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2019年5月13日 (月)

20190504近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」(その1)……近鉄鈴鹿市駅をスタート、高田派神戸別院などを見て、龍光寺の大雲龍に感激していたら、早々にコースミスをしてウロウロ

 5月4日に開催された近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅4日目~伊勢街道、旅人気分で伊勢平野の鈴鹿から海運で栄えた白子へ」の本編をスタートします。この日は、絶好の行楽日和でした。今回もMさんと二人旅。「同行二人」というよりは、「弥次喜多珍道中」に近いかも知れません。

Img_4302c_1  4月11日に参加した「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路Img_4295c_1 へ」の続きということで、前回のゴールであった近鉄鈴鹿線・鈴鹿市駅がスタート。受付は、9時半から11時。桑名駅を8時42分に出る松坂行き急行に乗車。伊勢若松駅に9時9分に着いて、鈴鹿線に乗り換え。9時20分発に乗車し、鈴鹿市駅には9時25分に到着。¥490。あの10連休中とあってか、すでに長蛇の列。もらったマップのナンバーは234番。スタートできたのは、9時40分。

Img_4298c_2  こちらがこの日のコースマップ。両面になっています。マップの下が北。スタートの鈴鹿市駅も下の端に描かれています。神戸Img_4300c_2 城跡に立ち寄ってから伊勢街道を下って白駒で。途中、常夜燈(村瀬病院のところ)、弥都加伎神社(みずがきじんじゃ)、北の端の地蔵堂、江島若宮八幡社、伊勢昆布、久住屋菓舗などが主な立ち寄り先で、近鉄名古屋線・白子駅がゴール。コースマップ上は、約9㎞。鈴鹿市駅あたりは市役所などもある、市の中心街。そこからひたすら南へ下っていくことになります。

190504kintetuhikingsuzukashi_1  実測ルートマップ。スタートしていきなりコースミスをしでかした(苦笑)のと、立ち寄り先でウロウロした分を除けば、9.3㎞。この実測ルートマップには、細かい立ち寄り先は書き切れませんでしたので、割愛してあります。

190504kintetuhikingsuzukashi1_1  細かく見た、実測ルートマップその1。札の辻と朱書したところまで前回歩いています。この日は、ゴトウ耳鼻咽喉科と書かれているところからが伊勢街道。ここから南へ進んでいき、神戸城跡に立ち寄るためいったん伊勢街道を離れ、神戸高校の周りを一周して、伊勢街道に戻ります。この途中で、曲がるべきところを間違えて、ウロウロしましたが、それはまたあとで。

Img_4306c_1  スタートから300mあまり、東側に浄土真宗高田派神戸別院があります。寛政5(1793)年4月に建立されました。「准御坊・掛所」と呼ばれたこともあったようですが、近隣では「神戸の御坊さん」として親しまれたといいます。寺内には、明治13(1880)年7月3日、明治天皇Img_4310c の行在所となった御殿が残っています。山門近くには、「明治天皇神戸行在所」という石柱が3本も立っています。

Img_4315c_1  神戸別院から道を挟んだ西側には、浄土真宗高田派の高檟山願行寺。光明本尊は、南北朝時代の作で画面中央部に光明を放つImg_4318c 「南無不可思議光如来」の名号が書かれたもので、県下でも2点しかない仏画だそうです(市指定文化財)。享保6(1771)年、神戸町内の161件を焼いたという「信濃屋の火事」で類焼し、天明7(1787)年に再建されたと伝わっています。

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 願行寺を見てさらに伊勢街道を南へ進みます。スタートから600mほどのところで、神戸城跡へ回るため、いったん街道を離れ、右折。左の写真では突き当たりにある魚次商店のところ。ところが、この先スタートから700mあまりを過ぎたところで左折すべきだったのですが、それを見逃してしまいました。気づかずに直進。実測ルートマップには、ミスして歩いた部分は記載していません。

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 東王山(とうおうざん)慎福寺。真言宗豊山派のお寺。院号は、瑠璃光院(るりこういん)。ご本尊は薬師如来。永禄Img_4328c 2(1559)年3月、法印紹盛上人の開基と伝わり、往時は七堂伽藍を備え、神福寺と称していたといわれます。神戸城主・織田信孝公の祈願寺とされ、寺領660石を受領し栄えたのですが、江戸時代の大地震により焼失。その後再建され、明治初年の廃仏毀釈の際、寺名を慎福寺と改称したといいます。3月の初午には100年以上続く「厄除け護摩祈禱」が行われます。

Img_4334c_1  コースミスに気づかないまま、さらに進み、天澤山龍光寺(りょうこうじ)の山門前に出ました。臨済宗東福寺派別格地といImg_4344c_1 う寺格を持っています。ここは、「神戸の寝釈迦」で有名で是非とも訪ねたかったところで、喜んだのです(知らぬが仏)。ちなみに「神戸の寝釈迦」は、毎年3月15日前後にご開帳があります。涅槃図は、京都東福寺(当山の本山)の画僧・兆殿司(ちょうでんす;吉山明兆きっさんみんちょう)が画いたといわれます。兆殿司は、家内の実家近くにある林性寺の涅槃図も描いています(2018年3月14日:林性寺の涅槃図を拝み、稲荷大師堂も拝観)。

Img_4342c  室町時代、応永29(1433)年11月29日の深夜、伊勢湾の方より奇異なる霊光が飛び來り、当山の旧跡地西条の沢山に至って消えるということが15日間続いたといいます。時の神戸城主は、神戸家二代実重で、伊勢国司・北畠満雅が称光天皇に奉上したところ、東海龍王の瑞光であるからこの地に禅寺を建立して国家安泰を祈るべしとのことであったといいます。天皇は満雅を開基とし、神戸実重を普請奉行として天澤山龍光寺を創建したとされます。

Img_4359c_1  本堂の天井画は、畳50畳大の大雲龍となっています。これは見事でした。しばらく見上げて、見とれていたくらい。雪兆の筆によります。雪兆は、堀越雪兆(ほりこしImg_4361c せっちょう;1800-1885)であろうと思われます。龍光寺には、他にもいろいろと興味深いものがありましたし、なかなか良い雰囲気のお寺でした。

Img_4366c  境内にはいろいろなものが他にたくさんありました。まずは、本堂の扁額。書いた人の名前をImg_4367c 見てひっくり返りました。あの三条実美とあるのです。三条実美はいうまでもなく、幕末・明治の公卿・政治家。どういう縁でここにその書があるのでしょう?龍光寺の沿革を見ると、天皇や江戸幕府とも密接な関係があったということですので、そういう関わりでしょうか?

Img_4370c  境内の北側のエリアには、まずは斎藤緑雨の警句の碑。「按ずるに筆は一本也、 箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」 とありました。「筆一本で稼いでも、 二本の箸 (生活) は操れない」という意味で、 文筆家として生きていく厳しさをユーモラスに表現しながら、 その気概も込められている一言。斎藤緑雨(さいとう りょくう:慶応3(1868)~明治37(1904)年)は、鈴鹿の生まれ(龍光寺の近くに生家があったといいます)。明治時代の小説家・評論家。明治法律学校(明治大学)中退。仮名垣魯文に師事。坪内逍遙・幸田露伴・森鴎外等と親交を結び、小説家、評論家として活躍しました。境内にあるNPO法人SUZUKA文化塾「啐啄庵」の2階が「緑雨亭」になっており、緑雨の著作が読めますし、緑雨の生家の遺構を活用し、4畳半と8畳間が復元されています。

Img_4376c_1  他に倉田公人子の句碑。「日の丘に 立ちて寥朗の 秋を見る」。平成2(1990)年12月建立。その側には、種田山頭火の句碑Img_4378c もあります。「分け入っても分け入っても青い山」。説明によれば、倉田公人子が生前、種田山頭火(明治15(1882)~昭和15(1940)年)と机を並べて俳句の勉強をした因縁によって、同じ時に山頭火の代表句の句碑を建てたとあります。倉田公人子については、ネットでは情報が出てこず、不明。

 境内には山口誓子の「寝釈迦像人天蓋の下なるかな」という句碑もあったのですが、まったく気づかず。このほか、大鵬関に関する石碑や、包丁碑などもありましたが、ここでは割愛します。

Img_4390c  龍光寺を出てさらに先に進んで、観音寺(かんおんじ)。浄土宗のお寺。開創は鎌倉時代、真言宗であったといいます。元亀元(1570)年、三蓮社休波観愚老和尚により浄土宗に改宗。神戸城主、本多候が当神戸に就封以来その菩提寺となっています。とここまできて、東を見たら、先ほど通過してきた交差点(栄橋西)が見えました。さすがにヘンだと気づいて地図を見回すのですが、龍光寺も、観音寺も記載がありません(立ち寄り先ではない寺の名前は書かれていないのです)。近くの商店の方に地図を見せて伺うも要領を得ず。少し戻って、庭の手入れをしていた女性に尋ねたら、行き過ぎていたことが判明。正しい道を教えていただき、実測ルートマップにあるコースに戻ることができたという次第(苦笑)。慎福寺の手前を左折すべきでした。

Img_4397c  その慎福寺の南を通っていると、お寺の中に「近藤達先生頌徳碑」がありました。近藤達(こんどうさだむ)は、明治時代に神戸近在で学校教育に尽力された方で、その功績と徳を称えるものでした(こちらに慎福寺による説明があります)。近藤は、幼いときに神戸藩の儒学者・服部松渓に入門し、孔孟の教えを受け、また、藩の算師・鈴木芳兵衛に算法を学びました。明治維新の際、頽廃した学校制度を憂え、明治3(1870)年、神戸西町に子どもを集めて学芸を教え始めます。明治13年(1880)年1月には西河野学校を設立、当初は自宅を校舎に充て、翌年には校舎を新築。明治25(1892)年、この学校がいい野村尋常小学校になったときには校長に任じられました。教育に当たっては忠君と孝悌を宗俊、子どもたちにも親切、実直で地方有力者を多数育てたといいます。この碑は、当時の田中文部大臣から題字の揮毫を得て、昭和6(1931)年2月に建立されています。

Img_4402c_1 慎福寺を過ぎ、龍光寺が経営するすずか幼稚園のところを左折します。結構細い道でしたので、「また間違えたか?」というImg_4405c 不安も頭をよぎったのですが、県立神戸高校らしき建物が見えてきましたので、大丈夫(微笑)。神戸城跡(現在は神戸公園となっています)が見えてきました。時刻は10時半近くで、スタートから50分ほど経っているのですが、コースミスをしてウロウロしましたし、龍光寺などにお参りし、見学していましたので、コース設定上はようやく1㎞ほど。ちなみに、コースミスをしてウロウロしていた方は多数ありました。地図をよくよく見て歩けば間違えなかったのでしょうが、細い曲がり道には注意書きをしてもらえるとありがたいところ。その1は、ここまで。その2は神戸城跡から。

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