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2019年6月 9日 (日)

20190602近鉄ハイキング「斎王まつり 日本遺産斎宮散策と王朝絵巻『斎王群行』」へ(その2)……丑寅神社旧蹟、斎宮のハナショウブ群落、楠森神社跡から斎王群行の出発式を見て、竹神社を探索

190602kintetsuhikingsaikuu2_1 6月2日の近鉄ハイキング「斎王まつり 日本遺産斎宮散策と王朝絵巻『斎王群行』」のその2です。その1では、斎宮歴史博物館Img_8317c_1 から塚山古墳群を見て、花菖蒲群落へ向かう途中、昼になりましたので、北野公園で弁当を食べたところまで。実測ルートマップは、その2です。12時15分過ぎに再スタート。田園地帯をひたすら歩きます。北野公園からハナショウブ群落までは、1.2㎞ほど。右の写真のようなところをまさにひたすら歩きました。

Img_8308c_1  途中、田んぼの真ん中で、あぜ道の先にちょっとした森があるのを見つけました。気になります(微笑)。細いあぜ道で足下がImg_8312c やや不安定でしたが、行ってみてきました。「丑寅神社旧蹟」という石碑が建っています。詳細は分からなかったのですが、旧斎宮村内にあった23社は、明治44(1911)年に合祀され、現在の竹神社に移されたといいますから、それ以前にここに丑寅神社があったのかと思います。竹神社には、後ほど参拝しています。

Img_8330c  スタートから3.6㎞地点で笹笛川に突き当たり、川沿いに400mほど行った「どんど橋」の北に花菖蒲群落があります。この日Img_8339c_1 は、けっこう蒸し暑かったので、かなり汗を掻き、ここに来るまでにけっこう歩いてきたような感覚で、「ようやくたどり着けた」と思ったくらい。幟旗も立っていて、「これは!」と期待したのですが、右の写真のような咲き具合でした。ちょっと拍子抜け、腰砕けになりそうでした(苦笑)。というのも、日頃見慣れている九華公園では、この日までにハナショウブはかなり咲いていたからです。

Img_8349c_1  現地の案内板の写真。咲きそろうとこんな感じになるということです。自然のものですから、タイミングが難しいのは承知のImg_8357c_1 上ですが、できればこういう満開の様子を見たかったですねぇ。ここは、ハナショウブの原種である野花菖蒲の群落。この「斎宮のハナショウブ群落」は、国指定天然記念物(昭和11(1936)年12月に指定)。毎年、6月上旬から中旬にかけて濃紫色の美しい花が咲くということです。野花菖蒲は、明和町の町花にもなっているそうで。平野にあるハナショウブ群落は、今では珍しいそうです。ここのハナショウブは、ワレモコウノカンゾウカモノハシコウガイゼキショウノテンツキタチスゲ等と混在しているそうです。

Img_8370c  群落は結構広くて、北の方をよく見るともう少し咲いているところもありました。ちょっと残念ではありましImg_8346c_2 たが、やむを得ません。ちなみに、その後、調べてみると、6月5日頃には五分咲きという情報がネットに載っていました。

Img_8406c  花菖蒲群落からは笹笛川沿いに南下。1㎞ほど下って右折。再び斎宮跡を目指します。中部電力の斎宮変電所を過ぎ、5.4㎞ほどのところに山の神が2基。詳細は分かりません。きれいに並んでいるところを見ると、ここに遷してきたと思われます。

Img_8410c  さらにその先に地蔵堂。南に向いて建っています。コースは地蔵堂の背後に見えている道。回り込んでみてきました。由緒、Img_8413c 由来は不明。お地蔵様はお二方。その後ろに「八衢比古命(やちまたひこのみこと) 八衢比売命(やちまたひめのみこと)」と書かれた木の板が2枚見えます。この2柱の神様は、ともに集落や道の要所にすわり、邪神・悪霊の侵入をふせぐ、道の神様。ここが重要な道か、あるいは村の境であったということでしょうか。

Img_8422c_1  5.7㎞ほど来たところ、道の南側にこんもりした森があります。ここが、楠森神社跡。斎宮寮(さいぐうりょう;斎宮に関するImg_8417c_1 事務をつかさどる役所。大宝元(701)年、斎宮司(いつきのみやつかさ)を改めて斎宮寮としました)のあった頃創立され、荒神宮(天照大神)と高の宮(豊受大神)を祀ったといいます。斎宮制度の廃絶後、町屋郷が建置されると、産土神(祭神は八柱神)の神 社となっています。現在は、竹神社に合祀されていると、案内板に説明があります。ここまで来たのが、ちょうど13時頃。斎王群行の出発式が始まる頃ですので、セレモニーが行われる「さいくう平安の杜」へ向かいます。

Img_8657c_2  こちらが「さいくう平安の杜」。三棟の平安時代の建物「斎宮寮庁」が復元されています。正殿・脇殿・東脇殿に広場が付設。これらの建物は斎宮の役所「斎宮寮」の長官のもと、儀式や饗宴に使用されたと考えられています。まさに、いにしえの斎宮の姿の再現という感じ。ここで、斎王まつりの斎王群行の出発式が行われています(13時~13時50分)。

Img_8527c_1  到着したときにはすでに正面にある「正殿」で出発式が始まっていました。この正殿は、斎宮寮の長官が儀式を行ったり、都Img_8525c や神宮からの使いを出迎えるために用いたと考えられています。女孺(にょうじゅ;後宮に仕える女官。采女・氏女から採用され、宮内の掃除や雑事に従事)、命婦(みょうぶ;一定の職掌はないが、朝廷に参入し、朝廷の儀式に参加した)、采女(うねめ;後宮女官の一つ。天皇のそば近く仕え、食事のことにたずさわった)などが順次現れ、野花菖蒲の花を供えた後、子ども斎王、斎王が登場。これら2枚の写真は、斎王が登場されたところ。

Img_8598c_1  しばらく出発式のセレモニーを見ていましたが、実際に出発するまでにはまだ30分ほどありましたので、その間に他を見てくImg_8582c ることにしました。まずは、さいくう平安の杜から、近鉄山田線の線路を挟んだ竹神社(たけじんじゃ)。ここ竹神社には、斎王が住んでいた内院があったのではないかといわれています。また「斎宮の世だめし」といわれ、馬が背追った稲束の色によって豊兇を占う「絵馬」が神宝として本殿に保管されているそうです。

 

Img_8566c_2  第11代垂仁天皇の御代、竹連(たけのむらじ、竹氏という豪族)の祖・宇加之日子の子の吉日古が、天照大神を奉じて伊勢御巡行中の倭姫命のお供をしてこの地に留まり、多気郡一円を領して斎宮に住んだといいます。この竹氏の子孫が、祖神宇加之日子・吉日古を祀ったのが竹神社です。もとは、旧伊勢街道(参宮街道)の竹川から北へ約300m進んだ松林の中(斎宮歴史博物館南側駐車場前の奥の林)にあったのですが、明治44(1911)年、旧斎宮村内の23社を合祀し、現在の地に遷っています。当社は旧斎宮全村はおろか多気郡全体の総祖神とされ、延喜式内社でもあります。御祭神は、長白羽神(ながしらはのかみ;伊勢麻績(いせのうみ)の祖。天照大神が天の岩屋にこもったとき青和幣(あおにきて;麻製の幣(ぬさ))をつくった。私にとって、初めての神様です)、天照大御神建速須佐之男命八柱神応神天皇地主神(ジヌシガミ;その土地や屋敷を守護する神)、火産霊神(ほむすびのかみ;迦具土神(かぐつちのかみ))、宇迦御霊神大己貴命天棚機姫命(あめのたなばたひめのかみ;天照大神を天の岩戸からさそいだすために神衣をおった)、八千々姫命(あめのやちちひめ;機織を司る神)、瀬織津姫神(せおりつひめのかみ;祓い浄めの女神)となっています。

Img_8568c_2  竹神社の拝殿前で気になったのが、こちらの石の壁のようなもの。拝殿の東側に、拝殿に向かって建っています。すぐに思いImg_8578c ついたのが、「蕃塀」。ほんとうに蕃塀かどうかは分かりません。蕃塀は、伊勢神宮の外宮でも見ました(2018年12月11日:20181211伊勢神宮・外宮参拝へ……神宮暦を入手してきました)。東南側から見ると、右の写真のようになっています。

Img_8574c  右の写真で左手前に見えているのは、「神宮遙拝所」でした。正直なところ、伊勢神宮にこれほど近いところでも遙拝所があるのかという風に思いました。しかし、斎宮という、神宮に関連が深いところであるが故、遙拝所があるということかも知れません。このあたり、私の知識ではこれ以上の考察は手に余ります。

Img_8611c_1  境内には、これらの石碑というか、石柱。向かって右の石碑には「社日(しゃにち)」と彫られています。不Img_8614c 勉強にして知らなかったのですが、雑節の一つで、春分と秋分に最も近い戊(つちのえ)の日をいい、この日、土地の神を祭るのだそうです。碑陰には何もありません。向かって左は五角柱で、そのうち4面に「農業祖神」「五穀護神」「土御祖神」「五穀祖神」とありました。

Img_8621c  さらに、戦没者英霊殿と、表忠碑があります。表忠碑は、大正8(1919)年3月に建てられています。斎宮地区遺族会が建てImg_8623c_1 たもので、英霊179柱を祀っています。題字は、元帥子爵・川村景明によります。川村景明(嘉永3(1850)~大正15(1926)年)は、明治-大正時代の軍人。もと薩摩藩士。薩英戦争、戊辰戦争に従軍。維新後、陸軍に入り、日清戦争では近衛歩兵第一旅団長、日露戦争では第十師団長をつとめた。明治38年、陸軍大将。大正4年、元帥。

Img_8631c  表忠碑の裏側、下部には、「西南役戦病死者」としてお二人の、「明治三十七八年戦役戦病死者」として8名の方のお名前を刻んだ碑があります。いずれも陸軍兵の方々。明治三十七八年戦役は、日露戦争。元々はこれがあったところに、大正8(1919)年3月に大きい表忠碑を立てたのでしょうか。

Img_8610c  手水舎のそばには「八王子」と刻まれた石灯籠があります。これはもとは、池村氏神の一つ饗庭の森八王子のImg_8588c 石灯籠で、嘉永七年遷宮記念(1854年)に氏子が作成したものが、昭和37(1962)年に池村より移転しました(こちら)。右は、常夜灯。「長明燈」と刻まれています。「明和六歳巳丑八月吉日」とあります。1769年のものということですから、250年も前。

Img_8636c  竹神社は、なかなか興味深いところで、もとは斎宮城があったところでもありImg_8640c ます。説明板によれば、室町時代(弘治元(1555)年)、斎宮の住人野呂三郎が、ここに城砦を築き、勝手に徳政を敷き、狼藉を働いたといいます。それに対し、伊勢国司北畠材親(きたばたけきちか;応仁2(1468)~永正14(1518)年、室町-戦国時代の武将)がこれを討伐したとあります。文献的には、「勢陽雑記」(明暦2年(1656)成立)に「弘治元年(1555)に野呂三郎が徳政を求めて一味と城砦を築いて立て籠もったが、国司北畠氏によって討伐された」とされているといいます。こちらに斎宮歴史博物館による解説があります。なお、遺構は残っていませんので、斎宮城があったという確かな証拠はなさそうです。

Img_8592c  この竹神社は旧伊勢街道(参宮街道)に面しています(神社の南を伊勢街道が通っているのです)。近鉄ハイキングの「お伊勢さん参りハイキング」で秋以降、歩くはずのところ。竹神社のあるここは、西側の祓川を渡河し東に向かう伊勢街道など三本の道路が集中し、また、伊勢街道から分岐して南の田丸城へ至る「田丸道」の分岐点となる、交通上重要な位置でした。「明和町史斎宮編(平成17年版)」では、ここが関所であった可能性を指摘しているといいます。中世にあった関所が、伝承の中で「斎宮城」に変化した可能性を指摘する向きもあります(こちら)。あるいは、野呂三郎らは既存の関所施設を転用して一時的に城砦として立て籠もったのかもしれないともいわれます。いずれにしても、興味は尽きません。

Img_8560c  実は、竹神社へは、裏参道から入っていきました。近鉄山田線の踏切を越えたところに、右の写真のように鳥居があり、ここImg_8562c が裏参道。鳥居をくぐってすぐに「ち(?)り塚」。昭和59(1984)年11月にブラザー工業が寄贈したと碑陰にありますが、不明。検索しましたが、お手上げです(苦笑)。

 ということで、竹神社をウロウロして、13時50分頃。斎王群行が始まる時刻ですから、斎宮跡へ戻ります。ここからは、その3にて。その3では、斎王の森史跡公園や、斎王群行も。

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