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2019年5月10日 (金)

20190428近鉄ハイキング「『阿漕』砂浜ハイキングと津グルメ散策」へ(その2)……教圓寺、神明神社、山二造酢を経て結城神社へ

190428kintetsuhikingtsushinmachi2 4月28日の近鉄ハイキング「『阿漕』砂浜ハイキングと津グルメ散策』」の本編、その2です。その1では、三重刑務所、真教寺・閻魔堂、市杵島姫神社を訪ねました。市杵島姫神社でスタートから2.4㎞、神社を出たのは10時45分過ぎ。市杵島姫神社前の道路を渡ったところに教圓寺があります。

Img_3540c  一乗山教圓寺は、真宗高田派のお寺。落ち着いた良い感じのお寺ですが、由緒などは不明(案内板はなく、ネット検索でも情報Img_3553c は出て来ません)。境内に「生川翁碑」と読める顕彰碑らしきものがありましたが、これについても詳細は不明。碑そのものがかなり古びていて、良く読めませんでした。こういうとき、たいてい「もっとよく見てくれば良かった」と思うのですが、その反省はなかなか活かされません(苦笑)。我ながら困ったもの。

Img_3558c_2  教圓寺から100mあまり先に人だかりが。よく見たら、ここが神明神社でした。神社というので、もっと大きなものを想像しImg_3561c ていたのです。道ばたに鳥居があり、鳥居のすぐ奥にお社が建っていました。は江戸時代の絵図には「一万度祓納社」として描かれているそうです。説明板によると、悪病が流行して町中がとても苦しんだ時に、人々が相
談して阿漕町の中心部に神社を祭り祈祷したところ、病が治まったことから、町の守護として信仰を集めるようになったといいます。

Img_3563c_2  この神明神社、とても珍しい神社で、こういうタイプは初めて見ました。それは、御祭神が屋根に作られた天窓の上に祭られImg_3572c ていることです。左の写真は、了解をいただいて拝殿の内部を撮影したものです。天井の中央あたりに天窓があり、そこだけ明るくなっているのがお分かりいただけると思います。拝殿の手前にしゃがみ込んで、見上げて撮った写真が右のもの。

Img_3578c  ズームアップすると、この写真のようになります。天窓の向こうに小さなお社が見えます。御祭神は、大日孁貴命(オオヒルメノムチノミコト;天照大神の異称)です。天窓の向こうに祀られていますから、地元では「まんどさん」と呼ばれています。いや、珍しい神社にお参りできました。

Img_3579c  このあたりの伊勢街道の様子。ここ阿漕町津興から八幡町へかけての街道沿いは、明暦(1655~57年)の頃になると、藩が町づくりに力を入れたため、茶店や商店が増えたそうです。現在も、旧街道沿いには格子などが残る建物が並んでいます。

Img_3582c  続いて、山二造酢さんに立ち寄るのですが、ここもウッカリして通り過ぎるところでした。大変失礼ながら、ご覧のような外Img_3586c 観ですから m(_ _)m 明治20(1887)年創業という、歴史のある会社です。ここでは、ハイキング参加特典として、試飲サービスがありました。いただいたのは、Gin-Vine(ジンビネ)のゆず味。生姜と、酢を合わせたものにゆずの香りが付けられています。

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 即売も行われていました。家内からは冗談半分に「一升瓶に入った、普通のお酢を買ってきて」といわれましたが、さすがにImg_3877c それはちょっと願い下げ。重いですし、割れたらどうしようもありません。このハイキングの後、家内の実家に行くつもりというのはその1でも書きましたが、家内の母親が酢が好きですので、土産に900ml入りの、ごく普通の醸造酢を1本買ってきました。値段を書くと、支障があるかも知れませんが、何と¥270。こんな値段の土産を持って行ったとはいえません(笑)。

Img_3593c  山二造酢さんから100mも行かないところの東側に「水子 子育 地蔵菩薩」という幟が掲げられた山門が見えました。見たからには立ち寄らねばなりません(笑)。近くにいらした、ハイキング参加者の高齢女性お二人は、「水子、うちにはないから」とパスされました。私に言わせれば、もったいない、何か面白いものがあるかもしれないのにということで、見てきました。

Img_3595c  山門をくぐってすぐ左手に地蔵堂。見たところごく普通のお地蔵様。これが水子地蔵でしょう。傍らに立つ石碑には、「薬師庵住大徹(?)法圓上座」Img_3601c と刻まれています。ちょっと気になったのは、ここが広場のようになっていることでした。

Img_3597c  奥に石碑が建っていますので、確認してみると、北畠国主の祈願仏であった薬師如来の庵があったところと書かれていました。永禄12(1569)年、兵乱により家士等が如来様をゆかりのある一志郡松崎村の船乗りを業とする者に預け、厨子に入れたまま小船に乗せ、ここ八幡の地に安置すべく、新たに庵室を建てたということでした。ところが、平成18(2006)年に、この南にある松原寺とともに火災で焼失してしまったのだそうです。

 余談。神明神社で天窓の向こうのお社を撮影するとき、逆光になりましたので、カメラの絞りをマイナス側に補正したのですが、それを戻すのをすっかり失念し、最後まで歩きました(笑)。いや、年は取りたくないもの。このあと、撮った写真が「なんだか暗いな」と思っただけ。載せた写真は、レタッチソフトで修正を図っています。

Img_3610c  話を戻して、伊勢街道を南下。3㎞地点で左折して行くと、結城神社の境内や看板が見えてきます。看板のところをさらに右折Img_3613c し、一の鳥居に向かいます。この神社も一度訪ねてみたかったところです。枝垂れ梅が300本あるのです。できれば梅の季節に来たかったのですが、今年はその時期に近鉄ハイキングやJRさわやかウォーキングがなかったのです。

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 結城神社は、結城宗広(ゆうきむねひろ;?~延元3=暦応1(1338))を祀る建武中興十五社(けんむちゅうこうじゅうごしゃ)の一社です。「建武中興十五社」は、建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社です。建武の新政は、正慶2(1333)~建武3(1336)年の後醍醐天皇による公家一統政治ですが、後醍醐天皇の信任を得ていた新田義貞足利尊氏の武力には力及ばず短時日のうちについえました。

Img_3661c_2  結城宗広は、南北朝時代の武将。元弘の乱(後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕クーデター)には、初め鎌倉幕府軍に加わったのですが、後醍醐天皇の綸旨(りんじ)を受け天皇方に転じ、新田義貞とともに鎌倉を攻め、幕府を滅ぼしました。南北朝時代は、南朝方に属し、延元2=建武4(1337) 年、南朝方の形勢を挽回するため、義良親王、北畠親房らとともに陸奥経営に派遣されることになり、一行は伊勢・大湊から出航したものの、暴風雨のため安濃津(三重県津市の港の古称)に漂着。再挙を図っている間に宗広は、病死しました。神社の創立年月は不詳ですが、地元の人々が「結城明神」と称えて、結城公の御墓側に小祠を建てたのに始まるといいます。寛永9(1632)年、津藩主・藤堂高次公が千歳山よりこの地に八幡神社を遷祀された後も、古社八幡宮と称し、産土神と同様の崇敬を集めていました。文政7(1824)年、津藩主・藤堂高兌公により社殿が造営され、結城神社と呼ばれるようになりました。昭和20(1945)年7月の津大空襲によって灰燼に帰したものの、昭和30年代に復興しています。

Img_3668c_3  結城神社といえば、枝垂れ梅が有名です。境内神苑には、枝垂れ梅約300本のほか、10種類80本の梅の木が植えられ、例年、Img_3673c_1 早咲きが1月下旬から花をつけ、2月中旬ごろから満開となり、3月中旬まで楽しめるそうです。また、1月下旬に雲竜梅が見ごろ、300本のしだれ梅は3月上旬が見ごろになります。

Img_3677c  右上の写真と、こちらの写真にありますように、この梅園の中に結城宗広公の御墓があります。左の写真にある鳥居をくぐって行くと、木々に覆われ、昼でもやや暗いとことに墓があります。この場所にImg_3680c は、塚の上に六体地蔵が置かれ、結城塚と呼ばれていたそうですが、現在は、墓碑の石柱が石亀の上に載っています。ちなみに、ネットで調べると、結城宗広の墓は、福島県白河市の関川寺(かんせんじ;結城家の菩提寺)や、伊勢の光明寺にもあります。伊勢の光明寺あたりが終焉の地で、結城神社近くの阿漕浦海岸で遭難したということのようです。

 結城宗広は、南北朝時代の軍記物語である「太平記」にも取り上げられています。「太平記」は宗広の死について、「常に死人の首を見ないと気持ちが晴れないと言って、僧尼男女を問わず毎日2,3人の首を切ってわざわざ目の前に縣けせるほど、生来暴虐な人物で狼藉が多かったため、その報いを受けて塗炭の苦しみを味わい地獄に堕ちるという」凄惨な描写をしているといいます(こちら)。

Img_3651c  結城神社に着いて驚いたのは、狛犬の大きさでした。立札には「北村西望作 伊藤伝七奉納 日本一の狛犬 高さ一メートルImg_3652c 四十センチ 昭和十二年五月御祭神六百年記念」と書いてあります。奉納した伊藤伝七(11代目)は、四日市の実業家で三岐鉄道社長などを務めました。狛犬は、高さ1.46m、鋳銅製。作者の北村西望(せいぼう)は、長崎の平和祈念像の制作で知られます。この狛犬は北村の若い頃の作品。

Img_3665c  結城神社にはまた、南北朝時代に活躍した奥州白河(現在の福島県白河市)結城市の紙本墨書結城神社文章(県文化財)46通があります。この中には、隠岐(現在の島根県)を脱出した後醍醐天皇が、結城氏に出した北条高時追討の綸旨や、陸奥守として赴任した北畠顕家が結城宗広に宛てた書状なども含まれます。

Img_3632c_1  ところで、結城神社の鳥居をくぐったところで「津八幡宮」という案内板があり、気になったので先にこちらに行ってきました。場所は、冒頭の実測ルートマップもご覧ください。結城神社のところにも書きましたが、垂水村(現在の津市垂水)千歳山にあった八幡神社(今日との石清水八幡宮から、伊勢国へ初めて分霊された神社)を寛永9(1632)年、津藩主・藤堂高次公がこの地に遷祀されたのに始まります。主祭神は、応神天皇神功皇后。相殿神は、住吉大神(すみよしのおおかみ;航海の神)、藤堂高虎公です。寛永21(1644)年には、藤堂家の鎮守神社となっています。この頃からの氏神祭が、現在は、津まつりとして続いています。

 長くなりましたし、キリが良いのでその2はここまで。ゴールまではあと少し。結城神社で一息入れ、11時45分に再スタート。結城神社を出るところで3.7㎞。このあとは、阿漕浦海岸に出ます。

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