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2018年10月31日 (水)

20181027JRさわやかウォーキング「来てちょ~だゃ~名古屋の産業をめぐって 秀吉生誕の地 中村へ!!」へ(その2)……円頓寺商店街を歩く

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 10月27日のJRさわやかウォーキング「来てちょ~だゃ~名古屋の産業をめぐって 秀吉生誕の地 中村へ!!」のその2です。その1では、余計なことにあれこれ目を向けていたら、スタートから2キロも進まず、円頓寺商店街の入り口までしか行けませんでした。
Img_9142c_2 円頓寺商店街の東の入り口。平成27(2015)年春に、アーケードを改修した1eaca7d6 そうです。また、同じ年に、パリにあるパノラマ商店街と姉妹提携をしたり、年間を通して多数のイベント多く開催したり、活発な活動を展開しています。円頓寺商店街に来るのは、2度目。ついこの間来たような気がしていましたが、何と8年近く前でした(2010年12月14日:名古屋、四間道を散歩)。このとき撮ってきたのが右の写真。確かにアーケードが変わっています。
Img_9145c あとから気づいたのですが、商店街を通ったのに、商店の写真をほとんどImg_9148c 撮っていませんでした(苦笑)。お寺や神社に目が向いていたためのようです。その1の末尾にも書きましたが、明治創業の店がある一方で、新しいところもあります。とあるところは、右の写真のように、昨今流行のボルダリングができるところがありました。ここ円頓寺商店街で、何か弁当でも売っていたら買おうと思っていたのですが、残念ながら歩いた時間帯にはそれはありませんでした。
Img_9144c 商店街に入ってすぐ、この説明板。“初代尾張藩主の側室「貞松院」下屋敷跡”というもの。ふれあい館えんどうじの前に立てられています。貞松院(1608~1684)は、尾張藩初代藩主・徳川義直の側室。正室・春姫に子がなかったため、幕命で寛永元(1624)年、輿入れ。寛永3(1626)年、鶴姫を生んでいます。江戸初期の「万治年間之名古屋図(1658~16860)」に「四間道(しけみち)」と円頓寺通と御本坊筋に囲まれた旧沢井町に「貞松院様御屋敷」とあるそうです。それを示す案内板。遺跡などはなさそうでした。
Img_9150c 円頓寺商店街に入って100mほどの北側に、真宗大谷派のお寺、阿原山Img_9152c 慶栄寺。永正元(1504)年)、春日院善正によって美濃国多芸郡に創建された後、尾張国春日井郡の阿原村(現・清須市)に移転。清洲越しの後に名古屋の皆戸町(現・中区丸の内一丁目)に移ったとされます。移転してきたのは、寺伝の慶安2(1649)年のほか、複数の異説があります。元禄13(1700)年、いったん再建された後、享保9(1724)年の大火で再び被害を受け、同年12月に現在地に移転しています。京都・法光寺の末寺でしたが、明治維新を経て東本願寺の末寺となりました。残念ながら、山門が閉じられていて、拝観はできず。
Img_9155c この写真にもありますように、このお寺には「聖徳皇太子御自作霊像奉安塔」があります。寺宝の「聖徳太子木像」が収められています。京都の銀閣寺余材を使って建てられたと伝わる六畳台目数寄屋造の茶室、松涛庵もあります。と書いていますが、ネットで調べても、あまり詳しいことは出て来ません。
Img_9159c 慶栄寺を見て、南を振り返ったら、何やら古そうなお寺が見えました。円Img_9163c 頓寺商店街から少しだけ南に入って確かめたら、真宗高田派名古屋別院でした。石柱には「愛知別院」とありますが、案内板にも、高田派のホームページにも名古屋別院とあります。正保4(1647)年、専稱院義起玄怒によって尾張国皆戸町(現在の中区丸の内付近)に臨光山信行院として創建されました。明暦3(1657)年、元は東本願寺の末寺で、前年に高田派へ転じた順正寺を合併して現在地に移転しています。ご本尊は恵心僧都作と伝えられています。
Img_9164c  享保9(1724)年、大火によって焼失、元文3(1738)年には一旦無住となったものの、その後再建され、専修寺第17世円猷の許可を受けて元文4(1739)年、高田本坊と改めています。当時の敷地は、現在の円頓寺通(圓頓寺筋)に面していたため、圓頓寺筋を御本坊筋とも呼んだといいます(上記の「貞松院」下屋敷跡の説明に出て来ます)。明治末から昭和初期にかけては「愛知別院」を称していましたが、昭和20(1945)年1月3日の空襲で本堂を焼失。さらに、3月の空襲では山門や鐘楼など一部を残して全山を焼失しています。昭和27(1952)年から堂宇が再建され、愛知別院を名古屋別院に改めました。
Img_9169c 話があちこちするというか、バラバラですが、高田派名古屋別院のすぐ北にL字型になった小路がありました。「円頓寺銀座街」ということで、割烹、居酒屋、食事処に、イタリア食堂までが並んでいる一角です。これこそ、昭和の雰囲気たっぷり。営業しているところもあるようでしたが、10時過ぎでは、開店はしていません。こういうところで食事をするなり、一杯飲むなりしてみたいもの。
Img_9170c 円頓寺商店街に戻ると、金刀比羅神社がありました。もとは、尾張藩家Img_9172c 老の大道寺家の屋敷内にありました。北条氏の家臣だった大道寺政繁の次男・直重は前田利政に仕えたあと、清洲の松平忠吉に仕えます。忠吉亡き後、尾張徳川初代藩主の義直に2千石という好待遇で招かれたのです。大道寺直重の屋敷は、名古屋城三の丸の一角で、現在、愛知県図書館があるところ。邸宅内にあった金刀比羅神社を現在地に移したのが安政6(1859)年といいます。写されるに至った理由や、そもそも大道寺家が何故金刀比羅神社を祀ったのかは、分かりません。
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 戦後しばらく、金刀比羅神社の境内は現在の3倍ほどあったそうです。都市計画によって敷地が縮小され、現在はこぢんまりとした神社となっています。古びた感じはしますが、手入れはされていて、大切にされている神社という感じがします。主祭神は、大国主命(オオクニヌシノミコト:出雲大社の御祭神)。他に須佐之男命(スサノオノミコト:天照大神の弟、乱暴を重ねたため高天原から追放)と加具土命(カグツチノミコト:火の神)を祀ります。
Img_9186c 3枚前の写真に写っていますが、ここで「なごや弁みくじ」という掲示を見つけてしまいました。初穂料は100円。これは引いてみなくてはなりません。その結果は、「小吉」でした(微笑)。「どっちを向いても幸福みてゃーあらせんて ひそかに空からおって来る、地から湧いてくるもんだに 心静かに待ってみや 盗難用心」とありました。ちなみに「恋愛」は「いろいろでも許してもらえる」、「商売」は「どえりゃあええ」、「失物」は「出ん 諦めやぁ」だそうです。なんだか、河村たかし名古屋市長にいわれているような気がしてきました(苦笑)。しかし、これ、結構有名のようです。珍しいですし、引いてみると楽しいと思います。ちなみに、あとから知ったのですが、ハリセンボンのお二人が願掛けをしたと思われる絵馬があるそうです(こちら)。
Img_9216c 金刀比羅神社の目と鼻の先に、長久山円頓寺。円頓寺商店街は、このImg_9195c お寺の門前町が発展したもの。円頓寺は、承応3(1654)年に、普敬院日言上人によって開創された日蓮宗のお寺。当初は、普敬院と称したものが、円頓寺に改められました。ちなみに、お寺の名前は「えんどんじ」と読むようですが、商店街は「えんどうじしょうてんがい」。
Img_9199c 本堂内右手脇間に鬼子母神が安置されています。この鬼子母神は、「子Img_9201c 安の鬼子母神」で、子育て安産の神様です。これは、尾張徳川家より寄進されたものです。円頓寺第2世・玄収院日道上人が、尾張徳川家初代義直公の側室の安産祈願・子育て祈願を成就したことに対して、賜ったといいます。本堂(右の写真)は、拝観してきましたが、毎月18日の鬼子母神の縁日のみご開帳のようでした。こちらをご覧ください。
Img_9210c 円頓寺の境内には、長久稲荷大明神が祀られています。日蓮宗のお寺Img_9208c には、お稲荷さんが祀られているというか、残っているというか、そういうことが多い印象があります。このお稲荷さんについての詳細は、不明(ネット検索では分かりませんでした)。
Img_9204c さらに境内にあったもの。「富士松富士太夫の碑」と読めます。裏には文字は刻まれていないようでした。これもよく分かりません。ネットで検索すると、富士松というのは、新内節の家元の名前(名字)として出て来ますが、関係があるのかないのかまったく分かりません。お手上げ(苦笑)。
Img_9202c もう一つ。「名古屋十名所」という石柱。あるブログの笠寺観音についての記述からすると、「名古屋十名所之一」となっているかも知れません。「名古屋十名所」は、大正13(1924)年8月に、新愛知新聞社(現在の中日新聞)が選んだといいます。熱田神宮、闇ノ森、圓頓寺、天理教々務支庁、名古屋城、榎ノ権現、久屋金刀比羅、笠寺観世音、櫻田勝景、山田元大将之社というラインナップ。率直に言うと、どういう基準で選ばれたのか、よく分かりません。新愛知新聞社は、昭和2年に主催した「愛知新十名所」なるものを選出しているようです(こちらを参照)。
Img_9193c 円頓寺の最後、山門前にある石柱。けっこう古びていて、痛みも見られます。一説によれば、第2次大戦の際の空襲で表面が剥がれ落ちたといいます。碑表には、「南無妙法蓮華経 日道」と刻まれていると思います(ちょっと自信がありません)。建立は、「文化十年癸酉(みずのととり)十一月宗建(?)日」とあります。文化10年は1813年。他に、「天下泰平 国土安穏」ともありました。
Img_9218c 円頓寺商店街を通り抜け、名古屋市道江川線を渡ります。上を通っているのは、名古屋高速6号清須線および都心環状線。この江川線という道路は、もともと、「江川」と呼ばれた用水路を大正時代に暗渠化して道路にしたための通称だそうです。
Img_9219c  ここ市道江川線・円頓寺交差点の四隅に三英傑(織田信長、豊臣秀吉、Img_9221c 徳川家康)と水戸黄門のモニュメント像があります。これらは地元の人が寄贈したものようです。交差点の南東には、徳川家康、北東には、織田信長。織田信長は、金ピカ。そういえば、JR岐阜駅前にある織田信長の像も金ピカです。
Img_9224c 交差点を渡って、北西のところにいるのは豊臣秀吉、南Img_9225c 東には、何故か水戸黄門。郷土の三英傑は分かりますが、黄門様がここまで漫遊してきたはずはありません。地元のある不動産会社経営者が寄附されたそうですが、黄門様は「単純に好きだったから」だそうです(こちらに言及があります)。
Img_9230c 江川線を渡ったところは、円頓寺でも、「円頓寺本町商店街」となっていImg_9233c ました。円頓寺商店街の方よりもやや賑やかという印象ですが、レトロ感は同様。円頓寺本町商店街の一角には、多賀社があったのに、見逃してしまいました。名古屋で唯一の多賀社ともいわれ、残念。たぶん、どこかで弁当でも売っていないかと思っていたのが、良くなかった(苦笑)。
Img_9243c 円頓寺本町商店街を抜けて、ようやく2.6㎞。10時半を過ぎたくらい。このあと、菊井町交差点に出て、外堀通をノリタケの森に向かいます。その2はここまで。

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