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2019年7月30日 (火)

猪名部神社

Img_4416c  昨日(7/29)、猪名部神社にアオバズクを見に行きました。この神社はとても歴史があり、興味深い由緒、来歴があります。昨Img_4419c 日、アオバズクを探しているときに出遭った男性からも、猪名部神社の歴史や境内にあるものについていくつか話を伺いました。

Img_4484c_20190730152301  猪名部神社は、三重県東員町北大社(きたおおやしろ)にあります。三岐鉄道北勢線の東員駅から南西へ直線距離で1㎞弱。鬱蒼とした森にあります。伊勢湾台風に襲われる前は、もっと鬱蒼としていて、フクロウなどがたくさん棲んでいたといいます。夜など、女性は一人では通らないようにいわれたそうです(これらは、昨日の男性のお話し)。

Img_4488c_20190730152301  主祭神は、伊香我色男命(いかがしこおのみこと)。この神様は、『記紀』等に伝わる古代日本の豪族。物Img_4445c 部氏の祖であり、猪名部氏の祖神とされます。相殿神は、誉田別命須佐之男命天児屋根命伊邪那美命宇迦之御魂神天白羽神(伊勢麻績(いせのうみ)の祖。天照大神が天の岩屋にこもったとき青和幣(あおにきて;麻製の幣(ぬさ))をつくった)、天照大御神大山祇神火産霊神。境内社である瑞穂神社は、春澄善縄卿(はるずみよしただきょう)を祀っています。春澄善縄卿(延暦16(797)~貞観12(870)年)は、員弁郡出身で、文章(もんじょう)博士。「続日本後記」を完成させています。本姓は猪名部。そのため「学問の神」として祀られているのです。

Img_4442c  当神社の創建時代は明らかでありませんが、延喜式内社(延喜5(905)年、勅命により藤原時平が、当時の神社を延喜式神明帳に記載した神社)に列し、貞観元(859)年、第56代清和天皇の時代、神階従五位下に、さらに同8(867)年、従四位下を授けられています。また、同15(873)年9月9日、天皇に仕えていた掌待、春澄朝臣高子が旅費として官稲千五百束を賜り、それを氏神である猪名部神社に奉納したことが「三代実録(清和、陽成、光孝天皇三代の正史。「日本三代実録」が正式名称で、50巻。宇多天皇の勅令によって寛平4 (892)年編纂に着手し、延喜元(901)年に完成)」に記されています。春澄善縄卿の子孫に、鎌倉時代、員弁大領であった員弁家綱と、その子・員弁郡司進士三郎行綱がいます。行綱は、東員町大木の御殿に居城し、源頼朝の騎射・巻狩の上意にしたがって、青少年の士気を鼓舞するため、建久3(1192)年、追野原にて流鏑馬の神事を奉納し、以来「大社祭(おおやしろまつり)」として続いています。大社祭りでは、流鏑馬とともに上げ馬神事も奉納されます。この上げ馬の起源は、建仁3(1203)年12月、「上げ坂」を築き、流鏑馬神事とともに奉納されるようになっています。上げ馬神事は、多度大社のそれよりも160年ほど古いそうです。

Img_4490c_20190730152501  猪名部神社は、古墳の多い神社として著名です。境内に高塚大神の碑が建つ石垣の塚があります(左の写真で向かって左の石Img_3511c_20190730152301 垣に囲まれたところ)。これは、猪名部氏祖先の墓と伝わり、かつて神社境内に散在した17の墳墓のうち、最大のもの(6世紀)です。もとは直径21mの円墳でしたが、明治41(1908)年に現在の姿に変更されました(六角形になっています)。高塚大神と記された陵頭の数々の石は、すべて散在した墓の蓋石だそうです(右の写真)。また、本殿の位置には全長約29mの前方後円墳もあったといいます。

Img_4447c  左の写真は、本殿北にある境内社。これが瑞穂神社と思いますが、神社のサイトには、右の写真が載っていて、今ひとつよく36 分かりません。春澄善縄郷を始め、明治41(1908)年春、各地に鎮座した諸神を合祀しています。すなわち、天武天皇が到着された春日船着神社(坊の垣内)また、神明社(道正垣内)。山神(西條と西垣内)、そして日枝神社(山王垣内)。

Img_4421c_20190730152301  こちらは、境内の北側にある、薬師堂と閻魔堂。向かって右が閻魔堂、左が薬師堂。薬師如来は、北山田村にあった300坊を有する員弁寺の大徳法住商人の作で、同寺に安置されていたものを、織田信長の兵乱が起こる前、尊信篤かった北大社村の早川忠右衛門がお告げを受けて、同家に安置供養したことで難を逃れています。その後、移転を繰り返し、昭和10(1935)年頃、ここに移ったとされます。歯痛の子どもがよくお参りしたそうです。また、1,000年ほど昔から「えんまさん」の話しが北大社に伝わり、閻魔大王と役人が閻魔堂に祀られています。この閻魔堂のあるところにも円墳があったそうです。

Img_4492c  薬師堂・閻魔堂の西、本殿の北あたりに「神農宮」という石碑が建っていました。「神農(しんのう)」は、もともと、中国Img_4494c の農業神で、三皇(三皇五帝)の一人。医薬の神、鍛冶の神、商業の神、易の神として各種の職業人にあがめられるようになったといいます。日本でも漢方医や薬種商によって祀られ、祭日には、無病息災を祈ってさまざまな習俗((ゆず湯に入る、カボチャを食べるなど) がなされた冬至の日があてられ、「神農さん」の社での祭事のほか、漢方医の家でも神農祭と称して親戚や友人を集め、赤豆餅、赤豆飯や酒肴盛饌(しゅこうせいせん) の具を整え、賀宴を催すことを常例としたそうです。私自身は、他ではほとんど見たことがありませんでした。

Img_4437c  こちらは、上げ馬神事が行われる「上げ坂」。境内の南東側にあります。左の写真は、坂の上から見下ろしたもの。この先にImg_4439c は、員弁川が流れています。右の写真は、上げ坂の横にあった台場から見たもの。最後のところは、坂というよりは、「壁」になっています。上げ馬神事では、16、17歳の青年騎手が、頭に花笠など華麗な武者姿で馬に乗り、この約2.5mの崖を一気に駆け上がります。

Img_4483c  境内のこちらの建物は祖霊殿。昔は拝殿で本殿前にあったそうですが、明治の初め東に移り、その後、現在の位置に祖霊殿として立て替えられました。この地方の出土品が展示されています。瓦は、建築当時(安土桃山以前)のままで、唐草の模様は一枚一枚全て異なる貴重な建物なのだそうですが、これは調べて分かったもの。事前に知っていればもっとよく見てきたのに、残念。

Img_4431c  神楽殿。馬の祭事は全国で239ヶ所あり、その中でも「上げ馬」は発祥が大社で、のちに多度神社に伝授され、今ではこの二ヶ所しかないといいます。この神楽殿の内外には馬霊碑や大絵馬、神馬像などがあります。

Img_4458c  境内の北側には、石碑が2基、並んでいました。いずれも、宮司さんを顕彰する碑でした。向かって右は、Img_4460c_20190730152301 「石垣静雄翁碑」。昭和32(1957)年1月に「両大社氏子総代」によって建之。國學院を卒業し、明治35(1902)年、猪名部神社の宮司に就任。昭和20(1945)年6月、69歳で亡くなっています。漢文学者にして、神宮皇學館教授であった近藤杢が撰書。

Img_4464c  向かって左に立つのは、「石垣翁紀念碑」。石垣方貞も、猪名部神社の宮司。40年以上にわたり、宮司を務め、明治35(1902)年に65歳で亡くなっています。冷泉爲紀の篆額。明治36(1903)年12月、両大社氏子中が発起して建之。ちなみに、現在の宮司さんも石垣さんとおっしゃるようで、代々受け継いでおられるようです。

 本殿の北西には、北大社の集会所がありますが、ここは稲部小学校の前身である北社学校の跡地です。明治12(1837)年に木村誓太郎によって校舎が建てられ、明治22(1889)年まで10年間使用されました。現在は、集会所脇に石碑が建てられているのですが、よく見てきませんでした。よく見てこなかったといえば、瑞穂神社に合祀された神社の石碑(別府 初清神社など)もあったようですが、これも見逃しました(苦笑)。

 なお、延喜式式内社の猪名部神社を、いなべ市藤原町長尾にある同名の猪名部神社とする説もあります。こちらの主祭神は伊香我色男命で、大山祇神、火産霊神、春澄善縄、宇迦之御魂命が合祀されています。さらに、もう一つ、三岐鉄道三岐線の三里駅を降りてすぐのところにも猪名部神社があります。いなべ市大安町高柳です。ここは、天平年間の勧請で、祭神は伊香我色男命、誉田別命、素盞嗚命、天児屋根命、伊邪那美命、宇迦之御魂神、天白羽神、天照大御神、大山祇神、火産霊神です。これらも気になります(微笑)。

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