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2019年3月29日 (金)

20190324近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」(その1)……富田駅をスタートし、明治天皇御駐輦跡碑、十四川、善教寺、薬師寺、常照寺から新設用水道碑・力石、證圓寺、服部泰次郎の道標へ

 3月24日の近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅2日目~ 東海道、旅人気分で間の宿・富田から四日市宿へ」、予告編だけ書いて、気を抜いてたら、いつの間にか日にちが経っていました(苦笑)。若くて、現役の頃では考えられなかったことです。このブログのモットーの一つである「淡々と飽きもせず」で行かないといけません。

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 この日はよく晴れたものの、風は数m/sと強く、寒い感じでした。3月10日に旅1日目があった「昔も今もお伊勢参り~旅1日目~東海道、旅人気分で七里の渡しから富田へ」は雨天決行でしたが(2019年3月10日 :20190310近鉄ハイキング「昔も今もお伊勢参り~旅1日目~東海道、旅人気分で七里の渡しから富田へ」……雨天決行にて「完」)、この日は打って変わって好天。ハイキングは、やはり天気のよいときに限ります(笑)。

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 今日のスタートは、近鉄名古屋線・富田駅(東口)。受付は、9時半から11時ということで、桑名駅を9時1分発の五十鈴川行き急行に乗Img_8050c 車。富田には、9時8分着、¥260。着いた時にはすでに数10名の方が待っていました。このとき、まだ受付が設定されて織らず、どこが列の最後尾か分からず、若干戸惑いました。しかし、混乱はなく、9時15分頃受付が設けられたときには、皆さん係の方の指示によって並び直し。

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 受付は、予定よりわずかに早く始まり、9時25分頃から。今日のコースマップは、左の写真の通り。マップ上は、約7㎞となっ190324kintetsuhikingtomida_1 ています。富田駅東口から南東へ240mほどで行ったところを右折して、旧・東海道に入ります。四日市市内、ごく一部で旧・東海道が消滅してはいるものの、ほとんど昔の旅人と同じ道を歩いて、今日は、スワマエ商店街まで(旧・東海道がアーケードの商店街になっているのです。商店街を抜けたところで東海道から離れて、今日は、近鉄四日市駅まで。右の画像が実測ルートマップ。旧・東海道は、現在の国道1号線と即かず離れず、一部では重なっています。富田からほぼ南東へ一直線。四日市市役所や近鉄四日市駅が面している中央通りのところまでが東海道。この先は、直進するのですが、この日、東海道はここまで。実際に歩いたのは、キョリ測では、7.9㎞。

259463ca  富田は、江戸時代は、桑名藩領の富田六郷(東富田村・西富田村・富田一色村・天ヶ須賀村・松原村・蒔田村)でした。桑名Ce077da0 宿と四日市宿の中間に位置している「間の宿(あいのしゅく)」あるいは「立場(たてば)」と呼ばれて、旅籠や茶店が軒を並べて、名物は焼き蛤でした。間の宿は、宿場と宿場との中間に設けられた、休憩のための宿で、本来、宿泊は禁じられていました。立場は、江戸時代、宿場と宿場の間の街道などで、人足・駕籠かきなどの休息した所です。四日市市立博物館の「時空街道」には、焼蛤屋が再現されています(左右の写真)。「その手は桑名の焼き蛤」ということばは有名ですが、焼き蛤が名物なのはここ富田と小向(おぶけ、朝日町)という話もあります。

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 近鉄富田駅を9時半にスタート。南東に250mほど行くと、旧・東海道に出ます。ここを右折。すぐに富田地区市民センターがImg_8061c あります。そこに道標。「左 富田一色 東洋紡績 川越村 道」とあります。大正6(1917)年10月に建立されたもの。富田一色(現四日市市富田一色町)や川越村(現三重郡川越町)のほかに東洋紡績という当時全国一の生産量を誇る紡績会社の名が刻まれています。三重紡績(明治19(1886)年6月創設)と大阪紡績(明治15年(1882)5月創設)とが、大正3(1914)年に対等合併して東洋紡績株式会社になっています(現在の東洋紡)。東洋紡績富田工場は、東洋紡績の最大規模の工場でしたが、現在は、イオンモール四日市北店や、住宅地、公共施設(三重県警察の四日市北警察署・四日市松原郵便局などになっています。スタートから光明山常照寺あたりまでは、2017年12月22日の近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」でも訪れています(2017年12月22日:近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」へ(その1)、2017年12月23日:近鉄ハイキング「巨大かぼちゃ『中風封じの田村寺』と垂坂公園を訪ねて!!」(12/22)へ(その2))。

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 富田地区市民センターの隣にある市立富田小学校の敷地内には「明治天皇御駐輦(ちゅうれん)跡碑」。「駐輦」とは、天皇が行幸の途中で車を止め、お休みになること。つまり、このあたりで明治天皇がお休みになったImg_8075c ことを示すのがこの碑。明治天皇は、4度この地で休まれたといいます。富田茶屋町・広瀬五郎兵衛という方のところです。広瀬五郎兵衛宅は、この富田小学校正門から富田地区市民センターあたりにあったそうです。焼き蛤をご賞味になったこともあったと説明板に書かれていました。なお、記念碑は、公爵・近衛文麿の筆です。

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 このあたりの旧・東海道の様子。進行方向の南東を向いて撮った写真です。かなり細い道ですが、生活道路となっていますのImg_8080c で、クルマはけっこうたくさん通ります。スタートから600mあまりで桜の名所十四川になります。ここは、1.2㎞にわたって川の両岸にソメイヨシノ800本が植わっています(ただし、植えられたのは大正時代)。この日はまだ桜は咲いてはいませんでした。

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 十四川の手前、向かって左に善教寺。真宗高田派のお寺。ご本尊は、阿弥陀如来。このご本尊は、国の重要文化財に指定されImg_8086c ています。作善日記から仁治2(1241)年正月頃造られたと考えられています。本堂は大変立派です。高田派の本山である専修寺の如来堂によく似ています。その昔、このあたりまで海岸線が来ていたことから「海戸尻(かいとじり)」と呼ばれていたといいます。ここに「海戸尻道場」があり、これが善教寺の前身であったそうです。

Img_8087c ご本尊(木造阿弥陀如来立像)と、その像内納入文書は、右の写真にある蔵に保管されています。もちろん勝手に寄り道しまImg_8093c_1 したので、拝観はできません。十四川を越えたところには、常夜燈。。「氏子中」とはありますが、神社のものではなく、街道の常夜灯という説明があります。桑名の七里の渡しから伊勢まで、伊勢神宮へ導く光であったと書かれていました。天保10(1839)年の建立。常夜灯は近くにもう1基あったといいますが、それは鳥出神社(四日市市富田2丁目)に移されたそうです。

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 十四川からほぼ300mのところには、薬師寺。浄土宗のお寺で、ご本尊は、阿弥陀如来。大同年間(806~Img_8100c 810)、この地に疫病が流行し、人々が苦しんでいたことを旅の途中で知った弘法大師が、薬師如来を彫って開眼すると、人々の難病はたちまち平癒したので、人々は弘法大師に感謝するとともに、薬師堂を建て薬師如来を祀ったことに始まるといいます。その後、茂福城主であった朝倉下総守盈盛(みつもり)が菩提寺としたそうです。しかし、永禄10(1567)年、瀧川一益の兵火で焼失しています。ちなみに、ここは尼寺。

Img_8097c  薬師寺の門前には、忠魂碑や慰霊塔が4基建っています。中央右にある忠魂碑は、帝国在郷軍人会富田町分会によって大正Img_8103c 4(1915)年11月に建立されています(こちらのブログ)。中央左の慰霊塔の方は、大東亜戦争殉国士慰霊塔で、富田地区遺族会が建てたものといいます(こちらのリストにあります)。4基ともの説明は、「いのりむし文庫」さんのブログ記事にありました。こちらをご参照ください。

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 続いて、光明山常照寺です。浄土真宗本願寺派のお寺。ここは、四日市市茂福町になります。天文7(1538)年、釈法導によImg_8109c って開山され、寛文年間(1661~1673)にそれまでの天台宗から浄土真宗本願寺派に転派しています。詳細は、調べたものの分かりませんでしたが、本堂は明治42(1909)年に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられたといいます。平成7(1995)年11月本堂・鐘楼の屋根の修復が行われたようです。

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  鐘楼の鐘は、昭和27(1952)年の四日市大博覧会で「平和の鐘」として展示されたものです。ちなみに、「四日市大博覧会」は、2回開かれており、昭和27(1952)年のものは、「講和記念全日本農機具新日本産業大博覧会」です。この博覧会については、三重県のサイト「歴史の情報蔵」のこちらのページに言及があります。ちなみに、もう一つの「四日市大博覧会」は、「国産振興四日市大博覧会」で、昭和11(1936)年3月25日から同年5月13日までの50日間開かれました。

Img_8118c この鐘の池の間(いけのま:梵鐘の部分の名。鐘身の中央部で、乳の間(ちのま)と中帯(なかおび)の間にあり、銘などが刻まれています)には、常口(じょうこう)の歌「一筋に世界の平和祈りつつつくやこの鐘永久に(とわに)ひびけと」が刻まれています(「常口は、調べたものの不明)。東海道は、常照寺のところで鉤型に曲がりますが、そこに新設用水道の碑と力石が2つあります。

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 こちらが「新設用水道碑」と力石。ここでスタートから1.1㎞。「新設用水道碑」は、新設・用水道・碑。つまり、新設されたImg_8129c 用水道を記念する碑。ここから北西に十四川から七丁(760m)の暗渠による水路を通し、各家の敷地内にマンボ(人工の地下水路、一般名はカナート。東海地方での呼称のようです。三重県北勢地方でもよくあります。「間風」、「間歩」、「万堀」などと表現)を設置して生活用水や防火用水として、明治37(1904)年から昭和中期まで利用したといいます。昭和34(1959)年の伊勢湾台風の水害で使えなくなり、この用水道は消滅しました。

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 力石(ちからいし)2つ。約32貫(約120㎏)と、約5貫(約19㎏)の2つ。明治の半ば、このあたりの2つの寺のお堂を再建Img_8131c する際に土台石として奉納されたもの。お堂の地築(地固め)に近郷在住の人々が奉仕に集まったのですが、土台石からこれを選んで、休憩時間に力比べに使ったといいます。大正の終わりごろまでこの石で力比べをして競ったといいます。肩越しまで担ぎ上げた人は幾人もなかったそうです。小さい方は、子ども用かと説明されています。

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 新設用水道碑と力石の裏手(山門は、旧・東海道を曲がったところ)にあるのが、林光山證圓寺(りんこうざんしょうえんImg_8139c じ)。当初は天台宗でしたが、天文年間(1532~55年)、住職が真宗本願寺の第10世證如上人に帰依して改宗したと伝わっています。その後、永禄10(1567)年、茂福掃部輔盈豊(もちぶくかもんのすけみつとよ)は裏切りを疑われ、滝川一益に長島城に呼ばれて謀殺されました。茂福城が落城すると、臣・林玄證(はやしげんしょう)は盈豊の遺児を敵から隠し、鍋坂の村中に逃れて密かに養育し、成人の後、自身の娘と娶せて家督を譲っています。遺児すなわち林三郎左衛門盈景(みつかげ)とその末裔はこの證圓寺の住職になります。この地方の城跡、寺社を訪ねると、織田信長や、滝川一益に滅ぼされた、その兵火で焼かれたという歴史がよく出て来ます。

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 證圓寺を出たところに小さな道標があります。東海道に面した側には「左 四日市 服部泰……」、向かって右には「右 いかるが」とあります。これは、服部泰次郎による道標。「いかるが」は「伊賀留我」で、ここから北西に1.5㎞あまり行ったあたり。以前、近鉄ハイキングで伊賀留我神社を訪れたことがありますし(北伊賀留我神社と南伊賀留我神社があります)、その近くには、天武天皇迹太川御遙拝所跡もあります。服部泰次郎は、安改元(1854)年に小杉村で生まれ、10代半ばから小間物や雑貨を天秤棒で担いで行商に歩きました。29歳の頃には米穀商となり、近郊で買い集めた米を四日市港から横浜に船で送り伊勢米の販路を拡大しています。日清・日露戦争の際には軍用米の取扱業者となるなど、県下屈指の米穀商となりました。大正8(1919)年3月、行商をしていた頃に道がわからなくて苦労した経験から、予ねて念願の道標建立を三重郡役所に申し出て、北勢地方に多数の道標を建てています。服部の道標は、集落の辻に立てられ、その行き先の多くは隣の集落への道筋を示し、ほとんどが地名を刻んでいます。集落に住む人々が日常通っている間道を、遠来の人に教えることを目的としたものといわれています。明治、大正の頃に成功した人たちは、服部泰次郎のように、皆を助けるという貢献をしています。桑名の諸戸清六も、諸戸水道をつくって町民にも開放しています。共助というのでしょうか、いつの間にか忘れられているような気がします。

Img_8151c_2  證圓寺から200m弱のところに茂福神社の石柱があります。神社はここから北西にさらに200mほど入ったところにあります。茂福神社も、以前、近鉄ハイキングで訪れています。創祀は永禄10(1567)年以前とされます。明治28(1895)年4月茂福神社と改称されるまでは天王社と称されていました。明治42(1909)年、鳥出神社に合祀されたものの、昭和25(1950)年、分祀され現在に至っています。主祭神は、建速須佐之男命。茂福城主であった茂福掃部輔盈豊も祭祀に関わっていたそうです。

Img_8155c  茂福神社の石柱の少し先で、県道64号上海老茂福線の高架橋をくぐります。ここで1.7㎞。この道路は、以前は、富田山城有料道路(とみだやまじょうゆうりょうどうろ)といい、東名阪自動車道の四日市東ICと国道1号線を結んでいましたが、平成8(1996)年に無料化されています。ここまでが、実測ルートマップその1の範囲。切りがよいので、今回はここまで。その2は、八幡常夜燈から。

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