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2019年3月 8日 (金)

20190302近鉄ハイキング「ふるさとの味と春風を感じて悲劇の千奈美姫に想いを馳せる 四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!」へ(その2)……采女城跡、上品寺、小松神社、中山寺へ

 3月2日の近鉄ハイキング「ふるさとの味と春風を感じて悲劇の千奈美姫に想いを馳せる 四日市うつべのヤマトタケル・芭蕉の足跡を体感!」のその2です。その1では、塩浜駅をスタートして、川尻公園立ち寄り、観音寺と小古曽神社を見て来ました。
190302kintetsuhikingsiohama2 実際に歩いたルートマップは、こちら(その2)です。いきなりの余談というか、個人的な回顧で恐縮ですが、小古曽神社の西にある「四日市南自動車学校」は、私が鈴鹿に就職したとき(昭和54(1979)年)に通って、運転免許証をとったところです。冗談半分に最終学歴は「四日市南自動車学校卒業」といっております(笑)。就職してその秋から冬の初めは、厚生省(当時)の筋ジストロフィー研究班の仕事が忙しくてなかなか通えず、ほとんど期限ギリギリの半年かかってようやく試験に合格しましたので、忘れられません。三重県の運転免許試験場も、今の垂水ではなく、高茶屋にありました。
Img_4747c 話を戻して、小古曽神社から県道407号線に出て、内部駅前を通って、内部川(うつべがわ)の堤防に出ます。小古曽神社(3.5㎞地点)からは、1㎞あまり。内部川は鈴鹿山脈の鎌ヶ岳と入道ヶ岳の間に発し、鈴鹿川に流れ込みます。この内部川の左岸を1.5㎞ほど上流に行ったところに采女城跡があります。この写真で奥に見える丘というか、小山というか、その辺りが采女城跡。
Img_4755c 采女城跡の手前、ルートマップでは、市立内部幼稚園(ここには、内部小学Img_4756c 校もあります)のすぐ北にこんな案内板。「矢矧(やはぎ)橋と采女城ゆかりの地名」とあります。采女城があった鎌倉時代から戦国時代、内部川のこのあたりに「矢矧橋」がかかっていました。このあたり一面が竹藪で采女城の家臣が岳で屋をつくっていたことからその名が付いたといいます。さらに、城跡の西側には「ごくろ橋」という橋がかかっており、それは城の番所があってそこに詰めていた武士が交代のときに「ご苦労」といったことに由来するとか、橋のたもとで女子衆が洗濯をしていて、通る人に「ご苦労さん」と声をかけたことに因んだというそうです。
Img_4796c この写真は、采女城跡を見てから、足見川に架かる橋から上流を見たもの。奥に白く見えているのが、現在のごくろ橋。ここから見ただけで近くには行っていません。上掲の案内板には、「なこの坂」についても書かれています。采女城が信長勢に攻められたとき、敗残の武士・農民が泣きながら逃げたのがその名の由来とありますが、コースからは外れていました。四日市では、各地区でそれぞれの名所・旧跡の案内板が整備されています。これは歴史散歩好きにとってはとてもありがたいことです。
Img_4760c 「矢矧橋と采女城ゆかりの地名」から400m、スタートからは5.7㎞で采女城跡の入り口に到着(ちょうど11時)。藤原氏を祖先とする後藤家の後藤伊勢守基秀が文Img_4764c_2 応元(1260)年、先陣武功があって、三重郡采女郷の地頭になり、ここに移住、采女山(北山)に城郭を築いたのが始まり。以来三百有余年、連綿と治世したものの、後藤采女正藤勝のとき、織田信長の侵略に遭います。隻毛・蒲生毛に一味して戦ったものの、永禄11(1568)年に落城。
 後藤家は上記のように藤原氏を祖先としており、後藤兵衛実基は、保元・平治の乱に武功を顕し、後藤左衛門尉基清(ごとうさえもんのじょうもときよ;実基の養子)が検非違使として京都守護職に奮闘するなど名門とです。
 ちなみに、保元・平治の乱は、保元元(1156)年と平治元(1159)年に京都で相次いで起こった内乱で、いずれも宮廷内の権力争いに原因があり、短期間の戦闘で勝敗が決したのですが、武士の時代の到来を告げ、平氏政権が成立するきっかけとなりました。
Img_4766c 少し離れたところに建つ案内図。等高線も書かれていますが、これで地Img_4772c_2 形が読み取れるほどの能力はありません。しかし、せっかくやって来たのですから、登っていて見てくるしかありません。降りてきた方に伺うと、郭の跡や、深井戸の跡があるということでした。40mほどの台地にあり、200m×250mほどの広大な城郭跡です。40mというと大した高さではないように思えますが、実際に登るとなるとかなり大変でした。「難儀した」という感じ。
Img_4774c
Unemecastle この図に示したように、五の郭のところから一の郭まで登ってみました。五の郭の手前に「虎口(こぐち)」があります。虎口は、大手門などの城門が備えられたところで、城郭の重要な部分をなします。防御・攻撃の両面の機能があるところ。
Img_4779c 一の郭。キョリ測でみると、約60mの標高。かなり息が切Img_4781c れました(苦笑)。采女城は丘陵尾根を利用した「放射状連郭」の平山城。周囲には土塁や空堀が巡らされ、ここ一の郭には深井戸があり、水を得るようにしてあります。左の写真の中央にある囲いの中にその深井戸の跡。
Img_4787c 永禄11(1568)年、織田信長の家臣・滝川一益が、6,000余人を率いて攻め立てます。采女城には500人あまりの塀が集結していたのですが、大混乱を来たし、あるものは奮戦して討ち死に、あるものは敗走。城主・後藤采女正藤勝は割腹して果てたと伝わります。そのとき、奥方や千奈美姫は、あとを追って深井戸に身を投げて亡くなったといいます。後世、人々の間では、この古井戸から「夜な夜な女のすすり泣きが聞こえる」とか、「馬のいななきや、女人の悲鳴が細く尾を引く」などと語り継がれているそうです。入り口の案内板には「哀れなり」とありましたが、まさにそういう気がします。
 采女城跡の一の郭で一休み。さらにこの日は暖かかったので、初めに来ていったウィンドウ・ブレーカーでは汗を掻きましたので、持参した薄手のものに着替えました。采女城跡から降りて、スタートから6㎞。次の上品寺を目指します。釆女町から貝家町へ。
Img_4802c 6.8㎞地点に開徳山上品(じょうぼん)寺があります。ここは、真宗高田派Img_4805c のお寺。内部(うつべ)地区貝家(かいげ)町にありますが、その地名は、上品寺の門階の下に位置する階下(かいげ;文字通り、階段の下ということ)に由来するといわれています。嘉祥2(849)年、土師宿禰岩次(はじすくねがんじ)が建立した成保寺(じょうほうじ)が始まりと伝え(開山:澄順法師)、寛正元(1461)年天台宗から浄土真宗になり、元和元(1615)年現在地に移り、延宝7(1679)年上品寺と改名しています。
Img_4809c ご本尊は、阿弥陀如来。本堂に向かって左手(南側)には釈迦堂(1736

Img_4814c

年・建立)があり、ここには釈迦如来坐像が安置されています。
Img_4818c この釈迦如来坐像は、もとは成保寺の本尊であったといます。木造、漆箔、彫眼で、平安時代前期釈迦如来像(10世紀、像高99cm、市指定文化財)は、江戸時代の初めに上品寺に移Img_4816c されたといわれ、現在も上品寺に引き継がれ、市指定文化財となっています。樟の木を用い、頭部と胴体を同じ木材で作る一木の像。この像は、体の内部に大きく開いた洞(うろ)があります。しかし、それは干割れを防ぐために人工的に彫られたものではなく、仏像を作る前からそのような状態であったと考えられています。今日は、ハイキングに合わせて特別に開帳されていました。
Img_4823c たびたびの余談。中山寺を出て再び、内部川の堤防に出ますが、そこにImg_4824c 可愛らしい、今まで見たことがないタイプの飛び出し坊や・嬢ちゃん。あちこちで見かけると、ついつい写真に撮ってしまいます。個人的な趣味(まぁ、ハイキング・ウォーキングも、ブログもそうではありますが)で恐縮。
Img_4827c 貝家橋の北詰にこんなお堂のような建Img_4828c 物。コースマップには「お堂が歯医者さんに」とあります。確かに歯科医院でした。わざわざお堂のような建物を建てたのでしょうか。
Img_4832c 貝家橋をわたって内部川右岸へ。300mほどでまた小松橋を渡って、内部Img_4834c 川左岸へ。北小松町に入って、小松神社を目指します。その手前にまたもやお堂か、お寺のような建物。ここは、公会堂とありました。そういえば、2月16日 の近鉄ハイキングのときも、四日市市智積町で、「延福寺跡」が智積公会所になっていました。(20190216近鉄ハイキング「酒蔵みてある記 銘酒『鈿女』伊藤酒造と智積養水をたずねて」(完))。
Img_4837c 公会堂のすぐ西に小松神社があります。ご祭神は、建速須佐之男命(タケハヤノスサノオノミコト)、大山祇命(オオヤマツノミコト)。三重県郡家Img_4839c (「みえ あがた ぐんけ」と思います。近鉄湯の山線・桜駅の北東に県地区があります)・土師辿馬手の嫡子に小松という人があり、聖武天皇の天平3(731)年、前杵開発田一二町をなし、この領土の名により小松村といったのですが、この頃、産土神として小松神社を創建したことに始まるといいます(神社検索・三重の説明)。明治41(1908)年、波木町にある加富(かふ)神社へ合祀されましたが、崇敬者の熱意により昭和17(1942)年に分祀されています。鳥居脇に子ども用の自転車が写っていますが、訪れた時、子どもたちが鬼ごっこか何かで遊んでいました。
Img_4841c 合祀された名残か、境内には「加富神社遙拝所」がありました。この遙拝Img_4850c 所は、大正12(1923)年に建てられたとあります。加富神社は、小松神社から北へ1.1㎞ほどの、足見川南岸山麓に鎮座しており、古くから采女七郷の総氏神とされています(こちらも参照)。
Img_4852c 鳥居の両側に、「平和の礎」、「表忠碑」などが合計3基あります。左の写Img_4848c 真は、「平和の礎」。これは、内部地区が建てたもので、英霊24柱を祀っています(三重県遺族会のサイトを参照)。右の写真は、「表忠碑」。「陸軍歩兵軍曹勲七等公七級堀君碑」と初めの方にありました。日露戦争に従軍し、奉天で戦死された旨の記述がされています。
Img_4846c_2 もう1基がこちら。「故陸軍輜重(しちょう)輸卒(ゆそつ)古市平吉君碑」とあります。石碑は、いずれも裏を見てきませんでした(裏に回りにくかったため)ので、これについては詳細は不明。「輜重」は、軍隊の糧食・被服・武器・弾薬など、輸送すべき軍需品の総称。「輸卒」は、輸送を任務とする兵卒。「輜重輸卒」は、旧陸軍で、輜重兵の監視のもとに軍需品の輸送に当たった兵卒。昭和6(1931)年、「輜重兵特務兵」と改称されていますから、日清戦争または日露戦争に従軍された方と思われます。なお、三重県遺族会のサイトに、「英霊碑」があるとされていますが、これには気づきませんでした(内部地区が建立し、出征軍人7柱を祀るとあります)。
Img_4861c  小松神社でほぼ8㎞、時刻は11時40分でした。ここから南へ。内部川をImg_4865c 渡って、南小松町。スタートから8.8㎞ほどのところに月見山中山寺(がっけんざんちゅうざんじ)。月見山の山号は、ここから東に月見亭があって、毎年9月の十五夜に月見をしたことに由来します。
Img_4867c 真宗高田派のお寺。高田本山専修寺第十世真慧(しんね)上人開基の旧跡寺院です。寛正2(1461)年、小松中山(今の北小松町)に建立されたのですが、法難にあって炎上し、弟子蓮蔵坊慶林が南小松に移転再建し、現在に至っています。真慧上人の御遺物として、山門に掲げる「月見中山」の扁額や上人の身の危険を告げて動き出したと伝えられる「歩行石」があるのですが、どちらもしっかり見てこず、惜しいことをしました。このほか、上掲の説明板によれば、たくさんの法物、真慧上人のご遺物があるようです。
 ちなみに、真慧上人は、室町後期の浄土真宗の僧。伊勢専修寺第10代。下野の高田専修寺9世・定顕の長男かとされます。常陸の浄土宗迎雲寺等で顕密を学び、高田に帰った後、伊勢・三河・越前・加賀に布教し、高田専修寺を継ぎ、伊勢一身田に無量寿院(現在の高田本山専修寺)を建立し、高田派教団の勢力を拡大しました。
Img_4863c 中山寺には、四日市市の天然記念物に指定されているモッコクがありまImg_4882c す。本堂裏西北方、書院廊下の西側に聳えています。根元周囲は6.9m、胸高周囲3.8m、樹高は13.2mで、樹齢は300年を超えるといわれています。「超古木」、「大径木」として、全国でも有数の大樹で、県下では先に出るものがないそうです。このモッコクは寺がここに再建された時(1500年以前)に植えられたと伝えられていますので、樹齢は450年以上と推定されています。ちなみに、モッコクは暖地に分布する常緑の樹木で、樹形が良く、葉が枝先に輪生状について見栄えが良いので、庭木として珍重されているそうです。
Img_4896c 中山寺を出たのが、12時を過ぎていました。まだ先がけっこうありますので、近くのコース沿いにある南小松子ども広場・運動広場で昼食としました(9.5㎞地点)。広くて、日当たりのよい運動広場のベンチです。今日は、ファミマの「バラエティおかず&おむすび」弁当(税込み¥368)。リュックに入れているうちに、偏ってしまいました(苦笑)。味には変わりありません。ここからは、昔、結婚した当初住んでいた笹川の公団住宅も見え、懐かしく思いながら弁当&休憩をしてきました。
 その2はここまで。その3は、この先、田園地帯にある普賢菩薩、采女八幡社などから。

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