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2018年10月24日 (水)

20181008近鉄ハイキング「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」へ(その5)……皇學館大学、倭姫宮、神宮徴古館記念碑などを見て五十鈴川駅へゴール(完)

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 10月8日の近鉄ハイキング「路面電車跡を巡り名物二軒茶屋餅で舌鼓」の記事、長々となり5回目。実測ルートマップもいよいよ最後。左のマップで右上に松尾観音寺があります。ここからは倉田山を下っていきます。途中、学校法人皇學館が経営する皇學館中学、高校、大学のキャンパスの南側を通って行きます。
 この学園は、明治15(1882)年に創立。当時の神宮祭主であった久邇宮朝彦親王が、林崎文庫内に皇學館を創設したことに由来します。ちなみに、久邇宮朝彦親王(文政7(1824)~明治24(1891)年)は、伏見宮邦家親王第4王子。公武合体派の公家の中心として、尊攘運動の紛糾抑制のため、文久三年八月十八日の政変に指導的役割を果した人物。明治新政府にうとまれ広島に遷され、のち神宮祭主となり、17年間奉仕され、伊勢神宮の古儀復興に努めました。
 さらに余談。神宮皇學館は、明治36(1903)年、勅令によって内務省所管の官立専門学校となります。大正7(1918)年には、現在の倉田山に移転。昭和15(1940)年には、やはり勅令をもって文部省所管の官立大学である神宮皇學館大學になります。終戦後、昭和21(1946)年、神宮皇學館大学は、官制を廃止され、昭和37(1962)年に皇學館大学が開学するまで歴史が途絶えます。小生が学んだN大学文学部には、この神宮皇學館から移籍された図書がかなり保管されており、図書館や、研究室で「神宮皇學館」という蔵書印が押された本を見た記憶があります。
Img_6358c こちらは、皇學館大学の精華寮。皇學館大学の男子学生寮です。昭和37Img_6366c 年の皇學館大学再興以来現在の場所に存在し、建学の精神に基づいた教育寮としての性格が強いといわれます。立派な門が歴史を語っている感じ。さらに、中学、高校、大学とキャンパス、建物が並んでいます。住宅街との境目の道路を下っていきます。
Img_6378c 倭姫宮前の交差点に降りてきました。ここは再び御幸道路です。写真でImg_6376c は、左右に通っているのがそれ。この交差点の東に立派な門があります。神宮文庫という表示があります。神道、文学、歴史などの貴重な和書20万冊を含み、約31万冊が収蔵されているそうです。慶安元(1648)年、外宮の東隣に豊宮崎文庫(とよみやざきぶんこ)が創設、また、貞享3(1686)年には、内宮文庫が立てられました。元禄3(1690)年に内宮近くの林崎の地に移され、林崎文庫と改称されています。久邇宮朝彦親王が林崎文庫内に皇學館を創設したと書きましたように、両文庫は、図書館であると共に神職子弟の教育機関でもあった訳です。「諸車通行禁止」とありましたので、入るのがはばかられ、覗いても来ませんでした。後で調べたら、建物は、大正14(1925)年に建てられた和洋折衷の建造物だそうで、それを見るだけでも見て来たら良かったと思います。そういえば、皇學館の学生さんらしき若者は出入りしていました。
Img_6380c 倭姫宮は、交差点を渡った、西側にあります。その交差点のところには、Img_6384c 道標が建っていました。3面に矢印とともにいずれも「古市へ二町」と刻まれています。碑陰には、「昭和四年十二月建之」とあります。古市は、古市は外宮と内宮を結ぶ参宮街道沿いにあり、17世紀以降には遊郭や芝居小屋、旅館が並び、伊勢随一の歓楽街としてにぎわったところ。要するに、伊勢参りの参拝客が増加するにつれ、参拝後に精進落としをする場所として賑わったのです。最盛期の天明(1781 - 1789年)頃には妓楼70軒、遊女1000人、浄瑠璃小屋も数軒、というにぎやかさで、「伊勢参り 大神宮にもちょっと寄り」という川柳があるほど活気に溢れていたといいます。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも登場しました。二町は、218mあまりのこと。
Img_6391c スタートから7.8㎞ほど、時刻は12時半を少し過ぎたところで、念願のImg_6396c 姫宮へ到着しました。御祭神は、倭姫命(やまとひめのみこと)。垂仁(すいにん)天皇の皇女。母は日葉酢媛(ひばすひめの)命。日本書紀によれば、天照大神を伊勢に祀り、伊勢神宮の初代斎宮(さいぐう)となりました。また、東征に向かう甥の日本武尊(やまとたけるのみこと)に草薙剣(くさなぎのつるぎ)を与えたといいます。
 倭姫命は、垂仁天皇25年、それまで倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)で天照大神を奉斎していた崇神(すじん)天皇の皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)にかわって「御杖代(みつえしろ)」として奉仕。さらによい鎮座地を求めて伊賀、近江、美濃、尾張を経て伊勢国五十鈴(いすず)川上に遷座したと伝承されます。
 伊勢国では、野代(桑名)、小山(亀山)、片樋(津)、高宮(松阪)、佐々牟江(明和)、磯宮(伊勢)、田上(伊勢)を経ているといいます。このうち、桑名での伝承によれば、野代宮は、現在の野志里神社(のじりじんじゃ)(養老鉄道・下野代駅近く)です。また、神舘(こうだて)神社城南神社は、倭姫命が休んだところとされます。神舘神社は、まさに「神の館」という名前です。城南神社は、この由緒により、内宮の第一鳥居が、式年遷宮の際に払い下げられてきています。これは、昨年度の市民大学で学んだ内容。こういう縁がありますから、今回は是非とも倭姫宮にお参りしたいと思ったのです。
Img_6398c 倭姫宮交差点近くにある鳥居をくぐってから200mあまりの参道を進んでImg_6406c いきます。倭姫宮は、大正10(1921)年に御鎮座という、新しいお宮なのですが、木々は鬱蒼としていて、神聖な雰囲気は十分。右の写真の階段の下でちょうど8㎞。
Img_6413c こちらが倭姫宮の拝殿。大きな功績を示した倭姫命の御神徳を慕って、大正の初年から神宮司庁と宇治山田市(現在の伊勢市)が、命をまつるお宮の創立を請願し、大正10(1921)年1月、皇大神宮別宮として創立が許可され、同12(1921)年11月にご鎮座祭が執り行われたといいます。伊勢神宮には、別宮・摂社・末社・所管社の諸宮社(神宮が管理するのは、125社)があります。いずれも由緒は古く、奈良時代以前に遡るものが多いのですが、設立が明らかで、極めて新しいのは、この倭姫宮のみです。この宮も、遷宮が行われます。写真にありますように、向かって右が現在の拝殿。左には、空き地の中央に小さなお社が建っています。
Img_6415c しっかりと(微笑、二礼二拍手一礼と普通の作法でですが)お参りしてきImg_6421c ました。長年のとまでは行きませんが、去年以来の念願が叶ったという次第で、満足。満足したら、急に空腹感を思い出しました(苦笑)。
Img_6431c_2  まさか倭姫宮で弁当を食べるわけにはいきません。倭姫宮を東に出るImg_6434c と、神宮徴古館がありました。神宮徴古館は、神宮のお祭りに関する資料や御装束神宝関係の資料が展示されています。が、取り敢えずは、弁当タイム(苦笑)。おあつらえ向きに、この辺り一帯、「倭姫文化の森」となっていました。
Img_6437c  徴古館南のいこいの広場で弁当を食べさせてもらうことに、勝手に決定。

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この日も、駅ナカ・ファミマの弁当。ICカードのKIPSイコカカードで買えますし、Tポイントカードですと、\200で1ポイントのところ、\100で1ポイントもらえるからです。「いなり&おむすびミニセット(\298)」。決して少食ではありませんが、ハイキング/ウォーキングで昼を食べ過ぎると、歩けなくなるからです(笑)。12時45分から15分ほど、弁当&休憩。
Img_6455c 13時再スタート。倭姫宮前の交差点のところ(北西側)に石碑が建っているのを見ていましたので、これを確認。「崇敬致誠」とあります。これは、神宮徴古館が設立されたときの記念碑です。明治42(1909)年、神宮徴古館は内宮や外宮の神苑を整備した神苑会により設立されました。神苑会は、徴古館設立後に役目を終え、神宮に徴古館を献納して解散しています。この石碑の題字「崇敬至誠」は、徴古館建設に関わった多くの方の崇敬を伝えるものだそうです。なお、題字は有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王(文久2(1862)~大正2(1913)年)によります。
Img_6449c 有栖川宮威仁親王は、有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第4王子。明治11(1878)年有栖川宮をつぎ、西南戦争をはじめ、日清・日露戦争に従軍。また明治天皇名代として外国の式典に参列しています。37年海軍大将。碑文、神苑会の業績については、こちらに詳しく書かれていります。碑文のはじめの方に「海軍大将大勲位功三級威仁親王題額」とあります。
Img_6468c これですべて見るところは見終えたということで、あとは御幸道路を下って、近鉄鳥羽線・五十鈴川駅へまっしぐらというつもり。倭姫宮から少し下ったところに、この写真のように大鳥居。
Img_6473c ところが、倭姫宮前交差点から100mほど下ったところで、またもや石碑を見つけてしまいました。気づいたからには見てこなければなりません(微笑)。「太田小三郎君紀功碑」です(こちらに情報があります)。リンク先によれば、太田小三郎(おおたこさぶろう)は、弘化2(1845)~大正5(1913)年。)72歳。鷹羽壽一郎の三男として豊前国彦山に生まれました。朱子学者広瀬淡窓に師事。古市の3大姑楼の一つ、備前屋(太田家)に養子に入っています。明治19(1886)年、神苑会(先ほど触れた、神宮徴古館の記念碑を設立するなどの活動をしています)を組織し、明治23(1890)年には、参宮鉄道を設立するなど、地元に多大な貢献をしています。これは、その業績を顕彰する碑。昭和9(1934)年11月建之。
Img_6480c 「太田小三郎君紀功碑」の南にもう一つ石碑があります。こちらは、「大岩芳逸翁碑」(大正9(1920)年建立)です。 大岩芳逸は、太田小三郎らとともに、神苑会を設立したメンバーで、医師だったようです(こちらで言及されています)。
Img_6493c これですべてであります。市立伊勢総合病院の西をさらに南下。伊勢自Img_6491c 動車道の下をくぐります。伊勢自動車道の手前で9㎞。
Img_6495c 9.4㎞地点で、御幸道路を右折すると、近鉄鳥羽線・五十鈴川駅が見えてImg_6503c きます。この駅に来るのは初めて。江戸橋での仕事の時や、近鉄ハイキングに出かける際、よく五十鈴川行き急行に乗りますが、ここなのです。思ったより小さな駅(微笑)。駅ナカコンビニもありませんでした。13時18分にゴール。9.6㎞。
Img_6505c しかし、駅前からは朝熊ヶ岳も見え、なかなか良いところです。駅は、島Img_6514c 式ホーム2面4線を持つ高架駅で、ホームは特急の発着を考慮して10両編成分が確保されています。観光路線で、特急は名古屋方面、大阪方面とたくさん出ますが、この時間帯、名古屋行きの急行は、1時間に1本(右の写真で向こうのホームに停車中の電車がそれ)。
Img_6530c この五十鈴川駅、隠れた鉄道撮影の名所だそうです。割と長い直線区Img_6538c 間、宇治山田駅方面(左の写真で、向かって左)からは緩やかな下り。鉄ちゃんの真似事をしてみました(微笑)。
Img_6543c 急行発車までは時間がありましたし、この日は暑くてけっこう疲れましたので、特急で帰ることにしました(微笑)。五十鈴川駅から桑名駅、運賃は¥1,270、特急料金はご覧のように¥1,320とちょっと贅沢。13時49分発で、桑名駅到着は、14時59分。
Img_6561c この日で、あみま倶楽部のスタンプはちょうど20個。シルバー会員ですので、20個で、踏破記念バッジ(銅)と、近鉄グループ商品券\1,000分またはプレゼントを確定(こちら)。
20181008kintetsuhikingujiyamada 5回にわたって、長々とまとまりのない記事を書きました。お付き合い下さった方々にはお礼申し上げます。今回、実際に歩いたルートマップを再度掲げておきます。ここでご覧いただけます(うまく開けなければ、「経路を開くから、201018近鉄ハイキング(宇治山田)を選んで下さい)伊勢とはいえ、伊勢市の北東部を歩きました。内宮、外宮や、おかげ横丁は久しく行っていませんので、今度は伊勢神宮にお参りしたいと思っていますし、二軒茶屋餅以外の餅も食べたいと思います。赤福は桑名駅の売店でも買えますが、こちらへ来ないと食べられない餅もたくさんあるのです(ここ)。餅街道といわれるくらいですから、楽しみたいところ。

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