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2018年10月25日 (木)

20181012近鉄ハイキング「こもガク&大日本市菰野博覧会を楽しもう!」へ(その1)……菰野駅をスタート、西覚寺、忠魂碑・地蔵堂、道標を見て、廣幡神社へ

 やっと、10月12日に行ってきた近鉄ハイキング「こもガク&大日本市菰野博覧会を楽しもう!」に到達しました(苦笑)。この秋、菰野で行われる近鉄ハイキングが多いのですが、それは、湯の山温泉開湯1300年を記念して、「近鉄エリアキャンペーン」が行われているからです。いつぞや書きましたが、かなりの菰野通になれそうな気がします。

Img_6957c この日のハイキングのスタート&ゴールは、近鉄湯の山線・菰野駅。菰野駅Img_6949c での受付は、10:00〜11:30。それ故、桑名を9時1分の五十鈴川行き急行に乗車。近鉄四日市に9時13分着、湯の山線の湯の山温泉行き(9時31分発)に乗り換えて、菰野駅には、9時49分に到着。¥470。菰野駅は、9月2日の近鉄ハイキングのゴール(20180902近鉄ハイキング“「開湯1300年 ゆこうよ 湯の山」菰野藩主土方雄豊公ゆかりの見性寺での開湯1300年記念祭を訪ねて”へ……予告編)。コースもこのときと一部重なります。
Img_6962c 駅に着いた時点ですでに受付は始まっていました。今日のコースマップは、181012kintetsuhikingkomono 左の写真の通り。菰野町の南東部を歩きます。約6㎞ということでした。実際に歩いたルートマップは、右の画像の通り。5.7㎞でした。2ヶ所で同じ所を往復していますが、基本的には、左回り。
181012kintetsuhikingkomono1 こちらが詳しく見た、実測ルートマップ。
Img_6967c 菰野駅から西に向かいます。100mで宝樹院西覚寺。ここは、9月2日にも立
Img_6968c_2 ち寄っています。菰野駅西の踏切の側にあります。浄土真宗大谷派のお寺ですが、ネットではこれという情報はありません。
Img_6972c いきなりの余談ですが、西覚寺の前で、菰野町のマンホールを撮影。デザインは、鈴鹿山脈に生息する特別天然記念物の「ニホンカモシカ」、町の名前から名づけられた「コモノギク」、町の鳥「ウグイス」、町が誇る名峰「御在所岳」と「ロープウエイ」を描いたものでした。
Img_6977c 西覚寺の南で、近鉄湯の山線の踏切を渡ります。ここをまっすぐ南に行くImg_6979c と、9月2日に行った見性寺。菰野藩主土方家の菩提寺。この日は、金渓川に架かる橋の手間で右折して西に向かいます。正面には鈴鹿の山並みがよく見えます。
Img_6986c 菰野町菰野あたりから見た御在所岳。御在所岳は、我が家からも見えまImg_6981c す。標高1,212m。三重と滋賀の県境にあります。白い鉄塔は、御在所ロープウェイの「白鉄塔」。御在所岳の標高約943m地点に建つ御在所ロープウエイの支柱。鉄塔の高さは61mで、日本一。
Img_6990c 南瀬古集会所を過ぎてしばらくのところに、忠魂碑と地蔵堂がありました。スタートからは600mほど。ネットであれこれ調べたものの、詳細は不明。三重県遺族会のサイトにある忠魂碑のリストにもあがっていません。碑陰を見ると、「建碑施主 嗣子 藤枝吉武」などと刻まれていました。個人的な忠魂碑かも知れません。碑の表は、かなり古びていて判然としませんが、初めのところには、「藤枝氏廣治氏碑」とあるように読めます。ネット検索ではこの日に関わる情報は出て来ません。「精梢才碑」という題になっていると思われます。
Img_6995c 忠魂碑から道を挟んで北側には地蔵堂。「延命地蔵尊」とありますが、Img_7002c これも詳細は不明。しかし、お世話はきちんとなされているようでした。
Img_7006c
 忠魂碑・地蔵堂から西へ2~300m、洗心教団の角に道標。「右 ゆ乃山Img_7010c 道」とあります。洗心教団の角に立つ。札の辻(東町商店街の一角)を南へとり、明福寺西裏を抜けて、金渓川の堤防を西に進む旧湯の山道の樋の口橋詰めにあったものを、大正10(1921)年、県道湯の山線が新設された際に移したといいます(こちら)。
Img_7016c 1㎞を過ぎて、四日市菰野バイパスを横断してすぐ左折。南下して廣幡神Img_7019c 社に向かいます。旧くは正八幡宮と称し、寛永7(1630)年8月、菰野藩主・土方雄氏公が、京都の石清水八幡宮より勧請し、それ以来、同家の鎮守社となっています。一の鳥居は、金渓川のすぐ北に建っています。
Img_7021c この金渓川の北にある鳥居脇に社号標。「郷社 廣幡神社」、「明治Img_7032c 45(1912)年5月建之」とあります。神社に行くには、金渓川にかかる廣幡橋を渡って、さらに南へ。擬宝珠の付いた立派な橋は、昭和9(1934)年5月に架けられたとしるされています。藩主・土方家の菩提寺・見性寺の時もそうでしたが、ここも拝殿に着くまでに長いアプローチがあります。
Img_7043c 神社は小山の麓の少し高いところにあります。階段を上Img_7046c って二の鳥居へ。二の鳥居をくぐったところに広場があり、そこに「神尊百度石」が建っていました。かなり歴史があるもののように見えたのですが、昭和58(1983)年創建と刻まれていました。小生の感覚(年齢が影響?)では、比較的新しいと思ってしまいました。「命運隆盛」「無病息災」「福徳円満」「子孫繁栄」とありました。碑陰には寄進者と思われる方々のお名前。
Img_7050c 二の鳥居をくぐって右手(西)にさんの鳥居。脇には、古い鳥居や、社号Img_7052c を刻んだ大きな石碑。社号標の日陰には、「明治四辛未年八月十五日 菰野縣」とありました。廃藩置県がこの年(1871年)の7月に行われていますから、その直後に建てられたもの。この三の鳥居に向かって右手(北)には、山の神様が4柱。
Img_7055c 山の神の奥に杉の木。側に「雷杉 雷と巡り合い 生命力を増した杉のImg_7057c 木」とあります。確かに雷が落ちたような感じ。さらにそのとなりに狛犬があったのですが、朱い色が塗られていたような印象。それによくある狛犬とはちょっと違ったタイプ。ただし、この狛犬さん、向かって右だけあり、左にはありませんでした。破損してしまったのでしょうか。残念。
Img_7082c こちらが廣幡神社の拝殿。旧くは正八幡宮と称し、寛永7(1630)年8月15日、菰野藩主・土方雄氏公が石清水八幡宮より勧請しました。それ以来、同家の鎮守社となっています。明治3(1870)年10月には、藩庁及管内鎮護の社となりました。合殿に諏訪神社がありますが、これは、菰野郷草創の社で、村中里民の産土神であったものを、慶長年間に土方家並に藩士の産土神としますが、慶長13(1608)年3月、領主雄高公の命で諏訪神社を南山に奉遷しました。
Img_7085c 明治4(1871)年10月、菰野県庁の命によって諏訪神社を正八幡宮に合祀して廣幡神社と改称しています。明治40(1907)年から、村内全部の郷社1、村社である倭文神社、菰野神社、平岡神社、日吉神社、江田神社、須賀神社、豊岡御厨神社、春日神社を合祀しました。
 これだけ合祀したためか、御祭神は、主祭神の誉田天皇(応神天皇)の他、28座もの多数。
  • 軻遇突智命(かぐつちのみこと)…火の神
  • 建葉槌命(たけはづちのみこと)…織物の神、機織の神、倭文神社の御祭神
  • 大日孁神(オオヒルメノムチ)…天照大神の別名
  • 蒼稲魂神(うかのみたまのかみ)…稲の精霊が神格化されたもので、五穀、食物の神
  • 市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)…福岡県の宗像大社の辺津(へつ)宮の祭神
  • 大山祇命(オオヤマツノミコト)…山をつかさどる神
  • 建速須佐之男命(タケハヤノスサノオノミコト)…天照大神の弟であるが、多くの乱暴を行ったため、高天原から追放された。出雲に降り、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、奇稲田姫(くしなだひめ)を救い、大蛇の尾から得た天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を天照大神に献じた
  • 倭比売命(ヤマトヒメノミコト)…垂仁天皇の皇女。天照大神の社を、伊勢の五十鈴川のほとりに建てたと伝えられる
  • 伊波比主命(いわいぬしのかみ)…経津主神(フツヌシノカミ)ともいう。香取神宮の祭神。天孫降臨に先立って、出雲に行き、大己貴命(おおなむちのみこと)を説いて国土を献上させた
  • 菅原道真(すがわらのみちざね)…平安時代中期の廷臣で漢学者、文人
  • 中山祇命(なかやまつみのみこと)…『日本書紀』に、「伊奘諾尊が軒遇突智命を斬って五つに断たれ、五つの山祇となった。第一の頭は大山祇(おおやまつみ)となった。第二の胴体は中山祇(なかやまつみ)となった。(後略)」とあるという
  • 奥山祇命(おくやまつのみこと)…『古事記』に、「刀(天之尾羽張、またの名は伊都之尾羽張)で斬られた迦具土神の各所に八柱の山津見神が生まれた。頭に正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ)、胸に淤縢山津見神(おどやまつみのかみ)、腹に奥山津見神(おくやまつみのかみ)(後略)」という
  • 八衢彦命(やちまたひこのみこと)…道を守る神。 八衢(やちまた)は、道がいくつもに分かれている所
  • 八衢姫命 (やちまたひめのみこと)…集落や道の要所にすわり、八衢彦命とともに邪神・悪霊の侵入をふせぐ神
  • 万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)…織物の神
  • 土方雄永(ひじかたかつなが)…菰野藩主・土方家12代(嘉永4(1851)~明治17(1884)年)
  • 比売神(ひめのかみ)…大気津比売神(おおげつひめのかみ)ともいう。偉大な食物の女神。ゲはケ(食物)の意
  • 建御雷之男命(たけみかづちのおのみこと)…建御雷神(たけみかづちのかみ)名殿異名あり。大国主神に国譲りを交渉し、成立させた神。雷神・剣神・武神とされ、鹿島神宮、春日大社にまつられる
  • 五十猛神(いたけるのかみ)…素戔嗚尊(スサノオノミコト)の御子神。紀伊国に鎮座したとされる。樹木神
  • 大屋津比売命(おおつやひめのみこと)…日本神話に登場する樹木の女神。五十猛命と共に素戔嗚尊の命により全国の山々に木種を撒き、紀伊国に戻って住んだとされる
  • 大市比売命(おおいちひめのみこと)…神大市比売(かみおおいちひめ)ともいう。大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘で、須佐之男命(すさのおのみこと)と結婚し、大年神(おおとしのかみ)、宇迦之御魂(うかのみたまの)神を生んだ
  • 抓津姫命八十神(つまつひめのみことやそかみ)…オオヤツヒメ・ツマツヒメは、日本神話に登場する樹木の女神。日本書紀では、父神・素戔嗚尊、兄神・五十猛命と記されている
  • 大山咋命(オオヤマクイノミコト)…「咋」は「杭」に当てた文字。神が依り憑く棒を神格化した神とも、山頂の境界となる棒を神格化した神ともいわれる
  • 天兒屋根命(アマノコヤネノミコト)…天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神
  • 羽山津見(ハヤマツミ)…迦具土神の右手から生まれた神、日本書紀では麓山祇(ハヤマヤマズミ)と書かれ、山の神
  • 建御名方命(タケミナカタノミコト)…、大国主命の子で武神。諏訪大社の祭神
  • 事志呂主命(ことしろぬしのみこと)…事志呂(事代)は、言代で、神託を管掌する神人の意味
 いやぁ、28座の神様を調べるのは、いくらパソコン&ネット検索でも大変でした。調べなくともかなり区別はできるようにはなって来ましたが、若い頃ほどサッサと記憶できないのも一方の真実(苦笑)。テキトーに読み飛ばして下さい。また、誤り、勘違いなど、ありましたら、是非ともご教示下さい。
 それにしてもいくつかの神社を明治時代に合祀していますから、その関係かと思われる神様がいらっしゃる一方で、小生には何故ここにいらっしゃるのかよく分からない神様もあります。もう少し勉強が必要なようです。
Img_7087c ところで、ここ廣幡神社の拝殿には、大小様々な絵馬・額があります。そImg_7089c れらは、江戸から明治期のものが多く、本宮と庄部の御旅所(庄部の御旅所は、このあと訪ねた「菰野神社」)合わせて110点あり、種類も多岐にわたるそうです。絵馬には、例えば、領下の安泰と市井の商売繁盛を願うものであったり、当時の人々の願いを知る手がかりとなるといいます。藩主自ら書を認めたものや、藩士自らが絵を描いたものもあるそうです。
Img_7112c 二ノ鳥居のところへ戻ってくると、神馬殿があります。由緒があるのかと思って見て来たのですが、「関ヶ原合戦(慶長5(1600)年を偲び葵博会場に展示された馬を菰野藩藩祖土方雄氏公四百年祭に当り入手せし菰野町より平成十三年譲り受け神馬として展示す」とありました。小声で言いますが、ちょっとガッカリというか、「なぁんだ」という感じ。
Img_7120c 神様調べでかなり時間と労力を使いましたし、長くなりましたので、その1はここまで。廣幡神社を出た辺りで1.8㎞ほど、時刻は10時40分。このあと、来た道を戻って、四日市菰野バイパスの高架橋を登りますが、そこからはその2で。

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