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2019年5月 5日 (日)

20190420JRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」へ(その2)……佐々木家の菩提寺・浄福寺から石薬師寺、蒲冠者範頼之社、蒲桜を見て、石薬師一里塚跡へ

190420jrwalkingkawano11_2 4月20日のJRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」のその2です。その1は、佐佐木信綱記念館を訪ねたところまででした。記念館を出たのが、10時半くらい。さらに東海道を下っていきます。

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 記念館を出て、県道115号線の石薬師小学校南交差点を渡ってすぐに、浄福寺という真宗高田派のお寺がありまImg_2549c_1 す。ここは佐々木家の菩提寺となっています。山門の前の石の築山の上に信綱の父・弘綱の記念碑と、信綱の孫・幸綱の歌碑が建っています。開基は、室町時代の永正年間(1504~1520年)と伝わっています。

Img_2557c こちらが、佐々木弘綱の記念碑。佐々木弘綱については、その1にも触れましたが、明治15(1882)年、53歳の時上京し、東京大学講師となっています。古典の口語訳書、撰集、自作歌集、和歌に関する研究書など著作は100あまりに及びます。弘綱は、明治24(1891)年6月に64歳でなくなりました。この碑は、明治41(1908)年に建立され、以後、毎年、碑前祭が境内で行われていたといいます。碑表には、「わかの浦に 老いを屋しなふ 阿し堂徒盤(あしたずは) 雲の宇辺越(うえを)も よそに見類(みる)か難(な)」という弘綱の矜持詠があります。

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 こちらは、佐佐木幸綱の歌碑。佐佐木幸綱(昭和13(1938)年~)は、歌人、国文学者、早稲田大学名誉教授で、現代短歌会の重鎮。佐佐木信綱の孫。佐佐木治綱佐佐木由幾の長男。歌碑には、「しゃくなげを 愛し短歌を すずか嶺を愛し 石薬師を 愛したる人」とあります。信綱を詠んだ歌で、歌碑は平成27(2015)年12月に建立されました。

Img_2568c 浄福寺の前では、佐佐木信綱顕彰会の方たちが待機しておられ、「信綱かるた道」の説明を配っておられ、また、信綱や、東Img_2573c 海道石薬師宿、浄福寺のことなどを話してくださいました。浄福寺も、落ち着いた感じの良いお寺です。常福地を出て、さらに東海道を下ります。

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 浄福寺の先の交差点に、川もないのに「南町橋」の親柱が残っています。旧東海道に交差して、東西に「願入坊川」が流れ、Img_2574c 南町と中町との境をなしていたようです(こちら)。現在、川は暗渠化され、親柱のみが残っています。

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 南町橋の親柱が残っているところの西側には、小さい道標が1つ、あります。「上田加佐登」Img_2582c_1 と刻まれています。上田や、加佐登は、これからこのウォーキングで訪ねるところの地名。大正3(1914)年に田中音吉(弘化5(1848)~大正5(1916)年)が寄附した道標です。田中音吉は、実業家で、米穀・製茶業を営んでいたのですが、前橋や八王子の蚕糸業を視察し、明治20(1887)年、郷里の三重県鈴鹿郡亀山で製糸業を始めました。明治30(1897)年には、亀山共同社(のちの亀山製糸会社)を設立しています。

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 スタートから3.6㎞ほどで国道1号線を越えます。1号線の上にかかっている橋は、瑠璃光橋。Img_2592c 「なんだかカッコイイ名前だな」と思ったのですが、この名前には、理由がありました。このあたりの1号線は、鈴鹿で働いていた頃、何度も通ったところ。石薬師から四日市寄りに少し行くと、自由が丘というところがあります。レストラン(スオーミヤコなど)や、最近B級グルメとして有名になった「四日市とんてき」の店(名物とんてき来来憲)があり、昼ご飯などを食べに行ったりしていましたし、結婚して四日市に住んでからは、通勤経路でしたす。

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 さて、瑠璃光橋を渡るとすぐに高富山(たかとみざん)石薬師寺があります。この瑠璃光橋の名前は、石薬師寺の院号(瑠璃Img_2619c_2 光院)に由来していました。旧東海道に面しています。1号線を越えてすぐのところから入ったのですが、これは裏門でした。石薬師寺は、真言宗東寺派のお寺。ご本尊は、弘法大師自らが、一夜にして爪で刻んだとされている薬師如来像。秘仏になっていて毎年12月20日のおすす取りに合わせて、開扉されます。寺伝によれば、神亀3(726)年、泰澄(奈良時代の山岳修験者。加賀国白山を開創したと伝えられる)が、当地で巨石の出現を見、薬師如来の示現と悟り、草庵を設け供養したことが開創とされています。その後、弘仁3(812)年、空海(弘法大師)が、巨石に薬師如来を刻み開眼法要を行い、人々の信仰を集めたことにより、嵯峨天皇(在位809~823年)は勅願寺とし、荘厳な寺院を建立し、名を高富山西福寺瑠璃光院と称していたといいます。

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 ちなみに、安藤広重が描いた「東海道五十三次」の石薬師宿には、この石薬師寺がモチーフになっています。

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 嵯峨天皇が、勅願寺とされたことによって、堂坊も整い、塔頭寺院も十二ヵ寺院、寺領も三町に達し繁栄を極めたのですが、天正3(1575)年、織田信長の兵火で諸堂坊舎は悉く灰燼に帰したといいます。しかし、御本尊は難を免れ、住職の円賢(えんけん)法印はすぐに仮堂を造り、慶長6(1601)年、神戸(かんべ)城主の一柳監物(けんもつ)直盛が霊験を得、報謝のために諸堂諸坊を再建、現在に至っています。

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 裏門から寺内に入ってすぐ左手に「青面金剛(しょうめんこんごう)」が4基並んでいます。青面金剛は、元来は、密教で鬼病を流行させる鬼神。体は青色で、二本、四本または六本の腕があり、弓矢宝剣を握り、頭髪はさか立ち、体に蛇をまとい、足に鬼を踏んでいるそうです。日本では、後世、庚申信仰に取り入れられ、庚申待の本尊となっているといいます。この青面金剛は、鎌倉時代のものといいます。

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 青面金剛の先には、天満宮がありますが、鳥居が朱色です。ちょっと違和感を覚えつつお参りし、お堂を覗いてみると、牛のImg_2608c 他に狐の姿も見えました。菅原道真公だけでなく、お稲荷さんも併せて祀られていると思われます。

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 境内には歌碑もいくつかありました。まず、左の写真は、佐佐木信綱の歌碑。「蝉時雨 石薬師寺は 広重の 画に見るがごImg_2616c と みどり深しも」という歌が刻まれています。「信綱かるた道」の39番にも掲げられているもので、昭和7(1932)年8月に詠んだもの。右は、岩佐又兵衛による「無病にと 頼みすゑける 石薬師 かたき祈願を 忘れ給ふな」という歌。岩佐又兵衛は、江戸前期の画家。このほか、芭蕉句碑や、一休禅師、西行法師の歌碑もあったのですが、事前の調べが足らず、気づかず仕舞いでした。

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 石薬師寺についたのは、10時40分過ぎ。スタートして1時間15分、境内を回っていたら、11時前。小腹も空いてきましたし、歩き始めから1時間半近くになりますので、先ほど、佐佐木信綱記念館の前でゲットしてきた「卯の花もち」をいただくことにしました。包みを開けたら、こんな風。イメージとしては、桑名や四日市で売っている「なが餅」を丸くしたもの。食べてみても、まさにその通りでした。三重県内の東海道・伊勢街道は、「餅街道」と言われるくらい。あちこちでいろいろなタイプのお餅、あるいはそれに類した菓子が名物になっています。一息ついて、次へ。

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 実は、このウォーキングに向けてあまり予習をしてこなかったのですが、石薬師宿については、「ホントに歩く東海道(風人Img_2683c_1 社)」と「チャント歩ける東海道五十三次 袋井宿~京三条大橋(山と渓谷社)」の該当箇所だけは見てきました。それによると、石薬師寺のすぐ東に「蒲冠者範頼之社(かばのかんじゃのりよりのやしろ)」があると書かれていました。範頼は、源範頼(みなもとののりより)で、義朝の第6子、頼朝の弟。遠江国蒲御厨(がまのみくりや)で成長したので蒲冠者と称したといいます。頼朝の命令で、弟・義経とともに西国への遠征隊の総指揮官となりました。学問武芸に秀で、願望成就の神として信仰されています。ここは、御曹子社(おんぞうししゃ)ともいうようで、大木神社の境外末社です。なお、左の写真で鳥居に向かって右に写っているのは、スダジイの大木です。地上1.5m程で大きく2幹に分かれており、幹周を実測すると7.15mあったそうです(ここを参照)。鳥居の脇に「蒲桜」への案内があります。

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 蒲冠者範頼之社の境内、木陰にひっそりと「宮城遙拝所」と刻まれた石柱が立っていました。四日市の椿岸神社では、「皇居遙拝所」を見ましたが(2018年2月20日:20180217酒蔵みてある記「伊藤酒造の銘酒「鈿女」と智積養水をたずねて」(その2)……大師堂と、椿岸神社あれこれ)、同じものです。

Img_2698c_1  さて、案内にしたがって60mほど南へ行くと、「蒲桜(かばざくら)」がありました。三重県指定天然記念物。寿永年間(1182~Img_2712c_1 84年)の頃、蒲冠者源範頼が平家追討のため、西へ向かう途中、石薬師寺に詣でて武運を祈願し、戦運を占うため鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿して、「我が願い叶いなば、汝地に生きよ」と言って去ったのち、生長したのがこの蒲桜であるという言い伝えがあります。このため、「逆桜」ともいうようです。ヤマザクラの変種の一つで、赤茶の芽、花は一重の五弁、直径5cmで白~淡紅色。まだ花が残っていました。

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 蒲冠者範頼之社のところで4㎞過ぎ、蒲桜を見て、再び石薬師寺の山門前に戻って、東海道を下っていきます。300mほどいくImg_2730c_1 と、蒲川に差し掛かります。ここは石薬師の集落が終わるあたり。蒲川橋の向こうに榎の大木が見えてきますが、ここが石薬師一里塚跡。江戸・日本橋からは102里(約399㎞)。かつては東海道の両側に榎が植えられていたのですが、榎は伊勢湾台風で折れたといいます。その後、昭和52(1977)年に、南側に榎の若木を植え、「史跡石薬師の一里塚跡」の碑が建てられました。

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 東海道は、この石薬師一里塚跡から左へ(西へ)折れ、JR関西線の下をくぐって、庄野宿へ向かいます。このImg_2743c 日のウォーキングでは、東海道とはここで分かれ、直進し、国道1号線の下をくぐって、上田町の方へ進みます。この先、加佐登神社、鈴鹿フラワーパーク、荒神山観音寺を訪ねますが、その2はここまで。

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