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2019年6月19日 (水)

20190609JRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりを訪ねて」へ(その4)……亀山演武場、明治天皇行在所、いくつかの石碑と姫垣外苑からでころぼ坂を経て亀山駅にゴール(完)

190609jrwalkingkameyama2 6月9日のJRさわやかウォーキング「~TOICAエリア拡大記念~ ~紀勢線全通60周年記念~ 亀山藩城下町と花しょうぶまつりImg_0067c_1 を訪ねて」、その4になりました。今回こそゴールの予定(笑)。亀山城跡にいろいろなものがありましたので、その続きから。

Img_0014c  多門櫓から西にある亀山神社に向かう途中、左手(南側)には、亀山演武場が復元されており、亀山藩御流儀心形刀流武芸形Img_0016c (おんりゅうしんぎょうとうりゅうぶげいがた)(県文化財)が伝承されています。演武場は、約50坪の道場。心形刀流は、亀山藩武芸指南役山崎雪柳軒(やまざきせつりゅうけん;文政11(1828)~明治15(1882)年)が免許皆伝を得て、元治元(1864)年、亀山に演武場を開設し、柳生新陰流に代わって御流儀となりました。ちなみに、心形刀流は、心の修養を第一義とし、技の錬磨を第二義としているといいます。すなわち、技は形であり、心によって使うものであるとします。心が正しければ技も正しく、心の修養が足らないと技は乱れると考えられています。この技が刀の上に具現されるため、流名に示すように心形刀流となるそうです。こちらに心形刀流のパンフレットがあります(pdf)。ちなみに、左の写真の門は、「大久保神官家の棟門」です。余談ですが、高校時代、体育の授業で剣道がありました。剣道部員の同級生が素人相手にボコボコにしてくれましたので、それ以来、懲りて、自分ではやろうなどと夢にも思ったことはありません(笑)。

Img_9898c_1  亀山演武場と、山崎雪柳軒に関連して、ますみ児童公園から多門櫓に行く途中、北側に「山嵜雪柳翁遺剣之碑」が建っています。明治4(1871)年の廃藩置県後、亀山演武場は雪柳軒に下賜され、武術の指導を続けましたが、明治9(1876)年には廃刀令が出されるなど、その存続の苦労は並大抵なものではなかったようです。雪柳軒は私費で稽古着や竹刀、防具を購入し門人に無償で与えた他、就職斡旋まで行い、さらに演武場の維持運営のために門人有志と「赤心社」という組織を作っています。明治15(1882)年、演武場は赤心社により旧本丸の館跡地(現在の本丸町)に移転しますが、雪柳軒は明治26(1893)年9月5日に故あってそこで割腹自殺してしまいます。明治32(1899)年10月、門人たちによってこの「山嵜雪柳翁遺剣之碑」が建立されます。表碑文は西郷従道の書で、碑の下には自害した際の短刀が埋められたといいます。

Img_0024c_1  演武場の門の脇には、燈籠と石碑。燈籠には、「演武場中」とあります。左手前は、「鈴鹿野風呂(すずかのぶろ)句碑」。「くぐり門 押せば開くなり 寒げいこ」とあります。京都の元大日本武徳会武道専門学校長・鈴鹿登の作品から、演武場にふさわしい句を選びそれを石に刻んだといわれています。「野風呂」は鈴鹿の雅号。昭和43(1968)年春に亀山演武場開場満103歳を記念して建てられた句碑です。

Img_0065c  多門櫓の西下には、「明治天皇亀山行在所」があります。明治天皇は、明治13(1880)年、三重県下巡幸の時、7月10日東Img_0051c 町藤屋(伊藤市次郎宅)を行在所とされ、10、11日の両日、名古屋・大阪両鎮台対抗演習を統覧されました。これは、この折、玉座とされた奥8畳間など行在所の一部が移築保存されたものです。建物はまず井尻町に移された後、昭和10(1935)年、亀山小学校(現・亀山西小学校)地内に移築され、同14(1939)年三重県史席に指定されました。同26(1951)年、市文化財となり、32(1957)年、ここ、亀山城多門櫓石垣北側に再度移築されたのです。

Img_0061c  明治天皇亀山行在所と、多門櫓の間には、「与助井戸(よすけいど)」があります。これは、亀山城を築く前にあった与助とImg_0012c_2 いう鍛冶屋の家の井戸であったと伝えられ、そのため、与助井戸と呼ばれていました。現在は、埋められています。木の枠は、井戸のあった場所を示しています。もう一つ、行在所の北に石碑があったのですが、慌てて写真を撮ったせいもあって、読めず仕舞い。ネット検索でも、今のところ何も見つけられていません。記憶、記録のため、載せておく次第。

Img_0091c  多門櫓の北、「伊勢亀山城」の説明板の北にあったのは、「黒田孝富遺剣之碑」。黒田孝冨(くろだたかとみ)は、天保5(1834)年、亀山藩士・黒田嘉治の子として生まれました。家老・近藤織部(こんどうおりべ)(鐸山)の抜擢を受けて広間役となり、江戸に出て、儒学を藤森弘庵に学び、諸藩の勤王派と交わった後、帰藩して尊王攘夷を説きます。その後、文久3(1863)年に京都に出て、公武の間を取り持ち、とくに三条実美の信任を得て、三条邸の警衛に任じられています。八月十八日の政変後は、江戸に出て水戸藩の武田耕雲斎らと意見交換し、これを幕府に咎められて国許に幽閉されました。明治後、勤王の大義を唱導し、郡代奉行として藩政改革に力を尽くしたものの、反対派に刺殺されました(明治元(1868)年)。

Img_0072c  このあと、亀山中学校と亀山市役所の間にある石坂を少し下ってみました。多門櫓の東に石碑が2つ。まず、左の写真のものは、「鐸山近藤君碑」。鐸山は、上記の黒田孝富のところで出て来た、近藤織部。近藤は、文化10(1813)年、亀山生まれ。鐸山は雅号。詩を梁川星巖(やながわせいがん)に、国学を鬼島広蔭(きじまひろかげ)に学び、佐々木弘綱井上文雄、藤森弘庵らと交りました。嘉永3(1850)年、家老職に就きます。文久3(1863)年、将軍・家茂の上洛にしたがい、京で三条実美と会い、黒田孝富に意を含めて諸国の志士を結んで他日を期しました。朝廷の親兵設置には、藩士9名を選抜して送りますが、これを幕府に咎められ、黒田孝富とともに蟄居させられます。明治元(1868~年、赦されて藩政に復帰するものの、保守派によって再び幽閉。明治2(1869)年、亀山藩大参事に任じられました。明治23(1890)、東京で没。

Img_0076c_1  「鐸山近藤君碑」のすぐ南には、「飯沼慾斎生誕之地碑」があります。飯沼慾斎(イイヌマヨクサイ;天明2(1782)~慶応元(1865)年)は、江戸末期の医者・植物学者。亀山城下で出まれ、のち、美濃国大垣に移って、飯沼家の養子となりました。その後、京都で医学を修め、さらに江戸へ出て蘭学を学び蘭方医となっています。宇田川榛斎(しんさい;蘭学者、医学者)・小野蘭山(本草学者)らに師事。50歳で隠居した後、植物学などの研究に勤しみ、日本で最初のリンネ分類による「草木図説」を執筆しています。亀山出身ではあるものの、その活躍は三重県外でしたので、県内には関連資料はあまりないといいます。

 さらに坂を下り、「池の側(もとの外堀)」までいくと、「石井兄弟敵討ちの碑」があったのですが、そこまで思いが至らず、「飯沼慾斎生誕之地碑」を見て満足してしまい、定められたコースに戻ってしまいました。残念。この「石井兄弟仇討ちの碑」は、延宝元(1673)年、小諸藩(現・長野県)藩士・石井正春が養子の赤堀源五衛門に殺されたことに端を発し、正春の遺児4人のうち二男と四男が、赤堀が亀山藩に仕えていることを知り、29年の歳月をかけて元禄14(1701)年に亀山城下で討ち果たしたという故事に因みます。この仇討ちは、当時、「元禄曽我兄弟」と称され、歌舞伎や講談などに取り上げられたそうです。碑は、昭和7(1932)年、亀山保勝会によって建てられています。

Img_0102c  さて、亀山城跡を見終えて、13時20分過ぎ。スタートからは、7.2㎞。コースマップに示された亀山駅の時刻表を見ると、13時59分に臨時快速がありますので、これに間に合うようゴールしたいと思い、駅に向かいます。亀山市役所の北側を歩いていると、「姫垣外苑」という石碑が見えました。このときは意味が分からなかったのですが、雨も降っていましたので写真だけ撮ってきました。その3に書きましたように、「亀山城には、「姫垣(城壁などの上にめぐらした低い垣)」を意味する「粉堞城(ふんちょうじょう)」の別名があった」ということで、これによるものと納得。亀山西小学校の東に当たり、かつて江ヶ室門から太鼓門までの城内路を踏襲した街路を平成14(2002)に整備したといいます。何とも優雅な名前。天気がよければ見に行ったのに。

Img_0103c  姫垣外苑から150mほど東へ。江ヶ室交番前の交差点に来ます。旧東海道は、写真奥から来て、ここで左折(写真では右Img_0109c_1 へ)。さわやかウォーキングのコースも、ここからほんのわずか(150mほど)、また旧東海道を歩きます。亀山市シルバー人材センターのところでは、枡形が残っていますが、このすぐ先で、「でころぼ坂」を降ります。

Img_0114c  こちらがその「でころぼ坂」。コースマップを最初に見たときから、「いったいどういう由来の名前?」と思っていましたImg_0115c が、現地には説明は何もありません。帰ってから検索したところ、亀山市歴史博物館のサイトの昔話のページにありましたが、正しい由来は分からないようです。昔からこの呼び名だったそうで、「でこぼこ坂」や「でくのぼう坂」がなまったものだといわれます。「でくのぼう」は「木偶の坊」で、木でつくられたあやつり人形。「どちらにしてもなぜこの名前なのかはわかりません」となっていました。坂は、遍照寺の脇を通って、もとの国道1号線まで200m足らず。階段と坂道が交互になっています。雨に濡れて風情があるのですが、この年になりますと、滑らないよう気をつけねばなりません(苦笑)。

Img_0123c  もとの国道1号線(現在は県道565号線)を越え、スタートから8㎞地点過ぎに道標。「右停車場道 左阿野田椋本」とあります。停車場は、亀山駅。阿野田は、亀山駅の東南あたりの町名。椋本は、津市芸濃町にある地名(亀山駅からは南西に直線で4~5㎞ほど行ったところ)。調べてみると、田中音吉が、大正3(1914)年に寄附したものでした。田中(弘化5(1848)年~大正5(1916)年)は、亀山の出身で、米穀・製茶業を営んでいました。明治19(1886)年、前橋や八王子で蚕糸業を視察し、20(1887)年から郷里の三重県亀山で製糸業に着手しました。のちには、機械伝習所の設置や従業員の教育にも力を注ぎ、30(1897)年、亀山共同社(のち亀山製糸会社)を設立しています。彼は、あちこちに道標を寄附しています。田中音吉の道標は、石薬師宿でも見ています(2019年4月20日:20190420JRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」へ(予告編))。こちらによれば、大正3(1914)年2月から8月にかけて、総数483基の「道示標」を「代金五百七拾七円六拾銭」かけて設置したといいます。亀山市内だけでも61基残っています。今でいえば社会貢献ということなのでしょうが、昔の実業家というのは、すごいことをするものです。桑名の諸戸家も、「諸戸水道」を設置し、町民が利用できるようにしています。

Img_0126c_1  最後まで雨の中、13時35分にJR亀山駅にゴールできました。スタートから8.2㎞。結局、布気皇館太神社を出た11時20分頃Img_0130c_2 からずっと雨でした。天気に関しては、ちょっと見込み違いをしました。雨の中を歩いたのは、3月10日の近鉄ハイキング以来、2回目(20190310近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅1日目~東海道、旅人気分で七里の渡しから富田へ」……雨天決行にて「完」)。このときも、降り出すのはもっと遅いだろうと思っていました。折りたたみ傘は持っていたのですが、リュックのカバーなど雨の支度もしておかねばなりません。

Img_0141c_1  今日で、JRさわやかウォーキングのスタンプは、7個目。11月末までに10個達成も視野に入ってきました。が、7,8月は暑いので、JRさわやかウォーキングはありません。9月以降、計画的に参加しようと思います。また、この日は、バッチと、「TOICAエリア拡大記念」ということでICカードで乗車してきた参加者限定でフリクションボールペンがいただけました(先着1,000名)。

Img_0150c  予定通り、13時59分の四日市行き臨時快速電車に乗車して帰途へ。四日市着は14時34分。四日市市発の名古屋行き普通電車Img_0159c が、14時42分にあります。これに乗って桑名には14時57分に到着。いずれも空いていて、座れました。¥670。雨が降ったのはいただけませんが、この料金で(往復で、¥1,340)半日以上楽しめるのは、ありがたいこと。

Img_0174c  ALKOOのデータは、左の写真の通り、18,935歩。ウォーキングで8.2㎞、自宅から桑名駅往復が1.8㎞で合計10.0㎞。現地で歩き回ったのを考えても、いつものように、ALKOOの距離は、やや過大評価と思えます。

Img_0181c  亀山駅で電車を待っている間にキオスクを覗いたら、深川屋の「関の戸 お茶の香」6個入り(¥600)を売Img_0188c っているのを見つけ、これを今日の土産に。関の戸は、関宿(亀山より1つ西の宿場町)の名物。この関の戸は、昔、鈴鹿で働いていた頃からの大好物。赤小豆のこし餡をぎゅうひ餅で包み、阿波特産の「和三盆」をまぶした一口大の餅菓子。「お茶の香 関の戸」はこれに亀山茶の粉末がまぶしてあります。オリジナルの関の戸よりも、これの方がよいかも。お茶の苦みと餅皮の食感、こしあんの甘味の組合せがよい感じです。

 JRさわやかウォーキングも、近鉄ハイキングも、7月、8月はお休み。今週土曜日(6/22)には、近鉄で「潮風薫るハマヒルガオと夏のおとずれを感じて」があります。天気が持てば参加したいと思っています。去年、このコースは5月に開催されたのですが、そのときはハマヒルガオはほとんど咲いていなかったので、リベンジしたいのです(名古屋線北楠駅~塩浜駅)。近鉄は、6/24にも、「伊雑宮と日本三大御田植祭」が予定されているのですが、場所が志摩線・志摩磯部駅。鳥羽と賢島の間。特急を利用しても、1時間40分ほど。運賃と特急券で合計¥2,940。天気もですが、時間、費用も嵩みますので思案中(苦笑)。その後、近鉄は6月30日にも津駅であるのですが、この日はあいにく、研究会。

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コメント

こころんさん、こんばんは。

いつもお付き合いくださり、ありがとうございます。
何か記念品とか、参加賞がもらえると、子どもみたいですが、嬉しくなります(微笑)。

亀山公園の花菖蒲とアジサイはきれいです。
花菖蒲もよく手入れされていました。

九華公園は、管理業者が代わり、造園屋さんも岐阜の業者さんになってしまい、昨年度までほど小まめに花菖蒲の手入れがされなくなりました。
桑名市として花菖蒲まつりなどを行っていますから、お金を惜しまずにきちんと手入れしてもらいたいと思います。
今のままではおっしゃるように、先細りという気がしてなりません。

TOICAなどのICカードは、JRでもかなり広範囲で使えるようになりましたし、1枚あれば、たいていの電車、バスに乗れますから便利ですよ。
桑名駅なども改良工事が進んでいますから、いらっしゃると驚かれると思います。

ちなみに、こころんさんがビックリなさった、近鉄の駅のパン自動販売機は、この頃どこも「販売休止」になっています。

お陰様で今年の水曜は、5月以降晴れ続きです。
単なる天気の変化のサイクルの問題とは思いますが、出かけるときは天気が善い方がありがたいですし、助かります(微笑)。
とくに「晴れ祈願」はしていませんが……。

投稿: mamekichi | 2019年6月20日 (木) 21時52分

ゴール、おめでとうございます。
ゴールして記念品が貰えると嬉しいですね!

亀山公園の花菖蒲と紫陽花、綺麗ですね。
いいタイミングでしたね。
他の記事を拝見しましたが、九華公園の花菖蒲は
一番花を摘み取るとか管理が行き届いてないようですね。
せっかくの観光資産が残念ですね。
だんだんと人が遠のきそうな感じがします。

TOICAとかいろいろと浸透してきてるんですね。
普段、電車を利用してないので実感はないのですが
今度乗る時にいろいろ戸惑いそうです(笑)

ハイキング等で近鉄やJRの沿線の神社仏閣に参拝されて
御利益で水曜日の連勝かもしれませんよ(^^♪

投稿: こころん | 2019年6月20日 (木) 14時49分

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