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2018年11月29日 (木)

20181110近鉄ハイキング「親孝行のふるさと『養老フェスタ』」へ(その2)……妙見堂、養老の滝から養老神社、菊水泉へ

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 近鉄ハイキング「親孝行のふるさと『養老フェスタ』」へのその1では、養老駅20181110kintetsuhikingyohro2 をスタートし、養老公園内で道を間違え、余分に2㎞歩いたのち、正しいルートに戻ったところまで書きました。冒頭の2枚が詳しい実測ルート図であります。正しいルートに戻る時点で3㎞を歩きました。しかもアップダウンがけっこうあり、ややお疲れ(苦笑)。
Img_1382c_2 正しいルートは川沿いというか、川の上、林の中を進みます。よく考えれば、滝に向かうのですから、川に沿って行くとなるはず。まだまだ修行が足りません。こういう道を進んで、1㎞弱、ようやく、妙見堂に到着。10時40分。30分以上のロス。
Img_1387c この妙見堂は、明治13(1880)年、岐阜県県令小崎利準(こさき としなり/ おざき りじゅん)氏が日鑑上人(身延山久遠寺法王)を招き、堂宇を建立したのが始まりとされます。この年は、養老公園が開設されたときだそうです。説明板によれば、この地は370年あまり前、久遠時代21世寂照院日乾上人が、大干魃が続いたときに雨乞いの霊場として開かれたものが始まりです。ちなみに、小崎利準は、幕末の伊勢亀山藩士、明治期の内務官僚(天保9(1838)~大正12(1923))。
Img_1412c 「養老の妙見さん」として親しまれてきたそうですが、堂宇は長年の風雪Img_1394c に耐えかね、昭和37(1962)年に倒壊。再建計画は建てられたものの、寺堂の場所が、国有の公園予定地であったため困難を極め、本尊の釈迦牟尼仏木像が件の重要文化財の指定を受けたのを機会に地元民の熱烈な要望によって、公園予定地から解除され、昭和52(1977)年ようやく本堂が再建されました。寺宝は、江戸時代初期の寛永年間(1630年頃)に中正院日護上人(京都三宝院開祖)が製作したものと伝わる「木造釈迦如来立像」(岐阜県指定重要文化財)。庫裏は数年前の火事で焼けてしまったそうです(右の写真で灯籠の奥に庫裏があったようです)。また、お堂の管理は日蓮宗養老教会の方がなさっているということです(こちら)。
Img_1397c 境内はさほど広くはない感じではありますが、自然に溶け込んでいる印Img_1406c 象があります。本堂に上がっていく階段の脇には、「慈母観音堂」と、南無妙法蓮華経と刻まれた仏塔。仏塔の左側には、「開運妙見大菩薩」とありました。右は、本堂に掲げられた扁額。養老妙見山とあります。妙県道を出て来たところで4㎞。
Img_1416c 妙見堂から西へ坂を下っていくと、養老の滝から流れる川沿いの道に出Img_1435c ます。以前、養老の滝へ来たことはあるのですが、記憶はあまり定かではありませんでした。妙見堂からいったん下ったものの、そこからは山登りかと思えるほどの坂道を登っていかねばなりませんでした(苦笑)。右の写真は、登って行く途中で撮ったもの。左端に養老の滝への道が写っています。後で調べたら、妙見堂あたりは標高約180mでしたが、養老の滝付近は280mあまり。コースミスで余分に歩いてきた身にとってはけっこう辛い(苦笑)。
Img_1429c 途中、石碑がいくつかあったのですが、しっかり見る余裕はなく、とにかく写真だけは撮っておこうという風でした。まずこちらは、「滝川惟一養老瀑泉詩碑」。紅葉橋と万代橋の中間にあります。養老六古碑の一つだそうです。この碑は、笠松郡代19代滝川小右衛門惟一(たきがわ しょうえもん これかず)が自作の詩を当時有名であった大窪詩佛(おおくぼしぶつ)に書を依頼し建てたものです(文化9(1812)年)。台風により何度も川底へ転落し破損しています。現在の碑は、昭和30年(1955)年に建て直したもの。
Img_1431c 原文は、七言律詩で、養老の滝などを称える内容となっています(ここにあります)。以下は、説明板にあった読み下し文。「多度山高くして二州にまたがる。飛泉百尺崖をつんざきて流。一条の縞練りかかってさらすがごとし。万点の明珠はくだけておさまらず。かつて先王の為にこしつを癒し。又孝子をして窮愁をとかしむ。喜ぶわれすい境に恩を受うくること厚し。千里来って養老の遊びをなす。」
Img_1436c さらに登ると、「梁川星巌養老改元詩碑」があります。ただし、もともと明治43(1910)年に建てられた石碑は、昭和56(1981)年の土砂崩れによって埋没してしまったため、平成29(2017)年に養老改元1300年を迎えるにあたって、再建されました(平成27(2015)年11月)。梁川星巌(やながわせいがん:寛政元(1789)~安政5(1858)年)は、江戸時代後期の漢詩人です。この詩碑は、大垣船町の鳴石守屋孫八(なるいしもりやまごはち)氏が、星巌晩年の傑作と定評がある書幅を京都の恩賜博物館(現京都国立博物館)へ献納するにあたり、明治43(1910)年にその記念として建立しました。
Img_1440c 碑には養老改元を称える漢詩が刻まれています。読み下し文は、次の通り。「養老改元史編を光(てら)す 今に至るまで百丈瀑泉懸かる 寒風珠玉噴きて雨と為す 白日雷霆(らいてい)轟きて天に在り 萬乗の宸遊良(まこと)にゆえ有り 四彊(しきょう)の民瘼(みんぱく)果たして皆痊(い)ゆ 滂沱(ぼうだ)晷(か)れず大君の澤(たく) 盥沐(かんもく)何ぞ唯だ千億年のみならんや」 原文は、ここに載っている掛け軸の七言律詩と同じと思います。
Img_1442c 妙見堂から距離にして500mほど、11時頃にいよいよ養老の滝が見えるところまでやって来ました。かなり登ってきて、息切れがするくらい(苦笑)。普段ほとんど平らなところで散歩をしていますから、こういう急な坂道には弱いのが明か。距離測で見ると、妙見堂からは100mほどの高低差があります。左の写真を撮ったところからさらに少し登らないと、滝には出られません。もう少しの頑張りが必要(笑)。
Img_1456c そのもう少しの頑張りでやっと滝のところまで来られました。養老の滝 は、落差32m、幅4m。岐阜県により設置された養老公園内にあり、揖斐関ヶ原養老国定公園にも属します。日本の滝百選及び養老の滝・菊水泉として名水百選に選定されています。その1に書きましたように、親孝行の伝説「養老孝子伝説」など故事があります。また、この地を行幸した元正天皇は「醴泉は、美泉なり。もって老を養うべし。蓋し水の精なればなり。天下に大赦して、霊亀三年を改め養老元年と成すべし」との詔を出し「養老」に改元しています。
Img_1464c 滝の近くには、「田中大秀養老美泉辯碑」(ようろうびせんべんひ)が建っています。田中大秀(たなかおおひで:安永6(1777)~弘化4(1847)年)は、飛騨高山の国学者。本居宣長に師事し、宣長の学風を会得したといいます。文化11(1814)年、大秀が養老美泉録を著し、これを機会に養老の美泉について尾張藩の儒臣、秦鼎(はたかなえ)と論争を交わすところとなります。文化12(1815)年、養老美泉碑を建立したのですが、大秀翁の死後、秦鼎の門人たちが養老美泉の版木を焼却し、養老美泉碑をも打ち砕いてしまいました。明治31(1898)年に大秀翁の流れを汲む高山の山崎弓雄等社中の人々が、大秀翁のためにこの碑の再建を図り、拓本をもとに復元しました。
Img_1465c この「養老美泉論争」は、元正天皇が訪れた養老の美泉がどこかにかかわる論争です。減少天応が訪れた美泉の候補は、「養老の滝」と「菊水泉」の2つがあり、今もはっきりとした結論が出ていないということです。これについて、論争したのが国学者・田中大秀と、儒学者・秦鼎です。田中大秀は養老の滝派、秦鼎は菊水泉派でした。田中大秀は、「養老美泉録」(1814)や、「養老美泉辯註」(1815)を著し、さらに滝のそばに「養老美泉辯碑」を建て、持論の正当性をアピールしたのです。これに対し、秦鼎は、文化13(1816)年、菊水泉に「菊水銘碑」を建てています。さらに、養老の弟子へ田中大秀を誹謗する手紙も送るといったこともあったようです。
Img_1480c 養老の滝のところでは、一休みして、次の目的地である養老神社を目指Img_1489c します。途中までは、登ってきたルートをたどっていきます。ところどころ紅葉していて気持ちよい景色。それにしても、下りは楽チン。しかし、登ってこなければ、この気持ちよさは味わえません。苦労と楽しみ・楽(らく)は表裏一体なのかも知れません。養老の滝からの川にはいくつもの橋が架かっていますが、万代橋を渡って(右の写真)、川の左岸へ。
Img_1495c 養老神社に向かって歩いていると、路傍に「二丁」と刻まれた石が置かれていました。養老神社から元正天皇行幸遺跡に向かうときも、「五丁」「六丁」などの石がありました。「丁石(ちょういし)」と呼ばれる、距離を示す石です。ここでは滝までの距離を示していると思われます。一丁(丁は、町とも書きます)は、約109.09mです。二丁は、したがって218mあまり。この丁石には、「尾州東春日井群瀬戸町北 加藤ます立」と寄進者の名前が刻まれていました。
Img_1497c 二丁の丁石のあったところから対岸を見た写真。こういうところを登ってきたのです。改めて眺めると、よく登ってきたものだと思いますが、けっこう年配の片が杖をつきながら登っておられたりしますので、頑張ったと威張れません。
Img_1502c などと思いながら、養老神社に到着。11時25分、5.1㎞(養老の滝からは500m)。境内には名水百選の1つに選ばれている「菊水泉」があります。創建時期は不明ですが、「養老孝子伝説」の源丞内ゆかりの神社といわれ、奈良時代養老年間以降と推測されています。平安時代の美濃国神明帳には、「養老明神」と記載されています。永正元(1504)年、菅原道真公を合祀し、「養老天神」に改称。明治初期、近くの元正天皇・聖武天皇祭場を移転し、合祀しました。このとき、養老神社に改称されています。
Img_1516c  主祭神は、岐阜県神社庁のサイトによれば、天照皇大神、元正天皇Img_1519c_2 武天皇、菅原道真。Wikipediaや、養老町観光協会の説明では、古くは、菊理媛命(くくりひめのみこと)が祭神とも伝わるとなっています。菊理媛命は、伊奘諾尊と伊弉冉尊が黄泉平坂(よもつひらさか)で争ったとき、助言して両者を仲直りさせたとして、縁結びの神とされます。
Img_1553c 養老神社といえば何をさておき、「菊水泉」です。神社の拝殿の東、階段を降りたところにあります。元正天皇が浴された美泉と伝えられ、また、孝子伝説で有名です。
Img_1562c 菊水という名は、昔、不老長寿に効めがあると宮中の儀式などに菊花を浮かべた菊酒を飲むのが流行し、元正天皇が行幸されたころ泉の水に菊の香りがすると評判になり「菊水」と呼ばれるようになったとも、また、「くくりむすぶ」水、すなわち、世の中を治める水ともいいます。今もこんこんと湧き出ています。カルシウム・マグネシウム・カリウムなどのミネラル成分を豊富に含んでおり、無色無臭ですが、味はまろやかで美味しいといいます。
 養老神社境内には、摂社もありますし、さすがに名水「菊水泉」を有するだけあって、石碑も多数。長くなりますので、いったんここで小休止。養老神社の話は、その3に続きます。

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