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2019年5月23日 (木)

20190519近鉄ハイキング「谷川士清旧宅と県立美術館・総合博物館春の専修寺を訪ねて」へ(その2)……津偕楽公園と、三重県立美術館「没後200年記念 増山雪斎展」

190519kintetsuhikingtsusinmachi2  5月19日の近鉄ハイキング「谷川士清旧宅と県立美術館・総合博物館春の専修寺を訪ねて」のその2です。その1では、谷川士清旧宅、谷川神社、士清の墓から國魂神社まで来ました。スタートから2.2㎞、國魂神社を拝観し終えて11時10分頃。思ったよりも時間がかかっていますが、谷川士清旧宅や、士清の墓で、谷川士清の会の方の説明をゆっくり聞いたことも影響しています。國魂神社から県道42号線を東に進み、左折して安濃川を新町大橋で渡って、三重県庁、津駅西方面に向かっています。

Img_6245c  県庁西の交差点です。スタートから3.7㎞地点。正面の大きな建物は、県議会の議事堂。向かって左にある茶色の建物が、三重県 Img_6261c_1 庁。どちらも、知ってはいますが、未だかつて中に入ったことはありません。ここを過ぎるとすぐ左手(西側)にあるのが、津偕楽公園。もとは「下部田山(しもべたやま)」あるいは「御殿山」と呼ばれ、藩主の鷹狩り場の休憩所の御殿が建てられていました。貞応年間(1652~1655)には藩士に労をねぎらうために、遊息の地として分け与えられたという記録があるそうです。津藩第11代藩主・藤堂高猷(とうどうたかゆき)公は、安政年間(1854~60)にこの地を家臣から買い上げて、別荘を設け、「御山荘」と呼ばれました。偕楽園の名は、園内の亭舎に「偕楽園」の扁額が掲げられていたことによるもので、「人々が偕に楽しむ」というところからきています。明治10(1877)年に「三重県公園」として整備しなおされ、津市民をはじめ、広く三重県民のいこいの公園となった。昭和38(1963)年には津市指定史跡名勝になっています。約5.5haの園内は、自然の丘陵や谷の趣が生かされ、春には桜や紫つつじ、秋には紅葉などが楽しめるところです。春は、花見の名所

 ちなみに、藤堂高猷公(文化10(1813)~明治28(1895)年)は、文政8(1825)年に津藩・11代藩主になっています。公武合体的佐幕論の考えを持っていました。鳥羽・伏見の戦では、津藩は初め傍観したものの、官軍について幕府軍を攻撃、さらに戊辰戦争・箱館戦争にも派兵しています。このため、桑名藩など幕府軍側からは「裏切り者」とされました。高猷公は、明治4(1871)年に隠居しています。

Img_6363c  偕楽公園には、公園として遊具なども設置されていますが、常夜灯や碑などの歴史的な記念物も多数あります。また、デゴイImg_6253c チの名で親しまれている国鉄D51形蒸気機関車が静態保存されています。その他、公園の北東端には三重県立博物館があったのですが、三重県総合文化センター隣接地に三重県総合博物館として移転開館し、また、かつては園内にあった三重県立図書館も同じく県総合文化センター内に移転しています。

Img_6349c  上述のように、公園内にはさまざまな歴史的記念物があります。かなり高低差のある公園内を回って、一通り見てきました(と書きつつ、実は、龍燈籠を見忘れました)。まずは、「部田(へた)の常夜燈」。この常夜灯はもともと、塔世橋の南詰にありましたが、のちに四天王寺の薬師堂前に移され、その後ここに来ています。元治元(1864)年に刊行された「五十世作楽(いそざくら)」に描かれた絵には、津の城下町の北の入り口にあたる門の側に描かれています。高さ3.5m、「天保元年庚申十二月建」とあります(天保元年は1830年)。この年、おかげ参りを機会に建てられ、旅人の安全や神宮への感謝、町内の安泰を祈るものでした。見忘れた龍燈籠は、龍の形をした燈籠で、頭上に火袋と獣口のついた笠石をのせ、身をよじっているといいます。藤堂高虎公が朝鮮から持ち帰ったとも、二代藩主・高次公が江戸でつくらせたものを移したともいわれるそうです。

Img_6268c  左の写真は、「中山武平君頌徳碑」。中山武平(ぶへい)は、明治2(1869)年、安濃郡村主(すぐり)村生まれ。養蚕業のImg_6276c 発展に寄与し、県高等養蚕伝習所を開設し、また、関西製糸株式会社を設立。地方行政刷新、教育施設の充実、公共事業にも尽力した人物。右の写真は、「拙堂斎藤先生碑」。斎藤拙堂は、津藩が生んだ全国的にも有名な漢学者で、多くの文人墨客と交流しました。寛政9(1797)年、津藩の江戸藩邸で生まれ、文政2(1819)年、儒員試補に抜擢。文政6(1823)年には講官となり、文政8(1825)年には藤堂高猷公の侍読(じとう;学問を教授する学者)を命ぜられました。弘化元(1844)年には藩校有造館の第3代督学(とくがく:学事を監督すること、人)となっています。 

Img_6359c_1  次に、「鍼聖(しんせい)杉山総検校(そうけんぎょう)頌徳碑」。本名は杉山和一(わいち)。津藩士の子どもとして、慶長8(1603)年生まれ。幼くして失明。江戸に出て鍼術を究め、5代将軍・徳川綱吉の病にも施術し、ついに最高位の関東総検校になりました。鍼の施術法の一つである管鍼 (かんしん) 法(鍼術で金属製の管に入れ、その端を指でたたいて患部に刺し込む鍼)の創始者です。総検校とは、室町時代以降、当道(特定の職能集団が自分たちの組織をいう語で、狭義には特に室町時代以降に幕府が公認した視覚障害者の自治組織)の最高責任者で、全国の視覚障害のある人を統轄しました。昭和44(1969)年建立。

Img_6345c  「田上一雄君追懐碑」。津の人で、日露戦争に予備少尉として従軍し、死没した方の追悼碑。第三師団第三十三歩兵連隊に従軍したとあります。第三十三歩兵連隊は、日露戦争当時は、名古屋・守山に連隊本部がありました。その後、大正14(1925)年には、第3師団から第16師団に所属変更され、守山から久居(現陸上自衛隊久居駐屯地)に転営しています。建立者は、岡山医学専門学校の校長と教授の名前がありますから、医学生だったのではないかと思います。

Img_6323c  「孝女登瀬碑」です。登瀬は、天明8(1788)年、員弁郡阿下喜村(現在のいなべ市阿下喜)の農家に生まれ、安芸郡山田井村で養女となり、さらに6歳の時、安濃郡連部(つらべ)村の養女となりました。しかし、養父母は病弱なため野良仕事ができず、貧窮で家屋敷も手放すような有様でした。登瀬はこの養父母を養うため、昼は方向、夜は養父母に孝養を尽くしたといいます。津藩第10代藩主・藤堂高兌(たかさわ)公はその孝養を聞き、米20俵を与えて賞し、田一反(約992平方メートル)あまりも授けたそうです。

Img_6313c  これは、「松本宗一碑」。松本宗一(天保13(1842)~明治22(1889)年)は、明治時代の新聞人で、明治11(1878)年、「伊勢新聞」を創刊し、社長となりました。その後、三重県会議員も務め、県民に民権思想をひろめるなど、県下の言論界をリードした人物です。伊勢新聞は、三重県内初の日刊紙。新聞となった第1号は、「松本家志」によれば、明治11(1878)に刊行されました。当初は13部の手書きだったといいます。

Img_6308c  左の写真は「殉職警察官吏消防組員招魂碑」です。昭和10(1935)年に警察教会三重支部と三重県消防協会によって建てらImg_6306c れたもの。それまでの殉職警察官25柱、同消防職員6柱の招魂碑です。右は、「三重県公園記念碑」。明治10(1877)年に建てられたもので、現在の偕楽公園が三重県公園として整備されたいきさつや、偕楽公園の四季の美しさを賞賛し、また、勉学の大切さを説いています。撰並びに書の福井氏はのちに安濃郡長になりました。

Img_6296c_1  「忠魂報國碑」です。日清戦争(明治27(1894)~28(1895)年)に従軍し、亡くなられた陸軍歩兵一等兵・加藤嘉吉氏を記念した碑です。この加藤嘉吉氏の碑の奥(南側)に「征西陣亡士卒招魂碑」もありましたが、見逃していました。明治10(1877)の西南戦争で死亡した兵士の招魂碑で、津町・安濃郡出身の兵士22名の名が記されているそうです。

Img_6284c  公園内の案内板には、旧塔世橋常夜灯、龍燈籠の他、10基の石碑などがあげられていました。案内板も見たもImg_6284c2 のの、じっくりと確認しなかったがため、龍燈籠と征西陣亡士卒招魂碑を見逃してしまいました(苦笑)。記事を書くときにいろいろと調べたところ、「鳥居古墳石室・石棺」が、移転・復元されているということも分かりました。これは、県庁駐車場の東南(鳥居町193番地)にあったものが、土が崩れて危険なため、昭和38年3月発掘調査を行い旧・三重県立博物館横に移転、復元したもののようです(こちら)。ただし、県立博物館は、移転したあと敷地内には入れないようになっていました。事前の予習をもう少しきちんとしておくことと、現地の案内板はよくよく確認しないといけません。分かってはいるものの、なかなか徹底できません。

Img_6365c  左は、旧・三重県立博物館。昭和28(1953)年6月に開館しましたが、建物が耐震基準を満たさないため、平成19(2007)Img_6372c_1 年10月10日から展示室を閉鎖。平成23(2011)年から26(2014)年にかけて三重県総合文化センターの隣接地に新しく博物館が建設され、三重県総合博物館として再開館されました。偕楽公園を回り終えたのは、12時ちょうどで、4.6㎞。スタートから2時間余り。まだ半分も歩いていませんので、先を急ぎます。

Img_6375c  津駅西の交差点を左折し、三重県立美術館へ。昭和57(1982)年に中部・東海地区初の本格的な美術館として開館していまImg_6389c す。日本の近代洋画のコレクションが充実しているそうです。うろ覚えなのですが、最初の職場で患者さんたちを引率して、何かの展覧会を見に来たような気がします。あらかじめ打ち合わせに来たとき、学芸員の方が親切に対応してくださったことはよく覚えています。その後、平成3(1991)年5~6月に行われた「高田本山専修寺展」に私の父親を連れてきたら、たいそう喜んでいた記憶があります(その後、高田本山専修寺にも一緒に参詣しています)。緑も多く、落ち着いた雰囲気の中にあります。

Img_6379c  余談はともかく、この日の近鉄ハイキングに参加した目的の一つが、ここで開催中の「没後200年記念 増山雪斎 展」(6月16日まで)を見ることでした。増山正賢(ましやままさたか;宝暦4(1754)~文政2(1819)年)は、伊勢長島藩第5代藩主にして、書画に長けた文人大名として、「雪斎(せっさい)」の号で知られています。山水人物から花卉草虫に至るまで、数多くの作品を遺しました。とりわけ、虫類を真写した博物図譜、花鳥画にみられる表現の精緻は、高く評価されてきました。桑名市博物館で展覧会(「増山雪斎~大名の美意識~(平成19(2007)年10月~11月)を見たのですが、この展覧会も何とか見てみたいと思っていました。絶好のチャンス。この日は、家庭の日ということで、通常¥900のところ、¥700で入場できました。

Sessai  雪斎について詳しく紹介するほどの知識はありませんが、細密で色鮮やか、作風も幅広いという印象を持っています。写実的で色鮮やかな花鳥画が特徴とされます。左は、展覧会のチラシ(三重県立美術館のサイトからお借りしました)。こちらに展覧会の詳細があります。「虫好き大名、今日も描く」というキャッチコピー、なかなかよくできていると思います。雪斎は、25年間藩主を務めた後、17歳の息子に家督を譲り、その後は東京・巣鴨で風流三昧の日々を送ったそうです。行政面での業績はあまり知られていませんが、文化人としては一流だったといわれます。ここでも30分以上かけてじっくり見てきました(微笑)。

Img_6395c  さて、増山雪斎展を見終えて、12時45分。まだ先も長いので(美術館で5.5㎞とほぼ半分)、前庭を借りて、弁当を食べることにしました。当初は、高田本山専修寺でと思っていたのですが、このペースでは、専修寺に着くのは14時過ぎになりそうでしたから。この日のコースでは、飲食をともなうようなイベントはなさそうでしたので、例によって駅ナカファミマの「バラエティおかず&おむすび(税込¥368)」。ハイキングの受付で「ご当地弁当」でも売ってくれると、その土地の名物などが食べられてありがたいと思うのですが……。弁当を食べている間にヤバい事態が生じました(笑)。予報と異なり、雨がポツポツと……。まぁ仕方ありません、行けるところまで行って、ダメならバスに乗って津駅に行こうと、次の目的地である三重県総合博物館を目指します。幸い、バスが通る道。途中、バス停で雨宿りしつつ行きます。13時に再出発。

 その2はここまで。次は、三重県総合博物館から高田本山専修寺へ向かいます。

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