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2019年1月28日 (月)

20190126近鉄ハイキング“酒蔵みてある記 銘酒「三重の寒梅」丸彦酒造をたずねて”へ……補遺編その1 松本神社、松本城跡、歴明寺にある神社跡まで

 1月26日の近鉄ハイキング“酒蔵みてある記 銘酒「三重の寒梅」丸彦酒造をたずねて”です。昨年とまったく同じコースでしたし、途中から雪が吹雪くというのも、ほぼ再現フィルム(苦笑)。詳細を書いても、内容が重複しますので、去年見忘れたもの・こと、新たに気づいたことや見て来たこと、勘違いの訂正を中心に「補遺」を書くことにします。以下、去年の記事のリンクをリストアップしておきますので、そちらもご覧くだされば幸いです:

Img_9713c 当日朝、四日市へ向かう電車から撮影した写真。朝日町内から西の空。雪雲のように見えました。去年も、途中で霰というか、雹というかに見舞われましたので、若干の不安を感じさせる景色です。
Img_9720c 当日配られたコースマップと、実際に歩いたルートマップ。コースマップでは190126kintetsuhikingisematsumoto 約7㎞とありました。ほとんど寄り道をしませんでしたので、実際に歩いたのは6.9㎞でした。
Img_9733c 最初の立ち寄り先は、松本神社。松本神社は、神明松乃神社と、松井須Img_9735c 賀神社の2社からなっています。四日市市の常磐地区ホームページによれば(こちら)、「神明松乃神社(ご祭神:天照大神、豊受毘売之命(卜ヨウケヒメノミコト))と、松井須賀神社(ご祭神:健速須佐之命(タケハヤスサノオノミコト))が一つになり松本神社となった。大正15年(1926)に八阪神社(赤堀)から分祠された」とあります。赤堀の八阪神社は、京都の八坂神社の分社で、御祭神は健速須佐之命。さらに八阪神社は、豊受大神宮(外宮)と縁があり、ご遷宮の際、鳥居を下賜されているといいます(こちら)。八阪神社からそのまま分祀されたとはちょっと考えにくい感じ。
Img_9738c 拝殿に向かって左に山神が祀られています。山神と彫られた下に「本乙(?)本」と「少(?)條」とあるように見えますが、詳細は不明。去年から引き続き、謎はよく解明されないまま。
Img_9743c 松本神社の南の丘陵地には、松本城跡があります。ここも去年見ましImg_9747c た。「松本城跡」という石碑は、平成15(2005)年10月に常磐地区社会福祉協議会が建てたもの。碑陰には、“「吾妻鏡」に「……まず進士三郎基度の朝明郡富田之館を襲い挑発数刻にして、其度及び舎弟松本三郎盛光・同四郎・同九郎らを誅した……」とあり、1204年に起きた三日平氏の乱で松本氏が本城を拠点にして戦った”とあります。
 吾妻鏡は、鎌倉時代前半を綴った歴史書。治承4 (1180) 年の以仁 (もちひと) 王の平家追討の挙兵から、文永3 (1266) 年、将軍宗尊親王の上洛までの事績を日記体に編修したもの。 13世紀末か 14世紀初めの成立と考えられています。三日平氏の乱は元久元(1204)年の春に起こった伊勢平氏最後の反乱。4月10日より12日までの戦いで雌雄が決せられたのでこの名称があります。
Img_9750c 2枚前の写真にある石碑の背後を見て来ました。素人目には、土塁か何Img_9752c かの跡のようにも思えますが、三重県教育委員会編「三重の中世城館」によれば、「松本の西方丘陵の末端、団地造成のため丘陵も削平され、残る丘陵の上にも遺構はない」とあり、遺構は何も発見されていないそうです。右の写真は、「松本城跡」の石碑から南をみたもの。
Img_9759c 城跡の西側、少し下ったところには、建正山稲荷大明神があります。ここ1e8a0f84 も、去年、何もわからなかったところ。建正山は、この丘陵地の名称で、上の城跡は、「松本建正山こども広場」になっています。去年と様子は変わりなく、由緒書もありません。「建正山正一位稲荷大明神 御神殿屋根銅板葺替修理」とある板が掲げられていただけで、詳細は不明のまま。
Img_9788c このあと、松本から川島町へ、鹿化川沿いに歩いて行きます。去年と変Img_9793c わりはありません。桜並木、満開になったらさぞ見事と思います。去年はいけなかったのですが、桜が咲いた頃にもハイキングがあったはず。最終目的地の松彦酒造の裏手を通り過ぎます。このあたりで3㎞手前。松彦酒造に達するには、2㎞半以上大回りしなければなりません。去年は、さくら公園(別山2号公園)に立ち寄りましたが、今年はパス。
Img_9803c ほぼ4㎞で浄土真宗大谷派の歴明寺(れきみょうじ)に到着。ここは、由緒書、案内看板などは見当たりませんでしたし、ネットで検索してもめぼしい情報は出て来ません。今年も調べましたが、状況は変わらず。ここの山門前に、神社の𦾔跡があり、去年も見て、調べましたが、調べが付きませんでした。
Img_9818c お寺の山門に向かって右手(北東側)がこのようになっています。鳥居Img_9816c も、ご覧のように、額束や貫がなくなっています。右の写真にあるのは、灯籠の基台と思われます。
Img_9813c 手がかりは、こちらの石碑のみ。碑表、去年はテキトーに写真を撮ったたImg_9812c めよく読めませんでしたが、「沙二貴神社𦾔跡」とあるようです。碑陰には、「明治四十年二月十六日 川嶋神社に合祀」とあります。
Img_9868c こちらは、このあと訪ねた河島御厨神明神社の由緒には、「明治四十一年二月に狭神明社、山神社を合祀の上、社名を神明神社と称する」とありました。社名が必ずしも一致していませんし、時期が1年ずれています。関連があるのかもしれないと思うのですが、ネット検索ではこれ以上は難しい。図書館に行って、四日市市史や、郷土史の本でも調べないといけません。
 今日は、ここまで。次は、伊勢三郎首塚や、その河島御厨神明神社から。
【付記(1/30)】
 歴明寺の門前にある神社𦾔跡について、もう少し調べてみました。石碑にある文字を「沙二貴神社𦾔跡」と読んでいましたが、ひょっとしたら「沙沙貴神社」かもしれません。
 川島には、河島御厨神明神社と川島神社とがあります。このうち、川島神社について、明治41(1908)年、沙沙貴神社、神明社、生水神社、黒祖神社を合祀して川島神社と改称したという記述があります(こちら)。神社の名称としては、この沙沙貴神社が類似性が高いのですが、ただ、合祀の年月は1年ズレています。この点、神社検索(三重)で出てくる川島神社についての説明では、「佐々木神社」として言及されています。滋賀県近江八幡市に沙沙貴神社という神社はあります。佐々木さんの氏神様と位置づけられているようです。
 今日の調べはここまで。

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