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2018年12月 6日 (木)

20181202近鉄ハイキング「鈴鹿の隠れた紅葉の名所「荒神山の喧嘩」で有名な荒神山観音寺を訪ねて」へ(その2)……庄野宿からJR関西線加佐登駅へ

20181202kintetsuhikinghiratacho2  12月2日の近鉄ハイキング「鈴鹿の隠れた紅葉の名所「荒神山の喧嘩」で有名な荒神山観音寺を訪ねて」のその2です。スタートした近鉄鈴鹿線・平田町駅から2.3㎞ほどで東海道五十三次の45番目の宿場である庄野宿にやって来ました。ハイキングの設定されたコースでは、庄野集会所のところで右折することになっていますが、せっかく来ましたので、宿場内を一通り歩くことにしました。庄野集会所のところで左折し、宿場の南端まで行ってみます。

Img_4291c 庄野宿の京方向の入り口にある石標。「東海道 庄野宿」と刻まれています。昔からあるものではなく、旧庄野小学校の門柱を利用したもの。ここでスタートから2.6㎞。ここから南に向かうと、汲川原町を経て亀山宿につながります。汲川原町の西端には、女性たちが死罪覚悟で築いたという伝説が語り継がれる女人(にょにん)堤防があります。汲川原は、鈴鹿川と安楽川の合流するあたりで、しばしば川の氾濫が起き人命が失われました。村人たちは堤防を築くことを神戸藩に願い出たものの許可されませんでした。そこで人々は、処罰覚悟で工事に踏み切ったのですが、村人の菊という女性が「工事にかかわった男たちは打ち首になり村は全滅する。私たち女だけで堤防をつくろう」と200人余の女性だけによって工事が行われたといいます。6年後、堤防は完成したが、首謀者の菊らは、あわや処刑される寸前、家老の松野清邦の嘆願により助命された上に、金一封が贈られ、ねぎらわれたという話が伝わっています。現場の堤防脇には「女人堤防碑」(昭和33(1958)年建立)がありいいいいます。女人堤防も見たかったのですが、今回はパス。ここから庄野宿を上ります。
Img_4286c 庄野宿の石標から数分で川俣神社があります。鈴鹿川の流域には、同じImg_4294c 名称の神社が6社あるといわれ、庄野にはそのうち3社があります。いずれも川の合流・分流点ですから、氾濫に悩まされた住民たちが治水を祈って建立したと思われます。
Img_4299c
 詳しい由緒は、不詳ですが、江戸時代には貴船神社と称し、元禄16(1703)年に川東の門田より川西古屋敷(現在の字田中)に移つたといいます。明治40(1907)年11月、庄野村の川俣神社他7社、汲川原村の3社を庄野村大国神社へ合祀し、村社川俣神社と単称しました。
Img_4300c 御祭神は、大国主神、高お神、大彦命、健速須佐之男命、宇迦之御魂神、品陀和気命、菅原道真、玉依毘売命、市寸島姫命、大山祇神、埴山毘売神、大直毘神、建御名方神、息長帶日売命。
Img_4302c この川俣神社で有名なのは、「川俣神社のスダジイ(県天然記念物)」でImg_4305c す。スダジイは暖地に自生するブナ科の常緑高木です。ここでは、御神木として大切にされています。樹齢は約300年とも、5~600年ともいわれ、樹高約15m、幹周り約5m以上の巨木です。立ち上がって間もなく、地上約2mほどの高さで多数の大枝に分かれており、大きく盛り上がった壮大な樹冠が印象的です。相当の老木で、樹皮に縦の裂け目があり、一部空洞も見られます。
Img_4288c 川俣神社のすぐ南にあったお宅。いかにも旧街道沿いに建つ家という雰Img_4293c 囲気でした。今もお住まいのようでしたし、「民生・児童委員」という表示もありました。右の写真は、京方向の石標あたりからみた庄野宿の様子。
Img_4311c 川俣神社から100mほどのところ、東海道からは北へ少し入ったところにImg_4313c 常楽寺。真宗仏光寺派のお寺。ただし、山門には柵がしてあり、入れないようになっていました。ネットを検索しても情報が出て来ません。活動していないのかもしれません。
Img_4279c 常楽寺から100mあまり、伊藤理容の建物脇に「郷会所跡」の表示板があImg_4316c ります。郷会所は、助郷の割り当てを受けている角村の代表者(庄屋や、肝煎)が集会するところ。助郷は、江戸時代、幕府が諸街道の宿駅の継立てを援助、補充させるため、宿場周辺の農村に課した夫役。宿場に人馬 (御定人馬) を常備しました。江戸時代後期には、助郷人馬の割り当てが多くなり、唯でさえ豊かではなかった庄野宿はその対応に苦労したようです。
Img_4278c_2 左の写真は、最初に庄野宿に入ってきたときのもの。男性お二人が立っImg_4316c_2 ているところの奥の建物脇に「高札場跡」の説明板。高札場には、法度、掟書などが書かれた「高札」が掲示されました。庄屋宅や、人通りの多い辻など、村や宿場毎に一ヶ所設けられました。庄野は、戦災に遭わなかったこともあって、人馬賃銭の規定、人倫の症例その他、禁制など実物5枚が保存、展示されています。
Img_4317c 上左の写真とほぼ同じところですが、向かって右の白い、2階建ての建物Img_4324c が庄野集会所。集会所の辺りに本陣があったといいます。本陣は沢田家で、明治5(1871)年まで続きました。間口16間、建坪198坪あまり、室数28の大邸宅であったそうです。脇本陣は、このすぐ南にありました。天保14(1843)年の調査で、旅籠は15軒ほどあったといいます。
Img_4319c 庄野集会所の前には、本陣跡を示す石標の他に、津まImg_4322c での距離を示す「道路元標」もあります。道路の起点、終点、経過地を標示するための標示物で、旧道路法(大正8(1919)年)により各市町村に1個設置することにされました。この道路元標には、「距津市元標九里拾九町」と刻まれていました。また、「石薬師へ壱里壱丁 亀山へ弐里参丁 庄野村」ともあります。この石碑は新しいものという印象で、再建されたものかと思います。
 この先、もう少し行くと、「問屋場跡」の標識があったはずなのですが、見逃してしまいました(こちらにあります)。問屋場(といやば、とんやば)は御伝馬所ともいい、街道宿場にとって重要な役所でした。問屋2名、年寄4名、書記(帳付)と馬差各4、5名が半数ずつ交替で詰めていました。主な任務は、公用書状の継立て、往来者の要望に応じて人足、馬の割振り、助郷村々への人馬の割当、賃銭、会計などでした。
Img_4332c スタートから3.4㎞、10時55分に庄野宿資料館に到着。ここは、江戸時代に油問屋を営んでいた旧小林家の建物(市指定有形文化財)。庄野宿の本陣・脇本陣文書、宿駅関係資料をはじめ、日本画壇で活躍された故小林彦三郎氏の絵画や文書の他、地域に残る民具、農具、日用品などが展示されています。庄野宿に残る膨大な宿場関係資料の活用と旧小林家(市指定文化財)の保存を進めるため、平成10(1998)年に開館しました。
Img_4334c 高札場に掲げられていた高札も5枚、展示されていました。内部は写真撮影ができませんので、高札の写真はありません。こちらで高札の写真をご覧になれます(鈴鹿市の広報のpdf版)。高札5枚は、この資料館のお宝といえます。大きなものは、横幅258cmもあります。文字が浮き上がっているのですが、それは長年の風雨で、板の表面は収縮したものの、炭に含まれる膠が残っているためだそうです。
 写真は撮れませんでしたが、かつて庄野宿名物として知られた「焼米俵」も展示されていました。鼓の形に編まれたわらの中に、水に浸してから煎った後に平たくした米が入っています(リンク先に写真があります)。保存食、携行食として重宝されたといいます。江戸時代の朱子学の大家・林羅山も、買い求めた話を紀行文に残しているそうです(丙辰紀行、元和2(1616)年)。明治以降消滅したものを庄野宿二若会の方々が復元に取り組んでいます。
Img_4337c この庄野宿資料館(旧小林家)のお庭。蔵もあり、かなり広い庭でした。手入れも良くされていました。この庄野宿資料館、スタッフの女性が親切で、丁寧に説明してくださいました。地元の方ということで、宿場や、その歴史文化を大切に思っていらっしゃるのがよく分かります。
Img_4350c 資料館の前には、広重の東海道五十三次の浮世絵「庄野の白雨」が掲げられています。広重の東海道五十三次の中でも、もっとも有名な一枚かも知れません。白雨とは夕立のこと。この「庄野の白雨」は、庄野宿内を描いたものではなく、現在のJR関西線・加佐登駅近くのあたりの情景を描いたという説があるそうです(冒頭のマップに示してあります)。
Img_4352c 資料館を出て200m足らずのところに筧口山(けんこうざん)善照寺があります。真宗高田派。創建は、長禄年間(1457年頃)と伝わっています。平田地内筧口と称する所に、善正法師が善照寺を開基し、初めは天台宗でしたが、高田派第十世・真慧上人の化導によって真宗高田派に改宗し、今日に至っています。
Img_4354c 本堂は、寛政年間(1795年頃)に建立されました。嘉永7(1854)年6月5Img_4358c 日、安政の大地震の始まりといわれる、伊賀上野地震によって、庫裏が倒壊し、記録や元禄以前の過去帳が不明となったそうです。旧のお盆には、庄野大念仏踊りがこの寺を中心に行われます。
Img_4366c 善照寺から200mほどで、庄野町西交差点に来ます。ここが、庄野宿の江Img_4369c 戸方向の入り口。ここにも石標があり、また、宿場の案内、周辺の東海道五十三次の地図があります。昔、近くに住み、働いていたとはいえ、庄野宿をしっかりと診たことはありませんでした。東海道五十三次の宿場であることはもちろん知っていましたが、その頃は若かったこともあって、歴史にさほど興味もありませんでした。
Img_4374c JR関西線・加佐登駅の方に向かいます。道の両側には、日本コンクリーImg_4377c ト工業のグループ会社である中日本コンクリート鈴鹿工場があります。広い敷地にコンクリート製の電柱がたくさん置いてあります。昭和31(1956)年8月に工場ができています。
Img_4383c JR関西線の踏切を渡って、加佐登(かさど)の町へ入ります。ここ加佐登は、昭和Img_4388c 54(1979)年4月に最初の勤務先に就職すると同時に住み始めた、懐かしいところ。現在、名古屋~亀山間は電化されましたが(昭和57(1982)から)、就職当時は非電化区間で、単線がほとんどであったため、名古屋から加佐登までは1時間半くらいかかった記憶があり、「とんでもない田舎に就職してしまった」と思ったものでした(笑)。
 その2も長くなりましたので、ここまで。その3では、加佐登の町を歩き、懐かしいところを見てから、荒神山観音寺へと向かいます。

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