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2018年12月 4日 (火)

20181110近鉄ハイキング「親孝行のふるさと『養老フェスタ』」へ(その3)……養老神社、菊水泉あたりの石碑など、歴史ある旅館

 養老のハイキングの記事を書き終えないうちに、次のハイキングに出かけ、またもや、バックオーダーを抱える事態を自ら招いています(苦笑)。めげずに(?)、11月10日の近鉄ハイキング「親孝行のふるさと『養老フェスタ』」の続き、その3です。その2では、養老神社&菊水泉まで来ました。養老神社には摂社がありますし、両者とも名所ですので、石碑などが多数あります。

Img_1502c 養老の滝の方から養老神社に行きましたが、よく考えたらこちらは裏参道でした。こういうコースが設定されていますので、やむを得ません。リンク先は、岐阜県神社庁のサイトですが、そこには摂社、末社については書かれていません。Img_1517c
Img_1506c 養老神社の鳥居の手前にはまずは、金刀比羅神社がありました。養老神社に向かって左手(西)です。その先、養老神社の鳥居に並ぶようにしてあるのは、御嶽(おんたけ)神社。御嶽神社は御嶽講中の人々が建てた神社だそうです。元は喫茶樹里の北西のあたり、渋谷代衛翁紀功碑の上の所に建っていたものを、地滑りがあったため養老神社に移したと考えられています。御嶽神社は一度養老神社に合祀され、その後、昭和37(1962)年の養老神社の境内拡張工事に伴なって現在の位置に移されています。
Img_1542c 拝殿の下にあったお社。摂社は、金刀比羅神社、御嶽神社の他には、山Img_1541c 之神社、稲荷社、御鍬社があるといいますので(こちら)、そのどれかと思いますが不明。右は、あとで触れる「笠満誓萬葉歌碑」の背後にあった小さなお社。これも不明。
Img_1524c こちらは、高山の国学者・田中大秀と養老美泉について論争した相手の秦鼎の菊水銘碑。秦鼎(はた かなえ、宝暦11(1761)~天保2((1831)年)は、尾張藩の儒者。文化13(1816)年、名古屋の石材商に制作させたものを運び建碑しました。
Img_1527c 説明板の奥にあるのは、この2つ。2つとも文字は読めなくなっています。どちらが秦鼎の石碑か分かりません。石碑には、「養老の山、冷泉出づ。名づけて菊水という。其の香り名の如し。その味醴の如く。又、爆水を雲間の望む。其の布百丈。其の沫珠の如し。……」とあるそうです。「醴」は、甘酒。
Img_1528c 近藤篤養老泉碑。養老六古碑の1つ。元正天皇の養老美泉行幸を記Img_1532c 銘したものです。天明5(1785)年に、岡山藩の儒者である近藤篤が撰文し、当時来日中の中国の書家、呉超程赤城が書いたものです。「元正の御極王道平々たり。民の疾苦を問わせ物をあわれみたもうは天にのっとるなり。……」とあるといいます。
Img_1535c 笠満誓萬葉歌碑。笠満誓(かさのまんせい)は、元正天皇養老行幸と養Img_1540c 老改元に重要な役割を成した当時の美濃国守、笠朝臣麻呂(かさのあそみまろ)の出家後の名前。この歌碑は、昭和55(1980)年、養老神社境内に建立されました。萬誓が後年、造筑紫観世音寺の別当となって、大宰府に西下した折の作歌二首が建碑されています。
「世間乎 何物爾将譬 旦開 榜去師船之 跡無如 (左:帛、右:県で一文字)歌」
(よのなかを なににたとへむ あさびらき こぎいしふねの あとなきごとし)
「白縫 筑紫乃綿者 身著 而未者伎禰 杼暖所見」
(しらぬい つくしのわたは みにつけて いまだはきねど あたたけくみゆ)

Img_1554c 梁川星厳詩碑。梁川星厳(やながわ せいがん、寛政元(1789)~安政Img_1558c 5(1858)年)は、江戸時代後期の漢詩人、憂国の士。美濃国安八郡曽根村(大垣市曽根町)の生まれ。「澗辺の芳草ようしんをぬきんず。厳畔の鳴泉玉はい分かる。かってこれ六りょう巡幸の地。満山の佳気なおいんうん。」という七言絶句。
Img_1570c 掬水泉の下に細川十州翁養老泉碑があります。細川十州(ほそかわじゅImg_1574c っしゅう、天保5(1834)~大正12(1923)年)は、本名を細川順次郎といい、明治、大正期の法学者、教育者。土佐の出身。まれ、長崎で蘭学を、中浜万次郎より英語を学びました。碑文には「一脈の甘泉ろくれいに似たり 誰かまさに至性をもって山霊を動かさん 学童今日豚犬多し 樵子なんぞ曽て孝経を読まんや」と刻まれ、裏面には「大正2年秋 十州友人一文」と刻されています。
Img_1569c その他、養老神社の境内、菊水泉の周りにあったもの。左は、「元正天Img_1578c 皇の行幸と醴泉」という説明板。「続日本紀(しょくにほんぎ)」の記述を引用しています。右は、「謡曲『養老』と菊水泉」についての話が書かれています(謡曲史跡保存会の名前で立てられています)。
Img_1591c これで神社内は一通り見て回ったと思います。ちなみに、養老公園にある石碑は、こちらの「養老公園石碑コース」にほとんど網羅されています。逆コースですが、表参道の方に出Img_1592c て来ました。養老神社の標柱の根元に、菊水泉が流れてきています。孝子源丞内が汲んで老父にすすめたところ酒になったという伝説の水は、この水だといわれています。せっかくですから、ここで泉の水を飲んでみました。無色無臭でしたが、味はまろやか。夏であれば、「甘露、甘露」といったと思います。
Img_1604c 上左の写真にある階段に向かって左手に紀州公観瀑記念碑がありまImg_1606c す。養老六古碑の1つで、川合春川(かわい しゅんせん)の詩が刻まれています。川合は、高須出身で紀州藩の儒臣として仕えました。この詩は、川合が紀州藩第10代藩主・徳川治宝(はるとみ)公が、寛政8(1796)年3月、帰藩のときに観瀑された折りに其のお供をした時につくられたもの。後に春川がこの詩稿を親交があった栗笠の佐藤与三郎宣衡(のりひら)に贈り、寛政10(1798)年)2月に宣衡が建てたもの。
濃之西南一帯山峯連絡す七十余里 伊勢界を距て 古これを多度と総称す。白石山麓瀑布あり養老というかたわらに湧泉あり、国史の所載なり、歳之丙辰、我公東武より南紀に帰り、便道此を観る。卑陪駕之士作詞す。臣川衡古体一篇を賦し 上す。……

Img_1602c

 紀州公観瀑記念碑の傍らには、古い道標がありました。「右菊水天神道 左たきみち」と読めます。養老神社は、平安時代の美濃国神明帳には、「養老明神」と記載されていますが、永正元(1504)年に菅原道真を合祀し、「養老天神」に改称しています。道標の「菊水天神」は、養老神社を指しているのでしょう。神社はさらに、明治初期、近くの元正天皇・聖武天皇祭場を移転し、合祀して、養老神社に改称しました。
Img_1595c さらに少し東にあったと記憶しますが、真新しい句碑。「すめらぎの 滝音千と 三百年」と刻まれています。養老改元千三百年記念として、小畑蛍川句会が建立したとありました。山口一易(岩道)さんの句だそうです(こちら)。 
20181110kintetsuhikingyohro3 実際に歩いたルートを確認しておきます。養老の滝から下って、養老神社まで来ました。養老神社で5㎞を過ぎた辺り。神社に着いたのが11時25分でした。ここから元正天皇行幸遺跡へ向かうのですが、コースマップがわかりにくく、掬水あたりまで行ってウロウロ(苦笑)。いったん神社の下に戻って、「まぁ行けるだけ行ってみよう」と思い直しました。
Img_1599c 北東に進むと、旅館・掬水(きくすい)があります。創業明治23(1890)年とImg_1600c いう歴史のある料理旅館。さらに進むと、カフェ樹里があります。なかなか良さそうなカフェ。養老神社の境内社・御嶽神社は、このカフェ樹里と、次に取り上げる「渋谷代衛翁紀功碑」の間のあたりにもとはあったといいます。
Img_1616c その渋谷代衛翁紀功碑はこれ。渋谷代衛(しぶやだいえい、文政Img_1622c 7(1824)~明治29(1896)年)は、養老町大野出身。多額の私財を投じ、教育など養老町の公共事業に力を注いだ人物です。自宅の一部を学校として開放、さらに児童には本や文具を与えました。養老公園開発の際には、仲間と共に資金を集め道路を新設。桜や楓を植えて景観整備を行いました。
渋谷代衛は孝行心がとても厚く、母親より先に寝たり、後に起きたりすることはなかったと伝えられています。この碑は、明治36(1903)年3月、養老郡において渋谷の徳を慕う有志が建立したものです。
Img_1628c 渋谷代衛紀功碑の先に養老神社の鳥居。本来は、ここからお参りするのが、Img_1630c 表参道と思われます。さらにその先に千歳楼(せんざいろう)。宝暦14(1764)年に開業した旅館。その名は、この年が元正天皇行幸から一千年に当たることに由来するそうです。皇太子時代の大正天皇、有栖川宮、山岡鉄舟、横山大観など錚々たる方々がここを訪れています(こちら)。このあたり、これを書きながら調べて、ビックリしています(微笑)。
Img_1632c 千歳楼へ入っていくところあたりに、北原白秋歌碑。昭和55(1980)年にImg_1635c 建碑されたというのですが、苔生していて、かなり古びている感じで、歌はほとんど読めない状態。碑には「紫闌 さいていささか 紅き石の しま目に見えて 寿々し 夏去りにけり」という歌が刻されています。昭和2(1927)8月、大阪毎日新聞が行った「新日本八景」の人気投票の審査のため、子息を同伴して養老を訪ねた際に詠まれた歌の一つ。
Img_1714c さらに進むと、豆馬亭(とうまてい)という旅館があります。創業明治Img_1639c 13(1880)年、北原白秋をはじめ、数々の著名人が訪れたといいます。北原白秋、野口雨情の扁額が掛っているそうです。養老山系の猪、鹿が食べられるといいます。道理で右のようなものが壁に掛かっているわけです。それにしても、これら歴史のある旅館が現在も営業しているというのは、ちょっと驚きでした。
 長くなりましたので、その3はここまで。その4では、元正天皇行幸遺跡から続きを書きます。

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