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2019年9月25日 (水)

20190922近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅8日目~伊勢街道、旅人気分で垂水から雲出へ」(その1)……南が丘駅をスタート、成就寺、金剛寺、南昌寺から元伊勢の一つである加良比乃神社、称念寺、高茶屋神社へ

 9月22日の近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅8日目~伊勢街道、旅人気分で垂水から雲出へ」のその1です。9月は、このお伊勢さん参りハイキングは3回目。豊津上野駅から始まり津市内の伊勢街道を歩いてきました。3回目のこの日は、いよいよ松阪市へ向かいます。ただし、この日は、台風17号が九州に接近しており、スタート地点の津の天気予報は朝から雨。しかし、雨雲レーダー画像を見ると、三重県は南部を除いてほとんど雨雲はかかっていませんでしたので、予定通り、ちょっと強行気味に参加してきました。結果的には、途中でしばし強風に煽られたり、小雨に降られたりはしましたが、傘もほとんど使わずに無事に歩き通せました。今回は、一人旅。

Img_0594c  近鉄名古屋線・南が丘駅がスタート。受付が9時半から11時でしたので、桑名駅を8時42分に出る松阪行き急行に乗車。南が丘Img_0599c_20190922201501 駅には、9時31分に到着。¥750。受付開始が早まったのか、あまり混んでいませんでした。あとで係の方に伺ったら、今日の参加者は280名くらいとか。前回の旅7日目のゴールがここ南が丘駅でした(20190907近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅7日目~伊勢街道、旅人気分で津のまちから垂水へ」(予告編))。あの時は、真夏の暑さで参りましたが、今日はかなりマシ。本日のコースマップはこちら。B4サイズ両面にびっしり。それもそのはず、マップ上約14㎞という長丁場。南が丘駅を出て、1.5㎞ほどで伊勢街道に出て、そこからひたすら南下。式内加良比乃神社、島貫の常夜燈を経て、雲出川を渡ります。さらに、松浦武四郎誕生地、松浦武四郎記念館、月本追分(奈良街道分岐)、市場庄のまち並み、舟木家の長屋門と歩いて、近鉄山田線・松ヶ崎駅がゴール。松ヶ崎駅は、大阪線乗り換えの伊勢中川駅から2駅目にして、松阪駅の1つ手前の駅。歩き通せるか、一抹の不安もありました。

190922kintetsuhikingminamigaoka  こちらが実際に歩いた実測ルートマップ。南が丘駅があるのは、津市。上述のようにほぼひたすら南に歩きます。近鉄の駅にして、南が丘から、久居、桃園、伊勢中川、伊勢中原を経て松ヶ崎となります。5駅分も歩いたということです。ゴールの松ヶ崎駅は、すでに松阪市。まったくよくやったなと我ながら関心します。

Img_0605c  南が丘駅を9時40分にスタートしました。ご覧のような曇天でしたが、雨はしばらくは大丈夫そうな感じ。Img_0607c_20190925073701 南が丘の住宅地を抜けて行きますが、途中までは、南が丘小学校近くを通るという、前回とは違った道を辿っていきます。

190922kintetsuhikingminamigaoka1  実測ルートマップを詳しくしたもの、その1。前回は、にし整形外科のすぐ北の信号から県道に入り、南が丘ツツジ公園を通り抜けて南が丘駅に向かいました。今回は、香水池の方を回って行き、成就寺の所から伊勢街道に入っていきます。

Img_0614c  スタートから950mほど来た、南側に清水不動明王がありました。立ち寄らずにこの写真だけを撮ってきました。ネットで調べても情報はこれといってありません。不動明王は、大日如来が衆生を教化するとき、通常の姿のままでは教化できないので忿怒相をもって現れたもの。内外の障害や種々のけがれを焼き尽し、すべての悪魔や敵を撃滅し、行者を守護するとともにその菩薩を成就させるといいます。

 清水不動明王を過ぎてすぐのところで前回通った道に戻ります。Img_0616c_20190925073801 1.3㎞ほどのとこImg_0618c ろで、前回昼食を摂った喫茶「ノンネーム」の前を通過。江戸時代の旅であれば、「峠の茶屋」という感じ。前回は、9月7日でしたから、あれからもう2週間以上経っています。  

Img_0629c  1.5㎞ほどで、前回伊勢街道と分かれた成就寺の交差点までやってきました。右が成就寺。真言宗醍醐寺派のお寺。今回も、山門下で写真を撮らせてもらうだけにしたのですが、後で調べて、寄って来たらよかったと反省。ご本尊は、行基によって見いだされた、平安後期(12世紀後半)に作られた大日如来座像。行基(668~749年)は伊勢参宮の途中、このあたりの山中から仏像を掘り出し、堂を建てて安置しました。垂水は水に恵まれないところであったものの、この仏像が出現した跡地から「香水(こうずい)」と称する一切の痛みのある病を治す水が湧き出し、それを白河法皇に献上したところ病気が治癒したことから、七堂伽藍が建てられ、200人近くの僧侶が修行に励んでいたとのことです。このあたりも、織田信長による焼き討ちに遭ったものの、成就寺と清水不動院、南晶寺、金剛寺だけは残ったのだそうです。右の写真では、奥から来て左へ(コースとしては、右折)。伊勢街道に入っていきます。

Img_0625c_20190925125801  境内に上がっていく階段の手前、左側のお地蔵様の脇に道標があります。半ば埋もれているのですが、碑表と右側には「大日如来出現所香水道 従是/四丁」とあり、大日如来が出現した香水道がここから4丁(約436m)であることを示しています。左側には「安永二癸巳歳/九月吉日建之」、碑陰には「津魚町施主/栄四建之」とあります。安永2年は、1773年。

Img_0638c_20190925140301  下ってきた交差点を右折して、伊勢街道に入ってすぐのところに金剛寺。真宗高田派のお寺。もとは、成就Img_0639c 寺の金剛坊でした。ここの境内には、念仏塚があります。「寛政六年甲寅季秋中旬勢州一志郡垂水邨法林山金剛教寺」と彫られています。成就寺は真言宗醍醐寺派であるのに、ここと次の南昌寺は、成就寺の坊であったにもかかわらず真宗高田派になっているのには疑問がありますが、理由は不明。

Img_0647c_20190925141001  こちらが金剛寺の南にある南昌寺。真宗高田派。こちらはとくに由緒あるものはないようでした。南昌寺から南へ150mほどImg_0651c のところに須賀神社があります。事前の調べでは、「垂水の産土神」ということでしたので、この写真だけ撮って、通過しました。主祭神は、建速須佐之男命。他に12柱の神様が合祀されています。由緒は不明ですが、明治時代に加良比乃神社に合祀されていたものを昭和26(1951)年に分祀。これを書くのに再び調べたら、境内に「首切られ地蔵」があるということでした(こちら)。織田信長が北畠家を攻略する際、身代わりになって切られたお地蔵様だそうです。

Img_0648c  このあたりの伊勢街道の様子。道幅やゆるやかにカーブしている感じなど、いかにも昔からの街道というイメージです。が、ここは、三重交通のバス路線になっていました。歩いていたら向こうからバスがやって来てビックリ。津駅から警察学校へ行くバスの路線(城山線)でした。

Img_0656c  スタートから2.1㎞を過ぎたところに石柱と、青銅製の常夜燈があります。ここは加良比乃神社への参道の入り口。石柱には、「式内加良比乃神社」とあります。常夜燈は、明和元(1764)年の建立。加良比乃神社は、ここから西へ150mほど入ったところにあります。

Img_0663c  加良比乃神社(からびのじんじゃ)は、垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が天照大神を奉戴し、Img_0668c_20190925144701 神殿を建築して鎮座したところとされます。そのとき、この地は水が不便な地であり、この神社のある場所の片側が急な斜面になっているため、樋を用いて泉の水を引いたことから「片桶宮」と称しました。4年を経て、御神記によって他所に遷座されたのですが、この宮跡に御倉板擧神、伊豆能売神を祀り「加良比乃神社」となり、土地の人々が産土神として崇敬してきました。ちなみに、「加良比」は「片樋」のなまったものといわれています。右の写真の「片樋宮」の石標は、寛保2(1742)年のもの。

Img_0675c  主祭神は、御倉板挙神(みくらたなのかみ;五穀豊壌、開運の神)、伊豆能売神(いずのめのかみ)、天照皇大御神大山祇神大物主大神水波能売神(ミヅハノメノカミ;水の神)、宇迦之御魂神建速須佐之男命。相殿神は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)、天之穂日命天津日子根命(あまつひこねのみこと)、活津日子根命(いくつひこねのみこと)、熊野久須毘命(クマノクスビノミコト)、多紀理毘売命(たきりびひめのみこと)、市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)、多岐都比売命(たぎつひめのみこと)、天児屋根命(あまのこやねのみこと)、応神天皇。明治40(1907)年、境内神社神明宮など4社を、また明治42(1909)年に同稲荷社を、明治44(1911)年須賀神社を合祀した(須賀神社は、既述の通り、昭和26(1951)年、分祀されています)。なお、昭和25(1950)年、近隣の火災が飛火し社殿を失いましたが、拝殿(仮本殿)を造営し、平成8(1996)年、神宮より御遷宮で撤下された内宮外幤殿を戴き、正本殿として造営されています。

Img_0666c  余談です。倭姫命が天照大神の御杖代として、大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされます。倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに天照大神の神体である八咫鏡を順次奉斎した場所は「元伊勢」と呼ばれますが、それを訪ねるのにはなぜか、とても興味を持っています。桑名の野志里神社(2018年4月28日:20180428近鉄ハイキング「多度観音堂から美濃街道を歩き雨尾山飛鳥寺へ」(予告編))、亀山の忍山神社に続いて(2019年6月9日:20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(予告編)……雨にも負けず(苦笑))、ここ加良比乃神社は3社目。

Img_0678c  加良比乃神社の参道の途中、南側に円光寺があります。真宗高田派のお寺。嘉永8(1631)年開創と伝わっています。円光寺190922kintetsuhikingminamigaoka2 を出て再び伊勢街道へ。相川を相川橋で渡り、ここらあたりから実測ルートマップは、その2になります。

Img_0690c 伊勢街道に戻ってさらに南へ。相川橋を渡って、スタートからほぼ3㎞のところに浄誓寺。ここも真宗高田派のお寺。このあたり、お寺がけっこうたくさんあります。浄誓寺に立ち寄ったのは、このあたりに文政8(1825)年に建立された常夜燈があると、みえの歴史街道(伊勢街道)の資料にあったからです。しかし、境内や参道あたりにはありませんでした。寺の裏の方だったかも知れませんが、この日の天候もあって急いでしまい、十分には確認しませんでした。この常夜燈は、大正初期まで木札を回す当番制で燈明を上げていたといいます。 

Img_0694c  スタートから3.5㎞ほど、城山特別支援学校の東を歩いているはずですが、学校は森の向こうで見えません。伊勢街道の東側に紀念碑がありました。「髙郷井用排水路改修竣工紀念 三重縣知事 田中 覚書」と読めます。「髙郷井」は、江戸時代初期、雲出川に堰を設け、戸木村(現・津市戸木町)から雲出地域まで水路を通し、高茶屋で三分(髙郷井、八寸、揚溝)して水田を潤した水路の一つ。この工事は、津藩2代藩主・藤堂高次公が、西島八兵衛(慶長元(1596)~延宝8(1680)年:藤堂高虎の近習として禄高150石で仕えて以来、高虎の信頼を得て津藩を水利・灌漑の面から支えた人物)に命じて行わせたもの(こちらを参照)。その高郷水を排水する水路を改修したということなのでしょうが、碑陰を見られず、また、ネットでも情報は出てこず、この改修工事そのものについては分かりませんでした。ちなみに、田中 覚(たなか さとる、明治42(1909)~平成14(2002)年)が三重県知事であったのは、昭和30(1955)~昭和47(1972)年)でした。

Img_0703c_20190925155601  3.8㎞地点で天神橋を渡ると、すぐ右手に(西側に)、寳福山雙樹院称念寺。浄土宗のお寺。みえの歴史街道(伊勢街道)の資料には、「円光大師二五霊場」とあります。また、寺の前の石柱(右下の写真)にも、「圓光大師廿五霊場」という文字が見えるのですが(第十四番ともあるような気もします)、円光大師二十五霊場のリストにはありません。こちらのWeb版浄土宗大辞典によれば、これ以外に、正式なものを模倣して作った「うつし霊場」がいくつかあるそうです。円光大師は、法然上人勅諡号。寺の前に常夜燈1基と、六阿弥陀堂があると、伊勢街道の資料にあるのですが、常夜燈はどこを見てもありません。

Img_0709c  六阿弥陀堂は、こちらの建物。伊勢街道のルートマップにある写真を見ると、どうもこの六阿弥陀堂の右奥、クルマが止まっていImg_0706c るところの横(舗装が新しいところ)に常夜燈があったように見えます。何らかの理由で撤去されたのかも知れません。六阿弥陀堂の前にある石碑などの、向かって左のものには「薬師堂記念碑 六阿弥陀堂 昭和五十年五月建?」とあります。ちなみに、六阿弥陀(ろくあみだ)は、もともと阿弥陀仏を安置する六つの寺を巡拝すること。元禄年間(1688~1704年)のころから行基作と伝える阿弥陀像を祀る六か寺を春秋の彼岸に参詣して歩くことが盛んに行われたことに始まります(詳細はリンク先をご覧ください)。その後、各地に「○○六阿弥陀」ができたそうです。扉が開いていませんでしたので、拝観はできませんでした。またもや(「いつもだ」という声が聞こえてきそうですが)謎を残したまま、進みます。

Img_0717c_20190925202001  称念寺の先に「耕地整理記念碑」がありました。高茶屋村の東部地区の耕地整理は村を一変する大事業として、大正9(1920)年、時の村長服部米次郎の陣頭指揮の下に実現しました。この記念碑は、昭和16(1941)年に建立されていますが、長年の夢が叶って今までの湿田が美田になり、村の明るい将来が約束された喜びが歌われています(碑文は、こちらの7~8ページにあります)。

Img_0721c  長くなりましたが、キリが良いので高茶屋神社(たかじゃやじんじゃ)まで。高茶屋(たかじゃや)は、高台にあり周辺に茶屋が多かったことが名前の由来です。高茶屋神社は、通称、粟嶋さんと呼ばれています。主祭神は、玉柱屋姫命です。志摩郡伊雑村の神である、伊佐波登美命の奥方です。倭姫命を出迎えた神様で、豊受社の神様だそうです。玉は星とすると、屋は夜という意味なので、「星の柱の夜の姫」という意味になります。つまり、天の川のお姫様。

Img_0729c  第53代淳和天皇の時代の824年、一志狭山枚男という人が伊雑村の祭神をこの地に祀り、栗嶋神社と称したとされます。粟嶋神というのは、1,500年前、粟で作られた船で航海の折、紀州灘佐之郡という所に漂着し、この神、粟嶋大明神を祀ったところ、人々の病を治したというので、病を治してくれる神様、または薬の神様として伝わっています。昔、高茶屋神社は、玉柱屋姫命の祭神のほかに九ヶ所に祠が奉られその祭神をあわせて、十社宮と呼ばれていました。後に、十社杜、粟嶋神社などを明治41(1908)年に合祀し、高茶屋神社となりました。

Img_0732c  相殿神は、素戔嗚神速玉男神(はやたまのおのかみ)、富姫命(調べたものの不明)、五男三女神宇賀之御魂神大物主神大山津見神火産霊神(ほむすびのかみ:火の神)、経津主神(ふつぬしのかみ)、誉田別命水象女神(みつはのめのかみ:水の神)、枚男命(調べたものの不明)、木花咲耶姫命(このはなさくやびめ:富士山の神、火山の神、安産の神、子育ての神として浅間神社に祀られる)、少名彦奈之神(すくなびこなのかみ:医薬の神)。ちなみに、鎌倉時代、津市には神宮領である御厨・御園が20近くありました。高茶屋神社は、4ヵ月に一度神に塩を献上する神社として指定をうけていたといいます。また、十社の森と呼ばれ、街道の勅使休泊所として使われたそうです。

Img_0725c  境内にある常夜燈は、文久3(1863)年のもので、「十三社 常夜燈」と刻まれた春日型常夜燈です。高茶屋神社を出る辺りでスタートから約4㎞。時刻は、10時40分くらい。

 その1はここまで。その2は、髙茶液の脇を通り、国道165号線の高架を潜った先にある玉造院から。

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