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2018年11月 9日 (金)

20181103近鉄ハイキング「蒲生氏郷を訪ねて 氏郷まつりと松阪城下町散策」へ(その2)……愛宕山龍泉寺

20181103kintetsuhikingmatsusaka1  11月3日の近鉄ハイキング「蒲生氏郷を訪ねて 氏郷まつりと松阪城下町散策」のその2です。その1(11月8日:20181103近鉄ハイキング「蒲生氏郷を訪ねて 氏郷まつりと松阪城下町散策」へ(その1)……八雲神社(調べが足りませんが……))は、スタートから700mほどの八雲神社で終わってしまいました。思わぬ難敵もあり、調べが足らないまま、次へ進みます。

Img_0514c 次の目的地は、国道42号線(熊野街道)、愛宕町交差点のところにある愛宕山龍泉寺。真言宗嵯峨大覚寺派のお寺。龍泉寺のある愛宕町は、江戸時代には川井町とともに遊郭として栄えたところだそうです。それはさておき、いきなり朱塗りの鳥居に「愛宕山」という扁額。奥には三門が見えるという、なかなかの光景。鳥居は、権現鳥居両部鳥居とも)というもの。2本の本柱の前後にそれぞれ低い控え柱を設け、貫(ぬき)で連結した鳥居で、神仏習合の神社に多いといいます。事前に「三重県の歴史散歩(山川出版社、2007年)で見たところ「神仏習合の色合いがきわめて濃い」とあったとおりの印象。
Img_0522c 鳥居の奥に三門。県指定有形文化財。切り妻造りの薬医門で、時代は安土桃山時代のもので、Img_0529c その風格を示すといわれます。松ヶ島城裏門を移したとも、松坂城の門を移したともいわれるようですが、確証はないそうです。三門の右側の妻の破風には、焦げた跡が残っています。これは、昭和26(1951)年の松阪大火のときのものだそうです。
Img_0524c 三門の脇(向かって左)には、信貴山毘沙門天王分霊安置 當山」という石Img_0518c 碑。「大正12(1923)年6月15日建之」とあります。また、鳥居の手前には、右の写真の「石柱」。正面には、「従是西」とありますが、その続きはないように見えます。向かって右には、「愛宕山龍泉寺」と刻まれています。何か、境目を示す石柱でしょうか。
Img_0559c 昔から「お伊勢に七度 熊野に三度 愛宕さんへは月参り」といわれ、火防安住、商売繁盛、良縁祈願所として信心を集めています。地元の方からは、「あたごさん」と親しまれています。ご本尊は、火防(ひぶせ)の霊神「愛宕大権現」と、その御分身の「愛染明王(あいぜんみょうおう)」。三重四国八十八霊場の「第八十番札所」であり、伊勢乃国・松阪霊地七福神毘沙門天(びしゃもんてん)」も祀っている寺院でもあります。真言密教のお寺で、護摩祈祷が行われます。この写真は、愛宕権現殿。
Img_0577c こちらは、愛染堂。龍泉寺の開創は、聖武天皇(在位:724~49年)が行基に勅し、一志郡中郷村滝野川に一宇を建てたのが始まりと伝わっています(滝野川寺)。その後、永禄年間(1558~69年)、各地で戦が起こり、その影響を避けるため、永禄11(1568)年、松ヶ島平尾村に移り、「瀧泉寺」となったということです。さらに、松ヶ島城が松阪城に移り替えの際、時の住職良宗上人が現在の地に移建しました(こちら)。
Img_0533c この龍泉寺、すでに触れましたが、「神仏習合の色合いが濃い」お寺ということもあり、また、いきなり朱塗りの鳥居に「愛宕山」という扁額があるなど、不思議なところでした。どこから書いていくか迷うのですが、ここからは見て回った順に。朱塗りの鳥居と三門をくぐると、左手に見える景色。この階段を上って右に向かうと、上の写真にある本堂に出ます。が、その前にいろいろありました。階段の右手、手前には「千度石」、その奥、上りに隠れたところには毘沙門天像。
Img_0534c 階段を上ったところの左手には、お墓と、塔。塔には、「明真言塔」とありますが、向かって右が欠けているようです。調べてみると、「光明真言塔」というものがありました。「光明真言(こうみょうしんごん)」は、密教系の仏教で唱える言葉で、塔の上部にある円形部分に梵字で刻んであるのがそれのようです。残念ながら、あまりよく見てきませんでした。
Img_0536c 向かって左にあるお墓。裏を見てビックリ、何と蒲生氏郷のものでした。Img_0539c 正面には法名が刻まれているのですが、Wikipediaでは「昌林院殿高岩宗大居士」となっていますが、ここに刻まれているの「昌林院殿高岩宗大居士」と読めます。氏郷は弘治2(1556)年に生まれ、文禄4(1595)年2月7日に亡くなっています。天正12(1584)年、それまでの功績により、南伊勢12万3千石の松ヶ島城主となりますが、その後、現在の松坂城を築城し、天正16(1588)年に入城したもののが、天正18(1590)年には陸奥国会津に移封されました。
Img_0543c 文禄の役(文禄元(1592)年)にも出陣していますが、陣中で体調を崩しImg_0540c て、いったん会津に帰国。文禄3(1594)年春に養生のために上洛したものの、文禄4(1595)年、伏見の蒲生屋敷において病死しています。享年40。墓所は、大徳寺黄梅院(京都市北区)と、興徳寺(福島県会津若松市)で、この龍泉寺のものは検索してもヒットしません。お墓の傍らには、古い写真が掲示されており、そこには「昭和10(1935)年4月7日 故松阪城主 蒲生氏郷卿 展墓祭(地元門前町司祭) 愛宕山龍泉寺 於 境内」と付記されています。「展墓」はお墓参りのこと。この写真をよく見ますと、お墓の形は同じなのですが、その背後にお堂や鳥居が見えます。気になりますが、先に進みます。
Img_0548c 階段を上がった正面には、お社が3つ並んでいます。向かって最も左にImg_0550c は、津島神社。略縁起によれば、徳川後期、悪疫流行したため、これを免れるため有志が津島の大神を勧請して(御祭神は、建速須佐之男命)、愛宕山の地に祠を構えて安置したとあります。明治41(1908)年には、大山祇神少名彦大神 を合祀しています。
Img_0551c その隣には、お稲荷さん。社の左手前にかなり朽ちている扁額が置かれてImg_0556c いましたが、そこには「稲魂命」とありましたが、それ以上は説明がなく、不明。さらにその隣にもう1つお社がありましたが、かなり傷んでおり、説明も何もなく、不明。
Img_0582c 愛宕権現殿と愛染堂の間に「滝川稲荷大明神」の参道がありました。こImg_0591c の奥、つまり愛宕権現殿と愛染堂の裏手に滝川稲荷のお社があるのです。
Img_0595c
 この滝川稲荷は、松阪に最初に出来た「稲荷明神」ということです。龍泉寺がここに移ってきたときの住職良宗上人が、眺望の良い丘に上がり桑の古木の下で休んでいるときに現れた2匹の狐が「絵絹一幅」(「飯綱権現」の画)を残して立ち去ったといいます。それは契機に上人が、この地に「瀧川稲荷の本社」を移し、出現の神像を合祀して「正一位瀧川稲荷五社大明神」と称したそうです(こちら)。
Img_0586c 滝川稲荷の境内には、「安保氏頌徳之碑」があります。安保庸三(あぼ ようぞう;元治2(1865)~昭和17(1942)年)は、明治~昭和時代前期の実業家、政治家。松阪電気を設立し、のち社長。さらに松阪鉄道社長、勢和自動車社長、南勢新聞社長、松阪共産取締役、三重出版取締役などのほか、三重県農工銀行、松阪劇場などの監査役を務めました。一方、松阪町議、飯南郡議、三重県議、同議長を経て、大正13年衆院議員(政友会)に当選1回。裏には、昭和30(1955)年10月建之とあります。
Img_0602c 滝川稲荷の境内には、池のある庭園もあるのですが、残念ながら手入Img_0564c れが行き届いていない印象。このほか、境内には小さな祠なども多数ありましたが、割愛。真言密教のお寺ですから修験道などとも関連が深いのでしょう。印象に残ったのは、右の絵馬。昭和35(1960)年に奉納されたものですが、願主が「三重修験道会」とあります。
 愛宕山龍泉寺、不思議なところでした。八雲神社と同じく、ここも調べが付かないことが多数です。ネットにはいろいろな情報が上がってはいますが、それだけでは十分ではないということです。
20181103kintetsuhikingmatsusaka2_3  竜泉寺を出ると、愛宕町の交差点。ここでまだ1.4㎞しか進んでいませんが、調べるのにいささか疲れましたので、その2はここまで。次は、また氏郷まつりのエリアを通って本居宣長墓所のある樹敬寺へ向かいます。

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