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2019年2月 4日 (月)

20190127JRさわやかウォーキング「新春に二千年の時を刻む大神宮へのおかげ参り」へ(その2)……麻吉旅館、浅香つづら稲荷、寂照寺、古市参宮街道資料館、猿田彦神社など

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 1月27日に出かけたJRさわやかウォーキング「新春に二千年の時を刻む大神宮へのおかげ参り」のその2です。その1では、伊勢市駅を出発し、外宮、豊川茜稲荷神社に参拝し、祖霊社を見て、古市参宮街道を歩いて、油屋跡石碑のところまで。ほぼ4キロ。11時5分頃です。
Img_0275c 街道沿いに長峰神社が見えましたが、先を急ぐ気持ちがあって立ち寄りはしませんでした。予習をしていかなかったのが、祟りました(苦笑)。御祭神は、天鈿女命(あめのうづめのみこと)。天照大御神が天岩屋に隠れられた時、天鈿女命は神懸かりして舞を舞い、大御神のお出ましをいただいたと伝わっています。それ故、歌舞伎役者や伊勢音頭の遊女の祖神として、芸能の神様とされる天鈿女命を祀っていたのです。長峰神社は、この街道の(旧)中之地蔵町に鎮座していた宇須賣社(うずめのやしろ)を明治3(1871)年に、久世戸町・古市町・中之町・桜木町の4町の協議によって現在地に鎮座し、長峰の産土神として祀ってきたものです。その後、一帯に鎮座していたお社や祠の神々も合祀しています。相殿神は、木花開那姫命天津彦火瓊々杵命宇迦之御魂神春日大神八衢比古神久郡戸神(くなどのかみ;もとは、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神で、牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されています)、菅原道真公
Img_0285c 長峰神社の少し先、街道から東に入ったところにあるのが麻吉旅館。一言Img_0311c で言うと、「江戸の面影が残る老舗旅館」であります。テレビの旅番組で何度か見て、一度訪ねたかったところ。歴史は大変古く、200年以上前からあるといわれています。その風貌は独特で、急斜面に沿って作られた建築様式は京都の清水寺と同じ懸崖造りといい、この歴史的な木造宿とその脇をすり抜ける急坂の風景は、まるでタイムスリップしたかの様な空間です。
Img_0294c 創業は嘉永4(1851)という説がありますが、それ以前のImg_0332c 天明年間(1781~88)の地図に記載があったり、文化3(1808)に刊行された「東海道中膝栗毛」五編追加にも「麻吉」の名が見えるといい、実際はそれよりも以前から営業していたと思われます。建物全体は6階建てのようになっています。正面入り口は5階部分。入口は4階で、部屋は15室程あるものの、客間として使っているのは6室のようです。最上階は、大広間があり、「聚遠楼」というそうです(こちら)。
Img_0313c もっとも下は、3階建ての土蔵で、外壁に「麻吉」との大きな表示があります。こちらは、伊勢自動車道に面しています。今も営業しているようですから、できれば泊まってみたいと思います。
Img_0319c ということで、麻吉旅館を見ながら、その階段を降りて、下の伊勢自動車Img_0323c 道沿いまで降りて行ったら、お社を発見。「浅香つづら稲荷」とありました。「つづら」といわれるのは、ここにある岩が「葛籠岩」。以前は、麻吉旅館の階段道を下って、中腹の山中にあったといいます。宅地造成、その後の自動車道が作られて、現位置に移動、「浅香稲荷」が祀られるようになりました(こちら)。
Img_0315c 「伊勢参宮名所図会」には 「高さ八尺余、横二丈許、石重なりてつづらの形に似たり、今は注連を引て小社とす、此傍に観音堂あり、是を大岩の観音といふ、春は桜多く咲て騒客遊宴の地とす」と紹介されているそうです。もともとは、「お岩稲荷」を祀る稲荷社がありました。巨石は大岩を真ん中に大小3つ。大岩の前に祠が置かれ、石にはいずれも注連縄が張られています。
Img_0316c お社を見て、私が興味を持ったのは、「寒中御見舞」の御札。2枚張られていましたが、たとえば向かって右のものは、「平成30年1月○日 寒中御見舞 河崎吉家講 河崎町中・家内安全 町内円満・商賣繁盛」とあります。伊勢地方に固有の行事というか、風習のようです。「河崎吉家講」で思い出すのは、河崎の河邉七種神社にあった「吉家神社(吉家稲荷神社)」。神宮巡々さんのブログに良く出て来ますが、詳細はよく分かりません。
Img_0345c 古市参宮街道へ戻ります。下調べをしていきませんでしたが、麻吉旅館Img_0347c のすぐ南にあるお寺が気になりました。「寂照寺」という名前に何となく記憶があったのです。看板の奥に「月僊上人遺跡」とあり、思い出しました。月僊上人は画僧。、
Img_0348c 栄松山寂照寺。浄土宗のお寺。ご本尊は、阿弥陀如来。創建は延宝5(1677)年。Img_0351c 寂照知鑑上人(知恩院第37世)が、千姫(2代将軍・徳川秀忠の娘・豊臣秀頼の正室)の菩提を弔うため開いたのが始まりとされます。その後衰退したものの、安永3(1774)年、月僊上人により再興されました。現在の山門、八角輪蔵は月僊が再建したものと伝わっています。月僊は、円山応挙に師事したとされ、仏涅槃図や藤の図が残されています。ちなみに、千姫は、元和元Img_0355c (1615) 年、大坂夏の陣で豊臣氏が滅んでから関東に帰る途中、桑名で本多忠政の長子忠刻と巡り合い、再婚しています。また、月僊は求めに応じて絵を描いては報酬を集めていましたので、批判する人もいました。しかし、彼は報酬を一銭も自分のものとせず、すべて寂照寺の再興と貧しい人々の救済などの社会福祉事業のために使ったというエピソードが伝わっています。先月まで、名古屋市博物館で「画僧月僊」という特別展が開かれていました。見に行けば良かった。山門は、薬医門形式で、寛政9(1797)年に月僊上人によって建立されたもの。登録有形文化財。
Img_0370c こちらは観音堂。やはり登録有形文化財。宝蔵として開基以来唯一存在する建物だそうです。寛政9(1797)年の伽藍再興の際境内北東に宝蔵を新築し、それ以来この建物は米蔵として使われました。昭和の中頃、増改築をし、観音堂となっています。
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 境内には、このほか、月僊上人の像や、月僊上人之碑などもあります。Img_0365c 月僊は、寛保元(1741)年、尾張名古屋の味噌商人の家に生まれ、7歳のとき剃髪し、10代で江戸の増上寺に入りました。生まれつき絵が好きで、修行の傍ら桜井雪館(せつかん)という画家について絵を学びました。増上寺の大僧正定月は、彼の絵の才能や修行ぶりを誉めて、自分の名の一字を取って「月僊」の号を与えました。その後、月僊は、京都の浄土宗総本山知恩院に修行することとなり、写生表現を重視した円山応挙の門に入り、与謝蕪村を尊敬し、中国の絵画をも学んだといいます。安永3(1774)年、月僊34歳のとき、知恩院の大僧正に頼まれ、当時荒れ果てていた伊勢の栄松山寂照寺を立て直すため、そこの住職となったという次第。月僊上人の絵はきちんと見たことがありません。機会があれば、是非と思います。
Img_0379c 寂照寺を出て150mほど行くと、伊勢古市参宮街道資料館があります。伊Img_0377c 勢市立の資料館で、参宮街道や江戸と上方の役者の登竜門でもあった伊勢歌舞伎、古市妓楼などの関係資料が1階の展示室に展示されています(無料、月曜定休)。ここでJR職員の方がお茶の接待をしてくださいました。常設展の他、企画展示もあり、訪れた時は 「神都画人・中村左洲 展」が行われていました。中村左州(明治6(1873)~昭和28(1953)年)は、二見町今一色に生まれ、花鳥・歴史・風景・人物画などあらゆる題材の作品を数多く残しました。中でも、漁師の家に育ったことから魚やエビ、海辺の景色などを好んで描き、鯛を得意としたため「鯛の左洲」として知られています。桑名市博物館でも、中村左州の絵を見たことがあります(こちら)。
Img_0385c 伊勢古市参宮街道資料館を出るとすぐに伊勢自動車道の上を越えまImg_0386c す。古市参宮街道をさらに進みます。400mほど行くと、左手(東)に「雪峰稲荷」がありました。お稲荷さんですが、鳥居は朱塗りではなく、素木。先を急いでいましたので、お参りはしませんでした。詳細はよく分かりません。
Img_0390c  さらに進むと、富樫公園の南に「奉献両宮常夜灯」。奉献は「東京神田旭町・Img_0392c_2 富樫文治」。大正3(1914)年2月に建立。管理者は油屋旅館と彫られています。富樫文治は、日本銀行小樽支店の施工者だそうです(こちらのブログ)。余談ですが、ネット上では、「雨宮常夜灯」としてあるブログなどもありますが、それは誤り。
Img_0403c 伊勢自動車道を越えた辺りが丘陵のピーク。この辺りは下り坂で歩くスピードも速くなります。スタートから5.8㎞ほどのところに伊藤小坡美術館があります。伊藤小坡(いとうしょうは、明治10(1877)~昭和43(1968)年)は、明治~昭和の日本画家。本名は、さと。猿田彦神社の宮司・宇治土公(うじとこ)貞幹の長女として生まれ、日本画家・伊藤鷺城の妻です。歴史風俗画を得意としています。なぜわざわざ取り上げたかといいますと、私の好みの画家なのです。桑名市博物館でも、2009年に展覧会が開催され、それを見て以来、この画家が好きなのです(2009年10月25日:リュート音楽と美人画……芸術の秋を堪能)。『上村松園に次ぐ閨秀画家』と評されます。時間の余裕があれば、覗いてきたかったところ。
Img_0440c 伊藤小坡美術館から150mあまりで御木本道路に出ます。あの真珠王・御木本幸吉が、昭和20(1945)年に米寿を迎えたことから、外宮から内宮までの近道を整備する資金を提供し、整備された道路。その終点に猿田彦神社があります。ここも一度は訪ねてみたかったところです。
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 天孫降臨の際、猿田彦大神は、高千穂に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;天照大神の孫で、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)の子。天照大神の命令で、葦原の中つ国を統治するため、高天原から日向・高千穂峰に天降った)を案内した後、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)とともに「伊勢の狭長田(さながた)五十鈴の川上」の地に戻り、この地を始め全国の開拓にあたった神様。猿田彦大神の裔である大田命(おおたのみこと;猿田彦神の子孫。興玉神の別称、あるいは猿田彦神の別名とする説もある)が、倭姫命の御巡幸に際して、五十鈴の川上にある宇遅(宇治)の地を勧めし、そこに皇大神宮(内宮)が造営されたといいます。代々の宮司である宇治土公家は、猿田彦大神の子孫であるとされます。啓行(みちひらき)の神として、すべてのことに先駆け、人々を善い方に導き、世の中の行方を開く神とされます。
Img_0435c 境内社としては、佐瑠女(さるめ)神社があります。ここには、俳優・神楽・Img_0438c 技芸・鎮魂の祖神と仰がれる天宇受売命が祀られています。天宇受売命は、天照大御神が天岩窟に籠もって世の中が乱れたとき、神楽をして、そこに集まった八百万の神々が喜び笑い、天照大御神が再び現れ平和な世になったといわれます。
Img_0426c わかりやすくいうと、芸能の神様として信仰されていますので、芸能人、芸能プロダクションなどが幟を奉納しています。この写真には、南海キャンディーズの山里亮太さんが奉納された幟が見えています。
Img_0430c  境内にはこのほか、さざれ石があります。「さざれ石(細石)」は、もちろん君が代に出てくる石。学名は、石灰質角礫岩。雨水などに溶けた石灰岩の石灰質が多くの小石を凝縮したもの。奉納されているのは、岐阜県の揖斐川町(旧・揖斐郡春日村)。で採取されたもの。桑名でも春日神社(桑名宗社)や、海蔵寺に奉納されています。
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 さらに「たから石」もあります。舟形石ですが、これは宝船を連想させ、古来、縁起のよいものとされてきました。とくに、この「たから石」は、ヘビが乗っているように見えるため、縁起が良いとされているそうです。
Img_0444c 猿田彦神社を出たのが、12時ちょうど。ここで6.2㎞。このあと、旧・伊勢街道&国道23号線に出て、いよいよ内宮に向かいます。
 今日は、ここまで。次回(その3)では、内宮の前に、神宮会館や、その前に揚げられた幟の話(この幟は、ニュースにもなりましたが、ちょっと揉めたもの)。
20190127jrwalkingiseshi2 細かい実測ルートマップを載せ忘れていました。左は、古市参宮街道の20190127jrwalkingiseshi3 長峰神社、麻吉旅館、浅香つづら稲荷、寂照寺、伊勢古市参宮街道資料館辺りのマップ。右は、雪峰稲荷、伊藤小坡美術館から猿田彦神社。猿田彦神社南の道路が、御木本道路。

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