とあります。「病になったので世を辞し、久しく舞津(前津)の農となり隠棲した」という意味のようです。また「知雨亭記」に、「市中はなはだ遠からねば、杖頭に銭をかけて酒を賖る足を労せず、市中また近からねば、窓底に枕を支へて夢を求むる耳静かなり。こゝに少しの地を求めて、聊膝を容るるに幽居をいとなむ」と書かれており、と書かれているので、当時の前津は、幽居を営むには適地だったということでしょう(こちら)。羨ましい気もします。

Img_3118c  さらに進み、3.8㎞ほどのところに下茶屋公園がありました。この公園は、東別院の新御殿の後庭があったところです。江戸時代後期の庭園として貴重なもので、東別院所蔵の平面図には「新御殿御庭」という別記があり、天保年間に落成した建築群に伴って作庭されたものと考えられています。ちょっとだけ覗いてきました。

Img_3124c_20191223193401  その先、4㎞地点にあるのが、メ~テレ。この日は、日曜日で、とくにイベントもありませんので、閉まっていました。こういう意味では、テレビ局もフツーの会社と同じようです。お気に入りのキャラクターであるウルフィのイラストや、ロビーに置いてあるウルフィ人形を見て、通過。

Img_3127c  メ~テレから300m足らずのところに真宗大谷派名古屋別院(通称・東別院)があります。Img_3131c_20191215213301 10時50分到着、4.3㎞地点。このあたりは、今年9月28日のJRさわやかウォーキング「名古屋の二大庭園とてづくり朝市を訪ねて」で来ています(20190928JRさわやかウォーキング「名古屋の二大庭園とてづくり朝市を訪ねて」へ(予告編))。お参りして、10分ほど休憩させてもらいました。休憩中に考えました。この先は、古渡町交差点を越えて三桜橋交差点まで行って、左折し、江川線を歩くコースになっています。御菓子処の不朽園さんに立ち寄るのです。不朽最中が名物の店です。その不朽最中(小)5個入りが、通常594円のところ500円という特典があったのですが、最中はまぁいいかと思って、近道をすることにしました(苦笑)。

Img_3132c  ということで、古渡町交差点で左折(左の写真)。国道19号線を南に行きます。途中で、「九丁堀」と書かれた表示板を見Img_3135c つけました。時代小説の捕物帳に「八丁堀」が出て来ますから、気になりますねぇ(苦笑)。この九丁堀は、町名ではなく、交差点の名称として使われているようでした。しかも、江戸時代からの俗名といいます(こちら)。東別院が織田信長の古渡城の跡で、そこから九丁あった(丁は町とも書き、距離の単位です。時代によって変遷がありますが、明治時代にメートル条約に加盟して以降は、一町=109.09m。したがって、九丁=981.81m))などいろいろの説があり、決定版はないと思われます(たとえばこちら)。

191215kintetsuhikingnagoya3  このあたりから、実測ルートマップは、その3のエリアになります(左の写真)。本来のルートは、古渡町を直進し、堀川を超えて、山王橋交差点を右折し、南下。途中、不朽園に立ち寄り、そのまま八熊通交差点まで行って、左折。新尾頭交差点に出るのです。

Img_3152c_20191224124501  スタートから5.5㎞ほどのところで、JR・名鉄・市営地下鉄の金山総合 駅の西の高架橋(新橋)を通過します。電車が通る景色が撮れないかと思って少し待ったのですが、こういうときに限ってなかなかうまい具合にはやって来ません。かつては(私の学生時代など)、名鉄はこの南300mほどのところに「金山橋駅」がありました(昭和19(1934)年開業)。時は経ち、デザイン博開催を控えた平成元(1989)年7月9日に金山総合駅が開業し、3社の総合駅となっています。金山橋駅は、古い木造の駅舎だったと記憶しています。といささかの思い出に浸りつつ、さらに南へ。新尾頭交差点で、正規のコースへ戻りました。

191215kintetsuhikingnagoya4  実測ルートマップその4。

Img_3162c_20191225050501  スタートから約6.6㎞のところ、国道19号線沿いにお寺がありました。このあたり、見るところはないと思っていましたのImg_3164c で、写真だけ撮って通過したのですが、立ち寄ってくればよかったと反省しています。浄土宗鎮西派の寺院。稱讃淨土院遺迎山雲心(うんしん)寺。名古屋三大仏の一つである阿弥陀如来像がご本尊なのだそうです。元文4(1739)年に現在の東海市で開山しましたが、翌年、ここに一部を残し、移転しています(その時の寺院は現在も東海市に残っており、知多新四国霊場の札所となっているそうです)。明治維新までは檀家を持たず、名古屋の著名人の寄進で運営されていました。本尊である阿弥陀如来像は、江戸時代に京都の仏師山本茂祐が作成し、開眼したもの。着座していますので、大きくは見えないものの、2m以上といいます。興正寺の大日如来像、栄国寺の阿弥陀如来像と並び、名古屋の三大仏の一つとされます。気になったらor見つけてしまったら、やはり立ち寄ってくるべきです(苦笑)。

Img_3180c  雲心寺の先、もう次の目的地も近いのですが、6.9㎞地点にあるのが、青大悲寺(せいだいひじ)。ここは、宝暦4(1756)Img_3183c 年、この地で生まれたきの(1756~1826)という女性が開いた如来教の本山です。如来教は、新宗教の一派。ご本尊は釈迦牟尼仏、教典はきのの説教集「御経様」、修行は曹洞禅の形式を取入れています。信者数約3万3,000人。「御経様」は、きのの説法の速記録で、名古屋弁そのままで語られる特異な経典だといいます。ちなみに、東洋文庫(平凡社)の1冊として出版されてます(¥2,500とちょっとお高い)。

Img_3185c_20191225051601  山門を潜って、境内を拝観してきたのですが、静かで、何となく独特の雰囲気が感じられるお寺でした。この日は、紅葉がきれいで、陽の当たり方もちょうどよい感じ。

Img_3169c  この青大悲寺には、地蔵堂があり、等身大の鉄地蔵(てつじぞう)菩薩立像が安置されています。これは、像背面の裾近くImg_3176c_20191225051601 にある銘文から、室町時代の作だということが分かっています。尾張国(愛知県北西部)では、平安時代から鎌倉時代にかけて鉄地蔵が広まったそうです。鋳鉄製の地蔵菩薩像で、そのほとんどが地蔵立像であること、また像高が成人の身長に近いものが多いことがその特徴といいます。如来教というのは知りませんでした。

Img_3190c  さらに、青大悲寺の南隣には、浄土宗西山禅林寺派の壽琳寺があります。9月28日のJRさわやかウォーキンImg_3192c グのときは(20190928JRさわやかウォーキング「名古屋の二大庭園とてづくり朝市を訪ねて」へ(予告編))、山門の写真を撮っただけで通過しました。この日は、覗いてみたのですが、奥の山門は入れないようになっていました。ネットで検索しても、これという情報はありません。

Img_3197c_20191225065701  壽琳寺のすぐ南が、熱田神宮公園。ここに次の目的地である断夫山(だんぷさん)古墳があります。この古墳も9月28日のJRさわやかウォーImg_3200c キングで訪ねました。断夫山古墳は、永らく熱田神宮の所属地でしたが、第二次世界大戦後、名古屋市の戦災復興事業として仮換地され、昭和55(1980)年に愛知県の所有になり、都市公園として整備されました。

Img_3201c_20191225070001 Img_3205c_20191225070001  「古事記」「日本書紀」では、日本武尊が東征したとき、ここ尾張で豪族の娘・宮簀媛(ミヤズヒメ)と結婚の約束をかわしたのですが、東征の帰途、病気がもとで死に、白鳥となり飛去ったとあります。この白鳥となった日本武尊の墓が白鳥古墳であり、日本武尊への思いをいだいて死んだ宮簀媛の墓がこの断夫山古墳であると伝えられています。この事から夫を断つ山、断夫山古墳と名前がついたそうです。なお、白鳥古墳は、現在の亀山市能褒野で亡くなった日本武尊が、死後、白い鳥となって飛び立ち、戻って来たところという話もあります。断夫山古墳は、東海地方最大の前方後円墳で、全長151m、前方部の幅116m、後円部の直径80m、後円部の高さ13mもあります。6世紀の初め、尾張南部に勢力を持っていた尾張氏の首長の墓と考えられています。右の写真は、公園内にある1/27サイズの断夫山古墳のミニチュア。古墳沿いに歩いて南に進んだのですが、全長151mというのは、かなり大きい。

Img_3212c  断夫山古墳だけを見て、熱田神宮公園から堀川沿いの道に出ます。ここまでで歩いたのは、7.6㎞、時刻は11時45分ころ。振り返ると、名古屋国際会議場が見えますし、堀の向こう(西)側には、9月28日のJRさわやかウォーキングで訪ねた白鳥庭園も見えます。

Img_3223c_20191215213501  その白鳥庭園から堀川を挟んで東側、白鳥公園に隣接して、白鳥古墳があります。熱田神宮では、「白鳥御陵」と呼んでいますが、その経緯は、断夫山古墳のところに書いたとおり。6世紀初頭に築造されたと考えられている前方後円墳で、法持寺のすぐ隣にあり、かつては法持寺が管理していました。明治9(1876)年からは熱田神宮に、戦後は名古屋市に管理が移されました。墳丘全長が70mという、こちらも大きな古墳。ちょっとした小山という感じ。木々が生い茂っています。熱田神宮社伝では、日本武尊の陵としています。これは、能褒野に葬られてのち白鳥となった日本武尊が当地に降り立ったという伝承に基づいています。

 その2はここまで。その3では、いよいよ熱田神宮へ。

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